わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 誰が79歌を詠ったか

 前回(2021/10/25)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 寧楽宮とは その2」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 誰が79歌を詠ったか」と題して、記します。(上村 朋)

1.~7.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行い、3-4-23歌まではすべて恋の歌であることを確認した。3-4-24歌については類似歌(『萬葉集』の歌)の検討として、『萬葉集』巻一と巻二の構成を引き続き検討している。なお、歌の引用は『新編国歌大観』による。)

8.再考 類似歌 その6 「寧楽宮」の用例 2-1-79歌その2

① 『萬葉集』歌での題詞にある「寧楽宮」表記の例を、今回も確認します。

 類似歌2-1-439歌の重要な参考歌(2-1-228歌)がある、『萬葉集』巻二の挽歌の、標目「寧楽宮」に関して検討中です。2-1-79歌と2-1-80歌の題詞と歌本文を引き続き検討し、そして題詞にある「寧楽宮」という表記の意味を考えます。

 前回、題詞に留意せずに行った2-1-79歌(多分元資料の歌となります)の検討で、初瀬川の舟運を利用した藤原宮から新都造営地への資材の運搬はあり得ず、次の四つの疑問が残りました。

第一 誰が詠っているか:歌本文全体にわたって作中人物は共通か

第二 結句の「吾毛通武」という作中人物と「きみ」の関係:不明

第三 「作家」の現状:造作途中の家を意味しているのではないか

第四 「千代二手」の理解:「千代」の期間に何が起こると予想しているか

 

② 歌本文を再掲します。

2-1-79歌  天皇乃 御命畏美 柔備尓之 家乎択 隠国乃 泊瀬乃川尓 舼浮而 吾行河乃 川隈之 八十阿不落 万段 顧為乍 玉桙乃 道行晩 青丹吉 楢乃京師乃 佐保川尓 伊去至而 我宿有 衣乃上従 朝月夜 清尓見者 栲乃穂尓 夜之霜落 磐床等 川之水凝 冷夜乎 息言無久 通乍 作家尓 千代二手 来座多公与 吾毛通武

おほきみの みことかしこみ にきびにし いへをおき こもりくの はつせのかはに ふねうけて わがゆくかはの かはくまの やそくまおちず よろづたび かへりみしつつ たまほこの みちゆきくらし あをによし ならのみやこの さほがはに いゆきいたりて わがねたる ころものうへゆ あさづくよ さやかにみれば たへのほに よるのしもふり いはとこと かはのひこり さむきよを やすむことなく かよひつつ つくれるいへに ちよまでに いませおほきみよ われもかよはむ

③ 最後の七句は、土屋文明氏に従い、つぎのような訓で前回検討しています(2021/10/25付けブログ「7.⑩と⑪参照」)。また四句も氏の訓によっています。

「さむきよを いこふことなく かよひつつ つくれるいへに ちよまでに きませまねくきみ われもかよはむ」

氏の大意:「かくのごとく寒い夜をも休むこともせず、通ひ来たって作った家に、千代の後までも来給へよしばしば君、吾も通はう」。

これに対して、上記①の第二から第四の疑問が生じたところです。

④ 最初に、2-1-79歌全体の構成を見直します。

 借訓もある万葉仮名です。官人が業務で使う文体は漢文であるので、その助字の意も生かして歌を書き留めているのではないか、と想定できます。この歌には、助字である「乃」、「之」、「乃」、「尓(爾)」、「而」、「乍」「之」「乍」 などが「万葉仮名」として用いられています。  例えば、

天皇)乃 :(aすなわち(心理的屈折、摩擦、抵抗感などを経ての接続を示す)。bなんじ・なんじの。cその(指示代名詞)。) 

(柔備尓)之 :(aの(修飾・被修飾の限定など。主述句を作る)。 b代名詞(これ・これが。この)。) 

(泊瀬乃川)尓 :(aなんじ(代名詞) bしかり かくのごとし cこの(=此) dのみ(=耳))  

(舼浮)而、(伊去至)而: (aしかうして。  しかも。 しかるに。 しかるを。bすなわち(=乃)。 cなんじ(代名詞)。 dもし(=如)。 eごとし(=如))。 

