わかたんかこれ 猿丸集恋歌確認31歌 心におもふこと

前回(2024/3/4)に引きつづき『猿丸集』歌の再確認をします。今回は第31歌です。

1.経緯

2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。12の歌群の想定し、3-4-31歌は、「第七 乗り越える歌群(4首 詞書3題)」の第3首目である。3-4-28歌までは、すべて類似歌とは異なる歌意の恋の歌(付記1.参照)であることを確認した。3-4-29歌~3-4-30歌は類似歌とは歌意が異なっているが恋の歌の確認は保留している。

 歌は、『新編国歌大観』より引用する。

2.再考の結果 3-4-31歌

① 『猿丸集』の第31番目の歌とその類似歌は、つぎのとおり。

3-4-31歌  まへちかき梅の花のさきたりけるを見て

     やどちかくむめのはなうゑじあぢきなくまつ人のかにあやまたれけり

 

類似歌 『古今和歌集』 1-1-34歌 題しらず  よみ人知らず

     やどちかく梅の花うゑじあぢきなくまつ人のかにあやまたれけり

② 詞書は異なりますが、歌本文は清濁抜きの平仮名表記では、まったく同じです。

③ 改めて下記のように、助動詞「けり」と同音異義の語句などと配列に留意し、現代語訳(試案)を再確認などした結果、次のことが言えます。

第一 「まつ人」は2意であることを再確認した。

第二 この歌3-4-31歌の現代語訳(試案)は、詞書と歌本文とに修正を加え次のようになった。

  詞書 : 庭先近くに(あるいは私の身の回り近くに)梅の花が咲いたことに感慨をもって(詠んだ歌)

  歌本文 : 屋敷内に、咲いている梅は置くまい。にがにがしいことに、仏道修行を妨げる第六天魔王のような人が用いている香に勘違いさせられてしまったから。

 また、類似歌1-1-34歌の歌本文も修正をした。

第三 その結果、3-4-31歌は恋に関わる歌であり、類似歌1-1-34歌は部立て「春歌上」にあり春の到来を喜んでいる歌となり、異なる歌意の歌となったのは前回と同じである。

第四 『猿丸集』歌としての「恋の歌」かの確認は、「第七 乗り越える歌群(4首 詞書3題)」の歌を、後程に行う。

 

④ 再考は、最初に『猿丸集』歌(3-4-31歌)を、次に類似歌を検討して、二首の差異の有無と恋の歌かどうかを判断します。

3.再考 3-4-31歌 各論

① 詞書より再考します。詞書は、いくつかの文より構成されています。

第一 まへちかき :詠う対象のある場所を記す。

第二 梅の花さきたりける :詠う対象の状況の認識を記す

第三 を見て :作者の行動を記す

② 第一の文にある、「まへ」とは、名詞「前」であり、「a前方・まえ bまえの庭・庭先 c以前 dまえにいること」などの意があります(『例解古語辞典』 以下原則同じ)。第一の文は次にある語句「梅」を修飾しているので、文の意は、例えば「庭先近く」とか「私の周りの近く」が、現代語訳の候補となります。

第二の文の最後の語句「ける」は活用語の連用形に付く助動詞「けり」の連体形であり、文全体が引用文と言えます。「けり」は過去回想の助動詞と呼ばれています。

 助動詞「たり」が付く活用語は、連用形の表記が「さき」となる動詞です。候補は「梅の花」が主語となる四段活用の「咲く」ではないか。

第三の文「をみて」は、接続助詞「を」+上一段活用の動詞「見る」の連用形+接続助詞「て」です。

動詞「見る」の意は、「a視覚に入れる・見る・ながめる b思う・解釈する c(異性として)世話をする d(・・・の)思いをする・解釈する」などの意があります。ここでは、香を詠っているので、「a視覚に入れる等」よりも「b思う等」と理解したほうが良い、と思います。作者は類似歌を承知しているはずですから猶更です。

③ このため、「見る」と「けり」に留意し、詞書の現代語訳を改めて試みると、次のとおり。

 「庭先近くに(あるいは私の身の回り近くに)梅の花が咲いたことに感慨をもって(詠んだ歌)」(31歌詞書改訳(試案))

