わかたんかこれ 猿丸集恋歌確認33歌 人のがりやる

前回(2024/4/1)に引きつづき『猿丸集』歌の再確認をします。今回は第33歌です。

1.経緯

2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」(付記1.参照)という仮説を検証中である。12の歌群を想定し、3-4-32歌まではすべて類似歌とは異なる歌意の恋の歌であることを再確認した。歌は、『新編国歌大観』より引用する。

2.再考の結果概要 3-4-33歌 

① 『猿丸集』の第33番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌とは、次のとおり。

3-4-33歌  あめのふりける日、やへやまぶきををりて人のがりやるとてよめる

     はるさめににほへるいろもあかなくにかさへなつかしやまぶきのはな

 

 類似歌 『古今和歌集』 1-1-122歌  題しらず    よみ人知らず」 巻第二 春歌下

     春雨ににほへる色もあかなくにかさへなつかし山吹の花

 

② この2首は、詞書が異なっているものの、歌本文は清濁抜きの平仮名表記をすると、まったく同じです。

下記の検討をした結果、次のことが言えます。

 第一 この歌は、詞書にある「人のがりやる」の意が「ひとのもとに遣る」であり、かすかな香りに拘る詠いぶりと同音異義のある語句「かさへ」から詞書と歌本文の現代語訳(試案)は全面的に改まった。次のとおり。

 詞書:「雨の降っていたという日、八重山吹を折り取って、ある人の許に贈る、ということで(誰かが)詠んだ(歌)」(3-4-33歌詞書改訳(案))

 歌本文:「春雨に濡れて、美しくつややかであり続けている花の色だけでも、なお見飽きないのに(ねえ)。その香まで心がひかれます、山吹の花は。(そして、遠い存在であるあなたとの昔のことがしのばれて慕わしい、山吹の花が慕わしいように)」(3-4-33歌本文改訳(案))

 第二 類似歌の現代語訳(試案)も、記載されている歌集の配列の再考察の結果修正した。「かさへ」は一意である。

 第三 これらの歌は、「山吹」に寄せた歌であることは共通であるが、前回(ブログ2018/10/22付け)と同様に趣旨が違う歌となった。

 第四 この歌は、前回同様に「恋の歌」である。この歌は再訪を願う女の歌であり、類似歌は、春の花である山吹を愛でている歌である。

③ 検討は、3-4-33歌を最初に、次に類似歌を行います。

 

3.再考 3-4-33歌の詞書

① 詞書は、いくつかの文からなります。

第一 「あめのふりける日、」 :その行為があった日の特徴を記す。

第二 「やへやまぶきををりて人のがりやる」 :その行為を記す。だれがしたかは明記していない。

第三 「とてよめる」 :それを詠んだ歌と記す 誰が詠んだかは明記していない。

② 第一の文は、「雨の降りける日」と理解できます。「ける」は、過去回想の助動詞「けり」の連体形です。

「その行為の日は雨が降っていた」という自然現象に驚きや詠嘆の気持ちがこめられているとすれば、それは、第二の文にある「その行為」が、驚きや詠嘆の気持ちの対象なのでしょうか。あるいは歌本文に「その行為」が示唆されているのでしょうか。この第一の文だけでは判然としません。

③ 第二の文の前段にある「やへやまぶき」とは、植物名であるほか、前回(ブログ2018/10/22付け)に推測した「山吹襲(かさね)」(男が「袍」の下に着る裾の長い衣服のひとつで「山吹」と言う種類の襲)の略称に「やへ」という修飾語句がある形、とも取れます。

  植物「やへやまぶき」とは、黄色の花をつけるヤマブキのなかで八重咲きのものを言います。八重咲きは園芸種であって、雌しべが退化し雄蕊が変化して花弁になっているため、実を結ぶことがありません。『萬葉集』では歌本文に「やまぶき」を植える(2-1-1911歌、2-1-4210歌など)とか実がならない(2-1-1864歌)などとある歌があります。

 三代集でも歌本文に「やまぶき」と表記があるものに「やへやまぶき」とはっきり特定できる歌があります(付記2.参照)。ただ、詞書には「やへやまぶき」という表記例はありません。

④ 山吹の花の香については、園芸関係の説明において特記しているのはまずありません。しかし、花に香りはあります。

 調香師大澤さとりさんの写真でつづるphoto essay 「パルファンサトリの香り紀行」の2012/4/14付けのブログ「山吹(やまぶき)の花のにおい」によれば、

 「(やまぶきが)みごろになったばかりの木からは、ハニーのグリーンノートが漂ってくる。開きかけのつぼみからは、ちょっと鼻を刺すような青臭さと蜜の粘っこい匂いがする」

とあります(大澤さんはフランス調香師協会会員です)。

 その「香」を詠っているかと思える歌は三代集ではこの歌だけです(付記3.参照)。

 なお、「山吹襲(かさね)」については付記3.を参照されたい。

⑤ また、四段活用の動詞「をる」とは、「aおる・折り取る b曲げる c波などがくずれる」意があります(『例解古語辞典』)

「をりて」とは、「山吹」が植物のみを指しているとみれば、「花の盛りの頃の山吹を折って」の意となります。「山吹」が「山吹襲」の略とみれば、男が着用している「襲(下襲)を折りたたんで」の意となります。

「をりて」とは、前回「急いで逃げ支度を手伝って」の意ともなる、と推測しました。

⑥ 第二の文の後段「人のがりやる」は、前回「人逃りやる」と推測しましたが、「人の許やる」という理解のほうが妥当ではないか。

「許(がり)」とは、体言に直接付くか、「の」を伴う連体修飾語によって修飾され、「(その人の)いる所(へ)・(その人の)もとへ」という意の名詞です(『例解古語辞典』以下同じ)。

動詞「逃る」の活用は下二段活用でありその連用形は「のがれ」です。

「やる」(遣る)とは、「a行かせる b送る・与える c逃がす」の意の動詞です。

「人」とは、ここでは特定の人物を指しています。

 そのため「人のがりやる」とは、(折った八重山吹を、あるいは「襲(下襲)を折りたたんで」)「作者と関係のある人物の居るところへ送る」意となります。

 また、この文には、主語が欠けています。このためこの行為をした人物は、この詞書を記している人物か、あるいは助動詞「けり」があるので第三者か、決めかねます。

⑦ 第三の文にある「よめる」の「る」は完了の助動詞「り」の連体形です。『猿丸集』の他の詞書と同様に「歌」という語句が省かれた表記と理解できます。

⑧ 現代語訳を改めて試みると、歌本文を参考にしないと、2案があり得ます。

 第一案 植物の八重山吹の場合:「雨の降っていたという日、八重山吹を折り取って、ある人の許に贈る、ということで(誰かが)詠んだ(歌)」

 品種を「やへやまぶき」に限っている意味は、歌本文によって判断することになります。

 第二案 「山吹襲」の場合:「雨の降っていたという日、八重に山吹襲を折りたたみ、ある人の許に送る、ということで(誰かが)詠んだ(歌)」

 「やへやまぶき」と詞書に記しているので、植物の品種の特性を惹起しているか否かは、歌本文によって判断することになります。

 前回(ブログ2018/10/22付け)に示した、現代語訳(試案)は、誤りでした。

 

4.再考 3-4-33歌の歌本文

① 歌本文は、詞書に従えば、「やへやまぶき」をおくるにあたり添えた文(手紙)に書き付けた歌(あるいはこの歌のみを添えた)ということになります。歌本文は、いくつかの文からなります。

第一 「はるさめに」:時期と天候を明示。詞書の第一の文と矛盾しない表現。

第二 「にほへるいろもあかなくに」:この文と第一の文だけでは何の「いろ」なのか不明。詞書に従えば、「やへやまぶき」の「いろ」について記している、と推測できる。そして、それが「あかなくに」であるのは第一の文の内容に起因している、とも推測できる。

第三 「かさへなつかしやまぶきのはな」:詞書にある「やへやまぶき」の「はな」を明記して強調している。また、第三の文は第二の文とともに「色」と「香」を対比させている、とみることができる。

「はな」への強調から、「やまぶき」は植物の「山吹」が第一候補となり、前回推測した「襲」を指すという理解が第二候補です。

 このため、詞書は第一案(上記「3.⑧」参照)を仮定して検討を続けます。

② 第一の文に、同音異義の語句はありません。格助詞「に」は、ここでは、動作・作用の起こる原因・理由を示しているのではないか。詞書の理解が上記のどちらの案(「3.⑧」参照)でも「春雨が降っている」趣旨の理解となります。

③ 第二の文は、動詞「にほふ」の已然形+完了の助動詞「り」の連体形+名詞「いろ」+係助詞「も」+連語「あかなくに」、から成ります。

 「にほふ」とは、「a色に染まるb色が美しく輝く・美しくつややかである cよいかおりがする」の意があります。

 「いろ」とは、「a色彩 b美しさ・華美 c豊かな心・情趣 d恋愛・情事」などの意があります。

 助詞「も」は、「付いている語句を、主題・題目などとしてとり立て、類似の事態の一つとして提示する意を表します(同上)。ここでの類似の事態は、山吹の花に関してであれば、a詠っていない「群生していること」(存在感のあること)と、b詠っている「にほへるいろ」と、c第三の文にある「か」(香り)ではないか。

 連語「あかなくに」とは、「飽か無くに」であり、関心事に十分堪能しても気持ちが離れるようなことがない、という気持ちを表し、「まだ満足しないのに・なおも心がひかれるのに」の意です。「なくに」には詠嘆の気持ちがあります。ここでの「に」は間投助詞です。

④ だから第二の文は、詞書が第一案と仮定すれば、おくる山吹に対する作者の評価であり、

「美しくつややかである(山吹の)花の色(色彩)も、なお見飽きないのに(なあ)」(第二の文33a)

という理解になります。

また、この第二の文は

「美しくつややかであった貴方の豊かな心(あるいは貴方との恋愛・情事)にも、なお心がひかれるのに(なあ)」(第二の文33b)

という理解が可能です。この理解は暗喩の意とすることができるかもしれません。

⑤ 第三の文にある 「かさへ」とは同音異義の語句です。「(山吹の花は)「香さへ」のほかに、新たな文を起こしたとみれば「(遠称の代名詞である)「か」(彼)さへ」の意が、及び「(雨の日に)笠へ」の意とも理解可能です。

 副助詞「さへ」とは、「(・・・ばかりでなく)・・・まで、というように、さらにそのうえに加わる意を添える」語句です。そして、『例解古語辞典』には

a「さへ」が付く語句だけが強まるのでなく、それ以下の語句まで含めた事がらが強められることが多い。

b時代がくだるに従って「さへ」が「だに」に近い気持ちで用いられるようになる。平安時代まででは。あくまでそのほとんどの例は、さらに何かがそのうえに加わる意味を表して用いられていることを忘れてはならない。

などと、解説しています。

 また、「なつかし」とは、四段活用の動詞「なつく」が形容詞化した語句であり、「a心がひかれる・慕わしい・いとしい b昔のことがしのばれて慕わしい・なつかしい」という意です。

⑥ このため、第三の文は、詞書を第一案と仮定しているので、「(山吹の花は)「香さへ」という理解が第一であり、「なつかし」の意に従って、2案あります。

「(山吹は花の色ばかりでなく)その香まで心がひかれる、それが山吹の花である。」(第三の文33a)

あるいは、

「その香によっても昔のことがしのばれて慕わしい・なつかしい、山吹の母よ。」(第三の文33b)

 そして、「さへ」に関して上記⑤のaのような解説があるので、「さへ」の意の対象を山吹以外にも求めてみると、「(遠称の代名詞である)「か」(彼)さへ」という理解が可能であり、その場合、

「遠い存在であるあなたにも心がひかれる、山吹の花に心がひかれるように」(第三の文33c)、

あるいは、

「遠い存在であるあなたとの昔のことがしのばれて慕わしい、山吹の花が慕わしいように」(第三の文33d)

となります。これらの意をこの歌の暗喩と理解すれば、この歌は「恋の歌」となります。

「(雨の日に)笠へ」という理解は、詞書にいう「おくる八重山吹」は花の盛りであり、それを笠に添えるという場面が官人の世界に思い浮かびません。

⑦ このように、詞書の第一案を仮定すれば、第一の文から植物の「やへやまぶき」を想定して理解できるので、第三の文にある「やまぶきのはな」は割愛できます。念押しをしているかに最後に置かれているので、「かさへなつかし」と終止形で終わっている倒置文の文型からなる文、として、「なつかし」を強調している、と推測します。

 歌本文全体として各文の組合せは、植物の山吹を景にした歌として、「第二の文33a」と「第三の文33d」の組合せを選びたい。山吹の薄い香りも言いたてて、山吹に執着していることを示唆しているのではないか。そして「かさへ」の「第三の文33d」の暗喩があるのではないか。即ち、

「春雨に濡れて、美しくつややかであり続けている花の色だけでも、なお見飽きないのに(ねえ)。その香まで心がひかれるます、山吹の花は。(そして、遠い存在であるあなたとの昔のことがしのばれて慕わしい、山吹の花が慕わしいように)」(33歌改訳a案)

山吹は年年歳歳咲くのですから、自らの屋敷に咲いた今年の花が春雨に濡れているのをみて、お互いの思い出にあるはずの事柄を作者は相手に訴えたかったのではないか、と推測したところです。それは、今も山吹をおくった相手を慕っており来訪を待ち望んでいる、とみることができます。

⑧ 実が付かない八重の山吹は、過去の交際が途切れて実っていないことを示唆することができ、詞書は、上記「3.⑧」の第一案は妥当であろう、と思います。

 このような内容の歌は、「恋の歌」と言えます。

5.再考 3-4-33歌の類似歌 1-1-122歌

① 次に、類似歌を検討します。

 詞書は「題しらず  よみ人知らず」です。『古今和歌集』巻二の配列の検討から、この歌は、第四の歌群 藤と山吹による歌群( 1-1-119歌~1-1-125歌)の1首です (ブログ2018/10/22付け「2.」)

巻二の歌群は、詞書において「見る物、聞く物」の類を指標として配列されています。

 『古今和歌集』の仮名序は、「和歌(短歌も長歌も旋頭歌も)は、人の心を種として、心に思うことを、見る物、聞く物につけて言い出したもの」と明言しており、部立ては、「見る物、聞く物」を分類したもの」と私は指摘しました。四季に対して「心に思うこと」は、その時季への期待、よろこび及び悲しみ、並びに人事と結びつく時季があるので時季の行事参加や昇進などへの期待、などいろいろあります(ブログ2024/3/11付け「4.」参照)。 (なお、「見る」の意は、仮名序においては「目によって視覚の対象を捉える」意(『古典基礎語辞典』)になります。)

② この歌群の各歌における具体の「心に思うこと」(「見る物。聞くもの」の到来を期待する気持ちとそれに接する喜びの気持ち等)を確認すると、次のとおり。前回の検討時(ブログ2018/10/22付け)から理解が深まりました。

1-1-119歌:藤は他にまつわりつく性質がある。その藤に、お前を育てた花山寺(元慶寺)の住職(作者)に挨拶せよと迫れと詠い、花の盛りにあえた喜びを分かち合いたい気持ちを詠う。

 1-1-120歌:自宅の藤を立ち止まって見てくれる人が居る。見ることができた嬉しさを分かち合ってくれない気持ちを詠う

 1-1-121歌:挨拶歌として「あの山吹の花も、勿論美しく咲いているだろうなあ」と特定の土地の山吹を懐かしむ気持ちを詠う。(この歌は3-4-34歌の類似歌であり再確認前の理解(ブログ2018/10/29付け参照)に今は従った。)

 1-1-122歌:検討対象なので保留する

 1-1-123歌:山吹を植えたあの人に見せたいが、ともに楽しめないのを嘆く歌。

 1-1-124歌:風が、山吹の花を散らし流れを揺らして春の景を台無しにするのを嘆く歌。

 1-1-125歌:有名な井手の山吹を鑑賞できなかった今年の春を嘆く歌。

 これらは、藤の花や山吹の花が咲くのを作者は楽しみそして散ってゆくのを惜しんでいる歌です。

 なお、次に配列されている1-1-126歌は、春の山辺を景として、春を訪ねて旅寝も厭わない気持ちを詠っており、「見る物、聞く物」は、「藤と山吹」中心ではなくなっていますので、別の歌群の歌と整理できます。

③ この配列は、また、三つグループから成る、とみることが出来ます。即ち、

 最初の藤を景とした2首は、花を見る喜びを作者は分かち合えないでいます(1-1-119歌と1-1-122歌)。

 次に配列されている山吹を景とした2首は、1-1-122歌を保留するものの、山吹から過去の経験を思い起こしているのではないか、と推測できます。

 次の山吹を景とした3首は、せっかく咲いた山吹が用を成さないのを嘆いています(1-1-123歌と1-1-124歌と1-1-125歌)。

三つのグループがあるならば、1-1-122歌の「待つ心」は、「目の前にはない山吹とそれに出会ったときの思い」なのではないか、と想像します。

④ それを歌本文で確かめます。

古今和歌集』の編纂者は、「題しらず よみ人知らず」という詞書によって何らかの示唆をしているとは思えません。しかし、配列からは、上記③に指摘したように、

「山吹から過去の経験を思い起こしているのではないか」

と仮説をたてることができます。歌は、次のような三つの文からなります。

⑤ 第十一 「はるさめに」:時期と天候を明示。

第十二 「にほへるいろもあかなくに」:この文と第一の文だけでは何の「いろ」なのか不明。その何かの「いろ」の状況は、第十一の文の内容が関係しているとは推測できる。配列からの仮説からは「何か」は山吹。

第十三 「かさへなつかし」:配列と第十二の文から、植物の山吹への思いを記すと理解可能。形容詞「なつかし」は終止形。ここで歌本文は一旦文章が終わる。

<2024/4/14  pm>

第十四 「やまぶきのはな」:第十三の文までと対を成す名詞句のみの文章。配列からの仮説以外に、この文で、第十三の文までが「やまぶき」に関する文であったことが判る。歌本文全体は第十一~第十三のグループと第十四の文とが倒置文となっている。

⑥ 第十一の文は、3-4-33歌と同様に、時期を明示しています。3-4-33歌の第一の文と同じように「春雨が降っている」趣旨の理解となります。

第十二の文は、配列からの仮説によらないとここまでの歌本文だけでは「何のいろ」か不明ですが、「はるさめ」が関係するので少なくとも「いろ」の意は「色彩」とか「美しさ」とか抽象的なものになります。「花の「色」とまで限定した現代語訳ができません。

 「にほへるいろも」にある「る」は完了の助動詞「り」の連体形です。連語「あかなくに」の意は上記「4.③」参照。

そのため、次のような理解となります。

 「美しくつややかである色彩も、なお心がひかれるのに(なあ)」(第二の文122a)

⑦ 次に、第十三の文は、「か」の理解が「いろ」と対を成しているとすれば、「香り」と「色彩」、「彼(遠称の代名詞)」と「豊かな心あるいは恋愛・情事」という対になります。

 ここでは、配列から、「山吹」を景とした歌と限定できますので、「香り」と「色彩」の対として、「なつかし」の意によって2案の理解があります。

 「香まで心がひかれる(あるいは慕わしい)。」(第三の文122a)

 「(色彩ばかりでなく)香によって昔のことがしのばれて慕わしい・なつかしい」(第三の文122b)

第十四の文は、第十三の文までの対象が「山吹の花」であったことを明かしています。

「なつかし」とは、「山吹」について、詠っていることが再確認できた段階で、その微かな香りに言及していることが珍しいことに気が付くことになります。

 この歌は、毎年咲く山吹に対して詠っているのであり、1-1-121歌とともに、過去から連なる思いを詠っている、と言えますので、「第三の文122a」であっても配列に沿った理解になっています。

