わかたんかこれ 猿丸集恋歌確認52歌その1 編纂意図を示す歌 

 前回(2026/6/29)に引きつづき『猿丸集』歌の再確認をします。今回から第52歌です。

1.経緯

 2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。第3歌から第50歌はそのとおりであり、第51歌は異なった。

(FIFAワールドカップ決勝は7月20日スペイン対アルゼンチンとなりました。三位決定戦と違い、対照的な守備方針の両チームに延長の末1-0でスペインが勝ちました。ともに素晴らしいパフォーマンスでした。ありがとう。)

2.『猿丸集』の第52歌 3-4-52歌とその類似歌

① 『猿丸集』の52番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-52歌  やまにはな見にまかりてよめる (第51歌の詞書と同じ)

    こむよにもはやなりななんめのまへにつれなき人をむかしと思はむ

 

古今集にある類似歌 1-1-520歌  題しらず     よみ人しらず

    こむ世にもはや成りぬらむ目の前につれなき人を昔と思はむ

 

 清濁抜きの平仮名表記をすると、二句の二文字と、詞書が、異なります。

② 下記のように確認をしたところ、今回の検討では、次のようになりました。

第一 この歌3-4-52歌は、『古今和歌集』の仮名序にいう「さま」が「そへうた」にあたる。そしてその意は、『猿丸集』編纂に関する述懐の歌であり、恋の歌ではない。類似歌1-1-520歌は、同仮名序にいう「さま」が「ただことうた」にあたり、桜の花が終ろうとしているのを惜しむ歌である。

 即ち、この歌と類似歌とは趣旨が異なる歌であり、ブログ2019/11/4付けでの結論と同じである。

第二  この歌は、『猿丸集』の最後の詞書のもとにあり、最初の詞書のもとにある歌とともに編纂の意図・目的を示唆する。ブログ2020/5/18付けでの指摘は妥当であるが、現代語訳(試案)は改まった。

第三 この歌の現代語訳(試案)は、つぎのとおり。 ブログ2020/5/18付けでの(試案)を改めた。

 3-4-51歌 詞書 「山に、花見に行き、詠んだ(歌)(数々の歌集があるなかの『猿丸集』に親しみ、詠んだ(歌))」

 同 歌本文: 「この『猿丸集』の歌を参考に『萬葉集』と『古今和歌集』が正しく理解してもらえるようになってほしい。すぐにでも。(そうなったら)今、理解されていない状況も、昔そんなこともあったのだ、と思えよう。」(表面上の意は「(花を見て思うのは)行きたい夜(訪ねる夜)にも早くなりきってほしい、すぐにでも。私につれない素振りの今の貴方を、昔そんなこともした人だ、と思えよう。」)

  (「そへうた」として理解できる歌である)

第四 類似歌の現代語訳(試案)は、再確認中であるが、現在のところは、次のとおり。それは、前回での「次の世第三案」である。

 1-1-520歌 詞書: 題しらず   よみ人しらず

 同 歌本文: 「行きたい次の世にも、早く変わってほしいものである(恋が成就できる雰囲気の世に)。そう、目の前において。そうなれば、今私の目の前の、私の愛情を受け容れてくれない人のいる世界は、昔のことになるのだから(しかし、自分の意志でゆけない次の世だから、まだまだ片恋は解消しないなあ。」

  (「こむ世」と表記された歌である。また、配列より、恋の歌であって「自暴自棄になるのを、必死に思いとどまり、気持ちを整理し、望みを再確認している歌」)

第五 『猿丸集』最後の詞書のもとにある歌群(3-4-51歌と3-4-52歌)は、この歌集編纂者による後世の読者へのメッセージとなっている。

3.再考3-4-52歌 

① 確認を、詞書より始めます。

 詞書は、3-4-51歌の詞書と同じであり、ブログ2026/6/29付けで再確認しました。『猿丸集』では最後の詞書です。

 現代語訳(試案)は、次のようになりました。なお、3-4-52歌本文を確認後に両歌本文との整合を確認することとします。

「山に、花見に行き、詠んだ(歌)(数々の歌集があるなかの『猿丸集』に親しみ、詠んだ(歌)」

② 『猿丸集』が誰かに編纂された歌集であれば、巻頭歌群と掉尾歌群によって編纂の趣旨を表現しているという仮説が成り立つと私は予想しています。対象の歌は、3-4-1歌と3-4-2歌並びに3-4-51歌と3-4-52歌です(ブログ2020/5/18付け参照)。

 詞書にある「山にはな見にまかる」とは、目的の山に咲いた特定の桜木が見頃と見通して出かけてゆく、ということを意味しています。そのため、「はな」とは、特定の桜木を指していることになります。

 だから、「はな」に暗喩があるならば掉尾歌群の歌において特定の歌集(『猿丸集』)をも示唆し得るとして、ブログ2026/6/29付けで得た現代語訳(試案)が、上記の(試案)です。

 詞書を上記の(試案)のもとで、3-4-51歌の歌本文の現代語訳(試案)が得られ、3-4-51歌は、類似歌と異なる趣旨を詠う歌であるものの、恋の歌ではない、という(3-4-50歌までの通例と異なる)理解になりました(ブログ2026/6/29付け参照)。

③ 次に、歌本文を再確認します。

 歌本文は、前回(ブログ2019/11/4付け)、つぎのように二つの文からなる、と理解しました。

文A こむよにもはやなりななん めのまへに: 詞書からの結論、決意あるいは予想

文B (めのまへに)つれなき人をむかしと思はむ: 文Aの再確認

       (同ブログ「11.⑧」より。)

 前回の検討で、同音異義の語句をいくつか確認しました。三句にある連語「めのまへ」もその一つであり、「a見ている、すぐ前方。眼前」と「b見ているうち。みるみる、」の意があります(『例解古語辞典』)。その二つの意を掛けている歌とみて、三句「めのまへに」は、上句にも下句にもかかるという理解です。

 三句を掛けているとして無理のない歌意となれば、その理解を採ってよい、と思います。

 そして、前回、次の現代語訳(試案)を得ました。

「(花を見て思うのは)行きたい夜(訪ねる夜)にも早くなりきってほしい、すぐにでも。(そうなったら)私につれない素振りの今の貴方を、昔そんなこともした人だ、と思えよう。」(以下「歌本文の前回の現代語訳(試案)」と称します。)

④ さて、この「歌本文の前回の現代語訳(試案)」は、その詞書にある「やま」が、「山」の意ではなく、「屋間、即ち建物と建物の間」の意であり、詞書にある「はな」に恋の相手の暗喩があるとみてのものでした。(同ブログでの第十一案。 同ブログ「12.⑤」に再掲。)

 この(試案)を得た後に、詞書の理解が上記①に示したように替わっています。

 そのため、今回、改めて現代語訳を試みる必要があるかどうかを確認し、その結果得られる現代語訳(試案)と詞書との整合と類似歌との関係を再確認することとします。

⑤ 上記①の詞書の現代語訳(試案)は、「はな」に、特定の歌集(『猿丸集』)の示唆があるとしたものです。

 その「はな」という語句は、歌本文には用いられていません。

 「はな」という語句と縁の深そうな語句(例えば、「いろ」、「さきみだる」、「ちる」、「うつる」、「ながめる」など)も歌本文には用いられていません。

 そのため、「はな」が「恋の相手」でも「『猿丸集』」でもそのほか何を示唆していても、歌本文の表面の歌意に影響を与えておらず、歌本文の理解は、同一であってもよい、といえます。詞書を無視しても或いは関係あるとしても、現代語訳(試案)は変わりようがない、ということです。

 詞書を無視した場合は、3-4-52歌本文は、類似歌のまさに異伝歌と言えます。

 詞書に関係あるとした場合は、詞書にある「はな」が「恋の相手」を示唆している、と理解した前回は、一言「はな」に触れた語句を付け加えた、(上記③に記した)「歌本文の前回の現代語訳(試案)」となりました。

⑥ 詞書の理解が改まったのですから、「はな」に特定の歌集(『猿丸集』)の示唆があるとして、一言「はな」に触れた現代語訳(試案)も可能に見えます。例えば、

「(『猿丸集』を見て思うのは)行きたい夜(訪ねる夜)にも早くなりきってほしい、・・・」

 しかし、『猿丸集』に関して示唆しようとしている事がらがこれではわかりません。   言葉を尽くした意訳が望ましく思えます。

 この歌の詞書には、その全体でもって、その文言を表面上追った意のほかに別の意が込められていました。

 3-4-52歌の歌本文も、一首全体の文言を表面上追った意のほかに別の意(ここでは、『猿丸集』に関する作者の思い)を加えた現代語訳を試みます。

⑦ このような理解を許す(あるいは求める)作詠方法の歌は、『古今和歌集』の仮名序では、「さま(和歌独自の、形式や或いは表現に関する詩句法など)がそへうたである歌」として述べられています(付記1.参照)

 竹岡正夫氏の表現を借りると、「そへうた」とは、(諸説が大体一致しているように)「一首全体がいわゆる暗喩になっている歌」であり、「一首全体の裏に作者の≪情≫が添えられている歌」です。

 そのため、上記①の現代語訳(試案)という理解をした詞書のもとにある歌として、歌本文は、上記③の「歌本文の前回の現代語訳(試案)」に「一首全体の裏に作者の≪情≫を添え」た文章を加えれば、3-4-52歌の現代語訳(試案)となり得ます。

⑧ 最初に、一首全体の文言を表面上追った意を再確認します。「歌本文の前回の現代語訳(試案)」の再確認です。

 いくつかの同音異義の語句が歌本文に用いられており、今回も同じ結論に至りました。

第一 初句にある「こむよ」は、動詞「来」の未然形+助動詞「む」の連体形+名詞であり、「来む世」と「来む夜」の二意があります。

「来む世」は、「来」の意を「来る」、「む」の意を「物事の実現予測する意・事態を不確かなこととして推量したりする意」とし、「世」を、「次の世」(作者が死んで後に行く世界を漠然という)の意となります。

「来む夜」は、「来」の意を(目的地に自分がいる立場でいう)行く」とし、「む」の意を「あることを実現しようする意思・意向を表す」意です。「来む夜」は、「行きたい夜」ということになります。 

第二 三句にある「めのまへ」は、上記③に記したように、2意があります。

第三 初句と五句にある「む」は、初句では(動詞「来」の意より)「意思・意向」の意にもなります。五句では五句「むかしと思はむ」とは、文Aをうけて当然視できることを言っていますので、「推測」の意です。

⑨ 3-4-52歌の表面上の歌意は、これまでの歌の例にならい恋の歌とすれば、逢うことが拒否されているにも関わらず相手におくった歌と理解できます。それも山に「はな」を見に行って、詠んだ歌です。

 山にある「はな」は、対岸の花であればそばに近寄れません。あるいは見に行くのに時間を要し道中の苦労もあります。それらから恋の相手のことを連想したのでしょうか。

 いづれにしても望みが叶うような返事を期待している歌であって、諦めたと通告している歌ではない、と言えます。

 それなのに、初句にある「こむよ」が(仏教でいうところの)来世、あるいは(俗信として単に転生する)「次の世」の意の場合、一度死ぬという仮定をおいて詠っているのは、相手も一度死ぬという仮定の歌となります。私は死んだ後でも貴方を待つという訴えは、怨霊になるというのと、どこが違うのでしょうか。現代で言えばハラスメントともつきまといとも取られかねない、詠いぶりです。

 歌本文において、文Aの「こむよ」と「めのまへ」及び文Cにある「むかし」とが、転生できるという認識のもとでの人の一生を単位とした時系列上での区分(類似歌におけるよくある理解)で歌を詠むよりも、月や季節を単位とする時系列上での区分で詠むほうが穏やかです。

 近々に逢えることを想定した「来む夜」として相手に自分の思いを訴えるほうが、作者に異常な狂気はないことが伝わると思います。この歌は相手(側)に示しているものであり、作者の願望を拒否する理由とされるような行為や文言は避けているはずです。

 また、同じ詞書のもとにある3-4-51歌との関係でも両歌が現世を舞台として相手に訴えるほうが、穏やかです。

 そのため、ここでは、恋の歌として、「来む夜」を採ります。

⑩ 「こむよ」とは、「行きたい夜」、「むかし」とは「こむ夜」が到来した時点からみた「むかし」であるので、この歌の作詠時点を指し、「めのまへ」は連語であって「見ているうち。みるみる」(文A)と理解できます。

 このため「歌本文の前回の現代語訳(試案)」は、妥当であると確認しました。

⑪ 次に、詞書の「数々の歌集があるなかの『猿丸集』に親しみ、詠んだ(歌)」として上記③の文Aと文Bの現代語訳を試みます。

 『猿丸集』は、「猿丸」という人物が作者に擬せられた歌集の体をとっていますが、作者自身が編纂した歌集ではなく、後年誰かが編纂した歌集ということは疑いがありません。

 その理由は、次のとおり。

第一 類似歌の多くを『萬葉集』か『古今和歌集』記載の歌となっているのは、それを事前に承知している人物が作者である確率が高い。だから、『古今和歌集』編纂以後の時代の人物が『猿丸集』歌の作者となります。しかし、その時代であれば、この歌集以外に「猿丸」が作者という歌に言及した古文書があってもよさそうな時代なのに、それがありません。

第二 『古今和歌集』の真名序に「(六歌仙のひとりである)大友黒主之歌、古猿丸大夫之次也」とある「猿丸大夫」という名は六国史に登場しません。「猿丸大夫」の活躍が、大友黒主と同時代としても、『猿丸集』のような内容の詞書をつけて歌を記録する習いがあったことが疑わしいところです。

第三 和歌に関する古文書で、「猿丸」(あるいは猿丸大夫)が具体の歌の作者名としてはじめて登場するのは、藤原公任が撰んだ『三十六人撰』(11世紀初頭成立)が初めてです。しかし、その歌は『古今和歌集』の巻四「秋歌上」にあるよみ人しらずの歌1-1-215歌です。第二の人物(「猿丸大夫」)の歌であったとしても『古今和歌集』編纂時点には作者名も伝えられていなかったことになります。

第四 『三十六人撰』成立頃、『萬葉集』の解読はまだ不十分であり、『古今和歌集』も個々の歌本文のみに拘り配列の考察がまだすすんでいませんでした。

これらの理由から、「猿丸」の名が歌人という認識が生まれて以後(少なくとも『三十六人撰』編纂以後)に誰かが編纂した歌集が『猿丸集』といえます。

 編纂にあたり、一定の編纂方針を設け、歌の配列や表記方法などに反映しているはずです。

⑫ 『猿丸集』の各歌は、ブログ「わかたんかこれ・・・」でのこれまでの各歌とその類似歌の検討により、すべての歌が、類似歌とは詞書が異なり、かつ歌本文の意も異なっているのを確認しています。歌本文にある同音異義の語句が詞書とともに曲者です。

 『猿丸集』が編纂された当時、中国における漢詩集に対して、大和の歌に関する歌集で当時尊重されていた歌集は、勅撰集と信じられていた『萬葉集』と『古今和歌集』が第一です。両歌集とその歌集にある歌の正しい理解のための提案を遠回しにこの歌集はしていることになります。

 歌本文での一、二文字の違いで詞書に基づき歌意がはっきり異なる例を52例示した『猿丸集』は、『萬葉集』などの理解においても詞書を重視した見直しを提案しているに変わりありません。

 そのようにして、『三十六人撰』にある人物であって詠った歌が知られていなかった猿丸の名を冠して編纂されたのが『猿丸集』ではないか。

⑬ そうすると、『猿丸集』編纂者は、序を設けないとするならば、その編纂意図を巻頭や掉尾の歌に忍ばせているのではないか、と推測します。

3-4-52歌は「そへうた」としてその役割を担っている一首ではないか。

詞書にある「はな」が示唆するのは、『猿丸集』ではなく、類似歌のある主たる歌集(『萬葉集』と『古今和歌集』)かもしれません。

上記③の文Bにある「つれなき人」は、『萬葉集』と『古今和歌集』の歌を誤解している人物(複数)を示唆していることになります。

現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 文A この『猿丸集』の歌を参考に『萬葉集』と『古今和歌集』が正しく理解してもらえるようになってほしい。すぐにでも。(詞書を踏まえて期待を述べる)

(「歌本文の前回の現代語訳(試案)」は、「(花を見て思うのは)行きたい夜(訪ねる夜)にも早くなりきってほしい、すぐにでも。」)

 

 文B (そうなったら)今、理解されていない状況も、昔そんなこともあったのだ、と思えよう。(文Aが実行された後に確実に生じると推測していることを述べる)

(「歌本文の前回の現代語訳(試案)」は、「私につれない素振りの今の貴方を、昔そんなこともした人だ、と思えよう。」)

 

⑭ 3-4-51歌の現代語訳(試案)も、「そへうた」でした(ブログ2026/6/19付け参照)。『猿丸集』が正しく理解されることを願っている歌と理解しましたが、願っているのは『萬葉集』と『古今和歌集』のことであったかも知れません。

3-4-51歌とともに、3-4-52歌は、この歌集編纂者の『猿丸集』の後世の読者へのメッセージとなっています。

⑮ 『源氏物語』などにみるように歌のやりとりが官人とその関係者との間では、知名度の高い歌(場合によってその著名な句のみ)を口にすることで、当事者が連想する事柄や話題となっている人物の行動(場合によっては歌意に反対の行動)を示すことが出来ていた時代です。それは、自由に異伝歌や類歌が生まれやすい環境にあったとも言えるのではないか。

『猿丸集』の詞書は、詠作した人物が詠んだ歌を送る事情を、記しています。おくった歌は一見類似歌の異伝歌のような歌を用いて、相手に意思表示をした例になっている、といえます。

⑯ 次回は、類似歌を再確認し、3-4-52歌とともに詞書との関係も再確認します。

 今回の作業で確認した結果をまとめると、上記「2.②」のとおりです。

 ただし、その第五に記した類似歌に関する現代語訳(試案)は、再確認前のブログ2019/10/28付けでの「次の世第三案」を仮に記載しています。その(試案)は、『古今和歌集』の配列上からは、作者の「思い果て無し」の気持ちを詠っています。

 ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

(2026/7/20  上村 朋) 

付記1.古今集仮名序にいう「さま」について 

 第一 六つのさまとは、「≪情≫と≪景≫との布置配合・浸透のしかたに六つの種類があるということ。その観点は、王昌齢の「十七勢」や釈皎然の「十五例」に類するもの。」(竹岡正夫『古今和歌集全評釈 上』97p)

 第二 情とは、心に思うこと。景とは、見る物聞くもの。歌とは情を景に託して表現したもの(同上96p)。

 第三 仮名序には、その冒頭に、「(やまと歌は)、世の中にある人、ことわざ(事業)しげき(繁き)ものなれば、心におもふことを、見るものき(聞)くものにつけていひだせるなり」、とある。

(付記終わり  2026/7/20  上村 朋)

 

わかたんかこれ 猿丸集恋歌確認51歌 「さくらばな」は猿丸集

  前回(2026/6/2)に引きつづき『猿丸集』歌の再確認をします。今回は第51歌です。

1.経緯

 2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。第3歌から第50歌はそのとおりであった。

2.『猿丸集』の第51歌 3-4-51歌とその類似歌

① 『猿丸集』の51番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-51歌  やまにはな見にまかりてよめる

      をりとらばをしげなるかなさくらばないざやどかりてちるまでもみむ

 

古今集にある類似歌 1-1-65歌  題しらず     よみ人しらず

      をりとらばをしげにもあるか桜花いざやどかりてちるまでは見む

 

 清濁抜きの平仮名表記をすると、二句の四文字と五句の一文字と、詞書が、異なります。

 

② 下記のように確認をした結果は、次のようになりました。

第一 この歌3-4-51歌は、『古今和歌集』の仮名序にいう「さま」が「そへうた」にあたる。そしてその意は、『猿丸集』に関する述懐の歌であり、類似歌1-1-65歌は、同仮名序にいう「さま」が「ただことうた」にあたり、桜の花が終ろうとしているのを惜しむ歌である。

