わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌か 第24歌 寧楽宮とは その2

 前回(2021/10/18)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 寧楽宮とは その1」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 寧楽宮とは その2 」と題して、記します。(上村 朋)

1.~6.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行い、3-4-23歌まではすべて恋の歌であることを確認した。3-4-24歌については類似歌(『萬葉集』の歌)の検討として、『萬葉集』巻一と巻二の構成を引き続き検討している。なお、歌の引用は『新編国歌大観』による。)

7.再考 類似歌 その5 「寧楽宮」の用例 2-1-79歌

① 『萬葉集』の題詞にある「寧楽宮」表記の例を、今回も確認します。

 類似歌2-1-439歌の重要な参考歌(2-1-228歌)は、『萬葉集』巻二の挽歌の、標目「寧楽宮」にある歌です(付記1.表D参照)。その「寧楽宮」という表記のある題詞とその題詞のもとにある歌を、今検討しています。その題詞は2題あり1題(2-1-78歌の題詞)を前回、残るもう1題を今回から検討して、題詞にある「寧楽宮」という表記の意味を考えます。

2-1-78歌の題詞:和銅三年庚戌春二月従藤原宮遷于寧楽宮時御輿停長屋原廻望古郷作歌 

(割注して 「一書云 太上天皇御製」とある。)

2-1-79歌と2-1-80歌の題詞:或本 従藤原京遷于寧楽宮時歌 

(左注があり「右歌 作主未詳」とある)

② 2-1-78歌は、前回(2021/10/18付けのブログ)の検討により伝承歌がベースにあって作詠されていた、平城京造営に関する歌である、と今のところ推測しています。

 それは、題詞にある「寧楽宮」が、平城京に造営される「平城宮」相当(天皇の居住空間であり政策決定の空間でもある)内裏や大内裏相当部分相当)の意として、理解が可能でした(前回のブログ(2021/10/11付け「6.⑥」参照)。

 2-1-79~80歌の題詞には、年号の記載がありませんが、題詞の配列から、2-1-78歌の題詞と関連ある題詞とみることができます。そしてこの題詞は、「藤原京」という表記があるという特徴があります。

 この題詞のもとにある歌本文には、「寧楽」の発音である「なら」の表記があります。長歌である2-1-79歌に「楢乃京師乃」(ならのみやこの)とあり、反歌である2-1-80歌には、題詞と同じの「寧楽乃家尓者」(ならのいへには)とあります。

 この長歌反歌がそもそも(元資料の段階から)一対の歌であるならば、作詠された時点(正確には記録された時点)には、新たな都城を指す「平城京師」・「平城京」の「平城」に関して、「寧楽」と「楢」と表記する場合があったことになります。それは、現在の奈良山丘陵に近い都城として「なら(のみやこ)」という通称が都城の構想・計画段階からすでに生じていたこと、そしてそれを「平城」表記以外に「寧楽」と「楢」と表記することが官人には一般化していたこと、ということです。

 そうであるならば、新たな都城である「平城京」における「平城宮」の表記として「寧楽宮」が、平城遷都の造営中にも官人の間で選び記される可能性があります。さらに、この一対の歌と仮定した長歌反歌を例証として、2-1-78歌の題詞も、この長歌反歌の題詞も、平城遷都(710年)以前に記録されたといえます。

③ 使用開始時点はまた後程触れるとして、題詞より検討します。

 「或本」とは、2-1-78歌記載の元資料とは別の資料によれば、の意です。

 「従藤原京遷于寧楽宮時歌」の「時」には、一年の四季のほか、「ときのながれ」とか「ある時点・ころ」の意があるので、「藤原京より、寧楽宮に遷るころの歌」という意にとることができます。

 「寧楽宮」とは、上記②で述べたように、2-1-78歌の題詞と歌本文で理解した平城京大内裏等相当部分を意味する用語として、検討をすすめます。

 この場合、題詞は、2-1-78歌の題詞と異なり、(「〇〇宮」から「〇〇宮」へではなく)藤原京という都城から、平城京大内裏等相当部分へ転居するころの歌、という言い方になっています。

 そのため、現代語訳を試みると、

「或る別の記録にある、藤原京から新たな都城の宮(寧楽宮)に遷る頃の歌」

となります。

 『萬葉集』で「藤原京」という表記があるのは、この題詞にしかありません。『日本書記』にも「藤原京」という表記はありません。「右歌 作主未詳」と左注を加えた人物は、「藤原京」という表記について問題意識を持っていないかのようです。だから、気にかかります。歌本文検討後改めて題詞について確認することとします。

