わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 歌本文の寧楽

 前回(2021/11/22)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 題詞の寧楽」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 歌本文の寧楽」と題して、記します。(上村 朋)(2021/12/25追記  本文「13.⑪」の引用誤りや付記の表F一部追記等する) 

1.~12.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行い、3-4-23歌まではすべて恋の歌であることを確認した。3-4-24歌については類似歌(『萬葉集』の歌)の検討のため『萬葉集』巻一と巻二の標目「寧楽宮」を検討している。なお、歌は『新編国歌大観』より引用する。)

13.再考 類似歌 その10 「寧楽」の歌本文での用例 その1

① 類似歌2-1-439歌の重要な参考歌(2-1-228歌)の理解のため、『萬葉集』歌での「寧楽宮」表記の意を確認中です。

 今回は、歌本文に「寧楽」とある歌を改めて検討します。「寧楽」表記は7首7例あります。なお、ひろく(『新編国歌大観』において)「なら」と訓んでいる表記(寧楽、平城、奈良、平、楢など)の用例は、53首に54例あり、付記1.の表Fに示します。

 表Fは、配列と題詞に留意して検討した歌意に従い推測した作詠時点も記載しています。2-1-29イは歌の一部ですが、1首とカウントして整理してあります。

② 歌本文に「寧楽」と表記のある歌は、題詞での「寧楽」表記の検討の際に5首ほど検討しています。あと2首ありますので、(当然配列とその題詞に留意し)検討します。

 2-1-331歌:用例は「寧楽乃京師」  

 2-1-1553:用例は「寧楽人」 

③ 「寧楽乃京師」という表記のある、2-1-1048歌と2-1-1608歌は、2-1-1048歌の題詞にある「寧楽」の用例とともに検討(2021/11/22付けブログ)しました。

 巻三 雑歌 2-1-331歌 大宰少貳小野老朝臣歌一首

   青丹吉 寧楽乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有

   あをによし ならのみやこは さくはなの にほふがごとく いまさかりなり

 吉村誠氏は、「五句「今盛有」と、今をほめることによって最高の讃美とする」、と指摘し、「奈良の都は咲く花の照り輝くように今を盛りとしている」と大意を示しています。

 この歌の前後の配列をみると、土屋氏が指摘するように、「大宰府にあって、遥かに奈良(平城京)の盛観をしのび幾分の憧憬を交へての作」とみてよい、と思います。

 2-1-334歌の検討時(2021/11/15付けブログ)に、「巻三の配列をみると、2-1-331歌から2-1-354歌までの作者は、旅人が大宰帥のとき九州を任地としていたと思える人物であり、歌群を形成させて巻三編纂者は配列している、と言えます。」と指摘しました。その歌群の筆頭歌がこの歌です。

 「寧楽乃京師」は、平城京を指しますが、熟語の「寧楽」の意を重視して望郷の気持ちを表すために「寧楽乃京師」を選び、「平城乃京師」とか「奈良乃京師」を選んでいないのではないか。吉村氏の指摘するような平城京を賛美している理解でも、「寧楽乃京師」がベストの表記である、と思います。

④ この歌は、初句「あをによし」が「なら」を修飾しています。2-1-80歌も「あをによし」が「なら」を修飾しており、その検討のとき、「(完成した「ならのいへ」に対する)「あをによし」という語句の褒める意・讃える意は、「よい材料が取れる」意から「青丹吉」の「青」と「丹」は色彩を指すものに転じて、中国様式の建物が並ぶはずの「ならのみや」の誉め言葉に替えたのではないか。」と指摘しました(ブログ2021/11/1付け「9.③」参照)。

 この歌での「あほによし」は、まさに「青」と「丹」という万葉仮名は、色彩を意識した使い方といえます(「よ」と「し」は、ともに感動・詠嘆を表す間投助詞)。作詠時点は、大伴旅人が大宰師である時なので、天平元年(729)頃と推測しました。旅人作の2-2-334歌の作詠時点と同じです(付記1.表F参照)。