(顧為)乍: (aたちまち。bあるいは。) 

(衣乃上)従 :(aより(動作・行為の始まる時間的空間的基点を示す)。bしたがって。cたとひ。)

(冷夜)乎:(a前置詞(=於) b他の語について状態を表す語となる接尾辞。 c疑問・詠嘆・反語の語気を表す(か や かな)。

(来座多公)与: (aと。bともに。cために。dおいて、おける。eよりは。f疑問・反語・詠嘆の語尾(か。や。かな。 gみな。 ことごとく(=挙)。) 

⑤ 2-1-79歌の構成を、前回、作中人物が造営中の平城京において「家を作った」歌と理解して、6部よりなる、と整理しました。上記①の第一の疑問を解消すべく、助字に留意し、再度作中人物は単数である、として検討してみます。

 その構成の第一は 「初句~二句」(天皇乃 御命畏美)であり、歌の発端を詠っています。格助詞「の」という発音を書き留めるのに用いている「乃」字は、助字として「心理的屈折、抵抗感などを経た接続、という意の「即ち」でもあります。「天皇乃御命」に抵抗を感じるのは庶民にはあるでしょう。官人は表に出すのは絶対憚っていると思いますので、「乃」字は、素直にその「音」を書き留めているのではないか。

 この歌に格助詞「の」を「乃」字表記したのは7カ所もあり、すべてそのように理解できました。

⑥ その第二は、「三句~十八句」であり、平城京造営地への移動の状況を詠っています。「天皇乃御命」は、官人はじめ万民に発せられていますので、複数の者が、これにより行動を起こしています。あるいは行動を余儀なくされています。平城京の造営は一大プロジェクトであり、多数の人が集まることになります。三句以下はその行動する人達を描写しているのではないか。

 四句「家乎択」とは、必要な職種や人数を考慮して役民を集める、という官人の行動(役民からみれば運悪く選ばれて)を指しているのではないか。

 新都造営は長期にわたるものであり、前回の2021/10/25付けブログ「7.⑤」で指摘したように庶民には嫌われています(『続日本紀』の、和銅2年冬10月庚戌(28日)詔や和銅4年9月丙子(4日)勅参照)。人員の確保などに苦労したはずです。個人はもちろん出身集落などに補填も必要であったと思います。そのため特記しているのが四句「家乎択」ではないか、と思います(土屋氏の理解を支持するところです。)

 五句からの「隠国乃 泊瀬乃川尓 舼浮而」とは、舟運のある地域からは、船や筏など持参させたのでしょうか。奈良山丘陵で製造した瓦は佐保川を利用して平城京造営地に運ばれています。

 八句からの「吾行河乃・・・顧為乍・・・佐保川尓 伊去至而」とは、船や筏などを上流に遡らせる人達に関して詠っているのではないか。流水路が曲がりくねる箇所など監視が行き届かなくなるところでの脱走があったのでしょうか。十三句からの「玉桙乃 道行晩」の黄昏も脱走の機会であったのでしょう。だから官人は行動を共にしなければならなかったのでしょうか。

⑦ その第三は、十九句~二十七句であり、到着した平城京造営地の景を詠います。宿泊所の居住環境の貧しさを詠っています。 役民にとっても官人にとってもそこは臨時の宿舎であり、家族と住む家ではありません。

 その第四は、二十七句~三十句であり、平城京造営地にいる作中人物の行動を詠います。

 二十七句と二十八句で、休日も無い労働環境を詠い、二十九句と三十句で、運搬路の確保や建物の基礎作りや部材造りなどすべての作業をひっくるめて「作る」と表現し、「家」の完成を目指しています。上記①の第三の疑問に該当していると思います。必死に現場は動いている、という訴えにもとれます。

⑧ その第五は、三十一句~三十二句(千代二手 来座多公与)であり、「行動の目的を詠う」と前回みましたが、平城京造営事業の本部と現場との軋轢を詠っているのではないか。

