わかたんかこれ 猿丸集その220恋歌確認26歌 あしひきのやました風

 あけましておめでとうございます。ことしも和歌集を楽しみたいと思います。よろしくお願いします。

前回(2023/12/25)に引きつづき同一題詞のもとの最後の歌の再確認を行います。

 1月1日午後 能登地方地震(と津波)により被災された方々にお見舞い申し上げます。

 救命・救援・復旧が的確にすすむことを願っています。

1.経緯

 2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。12の歌群の想定を行い、3-4-25歌は、「第五 逆境の歌」の歌群に整理している。3-4-25歌までは、すべて類似歌とは異なる歌意の恋の歌であることを確認した。2024年は3-4-26歌の確認から始める。歌は、『新編国歌大観』より引用する。

2.再考 第五の歌群 第26歌の課題

① 「第五の歌群 逆境の歌群」(3-4-19歌~3-4-26歌)の歌と想定した3-4-26歌を再考します。

 今回の課題は両歌にあります。

 3-4-26歌に関しては、同一の題詞のもとの歌の整合は確認した(ブログ2018/8/20付け)のですが、「やましたかぜ」に(3-4-25歌の「あきぎり」のような)寓意があるかどうかを再確認します。また、初句の「あしひきの」の意、及び五句にある「かねて」が同音異義の語句であるので再確認します。

 類似歌2-1-2354歌に関しては、その現代語訳(試案)は、ブログ2018/8/6付けで四句を特記し、歌本文全体をブログ2018/8/20付け付記1.に示しましたが、3-4-26歌と共通の語句もあるので、3-4-26歌と同じく再確認します。

② そして、以下の検討をしたところ、3-4-26歌は、まだまだ耐えなければならないのを覚悟してください、という励ましの歌であり、「あしひきの やました風」は、山から吹いてくる風の意でそれには寓意があるようです。 

 類似歌2-1-2354歌は、恋の終りを確認するかのような歌であり、「足檜木乃 山下風」は、部立て「冬相聞」の詞書「寄夜」のもとにある歌なので特に冬の夜の寒い風を指しています。

 このように、3-4-26歌は類似歌と異なる歌意の恋の歌と確認できました。

 なお、『猿丸集』編纂時における類似歌の二句は、「やましたかぜ」という訓みでしたが、ここでは、『新編国歌大観』の訓である「やまのあらし」で検討しました。

③ 『猿丸集』の26番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌は、つぎのとおり。

  3-4-26歌 詞書 (3-4-22歌に同じ)おやどものせいしける女に、しのびて物いひけるをききつけて、女をとりこめていみじういふとききけるに、よみてやる

   あしひきのやました風はふかねどもよなよなこひはかねてさむしも

 

  3-4-26歌の類似歌 2-1-2354歌  寄夜    よみ人しらず

   足檜木乃 山下風波 雖不吹 君無夕者 予寒毛

  あしひきの やまのあらしは ふかねども きみなきよひは かねてさむしも

 

3.再考 3-4-26歌

① 3-4-26歌の題詞は、既に再確認しました(ブログ2023/12/25付け)。

 その現代語訳(試案)は、次のとおり。

「親や兄弟たちが私との交際を禁じてしまった女に、親の目を盗んで逢っていることをその親たちが知るところとなり、女を押し込め厳しく注意をしたというのを聞いたので、詠んで女に送った(歌)」

② 次に、歌本文のいくつかの語句を確認します。

 初句「あしひきの」は、「山・峯」などにかかる枕詞であって、原義は不明だが、平安時代以降の和歌では、「山裾を長く引く」というイメージを含めた用法が多い(『例解古語辞典』)語句だそうです。つまり『萬葉集』歌での意は不明、ということです。

 これまで、枕詞は有意という前提で現代語訳を試みてきています。当初の検討(ブログ2018/8/6付け)では、平安時代以降の和歌と同じ「山裾を長く引く」というイメージで、3-4-26歌とその類似歌2-1-2354歌の現代語訳を試みてきました。原義を推測し、類似歌と3-4-26歌に原義の適用の可能性を確認します。