 そして、1-1-122歌の「待つ心」は、「そのように過去に出会った山吹はいつも裏切らなかったという思い」でありました。今年の山吹にも作者はそれを期待していると思います。

⑧ このような理解からは、前回の歌本文の現代語訳(試案)は誤りとなります。

改めて現代語訳を試みると、次のとおり。

「春雨に濡れて、美しくつややかであるその色彩も、なおも見飽きないのだが、さらに香まで心がひかれるよ。ああ、山吹の花よ。」(1-1-122歌改訳案)

 

⑨ 『古今和歌集』巻二所載の歌には、『古今和歌集』編纂のために新たに詠まれた歌がありません。つまり、「春歌」に相応しい歌を既に詠まれた歌から編纂方針に従い選び、詞書を新たに加えて配列したのが巻二です。

 だから、『古今和歌集』所載の歌は、実際に詠まれた時点の理解と一致しない場合があることに留意すべきです。

 この歌もその1例ではないか。実際には屏風歌として詠まれた歌であれば、一般的には、この歌の歌意は「心惹かれるヤマブキよ」という理解であったかもしれないし、送別の席で送られる人物が披露したのであれば、どこにでもある山吹ですから、かすかな香り(微細な心遣い)も振り返り、感謝の気持ちをこめている歌であったのかもしれません。恋の歌として詠われたとすれば、『猿丸集』のような理解の歌であった可能性もあります。

 

6.再考 3-4-33歌は恋の歌か

① この歌(3-4-33歌)は、再考し理解が改まりました。詞書の現代語訳(試案)は、上記「3.⑦」に記す第一案、及び歌本文のそれは、上記「4.⑦」に記す「33歌改訳a案」 となりました。

 類似歌(1-1-122歌)も、再考により理解が深まりました。詞書は「題しらず よみ人しらず」であって歌本文の現代語訳(試案)は、上記「5.⑧」に記す「1-1-122歌改訳案」となりました。

 ともに、山吹を景とした歌です。

② 歌本文が清濁抜きの平仮名表記では全く同じであるものの、それぞれの所載の歌集の配列と詞書により、歌意が異なる歌となりました。

 この歌は、再訪を願う女の歌であり、類似歌は、春の花である山吹を愛でている歌です。

③ この歌は、「恋の歌」となりました。その条件(付記1,参照)をクリアしています。

 即ち、現代語訳(試案)「33歌改訳a案」は、「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解でき、類似歌と歌意が異なり、その歌集において配列上違和感のなく、「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許せる歌です。

④ ブログわかたんかこれ ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。次回は、3-4-34歌を再確認します。

(2024/4/15  上村 朋)

付記1.『猿丸集』の検討における「恋の歌」の定義

次の四つの要件をすべて満足している歌と定義する(ブログ2020/7/6付け「2.④」)。

第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと

第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと

付記2.三代集での「やまぶき」の用例について

①『古今和歌集』には歌本文に6例ある。その「やまぶき」が「やへやまぶき」を指しているのは、植えたと詠う1-1-123歌である。井出の山吹はよく詠われている。植えて絶やさない努力をしていれば1-1-125歌も「やへやまぶきかも知れない。恋の部立てにある歌は一首もない。また花の香を詠っているかに思えるのは1-1-122歌のみである。

②1-1-121歌 (巻二 春歌下) 題しらず  よみ人しらず 

    今もかもさきにほふらむ橘のこじまのさきの山吹の花

1-1-122歌 (巻二 春歌下) 題しらず  よみ人しらず(巻一) 

     春雨ににほへる色もあかなくにかさへなつかし山吹の花

(猿丸集第33歌の類似歌)

1-1-123歌(巻二 春歌下) 題しらず  よみ人しらず

     山ぶきはあやななさきそ花見むとうゑけむ君がこよひこなくに

1-1-124歌(巻二 春歌下) よしの河のほとりに山ぶきのさけりけるをよめる  つらゆき

     吉野河岸の山吹ふくかぜにそこの影さへうつろひにけり

1-1-125 歌  (巻二 春歌下) 題しらず  よみ人しらず

    かはづなくゐでの山吹ちりにけり花のさかりにあはましものを

1-1-1012 歌  (巻十九 雜体 誹諧歌) 題しらず  素性法師 

     山吹の花色衣ぬしやたれとへどこたへずくちなしにして

③『後撰集』では4例である。「やまぶき」が「やへやまぶき」を指しているのは1-2-108歌である。あがたのゐどが集落内の重要施設であれば植えたものの可能性があり1-2-104歌の「やまぶき」もも八重山吹かもしれない。みな四季の部立てにある歌である。

 花の香を詠んだ例はない。

④1-2-104 (巻三 春下) あがたのゐどといふ家より、藤原治方につかはしける  橘のきんひらが女

     宮こ人きてもをらなんかはづなくあがたのゐどの山吹の花

1-2-108 (巻三 春下) 前栽に山吹ある所にて   かねすけの朝臣

     わがきたるひとへ衣は山吹のやへの色にもおとらざりけり

1-2-121 (巻三 春下) 題しらず  よみ人も

     花ざかりまだもすぎぬに吉野河影にうつろふ岸の山吹

1-2-122 (巻三 春下) 人の心たのみがたくなりければ、山吹のちりしきたるを、これ見よとてつかはしける

     しのびかねなきてかはずの惜しむをもしらずうつろふ山吹の花

 

⑤『拾遺和歌集』 には6例ある。その「やまぶき」が「やへやまぶき」を指しているのは、1-3-72歌と1-3-1059歌であるが、部立ては春あるいは雑春である。花の香を詠った例はない。

⑥ 1-3-68歌 (巻一 春) 天暦御時歌合に    源したがふ

     春ふかみゐでのかは浪たちかへり見てこそゆかめ山吹の花

1-3-69歌 (巻一 春) ゐでといふ所に、山吹の花おもしろくさきたるを見て  恵慶法師

     山吹の花のさかりにゐでにきてこのさと人になりぬべきかな

1-3-70歌 (巻一 春) 屏風に      もとすけ

     物もいはでながめてぞふる山吹の花に心ぞうつろひぬらん

1-3-71歌 (巻一 春) 題しらず     よみ人しらず

     さは水にかはづなくなり山吹のうつろふ影やそこに見ゆらん

1-3-72歌 (巻一 春) 題しらず     よみ人しらず

     わがやどのやへ山吹はひとへだにちりのこらなんはるのかたみに

1-3-1059歌 (巻十六 雜春) 三月うるふ月ありける年、やへ山吹をよみ侍りける  菅原輔昭

     春風はのどけかるべしやへよりもかさねてにほへ山吹の花

⑦『萬葉集』で「やまぶき」表記のある歌を、14首確認した(2024/4/15現在)

2-1-158歌、2-1-1439歌、2-1-1448歌、2-1-1704歌、2-1-1864歌、2-1-1911歌、2-1-2796歌、2-1-3993歌、2-1-3997歌、2-1-4208歌、2-1-4209歌、2-1-4210歌、2-1-4326歌、2-1-4328歌

 

付記3.山吹と襲(かさね)とについて

① 『例解古語辞典』や『王朝文学文化歴史辞典』(2011笠間書院)』やウィキペディアなどによれば、山吹の意はいくつかある。

第一 植物の名

第二 「山吹襲(かさね)」の略。襲の色目の名。表は薄朽葉(うすくちば)色、裏は黄色。春に着用する。襲とは、下襲の略で男が「袍」の下に着る裾の長い衣服。下襲は、外を歩く時は畳んで束帯にはさみ室内では長く引き、着座の時は畳んで後に畳んでおく(簀子では高欄にかける)という使い方をする衣服。

第三 色の名。ヤマブキの花のような色。黄色・黄金色。

(付記終わり  2024/4/15  上村 朋)

 

わかたんかこれ 猿丸集恋歌確認29歌から32歌は恋の歌

前回(2024/3/25)に引きつづき『猿丸集』歌の再確認をします。今回は第29歌から第32歌のまとめです。                                         

1.経緯

2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」(付記1.参照)という仮説を検証中である。12の歌群を想定し、3-4-28歌まではすべて類似歌とは異なる歌意の恋の歌であることを再確認した。以降3-4-32歌までは異なる歌意であることを再確認したが、これらが恋の歌かについては保留している。

 歌は、『新編国歌大観』より引用する。

2.再考 3-4-32歌はじめ「第七 乗り越える歌群(4首 詞書3題)」の歌は恋の歌か

① 3-4-29歌から3-4-32歌に対しては歌群「第七 乗り越える歌群(4首 詞書3題)」を想定しています。

この4首が一つの歌群であるかも確認しつつ「恋の歌」(付記1.参照)の判断をします。

② 以下の検討をした結果、次のことが言えます。

第一 3-4-29歌と3-4-30歌は、改訳した現代語訳(試案)の理解であって、共通の詞書のもとにある女の立場で詠まれている「恋の歌」である。

第二 3-4-30歌と3-4-32歌は、改訳した現代語訳(試案)の理解であって、詞書は異なるものの「見る」という動詞を共有し、それに関係する人物の評価が対照的な歌であり、恋の当事者を励ますため詠まれている歌で、「恋に心をよせた歌」と言ってよい。

第三 3-4-29歌から3-4-32歌は、一つの歌群(第七 乗り越える歌群)を構成する歌であり、上記第一、第二のようにそれぞれ「恋の歌」である。

第四 当初想定した歌群のうち、第六と第七の歌群名とそれを構成する歌の組合せは、その後このブログまで検討してきた結果によって修正を要しない。

③ 最初に、各歌と、前回までに再確認したその現代語訳(試案)を示します。(付記2.に記すブログ参照)

 3-4-29歌     あひしれりける女、ひさしくなかたえておとづれたりけるによみてやりける

     あづさゆみゆづかあらためなかひさしひかずもひきもきみがまにまに

 

 3-4-30歌   (詞書なし 3-4-29歌の詞書をうける)

     あらちをのかるやのさきにたつしかもいとわがごとく物はおもはじ

  

 3-4-31歌   まへちかき梅の花のさきたりけるを見て

     やどちかくむめのはなうゑじあぢきなくまつ人のかにあやまたれけり

 

3-4-32歌    やまでらにまかりけるに、さくらのさきけるを見てよめる

     山たかみ人もすさめぬさくらばないたくなわびそわれ見はやさむ

④ これらの歌に関して、2024/4/1現在の現代語訳(試案)は次のとおり。

 3-4-29歌   「昵懇の仲であったところの女が、暫く途絶えて後に男が訪れたのだが、この歌を詠んで逃したということだ。」(29歌詞書改訳)

  「あづさ弓で矢を射るのに重要なゆづかを巻きなおされてから私たちのこのような仲が長く続いています。これから、また弓を引かないのも弓を引くのもあなたのお心のままに。(今日のところはお帰り下さい)」(3-4-29歌本文改訳その2)

 

 3-4-30歌 (3-4-29歌の詞書のもとにある歌)

 「勇壮な男が射止めようと矢を向けた先に立っている鹿も、ほんとうに私と同じように、物に動じないのであろうよ(私は今の交際相手を選びません)。」(30歌改訳)

   

 3-4-31歌 「庭先近くに(あるいは私の身の回り近くに)梅の花が咲いたことに感慨をもって(詠んだ歌)」(31歌詞書改訳(試案))

 「屋敷内に、咲いている梅は置くまい。にがにがしいことに、仏道修行を妨げる第六天魔王のような人が用いている香に勘違いさせられてしまったから。」(31歌本文改訳(試案))

 

3-4-32歌 「山寺に参ったところ、簀(さく)などの先を蹴るのを目撃して詠んだ(歌)」 (第32歌詞書改訳)

       「山が高いので、人が慰みとはしない桜の花よ。その桜の花のようにひとが顧みない簀の子のそれも端に居るお方よ。嘆き、思い煩うな。私が見計らって光彩を添えよう。」(第32歌本文改訳)

 

⑤ 検討は、この4首がそれぞれ恋の歌であるかを確認し、次いでこの4首で一つの歌群を構成しているか、を確認します。

「恋の歌」とは、付記1.に記すように、広く「恋の心によせる歌」であって、第一の要件は「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、です。

3-4-29歌と3-4-30歌は、詞書を共有しています。

3-4-30歌は、暫く途絶えていた後に男が訪れた際の女の歌で、女の事情を訴えた歌(3-4-29歌)に続き、今でも相手の意に従うことを婉曲に伝えた歌でした。

この2首は、「成人の女」が恋の当事者として歌を詠んでおり、第一の要件を満足しています。これまでの検討で第二の要件「類似歌と歌意が異なる」等も満足しており、ともに「恋の歌」とみなせます。

そして、暫く途絶えていた後に男が訪れた際の歌であるので、恋の進展は順調に進むことが予想でき、歌群名にある「乗り越える」のイメージに反しません。

⑥ 3-4-31歌と3-4-32歌は、詞書が異なるものの、「見る」という作者の行為をともに詞書に記しており、歌本文に共に「はな」という語句を用い、それに関係ある人物に対する作者の評価が好ましくないと好ましいと対照的です。なお、詞書にある「さくら」という語句は同音異義の語句で、共通の語句とはいえませんでした。

この2首は、3-4-27歌から3-4-36歌(3-4-31歌と3-4-32歌を除く)に関する「詞書が同じ歌は歌のベクトル(恋の進展の認識など)をそろえており、詞書が異なるものの共通の語句のある詞書の歌同士は、共通の語句に関してベクトル(視点など)が異なる歌」という指摘(ブログ2020/6/1付け「7.4」参照)と同じです。

 この2首は、前後の歌と同一の傾向を持っているので、対の歌として考察をすすめてよい、と思います。

⑦ 『猿丸集』歌は、詞書に、作者の名前は記されていません。その詞書と歌本文から作者の立場が相愛の男女の一方とか翻意を迫る男とかを推測出来ました。

この2首でも、作者の立場を推測してみます。第一の要件を満足するには、次のような場合があります。

第一 作者あるいは歌本文で作者が評価する人物が恋の当事者である。

第二 詞書に共通にある「見る」の意は、視覚から得た材料で判断する」意(『古典基礎語辞典』)であり、「見定める・見計らう、思う・解釈する」と現代語訳することができます。そのため作者が恋の当事者の縁者などであるとすると、歌意による。

⑧ 前者を先に検討します。

3-4-31歌の現代語訳(試案)は、作者が当事者であれば、「まつ人」が「魔つ人」と評価する人なので、その人は何らかの理由で作者の恋が成就するのを妨げたいと思っている人物と想定できます。干渉などしないでほしいと詠っていると理解できる歌本文なので、広く恋に寄せる歌」になり得ています。これは第一の要件を満足するでしょう。

また、「魔つ人」と評価する人が恋の当事者であるならば、作者の恋敵ではないか。この場合も第一の要件を満足するでしょう。

3-4-32歌の現代語訳(試案)は、作者が恋の当事者であれば、「さくらばな」(に席がある人)は身分差がある恋の相手とみなすことが可能です。夫婦になって依怙贔屓することができる立場に居る作者とみれば、「恋の歌」となるでしょう。また、「さくらばな」と表記されている人物が、恋の当事者であるならば、歌意から作者がその恋の相手とみなせます。そして、女性と推測できます。この場合も「恋の歌」となっています(少なくとも第一の要件を満足しています)。

⑨ 次に、後者を検討します。

3-4-31歌の現代語訳(試案)は、作者が恋の当事者の縁者などに相当する恋の当事者の身近に仕える人物あるいは親であるとすると、恋の当事者の気持ちを汲んで好意を寄せて詠った歌と理解出来、広く「恋によせる歌」となり得ます。

 3-4-32歌の現代語訳(試案)は、作者が恋の当事者の縁者などでそのうち仲介を考えている人物とすれば、恋の当事者の気持ちを汲んで詠った歌と理解出来、広く「恋によせる歌」となりえ得ます。

 作者がどちらの人物であっても、第一の要件を満足します。歌意は、二人を励まし、二人の仲を推し進めてあげようとしている、と理解できます。

⑩ そうすると、3-4-29歌から3-4-32歌は、すべて、恋の障害を乗り越える道筋が見える例を詠っている歌と言え、「第七 乗り越える歌群:3-4-29歌~3-4-32歌 (4首 詞書3題)」の歌となります。

⑪ 次に、想定した歌群はこの4首だけで構成されているかどうかを再確認します。

『猿丸集』に12の歌群を想定したのは、次のようなことに基づくものです。

第一 歌群の想定は、『古今和歌集』などで試みてきたように、部立て、詞書、歌意、前後の歌との関係及び作者の立場などより行ったものである。前後の歌との関係は、詞書や歌本文に用いられている語句、景や類推した主題などを参考に確認したものである(ブログ2020/5/25付け参照)。

第二 歌群想定のための各歌(の詞書と歌本文)の理解は、「2020/6/15付けのブログまでの成果である現代語訳」である(ブログ2020/7/6付け「2.③」参照)。

⑫ その後に開始した「すべての歌が恋の歌」という仮説の検証において前回まで(ブログ2024/3/24付けまで)の知見で、次のものは、上記のように想定した歌群に修正を求めていません。

第三 3-4-26歌まで詞書と歌本文の現代語訳(試案)の改訳と用いている語句の理解

第四 3-4-27歌から3-4-36歌(3-4-31歌と3-4-32歌を除く)に関する「詞書が同じ歌は歌のベクトル(恋の進展の認識など)をそろえており、詞書が異なるものの共通の語句のある詞書の歌同士は、共通の語句に関してベクトル(視点など)が異なる歌」という指摘(ブログ2020/6/1付け「7.4」参照)

第五 3-4-27歌から3-4-30歌の詞書と歌本文の現代語訳(試案)の改訳と用いている語句の理解(付記2.参照)

⑬ 次の3-4-33歌と3-4-34歌の再確認は今後の予定となっており、今、その理解は、「2020/6/15付けのブログまでの成果である現代語訳」で検討します。

 それに基づくと、この2首は、一度は逢って後の出来事に関する一組の歌と理解でき、あきらかに、3-4-31歌と3-4-32歌と異なる場面の歌です(ブログ2018/10/22付けと同2018/10/29より。また付記2.参照)。

 3-4-35歌と3-4-36歌も同様な段階であり、歌群は3-4-33歌と3-4-34歌とともに「第八 もどかしい進展の歌群」とくくってよく、3-4-32歌とは別の歌群が妥当です。

 このため、3-4-29歌から3-4-32歌の4首で一つの歌群となっていることになります。

⑭ ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 次回は、第33歌を確認します。

(2024/4/1   上村 朋)

付記1.恋の歌の定義

  • 「『猿丸集』所載の歌に関して「すべての歌が恋の歌」という仮説は、広く「恋の心によせる歌」であるはずと仮定して、『猿丸集』の歌を理解すると、どのような歌集が立ち現れるのか(ブログ2020/7/6付け「1.③」)を検討するものです。
  • 『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義しておきます(ブログ2020/7/6付け「2.④」)。

第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと

第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと

  •  歌集の撰者・編纂者の意図と、個々の作品(各歌)の作者の意図とは、別です。歌集そのものとそれに記載の歌とは別の作品であり(同上ブログ「2.① 第三」)、この仮説の検証は『猿丸集』編纂の意図や方針検討の一助となると予想している(同上ブログ「1.④」)

 

付記2.猿丸集第31歌前後の詞書7題の現代語訳(試案)一覧

表 猿丸集第31歌前後の詞書7題の現代語訳(試案)一覧    (2024/4/zz現在) <2024/3/25 am>

詞書のある歌番号など

詞書

同左の現代語訳(試案)

