わかたんかこれ 猿丸集その219恋歌確認25歌附23歌再確認

 前回(2023/12/18)に引きつづき『猿丸集』歌の第25歌の再確認を続けます。

                                          

1.~13.経緯

 2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。12の歌群の想定を行い、3-4-25歌は、「第五 逆境の歌」の歌群に整理している。3-4-24歌までは、すべて類似歌とは異なる歌意の恋の歌であることを確認した。3-4-25歌の類似歌は『萬葉集』の2-1-120歌である。

 歌は、『新編国歌大観』より引用する。

14.3-4-25歌の再確認

① 3-4-25歌の類似歌の再検討が終わりました。次に3-4-25歌を再検討し、類似歌との差異を確認します。また、3-4-23歌の類似歌も『萬葉集』の同一題詞のもとにある歌なので、3-4-23歌と類似歌の差異も再確認します。

 最初に、『猿丸集』の25番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、検討します。

 3-4-25歌  おやどものせいしける女に、しのびて物いひけるをききつけて、女をとりこめていみじういふとききけるに、よみてやる  (3-4-22歌~3-4-26歌にかかる詞書)

     わぎもこがこひてあらずはあきぎりのさきてちりぬるはなをらましを

  3-4-25歌の類似歌:萬葉集 2-1-120歌  弓削皇子思紀皇女御歌四首(2-1-119歌~2-1-122歌にかかる題詞)

       わぎもこに こひつつあらずは あきはぎの さきてちりぬる はなにあらましを

(吾妹児尓 恋乍不有者 秋芽之 咲而散去流 花尓有猿尾)

② 以下の検討の結果、確かに趣旨の違う歌であり,3-4-25歌は恋の歌(付記1.参照)でした。

  3-4-25歌は、相手の女が作者を愛しているのを信じている、と相愛の仲の相手におくった恋の歌であり、類似歌2-1-120歌は、話題としている人の周辺状況の変化を期待すると詠っており、恋の歌ではなく挨拶歌です。

 なお、前回検討したブログ2018/7/30付けでは、類似歌の題詞にある「思」字の理解を正す以前の成果でしたが、3-4-25歌は相愛の歌であり、類似歌は片恋の歌であり、歌意が異なりました。

 この二つの歌は、詞書(題詞)の趣旨が異なり、歌本文の二句の状況になるのは歌をおくる相手と作者自身という違いがあるがほか、三句の名詞も五句の動詞も異なっています。

③ 3-4-25歌を再検討します。

 最初に、詞書を再検討します。2018/7/9付けブログの「4.」で現代語訳を試み、この詞書とそのもとにある5首との整合に矛盾のないことをブログ2018/8/20付けブログの「3.」以下での検討で確認したところです。

 3-4-25歌の現代語訳(試案)は、次のとおり。

「親や兄弟たちが私との交際を禁じてしまった女に、親の目を盗んで逢っていることをその親たちが知るところとなり、女を押し込め厳しく注意をしたというのを聞いたので、詠んで女に送った(歌)」(ブログ2018/7/9「4.」参照)

 「おやどものせいしける女」の動詞「せいす」は、「(おもに口頭で)制止する・止める」意のほか「決める・決定する」意があります(『例解古語辞典』)。この詞書は、 「おやどものせいしける女」と後段の「「とりこめ、いみじふいう」とが対比されている文章ですので、「せいす」は前者よりも後者の意で用いている、と理解できます。このため、この(試案)は妥当である、と思います。

④ 次に、歌本文を再検討します。類似歌と異なっている初句~二句と、三句の名詞と五句の動詞を確認します。

 二句「こひてあらず(は)」とは、上二段活用の動詞「恋ふ」の連用形+接続助詞「て」+ラ変活用の動詞「あり」の未然形+打消しの助動詞「ず」の連体形+(係助詞「は」)です。

 「て」は、連用修飾語をつくる場合は、「あとに出る動作や状態が、どんなふうにして行われるか、どんな状態で行われるか、どんな程度であるのか、などを示して、あとの語句にかかります(『例解古語辞典』)。

 動詞「あり」とは「aある・存在する。bその場に居合わせる。c(時が)たつ・経過する。」意があります(同辞典)。

 このため、初句~二句は、「貴方が恋をして、(しかし)そのまま時が流れていない、ということは」の意であり、詞書のもとにあるので、「貴方が私との恋の成就をもうあきらめる(作者を見限る)、ということは」あるいは「貴方が私を(もう)恋していないということは」と訳せると思います。

