前回(2026/6/29)に引きつづき『猿丸集』歌の再確認をします。今回から第52歌です。
1.経緯
2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。第3歌から第50歌はそのとおりであり、第51歌は異なった。
(FIFAワールドカップ決勝は7月20日スペイン対アルゼンチンとなりました。三位決定戦と違い、対照的な守備方針の両チームに延長の末1-0でスペインが勝ちました。ともに素晴らしいパフォーマンスでした。ありがとう。)
2.『猿丸集』の第52歌 3-4-52歌とその類似歌
① 『猿丸集』の52番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。
3-4-52歌 やまにはな見にまかりてよめる (第51歌の詞書と同じ)
こむよにもはやなりななんめのまへにつれなき人をむかしと思はむ
古今集にある類似歌 1-1-520歌 題しらず よみ人しらず
こむ世にもはや成りぬらむ目の前につれなき人を昔と思はむ
清濁抜きの平仮名表記をすると、二句の二文字と、詞書が、異なります。
② 下記のように確認をしたところ、今回の検討では、次のようになりました。
第一 この歌3-4-52歌は、『古今和歌集』の仮名序にいう「さま」が「そへうた」にあたる。そしてその意は、『猿丸集』編纂に関する述懐の歌であり、恋の歌ではない。類似歌1-1-520歌は、同仮名序にいう「さま」が「ただことうた」にあたり、桜の花が終ろうとしているのを惜しむ歌である。
即ち、この歌と類似歌とは趣旨が異なる歌であり、ブログ2019/11/4付けでの結論と同じである。
第二 この歌は、『猿丸集』の最後の詞書のもとにあり、最初の詞書のもとにある歌とともに編纂の意図・目的を示唆する。ブログ2020/5/18付けでの指摘は妥当であるが、現代語訳(試案)は改まった。
第三 この歌の現代語訳(試案)は、つぎのとおり。 ブログ2020/5/18付けでの(試案)を改めた。
3-4-51歌 詞書 「山に、花見に行き、詠んだ(歌)(数々の歌集があるなかの『猿丸集』に親しみ、詠んだ(歌))」
同 歌本文: 「この『猿丸集』の歌を参考に『萬葉集』と『古今和歌集』が正しく理解してもらえるようになってほしい。すぐにでも。(そうなったら)今、理解されていない状況も、昔そんなこともあったのだ、と思えよう。」(表面上の意は「(花を見て思うのは)行きたい夜(訪ねる夜)にも早くなりきってほしい、すぐにでも。私につれない素振りの今の貴方を、昔そんなこともした人だ、と思えよう。」)
(「そへうた」として理解できる歌である)
第四 類似歌の現代語訳(試案)は、再確認中であるが、現在のところは、次のとおり。それは、前回での「次の世第三案」である。
1-1-520歌 詞書: 題しらず よみ人しらず
同 歌本文: 「行きたい次の世にも、早く変わってほしいものである(恋が成就できる雰囲気の世に)。そう、目の前において。そうなれば、今私の目の前の、私の愛情を受け容れてくれない人のいる世界は、昔のことになるのだから(しかし、自分の意志でゆけない次の世だから、まだまだ片恋は解消しないなあ。」
(「こむ世」と表記された歌である。また、配列より、恋の歌であって「自暴自棄になるのを、必死に思いとどまり、気持ちを整理し、望みを再確認している歌」)
第五 『猿丸集』最後の詞書のもとにある歌群(3-4-51歌と3-4-52歌)は、この歌集編纂者による後世の読者へのメッセージとなっている。
3.再考3-4-52歌
① 確認を、詞書より始めます。
詞書は、3-4-51歌の詞書と同じであり、ブログ2026/6/29付けで再確認しました。『猿丸集』では最後の詞書です。
現代語訳(試案)は、次のようになりました。なお、3-4-52歌本文を確認後に両歌本文との整合を確認することとします。
「山に、花見に行き、詠んだ(歌)(数々の歌集があるなかの『猿丸集』に親しみ、詠んだ(歌)」
② 『猿丸集』が誰かに編纂された歌集であれば、巻頭歌群と掉尾歌群によって編纂の趣旨を表現しているという仮説が成り立つと私は予想しています。対象の歌は、3-4-1歌と3-4-2歌並びに3-4-51歌と3-4-52歌です(ブログ2020/5/18付け参照)。
詞書にある「山にはな見にまかる」とは、目的の山に咲いた特定の桜木が見頃と見通して出かけてゆく、ということを意味しています。そのため、「はな」とは、特定の桜木を指していることになります。
だから、「はな」に暗喩があるならば掉尾歌群の歌において特定の歌集(『猿丸集』)をも示唆し得るとして、ブログ2026/6/29付けで得た現代語訳(試案)が、上記の(試案)です。