第二 このため、この歌と類似歌は趣旨が異なる歌であり、前回(ブログ2019/10/19付け)の結論と同じである。しかし、この歌の趣旨は前回と異なり、また、同2020/5/18付けでも指摘したように、恋の歌ではない。

第三  この歌は、『猿丸集』の最後の詞書のもとにあり、最初の詞書のもとにある歌とともに編纂の趣旨を示唆する。ブログ2020/5/18付けでの指摘は妥当である。

第四 この歌の現代語訳(試案)は、つぎのとおり。 ブログ2020/5/18付けでの(試案)を改めた。

 3-4-51歌 詞書 「山に、花見に行き、詠んだ(歌)(数々の歌集があるなかの『猿丸集』に親しみ、詠んだ(歌))」

 同 歌本文: 「もし折って取ったなら、(花を)手放すのはしのびないと惜しんでいるのであろうか。桜の花よ。それじゃ宿をお前に借りて散る切るところまでも見とどけよう(『猿丸集』を後世に伝えないならば、残念なことになってしまうなあ。『猿丸集』よ、私が後世に残す工夫をするから、『猿丸集』が正しく理解されることも実現するであろうよ)。」

  (そへうたとして理解する)

第五 類似歌の現代語訳(試案)は、つぎのとおり。前回に同じである。

 1-1-65歌 詞書: 題しらず   よみ人しらず

 同 歌本文: 「もし折って取ったなら、いかにも惜しむような様子だなあ、あの桜の花は、さあ、それじゃ宿を借りて、散るところまでは見とどけよう。」

第六 『猿丸集』最後の詞書のもとにある歌群は、(3-4-52歌の確認はこれからですが)この歌集編纂者の後世の読者へのメッセージとなっている可能性があります。

 

3.再考3-4-51歌 

① 確認を、詞書より始めます。

 詞書は、文字を追ってみると、作者の行動を二つ記している、と理解できます。

 即ち、「やまに」花見を目的として行ったことと、行って見聞したことに起因して歌を詠んだこと、の二つです。

 この詞書は、次の歌3-4-52歌の詞書でもあります。『猿丸集』では最後の詞書となります。

② 『猿丸集』は、52首からなる、猿丸(大夫)という人物に仮託した歌集と言われ、異伝歌を集めた歌集ともいわれてきています。しかし、遥かに後人が編纂した『人丸集』や『赤人集』と異なり全部の歌が新たな詞書を付けて集録されており、他人が編纂した歌集としては変な歌集です。

 そのため、私は異伝歌といわず、「『猿丸集』の歌本文」と言い、異伝歌を生んだという元資料の歌をさして(『猿丸集』の歌本文の)「類似歌」と称して検討してきました。

 ここまで検討してきたところでは、『猿丸集』の歌は3-4-50歌まで、すべて、的確な表現の詞書のもとにある新たな歌ばかりを配列していました。

 古来の歌の異伝歌を配列している歌集ではなく、歌意は、その古来の歌(類似歌)と異なっていました。そこに編纂者の意図を感じます。

 そして、『猿丸集』が誰かに編纂された歌集であれば、巻頭歌群と掉尾歌群は、組み合わされて編纂の趣旨を表現しているという仮説が成り立つことを確認しました。対象の歌は、3-4-1歌と3-4-2歌並びに3-4-51歌と3-4-52歌です(ブログ2020/5/18付け参照)。

③ 今回、仮説が成り立つ理由として、さらに、作詠時点における作者とその相手の人物との物理的な距離感の違いを、加えることができます。

 恋の歌としてみると、3-4-3歌から3-4-50歌は、作詠時点において作者(作中人物)とその相手の人物は同席していません。そして作者は同席できることを願い男女の仲が続くことを願っています。

 それに対して、3-4-1歌と3-4-2歌と3-4-51歌は同席しているかに詠い、3-4-52歌はこの世で逢えないことを観念しているかに詠い、作詠時点における作者とその相手の人物との距離感が全く違います。つまりこの4首の歌は、詠う目的がほかの歌とは異なっている(恋の歌ではない)、と理解可能です。

 そうであるならば、この4首は歌集である『猿丸集』において、最初にある歌群と最後の歌群を構成するとみなすことができますので、歌集編纂者が、編纂にあたっての考え方を記しているのではないか、と推測できます。

④ だから、3-4-51歌と3-4-52歌は、恋の歌の理解が可能であっても、そのように理解するのは『猿丸集』の歌として誤りである、と思います。

 そのため、この詞書は、3-4-50歌の詞書と同様に、「やま」は「屋間」ではなく「山」の意であり、「はな見に」とは「花の咲いている時期の桜の木々を目前に見ようとして」の意である、と素直に理解してよい、と思います。

 即ち、現代語訳(試案)は、次のとおり。

 「山に、花見に行き、詠んだ(歌)」

 「山」とは、『猿丸集』編纂当時(例えば『古今和歌集』編纂後から藤原公任の『三十六歌仙』選定までの期間)、平安京に住む官人にとり、居宅や勤務先とともに日常の生活圏にある存在です。寺院があり、別荘を設けるところのひとつであり、都と地方との境である関所がある空間をもイメージさせる詞です。

 だから、「やま」は、身近な存在です。

⑤ 詞書は、花見の対象の「はな」は、「やま」にある「はな」と言っており、特定の桜木が花見の対象です(ブログ2020/5/18付け「9.」参照)。

「はな」に暗喩があるならば、その候補は、(作者を男性とみて)特定の女性と、歌集の最後の詞書であることから当該歌集(『猿丸集』)自体もあるとも指摘しました(同上)。

 後者の場合、この詞書には、次のような暗喩がある、と理解することが『猿丸集』の最後の詞書であるので可能です。

「数々の歌集があるなかの『猿丸集』に親しみ、詠んだ(歌)」

そうすると、歌本文にもこれに照応する暗喩があるはずです。

⑥ 次に、歌本文です。

 歌本文は、つぎのように四つの文からなる、といえます。

文A をりとらば : 作者の特定(複数も可)のサクラの花に対する行動を仮定している(文Bの前提条件)。

文B をしげなるかな :  その仮定の行動に対する、そのサクラあるいはサクラの花からみた批判を、作者が推測している(それはサクラの木を擬人化していることになる)。

文C さくらばな : 作者の、そのサクラへの呼び掛け。

文D いざやどかりてちるまでもみむ :作者が実際に行おうとする行動を宣言する。

 詞書にあるように「花見に行き」、そのときの自問自答を歌にしているようにみえます。

⑦ この四つの文を再確認します(歌本文にある暗喩は後程確認します)。

 作者が文Aで仮定した「をりとる」という行為は、見に行ったその山でいくつかの枝を折り取ることであり、見た多くの桜木からそれぞれ一枝づつ折り取る、というようなことではないでしょう。作者にとり、「をりとる」目的は花を愛でることであり、その本数は、瓶に挿す程度の量であり、ご近所に配るとしても、宴席に提供するとしても量は多寡が知れています。

 一枝、二枝でも折り取ることが「をし」と思うのは、そすると、作者ではなく、沢山花を咲かせている枝のあるサクラの木の感覚ではないか。枝を折られるのは花が散ってしまうことに変わりありませんから。

 類似歌においては、竹岡正夫氏が「枝を折り取られること」をサクラの木自身が「をし」と思っている、と指摘しています。類似歌の二句の主語は作者であると氏はみています。

⑧ この歌と類似歌での作者の思いは異なります。

 この歌の文Bでは「をしげなるかな」とあり、類似歌の二句では「をしげにもあるか」とあります。そして両者において「をしげ」は同じ理解(サクラの木自身の思い)であっても、歌の作者の思いは「なるかな」と「にもあるか」と異なっています。

 助詞「かな」は、体言や活用語の連体形について、詠嘆的に文を言い切るときに用いられる語句です。

 助詞「か」は、係助詞であれば体言や活用語の連用形について疑問の意を表します。ここでは、動詞「あり」の連体形についているので、終助詞として、「a感動文として、文を言い切るのに用い、感動の意を添える。b疑問文として、文を言い切るのに用いられ、疑問の気持ちを添える」という2意があります(『例解古語辞典』)。

 文Dからは作者も散るのを急かせる気はない、と推測できます。このため、文Bは、まだ咲いている枝の一部をサクラの木から折り取るのは花を散らしてしまうことと同じであるので、未だ散るまいと努力しているサクラの木にとっては不本意なことをされると取られてしまうのかなあ、と詠嘆的に言っている、と理解できます。

⑨ 類似歌である1-1-65歌の竹岡正夫氏の現代語訳は次のようなものです。

「もし折って取ったなら、いかにも惜しむような様子だなあ、あの桜の花は、さあ、それじゃ宿を借りて、散るところまでは見とどけよう。」

 「にもあるか」の「か」は、感動の意と理解しているようです。

⑩ 文Cは、桜花への呼び掛けと理解できます。

 思いなおして、桜木に呼びかけ、桜木の気持ちに同調し、手折るのは止め、散り切るまでをみまもることにする、と桜木に告げたのが文Dではないか。

 文Dには「ちるまでもみむ」とあり、見とどけようとしていることが、桜花の散る状況のほかにも作者にはあるのではないか。つぼみのふくらみ具合も愛でたように風に抵抗しつつ散って行く様子も愛でたい、という気持ちを作者は持っている、と思えます。

⑪ 以上の再確認から、この歌の現代語訳を試みると、次のとおり。

「もし折って取ったなら、(花を)手放すのはしのびないと惜しんでいるのであろうか。桜の花よ。それじゃ宿をお前に借りて散る切るところまでも見とどけよう。」

作者は、散らさざるを得ない桜木の味方をしたい、という気持ちではないか。

⑫ この歌を、このように理解すると、類似歌と同じく桜の花が終ろうとしているのを惜しむ歌と理解できます。

 さらに、文Cの「さくらばな」が女性を示唆しているならば、この歌は「やどをその花に借りよう」というのですから、一つの部屋に二人が居るのがもう許されているかの詠いぶりです。これは、3-4-50歌までの作詠時点における男女の関係とだいぶ異なります。

 これは、上記⑤で指摘した「はな」の暗喩が「(作者を男性とみて)特定の女性」の場合の歌本文の理解、といえます。

 しかし、歌集の最後の詞書のもとにある歌本文の役割は希薄です。

 なお、「をりとる」ということが、男女の仲を裂いていたものを力づくで取り除くことを示唆しているという理解をすると、「をしげにもあるか」以下の示唆するところがはっきりしません。

⑬ 詞書が歌集の最後の詞書であることを重視して、「はな」の暗喩として上記⑤で指摘した『猿丸集』自体であるとすると、文A~文Dは別の理解となります。

 文Aは、『猿丸集』を折り取る、即ち、「『猿丸集』を後世に伝えない(ならば)」、という文Bの前提条件となります。

 文Bは、それは、「をしげなり」という評価に(残念ながら)なってしまう、と詠嘆的に作者は推測しています。

 文Cは、『猿丸集』よ、という呼びかけです。

 文Dの「やどをかり」とは、一時留まる、即ち『猿丸集』の編纂を完成して後世に残すことを暗喩しています。

「ちるまでもみむ」とは、『猿丸集』(の提起している事がら)の理解の進むのも見るだろう、ということになります。

 助動詞「む」は、「a物事の実現を予測するなどの意を表す  bあることを実現しようとする意志・意向を表す」意があります。ここでは将来のことですからaの意を採りました。

⑭ そうすると、歌本文全体の暗喩はつぎのように理解できます。

 「『猿丸集』を後世に伝えないならば、残念なことになってしまうなあ。『猿丸集』よ、私が後世に残す工夫をするから、『猿丸集』が正しく理解されることも実現するであろうよ。」

 即ち、『猿丸集』最後の詞書のもとにある歌群は、この歌集編纂者の後世の読者へのメッセージとなっています。

(ブログ2020/5/18付け「10.③」に示した 3-4-51歌の現代語訳(試案)別案(歌本文すべてが述懐の歌と理解した「掉尾前51歌の新解釈」の現代語訳をこのように改訳します。)

⑮ このような理解をする歌は、『古今和歌集』の仮名序にいう「さま」が「そへうた」の歌に該当します。

 前歌3-4-50歌も、『古今和歌集』の仮名序にいう「さま」が「そへうた」でした。

 この歌の現代語訳(試案)は、前歌3-4-50歌にならい、次のように改訳します。

詞書: 「山に、花見に行き、詠んだ(歌)(数々の歌集があるなかの『猿丸集』に親しみ、詠んだ(歌))」

歌本文: 「もし折って取ったなら、(花を)手放すのはしのびないと惜しんでいるのであろうか。桜の花よ。それじゃ宿をお前に借りて散る切るところまでも見とどけよう(『猿丸集』を後世に伝えないならば、残念なことになってしまうなあ。『猿丸集』よ、私が後世に残す工夫をするから、『猿丸集』が正しく理解されることも実現するであろうよ)。」

 そして、また次の3-4-52歌も、『猿丸集』の最後の詞書の歌であるので、「さま」が「そへうた」であろうと、予想します。

4.再考1-1-65歌

① 3-4-51歌の類似歌は、『古今和歌集』巻一にある1-1-65歌です。

 その理解は、前回(ブログ2019/10/19付け)では、巻一の配列を確認し、1-1-65歌と1-1-66歌を、「いよいよ散り始めた桜に対してまだ楽しむ方法を2案提案している一対の歌と認めたうえで、竹岡正夫氏の現代語訳を採りました。

 その歌本文は、上記「3.⑨」に引用しました。詞書は、「題しらず  よみ人しらず」です。

 二句にある「をしげにもあるか」の「か」は詠嘆の助詞と氏は理解しています。

② 氏は、「「をしげ」とは、折り取ると、桜が惜しむ、そんな様子にみえるというのである」と指摘しています。

 配列からの考察を氏は示していませんが、散るのをサクラ自身が惜しんでいるという思いが作者にある、という指摘は妥当な理解である、と思います。

 久曾神昇氏は、「をしげ」と思うのは作者自身とみなしています。

③ なお、この歌と対となって配列されている歌は次のとおり。

1-1-66歌 題しらず   よみ人しらず

   さくらいろに衣はふかくそめてきむ花のちりなむのちのかたみに

 

5.再考この歌と類似歌を比較すると

① このような確認をした結果、この歌3-4-51歌と類似歌1-1-65歌は別の歌であり、この歌は類似歌の異伝歌ではありませんでした。

② 二句の文が異なるのは、作者の意図が異なっていることの反映です。

③ それぞれの歌集での部立て(ただし部立てがある場合)と当該歌の詞書及び前後の歌の配列順から導かれた理解による結果といえます。それぞれの歌集の編纂方針が明確にある、といえます。

④ 今回の作業で確認した結果をまとめると、上記「2.②」のとおりです。

ブログ「わかたんかこれ ・・・」   をご覧いただき、ありがとうございます。

 次回から3-4-52歌を再確認します。

(2026/6/29  上村 朋)

 

わかたんかこれ 猿丸集恋歌確認50歌その2 みぬ人は誰

  前回(2026/6/2)に引きつづき『猿丸集』歌の再確認をします。今回は第50歌の二回目です。

1.経緯

 2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。第49歌まではそのとおりであった。

2.再考3-4-50歌 (承前 なお、①を再掲し、②は今回の修正後を掲出する)

① 『猿丸集』の50番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-50歌  はな見にまかりけるに、山がはのいしにはなのせかれたるを見て

   いしばしるたきなくもがなさくらばなたをりてもこんみぬ人のため

 

古今集にある類似歌 1-1-54歌  題しらず     よみ人しらず

   いしばしるたきなくもがな桜花たをりてもこむ見ぬ人のため

 清濁抜きの平仮名表記をすると、五句の一文字と、詞書が、異なります。

② 下記のように確認をした結果は、次のようになりました。

第一 この歌3-4-50歌は恋の歌であり、類似歌1-1-54歌は、四季のひとつである春に咲くサクラへの思いを詠う歌である。このように二首の歌は、趣旨が異なる歌であり、この結果は、前回の結論と同じである。

 具体には、この歌は、思いを寄せる人に近づきがたいのを嘆く、恋の歌であり、類似歌は、桜を皆で愛でる春の歌である。

第二 この2首の現代語訳(試案)は、理解が深まり、それぞれ改訳となった。つぎのとおり。

 3-4-50歌 花見に行ったところ、山中を流れる川にある石に、花がせき止められていたのを見て(詠んだ歌)   

「石の上を激しく流れ落ちる滝(石の上を走るように流れる滝」)が無ければなあ。サクラの花は、手折ってこようものを。このサクラを見てない人のために(歌全体に暗喩がある。滝のように遮っているような存在が無ければなあ。サクラの花を折り取ってこようものを。まだ花を見ることも叶わない私のために。)」 

1-1-54歌 題しらず  よみ人しらず  

「石の上を激しく流れる奔流がないわけにもいかぬかなあ。あの桜花は、せめて手折ってでも来ように。この景を見ないという人のために。」

第三 この歌の歌本文にある「はな」には、憧れの女性の暗喩があるので、この歌は恋の歌となっている。この歌は、『古今和歌集』の仮名序にいう「さま」が「そへうた」にあたる。

第四 類似歌は、『古今和歌集』の部立て「春歌上」にある歌であり、春にサクラとの出会いにより満足感を得たいと詠う。歌全体に暗喩はない。

第五 類似歌のある『古今和歌集』の巻一の配列は、歌番号が奇数の歌と次の偶数の歌を一対として季節の推移を追って配列している。類似歌1-1-54歌は、1-1-53歌とで一対となっている。

3.再考 類似歌1-1-54歌及び対となっている1-1-53歌 

① 前回1-1-50歌を確認しました。次に、類似歌です。

『古今和歌集』の部立て「春歌上」に配列されている歌です。

「春歌上」の配列をみると、梅の景を詠う歌が終わり、題詞に「うゑたりけるさくらの花さきはじめたりける」とある1-1-49歌から桜の景を詠う歌が続き、その6番目の歌が類似歌1-1-54歌です。

 桜の景を詠う歌は「春歌上」の最後まで続き、歌群が二つ認められます。即ち、1-1-60歌までの歌群とそれ以降の歌からなる歌群です(付記1.参照)。

 仮名序の和歌の定義に従えば、この歌は、春という時期における「見るものきくもの」につけて「心におもふこと」を詠んだ歌のうち、「見るものきくもの」が桜に関するもののはずです。

 「心におもふこと」とは、桜に関する景に触発された「喜び、感動、発見、感謝、希望、諦観、不安、一体感、共感、開放感、安心感、悲しみ、憂愁、決意、あるいは怒り」などの何れかかその複合ではないか。

② 部立て「春歌上」は、奇数番号の歌とその次の偶数番号の歌とが一組となって、ある主題を詠っています。今回再確認しました(付記1.参照)。

 桜は国内に自生の植物(品種はヤマザクラ,オオシマザクラなど9種)であり、『古今和歌集』の編纂者の時代には庭園に配する植物のひとつとなっていました。

 今回確認したところ、原則として自生している山の桜と身近に見る桜(庭園・花瓶・屏風絵などにあるサクラ)との各1首で一組となって配列され、1-1-60歌までの歌群は、咲いた桜を景とした歌群として各組に主題がありました(付記1.参照)。

 1-1-54歌は1-1-53歌と対となっている歌であり、以下に検討した結果、主題は、毎年巡り来る桜に出逢えた喜び・感動・感謝という思いであり、さらに大満足を得たいという思いです。前者は自生する山の桜の景で、後者は身近に見る桜の景を詠っています。 

③ 歌集の順番に従い、対となっている1-1-53歌から確認します。

1-1-53歌 なぎさの院にてさくらを見てよめる  在原業平朝臣

   世の中にたえてさくらのなかりせば春の心はのどけからまし

 詞書を最初に検討します。

『古今和歌集』の部立て「春歌上・下」の詞書で、単に「さくら(のはな)をよめる」という表記もあるなかで、「さくらを見て」とある詞書が9題あります。みな作者が目視したことに起因して当該歌が詠まれたことを明示した詞書といえます(付記2.参照)。