④ 次に、歌本文を検討します。

 歌本文に長歌反歌が各1首あります。長歌から検討します。

2-1-79歌  天皇乃 御命畏美 柔備尓之 家乎択 隠国乃 泊瀬乃川尓 舼浮而 吾行河乃 川隈之 八十阿不落 万段 顧為乍 玉桙乃 道行晩 青丹吉 楢乃京師乃 佐保川尓 伊去至而 我宿有 衣乃上従 朝月夜 清尓見者 栲乃穂尓 夜之霜落 磐床等 川之水凝 冷夜乎 息言無久 通乍 作家尓 千代二手 来座多公与 吾毛通武

 おほきみの みことかしこみ にきびにし いへをおき こもりくの はつせのかはに ふねうけて わがゆくかはの かはくまの やそくまおちず よろづたび かへりみしつつ たまほこの みちゆきくらし あをによし ならのみやこの さほがはに いゆきいたりて わがねたる ころものうへゆ あさづくよ さやかにみれば たへのほに よるのしもふり いはとこと かはのひこり さむきよを やすむことなく かよひつつ つくれるいへに ちよまでに いませおほきみよ われもかよはむ

 この長歌は、以下のような検討の結果から、元資料にあっては、平城京造営に関する官人の苦悩を詠ったものであり、それを、『萬葉集』巻一では詞書のもとの歌として寿ぐ歌に仕立てているのではないか、と予想することになりました。多くの諸氏が指摘する天皇が関わる歌ではなさそうです。

 なお、この長歌は、33句に23の漢文の助字を万葉仮名として用いている歌です。

⑤ 初句より順を追って検討します。

 初句から二句の「天皇乃 御命畏美」(おほきみの みことかしこみ)とは、以下に「楢乃京師乃 佐保川尓 伊去至而」(ならのみやこの さほがはに いゆきいたりて)とあるので、平城京遷都の造営開始か、遷都後の造営督促・街づくりに関する指示を指している、と考えられます。

 『続日本紀』の平城京造営に関する記述と遺跡の調査結果から、和銅3年の遷都時に大極殿ができていなかったのは明らかであり、役民の逃亡が止まないなど天皇は苦慮しています(付記2.参照)。率直にいえば役民には新都造営が嫌われています。そのような状況下での歌がこの歌です。

⑥ 元資料の歌として、最初に検討します。すなわち、題詞に留意せず、藤原京平城京と河川の地理的関係には留意し、逐語的に理解しようとすると、長歌は、土屋氏らとは違う面がありました。

 三句~四句目の「柔備尓之 家乎択(旧字は「擇」)」とは、土屋氏に従えば、既存の家を撰ぶ(藤原京の家を資材として利用すべく運ぶ)、の意となります。住み慣れた家(という貴重な資材)を放棄して平城京に居を移すとは思えません。この句の主語は、官人と思えます。

 平城京平城宮(「寧楽宮」と予想します)は、藤原宮の資材をも転用して造られているのが出土した瓦などで実証されています。官人たちも同様に藤原京にある屋敷の資材を転用したり家財を運ぼうとしたのでしょう。庶民(市で商売をする人など)も同じでしょう。

 その輸送には(藤原京内を流れる)明日香川を利用した舟運が第一候補にあがりますが、長歌は五句以下で、

 「隠国乃 泊瀬乃川尓 舼浮而・・・楢乃京師乃 佐保川尓 伊去至而」(藤原京が流域にない)初瀬川に船を浮かべて・・・(平城京が流域にある)佐保川に至る)、

と詠っています。

 「隠国乃」は、初瀬(という地名・川)にかかる枕詞です。山に囲まれて隠れている所の意があります。

 「泊瀬乃川尓 舼浮而」(はつせのかはに ふねうけて)の「而」字は漢文の助字であり、その意は「aしかうして。しかも。しかるに。しかるを。bすなわち(=乃)。cなんじ(代名詞) dもし(=如) eごとし(=如))です(『角川新字源』)。次の句にある「吾」は次の文の主語と思えるので、ここでは、aまたは、bの意を、この歌を書き留めた官人が含意させて、一旦文は終わっているという理解が可能です。