詞書を上記の(試案)のもとで、3-4-51歌の歌本文の現代語訳(試案)が得られ、3-4-51歌は、類似歌と異なる趣旨を詠う歌であるものの、恋の歌ではない、という(3-4-50歌までの通例と異なる)理解になりました(ブログ2026/6/29付け参照)。
③ 次に、歌本文を再確認します。
歌本文は、前回(ブログ2019/11/4付け)、つぎのように二つの文からなる、と理解しました。
文A こむよにもはやなりななん めのまへに: 詞書からの結論、決意あるいは予想
文B (めのまへに)つれなき人をむかしと思はむ: 文Aの再確認
(同ブログ「11.⑧」より。)
前回の検討で、同音異義の語句をいくつか確認しました。三句にある連語「めのまへ」もその一つであり、「a見ている、すぐ前方。眼前」と「b見ているうち。みるみる、」の意があります(『例解古語辞典』)。その二つの意を掛けている歌とみて、三句「めのまへに」は、上句にも下句にもかかるという理解です。
三句を掛けているとして無理のない歌意となれば、その理解を採ってよい、と思います。
そして、前回、次の現代語訳(試案)を得ました。
「(花を見て思うのは)行きたい夜(訪ねる夜)にも早くなりきってほしい、すぐにでも。(そうなったら)私につれない素振りの今の貴方を、昔そんなこともした人だ、と思えよう。」(以下「歌本文の前回の現代語訳(試案)」と称します。)
④ さて、この「歌本文の前回の現代語訳(試案)」は、その詞書にある「やま」が、「山」の意ではなく、「屋間、即ち建物と建物の間」の意であり、詞書にある「はな」に恋の相手の暗喩があるとみてのものでした。(同ブログでの第十一案。 同ブログ「12.⑤」に再掲。)
この(試案)を得た後に、詞書の理解が上記①に示したように替わっています。
そのため、今回、改めて現代語訳を試みる必要があるかどうかを確認し、その結果得られる現代語訳(試案)と詞書との整合と類似歌との関係を再確認することとします。
⑤ 上記①の詞書の現代語訳(試案)は、「はな」に、特定の歌集(『猿丸集』)の示唆があるとしたものです。
その「はな」という語句は、歌本文には用いられていません。
「はな」という語句と縁の深そうな語句(例えば、「いろ」、「さきみだる」、「ちる」、「うつる」、「ながめる」など)も歌本文には用いられていません。
そのため、「はな」が「恋の相手」でも「『猿丸集』」でもそのほか何を示唆していても、歌本文の表面の歌意に影響を与えておらず、歌本文の理解は、同一であってもよい、といえます。詞書を無視しても或いは関係あるとしても、現代語訳(試案)は変わりようがない、ということです。
詞書を無視した場合は、3-4-52歌本文は、類似歌のまさに異伝歌と言えます。
詞書に関係あるとした場合は、詞書にある「はな」が「恋の相手」を示唆している、と理解した前回は、一言「はな」に触れた語句を付け加えた、(上記③に記した)「歌本文の前回の現代語訳(試案)」となりました。
⑥ 詞書の理解が改まったのですから、「はな」に特定の歌集(『猿丸集』)の示唆があるとして、一言「はな」に触れた現代語訳(試案)も可能に見えます。例えば、
「(『猿丸集』を見て思うのは)行きたい夜(訪ねる夜)にも早くなりきってほしい、・・・」
しかし、『猿丸集』に関して示唆しようとしている事がらがこれではわかりません。 言葉を尽くした意訳が望ましく思えます。
この歌の詞書には、その全体でもって、その文言を表面上追った意のほかに別の意が込められていました。
3-4-52歌の歌本文も、一首全体の文言を表面上追った意のほかに別の意(ここでは、『猿丸集』に関する作者の思い)を加えた現代語訳を試みます。
⑦ このような理解を許す(あるいは求める)作詠方法の歌は、『古今和歌集』の仮名序では、「さま(和歌独自の、形式や或いは表現に関する詩句法など)がそへうたである歌」として述べられています(付記1.参照)
竹岡正夫氏の表現を借りると、「そへうた」とは、(諸説が大体一致しているように)「一首全体がいわゆる暗喩になっている歌」であり、「一首全体の裏に作者の≪情≫が添えられている歌」です。
そのため、上記①の現代語訳(試案)という理解をした詞書のもとにある歌として、歌本文は、上記③の「歌本文の前回の現代語訳(試案)」に「一首全体の裏に作者の≪情≫を添え」た文章を加えれば、3-4-52歌の現代語訳(試案)となり得ます。
⑧ 最初に、一首全体の文言を表面上追った意を再確認します。「歌本文の前回の現代語訳(試案)」の再確認です。
いくつかの同音異義の語句が歌本文に用いられており、今回も同じ結論に至りました。