 2-1-80歌は遷都(710)前後が作詠時点と推測できますので、都に居た旅人は2-1-80歌を知り得たでしょう。平城遷都の計画が浮かんできたころから「平城京」に対して「寧楽乃京師」と書き留めることがあったのなら、当然大伴旅人は知っており、この歌が「寧楽乃京師」の初例ではないことになります。

⑤ 次に、2-1-1553歌を検討します。

 巻八 秋雑歌 2-1-1553歌  

   典鋳正紀朝臣鹿人至衛門大尉大伴宿祢稲公跡見庄作歌一首

     射目立而 跡見乃岳辺之 瞿麦花 総手折 吾者将去 寧楽人之為

     いめたてて とみのをかへの なでしこのはな ふさたおり 

     われはもちゆく ならひとのため

 歌本文の大意を、土屋氏は、初句を「跡見」にかかる枕詞、四句を「われはもちゆかむ」と訓み、

 「跡見の岡べの撫子の花をば、多く手折って吾は持って行かう、奈良人のために。」

と示しています。

 最初に、巻八の秋雑歌の配列を確認します。2-1-1538歌を検討した際、一度行いました(ブログ2018/4/9付け)が、改めて検討しました。なお、諸氏は年代順に配列されていると指摘しています。

 年代順であっても、そのなかで秋の景での配列を確認したところ、秋雑歌95首は秋の景などによる歌群の設定がある、と認めてもよいようです(付記2.参照)。また、筆頭歌は岡本天皇御製歌(舒明天皇の歌)であり、四季の雑歌の筆頭歌を比較すると、類似歌2-1-439歌とその重要な参考歌(2-1-228歌)との関係の検討の参考となると思える類似の事がらがありました。付記2.に特記しておきます。

⑥ この歌の前後の歌群は次のようなものです。

 天皇御製の雁の歌から、露と紅葉を詠う歌までの歌群(2-1-1543歌~2-1-1547歌)

 (初秋の)七夕歌から、三笠山のもみぢが散りゆくと詠う歌までの歌群(2-1-1548歌~2-1-1558歌)

 秋立つと詠う歌から、雁を詠う歌(もみぢを詠う4首の前の歌)までの歌群(2-1-1559~2-1-1571歌)

 2-1-1553歌は、「(初秋の)七夕歌から・・・」の歌群にあることになります。

秋雑歌のなかで、なでしこの花を歌本文に詠うのは2-1-1542歌(秋の七草を詠み込んでいる憶良の歌)とこの歌だけです。また、花を詠う歌で、歌本文には単に「はな」とあるのが、2-1-1552歌1首で、花は題詞に明記されているハギです。

 配列から言えるのは、景の順序の理由を不問とすると、ハギを詠む歌に挟まれて配列されているこの2-1-1553歌の前後の歌との関連性が気になる、ということぐらいです。

⑦ 題詞について、検討します。

 作者名ともう一人作者が「至った」という庄の持ち主の役職が題詞に明記してありますが、それらの役職の在任期間がかみ合っていません。

 土屋氏は、紀鹿人の「典鋳正(いもののかみ)は正六位相当職であり、天平9年従五位下になって天平9年12月に主殿頭になっているから、それ以前の作」だが、大伴稲公の「衛門大尉は、従六位下相当の官職。正六位下の官職兵庫助に天平2年にはついていたので、これからは天平2年以前の作」となり、「律令の定めの如く契合しない場合が少なくないので、作詠時点は、大まかに天平の時代か」、という推測をしています。そうすると、歌本文の五句にある「寧楽(人)」は平城京をさしていることになります。

 秋雑歌の詞書は、作者A(の嘱目B)の歌、あるいは作者Aがある場所Cにいて作った歌というパターンがほとんどで、登場人物が2人となり官職が明記されているのはこの2-1-1553歌だけです。何か理由があって編纂者はこのように作文しているのでしょう。