④ 次に、歌本文を再考します。歌本文は幾つかの文からなります。

第一 やどちかく :作者が行動する場所を限定している。

第二 むめのはなうゑじ :作者が特定の行動をする決意を記す

第三 あぢきなく :作者の感慨を記す 

第四 まつ人のかに :作者の特定の行動に関するキーポイントを記す

第五 あやまたれけり :作者がこのような行動する理由を記す

⑤ 第一の文にある「やど」とは、「a住んでいる所 (庭を含めて)家 b家の戸口・家や屋敷 c泊まるところ」(『例解古語辞典』)の意があります。梅の香を詠っているので、「やどちかく」とは、作者の行動範囲で「梅の香が届くと思ってしまう空間」がイメージにある、と思います。

 梅は賞玩の対象なので、屋敷地に植えられます。さらに 花が咲き始めれば梅は手折って花鉢などに活けて室内にも置かれたと思います。

⑥ 第二の文にある動詞「うう」は「植う」であり「(根付くように)植える」意(同上)とありますが、前回(ブログ2018/10/9付け「6.⑤」)で指摘したように、『古今和歌集』や『後撰和歌集』の用例では、地面に直接植えるほかに、鉢や州浜台を利用するとか、折った花を活けるとか、そばに植物を置く意ととってもよい場面に用いられています。

 また、助動詞「じ」は、作者自身の行動について用いられているので、推量ではなく作者の意志を表しています。

⑦ 第三の文にある「あじきなく」とは、五句「あやまたれけり」を修飾します。「不快である。にがにがしい」の意です。

⑧ 第四の文にある「まつ人」には、前回指摘したように2案あります。

第一 「待つ人」 :一般的な表記である 

第二 「魔つ人」 :「庭つ鳥」、「夕つ方」の「つ」を用いた例外的な表記である

「魔つ人」とは、「仏教でいう魔王のような人」の意です。仏教では、人の善行をさまたげるもので自分の内心からではない外部からの働き掛けをするものを魔と称しその王を魔王と称しているそうです。

 魔王が主(あるじ)となっている天(世界)とは、欲界の第六天である他化自在天です。他化自在天とは、「他の神々がつくりだした対象についても自在に楽しみを受けるのでこのように名付けた天(世界)」です(『仏教大辞典』中村元)。

魔は「仏教語であって仏教修行の妨げをする悪神」(同上)の意であり、だから当時も目的達成の邪魔をする者を意味することばとなっていたのでしょう。

⑨ 詞書に、この歌で「まつ人」の意がどちらであるかを推測する手掛かりはありません。『猿丸集』の配列にヒントを求めたい、と思います。

 詞書について、この歌の前後を確認すると、3-4-19歌~3-4-26歌は、「第五の歌群 逆境の歌群」とくくった歌であり、作者は恋の相手に逢えない状況下での作詠でした。そして3-4-27歌以下を下表に示します。

 下表の詞書は、それぞれの歌本文をみると、みな、作者にとって芳しからぬ推移をたどっている恋を想像しておかしくない表現です(3-4-31歌は保留)。

 これから推測するに、この歌も作者の恋が芳しからぬ進行をしている最中の歌ではな

いか。だから、この歌の「まつ人」は、「待つ人」でも「魔つ人」でも可能性はあります。

表 猿丸集第31歌前後の詞書7題の現代語訳(試案)一覧    (2024/3/11現在)

詞書のある歌番号など

詞書

同左の現代語訳(試案)

その詞書のもとにある歌の趣旨

備考

3-4-27歌

ものへゆきけるみちに、きりのたちわたりける

「あるところへ行く途中において、霧が立ち込めているのであった(それを詠んだ歌)」 

恋の相手ではなく、妨げる人などへ示した歌か

ブログ2024/1/29付けより

3-4-28歌

物へゆきけるみちに、ひぐらしのなきけるをききて 

「あるところへ陸路行く途中において、ヒグラシが鳴きだしたのであった(あのときのヒグラシをも思い出し)、聞きつつ(詠んだ歌)」 

恋の相手とは少なくとも縁遠くなってしまっているものの諦めきれない気持ちがある男の歌

ブログ2024/2/5付け

3-4-29歌&3-4-30歌

あひしれりける女、ひさしくなかたえておとづれたりけるによみてやりける 

「昵懇の仲であったところの女が、暫く途絶えて後に男が訪れたのだが、この歌を詠んで逃したということだ。」

29歌:女の事情を訴えた歌

30歌:今でも相手の意に従うことを婉曲に伝えた歌

ブログ2024/3/4付けより

3-4-31歌

まへちかき梅の花のさきたりけるを見て

今回検討中

 

