わかたんかこれ 猿丸集恋歌確認52歌その3 古今517歌と518歌はペアの歌

  前回(2026/9/7)に引きつづき『猿丸集』歌の再確認をします。今回は第52歌の三回目です。

1.経緯

 2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。第3歌から第50歌まではそのとおりであり、第51歌は異なった。現在第52歌の類似歌に関して検討中である。

2.『猿丸集』の第52歌 3-4-52歌とその類似歌

① 『猿丸集』の52番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

 3-4-52歌  やまにはな見にまかりてよめる (第51歌の詞書と同じ)

      こむよにもはやなりななんめのまへにつれなき人をむかしと思はむ

 

 古今集にある類似歌 1-1-520歌  題しらず     よみ人しらず

      こむ世にもはや成りぬらむ目の前につれなき人を昔と思はむ

 

 清濁抜きの平仮名表記をすると、二句の二文字と、詞書が、異なります。

② 今回、下記第一のもとで『古今和歌集』における1-1-520歌の前後の歌とその配列を確認し、下記第二以下の成果を得ました。

 第一 類似歌のある『古今和歌集』の巻十一の部立ては「恋歌一」(以下「恋一」と略称する)であり、恋の始めの段階の歌を配列している。鈴木宏子氏にならい、恋の心象に基づいた主題から配列をみると、原則として恋の進捗順に歌が配列されている。また、題しらず・よみ人しらずの歌は、部立てが「恋歌一」であることにより恋の始めの段階の歌と理解できる。蛇足ながら、元資料の歌は恋の段階を限定しがたい歌が多い。

 第二 巻十一の歌は、筆頭の1-1-469歌から主題ごとに歌2首を並列して配列している。

 第三 1-1-520歌の前後の歌のうち、1-1-517歌と1-2-518歌は、恋の踊り場を主題として配列されているのではないか。

 第四 1-1-517歌は、「事には終わりがある」という一般論をベースに、恋の終りは仲良くなることではないかと詠う。

 第五 1-1-518歌は、「人たる所以も習慣次第である」という一般論をベースに、現状を固定したらどうなるかを見ようと詠う。

 第六 1-1-519歌以降は次回検討する。なお1-1-513歌から1-1-516歌まで前回検討した。

 

7.再考 類似歌1-1-520歌の前後の歌 1-1-517歌 

① 確認を、次のように行います。

 第一 『古今和歌集』の編纂方針に添った歌意が得られるかを確認する。即ち恋の始めの段階の歌であること及び配列上矛盾のないことを確認する。

 前者は、部立て「恋一」にある歌として現代語訳を確認し、歌本文の作中人物(その歌本文における主人公)がこの歌を相手に示そうとしている時点(作詠時点)を推測して判断する。後者は、前後の歌をも確認することで判断する。

 第二 「恋一」にある歌の歌意は、その元資料の歌の歌意に拘らない。『古今和歌集』収載歌として設定した作詠時点と元資料の歌の作詠時点はおのずと別だからである。

② 1-1-517歌は、つぎのとおり。

詞書  題しらず    よみ人しらず

歌本文  恋しきに命をかふる物ならばしにはやすくぞあるべかりける

 この歌本文には、作中人物がこの歌を相手に示した時点を直接指し示す語句は、ありません。詞書にもありません。

 歌本文に用いられている語句から判断すると、恋の歌ということはおよそ判りますが、恋の段階は不明です。ただ部立て「恋一」に配列されている歌だから、恋の始めの段階の歌であるはずです。

「恋一」の筆頭歌1-1-469歌も、詞書と歌本文からは恋の段階は不定でしたが、「恋一」に配列されているからこそ、恋の始めの段階の歌と理解できたところです。

③ この歌の現代語訳を試みます。

 筆頭歌にならい、恋の始めの段階の歌として試みます。

 恋の成就とは、「恋をした大人の男女一組が、頻繁に逢うことができるようになる」、ということだと思います。何度か逢い、お互い一時の勢いでなく惹かれあっているという状態をいうのではないか。

 その中で初めて逢うのは重要なステップであり、恋の始めの段階とは、その最初に二人が逢うまでの間、ということです。だから、この段階の歌は、逢う価値のある人物ですよと自分を売り込む歌とか、逢ってくださいと願うか強要する歌とか、貴方の要望に応えられるという歌とか、相手を試したり気を引く歌とか、逢うことを応諾する歌とか、のパターンがあると思います。

④ この歌について、東常縁・宗祇『古今和歌集両度聞書』(寛永15年刊)(以下『両度聞書』と略称する)には次の指摘があるそうです。

 「命にかへてもあふ事あらば、死ぬる事はやすからんと也。あはでしなば、なを思ひのはれがたき事なれば也」

 この引用だけでは恋の段階の理解は不明ですが、逢うことがなかなかできない作中人物が一度逢えたら死んでもよいくらいに思っている、と訴えているのがこの歌である、と理解していると言えます。恋の相手が逢ってくれれば作中人物の恋の苦しみは解決する、という一方的な訴えです。

 作中人物は、この歌によって恋の成就に近づくと考えたから、この歌を相手におくったのでしょう。

 作中人物にとっては、逢えば説得(あるいは虜に)できるという自信があり、「二度目の出あいがあったら死んでもよい」とまた言い募るつもりなのでしょう。

 とりあえず逢う段階に進むことが肝心であり、相手がこの歌を受け取ってくれたら、また文や歌をおくり続けることができるという思惑があるのでしょう。

 そうすると、この歌はこれまでに得た相手の好みなどをも考慮して技巧を凝らした歌となってはいないか。

 このような視点でこの歌を確認します。

⑤ 最初に、歌本文にあるおもな語句の意を確認します。 

 初句にある「恋しき」とは、名詞化された語句とみることが出来ます。二つの理解があり得ます。

 ひとつ目は、形容詞「恋し」の連体形です。「慕わしい・恋しくおもう(こと)」という意となります(『例解古語辞典』)。(二つ目の理解との対比において)恋についての一般論を展開するかの言い方です。

 二つ目に、動詞「恋す」の連用形+助動詞「き」の終止形です。「恋をした・恋に悩み苦しんだ」という意となります。ここでの「き」は「話し手自身の直接体験を、回想して述べる」意です。

 なお、四句にある「しに」は、動詞「死ぬ」の連用形で名詞化しています。「死ぬ」は、活用語尾の「ぬ」が完了の助動詞「ぬ」と同じで、死んでしまうという意味であり、中世になると完了の意味が失われて現在と同じ意になったそうです(『例解古語辞典』)。この歌は、『古今和歌集』記載歌なので、その意は、中世以前の意となります。そのため、「息が絶える・命を失う・死んでしまう」(『例解古語辞典』)というよりも「本当に息が耐える・命を失っている・死んでしまっている」というニュアンスがある、と言えるのではないか。

 この歌で、名詞化されている語句は、この二つの語句だけです。

 この二つの語句に強い関連あるいは歌意上の留意を、作中人物は与えているのではないか。

⑥ 二句にある「命」とは、「生物の生きてゆく力。いのち。生命」の意です。そして、この歌本文では「命」と「恋しき」は交換できるかに詠っており、同列に置いています。それぞれの属性の一部も同列にみなしているのではないか。

 そうすると、「恋しき」には「何時でも逢えることができる仲に」という目的があるので、「命」にも目的を想定すれば、それは、「子孫などのために尽くして後に死を迎える」こと(「しに」)ではないか。その時に死ぬのは、素直に受け入れられると思います。

 「恋しき」と「命」を時系列上でみると、「恋しき」の最終は、「恋の成就」か「恋の終わり」であり、そして「命」の最終は「しに」です。そして「しに」のイメージに通じる「恋しき」の最終は、「恋の終わり」、となります。

⑦ 次に、二句にある「かふる」とは、同音異義の語句である下二段活用の動詞「かふ」の連体形です。

 その意は、一つ目が、動詞「替ふ・換ふ」であり「取り替える・交換する」意です。

 二つ目が、動詞「変ふ」であり、「(姿などを)今までと違ったものにする。変える。」意です。

 動詞「かふ」とは、「AをBにかふ」、「AからBにかふ」、「AとBをかふ」という表現が、普通の用い方でしょう。この歌では「恋しき(B)に命(A)をかふ」とあり、倒置法で詠いだしています。

 三句にある「もの」とは、ここでは、「普通のもの。世間一般の事物」の意ではないか。「かふるもの」とは、例えば取り替える物」、「替えたもの」という理解になります。

 四句にある「やすし」とは、形容詞「易し」あるいは「安し」であり、前者は「a容易だ・たやすい。b簡単だ・無造作だ」の意、後者は「a心が穏やかだ・平穏だ。b価が安い」の意です。

 五句「あるべかりける」とは、補助動詞「有り・在る」の連用形+推量の助動詞「べし」の連用形+過去回想の助動詞「けり」の連体形です。四句の「ぞ」により、係り結びとなっています。

 なお、「べかりけり」は、連語として「・・・べきだったのだ。・・・べきにちがいない。・・・にちがいないのだ。」の意が辞書に示されています。

 「べし」の根本の用法は、「経験にてらしたり、ものの道理・摂理などから判断して、こうあるのが当然であろうと確信をもって推量する」ことです。

⑧ この歌は、「恋一」に配列されている歌であって、文の遣り取りができる関係になっている作中人物にとって、次の課題と言えるのは、初めて逢うことであり、その段取りがなかなかすすまない状況において相手におくった歌と思えます。

 作中人物(作者)とその相手の人物にとっては、現在の関係(あるいは抱えている課題)の認識は共有していると思い込み、それを直接指し示す語句は歌本文にありません。それでも、また文の主語や目的語も割愛しても、当事者間では意が通じると信じていると、思えます。

⑨ さて、この歌本文は、次の三つの文から成るものとして理解できます。

 文A 恋しきに命をかふる物ならば: 

「命」を、「恋しき」に「かふ」ものとすれば、という仮定をしている。「恋しきに」の理解によって2案ある。「かふ」はどちらの意でも意訳するとほぼ同一ではないか。

 第一 「命」を「慕わしい・恋しくおもう(こと)」に例えると、という意。これは恋に関する一般論を述べようとしている。(「恋しきに」は形容詞「恋し」の連体形+格助詞「に」)

 第二 「(私の)命」と「(私は貴方に)恋をしてその恋に悩み苦しんでいる(こと)」とを交換してみると、過去をふり返って言い出している。これは個別の事情をのべようとしている。(「恋しきに」は動詞「恋す」の連用形+助動詞「き」の終止形+格助詞「に」)

 文B しにはやすくぞある :

 「(命の)しに」という状態になるのは、「易し」あるいは「安し」と評価できる、と結論づけている。

 文C (ある)べかりける : 

「べかりける」の理解により2案ある。

 第一 当然そうなのにちがいない、と恋に関する一般論の結論を作中人物は確認している。(言外に、終わり方はひとつだけではないので私は今日この歌をおくっているような道を歩むのだ、ということを主張している。)(「べかりける」は、「・・・にちがいないのだ」の意)

 第二 当然そうなのであった、と作中人物が自分の恋に関する経験を振り返っている。(言外に別の終り方の道を私は歩むことを相手に告げている。)(「べかりける」は、「・・・べきだったのだ」の意) 

⑩ この歌を相手が受け取ってくれたとするならば、相手が恋の成就を願っていることは確かである、と作中人物はみているのではないか。つまり、この滞っている状態を、予想していた踊り場のひとつ位に思い、詠んでいる、と思えます。

 逢うことを拒否されて、恋の終りを覚悟したかの詠いだしで、恋の終りは結ばれれることだと開き直っている歌です。

 そのため、この歌は、「事には終わりがある」という一般論を述べて、自分の行動もその終わりにむかってがんばる、という論理で詠まれていると思えます。ただし、終わりの状況について積極的に触れていませんが。

 だから、

 文Aは、上記⑨での「べかりける」第一案 (「恋しき」は動詞「恋す」の連体形)

 文Cは、上記⑨での「べかりける」第一案 (作中人物の行動はすべて歌本文の言外でいう)

が妥当なのではないか。

⑪ 現代語訳を試みると、つぎのとおり。

文A  恋しく思うということに替わって命の営みを考えてみると、

文B  死ぬことには、心穏やかに対処できる。

文C  (わが恋も)当然そうなのに違いない(私には恋の終わりは恋の成就なのだから)。

⑫ なお、文A~文Bは、作中人物の心で反芻した事柄を述べているとも理解できます。作中人物にとり、それは例えであり、文Cを言うための前提を設定しており、相手の知り得ない事柄に関する状況なので、嘘でも構わない景です。

 この恋の歌のパターンは、やんわりと逢うのを強要している歌です。

 この作中人物(作者)は、男性の蓋然性が高い。

⑬ この歌をおくられた相手の女性は、相手が自分を諦めていないと了解してこの歌を理解することになります。歌意に満足して次のステップに誘うのか、見え透いたことをいうなと、また気を引く返歌をしたのでしょうか。それとも、きっぱりと送られた文などとともにこの歌もこの際とばかり返したのでしょうか。

(前後の歌との整合はのちほど行います。)

⑭ このような理解は多くの諸氏と異なることになりました。諸氏は「恋の苦しさを訴えている」とか、「逢えたら死んでもよい」、という理解が主流です。

 例えば、竹岡正夫氏は、つぎのとおり。

「恋しいのにこの命を交換できるものなら、死は、このぶんではたやすいことでありそうだった。」

 末句にある「やすくぞありべかりける」の「べかりける」については、

 「恋のつらさをこの身で体験して、こんな調子なら、命と交換するなんて、いとたやすいことでありそうに思われると推定し、それに「ける」を添えて観照しているのである。」、と氏は指摘しています。

 また、片桐洋一氏は、次のとおり。

 「人を恋する苦しさに命を引き換えることがもし出来るならば、死ぬことなどたやすいことであるに違いないよ。」

 「恋しき」は、「恋しき事」の略とし、「恋の苦しみに比べれば死の苦しみなど問題ないと言うのである」、と氏は指摘しています。

 両氏は、この歌を詠んだ作中人物の意図に言及していないのが残念です。

⑮ 「恋二」の掉尾の歌1-1-615歌も、「あふ」に「かへる」ところの「死」を詠んでいます。

  1-1-615  題しらず  とものり

     いのちやはなにぞはつゆのあだ物をあふにしかへばをしからなくに

 二句~三句にある「つゆのあだ物」とは、逢えもしないので、生きているのか死んでいるのか、全く生の充実感がない自分の命を指しています(竹岡正夫氏)。

 この歌でも逢えたら死んでもよい、と詠っています。逢えたら直ちに芽生える次の望みが、死ぬことを意識の外に押しやるのでしょう。あるいは予定通りの行動として、次の望みを言い立てるのでしょう。

 「恋二」のこの掉尾の歌を、氏は、「いつまで経ってもちっとも逢えないこの恋に、しびれをきらした、ぎりぎりと歯ぎしりしているような歌」と指摘しています。

 『両度聞書』には、この歌に関して、「命やはとは、我とかろんじいへる詞なり。御注。たとへ万年をふる命なり共おもふ人にあはんにはかへつべし。いはんや露のごとくあだなる命を、あふにかへんはおしから(ママ)まじと云にや。」とあります。

 元資料の歌は、題詠であり、作者紀友則が、歌合に出詠したか屏風絵に添えた歌であって、私的な事情で詠んだ歌ではないはずです。

⑯ 元資料の歌を推測してみます。

 この歌は、恋の始めの段階以外でも復縁を迫る場合でも相手におくれる場面がありそうな歌です。

 即ち、この歌の作中人物は、まだ逢うことの叶わない状況にいるか、今相手と仲違いし逢えていない状況にいるのか、あるいは逢えて後の破局に瀕しているかは、歌本文からわかりません。

 個人の経験に基づく歌なのか、あるいは、男女の組が掛け合いをするような遊びの場における歌であったのかも、わかりません。掛け合いの歌であれば、相手方は「私のことで死んだら会ってあげましょう」とか「誰にも言っているそうじゃないの」とかと応酬したのではないか。

 いずれにしても、この歌を相手に示した事情が想像できる歌とともにこの元資料の歌は伝承されてきたのではないか。

 現代語訳は、「恋しき」を作中人物の経験と理解した次の(試案)と上記の1-1-517歌のそれとが候補となります。

文A  恋に夢中であった時 (貴方に逢えるのが)私の命と引き換えになるものであったらば、

文B  死ぬことは、まことに容易であった。

文C  当然そうなるべきであったのである(しかし、そうならないから今日も貴方に歌をおくっている。)

この歌は、貴方に逢えていれば、死んでいたかもしれないが、今日私はまた歌を送り、逢うことを懇願するのである、と訴えた歌です。

8.再考 1-1-518歌 

① 1-1-518を、引用します。

詞書  題しらず    よみ人しらず

歌本文   人の身もならはしものをあはずしていざ心みむこひやしぬると

この歌は1-1-517歌と同じく、恋と死を結び付けて題材としています。

この歌本文にも、詞書にも作詠時点(恋の進捗状況)を明確に示す語句はありません。逢えない状況における恋の歌ということはわかります。しかし、1-1-517歌の返歌とみれば、恋の始めの段階の歌ということになります。また部立て「恋一」に配列されているので、恋の始めの段階の歌のはずです。

② 片桐洋一氏は、「前歌の女の返歌として、(そうなるかどうか)試してみましょう」と解釈することもできない訳ではない。本来は、揶揄している歌ではないのか。」と指摘しています(『古今和歌集全評釈』(講談社1998))。

 そうであれば、元資料の歌は戯れ歌であったか、一時の喧嘩別れをしている際の歌でしょう。

③ 語句を確認します。

 初句「人の身」とは、直訳すれば「人という生き物の中身」、つまり「人たる所以」というところです。

 二句「ならはしものを」とは、動詞「慣らはす」の連用形+名詞「もの」+格助詞「を」です。片桐氏は「ならはしもの」を、「泣き声と同じ(造語法)と指摘しています。

 格助詞「を」は、三句とあわせて「・・・を・・・に(て)」の形となっているので、「下に続く動作の原因理由を表す」意です(『例解古語辞典』)。

 動詞「慣らはす」は、「慣れさせる・習慣づける」意です。

 名詞「ならはし」は、「a風習 b習慣・しきたり。C練習。dしつけ」の意です。

 竹岡氏は二句「ならはしものを」は、名詞「ならはしもの」+助詞「を」と理解し、   名詞「ならはしもの」を「習慣次第のもの」と現代語訳しています。氏は、香川景樹の『古今和歌集正義』(略称『正義』)の説を採り、「人の身というものは、めったにならわしもの(習慣次第)にはなりにくいものだが、そんな人の身だって、と解する」としています。

 久曾神氏は、名詞「ならはしもの」+強意の助詞と理解して、「慣行(習慣)によってどうにでもなるもの」と訳しています。

 初句~二句の現代語訳をいくつか比較すると、次のとおり。

 私の場合:人たる所以も、習慣次第のもので(「を」は格助詞)

 竹岡氏:人の身だって、習慣次第のものだが((「を」は接続助詞か)

 久曾神氏:人の身も習慣によってどうにでもなるものであるよ(「を」は強意の助詞)

 片桐氏:人の身だって習慣次第のものだよ(「を」は間投助詞)

 ネットでみた訳の一例:人の心はそのうち慣れるものなのに(「を」は接続助詞か)

 これらは、人は習慣に親しみ行動を律している生き物、という認識が共通しています。

④ 三句「あはずして」とは、「あはず」という行為で「人の身はならはしもの」の一例が生じるだろうから、ということ。

⑤ 四句にある「心みむ」は、動詞「試みる」の未然形+作者の意思を表す助動詞「む」の終止形、と諸氏は理解しています。

 このほか、名詞「心」+動詞「見る」の未然形+作者の意思を表す助動詞「む」の終止形、という理解も可能です。後者のほうが、『新編国歌大観』の表記に忠実にみえます。

 また、五句にある「こひ」は、名詞であり、「異性に対する恋愛の感情、またその行為」という意です。

 五句「こひやしぬると」は、「恋い死にするか」(作者が死を迎えるか)という理解が大勢を占めていますが、「心を見る(心を見定めたい)」を受けると、「恋が死ぬ(恋する気持ちが心からなくなる)かどうかと」という理解となります。

⑥ この歌は、四つの文から成る、と理解ができます。

 文A 人の身もならはしものを: 

人に関する一つの一般論を述べている。

 文B あはずして: 

そこで一つの提案を作中人物はしている。「(相手に)逢わないこと」を実行して

 文C いざ心みむ :

試みてみよう、あるいは心を見定めよう

 文D こひやしぬると: 