 進捗を気にする本部に対して視察にこれからも度々来て理解してくれ、と現場を預かる者が、訴えているのではないか、と思います。

 作中人物は、その「家」の利用者を待っているのではありません。  

 その第六は、三十二句(結句「吾毛通武」)であり、作中人物の決意を詠っています。作中人物は家に通うのではなく、家を作っている現場に通う、という決意を述べています。

⑨ このように、2-1-79歌が、6部からなることは変わりありませんでした。

長歌は、誰か一人の立場で作詠されているはずなので、作中人物がこの歌で訴えたいことが結句にあるので、「現場に通う」のは誰かと言うと、役民と現場を監理・監督・指揮をする官人が第一候補となり、中でも、一大プロジェクトの進捗に関する意見対立が歌に伺えるので、現場の官人が詠った歌である、と思います。

 すなわち、6部構成の第一は、平城京造営の現場を預かる者(複数)が、下命を受けたことを述べ事業のスタートを示し、第二から、労働力の調達と、思わしくない居住環境と、それでも、役民や自分達も必死に働き、ここまでこぎつけたという現状を訴え、精度を落とさず急がす方法を、激励慰労を兼ねて、現場に足を運び、一緒によく考えてくれ、というのがこの歌の趣旨ではないか、と思います。

 例えば、造営期間が長いので役民は交代することになるので、その節目節目に激励し、所用の役民数がいつも確保できる対策などの提案に付した歌、とも理解できます。

 また、作者は特定できるはずです(歌を実際に代作した人物の特定はなかなか難しいとしても)。

⑩ 以上の検討から、現代語訳を、題詞には留意せず、結句の作中人物が詠う歌として、試みると、つぎのとおり。

「大君の 御命令を慎んで承り、

(造営の各段取りに応じて)馴れている集落から人を選び

こもりくのと昔から言われる初瀬川沿いの集落からは舟運用の船やその材料を調達し、それを岸から曳く人々が河川の流水の蛇行に従い散らないよう見返りつつ確認し、また路の暮れるまで進み、「あをによし」と形容されるような状況の「ならのみやこ」の佐保川のほとりに(私は人々と共に)たどり着いた。

 (そこには宿舎が設けてあるが、)私の寝た衣の上から、朝の月の光にはっきり見ると、白い木綿のように夜の霜がふり、石の床のように川の水が凍っている。

そして、このような寒い夜を過ごしても休むこともなく、

(人々と私が)現場に通い、作っている「家」(はまだまだ途上)であるので、これからも長い年月の間には、貴方に見に来てほしい。

私も現場の監理・督促に(これからも)倦まず行こうと思っている。」(79歌第1案) 

 

⑪ 「あをによし」とは、奈良山の辺りで(青色の顔料にする)「あを(青)に(土)」を採取していたことから、奈良(山)を修飾する形容句ですが、「そのならやまに近い都城」とつなげ、造成が始まったばかりで都城の体をまだ成していない「ならのみやこ」を修飾しています(2021/10/18ブログの付記1.参照)。

 瓦製造に関して技能者が全国から集められているように、当時の一大プロジェクトである平城京造営は、多くの職能にわたる人達を必要としていました。現場は集落自体が移転してきたような状況も生じていたのでしょう。施工の質、工程、資材調達、宿舎運営などで官人も気の抜けない大変な毎日をおくっていたと思います。 役民の誰か一人の作詠という歌ではありません。

⑫ このように理解できましたので、上記①の疑問の答えは、

第一は、現場監督の立場の官人(という役職の人物)、

第二は、官人組織の出先機関と本部という関係、

第三は、造作途中の家(広く造営事業)、

第四は、「千代」という期間に本部の適切な指導激励(優遇措置も)を度々いただきたい、

となりました。

 題詞に留意しない歌の理解は、元資料の歌の理解となっているのではないかと思います。

 元資料の歌では、「作家」という語句は「楢乃京師」に合わせたて「作楢乃宮」という語句であった歌かもしれません。平城宮が立地するあたりの造営の進捗が作詠時点では、実際楢の樹木にまだ囲まれている段階であったと推測します。

⑬ さて、歌本文にある「(青丹吉) 楢乃京師(乃)」の意の確認です。作詠者の助字の用い方をみれば、平城京造営中の状況を「楢乃京師」と評価して都城名として歌で用いたのではないか、と思います。