③ 『萬葉集』の初期の編纂である巻一~巻四にある「あしひきの」の用例より、その意を推測します。

 即ち、訓「あし」と「ひき」の正訓字表記(「足」字と「引」字)と義訓の類の「疾」字などを検討すると、「あしひきの」とは、「足が疲れる」意があり、山に即して理解すると「越えるとか山頂に到るのに苦労する・存在する山により不便をかこつ」という意であり、「苦労する・不便な」を示唆する語句といえます。「山裾を長く引く」という山はその示唆が該当する一例と理解できます(付記1.①~⑥参照)。

 類似歌のある巻十の用例にその意を適用しても、歌本文の意が無意の枕詞として理解した歌意と矛盾する歌はありませんでした(付記1.⑦~⑧参照)。

 そのため、類似歌には、上記の理解を適用し、3-4-26歌に、その意とさらに意を限定した「山裾を長く引く」のみの意とを適用して、歌本文を再確認します。

④ 次に、二句「やました風」は、古語辞典には歌語とあり、「冬に山から吹き下す激しい風」とあります。「やました風」とは、元々『萬葉集』にある表記「山下風」に対する『猿丸集』の編纂時(三代集の時代の前後)の訓です。

萬葉集』での「山下風」という表記の用例は3首だけです。その3首が詠まれている季節は、以下の検討によれば冬(旧暦10月~12月)とは限っていません。

 このため、「やましたかぜ」とは、季節は不問にした「山から吹いてくる風」の意ではないか。詠まれる場面が冬であれば、北風が多くそして寒い風でしょう。

 「山下風」に」対する『新編国歌大観』の訓は「やまのあらし」です。「やまのあらし」と「やました風」は同じ自然現象を指している語句と言えます。

⑤ 用例3首の検討を記します。

 第一 2-1-74歌は、題詞に「大行天皇幸于吉野宮時歌」とあり、大行天皇とは文武天皇を指しているので、『続日本紀』によれば行幸大宝元年2月20日~27日と大宝2年7月11日の記事があり、この歌の作詠時点の季節は春(旧暦正月~三月)か秋(旧暦7月~9月)となります。旧暦正月は2024年の現行の暦では2月10日です。大宝元年は、同年3月21日(ユリウス暦5月3日)に改元された元号です。2月20日からの行幸時の四季感は今日においては春です。同年7月11日からの行幸時の四季感は同じく秋ではないでしょうか。

 第二 2-1-1441歌は、部立てが「春雑歌」、題詞が「大伴宿祢村上梅歌二首」であり、歌に梅花を詠んでいます。その梅の開花は、今日における京都での平年日は2月22日だそうで節分からだいぶ後となります。だから作詠時点の季節は、春であり、確かに部立て「春雑歌」の歌です。

 ちなみに、巻五にある題詞「梅花歌卅二首 并序」のもとにある歌は、その序から天平二年正月十三日の作詠ということになっています。つまり梅の花の季節は春・正月です。

 しかし、後年の編纂である巻十にある2-1-2353歌は部立て「冬相聞」にある歌で「寄花」という題詞のもとで「梅の花」を詠っています。梅の花冬の花とみなしている編纂ぶりです。

 第三 2-1-2354歌は、部立て「冬相聞」、題詞「寄夜」であり、歌に「寒し」と詠んでいます。作詠時点の季節は、部立てより冬(旧暦10月~12月)となります。年末が作詠時点なのでしょうか。

 このように、冬の季節の風を詠っているのは題詞により季節が冬となる2-1-2354歌の1首だけであり、(題詞のもとにある)歌本文の意図からみればほかの2首は寒い風とは決めつけられません。

 「山下風」表記は、「山から吹いてくる風」の意であって、季節は限定されていないようです。

⑥ さらに、「あしひきの」と訓む表記と同じように、「山下風」という表記を「やましたかぜ」と訓むことからの検討をします。

「やましたかぜ」と発音するのは漢字3字を正訓字表記で用いていることになります。

 その漢字の意から理解すると、「山下風」は「山を下ってくる風」すなわち「その山のある方角から吹き下してくる風」となります。季節は不問であって、その山(の方角)から吹いている風の意ではないか。

