わかたんかこれ 萬葉集弓削皇子の歌その1

 前回(2023/10/23)に引きつづき『猿丸集』歌の第25歌の再確認を続けます。

1.~4.経緯

2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。12の歌群の想定を行い、3-4-25歌は、「第五 逆境の歌」の歌群に整理している。3-4-24歌までは、すべて類似歌とは異なる歌意の恋の歌であることを確認した。3-4-25歌の類似歌は『萬葉集』の2-1-120歌である。

歌は、『新編国歌大観』より引用する。

5.再考 2-1-120歌のための題詞の検討

① 2-1-120歌は『萬葉集』の巻二にあります。その題詞に用いられている「思」字は再検討中です。

 題詞での「思」字は、各巻の編纂者ごとに共通の意で用いられている、と予想しています。そのため、題詞に「思」字のある巻二の計3題のうち2題の検討を終え、最後の題詞(2-1-120歌の題詞)の「思」字の検討をし、2-1-120歌を再考します。

② 題詞と歌本文を引用します。部立ては「相聞」です。

2-1-120歌 題詞 弓削皇子思紀皇女御歌四首(2-1-119歌~2-1-122歌)

    歌本文 吾妹児尓 恋乍不有者 秋芽之 咲而散去流 花尓有猿尾

   わぎもこに こひつつあらずは あきはぎの さきてちりぬる はなにあらましを

 この歌の題詞は、「思」字を用いて作文されています。この題詞の「・・・御歌四首」により、2-1-119歌から2-1-122歌までは、一つの歌群とみなせます。

 この4首は、この題詞のもとで整合がとれた理解が必要です。題詞を再検討の後、歌本文をすべて再検討します。

③ 最初に、題詞を検討します。

 題詞に記載されている人物を確認します。

 弓削皇子は、父が天武天皇、母が天智天皇の皇女(大江皇女)であり、同母兄に長皇子がいます。文武天皇3年(699)薨去(27歳か)されています。柿本人麻呂歌集には弓削皇子に献上した歌が5首あります。

 紀皇女は、天武天皇の皇女の一人であり、母が曽我赤兄娘(大蕤娘)で、同母兄に穂積皇子がいます。 そのほかの記録がほんどない人物だそうです。穂積皇子の年齢は、推定できます。和銅8年(715)6月薨去時に40歳前半と推定(ウィキペディア及びブログ2023/10/16付け「3.⑬参照)できますので、弓削皇子薨去時(文武天皇3年)には、(40歳前半-16年で、つまり)24歳~29歳と推定でき、その妹はそれより若いことになります。

 だから弓削皇子と紀皇女は同世代であり、皇族として朝廷の行事で同席することがあったと推測できます。しかし、個人的に親しくしていたのかどうかは不明です。

 文武天皇は、当時としては15歳という先例のない異例の若さで即位した天皇であり、妃や皇后の記録がなく、25歳で崩御しています。妃と皇后となれる資格は皇族出身者が当時までの常例であるので、紀皇女は、独身であれば候補の一人と目される立場にあります。

④ 次に、作者とこの歌をおくった相手を確認します。

 題詞題詞の作文パターンは、「人物名A+思+人物名B+御歌〇首」です。

万葉集』巻二の部立て「相聞」にある題詞は、どの作文パターンにおいても、題詞の文章の最初に記された人物名が、その文章の主語になっており、作者でもあります。場合によって代作させた人物と理解すべきものもあります。(付記1.参照)。

 この題詞も、文章の最初に記されている「人物名A」がこの歌の作者です。即ち、弓削皇子です。

「思+人物名B」は作詠動機に関する語句と理解できます。

 しかし、おくった相手(あるいは披露した場面・機会)に関する語句は直接には記されていません。作者は人物名Bを「思」って作詠しているのですからその「思」っている相手が第一候補になりますが、その相手との仲介にたつ人物や単にぼやきたい人物(も披露した場面・機会)も、この題詞の文章では、これらを否定しているかどうか自体もはっきりしません。だから、おくった相手が誰か(あるいは披露した場面・機会)は、「思」字の理解と歌本文の内容次第となります。