⑧ とりあえず、題詞の現代語訳を試みると、次のとおり。

「典鋳正(役職名)紀朝臣鹿人が衛門大尉(役職名)大伴宿祢稲公の跡見庄(とみのたどころ)に至って作る歌一首」

 跡見庄とは、奈良県桜井市外山付近(三輪山の麓)が所在地ではないかと言われる大伴氏の庄です。郊外の農園というところのようです。「跡見」とは地名ですが、もともとは、狩猟の際、獲物の跡を見て居場所を突き止める役の者を言います。

 大伴坂上郎女は、跡見のことを「ふるさと」とも詠んでいますので、女子や子供には別宅のような気安さで来られる場所であったのでしょう。

⑨ 次に歌本文を検討します。

 初句「射目立而」の「射目」とは、狩猟の際、射手が獲物を射るときの姿を隠す柴などの遮蔽物をいうそうです(聖武天皇の吉野行幸時の赤人歌2-1-931歌参照)。

狩猟とは獲物の居る狩場において、射手が待つところへ獲物を追い込ませて成立するもののようです。

 初句「射目立而」とは、柴などを立てまわしたりして遮蔽物が出来上がっていることを言っている、と理解できますので、三句にある「瞿麦花」(なでしこのはな)の周辺状況の比喩ではないか。

 三句「なでしこのはな」の「なでしこ」は、「撫でし子」(かわいい子・愛する子)と同音異義の語句です。それを意識すると、作者は、「寧楽人」と特定の誰かとの縁を付けようとしているのではないか。他家の庄である跡見庄に「至」って詠んだということは、誰かに対面して訴えた席での歌ではないかと推測します。

 五句「寧楽人之為」とは、平城京に居を構えている作者自身か作者の子供を指しており、対面の目的は求婚ではないか。

 このように推測できますので、 歌本文の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 「狩場の射目のように囲ってあって、良く見える跡見にある丘にあるのに見えない「なでしこの花」。それを、是非手折って私は持ってゆく、奈良の都に居る人のために。」

 決意表明をしている歌、と理解しました。

⑩ この歌の前後の配列との整合を確認します。

七夕歌が2-1-1550歌で終わり、2-1-1551歌は、作者名のみの題詞で、土屋氏は「さほ鹿の置いた白露であるから、人は手に巻くことなど思ふなかれ」の意の歌であると指摘している旋頭歌です。

恋の歌とみれば、白露(を贈ろうしている相手)に手をだすな、と詠っている歌です。その次に2-1-1552歌が配列されています。

 2-1-1552歌 大伴坂上郎女晩芽子歌一首

     咲花毛 乎曽呂波猒 奥手有 長意尓 尚不如家里

     さくはなも をそろはいとはし おくてなる ながきこころに

     なほしかずけり

 題詞の現代語訳を試みると、「大伴坂上郎女のおそ咲きのハギに関する歌一首」となります。

 土屋氏は、二句を「をそろはうとし」と訓み、

 「咲く花も真実のないのはうとましい。遅く実のなる花の、長くつづく心には、やはり及ばない。」

という大意を示しています。

 二句にある「乎曽呂」には軽率の意との説(武田博士)もあるそうです。

 「見栄えより実が成るかどうかが重要なのです(お話は聞けません)」という歌と理解できるので、2-1-1553歌の上記の現代語訳(試案)は、それでもお願いする歌と理解できます。この2-1-1552歌の題詞にいうハギは、相手を暗喩し、2-1-1553歌の「なでしこ」は大伴家の女性の暗喩ではないか。

 他家の庄である跡見庄に「至」って詠んだ理由の詮索が過ぎるでしょうか。この理解には、2-1-1552歌を土屋氏が「全体は常識的で、教訓歌の匂いさへある」と言っているのもヒントになったところです。

