わかたんかこれ 猿丸集恋歌確認34歌 いまも

前回(2024/4/15)に引きつづき『猿丸集』歌の再確認をします。今回は第34歌です。

1.経緯

2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」(付記1.参照)という仮説を検証中である。12の歌群を想定し、3-4-33歌まで、すべて類似歌とは異なる歌意の恋の歌であることを再確認した。歌は、『新編国歌大観』より引用する。

2.再考の結果概要 3-4-34歌 

① 『猿丸集』の第34番目の歌と、その類似歌と諸氏が指摘する歌は、次のとおり。

  3-4-34歌 山吹の花を見て

   いまもかもさきにほふらんたちばなのこじまがさきのやまぶきのはな

 

3-4-34歌の類似歌: 1-1-121歌   題しらず     よみ人知らず 

    今もかもさきにほふらむ橘のこじまのさきの山吹の花

② この2首は詞書が異なるものの、歌本文は、清濁抜きの平仮名表記をすると、二句と四句で各1文字違うだけです。再確認を以下のようにしたところ、次のことが言えます。

第一 この歌は、『猿丸集』編纂時点を考慮すれば、1-1-139歌を前提にしてよく、今は訪れのない男性をまた誘っている歌です。現代語訳(試案)は次のとおり。

 詞書:「山吹の花に寄せて(詠んだ歌)」 (3-4-34歌詞書改訳)

 歌本文:「昔と同じようにいまもまあ美しく咲いているのでしょうか。たちばなに譬えたいあなたの屋敷の池の小島の岬のやまぶきの花は(さらに実を付けさせませんか)」 (3-4-34歌本文改訳)

第二 類似歌は、『古今和歌集』の部立て「春歌下」に配列されている歌として、特定の土地の春と山吹を懐かしんでいる歌です。現代語訳(試案)は次のとおり。

 詞書: 「題しらず  よみ人しらず」

 歌本文:「昔と同じようにいまもまあ美しく咲いているだろうよ。橘という地を流れる河にある小島の先に群生している山吹の花は。」 (1-1-121歌改訳)

第三 この2首の現代語訳(試案)は今回改まりましたが、2首の歌意が異なっているのは変わりなく、この歌が恋の歌であるのも変わりありません。

③ 検討は、3-4-33歌を最初に、次に類似歌を行います。

3.再考 3-4-34歌の詞書

① 詞書には、誰が詠んだのかは明記されていません。

 前回(ブログ2018/10/29付け)は、「詠むきっかけが眼前にある「やまぶきのはな」であることが明記されており、それが実際の花なのか又は描かれた花であるかはわかりません」、と理解しました。だから現代語訳(試案)は、

「山吹の花を見て(詠んだ歌)」

となりました。しかし、この詞書における動詞「見る」に、私の思い込みがありました。

③ 動詞「見る」について、『例解古語辞典』では「a視覚に入れる・見る・ながめる b思う・解釈する c(異性として)世話をする d(・・・の)思いをする・解釈する」などと説明し、『古典基礎語辞典』では「a目によって視覚の対象を捉える意、b視覚から得た材料で判断する」意があると説明しています。

 現に『猿丸集』においては「視覚から得た材料で判断する」という意の例も3-4-31歌や3-4-32歌においてありました。

 この詞書の文のみから、作者がどのような状況の「山吹の花」を視覚に捉えたのか、あるいは視覚から得た材料で判断しようしたのかを判別するには、歌本文と歌の配列をも確認する必要があります。

 このため、詞書については、とりあえず前回のままにしておき、歌本文の検討後に改めて確認することとします(下記「4.⑩」に歌本文検討後の確認を記す)。

4.再考 3-4-34歌の歌本文

① 歌本文は、いくつかの文からなっています。

第一 いまもかもさきにほふらん :何か(多分花)の状況を推測。

第二 たちばなのこじまがさきの :何かの所在場所を限定。

第三 やまぶきのはな :詞書にある花の名前であり、少なくとも第二の文の「何か」に相当する第一候補。ただし、第一の文との関係は即断できない。

② 第一の文の「いまもかも」は、同音異義の語句である可能性があります。

 諸氏は、例えば久曾神氏は、類似歌1-1-121歌に関して、「「も」は添加の助詞。「か」は疑問の助詞。下の「も」は感動の助詞。「昔と同じようにいまもまあ」、の意」と指摘し、『日本古典文学全集7 古今和歌集』では、「二つの「も」は語気を強める機能をもつ。「か」は詠嘆的疑問。「も」と複合するのは古い語法。」と指摘しています。(前回検討のブログ2018/10/29付け 「3.」参照)。