「恋い死にするか」(私と貴方が死を迎えるか)あるいは「恋が死ぬか」(私と貴方の恋する気持ちが心からなくなるか)ということを

文Bの主語は、推測するに作中人物(作者)だけでなく、その相手も該当します。互いに恋の当事者なのですから。

文Cの主語も同じです。

文Aの一般論は、作中人物にも相手にもあてはまるはずです。だから、互いに逢わなければそれが習慣となって理の当然の結果が二人に生じるはずです。

その理とは、第一に、逢わないとさらに恋の高ぶりが増し、苦しみ死に至る場合もあるという理、第二に、逢わないと恋という高ぶりが静まるという理が考えられます。

この歌は、恋の歌であるので、「あはずして」で変化が生じる可能性のある人物は、作中人物とその恋の相手です。「心みむ」の対象は、自分と相手のことになります。片方のみではありません。

⑦ 既に和歌のやりとりをする間柄ですが、二人の仲に問題が生じている時点の歌なのでしょう。

 歌本文のみは、恋のどの段階でも問題が生じた場合は、相手におくる意味はあります。「恋一」に配列されているからおくった時点が限定されているだけです。

作中人物が相手に「逢わないでいましょう」という提案をするには、それに至る経緯があったはずです。

相手がおくってきた歌か文に、このような提案するきっかけがあり、それに対する反論がこの歌ではないか。この後、相手からそれでも「逢いたい」という再反論があれば、作中人物が対応できる余地はこの歌にあります。

 また、この歌が 『古今和歌集』「恋一」にある歌であるので、その配列を考慮すると、1-1-517歌の作中人物は、この歌の作中人物の相手の候補になり得ます。

⑧ 以上の結果、この歌の文C~文Dには、二つの理解があります。

第一 試みてみよう、「恋い死にするか」(誰かが死を迎えるか)どうかと(以下「試みる説」と称します)。

第二 (誰かの)心を見てみよう(心を見定めたい)、恋が死ぬ(恋する気持ちが心からなくなる)かどうかと(以下「心見る説」と称します)。

⑨ この歌は「恋一」に配列されている歌なので、初めて逢うまでに詠まれた歌であり、返歌を期待している歌です。この歌の作中人物は、この二つの意を掛けた歌を相手におくり、どのような返歌があるか楽しみにしているのではないか。

もう逢わないと断るのであれば、返歌をしないでおくられた歌や文を返せばよいところです。それなのに、返歌をしているのですから作中人物は歌の遣り取りを楽しんでいる趣きがあります。

 1-1-517歌と同様に、一般論から作中人物は自分の意見を述べています。

 この恋の歌のパターンは、相手を試したり気を引く歌です。

 

9.再考 1-1-517歌と1-1-518歌の関係

① 上記のように理解した1-1-517歌と1-1-518歌の共通点などを確認します。

② 共通している点

第一 『古今和歌集』の部立て「恋一」に並んで配列されていること

第二 初めて逢う前の時点の作詠であり、意見の対立があることをそれぞれの作中人物は認めている。

第三 相手を説得するのに、一般論をベースにしている。

第四 歌の主題は、恋にも踊り場がある、というところか。この2首は、故意に進展を遅らせるようとしているかの歌と理解できる。

第五 元資料の歌は、「題しらず  よみ人しらず」の歌である

第六 1-1-517歌以前の歌及び1-1-518歌以降の歌とは恋の心象に基づいた主題が違うらしい

③ 異なる点

第十一 恋の歌として、1-1-517歌は、逢いたいと詠うが、1-1-518歌は、逢うのを拒否している状態を継続したい(できれば別れたいほど)と詠う。

第十二 相手を説得する一般論が異なる。「事には終わりがある」と「人たる所以は習慣次第である」と異なる。

第十三 キーとなる語句の意の利用法が異なる。1-1-517歌は、「しに」には1意のみの選択をするよう詠っている。1-1-518歌は「こころみる」の2意を共に生かして詠っている。

第十四 作中人物の設定が男女に分かれている。

第十五 恋の歌のパターンが異なる。1-1-517歌は、逢うことを願うか強要するパターンであり。1-1-518歌は、相手を試したり気を引くパターンである。

④ この2首の共通点は、部立て「恋一」の配列に関わることが多く、『古今和歌集』編纂者により意図的に一組の歌としてこの2首は配列されている、と言えます。

 異なる点は、主に歌の作詠方法の違いであり、歌の個性と言えます。

⑤ ブログ「わかたんかこれ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 次回は、1-1-519歌などを確認します。

 今年の中秋の名月は、一度だけ雲の切れ間からわずかの時間みることができました。くりきんとんをおいしくいただきました。皆さまはいかがでしたか。

(2026/9/28  上村 朋)

わかたんかこれ 猿丸集恋歌確認52歌その2 唐衣は相手の女性

  前回(2026/7/20)に引きつづき『猿丸集』歌の再確認をします。今回は第52歌の二回目です。

1.経緯

 2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。第3歌から第50歌まではそのとおりであり、第51歌は異なった。

2.『猿丸集』の第52歌 3-4-52歌とその類似歌

① 『猿丸集』の52番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。3-4-52歌  やまにはな見にまかりてよめる (第51歌の詞書と同じ)

     こむよにもはやなりななんめのまへにつれなき人をむかしと思はむ

古今集にある類似歌 1-1-520歌  題しらず     よみ人しらず

     こむ世にもはや成りぬらむ目の前につれなき人を昔と思はむ

 清濁抜きの平仮名表記をすると、二句の二文字と、詞書が、異なります。

② 今回は、類似歌の1-1-520歌を、『古今和歌集』の配列より再確認します。そのため前後の歌をも検討します(3-4-52歌は前回ひととおり確認しました。)。

 下記の検討の結果は、次のとおり。

 第一 『古今和歌集』は、恋の歌を(多分)恋の進捗順で5分類しており、類似歌は、部立て「恋歌一」(以下恋一」と略称する)にある。「恋一」には、恋の始めの段階、即ち逢うに至らない間の歌が配列されている。

 第二 鈴木宏子氏にならい、恋の心象に基づいた主題から配列をみると、「恋一」は原則として恋の進捗順に歌が配列されている。

 第三 「恋一」の筆頭歌である1-1-469歌は、恋の始めの段階の歌であり、筋目もわからぬようなことを始めてしまったなあ、と詠う。 作中人物は男性でも女性でもあり得る。

 第四 「恋一」の1-1-515歌は、恋の始めの段階の歌であり、「夕暮れは人こいしい時間帯」であり、ましてや私は特別である、あなたに恋をしているのだから、と逢うことを懇願した歌である。 作中人物は男性であり、初句の「唐衣」は、相手の女性の代名詞である。

 第五 「恋一」の1-1-516歌は、恋の始めの段階の歌であり、夢に会うという俗信にあやかりたいがままならいものの、逢いたいと懇願している。<「6.②」> 作中人物は男性である。

 第六 上記の2首も題しらず・よみ人しらずの歌であり、部立て「恋一」に配列されているので恋の始めの段階の歌となっている。なお、この2首の元資料の歌は、恋の段階を限定しがたい。

 第七 1-1-517歌以降は次回に検討する。

3.再考 類似歌1-1-520歌の前後の配列 その1

① 確認を、配列より始めます。

『古今和歌集』の部立て「恋一」の配列については、ブログ2019/10/21付けで、一度検討しました。また「恋五」のそれもブログ2019/8/26付けなどで検討し、同一の傾向を認めたところです(『猿丸集』歌の類似歌は、『古今和歌集』の部立て「恋一」と「恋五」に各2首あり、「恋二~恋四」にはありません)。

② 竹岡正夫氏は、『古今和歌集』の部立て「恋一~恋五」の配列は、「一首一首検討し、正しい解釈に達して後に考えられることである」、と指摘しています(『古今和歌集全評釈 下』p2)。

 しかし、それぞれの歌を正しく解釈したかどうかは、編纂された歌集『古今和歌集』にある歌として、(用いている語句の適切な理解とともに)配列されている部立ての趣旨にあっている歌であることや前後の配列との整合も判断基準の一つとなります。

『古今和歌集』の巻一から巻十八記載の和歌は、新作の歌ではない既存の歌(以下元資料の歌という)を素材として編纂者が編纂した歌集であり、編纂者の意図を無視した各歌の理解はあり得ません。

 編纂者の意図は、序文や部立ての分類や歌の配列に表現されているはずですので、それぞれの歌の正しい解釈並びに部立て及び配列の方針の解明は関係が深く、それぞれの仮説作業を繰り返してこそ歌の正しい解釈に至り、部立てと配列の方針の解明が成ります。

 「恋一」と「恋五」の配列に関するこれまでの検討は、その一環です。

③ そもそも、各伝承歌には、既にいくつかの理解が知られていたはずです。恋の場面や宴席など色々な場面に用いられてきたからこそ伝承されてきた歌だからです。そのような伝承歌である元資料の歌を、『古今和歌集』編纂者は、各部立てに配列しています。

 つまり、部立ての縛りを各元資料の歌にかけていることになり、部立てのもとにおける歌本文の理解と既に一定の評価を得た理解とは必ずしも一致しない可能性があります。

④ 『古今和歌集』では、恋歌は五つの部立てに分かれて配列されています。その5分類は、(多分)恋の進捗の度合いが指標であろう、と諸氏が指摘しています。

 恋歌の最初の部立ては、巻十一の「恋一」です。巻十一は、恋の始めの段階の歌、即ち、相手に初めて逢うことになるまでの間の思いを詠っている歌(「不逢恋」の歌)、と諸氏は指摘しています。私もそのように思います。

 当時の官人の婚姻形態は男の通い婚であり、恋の歌をやりとりする相手は、複数で同時進行もあったと十分推測できます。そのため、恋の始めの段階の歌は、男性が作中人物であれば一方的な思い入れ・逢うまでの苦心・順調にすすまない困惑などの歌、女性であれば、品定め・じらしなどというパターンの歌が多いのではないか、と予想します。

⑤ 部立て「恋一」に配列されていれば、恋の始めの段階の歌としての理解が正解です。

 そして、歌本文が、恋の最初の段階の歌かどうかは、『古今和歌集』の歌として、元資料の歌の作者が誰であろうと、その歌の作中人物(その歌本文における主人公)がこの歌を相手に示そうとしている時点で、判断すべきものです。

 その時点の推測にあたり、歌本文に恋の進捗を直接示す語句があればそれに従います。

 しかし、恋の当事者はともに恋の進捗度の認識はほぼ一致しているはずであり、歌に直接明記する必要性は低く、そのため詞書の文言から作中人物が相手に歌を示そうとしている時点を推測することになります。

 それも難しければ、歌本文について「恋一」の歌という理解が可能かどうかを確認することになります。

⑥ 例えば、部立て「恋一」の筆頭歌1-1-469歌は、詞書が「題しらず・よみ人しらず」であり、作中人物が、「恋一」が対象とする「恋の始めの段階」でこの歌を相手に示したかどうかの推測は、歌本文から出来るだけです。

 歌本文は、つぎのとおり。

    郭公(ほととぎす)なくやさ月のあやめぐさあやめもしらぬこひもするかな

 歌本文にある「あやめもしらぬこひもするかな」より、作中人物がこの歌を相手に示した時点(あるいはそのきっかけとなる事柄が生じた頃)が推測できます。

 この語句から、最初に思い浮かぶのは、初めて思いを告げたい人を見つけた時点です。それは恋の始めの段階です。次に、恋が終わった(別れを認めた)時点での反省の弁(貴方と織物の色や模様もわからないような恋のひと時もあったなあ)という理解が、あります。この場合は、多分「恋五」の段階の歌になるでしょう。逢って後、もめごとが生じた時点も考えられます。

 このように、歌本文からは幾つかの時点の可能性があるものの、部立て「恋一」の歌であるので、初めて思いを告げたい人を見つけた時点(あるいはそのきっかけとなる事柄が生じた頃)という恋の始めの段階にこの歌を相手に示したと断定できます。作中人物の性別は不定です。

 この歌とペアになっている伝承歌があるはずですが、編纂者は『古今和歌集』に明示していません。

⑦ 歌本文を、改めて確認します。

 初句の「郭公」は、『古今和歌集』の部立て「夏歌」では、「さ月」を待って鳴きはじめる鳥として、鳴き声が待たれている鳥です。人を恋させるもののひとつです。

 「あやめぐさ」とは菖蒲をいいます。「あやめもしらぬ」の「あやめ」は、「文目」であり、「a模様。b筋道。」の意があります。この歌での「あやめ」を久曾神昇氏は「世の道理」と訳し、竹岡正夫氏は「元来織物の色めや模様をいう。転じて物事の区別や条理・道理・黒白の識別といった意。この歌で(の「あやめもしらぬ」と)は、初めて恋というものを体験した者の気持ちの処理に途方にくれ、ということで有頂天でもある」と説明しています。

 竹岡氏は、二句の「なくや五月の」の「や」は表現の上では「現在ないているほととぎすへの詠嘆の表現である」、と指摘しています。

部立て「夏歌」にあるほととぎすを詠う歌を参考にすると、鳴き声に気が付いたということは、作中人物にとっては、夢想していた事態にやっと出会ったという気持ちになったのでしょうか。

⑧ 私は、竹岡氏の「や」(間投詞)への注目に留意し、氏の現代語訳を参考に現代語訳を試みたい、と思います。

「あ、ホトトギスがなくよ(よく聞かせてくれたねえ)。五月(さつき)のあやめ草が咲いて・・・そんな「あやめ」(文目)も知らぬ、何がなにやら 筋目もわからぬ恋も、することだなあ。」

 歌本文は、恋について、今まで経験したことのない、筋目もわからぬようなことを始めてしまった、と自覚した時点の歌と理解しました。

 なお、『例解古語辞典』では、この歌を「あやめ」の項の用例にあげ、「ひたすらな恋心を詠んだもの。季節にちなんだ作。」と説明しています。

久曾神氏は、初句~三句は同音をもって「あやめ」にかかる序詞と指摘しています。

⑨ 次に、この歌が、『古今和歌集』の恋歌五巻の最初の歌であることを重視すると、恋の全ての段階でこのような感慨が生じ得ることを詠っている、とも推測できます。逢って後の段階でも男女の仲はままならないことを示唆している歌ともみることができます。

 『古今和歌集』の編纂者は、この二つの理解を重ねて、恋歌の最初の歌としてここに配列しているのではないか。

⑩ また、「恋一」にある作者名のある歌は、よみ人しらずの歌に比べると、その歌本文に、作中人物がこの歌を相手におくった時点(あるいはそのきっかけとなる事柄が生じた頃)のヒントの語句がよくあります。

「おとにのみきく」(1-1-470歌)、「思ひそめてし」(1-1-471歌)、「相坂の関のこなた」(1-1-473歌)、「めに見ぬ人もこひしかりけり」(1-1-475歌)、「はつかにこゑをききしより」(1-1-481歌)などです。これらの語句により、みな相手にまだ逢えていない時点で相手におくった歌という理解が可能です。

 もちろん、逢えて後のトラブル時に相手におくった歌と理解できる歌もあります。しかし、複数の恋の段階で用い得る歌本文であっても、部立て「恋一」に『古今和歌集』の編纂者が配列したことによって、『古今和歌集』収載歌としての作詠時点が(恋の始めの段階に)固定されています。

⑪ 1-1-520歌の前後の歌(1-1-515歌~1-1-524歌)は、ブログ2019/10/21付けや同2019/10/28付けで検討しました。改めて、恋の最初の段階における恋の歌とみなせるかを、確認しつつ、歌意の再確認をします(そして、その結果をまとめれば、上記「2.②の第三以降」のとおり)。

4.再考 1-1-515歌

① 1-1-515歌を引用します。

 1-1-515歌   題しらず  よみ人しらず

    唐衣ひもゆふぐれになる時は返す返すぞ人はこひしき

 この歌本文には、作中人物がこの歌を相手に示した恋の段階を直接指し示す語句は、ありません。

 そして、二句~三句に「日も夕暮れになる時」という語句があることにより、恋の歌としては、夕暮れという時点になると相手を特に意識する、と詠っている歌といえます。

 夕暮れは、女性側からみると、相手のお出でが今日あるかどうかが判明する最後の時間帯などです。

 男性側からみると、夕暮れは、逢うことを今日は承知してくれたかが判明する最後の時間帯か、今日もダメだったかと残念な気持ちがどんどん膨らんでいく時間帯です。そして運がよければ初めて(あるいは再会が叶い)今夜逢うことが確定した歓びに浸っている時間帯です。

② この歌は、そのように意識する「夕暮れ」という時間帯に、今日もダメだったとわかり、なおさら「人はこひし」となる、と訴えている、と理解できます。

 この歌は「恋一」に配列されているのだから、恋の始めの段階に作中人物はいるはずです。

 その作中人物の性別を推測すると、

第一に、恋の始めの段階の歌ですから、既に相手と逢ったことがある女性でも男性でもありません。

第二に、まだ相手に逢ってない女性でもありません。逢う約束をしたのにその後の進展がないためそれを督促するかのような歌は、恋のテクニックとして恋の始めの段階において女性は詠わないでしょう。

第三に、だから、この歌の作中人物は、男性です。

③ 次に、歌本文の現代語訳を試みます。

 歌本文に、同音異義の語句があります。

 初句にある「唐衣」という語句と同音異義のある助詞・助動詞です。

 「唐衣」とは、もともとは、700年代から男が訪問する際着て来る(短衣の防寒用の)外套の意であり、『萬葉集』に用例があります。三代集の時代に「からころも」の意は拡充しつつあります(付記1.参照)。

第一 外套の意にそれを着用した男性の意を掛けている用例(つらゆき作の1-3-327歌・ただふさの1-1-576歌・よみ人しらず作の1-2-622歌など)

第二 外套の意にそれを着用した女性の意を掛けている用例(公忠作の1-2-1316歌など)

第三 (外套ではなく)外来の服の用例(・・・など)

第四 (外套ではなく)衣装の美称とかさらにそれを着用した女性の意を掛けている用例(つらゆき作の1-1-697歌)

④ 五句「人はこひしき」の「は」は、係助詞です。その意は、第一に、「主語や連用修飾語について、その語句を、主語・題目としてとりたてる意」(『例解古語辞典』)があります。

 そして、「き」は、過去回想の助動詞です。その意は、「a話し手自身の直接体験を、回想して述べる」意と「b話し手の経験と無関係に、過去の事実を、確かにあったこととして述べる」意とがあります(『例解古語辞典』)。

「は」と「き」にそれぞれ2意あることに留意すると、「人はこひしき」という語句に複数の理解が生じます。

 第一 主語をとりたてる「は」であれば、「人即ち相手に思いを掛けた人物は(その人が)恋しい」と理解できます。助動詞「き」はbの意であり、誰にも「こひし」という思いが生じることを客観的に述べています。

この歌は相手におくられているのですから、このような一般論は、作中人物とその相手との間にも成り立つことを指摘していることになります。

 第二 連用修飾語をとりたてる「は」であれば、「(作中人物である私は、)人即ちあなたを恋しい」と理解できます。助動詞「き」はaの意で作中人物の体験を述べています。

⑤ このため、歌本文は、次の3つの文から成る、と理解できます。

文A 唐衣:相手に呼び掛けている。

文B ひもゆふぐれになる時は:文Cを言い出す状況を示す

文C 返す返すぞ人はこひしき:作者の主張を記す。

 そうすると、文Bと文Cのモデルの文に気が付きます。即ち、

文D ゆふぐれは人こひし:誰もがそのように思っている事がらのひとつ。

 動詞「こふ」の意は、「a慕い思う。b(異性を)慕う・恋する」(『例解古語辞典』)であるので、文Bと文Cは、文Dに、「返す返すぞ」の語句を加えて「こふ」の意をaからbに替えたとみることが出来ます。

 文Dは一般論です。それに文B+文Cは特別な二人の関係を重ねた表現とみることができます。

⑥ そうすると、この歌本文は、元資料の歌としては、「唐衣」の意は伝統的な外套を来た男性の着用者(上記③の第一に該当する)を意味し、作中人物は女性であって、逢えない辛さを相手の男性に訴えた歌であったのかもしれません。

 まだ相手に逢えない段階では難しいものの、仲違いした時での逢えない辛さを相手の男性に訴えた歌ではなかったかと推測します。

 例えば、元資料の歌として、現代語訳を試みると、つぎのとおり。初句にある「唐衣」は「ひもゆふ」(紐ゆふ・日も夕)にかかる枕詞という理解もありますが、今は枕詞にあたる語句もすべて有意として私は現代語訳を試みてきています(31文字しかないのだから無駄な語句は用いていない、と思います)。