 作中人物は舼に乗り平城京造成地へ向かう、と理解できます。

 明日香川の舟運が官需で手一杯であったとすれば、近くの川を利用することになります。家を建てる資材も同時に運んだのでしょうか。

⑦ 初瀬川沿岸には海石榴市(つばいち)があり、その近くに雄略天皇の宮である泊瀬朝倉宮がありました。その時代から難波津からの舟運があったところです。藤原京の造営後も交易の拠点になっていたとしたら、船の調達はできたでしょうが、建設資材の運搬は筏でも構わないものの、寺川を越えわざわざ陸路の運搬が長くなる初瀬川を輸送手段に選ぶということには疑問を感じます。

 建材などを初瀬川の上流や川沿いの集落で調達した事例を詠っているのであれば、天皇の許可を得られるほど高位の官人です。そして、

 「我宿有 衣乃上従 朝月夜」(わがねたる ころものうへゆ あさづくよ)と、平城京での第一夜は屋根や囲いもないかのようなところの描写であって高位の官人の宿舎とは思えません。「我」と自らを呼ぶ作中人物は身分の相当低い官人か、庶民でしょう。しかし裕福でなければ、「舼」を借り上げられません。

⑧ そして、作中人物が用いた船を、「舼」(舟偏に旁が共)という漢字で表現しています。小さな船の意ですが、『角川新字源』には記載がない、珍しい字です。この歌を書き留めた人物(あるいは『萬葉集』編纂者)は、わざわざこの漢字を用いています。

 その「舼」には、何人乗船できたのでしょうか。

 八句目、「吾行河乃」(わがゆくかはの)からは、乗船している作中人物に生じた、後ろ髪をひかれるような感情を詠っているかにみえます。「舼」に乗船している客が官人であれば、何をめそめそしているのか、という感想を持ちます。もっとも移動に要する時間を優先すれば官人は陸路を行くと思うので、乗船客は女性であるかもしれません。八句目以降の表現では性別もわかりません。

 そして十八句目「伊去至而」(いゆきいたりて)の「而」は(漢文であれば)助字であり、「舼浮而」の場合と同じくここで文が終わっている、という理解も可能です。八句目にある「吾」は、「舼」に乗船してきた特定の人物のように受け取れますが、平城京造営地に集められた人々の姿でもあります。そうすると、舟運での移動に関して「顧為乍」、そして陸路での移動で「佐保川尓 伊去至而」(河原にある集合所に至る)と、大勢の役民が集まる状況を描写している、とも理解できます。助字「乍」には、「aたちまち。bあるいは。」の意がありますので、文が切れていると理解したところです。

 そして、十九句目「我宿有」(わがねたる)以下に、平城京造営地での生活を詠っています。

 「我宿」の「宿」とは、平城京造営地で働くための臨時の宿舎を意味するのではないか、と思います。

 作中人物の移動に関する描写が、「・・・伊去至而」で終わり、次いで平城京の造営地での作中人物の行動に関する描写が始まっていると理解できます。

⑨ 二十七句目からの「冷夜乎 息言無久 通乍 作家尓」(さむきよを やすむことなく かよひつつ つくれるいへに) にある「通乍」とは、日々通ったということなので、造営地に設けられた宿舎から徒歩で日々通える家から造作している現場に通った、ということになります。藤原京から通うには距離があり、毎日というわけにはいかないと思います。ただし、現場の指揮を執るような人物であれば(官人の立場であるので)、「冷夜乎 息言無久」と夜中に出発するなど月に何度か通うということも想定できます。

 そして、家を作るという仕事に関しては簡潔に記しています。とにかく家が完成し、

三十句目からは「作家尓 千代二手 来座多公与」(つくれるいへに ちよまでに いませおほきみよ)と「おほきみ」に呼び掛けています。

⑩ この部分の現代語訳は幾通りかあります。例を示します。

 「そんな寒い夜も休息することなく、通い続けて作ったこの家にいついつまでもおいでになってください。わが大君よ。私も通ってまいりましょう。」(阿蘇氏)

 この訳は、作中人物が「作った家」に大君には「いつまでもいつまでも来てほしいとうたって」(阿蘇氏の「歌意」での説明より)いる、と理解しています。常在してほしい家ではありません。そして氏は、大君と作中人物を、皇子・皇女ではない皇族かかなり高位の貴族、及びそのような主人に奉仕する立場の人物、と推測していますが、主人に対して作中人物は「通ふ」といえる立場なのでしょうか。

