前回(2026/10/199/28)に引きつづき『猿丸集』歌の再確認をします。今回は第52歌の五回目です。
1.経緯
2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。第3歌から第50歌まではそのとおりであり、第51歌は異なった。現在第52歌の類似歌に関して検討中である。
2.『猿丸集』の第52歌 3-4-52歌とその類似歌
① 『猿丸集』の52番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。
3-4-52歌 やまにはな見にまかりてよめる (第51歌の詞書と同じ)
こむよにもはやなりななんめのまへにつれなき人をむかしと思はむ
古今集にある類似歌 1-1-520歌 題しらず よみ人しらず
こむ世にもはや成りななむ目の前につれなき人を昔とおもはむ
(今回『新編国歌大観』からの引用誤りに気が付き上記のように訂正します。これまでは「・・・はや成りぬらむ・・・昔と思はむ」としていました。)
清濁抜きの平仮名表記をすると、二句の一文字と、詞書が、異なります。
② 今回、下記第一のもとで『古今和歌集』における1-1-520歌の前後の歌とその配列を確認し、下記第二以下の成果を得ました。
第一 類似歌のある『古今和歌集』の巻十一の部立ては「恋歌一」(以下「恋一」と略称する)であり、恋の始めの段階の歌を配列している。鈴木宏子氏にならい、恋の心象に基づいた主題から配列をみると、原則として恋の進捗順に歌が配列されている。また、題しらず・よみ人しらずの歌は、部立てが「恋歌一」であることにより恋の始めの段階の歌と理解できる。その元資料の歌は同じく題しらず・よみ人しらずの歌であり恋の段階を限定しがたい歌が多い。
第二 巻十一の歌は、筆頭の1-1-469歌から主題ごとに歌2首を並列して配列している。
第三 1-1-520歌の前後の歌のうち、1-1-521歌と1-1-522歌は、「恋が進展しない苦しさ・嘆き・いらだち」を主題として配列されているのではないか。
第四 1-1-521歌の現代語訳(試案)は、つぎのとおり。
「まことにつれない人を、祈り願う、というので、山彦という精霊が反応する感じがするまで(精霊が同情してくれるまで)、私は請い願ったところだよ(でも、やはりむずかしいのかなあ)。」
恋の歌のパターンは、「逢ってくださいと願うか強要する歌」である。
第五 1-1-522歌の現代語訳(試案)は、つぎのとおり。
「流れる水に数を書くことよりもむなしいのは、私の心配などしない人を愛するということであったよなあ。」
恋の歌のパターンは、「初めて逢うまでの手順の一つとして、相手を試したり気を引く歌」である。
第六 作中人物の性別は、1-1-521歌と1-1-522歌はともに不定である。『古今和歌集』編纂者の時代以降の官人とその家族はだれでも利用可能な歌といえる。
第七 1-1-5231歌以降は次回検討する。なお1-1-513歌から1-1-520歌までは、前回までに検討した。
3.~12.承前
13.再考 類似歌1-1-520歌の前後の歌 1-1-521歌
① 確認を、次のように行います。
第一 『古今和歌集』の編纂方針に添った歌意が得られるかを確認する。即ち恋の始めの段階の歌であること及び配列上矛盾のないことを確認する。
前者は、部立て「恋一」にある歌として現代語訳を確認し、歌本文の作中人物(その歌本文における主人公)がこの歌を相手に示そうとしている時点(作詠時点)を推測して判断する。後者は、前後の歌をも確認することで判断する。
第二 「恋一」にある歌の歌意は、その元資料の歌の歌意に拘らない。『古今和歌集』収載歌として設定した作詠時点と元資料の歌の作詠時点はおのずと別だからである。
② 1-1-521歌は、次のとおり
詞書 題しらず よみ人しらず
