前回(2026/9/7)に引きつづき『猿丸集』歌の再確認をします。今回は第52歌の三回目です。
1.経緯
2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。第3歌から第50歌まではそのとおりであり、第51歌は異なった。現在第52歌の類似歌に関して検討中である。
2.『猿丸集』の第52歌 3-4-52歌とその類似歌
① 『猿丸集』の52番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。
3-4-52歌 やまにはな見にまかりてよめる (第51歌の詞書と同じ)
こむよにもはやなりななんめのまへにつれなき人をむかしと思はむ
古今集にある類似歌 1-1-520歌 題しらず よみ人しらず
こむ世にもはや成りぬらむ目の前につれなき人を昔と思はむ
清濁抜きの平仮名表記をすると、二句の二文字と、詞書が、異なります。
② 今回、下記第一のもとで『古今和歌集』における1-1-520歌の前後の歌とその配列を確認し、下記第二以下の成果を得ました。
第一 類似歌のある『古今和歌集』の巻十一の部立ては「恋歌一」(以下「恋一」と略称する)であり、恋の始めの段階の歌を配列している。鈴木宏子氏にならい、恋の心象に基づいた主題から配列をみると、原則として恋の進捗順に歌が配列されている。また、題しらず・よみ人しらずの歌は、部立てが「恋歌一」であることにより恋の始めの段階の歌と理解できる。蛇足ながら、元資料の歌は恋の段階を限定しがたい歌が多い。
第二 巻十一の歌は、筆頭の1-1-469歌から主題ごとに歌2首を並列して配列している。
第三 1-1-520歌の前後の歌のうち、1-1-517歌と1-2-518歌は、恋の踊り場を主題として配列されているのではないか。
第四 1-1-517歌は、「事には終わりがある」という一般論をベースに、恋の終りは仲良くなることではないかと詠う。
第五 1-1-518歌は、「人たる所以も習慣次第である」という一般論をベースに、現状を固定したらどうなるかを見ようと詠う。
第六 1-1-519歌以降は次回検討する。なお1-1-513歌から1-1-516歌まで前回検討した。
7.再考 類似歌1-1-520歌の前後の歌 1-1-517歌
① 確認を、次のように行います。
第一 『古今和歌集』の編纂方針に添った歌意が得られるかを確認する。即ち恋の始めの段階の歌であること及び配列上矛盾のないことを確認する。
前者は、部立て「恋一」にある歌として現代語訳を確認し、歌本文の作中人物(その歌本文における主人公)がこの歌を相手に示そうとしている時点(作詠時点)を推測して判断する。後者は、前後の歌をも確認することで判断する。
第二 「恋一」にある歌の歌意は、その元資料の歌の歌意に拘らない。『古今和歌集』収載歌として設定した作詠時点と元資料の歌の作詠時点はおのずと別だからである。
② 1-1-517歌は、つぎのとおり。
詞書 題しらず よみ人しらず
歌本文 恋しきに命をかふる物ならばしにはやすくぞあるべかりける
この歌本文には、作中人物がこの歌を相手に示した時点を直接指し示す語句は、ありません。詞書にもありません。
歌本文に用いられている語句から判断すると、恋の歌ということはおよそ判りますが、恋の段階は不明です。ただ部立て「恋一」に配列されている歌だから、恋の始めの段階の歌であるはずです。
「恋一」の筆頭歌1-1-469歌も、詞書と歌本文からは恋の段階は不定でしたが、「恋一」に配列されているからこそ、恋の始めの段階の歌と理解できたところです。
③ この歌の現代語訳を試みます。
筆頭歌にならい、恋の始めの段階の歌として試みます。
恋の成就とは、「恋をした大人の男女一組が、頻繁に逢うことができるようになる」、ということだと思います。何度か逢い、お互い一時の勢いでなく惹かれあっているという状態をいうのではないか。
その中で初めて逢うのは重要なステップであり、恋の始めの段階とは、その最初に二人が逢うまでの間、ということです。だから、この段階の歌は、逢う価値のある人物ですよと自分を売り込む歌とか、逢ってくださいと願うか強要する歌とか、貴方の要望に応えられるという歌とか、相手を試したり気を引く歌とか、逢うことを応諾する歌とか、のパターンがあると思います。