 このほか、「今も香も」と理解可能です。「今日現在も(あの年の如く)香りも」という意です(前回のブログ2018/10/29付け「7.③」参照 )

③ 第一の文にある「さきにほふらん」の動詞「さきにほふ」は、「にほふ」を「美しく映える」意として「美しく咲く」意(『例解古語辞典』)です。

 第一の文の文末の助動詞「らん」を終止形とみれば、この歌がいわゆる二句切れの歌であり、「さきにほふ」だろうと作者が推測している「何か」は、第三の文にある「やまぶきのはな」となります。

 文末の「らん」が連体形であると、修飾するのは直近の第二の文にある「たちばな」も花の名であり第一候補となり、第三の文にある「やまぶきのはな」が第二候補となります。

 動詞「さきにほふ」が視覚に捉えた花の評価であれば、詞書との整合では評価の対象は「やまぶきのはな」が有力です。この場合、第一の文と第二の文での「何か」は「やまぶきのはな」となります。

④ さて、一般に、「やまぶきのはな」の美しさを詠うのであるならば、次のように詠んでも良いところです。

   橘のこじまがさきに(「の」を変更)今もかもさきにほふらむ山吹の花

 これは、上記②で指摘した[らん]は終止形とした歌本文の歌意と同じであり、3-4-34歌のほうが「やまぶきのはな」を強調していることになります。そして、唯一の動詞をも3-4-34歌の詠い方は強調している、といえます。

 だから、その美しい山吹(あるいはその一群れ)とは、暗喩があるのではないか、という疑問が生じます。

⑤ 第二の文の「たちばな」に関しては、有名な歌が『古今和歌集』にあります。『猿丸集』の編纂者もよく知っているはずの歌です。

1-1-139歌(巻三 夏歌) 題しらず     よみ人しらず

    さつきまつはなたちばなのかをかげば昔の人のそでのかぞする

 この歌が『古今和歌集』に収載されて以降、植物の橘は懐旧の情、とくに昔の恋人への心情と結びついて詠まれることが多いとの指摘があります。そして『猿丸集』編纂は『古今和歌集』編纂後のことであるのは諸氏も指摘しています。1-1-139歌を踏まえた歌は、三代集では『後撰和歌集』及び『拾遺和歌集』にそれぞれ1首あります(付記2.参照)。

 前回の検討(ブログ2018/10/29付け)では、「この歌を前提として理解しようとすると、植物の「たちばな」は昔の恋人のいる小島(地名)という理解が可能となります」と指摘しました。

 そして、この3-4-34歌は、『猿丸集』収載の他の歌と同様に、詞書に明記がなくとも、誰かに示された(あるいは贈られた)歌であることは間違いありません。

⑥ そうすると、第二の文は、この歌を踏まえて、やまぶきの所在地とともにこの歌を示した相手をも示唆しているのではないか。

「たちばな」とは昔の恋人(あるいは今交際が途切れている人物)を示唆しており、次のような理解が可能です。

「たちばなの(即ち今は訪れのない貴方の屋敷の庭の池にある)小さな島の岬の」

そして、この文は、第三の文(名詞句)を修飾します。

⑦ 第三の文は、「やまぶき」ではなく「やまぶきのはな」とあり、「はな」に注意を向けています。

 山吹には当時も2種が知られており、そのひとつ「やへやまぶき」は、八重咲きで実がならない種類です。また山吹の花の香について、園芸関係の説明において特記しているのはまずありません(ブログ2024/4/15付け「3.③と④」参照)。

 この歌は「やまぶき」を景として詠んでいるので、第三の文にある「やまぶきのはな」は、「やへやまぶき」であり、「実がならない」山吹であることにこの歌を読む人の注意をむけさせているのではないか。

⑧ 各文のこのような理解に基づけば、歌本文の現代語訳(試案)は、次のようになります。

 「昔と同じようにいまもまあ美しく咲いているのでしょうか。たちばなに譬えたいあなたの屋敷の池の小島の岬のやまぶきの花は(さらに実を付けさせませんか)」 (3-4-34歌本文改訳)