第一 初句にある「こむよ」は、動詞「来」の未然形+助動詞「む」の連体形+名詞であり、「来む世」と「来む夜」の二意があります。
「来む世」は、「来」の意を「来る」、「む」の意を「物事の実現予測する意・事態を不確かなこととして推量したりする意」とし、「世」を、「次の世」(作者が死んで後に行く世界を漠然という)の意となります。
「来む夜」は、「来」の意を(目的地に自分がいる立場でいう)行く」とし、「む」の意を「あることを実現しようする意思・意向を表す」意です。「来む夜」は、「行きたい夜」ということになります。
第二 三句にある「めのまへ」は、上記③に記したように、2意があります。
第三 初句と五句にある「む」は、初句では(動詞「来」の意より)「意思・意向」の意にもなります。五句では五句「むかしと思はむ」とは、文Aをうけて当然視できることを言っていますので、「推測」の意です。
⑨ 3-4-52歌の表面上の歌意は、これまでの歌の例にならい恋の歌とすれば、逢うことが拒否されているにも関わらず相手におくった歌と理解できます。それも山に「はな」を見に行って、詠んだ歌です。
山にある「はな」は、対岸の花であればそばに近寄れません。あるいは見に行くのに時間を要し道中の苦労もあります。それらから恋の相手のことを連想したのでしょうか。
いづれにしても望みが叶うような返事を期待している歌であって、諦めたと通告している歌ではない、と言えます。
それなのに、初句にある「こむよ」が(仏教でいうところの)来世、あるいは(俗信として単に転生する)「次の世」の意の場合、一度死ぬという仮定をおいて詠っているのは、相手も一度死ぬという仮定の歌となります。私は死んだ後でも貴方を待つという訴えは、怨霊になるというのと、どこが違うのでしょうか。現代で言えばハラスメントともつきまといとも取られかねない、詠いぶりです。
歌本文において、文Aの「こむよ」と「めのまへ」及び文Cにある「むかし」とが、転生できるという認識のもとでの人の一生を単位とした時系列上での区分(類似歌におけるよくある理解)で歌を詠むよりも、月や季節を単位とする時系列上での区分で詠むほうが穏やかです。
近々に逢えることを想定した「来む夜」として相手に自分の思いを訴えるほうが、作者に異常な狂気はないことが伝わると思います。この歌は相手(側)に示しているものであり、作者の願望を拒否する理由とされるような行為や文言は避けているはずです。
また、同じ詞書のもとにある3-4-51歌との関係でも両歌が現世を舞台として相手に訴えるほうが、穏やかです。
そのため、ここでは、恋の歌として、「来む夜」を採ります。
⑩ 「こむよ」とは、「行きたい夜」、「むかし」とは「こむ夜」が到来した時点からみた「むかし」であるので、この歌の作詠時点を指し、「めのまへ」は連語であって「見ているうち。みるみる」(文A)と理解できます。
このため「歌本文の前回の現代語訳(試案)」は、妥当であると確認しました。
⑪ 次に、詞書の「数々の歌集があるなかの『猿丸集』に親しみ、詠んだ(歌)」として上記③の文Aと文Bの現代語訳を試みます。
『猿丸集』は、「猿丸」という人物が作者に擬せられた歌集の体をとっていますが、作者自身が編纂した歌集ではなく、後年誰かが編纂した歌集ということは疑いがありません。
その理由は、次のとおり。
第一 類似歌の多くを『萬葉集』か『古今和歌集』記載の歌となっているのは、それを事前に承知している人物が作者である確率が高い。だから、『古今和歌集』編纂以後の時代の人物が『猿丸集』歌の作者となります。しかし、その時代であれば、この歌集以外に「猿丸」が作者という歌に言及した古文書があってもよさそうな時代なのに、それがありません。
第二 『古今和歌集』の真名序に「(六歌仙のひとりである)大友黒主之歌、古猿丸大夫之次也」とある「猿丸大夫」という名は六国史に登場しません。「猿丸大夫」の活躍が、大友黒主と同時代としても、『猿丸集』のような内容の詞書をつけて歌を記録する習いがあったことが疑わしいところです。
第三 和歌に関する古文書で、「猿丸」(あるいは猿丸大夫)が具体の歌の作者名としてはじめて登場するのは、藤原公任が撰んだ『三十六人撰』(11世紀初頭成立)が初めてです。しかし、その歌は『古今和歌集』の巻四「秋歌上」にあるよみ人しらずの歌1-1-215歌です。第二の人物(「猿丸大夫」)の歌であったとしても『古今和歌集』編纂時点には作者名も伝えられていなかったことになります。
第四 『三十六人撰』成立頃、『萬葉集』の解読はまだ不十分であり、『古今和歌集』も個々の歌本文のみに拘り配列の考察がまだすすんでいませんでした。