 これは、3首の用例からの推測と重なります。

⑦ また、五句にある「かねて」は、同音異義の語句であり、三つの意があります。

 第一 副詞 予て :あらかじめ・前まえ・そうなる以前 

 第二 連語 予て :事の予定された日の前に・以前から

 第三 連語 兼ねて :合わせて・それと同時に

 題詞や歌本文全体の理解に資する意を、歌ごとに選ばなければなりません。

 歌本文に用いられている「予」字は正訓字表記で「かねて」と訓まれているとみるか義訓の類とみるかは微妙な問題です。

⑧ このような検討の結果、3-4-26歌のいままでの歌本文の現代語訳(試案)(ブログ2018/8/6付け参照)は改訳を要します。初句は上記③に記したように2案で、二句以下各句は1案で改訳します。

 二句は、四季いずれであっても「山からの風」の意であり、三句は、「(山を越えてくる風は)吹いていない」の意です。そして、詞書から「山を越えてくる風」とは、「女の親たちの監視」の意を含意しているのではないか。

 四句は、「夜な夜なの乞い」即ち日々願っていること、の意です。「いつでも逢える状況にいたい、という願い」です。

 五句にある「かねて」という語句は、二句にいう「やました風」が吹く時期は寒い日々の続く時期」という社会通念を念頭にしているとすれば、連語「兼ねて」として、「やました風」が吹いたときと同じ寒さ、の意ではないか。四句が実現しない理由を「さむし」と言っていることにもなるので、願っていることが実現していないことの意を含むことになります。

⑨ このため、現代語訳を改めて試みると、

  3-4-26歌 題詞: 上記①参照

  同 歌本文 :第1案 初句は、『万葉集』歌と同じ意で「苦労するか不便であることの例え」とする案

 「山からふく苦労する風は吹いてないけれども、毎夜の私たちの願いは、以前と変りなくかなえられませんねえ。」

 同 歌本文 :第2案 初句は、平安時代以降の意(山裾を長く引く)とする案

「山すそを長く引く山から吹き下ろす風は吹いてないけれども、毎夜逢いたいという私たちの願いは、以前と変りなくかなえられませんねえ。」

⑩ 題詞のもとにある歌なので、作詠時点が「やました風」の吹く時期が終わったときであれば、「やました風」は、題詞にいう女の親たちの監視を示唆します。

 また、作詠時点が「やました風」が吹き始める頃であれば、「やました風」は、その監視が一段厳しくなることを示唆するのではないか。

 題詞のもとにある5首の連作であり、作詠時点は明らかに三代集の時代です。このため、(試案)を一案にするならば、「あしひきの」が原義が不明の枕詞と既になっていた時点が作詠時点になっているので、第2案が有力になります。

 しかし、『猿丸集』の類似歌が『萬葉集』歌である場合、その歌の斬新な理解のヒントが当該猿丸集歌との比較で得られました。このため、類似歌を十分意識して作詠されていると予想できるので第1案を採りたい、と思います。この結果題詞との整合性は高まりました。

 そして、この歌は、恋人に対して、まだまだ耐えなければならないのを覚悟してください、という励ましの歌、と理解できます。

4.再考 3-4-26歌の類似歌 2-1-2354歌

① まず、歌本文の語句の検討をします。

 初句「足檜木乃」(あしひきの)は、上記「2.③」で検討しました。

 二句にある「山下風」という表記に対する訓「やまのあらし」は義訓の類(「付記1.②第二」参照)、と言えます。その意は、「やましたかぜ」と訓む場合とおなじく、「山(のある方角)から吹いている風」の意である、と理解できます。

② 四句「君無夕者」(きみなきよひは)の「夕」という表記は、義訓の類です。漢字「夕」の訓は「ゆう・ゆうべ」であり「よひ」ではありません。

「よひ」とは、「夜にはいって間もないころ。だいたい日没後2,3時間のあいだ。あるいは日没後、夜中までともいう」(『例解古語辞典』)意であり、漢字であれば普通「宵」字をあてています。「ゆふ(べ)」とは「夕方・夕暮れ」の意で「あさ・朝がた」の意の「あした(朝)」の対です。