 「らん」は、終止形と理解し、1-1-139歌により「たちばな」は、今疎遠になっているこの歌をおくった相手を指す、と理解しました。

前回の現代語訳(試案)は誤訳でした。

⑨ この(試案)は、『猿丸集』の配列の検討からみると、どうか。

 『猿丸集』は12の歌群が想定でき(ブログ2020/6/15付け参照)、この歌は「第八 もどかしい進展の歌群:3-4-33歌~3-4-36歌 (4首 詞書4題)」の2番目の歌です。

 歌群の最初の歌3-4-33歌は、結局再訪を願う女の歌でした(ブログ2024/4/15付け参照)。この歌は元の仲になりたいと願っている女の歌です。

 このため、両首とも同一傾向の歌であり、歌群名に包括され得る内容を詠っており、一つの歌群の歌といえます。3-4-35歌などの確認を要しますが『猿丸集』の配列と今のところ矛盾はない、と言えます。

 なお、この歌群の前後の歌群はつぎのとおりです。

第七 乗り越える歌群:3-4-29歌~3-4-32歌 (4首 詞書3題)

第九 破局覚悟の歌群:3-4-37歌~3-4-41歌 (5首 詞書2題)

           修正案は「破局再確認の歌群」

⑩ さて、詞書の理解です。

 上記のような歌本文の理解により、「見る」は、「b視覚から得た材料で判断する」意と思います。

 次のように現代語訳(試案)を改めます。

 「山吹の花に寄せて(詠んだ歌)」 (3-4-34歌詞書改訳)

 山吹(あるいはその花)を視覚に捉えたのきっかけか、それとも山吹が咲いているという見聞がきっかけかはわかりませんが、「山吹の花」はあの人の身の回りにもあると作者が気の付いた時の歌です。

 また、現代語「見る」にも視覚から得た材料で判断する」意がありますので、

 「山吹の花を‘見て’」

という(案)もありますが、類似歌との違いを際立たせるには上記の(試案)のように、現代語「見る」は用いないほうが良い、と思います。

5.再考 類似歌 1-1-121歌

① 最初に、配列から確認します。

 この歌1-1-121歌は、『古今和歌集』巻二にあります。巻二の配列を検討した結果、この歌は、第四の歌群 藤と山吹による歌群( 1-1-119歌~1-1-125歌)の1首と理解できました(ブログ2018/10/22付け「2.」参照)。

 さらに、この歌群には3つのグループが認められ、「山吹を景とした1-1-121歌と1-1-122歌は、山吹から過去の経験を思い起こしている」歌として対の歌としてひとつのグループとなっている」、と推測しました(ブログ2024/4/15付け)。その際のこの歌の理解は前回(2018/10/29付け)の理解と仮定し、1-1-122歌は再考して得た現代語訳(試案)でした。

 今回は、その仮定を再検討することになります。

② 詞書は「題しらず  よみ人知らず」とあり、歌本文が詠まれた事情など明記していません。

 歌本文を、清濁抜きの平仮名表記をすると、二句と四句で各1文字違うだけの3-4-34歌が1-1-139歌を念頭に作詠されている歌である、と上記「4.」の検討で理解できましたので、この歌1-1-121歌と1-1-139歌の関係を最初に確認し、次いで歌本文を再考したい、と思います。

 両歌は、『古今和歌集』収載の歌ですが、配列されている部立てが異なります。

1-1-121歌は、「やまぶき」を景とした春歌として配列されており、1-1-139歌は、「たちばな」を景とした夏歌として配列されています。和歌集という一つの編纂物において四季別の部立てがされているので、この2首は、部立てが異なっていることから特別な関係にある歌同士ではない、と言えます。

1-1-121歌の歌意は、1-1-139歌に全く関係ないものとなるはずです。

③ 念のため、「たちばな」という表記のある歌は、同一歌集でどのような関係になっているかを、三代集でみてみます(付記2.参照)。

 平仮名表記をすると「たちばな」と句頭にある歌は、三代集では1-1-121歌だけです。そして部立てがこの歌だけ「春歌」です。「たちばな」は植物名ではない、と推測する根拠の一つになります。