④ 語句の確認をします。

 「なぎさの院」とは、現在の枚方市にあった天皇家代々の所有地を言い、作者業平がお供するなどした惟喬親王(これたかのみこ)が専ら利用していた時期があります。

「なぎさの院にて」とは、その所有地(当然宿泊可能な建物群などがあります)に赴いて、ということです。そこで作者業平がとった行動は、第一に「さくらを見て」、第二に「(この歌を)よめる」(即ち披露した)、ということです。

 『古今和歌集』記載の歌(部立て「羇旅歌」にある1-1-418歌)によれば、業平は惟喬親王のお供でなぎさの院に宿泊したことがあります(付記3. 参照)。

 その惟喬親王(承和11年(844)~寛平9年2月20日(897))は、857年元服し、四品に任じられ、858年大宰権師、872年(28歳)に病のため出家し小野に隠棲され、その後、山崎・水無瀬にも閑居したといわれています。

 母は更衣紀静子です。病弱である父の文徳天皇(858年薨去)が一度は皇位継承者にと考えたことがある長男です。なお、皇位を継いだのは母が藤原良房の娘明子である四男でした(在位858~876年の清和天皇)。惟喬親王の歌は『古今和歌集』に2首あります(1-1-74歌、1-1-945歌)。

 作者である在原業平(天長2年(825)~元慶4年(880))は、惟喬親王より19歳年上であり、平城天皇の孫のひとりであり、兄行平(ゆきひら)とともに在原の姓を賜っています。

⑤ この詞書は、『古今和歌集』にある業平が作者である歌の中では、費やしている文字数が大変少ない詞書のひとつです。

 詠まれた(披露した)場所と、詠むきっかけになったらしい「さくらを目視した」ということだけを記しています。

 披露した場所がなぎさの院なので、この歌は、公的な行事や会合で披露した歌あるいは天皇へ奉った歌ではない、と言えます。

 「さくらを目視した」と記したのは、作詠時点が桜の花が咲いている時点であることを示しています。そして、桜の形状・所在地に言及していないので、この歌は、特定の桜の形状に注目した歌でもなく、特定の日時や行事において披露された歌でもない、ということも示しています。

 この詞書は、そのため、惟喬親王や業平の境遇が歌本文の理解に直接関係ないことを明言している、と理解できます。

⑥ 現代語訳を試みると、次のとおり。

「なぎさの院において、桜を見て詠んだ歌   在原業平」

 詞書において割愛しているものを改めて例示すると、例えば、業平がなぎさの院に赴いた理由、披露した際同席していた人物あるいはこの歌をおくった人物、目視したさくらの状況(自生のサクラ、植えたサクラ、屏風絵に描かれたサクラ、宴の席の花瓶に活けてあったサクラ、)などです。それらに関係なく詠われた歌である、と理解できます。

⑦ 次に、歌本文を検討します。反実仮想の文章であり、二つの文からなります。

文A 世の中にたえてさくらのなかりせば:論を立てる前提の仮定を設定している。

文B 春の心はのどけからまし:文Aの仮定における作者の思いを示す。

 文Aは、春一斉に咲くサクラという植物の存在を否定する、という仮定です。誰もが春にサクラという植物に出あわなかったならば、という仮定です。

 文Bにある「春の心」とは、竹岡正夫氏は「春の風物にとけこむ平安人の気持ちをさす」と指摘しています。漢語「春心」とは異なる」(小島憲之氏)とか、「春の季節による心のおもむき」(久曾神昇氏)という指摘があります。

 文Bにある形容詞「のどけし」とは、「aのどかだ・うららかだ。bゆったりしている・落ちついている。cおうようだ・のんびりしている。」意があります(『例解古語辞典』)。

 この歌本文は、『伊勢物語』にも登場し、「なぎさの院」には親王が狩のため宿泊され、その際連れてきた人物が詠んだ歌となっています。

⑧ 竹岡正夫氏は、この歌について、『余材抄』の「咲をまち、ちるををしみ、さかりなるほども雨をいとひ、かぜをいとひおそれなど、(桜を)愛するあまりに心のいとまなき」より詠んだと解しているのが素直であり従うべきである、と指摘しています。

『余材抄』の理解は、部立て「春歌上」の配列よりこの歌を見ると(付記1.参照)、妥当なものである、といえます。

現代語訳は、竹岡正夫氏の訳を採ります。

「世の中にぷっつりと桜がなかったなら、春の気分はさぞのどかであろうものを。」

 

 氏は、一首の内容からいえば初句から二句にある「世の中にたえて」という語句はなくてよいもの、とも指摘しています。しかし、なぎさの院の桜を対象に詠った歌ではないことがこの語句により明確になっており、詞書のもとにある歌には、あるべき語句です。

⑨ 作者業平は、自分の思いを詠っているはずです。

詞書によれば、作者業平は都を離れて(他人の所有地である)なぎさの院にわざわざ来て桜を楽しんでいるのですから、一人で来ていたのではなくこの歌を披露する相手がいた、ということになります。

 業平は、世事にいそがしく桜を十分楽しめない人が多いのにもかかわらず、幸いにして桜を今年も満喫しているのですから、毎年巡り来る桜に出逢えた喜び・感動・感謝という思いがこみ上げたのではないか。

⑩ 『古今和歌集』は、集められた歌(元資料)から一定の方針のもとで歌を撰び配列している歌集です。だから、元資料の作詠事情がすべて『古今和歌集』の詞書に反映されていると限りません。

 この歌も同様であり、元資料においては「桜」が誰かを示唆している可能性があるかもしれません。しかし、『古今和歌集』の1-1-53歌は、その詞書により歌本文にそのようなことは持ち込まれていません。

 元資料の歌が、惟喬親王が主催した花見の席で披露されたのであれば、「桜」に藤原氏という暗喩を認めた官人がいたかもしれません。あるいは、反実仮想の文章ですからそのような暗喩を含んだ誰かの歌を諫めた歌であったかもしれません。

⑪ なぎさの院に集う官人に、今上天皇(清和天皇)を支える政権中枢にいる官人は一人も加わっていない、と推測できます。

 作者業平は、詞書のもとにおいて、自分の思いを詠っているはずです。

 この歌は、「その心あまりてことばたらず」という仮名序での紀貫之の評どおりの業平の歌である、と思います。

⑫ さて、次に、類似歌1-1-54歌です。

 その詞書は、「題しらず  よみ人しらず」とあり、歌本文の理解には、作詠時点が『古今和歌集』編纂時代より前、という情報しか読み取れません。

 そのため、歌本文にある「たき」の意として、「急流・奔流」の意の可能性が高まります。

 歌本文は、次の三つの文からなる、といえます。

文C いしばしるたきなくもがな :目にした景から生じた思いを述べる 作者の行動を遮るものを指摘する

文D 桜花たをりてもこむ :今実行したい作者の行為を述べる

文E 見ぬ人のため :文Dを行う理由を示す

全体では倒置文といえます。

 語句の確認は上記「2.⑪」で行いました。作者が目にした「たき」とは、文Cのみでは、山中にあるのか、庭園にあるのか、決めかねます。

⑬ 文Cと文Dから、サクラは、「たき」(急流・奔流)の対岸にあると推測できます。「たき」は、作者と対象のサクラの木々との位置関係を表しています。この二つの文により「たき」は山中にある、となります。

 そして、対岸の斜面に広がるサクラを一望できるからこそ、作者は花見を堪能しています。サクラを手折ることが出来ない理由は、「たき」を渡るのが困難であるよりも斜面の急峻であることが実際の主たる理由であっても、歌本文では「たに」をあげているので、今であれば、スマホやドローンで撮影したい景であったと推測できます。

⑭ 文Dの行為をしても、1,2本の枝を持ち帰るだけです。それが他の場所での桜の景との差異を説明できる材料になるかどうか。自分が対岸の桜を見たというそのことの記念に、とにかく現地の何かを持ちかえりたいだけの行動なのではないか。文Dの行為をして得た桜の枝は、単なる土産に過ぎない。

 そのような行為をしたいということは、見栄えのある、心地よい景であったということであり、それは十分文Cと文Dから伝わってきます。

 この歌は、『古今和歌集』部立て「春歌上」のサクラの景の歌を配列しているところにある歌ですので、花見に行ったときの歌として理解できます。花見には誘いあって出かけてきたのでしょうが、誘いを断った人が作者の周囲にはいた、と推測できます。

文Eにある「みぬ人」の動詞「みる」とは、「視覚に入れる・見る・ながめる」意ではなく、各種情報による判断とか行為を意味する「(・・・な目に)あう・経験する」意ではないか。つまり、花見の仲間に加わらず桜を今回見ない選択をした人達をいうのではないか。

⑮ この歌と1-1-53歌を一対の歌として竹岡正夫氏は論じていませんが、現代語訳は竹岡正夫氏のそれをベースにします。よみ人しらずの時代の歌として二句と四句で切れる五七調の万葉ふうに解しており、語句に忠実である、と思いますので。

「石の上を激しく流れる奔流がないわけにもいかぬかなあ。あの桜花は、せめて手折ってでも来ように。この景を見ないという人のために。」

 この歌は、身近にない桜でも「(桜を)愛するあまりに心のいとまなき」状態にしてくれるという事例といえます。そうすると、1-1-53歌の作者のみた桜とは、身近に咲いている桜であったと位置付けることができます。

⑯ 1-1-53歌と1-1-54歌を対比すると、次の事を指摘できます。

第一 (共通点)この2首は、桜にであえた(特に1-1-54歌は、あとは散るばかりという桜の花の盛りの景に出あえており、それに作者は満足し友にも勧めたいと思っています。

第二 (共通点)この2首は、それを強調するため、大胆な修辞の工夫をこらしています。

第三 (異なる点)この2首は、詠う景が、日本列島におけるサクラという樹種全般と一地点のサクラという特異点という違いがあります。後者は身近なサクラではなく遠方から望むのみ、という設定です。

第四 この2首は、作者が著名な官人とよみ人しらずであり、この2首でもって万民がサクラという樹種との出会いを楽しみ、さらに満足を得たいと思っていることを示しています。

 しかしながら、前回(ブログ2019/9/30付け「4.⑥」)指摘したように、「人の美意識に基づき手を入れた桜と、自然の中のサクラとの対比をしている」、という理解は思い込みでした。1-1-53歌のサクラをそのように限定しなくとも、作者の詠いたい思いは伝わります。

3.この歌と類似歌との違い

① 以上の確認の結果、この歌と類似歌は、歌本文は清濁抜きの平仮名表記で五句の一文字が異なるだけであるものの、歌意は異なるものとなりました。

 それは、それぞれの歌集での部立て(ただし部立てがある場合)と当該歌の詞書及び前後の歌の配列順から導かれた理解によるものでした。それぞれの歌集の編纂方針が明確にある、といえます。

② 歌本文に用いられている語句に同音異義のものがいくつかありました。

 二句にある「たき」は滝と川の急流部分をこの2首は使い分けています。

 五句にある「みぬ人」は代名詞として用いられ、この歌は、作中人物(作者)自身を言い、類似歌は、この花見に同道しなかった人々を言います。

③ この結果、この歌は、思いを寄せる人に近づきがたいのを嘆く、恋の歌となり、類似歌は、桜を皆で愛でる春の歌となりました。

④ なお、3-4-50歌の現代語訳(試案)を次のように修正します。「たき」の意を明確にするため「たき」を修飾する語句をより滑らかな日本語表現にすることとします。 

詞書:花見に行ったところ、山中を流れる川にある石に、花がせき止められていたのを見て(詠んだ歌) 

歌本文:「石の上を激しく流れ落ちる滝(石の上を走るように流れる滝」)が無ければなあ。サクラの花は、手折ってこようものを。このサクラを見てない人のために(歌全体に暗喩がある。滝のように遮っているような存在が無ければなあ。サクラの花を折り取ってこようものを。まだ花を見ることも叶わない私のために。)」 

⑤ 今回の作業で確認した結果をまとめると、上記「2.②」のとおりです。

ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただき有難うございます。

 次回から、3-4-51歌を確認します。

(サッカーのワールドカップ北中米大会の初戦で、15日、日本代表はオランダに後半2度先行され追いついて2対2と引き分けました。一歩前進です。次はチュニジア戦です。冷静に油断することなくけが人が出ないよう楽しんでください。)

(2026/6/15  上村 朋)

付記1. 古今集 巻一の49歌~68歌の配列の検討 (2026/6/15現在) 

第一 古今集の部立て「春歌上」で桜を詠っている歌は、1-1-49歌~1-1-68歌である。

歌の配列と歌の主題と当該景による作者の思いをブログ2019/9/9付けで検討したが、その後の古今集仮名序と各歌のその後の検討結果を加えて今回確認したのが、下記の表である。

第二 1-1-49歌~1-1-68歌は、歌群としては、1-1-60歌までとそれ以降の二つになるがある。

第三 1-1-53歌と1-1-54歌の理解は本文による。この2首は、咲いた桜に作者は大満足している歌である。それ以外は表の注参照。

第四 部立て「春歌上」を通じた配列の方針は、次のように認められる。

  1. 配列は、奇数番号の歌とその次の偶数番号の歌が一組となって配列されている。
  2. 各組ごとに主題の設定があり時系列で配列されている。
  3. 季節の移り変わりに従い配列されている。

 

表 歌の主題・詠う景の判定表(付:歌での(現代の)季語等)(1-1-49~1-1-68) 

(2019/9/9現在を2026/6/15修正)   

歌番号等

歌の主題

作者が訴えたいこと

詠う景

歌での(現代の)季語

視点1(時節)

歌群(案)

備考

1-1-49

桜咲く

激励

若い桜木

春・さくら

 

晩春(桜による)

第八

 

1-1-50 a*

桜咲く

激励

高山の桜

さくら(花)

晩春

第八

 

1-1-51a*

山の桜

我が意霞は知らず

山でも満開

山桜

はるかすみ

晩春

第八

今回修正

1-1-52a

室内にみる桜

我が意桜に伝わる

都(庭園の花瓶)でも満開

晩春

第八

今回修正

1-1-53a

桜八分咲き以上

大満足を得たい 

都(離宮)にみる桜

さくら

晩春

第八

今回修正

1-1-54a*

桜八分咲き以上

大満足を得たい 

奥山の桜

さくら

晩春(さくらによる)

第八

今回修正

1-1-55

春の錦

大発見

山の景

さくら

晩春

第八

 

1-1-56

春の錦

大発見

都の景

やなぎ

さくら

晩春

第八

 

1-1-57 a

毎年楽しむ桜

毎年身近の桜に感激あらた

都の桜

無し

詞書にさくら

晩春(詞書による)

第八

今回修正

1-1-58 a

毎年楽しむ

稀な山の桜も感激あらた

奧山の桜

はるかすみ

さくら

晩春

第八

今回修正

1-1-59

遠山の桜

見誤るものあり

都から望む

さくら

晩春

第八

今回修正

1-1-60

遠山の桜

見誤るものあり

山の桜の特殊性

さくら

晩春(さくらによる)

第八

今回修正

1-1-61

ながく咲け

飽きるほどみたい

うるふ月

さくら

晩春

第九

 

1-1-62 a*

ながく咲け

飽きるほどみたい

まれな訪れ

さくら

晩春

第九

 

1-1-63 a

花は散る

明日は分からぬ

今日咲いている花

晩春(花=さくらによる)

第九

今回修正

1-1-64 a*

花は散る

散るのは見たくない

今日散り始めた花

さくら

晩春

第九

今回修正

1-1-65 a*

存分に咲いた桜

桜にもいつまでも楽しませたい

枝を折るのを止めた桜木

さくら

晩春

第九

今回修正

1-1-66 a

存分に咲いた桜

私は散っても楽しみたい

桜色に染めた服

晩春

第九

今回修正

1-1-67 a

時期ながく楽しみたい桜

楽しみ方を知らない人を憐れむ

都の屋敷の桜

花見

晩春

第九

今回修正

1-1-68 a

時期ながく楽しみたい桜

楽しまれない桜を哀れむ

山里の桜

さくら

晩春

第九

今回修正

注1)「歌番号等」:『新編国歌大観』の巻数―その巻の歌集番号―その歌集の歌番号

注2)「*」:よみ人しらずの歌

注3) 「歌の主題」欄記載の桜の状態は、ブログ2024/3/25付け「4.」を参考にして再考した。

注4) 歌の注記(aを記した歌について)

1-1-50歌:①猿丸集1-3-32歌の類似歌。②山中の「桜の花」が咲くのを待ち遠しく思っている歌。ブログ2024/3/25付け参照 

1-1-51歌:①桜を見たい気持ちを霞は理解してくれない、という見立て。

1-1-52歌:①甕の桜が見頃になったのは(桜自らが)祝意を示したのだ。②古今集仮名序にいう「さま」は「そへ歌」

1-1-53歌:今回(ブログ2026/6/zz付け)の本文参照。元資料としての歌意と古今集「春歌上」における歌の歌意とを峻別した。

1-1-54歌:今回(ブログ2026/6/zz付け)の本文参照。元資料としての歌意と古今集「春歌上」における歌の歌意とを峻別した。

1-1-57歌:①五句の「あらたまる」のは桜。年ふるひとにとり毎年桜は感激あらた、の意。②元資料は加齢を実感する歌だが配列を重視するとこのように意が変わる。③「年ふる人を」は、1-1-28歌参照。④劉思芝の有名な「年々歳々花相似、歳々年々人不同(代悲白頭翁)」を踏まえた歌。⑤なお、視点1(時節)は元資料における時節。

1-1-58歌:①竹岡氏の理解に従う。②春霞が秘蔵している桜を誰が折ってきたのか、の意。②ただし桜は女をも意味するのは元資料の歌。③1-1-57歌の日常的に目に入る桜に対して意識して出かけて行って見る桜を詠う。

1-1-62歌:①この歌は、桜と同じように飽きるほど見ていたい人を作中人物は待ち続けていた、の意。

②配列により元資料の詞書もほぼそのままで歌の意を替えている。③初句にある「あだ」の意は、「無駄な、真実のない」意と、美女の形容でなまめいた美しさ」の意がある。④初句と二句がさす語の候補は桜花と稀なる人。桜花ならば、古今集春上の歌。稀なる人ならば、元資料の歌(桜は作中人物をいう)。④元資料の歌は、「それでも桜花はじっとまれなる人を待っていた」と詠う。訪ねてきてくれた喜びあるいは、不満が先に口をついてでたのか不明の歌。⑥業平が返歌をしたならば、よみ人しらずの人は業平と同時代の人。

1-1-63歌:①元資料の歌は雪に馴染みが深い梅を詠う。②詞書「返し」とは編纂者の指示。③雪は降雪を指し、花が散るのを象徴している。④伊勢物語に捉われずに古今集の配列のなかにおいて理解するのがよい。⑤花が女をも指すならば、本当に待っていてくれたとは思えないという意がこの歌に生じている。

1-1-64歌:①咲いた花は散るが定め。それを見ない方法がある、姑息な方法だが。

1-1-65歌:①3-4-51歌の類似歌。②桜は女をイメージ。③ブログ2019/10/7付けでの3-4-51歌検討時、竹岡氏の理解に従った。

1-1-66歌:①桜は女をイメージ ②桜姫葬送曲という竹岡氏の理解に従う。散った桜のための墨染衣ならぬ桜染め衣。

1-1-67歌:①まじめに桜を見なかった人を憐れむとみる竹岡氏の理解に従う。

1-1-68歌:①桜は、山中ではなく都に近い「山里」。1-1-67歌の官人の屋敷の桜に対して、官人の家人や庶民の集落内の桜。

(付記1 終わり)