歌本文 つれもなき人をこふとて山びこのこたへするまでなげきつるかな
この歌本文には、作中人物がこの歌を相手に示した時点を直接指し示す語句は、ありません。詞書にもありません。
この歌は、「やまびこも応えてくれた」ということを述べ、作中人物(作者)の嘆きを、この歌をおくった相手に訴えています。
それは、恋の段階に関係なく、二人の仲が以前より悪くなったか、進展のないことを意味しており、恋の段階を限定していません。
このため、歌本文からは、恋の段階が不定です。
しかし、部立て「恋一」に配列されている歌なので、恋の始めの段階(二人が最初に逢うまでの間)の歌であるはずです。
③ 『古今和歌集』の編纂者は、「恋一」の歌の配列で恋の細かい進捗を示しているかに見えます。
ここまでの配列をみると、「いざ心みむこひやしぬると」(1-11-518歌)とか「人しれず思ふ事」(1-1-519歌)とか、初めて逢うという約束を作中人物はなかなかしてもらえていません。この歌も、その延長上にあるものと想定できます。作中人物は、明確な進展がないので不安は消えないものの、文や歌のやりとりはあるから希望を持たせられています。
なんとか打開しようと、進展のないことに困惑していることをこの歌で訴えようとしているのではないか。
④ この歌の現代語訳を試みます。
筆頭歌にならい、恋の始めの段階の歌として試みます。
初めに、歌本文にある主要な語句の意を確認します。
初句にある「つれもなき人」とは、形容詞「つれなし」の連体形+名詞「人」の語句の途中に係助詞「も」が割り込んでいる形です。「つれなし」とは、「aなんでもないようだ。平気なようだ。b無常だ。つれない。」の意(『例解古語辞典』 以下原則同じ)であり、「も」は「つれなし」を強調しています。大方の人がこの理解をしています。
『例解古語辞典』では、連語として「つれもなし」を立項し、歌語と説明しています。また、「連る」を立項し、下二段活用の動詞として「a連れ立つ。同伴する。b従う・応ずる。」の意とあります。その連用形「連れ」が名詞化しているとみると、「つれもなき人」とは、「連れ立つ人もいない人」と理解できます。
このため、「つれもなき人」は同音異義の語句となります。
⑤ 二句にある動詞「こふ」とは、四段活用の「乞ふ・請ふ」と上二段活用の「恋ふ」があります。二句では終止形で用いられていますので、文脈からどちらであるかを判断しなければなりません。
「乞ふ・請ふ」とは、「a物をほしがる。求める。b神仏などに祈り願う。」意です。
「恋ふ」とは、「a慕い思う。b(異性を)慕う。恋する」などの意です。
二句にある「とて」は、格助詞であり、文に相当する語句を、引用の形で受けて、連用修飾語をつくります。その意はこの歌では二通りの理解があり得ます。
第一に、下に述べる動作の目的や原因などとなる物ごとの内容を、直接に引用して示します。「・・・と言って。・・・と思って」と訳せます。
第二に、下に述べる動作が成立するための前提となる物ごとを示します。「」・・・として。・・・というので」と訳せます。
⑥ 三句にある「山びこ」とは、名詞であり、「山間などで声や音が反響するのを、精霊が答えると考え、その精霊に対して名づけた名。山彦。」です。「彦」とは、ここでは「霊力を持った男性」の意です。
竹岡正夫氏は、この恋の歌では、山中や山べにいる(精霊である)「山彦」よりも広い屋敷や伽藍などの中で反響(させる精霊である山彦)と解したほうがよい、と指摘し、『源氏物語』の用例や『後撰和歌集』にある1-2-798歌(部立て「恋四」)をあげています。
1-2-798歌 女につかはしける 枇杷左大臣
やまびこの声に立てても年は経ぬわが物思ひを知らぬ人聞け
⑦ 四句にある「こたへ」とは、下二段活用の動詞「こたふ」の連用形で名詞化したものです。「こたふ」の表記は「答ふ。応ふ。」であり、その意は「返事をする。反応する。反響する。」です。人の問いかけに対する返答や、山彦の反響、神仏の感応なども含みます。