 平仮名表記をすると「はなたちばな」と句頭にある歌は、『古今和歌集』に3首、『後撰和歌集』に2首、『拾遺和歌集』に1首あります。すべて部立ては「夏歌」であり、すべて「植物名」と断定できます。「はなたちばな」とともに「ほととぎす」が詠まれている歌が3首、「ほととぎす」を詠まず「はなたちばな」とともに「人物」を詠んでいる歌が三代集に各1首計3首と大別できます。

 前者の3首は、ほととぎすの鳴き声について、それぞれ聞きたい、聞こえてくる、聞こえなくなったと詠っています。

 後者の3首は、1-1-139歌とそれをあきらかに踏まえた歌が『古今和歌集』とは異なる歌集に各1首です。

 このように贈歌とその返歌という関係の歌はありませんでした。

 これらから、三代集の各編纂者は、当該歌集で趣旨の重なる歌を収載していませんでした。1-1-121歌は、これからも1-1-139歌から独立している歌であることが判ります。

④ 次に、歌本文を検討します。1-1-121歌は、いくつかの文からなっています。

第十一 今もかもさきにほふらむ :何か(多分花)の状況を推測。

第十二 橘のこじまのさきの :何かの所在場所を限定。

第十三 山吹の花 :花の名前。第二の文の「何か」がこの花。第一の文との関係は即断できない。

⑤ 第十一の文は、3-4-34歌の第一の文と同じ理解であり、「今もかも」が同音異義の語句であり、2案あります。最後の「も」は感動の助詞とみる「昔と同じようにいまもまあ」、の意と最後の「も」を係助詞とみる「今日現在も(あの年の如く)香りも」、の意です(上記「4.②」参照)。

 文末の「らむ」は現在実現している物ごとについて、推量する意を表します。

 この歌は、『古今和歌集』巻第二の部立て「春歌下」に配列されており、「やまぶき」に寄せた春の歌として理解すべき歌です。「やまぶき」を景として詠われており、夏の花である「たちばな」を景として詠われていません。このため、この第十一の文は、第十三の文にある「やまぶきのはな」を念頭の文とみなせます。

 第十一の文のような作者の推量は、「山吹の花(は)さきにほふらむ」であり、それを倒置文にしている関係に第十一の文と第十三の文ともみなせます。

⑥ 第十二の文も、3-4-34歌の第二の文と同じ理解です。第三の文にいう「山吹の花」が咲いている場所を「橘のこじまのさき」と明記している、という理解を諸氏はしています。久曾神昇氏は「宇治川北岸で平等院の東北、橘姫神社付近か」と指摘しています。

 前回(ブログ20218/10/29付け)の検討結果も、同じでした。即ち、

「橘のこじま」とは、「郷名より小さい範囲を指す地名である「たちばな」の近くにある川の中州や池などの中にある島」の意であり、「さき」とは、「当該地に立った作者からみて遠くに位置するその島の先端・岸の意」、というものでした(同ブログ「4.⑤~⑧参照)。

 これは妥当な理解である、と思います。

 なお、名詞「先・前」は、「a先頭・先端 b前方 c以前・まえ d前駆(貴人の通行の際、前方の通行人などを追い払うこと また追い払う人)」(『例解古語辞典』)の意があります。

⑦ これらから、作者が推量した文章「山吹の花(は)さきにほふらむ」は、場所を特定して、

「(橘の・・・というところにある)山吹の花(は)さきにほふらむ」

となり、咲く時期をさらに特定して、

「(橘の・・・というところにある)山吹の花(は、(昔と同じようにいまもまあ))さきにほふらむ」

になり、咲く状況を強調すべく倒置文形式か、「さきにほふらむ」を最初に言い切る作文となったのではないか。

 香りは詠んでいない歌という理解となりました。

⑧ 以上より、現代語訳を、改めて試みると、つぎのとおり。

 「昔と同じようにいまもまあ美しく咲いているだろうよ。橘という地を流れる河にある小島の先に群生している山吹の花は。」 (1-1-121歌改訳)

 「やまぶき」は野の花であり、園芸用の「やへやまぶき」ではありません。

 この歌は、春という時季を背景に回想している歌です。何故回想しているかと言えば、その土地を褒めたい、その土地での作者の生活を是とすることを人に示したい、という気持ちがあるのではないか。元資料は、官人の離任の時の挨拶歌か、都近くに春から夏の住いのある親しくしていた人への挨拶歌ではないか。