 平城京造成地は、もともと水田と集落を落葉樹林が北側から囲う地域であり、集落も燃料その他の利用のため近くの落葉樹林を大切にしていたと思います。

 平城京には、奈良山丘陵に近いことからの「奈良乃京師」(ならのみやこ)という呼称と表記が既にあり、それに「落葉樹林がみえる建設途上の都城」の意を、おなじ「なら」の音で歌に用いて表現している、と思います。平城京の別の表現として定着していた呼称ではなく、平城京の現状を評価した呼称といえます。

 なお、漢字「楢」は樹木の「ナラ」を意味するだけです。「ナラ」は、コナラやミズナラなどのブナ科の落葉広葉樹をひっくるめて言っている語句だそうです。雑木林を成す樹木の一つです。どこにでもある樹木であり、貴重なものの代名詞ではなさそうです。

⑭ 次に、題詞に留意して、歌本文を検討します。題詞を再掲します。

(2-1-79歌の題詞): 或本 従藤原京遷于寧楽宮時歌

(現代語訳(試案): 「或る別の記録にある、藤原京から新たな都城の宮(寧楽宮)に遷る頃の歌」(「7.③」より)

 題詞にある「藤原京」は、『日本書記』で表記する「新益京」であると諸氏は指摘しており、そうであれば作詠時点をこの題詞ははっきりと限定しています。歌本文にも、次の都城である平城京(『日本書記』での表記でもある)の造営の状況を示す語句もあり、整合しています。

 しかし、題詞が示すように「藤原京から遷都」でも「明日香宮から遷都」でも、歌本文は、遷都する都城における「作家」を題材としていますので、歌の理解に影響を与えません。

 また、「或本」と記し、2-1-78歌と元資料が異なることを明記しています。しかし、2-1-78歌と2-1-79歌の理解には、元資料が異なることを『萬葉集』巻一の配列方針より重視する必要はない、と思います。

 このため、題詞に留意した2-1-79歌の理解は、題詞に留意しない理解である現代語訳(試案)79歌第1案で、よい、と思います。

 ただ、一つの題詞のもとの2-1-79歌と2-1-80歌は、整合が取れた理解ができることは必要なことです。

 このため、2-1-79歌の現代語訳(試案)の成案が79歌第1案である、と判断するのは、2-1-80歌の検討後まで保留します。

9.再考 類似歌 その6 「寧楽宮」の用例 2-1-80歌

① 2-1-80歌も、最初は題詞に留意せず、検討します。歌を再掲します。

2-1-80歌 青丹吉 寧楽乃家爾者 万代爾 吾母将通 忘跡念勿

あをによし ならのいへには よろづよに われもかよはむ わするとおもふな 

 左注に「右歌作主未詳」とあります。諸氏は、「右歌」とは2-1-79歌と2-1-80歌をさしていると指摘しています。

 土屋氏の示す大意は、つぎのとおり。

「奈良の新しい家には、万代の後までも吾も通はう。忘れるとは思ふなよ。」

氏は、「長歌の大要を述べた程度で、感動の見るべきものもない。或いは長歌の意に答へる心持であらう」と指摘しています。

② 初句より順に検討します。

 初句「青丹吉」(あをによし)は、当時既に「顔料や塗料の青土(あおに)が取れる「なら(の)やま」を褒めている趣旨を踏まえ、「ならのみやこ」を修飾しており、2-1-79歌では「なら」の万葉仮名を「楢」に替えて平城京の現状を評価した表現としていました。

 「ならのいへ」は建築途上ですので、「楢乃家」でもよいところを、「なら」の万葉仮名を「寧楽」に替えています。

 漢字「寧楽」は、漢字として「ねいらく」と読み、「安んじ楽しむ」意です(『角川大字源』)。『墨子』の「尚賢中」篇の「寧楽在君 憂慼在臣」(寧楽は君に在りて憂慼(いうせき)は臣に在り)を例にあげています(聖王の時代を例にあげ君臣の間が親密であったことを指している章句です)。