付記2.『古今和歌集』の部立て「春歌上・下」の詞書で「さくら」などとある歌について

第一 『古今和歌集』の部立て「春歌上・下」の詞書で、サクラを「見て」とあるものは、次のとおり。

庭園にある桜:1-1-49歌 1-1-67歌

花瓶の桜:1-1-52歌

特定の屋敷あるいは寺院で「見た」桜(の花):1-1-53歌 1-1-75歌 1-1-81歌

山の桜:1-1-55歌 1-1-79歌

ちりける桜: 1-1-76歌

第二 詞書に「見る」の表記がなく単に詞書で「さくら」と表記のある詞書にはつぎの歌がある。

をれるさくらをよめる:1-1-58歌 1-1-77歌 1-1-80歌

さくらのはなのち(りけ)るをよめる:1-1-82歌 1-1-84歌 1-1-85歌 1-1-86歌

 第三 詞書に「屏風」とある歌本文はない。歌合で番われた歌である「歌合(のうた、によめる、の時よめる」とある詞書は、1-1-12歌~1-1-15歌の詞書のほか11題あり、歌本文に「さくら」とある歌は2首のみである(1-1-60歌 1-1-89歌)。

 (付記2.終わり)

付記3. 古今集にみる業平となぎさの院や惟喬親王との関係

第一 1-1-418歌の詞書:「これたかのみこのともに、かりにまかりける時に、あまの河といふ所の河のほとりにおりゐて、・・・ありはらなりひらの朝臣」

(業平は惟喬親王のお供で、地名「あまのかは」に近いなぎさの院を宿にしている、と推測できる。「あまのかは」は、現在の枚方市にある河川名でもある。)

第二 1-1-884歌の詞書:「これたかのみこのかりしけるともにまかりてやどりにかへりて・・・なりひらの朝臣」

(業平は狩をする惟喬親王のお供で、 狩場のちかくのやどりに共に宿泊している。1-1-418歌と1-1-884歌の詞書にいう「かり」が同一の日の「かり」であれば、やどりは、なぎさの院と推測できる。)

第三 1-1-970歌の詞書:「惟喬」のみこのもとにまかりかよひけるを、かしらおろしてをのというところに侍りけるむつきにとぶらはむとて・・・なりひらの朝臣」

(付記3.終わり)

(付記終わり 2026/6/15  上村 朋)

 

 

わかたんかこれ 猿丸集恋歌確認50歌その1 はな見

 前回(2026/4/20)に引きつづき『猿丸集』歌の再確認をします。今回は第50歌の一回目です。

1.経緯

 2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。第49歌まではそのとおりであった。

2.再考3-4-50歌

① 『猿丸集』の50番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-50歌  はな見にまかりけるに、山がはのいしにはなのせかれたるを見て

   いしばしるたきなくもがなさくらばなたをりてもこんみぬ人のため

 

古今集にある類似歌 1-1-54歌  題しらず     よみ人しらず

   いしばしるたきなくもがな桜花たをりてもこむ見ぬ人のため

 清濁抜きの平仮名表記をすると、五句の一文字と、詞書が、異なります。

② 下記のように確認をした結果は、以下のとおりとなりました。

第一 この歌3-4-50歌は恋の歌であり、類似歌1-1-54歌は、四季のひとつである春に咲くサクラへの思いを詠う歌である。このように二首の歌は、趣旨が異なる歌であり、この結果は、前回の結論と同じである。

第二 しかし、この2首の理解は改まり、それぞれの現代語訳(試案)は改訳となった。つぎのとおり。

3-4-50歌 花見に行ったところ、山中を流れる川にある石に、花がせき止められていたのを見て(詠んだ歌)   

「石の上を走るように流れる滝が無ければなあ。サクラの花は、手折ってこようものを。このサクラを見てない人のために(歌全体に暗喩がある。滝のように遮っているような存在が無ければなあ。サクラの花を折り取ってこようものを。まだ花を見ることも叶わない私のために。)」

 

1-1-54歌 題しらず よみ人しらず  

「石の上を激しく流れる奔流がないわけにもいかぬかなあ。あの桜花は、せめて手折ってでも来ように。この景を見ないという人のために。」

第三 この歌の歌本文にある「はな」には、女性の暗喩があるので、この歌は恋の歌となっている。この歌は、『古今和歌集』の仮名序にいう「さま」は「そへうた」にあたる。

第四 類似歌は、『古今和歌集』の部立て「春歌上」にある歌であり、満開のサクラへの思いを詠う。歌全体に暗喩はない。

第五 類似歌のある『古今和歌集』の巻一の配列は、歌番号が奇数の歌と次の偶数の歌を一対として季節の推移を追って配列している。類似歌1-1-54歌は、1-1-53歌とで一対となっている。

 

③ この歌から再確認します。最初に詞書です。

 詞書は、次の三つの文から成る、とみることができます。 

文A はな見にまかりけるに、:作詠時期と外出の理由を示す。また「はな」に暗喩があるか。

文B 山がはのいしにはなのせかれたる :作者の目撃した景を示す。花の盛りの桜木の現在の状況を示す。

文C を見て :作者がこの歌を詠む直接のきっかけが動詞「見る」の意によることを明示する。

 

④ 語句の確認から始めます。

 文Aにある「はな見」とは、歌本文に「さくらばな」とあるように、桜の花見が第一候補です。当時の桜の品種はヤマザクラなどがあるそうで、「はな見」の対象は庭園の桜のほか野外にある自生の桜があります。

「はな見」という用例を『古今和歌集』で部立て「春歌上・下」の詞書でみると、1例あります。

1-1-95歌 「うりむゐんのみこのもとに、花見にきた山のほとりにまかれりける時によめる」

 この詞書によれば、この歌は、サクラの花見に来た山のほとりに行っていた時に作詠した歌であり、うりむゐんのみこ(惟喬(これたか)親王)に提出した歌の一首、ということになります。

「さくら」とある詞書には、屋敷内にあるさくらと認められる詞書があります。

1-1-53歌 「なきさの院にてさくらを見てよめる 在原業平朝臣」

1-1-67歌 「さくらの花のさけるを見にまうできたりける人によみておくりける  みつね」

 このほか、「花かめにさくらの花をささせ給へる」とか「をれるさくら」など屋敷内にあるさくらと認められる詞書もあります。

 野外の桜と認められる詞書もあります。1-1-55歌と1-1-79歌の「やまのさくらを見てよめる」とある詞書などです(このほか題しらずの詞書で歌本文に「やまたかみ人もすさめぬさくら花」などとある歌もあります)。

 また、「歌合の歌」とか「歌たてまつれ」とある詞書でさくらを詠う歌もあります。

 『後撰和歌集』の部立て「春上・中・下」の詞書で「はな見」という用例を探すと、2例あります。

1-2-99歌 はる花見にいでたりけるに、ふみをつかはしたりける、その返事もなかりければ、あくるあしたきのふの返事とこひにまうできたりければ、いひつかはしたりける よみ人しらず 

1-2-112歌 女とも花見むとてのべにいでて  典侍よるかの朝臣

 この2例は、官人の屋敷に咲いたサクラではなく、屋敷の外に咲いているサクラです。

 このように、『猿丸集』が編纂されたころ、サクラの花見と言えば、官人の(寝殿造りの)屋敷地内でも野外でも行われていた、と推測できます。

⑤ 恋の歌の詞書であれば、文Aにある「はな」は、恋の相手を示唆している可能性があります。

 そうすると、文Aには、「女性をそっと見に行く」の暗喩がある、と認められます。

 次歌3-4-51歌の詞書は「やまにはな見にまかりてよめる」とあり、「はな見にまかる」という表記が共通にあります。『猿丸集』の配列としてみると、並んでいる詞書であるので、同一の意味で用いられている可能性があります。

3-4-51歌の詞書は、ブログ2019/10/7付けと同2019/11/4付けで一度検討しています。そして、「やま」とは「屋間(建物と建物の間)」の意であり、詞書の現代語訳(試案)は、次のようになりました。

「建物と建物の間のところにゆき、(となりの)桜の花を見て、(その後に)詠んだ(歌)」

 この歌は、3-4-51歌と作詠事情が共通ではないかと推測し、現代語訳を試みたい、と思います。

⑥ 次に、文Bにある「やまがは」には、3-4-51歌の詞書にある「やま」の意と同じである可能性が見えてきました。そのほか、「山川」(山の中を流れる川・谷川)の可能性があります。前回(2019/9/30付け)「山側」で検討しましたが、『明解古語辞典』には「やまがは」の立項では説明がありませんし「がは」の立項もありません。

 「やまがは」の用例を確認すると、

 『萬葉集』に「山河(川)」という意の表記が28首にあります。その意は「山や川」あるいは「山と川」のほかに「山中にある川」の意もあります(巻七にある2-1-1092歌、同2-1-1135歌、同2-1-旧1183歌、巻十二にある2-1-2874歌、同2-1-3030歌、同3031歌など)。

 また、『古今和歌集』では3首の用例があります。みな「山中を流れる川」の意です。

1-1-303 しがの山ごえにてよめる   はるみちのつらき 

   山河に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり

1-1-722 題しらず    そせい法し

   そこひなきふちやはさわぐ山河のあさきせにこそあだなみはたて

1-1-1000 歌めしける時にたてまつるとてよみて、おくにかきつけてたてまつりける    伊勢 

   山河のおとにのみきくももしきを身をはやながら見るよしもがな

 上記の伊勢の歌は、詞書が異なって『後撰和歌集』にもあります。

1-2-1291歌  むかしあひしりて侍りける人の、内にさぶらひけるがもとにつかはしける  伊勢

   山河のおとにのみきくももしきを身をはやながら見るよしもがな(歌本文は、1-1-1000歌に同じ)

 ちなみに、「たにかは」という用例は、「ほそたにかは」という川の固有名詞の例が各1例あるだけです(1-1-1082歌)

 これらの用例をみると、「やまかは」とは『古今和歌集』成立の頃は、「山中を流れる川(降雨によって斜面に臨時に生じる水の流れる筋などを含むか)」という理解であり、「かは」が連濁で「がは」であっても同じであったといえます。

 この意の「やまがは」を前回、連濁を認めず検討対象外としていたのは誤りでした。

「やまがは」とは、名詞「山」+名詞「川」の場合と3-4-51歌との共通の作詠事情の可能性から生じる名詞「屋間」(建物と建物の間)+名詞「川」(水路)の場合とを候補として再確認します。

⑦ 次に、文Bにある「いし」は同音異義の語句のひとつであり、名詞「石」と名詞   「椅子」(背もたれとひじかけのある椅子。儀式のときなどに貴人が用いる)の意があります(『例解古語辞典』)。

 文Bにある「せく」も同音異義の語句のひとつであり、前回(2019/9/30付け)指摘したように、動詞「塞く・堰く」 と同「急く」の意があります。

「塞く・堰く」には、「aせき止める。b恋人同志が逢うのをじゃまする。」の意があり、「急く」には、「aあせる。bいらだつ」意があります。

 また、「せく」は文Bにある唯一の動詞です。

⑧ 文Cにある動詞「見る」の意は「視覚に入れる・見る・眺める」のほかに、「思う・解釈する」とか「(異性として)世話をする・連れ添う」とか「見定める」など別の意もあります。その意は、視覚による情報を得るほかに各種情報よる判断とか行動をも意味するかのようなところがあります。

 前回の3-4-50歌の詞書の検討(ブログ2019/9/30付け)では、「見る」の意は「視覚に入れる・眺める」と決め込んでいました。

 なお、「まかりけるに」の「に」は、接続助詞です。「あとから述べる事がらの出る状況を示す場合」の意とか「あとに述べる事がらに対する、一応の断わりを示す場合」の意などで用いられています。

⑨ ここまでに確認した語句に基づいて現代語訳を確認します。

 文Aは、「花見(観桜)に行ったところ」という現代語訳が候補となります。花見の対象は、野外のサクラと屋敷内のサクラとがあり得ます。

 そして、「はな」に「女性」という暗喩をこめることができます。その場合、文Aを含む文章は、恋の歌の詞書とみなすことができます。

 文Bは、「やまがは」の意に、上記⑥の2案があります。

第一 「やまがは」が「山川」の場合:「山中を流れる川にある石に、花がせき止められていた」

第二 「やまがは」が「屋間(建物と建物の間)の水路」の場合:「(寝殿造りの屋敷における)建物と建物の間の水路にある石に、花がせき止められていた」

 後者は、水路にある石(組)は、段差を作るとか瀬と淵を作るとかに用いられており、水路に流れが速くなる部分を作っていると推測できます。

 なお、鈴木宏子氏は、「やまがは」を「山川」(山の中を流れる川・谷川)の意として、文Bを「山川を流れる落花が石によって堰き止められている」意(『和歌文学大系18 猿丸集』(1998))としています。

 文Cは、「(文Bという景を)目視して」と「(文Bを)解釈して」を今候補とします。

 この現代語訳候補は、詞書に、二度用いられている「はな」という語句は「サクラの花」という意があり、歌本文にある「さくらばな」を指すのではないかと推測したところです。

 詞書全体の現代語訳(試案)は、歌本文との整合を踏まえて後程確認します。

⑩ 次に歌本文を確認します。この歌は、次のように三つの文からなる、といえます。

文D いしばしるたきなくもがな:目にした景から生じた思いを述べる 作者の行動を遮るものを指摘する

文E さくらばなたをりてもこん:今実行したい作者の行為を述べる 

文Fみぬ人のため:文Eを行う理由を示す

 全体では倒置文といえます。

⑪ 語句の確認を最初にします。

 文Dにある「いしばしる」とは、「いははしる」の意と同じです。「はしる」の意を重視してよい語句と前回の付記で指摘しました。

 「たき」とは、竹岡氏が類似歌1-1-54歌の「釈」で指摘する(『古今和歌集全評釈 上』54p)ように、時代により意が替わり、『猿丸集』の成立は『古今和歌集』以後なので、今日の「滝」(瀑布)の意となります。類似歌より引用したとみれば、類似歌が『古今和歌集』のよみ人しらずの歌なので、急流・奔流の意となります。

 また、花見が寝殿造りの屋敷の庭園であるならば、「たき」を水路に設けた石組で作ることができます。

「もがな」は終助詞であり、願望し期待する意を表し「・・・があったらなあ、・・・であったらなあ」(『例解古語辞典』)。というところです。

文Eにある 「こん」とは、サ変活用の動詞「く(来)」の未然形+推量の助動詞「む」の終止形です。

 文Fにある 「見ぬ人」とは、この見応えのある花をまだ見ていない人の意であるほか、恋の歌であるならば、作者がまだ面談出来ていない人、あるいは、まだ相手と面談に至っていない作者自身を、示唆することもできるのではないでしょうか。

 

⑫ 現代語訳を試みると、次のとおり。

文D1 石の上を走るように流れる滝が無ければなあ。

文E1 サクラの花は、手折ってこようものを(詞書に従い「はな」に暗喩あり)。

文F1 この桜を(まだ)見てない人のために。

 この歌が、野外のサクラの花見である場合、そのサクラは、滝となって流れる「山川」の対岸にあることになります。サクラを手折りに行くには、対岸に渡り、山の斜面を登らなければならないことを文Dは示していますし、対岸にサクラがあること自体が手折るむずかしさを生んでいることを示しています。

 この歌が、屋敷内のサクラの花見である場合、滝と見立てているのは、具体には水路の石組近くの流れを指しています。だから対岸には官人であれば水路にかかる橋を渡ることになります。礼儀作法を守って渡るので、渡る必要性をその屋敷の主に認めてもらわなければなりません。

 どちらの場合も、この歌は、つぎのような意がこめられて居る歌となっているとみえます。

文D2 桜にたどりつくのを遮っているような存在が無ければなあ。

文E2 桜の花を、折りとってこようものを。

文F2 まだこの花を身近に見ることも叶わない人(即ち作者である私)のために。

この歌は、彼女の縁者が反対していても、「みぬ人」の気持ちは変わらない、ということを訴えているという理解が可能です。「(さくらの)はな」は相手を暗喩しています。

⑬ このように、この歌は、歌本文全体でもって別のことを暗喩するという詠い方をしています。

即ち、「一首全体の裏に作者の情が添えられている歌」であり、『古今和歌集』の仮名序の「うたのさま」の分類第一にあげている「そへ歌」に相当します。

気になるのは、この歌は、恋の相手側に示せたか、手引きをする人物に手渡すことができたかどうかです。作者はそのルートを持っているかに詠っています。

⑭ さて、保留していた詞書の現代語訳を試みます。

 歌本文が「そへ歌」とみるならば、屋敷のサクラの花見という限定をしなくとも、一首全体の意が作者の思う意になる理解ができます。

 そのため、現代語訳(試案)は、詞書にある「山がは」は「山川」の意に限定できます。即ち、

 「花見に行ったところ、山中を流れる川にある石に、花がせき止 められていたのをみて(詠んだ歌)」

 この(試案)において、花は作者が近づきを願っている女性に、花をせき止める石はその女性の親を含めた家族を指していることが明白です。

そして、「せく」は同音異義の語句として「花が(恋人同士が)逢うのをじゃまされる」意を意味することが生きています。

⑮ ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただき有難うございます。

 次回は3-4-50歌の類似歌を確認します。

 追伸 サッカー日本代表が今月はいつも以上に楽しんでやれますように。

(2026/6/1   上村  朋)

わかたんかこれ 猿丸集恋歌確認49歌 よぶこどりは誰

 前回(2026/3/23)に引きつづき『猿丸集』歌の再確認をします。今回は第49歌です。

1.経緯

 2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。第48歌まではそのとおりであった。第49歌を今回確認する。

2.再考3-4-49歌の現代語訳

① 『猿丸集』の49番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-49歌  前歌におなじ(ふみやりける女のいとつれなかりけるもとに、はるころ)

    をちこちのたづきもしらぬ山中におぼつかなくもよぶこどりかな

古今集にある類似歌 1-1-29歌  題しらず     よみ人しらず

    をちこちのたづきもしらぬ山なかにおぼつかなくもよぶこどりかな

 歌本文は、平仮名表記ではまったく同じです。

② 下記のように確認をし、次の結果となりました。

第一 この歌3-4-49歌は、恋の歌である。現代語訳(試案)は類似歌1-1-29歌とともに、前回の成果とは異なるものとなった。類似歌は四季のひとつ春に見聞きしたものからの思いを詠う歌であり、恋の歌ではない。この2首は、異なった歌意の歌である。

第二 この2首は、詞書が異なるほか歌本文にある「よぶこどり」が含意するところが異なる。それぞれの現代語訳(試案)は改訳となった、つぎのとおり。

3-4-49歌 「文をおくっている女の、大変無情な態度が変わらないでいる時分であって、(春、)芽がふくらむ頃」

「遠方の山なのか近い山なのか、それを知る方法もわからない山の中に居て、待ち遠しい・もどかしいと思いつつ、よぶこどりは「呼ぶような声で鳴く鳥」であるよなあ。(私も貴方が恋しくて泣き暮らすほかなくて・・・。)」

1-1-29歌 題しらず    よみ人しらず

     「遠方の山か手前の山か、それを判断する方法もわからない山の中に、待ち遠しい・もどかしいと思いつつ、「呼ぶような声のよぶこどり」であるよなあ。」

第三 この歌は、ある時から文の返事をもらえない状態が続いている男が、昔に復することを待ち望んでいることを、「よぶこどり」に自らをたとえて、相手の女に訴えている歌である。

 そして、前回の現代語訳(試案)は「よぶこどり」の示唆するところを誤っていたので、削除する。

類似歌は、春という季節の到来に、安心感を詠った歌である。

第四 この歌3-4-49歌は、同じ詞書のもとにある3-4-48歌とともに、男女の仲の修復を願い趣向を凝らして詠っており整合が取れている。

 なお、3-4-48歌本文の現代語訳(試案)はつぎのとおり。

 「あれまあ。田を、あれまあ、鋤いたり鋤き返したりもして田の状況を確かめるように、私をよくよく見てからということですか。実直な男である私の心を。」

第五 類似歌のある『古今和歌集』の巻一の配列は、歌番号が奇数の歌と次の偶数の歌が一対となって季節の推移を追って配列している。そしてよぶこどりとももちどりは、聴覚あるいは視覚で春に認識した鳥の集団でありもどる渡り鳥と飛来した渡り鳥をも指し得ると推測した。

 