④ この歌について、東常縁・宗祇『古今和歌集両度聞書』(寛永15年刊)(以下『両度聞書』と略称する)には次の指摘があるそうです。
「命にかへてもあふ事あらば、死ぬる事はやすからんと也。あはでしなば、なを思ひのはれがたき事なれば也」
この引用だけでは恋の段階の理解は不明ですが、逢うことがなかなかできない作中人物が一度逢えたら死んでもよいくらいに思っている、と訴えているのがこの歌である、と理解していると言えます。恋の相手が逢ってくれれば作中人物の恋の苦しみは解決する、という一方的な訴えです。
作中人物は、この歌によって恋の成就に近づくと考えたから、この歌を相手におくったのでしょう。
作中人物にとっては、逢えば説得(あるいは虜に)できるという自信があり、「二度目の出あいがあったら死んでもよい」とまた言い募るつもりなのでしょう。
とりあえず逢う段階に進むことが肝心であり、相手がこの歌を受け取ってくれたら、また文や歌をおくり続けることができるという思惑があるのでしょう。
そうすると、この歌はこれまでに得た相手の好みなどをも考慮して技巧を凝らした歌となってはいないか。
このような視点でこの歌を確認します。
⑤ 最初に、歌本文にあるおもな語句の意を確認します。
初句にある「恋しき」とは、名詞化された語句とみることが出来ます。二つの理解があり得ます。
ひとつ目は、形容詞「恋し」の連体形です。「慕わしい・恋しくおもう(こと)」という意となります(『例解古語辞典』)。(二つ目の理解との対比において)恋についての一般論を展開するかの言い方です。
二つ目に、動詞「恋す」の連用形+助動詞「き」の終止形です。「恋をした・恋に悩み苦しんだ」という意となります。ここでの「き」は「話し手自身の直接体験を、回想して述べる」意です。
なお、四句にある「しに」は、動詞「死ぬ」の連用形で名詞化しています。「死ぬ」は、活用語尾の「ぬ」が完了の助動詞「ぬ」と同じで、死んでしまうという意味であり、中世になると完了の意味が失われて現在と同じ意になったそうです(『例解古語辞典』)。この歌は、『古今和歌集』記載歌なので、その意は、中世以前の意となります。そのため、「息が絶える・命を失う・死んでしまう」(『例解古語辞典』)というよりも「本当に息が耐える・命を失っている・死んでしまっている」というニュアンスがある、と言えるのではないか。
この歌で、名詞化されている語句は、この二つの語句だけです。
この二つの語句に強い関連あるいは歌意上の留意を、作中人物は与えているのではないか。
⑥ 二句にある「命」とは、「生物の生きてゆく力。いのち。生命」の意です。そして、この歌本文では「命」と「恋しき」は交換できるかに詠っており、同列に置いています。それぞれの属性の一部も同列にみなしているのではないか。
そうすると、「恋しき」には「何時でも逢えることができる仲に」という目的があるので、「命」にも目的を想定すれば、それは、「子孫などのために尽くして後に死を迎える」こと(「しに」)ではないか。その時に死ぬのは、素直に受け入れられると思います。
「恋しき」と「命」を時系列上でみると、「恋しき」の最終は、「恋の成就」か「恋の終わり」であり、そして「命」の最終は「しに」です。そして「しに」のイメージに通じる「恋しき」の最終は、「恋の終わり」、となります。
⑦ 次に、二句にある「かふる」とは、同音異義の語句である下二段活用の動詞「かふ」の連体形です。
その意は、一つ目が、動詞「替ふ・換ふ」であり「取り替える・交換する」意です。
二つ目が、動詞「変ふ」であり、「(姿などを)今までと違ったものにする。変える。」意です。
動詞「かふ」とは、「AをBにかふ」、「AからBにかふ」、「AとBをかふ」という表現が、普通の用い方でしょう。この歌では「恋しき(B)に命(A)をかふ」とあり、倒置法で詠いだしています。
三句にある「もの」とは、ここでは、「普通のもの。世間一般の事物」の意ではないか。「かふるもの」とは、例えば取り替える物」、「替えたもの」という理解になります。