四句にある「する」とは、サ変の動詞「す」の連体形です。「a行う。する。b(・・・の感じが)する。cある状態にならせる。ある状態におく。」などの意です。
四句の表記は、(山びこの)「こたへするまで」とあり、(山びこの)「こたふるまで(に)」ではありません。この語句は、「(山彦という精霊が)反応する感じがするまで」とか「(山彦が私の声に)反響するまで」という意になると思えます。
五句にある動詞「なげく」は、「aため息をつく。b悲しむ。また悲しんで泣く。c請い願う。哀訴する。」意です。
五句にある語句「なげきつる」は、動詞「なげく」の連用形+完了の助動詞「つ」の連体形です。ここでの「つ」の意は、「a動作・作用が確かに実現・完了したことを表す。」と「b動作・作用がたしかに実現・完了するという気持ちを表す。」に可能性があります。
五句にある終助詞「かな」は、「詠嘆的に文を言い切る」のに用いられる語句です。
⑧ 以上のような語句の理解に基づくと、この歌本文は、次の三つの文から成るものとして理解できます。格助詞「とて」の理解によって、各語句の意が定まり、2案があります。
第一案 「とて」は、上記⑤における第一の意(「・・・と言って。・・・と思って。」)
文A つれもなき人をこふとて : 文Cの行動の理由・原因を述べる。
文B 山びこのこたへするまで : 文Cの行動の一部を示す。
文C なげきつるかな : 作中人物が今の述懐を(この歌をおくる相手に)詠嘆調で伝えている。
第二案 「とて」は、上記⑤における第二の意(「・・・として。・・・というので。」)
文A’ つれもなき人をこふとて : 祈り願ったことを(この歌をおくる相手に)伝えている。
文B’ 山びこのこたへするまで : 文A’の行動の結果、周辺に生じたことを示す。
文C’ なげきつるかな : 文A’の行動の結果、作中人物自身に生じた述懐を(この歌をおくる相手に)詠嘆調で伝えている。
この歌は、「恋一」に配列されているので、まだ逢ったことのないものの文や歌の遣り取りができる仲である相手におくった恋の歌です。
二人の仲は、歌本文の内容から判断すると、作中人物は自らに落ち度はないのに相手から遠ざけられていると認識している、と推測できます。作中人物は、何とか元の仲に戻りたいようです。
⑨ 現代語訳を試みると、次のとおり。文にある「とて」の理解により2案あります。
第一案:「とて」の意は、上記⑤における第一の意(「・・・と言って。・・・と思って。」)。これに伴い、「こふ」は「恋ふ」、「山びこ」は「屋敷に居る山彦がかえしたこだま(反響)」、及び「つ」は「上記⑦のa動作・作用が確かに実現・完了したことを表す。」意となります。
文A まことにつれない態度をとる人を慕うとて、
文B (わが屋敷にいる)山彦がこだまを返してくるくらいまで、
文C 私は悲しんで泣き晴らしてしまっているのになあ。
第二案:「とて」の意は、上記⑤における第二の意(「・・・として。・・・というので」))。これに伴い、「こふ」は「請ふ」、「山びこ」は「屋敷にいる山彦」、及び「つ」は「上記⑦のb動作・作用がたしかに実現・完了するという気持ちを表す。」意となります。
文A’ まことにつれない人を、祈り願う、というので、
文B’ 山彦という精霊が反応する感じがするまで(精霊が同情してくれるまで)、
文C’ 私は請い願ったところだよ(でも、やはりむずかしいのかなあ)。
⑩ 竹岡正夫氏は、第一案に準じる理解を支持し、(「つれなき人」が同音異義の語句ということを踏まえて)「(やまびこには私という「つれ」があるのだから)このやまびこみたいに「つれ」がある人であってくれたら・・・という気持ちから成り立っている歌」と指摘しています。
久曾神昇氏は、「片思いの苦しい意中を詠んだ歌である」と指摘しています。