 「通ふ」という動詞は、「a定まった場所とのあいだを行き来する。出入りする。特に男が妻や恋人のもとに行き来する bある場所を、自由に通る。通行する cなどなど」の意です(『例解古語辞典』)。

 このため、この歌における「通ふ」を、「仕える」とか「伺候する」という意に理解するのは、題詞とかで示唆があっても難しい、と思います。

 土屋氏は、「来座多公与」という句について通行本により「来座多公」を採り、この万葉仮名を尊重し、「多」を「まねく」と訓み、「きませまねくきみ」と訓み、「きみ」とは、「私的人間(じんかん)の呼びあひとしてのキミ」であると指摘しています。

 『新編国歌大観』におけるこの歌で、「おほきみ」と訓むのは、初句にある「天皇」と結句の前にある「多公」と2カ所にあります。

 後者は、作者が造った家に来てほしいと願う相手をさしています。その家に(仕えるのではなく)「われもかよはむ」と作者の意思を明確に詠っているので、お言葉をかしこまって承けた天皇とは異なる方を「多公」と表記しているはずです。

 巻一と巻二で「おほきみ」と(『新編国歌大観』で)訓む表記は、「大王」(13首)、「天皇」(2首)、「多公」(1首)、「君」(3首)、「王」(5首)です。土屋氏の訓は、この用例での異端さからも支持できます。

⑪ だから、最後の七句は、土屋氏の訓と大意を採りたい、と思います。

 最後の七句の訓:「さむきよを いこふことなく かよひつつ つくれるいへに ちよまでに きませまねくきみ われもかよはむ」

 同大意:「かくのごとく寒い夜をも休むこともせず、通ひ来たって作った家に、千代の後までも来給へよしばしば君、吾も通はう」。

(氏が本文としたのは「来座多公」ですが、「与」は終助詞「よ」であり、文のロジックには影響しません。)

 この理解によれば、この歌を披露した時点、即ち家が完成した時点では、作中人物が作った家に、「きみ」は、未だ到着していません。「きませ」と訓んでいるのだから、留まり続ける意は含意されておらず、だからまたこの家に「きみ」が住み続けるとも作中人物は、思っていないことになります。

 これからはときどき(あるいはしばしば)お出で下さい、と「きみ」に訴え、作中人物も(ときどきは)この家に来たい、と結句で決意を述べていますから、その時はこの家で「きみ」に会いたい、と訴えていることになります。

 この家はどのような性質の家なのでしょうか。

⑫ 両氏が共有している理解に次の二つの語句があります。

 第一は、「作家」を、「つくれるいへ(に)」と訓んで、その家は完成したと理解していることです。しかし、「作家」という表現は「作る家」(作りつつある家)の意を排除していません。現に(「家」は「宮」の誤りとして)「作っている宮(に)」と現代語訳している例もあります(『完訳日本古典2 萬葉集一』(小学館 1982))。

 だから「通乍 作家」とは、造作途中の家を意味としての検討も要すると思います。助字「乍」には、「aたちまち。bあるいは。」の意があり、日本語の接続助詞「つつ」には、巻一だけでも、

 2-1-9歌に「大相七兄爪湯気」(たぶし見つつ行け)

 2-1-17歌に「見筒行武雄」(見つつ行かむを)

 2-1-25歌に「念乍叙来」(思ひつつぞ来る))

という例があります。漢文の助字の意の「あるいは」を意識し、「通う」と「作る」を並列の行動(即ち未だ造作中)という理解も許されると思います。

⑬ 第二に、「千代二手」を、「ちよまでに)」と訓んで、「いつまでも(これからずっと)」と理解していることです。

 「千代二手」(ちよまでに)の「千代」とは、「千年とか非常に長い年月」の意であり、「二手」は両手を「真手」ということからの借訓で「まで」と訓み、「左右(手)」もそのように訓まれるそうです。

 訓「ちよまでに」の「まで」は、副助詞であり「時間的・空間的にどこまで至り及ぶか、その範囲・程度」の意があります。また、「に」は、体言に付いているので格助詞であり、「ひろく、物事が存在し、作用する場を示す」ことが第一義とあります(『例解古語辞典』)。

 そのため、この句の直後の語句「来座多公与」を念頭におけば、ここでの「ちよまでに」の意は、「いつまでも(これからずっと)チャンスがあれば」この家に来てください、という理解のほかに、「非常に長い年月が過ぎる時までに生じるかもしれないその時には」この家に来てください、という理解も可能と思います。