四句にある「やすし」とは、形容詞「易し」あるいは「安し」であり、前者は「a容易だ・たやすい。b簡単だ・無造作だ」の意、後者は「a心が穏やかだ・平穏だ。b価が安い」の意です。
五句「あるべかりける」とは、補助動詞「有り・在る」の連用形+推量の助動詞「べし」の連用形+過去回想の助動詞「けり」の連体形です。四句の「ぞ」により、係り結びとなっています。
なお、「べかりけり」は、連語として「・・・べきだったのだ。・・・べきにちがいない。・・・にちがいないのだ。」の意が辞書に示されています。
「べし」の根本の用法は、「経験にてらしたり、ものの道理・摂理などから判断して、こうあるのが当然であろうと確信をもって推量する」ことです。
⑧ この歌は、「恋一」に配列されている歌であって、文の遣り取りができる関係になっている作中人物にとって、次の課題と言えるのは、初めて逢うことであり、その段取りがなかなかすすまない状況において相手におくった歌と思えます。
作中人物(作者)とその相手の人物にとっては、現在の関係(あるいは抱えている課題)の認識は共有していると思い込み、それを直接指し示す語句は歌本文にありません。それでも、また文の主語や目的語も割愛しても、当事者間では意が通じると信じていると、思えます。
⑨ さて、この歌本文は、次の三つの文から成るものとして理解できます。
文A 恋しきに命をかふる物ならば:
「命」を、「恋しき」に「かふ」ものとすれば、という仮定をしている。「恋しきに」の理解によって2案ある。「かふ」はどちらの意でも意訳するとほぼ同一ではないか。
第一 「命」を「慕わしい・恋しくおもう(こと)」に例えると、という意。これは恋に関する一般論を述べようとしている。(「恋しきに」は形容詞「恋し」の連体形+格助詞「に」)
第二 「(私の)命」と「(私は貴方に)恋をしてその恋に悩み苦しんでいる(こと)」とを交換してみると、過去をふり返って言い出している。これは個別の事情をのべようとしている。(「恋しきに」は動詞「恋す」の連用形+助動詞「き」の終止形+格助詞「に」)
文B しにはやすくぞある :
「(命の)しに」という状態になるのは、「易し」あるいは「安し」と評価できる、と結論づけている。
文C (ある)べかりける :
「べかりける」の理解により2案ある。
第一 当然そうなのにちがいない、と恋に関する一般論の結論を作中人物は確認している。(言外に、終わり方はひとつだけではないので私は今日この歌をおくっているような道を歩むのだ、ということを主張している。)(「べかりける」は、「・・・にちがいないのだ」の意)
第二 当然そうなのであった、と作中人物が自分の恋に関する経験を振り返っている。(言外に別の終り方の道を私は歩むことを相手に告げている。)(「べかりける」は、「・・・べきだったのだ」の意)
⑩ この歌を相手が受け取ってくれたとするならば、相手が恋の成就を願っていることは確かである、と作中人物はみているのではないか。つまり、この滞っている状態を、予想していた踊り場のひとつ位に思い、詠んでいる、と思えます。
逢うことを拒否されて、恋の終りを覚悟したかの詠いだしで、恋の終りは結ばれれることだと開き直っている歌です。
そのため、この歌は、「事には終わりがある」という一般論を述べて、自分の行動もその終わりにむかってがんばる、という論理で詠まれていると思えます。ただし、終わりの状況について積極的に触れていませんが。
だから、
文Aは、上記⑨での「べかりける」第一案 (「恋しき」は動詞「恋す」の連体形)
文Cは、上記⑨での「べかりける」第一案 (作中人物の行動はすべて歌本文の言外でいう)
が妥当なのではないか。
⑪ 現代語訳を試みると、つぎのとおり。
文A 恋しく思うということに替わって命の営みを考えてみると、
文B 死ぬことには、心穏やかに対処できる。
文C (わが恋も)当然そうなのに違いない(私には恋の終わりは恋の成就なのだから)。
⑫ なお、文A~文Bは、作中人物の心で反芻した事柄を述べているとも理解できます。作中人物にとり、それは例えであり、文Cを言うための前提を設定しており、相手の知り得ない事柄に関する状況なので、嘘でも構わない景です。
この恋の歌のパターンは、やんわりと逢うのを強要している歌です。