その詞書のもとにある歌の趣旨

備考

3-4-27歌

ものへゆきけるみちに、きりのたちわたりける

「あるところへ行く途中において、霧が立ち込めているのであった(それを詠んだ歌)」 

恋の相手ではなく、妨げる人などへ示した歌か

ブログ2024/1/29付けより

3-4-28歌

物へゆきけるみちに、ひぐらしのなきけるをききて 

「あるところへ陸路行く途中において、ヒグラシが鳴きだしたのであった(あのときのヒグラシをも思い出し)、聞きつつ(詠んだ歌)」 

恋の相手とは少なくとも縁遠くなってしまっているものの諦めきれない気持ちがある男の歌

ブログ2024/2/5付け

3-4-29歌&3-4-30歌

あひしれりける女、ひさしくなかたえておとづれたりけるによみてやりける 

「昵懇の仲であったところの女が、暫く途絶えて後に男が訪れたのだが、この歌を詠んで逃したということだ。」

ともに暫く途絶えていた後に男が訪れた際の女の歌

29歌:女の事情を訴えた歌

30歌:今でも相手の意に従うことを婉曲に伝えた歌

29歌:ブログ2024/2/26付けより

30歌:ブログ2024/3/4付けより

3-4-31歌

まへちかき梅の花のさきたりけるを見て

「庭先近くに(あるいは私の身の回り近くに)梅の花が咲いたことに感慨をもって(詠んだ歌)」

「魔つ人」に、干渉あるいは過度の関心を止めてほしいというお願いをする歌

ブログ2024/3/11より

3-4-32歌

やまでらにまかりけるに、さくらのさきけるを見てよめる

「山寺に参ったところ、簀(さく)などの先を蹴るのを目撃して詠んだ(歌)」

寝殿造の建物を用いた行事などで簀の子に着席して参列する立場のある官人を励ます歌

ブログ2024/3/zz付け

3-4-33歌

あめのふりける日、やへやまぶきををりて人のがりやるとてよめる

「雨が降っていた日に、(八重山吹のようなことになり)山吹襲を折って、ある人を(その場から)逃げさせる、と(その人に)言って詠んだ(歌)」

心ならずも山吹襲を召した方と逢引きが中断することになった際の恋歌

ブログ2018/10/22付けより

(再確認はこれから)

3-4-34歌

山吹の花を見て

「山吹の花を見て(詠んだ歌)」

女が、1-1-139歌を踏まえて男にお出でを乞う歌

ブログ2018/10/29付けより

(再確認はこれから)

3-4-35歌

あだなりける女に物をいひそめて、たのもしげなき事をいふほどに、ほととぎすのなきければ

「はかなく心許ない女に初めて懸想文をおくり、(順調に、言葉を交わし逢うようになってから、)たよりにできそうもないなどと女が口にした丁度その折、ほととぎすが鳴いたので(詠んだ歌)」

この女は妻にしたい相手。だから、今鳴いたほととぎすは私なのだと、信頼をつなぎ止めるべく、機会を逃さず詠んだ歌

(この歌は、聞こえてきたほととぎすの鳴き声に寄せて相手の女を誰よりも愛していると詠う歌)

ブログ2018/11/5付けより

(再確認はこれから)

3-4-36歌

卯月のつごもりに郭公をまつとてよめる

「旧暦四月の末日に、ほととぎすを(聞く集いで)待ちくたびれているとき詠んだ(歌)」

この歌は、陰暦四月末日の夜にも鳴かないほととぎすに尋ねている、あるいは嘆息した歌

ブログ2018/11/zz付けより

(再確認はこれから)

註)『猿丸集』における歌群の想定は、つぎのとおり。(ブログ2020/6/15付けより)

「第六 逆境深まる歌群(3-4-27歌~3-4-28歌 (2首 詞書2題)」

「第七 乗り越える歌群(3-4-29歌~3-4-32歌 4首 詞書3題)」

「第八 もどかしい進展の歌群:3-4-33歌~3-4-36歌 (4首 詞書4題)」。

(付記終わり 2024/4/1  上村 朋)

わかたんかこれ 猿丸集恋歌確認32歌 掛詞さくらばな

前回(2024/3/11)に引きつづき『猿丸集』歌の再確認をします。今回は第32歌です。1.経緯

 2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。12の歌群を想定し、3-4-32歌は、「第七 乗り越える歌群(4首 詞書3題)」の第4首目である。3-4-28歌までは、すべて類似歌とは異なる歌意の恋の歌であることを再確認した。3-4-29歌~3-4-31歌は類似歌とは歌意が異なっているが恋の歌の再確認は保留している。

 歌は、『新編国歌大観』より引用する。

2.再考の結果概要 3-4-32歌 

① 『猿丸集』の第32番目の歌と諸氏が指摘するその類似歌は、次のとおり。

3-4-32歌  やまでらにまかりけるに、さくらのさきけるを見てよめる

     山たかみ人もすさめぬさくらばないたくなわびそわれ見はやさむ

 

類似歌:1-1-50歌  題しらず    よみ人しらず (巻第一 春歌上。) 

     山たかみ人もすさめぬさくら花いたくなわびそ我見はやさむ

   左注あり。「又は、さととほみ人もすさめぬ山ざくら」

 

② この二つの歌は、詞書が異なるものの、歌本文が、清濁抜きの平仮名表記では、まったく同じです。

 3-4-31歌も、歌本文が清濁抜きの平仮名表記が同じで、同音異義のある語句により、歌意が異なりました。この歌にも同音異義のある語句があるはずです。

③ 改めて以下の検討をした結果、次のことが言えます。

第一 同音異義のある語句があり、前回(ブログ2018/10/15付け)検討時の両歌の理解を改めた。

第二 この歌は、詞書にある「さくらのさきける」と歌本文の「さくらばな」が「簀(の子)の先蹴る」と「簀(の子)らの端」の意である。類似歌本文にある「さくら花」は、「桜の花」の意である。

第三 類似歌は、「春歌上」の配列とあいまって、山中の「桜の花」が咲くのを待ち遠しく思っている歌である。

第四 この歌の「恋の歌」の判定は保留する。

④ 再考は、最初に『猿丸集』歌(3-4-32歌)を、次に類似歌を検討して、二首の差異の有無を確認します。恋の歌の判定は、保留してきた3-4-29歌以降の歌とともに次回行います。

3.再考 3-4-32歌 各論

① 3-4-32歌を、まず詞書から検討します。

 詞書は、三つの文からなります。

第一 「やまでらにまかりけるに」 :第二の文の現場を提示する

第二 「さくらのさきける」:一つの現象・行為を記している

第三 「を見てよめる」:その現象・行為を作者が「見」てこの歌を詠む、と記す

② 第一の文は、「まかる」時節に触れていません。山寺での用向きは不明です。

動詞「まかる」は、多義ですが、「京から地方へ参る(行くの謙譲語)か「行く・通行する」の意であって、「山寺へ参る」という理解が素直である、と思います。

③ その「山寺」とはどのような寺なのでしょうか。

 平安京近く(洛外)にあり、山が近い寺で『猿丸集』編纂時存在が確実な寺を、「山寺」と定義して確認します。

 所在が洛外という寺には、平安京遷都前後には創建済みである広隆寺鞍馬寺清水寺があります。また葬送の地鳥辺野は洛外ですが、今もある寺院の六波羅蜜寺六道珍皇寺なども『猿丸集』編纂時すでにあります。現在の伏見区にある醍醐寺右京区にある仁和寺も当時あります。

 そして、これらの寺は、山を背にしていたといえるのではないか。「山寺」に該当とすると思えます。

 『古今和歌集』1-1-75歌の詞書にある「雨林院」は、桓武天皇以来遊狩地のひとつであった紫野にあり、元は淳和天皇離宮紫野院であり、元慶2年(884)元慶寺別院となりました。上級の官人の私堂もたてられ、桜の名所としても知られています。元慶寺山科区北花山河原町にあります。この2寺も、「山寺」と称することができるでしょう。

 これらは、みな立派な建物がある寺です。

④ 第二の文の、「さくらのさきける」の用例は、類似歌がある『古今和歌集』の詞書に無く、また「花(あるいは花の)さきける」もありませんでした(巻一~巻九は前回(2018/10/15付け)、巻十以下は今回確認 なお付記1.参照)。

 だから、『古今和歌集』をよく知る『猿丸集』編纂者は、「さくらのさきける」とは、

 名詞「さく」+接尾語「ら」+助詞「の」+名詞「さき」+動詞「ける」

の意として表記している、と前回(ブログ2018/10/15付け)確認しました。具体には次のとおり。

第一 名詞「さき」は、同音異義の語句であり、「先・前」あるいは「崎・埼」しか候補がない。

第二 「さき」が名詞であれば、「さきける」の「ける」は動詞であり、唯一の候補が「蹴る」である。

第三 「桜の先(または前)を蹴る」とか「桜の埼を蹴る」というのも違和感のある表現なので、「さくら」も同音異義の語句として「桜」(の木)のほか、名詞「さく」+接尾語「ら」が候補となる。そして名詞「さく」の候補は「簀」が適切である。その音読みが「さく」であり、その意は、「aすのこ・ねだのうえにしく、竹で編んだむしろ bゆか・竹製のゆか板 cつむ・積に同じ」(『角川新字源』)である。

第四 「さく」(簀)は、寝殿造(付記2.参照)で廂(ひさし)の外側に作った縁側(簀子)と推測できる。簀子の先とは、室内からみて簀子の庭側にある高欄になるか。そうなると「さくら」とは、高欄のほか柱や簀子に置いてある物を指していることになり得る。

⑤ この確認では、「山寺」に寝殿造の建物が通常あるものしていました。詞書にいう「山寺」に上記②にあげた寺々が該当するならば、確実に寝殿造の建物が本堂以外にも当時あったでしょう。

 また、類似歌が、『古今和歌集』の部立て「春歌上」にあり「桜」のある景を詠んでいるので、ここまでの『猿丸集』歌にならい、類似歌と異なる景を詠んだ歌と仮定すると、第二の文は、「簀(さく)などの先を蹴る」意が有力となります。この意であれば、第一の文にある助動詞「けり」が詠嘆の理由であっても平仄があいます。

⑥ 第三の文には、直前の歌3-4-31歌での詞書同様に動詞「見る」があります。

3-4-31歌の詞書にある動詞「見る」は、「視覚に入れる・見る・ながめる」意ではなく、「思う・解釈する」意でした。

 また、類似歌のある『古今和歌集』においては、ある事象に出会って、詠んだと理解できる詞書では、例えば1-1-41歌のように「見る」という行為に言及していません(付記1.④参照)。この詞書では、わざわざ「見る」と言っています。

 このため、詞書にある「見る」については、歌本文の理解との整合を確かめる必要があり、詞書の現代語訳の再考は、歌本文の検討が終わってから再開することとします。

 なお、前回の詞書の現代語訳(試案)は、「見る」を、「視覚に入れる」意としたものでした。

⑦ 次に、歌本文を再考します。歌は、次のような文からなる、とみることができます。

第一 山たかみ :第三の文にいう「さくらばな」の所在場所の特性を記す

第二 人もすさめぬ :第三の文にいう「さくらばな」に対する評価を記す

第三 さくらばな :名詞であり、掛詞ではないか。第四以下の文に対しては呼び掛けか 

第四 いたくなわびそ :「さくらばな」の思いあるいは素振りを推察し記す

第五 われ見はやさむ :「さくらばな」に関する作者の行動を記す

 前回(ブログ2018/10/1付け)と同じように「さくらばな」は掛詞とみています。そしてこの歌は、「人」と「われ」の行動を対比しています。

⑧ この歌は、第一の文から第三の文によって、景を詠っています。そして、第三の文から第五の文によって、作者の行動を詠っています。

 第一の文は、「さくらばな」の所在場所が、人が見に行きにくいところであることを明示し、第二の文の「人」は、「われ」との対比により「世の中の人々」の意となります。

 第二の文にある動詞「すさむ」は、「心の赴くままにする意で対象を好む方向にも嫌う方向にも用いる」語句(『古典基礎語辞典』)であり、ここでは、下二段活用の、「心の赴くまま賞玩する・愛好する・好く」意(同上)です。

 第三の文までにおいて、「さくらばな」と言う複合語は、第一の文に沿う意として「桜の花」が妥当ではないか。

 そのため、第三の文までの現代語訳は、例えば、

「山が高いので、人が慰みとはしない桜の花よ」

となります。

⑨ 第三の文からは、作者が「見」て後の行動を述べているので、「さくら」という語句を、詞書で作者がいうように「簀(さく)ら」の意で用いているのではないか。

 一般に、高い山の斜面に見える桜(の花)は、近づけないから手折って来るのも大変であり、都に植えられている桜(の花)に比べれば、簡単に近寄せて鑑賞できません。それが、山の桜からすれば、せっかく咲いても鑑賞してくれる人が少ないのは残念なことだ、となります。それを第三の文までで作者は指摘している、と理解できます。

 それに対して、第三の文以下で、作者は、「はやす」あるいは「みはやす」という行動を取ろうとするのですから、「さくらばな」を身近に近づけることができると認識しているはずです。だから、「さくらばな」は「山の斜面にある桜の花」ではないことになります。

 そして、「はな」が同音異義の語句(花・鼻・端など)なので、例えば、

「簀の子などにある花一般、あるいは桜の花」

「簀の子などにある鼻」(に特徴のある人物) (これは前回の検討時の理解に近い)

「簀の子などの端」(に居る人物(例えば官人や女官)、あるいはそこにある物(例えば折り取ってきた桜の花))が想定できます。

⑩ 「簀(さく)ら」にある接尾語「ら」(等)は、「多くのものの中からおもなものを例示し、そのほかにもあることをあらわす」意です。そのため、「簀の子などの端」というのは、寝殿造の建物で行事や宴席があるとすれば、席次が低い人物には庇や簀の子に席が与えられるので、なかでも官位が低いため簀の子のそれも端っこに着座する官人を指す、という理解が可能です。

 そのため、上記3案の中で、第三の文以下における「さくらばな」に最も近いのは、「簀の子などの端」ではないか。

⑪ 第四の文は、第三の文を受けているので、作者が「さくらばな」に「侘ぶ」ことはない、と言っていると理解できます。この言い方は「さくらばな」は、作者と「さくらばな」と呼ぶ人物に官位の差があることを推測させます。

⑫ 第五の文にある動詞「はやす」は、「ものを映えるようにさせる意、光や音などを外から加えてそのものが本来持っている美しさや見事さをいっそう引き立たせ、力を増させる意」の言葉(『古典基礎語辞典』)であり、大別して「栄やす・映やす」と「囃す」の2つの意があります。

 また、「みはやす」という複合語「見栄やす」と理解すると、その意は「もてはやして見る・見て、もてはやす」です。

 このため、第三の文以下の現代語訳は、「さくらばな」の意が上記⑩の検討で「簀の子などの端」(「簀の子の端のようなところに席を与えられる官人」)が妥当になるので、「はやす」であって、

「「さくらばな」よ、嘆き、思い煩うな。私が見さだめて(あなたに)光彩を添えよう。」

ではないか。

⑬ そして、この歌が属する歌群「第七 乗り越える歌群」のなかの配列をみると、3-4-29歌と3-4-30歌が一組になっているので、3-4-31歌と3-4-32歌を一組とみると、3-4-31歌の詠う「まつ人」が「簀の子などの端」の人物と重なります。恋の進捗を後押しする人物が3-4-32歌の作者かと想像するところです。

 そのような配列であれば、「見はやさむ」は、複合語ではなく、「見て、その後、はやさむ」という激励と理解するのが適切です。「見る」の意は、視覚に入れるだけでなく、「見定める・見計らう、思う・解釈する」、が妥当だと思います。

⑭ 以上を踏まえて、歌本文の現代語訳を試みると、次のとおり。

「山が高いので、人が慰みとはしない桜の花よ。その桜の花のようにひとが顧みない簀の子のそれも端に居るお方よ。嘆き、思い煩うな。私が見計らって光彩を添えよう。」(第32歌本文改訳(試案))

⑮ さて、詞書の確認に戻ります。

 歌本文で、「さくらばな」のために「見はやさむ」と詠っており、五句にある「みる」が「見定める・見計らう」意となりました。このため、詞書での「見る」はこのような歌を詠むきっかけであるので、単に目撃する意が妥当なのではないか。

 「山寺に参ったところ、簀(さく)などの先を蹴るのを目撃して詠んだ(歌)」(第32歌詞書改訳(試案))

 詞書には、誰が「蹴」ったのか明記していません。推測するに、それは、簀の子に着座する官人ではないか。着座する一連の動作のなかで蹴ったようにみえる場面があったのではないか。あるいは着座する作法にそのようにみえるところがあるのではないか。

 「蹴った」人物をよく知る立場にいた人物が作者であろう、と推測します。

4.再考 1-1-50歌

① 次に、類似歌を再考します。

 この歌は、『古今和歌集』巻一「春歌上」にあります。私が巻一に想定した歌群のうち「香る梅の歌群(1-1-32歌~1-1-48歌)」の次にある「咲き初め咲き盛る桜の歌群(1-1-49歌~1-1-63歌)」の二番目の歌です。この歌群は植物の桜の開花と咲き盛る桜は春の楽しみを満喫させてくれると詠っているように思えます。

② 3-4-31歌の類似歌1-1-34歌を再確認した際(ブログ2024/3/11付け)、「和歌(短歌も長歌も旋頭歌も)は、人の心を種として、心に思うことを、見る物、聞く物につけて言い出したもの」と『古今和歌集』の仮名序は明言している、と指摘しました。

 そして、部立ては、「見る物、聞く物」を分類したものであり、「心に思うこと」は四季の部立ての歌では、その時季への期待、よろこび及び悲しみ、並びに人事と結びつく時季があるので時季の行事参加や昇進などへの期待、などいろいろある、と指摘しました。

 片桐洋一氏の言葉を借りれば、部立て「春歌」であれば、春という季節を「待つ心」と「惜しむ心」とになります。人事の相手を思うことは二の次である部立てです。

③ その「見る物。聞くもの」の類を、各歌にみると、次のとおり(下記⑨以下にその理由を記しています)。

 1-1-49歌  咲き始めの桜。都で花を初めてつけた若木の桜。  

 1-1-50歌  咲き始めた桜か。山中の桜木。   

 1-1-51歌  山中の霞に隠された桜(咲き具合不明) 。   

 1-1-52歌  五分咲きの桜か。手折って手元にある桜木。  

 1-1-53歌  七分咲きの桜。手の届くところにある桜木。  

 1-1-54歌  七分咲きの桜。手の届かないところにある桜木。     

 1-1-55歌  八分咲きの桜。都を離れた山中の桜木。    

 1-1-56歌  八分咲きの桜。遠望した都の桜木など。  

 1-1-57歌  八分咲きの桜。 何度も鑑賞した桜木。   

 1-1-58歌  八分咲きの桜。 探し求めてきた桜木。    

 1-1-59歌  八分咲きの桜。 遠望する山の桜木。      

 (以下割愛)

 このように、桜の咲き具合の順に歌を配列し、都とその他の地域における桜の景から、「こころに思うこと」を詠っている、といえます。

1-1-50歌は、このような配列の中で理解して然るべきです。

④ では、詞書を確認します。「題しらず よみ人知らず」とあり、直前の詞書(1-1-49歌)は、桜に関する最初の詞書です。それには花を初めてつけた若木の桜と記しています。