⑤ さて、題詞の読み下しとその現代語訳(試案)は、前回、次のように示しました。

 読み下し文 「弓削皇子の紀皇女を思ふ御歌四首(2-1-119歌~2-1-122歌)」

現代語訳(試案) 「弓削皇子が、紀皇女を思う御歌四首」 (119~122)」 (ブログ2018/7/16付け)

 簡潔な倭習漢文であるので、現代語訳(試案)としては、これで十分である、と思います。

 諸氏の読み下し文では、「思」字を「おもふ」あるいは「しのふ」と訓んでいます。いずれの場合も、弓削皇子が、紀皇女に恋をしている、という理解が大多数です。

⑥ 巻二のこれまで検討してきた漢字「思」字を用いた題詞2題においては、歌本文の理解から次のようになりました。

  2-1-85歌の題詞:動詞であり「おもふ」と訓み、「恋する」意というよりも、日本語の「おもふ」の「心に思う」とか「心配する。憂える」意である。日常思い続けていることを詠っている歌群に編纂者は仕立てている(ブログ2023/10/16付け「3.⑤」)。

  2-1-114歌の題詞:動詞であり「おもふ」と訓み、漢字「思」の意のうち、「かんがえる」とか「思案する」とか「おもいやる」というものであり、日本語の「おもふ」の「心に思う」に通じる意で用いられている。「いとしく思う。愛する」とか「心配する。憂える」の意ではない(ブログ2023/10/23付け「3.⑬)。

 この題詞でも、同様に、漢字「思」の意のうち、「かんがえる」とか「思案する」とか「おもいやる」というものであり、日本語の「おもふ」の「心に思う」とか「心配する」意に通じているのであろうと推測(し作業仮説と)します。その確認は、巻二の歌の配列と当該歌本文から具体的な推測がこれまでの2題と同様に可能である、と思います。諸氏は恋を示唆しているとして指摘していますが、「思」字を用いていることから、少なくとも作者弓削皇子と紀皇女の間における恋の喫緊の課題を抱えていない、と予想しています。

⑦ なお、漢字「思」字は、万葉仮名として歌本文にも用いられています。多くの歌本文において「思」字は、日本語での「し」の音を表記しており、「おもふ」とか「しのふ」と訓まれている例は少数です(『新編国歌大観』による)。巻二の編纂者が漢字「思」字にイメージしている例になると思いますので、巻一と巻二での用例をみてみます。

 「思」字を、「おもふ」と訓んでいる歌は、巻一に1か所(部立て「雑歌」にある2-1-5歌)、巻二に9か所(「相聞」に4か所「挽歌」に5か所)あります。相聞にあるのは、柿本人麻呂が単身赴任する際の歌4首(2-1-131歌など)のみです。現に恋に陥っている際の歌ではありません。そのほかも同じです。

 「しのふ」と訓まれている歌は、巻一に1か所(部立て「雑歌」)にある2-1-54歌)、巻二に1か所(「挽歌」にある2-1-233歌)あります。ともに、現に恋に陥っている際の歌ではありません。

 このように、日本語を表記している歌本文でも、「おもふ」及び「しのふ」と訓んでいる際は、漢字「思」の意になっています。

 これから弓削皇子の気持ちを推測すると、現に恋をしている際の歌の題詞であれば「思+人物名」と記すよりも「贈+人物名」などとするのではないか。

 また、伊藤博氏のいうこの題詞のもとにある4首が後人仮託の歌(群)であれば、弓削皇子が現に恋をしているかどうかは問題外となります。

⑧ そして、題詞の作文のパターン(・・・御作歌◯首ではなく御歌〇首)からは、弓削皇子ご自身の詠作あるいは代作と断言できず、編纂者が弓削皇子の歌という建前で記載した歌、とも理解できます(ブログ2018/7/16付け「3.①」参照)。

 ここでは、弓削皇子ご自身の詠作(または代作者による弓削皇子の歌)としてまず検討します。

6.再考 2-1-119歌検討

① 4首の歌本文を順に検討します。4首は、ブログ2018/7/16付けで一度検討しました。その際は、恋の歌として、進展のない時点の歌であること、及び恋の進行順でもない片恋の歌を羅列していることを、指摘しました。