 そうすると、「寧楽乃家」とは、完成した「いへ」を指している、と思います。

③ 完成した「ならのいへ」に対する「あをによし」という語句の褒る意・讃える意は、「よい材料が取れる」意から「青丹吉」の「青」と「丹」は色彩を指すものに転じて、中国様式の建物が並ぶはずの「ならのみや」の誉め言葉に替えたのではないか。「吉」の「よ」と「し」は、ともに感動・詠嘆を表す間投助詞です。そのように意味を転換していることを示すために、「なら」の表記に、「楢」や「奈良」ではない好字をあてているのではないか。

 「寧楽」を「なら」と訓むのは2-1-79歌にある「楢之京師」があることから類推できるところです。

 あるいは、「寧楽乃京師」という表記が既に定着していれば、それを修飾する語句「あをによし」を「青丹吉」と表記したイメージは色彩豊かなものに自然となるでしょう。

④ 『萬葉集』にある「おをによし」の用例27首を検討した太田蓉子氏は、

2-1-1642歌  巻第八 冬雑歌 天皇御製歌

青丹吉 奈良乃山有 黒木用 造有室者 雖居座不飽可聞 

(あをによし ならのやまなる くろきもち つくれるむろは ませどあかぬか)

の「あをによし」は、「ならのやま」を修飾している誉め言葉として用いられている、と指摘しています。

  天皇とは神亀元年(724)即位した聖武天皇なので、この歌の作詠時点は、「ならのみやこ」には大極殿や大寺院などきらびやかな建物が既にある頃であり、「あをによし」が「ならのやま」を修飾しています。「あをによし」という語句について、この頃既に「あを(青)」と「に(丹)」は色彩を指すという理解が並行してあったのでしょうか。 

⑤ 2-1-79歌にある「青丹吉 楢乃京師」を受けて、2-1-80歌は「青丹吉 寧楽乃家」と詠っています。

 「あをによし」の意味を色彩中心に替えて「なら」の表記を「寧楽」に替えるならば、京師全体はともかくも 平城宮は瓦で葺くことから始まりきらびやかになるはずだから、「(色彩優先の意の)青丹吉と形容できる平城宮」の意に、「青丹吉 寧楽乃家」はなり得ます。

 「あをに(よし)」の意を替えても替えなくても、「なら」の漢字を替えたことは、2-1-79にいう「作家」と表記した「家」の評価を替えたことになります。そして、2-1-80歌において、2-1-79歌に言う「家」の将来像を示したことにもなります。

 三句~四句「よろずよにわれもかよはむ」は、2-1-79歌の「千代二手 来座多公与 吾毛通武」に応えた語句と理解できます。

 そして、2-1-79歌と2-1-80歌が、同一の作詠者の歌であれば、それまでの主張・意見を2-1-80歌で念押ししています。五句「忘跡念勿」(わするとおもふな)でそれを徹底させています。

 2-1-79歌を送られた人物が2-1-80歌で返歌をしたとすれば、要望に応えてその「家」に行こう、と答えた歌ということになります。五句「忘跡念勿」(わするとおもふな)とは、送られた人物が応諾したことを忘れない、ということです。

⑥ 以上から、題詞に留意していない上記「8.⑩」の2-1-79歌の現代語訳(案)79歌第1案を前提に、2-1-80歌の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 2-1-79歌と作詠者が同じ場合

「あをによしと形容されるような「ならの都城」のその「家」には

非常に長い年月にわたり、私も通おう。(そう誓ったことを)私が忘れるとは思うなよ。」(80歌第1案)

 2-1-79歌を送られた者の返歌である場合

「あをによしと形容されるような「寧楽の平城宮」になるべきその「家」には

長い年月にわたり、私も通おう。それを私が忘れるとは思うなよ。」(80歌第2案)

 前者は、2-1-79歌で「楢乃京師」と評した者が、「寧楽の都城のその家」と表現していることになり、熟語「寧楽」の意は「安んじ楽しむ」意であることから、「平城京に作っている家」が「寧楽乃家」と評されるようになるまで、努力を惜しまないと、誓った私を忘れないでほしい、と訴えている歌となります。