 あるいは、「て」が接続語をつくるとみれば、「それでいて、そのくせ、という気持ちで、あとに述べる事がらに対して一応の断わりを述べる」意があります(同辞典)。

 そうすると、初句~二句は、「貴方が恋するというもののそれを継続していない」即ち、「恋しているというものの今は見限ったということは」と訳せます。

類似歌の二句「こひつつあらず(は)」とは、上二段活用の動詞「恋ふ」の連用形+接続助詞「つつ」+ラ変活用の動詞「あり」の未然形+打消しの助動詞「ず」の連体形+(係助詞「は」)です。

 接続助詞「つつ」の意はここでは「動作の反復・継続して行われる気持ちを表し」ています(『例解古語辞典』)。

 このため、類似歌の初句~二句は、「貴方に恋をし続ける(アプローチをくりかえす)のを止める」、の意であり、題詞のもとにあるので、一つの仮定をしているとも理解できます。 

⑤ 次に、三句にある「あきぎり」は、気象現象である「秋の霧」に「飽きの切り」を掛け、「飽きる状態の期限、即ち破局」ということではないか。

 平安時代以降、春は霞、秋は霧と使い分けられたと一般にいわれていますので、この歌が平安時代の作であるならば、「秋の」という語句は不要のところを、わざわざ「あきぎり」と表記しています。作詠時点の用例に倣えば異様です。

 『猿丸集』は、『新編国歌大観』(角川書店)の「解題」によると、「公任の三十六人撰の成立(1006~1009頃)以前に存在していたとみられる歌集」です。そのころまでに成った(奏覧された)三代集と次の『後拾遺和歌集』の恋部の詞書の文末の特徴をみると(ブログ2018/4/16付けによる)、「つかはしける」と「題しらず」が多いのに、『猿丸集』にはなく、多くが「よめる」です。文末が「よめる」とあるのはこれらの勅撰集の恋の部では段々と増加し四番目の勅撰集『後拾遺和歌集』(承保2年(1075年)奉勅)に多い。

 また『猿丸集』の全52首では、いまみた四つの勅撰集にある「つかはしける」と「題しらず」という文末で終る詞書がありません。

 このような文末の特徴から言えば、『猿丸集』の成立は「公任の三十六人撰の成立」次期に近い頃が有力です。

 これに対して、類似歌の三句にある「あきはぎ」は、植物「はぎ」に季節を冠しているという語句です。「はぎ」は秋の七草のひとつです。

 類似歌のある『萬葉集』をみると、巻一~巻四では「あきはぎ」の用例3首、「はぎ」の用例無しです。巻八には「はぎ」を詠った歌が35首ありますが20首が「あきはぎ」です。『萬葉集』の作者は、「あきはぎ」という表記を良く用いており、類似歌での「あきはぎ」は、その時代の平均的な用例と言えます。

⑥ 次に五句の動詞「をる」は、(花を)「折る」意であり、類似歌の語句の動詞「あり」は、連語「有らまし」の一部であって、(・・・という花に)「なっていたらよいのに」という気持ちを表しています。

⑦ 3-4-25歌の現代語訳(試案)を、2018/7/30付けブログ「4.」で示しました。

「いとしいあなたが私を恋していないということならば、秋霧が、咲いてそして散ってしまっている花の茎を折るということがおこるでしょう。(風ではない秋霧には、あり得ないことです。そのように、あなたの私への愛の変らないことを信じています。)」

 この(試案)では、「あきぎり」の理解が不十分でした。このため、次のように改めます。

 「いとしいあなたが私を恋していないということならば、「飽きの切り」と同音の秋霧が、咲いてそして散ってしまっている花の茎を折るということがおこるでしょう。(これはあり得ないことです。破局を迎えるなど思ってもいません。あなたの私への愛の変らないことを信じています。)」(3-4-25歌改訳案)

⑧ 次に、類似歌です。現代語訳(試案)はブログ2023/11/13付けでの結論は、初句~二句に引用文があるとみて、次のようになりました。類似歌の題詞は、「思」字の意が「恋う・慕う」ではなく、「かんがえる」とか「思案する」とか「おもいやる」という意で作文されています。

「親愛なる貴方に、どなたかが「こひつつあらず」という状況だそうですが、秋ハギのような咲いたらすぐ散る花になってほしいですね(諦めてくれるといいですね)。」 (2-1-120歌現代語訳改定試案)

 3-4-25歌と、まったく異なる歌意です。

 3-4-25歌は、相手の女が作者を愛しているのを信じている、と相愛の仲の相手におくった恋の歌であり、類似歌2-1-120歌は、話題としている人の周辺状況の変化を期待すると詠っており、恋の歌ではなく挨拶歌です。