 

3-4-32歌

やまでらにまかりけるに、さくらのさきけるを見てよめる

「山寺に行ったのだけれど、簀(さく)などの先(高欄)を蹴るのを見ることになり詠んだ(歌)」 」山寺での飲食の席で酔っ払った男をはげましている歌

山寺での飲食の席で酔っ払った男をはげましている歌

ブログ2018/10/15付け

3-4-33歌

あめのふりける日、やへやまぶきををりて人のがりやるとてよめる

「雨が降っていた日に、(八重山吹のようなことになり)山吹襲を折って、ある人を(その場から)逃げさせる、と(その人に)言って詠んだ(歌)」

心ならずも別れることになった際の恋歌

ブログ2018/10/22付けより

3-4-34歌

山吹の花を見て

「山吹の花を見て(詠んだ歌)」

女が、1-1-139歌を踏まえて男にお出でを乞う歌

ブログ2018/10/29付けより

  

⑩ また、この表の歌は、配列から想定した歌群の「第六 逆境深まる歌群(3-4-27歌~3-4-28歌 2首 詞書2題)」、「第七 乗り越える歌群(3-4-29歌~3-4-32歌 4首 詞書3題)」、及び「第八 第八 もどかしい進展の歌群(3-4-33歌~3-4-36歌 4首 詞書4題)の歌です。

 再考している3-4-31歌は、第七の歌群にあり、「まつ人」の意は「待つ人」でも「魔つ人」でも可能、と言えます。

⑪ そして、『猿丸集』歌を今再確認中ですが、第30歌までは類似歌があり、その歌意は『猿丸集』歌とは異なる恋の歌となっていました。これから再考予定の3-4-32歌以降にも諸氏の指摘するようにみな類似歌があり、前回(2018年のブログ)の検討では、みな歌意が異なっていました。歌意が異なるのは、同音異義の語句によっている場合が多くあり、この歌(3-4-31歌)も、「まつ人」に2意あるのでそれにより歌意が異なる可能性は大変高い、と言えます。

 だから類似歌での「まつ人」が「待つ人」であれば、この歌でのそれは「魔つ人」ではないか。

 このように、編纂者の方針とも思える配列の傾向とこれまでの『猿丸集』歌と類似歌の関係、及び「まつ人」に2案の理解しかないことから、この歌の「まつ人」とは「魔つ人」である、と思います。

⑫ 次に、第四の文にある「か」は、「香」であり、常時官人などが衣服に焚き染めていたり、几帳などで区画した自分の居所に香をくゆらしたりしている香りのことです。 優れた消臭剤が無い時代であり、生活するうえでも重宝していたものだそうです。良い香の材料入手は、原則的に生活レベルに比例します。

 そのような薫物(たきもの)はオリジナルなものが尊ばれていたそうで、そうした薫物は、個人を特定しさらにその個人が今居る場所をも特定できる手段になっています。

 香料を調合し蜂蜜や梅の果肉などと煉り合せた練香が平安時代には主流であり、後世に引き継がれた代表的なものに六種薫物(むくさのたきもの)があります。その一つに「梅花」という薫物があり、「むめの花の香に似たり」と評されています(付記2.参照)。

⑬ だから、第四の文にある「まつ人のか」は、梅の花の香に近いものだったのでしょう。

 しかし、一般的なこととして言えば、『猿丸集』編纂の時代には、微妙に異なった薫物を各人が用い、その香を識別していたのが有力官人とその周囲の官人(と家族と使用人)です。だから、梅の花の香に似た薫物の香であっても特徴的な香を付けた人が作者に近づいてきたら、「魔つ人」か「待つ人」かは判り、「待つ人」ならばさらに最後に逢った時点をも思い出させることになるのでしょう。

 つまり梅の香と薫物の香は似て非なるものであって異なっている、と理解できるのですが、次にある第五の文は、そのへんのところは端折っています。

 「梅の香」も微妙な差異は環境によってあるでしょうが、「梅の香」は全く「まつ人」の(着衣などの)香であると同一視しているかの文です。

⑭ そのため、この歌は、詞書にあるように「梅の花のさきたりけり」と、まさに目撃して作詠されたものであり、梅の香が匂ってきたのを自覚して作詠されたものではない、と推測できます。