③ この歌から再確認します。最初に詞書です。この詞書のもとには2首あり、3-4-48歌の確認の際、次の現代語訳(試案)を得ました(ブログ2026/3/23付け「4」参照)。

 「文をおくっている女の、大変無情な態度が変わらないでいる時分であって、(春、)芽がふくらむ頃」

 詞書の最後にある「はるころ」とは、四段活用の動詞「萌る」の連体形+名詞「頃。比」であり、女の「つれなし」という状況を打開するためのチャンス到来とみてあと一押しする意と推測しているところです。

 この理解は、ある状況のもとにいる女へ歌を送った、というパターンです。3-4-15歌~3-4-17歌の詞書「かたらひける人の、とほくいきたりけるがもとに」と同じです。

 なお、3-4-48歌本文の現代語訳(試案)は、前回(ブログ2026/3/13付け)得て、上記②の第四に転載してあります。

④ 次に歌本文です。詞書より、作者の今の立場は、文を送ることはできるが、それ以上は女に拒まれ続けている人物だということがわかります。そして「(春、)芽がふくらむ頃」という時期に至り、3-4-48歌と一緒におくった歌か、あるいは3-4-48歌にも反応がないことがわかった時点でおくった歌がこの歌本文ということになります。

 この歌本文には、相手の女に対する作者(あるいは作中人物)の行動や思いは直接表現されていません。恋の歌であるならば作者(および作中人物)の相手への思いを訴えている歌のはずです。歌全体でもって示唆しているものがある、ということになります。

⑤ 歌本文は、次の二つの文からなっている、と理解できます。

 文A  をちこちのたづきもしらぬ山中に:よぶこどりが現在居る場所を山中と作者は限定。またその山中に関して誰かの認識を作者は紹介している。

 文B  おぼつかなくもよぶこどりかな:よぶこどりの現在の行動を作者は指摘

 

 作者は、よぶこどりについて、現在居る場所とそこでの行動を詠い、その居る場所について特定のコメントを加えています。そのような(即ち特定の条件を満足する)山中におけるよぶこどりの行動(あるいは行動できないということ)に恋の歌としての暗喩がある、と思います。

⑥ 歌本文にあるいくつかの語句の意を確認します。

 文Aにある「をちこち」とは、「彼方此方」です。前回(ブログ2019/9/16付け「6.③」など)では、「をちこち」を「a空間的に遠方と手前の方をいう b時空的に未来と現在をもいう」と理解しました。

 そのうえで、類似歌のある『古今和歌集』の部立て「春歌上」の配列をみると、直前の1-1-27歌と1-1-28歌は、作者の身近な景を詠い、1-1-29歌と1-1-30歌は、都より望み見ることができる遠方の春の景を詠っている、と整理できます。

 さらに、その次の1-1-31歌と1-1-32歌は、身近から遠くへゆく雁と遠くから身近に来たウグイスを詠い、遠近の景が対となって配列されています。

 この配列においては、「をちこち」は、「a空間的に遠方と手前の方をいう」意であり、平仮名で同文の3-4-49歌本文においても、その理解が妥当なのではないか、と思います。

 『例解古語辞典』では、「たづき」の用例として1-1-29歌(この歌の類似歌)の説明があります。上の句(上記の文A相当)は、「地理不案内であっちへ行けばどこへ出るのか、こっちへ行けばどこへ行くのか、その見当もつかない山の中で」の意とあります。

⑦ 名詞「たづき」とは、「手段。てがかり。見当。様子。」(『例解古語辞典』)です。

 この歌(の文A)での「をちこちのたづき」とは、「(遠方の山か手前の山か、それを)判断する方法(手段、つまり基準)」と理解できます。

 文Bでは、よぶこどりがその山中に居る、と詠まれています。そうすると、声は聞こえるがどの方角からかどのくらい離れているかも知る手だてがない、ということが「たづきも知らず」ではないか。

 このため、この歌の「たづき」に作者は、「貴方と私の仲は遠いいのか近いのかを知る手段・てがかり」という意をこめることができます。

 一般に、鳥は天高く上がれるので俯瞰することで周囲を確認できます。よぶこどりにとって「山中」は地理不案内のエリアではないでしょう。上記の『例解古語辞典』の理解は不自然です。

⑧ 文Bにある形容詞「おぼつかなし」とは、「aはっきりしない・ぼんやりしている b(ようすがわからないので)気がかりだ・不安だ c待ち遠しい・もどかしい」の意があります(同上)。

 竹岡正夫氏は1-1-29歌の「おぼつかなく」は「山鳩か郭公のようなくぐもった、とらえどころもないような声で、その姿も見せず、どこからともなく鳴いているのが聞こえて来る感を表し、1-1-29歌の中心の語句」と指摘しています。

「おぼつかなし」の意は上記の「aはっきりしない・ぼんやりしている」という指摘です。

 しかし、この歌の詞書には、相手の女のつれない態度が続いているとあり、「おぼつかなし」の意は、恋の歌の作者の気持ちとしては、上記「a」の意よりも、「b(ようすがわからないので)気がかりだ・不安だ」あるいは「c待ち遠しい・もどかしい」のほうが適している、と言えます。

⑨ 次に、「よぶこどり」です。

 ブログ2019/9/9付け(「4.」)で、『古今和歌集』の配列を重視した1-1-28歌と1-1-29歌の検討をしました。

 1-1-28歌の「ももちどり」は、どんどん緑が増してきている状況に対比する表現であり(二、三羽とか一種類の鳥ではなく、)「もも(百)」も「ち(千)」も数の多い状況(「一種類ではない鳥が多数いる」状況)を指す語句として用いられています。

 だから、「よぶこどり」の実体も、「ももちどり」がそうであるならば、(少なくとも)1-1-29歌の「よぶこどり」も、「一種類ではない鳥が多数いて呼び合っている(かのような)」状況あるいは「一種類ではない鳥が多数いてそれぞれ関係なく鳴き続けている」状況を言っている、と理解したところです。

 そしてこの歌(4-3-49歌)の「よぶこどり」もそのように理解しました。その名には、「よぶ」という行動を指す語句が含まれており、鳥の種類よりも「よぶ」という行動に注目して命名したもの、と推測します。

 『萬葉集』では、「呼子鳥」あるいは「喚子鳥」などと表記されています。

 土屋文明氏は、(『萬葉集』歌での用例で)「子、即ち人間を呼ぶように聞こえる鳥」、久曾神氏は、(『古今和歌集』での用例で)「呼ぶような声で鳴く鳥(ホトトギス・郭公などであろう)」、及び竹岡氏は、(同上)「呼ぶような声で鳴く鳥」と指摘しています。

⑩ そのうえで、「よぶこどり」が示唆する人物について、「よぶこどり」という名詞の構成から前回検討しました(ブログ2019/9/16付け「7」)。即ち、同音意義語の組合せから示唆する人物を推測したところです。

 その結果、「よぶこどり」とは、

第一 動詞「呼ぶ」(呼びかけるあるいは囀る)+接頭語「小」(形が小さい意を添える)+鳥(鳥類の総称)。示唆する人物は無し。

第二 動詞「呼ぶ」(自分のところへ来させる・呼び寄せる)+名詞「子」(人を親愛の情をこめて呼ぶ語)+鳥(鳥類の総称)。示唆する人物は相手の女。

第三 動詞「呼ぶ」(呼びかけるあるいは囀る)+接頭語「小」(軽蔑したり憎んだりする気持ちを添える)+鳥(鳥類の総称)。示唆する人物は相手の周りの人々(縁者と召使で作るグループ)。

第四 動詞「呼ぶ」(呼びかけるあるいは囀る。)+接頭語「小」(身分・地位の低い意を添える)+鳥(鳥類の総称)。示唆する人物は作中人物がへりくだっていう自称(つまり作者)

の4例が候補となり、さらに、鳥は集まっているのだから示唆するものも複数の人物と限定してしまい、第三の示唆がこの歌(4-3-29歌)にはある、としました。

 これは、「よぶこどり」の理解のうちの「多数いる状況」に近いものを示唆するのがよい、という先入観のもとにある整理でした。配列と詞書と歌本文に沿い、「よぶこどり」が示唆する人物を推測して然るべきでした。

 また、詞書にあるように以前は親しくしていたといえるのですから「つれない」のは身分が理由とは思えないことも第四を除外した理由の一つです。

 ただし、同音異義語で構成されていない「よぶこどり」ならば(ある状況下にいる鳥たちの暗喩とみるならば)、恋の歌の一般論として作者を示唆することは可能と思えます。

 また、この3-4-48歌が詠まれた時代には古今伝授の秘伝の三鳥の一つによぶこどりはなっています。鳥の名称の一つとの認識も生じている時代になっている、と推測します。鳥が集まって鳴いている状況を指す語句よりも、その状況にある鳥(たち)、という属性に基づく鳥の名称として歌語となっていたのではないか。そのため具体の鳥の種類は不問にされていたといえます。

 だから、「よぶこどり」とは、「呼びかけ合って囀っている鳥たち」とか、「人を呼んでいるかのように鳴く鳥(たち)」の意と、今回は理解します。土屋氏や竹岡氏などの理解と重なりました。

⑪ さて、一般に、恋の歌であれば、恋の当事者と恋の伸展に関係する人物達が、詞書や歌本文に登場しています。「よぶこどり」が示唆する人物達は、この歌の詞書と歌本文に従えば、次のような人物を示唆していると想定できます。

第五 相手の女であれば、3-4-48歌で作者の人物評価をしている(あるいは人物評価を関係者が行うのを容認している)人物で、男につれなくしている時期の人物(これは上記⑩の第二にも該当する)

第六 作者であれば、3-4-48歌で人物評価をされている人物(男)で、つれなくされている状況が続いている時期の人物(これは上記⑩の第一~第四に該当しないがただし書きに該当する)

第七 上記第五の関係者(縁者や召使)で作者の人物評価をしている人物(これは上記⑩の第三に該当する。)

第八 上記第六の関係者(縁者や召使)で作者の味方をする人物(これは上記⑩の第一~第四に該当にも上記⑩のただし書きにも該当しない。)

 このうち、第八は、恋の歌として作者が話題とするのは得策ではなく、自らが相手に訴えたほうが良い、と思います。

 よぶこどりが示唆する人物の候補としては、結局、相手の女かその女の関係者(縁者や召使)と作者自身が残りました。 

 これを前提に詞書と歌本文を再確認します。

⑫ 詞書は、「よぶこどり」という語句やそれを類推させる語句もない文であり、(上記③に記す)これまでの結論は変わりません。

 次に、歌本文の文Aでは、山中に関して誰かの認識を「・・・も知らぬ(山中)」と記しているものの、誰が「知らない」のか明記していません。その「誰」の候補を歌本文で探すと、動物の名として表記されている「よぶこどり」があります。さらに作者も候補となるでしょう。そのほかは見当たりません。

 「・・・も知らぬ(山中)」と認識しているのが「よぶこどり」であれば、それが示唆している人物の候補は上記⑪のように3通りの人物となります。

⑬ 歌本文が平仮名表記でまったく同じである類似歌(1-1-29歌)を参考にすると、久曾神昇氏は文A相当部分を「どちらに行けばいいかわからないような深い山の中で」と現代語訳しています。竹岡正夫氏は、「あっちへいけばどうで、こっちへ行けばどうという見当もつかない山中で」と現代語訳しています。

 両氏とも、現代語訳にあたって、「知らない」のが誰であるかについて具体の人物の指摘をしていません。

 そして、両氏の文B相当部分の現代語訳はつぎのとおりです。

久曽神氏:「不安そうに呼ぶような声で呼子鳥が鳴いていることよ」

竹岡氏:「(どこで鳴いているのやら)まるでもう茫然としたさまで呼ぶ呼子鳥よなあ」

 両氏は、そのような山中で「おぼつかなくも」鳴いている「よぶこどり」がいる、と詠嘆的に作者は断定している、と指摘していることになります。

 よぶこどりが鳴いているのを実際聞いたときに詠んだ歌なのかどうかに関して両氏の指摘はありません。

 「よぶこどり」が「おぼつかなくも」鳴いている理由の指摘もありません。

⑭ 恋の歌と仮定し、さらに「よぶこどり」の示唆するところを上記⑪に従い仮定して検討してみます。仮に竹岡氏の現代語訳を参考にすると、

 「よぶこどり」が相手の女を示唆する場合、歌本文の理解は、

 文A: 「「よぶこどり」である貴方には、あっちへいけばどうで、こっちへ行けばどうという見当もつかない山中で」

 文B: 「(どこで鳴いているのやら)まるでもう茫然としたさまで呼ぶ「よぶこどり」である貴方よなあ」

 この歌は、同じ詞書のもとにある3-4-48歌の次に配列されています。

3-4-48歌は、

「あら 小田を あら 鋤きかへし かへしても 見みてこそや まめ人の こころを」

と理解した歌です(現代語訳(試案)は上記②の第四に記す)。

 3-4-48歌の次に配列されている3-4-49歌が、このような理解であれば、「貴方は(どなたかの横やりで)私との仲をどうしようか迷っているのかなあ」という趣旨の歌になり得ます。

 文Aの理解を上記⑥で指摘した「をちこちのたづき」の意(「遠方の山か手前の山か、それを判断する方法」)となると、歌の趣旨をもっとはっきり汲み取れます。これは以下でも同じでした。

⑮ 次に、「よぶこどり」が相手の女の関係者(縁者や召使)を示唆する場合、歌本文の理解は、

 文A: 「「よぶこどり」である貴方の縁者や召使は、あっちへいけばどうで、こっちへ行けばどうという見当もつかない山中で」

 文B: 「(どこで鳴いているのやら)まるでもう茫然としたさまで呼ぶ「よぶこどり」である貴方の縁者や召使よなあ」

 このような理解であると、同じ詞書のもとにある3-4-48歌の次に配列されている歌なので、この歌は、「貴方の縁者や召使は(貴方の気持ちはそっちのけで)私のどこが気に入ら居ないのでしょうかねえ」という趣旨の歌になり得ます。

 最後に、「よぶこどり」が作者自身を示唆する場合、歌本文の理解は、

 文A:「「よぶこどり」である私は、あっちへいけばどうで、こっちへ行けばどうという見当もつかない山中で」

 文B:「(どこで鳴いているのやら)まるでもう茫然としたさまで呼ぶ呼子鳥である私であるよなあ」

 このような理解であると、同じ詞書のもとにある3-4-48歌の次に配列されている歌なので、この歌は、「私は途方にくれています。生殺しにしないでほしいなあ」」という趣旨の歌になり得ます。

⑯ この歌の詞書によれば、作者は、文の返事をもらえない状況ですので、相手の女がそのような態度を採る理由は憶測に過ぎません。その理由がわかっているかのような態度で詠うよりも、自分の気持ちを直截に(かつ優雅に?)訴えるほうが相手への誠実さも強く訴えることになるのではないか。

 以上の3者を比較すると、「よぶこどり」は作者自身を示唆していると見るのが一番妥当です。

 さらに、それ以外の理解を相手がしても(誤解されても)、この歌(3-4-49歌)は相手の女を信じている、という気持ちは伝わると期待できる歌になっている、といえます。

 なお、「かな」は、詠嘆的に文を言い切るのに用いられる終助詞です。前回はこの語句を現代語訳(試案)に訳出できていませんでした。

⑰ 以上の確認を踏まえて、文Aの現代語訳を試みると、次のとおり。

 「遠方の山か手前の山か、どこに居るか判断する方法もわからない山の中に」

 

文Bは、次のとおり。「おぼつかなし」の意に2案あります。

 第一案 「「b(ようすがわからないので)気がかりだ・不安だ」という状況にあって、「呼ぶような声で鳴く鳥」であるなあ。(ああ、私も同じ心境だなあ。)」

 第二案 「「c待ち遠しい・もどかしい」という状況下で、「呼ぶような声で鳴く鳥」であるなあ。(私も同じ心境だなあ。)」

 

 詞書に留意すると、「はるころ」(芽がふくらむ頃)が重要です。また、同じ詞書のもとにある3-4-48歌と対の歌であることも考慮すると、二人の仲を不安視しつつ詠んだ歌ではなく、自信を持って相手を信頼して詠んでいる姿勢をとる第二案が妥当ではないか。

⑱ そして、もうすこし言葉を選び歌本文全体の現代語訳を試みると、次のとおり。

「遠方の山なのか近い山なのか、それを知る方法もわからない山の中に居て、待ち遠しい・もどかしいと思いつつ、よぶこどりは「呼ぶような声で鳴く鳥」であるよなあ。(私も貴方が恋しくて泣き暮らすほかなくて・・・。)

 この歌は、文の返事をもらえない状態が続き進展のない男が、昔に復することを待ち望んでいることを、「よぶこどり」に自らをたとえて、婉曲に相手の女に訴えている歌であり、恋の歌といえます。

 そして、前回の現代語訳(試案)は「よぶこどり」の示唆するところを誤っていましたので、削除します。

 

3.再考 類似歌1-1-29歌

① 最初に、類似歌1-1-29歌が配列されている『古今和歌集』巻一部立て「春歌上」の配列を再確認します。

 「仮名序」を参考にすると、部立て「春歌上」には、「(やまとうたは)世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心におもふことを見るものきくものにつけていひだせるなり」(仮名序)という歌のうちで、「暦の上での春の時期において見るものきくもの」につけて詠われた歌が配列されているとみてよい。即ち、部立て「春歌上」には、春という季節の自然界と人事を材料として作者の思いが詠われている歌が配列されています。

 ブログ2019/9/9付け~同2019/9/23付けの検討の際は、この歌で「心に思うこと」は、第一に「春に逢えたことを喜ぶ」ことであり、第二以下は不問にするという偏見が私にありました。春という季節に見聞きすることから生じる「思い」はそれだけではないことに配慮が足らなかったと反省しています。

 今回はその反省の上で再確認しました。

② 前回(ブログ2019/9/9付け)で、部立て「春歌上」のすべての歌に、官人が当時の季節・時節を表す語句があることを、久曾神氏や竹岡正夫氏の指摘に私見を加えて確認しました。そして、歌番号が奇数の歌とその次の歌が一対となって時系列の順に配列されていることも確認しました。

 例えば、1-1-1歌と1-1-2歌は、詞書にある「春たちける日」(即ち立春当日)と暦の上の一月一日に関する作者の思いが二通り詠われています。

 次に配列されている1-1-3歌と1-1-4歌は、「(春という季節感じるものに接しないが)春は何処」という疑問を詠う歌を一対として配列されています。即ち、春というがここ都では霞がかかっていないし吉野山には雪が降りつつあるというではないかと詠い、都に雪が降るが(1-1-2歌と同様に)立春をすぎたということならばウグイスの涙も解ける頃なのだろうと楽観的に予測しています。

③ また、例えば、1-1-27歌は、(部立て「春歌上」にある歌として)日々に深まる春の景として都の植物を詠い作者は今年の春を実感しています。

 1-1-28歌は、(同様に)日々に深まる春の景として遠くに聞こえる鳥たちを詠い、春を実感した作者の感慨を詠っています。作者の思いは三句以下に表現されています。春は物ごとにあらたまり(更新し)、あらたまることができない人というものは年を加えるのだ、と詠います。これは年が改まる時点でこその自覚ではないか。新年になってもマイナーチェンジで終わるものもある、という指摘です。

 当時は、年齢を数え年で称していましたので、1月1日に一歳年をとることになります。

 つぎに、動詞「ふる」には、「古る。旧る」であり「a古くなる・時がたつ。また、年をとる。b古くさくなる・新鮮さがなくなる。c飽きられて捨てられている。」(『例解古語辞典』)の意がありますが、この歌においては、「年をとる」意です。

 動詞「ゆく」は補助動詞で「a引き続き行われる(その傾向がみられる)。b引き続き変化が進行し、ある状態になる。」の意です。

 この二つの語句には、詠嘆の意はありません。

 だから、1-1-28歌は、老いを嘆いているのではなく、時の経過を自分にひきつけて春の実感を詠ったものであり、部立て「雑」ではなく部立て「春歌上」に配列されている歌となっています。