 だから作詠時点は、土屋氏と同様に天平年間か、という程度の推測となります。

⑪ 次に、その次の歌2-1-1554歌との関係を確認します。

2-1-1554歌  湯原王鳴鹿歌一首

    秋芽之 落乃乱尓 呼立而 鳴奈流鹿之 音遥者

    あきはぎの ちりのまがひに よびたてて なくなるしかの こゑのはるけさ

 この歌は、ハギが散り乱れるほど咲いているのに、(近くに来ないで)遠くで鹿が鳴いている、と第三者の立場で詠っています。

 2-1-1553歌で決意を披歴しても近づけないでいるではないか、と揶揄している、とも取れます。

 さらに次の歌2-1-1555歌は、「市原王歌一首」と、作者名のみの題詞で紅葉の歌です。

 このように、2-1-1551(1550歌は誤り(2021/12/25訂正))~2-1-1554歌は小歌群とみなしても、上記の2-1-1553の現代語訳(試案)は小歌群の中の歌という理解が可能であろう、と思います。

⑫ 以上で歌本文にある「寧楽」の用例7例全ての検討が終わりました。「寧楽」の意味別にまた『萬葉集』の概略の巻に整理してみると、次の表のようになります。

 熟語の「寧楽」の意を加えた用例には、「寧楽」の意に「+α」があるとして「寧楽」とは別の意であるとして整理しました。

例えば2-1-1048歌は、前回のブログ(2021/11/22付け)の「12.⑥」で記したように、「+α」の用例です。2-1-1608歌は、「12.⑮」で記したように「+α」の用例ではない、と整理できます。

 平城京遷都(710)前後の歌2-1-80歌にある「寧楽乃家」が「寧楽」の最初の用例となりました。「あほによし」という語句が掛かっている用例です。そして熟語「寧楽」の意が加わっている用例でした。

 

表 『萬葉集』歌本文にある「寧楽」の意別巻別一覧(作詠時点の推計あり) (2021/11/29 現在)

「寧楽」の意味

巻一と巻二の歌

巻三と巻四の歌

巻五以降の歌

平城宮相当+α(1例)

(青丹吉)寧楽乃家尓者2-1-80(作者未詳) 平城京遷都(710)前後

 

 

平城京+α(3例)

 

(青丹吉)寧楽乃京師者2-1-331(小野老作)天平元年(729)頃

寧楽京乎2-1-334(帥大伴卿作)天平2以前

寧楽乃京師尓2-1-1048 (「作者不審」)天平12以降

 

奈良山丘陵の峠 (1例)

 

寧楽乃手祭尓2-1-303(長屋王) 没年729前

 

平城京

 (2例)

 

 

寧楽人之為2-1-1553 (紀朝臣鹿人作)天平年間

寧楽乃京師乃2-1-1608 (大原真人作) 天平15以降

計(7例)

1例

3例

3例

注1)歌は、『新編国歌大観』の巻数―当該巻の歌集番号―当該歌集の歌番号で示す。

注2)付記1.の表Fより作成。

注3)「+α」とは、熟語「寧楽」の意が加わっている意。

 

⑬ 「寧楽」という語句を用いた「寧楽山」とか「寧楽乃山」とかの表記で奈良山丘陵をさす例は、ありませんでした。「平山」から「寧楽(山)」という発想が生まれていない、と推測します。

 2-1-303歌の用例は、峠を意味します。平城京(甍を葺いた大極殿五重塔など)を望める最後の地点です。作者の活躍時期を考慮すれば作詠時点は少なくとも平城京遷都(710)後と推測できますので、平城京を「ならのみやこ」と呼び「寧楽(のみやこ)」という表記が先行してあったからこそ、このように書き留めたられたのではないか、と推測します。

 いずれにしても、作詠時点から都城平城京を意味していると断定できる「寧楽乃京師」などの用例を含め、歌本文にある各種「なら」の用例との比較を要しますので、それを次回に検討したい、と思います。

「ブログわかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

(2021/11/29  上村 朋)

付記1.『萬葉集』における「寧楽」表記の用例と歌における「なら」と訓む歌について

①『萬葉集』における表記の「寧楽宮」関連の用例と訓について、『新編国歌大観』により確認した。

②『萬葉集』における(万葉仮名の)表記の訓が「なら」であって、その表記が句頭にある場合でかつそれが都城名・地名・山名と思われる歌を表Fに示す。そして「あほによし」と訓む修飾語を付記した。

③ なお、『萬葉集』における表記の「寧楽宮」の用例(表D)、「寧楽宮」以外の「寧楽」の用例(表E)は前回ブログ(2021/11/15付け)にも付記している。

表F  『萬葉集』における表記の訓が「なら」であって、その表記が句頭にある場合でかつそれが都城名・地名・山名と思われる歌一覧   

  (2021/11/29 現在) (2021/12/25追記と誤字訂正))

清濁抜きの訓

歌番号等

表記

凡その作詠時点

備考  

ならしのをかの

2-1-1510

奈良思乃岳能

恭仁京遷都(740)以後

題:大伴田村大嬢与妹坂上大嬢歌一首

〇地名:明日香にある丘の名前

ならちきかよふ

2-1-3996

(青丹吉)奈良治伎可欲布

天平19/3

大伴池主の大伴家持への返歌

平城京への道

ならちなる

2-1-871

奈良遅那留

天平2/7/10

官人吉田宜が都から山上憶良におくった返歌 〇平城京へ至る道

ならなるひとの

2-1-1205

(青丹吉)平城有人之

平城京遷都後

玉津島を詠う伝承歌。作者未詳。

平城京

ならなるひとも

2-1-1910

(青丹吉)平城之人

平城京遷都後

伝承歌。巻十の相聞歌。梅の花を詠む。(作者未詳) 〇平城京

ならにあるいもか

2-1-4131

(安乎尓与之)奈良尓安流伊毛我

天平20/5

(大伴宿祢家持作)

平城京

ならのあすかを

2-1-997

(青丹吉)平城之明日香乎

養老2年以降

題詞:大伴坂上郎女元興寺之里歌一首

元興寺は養老2年平城京左京に移った。

平城京

ならのいへには

2-1-80

(青丹吉)寧楽乃家尓者

平城京遷都前後

題詞:或本従藤原京遷于寧楽宮時歌

反歌。 左注し「右歌作主未詳」

平城宮平城京は誤り)

ならのおほちは

2-1-3750

(安乎尓与之)奈良能於保知波

天平12前後

(中臣朝臣宅守作)

平城京

ならのさとひと

2-1-2291

平城里人

平城京遷都後

伝承歌か。作者は未詳。

里とは平城京の坊里の意 〇平城京

ならのたむけに

2-1-303

寧楽乃手祭尓

没年729前

題詞:長屋王駐馬寧楽山作歌二首

〇奈良山丘陵の峠

ならのみやこし

2-1-1643

平城京

師在任中

題詞:太宰帥大伴卿冬日見雪憶京歌一首

平城京

ならのみやこに

2-1-810

 

2-1-812

 

2-1-886

2-1-1048

 

2-1-3624

 

2-1-3634

 

2-1-3698

2-1-4290

(阿遠尓与之)奈良乃美夜古尓

(阿遠尓与之)奈良乃美夜古尓

奈良乃美夜古尓

寧楽乃京師尓

 

(安乎尓余之)奈良能美夜古尓

(安乎尓与之)奈良能美也故尓

奈良能弥夜故尓

(青丹余之)奈良能京師尓

神亀5

 

神亀5

 

天平2

天平12以降

天平8

 

天平8

 

天平8

天平勝宝4

(太宰帥大伴卿作)

 

2-1-810歌の答歌(都に居る官人の作)

 

山上憶良作)

題詞:傷惜寧樂京荒墟作歌三首割注し「作者不審」 

(伝承歌。 作者は未詳) 