 以後上記③に記したように桜の花が段々と咲きすすむ順に歌を配列しているので、この歌は、歌群の二番目にある歌として、都の桜の状況を知った作者が、山中の桜の見ごろとなる頃を想像した歌として編纂者は配列しているのではないか、と推測できます。

⑤ 前回(ブログ2018/10/15付け)、五句にある「はやさむ」には『古今和歌集』の春歌に置かれているので、人に知られず散るのを惜しんでいる意を、現代語訳に反映した方がよい、と指摘しました。

 しかし、この歌は、配列から桜が散ろうとする景を詠んでいる歌でないことがはっきりしましたので、それは、誤りでした。そのときに得た現代語訳(試案)のように二つの理解を重ねた歌ではないことになりました。

⑥ 歌本文を再考します。歌は、つぎのような文からなる、とみることができます。3-4-32歌と異なるのは第三の文の理解です。

第一 山たかみ :第三の文にいう「さくらばな」の所在場所の特性を記す

第二 人もすさめぬ :第三の文にいう「さくらばな」に対する評価を記す

第三 さくらばな :名詞であり、第四以下の文に対しては呼び掛け 

第四 いたくなわびそ :「さくらばな」の思いを推察し記す

第五 われ見はやさむ :「さくらばな」に関する作者の行動を記す

 そしてこの歌は、「人」と「われ」の行動を対比しています。

 春を、身をもって示す桜にとり、注目を集められないのは、痛恨の極みではないか。山中に生を受けた桜木も都の桜木と同じように人々に感銘・喜びを与えたい、と思っているに違いなく、その桜木の希望を叶えようという作者の気持ちを詠うのが、この歌ではないか。

⑦ 歌本文の第二の文にある「すさめぬ」は、第三の文「さくらばな」を修飾しています。動詞「すさむ」の意は、上記「3.⑧」に引用しました。

 第五の文の「見はやさむ」は、ここでは、動詞「見る」の連用形+動詞「はやす」の未然形+意思・意向を表す助動詞「む」の終止形です。(動詞「見る」と動詞「はやす」の意は「付記1.⑥」及び上記「3.⑥と⑫」参照)

⑧ 改めて現代語訳を試みると、次のとおり。

 「山が高いので、誰もが心にとめない桜花よ。そんなにひどく思い悩むな。私が咲く様子をよく見て、人々に紹介するから。」

 その桜は、多くが未だ蕾の状況、と推測できます。

⑨ なお、上記③の「見る物、聞く物」の類の判定理由は、次のとおり。

この歌群の一番目の歌は、詞書において「見る物。聞くもの」の類を「初めて咲く若木の桜」と明記しています。蕾のいくつかが咲き始めた状態です。

 二番目にあるこの歌の詞書は「題しらず」であり歌本文にも何分咲きの状況なのか明記されていません。次の1-1-51歌は、花は霞でみえないので何分咲きかわかりません。

  四番目の1-1-52歌は、花がめに「さくらの花」を挿すという詞書から、桜の枝には蕾もある状態と推測できます。

 次の1-1-53歌は、「・・・見てよめる」と詞書にあり、「見て」(視覚の対象を捉えるのではなく視覚で(得た情報から)物事を知り)そして詠んだ歌であり、満開となるのを心待ちしている歌です(付記1.⑤及び⑥参照)。1-1-54歌も1-1-55歌も手折ってきたい桜木は、これから満開となる桜でしょう。

⑩ 1-1-56歌は、詞書に「花ざかりに京をみやりてよめる」とあり、この歌の前後の詞書に表記されている「さくら」の文字がありません。

 歌本文には「柳桜」を若葉と花木の代表としてあげて種々な若葉と花をも念頭にして「春の“錦”」という表現をしているのではないか。桜の時期は、ハクモクレン、コブシ、シダレヤナギも花をつけ、菜の花も咲き続ける時期です。少なくとも桜が満開と限定することなく、春を謳歌している歌です。

 歌本文初句「みわたせば」は、『古今和歌集』にこの一首しかありません。『萬葉集』には13例あるそうですが、純粋な叙景歌が少なく、都を見渡す歌がないことを佐田公子氏は指摘(『『古今和歌集』論 和歌と歌群の生成をめぐって』(笠間書院 2016/11))し、初句は「春の都を眺望する漢詩の存在を意識して詠まれた可能性が高い」とも指摘しています。

 氏は、作者そせい法しの作詠意図に曽祖父桓武天皇が築いた都の安泰を祈念したいことがあったと指摘していますが、『古今和歌集』編纂者が「春歌上」に配列した意図は、単に「都全体の春を詠う歌が欲しかった」ということではないか。

⑪ 1-1-57歌は、詞書に「・・・年のおいぬることをなげきてよめる」とあり、作者がみた桜の状況は、今年もまた咲いてくれた、と思う程度の咲き具合で十分です。その花は、満開が近いのではないかと想像できます。

 1-1-62歌の詞書にある「さくらの花のさかり」とは、満開に向かう頃の景が「人のきたりける」と重なります。

 1-1-68歌はこの歌群の最後の歌であり部立て「春上」の掉尾の歌でもあります。詞書に歌合の際の歌とあり、歌本文にいう「山ざとのさくら」が咲くのであれば、という仮定をして詠んだ歌です。何分咲きなのかなどは関係ない歌であり、満開の桜を面前にして詠んだ歌という理解をする必要は全然ありません。

 桜を、時期ながく楽しみたいと望んでいる歌というのが「春歌上」の最後に配列されている理由ではないか。

 このように、何分咲きかの状態の桜の景は前半に配列していると判断できます。

5.再考 両歌は恋の歌か

① 3-4-32歌は、詞書にある「さくらのさきける」の理解が前回より深まり、「簀の子の先蹴る」となり、歌本文にある「さくらばな」は、「簀の子などの端」となりました。前回の「さくらばな」の理解は誤りでした。

 そして、寝殿造の建物を用いた行事などで簀の子に着席して参列する立場のある官人を励ます歌と理解できました。ただ、恋の当事者の歌に一見みえません。

② 類似歌1-1-50歌は、部立て「春歌上」の「咲き初め咲き盛る桜の歌群(1-1-49歌~1-1-63歌)」の二番目にある歌です。この歌群の配列は花の咲く進行順なので、咲き始めの景による歌であり、「春という季節を「待つ心」(片桐氏)を詠んでいる歌です。山中の桜木にエールを送っている歌と理解しました。

③ この両歌の歌本文は、清濁抜きの平仮名表記が全く同じですが、このように歌意が異なりました。しかし、恋の歌としては疑わしい。次回それを再考します。

ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

(2024/3/25   上村 朋)

付記1.古今集の詞書における「「花(あるいは花の)さきける」等の用例

① 『古今和歌集』(巻第一春歌上から巻第二十大御所歌)の詞書で、「花(あるいは花の)さきける」の用例は、一例もない。

② 『古今和歌集』の詞書で、「花(あるいは花の)さけりける」は、5例ある。

1-1-43歌 水のほとりに梅の花さけりけるをよめる   伊勢 

1-1-67歌 さくらの花のさけりけるを見にもうできたりける人によみておくりける  みつね

1-1-120歌 家にふぢの花のさけりけるを人のたちとまりて・・・  みつね 

1-1-124歌 よしの河のほとりに山ぶきのさけりけるをよめる  つらゆき

1-1-410歌 あづまの方へ・・・かきつばたいとおもしろくさけりけるを見て、・・・ 在原業平朝臣 

③ 同様に、詞書で「さけるさくら」は、1例ある。

1-1-136歌 う月にさけるさくらを見てよめる  紀としさだ

④ 同様に、「花をよめる」とあるのは多数ある。

  例:1-1-41歌 はるのよ梅花をよめる   (みつね)   

      1-1-77歌 うりむゐんにてさくらの花をよめる   そうく法し     

    1-1-931歌 屏風のゑなる花をよめる   つらゆき  

⑤ 同様に、「見てよめる」の用例もいくつもある。例えば、詞書と歌本文を引用すると次のとおり。

  1-1-49歌 人の家にうゑたりけるさくらの花さきはじめたりけるを見てよめる   つらゆき    

      ことしより春しりそむるさくら花ちるといふ事はならはざらなむ

1-1-75歌 雲林院にてさくらの花のちりけるを見てよめる   そうく法師

    桜ちる花の所は春ながら雪ぞふりつつきえがてにする

1-1-79歌 山のさくらを見てよめる     (つらゆき)

 春霞なにかくすらむ桜花ちるまをだにも見るべきものを

1-1-136歌  う月にさけるさくらを見てよめる   紀としさだ       

    あはれてふ事をあまたにやらじとや春におくれてひとりさくらむ

1-1-791歌物おもひけるころ、ものへまかtっるみちに、野火のもえけるを見てよめる  伊勢 

    冬がれののべとわが身を思ひせばもえても春をまたましものを

1-1-845歌 諒闇の年池のほとりの花を見てよめる  よみ人しらず  

    水のおもにしづく花の色さやかにも君がみかげのおもほゆるかな   

1-1-957歌  物思ひける時いときなきこを見てよめる  凡河内みつね 

     今更になにおひいづる竹のこのうきふしごとに鶯ぞなく  

⑥ 「見てよめる」とわざわざ動詞「見る」を付け加えている詞書では、動詞「見る」の意が、「a目によって視覚の対象を捉える意、b視覚から得た材料で判断する」意であること(『古典基礎語辞典』)に留意すべきである。後者は「見定める・見計らう、思う・解釈する」が相当する。

付記2.寝殿造について

① 「寝」という漢字は秦や漢の時代の「殿」と同じような意味で用いられている。唐の時代にも「正寝」「中寝」「路寝」などの用例がある。但し「寝殿」という表記は我が国のみ。

② 寝殿造は、建築様式の一つ。建物には、母屋(もや)とその周囲を囲う庇(ひさし)という大陸伝来の建築構造(その内部は丸柱が多く壁はほとんど無く床は板張り)に、庇の外側を、板床を張って濡れ縁(簀子縁)を巡らせたもの。庇の外周を扉や(しとみ)といった開放可能な建具で覆い、夜は閉じ、昼間は開放した。大陸の建築にある密室性はないの。庇は、更に庇を追加(孫庇あるいは又庇)する場合がある。

③ 大饗などが行われる大臣クラスの寝殿では簀子縁に欄干が付く。欄干の無い寝殿は格の低い屋敷と見なされる。簀子縁は通路であるが宴会時の座を設ける場所にもなる。

④ 一つの屋敷地内には、邸宅の中心となる建物以外も配置されている。それらを結ぶ形の建物を廊と言い、密室性はなく、通路や執務室や宴会時の座にも用いた。

(付記終わり  2024/3/25  上村 朋)

わかたんかこれ 猿丸集恋歌確認31歌 心におもふこと

前回(2024/3/4)に引きつづき『猿丸集』歌の再確認をします。今回は第31歌です。

1.経緯

2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。12の歌群の想定し、3-4-31歌は、「第七 乗り越える歌群(4首 詞書3題)」の第3首目である。3-4-28歌までは、すべて類似歌とは異なる歌意の恋の歌(付記1.参照)であることを確認した。3-4-29歌~3-4-30歌は類似歌とは歌意が異なっているが恋の歌の確認は保留している。

 歌は、『新編国歌大観』より引用する。

2.再考の結果 3-4-31歌

① 『猿丸集』の第31番目の歌とその類似歌は、つぎのとおり。

3-4-31歌  まへちかき梅の花のさきたりけるを見て

     やどちかくむめのはなうゑじあぢきなくまつ人のかにあやまたれけり

 

類似歌 『古今和歌集』 1-1-34歌 題しらず  よみ人知らず

     やどちかく梅の花うゑじあぢきなくまつ人のかにあやまたれけり

② 詞書は異なりますが、歌本文は清濁抜きの平仮名表記では、まったく同じです。

③ 改めて下記のように、助動詞「けり」と同音異義の語句などと配列に留意し、現代語訳(試案)を再確認などした結果、次のことが言えます。

第一 「まつ人」は2意であることを再確認した。

第二 この歌3-4-31歌の現代語訳(試案)は、詞書と歌本文とに修正を加え次のようになった。

  詞書 : 庭先近くに(あるいは私の身の回り近くに)梅の花が咲いたことに感慨をもって(詠んだ歌)

  歌本文 : 屋敷内に、咲いている梅は置くまい。にがにがしいことに、仏道修行を妨げる第六天魔王のような人が用いている香に勘違いさせられてしまったから。

 また、類似歌1-1-34歌の歌本文も修正をした。

第三 その結果、3-4-31歌は恋に関わる歌であり、類似歌1-1-34歌は部立て「春歌上」にあり春の到来を喜んでいる歌となり、異なる歌意の歌となったのは前回と同じである。

第四 『猿丸集』歌としての「恋の歌」かの確認は、「第七 乗り越える歌群(4首 詞書3題)」の歌を、後程に行う。

 

④ 再考は、最初に『猿丸集』歌(3-4-31歌)を、次に類似歌を検討して、二首の差異の有無と恋の歌かどうかを判断します。

3.再考 3-4-31歌 各論

① 詞書より再考します。詞書は、いくつかの文より構成されています。

第一 まへちかき :詠う対象のある場所を記す。

第二 梅の花さきたりける :詠う対象の状況の認識を記す

第三 を見て :作者の行動を記す

② 第一の文にある、「まへ」とは、名詞「前」であり、「a前方・まえ bまえの庭・庭先 c以前 dまえにいること」などの意があります(『例解古語辞典』 以下原則同じ)。第一の文は次にある語句「梅」を修飾しているので、文の意は、例えば「庭先近く」とか「私の周りの近く」が、現代語訳の候補となります。

第二の文の最後の語句「ける」は活用語の連用形に付く助動詞「けり」の連体形であり、文全体が引用文と言えます。「けり」は過去回想の助動詞と呼ばれています。

 助動詞「たり」が付く活用語は、連用形の表記が「さき」となる動詞です。候補は「梅の花」が主語となる四段活用の「咲く」ではないか。

第三の文「をみて」は、接続助詞「を」+上一段活用の動詞「見る」の連用形+接続助詞「て」です。

動詞「見る」の意は、「a視覚に入れる・見る・ながめる b思う・解釈する c(異性として)世話をする d(・・・の)思いをする・解釈する」などの意があります。ここでは、香を詠っているので、「a視覚に入れる等」よりも「b思う等」と理解したほうが良い、と思います。作者は類似歌を承知しているはずですから猶更です。

③ このため、「見る」と「けり」に留意し、詞書の現代語訳を改めて試みると、次のとおり。

 「庭先近くに(あるいは私の身の回り近くに)梅の花が咲いたことに感慨をもって(詠んだ歌)」(31歌詞書改訳(試案))

④ 次に、歌本文を再考します。歌本文は幾つかの文からなります。

第一 やどちかく :作者が行動する場所を限定している。

第二 むめのはなうゑじ :作者が特定の行動をする決意を記す

第三 あぢきなく :作者の感慨を記す 

第四 まつ人のかに :作者の特定の行動に関するキーポイントを記す

第五 あやまたれけり :作者がこのような行動する理由を記す

⑤ 第一の文にある「やど」とは、「a住んでいる所 (庭を含めて)家 b家の戸口・家や屋敷 c泊まるところ」(『例解古語辞典』)の意があります。梅の香を詠っているので、「やどちかく」とは、作者の行動範囲で「梅の香が届くと思ってしまう空間」がイメージにある、と思います。

 梅は賞玩の対象なので、屋敷地に植えられます。さらに 花が咲き始めれば梅は手折って花鉢などに活けて室内にも置かれたと思います。

⑥ 第二の文にある動詞「うう」は「植う」であり「(根付くように)植える」意(同上)とありますが、前回(ブログ2018/10/9付け「6.⑤」)で指摘したように、『古今和歌集』や『後撰和歌集』の用例では、地面に直接植えるほかに、鉢や州浜台を利用するとか、折った花を活けるとか、そばに植物を置く意ととってもよい場面に用いられています。

 また、助動詞「じ」は、作者自身の行動について用いられているので、推量ではなく作者の意志を表しています。

⑦ 第三の文にある「あじきなく」とは、五句「あやまたれけり」を修飾します。「不快である。にがにがしい」の意です。

⑧ 第四の文にある「まつ人」には、前回指摘したように2案あります。

第一 「待つ人」 :一般的な表記である 

第二 「魔つ人」 :「庭つ鳥」、「夕つ方」の「つ」を用いた例外的な表記である

「魔つ人」とは、「仏教でいう魔王のような人」の意です。仏教では、人の善行をさまたげるもので自分の内心からではない外部からの働き掛けをするものを魔と称しその王を魔王と称しているそうです。

 魔王が主(あるじ)となっている天(世界)とは、欲界の第六天である他化自在天です。他化自在天とは、「他の神々がつくりだした対象についても自在に楽しみを受けるのでこのように名付けた天(世界)」です(『仏教大辞典』中村元)。

魔は「仏教語であって仏教修行の妨げをする悪神」(同上)の意であり、だから当時も目的達成の邪魔をする者を意味することばとなっていたのでしょう。

⑨ 詞書に、この歌で「まつ人」の意がどちらであるかを推測する手掛かりはありません。『猿丸集』の配列にヒントを求めたい、と思います。

 詞書について、この歌の前後を確認すると、3-4-19歌~3-4-26歌は、「第五の歌群 逆境の歌群」とくくった歌であり、作者は恋の相手に逢えない状況下での作詠でした。そして3-4-27歌以下を下表に示します。

 下表の詞書は、それぞれの歌本文をみると、みな、作者にとって芳しからぬ推移をたどっている恋を想像しておかしくない表現です(3-4-31歌は保留)。

 これから推測するに、この歌も作者の恋が芳しからぬ進行をしている最中の歌ではな

いか。だから、この歌の「まつ人」は、「待つ人」でも「魔つ人」でも可能性はあります。

表 猿丸集第31歌前後の詞書7題の現代語訳(試案)一覧    (2024/3/11現在)

詞書のある歌番号など

詞書

同左の現代語訳(試案)

その詞書のもとにある歌の趣旨

備考

3-4-27歌

ものへゆきけるみちに、きりのたちわたりける

「あるところへ行く途中において、霧が立ち込めているのであった(それを詠んだ歌)」 

恋の相手ではなく、妨げる人などへ示した歌か

ブログ2024/1/29付けより

3-4-28歌

物へゆきけるみちに、ひぐらしのなきけるをききて 

「あるところへ陸路行く途中において、ヒグラシが鳴きだしたのであった(あのときのヒグラシをも思い出し)、聞きつつ(詠んだ歌)」 

恋の相手とは少なくとも縁遠くなってしまっているものの諦めきれない気持ちがある男の歌

ブログ2024/2/5付け

3-4-29歌&3-4-30歌

あひしれりける女、ひさしくなかたえておとづれたりけるによみてやりける 

「昵懇の仲であったところの女が、暫く途絶えて後に男が訪れたのだが、この歌を詠んで逃したということだ。」

29歌:女の事情を訴えた歌

30歌:今でも相手の意に従うことを婉曲に伝えた歌

ブログ2024/3/4付けより

3-4-31歌

まへちかき梅の花のさきたりけるを見て

今回検討中

 

 

3-4-32歌

やまでらにまかりけるに、さくらのさきけるを見てよめる

「山寺に行ったのだけれど、簀(さく)などの先(高欄)を蹴るのを見ることになり詠んだ(歌)」 」山寺での飲食の席で酔っ払った男をはげましている歌

山寺での飲食の席で酔っ払った男をはげましている歌

ブログ2018/10/15付け

3-4-33歌

あめのふりける日、やへやまぶきををりて人のがりやるとてよめる

「雨が降っていた日に、(八重山吹のようなことになり)山吹襲を折って、ある人を(その場から)逃げさせる、と(その人に)言って詠んだ(歌)」

心ならずも別れることになった際の恋歌

ブログ2018/10/22付けより

3-4-34歌

山吹の花を見て

「山吹の花を見て(詠んだ歌)」

女が、1-1-139歌を踏まえて男にお出でを乞う歌

ブログ2018/10/29付けより

  