 最初に2-1-119歌について、題詞を無視した歌本文として検討し、次いでこの題詞のもとにある歌本文として検討します。

2-1-119歌 芳野河 逝瀬之早見 須臾毛 不通事無 有巨勢濃香問

よしのがは ゆくせのはやみ しましくも よどむことなく ありこせぬかも

 作者は、四句までの24文字を用いて、作者の言わんとすることの例としているかに見えます。

② 主な語句の意を確認します。

 初句「芳野河」とは、吉野山中にある川一般をさします。二句~四句の景は、吉野山中の川であればどこの瀬でも見られることだからです。

 二句にある「瀬」とは、川や海の浅くなっている所を指します。「淵」の対です。

三句「しましく」とは、副詞であり「しばらくの間」の意です(『例解古語辞典』)。

 四句にある動詞「よどむ」とは、「a流れる水が滞る」と「b物ごとがすらすら進まない・停滞する」(同上)の2意があります。

 五句の「ありこせぬかも」とは、「動詞「在り」の連用形+助動詞「こす」の未然形+上代の用法の連語「ぬかも」と分解できます。

動詞「在り」とは「aある・存在する bその場に居合わせるc(時が)たつ・経過する」意です。助動詞「こす」は主に上代に用いられているそうで、「他に対してあつらえ望む」意を表します。そして「ぬかも」は詠嘆の気持ちをこめた願望の意を表します(・・・ないかなあ、・・・てくれないかなあ)。 

だから「ありこせぬかも」とは、「a存在し続けてくれないかなあ bその場に居合わせてくれないかなあ c時がたってくれないかなあ・経過してくれないかなあ」の意となります。

③ 歌本文をみると、「ありこせぬかも」の対象となる事柄は明記されていません。初句~四句は、吉野山中の川の瀬における流水の状況を詠っています。その状況を「よどむことなし」(流れる水は滞らない)と表現し、「よどむ」の同音異義の意「物ごとがすらすら進まない」に転じて四句と五句で作者の言いたいことを表現しています。

 ただし、何がどのような状態になったら四句の「よどむことなく」なのか、は表現していません。作者とこの歌をおくられた人物との間では何が五句「ありこせぬかも」の対象であるかは自明のこととしてこの歌は詠まれています。

 このため、題詞を無視した歌本文の現代語訳は、それらに予想を加えることは控えて、次のようになります。

吉野山中を流れる川の瀬は、どこでも流れが速くわずかな時間も澱むことがない。そのようなよどむことのない状況になってくれないかなあ。」

④ この歌は、作者からみると、進捗していない事柄が動き出すこと、あるいは特定の人物との関係が改善することを願っていることになります。これは、恋愛中でもあり得ることです。しかし、そのための打開策は、その提案の有無を含めて当事者にしかわかっていません。

 作者が願っている例をあげると、

第一 官人として協議が行き詰まっている時、暗黙の手順の理解(前例踏襲・賄賂など)を求める時、相手の報告が遅れている時など

第二 個人的な事情として恋の文の遣り取りが滞っている時とか、交友関係の要改善時など

が考えられます。

言い換えると、一般に、恋に限らず、ある緊張関係・信頼関係が良い方向に向いていないと自覚している、という時の歌ではないか、と推測します。

 これだけの用途がこの歌にあるとすると、既に、誰もが利用できる伝承歌の一つとなっていたのかもしれません。

 伝承歌となったきっかけは、詠まれる機会が多い恋の歌の可能性が高い、と思います。相手との関係を作者側からみると、新たな関係を築くのが停滞しているか復縁を迫っているかの時点の歌ではないか。

⑤ このため、現代語訳は、一般的な想定のほか、多くの方が理解して恋の歌と限定した想定で、試みることとします。

第一案 作者とこの歌をおくった相手の間に何らかの緊張関係あるいは信頼関係の問題が生じていると想定した一般的な場合

吉野山中を流れる川の瀬は、流れが速くわずかな時間も澱むことがない。そのようによどむことのない状況が続いてくれないかなあ(なんとか解決したいですねえ)。」

五句「ありこせぬかも」は、「a存在し続けてくれないかなあ」の意と理解しました。「かも」には作者の詠嘆の気持ちがはいっています。

この歌は、歌をおくる前に打開する方法・手段の提案の有無に触れていませんが、その提案のための挨拶歌としても利用可能です。

前回の(試案)は、

吉野川の早瀬のところが暫くの間でも淀まないように、私の場合もなってくれないものかなあ。」

というものでした(ブログ2018/7/16付け 「5.②」)。

「私の場合」というのは、題詞の「思」字の理解の特異な例になるでしょうから、ここにいう恋の歌の場合の現代語訳(試案)に限定されると、今では整理できます。

 