  「唐衣を着て通ってくる方よ。日が西に傾いて夕暮れになってくると、いかにもいかにも人が恋しいことであるよ。」

 この(試案)は、久曽神昇氏の歌意を参考にしました。助動詞「き」はaの意で作者の体験を述べています。

⑦ これに対して、『古今和歌集』「恋一」に配列されている歌本文では、作中人物が男性であるので、「唐衣」は女性をさしています。現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 「美しい服を着ている貴方よ。日が西に傾いて夕暮れになってくると、いかにもいかにも人はみな恋しくなるのだ(私もだ。日々恋しく思っている)。」

「ゆふぐれは人こひし」という一般論を前提に置いた歌であり、助動詞「き」はbの意でだれもが抱く思いなのに、と述べることによって、作中人物も例外でないことを訴え、「恋ふ」意は恋の歌として貴方におくるのだから当然おくる相手を慕う意をも掛けていることになります。

⑧ このように理解すると、恋の始めの段階の歌でなくても、どの段階においても男性はこの歌を利用できるでしょう。「夕暮れ時は貴方が恋しくなる時間帯です(是非お逢いしたいものです)」の意を相手は汲み取ることが可能だからです。

 『古今和歌集』では「恋一」に配列していることで、恋の始めの段階の歌と固定していることになります。

⑨ また、歌本文すべてが引用文であるという理解も可能です。「私と逢うのを遅らせようと工夫をしているようですが、既に貴方はこのような気持ちではないのですか」と、男性が相手の女性に文とともに送ったという伝承歌という理解です。

 恋の始めの段階での歌としては、文につけた歌という事情を詞書に記さないと理解が困難です。ただ元資料の歌は、このように利用されていたかもしれません。

⑩ 竹岡氏は、「唐衣」を外国風の着物とみなし、「唐衣を着ながらその唐衣に自分の今の情を寄せて詠んだ歌と言えよう」、と指摘し、この歌を「唐衣」に寄せた恋の歌と理解しています。氏は、作中人物を女性と見立てているようです。そして、次のような現代語訳を示しています。

  「唐衣は、紐を結び、何度も裏を返すのだけれど――そうして日も夕暮れになる時は、かえすがえすあの人は恋しいのさ。」

 恋の歌として相手におくられる歌として考えると、このように理解した歌は、まだ逢えていない恋の始めの段階をすぎた「恋三」に配列して然るべき歌となるのではないか。

 なお、前後の歌との整合の確認は、後ほど(「6.」で)行います。

5.再考1-1-516歌

① 1-1-516歌の歌本文は、つぎのとおり。

    よひよひに枕さだめむ方もなしいかにねし夜か夢に見えけむ

 この歌本文にも、恋の進捗状況(即ち作中人物がこの歌を相手におくった時点)を直接指し示す語句はありません。

 初句~三句は、毎日寝る時の枕の向きに作中人物は悩んでいます。

 四句以下は「どのような向きに寝た夜の夢に(あなたと)出あったのか」と忘れたのを嘆いています。

 自分の夢の中に相手が訪れて来てくれてそれで夢に見る、と(いう俗信を)信じていた時代(竹岡氏の説明)ですので、途中迷わず訪れてくれるよう枕の向きを気にしているとみえます。

 なお、どのようにしたら夢の中に相手が訪れてくれるのか具体の方法にまで諸氏は論じていません。当時の歌や日記などに手がかりが残されていないのかも知れません。

② 作中人物を歌本文から推測すると、男性なら恋のどの段階でも、女性なら逢って後の仲違いなどした後であれば、この歌を詠って(あるいは文に付けて)相手におくることが出来そうです。

 しかしながら、「恋一」にこの歌は配列されているので、作中人物は恋の始めの段階にいる男性となるはずです。

③ 語句の確認をします。

「よひ」とは、「ゆふべ」から始まる夜を中心とする時間区分の二番目であり、「だいたい日没後、二、三時間のあいだ。日没後、夜中までともいう」時間帯です。次の時間区分は「よなか」です。(『例解古語辞典』)。

 男性でも女性でも、今夜の行動が決まってしまった後の時間帯です。逢うのか、今晩は一人寝るのか、が既に明確になっている時間帯です。

 三句にある「方」は、方角の意です。

 五句にある「見えけむ」の「みえ」は動詞「見ゆ」の連用形です。その意は、「a物が目にうつる・見える。b(人が)姿を見せる・現れる。c人に見えるようにする・見せる。d妻になる・嫁ぐ」です(『例解古語辞典』)。

「見ゆとは、」「見る」という動作が、自然のなりゆきとして成立する意です(『古典基礎語辞典』)。見る主体が自分であるとき、(自然に)目に入る、見ることができる、ものが現れる、人が来るなどの意(となり)、自分が相手の視覚にとらえられるときは、人に見られる、人に見せる、人に逢うなどの意(になり、視覚的用法から発して、特定の相手に会うところから、結婚する意、また世話を受ける意などでも用いられるそうです(『古典基礎語辞典』)。

 五句にある「見えけむ」の「けむ」とは、助動詞であり活用語の連用形につき、過去に実現した事がらについての推量の意を表します。

④ 歌の構成をみてみます。この歌本文は、二つの文から成る、といえます。

文A よひよひに枕さだめむ方もなし:作中人物の行動を詠う。毎夜枕の置き方に迷っている、と詠う。

文B いかにねし夜か夢に見えけむ:そのような行動となる理由を述べる。ベストな置き方を思い出せない、と作中人物はいう。

 文Aによって、恋の相手と作中人物はその夜逢うことがないのが、わかります。そして、過去何日もそうであったことも見て取れます。共寝を既にしているのかどうかは、この文だけでは限定できません。

⑤ 文Bは、共寝したときの枕の置き方ではなく、過去の夢で見たと思っている時の枕の置き方を問題としています。

 逢っていたら、そのときの枕の置き方を、作中人物は試すのではないでしょうか。

 確実に「自分の夢の中に相手が訪れて来てくれて、それで夢に見る」具体的方法は、当時確立していなかったようですが、作中人物は、このように、枕の置き方に頼ってみたけれど、甲斐なし、という結果であったことを相手に歌にして知らせています。

 

 文を交わし、次に夢で逢い、そのつぎには実際に、という順番で逢うことに近づくという手順を意識しているならば、この歌の作中人物は、まだ逢ってない恋の始めの段階にいる男性となります。

 逢って後に逢えなくなった人物が、逢うきっかけとして「夢に会う」ということを利用しようとした場合の行動も考えられます。その際は作中人物は女性でも男性でもあり得ることです。

⑥ この歌の作中人物が、恋の始めの段階にいるとして現代語訳を試みます。

 現代語訳は、竹岡氏のそれをベースにします。

 「毎夜、毎夜、枕(の方角)を定めようとしてもその方向も見当たらない。どのような向きに寝た夜に、貴方が夢に見えたのであろうか。」

 俗信に頼ってでも、逢いたいと詠います。そしてステップをあげたいと詠います。

⑦ この歌は「題しらず よみ人しらず」の歌であり、元資料の歌は、伝承歌です。

その伝承歌は、もともと女性が用いていたのかもしえません。事情があってその後逢えない段階の歌として、「いつお出でいただけるのでしょうか」と尋ねている歌として用いることができます。

 

6.再考 1-1-515歌と1-1-516歌の位置付け

① この2首は、ともに「題しらず  よみ人しらず」の歌で、元資料の歌は、伝承歌です。

 「恋一」に配列するにあたり、『古今和歌集』編纂者は歌意を上記「4.及び5.」で確認したように、限定しています。結果として、作中人物を男性として、恋の始めの段階(まだ逢うに至らない段階)での歌意とし、相手を信頼している状況での歌としています。

② この2首は、詠うにあたって、官人が常識と思っている一般論を述べ、わたしたちもそうではないか(そうありたい)と訴えています。

 1-1-515歌は、「夕暮れは人こいしい時間帯」であり、ましてや私は特別である、あなたに恋をしているのだから、と逢うことを懇願しています。

 1-1-516歌は、夢に会うという俗信にあやかりたいがままならいものの、逢いたいと懇願しています。

③ この2首の前後の各2首を再確認してみます。みな「題しらず  よみ人しらず」であり伝承歌です。

1-1-513歌の歌本文は、次のとおり。

 あさなあさな立つ河霧のそらにのみうきて思ひのある世なりけり

初句~二句は、官人にとってもその季節になればよく見る景のひとつです。河霧はそして「あさなあさな」日が昇るにつれて消えてゆき、いつもと変わらぬ地上の景色となります。

 つまり「あさなあさな」、貴方との関係に変化のない一日をまた作中人物は迎えています。それは貴方と私(作中人物)の仲と同じであり、後朝の別れの朝が叶わないのを不満とした歌です。「恋一」に配列してあるので、このように理解して良い歌です。

④ 1-1-514歌の歌本文は、次のとおり。

わすらるる時しなければあしたづの思ひみだれてねをのみぞなく

 この歌は、「あしたづ」の特徴ある生態を景としています。

 「あしたづ」は「葦の間にいるツル」の意であり、湿原や草原で産卵・子育てをするそうです。ペアは基本的には生涯解消されないそうですが、当時は雌雄共に営巣・抱卵を行うことで知られていて仲のよいカップルを連想していたのではないか。また、ペアで大きな声で鳴きかわす行動(鳴き合い)も官人は目にしていたのではないか。

 そうすると、三句から四句にある「あしたづの思ひ」とは、常にペアで行動しようとしているツルの意思を意味しており、作中人物の「相手をいつも慕い共に過ごす時間を大事にしたい気持ち」(「思ひ」)と重なります。

 景として詠っているのは、「あしたづのペアは互いの絆を忘れないで、鳴き合って確かめている」ような景であり、作中人物の気持ちは、「私は互いの絆を忘れないでいるのに貴方はそうでもなさそうなので泣けてくる、と詠っています。逢う約束を取り付けようと奮闘している作中人物は、「あしたづ」のペアに、あるべき二人の仲を象徴させています。

「あしたづ」の群れが飛んでいるのを景として詠っているのではありません。

「恋一」にある歌なので、作中人物は、男性で、まだ逢えない状況で文の遣り取りなどをしている段階におり、次のステップになかなか進まないことを嘆いているのが、この歌と理解できます。

⑤ この2首の次に配列されている2首(1-1-517歌と1-1-518歌)は次回確認しますが、景らしいことは詠わず、(恋の段階は多分恋の始めの段階における)自分の行動中心に詠っています。

⑥ このように、1-1-515歌の前に配列されている2首は、よく知られている自然界の景を詠い、作中人物の、次のステップに進まないことを嘆く歌となっています。

 1-1-515歌と1-1-516歌は、官人が常識と思っている一般論を述べ、わたしたちもそうではないか(そうありたい)と訴えています。

 この2首を単位とした3組の歌は、例を示し、世の常識を示し、それでも意が伝わらないなら何をしよう、という順に配列されており、作中人物の(見方によっては一方的な)不満がだんだん高まって行く状況をしめしているかに見えます。

1-1-517歌と1-1-518歌は、しびれをきらし、作中人物は直接行動を訴えているかに予想できます。

⑦ ブログ「わかたんかこれ・・・」をご覧いただき ありがとうございます。

 次回は、1-1-517歌以降を検討する予定です。

(2026/9/7  上村 朋)

付記1. 三代集の「からころも」表記歌について

①    「からころも」という語句は、『萬葉集』から歌に登場する。何度か検討してきたが、三代集の用例に関して、ブログ2019/7/29付けの「付記3.」の結果に一部修正をすることに今回(2026/8/30 pm)なり、集計表を下記の表に改める。

②   変更点は、次のとおり。

第一 本文で指摘した1-1-515歌:「からころも」の用例の分類を、「外套の意(単独)」から、「外来の服の意」に変更する。

第二 ブログ2025/5/5付け以降の3-4-47歌の検討で指摘した1-1-995歌:「からころも」の用例の分類を、「外套の意(単独)」から、「外套の意(着用者も)」に変更する。2019/7/28現在の1-1-995歌は、仮に「外套(単独)」に整理していた。

第三 1-1-576歌:今回「からころも」の用例の分類を、「外套の意(単独)」から、「外套の意(着用者も)」に変更する。

第四 1-2-1317歌:今回「からころも」の用例の分類を、「外套の意(女性も)」から、「外套の意(単独)」に変更する。作者は都を離れて旅をしたことを強調している。

第五 1-1-519歌:誤記であり、1-2-519歌の誤りであった。

①   三代集における「からころも」の意は、

外套:700年代において成立した「からころも」の定義であり、「官人の着用する胡服起源の外套その他の短衣の防寒に資する上着。

衣裳(美称):上記の外套の意を含まず、衣装一般の美称。(ただし外来の服のを除く)

外来の服:上記の外套や衣裳(美称)の意を含まず、外来した美麗な服。

がある。

外套の意の用例には、単独の意で用いられるほかに、(外套以外の)衣装や女性の意を掛けたり、その外套を着用している意を掛けている場合がある。

②    三代集における「からころも」の用例は全部で39例(首)ある(下表に示す)。

③    「からころも」が(外套の意のほかに)外套を着用している人物を指している用例は、今回2例増えて計16例となる。

16例のうち、よみ人しらずの歌は13例、作者名のある歌は3例である。即ち、1-2-529歌(桂のみこ)、1-2-746歌(右近)、1-3-327歌(つらゆき)である。

第六 「からころも」が外来の服という用例は、2例ある。即ち1-1-515歌(よみ人しらず) 、1-1-697歌(つらゆき)である。

表 「からころも」表記のある三代集の歌の「からころも」の意味別作詠時期別分類(2019/7/28現在の表を2026/9/7改めた)

時期

外套の意(官人の着用する胡服起源の外套その他の短衣の防寒に資する上着)

衣裳(美称)の意

外来の服の意

歌数の計(首)

単独

衣裳も

女性も

着用者も

 

女性も

 

~850

1-1-515

1-1-865

1-1-995

 

1-2-729(冬嗣)

 

1-1-375

 

1-1-995

 

 

1-1-515

 

  5

851~900

1-1-410(業平)

 

 

 

1-1-572(つらゆき)

 

  2

901~950

1-1-576(ただふさ)1-1-786(かげのりのおほきみ)

1-2-313

1-2-359

1-2-383

1-2-1317(女)

1-2-1329

1-3-149(つらゆき)

1-2-386(つらゆき)

1-2-660(つらゆき)

 

1-2-539

1-2-948

1-2-1317(女)

1-2-1316

(公忠)

 

1-1-576(ただふさ)

1-2-519

1-2-622

1-2-713

1-2-848

1-2-849

1-2-1328

1-2-529(桂のみこ)

1-2-746(右近)

1-3-327(つらゆき)

1-1-808 (いなば)

1-1-697(つらゆき)

 24

951~1000

1-2-1114(雅正)

1-3-1189

1-3-321

1-3-326(三条太后宮)

 

 

1-2-804(源巨城)

1-3-703

1-3-704

1-3-1225

 

 

 

  8

歌数(首)

 15

  1

 

  3

 16

 

  2

 

  2

 

39

注1)歌番号等は『新編国歌大観』による。

注2)「からころも」の意味の分類は次のとおり。なお、本文「4.③」参照

・外套:700年代におけるから「からころも」の定義:官人の着用する胡服起源の外套その他の短衣の防寒に資する上着

・衣裳(美称):上記の外套の意を含まず、衣裳一般の美称。(外来の服の意を除く)

・外来の服:上記の外套や衣裳の意を含まず、外来した美麗な服

・衣装も:外套の意のほか衣裳一般の意あり。

・女性も:外套の意のほか女性の意あり。

・着用者も:外套の意のほかその外套を着ている人の意あり。

注3)作者名のない歌は、よみ人しらずの歌である。

(付記 終わり   2026/9/7   上村 朋)

 

 

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集恋歌確認52歌その1 編纂意図を示す歌 

 前回(2026/6/29)に引きつづき『猿丸集』歌の再確認をします。今回から第52歌です。

1.経緯

 2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。第3歌から第50歌はそのとおりであり、第51歌は異なった。

(FIFAワールドカップ決勝は7月20日スペイン対アルゼンチンとなりました。三位決定戦と違い、対照的な守備方針の両チームに延長の末1-0でスペインが勝ちました。ともに素晴らしいパフォーマンスでした。ありがとう。)

2.『猿丸集』の第52歌 3-4-52歌とその類似歌

① 『猿丸集』の52番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-52歌  やまにはな見にまかりてよめる (第51歌の詞書と同じ)

    こむよにもはやなりななんめのまへにつれなき人をむかしと思はむ

 

古今集にある類似歌 1-1-520歌  題しらず     よみ人しらず

    こむ世にもはや成りぬらむ目の前につれなき人を昔と思はむ

 

 清濁抜きの平仮名表記をすると、二句の二文字と、詞書が、異なります。

② 下記のように確認をしたところ、今回の検討では、次のようになりました。

第一 この歌3-4-52歌は、『古今和歌集』の仮名序にいう「さま」が「そへうた」にあたる。そしてその意は、『猿丸集』編纂に関する述懐の歌であり、恋の歌ではない。類似歌1-1-520歌は、「自暴自棄になるのを、必死に思いとどまり、気持ちを整理し、望みを再確認している歌」なので恋の歌である。同仮名序にいう「さま」が「ただことうた」に該当する。にあたり、桜の花が終ろうとしているのを惜しむ歌である。

 即ち、この歌と類似歌とは趣旨が異なる歌であり、ブログ2019/11/4付けでの結論と同じである。

第二  この歌は、『猿丸集』の最後の詞書のもとにあり、最初の詞書のもとにある歌とともに編纂の意図・目的を示唆する。ブログ2020/5/18付けでの指摘は妥当であるが、現代語訳(試案)は改まった。

第三 この歌の現代語訳(試案)は、つぎのとおり。 ブログ2020/5/18付けでの(試案)を改めた。

 3-4-52歌 詞書(3-4-51歌 詞書に同じ) 「山に、花見に行き、詠んだ(歌)(数々の歌集があるなかの『猿丸集』に親しみ、詠んだ(歌))」

 同 歌本文: 「この『猿丸集』の歌を参考に『萬葉集』と『古今和歌集』が正しく理解してもらえるようになってほしい。すぐにでも。(そうなったら)今、理解されていない状況も、昔そんなこともあったのだ、と思えよう。」(表面上の意は「(花を見て思うのは)行きたい夜(訪ねる夜)にも早くなりきってほしい、すぐにでも。私につれない素振りの今の貴方を、昔そんなこともした人だ、と思えよう。」)

  (「そへうた」として理解できる歌である)

第四 類似歌の現代語訳(試案)は、再確認中であるが、現在のところは、次のとおり。それは、前回での「次の世第三案」である。

 1-1-520歌 詞書: 題しらず   よみ人しらず

 同 歌本文: 「行きたい次の世にも、早く変わってほしいものである(恋が成就できる雰囲気の世に)。そう、目の前において。そうなれば、今私の目の前の、私の愛情を受け容れてくれない人のいる世界は、昔のことになるのだから(しかし、自分の意志でゆけない次の世だから、まだまだ片恋は解消しないなあ。」

  (「こむ世」と表記された歌である。また、配列より、恋の歌であって「自暴自棄になるのを、必死に思いとどまり、気持ちを整理し、望みを再確認している歌」)

第五 『猿丸集』最後の詞書のもとにある歌群(3-4-51歌と3-4-52歌)は、この歌集編纂者による後世の読者へのメッセージとなっている。

3.再考3-4-52歌 

① 確認を、詞書より始めます。

 詞書は、3-4-51歌の詞書と同じであり、ブログ2026/6/29付けで再確認しました。『猿丸集』では最後の詞書です。

 現代語訳(試案)は、次のようになりました。なお、3-4-52歌本文を確認後に両歌本文との整合を確認することとします。

「山に、花見に行き、詠んだ(歌)(数々の歌集があるなかの『猿丸集』に親しみ、詠んだ(歌)」

② 『猿丸集』が誰かに編纂された歌集であれば、巻頭歌群と掉尾歌群によって編纂の趣旨を表現しているという仮説が成り立つと私は予想しています。対象の歌は、3-4-1歌と3-4-2歌並びに3-4-51歌と3-4-52歌です(ブログ2020/5/18付け参照)。

 詞書にある「山にはな見にまかる」とは、目的の山に咲いた特定の桜木が見頃と見通して出かけてゆく、ということを意味しています。そのため、「はな」とは、特定の桜木を指していることになります。

 だから、「はな」に暗喩があるならば掉尾歌群の歌において特定の歌集(『猿丸集』)をも示唆し得るとして、ブログ2026/6/29付けで得た現代語訳(試案)が、上記の(試案)です。

 詞書を上記の(試案)のもとで、3-4-51歌の歌本文の現代語訳(試案)が得られ、3-4-51歌は、類似歌と異なる趣旨を詠う歌であるものの、恋の歌ではない、という(3-4-50歌までの通例と異なる)理解になりました(ブログ2026/6/29付け参照)。