 この歌の場合、「夕方」のみ相手がいない状況などあり得ないので、「君無夕者」とは、「貴方のいない宵(と夜中という時間帯)というものは」の意であって、朝まで作者のところを訪れるはずの相手がいないことを言っています。

 四句~五句は、相手が来てくれないことが続いている(あるいは相手がもう来てくれないと確実に予測できた)ことを詠っています。

③ 次に、改訳します。

 これまでの現代語訳(試案)は次のとおり(ブログ2018/8/20付け「付記1.」参照)

「長く裾をひいた山を下りて来る強い風はないけれども、貴方のいない宵というものは、それだけで寒いものですねえ。」  (大方の諸氏の理解と同じ)

 土屋文明氏の大意は、次のとおり。

「(アシヒキノ、は枕詞)山から吹き下ろす風は、吹かないけれど、君の居ない夜は、吹かない前から寒い」

 「山下風」表記と「予」表記の意の捉え方(後者は副詞)は、氏のほうがよいと思えるので、この大意をもとに検討します。

 上記「2.」での「あしひきの」と「やましたかぜ」の検討を踏まえると、「やまあらし」にかかる「あしひきの」の意は同じです。題詞「寄夜」を踏まえて改訳すると、次のとおり。

 「(夜になって)吹いてきて寒くて苦労するところの山から吹き下ろす風は、吹かないけれど、君の居ない夜は、吹かない前から寒い(昨日も寒いし今日も明日も寒い)。」(2-1-2354歌改訳試案)

④ 「冬相聞」の最後がこの歌であるので、直前の歌との比較を補足します。

 2-1-2353歌 題詞 寄花

   吾屋戸尓 開有梅乎 月夜好美 夕々令見 君乎祚待也

   わがやどに さきたるうめを  つくよよみ よひよひみせむ きみをこそまて 

 この歌は、梅の花を見せたいと作者は待ち続けています。

 この歌の直後の歌は、この配列を考えると、考え直して来訪してくれるのを期待しているよりも諦めの歌と理解できます。

 部立て「冬相聞」の配列として、2-1-2354歌はただ一首恋の諦めを詠っている可能性がある歌として理解できるのではないか。

5.再考 3-4-26歌は、類似歌と異なる恋の歌か

① 上記のように3-4-26歌と類似歌2-1-2354歌を見直して、現代語訳(試案)はともに改訳しました。

 改訳した2首の歌を比較すると、作者が「さむしも」と五句で相手に訴えるのは、二人の願いである逢うことが叶うことへの認識と、作者だけの期待が叶わないことへの認識とに別れています。

 ブログ2018/8/6付けの「6.」で、「この歌(猿丸集の第26歌)は、作者が困難を乗り越えようと訴えて恋人と共にいることを詠うのに対して、類似歌は、来てくれない恋人に冬の寒さにことよせてさびしさを訴える歌です。」と指摘しました。類似歌については、今回「それは、来てくれないことがはっきり判った時の別れの挨拶ともとれる歌である」と追加したい、と思います。

② 上記「2.①」であげた第26歌の課題については、次の結論を得ました。

 第一 「やましたかぜ」に、寓意はありませんでした。しかし、この語句を修飾する「あしひきの」は、寓意がありました。

 第二 「あしひきの」には、「足が疲れる」意があり、山に即して理解すると「越えるとか山頂に到るのに苦労する・存在する山により不便をかこつ」という意であり、「苦労する・不便な」を示唆する語句です。「山裾を長く引く」という山はその示唆が該当する一例です。

 第三 「かねて」は、副詞です。

 第四 第26歌とその類似歌は改訳することになりました。

 第五 第26歌は、改訳後も類似歌と異なる恋の歌でした。そして「第五の歌群 逆境の歌群」(3-4-19歌~3-4-26歌)の歌に違いありません。「あしひきの やました風」には、親の監視という示唆があります。

 第六 類似歌は、部立て「冬相聞」の詞書「寄夜」のもとにある歌として、恋の終りを確認するかの歌です。「足檜木乃 山下風」は、部立て「冬相聞」にあるので冬の夜の寒風を指しています。

③ ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただき ありがとうございます。次回は、第27歌を確認します。

(2024/1/8  上村 朋)

付記1.万葉集巻一~巻四での「あしひきの」考  <2024/1/8現在>

① 『萬葉集』歌は、『新編国歌大観』の訓により、検討してきている。その訓「あしひきの」について、『萬葉集』全20巻のうち初期に編纂されたとみられる巻一~巻四での用例を検討し、「あしひきの」の原義を推測し、類似歌2-1-2354歌がある(その後の編纂である)巻十の用例への適用可能性を検討する。

② 検討は、次の三つの原則による。

第一 『万葉集』記載の歌は、一つの書記システムと個人的な表記方法に拘る方式で記録されている(山田健三氏による)。

第二 一つの書記システムとは、仮名表記(音由来でも訓由来でも一音節を表記)と正訓字表記によっており、読解しやすい。前者は、仮名一文字分を、漢字の意を考慮せず当該漢字で表記である。例えば「い」であれば、「伊」、「以」とか「射」など。後者は、漢字本来の意味に即した読み方をして仮名一文字分などを当該漢字で表記する。「やま」であれば「山」とか動詞「きく」であれば「聞」など。

また、個人的な表記方法に拘る方式とは、解読作業を課すことを意図した義訓の類である(以上も山田健三氏による)。

第三 正訓字表記は、当該漢字の意により、その当該漢字を用いた語句の意味合いを推測するヒントとなる。 例えば、「孤悲」というのは、「こひ」(恋)の表記である。なお、正訓字表記であっても二音節の仮名表記とみなせる場合も想定できるが別途検討するものとする。

③ 巻一~巻四にある訓「あしひきの」の用例は、11例ある。「山」や「磐根」や「山道」を修飾している。

巻別にみると次のとおり。

 巻一 無し

 巻二 2首 部立て「相聞」

2-1-107歌 足日木乃 山之四付二  妹待跡 吾立所沾 山之四附二

2-1-108歌 吾乎待跡 君之沾計武 足日木能 山之四附二 成益物乎

 巻三 5首 部立て「雑歌」で2首、「挽歌」で3首

2-1-269歌 牟佐々婢波 木末求跡 足日木乃 山能佐都雄尓 相尓来鴨

2-1-417歌 足日木能 石根許其思美 菅根乎 引者難三等 標耳曽結焉 

2-1-463歌 ・・・人乃尽 草枕 客有間尓 佐保河乎 朝河渡 春日野乎 背向尓見乍 足氷木乃 山辺乎指而 晩闇跡 隠益去礼 将言為便 将為須敝不知尓 ・・・

2-1-469歌 ・・・<露>霜乃 消去之如久 足日木乃 山道乎指而 入日成 隠去可婆 ・・・

2-1-480歌 足桧木乃 山左倍光 咲花乃 散去如寸 吾王香聞 

 巻四 4首 部立て「相聞」

2-1-583歌 足引乃 山尓生有 菅根乃 懃見巻 欲君可聞 

2-1-672歌 足引之 山橘乃 色丹出而 語言継而 相事毛将有 

2-1-673歌 月読之 光二来益 足疾乃 山而隔而 不遠国 

 2-1-724歌 足引乃 山二四居者 風流無三  吾為類和射乎 害目賜名

④ このように訓「あしひきの」の用例は、「足日木乃(能)」が5例、「足引乃(之)」が3例、「足氷木乃」と「足桧木乃」と「足疾乃」が各1例である。

「あしひきの」の「あし」の表記は、漢字「足」という漢字一字に固定されている。漢字「足」による正訓字表記である。漢字「足」の意は、「あし・ふむ(踏)・あゆむ・とどまる」などのほか「たす・そえる」の意がある。(『角川新字源』)

「あしひきの」の「ひき」の表記は、「日木」などの仮名表記(音由来でも訓由来でも一音節を表記)が 7例のほかに、漢字「引」という正訓字表記が3例と漢字「疾」という義訓の類と思えるのが1例ある。