 また、結句で、決意を披露している人物は、船に乗って平城京造営地に来た人物とは思えません。特定の人物なのか、大勢の人物を指しているのか、諸氏の理解では判然としていません。

⑭ 改めてこの長歌の構成を、結句の作中人物が造営中の平城京において「家を作った」歌とみると、次の6部よりなる、と整理できます。

 第一 初句~二句 天皇乃 御命畏美: 歌の発端を詠う

 第二 三句~十八句 柔備尓之 家乎択・・・佐保川尓 伊去至而: 平城京造営地への移動の状況を詠う (舟運利用と徒歩などの陸路とがある)

 第三 十九句~二十七句 我宿有・・・冷夜乎: 到着した平城京造営地の景を詠う

 第四 二十七句~三十句 冷夜乎・・・来座多公与: 平城京造営地にいる作中人物の行動を詠う

 第五 三十一句~三十二句 千代二手 来座多公与: 行動の目的を詠う

 第六 三十三句 吾毛通武: 作中人物の決意を詠う

 この歌本文には、家を作る資材と造営に関する具体的な言及がありませんでした。だから、資材搬送をも詠っているというのは私の思い込みであり、作中人物は、多分一人ではなく、単に平城京造営地に行き(あるいは連れて行かれ)、家を作る監督をしたのか、手伝いをしたことだけを詠っているという理解が妥当なようです。

 上記各部の作中人物は共通の人物であると決めつけたため困惑しています。

⑮ このような疑問に触れていない土屋文明氏も、(題詞のもとにある)長歌について、「藤原役民歌、藤原御井歌と比較すると、著しい差が認められる。全体が叙述的で、低調である。製作に関与した一人又は数人の素質に基づくものではあるまいか。」と指摘しています。「この作は国家行事に関連はあるものの、直接には庶民自身の生活なので、そこの差が歌調の上にもあらはれたとも言はれよう」とも指摘しています(『萬葉集私注 一』)。

 さらに、「なほ定着永住の気分になり得ない者同士、更にいへば広く庶民相互間で、遷都造営の労苦をはげましあう歌謡とも解すべきではあるまいか」とも指摘しています(『萬葉集私注 十 補完』472P~「家乎擇」)。

 (題詞のもとにある)長歌反歌について、阿蘇氏は、「大君の別宅か」、「完成した家にいつまでもいつまでも来てほしい」とうたって主人の長寿と栄を願い、かわらぬ奉仕を誓っている歌」と指摘しています。万葉の時代は自分の仕えた主人を「おほきみ」と称したとしています。

 吉村豊氏は2-1-79~80歌に関して、(題詞のもとにある歌として)奈良の都を造る役民を主人公として、君臣和楽の思想から喜び進んで新しい都を造っている様子を述べる、と指摘しています。

 題詞に留意しなくとも、歌本文のみで平城京遷都に関する歌ということは確実に推測できます。そのうえで、結句の「吾毛通武」という作中人物と「きみ」の関係が諸氏の理解では納得がゆきません。

⑰ このように各句を検討してきて、いくつかの疑問が残りました。次回に再検討したい、と思います。

 「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 (2021/10/25  上村 朋)

付記1.『萬葉集』における表記の「寧楽」の用例と歌における「なら」と訓む歌について

①『萬葉集』における表記の「寧楽宮」関連の用例と訓について、『新編国歌大観』により確認した。

②『萬葉集』における表記の「寧楽宮」の用例を表Dに示す。

③「寧楽宮」以外の「寧楽」の用例、句頭の表記のの訓が「なら」とある歌で、その意が「都城・地名・山名と思われる歌などは次回以降に示す。

表D 『萬葉集』における「寧楽宮」とある例  (2021/10/4現在)

調査対象区分

巻一と巻二

巻三と巻四

巻五以降

部立ての名で

無し

無し

無し

標目で

巻一と巻二

無し

無し

題詞で

2-1-78歌(割注し「一書云太上天皇御製」)

2-1-79~80歌(左注し「右歌作主未詳」)

無し

無し

題詞の割注で

無し

巻四 2-1-533歌(割注して「寧楽宮即位天皇也)

無し

歌本文で

無し

無し

無し

歌本文の左注で

無し

無し

無し

注1)歌は、『新編国歌大観』による。「巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号」で示す。

 