③ 次に、歌本文を再確認します。

 歌本文は、前回(ブログ2019/11/4付け)、つぎのように二つの文からなる、と理解しました。

文A こむよにもはやなりななん めのまへに: 詞書からの結論、決意あるいは予想

文B (めのまへに)つれなき人をむかしと思はむ: 文Aの再確認

       (同ブログ「11.⑧」より。)

 前回の検討で、同音異義の語句をいくつか確認しました。三句にある連語「めのまへ」もその一つであり、「a見ている、すぐ前方。眼前」と「b見ているうち。みるみる、」の意があります(『例解古語辞典』)。その二つの意を掛けている歌とみて、三句「めのまへに」は、上句にも下句にもかかるという理解です。

 三句を掛けているとして無理のない歌意となれば、その理解を採ってよい、と思います。

 そして、前回、次の現代語訳(試案)を得ました。

「(花を見て思うのは)行きたい夜(訪ねる夜)にも早くなりきってほしい、すぐにでも。(そうなったら)私につれない素振りの今の貴方を、昔そんなこともした人だ、と思えよう。」(以下「歌本文の前回の現代語訳(試案)」と称します。)

④ さて、この「歌本文の前回の現代語訳(試案)」は、その詞書にある「やま」が、「山」の意ではなく、「屋間、即ち建物と建物の間」の意であり、詞書にある「はな」に恋の相手の暗喩があるとみてのものでした。(同ブログでの第十一案。 同ブログ「12.⑤」に再掲。)

 この(試案)を得た後に、詞書の理解が上記①に示したように替わっています。

 そのため、今回、改めて現代語訳を試みる必要があるかどうかを確認し、その結果得られる現代語訳(試案)と詞書との整合と類似歌との関係を再確認することとします。

⑤ 上記①の詞書の現代語訳(試案)は、「はな」に、特定の歌集(『猿丸集』)の示唆があるとしたものです。

 その「はな」という語句は、歌本文には用いられていません。

 「はな」という語句と縁の深そうな語句(例えば、「いろ」、「さきみだる」、「ちる」、「うつる」、「ながめる」など)も歌本文には用いられていません。

 そのため、「はな」が「恋の相手」でも「『猿丸集』」でもそのほか何を示唆していても、歌本文の表面の歌意に影響を与えておらず、歌本文の理解は、同一であってもよい、といえます。詞書を無視しても或いは関係あるとしても、現代語訳(試案)は変わりようがない、ということです。

 詞書を無視した場合は、3-4-52歌本文は、類似歌のまさに異伝歌と言えます。

 詞書に関係あるとした場合は、詞書にある「はな」が「恋の相手」を示唆している、と理解した前回は、一言「はな」に触れた語句を付け加えた、(上記③に記した)「歌本文の前回の現代語訳(試案)」となりました。

⑥ 詞書の理解が改まったのですから、「はな」に特定の歌集(『猿丸集』)の示唆があるとして、一言「はな」に触れた現代語訳(試案)も可能に見えます。例えば、

「(『猿丸集』を見て思うのは)行きたい夜(訪ねる夜)にも早くなりきってほしい、・・・」

 しかし、『猿丸集』に関して示唆しようとしている事がらがこれではわかりません。   言葉を尽くした意訳が望ましく思えます。

 この歌の詞書には、その全体でもって、その文言を表面上追った意のほかに別の意が込められていました。

 3-4-52歌の歌本文も、一首全体の文言を表面上追った意のほかに別の意(ここでは、『猿丸集』に関する作者の思い)を加えた現代語訳を試みます。

⑦ このような理解を許す(あるいは求める)作詠方法の歌は、『古今和歌集』の仮名序では、「さま(和歌独自の、形式や或いは表現に関する詩句法など)がそへうたである歌」として述べられています(付記1.参照)

 竹岡正夫氏の表現を借りると、「そへうた」とは、(諸説が大体一致しているように)「一首全体がいわゆる暗喩になっている歌」であり、「一首全体の裏に作者の≪情≫が添えられている歌」です。

 そのため、上記①の現代語訳(試案)という理解をした詞書のもとにある歌として、歌本文は、上記③の「歌本文の前回の現代語訳(試案)」に「一首全体の裏に作者の≪情≫を添え」た文章を加えれば、3-4-52歌の現代語訳(試案)となり得ます。

⑧ 最初に、一首全体の文言を表面上追った意を再確認します。「歌本文の前回の現代語訳(試案)」の再確認です。

 いくつかの同音異義の語句が歌本文に用いられており、今回も同じ結論に至りました。

第一 初句にある「こむよ」は、動詞「来」の未然形+助動詞「む」の連体形+名詞であり、「来む世」と「来む夜」の二意があります。

「来む世」は、「来」の意を「来る」、「む」の意を「物事の実現予測する意・事態を不確かなこととして推量したりする意」とし、「世」を、「次の世」(作者が死んで後に行く世界を漠然という)の意となります。

「来む夜」は、「来」の意を(目的地に自分がいる立場でいう)行く」とし、「む」の意を「あることを実現しようする意思・意向を表す」意です。「来む夜」は、「行きたい夜」ということになります。 

第二 三句にある「めのまへ」は、上記③に記したように、2意があります。

第三 初句と五句にある「む」は、初句では(動詞「来」の意より)「意思・意向」の意にもなります。五句では五句「むかしと思はむ」とは、文Aをうけて当然視できることを言っていますので、「推測」の意です。

⑨ 3-4-52歌の表面上の歌意は、これまでの歌の例にならい恋の歌とすれば、逢うことが拒否されているにも関わらず相手におくった歌と理解できます。それも山に「はな」を見に行って、詠んだ歌です。

 山にある「はな」は、対岸の花であればそばに近寄れません。あるいは見に行くのに時間を要し道中の苦労もあります。それらから恋の相手のことを連想したのでしょうか。

 いづれにしても望みが叶うような返事を期待している歌であって、諦めたと通告している歌ではない、と言えます。

 それなのに、初句にある「こむよ」が(仏教でいうところの)来世、あるいは(俗信として単に転生する)「次の世」の意の場合、一度死ぬという仮定をおいて詠っているのは、相手も一度死ぬという仮定の歌となります。私は死んだ後でも貴方を待つという訴えは、怨霊になるというのと、どこが違うのでしょうか。現代で言えばハラスメントともつきまといとも取られかねない、詠いぶりです。

 歌本文において、文Aの「こむよ」と「めのまへ」及び文Cにある「むかし」とが、転生できるという認識のもとでの人の一生を単位とした時系列上での区分(類似歌におけるよくある理解)で歌を詠むよりも、月や季節を単位とする時系列上での区分で詠むほうが穏やかです。

 近々に逢えることを想定した「来む夜」として相手に自分の思いを訴えるほうが、作者に異常な狂気はないことが伝わると思います。この歌は相手(側)に示しているものであり、作者の願望を拒否する理由とされるような行為や文言は避けているはずです。

 また、同じ詞書のもとにある3-4-51歌との関係でも両歌が現世を舞台として相手に訴えるほうが、穏やかです。

 そのため、ここでは、恋の歌として、「来む夜」を採ります。

⑩ 「こむよ」とは、「行きたい夜」、「むかし」とは「こむ夜」が到来した時点からみた「むかし」であるので、この歌の作詠時点を指し、「めのまへ」は連語であって「見ているうち。みるみる」(文A)と理解できます。

 このため「歌本文の前回の現代語訳(試案)」は、妥当であると確認しました。

⑪ 次に、詞書の「数々の歌集があるなかの『猿丸集』に親しみ、詠んだ(歌)」として上記③の文Aと文Bの現代語訳を試みます。

 『猿丸集』は、「猿丸」という人物が作者に擬せられた歌集の体をとっていますが、作者自身が編纂した歌集ではなく、後年誰かが編纂した歌集ということは疑いがありません。

 その理由は、次のとおり。

第一 類似歌の多くを『萬葉集』か『古今和歌集』記載の歌となっているのは、それを事前に承知している人物が作者である確率が高い。だから、『古今和歌集』編纂以後の時代の人物が『猿丸集』歌の作者となります。しかし、その時代であれば、この歌集以外に「猿丸」が作者という歌に言及した古文書があってもよさそうな時代なのに、それがありません。

第二 『古今和歌集』の真名序に「(六歌仙のひとりである)大友黒主之歌、古猿丸大夫之次也」とある「猿丸大夫」という名は六国史に登場しません。「猿丸大夫」の活躍が、大友黒主と同時代としても、『猿丸集』のような内容の詞書をつけて歌を記録する習いがあったことが疑わしいところです。

第三 和歌に関する古文書で、「猿丸」(あるいは猿丸大夫)が具体の歌の作者名としてはじめて登場するのは、藤原公任が撰んだ『三十六人撰』(11世紀初頭成立)が初めてです。しかし、その歌は『古今和歌集』の巻四「秋歌上」にあるよみ人しらずの歌1-1-215歌です。第二の人物(「猿丸大夫」)の歌であったとしても『古今和歌集』編纂時点には作者名も伝えられていなかったことになります。

第四 『三十六人撰』成立頃、『萬葉集』の解読はまだ不十分であり、『古今和歌集』も個々の歌本文のみに拘り配列の考察がまだすすんでいませんでした。

これらの理由から、「猿丸」の名が歌人という認識が生まれて以後(少なくとも『三十六人撰』編纂以後)に誰かが編纂した歌集が『猿丸集』といえます。

 編纂にあたり、一定の編纂方針を設け、歌の配列や表記方法などに反映しているはずです。

⑫ 『猿丸集』の各歌は、ブログ「わかたんかこれ・・・」でのこれまでの各歌とその類似歌の検討により、すべての歌が、類似歌とは詞書が異なり、かつ歌本文の意も異なっているのを確認しています。歌本文にある同音異義の語句が詞書とともに曲者です。

 『猿丸集』が編纂された当時、中国における漢詩集に対して、大和の歌に関する歌集で当時尊重されていた歌集は、勅撰集と信じられていた『萬葉集』と『古今和歌集』が第一です。両歌集とその歌集にある歌の正しい理解のための提案を遠回しにこの歌集はしていることになります。

 歌本文での一、二文字の違いで詞書に基づき歌意がはっきり異なる例を52例示した『猿丸集』は、『萬葉集』などの理解においても詞書を重視した見直しを提案しているに変わりありません。

 そのようにして、『三十六人撰』にある人物であって詠った歌が知られていなかった猿丸の名を冠して編纂されたのが『猿丸集』ではないか。

⑬ そうすると、『猿丸集』編纂者は、序を設けないとするならば、その編纂意図を巻頭や掉尾の歌に忍ばせているのではないか、と推測します。

3-4-52歌は「そへうた」としてその役割を担っている一首ではないか。

詞書にある「はな」が示唆するのは、『猿丸集』ではなく、類似歌のある主たる歌集(『萬葉集』と『古今和歌集』)かもしれません。

上記③の文Bにある「つれなき人」は、『萬葉集』と『古今和歌集』の歌を誤解している人物(複数)を示唆していることになります。

現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 文A この『猿丸集』の歌を参考に『萬葉集』と『古今和歌集』が正しく理解してもらえるようになってほしい。すぐにでも。(詞書を踏まえて期待を述べる)

(「歌本文の前回の現代語訳(試案)」は、「(花を見て思うのは)行きたい夜(訪ねる夜)にも早くなりきってほしい、すぐにでも。」)

 

 文B (そうなったら)今、理解されていない状況も、昔そんなこともあったのだ、と思えよう。(文Aが実行された後に確実に生じると推測していることを述べる)

(「歌本文の前回の現代語訳(試案)」は、「私につれない素振りの今の貴方を、昔そんなこともした人だ、と思えよう。」)

 

⑭ 3-4-51歌の現代語訳(試案)も、「そへうた」でした(ブログ2026/6/19付け参照)。『猿丸集』が正しく理解されることを願っている歌と理解しましたが、願っているのは『萬葉集』と『古今和歌集』のことであったかも知れません。

3-4-51歌とともに、3-4-52歌は、この歌集編纂者の『猿丸集』の後世の読者へのメッセージとなっています。

⑮ 『源氏物語』などにみるように歌のやりとりが官人とその関係者との間では、知名度の高い歌(場合によってその著名な句のみ)を口にすることで、当事者が連想する事柄や話題となっている人物の行動(場合によっては歌意に反対の行動)を示すことが出来ていた時代です。それは、自由に異伝歌や類歌が生まれやすい環境にあったとも言えるのではないか。

『猿丸集』の詞書は、詠作した人物が詠んだ歌を送る事情を、記しています。おくった歌は一見類似歌の異伝歌のような歌を用いて、相手に意思表示をした例になっている、といえます。

⑯ 次回は、類似歌を再確認し、3-4-52歌とともに詞書との関係も再確認します。

 今回の作業で確認した結果をまとめると、上記「2.②」のとおりです。

 ただし、その第五に記した類似歌に関する現代語訳(試案)は、再確認前のブログ2019/10/28付けでの「次の世第三案」を仮に記載しています。その(試案)は、『古今和歌集』の配列上からは、作者の「思い果て無し」の気持ちを詠っています。

 ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

(2026/7/20  上村 朋) 

付記1.古今集仮名序にいう「さま」について 

 第一 六つのさまとは、「≪情≫と≪景≫との布置配合・浸透のしかたに六つの種類があるということ。その観点は、王昌齢の「十七勢」や釈皎然の「十五例」に類するもの。」(竹岡正夫『古今和歌集全評釈 上』97p)

 第二 情とは、心に思うこと。景とは、見る物聞くもの。歌とは情を景に託して表現したもの(同上96p)。

 第三 仮名序には、その冒頭に、「(やまと歌は)、世の中にある人、ことわざ(事業)しげき(繁き)ものなれば、心におもふことを、見るものき(聞)くものにつけていひだせるなり」、とある。

(付記終わり  2026/7/20  上村 朋)

 

わかたんかこれ 猿丸集恋歌確認51歌 「さくらばな」は猿丸集

  前回(2026/6/2)に引きつづき『猿丸集』歌の再確認をします。今回は第51歌です。

1.経緯

 2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。第3歌から第50歌はそのとおりであった。

2.『猿丸集』の第51歌 3-4-51歌とその類似歌

① 『猿丸集』の51番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-51歌  やまにはな見にまかりてよめる

      をりとらばをしげなるかなさくらばないざやどかりてちるまでもみむ

 

古今集にある類似歌 1-1-65歌  題しらず     よみ人しらず

      をりとらばをしげにもあるか桜花いざやどかりてちるまでは見む

 

 清濁抜きの平仮名表記をすると、二句の四文字と五句の一文字と、詞書が、異なります。

 

② 下記のように確認をした結果は、次のようになりました。

第一 この歌3-4-51歌は、『古今和歌集』の仮名序にいう「さま」が「そへうた」にあたる。そしてその意は、『猿丸集』に関する述懐の歌であり、類似歌1-1-65歌は、同仮名序にいう「さま」が「ただことうた」にあたり、桜の花が終ろうとしているのを惜しむ歌である。

第二 このため、この歌と類似歌は趣旨が異なる歌であり、前回(ブログ2019/10/19付け)の結論と同じである。しかし、この歌の趣旨は前回と異なり、また、同2020/5/18付けでも指摘したように、恋の歌ではない。

第三  この歌は、『猿丸集』の最後の詞書のもとにあり、最初の詞書のもとにある歌とともに編纂の趣旨を示唆する。ブログ2020/5/18付けでの指摘は妥当である。

第四 この歌の現代語訳(試案)は、つぎのとおり。 ブログ2020/5/18付けでの(試案)を改めた。

 3-4-51歌 詞書 「山に、花見に行き、詠んだ(歌)(数々の歌集があるなかの『猿丸集』に親しみ、詠んだ(歌))」

 同 歌本文: 「もし折って取ったなら、(花を)手放すのはしのびないと惜しんでいるのであろうか。桜の花よ。それじゃ宿をお前に借りて散る切るところまでも見とどけよう(『猿丸集』を後世に伝えないならば、残念なことになってしまうなあ。『猿丸集』よ、私が後世に残す工夫をするから、『猿丸集』が正しく理解されることも実現するであろうよ)。」

  (そへうたとして理解する)

第五 類似歌の現代語訳(試案)は、つぎのとおり。前回に同じである。

 1-1-65歌 詞書: 題しらず   よみ人しらず

 同 歌本文: 「もし折って取ったなら、いかにも惜しむような様子だなあ、あの桜の花は、さあ、それじゃ宿を借りて、散るところまでは見とどけよう。」

第六 『猿丸集』最後の詞書のもとにある歌群は、(3-4-52歌の確認はこれからですが)この歌集編纂者の後世の読者へのメッセージとなっている可能性があります。

 

3.再考3-4-51歌 

① 確認を、詞書より始めます。

 詞書は、文字を追ってみると、作者の行動を二つ記している、と理解できます。

 即ち、「やまに」花見を目的として行ったことと、行って見聞したことに起因して歌を詠んだこと、の二つです。

 この詞書は、次の歌3-4-52歌の詞書でもあります。『猿丸集』では最後の詞書となります。

② 『猿丸集』は、52首からなる、猿丸(大夫)という人物に仮託した歌集と言われ、異伝歌を集めた歌集ともいわれてきています。しかし、遥かに後人が編纂した『人丸集』や『赤人集』と異なり全部の歌が新たな詞書を付けて集録されており、他人が編纂した歌集としては変な歌集です。

 そのため、私は異伝歌といわず、「『猿丸集』の歌本文」と言い、異伝歌を生んだという元資料の歌をさして(『猿丸集』の歌本文の)「類似歌」と称して検討してきました。

 ここまで検討してきたところでは、『猿丸集』の歌は3-4-50歌まで、すべて、的確な表現の詞書のもとにある新たな歌ばかりを配列していました。

 古来の歌の異伝歌を配列している歌集ではなく、歌意は、その古来の歌(類似歌)と異なっていました。そこに編纂者の意図を感じます。

 そして、『猿丸集』が誰かに編纂された歌集であれば、巻頭歌群と掉尾歌群は、組み合わされて編纂の趣旨を表現しているという仮説が成り立つことを確認しました。対象の歌は、3-4-1歌と3-4-2歌並びに3-4-51歌と3-4-52歌です(ブログ2020/5/18付け参照)。

③ 今回、仮説が成り立つ理由として、さらに、作詠時点における作者とその相手の人物との物理的な距離感の違いを、加えることができます。

 恋の歌としてみると、3-4-3歌から3-4-50歌は、作詠時点において作者(作中人物)とその相手の人物は同席していません。そして作者は同席できることを願い男女の仲が続くことを願っています。

 それに対して、3-4-1歌と3-4-2歌と3-4-51歌は同席しているかに詠い、3-4-52歌はこの世で逢えないことを観念しているかに詠い、作詠時点における作者とその相手の人物との距離感が全く違います。つまりこの4首の歌は、詠う目的がほかの歌とは異なっている(恋の歌ではない)、と理解可能です。

 そうであるならば、この4首は歌集である『猿丸集』において、最初にある歌群と最後の歌群を構成するとみなすことができますので、歌集編纂者が、編纂にあたっての考え方を記しているのではないか、と推測できます。

④ だから、3-4-51歌と3-4-52歌は、恋の歌の理解が可能であっても、そのように理解するのは『猿丸集』の歌として誤りである、と思います。

 そのため、この詞書は、3-4-50歌の詞書と同様に、「やま」は「屋間」ではなく「山」の意であり、「はな見に」とは「花の咲いている時期の桜の木々を目前に見ようとして」の意である、と素直に理解してよい、と思います。

 即ち、現代語訳(試案)は、次のとおり。

 「山に、花見に行き、詠んだ(歌)」

 「山」とは、『猿丸集』編纂当時(例えば『古今和歌集』編纂後から藤原公任の『三十六歌仙』選定までの期間)、平安京に住む官人にとり、居宅や勤務先とともに日常の生活圏にある存在です。寺院があり、別荘を設けるところのひとつであり、都と地方との境である関所がある空間をもイメージさせる詞です。

 だから、「やま」は、身近な存在です。

⑤ 詞書は、花見の対象の「はな」は、「やま」にある「はな」と言っており、特定の桜木が花見の対象です(ブログ2020/5/18付け「9.」参照)。

「はな」に暗喩があるならば、その候補は、(作者を男性とみて)特定の女性と、歌集の最後の詞書であることから当該歌集(『猿丸集』)自体もあるとも指摘しました(同上)。