⑩ また、この表の歌は、配列から想定した歌群の「第六 逆境深まる歌群(3-4-27歌~3-4-28歌 2首 詞書2題)」、「第七 乗り越える歌群(3-4-29歌~3-4-32歌 4首 詞書3題)」、及び「第八 第八 もどかしい進展の歌群(3-4-33歌~3-4-36歌 4首 詞書4題)の歌です。

 再考している3-4-31歌は、第七の歌群にあり、「まつ人」の意は「待つ人」でも「魔つ人」でも可能、と言えます。

⑪ そして、『猿丸集』歌を今再確認中ですが、第30歌までは類似歌があり、その歌意は『猿丸集』歌とは異なる恋の歌となっていました。これから再考予定の3-4-32歌以降にも諸氏の指摘するようにみな類似歌があり、前回(2018年のブログ)の検討では、みな歌意が異なっていました。歌意が異なるのは、同音異義の語句によっている場合が多くあり、この歌(3-4-31歌)も、「まつ人」に2意あるのでそれにより歌意が異なる可能性は大変高い、と言えます。

 だから類似歌での「まつ人」が「待つ人」であれば、この歌でのそれは「魔つ人」ではないか。

 このように、編纂者の方針とも思える配列の傾向とこれまでの『猿丸集』歌と類似歌の関係、及び「まつ人」に2案の理解しかないことから、この歌の「まつ人」とは「魔つ人」である、と思います。

⑫ 次に、第四の文にある「か」は、「香」であり、常時官人などが衣服に焚き染めていたり、几帳などで区画した自分の居所に香をくゆらしたりしている香りのことです。 優れた消臭剤が無い時代であり、生活するうえでも重宝していたものだそうです。良い香の材料入手は、原則的に生活レベルに比例します。

 そのような薫物(たきもの)はオリジナルなものが尊ばれていたそうで、そうした薫物は、個人を特定しさらにその個人が今居る場所をも特定できる手段になっています。

 香料を調合し蜂蜜や梅の果肉などと煉り合せた練香が平安時代には主流であり、後世に引き継がれた代表的なものに六種薫物(むくさのたきもの)があります。その一つに「梅花」という薫物があり、「むめの花の香に似たり」と評されています(付記2.参照)。

⑬ だから、第四の文にある「まつ人のか」は、梅の花の香に近いものだったのでしょう。

 しかし、一般的なこととして言えば、『猿丸集』編纂の時代には、微妙に異なった薫物を各人が用い、その香を識別していたのが有力官人とその周囲の官人(と家族と使用人)です。だから、梅の花の香に似た薫物の香であっても特徴的な香を付けた人が作者に近づいてきたら、「魔つ人」か「待つ人」かは判り、「待つ人」ならばさらに最後に逢った時点をも思い出させることになるのでしょう。

 つまり梅の香と薫物の香は似て非なるものであって異なっている、と理解できるのですが、次にある第五の文は、そのへんのところは端折っています。

 「梅の香」も微妙な差異は環境によってあるでしょうが、「梅の香」は全く「まつ人」の(着衣などの)香であると同一視しているかの文です。

⑭ そのため、この歌は、詞書にあるように「梅の花のさきたりけり」と、まさに目撃して作詠されたものであり、梅の香が匂ってきたのを自覚して作詠されたものではない、と推測できます。

 男女の仲であれば、「待つ人」が、当時事前に連絡をよこさず訪れることはないので、侍女からの到着という情報があるはずですから、単に身近に匂ってきた梅の香を、「待つ人」の香と錯覚するのはあり得ないことと推測します。

 だから、作詠の動機は、「まつ人」への作者の思いであり、目にした景物(梅の花)によせてそれを表明したのがこの歌です。「まつ人」へこの歌をおくり、作者の思いを伝えている、と思います。

 その思いは、「待つ人」であれば、「いつお出でいただけるか」という質問であり、「魔つ人」であれば、「まだ妨げるの。もうやめて」というお願いでしょうか(「魔つ人」に通じたかどうかはわかりませんが)。それが暗喩されているのではないか。

⑮ 第五の文にある「あやまたれけり」とは、仮定した臭覚情報に基づいて推測した人物への言及です。

「あやまたれけり」とは、四段活用の動詞「過つ・誤つ」の未然形+自発・可能の助動詞「る」の連用形+助動詞「けり」の終止形、です。

 「けり」は、詠嘆の気持ちをこめて回想する意ではないか。

⑯ 以上の検討を踏まえて、この歌の現代語訳を改めて試みると、次のとおり。

 「屋敷内に、咲いている梅は置くまい。にがにがしいことに、仏道修行を妨げる第六天魔王のような人が用いている香に勘違いさせられてしまったから。」(31歌本文改訳(試案))

 「魔つ人」は身近な人ではないか。作者の家族の一員が候補となり得ます。また、作者は男女の何れも想定できます。

 ちなみに、「待つ人」であるならば、次のとおり。

 「屋敷内に、咲いている梅は置くのを止めよう。つまらないことに、訪れを待つ人の袖の香に勘違いさせられてしまったから。」

 この場合、「待つ人」は、男であり、作者は女となります。

4.再考 1-1-34歌 

① 類似歌1-1-34歌は、『古今和歌集』巻一「春歌上」にあります。「恋」の部立てにある歌ではありません。

 その詞書は「題しらず よみ人しらず」であり、歌本文の歌意は配列からの制約があるだけです。

 「春歌上」での配列をブログ2018/10/1付けと同2018/10/9付けで検討し、次の点を指摘しました。

第一 『古今和歌集』の編纂者は、現代の季語に相当する語とその語の状況を細分して歌群を設け、歌群単位で時節の進行を示すよう、歌を並べている。

第二 この歌は「香る梅の歌群(1-1-32歌~1-1-48歌)」にある。

第三 この歌群の歌は、梅の香の袖への移り香に鶯が寄ってきて鳴くと詠う歌に始まり、(あの人の)思い出として梅の香は袖に残れと詠う歌で終わる。袖の香を多数詠っている。袖とは、親しくしている人を象徴しており、袖の香とは、衣服に香をたきしめる官人の生活が前提となる。

第四 (歌に詠む)梅の香は、男女の仲にある相手を意識させるものと理解している。

第五 『古今和歌集』の歌では、梅の品種による香の微妙な違いを詠っている歌はない。着衣などにたき込める香りについても同じである。

② そして、1-1-34歌について、次のように理解しました。

第一 作者にとって待ち人来たらずの状況での歌である。

第二 『古今和歌集』の春歌としては、挨拶歌のほか梅の花の香を競詠しているかに仕立てた題詠歌の例として配列している可能性がある。歌群の成り立ちを思うと、題詠の歌の一群として楽しむようにという、編纂者の意図であるように理解できる。

③ 部立て「春歌上」の配列について再考します。

古今和歌集』の編纂者は、歌集のために集録した対象を定義しています。

仮名序の冒頭にあります。

 「やまとうたは、人のこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。世の中にあるひと、ことわざしげきものなれば、心におもふことを見るものきくものにつけていひだせるなり。」(藤原定家筆伊達本を底本とした講談社学術文庫古今和歌集』(久曾神昇氏訳注)の本文より)

 久曾神氏は、修辞的には「人の心を植物の種にたとえ、歌を芽ばえた葉になぞらえて言の葉と言っている」と指摘し、構文的には、「(から歌(漢詩)ではない大和歌は)人のこころをたねとして言の葉となれりける」だけでよい」し、「よろづの」は次の文にかかり、「ことわざしげきものなれば言ひだせる言の葉よろづとぞなれりけるなり」となるべきである」と指摘しています。

 つまり、漢詩とは別の定義をして、「和歌(短歌も長歌も旋頭歌も)は、人の心を種として、心に思うことを、見る物、聞く物につけて言い出したもの」と仮名序は言っていると理解できます。

④ では、部立ては、何を分類したものか。「見る物、聞く物」を分類しているのではないか。

 四季のほかは人事を細別し、賀歌、羈旅歌、物名、恋歌、哀傷歌、雑歌、雑体、大歌所御歌としている、と理解できます。(久曾神氏は、序を除く歌集部分の構成を論じて、短歌について題材によって自然と人事に二分し、人事は、恋と雜とに細分しています。)

 四季に対して「心に思うこと」は、その時季への期待、よろこび及び悲しみ、並びに人事と結びつく時季があるので時季の行事参加や昇進などへの期待、などいろいろあります。

⑤ 片桐洋一氏は、次のように指摘しています。

第一 古今集仮名序の冒頭の文は、『古今集』の和歌が、正岡子規以降の近代和歌と異なることを過不足なく説明している。

第二 『古今集』の和歌が、「見る物」「聞く物」という外界に存在する事物をそのまま言葉にするのではなく、「心に思ふこと」すなわち「内なる情(おもひ)」を、外界の事物に託して表現するものであったことが知られる。

第三 このような詠法は、「譬喩歌」「寄物陳思歌」という形で『萬葉集』に存在している。

(以上は『古今集新古今集の方法』(2004 笠間書院)の論考「『古今集』表現と『萬葉集』より) 

第四 和歌によまれる対象は、あくまで「人のこころ」を抒べるにあたって託されたものに過ぎないのであって、『古今和歌集』の和歌は徹底した抒情文学としての性格を持っている。

第五 『古今和歌集』の和歌は、盛りを待ち望む心、衰え移ろいゆくのを惜しむ心を「見るもの、聞くものに抒けて」抒情したものであって、「見るもの、聞くもの」を、その在るがままに写生する類の歌でないことはあまりにも明らかなのである。 

第六 四季の歌は、「待つ心」と「惜しむ心」に終始している。羈旅歌、恋歌でもおなじ。(以上は笠間文庫『原文&現代語訳シリーズ 古今和歌集』(2005)より これは氏の『全対訳 日本古典新書』(1980)の改訂版)

⑤ 部立て「春歌上」の歌を通覧すると、「見る物。聞くもの」は、現代の季語に相当する語句に近い立春、雪、梅などをベースにした景です。

 そして、「心に思うこと」としては、片桐氏に従えば部立て「春歌」であれば、春という季節を「待つ心」と「惜しむ心」とになります。人事の相手を思うことは二の次である部立てです。

「待つ心」は、「見る物。聞くもの」の到来を期待する気持ちとそれに接する喜びの気持ちがある、と思えます。

⑥ 私が想定した「香る梅の歌群」でみれば、最初の歌1-1-32歌において梅は既に咲いており(但し歌を詠む景には登場していません)、梅(の花)に接した喜びを詠っている、と理解できます。以下もすべて「こころに思うこと」は、接した喜びあるいは残念におもうことであり、それを詠っています。

 「見る物。聞くもの」の類を、各歌にみると、次のとおり。

1-1-32歌は、折った梅の花の香。作者の袖に梅の花の移り香があること

1-1-33歌は、折った梅の花の香。梅の花の香は高貴な方が着衣に染めている香に劣らぬこと  

1-1-34歌は、折った梅の花の香。「まつ人」の香は梅の花の香に極々近いこと

1-1-35歌は、折った梅の花の香。梅の花の香は好まれていること

1-1-36歌~1-1-38歌は、折った梅の花(詳細割愛)

1-1-39歌~1-1-41歌は、夜の梅の花(詳細割愛)

1-1-42歌は、故郷の梅の花の香(詳細割愛)

1-1-43歌~1-1-44歌は、水辺の梅の花(詳細割愛)

1-1-45歌~1-1-38歌は、花散る梅(詳細割愛)

 

⑦ この配列をみると、「まつ人」は、「待つ人」の意で用い、「魔つ人」の意では用いていない、と断言できます。

また、「植う」は、「植物をある場所に据える」意で用いられています。

⑦ 助動詞「けり」に留意し、現代語訳を改めて試みると、上記「3.⑬」の「待つ人」の(試案)となります。再掲します。

 「屋敷内に、咲いている梅は置くのを止めよう。つまらないことに、訪れを待つ人の袖の香に勘違いさせられてしまったから。」(1-1-34歌改訳(試案))

 この歌の元資料は、その「待つ人」におくった歌であるかも知れませんが、部立て「春歌上」に配列されるにあたり、詞書は「題しらず よみ人しらず」となり、歌本文は、折角咲かせた梅を身の回りから排除するという非現実的なことを詠うことで、梅の花を愛でている歌である、と思います。

⑧ 前回(ブログ2018/10/9付け)では、このような考察を省いて、「梅の香に寄せての歌として春歌の部立に配列されていますが、別の部立の歌であってもおかしくない歌もあります」と指摘しましたが、それは、

 編纂者が集録した(『古今和歌集』の元資料に相当する)歌を対象とした指摘でした。

 また、『古今和歌集』の春歌として、「梅の花の香を競詠しているかに仕立てた題詠歌の例として配列している可能性がある」との指摘は、「見る物聞く物」の一例を「梅の花の香」として集めているのでそのような理解も有り得る、と思います。

 なお、『猿丸集』歌の類似歌として『古今和歌集』の歌は、3-4-3歌の類似歌1-1-711歌や、3-4-28歌の類似歌1-1-204歌などがすでにありました。これらについて、今回のような確認は後日行います。

5.再考 3-4-31歌は恋の歌か、

① 今回の上記「3.⑯」の「魔つ人」での現代語訳(試案)のように理解した3-4-31歌が、「恋の歌」(付記1.参照)であるかを、確認します。

 前回は、「この歌は、待ち人との間にたち邪魔しようとする人をきらった女の歌であり、類似歌は待ち人にそれでも期待をまだかけている女の歌」と指摘しました(ブログ2018/10/9付け「9」)。

 今回の再考により、この歌は、「魔つ人」に、干渉あるいは過度の関心を止めてほしいというお願いをする歌となりました。それは 「成人男女の仲」に関わることを詠んだ歌という理解を可能とします。

 そして、類似歌は、春になり梅の花を見てその香を楽しめる喜びを詠った歌となりました。恋の歌ではありません。そのため、再考した結果も、この歌は、類似歌との歌意が前回同様異なりました。

 このように、要件の第一と第二(付記1.参照)はクリアします。

② 要件の第三は、その歌集において配列上違和感のないことですが、「第七 乗り越える歌群(4首 詞書3題)」を統一的に判断したいと思いますので、今回は保留します。

 要件の第四は、いまのところ該当がありません。

ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただきありがとうございます。

 次回は第32歌を再考します。

(2024/3/11  上村 朋)

付記1.恋の歌の定義について

① 恋の当事者の歌に限らなくとも、広く「恋の心によせる歌」から『猿丸集』は成っており、その広く「恋の心によせる歌」を、「恋の歌」と名付け、ブログ2020/7/6付け「1.及び2.」で定義している。

② 『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義している。

第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと

第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと

 

付記2.薫物(たきもの)について

第一 淡路島にある梅薫堂のHPによれば、後世に引き継がれ洗練されていった薫物の代表格に六種薫物(むくさのたきもの)がある。「梅花(ばいか)」、「荷葉(かよう)」、「侍従(じじゅう)」、「菊花(きっか)」、「落葉(らくよう)」、及び「黒方(くろぼう)」である。季節があてられ「梅花」は春である。

第二 『枕草子』の「心ときめきするもの」の段に次のようにある。

「雀のこかひ ちごあそばするところのまへわたる よきたきものたきて ひとり伏したる 唐鏡の・・・ かしらあらひ 化粧じて かうばしうしみたるきぬきたる ことに見る人なきところにても こころうちはなほいとおをかし 待人の・・・」

(概要:雀の子を飼う 牛車を遊んでいる目の前を通過する 良い薫物を(室内に)たき・・・ 髪の毛を洗い化粧をして香をよくしみ込ませた衣服を着る 殊に見る人のいない所でも心の中は「いとをかし」 ・・・)

このような視覚、嗅覚、聴覚の例示は、照明の不十分な状況下での生活と女性の活動範囲の限定を彷彿とさせる。

第三 香に、におい消しの効用を期待して官人は用いていた。

女性は長い髪の毛の手入れの一環として香木を焚いて香りを付けていたそうである。

第四 『源氏物語』には、衣にたきしめる香で、100歩離れた遠方まで香る香(百歩香)の描写がある。

 (付記 終わり 2024/3/11  上村 朋 ) 

わかたんかこれ 猿丸集その224恋歌確認30歌 わがごとく

 前回(2024/2/26)に引きつづき『猿丸集』歌の再確認をします。今回は第30歌です。   

1.経緯

  2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。12の歌群を想定し、3-4-30歌は、「第七 乗り越える歌群(4首 詞書3題)」の第2首目である。3-4-28歌までは、すべて類似歌とは異なる歌意の恋の歌(付記1.参照)であることを確認した。3-4-29歌は、同一詞書のもとにこの歌があることもあり確認を保留している。

 歌は、『新編国歌大観』より引用する。

2.再考 3-4-30歌 その1

① 『猿丸集』の第30番目の歌とその類似歌は、つぎのとおり。

   3-4-30歌 (詞書なし 3-4-29歌の詞書をうける(あひしれりける女、ひさしくなかたえておとづれたりけるによみてやりける))

     あらちをのかるやのさきにたつしかもいとわがごとく物はおもはじ

類似歌は2首あります。

  a 『人丸集』 柿本集下 3-1-216歌   (詞書無し あるいは「さるさはのいけに身をなげたるうねべをみてよめる」)

     あらちをのかるやのさきにたつしかもいとわがごとにものはおもはじ (四句いとわればかり、(とも))

   b 『拾遺和歌集』 巻第十五 恋五  1-3-954歌。「題しらず 人まろ」  

     あらちをのかるやのさきに立つしかもいと我ばかり物はおもはじ

 前回(ブログ2018/9/24付け)の結論は、この歌を、(共通の詞書のもとにある3-4-29歌とともに、)詞書にいう「おとづれたりける」男を、改めて信頼していると、表明した歌とし、類似歌は、受け入れてくれなかった男に作者はまだ不安がある歌というものでした。

② 改めて以下の検討をした結果、次のことが言えます。

第一 この歌と類似歌2首の四句の意がそれぞれ別の意として明確になった。

第二 この歌の詞書が改訳されているので、3-4-30歌の歌本文の現代語訳(試案)も、改訳となる。次のとおり。なお、「おとづれたる」男を信頼している(あるいは頼りにしている)という作者の立場は改訳前と同じである。

「勇壮な男が射止めようと矢を向けた先に立っている鹿も、ほんとうに私と同じように、物に動じないのであろうよ(私は今の交際相手を選びません)。」

第三 類似歌2首も、改訳した。前回(ブログ2018/9/24付け)と異なる歌意となった。

第四 3-4-30歌は、詞書のもとにある歌として、女の作者による恋の歌であり、類似歌とは異なる歌であることを再確認した。

第五 『猿丸集』の「恋の歌」の判定は、想定した歌群の歌の確認後に判定する。

③ この歌と類似歌2首は、それぞれの歌集での部立てと詞書が異なっています。そして、歌本文は、それぞれを平仮名表記すると、四句の一部の語句のみが異なっているだけです。

 即ち3-4-30歌は「わがごとく」、『人丸集』にある2-1-216歌は「わがごとに」、『拾遺和歌集』にある1-3-954歌は「我ばかり」です。(2-1-216歌には「わればかり」という異伝歌もありますが、1-3-594歌が「我ばかり」なので検討は割愛します)。