付記2.『続日本紀』における平城京の造営関連の記述について

①『新日本古典文学大系12 続日本紀一』(岩波書店 1989)より引用する。 

慶雲4年2月戊子(19日)、諸王臣(おときみたち・おみたち)の五位已上に詔して、遷都の事を諮らしめたまふ。

慶雲4年秋7月壬子(17日)、天皇大極殿に即位(くらゐにつ)きたまふ。<元明天皇

和銅元年2月戊寅(15日)詔して曰く、朕(われ)つつしみて上玄を奏(う)けたまわり・・・遷都(みやこうつる)の事、必ずとすること遑(いとま)あらず。しかるに王公大臣みなもうさく・・・衆義忍びがたく、・・・まさに今、平城(へいぜい)の地、四禽図に叶ひ、三山鎮(しづめ)をなし、亀筮(くゐぜい)並びに従ふ。都邑を建つべし。その営みつくる資(もと)、事に従ひ条(をもをも)に奏すべし。亦、秋収を待ちて後、路橋を造るべし。・・・

和銅元年9月、戊寅(20日)平城(なら)に巡幸(みゆき)してその地形(ところのまま)を観たまふ。

和銅元年9月、戊子(30日) 正四位上阿倍(あへ)朝臣宿奈麻呂、従四位下多治比真人池守を造平城京(へいぜいけい)司長官とす。従五位下・・・を次官、・・・を大匠(おほたくみ)、判官七人、主典四人。

和銅元年冬10月庚寅(2日)宮内卿正四位下犬上王を遣して、幣帛(みてぐら)を伊勢太神宮に奉らしむ。以て平城宮(ならのみや)を営む状を告ぐ。

和銅元年12月癸巳平城宮(ならのみや)の地(ところ)を鎮め祭る。

和銅2年正月丙寅(5日) 正四位上阿倍(あへ)朝臣宿奈麻呂・・・に従二位を授く。・・・

和銅2年8月辛亥(28日)車駕、平城宮(ならのみや)に幸したまふ。駕に従へる京畿の兵衛の戸(へ)の雑徭を免す。

和銅2年9月乙卯(2日)・・・この日、車駕。新京(あたらしきみやこ)の百姓を順撫したまふ。

和銅2年9月丁巳(4日)造宮将領已上に物賜ふこと差(しな)あり。

和銅2年9月戊午(5日)車駕、平城(なら)より至りたまふ。

和銅2年冬10月癸巳(11日)、勅(みことのり)したまはく、「造平城京司、若し彼の墳隴(つか)あばき掘られば、随即(すなはち)埋み斂(をさ)めて、露し棄てしむること勿れ。普く祭酹(さいらい)を加へて、幽魂を慰めよ」とのたまふ。

和銅2年冬10月庚戌(28日)詔して曰く、「このころ都を遷し邑(むら)を易(か)へて百姓を揺動す。鎮撫を加ふといへども安堵すること能(あた)はず。これを念ふ毎に朕甚だ愍(あは)れむ。当年の調・租並びに悉く免すべし」とのたまふ。

和銅2年12月丁亥(5日)、 車駕、平城宮(ならのみや)に幸(みゆき)したまふ。

和銅3年二月条の記述に、平城京関連の記述はない。

和銅3年3月10日 始めて都を平城(なら)に遷す。左大臣正二位石上朝臣麿を留守(るしゅ)とす。

和銅4年9月丙子(4日)勅したまはく、「このころ聞かく、諸国の役民造都に労(いたつ)きて、奔亡すること猶多し。禁(いさ)むといへどもやまず」ときく。今、宮の垣成らず、防守備(そな)はらず、権(かり)に軍営を立て兵庫を禁守すべし」とのたまふ。よりて従四位・・・等を将軍とす。

和銅5年春正月壬辰(23日)河内国高安烽(とぶひ)を廃め、始めて高見烽と大倭国春日烽とを置きて、平城(なら)に通せしむ。

霊亀元年春正月甲申の朔、天皇大極殿に御(おは)しまして朝(てう)を受けたまふ。皇太子始めて礼服を加へて拝朝す。陸奥・・・来朝きて各方物を貢(たてまつ)る。その儀・・・陣列す。元会の日に鉦鼓を」用ゐること、これより始まる。

② 車駕という記載例。

 文武天皇二年二月条:丙申(5日)車駕(きょが)、宇智郡に幸(みゆき)したまふ。

  和銅2年9月、戊寅(28 日) 車駕、宮に還りたまふ。(以下略)

(付記終わり  2021/10/25   上村 朋)