 

遣新羅使人の一人である大判官の作)

 

遣新羅使人で大判官以外の一人の作)

題詞:為応詔儲作歌一首幷短歌(大伴家持作)  〇全歌みな平城京

ならのみやこの

2-1-79

 

2-1-1049

 

2-1-1053

 

2-1-1608

(青丹吉)楢乃京師乃

平城京師之

 

奈良乃京之

 

寧楽乃京師乃

平城京遷都前後

天平12以降

天平12以降

天平15以降

題詞に「遷干寧楽宮」 左注し「歌作主未詳」

 

題詞に「寧楽京荒墟」 割注し「作者不審」

 

題詞に「寧楽故郷」 (大原真人作)

 

題詞:「大原真人今城傷惜寧樂故郷歌一首」

〇全歌みな平城京

ならのみやこは

2-1-331

 

2-1-1051

 

2-1-3635

2-1-3640

2-1-3941

(青丹吉)寧楽乃京師者

平城京師者

 

奈良能美也故波

奈良能美夜故波

(青丹余之)奈良能美夜古波

天平元年

天平12以降

天平8

天平8

天平16/4/5

題詞:「太宰少弐小野老朝臣歌一首」 左注に「右廿一首田辺福麻呂之歌集中出也」

題詞:「悲寧楽故郷作歌一首并短歌」(田辺福麻呂歌集中の歌)

遣新羅使人の一人)

遣新羅使人の一人)

大伴家持作)

〇全歌みな平城京

ならのみやこゆ

2-1-4269

(青丹与之)平城京師由

天平5

題詞に「天平五年・・・作主未詳」)

平城京

ならのみやこを

2-1-333

 

2-1-334

 

2-1-1050

 

2-1-1051

平城京

 

寧楽京乎

 

(青丹吉)奈良乃都乎

名良乃京矣

天平2以前

天平2以前

天平12以降

天平12以降

 

(大伴四綱作)

 

(帥大伴卿作:在任は神亀4~天平2)

 

題詞:「傷惜寧楽京荒墟作歌三首」 左注に「右廿一首田辺福麻呂之歌集中出也」

題詞:「悲寧楽故郷作歌一首并短歌」 左注に「右廿一首田辺福麻呂之歌集中出也」

〇全歌みな平城京

ならのやまなる

2-1-1642

(青丹吉)奈良乃山有

729以前

題詞に「天皇御製歌一首」(聖武天皇作)

〇奈良山丘陵 

ならのやまの

2-1-17

(青丹吉)奈良能山乃

662~667

題詞:額田王近江国時作歌井戸王即和歌(井戸王作)

〇奈良山丘陵

ならのわきへに

2-1-4002

(青丹吉)奈良乃吾家尓

天平20/3以前

題詞:述恋緒歌一首 (大伴家持作)

平城京

ならのわきへを

2-1-4072

奈良野和芸遮敝乎

天平20/3

大伴家持作)

平城京

ならひとのため

2-1-1553

寧楽人之為

天平年間

(紀朝臣鹿人作)

平城京

ならひとみむと

2-1-4247

(安乎尓与之)奈良比等美牟登

天平勝宝2/9

左注に「右一首守大伴宿祢家持作之」

平城京

ならやまこえて

2-1-29イ

 

 

2-1-3250

 

2-1-3254

(青丹吉)平山越而

 

(青丹吉)常山越而

楢山越而

藤原京遷都(694)以前

不明

 

天平終わり(土屋)

題詞に「過近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌」

 

長歌(作者未詳) 東山・北陸への出立の送迎歌

長歌(作者未詳) 東山・北陸への出立の送迎歌

〇全部みな奈良山丘陵

ならやますぎて

2-1-3251

 

2-1-3979

(緑丹吉)平山過而

(青丹余之)奈良夜麻須疑氐

不明

 