 それにより歌意が異なると予想して検討を始めました。詞書や配列も見直します。

④ 類似歌としている2首について最初に確認します。

 『新編国歌大観』の解題では、『猿丸集』の成立を公任の三十六人撰の成立(1006~1009頃)以前としています。

 『人丸集』について、同解題では、「(この歌集は、)他人歌を多く含み、その成立は複雑である。・・・平安時代における人麿理解のありようと深くかかわっていて、奈良時代以前の和歌の平安時代における伝承と享受の実態をさぐるための貴重な資料であることも確かである。」と指摘しています。

 また、島田良二氏は、「伝承歌の人麿歌を採った『拾遺和歌集』から人麿集は採ったと考えられる」と指摘しています(『私歌集全釈叢書34 人麿集全釈』(2004))。島田氏のいう「伝承歌」を記した文書は不明であって今日まで伝わっていませんので、類似歌として採りあげることができません。しかし、『人丸集』にある3-1-216歌は、歌集の成立事情を踏まえると『猿丸集』編纂者は参考にできた可能性があるので、類似歌と認められます。

 次に、同解題では、『拾遺和歌集』の成立を一条天皇の寛弘2年(1005)か同3年(1006)頃と推定しています。このため、『拾遺和歌集』後に『猿丸集』が編纂されている可能性があり、『拾遺和歌集』歌は類似歌と認められます。

⑤ 再考作業は、最初に3-4-30歌を、次いで類似歌2首の順で行います。

 さて、3-4-30歌の詞書は、3-4-29歌の詞書と同じです。

 その現代語訳(試案)は、ブログ2024/2/26付けの「4.」で改訳しました。次のとおり。

「昵懇の仲であったところの女が、暫く途絶えて後に男が訪れたのだが、この歌を詠んで逃したということだ。」(29歌詞書改訳)

 この歌の作者は、3-4-29歌の作者でもあり、詞書にいう「あひしれりける女」です。四句にある「わがごとく」という「われ」は女ということになります。

⑥ 次に、歌本文にあるいくつかの語句を確認します。

 初句にある「あらちを」は、「「荒らしを」の転というが、古く他に例がない」(『和歌文学大系32 拾遺和歌集』(増田繁夫))など、語の成り立ちに論がありますが、諸氏は雄々しい男・勇壮な男の意としています。

 今回も前回と同様に、「あらちを」は、雄々しい男・勇壮な男の意とします。

 四句「いとわがごとく」とは、副詞「いと」+代名詞「わ」+連体格助詞「が」+比況の助動詞「ごとし」の連用形です。

 「いと」は副詞であり、「a非常に・たいそう b全く・ほんとうに」の意です(『例解古語辞典』)。

 「わが」で、「わたしの」の意となります。

 「ごとし」は、格助詞「が」を介して体言・副詞に付きます。その意は、ここでは、「ある物事を、本来無関係な他の物事にたとえて、それと類似している意をあらわす(・・・ようだ、・・・に似ている)」(同上)ではないか。

 「わがごとく」とは、「わたしのように」の意です。前回は、四句「いとわがごとく」を「ほんとうに私ほど」と現代語訳(試案)しました。

⑦ 五句「物はおもはじ」の主体は、だから作者ではなく、「シカ」となります。

 名詞「もの」の意味は、「a個別の事物を、直接に明示しないで、一般化していう b普通のもの・世間一般の事物 cものの道理 d超人間的なもの・恐れや畏怖の対象となる、鬼神・怨霊の類」などなどです(同上)。

 動詞「おもふ」は、「a心に思う bいとしく思う・愛する c心配する・憂える」などの意があります。

 助動詞「じ」は、「a打消しの推量 b打消しの意志」の意があります。相手や第三者に言う場合は前者、話し手自身についていう場合は後者が、普通だそうです(同上)。

 前回は、「もの」を、「個別の事物を直接明示しないで一般化していう言い方」として、この歌では「色々な思案」を意味するとみて、「ものはおもはじ」とは、思案はある一つに固まって来るだろう、迷わず自分の運命を(シカは)受け入れるであろう、の意と理解しました。

⑧ 改めて、歌をいくつかの文に別けて、検討します。()に理解した文の趣旨を付記します。

第一 あらちをのかるやのさきに: (場所・位置を、「あらちを」が構える狩の矢の先である、と指定)

第二 たつしかも: (シカの外見上の様子を「たつ」、と描写)

第三 いとわがごとく: (鹿の意志・行動を、作者のように、と例える)

第四 物はおもはじ: (シカの意志を、何かを「思」わないだろう、と作者が推測)

この歌の作者の「思い」が、歌本文にも直接表現されていないので、推測するほかありません。

⑨ 詠われている景を確認します。

 客観的には、狩場において追い込まれたシカは、射殺あるいは捕獲される確率が高く、逃げおおせる確率は、小さいものです。シカが、矢を射かけられとき、ただ立っているのは、射殺あるいは捕獲されることがあることを受け入れているかに見えます。

 これは、同じ詞書のもとにある3-4-29歌の歌意を考慮すると、あらちをは、この歌をおくる相手を、矢の的となっているシカは、作者自身を暗喩しているのではないか。

 そうであるならば、第四の文における助動詞「じ」を暗喩では話し手自身について用いていることになり、第四の文は暗喩において作者の意志を表し、「迷わないであらちをの意のまま」ということになり、それは「あなたを選び、今の交際相手を選ばない」ということを、歌をおくった相手に表明していることになります。

⑩ 前回の検討時以降に詞書の理解が改まっているので、歌本文も現代語訳も改めて試みることとします。

 上記⑨の理解により、上記⑤に示した「29歌詞書改訳」のもとの歌として改訳すると、次のとおり。

 「勇壮な男が射止めようと矢を向けた先に立っている鹿も、ほんとうに私と同じように、物に動じないのであろうよ(私は今の交際相手を選びません)。」(30歌改訳)

 「もの」とは、「a個別の事物を、直接に明示しないで、一般化していう」意であり、具体的には狩の対象となっているシカにとっては「あらちをに射殺あるいは捕獲されることへの不安」など、作者にとっては「貴方に捉えられることへの不安」など、であり、「思ふ」とは、「a心に思う」の意です。

 「私と同じように」と言っているので、作者自身が「ものはおもはじ」と言っていることになります。

 そして、この歌は、今交際している人物が知ったとしても、(下記の理解のような)類似歌と紛らわしいので、言い訳のたつ歌となっています。

 このような理解であれば、3-4-29歌と3-4-30歌は同一の詞書のもとにある歌として平仄があっています。「おとづれたりける」男を今も頼りにしている歌であるものの、後朝の歌ではありません。

3. 再考 類似歌3-1-216歌 

① 類似歌については、『人丸集』にある類似歌3-1-216歌を先に再考します。

『人丸集』におけるこの歌の前後の配列について、3-1-211歌~3-1-221歌計11首を中心に、前回(ブログ2018/9/24付けで)検討しました。相聞の歌が配列されている部分にこの11首はあり、組合せて対となっていると見做せる歌は無なく、互いに独立した歌である、と指摘しました。また、少なくとも3-1-212歌~3-1-220歌(3-1-216歌は保留)は相聞歌であるかもしれない、と指摘しました。これは、詞書がないものとしての検討でした。

 なお、相聞歌とは、ここでは『萬葉集』の三大部立ての「相聞」に分類できる、という意です。

 そして、現代語訳については、不安な気持ちを訳に示している島田氏の訳を採りました。

② 最初に、配列からの検討をします。3-1-216歌の前後の11首のうちで相聞の歌でないように一見みえる3-1-211歌と3-1-221歌を確認します。

 3-1-211歌は、『萬葉集』にある「過近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌」と題する長歌(2-1-29歌)の最初の反歌(2-1-30歌)の異伝歌とみなされています。「しがらきのからさき」(大津市坂本町唐崎に比定されている)は、天智天皇の御代に都が近江国にあったときの舟遊びの地と言われています。

 歌本文の趣旨が同じというのが異伝歌たる所以であるとすると、『萬葉集』の題詞を作文した人物の認識が正しければ、2-1-30歌と同様にこの歌3-1-211歌は、人麻呂が作詠者であり、天智天皇の御代の鎮魂歌を構成する歌となります。部立ては相聞ではなく雑歌がふさわしい、となってしまいます。

③ その2-1-30歌は、次のとおり。

 題詞 (過近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌) 反歌

 歌本文 楽浪之 思賀乃辛碕 雖幸有 大宮人之 船麻知兼津

     さざなみやしがのからさききたれども大宮人のふねまちかねつ

④ その現代語訳は土屋文明氏によれば次のとおり(『萬葉集私注』)。

 題詞 : 読み下し文も示されていない

 歌本文 :(大意) ささなみの滋賀の唐崎は変わることなくあるけれども、大宮人の船の来るのを待つことはできないで居る。

 氏は、四句は「大津宮の宮人達をさして居る」、及び「唐崎を擬人化し、唐崎が船の来るのを待つことができない。即ち船が来ない」と語釈しています。また、「天智天皇崩御の時の歌に「やすみししわご大君の大みふね待ちか恋ふらむ滋賀の唐崎」(巻二の歌2-1-152歌 舎人吉年といふ婦人の作と伝へられる歌)を知って居ったのであらう」とも指摘しています。(なお、2-1-152歌の題詞は「天皇崩時婦人作歌一首 姓氏未詳」とあります。)

 この歌が、氏の指摘するように、唐崎を擬人化したことにより女が男を待つということであれば、そのままで部立て「相聞」の歌になっている、と言えます。

⑤ 次に、『拾遺和歌集』にある3-1-221歌を確認します。

 3-1-221歌は、次のとおり。詞書があります。

 詞書 さるさはのいけに身をなげたるうねべをみてよめる

 歌本文 わぎもこがねくたれがみをさるさはの池のたまもとみるぞかなしき

⑥ この歌本文が平仮名表記では同一の歌が、『拾遺和歌集』の部立て「哀傷」にあります。

 1-3-1289歌 さるさはの池に、うねべの身なげたるを見て 人まろ

    わぎもこがねくたれがみをさるさはの池のたまもと見るぞかなしき

 そして天暦5年(951)成立という『大和物語』150段にも平仮名表記で同一の歌があります。

 5-415-252歌 (詞書相当文割愛)

    わぎもこがねくたれがみをさるさはのいけのたまもとみるぞかなしき

 3-1-221歌の現代語訳を試みると、次のとおり。

「わたしのあの子の寝乱れた髪を、 猿沢の池に生える美しい藻に思うのは、本当に悲しいことだ。」

⑦ 詞書に記す猿沢池に飛び込んだ人物の役職が采女なので、飛び込んだ原因は、上司同僚などのパワハラなどが考えられます。天皇のお声のかからないこととか不倫(職務専念義務違反にあたる)での自殺であれば不敬にあたるのではないか。人麿でなくともこのような歌を詠むのは前者の場合に限られます。

 詞書は、「身をなげたるうねべをみて」と作者が仄聞したことで、この歌を詠んでいる、と記しており、哀傷の歌であっても「恋の当事者の歌」に該当しません。

⑧ では『人丸集』におけるこの歌以降の歌の配列はどうか。

『人丸集』の配列では、3-1-221歌の詞書のつぎの詞書は、3-1-228歌にある「せむどうか」です。そして3-1-228歌以後の歌本文はすべて旋頭歌です。そうすると、3-1-221歌の詞書は、3-1-227歌までの詞書と理解可能です。

 一つの詞書のもとの歌として、3-1-222歌から3-1-225歌は、作者の立場は恋の当事者です。3-1-226歌は七夕伝説を踏まえた歌であり、3-1-227歌はこの詞書の最初の歌(3-1-221歌)の玉藻に呼応して采女の着物を題材にしている、とみることができます。だから、3-1-221歌から3-1-227歌は、一つの物語を仕立てている、と言えます。

 しかし、これらの歌の作者が3-1-221歌の詞書にいう(持統朝で活躍した)「人まろ」と断定する根拠を示せません。このため、3-1-221歌から3-1-227歌は『新編国歌大観』の解題にいう「(この歌集は、)他人歌を多く含み、その成立は複雑である」の一例とみることができます。

 そうすると、この詞書とそのもとにある歌全体を、『人丸集』は「恋に関する歌」として配列している、と言えます。

 このため、今検討対象にしている3-1-216歌を、『人丸集』は、恋の歌として採録していることになります。

⑨ 『人丸集』における詞書について、3-1-221歌以前に遡ると、3-1-178歌にあります。次のとおり。

 3-1-178歌 みかどたつた河のわたりにおはします御ともにつかうまつりて

   たつた河もみぢばながる神なびのみむろの山にしぐれふるらし

 3-1-228歌にある詞書「せむどうか」に準じれば、この詞書は3-1-216歌も含めて3-1-220歌までの詞書と理解可能です。しかし、例えば3-1-200歌の歌本文は次のようであり、3-1-178歌の詞書のもとにある歌とは思えない歌です。少なくとも3-1-178歌のトーンと全く異なります。

 3-1-200歌 歌本文 

   みな人のかさにぬふてふありますげありての後もあはんとぞ思ふ

 このため、3-1-178歌~3-1-220歌の配列も、『新編国歌大観』の解題にいう「(この歌集は、)他人歌を多く含み、その成立は複雑である」の一例とみることができます。このため、3-1-211歌の詞書は「題しらず」とみなします。

⑩ 次に、前回、3-1-216歌の現代語訳は、島田良二氏の訳を採りました。次のとおり。

 「勇ましい男の狩をする矢の前の先に立つ不安な鹿も、それほどひどく私のようには物思いをしないだろう。」(『私歌集全釈叢書34 人麿集全釈』(島田良二氏))

 作者の恋の辛さの比喩が鹿の状況であり、また、五句にある「おもはじ」の助動詞「じ」は、作者ではなく鹿の思いを作者が推量していることになります。島田氏が「不安な鹿」と判断した根拠は不明でした。

⑪ 次に、幾つかの語句の意を確認します。上記「2.⑤」で「あらちを」、「いと」、及び「わが」は確認しました。3-4-30歌本文と異なる四句にある「(いと)わがごとに」を確認します。

 四句「いとわがごとに」とは、副詞「いと」+連語「わが」+活用語の連体形につく接続助詞「ごとに」ではないか。

 接続助詞「ごとに」の意は「・・・のたび、・・・のどれも」です(『例解古語辞典』)。

 連体格助詞「が」を伴って「わが」という連語で「わたしの」の意となりますので、「わがごとに」とは「わたしのどれも」となります。

 三句~四句にある「・・・しかもいとわがごとに」とは、「・・・という状況のシカも、ほんとうに作者自身の状況どれも」と詠っていることになります。

 それは、「・・・という状況のシカも、ほんとうに作者の(これまでと同様にこれから来る日も来る日も)どの日も」と並列させていると理解できます。

 そうすると、五句は、作者自身に関して言っていることになります。

⑫ 3-1-216歌は詞書が「題しらず」の歌ですので、作中人物が男か女かは歌本文の内容で推測することになります。

 このことを前提として、現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 「勇壮な男が射止めようと矢を向けた先に立っている鹿も、ほんとうにこれからの日々の私も物に動じないであろうよ。」

 鹿は勇壮な男に射止められるはずです。運命としてそれを受け入れているのが「たつ」以外の行動を起こしていないことから推測できます。

この歌は、作者自身も貴方への愛情に揺らぎがありません、と伝えた恋の歌です。男である「あらちを」の矢の先に「たつしか」になぞらえる人物は女である作者とみなせます。

 そして、作者は、初句~三句の例えのように猛烈なアプローチに応じた直後の女であり、この歌は、後朝の歌とみなせます。前回(島田氏の現代語訳)とは女の歌というのは同じでも、歌の理解は異なることになりました。

4.再考 1-3-954歌

① 次に、もう一つの類似歌、『拾遺和歌集』の恋五の部立てにある1-3-954歌を確認します。

 前回(ブログ2018/9/24付け)の検討時に紹介した小池博明氏は、恋部の構成を論じて、「時間の推移(一方向に時間軸に沿ってすすむ)というよりも段階的推移(質的変化・進行後退等のステップ)によっている」と指摘しています(『新典社研究叢書 拾遺集の構成』(1996))。

 即ち、『拾遺和歌集』の編纂者は、『古今和歌集』の編纂者と同じように、『拾遺和歌集』編纂の元資料である歌を素材として扱っている、と見ています。特定の男と女が歌を交わしたと思われる対の歌を並べることはせず、恋の段階に相当する歌を集めて配列している、とみなしています。

② 恋五は、恋の段階を明らかにするため作詠された事情を具体に記した詞書1題(1首)をおき、つぎに、「題しらず」の歌が多数配列される、というパターンが9回繰り返されており、9つの歌群があることになります。9回のうち2回は「題しらず」の歌の前に返歌1首がありますが、1-3-954歌の属する歌群にはありません。

 1-3-954歌は、1-3-950歌の詞書「ものいひ侍ける女ののちつれなく侍て、さらにあはず侍ければ  一条摂政」から始まるパターン(歌群)であり、「題しらず」では4番目にある歌です。

 「題しらず」の歌は、逢えない嘆き、一人寝が続く、わが身の不運、と詠う歌に続いてこの歌があり、恋死も覚悟し、恋しさが募る、涙涙の日、と詠う歌が続いています。1-3-957歌以降は、涙の歌ばかりです。

③ 小池氏は、一つ前の歌群にある1-3-948歌や1-3-949歌では作者(作中人物)は関係途絶を認識している、と指摘しています。

 歌群の最初にある1-3-950歌の詞書は「ものいひ侍ける女」と仲のよかったのは過去のことであることを過去回想の助動詞「けり」を用いて示しており、一旦離別状態になったと作者は認めている詞書です。

 このため、1-3-954歌は、この配列と、1-3-950歌の詞書から、逢っていた相手との関係改善が絶望的な状況での歌である、といえます。そして、男の立場を詠んだ歌ということになります。

④ 前回、離別を認識した作者の歌として、現代語訳(試案)を示しましたが、それは1-3-954歌本文と3-4-30歌本文との違い(四句の「いと我ばかり」と「いとわがごとく」)について論を尽くしていませんでした。

 また、この歌は、この部立ての配列から判る離別を認識した歌群の歌という前提条件にもっと留意してよい、と思います。

 このため、改訳します。

⑤ 最初に語句の確認をします。

 「いと我ばかり」の「ばかり」とは、副助詞であり、普通の体言に付く場合は「・・・ほど、・・・ぐらい」の意を添えます。主語や連用修飾語である場合は「・・・ほど、・・・ぐらい」の意を添えてぼかしていう表現」となります(『例解古語辞典』)。

 配列からは、諦めきれないが離別が決定的な状況にある男が、相手の女におくった歌であることが明確であり、この後に配列されているのは、涙を詠い途方にくれていることを訴える歌ばかりです。

 五句「物はおもはじ」の「物」とは、「a個別の事物を、直接に明示しないで、一般化していう 」場合に相当し、具体的には(シカにとっては射殺されることだが)作者には「離別を認ること」でははないか。

⑥ 改訳を試みると、次のとおり。

1-3-954歌  題しらず

 「勇壮な男が射止めようと矢を向けた先に立っている鹿も、全く私ほど悩み苦しんでいることはあるまい。(だから翻意してください)」

 勇壮な男は鹿を傷つけずに射止めるか捕獲するのは確実であるものの、鹿は死を考えてはいまい、と作者は想定しています。五句にある「おもふ」の主語は、建前では「鹿」です。

 前回は、作者である女が、訪ねて来てくれるか不安であると理解しましたが、今回はそれと異なり、作者である男が、絶望的な状況を打開すべく必死に訴えている、という理解が妥当となりました。