この作中人物(作者)は、男性の蓋然性が高い。
⑬ この歌をおくられた相手の女性は、相手が自分を諦めていないと了解してこの歌を理解することになります。歌意に満足して次のステップに誘うのか、見え透いたことをいうなと、また気を引く返歌をしたのでしょうか。それとも、きっぱりと送られた文などとともにこの歌もこの際とばかり返したのでしょうか。
(前後の歌との整合はのちほど行います。)
⑭ このような理解は多くの諸氏と異なることになりました。諸氏は「恋の苦しさを訴えている」とか、「逢えたら死んでもよい」、という理解が主流です。
例えば、竹岡正夫氏は、つぎのとおり。
「恋しいのにこの命を交換できるものなら、死は、このぶんではたやすいことでありそうだった。」
末句にある「やすくぞありべかりける」の「べかりける」については、
「恋のつらさをこの身で体験して、こんな調子なら、命と交換するなんて、いとたやすいことでありそうに思われると推定し、それに「ける」を添えて観照しているのである。」、と氏は指摘しています。
また、片桐洋一氏は、次のとおり。
「人を恋する苦しさに命を引き換えることがもし出来るならば、死ぬことなどたやすいことであるに違いないよ。」
「恋しき」は、「恋しき事」の略とし、「恋の苦しみに比べれば死の苦しみなど問題ないと言うのである」、と氏は指摘しています。
両氏は、この歌を詠んだ作中人物の意図に言及していないのが残念です。
⑮ 「恋二」の掉尾の歌1-1-615歌も、「あふ」に「かへる」ところの「死」を詠んでいます。
1-1-615 題しらず とものり
いのちやはなにぞはつゆのあだ物をあふにしかへばをしからなくに
二句~三句にある「つゆのあだ物」とは、逢えもしないので、生きているのか死んでいるのか、全く生の充実感がない自分の命を指しています(竹岡正夫氏)。
この歌でも逢えたら死んでもよい、と詠っています。逢えたら直ちに芽生える次の望みが、死ぬことを意識の外に押しやるのでしょう。あるいは予定通りの行動として、次の望みを言い立てるのでしょう。
「恋二」のこの掉尾の歌を、氏は、「いつまで経ってもちっとも逢えないこの恋に、しびれをきらした、ぎりぎりと歯ぎしりしているような歌」と指摘しています。
『両度聞書』には、この歌に関して、「命やはとは、我とかろんじいへる詞なり。御注。たとへ万年をふる命なり共おもふ人にあはんにはかへつべし。いはんや露のごとくあだなる命を、あふにかへんはおしから(ママ)まじと云にや。」とあります。
元資料の歌は、題詠であり、作者紀友則が、歌合に出詠したか屏風絵に添えた歌であって、私的な事情で詠んだ歌ではないはずです。
⑯ 元資料の歌を推測してみます。
この歌は、恋の始めの段階以外でも復縁を迫る場合でも相手におくれる場面がありそうな歌です。
即ち、この歌の作中人物は、まだ逢うことの叶わない状況にいるか、今相手と仲違いし逢えていない状況にいるのか、あるいは逢えて後の破局に瀕しているかは、歌本文からわかりません。
個人の経験に基づく歌なのか、あるいは、男女の組が掛け合いをするような遊びの場における歌であったのかも、わかりません。掛け合いの歌であれば、相手方は「私のことで死んだら会ってあげましょう」とか「誰にも言っているそうじゃないの」とかと応酬したのではないか。
いずれにしても、この歌を相手に示した事情が想像できる歌とともにこの元資料の歌は伝承されてきたのではないか。
現代語訳は、「恋しき」を作中人物の経験と理解した次の(試案)と上記の1-1-517歌のそれとが候補となります。
文A 恋に夢中であった時 (貴方に逢えるのが)私の命と引き換えになるものであったらば、
文B 死ぬことは、まことに容易であった。
文C 当然そうなるべきであったのである(しかし、そうならないから今日も貴方に歌をおくっている。)
この歌は、貴方に逢えていれば、死んでいたかもしれないが、今日私はまた歌を送り、逢うことを懇願するのである、と訴えた歌です。
8.再考 1-1-518歌
① 1-1-518を、引用します。
詞書 題しらず よみ人しらず
歌本文 人の身もならはしものをあはずしていざ心みむこひやしぬると
この歌は1-1-517歌と同じく、恋と死を結び付けて題材としています。