 『古今和歌集』編纂者は、春歌として、春になると必ず目にする「やまぶき」で思い出す当該地を懐かしく思っている歌として、ここに配列している、と思えます。

⑨ 巻二の配列から、この歌を、第四の歌群 藤と山吹による歌群( 1-1-119歌~1-1-125歌)の1首であって「山吹を景として1-1-121歌と1-1-122歌は、山吹から過去の経験を思い起こしている」歌と理解しました(上記「5.①」参照)。

 歌本文の上記⑧の(試案)という理解は、それに該当します。

 前回の現代語訳(試案)は、香りに拘り過ぎており、誤りでした。

6.再考 3-4-34歌は恋の歌か

① さて、3-4-34歌は恋の歌かどうかの判定です。

 3-4-34歌とその類似歌1-1-121歌の歌本文は、清濁抜きの平仮名表記では2文字(2カ所)違うだけです。そして、それぞれが所載の歌集の配列と詞書を再確認したうえで歌意を検討すると、それぞれ前回から改まったものの、前回同様歌意が異なる2首となりました。

 この歌の歌本文の現代語訳(試案)は、1-1-139歌を踏まえた上記「4.⑧」に示す「3-4-34歌本文改訳」となり、今は訪れのない男性をまた誘っている歌でした。

 類似歌は、上記「5.⑧」に示す「1-1-121歌改訳」となり、『古今和歌集』収載の歌として特定の土地の春と山吹を懐かしんでいる歌でした。

② 要件は付記1.に示すように4点あり、以下のように満足するので、「恋の歌」といえます。

 要件の第一に、「3-4-34歌本文改訳」にみるように「成人男女の仲」に関して詠んでおり、該当します。

 要件の第二に、類似歌の「1-1-121歌改訳」とあいまってこの2首の歌意は異なっており、該当します。

 要件の第三に、『猿丸集』の配列上上記「4.⑨」に指摘したように違和感はなく、該当します。

 要件の第四は、歌本文を別の理解が重なるのであれば、問題ありません。

③ ブログわかたんかこれ ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。次回は、3-4-35歌を再確認します。

(2024/4/22  上村 朋)

付記1.『猿丸集』の検討における「恋の歌」の定義

 次の四つの要件をすべて満足している歌と定義する(ブログ2020/7/6付け「2.④」)。

第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと

第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと

 

付記2.三代集で、平仮名表記にすると句頭に「たちばな」あるいは「はなたちばな」とある歌

① 句頭に「たちばな」とある歌は1首でその部立ては「春」、「はなたちばな」とある歌は6首でその部立てはすべて「夏」である。

② 1-1-139歌を踏まえて詠われている歌は、後撰集2首のうち1首、拾遺集1首のうち1首ある。

③ 古今集の歌  

1-1-121歌 巻二 春歌下 本文「2.①」に記載

1-1-139歌 巻三 夏歌 本文「4.⑤」に記載

(五月をまって咲いた橘の花の香から昔親しく交際した人を懐かしむ気持ちを詠う)

1-1-141歌 巻三 夏歌 題しらず よみ人しらず

   けさきなきいまだたびなる郭公花たちばなにやどはからなむ

(我が屋敷に橘があると訴えホトトギスの鳴き声をもっと聞きたい気持ちを詠う)

1-1-155歌 巻三 夏歌 寛平御時きさいの宮の歌合のうた (153歌~158歌)

   やどりせし花橘もかれなくになどほととぎすこゑたえぬらむ

ホトトギスの声が聞こえなくなったのを嘆く気持ちを詠う)

④『後撰集』の歌

1-2-186歌 巻四 夏 題しらず よみ人しらず

   色かへぬ花橘に郭公ちよをならせるこゑきこゆなり

(元資料は、慶事に作られる屏風の歌)

1-2-188歌 巻四 夏 題しらず よみ人しらず

夏の夜にこひしき人のかをとめば花橘ぞしるべなりける 

(1-1-139歌を踏まえている歌。三句は1-3-16歌参照)

⑤『拾遺集』の歌

1-3-112歌 巻二 夏  題しらず  よみ人しらず 

   たがそでに思ひよそへて郭公花橘のえだになくらん

(1-1-139歌を踏まえている歌)

(付記終わり 2024/4/22  上村 朋)