天平18/9/25

長歌(作者未詳) 伝承歌 羇旅歌

 

題詞:哀傷長逝之弟歌一首幷短歌(大伴家持作) 〇全部みな奈良山丘陵

ならやまの

2-1-596

 

2-1-1589

 

2-1-2320

2-1-2492

 

2-1-3858

楢山之

 

平山乃

 

奈良山乃

平山

 

奈良山乃

恭仁京時代

天平10/10/17不明

不明

 

神亀年間(土屋)

題:笠女郎贈大伴宿祢家持歌廿四首

 

左注に「右一首内舎人縣犬養宿祢吉男」

 

巻十雑歌 題:詠雪 伝承歌か。

左注に「(以前一百四十九首柿本朝臣人麻呂之歌集出)」

題詞:謗佞人歌一首

左注に「右歌一首博士消奈行文大夫作之」

〇全部みな奈良山丘陵

ならやまを

2-1-1592

平山乎

天平10/10/17

左注に「右一首三手代人名」

〇奈良山丘陵

ならやまをこえ

2-1-29

(青丹吉)平山乎超

藤原京遷都(694)以前

長歌 (柿本人麻呂作)

〇奈良山丘陵

ならよりいてて

2-1-3244

楢従出而

天平末期(土屋)

雑歌にある長歌 題詞は無し。奉幣使を詠う(土屋氏)。作者は未詳。〇平城宮

ならをきはなれ

2-1-4032

(安遠迮与之)奈良乎伎波奈礼

天平18/5

題:忽見入京述懐之作生別悲兮断腸万廻怨緒難禁聊奉所心一首并二絶  左注に「右大伴宿祢池主報贈和歌 五月二日」 

平城京

 54例

(53首)

寧楽: 7例

平城: 9例

奈良:26例

平山: 6例

その他: 6例

 

訓「あをによし」が掛かる「なら」は27首

内訳:寧楽: 2例

平城: 4例

奈良: 16例

平山: 3例

その他: 2例

注1)歌は『新編国歌大観』による。「巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での番号」で示す。

注2)2-1-29歌は、歌本文と一部異伝の2-1-29イを一首の歌として作表している。同一カ所の言い換えの部分に用例があるので、2首各1例という扱いをしている。

注3)2-1-1051歌には「なら」の用例が2例ある。

注4)「凡その作詠時点」欄の「(土屋)」とは、土屋文明氏の意見(『萬葉集私注』)に依り判定した意である。

注5)ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」で2021/11/22付けまでに検討した歌は、その結果より題詞に留意した歌意を採用して、作詠時点の推計をしている。

注6)作詠時点を不明と推測した歌は、すべて、「ならやま」と訓む歌である(計4首)。

注7)2-1-2291歌は、歌本文の「平城里人」が、「明日香人」となった元資料があったとすれば、その伝承歌を平城遷都後に利用した異伝歌ともいえる歌である。そうでない歌であっても歌本文に「平城」表記をしているので、作詠時点は、平城遷都(710)後となる。作者と「平城里人」は官人かその家族ならば共に都が居住地であり、近くに居るのに訪問してこない相手への歌と理解できる。

注8)2-1-17歌は、近江遷都(667)に従い居住を移す際の歌である。(2021/12/25追加)

注9)「あをによし」と訓む修飾語を「表記」欄に付記した(計27首)。

   

付記2.『萬葉集』巻八の部立て「秋雑歌」の配列について

① 『萬葉集』巻八の部立て「秋雑歌」にある95首について、詠う景などから配列を検討した結果、下記の表に示すように、歌群を認めた。

② この歌群は、諸氏の指摘する年次順のもとで、その下位の配列方針と思われる。皇族歌の歌群を除き、繰り返し立秋から立冬にむかう景が登場する歌を配列している。

表 万葉集巻八「秋雑歌」の歌群推定 (2021/11/29現在)