これらの理由から、「猿丸」の名が歌人という認識が生まれて以後(少なくとも『三十六人撰』編纂以後)に誰かが編纂した歌集が『猿丸集』といえます。
編纂にあたり、一定の編纂方針を設け、歌の配列や表記方法などに反映しているはずです。
⑫ 『猿丸集』の各歌は、ブログ「わかたんかこれ・・・」でのこれまでの各歌とその類似歌の検討により、すべての歌が、類似歌とは詞書が異なり、かつ歌本文の意も異なっているのを確認しています。歌本文にある同音異義の語句が詞書とともに曲者です。
『猿丸集』が編纂された当時、中国における漢詩集に対して、大和の歌に関する歌集で当時尊重されていた歌集は、勅撰集と信じられていた『萬葉集』と『古今和歌集』が第一です。両歌集とその歌集にある歌の正しい理解のための提案を遠回しにこの歌集はしていることになります。
歌本文での一、二文字の違いで詞書に基づき歌意がはっきり異なる例を52例示した『猿丸集』は、『萬葉集』などの理解においても詞書を重視した見直しを提案しているに変わりありません。
そのようにして、『三十六人撰』にある人物であって詠った歌が知られていなかった猿丸の名を冠して編纂されたのが『猿丸集』ではないか。
⑬ そうすると、『猿丸集』編纂者は、序を設けないとするならば、その編纂意図を巻頭や掉尾の歌に忍ばせているのではないか、と推測します。
3-4-52歌は「そへうた」としてその役割を担っている一首ではないか。
詞書にある「はな」が示唆するのは、『猿丸集』ではなく、類似歌のある主たる歌集(『萬葉集』と『古今和歌集』)かもしれません。
上記③の文Bにある「つれなき人」は、『萬葉集』と『古今和歌集』の歌を誤解している人物(複数)を示唆していることになります。
現代語訳を試みると、つぎのとおり。
文A この『猿丸集』の歌を参考に『萬葉集』と『古今和歌集』が正しく理解してもらえるようになってほしい。すぐにでも。(詞書を踏まえて期待を述べる)
(「歌本文の前回の現代語訳(試案)」は、「(花を見て思うのは)行きたい夜(訪ねる夜)にも早くなりきってほしい、すぐにでも。」)
文B (そうなったら)今、理解されていない状況も、昔そんなこともあったのだ、と思えよう。(文Aが実行された後に確実に生じると推測していることを述べる)
(「歌本文の前回の現代語訳(試案)」は、「私につれない素振りの今の貴方を、昔そんなこともした人だ、と思えよう。」)
⑭ 3-4-51歌の現代語訳(試案)も、「そへうた」でした(ブログ2026/6/19付け参照)。『猿丸集』が正しく理解されることを願っている歌と理解しましたが、願っているのは『萬葉集』と『古今和歌集』のことであったかも知れません。
3-4-51歌とともに、3-4-52歌は、この歌集編纂者の『猿丸集』の後世の読者へのメッセージとなっています。
⑮ 『源氏物語』などにみるように歌のやりとりが官人とその関係者との間では、知名度の高い歌(場合によってその著名な句のみ)を口にすることで、当事者が連想する事柄や話題となっている人物の行動(場合によっては歌意に反対の行動)を示すことが出来ていた時代です。それは、自由に異伝歌や類歌が生まれやすい環境にあったとも言えるのではないか。
『猿丸集』の詞書は、詠作した人物が詠んだ歌を送る事情を、記しています。おくった歌は一見類似歌の異伝歌のような歌を用いて、相手に意思表示をした例になっている、といえます。
⑯ 次回は、類似歌を再確認し、3-4-52歌とともに詞書との関係も再確認します。
今回の作業で確認した結果をまとめると、上記「2.②」のとおりです。
ただし、その第五に記した類似歌に関する現代語訳(試案)は、再確認前のブログ2019/10/28付けでの「次の世第三案」を仮に記載しています。その(試案)は、『古今和歌集』の配列上からは、作者の「思い果て無し」の気持ちを詠っています。
ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。
(2026/7/20 上村 朋)
付記1.古今集仮名序にいう「さま」について
第一 六つのさまとは、「≪情≫と≪景≫との布置配合・浸透のしかたに六つの種類があるということ。その観点は、王昌齢の「十七勢」や釈皎然の「十五例」に類するもの。」(竹岡正夫『古今和歌集全評釈 上』97p)
第二 情とは、心に思うこと。景とは、見る物聞くもの。歌とは情を景に託して表現したもの(同上96p)。
第三 仮名序には、その冒頭に、「(やまと歌は)、世の中にある人、ことわざ(事業)しげき(繁き)ものなれば、心におもふことを、見るものき(聞)くものにつけていひだせるなり」、とある。
(付記終わり 2026/7/20 上村 朋)