5.再考 3-4-30歌 その2 類似歌と異なる恋の歌か

① ここまでの検討で、平仮名表記をすると、四句の3文字だけが異なるだけの3首は、それぞれの歌集の配列と詞書を踏まえて、四句の意が異なり歌意が異なる歌となりました。

 3-4-30歌は、暫く途絶えていた後に男が訪れた際の女の歌で、女の事情を訴えた歌(3-4-29歌)に続き、今でも相手の意に従うことを婉曲に伝えた歌でした。

   3-1-216歌は、勇壮な男が必ずシカを射止めるかのようにアプローチしてきた男を受け入れた際の女の後朝の歌でした。

 1-3-954歌は、離別を通告してきた女に翻意を促すため、男が種々訴えている歌の一つでした。

② 詠っている場面と作者の性別は、順に、再会直後の女、初めて顔を合した直後の女、離別通告があった後の男となります。

 この3首が、世に知られるようになったのは、3-1-216歌が最初であり、女の立場の歌としてです。次に、それを利用して『猿丸集』の編纂者は別の女の立場の歌として3-1-216歌とし、『拾遺和歌集』の編纂者は男の立場の歌として1-3-954歌としたと推測できます。『猿丸集』歌と『拾遺和歌集』歌の前後関係は今のところ分かりません。

 このため、3-4-30歌は、類似歌とは異なる歌です。そのほか、『猿丸集』における想定している歌群の歌かどうかは後日の検討とします。

 「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただきありがとうございます。

 次回は、第31歌を検討したい、と思います。

(2024/3/4  上村 朋 )

付記1.『猿丸集』における「恋の歌」の定義

 『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義して検討をしている。

第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと

第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと

(付記終わり 2024/3/4  上村 朋)

わかたんかこれ 猿丸集その223恋歌確認29歌 助動詞けり

 前回(2024/2/5)に引きつづき『猿丸集』歌の再確認をします。今回は第29歌です。

1.経緯

2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。12の歌群の想定し、3-4-29歌は、「第七 乗り越える歌群(4首 詞書3題)」の第1首目である。3-4-28歌までは、すべて類似歌とは異なる歌意の恋の歌(付記1.参照)であることを確認した。

 歌は、『新編国歌大観』より引用する。

2.再考3-4-29歌 詞書その1 

①  『猿丸集』の第29歌とその類似歌は次のとおり。

3-4-29歌 あひしれりける女、ひさしくなかたえておとづれたりけるによみてやりける

    あづさゆみゆづかあらためなかひさしひかずもひきもきみがまにまに

 

類似歌 『萬葉集』 2-1-2841歌。 巻十一の部立 「譬喩」(2839~)

     梓弓 弓束巻易 中見刺 更雖引 君之随意

 あづさゆみ ゆづかまきかへ なかみさし さらにひくとも きみがまにまに

 

 前回(ブログ2018/9/17付け)の結論は、「この歌は、昔の親密な関係に戻ることが確かになった時点の女の喜びの歌であり、類似歌は、まだ関係が出来ない前(あるいはできてほしい時点)の女の拒絶(あるいは願望)の歌です」というものでした。

② 助動詞「けり」が詞書に3度用いられ、歌本文には用いられていません。3-4-27歌と3-4-28歌では詞書や歌本文にもありました。このため「けり」に留意して再確認を下記のように行い、次の結論を得ました。

第一 この歌の詞書において、助動詞「けり」は、驚きか詠嘆の気持ちをこめて回想する意で用いられている。

第二 詞書と歌本文の現代語訳(試案)は、次のように改訳する。この詞書のもとにある次の歌との整合性の確認は今後行うこととする。

詞書: 「昵懇の仲であったところの女が、暫く途絶えて後に男が訪れたのだが、この歌を詠んで逃したということだ。」(29歌詞書改訳)

歌本文: 「あづさ弓で矢を射るのに重要なゆづかを巻きなおされてから私たちのこのような仲が長く続いています。これから、また弓を引かないのも弓を引くのもあなたのお心のままに。(今日のところはお帰り下さい)」(3-4-29歌本文改訳その2)

そして、その暗喩は、この詞書のもとにある次の歌とともに理解しなければならないので保留する。

第三 類似歌の理解は前回と同じであり、このため類似歌とこの歌とは異なる歌意という前回の同じ結論となった。

第四 この歌が、「『猿丸集』歌すべての歌が「恋の歌」という仮説に沿う1首であるかどうかは、この歌群の歌全てを再検討後に確認する。

③ 助動詞「けり」の意は、

a「ある事がらが、過去から現在に至るまで、引き続いて実現していることを、詠嘆の気持ちをこめて回想する意を表す。・・・てきたなあ。・・・ていることだ」とか、

b「ある事がらが、過去に実現していたことに気がついた驚きや詠嘆の気持ちを表す。・・・たなあ。・・・たことだ。」

c「今まで気づかなかったり、見すごしたりしていた眼前の事実や、現在の事態から受ける感慨などに、はじめてはっと気づいた驚きや詠嘆の気持ちを表す。・・・なあ。・・・ことだ。」

d「伝聞や伝承された過去の事実を、回想していう意を表す。・・・たということだ。・・・たそうだ。」

などの意があります(『例解古語辞典』)。

④ 詞書より再確認します。この詞書はいくつかの文から成ります。すべての文に助動詞「けり」が用いられています。()に理解した文の趣旨を付記します。

第一 あひしれりける女、:(歌に関係ある人物を紹介)

第二 ひさしくなかたえておとづれたりけるに :(詠う経緯を記す)

第三 よみてやりける :(作詠者の行動を記す)

⑤ 「あひしれりける(女・人)」という語句がある詞書は、『猿丸集』に4題あります。

 3-4-18歌の題詞:あひしれりける人の、さすがにわざとしもなくてとしごろになりにけるによめる

  (「あひしれりける人」とは、歌本文の作者がよく知っている人物でこの歌をおくった相手。 ブログ2020/8/31付け参照)

 3-4-28歌~3-4-29歌の題詞:上記①に記載

 3-4-45歌の題詞:あひしれりける人の、なくなりにけるところを見て

  (「あひしれりける人」とは、歌本文の作者が昵懇の間柄であった女でこの歌をおくった相手。 ブログ2019/4/29付け参照)

 3-4-47歌の題詞:あひしれりける女の、人をかたらひておもふさまにやあらざりけむ、つねになげきけるけしきを見ていひける

  (「あひしれりける女」とは、歌本文の作者のよく知る女でこの歌をおくった相手。 ブログ2019/8/19付け参照)

 このうち3-4-18歌は、ブログ2020/8/31付けで再確認して、恋の歌として理解が出来た歌です。3-4-45歌と3-4-47歌の恋の歌の再確認はこれからです。

「あひしる」(相知る)とは、「互いに親しむ・交際する」意です(『例解古語辞典』)。

 この題詞(3-4-28歌~3-4-29歌の題詞)以外は、「あひしれりける(女・人)の」という助詞「の」が付いた語句であり、歌を詠んだ人物(歌の作者)がその人(あるいは女)を「あひしれりける」という状況です。この題詞は、助詞「の」がありません。

⑥ 第一の文は、ある女とこの詞書を作文している人物との関係を記しています。そのある女は、歌の作者であるか、歌をおくった相手であるか判断できる情報はありません。

 第二の文での「おとづれる」という行為は、恋の歌であるならば男の行動になります。そのため、その後にこの歌は詠まれていることになります。そして翌朝におくったとすれば、後朝の歌になります。

 第三の文は、明らかに歌の作者の行動ですが性別は記されていません。おくった相手も記されていません。しかし、3つの文の構成からは、歌を詠んだ人物(作者)の第一候補は第一の文にある「あひしれりける女」です。

 そして歌をおくった相手は、第二の文における「おとづれたりけり」という男、ではないか。

 このため、詞書は、女が男に歌をおくった、ということを記している、と理解できます。

⑦ さて、ブログ2018/9/17付け及び同2018/9/24付けで得たこの詞書の現代語訳(試案)は、次のようなものでした。

 「男女の間柄であった女が、暫く遠ざかっていた男の訪れがあって後に、詠んで送った(歌)」

 この(試案)において、例えば、「あひしれりける(女)」を、単に「男女の間柄であった(女)」と訳しているのは、上記の「けり」の意に含まれているなんらかの驚きや詠嘆の気持ちの意あるいは回想している意を表現していないことになるのではないか、という疑問が生じます。

 詞書における助動詞「けり」の意は、歌本文が反映しているはずですので、歌本文の再確認をしてから、詞書の現代語訳(試案)を改めたい、と思います。

3.再考3-4-29歌 歌本文その1 

① いくつかの語句を確認します。

 初句「あづさゆみ」とは、『萬葉集』歌でも枕詞として用いられています。弓の縁で「はる(春・張る)」、「ひく(引く)」、「もと(元)」、「すゑ(末)」などの語句にかかっています。弓の素材である梓の縁ではなさそうです。

「ひく」にかかる場合は、「ひかば・・」、「ひきみゆるへみ」と続き、「ひかずもひきも」という用例はありません。

 ここでは、弓の部位の名(ゆづか)を修飾しているので、武具である弓の美称ではないか。そして、恋の歌であるならば、恋の相手を暗喩している、と思います。

② 二句にある「ゆづか」(弓束)とは、矢を射るとき、左手で弓を握る部分を言います。木の皮や獣の皮などを巻いて使いやすくしており、時々巻替える必要があるのだそうです。「あづさゆみ」が恋の相手の暗喩であるならば、「ゆづかあらため」とは恋の相手(男)が新しい女性との交際を選択したことの暗喩となります。

 三句にある「なかひさし」とは、「(あなたとの)仲久し」であり、この歌をおくる相手との関係は、ある状態(おとずれが無い状態)が長く続いた」という意です。

③ 四句にある「ひかずもひきも」は、類似歌では「さらにひくとも」とあります。『萬葉集』の用例には「(あづさゆみ)ひきみゆるへみ」があります。

 「ゆみをひく」と対の行為は「ゆみをゆるめる」であり、「ゆみをひかず」は「ゆみをとる」との対がふさわしい語句なのではないか。

④ 五句「きみがまにまに」は、『萬葉集』に15例(首)あり、その万葉仮名はほとんどが「君之随意」です。しかし、勅撰集には「きみがまにまに」と表現する歌は、ありません。「ひかばまにまに」もありません。時代が下がると、恋の歌のイメージから信頼しているというイメージを詠う歌が排除されていったと推測できます。現実の場における恋の歌が、悲恋を詠うものだけになったとは思えないので、文学のジャンル意識が生まれた結果であろう、と思います。そのような時代にこの歌が詠まれているので、『猿丸集』の編纂者の主張があると思えますが、今のところそれが何であるかはわかりません。

⑤ 現代語訳(試案)を、前回(ブログ2018/9/17付け)では次のようにしました。歌には、助動詞「けり」が用いられていません。

  「矢を射るのに重要な梓弓のゆづかの部分のように、貴方と私の間を結んでいた関係を貴方が新しいものにして(私を遠ざけて)から長い日時が過ぎました。昨夜お出でいただき一緒の時間を過ごさせていただきました。これからは、弓を引かないのも弓を引くのもその弓を使う人の意思ひとつであるように、私は、あなたのお心のままです。」

 私の思い入れの強い意訳になっており、逐語的な現代語訳ではありません。

⑥ 作者は、過去の事実と今後の決意を淡々と詠っています。その作詠態度を尊重し、訪れてくれた喜びを直接示唆する語句もありませんので、次のように改めます。

 「あづさ弓で矢を射るのに重要なゆづかを巻きなおされてから私たちのこのような仲が長く続いています。これから、また弓を引かないのも弓を引くのもあなたのお心のままに。」(3-4-29歌本文改訳)

 初句にある「あづさ弓」は、歌をおくる相手を暗喩しているのではないか、と思います。

 「なかひさし」とは、あなたの「巻替える」ことがあった結果の事態です、ということの指摘です。

歌本文の四句と五句にある「ひかずもひきも」とは恋の歌であるならば男の行為であるので、この歌は女が男におくった歌と認められます。

詞書からは、この歌の作者は「あひしれりける女」が第一候補でしたので、詞書と歌本文の間に作者の性別は一致します。

⑦ さて、この歌は、四句が類似歌と大きく異なっています。上記③で指摘したように、弓を「ひく」と「ひかず」を対比しているのが気にかかります。また、「ひかず」を先に言い出しているので、「ひかず」を作者は言いたいのではないか、と推測します。

 そして恋の歌としていくつかの語句に暗喩がありました。暗喩を重視すると、歌全体に込められているところは、次のようなことではないか。

 「貴方(あづさゆみ)が新しい交際相手を選び(ゆづかあらため)、私たちの仲が切れた状態が長く続きました。そして今日となっています。私をあらためて選ばないのも(ひかずも)あらためて選ぼうとするのも(ひきも)それはあなたの自由ですが、私にも仲が切れた状態の時にはその自由があったのですよ。」

⑧ 「ひかず」を先に言って、五句の「きみがまにまに」とあり、その五句には「われもまにまに」の暗喩がある、とすると、詞書の「けり」の意は、おとづれた男にとって、驚きか詠嘆の意で用いられていると理解できます。

 即ち、この歌は、前回訪れてくれた時から久しぶりであり、作者の側の状況の変化も有り得ることです。だから、貴方と同じように今は私も心のままに動きます、ということを言っていることになります。

 しかしながら、この詞書のもとにもう1首ありますので、合わせて検討をする必要があります。

 このため、「恋の歌」の確認はその後のこととします。

 

4.再考3-4-29歌 詞書その2

① 改訳した歌本文(とその暗喩)を前提に、改めて詞書の現代語訳を試みます。

 「あひしる」(相知る)とは、「互いに親しむ・交際する」の意です。

『猿丸集』の「あひしれりける(女・人)」という語句4例のうち3例(上記「2.⑤」参照)は、「あひしれりける(女・人)の」という助詞「の」が付いた語句であり、当該詞書のもとにある歌本文をおくった相手でした。

 そして、歌本文の作者は、当該詞書を作文した人物と重なって矛盾がありませんでした。

 この歌の詞書では、「あひしれりける(女・人)」という語句であって、助詞「の」が付いた語句ではなく、詞書の第三の文にある動詞「よみてやりける」の主語が「あひしれるける女」となります。

② そして、「よみてやりける」とは、「詠みて遣る」ですが、その意は、現在交際している男と鉢合わせをしないように、「歌を詠んで(事情と作者の立場もつたえて)逃しやる」です。

 「やる」の意は「a行かせる。b送る・与える。」のほかに「c逃す」もあります(『例解古語辞典』)。

 この歌をおくられたのは、「おとづれたりける」と表記されている男になります。

 その男が詞書を作文しているのではないか。

 詞書にある助動詞「けり」は、「詠嘆の気持ちをこめて回想する意」で用いているのではないか。詞書はそこに留意して、改めて現代語訳を試みると、次のとおり。

 「昵懇の仲であったところの女が、暫く途絶えて後に男が訪れたのだが、この歌を詠んで逃したということだ。」(29歌詞書改訳)

③ 男が訪れたのをぴしゃりと断っていないので、作者は、未練があるのではないか。円満に今交際している男と別れるのを模索する気持ちがあるのではないか。それらは次の歌をみればわかるかもしれません。

5.再考3-4-29歌 歌本文その2 詞書との整合

① 上記の詞書の現代語訳(試案)との整合を歌本文の現代語訳で確認すると、上記「⑥」に示した現代語訳(試案:3-4-29歌本文改訳)を修正します。

②  「あづさ弓で矢を射るのに重要なゆづかを巻きなおされてから私たちのこのような仲が長く続いています。これから、また弓を引かないのも弓を引くのもあなたのお心のままに。(今日のところはお帰り下さい)」(3-4-29歌本文改訳その2)

③ その暗喩は、この詞書のもとにある次の歌とともに理解しなければなりません。

 「けり」を重ねて用いている詞書からは、女が本当に男を突き放しているのか、訪れの無い期間の浮気の相手との鉢合わせを避けたかっただけなのか、判断が付きかねます。

 

6.類似歌の確認

① 類似歌 『萬葉集』 2-1-2841歌を再考します。

 この歌は部立て「譬喩」にあり、「寄弓喩思」と題された歌です。この題のもとにある歌はこの1首だけです。

 萬葉集歌での「あづさゆみ」の用例は、その歌の作者の性別にかかわらず、特定のある男性か男性一般をさしていました(ブログ2018/9/17付け「4.②」参照)。

 三句の「なかみさし」は具体の行動は不明ですが、弓の操作か手入れのひとつであって「弓束(ゆづか)」を巻替えた後に行う「何らかの弓に対する作業・行為」とみなせます。

② 阿蘇瑞枝氏は、「女性の歌で、個人的契機で詠まれたというよりも集団の場でのうたいものであったか。主意は(今も)自分の気持ちはかわらないことか。」と指摘しています。

 土屋文明氏は、「あまたの(人の)誘因にはなびかず、ひたすら君に随う心と見なければ、五句が生きてこない。」と指摘しています。

 五句「きみがまにまに」とは万葉仮名「君之随意」に示されているように、「貴方の気に召すまま」の意です。万葉仮名「君之随意」と記述された大方の歌と同じく、また、土屋氏のいうように、この歌は、五句の万葉仮名「君之随意」を相手に伝えたいのが趣旨の歌と理解します。

③ 前回の検討(同上ブログ)での現代語訳(試案)は次の2案でした。「あづさゆみ」の意味するところが特定のある男性あるいは男性一般で2案となります。

第一 弓を引く者が特定のある男性: 

「(貴方は)梓弓の弓束を(時には)巻替えて中見さすということまでしたうえで、改めて弓を引こうとしています。弓を引くのは、たしかに弓を引く方のお考え次第でしょう。それと同じように、気持ちを改めるなどして私にアプローチしてくださるのも貴方のお気に召すままなのですよ。(そうしたら私は喜んでうけましょう)。」

このように理解した歌は、女が特定の相手に行動を促した歌であり、五句にある「きみ」はその特定のある男性(この歌を聞かせる相手)となります。

第二 弓を引く者が男性一般: 

「(男の方は)梓弓の弓束を(時には)巻替え、中見さすということまでして、更に弓を引いてみようとします。それは弓を引くひとのお考え次第でしょう。みなさんがそのように色々考えられて事新しく私を誘うのもみなさんの自由でしょう。そのようなことをいくらしても、私はあの人につき従うつもりですので。」

 このように理解した歌は、弓を引くひとを恋の相手としては拒否している歌であり、五句にある「きみ」は「私が思い焦がれている(皆さんもご存知の)あの人」となります。 四句にある接続助詞「とも」は、逆接の仮定条件を表現していることになります。

④ 『萬葉集』の編纂者(元資料の採録者)が、両方の意があることを承知で採用したとしても、また「なかみさし」が不明の作業・行為のままであっても、類似歌は、特定の気を引いてほしい男性にお願いしている歌、もしくは寄ってくる男に断りを告げている歌である、という前回の結論は妥当である、と思います。

 

7.再考 3-4-29歌 その2 恋の歌か

① 3-4-29歌は、詞書のもとにある歌として、暫く訪れていなかった女から断られた際の歌となりました。しかし、上記「5.」で指摘したように、同一の詞書のもとにある次の歌との整合を確認する必要がありますのでしばらく恋の歌の判定は保留します。

 類似歌は、理解は2案並記ですが、特定の気を引いてほしい男性にお願いしている歌、もしくは寄ってくる男に断りを告げている歌であり、この2案は、男女の仲は、まだ結ばれていないことになります。