 男女の仲であれば、「待つ人」が、当時事前に連絡をよこさず訪れることはないので、侍女からの到着という情報があるはずですから、単に身近に匂ってきた梅の香を、「待つ人」の香と錯覚するのはあり得ないことと推測します。

 だから、作詠の動機は、「まつ人」への作者の思いであり、目にした景物(梅の花)によせてそれを表明したのがこの歌です。「まつ人」へこの歌をおくり、作者の思いを伝えている、と思います。

 その思いは、「待つ人」であれば、「いつお出でいただけるか」という質問であり、「魔つ人」であれば、「まだ妨げるの。もうやめて」というお願いでしょうか(「魔つ人」に通じたかどうかはわかりませんが)。それが暗喩されているのではないか。

⑮ 第五の文にある「あやまたれけり」とは、仮定した臭覚情報に基づいて推測した人物への言及です。

「あやまたれけり」とは、四段活用の動詞「過つ・誤つ」の未然形+自発・可能の助動詞「る」の連用形+助動詞「けり」の終止形、です。

 「けり」は、詠嘆の気持ちをこめて回想する意ではないか。

⑯ 以上の検討を踏まえて、この歌の現代語訳を改めて試みると、次のとおり。

 「屋敷内に、咲いている梅は置くまい。にがにがしいことに、仏道修行を妨げる第六天魔王のような人が用いている香に勘違いさせられてしまったから。」(31歌本文改訳(試案))

 「魔つ人」は身近な人ではないか。作者の家族の一員が候補となり得ます。また、作者は男女の何れも想定できます。

 ちなみに、「待つ人」であるならば、次のとおり。

 「屋敷内に、咲いている梅は置くのを止めよう。つまらないことに、訪れを待つ人の袖の香に勘違いさせられてしまったから。」

 この場合、「待つ人」は、男であり、作者は女となります。

4.再考 1-1-34歌 

① 類似歌1-1-34歌は、『古今和歌集』巻一「春歌上」にあります。「恋」の部立てにある歌ではありません。

 その詞書は「題しらず よみ人しらず」であり、歌本文の歌意は配列からの制約があるだけです。

 「春歌上」での配列をブログ2018/10/1付けと同2018/10/9付けで検討し、次の点を指摘しました。

第一 『古今和歌集』の編纂者は、現代の季語に相当する語とその語の状況を細分して歌群を設け、歌群単位で時節の進行を示すよう、歌を並べている。

第二 この歌は「香る梅の歌群(1-1-32歌~1-1-48歌)」にある。

第三 この歌群の歌は、梅の香の袖への移り香に鶯が寄ってきて鳴くと詠う歌に始まり、(あの人の)思い出として梅の香は袖に残れと詠う歌で終わる。袖の香を多数詠っている。袖とは、親しくしている人を象徴しており、袖の香とは、衣服に香をたきしめる官人の生活が前提となる。

第四 (歌に詠む)梅の香は、男女の仲にある相手を意識させるものと理解している。

第五 『古今和歌集』の歌では、梅の品種による香の微妙な違いを詠っている歌はない。着衣などにたき込める香りについても同じである。

② そして、1-1-34歌について、次のように理解しました。

第一 作者にとって待ち人来たらずの状況での歌である。

第二 『古今和歌集』の春歌としては、挨拶歌のほか梅の花の香を競詠しているかに仕立てた題詠歌の例として配列している可能性がある。歌群の成り立ちを思うと、題詠の歌の一群として楽しむようにという、編纂者の意図であるように理解できる。

③ 部立て「春歌上」の配列について再考します。

古今和歌集』の編纂者は、歌集のために集録した対象を定義しています。

仮名序の冒頭にあります。

 「やまとうたは、人のこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。世の中にあるひと、ことわざしげきものなれば、心におもふことを見るものきくものにつけていひだせるなり。」(藤原定家筆伊達本を底本とした講談社学術文庫古今和歌集』(久曾神昇氏訳注)の本文より)

 久曾神氏は、修辞的には「人の心を植物の種にたとえ、歌を芽ばえた葉になぞらえて言の葉と言っている」と指摘し、構文的には、「(から歌(漢詩)ではない大和歌は)人のこころをたねとして言の葉となれりける」だけでよい」し、「よろづの」は次の文にかかり、「ことわざしげきものなれば言ひだせる言の葉よろづとぞなれりけるなり」となるべきである」と指摘しています。