 前回の、春の除目に今年もあわなかったという理解(ブログ2019/9/23付け参照)であっても、部立て「春歌上」に配列が可能ですが、上記に指摘した理解の方が、より相応しい、と思います。

 結局、この2首は、又めぐってきた春の動植物の活動に触発された作者が、いつもの春が訪れたと淡々と詠った一組の歌として配列されている、といえます。

④ 次に、1-1-29歌は、聴覚で得たかのような「山にも春が深まる」景を詠い(再確認の内容は後述)、都近くで聞いた鳥の声からの感慨を詠っています。

 1-1-30歌も同じであり、聴覚で得た春の景から作者の思いを詠っています。雁は、北にある本拠地も春が近いと勇躍北に向かうのです。戻る道筋に越の国はあるので言伝は必ず届くと作者凡河内みつねは詠ったのでしょう。遠国にも春が訪れていることをこの2首は示しています。

 「ももちどり」と「よぶこどり」が1-1-28歌と1-1-29歌に登場します。前者は「複数の種類の鳥が多数いる」状況を指し、後者は「複数の種類の鳥がそれぞれ鳴いている」状況を指す語と理解できました。

 この語句の使い分けは、複数の種類の鳥が群れとなっているのを、視覚で捉えたのか(ももちどり)、あるいは聴覚でとらえたのか(よぶこどり)の違いです。そして、春になり前年と同じように(あらためて)きた渡り鳥と、去り行く渡り鳥に対比できます。

⑤ 春の雁は、去り行く渡り鳥の典型的な例となります。

 雁が景として詠われている1-1-31歌は、この地の梅の香が薫ることから本拠地の春の近いことを雁が連想した行動を詠います。四句にある「花」は、部立て「春歌上」の配列からは「梅の花」以外はあり得ません。仮住まいの地に春がきたのであれば、北にある本拠地にも春が近づいていると雁は理解しており、それを作者伊勢は残念だが認めざるを得ない、と配列から推測できます。詞書に「帰るかり」とある所以です。

 次の歌1-1-32歌は、梅の移り香にもウグイスが喜んで寄ってくると詠います。この2首は、梅の香から連想したかと思うものを詠っていることが共通であり、前後にあるそれぞれ一対の歌との共通項は異なります。(『古今和歌集』巻一全体の配列再確認は次回以降に記します。)

 なお、遠近の景の歌として対となっているのも上記「2.⑥」で指摘したところです。

⑥ さて、1-1-29歌の詞書(題しらず よみ人しらず)を再確認します。この詞書には、歌本文の理解のための特別なヒントはありません。このため、部立て「春歌上」の配列の方針のもとにある歌としてこの歌を理解せよ、というのが編纂者からメッセージとなります。

⑦ 1-1-29歌本文は、3-4-49歌本文と平仮名表記ではまったく同じです。

 だから、3-4-49歌と同様に、この歌本文には、作者あるいは作中人物の行動や思いは直接表現されていない、と判断できます。

 しかし、仮名序の和歌の定義に従えば、この歌は、春という時期における「見るものきくもの」につけて「心におもふこと」を詠んだもののはずです。

 「心におもふこと」とは、春の景に触発された「喜び、感動、発見、感謝、希望、諦観、一体感、共感、開放感、安心感、悲しみ、憂愁、決意、あるいは怒り」などの何れかではないか。

 歌本文をみると、動物(「よぶこどり」)の行動が一つ詠われており、その行動が作者の「心におもふこと」を示唆しているのではないか。

 「よぶこどり」とは、上記「2.⑩」で指摘したように、「呼びかけ合って囀っている鳥たち」とか、「人を呼んでいるかのように鳴く鳥(たち)」の意と理解しました。集まっている鳥の種類は関係ありません。

 この理解は、土屋氏の「子、即ち人間、を呼ぶように聞こえる鳥」や竹岡氏の「呼ぶような声で鳴く鳥」などの理解と重なります。

 そのほかの語句の理解も、上記「2.⑥~⑧」に従います。

⑧ 現代語訳を、あらためて試みます。

 歌本文は、3-4-49歌とおなじように、次の二つの文からなっています。

文AA  をちこちのたづきもしらぬ山なかに: よぶこどりが現在居る場所を山中と作者は限定。またその山中に関して誰かの認識を作者は紹介している。

文BB  おぼつかなくもよぶこどりかな:よぶこどりの現在の行動を作者は推測

 作者の「思い」は、(部立て「春歌上」にあるので、)春という限定した季節に鳥たちが山中において鳴きかわすことに象徴されている、と理解してよい。そして「よぶこどり」の「よぶ」には動詞「呼ぶ」が掛かっています。

⑨ 前回(ブログ2019/9/16付け)では、文AAの現代語訳(試案)を、

 「遠い山なのか近い山なのか分からないが、山のほうから」

として、よぶこどりの今居るところが作者の居るところからどれほど離れているのか知る方法がなく、わからないのだが、と理解しました。しかし、逐語訳に近づけたいと思います。詞書が異なるものの、文AAは景を詠っている部分であり、3-4-49歌の文Aと同文がよいと思います。即ち、

 「遠方の山か手前の山か、それを判断する方法もわからない山の中に」

⑩ 文BBは、「作者の思い」を示唆しているはずです。詞書が「題しらず」ですので、部立て「春歌上」の配列に留意して現代語訳を試みます。

 1-1-29歌と1-1-30歌は一組の歌として、都から望む遠方の春の景を詠っています。そして、1-1-29歌は、聴覚で得たかのような「山にも春が深まる」景から作者の思いを詠っています。

 前回(ブログ2019/9/16付け「6.」)、文AAと文BBには推測・推量の助動詞や類推の助詞もない、と指摘しました。形容詞「おぼつかなし」にも推測の意はない、とも指摘しました。確実に、予想通りの景に出あい、今年もまた去年と同じような感慨を得たことを詠っているのが、この歌である、と言えます。

 1-1-30歌は、1-1-29歌よりさらに遠い地までの春を詠っています。北の根拠地も春が近いと勇躍北に向かう雁の姿も毎年見慣れた光景です。

 終助詞「かな」は、詠嘆的に文を言い切るのに用いられる語句です。

 想像するに、よぶこどりの毎年繰り返されるにぎやかな鳴き声を聞くにつれ、前向きの気持ちを作者(作中人物)は持ったのではないか。それは、喜び、共感、開放感、安心感というようなことではないか。

 文BBの現代語訳を試みると、

「待ち遠しい・もどかしいと思いつつ、「呼ぶような声のよぶこどり」であるよなあ。」

 

⑪ このように類似歌1-1-29歌は、春という季節の到来に、まためぐってきたなあと安心感を詠った歌です。「よぶこどり」は、春にみる鳥の群れであり、特定の人物の示唆はありません。

 前回(ブログ2019/9/16付け)で、上記と異なる現代語訳(試案)を示し、憂愁を詠うかと想像したのは誤りでした。同(試案)は削除します。

 この歌は、よみ人しらずの歌です。『古今和歌集』歌の元資料の歌の意が、不安を感じている訳例のようになる可能性を否定しませんが、『古今和歌集』の編纂者は、元資料の歌をこのように理解してここに配列していると思えます。

⑫ このように、3-4-49歌とその類似歌1-1-29歌は異なる歌意の歌であることを再確認しました。

 

4.再考 同じ詞書のもとにある歌として

① 同じ詞書のもとにある3-4-48歌と4-3-49歌の整合性を確認します。

 3-4-48歌本文は次のとおりであり、二つの文からなる歌でした。

   あらをだをあらすきかへしかへしても見てこそやまめ人のこころを

文A  あら 小田を あら 鋤きかへし かへしても 見みてこそや

文B (みてこそや) まめ人の こころを

 4-3-49歌本文は、文の返事をもらえない状態が続き進展のない男が、昔に復することを待ち望んでいることを、「よぶこどり」に自らをたとえて、婉曲に相手の女に訴えている歌です。

② 3-4-48歌は、何かのきっかけから拒まれ続けている男が、女に時期をみて言い寄っている恋の歌と理解したところです(ブログ2026/3/23付け参照)。

 その歌本文は同音異義の語句「あら」により歌意を際立たせた歌を相手に送れているところから、春の時期を撰んで送っていることを強調し、仲をもどす時期ではないかと言っている、と理解できます。

③ この2首は、歌番号順に相手に送られた歌として、一対となった恋の歌であり、内容的に違和感がないことを再確認しました。

④ ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただき有難うございます。

 次回は、3-4-50歌を確認します。

(2026/4/20  上村 朋)

わかたんかこれ 猿丸集恋歌確認48歌その1 はるころ

 前回(2026/3/2)に引きつづき『猿丸集』歌の再確認をします。今回は第48歌の一回目です。

1.経緯

 2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。第47歌まではそのとおりであった。第48歌を今回より確認する。

 歌は、『新編国歌大観』より引用する。

2.再考3-4-48歌の現代語訳その1

① 『猿丸集』の48番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

 3-4-48歌  ふみやりける女のいとつれなかりけるもとに、はるころ

      あらをだをあらすきかへしかへしても見てこそやまめ人のこころを

 古今集にある類似歌

 1-1-817歌  題しらず           よみ人しらず

      あらを田をあらすきかへしかへしても人のこころを見てこそやまめ

② 下記のように確認をし、次の結果となりました。

 第一 この歌3-4-48歌は、恋の歌である。現代語訳(試案)は類似歌1-1-817歌とともに、前回の成果に修正を要した。類似歌も恋の歌であるが3-4-48歌と異なった歌意の歌である。

 第二 この2首は、詞書が異なるほか歌本文の初句と二句にある「あら」の意が異なるなどにより歌意が異なる。

 第三 この歌は、何かのきっかけから拒まれ続けている男が、女に時期をみて言い寄っている恋の歌であり、類似歌は、恋の終焉をまだ受け入れがたい人物が最後の踏ん切りをつける決意を詠っている恋の歌である。

 第四 同じ詞書のもとにある3-4-49歌との整合は次回確認する。

 第五 類似歌のある『古今和歌集』の巻十五の配列に関する前回の検討は修正を要しない。

③ この歌から再確認します。最初に、詞書です。

 詞書にある「ふみやりける女」とは、前回(ブログ20190826付け及び同20180902付け)、「交際前提で手紙のやりとりをしている女、という意です。つまり文通から先に踏み出してくれない女、」と理解しました。

 しかし、この詞書で「女」と作者の関係に触れている語句はいくつかあるので、改めて作詠時点での「女」と作者の関係について確認しました。

 第一に、この女は、作者がふみを「やる(遣る)」相手です。この歌は、慶弔に関する歌などではなく、恋の歌の可能性が高い。

 第二に、この女は作者に対して「いとつれなかりける」対応に今終始している、と作者は判断しています。「つれなし」とは「無情だ」、という意であり助動詞「けり」は過去回想の助動詞であり、作者に対して女の「つれなし」という状況がある時期から現在まで続いていることを詠嘆の気持ちをこめて回想しています。

 第三に、作者は、それでも、この歌を相手におくっています。受け取ってこの歌に眼をとおしてくれる自信が作者にはある、と見えます。だから、この女と、そのある時期以前は、仲がよかった可能性が高い。

 第四に、女が無情な態度を採る理由について、この詞書の文は触れていません。その理由を推測すると、恋の歌であるので一般的には次の2案があります。

恋の始めの段階の場合であれば、相手はまだ逢う気が無く、相手が戦術的にとっている態度が「つれなし」です。

 恋の中断の危機の場合であれば、男の裏切りと思える行動・噂を相手が知ってそれを咎めたいから。この場合は以前には二人の仲がよかったと推測できます。

 上記第一~第三と矛盾しない「女が無情な態度を採る理由」とは、後者の「恋の中断の危機の場合」ではないか。

 第五に、「はるころ」の「はる」は同音異義のある語句のひとつです。上記の第四までの二人の関係であれば、「春」の意以外の意を重ねて用いることが可能です。なぜ「はるころ」この歌をこの女におくったのかのヒントがあるかもしれません。

 以上を総括すると、この女と作者の関係は、現在理由は判らないものの女の方の判断で逢うことが滞っている間柄である、と作者は認識しています。前回の理解は誤りであった可能性が高い。

④ 次に、「はるころ」の「はる」の意を確認します。

『例解古語辞典』には「はる」には五つの立項があります。引用すると、

 名詞 春:陰暦で、1、2、3月

 四段活用の動詞 張る:a紐・布・網などを、たるみなく引き渡す。b(氷などが)はる。c紙や布などを他の面に広げてぴったりとはり付ける。d心をゆるみなくもつ、がんばる。e何かを広げるように、しかける。設ける。f植物が根を広げる。また人が勢力を広げる。g勝負ごとに賭け物をかける。h平手や握りこぶしで、打つ。なぐる。

 四段活用の動詞 萌る:芽がふくらむ

 四段活用の動詞 墾る:田や池を新しくつくる。開墾する。

 下二段活用の動詞 晴る: a空が晴れる。b心が晴れ晴れする。c障害となるものがなく、広々と開ける。

 そして、「はるころ」の「ころ」とは、名詞「頃。比」であり「aおよその時を表す語。時分。ころおい。b時節。おり。また、季節」の意があります。

 名詞「ころ」を修飾している動詞「はる」は連体形なので、「下二段活用の動詞 晴る」の意で作者は用いていないことになります。

⑤ そうすると、「はるころ」には、上記②の総括のもとで、いくつかの案があり得ます。複数の案を重ねている場合もあります。

 第一案 単に季節を限定。即ち「春の時節に」。しかし、歌本文の理解に特段資するところがなければ、この語句は詞書に加える必要がなかったものと言えます。

 第二案 女の「つれなし」という状況を打開するための作者の再度のチャレンジの意。即ち「張る」の上記dの意で、「がんばる頃に」。 

 この案は、何とか機嫌をなおしてもらいたいと考えてチャレンジをした際の歌の詞書ということになります。

 第三案 上記第二案のうちでもとくに、女の「つれなし」という状況を打開するためのチャンス到来とみてあと一押しする意。即ち「萌る」であり「芽がふくらむ頃に」。

 この案は、女の「つれなし」の状況を判断するとあと一歩である、という確信のもとにおくった歌の詞書ということになります。

 詞書の現代語訳(試案)は、これらの案と歌本文の理解とを突き合わせて、一番可能性の高いものを採ることとします。

⑥ 上記⑤の第二案と第三案の場合の詞書の現代語訳(試案)を検討しておきます。

 上記⑤の第二案の場合:「文をおくっている女の、大変無情な態度が変わらないでいる時分に、気持ちをゆるめず春の頃」

 上記⑤の第三案の場合:「文をおくっている女の、大変無情な態度が変わらないでいる時分であって、芽がふくらむ頃」

 また、この詞書は、次の歌3-4-49歌の詞書でもありますので、この歌(3-4-48歌)と3-4-49歌のそれぞれの歌本文とも平仄があっていなければなりません。このことは3-4-49歌の再確認時に確認することとします。

⑦ 次に歌本文の再確認です。

 前回、3-4-48歌の歌本文の構成は、句またがりの語句もあるとみて、

文A あら をだを あら すきかへし かへしても みてこそや

文B (みてこそや) まめ人の こころを

と理解しました。

「あら」は、感動詞であり、「まめ」は、形容動詞「まめなり」の語幹とみました。

「まめ人」とは作者を意味しています。

⑧ 歌にある「をだ」とは、「小田」であり、ここでは「を」が語調をととのえる接頭語であり普通の田を意味します。

「をだをすきかえす」というのは田に水を引く前の作業です。それは春(旧暦1,2,3月)の作業です。

 詞書にある「はるころ」は「春頃」の意でもあり、この歌は、類似歌と初句~三句が平仮名表示では全く同じで、七文字ずつの四句と五句は順番を入れ替えているだけです。

 このように、作者は、この歌が類似歌である『古今和歌集』の部立て「恋五」にある1-1-817歌を下敷きにした歌であることをあからさまに示しています。

⑨ ではその1-1-817歌は、何を詠っている歌か。

 諸氏は1-1-817歌を、「相手に未練があるものの最後の踏ん切りをつけようと決意をした人物の歌」と理解しています。それは、この歌のある『古今和歌集』の部立て「恋五」の配列の方針になじむ理解と言えます。

 例えば、竹岡正夫氏の1-1-817歌の現代語訳はつぎのとおり。作中人物の想定は女であるらしい。

「荒れた田を粗く鋤き返し――こんなに鋤き返しひっくり返してでもあの人の心(の中)をとくと見てとったその上でこそ(私の気持ちも)清算したいんだが。」(初句と二句は嘱目の景であり三句が契点となって情の表現に転じるという理解)

 久曾神昇氏の現代語訳は次のとおり。作中人物の想定は女であるらしい。

「繰り返し繰り返し、あの人の本心を見定めて、それから、私はきっぱりとあきらめてしまいましょう。」(初句と二句は「かへし」にかかる無意の序詞という理解氏)

⑩ この歌3-4-48歌の詞書によれば、この歌は、男がよりを戻したい(詞書の第二案)時かさらに絞り込みそのチャンスがきた時(同第三案)と判断して相手に送っている歌です。だから、3-4-48歌本文の四句と五句の意は、諸氏の理解がほぼ一致している1-1-817歌と異なるはずです。

 そのため、この歌は、上記⑦の文Aに続き文Bがある、という理解は、誤っていない、と思います。

 しかし、句またがりの語句があるような詠み方の歌が当時あるのかどうかは確認したいところです。そのため『猿丸集』成立以前に成立している『古今和歌集』の恋の歌にあたると、語句(文の一節)が句またがりであると推測できる歌が、この歌を除き少なくとも9例ありました(付記1.参照)。

 1例をあげると、1-1-489歌では、四句~五句の「きみをこひぬ日」が句またがりの語句です。1-1-489歌本文を句ごとに分けて示すと、次のとおり。

 するがなる たごのうらなみ たたぬ日は あれどもきみを こひぬ日はなし 

 このため、この歌のように、句またがりの語句がある文Aと文Bからなるという詠み方は、『猿丸集』成立以前にもよくある詠み方のひとつであった、といえます。

⑪ 現代語訳を改めて試みると、次のとおり。

 「あれまあ。田を、あれまあ、鋤いたり鋤き返したりもして田の状況を確かめるように、私をよくよく見てからということですか。実直な男である私の心を。」

 前回の(試案)は思い入れが強すぎました。「まめ人」であるので素直に語句の意をたどることに改めました。

3.再考1-1-817歌の現代語訳

① 次に、類似歌1-1-817歌を再確認します。

 詞書は、「題しらず よみ人しらず」です。

 この題詞には、作者や作詠事情などの情報がありません。

 ただ、部立て「恋五」にあるのでその配列からは、恋の終りが確実に近づいている時期の歌と予想できます。この歌のある部立て「恋五」について前回行った検討の結論は次のようなものでした。即ち(ブログ2019/8/26付け参照)、

 第一 奇数番号の歌とその次の歌は、配列の上では一組として扱われている可能性が高い。

 第二 巻第十五にある歌は、二人の仲が客観的には元に戻れないような状況以降に対応する歌として編纂されている。

 第三 相手におくることを前提として詠んでいる歌と理解できる配列になっている。元資料が詠まれた事情が優先されていない。

 第四 元資料の歌の意を優先した配列でもない。

 第五 歌群は少なくとも9群に整理できる。例えば、

 1-1-803歌~1-1-816歌 秋(飽き)に悩む歌群

 1-1-817歌~1-1-824歌 熟慮の歌群 (1-1-817歌は、仮置き)

 1-1-825歌~1-1-828歌 振り返る歌群

② 歌本文を再確認します。

 歌本文の初句にある「あらをだ」とは、接頭語「新」あるいは「荒」+接頭語「小」+名詞「田」であり、「新しく開墾したばかりの田あるいは、荒れた田を指します。この歌は、作者がよく知っていると思っていて、かつ作者を愛しているはずの相手を疑う歌なので、「あらをだ」は新田ではなく「荒れた田」のほうが景としてよいと思います(初句にある「あら」は「荒」と理解)。