これらの指摘は、「恋一」の歌の配列からの指摘ではありません。
「作中人物」に応えている「やまびこ」は、竹岡氏のいうように室内で生じる反響(例えば日光東照宮の鳴き竜)を生じさせる精霊を指し、やまべでの精霊より身近な存在ではないか。
⑪ 上記の現代語訳第一案での作中人物の行動は、泣き暮らしていることに終始しています。局面打開は人任せです。
これに対して、第二案での作中人物の行動は、(作中人物の実際の行動かどうかは不明ですがこの歌本文では)より能動的に局面打開を図ったことを述べている、と理解できます。
そして、その結果は期待したほどのことがまだ生じていないことを相手に伝えています。神仏に祈ってだめなら、次の行動は、直談判ではないかと想像できます。
「恋一」の配列を考慮すると、初めて逢う約束を取り付けることに必死な行動のひとつがこの歌である、と言えます。作中人物(作者)は、歌での表現が積極的である第二案としてこの歌をおくったのではないか。
作中人物の性は、「恋一」に配列された歌なので、男性が有力となりますが、初めて逢う約束をした女性でも、その後相手が即座に逢いに来なかったというケースでは詠むことができますので、不定となります。
恋の歌のパターンは、逢ってくださいと願うか強要する歌に該当します。
⑫ 元資料の歌を確認してみます。
「題しらず よみ人しらず」の歌なので、最初に詠まれたのが個人の経験に基づく歌であれば、歌本文に作詠時点を推測できる語句は不要です。元資料の歌は、二人の間を往復した歌のひとつであり、恋の進捗度合いは自明のことだからです。だからこの歌を後代の人が利用する際は、恋の段階を気にせず用いることができます。
久曾神氏の指摘するように誇張した表現が、当時好まれていたとすれば、この元資料の歌は、作中人物の行動として率直に(作中人物の実際の行動かどうかは不明ですが)泣き暮らしていることを訴えるだけを強調した上記の現代語訳第一案が有力ではないか。
古今和歌集の編纂者は、「恋一」の歌として配列するため、「恋の始めの段階」と固定するにあたり、恋の進展を願う立場を強く意識した上記の現代語訳第二案の意になる位置に配列したのではないか。
そうすると、この元資料の歌は、男女の組が掛け合いをするような遊びの場でも、あるいは官人の宴席での戯れ歌としても披露できる歌、と理解できます。
14.再考 1-1-522歌
① 1-1-522歌は、次のとおり。
詞書 題しらず よみ人しらず
歌本文 ゆく水にかずかくよりもはかなきはおもはぬ人を思ふなりけり
この歌本文には、作中人物がこの歌を相手に示した時点を直接指し示す語句は、ありません。詞書にもありません。
歌本文にある「おもはぬ人を思ふ」という語句から、今逢えていない仲であることは、はっきりと判るものの、それは恋の進捗が「恋一」が対象としている段階でもさらに進んだ「恋三」などが対象としている段階でも生じ得ることです。このため、歌本文のみからは、恋の段階は不定です。
しかしながら、部立て「恋一」に配列されている歌だから、恋の始めの段階の歌であるはずです。
また、この歌が「恋一」の歌であるならば、1-1-521歌までの配列を踏まえて理解するよう『古今和歌集』の編纂者は促しているはずです。
② この歌にある「ゆく水にかずかく」とは、 涅槃経にある「是身無常 念〃不住 如猶雷光 暴水幻炎 亦如画水 随書隋合」をベースにした比喩表現と言われています(涅槃経とは『大般涅槃経』の略称であり、その漢訳本文の巻第十八「梵行品」にある身の無常を説く箇所にある語句です)。
また『萬葉集』にもあります(1-1-2437歌 みずのうへに かずかくごとき わがいのち いもにあはむと うけひつるかな)。
インドや日本だけでなく、各国各民族で、無意味なあるいはなんの訳にもたたない例として「ゆく水にかずかく(あるいはもじかく)を思いついた人は多くいたのではないか。