 後者の場合、この詞書には、次のような暗喩がある、と理解することが『猿丸集』の最後の詞書であるので可能です。

「数々の歌集があるなかの『猿丸集』に親しみ、詠んだ(歌)」

そうすると、歌本文にもこれに照応する暗喩があるはずです。

⑥ 次に、歌本文です。

 歌本文は、つぎのように四つの文からなる、といえます。

文A をりとらば : 作者の特定(複数も可)のサクラの花に対する行動を仮定している(文Bの前提条件)。

文B をしげなるかな :  その仮定の行動に対する、そのサクラあるいはサクラの花からみた批判を、作者が推測している(それはサクラの木を擬人化していることになる)。

文C さくらばな : 作者の、そのサクラへの呼び掛け。

文D いざやどかりてちるまでもみむ :作者が実際に行おうとする行動を宣言する。

 詞書にあるように「花見に行き」、そのときの自問自答を歌にしているようにみえます。

⑦ この四つの文を再確認します(歌本文にある暗喩は後程確認します)。

 作者が文Aで仮定した「をりとる」という行為は、見に行ったその山でいくつかの枝を折り取ることであり、見た多くの桜木からそれぞれ一枝づつ折り取る、というようなことではないでしょう。作者にとり、「をりとる」目的は花を愛でることであり、その本数は、瓶に挿す程度の量であり、ご近所に配るとしても、宴席に提供するとしても量は多寡が知れています。

 一枝、二枝でも折り取ることが「をし」と思うのは、そすると、作者ではなく、沢山花を咲かせている枝のあるサクラの木の感覚ではないか。枝を折られるのは花が散ってしまうことに変わりありませんから。

 類似歌においては、竹岡正夫氏が「枝を折り取られること」をサクラの木自身が「をし」と思っている、と指摘しています。類似歌の二句の主語は作者であると氏はみています。

⑧ この歌と類似歌での作者の思いは異なります。

 この歌の文Bでは「をしげなるかな」とあり、類似歌の二句では「をしげにもあるか」とあります。そして両者において「をしげ」は同じ理解(サクラの木自身の思い)であっても、歌の作者の思いは「なるかな」と「にもあるか」と異なっています。

 助詞「かな」は、体言や活用語の連体形について、詠嘆的に文を言い切るときに用いられる語句です。

 助詞「か」は、係助詞であれば体言や活用語の連用形について疑問の意を表します。ここでは、動詞「あり」の連体形についているので、終助詞として、「a感動文として、文を言い切るのに用い、感動の意を添える。b疑問文として、文を言い切るのに用いられ、疑問の気持ちを添える」という2意があります(『例解古語辞典』)。

 文Dからは作者も散るのを急かせる気はない、と推測できます。このため、文Bは、まだ咲いている枝の一部をサクラの木から折り取るのは花を散らしてしまうことと同じであるので、未だ散るまいと努力しているサクラの木にとっては不本意なことをされると取られてしまうのかなあ、と詠嘆的に言っている、と理解できます。

⑨ 類似歌である1-1-65歌の竹岡正夫氏の現代語訳は次のようなものです。

「もし折って取ったなら、いかにも惜しむような様子だなあ、あの桜の花は、さあ、それじゃ宿を借りて、散るところまでは見とどけよう。」

 「にもあるか」の「か」は、感動の意と理解しているようです。

⑩ 文Cは、桜花への呼び掛けと理解できます。

 思いなおして、桜木に呼びかけ、桜木の気持ちに同調し、手折るのは止め、散り切るまでをみまもることにする、と桜木に告げたのが文Dではないか。

 文Dには「ちるまでもみむ」とあり、見とどけようとしていることが、桜花の散る状況のほかにも作者にはあるのではないか。つぼみのふくらみ具合も愛でたように風に抵抗しつつ散って行く様子も愛でたい、という気持ちを作者は持っている、と思えます。

⑪ 以上の再確認から、この歌の現代語訳を試みると、次のとおり。

「もし折って取ったなら、(花を)手放すのはしのびないと惜しんでいるのであろうか。桜の花よ。それじゃ宿をお前に借りて散る切るところまでも見とどけよう。」

作者は、散らさざるを得ない桜木の味方をしたい、という気持ちではないか。

⑫ この歌を、このように理解すると、類似歌と同じく桜の花が終ろうとしているのを惜しむ歌と理解できます。

 さらに、文Cの「さくらばな」が女性を示唆しているならば、この歌は「やどをその花に借りよう」というのですから、一つの部屋に二人が居るのがもう許されているかの詠いぶりです。これは、3-4-50歌までの作詠時点における男女の関係とだいぶ異なります。

 これは、上記⑤で指摘した「はな」の暗喩が「(作者を男性とみて)特定の女性」の場合の歌本文の理解、といえます。

 しかし、歌集の最後の詞書のもとにある歌本文の役割は希薄です。

 なお、「をりとる」ということが、男女の仲を裂いていたものを力づくで取り除くことを示唆しているという理解をすると、「をしげにもあるか」以下の示唆するところがはっきりしません。

⑬ 詞書が歌集の最後の詞書であることを重視して、「はな」の暗喩として上記⑤で指摘した『猿丸集』自体であるとすると、文A~文Dは別の理解となります。

 文Aは、『猿丸集』を折り取る、即ち、「『猿丸集』を後世に伝えない(ならば)」、という文Bの前提条件となります。

 文Bは、それは、「をしげなり」という評価に(残念ながら)なってしまう、と詠嘆的に作者は推測しています。

 文Cは、『猿丸集』よ、という呼びかけです。

 文Dの「やどをかり」とは、一時留まる、即ち『猿丸集』の編纂を完成して後世に残すことを暗喩しています。

「ちるまでもみむ」とは、『猿丸集』(の提起している事がら)の理解の進むのも見るだろう、ということになります。

 助動詞「む」は、「a物事の実現を予測するなどの意を表す  bあることを実現しようとする意志・意向を表す」意があります。ここでは将来のことですからaの意を採りました。

⑭ そうすると、歌本文全体の暗喩はつぎのように理解できます。

 「『猿丸集』を後世に伝えないならば、残念なことになってしまうなあ。『猿丸集』よ、私が後世に残す工夫をするから、『猿丸集』が正しく理解されることも実現するであろうよ。」

 即ち、『猿丸集』最後の詞書のもとにある歌群は、この歌集編纂者の後世の読者へのメッセージとなっています。

(ブログ2020/5/18付け「10.③」に示した 3-4-51歌の現代語訳(試案)別案(歌本文すべてが述懐の歌と理解した「掉尾前51歌の新解釈」の現代語訳をこのように改訳します。)

⑮ このような理解をする歌は、『古今和歌集』の仮名序にいう「さま」が「そへうた」の歌に該当します。

 前歌3-4-50歌も、『古今和歌集』の仮名序にいう「さま」が「そへうた」でした。

 この歌の現代語訳(試案)は、前歌3-4-50歌にならい、次のように改訳します。

詞書: 「山に、花見に行き、詠んだ(歌)(数々の歌集があるなかの『猿丸集』に親しみ、詠んだ(歌))」

歌本文: 「もし折って取ったなら、(花を)手放すのはしのびないと惜しんでいるのであろうか。桜の花よ。それじゃ宿をお前に借りて散る切るところまでも見とどけよう(『猿丸集』を後世に伝えないならば、残念なことになってしまうなあ。『猿丸集』よ、私が後世に残す工夫をするから、『猿丸集』が正しく理解されることも実現するであろうよ)。」

 そして、また次の3-4-52歌も、『猿丸集』の最後の詞書の歌であるので、「さま」が「そへうた」であろうと、予想します。

4.再考1-1-65歌

① 3-4-51歌の類似歌は、『古今和歌集』巻一にある1-1-65歌です。

 その理解は、前回(ブログ2019/10/19付け)では、巻一の配列を確認し、1-1-65歌と1-1-66歌を、「いよいよ散り始めた桜に対してまだ楽しむ方法を2案提案している一対の歌と認めたうえで、竹岡正夫氏の現代語訳を採りました。

 その歌本文は、上記「3.⑨」に引用しました。詞書は、「題しらず  よみ人しらず」です。

 二句にある「をしげにもあるか」の「か」は詠嘆の助詞と氏は理解しています。

② 氏は、「「をしげ」とは、折り取ると、桜が惜しむ、そんな様子にみえるというのである」と指摘しています。

 配列からの考察を氏は示していませんが、散るのをサクラ自身が惜しんでいるという思いが作者にある、という指摘は妥当な理解である、と思います。

 久曾神昇氏は、「をしげ」と思うのは作者自身とみなしています。

③ なお、この歌と対となって配列されている歌は次のとおり。

1-1-66歌 題しらず   よみ人しらず

   さくらいろに衣はふかくそめてきむ花のちりなむのちのかたみに

 

5.再考この歌と類似歌を比較すると

① このような確認をした結果、この歌3-4-51歌と類似歌1-1-65歌は別の歌であり、この歌は類似歌の異伝歌ではありませんでした。

② 二句の文が異なるのは、作者の意図が異なっていることの反映です。

③ それぞれの歌集での部立て(ただし部立てがある場合)と当該歌の詞書及び前後の歌の配列順から導かれた理解による結果といえます。それぞれの歌集の編纂方針が明確にある、といえます。

④ 今回の作業で確認した結果をまとめると、上記「2.②」のとおりです。

ブログ「わかたんかこれ ・・・」   をご覧いただき、ありがとうございます。

 次回から3-4-52歌を再確認します。

(2026/6/29  上村 朋)

 

わかたんかこれ 猿丸集恋歌確認50歌その2 みぬ人は誰

  前回(2026/6/2)に引きつづき『猿丸集』歌の再確認をします。今回は第50歌の二回目です。

1.経緯

 2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。第49歌まではそのとおりであった。

2.再考3-4-50歌 (承前 なお、①を再掲し、②は今回の修正後を掲出する)

① 『猿丸集』の50番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-50歌  はな見にまかりけるに、山がはのいしにはなのせかれたるを見て

   いしばしるたきなくもがなさくらばなたをりてもこんみぬ人のため

 

古今集にある類似歌 1-1-54歌  題しらず     よみ人しらず

   いしばしるたきなくもがな桜花たをりてもこむ見ぬ人のため

 清濁抜きの平仮名表記をすると、五句の一文字と、詞書が、異なります。

② 下記のように確認をした結果は、次のようになりました。

第一 この歌3-4-50歌は恋の歌であり、類似歌1-1-54歌は、四季のひとつである春に咲くサクラへの思いを詠う歌である。このように二首の歌は、趣旨が異なる歌であり、この結果は、前回の結論と同じである。

 具体には、この歌は、思いを寄せる人に近づきがたいのを嘆く、恋の歌であり、類似歌は、桜を皆で愛でる春の歌である。

第二 この2首の現代語訳(試案)は、理解が深まり、それぞれ改訳となった。つぎのとおり。

 3-4-50歌 花見に行ったところ、山中を流れる川にある石に、花がせき止められていたのを見て(詠んだ歌)   

「石の上を激しく流れ落ちる滝(石の上を走るように流れる滝」)が無ければなあ。サクラの花は、手折ってこようものを。このサクラを見てない人のために(歌全体に暗喩がある。滝のように遮っているような存在が無ければなあ。サクラの花を折り取ってこようものを。まだ花を見ることも叶わない私のために。)」 

1-1-54歌 題しらず  よみ人しらず  

「石の上を激しく流れる奔流がないわけにもいかぬかなあ。あの桜花は、せめて手折ってでも来ように。この景を見ないという人のために。」

第三 この歌の歌本文にある「はな」には、憧れの女性の暗喩があるので、この歌は恋の歌となっている。この歌は、『古今和歌集』の仮名序にいう「さま」が「そへうた」にあたる。

第四 類似歌は、『古今和歌集』の部立て「春歌上」にある歌であり、春にサクラとの出会いにより満足感を得たいと詠う。歌全体に暗喩はない。

第五 類似歌のある『古今和歌集』の巻一の配列は、歌番号が奇数の歌と次の偶数の歌を一対として季節の推移を追って配列している。類似歌1-1-54歌は、1-1-53歌とで一対となっている。

3.再考 類似歌1-1-54歌及び対となっている1-1-53歌 

① 前回1-1-50歌を確認しました。次に、類似歌です。

『古今和歌集』の部立て「春歌上」に配列されている歌です。

「春歌上」の配列をみると、梅の景を詠う歌が終わり、題詞に「うゑたりけるさくらの花さきはじめたりける」とある1-1-49歌から桜の景を詠う歌が続き、その6番目の歌が類似歌1-1-54歌です。

 桜の景を詠う歌は「春歌上」の最後まで続き、歌群が二つ認められます。即ち、1-1-60歌までの歌群とそれ以降の歌からなる歌群です(付記1.参照)。

 仮名序の和歌の定義に従えば、この歌は、春という時期における「見るものきくもの」につけて「心におもふこと」を詠んだ歌のうち、「見るものきくもの」が桜に関するもののはずです。

 「心におもふこと」とは、桜に関する景に触発された「喜び、感動、発見、感謝、希望、諦観、不安、一体感、共感、開放感、安心感、悲しみ、憂愁、決意、あるいは怒り」などの何れかかその複合ではないか。

② 部立て「春歌上」は、奇数番号の歌とその次の偶数番号の歌とが一組となって、ある主題を詠っています。今回再確認しました(付記1.参照)。

 桜は国内に自生の植物(品種はヤマザクラ,オオシマザクラなど9種)であり、『古今和歌集』の編纂者の時代には庭園に配する植物のひとつとなっていました。

 今回確認したところ、原則として自生している山の桜と身近に見る桜(庭園・花瓶・屏風絵などにあるサクラ)との各1首で一組となって配列され、1-1-60歌までの歌群は、咲いた桜を景とした歌群として各組に主題がありました(付記1.参照)。

 1-1-54歌は1-1-53歌と対となっている歌であり、以下に検討した結果、主題は、毎年巡り来る桜に出逢えた喜び・感動・感謝という思いであり、さらに大満足を得たいという思いです。前者は自生する山の桜の景で、後者は身近に見る桜の景を詠っています。 

③ 歌集の順番に従い、対となっている1-1-53歌から確認します。

1-1-53歌 なぎさの院にてさくらを見てよめる  在原業平朝臣

   世の中にたえてさくらのなかりせば春の心はのどけからまし

 詞書を最初に検討します。

『古今和歌集』の部立て「春歌上・下」の詞書で、単に「さくら(のはな)をよめる」という表記もあるなかで、「さくらを見て」とある詞書が9題あります。みな作者が目視したことに起因して当該歌が詠まれたことを明示した詞書といえます(付記2.参照)。

④ 語句の確認をします。

 「なぎさの院」とは、現在の枚方市にあった天皇家代々の所有地を言い、作者業平がお供するなどした惟喬親王(これたかのみこ)が専ら利用していた時期があります。

「なぎさの院にて」とは、その所有地(当然宿泊可能な建物群などがあります)に赴いて、ということです。そこで作者業平がとった行動は、第一に「さくらを見て」、第二に「(この歌を)よめる」(即ち披露した)、ということです。

 『古今和歌集』記載の歌(部立て「羇旅歌」にある1-1-418歌)によれば、業平は惟喬親王のお供でなぎさの院に宿泊したことがあります(付記3. 参照)。

 その惟喬親王(承和11年(844)~寛平9年2月20日(897))は、857年元服し、四品に任じられ、858年大宰権師、872年(28歳)に病のため出家し小野に隠棲され、その後、山崎・水無瀬にも閑居したといわれています。

 母は更衣紀静子です。病弱である父の文徳天皇(858年薨去)が一度は皇位継承者にと考えたことがある長男です。なお、皇位を継いだのは母が藤原良房の娘明子である四男でした(在位858~876年の清和天皇)。惟喬親王の歌は『古今和歌集』に2首あります(1-1-74歌、1-1-945歌)。

 作者である在原業平(天長2年(825)~元慶4年(880))は、惟喬親王より19歳年上であり、平城天皇の孫のひとりであり、兄行平(ゆきひら)とともに在原の姓を賜っています。

⑤ この詞書は、『古今和歌集』にある業平が作者である歌の中では、費やしている文字数が大変少ない詞書のひとつです。

 詠まれた(披露した)場所と、詠むきっかけになったらしい「さくらを目視した」ということだけを記しています。

 披露した場所がなぎさの院なので、この歌は、公的な行事や会合で披露した歌あるいは天皇へ奉った歌ではない、と言えます。

 「さくらを目視した」と記したのは、作詠時点が桜の花が咲いている時点であることを示しています。そして、桜の形状・所在地に言及していないので、この歌は、特定の桜の形状に注目した歌でもなく、特定の日時や行事において披露された歌でもない、ということも示しています。

 この詞書は、そのため、惟喬親王や業平の境遇が歌本文の理解に直接関係ないことを明言している、と理解できます。

⑥ 現代語訳を試みると、次のとおり。

「なぎさの院において、桜を見て詠んだ歌   在原業平」

 詞書において割愛しているものを改めて例示すると、例えば、業平がなぎさの院に赴いた理由、披露した際同席していた人物あるいはこの歌をおくった人物、目視したさくらの状況(自生のサクラ、植えたサクラ、屏風絵に描かれたサクラ、宴の席の花瓶に活けてあったサクラ、)などです。それらに関係なく詠われた歌である、と理解できます。

⑦ 次に、歌本文を検討します。反実仮想の文章であり、二つの文からなります。

文A 世の中にたえてさくらのなかりせば:論を立てる前提の仮定を設定している。

文B 春の心はのどけからまし:文Aの仮定における作者の思いを示す。

 文Aは、春一斉に咲くサクラという植物の存在を否定する、という仮定です。誰もが春にサクラという植物に出あわなかったならば、という仮定です。

 文Bにある「春の心」とは、竹岡正夫氏は「春の風物にとけこむ平安人の気持ちをさす」と指摘しています。漢語「春心」とは異なる」(小島憲之氏)とか、「春の季節による心のおもむき」(久曾神昇氏)という指摘があります。

 文Bにある形容詞「のどけし」とは、「aのどかだ・うららかだ。bゆったりしている・落ちついている。cおうようだ・のんびりしている。」意があります(『例解古語辞典』)。

 この歌本文は、『伊勢物語』にも登場し、「なぎさの院」には親王が狩のため宿泊され、その際連れてきた人物が詠んだ歌となっています。

⑧ 竹岡正夫氏は、この歌について、『余材抄』の「咲をまち、ちるををしみ、さかりなるほども雨をいとひ、かぜをいとひおそれなど、(桜を)愛するあまりに心のいとまなき」より詠んだと解しているのが素直であり従うべきである、と指摘しています。

『余材抄』の理解は、部立て「春歌上」の配列よりこの歌を見ると(付記1.参照)、妥当なものである、といえます。

現代語訳は、竹岡正夫氏の訳を採ります。

「世の中にぷっつりと桜がなかったなら、春の気分はさぞのどかであろうものを。」

 

 氏は、一首の内容からいえば初句から二句にある「世の中にたえて」という語句はなくてよいもの、とも指摘しています。しかし、なぎさの院の桜を対象に詠った歌ではないことがこの語句により明確になっており、詞書のもとにある歌には、あるべき語句です。

⑨ 作者業平は、自分の思いを詠っているはずです。

詞書によれば、作者業平は都を離れて(他人の所有地である)なぎさの院にわざわざ来て桜を楽しんでいるのですから、一人で来ていたのではなくこの歌を披露する相手がいた、ということになります。

 業平は、世事にいそがしく桜を十分楽しめない人が多いのにもかかわらず、幸いにして桜を今年も満喫しているのですから、毎年巡り来る桜に出逢えた喜び・感動・感謝という思いがこみ上げたのではないか。

⑩ 『古今和歌集』は、集められた歌(元資料)から一定の方針のもとで歌を撰び配列している歌集です。だから、元資料の作詠事情がすべて『古今和歌集』の詞書に反映されていると限りません。

 この歌も同様であり、元資料においては「桜」が誰かを示唆している可能性があるかもしれません。しかし、『古今和歌集』の1-1-53歌は、その詞書により歌本文にそのようなことは持ち込まれていません。

 元資料の歌が、惟喬親王が主催した花見の席で披露されたのであれば、「桜」に藤原氏という暗喩を認めた官人がいたかもしれません。あるいは、反実仮想の文章ですからそのような暗喩を含んだ誰かの歌を諫めた歌であったかもしれません。