 後者は、「楢乃京師」と評した者へ、貴兄が作っている「家」が「寧楽の都城にふさわしい家」に(確実に)なるよう、これからも応援を続けるから、がんばれ、という趣旨の歌になります。

 そして、どちらの場合も、作詠者は、その役職を限定できます。後者の場合は2-1-79歌の作詠者とほぼ同じ位階のものと推測できます。

⑦ 『萬葉集』には、長歌が、多くの場合反歌を伴って収載されています。

 元資料にも長歌2-1-79歌と共に反歌2-1-80歌があり、それをそのまま収載したとすれば、長歌の趣旨を繰り返す前者が妥当です。「家」が未完の状況にあって目標である状態の家にするため、努力をする、と詠っていて、2-1-79歌と2-1-80歌は平仄があいます。

 上記「8.⑫」において、2-1-79歌における「作家」という表記は、元々「作楢乃宮」ではなかったかと推理してみました。2-1-80歌での「家」も、元資料では、「あをによし」の意を(長歌の場合と同じとして)転換しないままで「青丹吉 楢乃京師爾者」という初句と二句であった可能性もあると思います。

 さらに、「平城京」という新たな都城に対して、「楢乃京師」とか「寧楽乃京師」という表記が既に定着していたならば、2-1-79歌で「家」と称したので、「家」の完成形を示唆する評語になり得る「寧楽」字を用いて、2-1-80歌では「寧楽乃家まで」と詠ったほうが、長歌になじんだ反歌といえる、と思います。

 例えば、2-1-17歌のように「寧楽乃家万代」、2-134歌のように「寧楽乃家左右」、と記し、作者の決意を表せます。 

⑧ 同音異義の語句を用いた相聞の歌は、勅撰集にはときどきあります。返歌をする作詠者が、同音異義の語句の意を替えて相手の意見・依頼などを、かわしたり、いなしたり、迫ったりしている歌です(『萬葉集』では未確認です。付記1.参照)。

 「あをによし」の意の転換は、この2-1-79歌と2-1-80歌の作詠者が異なっている場合には有り得ることと思います。

 但し、それは「或本」で既にされていたのか、それとも巻一編纂者が行ったのかは、今の所不明です。だから元資料の歌は、80歌第1案とも80歌第2案とも、決めかねるところです。

 巻一の編纂者の意図をも含めた検討の際に確認します。なお、「あをによし」を無意の枕詞とみても、80歌第1案とも80歌第2案と同趣旨になります。 

⑨ 次に、題詞に留意した検討をします。同じ題詞のもとにある2-1-79歌にも留意するものとします(題詞と現代語訳(試案)は、上記「8.⑫」に再掲しました。)

 この題詞は、繰り返しますが、

第一に、時点を平城京遷都前後と、作詠時点を明らかにしている

第二に、「或本」と記し、2-1-78歌と出所が異なる歌ということを明記している

第三に、『萬葉集』における「藤原京」という表記の唯一の例。

という特徴があります。

 第一については、2-1-80歌は、歌本文中に「青丹吉 寧楽乃家爾者」と詠い、「ならのいへ」とは平城京における屋敷・宮を意味しますので、作詠時点を造営中と限定できないものの、題詞が指定する時期の事柄を詠う歌であり、この語句から、題詞と歌本文とは、時期に関して整合性があります。

 2-1-79歌も、歌本文中の語句から題詞のいう時期の事柄を詠う歌と確認できました。

 第二については、2-1-79歌と同様に歌の理解に影響を与えません。2-1-80歌の理解が、80歌第1案でも80歌第2案でもどちらでも、歌の内容と題詞は整合がとれているといえます。 

⑩ 第三の、「藤原京」という表記は、「藤原宮」であっても、次の都城の造営を題材にしているこの歌の内容に影響しません。だから、「藤原京」という表記は、『萬葉集』の編纂に関わる事柄と見ざるを得ません。歌の内容のみから「藤原京」を「藤原宮の誤記である」と判断するのは早計です。

 なお、左注に「作者未詳」とありますが、『日本書記』に平城京造営関係の記事もあることから、ほぼ推測できるのに作者名をあげていないので、単純に元資料の不備であるのか、巻一の編纂者の配慮であるのかは判断しにくいところです。 