漢字「引」の意は、「aひく b音楽のひとつ c唐以後に始まった文体のひとつ」などであり、aの意は、さらに「ゆみをひく」、「ひっぱる・ひきずる」、「みちびく・案内する」、「もってくる・あげもちいる」と細分されている。

 また、漢字「疾」の意は、「aさす(傷) bやまい c欠点 dくるしみ。なやみ eやむ fはやい gはげしい」などがあり、「やむ」意では疾病2字を対比させると疾が軽く、病は重くなる意になる。(『角川新字源』)

⑤ この「足」字と「引」字と「疾」字の意から、「あしひき」の意を想像すると、「足をひっぱる・ひきずる」 あるいは「あゆみのくるしみ・なやみ」として「足が疲れる」という共通項を見いだせる。それは、山に即していえば「越えるとか山頂に到るのに苦労する・存在する山により不便をかこつ」という意ということになる。人に即していえば「苦労する・不便な」を示唆する語句ということになる。これが原義ではないか。

 そして、そのような山には、高い山や山裾が長い山も該当するであろう。

⑥ その意で11例の歌を題詞のもとにある歌として確認すると、次のように違和感がない。

 各歌ごとに、「あしひきの+それが修飾語句」の大意を示す。

2-1-107歌 (題詞:大津皇子石川郎女御歌一首)人目に付かないよう苦労して山にかくれその雫の中に愛する貴方を待っていて、自分は立ち濡れた・・・

2-1-108歌 (題詞:石川郎女奉和歌一首)・・・という苦労して待っていたというその山の雫になにならましものを

 2-1-269歌 (題詞:志貴皇子御歌一首)むささびは梢を欲しがり(誘いだそうとして)苦労してその山に入り、猟師(親)に出会ってしまったことだ (ブログ2022/3/21付け「付記1.表E」の注4参照)

2-1-417歌 (題詞:大伴宿祢家持歌一首)  不便をかこつようなところにある磐根はごつごつしてるので、菅の根を・・・

2-1-463歌 (題詞:七年乙亥大伴坂上郎女悲嘆尼理願死去作歌一首 并短歌) ・・・頼みとした人がすべて草枕を重ねる旅に出ている間に、佐保川を朝に川渡りをして、春日野を背後に見ながら、私たちにはなかなか近づきがたい山(菩薩の境地・悟りの境地)の上り口を指して、夕闇としてお隠れになったので、どう言ってよいか、どのようにしてよいかわからないで ・・・

2-1-469歌 (題詞:又家持作歌一首 并短歌) ・・・露霜が消えるように、山頂に到るのに苦労する山道(悟りの境地)を指して、夕日のように隠れてしまったので、

2-1-480歌 (題詞:(十六年甲申春二月安積皇子薨之時内舎人大伴宿祢家持作歌六首)反歌山頂に到るのに苦労する(おひとり登られる高御座)までも光って咲く花が散ってしまうような我が大君である

 2-1-583歌 (題詞:余明軍與大伴宿祢家持歌二首 [明軍者大納言卿之資人也])) 越えるとか山頂に到るのに苦労する山に生えている管の根がしっかり根を張っているように、いつまでも懇ろに見て居たい貴方であるよ。

2-1-672歌 (題詞:春日王歌一首 [志貴皇子之子母曰多紀皇女也])山頂に到るのに苦労する山の橘のように色に出てうわさになれ。お互い手紙のやりとりも出来て会うこともあるだろうから

(山橘は別名やぶこうじ・十両。林内に生育し、に赤い果実をつけ美しいので、栽培もされる。)

2-1-673歌 (題詞:湯原王歌一首) 月読みの光にいらっしゃいよ。越えるのに苦労する山に隔たって遠いというわけでもないのに

2-1-724歌 (題詞:獻天皇歌一首 [大伴坂上郎女在佐保宅作也])不便をかこつ山に居りますればみやびが無いので、私のする行をおとがめ下さるな。(土屋文明氏の大意をベースとする)