この歌本文にも、詞書にも作詠時点(恋の進捗状況)を明確に示す語句はありません。逢えない状況における恋の歌ということはわかります。しかし、1-1-517歌の返歌とみれば、恋の始めの段階の歌ということになります。また部立て「恋一」に配列されているので、恋の始めの段階の歌のはずです。
② 片桐洋一氏は、「前歌の女の返歌として、(そうなるかどうか)試してみましょう」と解釈することもできない訳ではない。本来は、揶揄している歌ではないのか。」と指摘しています(『古今和歌集全評釈』(講談社1998))。
そうであれば、元資料の歌は戯れ歌であったか、一時の喧嘩別れをしている際の歌でしょう。
③ 語句を確認します。
初句「人の身」とは、直訳すれば「人という生き物の中身」、つまり「人たる所以」というところです。
二句「ならはしものを」とは、動詞「慣らはす」の連用形+名詞「もの」+格助詞「を」です。片桐氏は「ならはしもの」を、「泣き声と同じ(造語法)と指摘しています。
格助詞「を」は、三句とあわせて「・・・を・・・に(て)」の形となっているので、「下に続く動作の原因理由を表す」意です(『例解古語辞典』)。
動詞「慣らはす」は、「慣れさせる・習慣づける」意です。
名詞「ならはし」は、「a風習 b習慣・しきたり。C練習。dしつけ」の意です。
竹岡氏は二句「ならはしものを」は、名詞「ならはしもの」+助詞「を」と理解し、 名詞「ならはしもの」を「習慣次第のもの」と現代語訳しています。氏は、香川景樹の『古今和歌集正義』(略称『正義』)の説を採り、「人の身というものは、めったにならわしもの(習慣次第)にはなりにくいものだが、そんな人の身だって、と解する」としています。
久曾神氏は、名詞「ならはしもの」+強意の助詞と理解して、「慣行(習慣)によってどうにでもなるもの」と訳しています。
初句~二句の現代語訳をいくつか比較すると、次のとおり。
私の場合:人たる所以も、習慣次第のもので(「を」は格助詞)
竹岡氏:人の身だって、習慣次第のものだが((「を」は接続助詞か)
久曾神氏:人の身も習慣によってどうにでもなるものであるよ(「を」は強意の助詞)
片桐氏:人の身だって習慣次第のものだよ(「を」は間投助詞)
ネットでみた訳の一例:人の心はそのうち慣れるものなのに(「を」は接続助詞か)
これらは、人は習慣に親しみ行動を律している生き物、という認識が共通しています。
④ 三句「あはずして」とは、「あはず」という行為で「人の身はならはしもの」の一例が生じるだろうから、ということ。
⑤ 四句にある「心みむ」は、動詞「試みる」の未然形+作者の意思を表す助動詞「む」の終止形、と諸氏は理解しています。
このほか、名詞「心」+動詞「見る」の未然形+作者の意思を表す助動詞「む」の終止形、という理解も可能です。後者のほうが、『新編国歌大観』の表記に忠実にみえます。
また、五句にある「こひ」は、名詞であり、「異性に対する恋愛の感情、またその行為」という意です。
五句「こひやしぬると」は、「恋い死にするか」(作者が死を迎えるか)という理解が大勢を占めていますが、「心を見る(心を見定めたい)」を受けると、「恋が死ぬ(恋する気持ちが心からなくなる)かどうかと」という理解となります。
⑥ この歌は、四つの文から成る、と理解ができます。
文A 人の身もならはしものを:
人に関する一つの一般論を述べている。
文B あはずして:
そこで一つの提案を作中人物はしている。「(相手に)逢わないこと」を実行して
文C いざ心みむ :
試みてみよう、あるいは心を見定めよう
文D こひやしぬると:
「恋い死にするか」(私と貴方が死を迎えるか)あるいは「恋が死ぬか」(私と貴方の恋する気持ちが心からなくなるか)ということを
文Bの主語は、推測するに作中人物(作者)だけでなく、その相手も該当します。互いに恋の当事者なのですから。
文Cの主語も同じです。
文Aの一般論は、作中人物にも相手にもあてはまるはずです。だから、互いに逢わなければそれが習慣となって理の当然の結果が二人に生じるはずです。
その理とは、第一に、逢わないとさらに恋の高ぶりが増し、苦しみ死に至る場合もあるという理、第二に、逢わないと恋という高ぶりが静まるという理が考えられます。