⑪ さて、この二つの歌の題詞にある、「寧楽宮」の意の確認です。 

 2-1-79歌と2-1-80歌は、一つの題詞のもとにある一対の歌であるので、その題詞とこの2首の歌の理解は一体であってしかるべきです。

 この2首の作詠者は、「ならのみやこ」の「ならのいへ」の造営の進捗状況を題材にしています。それを修飾するのに共通の「あをによし」という語句を用いています。

 前者は、2-1-79歌での「楢乃京師」、2-1-80歌での「寧楽乃家」と、共通の「なら」を、「楢」字と「寧楽」字とで書き分け、それだけで「京師」と「家」に対する評語の機能も果たしています。

 そして、題詞にも「なら」と訓む語句はあります。この2首での「なら」字の対比をみると、評語の機能を題詞でも果たしているのではないか、と推測できるところです。

 この2首にある「あをによし」という語句は、二つの意のある同音異義の語句であって、別々の意がこの2首に用いられているという理解が、題詞に留意しない歌の理解では可能でした。

 そして、「寧楽宮」の意が「新しく造営している都城」である「平城京」の意であれば、題詞に留意した場合の理解も、題詞に留意しない場合の理解と同じになりました。

題詞にある「寧楽」字にも評語の意が加わっているならば、2-1-80歌の「家」と同じく、将来の完成形の「宮」を褒めていることになります。

 「宮」は巻一において、天皇の代を象徴して「標目」に用いられている字ですので、将来の「宮」を「寧楽宮」と称し、ひいてはその宮で、立派に天下を治められる天皇を示唆することが可能になります。つまり、2首の歌では、「寧楽宮」字は、平城京の「平城宮」をさしていますが、題詞の「寧楽宮」は将来の宮をも意味している、と考えられます。

 将来どこに新都が設けられようと、律令を作った人物の後裔が支配の拠点とするのに変わりありません。評語機能を生かした理解を「寧楽宮」にしても(将来の「寧楽宮」であっても)、天皇家に不都合は生じません。 

⑪ しかし、このような理解が、「寧楽宮」を明記する二つの題詞とこの3首において整合性を持ち、さらに、巻一全体の理解からも有力にならないと、「寧楽宮」は、「平城京に造営される「平城宮」相当(天皇の居住空間であり政策決定の空間でもある)内裏や大内裏相当部分相当)」の意だけであろう、と思います。

 次回は、「寧楽宮」を明記する二つの題詞とこの3首から、編纂方針を検討したいと思います。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

(2021/11/1  上村 朋)

付記1.『萬葉集』で同音異義の語句を2意利用したと思われる歌

① 2021/11/1現在全巻の確認は済んでいない。

② 一つの歌で、一つの語句の同音異義のうちから2意をかけて詠っている歌はあった。

巻十 寄花

2-1-旧2289歌 藤原 古郷之 秋芽子者 開而落去寸 君待不得而

   ふじはらの ふりにしさとの あきはぎは さきてちりにき きみまちかねて

 「ふぢはら」とは、(作中人物の住む)「藤原京」と「藤の花の咲く野原」を掛けている。

③ それが2首続けて配列されているかにみえる例が一組あった。同音異義の語句は「まつ」である。

 巻十一 古今相聞往来歌類之上 寄物陳思

2-1-2488歌 君不来者 形見為等 我二人 植松木 君乎待出牟

   きみこずは かたみにせむと わがふたり うゑしまつのき きみをまちいでむ

2-1-2489歌 袖振 可見限 我雖有 其松枝 隠在

   そでふるは みゆべきかぎり われはあれど そのまつがえに かくらひにけり

 「まつ」とは、植物の「松」と「待つという約束」の意であり、前者は、約束を守ろうと詠い、後者は、約束は言葉だけで会ってもくれないと詠います。「まつのき」と「まつのえ」で、約束する目的が当事者で異なっていることを示唆しており、植物全体を意味する「き」とその末端で場合によっては伐るのも止むを得ない「え」は「約束」の評語になっている。

  なお、この二つの歌には別の理解もある。

 (付記終わり  上村 朋  2021/11/1)