③ 筆頭歌にならい、恋の始めの段階の歌として現代語訳を試みます。
初めに、歌本文にあるおもな語句の意を確認します。
初句にある「ゆく水」とは連語であり「行く水」すなわち「流れる水」の意があります(『例解古語辞典』 )。
三句にある「はかなし」とは、竹岡氏は、「この歌で具体的に知られるように、思うように少しもはかどらず、成果のあがらぬさまをいう」と指摘しています。『例解古語辞典』では、「aたよりない。心細い。はかない。b長く生きない。はかない。cむなしい。なにもならない。」などの意とあり、この歌はaの用例にあげています。
四句と五句にある動詞「思ふ」とは、「a心に思う。bいとしく思う。愛する。c心配する。憂える。」などの意があります。名詞「思ひ人」とは「愛人」の意、連語「思ふ人」とは「a心の合った人。親友。b愛している人。恋人。」、名詞「思ひ子」とは「かわいがって大事にしている子。いとしご。」、名詞「思ふどち」とは「気の合った者どうし」の意です。
四句にある「なり」とは、断定の助動詞「なり」であり、「けり」は回想の助動詞です。
④ 以上のような語句の理解に基づくと、この歌本文は、次の三つの文から成るものとして理解できます。
文A ゆく水にかずかく: ひとつの例えを述べる。
文B よりもはかなきは: その例えより「はかなき」ものがある、と指摘する。
文C おもはぬ人を思ふなりけり: 作中人物が詠嘆の気持ちで文Bの例をあげている。
この歌は、「恋一」の歌として相手におくられています。相手がこの歌を受け取っている、ということを考慮すると、作中人物は、片思いで終わるはずはないと確信しつつも、この歌の返歌によって相手の本音を確認しようとしているのではないか。
つまり、作中人物は、すねたふりをでして相手を試しているのではないか。
そうであれば、恋の歌のパターンは、「初めて逢うまでの手順の一つとして、相手を試したり気を引く歌」となります。
⑤ 現代語訳を試みると、次のとおり。「おもはぬ人」の「おもふ」は「心配する。憂える。」意。「思ふ」は「いとしく思う。愛する」の意です。
文A ゆく水にかずかく: 流れる水に数を書くこと
文B よりもはかなきは: (それ)よりもむなしいのは、
文C おもはぬ人を思ふなりけり: 私の心配などしない人を愛するということであったよなあ。
初めて逢うという約束をなかなか取り付けられない原因を、相手の態度から今気が付いて嘆いている、と訴えた歌です。
この場合、文Cにある動詞「けり」の意は、「今まで気づかなかったり、見すごしたりしていた眼前の事実や現在の事態から受ける感慨などに、はじめてはっと気づいた驚きや詠嘆の気持ちを表す」意となります。
この歌も、このような状況になった原因は、相手が(会うことを未だ)拒否している
ことにあり、作中人物はその原因を自分が作ったとは思っていません。また、作中人物の性別を限定する理由がなく、不定です。
⑥ 元資料の歌を確認します。
1-1-522歌は、題しらずよみ人しらずの歌です。特定の男女の間でやりとりされた(個人の経験に基づく)歌というよりも、官人の宴席で遊女との応答における歌ではなかったのか。次の話題に移るための挨拶歌として、希望が通らなかったことを大仰に嘆いた際の歌が元資料ではないか。
男女の組が掛け合いをするような遊びの場における歌が元資料の宇tであれば、直前に披露された歌への反論の歌でしょう。文Cの助動詞「けり」は、「ある事がらが、過去から現在に至るまで、引き続いて実現していることを、詠嘆の気持ちをこめて回想する意を表す」意で用いられているのではないか。
現代語訳を試みると、
文A' ゆく水煮かずかく: 流れる水に数を書くこと
文B' よりもはかなきは: (それ)よりもむなしいのは、
文C' おもはぬ人を思ふなりけり: 私のことを心に思っていない人を恋慕っていたことだ。