①『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義して検討をしています。

第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと

第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと

② この4つの要件のうち、第二は、『猿丸集』に想定した12の歌群のうちの「第七 乗り越える歌群(4首 詞書3題)」の第1首目であり、第2首目以降の検討を要します。そのほかの要件は満足しています。

 このため、第4首目の検討後に「恋の歌」かどうかを判定したい、と思います。

ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 次回は、第30歌の確認をします。

(2024/2/26  上村 朋)

 

わかたんかこれ 猿丸集その222恋歌確認28歌は「やま」にみる恋

 前回(2024/1/29)に引きつづき『猿丸集』歌の再確認をします。今回は第28歌です。

1.経緯

2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。12の歌群を想定し、3-4-27歌と3-4-28歌は、「第六 逆境深まる歌群」の歌群(2首 詞書2題)に整理している。3-4-27歌まですべて、類似歌とは異なる歌意の恋の歌(付記1.参照)であることを確認した、3-4-28歌の類似歌は『古今和歌集』の1-1-204歌である。

 歌は、『新編国歌大観』より引用する。

2.再考3-4-28歌 その1

① 3-4-28歌と直前の歌3-4-27歌は、前後の歌と違い、恋という人事を直接詠っていません。それでも3-4-27歌が恋の歌であったので、この歌も同音異義の語句により、同じく恋の歌となる、と予想できます。

 『猿丸集』の第28歌とその類似歌は次のとおり。

3-4-28歌  物へゆきけるみちに、ひぐらしのなきけるをききて

   ひぐらしのなきつるなへに日はくれぬとおもへばやまのかげにぞありける

 

3-4-28歌の類似歌  1-1-204歌   題しらず     よみ人知らず 

   ひぐらしのなきつるなへに日はくれぬと思ふは山のかげにぞありける  

 類似歌は、『古今和歌集』巻第四秋歌上にある歌です。この2首は、四句にある助詞(「ば」と「は」)が異なるだけです。

② 歌本文にある「やまのかげ」の「やま」については、『猿丸集』第51歌と第52歌の詞書の検討(ブログ2019/10/7付け及び同2019/11/4付けなど)における「やま」の理解を踏まえ、詞書にある助動詞「けり」に留意し、下記のように検討したところ、次の結果を得ました。

第一 「やまのかげ」の「やま」は、「屋+間」(建物と建物の間)の意である。また「かげ」は、「面影」の意である。「やまのかげ」を(牛車の)「輻(や)の間から確認したかげ」(ブログ2018/9/10付け「9.及び10.」)という理解は誤り。

第二 詞書にある「けり」は、気付きの気持ちの意を表しており、その気付いた内容から恋の歌となる。

 その恋の歌に見立てるには、第27歌と同様に、次の3つの要件によります。 

第一 暗喩が詞書や前後の歌との関連からも認められ、その暗喩によりこの歌を恋の歌と推測できる。

第二 恋の歌のタイプには、相手を恋い慕う歌、連れない態度を咎める歌、あるいは失恋中の心証風景の歌乃至一方の人の死によって終わった際に詠った歌がある。この歌は、そのいずれかに該当する。

第三 当然類似歌と歌意が異なること

 

③ 詞書より再確認します。

 3-4-27歌の詞書と対比した表をブログ2024/1/29付けより引用します。

表 3-4-27歌と3-4-28歌の詞書の比較 (2024/1/26現在)

詞書を構成する文の区分

3-4-27歌の詞書

3-4-28歌の詞書

文1

ものへゆきけるみちに

物へゆきけるみちに

文2

きりの

ひぐらし

文3

たちわたりける

なきけるをききて

 

共通にあるのは、文1は、すべてであり、文2は、助詞「の」、文3は、助動詞「けり」です。

 そして、異なるのは、「きりがたつ」と「ひぐらしがなく」という、得た情報の種類(視覚と聴覚)です。3-4-27歌は、その得た情報が、恋に関するなにかを示唆するか暗喩しており、恋の歌でした。題詞の文のパターンが同じなので3-4-28歌も同じようにその得た情報の示唆などにより、恋の歌である、と予想します。

 

④ 文1の「もの」とは「出向いてゆくべきところ」を莫として言います。

3-4-27歌と同様に、ゆくべきところ(外出の目的地)が文2以下の記述に関係していれば、文1は、特に名を秘すところに行く途中に、ということを意味します。そうでなければ、屋内ではなく外出中、という意だけです。

 作者がセミの「ひぐらし」の鳴き声を聞いた「みち」とは、海路ではなくて陸路の道です。

「けり」の意は、前回の3-4-27歌の検討時は、c「今まで気づかなかったり、見すごしたりしていた眼前の事実や、現在の事態から受ける感慨などに、はじめてはっと気づいた驚きや詠嘆の気持ちを表す。・・・なあ。・・・ことだ。」の意となり、3-4-27歌は「恋の歌」となったところです。

 3-4-28歌の詞書においても、同様の意と予想します。

 だから、詞書は、今鳴いたひぐらしの鳴声に気が付き、新しく何かを思いついたわけではないという場面であることを明確にしている、と理解してよい、と思います。

 なお、「けり」は歌本文の五句にも用いられています。

⑤ 次に、詞書にある「ひぐらし」とは、歌本文の初句にもありますが、セミの一種です。「なきける」が「鳴きける」の一意しかなく、「ひぐらし」は同音異義の語句ではなさそうです。

 オスの鳴き声は甲高く、標準的な聞きなしは「カナカナ」とされ、日の出前や日の入り後の薄明時によく鳴きますが、曇って薄暗くなった時、気温が下がった時、または林内の暗い区域などでは日中でも鳴きます。「日を暮れさせるもの」としてヒグラシの和名がついたそうです(ウィキペディアより)。

『世界大百科事典』によれば、「平地~1500mくらいの山地に広くみられ、薄暗い林中にすみ、特にスギ・ヒノキ植林地域に多い。おもに明け方と夕方に鳴くが、日中でも降雨前やガスが濃くかかったときにはよく鳴く。鳴き声は、高音でキキキ・・・、あるいはカナカナ・・・と聞こえ、カナカナなる別名がある」セミです。

⑥ 詞書の現代語訳を試みると、

「あるところへ陸路行く途中において、ヒグラシが鳴きだしたのであった(あのときのヒグラシをも思い出し)、聞きつつ(詠んだ歌)」

「けり」を重視して、歌本文に暗喩のあることとして提案したところです。

⑦ 次に、歌本文を検討します。いくつかの語句を最初に確認します。

初句にある「なきつる」とは、動詞「鳴く」の連用形+完了の助動詞「つ」の連体形」です。

 完了の助動詞には「ぬ」と「つ」があります。その違いは、「ぬ」が自然的作用を表す動詞(「暮る」とか「落つ」など)に付くのに対して、「つ」は意志的な動作を表す動詞(暮らすとか落とす)などに付く場合が多いこと、及び「ぬ」が状態の発生を表すという気持ちが強いのに対して、「つ」は動作・作用がそこで終わったこととかすでに終わったことという完了・終結を表す傾向が強い、という違いがあります(『例解古語辞典』)。

 二句にある「なへに」は、上代語の接続助詞です。それに伴って他のことが行われている意を表します(『例解古語辞典』)。このため、「なきつるなへに」とは,「鳴くことの完了とともに」が有力です。

⑧ 四句にある「おもへば」の動詞「おもふ」とは、「a心に思う」意のほか「bいとしく思う・愛する c心配する・憂える d回想する・なつかしむ f表情に出す・・・といった顔つきをする」意もあります(『例解古語辞典』)

 「おもへば」の「ば」は接続助詞であり、ここでは、「やまのかげ」をこの後に言い出しているので、「あとに述べる事がらの起こった、またはそれに気が付いた場合を表す接続語をつくる役割をもっている」、と考えられます。「おもへば」とは、「・・・思ったら」とか「思ったところが」の意が可能です。このほか、「あとに述べる事がらの起こる、または、そうなると考えられる、その原因・理由を表す接続語をつくる」場合もあります(同上)。

⑨ 類似歌の四句にある「思ふは」の「は」は、係助詞であり、付いた語句を主語・題目などとして取り立てる意があるので、「思ふは」とは、「・・・と思うことは」の意となります。

⑩ 次に、 四句~五句にまたがってある「やまのかげ」は、類似歌と同じ意であれば、「山の陰」となります。

 「やま」については、これとは別に「や」と「ま」の2語からなるとして、前回の検討(ブログ2018/9/10付け)時は、(牛車の)「輻の間」と理解したのですが、牛車に乗っている人物がそれを見るのは牛車の窓との関係で不可能なので、改めて検討します。

 「やま」の有力候補があります。第51歌と第52歌の詞書にある「やまにはな見に・・」の「やま」が、「屋間」(建物と建物の間)の意(ブログ2019/10/7付け及び同2019/11/4付け参照)であったことです(その検討は『猿丸集』は「すべての歌が恋の歌」という仮説検証を始める前の段階です)。

 この歌においても「や」は「屋・家・舎」(『例解古語辞典』)と漢字表記でき、「ま」は「際」(ある物の存在している空間・あたり・きわ)とか「間」(一つの物の間の空間・すきま)という漢字表記が可能(同上)です。

⑪ 2019年の検討時、歌における「ま」(際)の用例を提示をしていませんので、今回『萬葉集』と類似歌のある『古今和歌集』で確認します。

萬葉集』には、万葉仮名「際」を「ま」と訓んでいる例があります。

2-1-17歌(長歌)に、

「味酒 三輪乃山 青丹吉 奈良能山乃 山際 伊隠萬代 道隈 伊積流萬代尓 委曲毛 見管行武雄・・・ 」

 土屋文明氏の大意には、「うまさけ 三輪の山よ、あをによし 奈良の山の、山のあたりに隠れるまで 道の曲がり目の多く重なるまで、よくよく見ながら行かうものを ・・・」とあります。

2-1-484歌(長歌)に、

「・・・ 朝霧 髣髴為乍 山代乃 相楽山乃 山際 徃過奴礼婆 将云為便 将為便不知 ・・・」

 土屋氏の大意には、「・・・ 朝霧の如くにかすかになって、山城の相楽の山のほとりに亡くなって行ってしまはれたから、言ふべき手だても、為すべき手だても分からず ・・・」とあります。

 氏は、「山極」について、古写本に「やまのは」の訓あり、恐らく同義の語であらう。山と山のあひだとまで言はぬとも「山のほとり、山の輪郭の辺」位の意にとるべきであらう」と指摘しています。

⑫ 『古今和歌集』に、「際」の意で「ま」表記した歌はありませんでした。「やまのは」(山の端)表記(1-1-881歌と1-1-884歌)と「山のかひ」表記(1-1-54歌と1-1-1057歌と1-1-1067歌)はあります。

⑬ 次に、「かげ」とは、漢字表記が「影」であれば、「a光 b蔭法師 c水や鏡に映っている姿や形 d姿・形 e面影(おもかげ)」の意があります(『例解古語辞典』)。

 漢字表記が「陰」であれば、「a光の当たらない所 b物陰・さえぎられて見えない所 cかばい守ってくれること・恵み」の意があります(同上)。

 また、漢字表記が「蘿」であれば、「ひかげ」と同じ意であり「山地に自生する常緑多年草のひとつ。ヒカゲノカズラの意となります。

 これから、「やまのかげ」とは、恋の歌であれば、「屋の際の面影」という理解も可能となります。

 

⑭ では、歌本文を検討します。

 歌本文中の接続助詞「なへに」と「ば」、及び活用語の終止形や係り結びに注目すると、次のような文から歌本文は成る、といえます。文ごとの概要を付記します。「思ひ」は2意として詠まれているのではないか。

第一 ひぐらしのなきつるなへに : セミひぐらしが鳴いた。それとともに、

第二 日はくれぬ : 日が沈んで暗くなった あるいは、日が暮れることになる

第三 とおもへば : と「思ふ」が、ところが

第四 おもへば : 「思ふ」ものもあり

第五 やまのかげにぞありける :それは、「やまのかげ」であったなあ。

⑮ この歌は、ひぐらしの鳴き声という聴覚情報を得て(第一)、作者は「日はくれぬ」と判断したか、あるいは「日はくれぬ」ということになる、と判断しました(第二)。そして、それを、何らかの情報を更に得てかあるいは情報を得ずに思考した結果なのであるが(第三)、即座に思うのは(第四)、「やまのかげ」であるなあ(第四)、という歌ではないか。

 「おもふ」は同音異義の語句として用いており、初句から四句にある「おもへば」までの三つの文(では第一~第三)においては、「心に思う」意であり、重ねて四句にある「おもへば」から五句までの二つの文(上記では第四~第五)においては、「回想する・なつかしむ」意となっている、と言えます。

 歌の末尾の助動詞「けり」に留意したい、と思います。ひぐらしの鳴き声から連想ゲームで過去のある事がらに至ったのではないか。

 ものへ行く途次、ひぐらしの鳴き声を聞き「日が暮れた頃合い」という時間帯であれば、思い出すことが作者にはあるのだ、と言って詠ったのがこの歌ではないか。それがあのときの「やまのかげ」だと推測します。

 「やまのかげ」の理解から助動詞「けり」の意は、上記④での予想どおりcの意となるでしょう。

⑯  現代語訳をこころみると、次のとおり。

 「ひぐらしが鳴いた、(それを私は聞いた。)それとともに、日が沈んで暗くなった。と心に思うのと同時に私は回想する。あの屋敷に垣間見た面影が浮かぶなあ。」

 「やまのかげ」とは、「屋際の陰」、即ち「建物と建物の合間にみえる面影」と理解しました。

 第51歌と第52歌の詞書における「やま(に)」は、現代語訳(試案)では「建物と建物の間のところ(にゆき)」としたところです(ブログ2019/11/4付け「12.④」参照)。

 この理解であるならば、恋の相手とは少なくとも縁遠くなってしまっているものの諦めきれない気持ちがある男の歌となります。

3.類似歌の確認 その1 山の陰か

① 次に、類似歌(1-1-204歌)の再確認をします。

 1-1-204歌は、『古今和歌集』の部立て「秋上」に配列されています。「秋上」の歌に、秋の景物を指標として歌群設定を試みる(ブログ2018/9/3付け「4.」参照)と、この類似歌を含む歌群は「きりぎりす等虫に寄せる歌群(1-1-196歌~1-1-205歌)となります。そして、この歌群は対となる歌2首を順に配列し、かつすべて虫が鳴いている景の歌であり、鳴く虫が順次変わり、最後はひぐらしが鳴く2首となっています(ブログ2018/9/10付け「6.」参照)。

② このため、この配列からは、1-1-204歌の歌本文にある「ひぐらし」は「セミ」であり、「やまのかげ」は、「山の陰」という理解が妥当です。

 また、この配列において対となる2-1-205歌も、歌本文を見れば「ひぐらし」は「セミ」です。

 1-1-205歌      題しらず    よみ人しらず

     ひぐらしのなく山里のゆふぐれは風よりほかにとふ人もなし

 この2首の共通点は、夕方にセミが鳴いていることであり、対比しているのは、秋の景物である「ひぐらし」に寄せてある瞬間の出来事と、日数で数えるほどの長い時間に渡る出来事です。

 さらに、知的な遊戯の面が強い作詠態度と情に訴える作詠態度とが対比されています。また、男性官人の理知的な歌と女性の情緒を重視した恋の歌の対比も指摘できます。

③ そして、ブログ2018/9/10付け「8.」にある現代語訳(試案)は、建物内に作者がいる場合及び騎馬で外出時の場合と仮定した次の2案を得ました。

第一 建物内に作者がいる場合 :「ヒグラシが鳴くのだから同時に日が暮れたのだと判断したことは、誤りで、(庭に目に移すと、)日が山の陰に入ったからであった。」 

第二 騎馬で作者が外出している場合 :「ヒグラシが鳴くのだから同時に日が暮れたのだと判断したことは、(道を曲がると日があたったので気が付いたのだが)山の陰に私が居たからであった。」 

 そして、ここまでの『猿丸集』の歌が類似歌と異なる設定で詠まれていることに注目すると、作者の居る場所に関しては3-4-28歌の検討後に結論を得ても良い、と宿題になっています。(ブログ2018/9/10付け 「8.⑧」参照)

④ 上記の現代語訳(試案)2案は、ともに妥当な理解である、と思います。両案の理解を許せるから遊戯性の強い歌といえます。

 『猿丸集』の歌、即ち3-4-28歌は、「山の陰」を詠っていないなど、2-1-204歌とは異なる歌であり、互いに独立した歌なので、2-1-204歌の上記の2案並記のままの現代語訳(試案)でよい、と思います。

⑤ 諸氏の理解も、「ひぐらし」は「セミ」であり、「やまのかげ」は、「山の陰」というものであり、山の陰に入っていたのは、太陽か作者の何れかです。

 なお、「ひぐらし」を詠む2首が対になっており、類似歌2-1-204歌が恋の歌でないのがあきらかであり、2-1-205歌が恋の歌なので、類似歌と異なる歌意となる3-4-28歌が恋の歌である可能性が高まっています。

4.再考3-4-28歌 その2 恋の歌か

① これまでの『猿丸集』歌と当該類似歌で歌意が異なるのは同音異義の語句による場合が多くありました。この歌と類似歌にも同音異義の語句「やまのかげ」がありました。

 そしてここまでの検討で、類似歌の「やまのかげ」は、「山の陰」であり、この歌(3-4-28歌)は「屋+間(建物と建物の間)の面影」であり、現代語訳(試案)の結果も歌意が異なる歌となりました。これは恋の歌の要件第三(上記「2.②参照」)を満足しています。

② そして、現代語訳(試案)は、相手をまで恋慕う歌あるいは失恋中の心証風景の歌に該当すると思われ、要件第二も満足しています。

③ この歌の前後の題詞をみると、直前の題詞は、「第五の歌群 逆境の歌群」(3-4-19歌~3-4-26歌)と整理したうちの最後の題詞です。親たちに逢うことを禁止された状況下で詠んだ歌という趣旨の題詞であり、この題詞のもとにある6首の歌は、逢えない状況が続いている間の男から女への歌ばかりでした。

 この次の題詞は、(2018/9/17付けブログで行った前回の検討では)「昔の親密な関係に戻ることが確かになった時点の女の歌」とあります。歌群は「第七 乗り越える歌群」の最初の題詞です。

 この題詞の配列からは、この題詞は、恋の復活を願っている状況に対応したものである、と推測可能です。そして、歌本文もそのように理解が可能な歌でした。

 このため、恋の歌の要件第一も満足しています。

④ このように、3-4-28歌は恋の歌の要件すべてを満足しています。

 「第六 逆境深まる歌群」の歌群(2首 詞書2題)に整理した2首は、一見すると恋の歌らしくありませんでしたが、恋の歌でした。作者の性別を推測すると、一対の歌と捉えれば、今回検討した3-4-28歌の作者は、諦めていない男でしたので、3-4-17歌は諦めていない女ではないか。

 ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただき ありがとうございます。

 次回は、3-4-29歌を確認します。

(2024/2/5  上村 朋)

付記1.恋の歌の定義について

① 恋の当事者の歌に限らなくとも、広く「恋の心によせる歌」から『猿丸集』は成っており、その広く「恋の心によせる歌」を、「恋の歌」と名付け、ブログ2020/7/6付け「1.及び2.」で定義している。

② 『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義している。

第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと

第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと

③ 『猿丸集』は、編纂者によって部立てが設けられていない。勅撰集のように部立ての「恋」の定義を離れて、恋の歌の独自の定義が『猿丸集』歌には可能である。

(付記終わり  2024/2/5   上村 朋)