⑨ なお、類似歌を片恋の歌として理解した以前の現代語訳(試案)は、正しく題詞を理解していませんが、『猿丸集』の編纂者も同じような過ちをしていたかもしれません。その場合はブログ2018/7/30付けに示した現代語訳(試案)があります。次のとおり。やはり、3-4-25歌とは異なる歌意です。

 「あの人にいくら恋しても詮無い状態になってきたが、それでも、あの人が、(私の愛でる)秋萩のように咲いたら散るという花であってくれたらなあ」

 これは、『萬葉集』に萩を詠む歌は141首あり、その1/4以上が花の散り過ぎることに言及していることに留意した(試案)です。萩ならば散るものの代名詞であり、「こひつつあらず」という認識は、諦めていないからです。だから、秋萩がすぐ散るように自分が諦める、と歌にして相手におくるより、それでも相手の心変わりを期待しているよ、と詠っておくり(民謡であれば謡い返し)、同じ相手との歌の応答を続けようとする、と理解したものです。

 類似歌について、諸氏の理解の一例として土屋文明氏の大意を紹介ます。

「吾妹子に戀ひ戀ひて生きてをれないならば、秋萩の咲けば散ってしまふ花になって散り失せ死ぬる方がましであろう。」(『萬葉集私注』)

 この歌は、反語であり、「秋萩は、すぐ散ることでも満足しているだろうが、私は秋萩ではないのです」と言っている歌と氏は理解されているのではないか。

 これらのどの理解でも類似歌は、3-4-25歌と歌意が異なります。

15.3-4-23歌の再検討

① 2-1-120歌と2-1-122歌は、同一の題詞のもとにあります。そして2-1-122歌は、3-4-23歌の類似歌です。題詞の現代語訳(試案)は、「思」字の理解により改まりましたので、改めて、3-4-23歌とその類似歌2-1-122歌の差異を確認します。

3-4-23歌  (3-4-22歌の詞書をうける)おやどものせいしける女に、しのびて物いひけるをききつけて、女をとりこめていみじういふとききけるに、よみてやる

おほぶねのいづるとまりのたゆたひにものおもひわびぬ人のこゆゑに

 

3-4-23歌の類似歌   万葉集 2-1-122歌     弓削皇子思紀皇女御歌四首(119~122)

     おほぶねの はつるとまりの たゆたひに ものもひやせぬ ひとのこゆゑに 

(大船之 泊流登麻里能 絶多日二 物念痩奴 人能児故尓)

② 下記の検討をして、やはり3-4-23歌とその類似歌2-1-122歌は異なる歌であり、相愛の歌と述懐の歌とにわかれます。

 そして(前回のブログ2021/7/19付けでの結論のように)類似歌が片恋の歌であっても、3-4-25歌は愛情を交わした女に対する作者の心のうちを詠って、相手を慰める相愛の歌であり。類似歌は、恋の進展のないことにより外見が変わったと訴えた片恋の歌であり、異なる恋の歌です。

 この二つの歌は、詞書(題詞)の趣旨が異なり、歌本文の二句の船の状況が違い、四句の動詞が違います。

③ 3-4-23歌から再検討します。

 詞書は、3-4-25歌と同じであるので、その現代語訳(試案)は上記「14.③」に引用してあります。

 歌本文については、類似歌と語句が異なっている二句と四句と五句を確認します。

④ 二句「いづるとまりの」の「いづ」とは、下二段活用の動詞「出づ」の連体形です。

 類似歌の二句は「はつるとまりの」の「はつる」とは、下二段活用の動詞「泊つ」の連体形です。

 船の出港時と停泊時という船の状況の違いがあります。

 四句「ものもひわびぬ」の動詞「侘ぶ」とは、ブログ2023/7/16付けで指摘したように、心の動きに関する動詞であり、類似歌の四句にある「痩す」は外見に関する動詞です。どちらにも同音異義の語句はありません。

 また、五句にある「ひとのこ」とは、恋の相手である「親が作者との交際を停められた人物」つまり「そのようなことを行う親に正面切って反対できない子」の意です。類似歌の「ひとのこ」とは、題詞を見直して人並という意になりましたが、題詞の「思」字の理解を見直す前は、特定の人物を指すのは同じで歌をおくる相手(紀皇女)、という意と理解していました。

 そして、この歌は、初句~三句の文章の主語は、「とまり」(停泊地)です。「たゆたひ」は、停泊地の海面が波打つことを指しています。出港する船が波をたてることを含めて海面の揺れが収まらない様を形容している、と言えます。初句~三句の文章は、大船の揺れ方に関する当時の常識を詠み込んでいるわけではありません。多くの諸氏もそのように理解されています。

⑤ そのため、3-4-23歌の現代語訳(試案)は、ブログ2018/7/16付け「7.⑥」に示し、ブログ2021/7/19付けで確認した(試案)そのままでよい、と思います。つぎのとおり。