⑪ なぎさの院に集う官人に、今上天皇(清和天皇)を支える政権中枢にいる官人は一人も加わっていない、と推測できます。

 作者業平は、詞書のもとにおいて、自分の思いを詠っているはずです。

 この歌は、「その心あまりてことばたらず」という仮名序での紀貫之の評どおりの業平の歌である、と思います。

⑫ さて、次に、類似歌1-1-54歌です。

 その詞書は、「題しらず  よみ人しらず」とあり、歌本文の理解には、作詠時点が『古今和歌集』編纂時代より前、という情報しか読み取れません。

 そのため、歌本文にある「たき」の意として、「急流・奔流」の意の可能性が高まります。

 歌本文は、次の三つの文からなる、といえます。

文C いしばしるたきなくもがな :目にした景から生じた思いを述べる 作者の行動を遮るものを指摘する

文D 桜花たをりてもこむ :今実行したい作者の行為を述べる

文E 見ぬ人のため :文Dを行う理由を示す

全体では倒置文といえます。

 語句の確認は上記「2.⑪」で行いました。作者が目にした「たき」とは、文Cのみでは、山中にあるのか、庭園にあるのか、決めかねます。

⑬ 文Cと文Dから、サクラは、「たき」(急流・奔流)の対岸にあると推測できます。「たき」は、作者と対象のサクラの木々との位置関係を表しています。この二つの文により「たき」は山中にある、となります。

 そして、対岸の斜面に広がるサクラを一望できるからこそ、作者は花見を堪能しています。サクラを手折ることが出来ない理由は、「たき」を渡るのが困難であるよりも斜面の急峻であることが実際の主たる理由であっても、歌本文では「たに」をあげているので、今であれば、スマホやドローンで撮影したい景であったと推測できます。

⑭ 文Dの行為をしても、1,2本の枝を持ち帰るだけです。それが他の場所での桜の景との差異を説明できる材料になるかどうか。自分が対岸の桜を見たというそのことの記念に、とにかく現地の何かを持ちかえりたいだけの行動なのではないか。文Dの行為をして得た桜の枝は、単なる土産に過ぎない。

 そのような行為をしたいということは、見栄えのある、心地よい景であったということであり、それは十分文Cと文Dから伝わってきます。

 この歌は、『古今和歌集』部立て「春歌上」のサクラの景の歌を配列しているところにある歌ですので、花見に行ったときの歌として理解できます。花見には誘いあって出かけてきたのでしょうが、誘いを断った人が作者の周囲にはいた、と推測できます。

文Eにある「みぬ人」の動詞「みる」とは、「視覚に入れる・見る・ながめる」意ではなく、各種情報による判断とか行為を意味する「(・・・な目に)あう・経験する」意ではないか。つまり、花見の仲間に加わらず桜を今回見ない選択をした人達をいうのではないか。

⑮ この歌と1-1-53歌を一対の歌として竹岡正夫氏は論じていませんが、現代語訳は竹岡正夫氏のそれをベースにします。よみ人しらずの時代の歌として二句と四句で切れる五七調の万葉ふうに解しており、語句に忠実である、と思いますので。

「石の上を激しく流れる奔流がないわけにもいかぬかなあ。あの桜花は、せめて手折ってでも来ように。この景を見ないという人のために。」

 この歌は、身近にない桜でも「(桜を)愛するあまりに心のいとまなき」状態にしてくれるという事例といえます。そうすると、1-1-53歌の作者のみた桜とは、身近に咲いている桜であったと位置付けることができます。

⑯ 1-1-53歌と1-1-54歌を対比すると、次の事を指摘できます。

第一 (共通点)この2首は、桜にであえた(特に1-1-54歌は、あとは散るばかりという桜の花の盛りの景に出あえており、それに作者は満足し友にも勧めたいと思っています。

第二 (共通点)この2首は、それを強調するため、大胆な修辞の工夫をこらしています。

第三 (異なる点)この2首は、詠う景が、日本列島におけるサクラという樹種全般と一地点のサクラという特異点という違いがあります。後者は身近なサクラではなく遠方から望むのみ、という設定です。

第四 この2首は、作者が著名な官人とよみ人しらずであり、この2首でもって万民がサクラという樹種との出会いを楽しみ、さらに満足を得たいと思っていることを示しています。

 しかしながら、前回(ブログ2019/9/30付け「4.⑥」)指摘したように、「人の美意識に基づき手を入れた桜と、自然の中のサクラとの対比をしている」、という理解は思い込みでした。1-1-53歌のサクラをそのように限定しなくとも、作者の詠いたい思いは伝わります。

3.この歌と類似歌との違い

① 以上の確認の結果、この歌と類似歌は、歌本文は清濁抜きの平仮名表記で五句の一文字が異なるだけであるものの、歌意は異なるものとなりました。

 それは、それぞれの歌集での部立て(ただし部立てがある場合)と当該歌の詞書及び前後の歌の配列順から導かれた理解によるものでした。それぞれの歌集の編纂方針が明確にある、といえます。

② 歌本文に用いられている語句に同音異義のものがいくつかありました。

 二句にある「たき」は滝と川の急流部分をこの2首は使い分けています。

 五句にある「みぬ人」は代名詞として用いられ、この歌は、作中人物(作者)自身を言い、類似歌は、この花見に同道しなかった人々を言います。

③ この結果、この歌は、思いを寄せる人に近づきがたいのを嘆く、恋の歌となり、類似歌は、桜を皆で愛でる春の歌となりました。

④ なお、3-4-50歌の現代語訳(試案)を次のように修正します。「たき」の意を明確にするため「たき」を修飾する語句をより滑らかな日本語表現にすることとします。 

詞書:花見に行ったところ、山中を流れる川にある石に、花がせき止められていたのを見て(詠んだ歌) 

歌本文:「石の上を激しく流れ落ちる滝(石の上を走るように流れる滝」)が無ければなあ。サクラの花は、手折ってこようものを。このサクラを見てない人のために(歌全体に暗喩がある。滝のように遮っているような存在が無ければなあ。サクラの花を折り取ってこようものを。まだ花を見ることも叶わない私のために。)」 

⑤ 今回の作業で確認した結果をまとめると、上記「2.②」のとおりです。

ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただき有難うございます。

 次回から、3-4-51歌を確認します。

(サッカーのワールドカップ北中米大会の初戦で、15日、日本代表はオランダに後半2度先行され追いついて2対2と引き分けました。一歩前進です。次はチュニジア戦です。冷静に油断することなくけが人が出ないよう楽しんでください。)

(2026/6/15  上村 朋)

付記1. 古今集 巻一の49歌~68歌の配列の検討 (2026/6/15現在) 

第一 古今集の部立て「春歌上」で桜を詠っている歌は、1-1-49歌~1-1-68歌である。

歌の配列と歌の主題と当該景による作者の思いをブログ2019/9/9付けで検討したが、その後の古今集仮名序と各歌のその後の検討結果を加えて今回確認したのが、下記の表である。

第二 1-1-49歌~1-1-68歌は、歌群としては、1-1-60歌までとそれ以降の二つになるがある。

第三 1-1-53歌と1-1-54歌の理解は本文による。この2首は、咲いた桜に作者は大満足している歌である。それ以外は表の注参照。

第四 部立て「春歌上」を通じた配列の方針は、次のように認められる。

  1. 配列は、奇数番号の歌とその次の偶数番号の歌が一組となって配列されている。
  2. 各組ごとに主題の設定があり時系列で配列されている。
  3. 季節の移り変わりに従い配列されている。

 

表 歌の主題・詠う景の判定表(付:歌での(現代の)季語等)(1-1-49~1-1-68) 

(2019/9/9現在を2026/6/15修正)   

歌番号等

歌の主題

作者が訴えたいこと

詠う景

歌での(現代の)季語

視点1(時節)

歌群(案)

備考

1-1-49

桜咲く

激励

若い桜木

春・さくら

 

晩春(桜による)

第八

 

1-1-50 a*

桜咲く

激励

高山の桜

さくら(花)

晩春

第八

 

1-1-51a*

山の桜

我が意霞は知らず

山でも満開

山桜

はるかすみ

晩春

第八

今回修正

1-1-52a

室内にみる桜

我が意桜に伝わる

都(庭園の花瓶)でも満開

花

晩春

第八

今回修正

1-1-53a

桜八分咲き以上

大満足を得たい 

都(離宮)にみる桜

さくら

春

晩春

第八

今回修正

1-1-54a*

桜八分咲き以上

大満足を得たい 

奥山の桜

さくら

滝

晩春(さくらによる)

第八

今回修正

1-1-55

春の錦

大発見

山の景

さくら

晩春

第八

 

1-1-56

春の錦

大発見

都の景

やなぎ

さくら

春

晩春

第八

 

1-1-57 a

毎年楽しむ桜

毎年身近の桜に感激あらた

都の桜

無し

詞書にさくら

晩春(詞書による)

第八

今回修正

1-1-58 a

毎年楽しむ

稀な山の桜も感激あらた

奧山の桜

はるかすみ

さくら

晩春

第八

今回修正

1-1-59

遠山の桜

見誤るものあり

都から望む

さくら

晩春

第八

今回修正

1-1-60

遠山の桜

見誤るものあり

山の桜の特殊性

さくら

雪

晩春(さくらによる)

第八

今回修正

1-1-61

ながく咲け

飽きるほどみたい

うるふ月

さくら

春

晩春

第九

 

1-1-62 a*

ながく咲け

飽きるほどみたい

まれな訪れ

さくら

晩春

第九

 

1-1-63 a

花は散る

明日は分からぬ

今日咲いている花

雪

花

晩春(花=さくらによる)

第九

今回修正

1-1-64 a*

花は散る

散るのは見たくない

今日散り始めた花

さくら

晩春

第九

今回修正

1-1-65 a*

存分に咲いた桜

桜にもいつまでも楽しませたい

枝を折るのを止めた桜木

さくら

晩春

第九

今回修正

1-1-66 a

存分に咲いた桜

私は散っても楽しみたい

桜色に染めた服

花

晩春

第九

今回修正

1-1-67 a

時期ながく楽しみたい桜

楽しみ方を知らない人を憐れむ

都の屋敷の桜

花見

晩春

第九

今回修正

1-1-68 a

時期ながく楽しみたい桜

楽しまれない桜を哀れむ

山里の桜

さくら

晩春

第九

今回修正

注1)「歌番号等」:『新編国歌大観』の巻数―その巻の歌集番号―その歌集の歌番号

注2)「*」:よみ人しらずの歌

注3) 「歌の主題」欄記載の桜の状態は、ブログ2024/3/25付け「4.」を参考にして再考した。

注4) 歌の注記(aを記した歌について)

1-1-50歌:①猿丸集1-3-32歌の類似歌。②山中の「桜の花」が咲くのを待ち遠しく思っている歌。ブログ2024/3/25付け参照 

1-1-51歌:①桜を見たい気持ちを霞は理解してくれない、という見立て。

1-1-52歌:①甕の桜が見頃になったのは(桜自らが)祝意を示したのだ。②古今集仮名序にいう「さま」は「そへ歌」

1-1-53歌:今回(ブログ2026/6/zz付け)の本文参照。元資料としての歌意と古今集「春歌上」における歌の歌意とを峻別した。

1-1-54歌:今回(ブログ2026/6/zz付け)の本文参照。元資料としての歌意と古今集「春歌上」における歌の歌意とを峻別した。

1-1-57歌:①五句の「あらたまる」のは桜。年ふるひとにとり毎年桜は感激あらた、の意。②元資料は加齢を実感する歌だが配列を重視するとこのように意が変わる。③「年ふる人を」は、1-1-28歌参照。④劉思芝の有名な「年々歳々花相似、歳々年々人不同(代悲白頭翁)」を踏まえた歌。⑤なお、視点1(時節)は元資料における時節。

1-1-58歌:①竹岡氏の理解に従う。②春霞が秘蔵している桜を誰が折ってきたのか、の意。②ただし桜は女をも意味するのは元資料の歌。③1-1-57歌の日常的に目に入る桜に対して意識して出かけて行って見る桜を詠う。

1-1-62歌:①この歌は、桜と同じように飽きるほど見ていたい人を作中人物は待ち続けていた、の意。

②配列により元資料の詞書もほぼそのままで歌の意を替えている。③初句にある「あだ」の意は、「無駄な、真実のない」意と、美女の形容でなまめいた美しさ」の意がある。④初句と二句がさす語の候補は桜花と稀なる人。桜花ならば、古今集春上の歌。稀なる人ならば、元資料の歌(桜は作中人物をいう)。④元資料の歌は、「それでも桜花はじっとまれなる人を待っていた」と詠う。訪ねてきてくれた喜びあるいは、不満が先に口をついてでたのか不明の歌。⑥業平が返歌をしたならば、よみ人しらずの人は業平と同時代の人。

1-1-63歌:①元資料の歌は雪に馴染みが深い梅を詠う。②詞書「返し」とは編纂者の指示。③雪は降雪を指し、花が散るのを象徴している。④伊勢物語に捉われずに古今集の配列のなかにおいて理解するのがよい。⑤花が女をも指すならば、本当に待っていてくれたとは思えないという意がこの歌に生じている。

1-1-64歌:①咲いた花は散るが定め。それを見ない方法がある、姑息な方法だが。

1-1-65歌:①3-4-51歌の類似歌。②桜は女をイメージ。③ブログ2019/10/7付けでの3-4-51歌検討時、竹岡氏の理解に従った。

1-1-66歌:①桜は女をイメージ ②桜姫葬送曲という竹岡氏の理解に従う。散った桜のための墨染衣ならぬ桜染め衣。

1-1-67歌:①まじめに桜を見なかった人を憐れむとみる竹岡氏の理解に従う。

1-1-68歌:①桜は、山中ではなく都に近い「山里」。1-1-67歌の官人の屋敷の桜に対して、官人の家人や庶民の集落内の桜。

(付記1 終わり)

付記2.『古今和歌集』の部立て「春歌上・下」の詞書で「さくら」などとある歌について

第一 『古今和歌集』の部立て「春歌上・下」の詞書で、サクラを「見て」とあるものは、次のとおり。

庭園にある桜:1-1-49歌 1-1-67歌

花瓶の桜:1-1-52歌

特定の屋敷あるいは寺院で「見た」桜(の花):1-1-53歌 1-1-75歌 1-1-81歌

山の桜:1-1-55歌 1-1-79歌

ちりける桜: 1-1-76歌

第二 詞書に「見る」の表記がなく単に詞書で「さくら」と表記のある詞書にはつぎの歌がある。

をれるさくらをよめる:1-1-58歌 1-1-77歌 1-1-80歌

さくらのはなのち(りけ)るをよめる:1-1-82歌 1-1-84歌 1-1-85歌 1-1-86歌

 第三 詞書に「屏風」とある歌本文はない。歌合で番われた歌である「歌合(のうた、によめる、の時よめる」とある詞書は、1-1-12歌~1-1-15歌の詞書のほか11題あり、歌本文に「さくら」とある歌は2首のみである(1-1-60歌 1-1-89歌)。

 (付記2.終わり)

付記3. 古今集にみる業平となぎさの院や惟喬親王との関係

第一 1-1-418歌の詞書:「これたかのみこのともに、かりにまかりける時に、あまの河といふ所の河のほとりにおりゐて、・・・ありはらなりひらの朝臣」

(業平は惟喬親王のお供で、地名「あまのかは」に近いなぎさの院を宿にしている、と推測できる。「あまのかは」は、現在の枚方市にある河川名でもある。)

第二 1-1-884歌の詞書:「これたかのみこのかりしけるともにまかりてやどりにかへりて・・・なりひらの朝臣」

(業平は狩をする惟喬親王のお供で、 狩場のちかくのやどりに共に宿泊している。1-1-418歌と1-1-884歌の詞書にいう「かり」が同一の日の「かり」であれば、やどりは、なぎさの院と推測できる。)

第三 1-1-970歌の詞書:「惟喬」のみこのもとにまかりかよひけるを、かしらおろしてをのというところに侍りけるむつきにとぶらはむとて・・・なりひらの朝臣」

(付記3.終わり)

(付記終わり 2026/6/15  上村 朋)

 

 

わかたんかこれ 猿丸集恋歌確認50歌その1 はな見

 前回(2026/4/20)に引きつづき『猿丸集』歌の再確認をします。今回は第50歌の一回目です。

1.経緯

 2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。第49歌まではそのとおりであった。

2.再考3-4-50歌

① 『猿丸集』の50番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-50歌  はな見にまかりけるに、山がはのいしにはなのせかれたるを見て

   いしばしるたきなくもがなさくらばなたをりてもこんみぬ人のため

 

古今集にある類似歌 1-1-54歌  題しらず     よみ人しらず

   いしばしるたきなくもがな桜花たをりてもこむ見ぬ人のため

 清濁抜きの平仮名表記をすると、五句の一文字と、詞書が、異なります。

② 下記のように確認をした結果は、以下のとおりとなりました。

第一 この歌3-4-50歌は恋の歌であり、類似歌1-1-54歌は、四季のひとつである春に咲くサクラへの思いを詠う歌である。このように二首の歌は、趣旨が異なる歌であり、この結果は、前回の結論と同じである。

第二 しかし、この2首の理解は改まり、それぞれの現代語訳(試案)は改訳となった。つぎのとおり。

3-4-50歌 花見に行ったところ、山中を流れる川にある石に、花がせき止められていたのを見て(詠んだ歌)   

「石の上を走るように流れる滝が無ければなあ。サクラの花は、手折ってこようものを。このサクラを見てない人のために(歌全体に暗喩がある。滝のように遮っているような存在が無ければなあ。サクラの花を折り取ってこようものを。まだ花を見ることも叶わない私のために。)」

 

1-1-54歌 題しらず よみ人しらず  

「石の上を激しく流れる奔流がないわけにもいかぬかなあ。あの桜花は、せめて手折ってでも来ように。この景を見ないという人のために。」

第三 この歌の歌本文にある「はな」には、女性の暗喩があるので、この歌は恋の歌となっている。この歌は、『古今和歌集』の仮名序にいう「さま」は「そへうた」にあたる。

第四 類似歌は、『古今和歌集』の部立て「春歌上」にある歌であり、満開のサクラへの思いを詠う。歌全体に暗喩はない。

第五 類似歌のある『古今和歌集』の巻一の配列は、歌番号が奇数の歌と次の偶数の歌を一対として季節の推移を追って配列している。類似歌1-1-54歌は、1-1-53歌とで一対となっている。

 

③ この歌から再確認します。最初に詞書です。

 詞書は、次の三つの文から成る、とみることができます。 

文A はな見にまかりけるに、:作詠時期と外出の理由を示す。また「はな」に暗喩があるか。

文B 山がはのいしにはなのせかれたる :作者の目撃した景を示す。花の盛りの桜木の現在の状況を示す。

文C を見て :作者がこの歌を詠む直接のきっかけが動詞「見る」の意によることを明示する。

 

④ 語句の確認から始めます。

 文Aにある「はな見」とは、歌本文に「さくらばな」とあるように、桜の花見が第一候補です。当時の桜の品種はヤマザクラなどがあるそうで、「はな見」の対象は庭園の桜のほか野外にある自生の桜があります。

「はな見」という用例を『古今和歌集』で部立て「春歌上・下」の詞書でみると、1例あります。

1-1-95歌 「うりむゐんのみこのもとに、花見にきた山のほとりにまかれりける時によめる」

 この詞書によれば、この歌は、サクラの花見に来た山のほとりに行っていた時に作詠した歌であり、うりむゐんのみこ(惟喬(これたか)親王)に提出した歌の一首、ということになります。

「さくら」とある詞書には、屋敷内にあるさくらと認められる詞書があります。

1-1-53歌 「なきさの院にてさくらを見てよめる 在原業平朝臣」

1-1-67歌 「さくらの花のさけるを見にまうできたりける人によみておくりける  みつね」

 このほか、「花かめにさくらの花をささせ給へる」とか「をれるさくら」など屋敷内にあるさくらと認められる詞書もあります。

 野外の桜と認められる詞書もあります。1-1-55歌と1-1-79歌の「やまのさくらを見てよめる」とある詞書などです(このほか題しらずの詞書で歌本文に「やまたかみ人もすさめぬさくら花」などとある歌もあります)。

 また、「歌合の歌」とか「歌たてまつれ」とある詞書でさくらを詠う歌もあります。

 『後撰和歌集』の部立て「春上・中・下」の詞書で「はな見」という用例を探すと、2例あります。

1-2-99歌 はる花見にいでたりけるに、ふみをつかはしたりける、その返事もなかりければ、あくるあしたきのふの返事とこひにまうできたりければ、いひつかはしたりける よみ人しらず 

1-2-112歌 女とも花見むとてのべにいでて  典侍よるかの朝臣

 この2例は、官人の屋敷に咲いたサクラではなく、屋敷の外に咲いているサクラです。

 このように、『猿丸集』が編纂されたころ、サクラの花見と言えば、官人の(寝殿造りの)屋敷地内でも野外でも行われていた、と推測できます。

⑤ 恋の歌の詞書であれば、文Aにある「はな」は、恋の相手を示唆している可能性があります。

 そうすると、文Aには、「女性をそっと見に行く」の暗喩がある、と認められます。

 次歌3-4-51歌の詞書は「やまにはな見にまかりてよめる」とあり、「はな見にまかる」という表記が共通にあります。『猿丸集』の配列としてみると、並んでいる詞書であるので、同一の意味で用いられている可能性があります。