この歌は、恋の歌であるので、「あはずして」で変化が生じる可能性のある人物は、作中人物とその恋の相手です。「心みむ」の対象は、自分と相手のことになります。片方のみではありません。
⑦ 既に和歌のやりとりをする間柄ですが、二人の仲に問題が生じている時点の歌なのでしょう。
歌本文のみは、恋のどの段階でも問題が生じた場合は、相手におくる意味はあります。「恋一」に配列されているからおくった時点が限定されているだけです。
作中人物が相手に「逢わないでいましょう」という提案をするには、それに至る経緯があったはずです。
相手がおくってきた歌か文に、このような提案するきっかけがあり、それに対する反論がこの歌ではないか。この後、相手からそれでも「逢いたい」という再反論があれば、作中人物が対応できる余地はこの歌にあります。
また、この歌が 『古今和歌集』「恋一」にある歌であるので、その配列を考慮すると、1-1-517歌の作中人物は、この歌の作中人物の相手の候補になり得ます。
⑧ 以上の結果、この歌の文C~文Dには、二つの理解があります。
第一 試みてみよう、「恋い死にするか」(誰かが死を迎えるか)どうかと(以下「試みる説」と称します)。
第二 (誰かの)心を見てみよう(心を見定めたい)、恋が死ぬ(恋する気持ちが心からなくなる)かどうかと(以下「心見る説」と称します)。
⑨ この歌は「恋一」に配列されている歌なので、初めて逢うまでに詠まれた歌であり、返歌を期待している歌です。この歌の作中人物は、この二つの意を掛けた歌を相手におくり、どのような返歌があるか楽しみにしているのではないか。
もう逢わないと断るのであれば、返歌をしないでおくられた歌や文を返せばよいところです。それなのに、返歌をしているのですから作中人物は歌の遣り取りを楽しんでいる趣きがあります。
1-1-517歌と同様に、一般論から作中人物は自分の意見を述べています。
この恋の歌のパターンは、相手を試したり気を引く歌です。
9.再考 1-1-517歌と1-1-518歌の関係
① 上記のように理解した1-1-517歌と1-1-518歌の共通点などを確認します。
② 共通している点
第一 『古今和歌集』の部立て「恋一」に並んで配列されていること
第二 初めて逢う前の時点の作詠であり、意見の対立があることをそれぞれの作中人物は認めている。
第三 相手を説得するのに、一般論をベースにしている。
第四 歌の主題は、恋にも踊り場がある、というところか。この2首は、故意に進展を遅らせるようとしているかの歌と理解できる。
第五 元資料の歌は、「題しらず よみ人しらず」の歌である
第六 1-1-517歌以前の歌及び1-1-518歌以降の歌とは恋の心象に基づいた主題が違うらしい
③ 異なる点
第十一 恋の歌として、1-1-517歌は、逢いたいと詠うが、1-1-518歌は、逢うのを拒否している状態を継続したい(できれば別れたいほど)と詠う。
第十二 相手を説得する一般論が異なる。「事には終わりがある」と「人たる所以は習慣次第である」と異なる。
第十三 キーとなる語句の意の利用法が異なる。1-1-517歌は、「しに」には1意のみの選択をするよう詠っている。1-1-518歌は「こころみる」の2意を共に生かして詠っている。
第十四 作中人物の設定が男女に分かれている。
第十五 恋の歌のパターンが異なる。1-1-517歌は、逢うことを願うか強要するパターンであり。1-1-518歌は、相手を試したり気を引くパターンである。
④ この2首の共通点は、部立て「恋一」の配列に関わることが多く、『古今和歌集』編纂者により意図的に一組の歌としてこの2首は配列されている、と言えます。
異なる点は、主に歌の作詠方法の違いであり、歌の個性と言えます。
⑤ ブログ「わかたんかこれ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。
次回は、1-1-519歌などを確認します。
今年の中秋の名月は、一度だけ雲の切れ間からわずかの時間みることができました。くりきんとんをおいしくいただきました。皆さまはいかがでしたか。
(2026/9/28 上村 朋)