「大きな船が出港する停泊地はゆらゆら波が揺れ止まりしていないようですが、思いがいろいろ浮かび辛いことです。親に注意をうけても慕っていただける貴方のことで。」

 「親ども」は、この歌を当然知るところとなるでしょう。『萬葉集』記載の類似歌を承知していれば、歌人としての才は認めてもらえたかもしれません。それだけで交際が許されるとは思えません。(ブログ2018/7/16付け「7.⑦」)

 なお、「大船」とは、この歌での暗喩はなく、遣唐使船などの船体の大きい船の意です。

⑥ 類似歌については、題詞にある「思」字の理解が改まりましたので、類似歌の現代語訳(試案)は、同一題詞のもとの4首の整合性から、次のようになりました(ブログ2023/12/18付け「12.」参照)。

 「大船が停泊している港であって揺れが止まらない状況にあり、私は物思いするようになり、痩せてしまった、どなたかと同じく「人の子」故に。」(第231別案) 

 大船が停泊地で揺れの止まらないという状況は、当時の常識に反しています。つまり異常な事態であり緊張が増す事態である、という意となります。

 上記現代語訳(試案)の初句~三句は、大船が主語であることを、より明確にするために、すこし修正したいと思います。

 「大船が、停泊している港にあって揺れの止まらないという状況にあり、私は物思いするようになり、痩せてしまった、どなたかと同じく「人の子」故に。」(第231別案の2)

 大船とは、隠語であり、「大船の揺れがとまらない」ことが起因となって、他の人もそうだが、作者も物思いに沈んだ、ということを詠った歌と理解したところです。誰かの「たゆたひ」により翻弄されている状況を詠っています。

⑦ 作者である弓削皇子の活躍時期を考慮すると、「大船」とは、持統天皇の御代におけるある政治的な状況を意味するのではないか。作者である弓削皇子は、次期天皇の候補とみなされるのを嫌がっている心境を詠ったのではないか、と推測できます。体制批判をする気持ちはないはずです。部立てに「相聞」をたてている巻一~巻四の編纂者としてもそのような気持ちはないはずです。

 この題詞のある部立て「相聞」とは、伊藤氏や土屋氏の定義であっても、恋愛中の歌以外の歌も「相聞」に含まれています。私の定義では、「神々となった人物たちの見守る今上天皇のもとで現世の人々の喜びを活写する場面」の歌(ブログ2023/8/28付け「25.④」)ですので、そのような歌も当然含まれます。体制批判の歌を編纂者はここに配列しないはずです。

 このため、この歌と類似歌は、相愛の歌と述懐の歌となり、異なる歌です。

⑧ また、『猿丸集』の編纂者が、「題詞」の「思」字の意は「恋情」によるものとして、類似歌は片恋の歌と理解していたとしても、この歌との差異は同じようにあります。

 この歌は、愛情を交わした女に対する作者の心のうちを詠って、熱愛の相手を慰めている歌であり、類似歌は、恋の進展のないことにより外見が変わったと訴えた歌(2018/7/16付けブログでの結論)です。

 この場合の現代語訳(試案)を再録すると、つぎのとおり。

 「大船が、(例えば住之江の津のような)波の静かな港に停泊している時も、揺れ動き続けている。そのように、私はずっと捕らわれたままで、物思ひに痩せてしまった。この乙女のために」(2018/7/16付けブログ「4.⑥」)

⑨ 諸氏の理解の一例として、類似歌2-1-122歌の土屋文明氏の大意を紹介すると、次のとおり。

 「大船が、碇泊する港に於いて、揺れ動いて定まらぬごとく、ためらいながら物思ひに痩せてしまった。此のをとめの為に」(『萬葉集私注』土屋氏)」

 氏は、弓削皇子が詠ったという恋の歌として理解しています。この題詞のもとの4首について、「創意が少なく、多く社会的表現を用ゐて居る」、「弓削皇子の他の作とは少しく趣を異にして居る」と指摘しています。

⑩ なお、3-4-23歌も3-4-25歌も、「第五の歌群 逆境の歌群」(3-4-19歌~3-4-26歌)の歌であることに変わりありませんでした。

 今年は遅々とした歩みで3-4-25歌まで確認できました。一方、類似歌が多くある『萬葉集』については、巻四などの理解が進みました。来年は3-4-26歌の確認からはじめます。

 今年もブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただき有難うございます。

 皆様 よいお年をお迎えください。

(2023/12/25   上村 朋)

付記1.恋の歌の定義

『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義している。

第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと 

第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと

(付記終わり 2023/12/25    上村 朋)