⑦ では、類似歌のある巻十での用例ではどうか。用例は12例ある(下記⑧参照)。

訓「あしひきの」の「あし」の表記は、巻一~巻四の用例と同じで、すべて漢字「足」の正訓字表記である。 

訓「ひき」の表記は、仮名表記(仮名一文字分を、漢字の意を考慮せず当該漢字で表記)しているのが、「比木」が1例 、「日木」が4例 、「檜木」が2例 である。そして、正訓字表記しているのが、「引」に2例 と「曳」に3例ある。

 漢字「曳」の意は、「ひく・ひかれる・つまずく・こえる」である。「ひく」は細分して「aひっぱる・ひきよせるbひきずる cつえをつく・たずさえる」である(『角川新字源』)。

 これから「足引」表記と「足曳」表記は、「あしをひきずる」、「あゆむにつえをたずさえる」をイメージできる。これは「山に即して困難を伴う」という共通項を指摘できる。

 巻一~巻四の用例による「あしひきの」の意(原義)を、巻十の「あしひきの」に適用すると、各歌とも無意の枕詞として理解した歌意に沿っている。

⑧ 巻十の用例は、次のとおり。

2-1-1828歌 冬隠 春去来之 足比木乃 山二文野二文 鴬鳴裳 (ふゆこもり はるさりくれば あしひきの やまにものにも うぐひすなくも)

2-1-1846歌 除雪而 梅莫恋  足曳之 山片就而 家居為流君 (ゆきをおきて うめをなこひそ あしひきの やまかたづきて いへゐせるきみ)  左注あり「右二首」 (注:『萬葉集私注』:2-1-1845歌と問答になっている。雪を梅と思ふに対して山近く居るにしても近くの雪をかへり見ずに梅に心を寄せ給ふなと答へた。)

2-1-1868歌 足日木之 山間照 桜花 是春雨尓 散去鴨 (あしひきの やまのまてらす さくらばな このはるさめに ちりゆかむかも)

2-1-1944歌 朝霞 棚引野辺 足檜木乃 山霍公鳥 何時来将鳴 (あさかすみ たなびくのへに あしひきの やまほととぎす いつかきなかむ)

2-1-2152歌 足日木笶 山従来世波 左小壮鹿之 妻呼音 聞益物乎 (あしひきの やまよりきせば さをしかの つまよぶこゑを きかましものを)

2-1-2160歌 足日木乃 山之跡陰尓 鳴鹿之 聲聞為八方 山田守酢兒  (あしひきの やまのとかげに なくしかの こゑきかすやも やまたもらすこ (注:『萬葉集私注』:譬喩する所があるのかも知れない。鹿声に、恋い寄る男の声を寓した如くも見える)

2-1-2204歌 九月 白露負而 足日木乃 山之将黄変 見幕下吉 (ながつきの しらつゆおひて あしひきの やまのもみたむ みまくしもよし)

2-1-2223歌 足曳之 山田佃子 不秀友 縄谷延与 守登知金 (あしひきの やまたつくるこ ひでずとも なはだにはへよ もるとしるがね (注:『萬葉集私注』:寓意あるか。心に思ひ定めながら未だ結婚して女を持つ男に、呼びかける趣であらうか。)

2-1-2300歌 足引乃 山佐奈葛 黄変及 妹尓不相哉 吾恋将居  (あしひきの やまさなかづら もみつまで いもにあはずや あがこひをらむ)

2-1-2317歌 足曳之 山鴨高 巻向之  木志乃子松二 三雪落来 (あしひきの やまかもたかき まきむくの きしのこまつに みゆきふりくる (左注あり「右柿本朝臣人麿之歌集出也」)

2-1-2319歌 足引 山道不知 白牫牱 枝母等乎乎尓 雪落者 [或云 枝毛多和多和] (あしひきの やまぢもしらず しらかしの えだもとををに ゆきのふれれば [或云 えだもたわたわに] )(左注あり:右柿本朝臣人麿之歌集出也 但件一首 [或本云 三方沙弥作]

2-1-2354歌 足檜木乃 山下風波 雖不吹 君無夕者 予寒毛 (注:3-4-26歌の類似歌)

(付記終わり  2024/1/8   上村 朋)