歌群番号

当該歌群の歌番号

内容

 1

2-1-1515~2-1-1521

皇族歌:岡本天皇長屋王

 2

2-1-1522~2-1-1538

七夕歌~をみなへし・あきはぎを詠う

 3

2-1-1539~2-1-1542

「秋風ふく」歌~憶良の秋野花歌2首

 4

2-1-1543~2-1-1547

天皇御製歌2首(雁を詠う)~露といろづく山の歌

 5

2-1-1548~2-1-1558

七夕歌~三笠山のもみぢばの散る歌

 6

2-1-1559~2-1-1571

秋立つ歌~雁の歌

 7

2-1-1572~2-1-1584

春日山のもみぢ葉の歌~鹿と秋萩の歌

 8

2-1-1585~2-1-1595

もみぢ葉を詠う歌のみ

 9

2-1-1596~2-1-1604

秋の田の歌~秋萩が盛り過ぎゆくと詠う歌

 10

2-1-1605~2-1-1609

はなすすきを詠う歌~秋萩と暁の露を詠う歌

 

③ 最初に、皇族方の歌のみからなる小歌群を置いている。

④ 四季の雑歌(春雑歌~冬雑歌)の部立てにおいて、筆頭歌の作者は天皇関係者とするのが原則か、と思える。

春雑歌筆頭歌の題詞:志貴皇子懽御歌一首(しきのみこのよろこびのおんうた一首)

     同 次の題詞:鏡王女一首

夏雑歌筆頭歌の題詞:藤原夫人歌一首(天武天皇の夫人、藤原鎌足の娘五百重姫の歌)

     同 次の題詞:志貴皇子御歌一首

秋雑歌筆頭歌の題詞:岡本天皇御製歌(舒明天皇の歌)

     同 次の題詞:大津皇子御歌一首

冬雑歌筆頭歌の題詞:舎人娘子雪歌一首(2-1-61歌の作者 伝未詳)

     同 次の題詞:太上天皇 御製歌一首(元正天皇の歌)

     三番目の題詞:天皇 御製歌一首(聖武天皇

     四番目の題詞:大宰師大伴卿冬日見雪憶京歌一首

⑤ 冬雑歌の筆頭歌(2-1-1640歌)の作者舎人娘子は、持統(天皇が)上皇時代の三河行幸に従駕した際に詠んだ歌が2-1-61歌としてある。2-1-1640歌で雪が降っていると詠う「真神之原」は、2-1-199歌によれば天武天皇の浄御原宮の所在地である。

 2-1-1640歌は、「いたくなふりそ いへのあらなくに」と詠い、次にある太上天皇 御製歌2-1-1641歌は、「つくれるむろは よろづよまでに」、天皇 御製歌一首2-1-1642歌は、「つくれるむろは ませどあかぬかも」と詠う。次にある2-1-1643歌は、平城京を「憶」って詠っている。この4首の配列は、新しい都を褒めている、という理解を可能としている。

⑥ だから、冬雑歌の筆頭歌2-1-1640歌は、藤原京に遷都した持統天皇天武天皇を偲んでいる代作のような位置づけになっている。筆頭歌は次の元正天皇以前の女性天皇(有力なのは持統天皇)歌に擬しているのではないか、と推測できる。

⑦ さらに、『萬葉集』各巻における部立て「雑歌」すべてを確認すると、

 天皇歌あるいは天皇行幸時の臣下の歌が筆頭歌となっているのは、巻一雑歌、巻三雑歌、巻六雑歌、巻八雑歌、巻九雑歌の5巻ある。

 そのほか雑歌のあるのは、巻五、巻七、巻十(春夏秋冬の雑歌)、巻十三、巻十四がある。その筆頭歌の具体の作者名が題詞にあるのは、巻五(大宰師大伴卿)のみであり、それ以外は左注に「柿本朝臣人麿(之)歌集あるいは古歌集」にある」とある歌を含めて作者はみな未詳である。

(付記終わり 2021/11/29   上村 朋)