となるのではないか。
⑦ また、『伊勢物語』の五十段にもこの歌本文は、あります(5-415-95歌)。同じ元資料から採用したと思われます。
『伊勢物語』は、『新編国歌大観』の「解題」によれば、「在五が物語とも。在原業平作(根幹部分)を近親者らが増補。根幹部分は九世紀後半成立。現存本の形は10世紀中ごろ成立。」したものです。「ある男」の一代記として構成された歌物語です。
五十段は、男の次の歌からはじまります。
5-415-92歌 昔、男ありけり。恨むる人を恨みて
鳥の子を十づつ十を重ぬとも思はぬ人を思ふものかは
男女が互いに非難し合う歌が2組続き最後の歌は男が返歌した歌(5-415-96歌)となっています。
五十段にある残りの歌は、次のとおり。
5-415-93歌 と言へりければ、
朝露は消え残りてもありぬべし誰かこの世を頼みはつべき
5-415-94歌 また 男
吹く風に去年の桜は散らずともあな頼みがた人の心は
5-415-95歌 また、女 返し
行く水に数かくよりもはかなきは思はぬ人を思ふなりけり
5-415-96歌 また 男
ゆく水と過ぐるよはひと散る花といづれ待ててふことを聞くらむ
男女が応酬している歌なので、二人の間の信頼関係に揺らぎがあるのか、信頼の上での口喧嘩なのか判断がつきかねます。
⑧ 5-415-95歌の作中人物(作者)とその相手との仲は、逢うことが過去にあって、今でも逢うことが可能な親密さがあるものの当面互いに避けようとしている関係にある、と推測できます。
このため、歌本文にある「思はぬ人」とは、上記③に引用した連語「思ふ人」の否定表現とすれば、その意は「a心の合わない人。親友ではない人。b愛していない人。恋人ではないと言える人。」という意のうちの「a」の意で作中人物は用いているのではないか。
つまり、「思はぬ人」とは、男女の仲になっているが「どこか心が合わない人」を指して言っているのではないか。
5-415-95歌は、「恋一」が対象にしている恋の始めの段階の歌ではなく、逢って後という恋の段階の歌であり、1-1-522歌とは異なる時点の歌となっています。
その現代語訳は、表面上は、上記⑥の元資料の歌と同じではないか。
15.1-1-521歌と1-1-522歌との関係
① 上記のように理解した1-1-521歌と1-1-522歌の共通点などを確認します。
② 共通している点
第一 『古今和歌集』の部立て「恋一」に並んで配列されていること。
第二 初めて逢う以前の段階の作詠という設定であること。
第三 初めて逢うための障害が、理由は不明だが相手の発意によって発生していること。
第四 歌の主題は、「恋が進展しない得るしさ・嘆き・いらだち」か。
第五 元資料の歌は、「題しらず よみ人しらず」の歌である。
第六 1-1-520歌以前の歌及び1-1-523歌以降の歌とは、恋の心象に基づいた主題が違うらしい。
第七 「恋一」に配列された歌2首として、作中人物は男と女の組合せとなり得る。
① 異なる点
第十一 歌のパターンが異なる。「恋一」に配列されている歌として、1-1-521歌は、「相手に逢うのを願うか脅迫している」パターンの歌である。1-1-522歌は、「初めて逢うまでの手順の一つとして、相手を試したり気を引く」パターンである。
第十二 景として詠んでいる各文A(A')は、人工的な室内での物事と自然界でも物事とに別れる。
④ この2首の共通点は、部立て「恋一」の配列に関わることが多く、『古今和歌集』編纂者により意図的に一組としてこの2首は配列されている、と言えます。
異なる点は、主に歌の作詠方法の違いであり、歌の個性と言えます。
⑤ ブログ「わかたんかこれ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。
次回は、1-1-523歌以下を確認します。
(2026/11/2 上村 朋)