3-4-51歌の詞書は、ブログ2019/10/7付けと同2019/11/4付けで一度検討しています。そして、「やま」とは「屋間(建物と建物の間)」の意であり、詞書の現代語訳(試案)は、次のようになりました。

「建物と建物の間のところにゆき、(となりの)桜の花を見て、(その後に)詠んだ(歌)」

 この歌は、3-4-51歌と作詠事情が共通ではないかと推測し、現代語訳を試みたい、と思います。

⑥ 次に、文Bにある「やまがは」には、3-4-51歌の詞書にある「やま」の意と同じである可能性が見えてきました。そのほか、「山川」(山の中を流れる川・谷川)の可能性があります。前回(2019/9/30付け)「山側」で検討しましたが、『明解古語辞典』には「やまがは」の立項では説明がありませんし「がは」の立項もありません。

 「やまがは」の用例を確認すると、

 『萬葉集』に「山河(川)」という意の表記が28首にあります。その意は「山や川」あるいは「山と川」のほかに「山中にある川」の意もあります(巻七にある2-1-1092歌、同2-1-1135歌、同2-1-旧1183歌、巻十二にある2-1-2874歌、同2-1-3030歌、同3031歌など)。

 また、『古今和歌集』では3首の用例があります。みな「山中を流れる川」の意です。

1-1-303 しがの山ごえにてよめる   はるみちのつらき 

   山河に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり

1-1-722 題しらず    そせい法し

   そこひなきふちやはさわぐ山河のあさきせにこそあだなみはたて

1-1-1000 歌めしける時にたてまつるとてよみて、おくにかきつけてたてまつりける    伊勢 

   山河のおとにのみきくももしきを身をはやながら見るよしもがな

 上記の伊勢の歌は、詞書が異なって『後撰和歌集』にもあります。

1-2-1291歌  むかしあひしりて侍りける人の、内にさぶらひけるがもとにつかはしける  伊勢

   山河のおとにのみきくももしきを身をはやながら見るよしもがな(歌本文は、1-1-1000歌に同じ)

 ちなみに、「たにかは」という用例は、「ほそたにかは」という川の固有名詞の例が各1例あるだけです(1-1-1082歌)

 これらの用例をみると、「やまかは」とは『古今和歌集』成立の頃は、「山中を流れる川(降雨によって斜面に臨時に生じる水の流れる筋などを含むか)」という理解であり、「かは」が連濁で「がは」であっても同じであったといえます。

 この意の「やまがは」を前回、連濁を認めず検討対象外としていたのは誤りでした。

「やまがは」とは、名詞「山」+名詞「川」の場合と3-4-51歌との共通の作詠事情の可能性から生じる名詞「屋間」(建物と建物の間)+名詞「川」(水路)の場合とを候補として再確認します。

⑦ 次に、文Bにある「いし」は同音異義の語句のひとつであり、名詞「石」と名詞   「椅子」(背もたれとひじかけのある椅子。儀式のときなどに貴人が用いる)の意があります(『例解古語辞典』)。

 文Bにある「せく」も同音異義の語句のひとつであり、前回(2019/9/30付け)指摘したように、動詞「塞く・堰く」 と同「急く」の意があります。

「塞く・堰く」には、「aせき止める。b恋人同志が逢うのをじゃまする。」の意があり、「急く」には、「aあせる。bいらだつ」意があります。

 また、「せく」は文Bにある唯一の動詞です。

⑧ 文Cにある動詞「見る」の意は「視覚に入れる・見る・眺める」のほかに、「思う・解釈する」とか「(異性として)世話をする・連れ添う」とか「見定める」など別の意もあります。その意は、視覚による情報を得るほかに各種情報よる判断とか行動をも意味するかのようなところがあります。

 前回の3-4-50歌の詞書の検討(ブログ2019/9/30付け)では、「見る」の意は「視覚に入れる・眺める」と決め込んでいました。

 なお、「まかりけるに」の「に」は、接続助詞です。「あとから述べる事がらの出る状況を示す場合」の意とか「あとに述べる事がらに対する、一応の断わりを示す場合」の意などで用いられています。

⑨ ここまでに確認した語句に基づいて現代語訳を確認します。

 文Aは、「花見(観桜)に行ったところ」という現代語訳が候補となります。花見の対象は、野外のサクラと屋敷内のサクラとがあり得ます。

 そして、「はな」に「女性」という暗喩をこめることができます。その場合、文Aを含む文章は、恋の歌の詞書とみなすことができます。

 文Bは、「やまがは」の意に、上記⑥の2案があります。

第一 「やまがは」が「山川」の場合:「山中を流れる川にある石に、花がせき止められていた」

第二 「やまがは」が「屋間(建物と建物の間)の水路」の場合:「(寝殿造りの屋敷における)建物と建物の間の水路にある石に、花がせき止められていた」

 後者は、水路にある石(組)は、段差を作るとか瀬と淵を作るとかに用いられており、水路に流れが速くなる部分を作っていると推測できます。

 なお、鈴木宏子氏は、「やまがは」を「山川」(山の中を流れる川・谷川)の意として、文Bを「山川を流れる落花が石によって堰き止められている」意(『和歌文学大系18 猿丸集』(1998))としています。

 文Cは、「(文Bという景を)目視して」と「(文Bを)解釈して」を今候補とします。

 この現代語訳候補は、詞書に、二度用いられている「はな」という語句は「サクラの花」という意があり、歌本文にある「さくらばな」を指すのではないかと推測したところです。

 詞書全体の現代語訳(試案)は、歌本文との整合を踏まえて後程確認します。

⑩ 次に歌本文を確認します。この歌は、次のように三つの文からなる、といえます。

文D いしばしるたきなくもがな:目にした景から生じた思いを述べる 作者の行動を遮るものを指摘する

文E さくらばなたをりてもこん:今実行したい作者の行為を述べる 

文Fみぬ人のため:文Eを行う理由を示す

 全体では倒置文といえます。

⑪ 語句の確認を最初にします。

 文Dにある「いしばしる」とは、「いははしる」の意と同じです。「はしる」の意を重視してよい語句と前回の付記で指摘しました。

 「たき」とは、竹岡氏が類似歌1-1-54歌の「釈」で指摘する(『古今和歌集全評釈 上』54p)ように、時代により意が替わり、『猿丸集』の成立は『古今和歌集』以後なので、今日の「滝」(瀑布)の意となります。類似歌より引用したとみれば、類似歌が『古今和歌集』のよみ人しらずの歌なので、急流・奔流の意となります。

 また、花見が寝殿造りの屋敷の庭園であるならば、「たき」を水路に設けた石組で作ることができます。

「もがな」は終助詞であり、願望し期待する意を表し「・・・があったらなあ、・・・であったらなあ」(『例解古語辞典』)。というところです。

文Eにある 「こん」とは、サ変活用の動詞「く(来)」の未然形+推量の助動詞「む」の終止形です。

 文Fにある 「見ぬ人」とは、この見応えのある花をまだ見ていない人の意であるほか、恋の歌であるならば、作者がまだ面談出来ていない人、あるいは、まだ相手と面談に至っていない作者自身を、示唆することもできるのではないでしょうか。

 

⑫ 現代語訳を試みると、次のとおり。

文D1 石の上を走るように流れる滝が無ければなあ。

文E1 サクラの花は、手折ってこようものを(詞書に従い「はな」に暗喩あり)。

文F1 この桜を(まだ)見てない人のために。

 この歌が、野外のサクラの花見である場合、そのサクラは、滝となって流れる「山川」の対岸にあることになります。サクラを手折りに行くには、対岸に渡り、山の斜面を登らなければならないことを文Dは示していますし、対岸にサクラがあること自体が手折るむずかしさを生んでいることを示しています。

 この歌が、屋敷内のサクラの花見である場合、滝と見立てているのは、具体には水路の石組近くの流れを指しています。だから対岸には官人であれば水路にかかる橋を渡ることになります。礼儀作法を守って渡るので、渡る必要性をその屋敷の主に認めてもらわなければなりません。

 どちらの場合も、この歌は、つぎのような意がこめられて居る歌となっているとみえます。

文D2 桜にたどりつくのを遮っているような存在が無ければなあ。

文E2 桜の花を、折りとってこようものを。

文F2 まだこの花を身近に見ることも叶わない人(即ち作者である私)のために。

この歌は、彼女の縁者が反対していても、「みぬ人」の気持ちは変わらない、ということを訴えているという理解が可能です。「(さくらの)はな」は相手を暗喩しています。

⑬ このように、この歌は、歌本文全体でもって別のことを暗喩するという詠い方をしています。

即ち、「一首全体の裏に作者の情が添えられている歌」であり、『古今和歌集』の仮名序の「うたのさま」の分類第一にあげている「そへ歌」に相当します。

気になるのは、この歌は、恋の相手側に示せたか、手引きをする人物に手渡すことができたかどうかです。作者はそのルートを持っているかに詠っています。

⑭ さて、保留していた詞書の現代語訳を試みます。

 歌本文が「そへ歌」とみるならば、屋敷のサクラの花見という限定をしなくとも、一首全体の意が作者の思う意になる理解ができます。

 そのため、現代語訳(試案)は、詞書にある「山がは」は「山川」の意に限定できます。即ち、

 「花見に行ったところ、山中を流れる川にある石に、花がせき止 められていたのをみて(詠んだ歌)」

 この(試案)において、花は作者が近づきを願っている女性に、花をせき止める石はその女性の親を含めた家族を指していることが明白です。

そして、「せく」は同音異義の語句として「花が(恋人同士が)逢うのをじゃまされる」意を意味することが生きています。

⑮ ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただき有難うございます。

 次回は3-4-50歌の類似歌を確認します。

 追伸 サッカー日本代表が今月はいつも以上に楽しんでやれますように。

(2026/6/1   上村  朋)

わかたんかこれ 猿丸集恋歌確認49歌 よぶこどりは誰

 前回(2026/3/23)に引きつづき『猿丸集』歌の再確認をします。今回は第49歌です。

1.経緯

 2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。第48歌まではそのとおりであった。第49歌を今回確認する。

2.再考3-4-49歌の現代語訳

① 『猿丸集』の49番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-49歌  前歌におなじ(ふみやりける女のいとつれなかりけるもとに、はるころ)

    をちこちのたづきもしらぬ山中におぼつかなくもよぶこどりかな

古今集にある類似歌 1-1-29歌  題しらず     よみ人しらず

    をちこちのたづきもしらぬ山なかにおぼつかなくもよぶこどりかな

 歌本文は、平仮名表記ではまったく同じです。

② 下記のように確認をし、次の結果となりました。

第一 この歌3-4-49歌は、恋の歌である。現代語訳(試案)は類似歌1-1-29歌とともに、前回の成果とは異なるものとなった。類似歌は四季のひとつ春に見聞きしたものからの思いを詠う歌であり、恋の歌ではない。この2首は、異なった歌意の歌である。

第二 この2首は、詞書が異なるほか歌本文にある「よぶこどり」が含意するところが異なる。それぞれの現代語訳(試案)は改訳となった、つぎのとおり。

3-4-49歌 「文をおくっている女の、大変無情な態度が変わらないでいる時分であって、(春、)芽がふくらむ頃」

「遠方の山なのか近い山なのか、それを知る方法もわからない山の中に居て、待ち遠しい・もどかしいと思いつつ、よぶこどりは「呼ぶような声で鳴く鳥」であるよなあ。(私も貴方が恋しくて泣き暮らすほかなくて・・・。)」

1-1-29歌 題しらず    よみ人しらず

     「遠方の山か手前の山か、それを判断する方法もわからない山の中に、待ち遠しい・もどかしいと思いつつ、「呼ぶような声のよぶこどり」であるよなあ。」

第三 この歌は、ある時から文の返事をもらえない状態が続いている男が、昔に復することを待ち望んでいることを、「よぶこどり」に自らをたとえて、相手の女に訴えている歌である。

 そして、前回の現代語訳(試案)は「よぶこどり」の示唆するところを誤っていたので、削除する。

類似歌は、春という季節の到来に、安心感を詠った歌である。

第四 この歌3-4-49歌は、同じ詞書のもとにある3-4-48歌とともに、男女の仲の修復を願い趣向を凝らして詠っており整合が取れている。

 なお、3-4-48歌本文の現代語訳(試案)はつぎのとおり。

 「あれまあ。田を、あれまあ、鋤いたり鋤き返したりもして田の状況を確かめるように、私をよくよく見てからということですか。実直な男である私の心を。」

第五 類似歌のある『古今和歌集』の巻一の配列は、歌番号が奇数の歌と次の偶数の歌が一対となって季節の推移を追って配列している。そしてよぶこどりとももちどりは、聴覚あるいは視覚で春に認識した鳥の集団でありもどる渡り鳥と飛来した渡り鳥をも指し得ると推測した。

 

③ この歌から再確認します。最初に詞書です。この詞書のもとには2首あり、3-4-48歌の確認の際、次の現代語訳(試案)を得ました(ブログ2026/3/23付け「4」参照)。

 「文をおくっている女の、大変無情な態度が変わらないでいる時分であって、(春、)芽がふくらむ頃」

 詞書の最後にある「はるころ」とは、四段活用の動詞「萌る」の連体形+名詞「頃。比」であり、女の「つれなし」という状況を打開するためのチャンス到来とみてあと一押しする意と推測しているところです。

 この理解は、ある状況のもとにいる女へ歌を送った、というパターンです。3-4-15歌~3-4-17歌の詞書「かたらひける人の、とほくいきたりけるがもとに」と同じです。

 なお、3-4-48歌本文の現代語訳(試案)は、前回(ブログ2026/3/13付け)得て、上記②の第四に転載してあります。

④ 次に歌本文です。詞書より、作者の今の立場は、文を送ることはできるが、それ以上は女に拒まれ続けている人物だということがわかります。そして「(春、)芽がふくらむ頃」という時期に至り、3-4-48歌と一緒におくった歌か、あるいは3-4-48歌にも反応がないことがわかった時点でおくった歌がこの歌本文ということになります。

 この歌本文には、相手の女に対する作者(あるいは作中人物)の行動や思いは直接表現されていません。恋の歌であるならば作者(および作中人物)の相手への思いを訴えている歌のはずです。歌全体でもって示唆しているものがある、ということになります。

⑤ 歌本文は、次の二つの文からなっている、と理解できます。

 文A  をちこちのたづきもしらぬ山中に:よぶこどりが現在居る場所を山中と作者は限定。またその山中に関して誰かの認識を作者は紹介している。

 文B  おぼつかなくもよぶこどりかな:よぶこどりの現在の行動を作者は指摘

 

 作者は、よぶこどりについて、現在居る場所とそこでの行動を詠い、その居る場所について特定のコメントを加えています。そのような(即ち特定の条件を満足する)山中におけるよぶこどりの行動(あるいは行動できないということ)に恋の歌としての暗喩がある、と思います。

⑥ 歌本文にあるいくつかの語句の意を確認します。

 文Aにある「をちこち」とは、「彼方此方」です。前回(ブログ2019/9/16付け「6.③」など)では、「をちこち」を「a空間的に遠方と手前の方をいう b時空的に未来と現在をもいう」と理解しました。

 そのうえで、類似歌のある『古今和歌集』の部立て「春歌上」の配列をみると、直前の1-1-27歌と1-1-28歌は、作者の身近な景を詠い、1-1-29歌と1-1-30歌は、都より望み見ることができる遠方の春の景を詠っている、と整理できます。

 さらに、その次の1-1-31歌と1-1-32歌は、身近から遠くへゆく雁と遠くから身近に来たウグイスを詠い、遠近の景が対となって配列されています。

 この配列においては、「をちこち」は、「a空間的に遠方と手前の方をいう」意であり、平仮名で同文の3-4-49歌本文においても、その理解が妥当なのではないか、と思います。

 『例解古語辞典』では、「たづき」の用例として1-1-29歌(この歌の類似歌)の説明があります。上の句(上記の文A相当)は、「地理不案内であっちへ行けばどこへ出るのか、こっちへ行けばどこへ行くのか、その見当もつかない山の中で」の意とあります。

⑦ 名詞「たづき」とは、「手段。てがかり。見当。様子。」(『例解古語辞典』)です。

 この歌(の文A)での「をちこちのたづき」とは、「(遠方の山か手前の山か、それを)判断する方法(手段、つまり基準)」と理解できます。

 文Bでは、よぶこどりがその山中に居る、と詠まれています。そうすると、声は聞こえるがどの方角からかどのくらい離れているかも知る手だてがない、ということが「たづきも知らず」ではないか。

 このため、この歌の「たづき」に作者は、「貴方と私の仲は遠いいのか近いのかを知る手段・てがかり」という意をこめることができます。

 一般に、鳥は天高く上がれるので俯瞰することで周囲を確認できます。よぶこどりにとって「山中」は地理不案内のエリアではないでしょう。上記の『例解古語辞典』の理解は不自然です。

⑧ 文Bにある形容詞「おぼつかなし」とは、「aはっきりしない・ぼんやりしている b(ようすがわからないので)気がかりだ・不安だ c待ち遠しい・もどかしい」の意があります(同上)。

 竹岡正夫氏は1-1-29歌の「おぼつかなく」は「山鳩か郭公のようなくぐもった、とらえどころもないような声で、その姿も見せず、どこからともなく鳴いているのが聞こえて来る感を表し、1-1-29歌の中心の語句」と指摘しています。

「おぼつかなし」の意は上記の「aはっきりしない・ぼんやりしている」という指摘です。

 しかし、この歌の詞書には、相手の女のつれない態度が続いているとあり、「おぼつかなし」の意は、恋の歌の作者の気持ちとしては、上記「a」の意よりも、「b(ようすがわからないので)気がかりだ・不安だ」あるいは「c待ち遠しい・もどかしい」のほうが適している、と言えます。

⑨ 次に、「よぶこどり」です。

 ブログ2019/9/9付け(「4.」)で、『古今和歌集』の配列を重視した1-1-28歌と1-1-29歌の検討をしました。

 1-1-28歌の「ももちどり」は、どんどん緑が増してきている状況に対比する表現であり(二、三羽とか一種類の鳥ではなく、)「もも(百)」も「ち(千)」も数の多い状況(「一種類ではない鳥が多数いる」状況)を指す語句として用いられています。

 だから、「よぶこどり」の実体も、「ももちどり」がそうであるならば、(少なくとも)1-1-29歌の「よぶこどり」も、「一種類ではない鳥が多数いて呼び合っている(かのような)」状況あるいは「一種類ではない鳥が多数いてそれぞれ関係なく鳴き続けている」状況を言っている、と理解したところです。

 そしてこの歌(4-3-49歌)の「よぶこどり」もそのように理解しました。その名には、「よぶ」という行動を指す語句が含まれており、鳥の種類よりも「よぶ」という行動に注目して命名したもの、と推測します。

 『萬葉集』では、「呼子鳥」あるいは「喚子鳥」などと表記されています。

 土屋文明氏は、(『萬葉集』歌での用例で)「子、即ち人間を呼ぶように聞こえる鳥」、久曾神氏は、(『古今和歌集』での用例で)「呼ぶような声で鳴く鳥(ホトトギス・郭公などであろう)」、及び竹岡氏は、(同上)「呼ぶような声で鳴く鳥」と指摘しています。

⑩ そのうえで、「よぶこどり」が示唆する人物について、「よぶこどり」という名詞の構成から前回検討しました(ブログ2019/9/16付け「7」)。即ち、同音意義語の組合せから示唆する人物を推測したところです。

 その結果、「よぶこどり」とは、

第一 動詞「呼ぶ」(呼びかけるあるいは囀る)+接頭語「小」(形が小さい意を添える)+鳥(鳥類の総称)。示唆する人物は無し。

第二 動詞「呼ぶ」(自分のところへ来させる・呼び寄せる)+名詞「子」(人を親愛の情をこめて呼ぶ語)+鳥(鳥類の総称)。示唆する人物は相手の女。

第三 動詞「呼ぶ」(呼びかけるあるいは囀る)+接頭語「小」(軽蔑したり憎んだりする気持ちを添える)+鳥(鳥類の総称)。示唆する人物は相手の周りの人々(縁者と召使で作るグループ)。

第四 動詞「呼ぶ」(呼びかけるあるいは囀る。)+接頭語「小」(身分・地位の低い意を添える)+鳥(鳥類の総称)。示唆する人物は作中人物がへりくだっていう自称(つまり作者)