 二句の「あらすきかへし」とは、接頭語「粗・荒」+動詞「鋤く」の連用形+動詞「かへす」の連用形であり、「土を荒くまずほぐしたり裏返しにしたり」という行為を指しています。

 三句の「かへしても」は、「かへす」行為を強調して繰り返し言っているので、田の作業としては「すきかへす」ことを続ける意となり、作者の恋に関する行為としては「よくよく情報を集めて確かめて」の意となります。

 「かへしても」という語句は、竹岡氏のいう景と情をつなぐキーワードです。

歌本文の五句は「みてこそやまめ」とあり、(こそ)「やまめ」とは、四段活用の動詞「止む」の未然形+推量の助動詞「む」の已然形です(係助詞「こそ」による係り結び)。このため、類似歌1-1-817歌の五句の意は「物事がおこらないままで終わる・中途で途絶える」とか「やめる・終える」ことにしよう、ということになります。

③ 前回試みた現代語訳(試案)(ブログ2019/9/2付け「6.③」参照)は、作中人物を女と限定した理解でした。しかし、その理由を十分確認していませんでした。

 この歌の元資料は、詞書を信頼すれば、よみ人しらずの伝承歌といえます。初句~三句に表現している景は、三句以下の情の具象(比喩または象徴)となっているとみることができます(竹岡氏の説)。

 「あらを田」を鋤くのはまず男の仕事です。自らの働く場での行為より説き起こした歌であったとすれば、最初にこの歌を詠んで相手におくったのは男ではないか。現に、この歌は男が詠んだ歌としても理解が可能です。

 最初に詠まれた後、伝承歌という認識になった時は、男女の別なく利用された歌となっていたのでしょう。無意の序詞とみなしてもみなさなくとも、景の理解が「男が荒田でするのにならって」の意とすれば、女が男におくっても作者(と作中人物)の思いは十分伝わります。

 『古今和歌集』の部立て「恋五」の歌として配列するにあたって歌集の編纂者は、男女どちらでも用いることができる歌として配列している、とみてよい、と思います。 

 諸氏の現代語訳の例としてあげた竹岡氏や久曾神氏も作中人物を必ずしも女のみと理解しているとは明言していません。

④ また、四句にある「人の心」の「人」は、特定の人物を念頭において用いているのであって、性別は限定していない語句です。

 そのため、改訳したい、と思います。この際「荒田はもとの状態に戻す」という私の思い入れも省きます。

 「荒れてしまっている田は、勢いよく鍬きを振るいそして鋤き返して田の状況を確かめるように、色々試してでも、あの人の心の中をしっかり見定めてから私は思い切ろう。」

 この歌は、『古今和歌集』に配列された歌として理解しなければなりませんので、作中人物の性別は不定です。

⑤ なお、『古今和歌集』におけるこの歌の前後3対の歌の作中人物を推測すると、次のとおり。

 1-1-813歌と1-1-814歌:作者は前者がよみ人しらず後者が藤原おきかぜ。作中人物は前者が女、後者が男。

 1-1-815歌と1-1-816歌:両歌とも作者はよみ人しらず。作中人物は前者が女、後者が男か

 1-1-817歌と1-1-818歌:両歌とも作者はよみ人しらず。作中人物は前者が不定、後者が女か。

 1-1-819歌と1-1-820歌:両歌とも作者はよみ人しらず。作中人物は前者が女か、後者が不定。

 1-1-821歌と1-1-822歌:作者は前歌がよみ人しらず後者が小町。作中人物は前者が不定後者が女。

 1-1-823歌と1-1-824歌:作者は前者が男(平貞文) 後者はよみ人しらず。作中人物は前者が男、後者が女

 奇数番号の歌とその次の偶数番号の歌の作者(と作中人物)が男と女の組合せになっているとすれば、1-1-817歌の作者(と作中人物)は、男とも推測できます。

 

4.再考 3-4-48歌の現代語訳その2 

① さて、この歌の詞書と、歌本文の整合を確認します。

 この歌本文は、同音異義の語句「あら」により「あらをだ」の景を詠う類似歌を相手に意識させています。その「あらをだ」での春の作業は秋の収穫を期待しているものです。

 詞書にある、「はるころ」の「はる」も同音異義の語句であり、秋の収穫のための作業をこの春からはじめませんか(即ち、そろそろ仲直りしませんか)、と問いかけているのがこの歌の暗喩ではないか。詞書にある「はるころ」という語句は、歌本文の理解の鍵となっています。

 このため、歌本文の理解と整合する詞書は、上記「2.⑤」に示した第三案が基本となって「春頃」の意も重ねたものが妥当ではないか。その現代語訳(試案)は上記「2.⑥」の第三案を参考に次のようになります。

 歌本文は、上記「2.⑪」に示した(試案)を採ります。

3-4-48歌 の現代語訳(試案)

 詞書 「文をおくっている女の、大変無情な態度が変わらないでいる時分であって、(春、)芽がふくらむ頃」

 歌本文 「あれまあ。田を、あれまあ、鋤いたり鋤き返したりもして田の状況を確かめるように、私をよくよく見てからということですか。実直な男である私の心を。(どうぞ確かめてください。)」

 

② この結果、この歌と類似歌は、詞書が違い、歌本文の初句と二句にある「あら」の意が異なるなどにより歌意が異なる歌です。現代語訳(試案)は、前回からさらに推敲し改まりました。

 この歌は、何かのきっかけから拒まれ続けている男が、女に時期をみて言い寄っている恋の歌であり、類似歌は、恋の終焉をまだ受け入れがたい人物が最後の踏ん切りをつける決意を詠っている恋の歌です。

 ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただき有難うございます。

 次回は、同じ詞書のもとにある3-4-49歌を確認し、この歌との整合をみます。

(2026/3/23  上村 朋)

付記1.古今集の部立て「恋」にある歌で、語句(文の一節)が句またがりと推測できる歌の例

『古今和歌集全評釈』(竹岡正夫氏)の現代語訳により確認すると、少なくとも以下の10例がある。

 なお、巻十九の部立て「誹諧歌」には、1-1-1029歌などの5例がある。

第一 1-1-486歌 題しらず  よみ人しらず

   つれもなき人をやねたくしらつゆのおくとはなげきぬとはしのばむ 

句またがりの語句は、三句~四句の「白露のおく」。「おく」は「置く」(朝)と(朝)「起く」を掛けている同音異義の語句(単語)である。

この歌本文は、次の文からなる。

 文A つれもなき人をや:「や」は疑問の意であり、その結びは末尾の「む」(推量の意)

 文B ねたく:挿入句:チェ、と言いたくなるような、しゃくで、いまいましい気持ちをいう。第四句と第五句の状態にあることに対しての自分の気持ちである。

 文C しらつゆのおくとはなげき:文Dと対句

 文D ぬとはしのばむ

現代語訳:同じように思ってもくれないのにそんな人を、しゃくなこと、白露の置く朝起きるというては長嘆息し、寝るというては慕おうとするんだろうか。

  これは白露に寄せる恋の歌。白露は「景」であり、単なる枕詞という扱いはしない。

第二 1-1-489歌 題しらず   よみ人しらず

するがなるたごのうらなみたたぬ日はあれどもきみをこひぬ日はなし 

 句またがりの語句は、四句~五句の「きみをこひぬ日」である。

この歌本文は、次の文からなる。

  文A するがなるたごのうらなみたたぬ日はあれども

 文B きみをこひぬ日はなし

 現代語訳:「駿河にある田子の浦の波の立たない日はあるけれども、私があのかたを恋しく思わない日はない。」

「・・・は・・・」を二つ続け間を「ども」でつないでいる。

第三 1-1-529歌 題しらず  よみ人しらず

   かがりびにあらぬわが身のなぞもかくなみだの河にうきてもゆらむ

 句またがりの語句は、三句~五句の「かく(なみだの河にうきて)もゆらむ」である。

 この歌本文は、次の文からなる。

 文A かがりびにあらぬわが身の:

 文B なぞも:間投的な感動詞

 文C かくなみだの河にうきてもゆらむ

 現代語訳:「かがり火でない私の身が、どうしたわけなの、なぜこのように涙の河に浮いて燃えているのであろう。」

 五句の「らむ」に呼応しているのは二句にある「わが身の」である。

第四 1-1-533歌  題しらず  よみ人しらず

   あしがものさわぐ入江のしらなみのしらずや人をかくこひむとは

 句またがりの語句は、四句~五句の「人をかくこひむ(とは)」である。三句にある「しらなみの」と四句にある「しらぬ」は、「同音「しら」を重ねて用いている。「しら」は同音異義の語句(単語)といえる。また「かく」は現在の自分の心情の状態をさすとともに、上の句の状景をもさしている。

 この歌本文は、次の文からなる。

 文A あしがものさわぐ入江のしらなみの:有心の序

 文B しらずや :「や」は疑問の意。「文Cとは知らないのかしら。」

 文C人をかくこひむとは

 現代語訳:葦鴨の騒ぐ入江のあの白波の――知らないのかしら、私があのかたをこんなに恋しく思おうとは。

 文Aは作者自身の具象表現と解し得る。即ち、鴨が騒ぐと、そのために周囲の水が揺れて白いさざ波が立つ、そんなことを鴨はまるで知らずに無心に遊んでいる。その鴨に恋しい方を重ねている。

第五 1-1-615歌  題しらず    とものり

   いのちやはなにぞはつゆのあだ物をあふにしかへばおしからなくに

 句またがりの語句は、二句~三句の「つゆのあだ物(を)」である。

 この歌本文は、次の文からなる。

 文A いのちやは

 文B なにぞは

 文C つゆのあだ物を

 文D あふにしかへばおしからなくに

現代語訳:命だって?いったい何だというんだい、そりゃ?露(同然)の、むなしいものを。あの人に逢うこととさえ交換できるなら、ちっとも惜しくないのに。

いつまで経ってもちっとも逢えないこの恋に、しびれをきらした、ぎりぎりと歯ぎしりしているような歌。

 「あだ物」とは、実のないものをいう。内容の空虚な物で、ここでは逢えもしないので、生きているか死んでいるのか、全く生の充実感のない自分の命を言っている。

第六 1-1-616歌 やよひのついたちよりしのびに人にものらいひて、のちに、雨のそほふりけるに、よみてつかはしける  在原業平朝臣

    おきもせずねもせでよるをあかしては春の物とてながめくらしつ

 句またがりの語句は、二句~三句の「よるをあかしては」である。

 この歌本文は、次の文からなる。

 文A おきもせずねもせで

 文B よるをあかしては

 文C 春の物とてながめくらしつ

現代語訳:(詞書) 三月の一日より秘密に人に物なんか言って、後に、雨のしょぼしょぼ降っていたのに、詠んでつかわした、その歌、

(歌本文)起きもせず、寝もしないで、夜を明かしては、春の景物というわけで一日中長雨に振りこめられ物思いに沈んで暮らしたよ。

末尾の助動詞「つ」によって、こんなふうに私は暮らしたと、眼前の事のように詠んでいる。

 四句にある「春の物」とは、漢語「春物」による表現。即ち春の景をいい、ここでは春雨のこと(小島憲之氏の指摘)。

第七 1-1-805歌 題しらず   よみ人しらず

     あはれともうしとも物を思ふ時などか涙のいとなかるらむ

 句またがりの語句は、二句~三句の「物を思ふ時」である。

 この歌本文は、次の文からなる。

 文A あはれともうしとも物を思ふ時

 文B などか涙のいとなかるらむ

現代語訳:ああ恋しいとも、いやだとも、物を思うとき、どうして、こうも涙がとめどもないのだろうか。

第八1-1-808歌 題しらず   いなば

     あひ見ぬもうきもわが身のから衣思ひしらずもとくるひも哉

 句またがりの語句は、二句~三句の「わが身のから(衣)」である。

「わが身のから」は形式名詞。(初句と二句の「自分が恋人に逢い見ることもできないのも、又憂い状態であるのも」、すべてそれは自分の身がもとで、自分の身から招いた結果、という意。「から」は「から(故)」と「唐(衣)」の意の同音異義の語句。「唐(衣)」が、使用期限が一冬の外套から衣服一般も指す語句となっているころの歌。

 この歌本文は、次の文からなる。

 文A あひ見ぬもうきもわが身のから

 文B から衣思ひしらずもとくるひも哉

現代語訳:あの人に逢えないのも、つらい気持ちでいるのも、このわが身からすべて招いたこと、その事情を十分悟りもしないで、このまあ、解ける衣の紐かいなあ。 

第九 1-1-814歌  題しらず   藤原おきかぜ

     うらみてもなきてもいはむ方ぞなきかがみに見ゆる影ならずして

 句またがりの語句は、二句~三句にある「いはむ方ぞなき」である。

 この歌本文は、次の文からなる。

 文A うらみてもなきてもいはむ方ぞなき

 文B かがみに見ゆる影ならずして

現代語訳:恨んでも、泣いても、言っていくようなところがないのさ。鏡に見える自分の映像(かげ)以外に。

第十 1-1-817歌 (本文参照)

(付記終わり  2026/3/23   上村 朋)

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集恋歌確認47歌その19 勅撰集成る

 前回(2026/2/16)に引きつづき『猿丸集』歌の再確認をします。今回は第47歌の十九回目です。

1.経緯

 2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。第47番目の歌の類似歌に関して2026/1/19より確認中である。

 歌は、『新編国歌大観』より引用する。

2.~22.(承前)

23.再考 3-4-47歌の類似歌の現代語訳 その7  1-1-991歌から1-1-1000歌のまとめ

① 3-4-47歌の類似歌は『古今和歌集』にある1-1-995歌です。

 前回までの確認で、『古今和歌集』の1-1-991歌から1-1-1000歌に関して、次のことがわかり、そして予想をいくつかしました。今回はまだしていない予想の確認などをします。

 第一 『古今和歌集』は、その序と撰集した歌とは緊密な関係にある。

 第二 『古今和歌集』の巻一から巻十八までは、「五七五七七からなる歌の通常の部類における秀歌」を配列する。仮名序で定義している「(心におもふことを見るものきくものにつけていひだせる)やまとうた」を、「見るものきくもの」を仕訳けて編纂者が整理した順序に従い収載している。そのため、1-1-1歌が巻頭の歌、1-1-1000歌が掉尾の歌とみなし得る。

また、配列にあたり、部立て「春歌」や「秋歌」のほか「雑歌下」でも一対の歌を単位としている。

 第三 仮名序は、巻一から巻十八までの部立ての順序を例示している。部立ての中の区分の概要概も例示している。

 第四1-1-991歌以下の10首は、部立て「雑歌下」にある」最後の歌群を構成する。この歌群は、貫之ら撰者が仮名序で述べたところを具体に開陳している歌を配列している候補のひとつである、と予想した。(ブログ2025/11/17付け)。

 第五 1-1-991歌以下については、『古今和歌集』における歌とその元資料の歌とを峻別して確認する方法が有効であった。上記第四の予想はブログ2026/2/16付けまでの作業ではその通りである、と今のところ言える。

 第六 その方法は、次のとおり。

第一案 『古今和歌集』記載の歌は、これまで歌番号等にbを付していた現代語訳(試案)、即ち(下記第二案以外に)編纂時に何かをもくろんだと仮定した歌としての理解(暗喩を含む)、あるいは歌に用いている同音異義のある語句から導かれる複数の理解のなかの最適と思われる理解の現代語訳(試案)が相当する。

第二案 元資料の歌は、個人が特定個人に対して詠ったとみる理解であり、しばしば作詠事情が当該元資料の詞書にも反映されていないとみなして作業した歌本文の現代語訳(試案)。これまで歌番号等にaを付していた現代語訳(試案)、即ち(元資料の歌の理解をベースとした)個人が特定個人に対して詠ったとみる理解の現代語訳(試案)がこれに相当する(また場合によっては詞書で条件が限定される場合もある)。

 第七 検討を進めた結果、1-1-991歌からの10首で、編纂者がもくろんでいたのは、仮名序の後段にある(久曾神氏の整理による)大事項「古今集撰集」及び「撰集後抱負」の文の内容を順序良く各歌本文に含意させる、ということであると予想できる。

 例えば、1-1-995歌と1-1-996歌は、ご下命に応える目途がたったこと、及び今回『萬葉集』が対象としている御代以後の秀歌を編纂し後世に残せたこと、を暗喩しているのではないか(ブログ2026/1/19付け参照)。

 第八 現在未確認なのは、各歌本文が担う仮名序で述べた意見の分担の確認とそれに基づく現代語訳(試案)の見直しあるいは推敲である(ブログ2017/12/18付けと2017/12/25付けの現代語訳(試案)も含む)。

② 上記第七の予想の確認と第八の各歌の見直し・推敲をします。

 1-1-991歌から1-1-1000歌は、上記①の第七に従い、各歌の整理をすると、次の表のようになります(各歌の詞書と歌本文の原文は付記1.参照)。仮名序で述べている今上天皇(醍醐天皇)の発意と下命から歌集総覧までを順を追って示している配列となっている、といえます。

 勅撰和歌集の編纂の下命直後の紀友則に関わるエピソードから1-1-991歌からの10首は時系列で配列されています。

 その現代語訳(試案)は、上記第六の第一案(bの歌)に相当します。仮名序との対応(表の「bの歌の主題」欄)は、下記③に述べるように歌の暗喩にあるとみなせました。

 そのため、これまでに得た現代語訳(試案)はその対応の訳出が十分かどうかを再確認します。

 なお、表中の「第二案(a相当の歌)」とは、上記第六にいう第二案での当該詞書のもとにある歌本文とした場合であり、「第一案(bの歌)」とは同第一案です。

表 1-1-991歌から1-1-1000歌における歌意2案と仮名序記載の古今集編纂過程との関係(2026/3/2現在)

歌番号等

第二案(a相当の歌)

第一案(bの歌)

備考(関係ブログの日付、配列の理由など)

作者と当該歌をおくる相手

aの歌の主題

暗喩における作者と当該歌をおくる相手

bの歌の主題

1-1-991

紀友則から直前の任地である筑紫で碁うちける人(前上司か)へ

都の生活に慣れないでいる(挨拶歌。鄙と違い忙しい。中国の斧にまつわる説話に依る)

紀友則から(地方勤務であった)筑紫で碁うちける人(前上司か)へ

下命された編纂業務が忙しい(やりがいがある仕事)

2025/12/22付け

今上天皇の古今集編纂の下命あり

1-1-992

みちのくから昨日話し込んだ女ともだちへ

まだ虚脱状態だと訴える

紀友則から同僚の編纂者一同へ

編纂時の論議のねぎらい

2025/12/22付け

 

1-1-993

遣唐使判官の下命を受けた藤原忠房が激励の宴で列席の官人へ

使命を日夜考えているという決意表明(船旅の危険もある)

編纂者一同から(急逝した)紀友則及び今上天皇へ

編纂完遂への誓の言葉

2025/12/22付け

1-1-994

よみ人しらず(女)からその相手の男へ

白波がたったことへの相手の対応を心配

編纂者一同から紀友則へ

急逝した友則への哀傷歌であり進捗報告の歌

2025/12/22付け

たつたのやまとあふさかは対概念

1-1-995

よみ人しらず(男)から恋の競争相手へ

我が恋は進展する(逢えることになる) 相坂のゆふつけとりに寓意あり

編纂者一同から友則の霊前へ

古今集完成の目途がたつ

2026/1/19付け

たつたのやまの「たつ」は同音異義語

1-1-996

よみ人しらずから恋の相手へあるいは関係を疎くしている人へ

しばらく逢えないことの断わり

編纂者一同から今上天皇あるいは次代の官人へ

今上天皇の下命で秀歌を萬葉集に続き記録出来た喜び及び歌集の今後の役割を宣言

2026/1/19付け

浜千鳥は浜に集まる多数の種類の鳥の集合

1-1-997

文屋ありすゑから貞観時代の天皇へ

萬葉集は平城京を都とした時代の勅撰集と伝わる(答歌)