 つまり、漢詩とは別の定義をして、「和歌(短歌も長歌も旋頭歌も)は、人の心を種として、心に思うことを、見る物、聞く物につけて言い出したもの」と仮名序は言っていると理解できます。

④ では、部立ては、何を分類したものか。「見る物、聞く物」を分類しているのではないか。

 四季のほかは人事を細別し、賀歌、羈旅歌、物名、恋歌、哀傷歌、雑歌、雑体、大歌所御歌としている、と理解できます。(久曾神氏は、序を除く歌集部分の構成を論じて、短歌について題材によって自然と人事に二分し、人事は、恋と雜とに細分しています。)

 四季に対して「心に思うこと」は、その時季への期待、よろこび及び悲しみ、並びに人事と結びつく時季があるので時季の行事参加や昇進などへの期待、などいろいろあります。

⑤ 片桐洋一氏は、次のように指摘しています。

第一 古今集仮名序の冒頭の文は、『古今集』の和歌が、正岡子規以降の近代和歌と異なることを過不足なく説明している。

第二 『古今集』の和歌が、「見る物」「聞く物」という外界に存在する事物をそのまま言葉にするのではなく、「心に思ふこと」すなわち「内なる情(おもひ)」を、外界の事物に託して表現するものであったことが知られる。

第三 このような詠法は、「譬喩歌」「寄物陳思歌」という形で『萬葉集』に存在している。

(以上は『古今集新古今集の方法』(2004 笠間書院)の論考「『古今集』表現と『萬葉集』より) 

第四 和歌によまれる対象は、あくまで「人のこころ」を抒べるにあたって託されたものに過ぎないのであって、『古今和歌集』の和歌は徹底した抒情文学としての性格を持っている。

第五 『古今和歌集』の和歌は、盛りを待ち望む心、衰え移ろいゆくのを惜しむ心を「見るもの、聞くものに抒けて」抒情したものであって、「見るもの、聞くもの」を、その在るがままに写生する類の歌でないことはあまりにも明らかなのである。 

第六 四季の歌は、「待つ心」と「惜しむ心」に終始している。羈旅歌、恋歌でもおなじ。(以上は笠間文庫『原文&現代語訳シリーズ 古今和歌集』(2005)より これは氏の『全対訳 日本古典新書』(1980)の改訂版)

⑤ 部立て「春歌上」の歌を通覧すると、「見る物。聞くもの」は、現代の季語に相当する語句に近い立春、雪、梅などをベースにした景です。

 そして、「心に思うこと」としては、片桐氏に従えば部立て「春歌」であれば、春という季節を「待つ心」と「惜しむ心」とになります。人事の相手を思うことは二の次である部立てです。

「待つ心」は、「見る物。聞くもの」の到来を期待する気持ちとそれに接する喜びの気持ちがある、と思えます。

⑥ 私が想定した「香る梅の歌群」でみれば、最初の歌1-1-32歌において梅は既に咲いており(但し歌を詠む景には登場していません)、梅(の花)に接した喜びを詠っている、と理解できます。以下もすべて「こころに思うこと」は、接した喜びあるいは残念におもうことであり、それを詠っています。

 「見る物。聞くもの」の類を、各歌にみると、次のとおり。

1-1-32歌は、折った梅の花の香。作者の袖に梅の花の移り香があること

1-1-33歌は、折った梅の花の香。梅の花の香は高貴な方が着衣に染めている香に劣らぬこと  

1-1-34歌は、折った梅の花の香。「まつ人」の香は梅の花の香に極々近いこと

1-1-35歌は、折った梅の花の香。梅の花の香は好まれていること

1-1-36歌~1-1-38歌は、折った梅の花(詳細割愛)

1-1-39歌~1-1-41歌は、夜の梅の花(詳細割愛)

1-1-42歌は、故郷の梅の花の香(詳細割愛)

1-1-43歌~1-1-44歌は、水辺の梅の花(詳細割愛)

1-1-45歌~1-1-38歌は、花散る梅(詳細割愛)

 

⑦ この配列をみると、「まつ人」は、「待つ人」の意で用い、「魔つ人」の意では用いていない、と断言できます。

また、「植う」は、「植物をある場所に据える」意で用いられています。

⑦ 助動詞「けり」に留意し、現代語訳を改めて試みると、上記「3.⑬」の「待つ人」の(試案)となります。再掲します。

 「屋敷内に、咲いている梅は置くのを止めよう。つまらないことに、訪れを待つ人の袖の香に勘違いさせられてしまったから。」(1-1-34歌改訳(試案))