の4例が候補となり、さらに、鳥は集まっているのだから示唆するものも複数の人物と限定してしまい、第三の示唆がこの歌(4-3-29歌)にはある、としました。

 これは、「よぶこどり」の理解のうちの「多数いる状況」に近いものを示唆するのがよい、という先入観のもとにある整理でした。配列と詞書と歌本文に沿い、「よぶこどり」が示唆する人物を推測して然るべきでした。

 また、詞書にあるように以前は親しくしていたといえるのですから「つれない」のは身分が理由とは思えないことも第四を除外した理由の一つです。

 ただし、同音異義語で構成されていない「よぶこどり」ならば(ある状況下にいる鳥たちの暗喩とみるならば)、恋の歌の一般論として作者を示唆することは可能と思えます。

 また、この3-4-48歌が詠まれた時代には古今伝授の秘伝の三鳥の一つによぶこどりはなっています。鳥の名称の一つとの認識も生じている時代になっている、と推測します。鳥が集まって鳴いている状況を指す語句よりも、その状況にある鳥(たち)、という属性に基づく鳥の名称として歌語となっていたのではないか。そのため具体の鳥の種類は不問にされていたといえます。

 だから、「よぶこどり」とは、「呼びかけ合って囀っている鳥たち」とか、「人を呼んでいるかのように鳴く鳥(たち)」の意と、今回は理解します。土屋氏や竹岡氏などの理解と重なりました。

⑪ さて、一般に、恋の歌であれば、恋の当事者と恋の伸展に関係する人物達が、詞書や歌本文に登場しています。「よぶこどり」が示唆する人物達は、この歌の詞書と歌本文に従えば、次のような人物を示唆していると想定できます。

第五 相手の女であれば、3-4-48歌で作者の人物評価をしている(あるいは人物評価を関係者が行うのを容認している)人物で、男につれなくしている時期の人物(これは上記⑩の第二にも該当する)

第六 作者であれば、3-4-48歌で人物評価をされている人物(男)で、つれなくされている状況が続いている時期の人物(これは上記⑩の第一~第四に該当しないがただし書きに該当する)

第七 上記第五の関係者(縁者や召使)で作者の人物評価をしている人物(これは上記⑩の第三に該当する。)

第八 上記第六の関係者(縁者や召使)で作者の味方をする人物(これは上記⑩の第一~第四に該当にも上記⑩のただし書きにも該当しない。)

 このうち、第八は、恋の歌として作者が話題とするのは得策ではなく、自らが相手に訴えたほうが良い、と思います。

 よぶこどりが示唆する人物の候補としては、結局、相手の女かその女の関係者(縁者や召使)と作者自身が残りました。 

 これを前提に詞書と歌本文を再確認します。

⑫ 詞書は、「よぶこどり」という語句やそれを類推させる語句もない文であり、(上記③に記す)これまでの結論は変わりません。

 次に、歌本文の文Aでは、山中に関して誰かの認識を「・・・も知らぬ(山中)」と記しているものの、誰が「知らない」のか明記していません。その「誰」の候補を歌本文で探すと、動物の名として表記されている「よぶこどり」があります。さらに作者も候補となるでしょう。そのほかは見当たりません。

 「・・・も知らぬ(山中)」と認識しているのが「よぶこどり」であれば、それが示唆している人物の候補は上記⑪のように3通りの人物となります。

⑬ 歌本文が平仮名表記でまったく同じである類似歌(1-1-29歌)を参考にすると、久曾神昇氏は文A相当部分を「どちらに行けばいいかわからないような深い山の中で」と現代語訳しています。竹岡正夫氏は、「あっちへいけばどうで、こっちへ行けばどうという見当もつかない山中で」と現代語訳しています。

 両氏とも、現代語訳にあたって、「知らない」のが誰であるかについて具体の人物の指摘をしていません。

 そして、両氏の文B相当部分の現代語訳はつぎのとおりです。

久曽神氏:「不安そうに呼ぶような声で呼子鳥が鳴いていることよ」

竹岡氏:「(どこで鳴いているのやら)まるでもう茫然としたさまで呼ぶ呼子鳥よなあ」

 両氏は、そのような山中で「おぼつかなくも」鳴いている「よぶこどり」がいる、と詠嘆的に作者は断定している、と指摘していることになります。

 よぶこどりが鳴いているのを実際聞いたときに詠んだ歌なのかどうかに関して両氏の指摘はありません。

 「よぶこどり」が「おぼつかなくも」鳴いている理由の指摘もありません。

⑭ 恋の歌と仮定し、さらに「よぶこどり」の示唆するところを上記⑪に従い仮定して検討してみます。仮に竹岡氏の現代語訳を参考にすると、

 「よぶこどり」が相手の女を示唆する場合、歌本文の理解は、

 文A: 「「よぶこどり」である貴方には、あっちへいけばどうで、こっちへ行けばどうという見当もつかない山中で」

 文B: 「(どこで鳴いているのやら)まるでもう茫然としたさまで呼ぶ「よぶこどり」である貴方よなあ」

 この歌は、同じ詞書のもとにある3-4-48歌の次に配列されています。

3-4-48歌は、

「あら 小田を あら 鋤きかへし かへしても 見みてこそや まめ人の こころを」

と理解した歌です(現代語訳(試案)は上記②の第四に記す)。

 3-4-48歌の次に配列されている3-4-49歌が、このような理解であれば、「貴方は(どなたかの横やりで)私との仲をどうしようか迷っているのかなあ」という趣旨の歌になり得ます。

 文Aの理解を上記⑥で指摘した「をちこちのたづき」の意(「遠方の山か手前の山か、それを判断する方法」)となると、歌の趣旨をもっとはっきり汲み取れます。これは以下でも同じでした。

⑮ 次に、「よぶこどり」が相手の女の関係者(縁者や召使)を示唆する場合、歌本文の理解は、

 文A: 「「よぶこどり」である貴方の縁者や召使は、あっちへいけばどうで、こっちへ行けばどうという見当もつかない山中で」

 文B: 「(どこで鳴いているのやら)まるでもう茫然としたさまで呼ぶ「よぶこどり」である貴方の縁者や召使よなあ」

 このような理解であると、同じ詞書のもとにある3-4-48歌の次に配列されている歌なので、この歌は、「貴方の縁者や召使は(貴方の気持ちはそっちのけで)私のどこが気に入ら居ないのでしょうかねえ」という趣旨の歌になり得ます。

 最後に、「よぶこどり」が作者自身を示唆する場合、歌本文の理解は、

 文A:「「よぶこどり」である私は、あっちへいけばどうで、こっちへ行けばどうという見当もつかない山中で」

 文B:「(どこで鳴いているのやら)まるでもう茫然としたさまで呼ぶ呼子鳥である私であるよなあ」

 このような理解であると、同じ詞書のもとにある3-4-48歌の次に配列されている歌なので、この歌は、「私は途方にくれています。生殺しにしないでほしいなあ」」という趣旨の歌になり得ます。

⑯ この歌の詞書によれば、作者は、文の返事をもらえない状況ですので、相手の女がそのような態度を採る理由は憶測に過ぎません。その理由がわかっているかのような態度で詠うよりも、自分の気持ちを直截に(かつ優雅に?)訴えるほうが相手への誠実さも強く訴えることになるのではないか。

 以上の3者を比較すると、「よぶこどり」は作者自身を示唆していると見るのが一番妥当です。

 さらに、それ以外の理解を相手がしても(誤解されても)、この歌(3-4-49歌)は相手の女を信じている、という気持ちは伝わると期待できる歌になっている、といえます。

 なお、「かな」は、詠嘆的に文を言い切るのに用いられる終助詞です。前回はこの語句を現代語訳(試案)に訳出できていませんでした。

⑰ 以上の確認を踏まえて、文Aの現代語訳を試みると、次のとおり。

 「遠方の山か手前の山か、どこに居るか判断する方法もわからない山の中に」

 

文Bは、次のとおり。「おぼつかなし」の意に2案あります。

 第一案 「「b(ようすがわからないので)気がかりだ・不安だ」という状況にあって、「呼ぶような声で鳴く鳥」であるなあ。(ああ、私も同じ心境だなあ。)」

 第二案 「「c待ち遠しい・もどかしい」という状況下で、「呼ぶような声で鳴く鳥」であるなあ。(私も同じ心境だなあ。)」

 

 詞書に留意すると、「はるころ」(芽がふくらむ頃)が重要です。また、同じ詞書のもとにある3-4-48歌と対の歌であることも考慮すると、二人の仲を不安視しつつ詠んだ歌ではなく、自信を持って相手を信頼して詠んでいる姿勢をとる第二案が妥当ではないか。

⑱ そして、もうすこし言葉を選び歌本文全体の現代語訳を試みると、次のとおり。

「遠方の山なのか近い山なのか、それを知る方法もわからない山の中に居て、待ち遠しい・もどかしいと思いつつ、よぶこどりは「呼ぶような声で鳴く鳥」であるよなあ。(私も貴方が恋しくて泣き暮らすほかなくて・・・。)

 この歌は、文の返事をもらえない状態が続き進展のない男が、昔に復することを待ち望んでいることを、「よぶこどり」に自らをたとえて、婉曲に相手の女に訴えている歌であり、恋の歌といえます。

 そして、前回の現代語訳(試案)は「よぶこどり」の示唆するところを誤っていましたので、削除します。

 

3.再考 類似歌1-1-29歌

① 最初に、類似歌1-1-29歌が配列されている『古今和歌集』巻一部立て「春歌上」の配列を再確認します。

 「仮名序」を参考にすると、部立て「春歌上」には、「(やまとうたは)世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心におもふことを見るものきくものにつけていひだせるなり」(仮名序)という歌のうちで、「暦の上での春の時期において見るものきくもの」につけて詠われた歌が配列されているとみてよい。即ち、部立て「春歌上」には、春という季節の自然界と人事を材料として作者の思いが詠われている歌が配列されています。

 ブログ2019/9/9付け~同2019/9/23付けの検討の際は、この歌で「心に思うこと」は、第一に「春に逢えたことを喜ぶ」ことであり、第二以下は不問にするという偏見が私にありました。春という季節に見聞きすることから生じる「思い」はそれだけではないことに配慮が足らなかったと反省しています。

 今回はその反省の上で再確認しました。

② 前回(ブログ2019/9/9付け)で、部立て「春歌上」のすべての歌に、官人が当時の季節・時節を表す語句があることを、久曾神氏や竹岡正夫氏の指摘に私見を加えて確認しました。そして、歌番号が奇数の歌とその次の歌が一対となって時系列の順に配列されていることも確認しました。

 例えば、1-1-1歌と1-1-2歌は、詞書にある「春たちける日」(即ち立春当日)と暦の上の一月一日に関する作者の思いが二通り詠われています。

 次に配列されている1-1-3歌と1-1-4歌は、「(春という季節感じるものに接しないが)春は何処」という疑問を詠う歌を一対として配列されています。即ち、春というがここ都では霞がかかっていないし吉野山には雪が降りつつあるというではないかと詠い、都に雪が降るが(1-1-2歌と同様に)立春をすぎたということならばウグイスの涙も解ける頃なのだろうと楽観的に予測しています。

③ また、例えば、1-1-27歌は、(部立て「春歌上」にある歌として)日々に深まる春の景として都の植物を詠い作者は今年の春を実感しています。

 1-1-28歌は、(同様に)日々に深まる春の景として遠くに聞こえる鳥たちを詠い、春を実感した作者の感慨を詠っています。作者の思いは三句以下に表現されています。春は物ごとにあらたまり(更新し)、あらたまることができない人というものは年を加えるのだ、と詠います。これは年が改まる時点でこその自覚ではないか。新年になってもマイナーチェンジで終わるものもある、という指摘です。

 当時は、年齢を数え年で称していましたので、1月1日に一歳年をとることになります。

 つぎに、動詞「ふる」には、「古る。旧る」であり「a古くなる・時がたつ。また、年をとる。b古くさくなる・新鮮さがなくなる。c飽きられて捨てられている。」(『例解古語辞典』)の意がありますが、この歌においては、「年をとる」意です。

 動詞「ゆく」は補助動詞で「a引き続き行われる(その傾向がみられる)。b引き続き変化が進行し、ある状態になる。」の意です。

 この二つの語句には、詠嘆の意はありません。

 だから、1-1-28歌は、老いを嘆いているのではなく、時の経過を自分にひきつけて春の実感を詠ったものであり、部立て「雑」ではなく部立て「春歌上」に配列されている歌となっています。

 前回の、春の除目に今年もあわなかったという理解(ブログ2019/9/23付け参照)であっても、部立て「春歌上」に配列が可能ですが、上記に指摘した理解の方が、より相応しい、と思います。

 結局、この2首は、又めぐってきた春の動植物の活動に触発された作者が、いつもの春が訪れたと淡々と詠った一組の歌として配列されている、といえます。

④ 次に、1-1-29歌は、聴覚で得たかのような「山にも春が深まる」景を詠い(再確認の内容は後述)、都近くで聞いた鳥の声からの感慨を詠っています。

 1-1-30歌も同じであり、聴覚で得た春の景から作者の思いを詠っています。雁は、北にある本拠地も春が近いと勇躍北に向かうのです。戻る道筋に越の国はあるので言伝は必ず届くと作者凡河内みつねは詠ったのでしょう。遠国にも春が訪れていることをこの2首は示しています。

 「ももちどり」と「よぶこどり」が1-1-28歌と1-1-29歌に登場します。前者は「複数の種類の鳥が多数いる」状況を指し、後者は「複数の種類の鳥がそれぞれ鳴いている」状況を指す語と理解できました。

 この語句の使い分けは、複数の種類の鳥が群れとなっているのを、視覚で捉えたのか(ももちどり)、あるいは聴覚でとらえたのか(よぶこどり)の違いです。そして、春になり前年と同じように(あらためて)きた渡り鳥と、去り行く渡り鳥に対比できます。

⑤ 春の雁は、去り行く渡り鳥の典型的な例となります。

 雁が景として詠われている1-1-31歌は、この地の梅の香が薫ることから本拠地の春の近いことを雁が連想した行動を詠います。四句にある「花」は、部立て「春歌上」の配列からは「梅の花」以外はあり得ません。仮住まいの地に春がきたのであれば、北にある本拠地にも春が近づいていると雁は理解しており、それを作者伊勢は残念だが認めざるを得ない、と配列から推測できます。詞書に「帰るかり」とある所以です。

 次の歌1-1-32歌は、梅の移り香にもウグイスが喜んで寄ってくると詠います。この2首は、梅の香から連想したかと思うものを詠っていることが共通であり、前後にあるそれぞれ一対の歌との共通項は異なります。(『古今和歌集』巻一全体の配列再確認は次回以降に記します。)

 なお、遠近の景の歌として対となっているのも上記「2.⑥」で指摘したところです。

⑥ さて、1-1-29歌の詞書(題しらず よみ人しらず)を再確認します。この詞書には、歌本文の理解のための特別なヒントはありません。このため、部立て「春歌上」の配列の方針のもとにある歌としてこの歌を理解せよ、というのが編纂者からメッセージとなります。

⑦ 1-1-29歌本文は、3-4-49歌本文と平仮名表記ではまったく同じです。

 だから、3-4-49歌と同様に、この歌本文には、作者あるいは作中人物の行動や思いは直接表現されていない、と判断できます。

 しかし、仮名序の和歌の定義に従えば、この歌は、春という時期における「見るものきくもの」につけて「心におもふこと」を詠んだもののはずです。

 「心におもふこと」とは、春の景に触発された「喜び、感動、発見、感謝、希望、諦観、一体感、共感、開放感、安心感、悲しみ、憂愁、決意、あるいは怒り」などの何れかではないか。

 歌本文をみると、動物(「よぶこどり」)の行動が一つ詠われており、その行動が作者の「心におもふこと」を示唆しているのではないか。

 「よぶこどり」とは、上記「2.⑩」で指摘したように、「呼びかけ合って囀っている鳥たち」とか、「人を呼んでいるかのように鳴く鳥(たち)」の意と理解しました。集まっている鳥の種類は関係ありません。

 この理解は、土屋氏の「子、即ち人間、を呼ぶように聞こえる鳥」や竹岡氏の「呼ぶような声で鳴く鳥」などの理解と重なります。

 そのほかの語句の理解も、上記「2.⑥~⑧」に従います。

⑧ 現代語訳を、あらためて試みます。

 歌本文は、3-4-49歌とおなじように、次の二つの文からなっています。

文AA  をちこちのたづきもしらぬ山なかに: よぶこどりが現在居る場所を山中と作者は限定。またその山中に関して誰かの認識を作者は紹介している。

文BB  おぼつかなくもよぶこどりかな:よぶこどりの現在の行動を作者は推測

 作者の「思い」は、(部立て「春歌上」にあるので、)春という限定した季節に鳥たちが山中において鳴きかわすことに象徴されている、と理解してよい。そして「よぶこどり」の「よぶ」には動詞「呼ぶ」が掛かっています。

⑨ 前回(ブログ2019/9/16付け)では、文AAの現代語訳(試案)を、

 「遠い山なのか近い山なのか分からないが、山のほうから」

として、よぶこどりの今居るところが作者の居るところからどれほど離れているのか知る方法がなく、わからないのだが、と理解しました。しかし、逐語訳に近づけたいと思います。詞書が異なるものの、文AAは景を詠っている部分であり、3-4-49歌の文Aと同文がよいと思います。即ち、

 「遠方の山か手前の山か、それを判断する方法もわからない山の中に」

⑩ 文BBは、「作者の思い」を示唆しているはずです。詞書が「題しらず」ですので、部立て「春歌上」の配列に留意して現代語訳を試みます。

 1-1-29歌と1-1-30歌は一組の歌として、都から望む遠方の春の景を詠っています。そして、1-1-29歌は、聴覚で得たかのような「山にも春が深まる」景から作者の思いを詠っています。

 前回(ブログ2019/9/16付け「6.」)、文AAと文BBには推測・推量の助動詞や類推の助詞もない、と指摘しました。形容詞「おぼつかなし」にも推測の意はない、とも指摘しました。確実に、予想通りの景に出あい、今年もまた去年と同じような感慨を得たことを詠っているのが、この歌である、と言えます。

 1-1-30歌は、1-1-29歌よりさらに遠い地までの春を詠っています。北の根拠地も春が近いと勇躍北に向かう雁の姿も毎年見慣れた光景です。

 終助詞「かな」は、詠嘆的に文を言い切るのに用いられる語句です。

 想像するに、よぶこどりの毎年繰り返されるにぎやかな鳴き声を聞くにつれ、前向きの気持ちを作者(作中人物)は持ったのではないか。それは、喜び、共感、開放感、安心感というようなことではないか。

 文BBの現代語訳を試みると、

「待ち遠しい・もどかしいと思いつつ、「呼ぶような声のよぶこどり」であるよなあ。」

 

⑪ このように類似歌1-1-29歌は、春という季節の到来に、まためぐってきたなあと安心感を詠った歌です。「よぶこどり」は、春にみる鳥の群れであり、特定の人物の示唆はありません。

 前回(ブログ2019/9/16付け)で、上記と異なる現代語訳(試案)を示し、憂愁を詠うかと想像したのは誤りでした。同(試案)は削除します。

 この歌は、よみ人しらずの歌です。『古今和歌集』歌の元資料の歌の意が、不安を感じている訳例のようになる可能性を否定しませんが、『古今和歌集』の編纂者は、元資料の歌をこのように理解してここに配列していると思えます。

⑫ このように、3-4-49歌とその類似歌1-1-29歌は異なる歌意の歌であることを再確認しました。

 

4.再考 同じ詞書のもとにある歌として

① 同じ詞書のもとにある3-4-48歌と4-3-49歌の整合性を確認します。

 3-4-48歌本文は次のとおりであり、二つの文からなる歌でした。

   あらをだをあらすきかへしかへしても見てこそやまめ人のこころを

文A  あら 小田を あら 鋤きかへし かへしても 見みてこそや

文B (みてこそや) まめ人の こころを

 4-3-49歌本文は、文の返事をもらえない状態が続き進展のない男が、昔に復することを待ち望んでいることを、「よぶこどり」に自らをたとえて、婉曲に相手の女に訴えている歌です。

② 3-4-48歌は、何かのきっかけから拒まれ続けている男が、女に時期をみて言い寄っている恋の歌と理解したところです(ブログ2026/3/23付け参照)。

 その歌本文は同音異義の語句「あら」により歌意を際立たせた歌を相手に送れているところから、春の時期を撰んで送っていることを強調し、仲をもどす時期ではないかと言っている、と理解できます。

③ この2首は、歌番号順に相手に送られた歌として、一対となった恋の歌であり、内容的に違和感がないことを再確認しました。

④ ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただき有難うございます。

 次回は、3-4-50歌を確認します。

(2026/4/20  上村 朋)