文屋ありすゑから貞観時代の天皇へ(答歌)及び未来の天皇へ

和歌が重用された時代に勅撰されたのが萬葉集と主張

2026/2/2付け

萬葉集は平城京を都とした時代の勅撰集と伝わる

1-1-998

大江千里から上司筋の人物へ

拙い歌だが古今集に撰集されることを願う

編纂者一同から後代の官人と今上天皇に

二番目の勅撰集となる古今集の役割強調

 

2026/2/2付け

編纂のアピール

1-1-999

藤原かちおむから上司筋の人物へ

今上天皇(後の宇多上皇)のもとで我が歌は斬新な発想の歌となった

編纂者一同から今上天皇へ

萬葉集に続く勅撰集の完成を報告

 

2026/2/16付け

総覧の日を迎える

(延喜五年の)4月は重要な月

1-1-1000

伊勢から元上司筋の人物へ

内裏は昔と変わらず輝いているであろう

編纂者一同から今上天皇へ

『古今和歌集』が編纂された時代は聖代と仰がれると信じる。

2026/2/16付け

成果を自己評価

注1)歌番号等は、『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号。

注2)「第一案(bの歌)」とは、上記第六にいう第一案であり、これまでのブログでの現代語訳(試案)のb案。「第二案(a相当の歌)」とは、上記第六にいう第二案での当該詞書のもとにある歌本文とした場合である。

注3)この表の整理に基づいて見直し・推敲した現代語訳(試案)は下記⑤に記す。

 

③ 上表での第一案(bの歌)における暗喩の作詠時点は、『古今和歌集』下命から編纂を経て奏上に至るまでであり、経緯の順に,2首が一組となって配列されています。

 1-1-991歌は、今上天皇(醍醐天皇)の下命があり、編纂が始まった時点

 1-1-992歌は、編纂中のエピソードの歌であり、編纂途中における紀友則急逝以前の時点

 上記2首は、編纂初期のエピソードであり、一組の歌。また、位階の低い官人の定例の勤務(地方勤務)と特例の勤務(天皇のお側近くでの勤務)とが対比されている。

 1-1-993歌は、紀友則急逝の時点

 1-1-994歌は、紀友則急逝の時点

 上記2首は編纂途次の思いもかけない大事件の結果を語る。友則不在でも編纂可能を訴え、了承を得たことを詠う。また紀友則への哀傷歌でもある。

 1-1-995歌は、数次の推敲を得て編纂の目途がたった時点

 1-1-996歌は、総覧本として清書した時点

 上記2首は多数の秀歌を得て編纂の目途がたった喜びと編纂者の自負を詠う。秀歌を記録にとどめたことの価値を強調している。

 1-1-997歌は、総覧本として清書した時点

 1-1-998歌は、総覧本として清書した時点

 上記2首は『萬葉集』という勅撰歌集がある時代と編纂すべき歌があるのに編纂がなされていない時代を対比し、新たな勅撰集の役割を強調している。

 1-1-999歌は、奏上当日

 1-1-1000歌は、奏上当日

 上記2首は『古今和歌集』編纂が有意義であることと、編纂を下命した今上天皇の御代が聖代であることを強調している。

④ このように、1-1-991歌以下10首は、仮名序にある「かかるに、いますべらぎのあめのした・・・つらゆきらがこの世におなじくむまれて、このことの時にあへるをなむよろこびぬる」と記すことの実像を想起させる歌になっています。

 このため、この10首は、『古今和歌集』編纂経緯を記す歌群と理解できます。

⑤ これに伴い、これまでの現代語訳(試案)(第一案(bの歌))は、暗喩の作詠時点を明確にして、見直しあるいは推敲をすると、この10首は次のようになります。

1-1-991歌b 詞書:「筑紫(九州)に勤務していた時に、しばしば伺っては碁を打っていた人のもとに、(天皇のおいでになる)都にのぼってきてから贈った(歌)   紀友則 」 

歌本文:「私の故郷である都は、王質の見た囲碁を打っていたところとは異なりました。あの斧の柄の朽ちたところが慕わしいことでありますよ(歌集編纂に忙しく、囲碁が遠のいています)。」

(ブログ2025/12/22付けでの作業結果に同じ。友則が都に戻されたのは歌集編纂のためであることを承知している前上司のもとにおくったという詞書となっている。この歌は、久曾神氏が「失意逆境」の歌を配列している部立てとみている「雑歌下」にある。碁が打てないと嘆くのは「失意逆境」のひとつの例であるかもしれないが、勅撰集編纂という下命は友則にとり「失意逆境」を脱する機会ではなかろうか。直前の1-1-989歌と1-1-990歌にはそのような場面の歌ではなく、この歌から歌群が改まっているといえる。)

 

1-1-992歌b 詞書:「女友だちと話しがはずみ、別れて帰ってきてから贈った(歌)」  みちのく(同僚と話がはずみ、別れて帰ってきてから贈った(歌)   紀友則)」

歌本文:「いつまでも飽きなかったあのときのあなたの袖の中にはいってしまったのでしょうか。私の魂は、私の体には(今)無いような気持ちです(お疲れ様です。充実した時間を過ごしました。明日もよろしく)。」

 (ブログ2025/12/22付けでの作業結果を推敲する。詞書に暗喩の作者等を加え歌本文に()の文を補う。)

 

1-1-993歌b 詞書:「宇多天皇の御世に、遣唐使の判官に任命せられたときに、東宮御所の侍臣の間(侍従官の控室)にて、侍臣たちが酒を賜ったついでによんだ歌     藤原忠房(題しらず  編纂者一同)」

歌本文:「なよ竹の長い節(よ)の上に初霜がおくような長い夜に私はねむらず起きていて、夜もすがら、あれやこれやと物思いをしていることであるよ(使命を果たすべく。)」

 (ブログ2025/12/22付けでの作業結果を推敲。暗喩における作者として編纂者一同を詞書に加える)

 

1-1-994歌b 詞書「題しらず  よみ人しらず(編纂者一同)」

歌本文:「風が吹けば、それは沖には白波が立ちます。同じようなことが私たちの間に生じました。たつたの山のような隔たりを感じているのですか。あなたは、こんな暁にもならないうちに(相坂ではなく)あの「たつた山」をたった一人で越えてゆくのだと、しているのですね(風が吹けば、それは沖には白波が立ちます。そのようなことが貴方に生じ、私たちはたつたの山に隔てられた関係になりました。あなたは、夜半に(古今集完成をまたず)この世との境で「絶つた山」のような存在である黄泉平坂(よもつひらさか)を、今ごろはたった一人で越えているだろう)。」

 (ブログ2025/12/22付けでの作業結果を推敲。暗喩における作者として編纂者一同を詞書に加える。 この歌は、急逝した紀友則に、編纂作業は進んでいるのでご心配なくと、たつたのやまを現世と来世を別ける黄泉平坂に見立てている、挨拶歌である。初句「風ふけば」とは流行病とか持病の再発なのであろうか。)

 

1-1-995歌b 詞書: 「題しらず  よみ人しらず( 編纂者一同)」

歌本文:「誰がみそぎをして祈願したか(それは私らである)。そして、「あふさかのゆふつけ鳥」がないたのだ!だから、(相手からみれば)一冬だけの使い捨てのからころも(外套)のような存在の私らは、たつたのやまで調子にのって(喜びの)声をあげているのだ(官位は低い者であってもご下命に応える目途がたった)。」

 (ブログ2026/1/19付けでの作業結果を推敲。暗喩における作者として作者の編纂者一同を詞書に加える。この歌での「たつたの山」と「あふさか」は恋の歌においては対概念であり実景を離れた語句となっている。)

 

1-1-996歌b 詞書: 「題しらず      よみ人しらず(編纂者一同)」

歌本文: 「わすれようという気持ちに自然となりそうな時にはなつかしんでくれ」と、浜千鳥は足跡だけを残しているよ(だからここに戻ってくるよ)、どこに向かってとびたったかは知らないとしても。(私共編纂者は、忘れられてゆくかもしれない『萬葉集』以降の古今の秀歌をここに編纂し、後世に残したところである。)

 (ブログ2026/1/19付けでの作業結果を見直して推敲。 編纂を命じた天皇の御代までの秀歌を勅撰集として記録するという後代に残す誇りを詠う歌。浜千鳥とは浜に来る多数の鳥を群れとして呼称したものである。数々の秀歌は浜千鳥に仮託できる。「あとをとどむる」とは歌集に編纂した意になり得る。実際の浜千鳥の足跡は波などによりすぐ消えるのだから、「わすられむ時」に「しのぶ」ことが出来るというのは偉業である。)

 

1-1-997歌b 詞書:「貞観の御時に、『萬葉集』はいつごろつくったのか」とご下問があったので、詠んで献上した歌     文屋ありすゑ 」

歌本文:「旧暦の十月、しぐれの降っているとき見る楢の葉の名を持ち、名高い平城宮で政(まつりごと)を行った御代より伝わっている、古い古いものであります。これは。(記録になくこれ以上詳しいことはわかりませんが、このように多くの方が記憶しているところです。)」

 (ブログ2026/2/2付けの作業結果のうち詞書は「貞観御時」を天皇の御代を固定しない現代語訳に変更した。歌本文は同じ。)

 

1-1-998歌b 詞書:「宇多天皇の御代に、歌を献上したついでに奉った歌   大江千里(題しらず  編纂者一同 )」

歌本文:「(鳴きだしている鳥のなかで)鶴は、一人、遅れて鳴きだしています。その鳴き声は、雲の上まで届いてほしいものであります(『萬葉集』編纂後の秀歌を集めたこの歌集は、編纂が終わったらば、後代まで『萬葉集』同様に伝わるように)」

 (ブログ2026/2/2付けの作業結果を見直して推敲。「あしたづ」(葦の間にいるツル)が鳴く時期にはほかの渡り鳥も来て鳴く。初句~三句は、あしたづの中の一羽ではなく、鳴いている鳥のなかでのあしたづは、の意と理解できる。「おくれてなくこゑ」とは、「『萬葉集』に遅れて編纂されている歌集」の意である。暗喩は、配列を強く意識すれば古今集の役割を強調することとなるので、暗喩の作者は編纂者一同となる。)

 

1-1-999歌b 詞書:「宇多天皇の御代に、歌を献上したついでに奉った歌   ふじはらのかちおむ( 題しらず 編纂者一同)」

歌本文: 「(私が作詠するにあたり)人知れず思いをこめたところは、春霞が消えてゆくにつれものがはっきりわかるように、貴方様のお目に止まってほしいものです。(私共が、人しれず思いをこめていたところは、春霞に隠された時代を経て、今『萬葉集』のようにお上の御目にかないますように、ということであります。)」

 (ブログ2026/2/16付けの作業結果を推敲。詞書に()の文を加える。歌本文を修正。下命のあった和歌集総覧にあたっての挨拶歌)

 

1-1-1000歌b 詞書:「今上天皇の下命に応じ、私歌集を提出するにあたり、その歌集の奥に掉尾の歌として書き付けて提出した歌  伊勢(題しらず 編纂者一同)」

歌本文: 「山中の川は流れ下る音で知るように、噂にばかり聴いている内裏の様子を、水脈早(みをはや)いというごとく、以前の若かりしときの状態のままで拝見するすべでもあればよいのに、と思います。(『萬葉集』編纂の時代が華やかであったように、この『古今和歌集』編纂の時代もそうでありますように。いや後代かならずそう言われるでしょう。)」

 (ブログ2026/2/16付けの作業結果を推敲。『萬葉集』編纂時点とおなじく今回の編纂時点も聖代と詠い、かつ勅撰集編纂に従事できたことを喜び、今上天皇に感謝の意を表す歌。また、今上天皇への成果報告の歌。『古今和歌集』の奏上にあたり、「思ふこころ」を詠う歌の最後に配列した歌。)

 

⑥ 部立て「雑歌下」での歌群としては、1-1-991歌以下の10首で1群となり、その名前は、例えば「歌集を寿ぐ歌群」というところではないか。

 久曾神氏は、「雑歌下」について失意逆境の歌を詠作動機で分類し配列しているとしていますが、和歌の勅撰集が(『萬葉集』以後に)なかった時代がこの『古今和歌集』により終わるという、陰極まって陽に転じた時点を詠う歌群といえます。

⑦ そして上記①の第二で指摘した、「五七五七七からなる歌の通常の部類における秀歌」の部類において「1-1-1歌が巻頭の歌、1-1-1000歌が掉尾の歌」には、次のような意味があるのではないか。

 第一 「やまとうた」は題材とした自然界と人事における人の営みに生じる「思ふこころ」を網羅して『古今和歌集』が編纂されていることを象徴している。

 第二 それは、(自然界の)立春を景として年々の新年の喜びを詠う歌から始まり、(人の営みで重要な)天皇の下命を景として聖代であることを寿ぐことで終わる。

 第三 このような理解は、少なくとも1-1-991歌以下10首に仮名序との関係があることを妨げていないし、1-1-995歌の理解のこれまでの理解を変えるものではない。

⑧ このように、1-1-995歌の前後の配列を確認した結果、1-1-995歌と1-1-996歌のブログ2026/1/19付けでの理解は妥当であり、上記⑤のような現代語訳(試案)となりました。

 そして、この2首は、互いに独立して歌意を求めることができ、3-4-47歌は、恋の歌となりました。

 このため、1-1-995歌と3-4-47歌は、清濁ぬきの平仮名表記で歌本文が同じですが、歌意がまったく異なることを確認できました。

 念のため、3-4-47歌の検討結果をここに転記します。最初に原文を『新編国歌大観』より引用します。

 詞書: あひしれりける女の、人をかたらひておもふさまにやあらざりけむ、つねになげきけるけしきを見ていひける

 歌本文: たがみそぎゆふつけどりかからころもたつたのやまにをりはへてなく

その現代語訳(試案)は次のようなものです。

 3-4-47歌 詞書:「以前、懇ろにしていた女性が、ある人と親しく交際していても、希望したように事が運ばなかったようで、いつもいつも溜息をついているのを見定めて、(ある人物がその女に)言ったそうだ。」(ブログ2025/10/20付け「17.③及び⑲」参照)

 歌本文: 「誰が「みそぎ」をしているのかなあ。 (祈願をしても、)「あふさかのゆふつけとり」が告げているのと変わらないかな。からころもさんが「たつたのやま」でひたすら鳴いているよ。」(ブログ2025/10/20付け「17.③及び㉕」参照)

 なお、この歌本文にある主な語句の意は次のとおり。

 第一 「みそぎ」は、「神に祈願する行事の略称」です。詞書の「あひしれりける女」を対象にして詠んでいるならば、何か願掛けでもしているの(誰のことで願掛けもしているの)、という(この初句だけからなる)問いかけの文と理解できます。

 第二 「ゆふつけとり」は、「あふさかのゆふつけとり」(あふさかで鳴く夕べを告げる鳥)の略称であり、詞書から1-1-536歌の状況を示唆しています。

 第三 「からころも」のもともとの意は冬の外套です。それが、三代集ではその外套を来た人物の意から、さらに単に「人物」を指す語句としても用いられています。

 第四 「たつたのやま」と「あふさか」は対概念の語句として『萬葉集』の時代から用いられています。その場合の「たつ」は「絶つ」の意が含意されていて、「たつたのやま」は仲を絶たれている状況を示唆しています。

⑨ 3-4-47歌を再確認するにあたり、いくつかの作業仮説をたてました(ブログ2025/5/5付け「2.③参照」)。その正誤はつぎのようになりました。

 仮説第一 3-4-47歌はその類似歌とは異なった歌意であり恋の歌であることを再確認した。従って、この仮説は正しい。

 仮説第二 類似歌が収載されている『古今和歌集』が世に知られて後、『猿丸集』は編纂されており、この仮説は正しい。

 仮説第三 歌本文にある語句の意は徐々に増しており、この仮説は正しい。

 仮説第四及び同第六の仮説も正しい。

 仮説第五 「ゆふつけとり」は3-4-47歌とその類似歌はともに「夕方になく鳥」であることを再確認した。仮説は誤り。

 仮説第七  『古今和歌集』の編纂者が配列によって類似歌に込めた事がらがあったのを再確認した。この仮説は正しい。

⑩ それにしても編纂経緯を歌の暗喩として述べるというような仮説第七が、どうして可能となったのでしょうか。

 『萬葉集』と同じ轍を踏むことのないように、経緯を撰集した歌に忍ばせるのは今上天皇の意向であったのでしょうか。

 序を勅撰の漢詩集に準じて付せば、経緯は明記できるものの、先行する『萬葉集』の例にならい、序を付さないのが最終の形となったのでしょうか。久曾神氏は、(最終の)総覧本には(用意のあった)真名序も仮名序も省かれたとみています。

 また、用意された真名序や仮名序が現存のものとすると、撰者の身分が低いのですから天皇自身が直接命じることはあり得ないのに下命を伝えた人物名が記されていません。紀貫之撰の『新撰和歌』には漢文の序があり、藤原兼輔(権中納言従三位行右衛門督で承平3年(933)鬼籍)が貫之に下命を伝えたことが明記されています。

 現存の序にそのようなことが記されていないのは、何らかの事情があったのでしょう。記さないのは先行する勅撰の漢詩集の序と異なることになるため、やむを得ず編纂経緯を撰集した歌に忍ばせるほかなかったのかもしれません。

 増田繁夫氏は、必ずしも十分な公式の計画として始まったものではなかったことを(これは)暗示するか、あるいは下命を伝えた人物名を残すのに憚るとことがあったのか、と指摘しています。

⑪ 以上で3-4-47歌が恋の歌か否かの再確認を終わります。

 なお、『猿丸集』も多くの歌群から成る歌集であり、3-4-47歌は、その十一番目の歌群にある、と想定しています(ブログ2025/9/22付け「15.①」参照)。歌群の再確認は今想定している十一番目の歌群の5首の再確認が終わってから再度検討する予定です。

 ブログ「わかたんかこれ・・・」をご覧いただきありがとうございます。

 次回から、3-4-48歌を確認します。

(2026/3/2    上村 朋)

付記1.古今集の1-1-991歌~1-1-1000歌の本文(『新編国歌大観』より)

1-1-991歌 つくしに侍りける時にまかりかよひつつごうちける人のもとに、京にかへりまうできてつかはしける    きのとものり

ふるさとは見しごともあらずをののえのくちし所ぞこひしかりける

 

1-1-992歌 女ともだちと物がたりしてわかれてのちにつかはしける    みちのく

あかざりし袖のなかにやいりにけむわがたましひのなき心ちする

 

1-1-993歌 寛平御時にもろこしのはう官にめされて侍りける時に、東宮のさぶらひにてをのこどもさけたうべけるついでによみ侍りける     ふじはらのただふさ

なよ竹のよながきうへにはつしものおきゐて物を思ふころかな

 

1-1-994歌 題しらず         よみ人しらず

風ふけばおきつ白浪たつた山よはには君がひとりこゆらむ

   (左注は割愛)

1-1-995歌   題しらず       よみ人しらず

たがみそぎゆふつけ鳥か唐衣たつたの山にをりはへてなく

 

1-1-996歌   題しらず       よみ人しらず

わすられむ時しのべとぞ浜千鳥ゆくへもしらぬあとをとどむる

 

1-1-997歌  貞観御時、萬葉集はいつばかりつくれるぞととはせ給ひければ、よみてたてまつりける    文屋ありすゑ

神な月時雨ふりおけるならのはのなにおふ宮のふることぞこれ

 

1-1-998歌   寛平御時歌たてまつりけるついでにたてまつりける  大江千里

あしたづのひとりおくれてなくこゑは雲のうへまできこえつがなむ

 

1-1-999歌     (1-1-998歌に同じ)       ふじはらのかちおむ

ひとしれず思ふ心は春霞たちいでてきみがめにも見えなむ

 

1-1-1000歌   歌めしける時にたてまつるとてよみて、おくにかきつけてたてまつりける   伊勢

山河のおとにのみきくももしきを身をはやながら見るよしもがな

(付記終わり  2026/3/2   上村 朋)