 この歌の元資料は、その「待つ人」におくった歌であるかも知れませんが、部立て「春歌上」に配列されるにあたり、詞書は「題しらず よみ人しらず」となり、歌本文は、折角咲かせた梅を身の回りから排除するという非現実的なことを詠うことで、梅の花を愛でている歌である、と思います。

⑧ 前回(ブログ2018/10/9付け)では、このような考察を省いて、「梅の香に寄せての歌として春歌の部立に配列されていますが、別の部立の歌であってもおかしくない歌もあります」と指摘しましたが、それは、

 編纂者が集録した(『古今和歌集』の元資料に相当する)歌を対象とした指摘でした。

 また、『古今和歌集』の春歌として、「梅の花の香を競詠しているかに仕立てた題詠歌の例として配列している可能性がある」との指摘は、「見る物聞く物」の一例を「梅の花の香」として集めているのでそのような理解も有り得る、と思います。

 なお、『猿丸集』歌の類似歌として『古今和歌集』の歌は、3-4-3歌の類似歌1-1-711歌や、3-4-28歌の類似歌1-1-204歌などがすでにありました。これらについて、今回のような確認は後日行います。

5.再考 3-4-31歌は恋の歌か、

① 今回の上記「3.⑯」の「魔つ人」での現代語訳(試案)のように理解した3-4-31歌が、「恋の歌」(付記1.参照)であるかを、確認します。

 前回は、「この歌は、待ち人との間にたち邪魔しようとする人をきらった女の歌であり、類似歌は待ち人にそれでも期待をまだかけている女の歌」と指摘しました(ブログ2018/10/9付け「9」)。

 今回の再考により、この歌は、「魔つ人」に、干渉あるいは過度の関心を止めてほしいというお願いをする歌となりました。それは 「成人男女の仲」に関わることを詠んだ歌という理解を可能とします。

 そして、類似歌は、春になり梅の花を見てその香を楽しめる喜びを詠った歌となりました。恋の歌ではありません。そのため、再考した結果も、この歌は、類似歌との歌意が前回同様異なりました。

 このように、要件の第一と第二(付記1.参照)はクリアします。

② 要件の第三は、その歌集において配列上違和感のないことですが、「第七 乗り越える歌群(4首 詞書3題)」を統一的に判断したいと思いますので、今回は保留します。

 要件の第四は、いまのところ該当がありません。

ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただきありがとうございます。

 次回は第32歌を再考します。

(2024/3/11  上村 朋)

付記1.恋の歌の定義について

① 恋の当事者の歌に限らなくとも、広く「恋の心によせる歌」から『猿丸集』は成っており、その広く「恋の心によせる歌」を、「恋の歌」と名付け、ブログ2020/7/6付け「1.及び2.」で定義している。

② 『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義している。

第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと

第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと

 

付記2.薫物(たきもの)について

第一 淡路島にある梅薫堂のHPによれば、後世に引き継がれ洗練されていった薫物の代表格に六種薫物(むくさのたきもの)がある。「梅花(ばいか)」、「荷葉(かよう)」、「侍従(じじゅう)」、「菊花(きっか)」、「落葉(らくよう)」、及び「黒方(くろぼう)」である。季節があてられ「梅花」は春である。

第二 『枕草子』の「心ときめきするもの」の段に次のようにある。

「雀のこかひ ちごあそばするところのまへわたる よきたきものたきて ひとり伏したる 唐鏡の・・・ かしらあらひ 化粧じて かうばしうしみたるきぬきたる ことに見る人なきところにても こころうちはなほいとおをかし 待人の・・・」

(概要:雀の子を飼う 牛車を遊んでいる目の前を通過する 良い薫物を(室内に)たき・・・ 髪の毛を洗い化粧をして香をよくしみ込ませた衣服を着る 殊に見る人のいない所でも心の中は「いとをかし」 ・・・)

このような視覚、嗅覚、聴覚の例示は、照明の不十分な状況下での生活と女性の活動範囲の限定を彷彿とさせる。

第三 香に、におい消しの効用を期待して官人は用いていた。

女性は長い髪の毛の手入れの一環として香木を焚いて香りを付けていたそうである。

第四 『源氏物語』には、衣にたきしめる香で、100歩離れた遠方まで香る香(百歩香)の描写がある。

 (付記 終わり 2024/3/11  上村 朋 )