第二案 作者とこの歌をおくった異性である相手の間に問題が生じていると作者が信じていると想定した場合(第一案の中の一例)

 「吉野山中を流れる川の瀬は、流れが速くしばらくの時間も澱むことがない。それと同じように私たちの仲もよどむことのないようになってくれないかなあ。」 

 五句「ありこせぬかも」は、「a存在し続けてくれないかなあ」の意、と理解しました。

この理解でも、事前に打開する方法・手段の提案のための挨拶歌としても利用可能です。

⑥ 次に、題詞のもとにある歌本文として現代語訳を試みます。

題詞から、作者は、「5.④」に指摘したように「人物名A」に相当する弓削皇子です。

おくった相手も、「5.④」に指摘したように、作詠事情で名が明記されている「人物名B」である紀皇女が有力候補であるもののAとBに関係のある人物であることなどを排除できません。

歌本文の現代語訳は、題詞を無視した歌本文と同様に、一般的な場合と、恋の歌と限定した場合に別けて試みます。

⑦ 題詞のもとにおいて、作者弓削皇子は、「紀皇女を思」って詠っていますので、紀皇女が関係する何らかの問題が生じていることを承知している、と推測できます。それだけが判っている場合を一般的な場合とします。題詞を無視した検討における「一般的な場合」に相当します。

 弓削皇子がどのようなことを「思」っているのか、題詞では判然としません。つまり、何が問題であったのかあるいは何が気になるのかが不明なので、その「何」に触れない現代語訳は上記⑤の第一案と同じになります。歌をおくった相手(披露された場面)に関しても歌本文には推測の手がかりがありません。

 しかしながら、題詞に「紀皇女を思い」とあるので、幾つかの想定が可能です。

二人は、同世代の皇族であり、紀皇女の悩み事を弓削皇子が聞いていたり、恋愛関係になっていたりしている時の歌である可能性があります。あるいは紀皇女の置かれている立場に起因する問題が発生した時の歌である可能性があります。つまり、紀皇女自身の悩みあるいは皇女が外部の事情に巻き込まれる場合の悩みです。

 そうすると、題詞の「思」字の内容は、身近なことで皇子・皇女間のちょっとした仲違いや教養獲得時の悩み、あるいは紀皇女の婚姻や斎院候補や寺社への勅使候補などへの作者弓削皇子の配慮なのではないか。あるいは恋愛関係でのことも想定できますが、恋の歌と限定した現代語訳を後程試みます。

⑧ その配慮の対象の具体的なことは当事者しかわからないので、歌本文の現代語訳としては、上記⑤に記す第一案と同じになります。歌の前提条件として配慮の具体的な対象は、歌をおくる相手と共有していることになります。

また、そのような歌が、なぜ巻二の編纂者の手元にあるかといえば、歌が公開されていたから(誰かが書き留めることができたから)ではないか。そうすると、「その配慮の対象」は周知のことか社交的な話題であって宴席で話題にできる事柄ではないか。二人の間だけの秘め事に関する歌は公開しないでしょう。

そのため、題詞の「思」字の意は、漢字「思」の意のうち、「かんがえる」とか「思案する」とか「おもいやる」というものであり、日本語の「おもふ」の「心に思う」とか「心配する」意に通じている、と推測してよい、と思います。

⑨ 次いで、恋の歌として現代語訳を試みます。

 この場合、皇子と皇女の恋の歌ですので、歌が公開されていたのであれば律令にも触れるような事態における歌ではあり得ません。だから密かに文の遣り取りをしていたのではなく、宴席等での社交的な遣り取りの歌の可能性が高いでしょう。

 歌本文の現代語訳は、上記の第二案と同じになります。そして巻二の編纂者がこの歌を知るのは容易です。

 「私たちの仲」がよどむとは、宴席等で二人のことが話題となったときその場の雰囲気を察しない応対を指しているのではないか。

 そうすると、題詞の「思」字の意は、「その場にふさわしい行動は何かを心に思い」とか「その場の雰囲気を考えて」とか「なりゆきで」という意ではないか。

 男女の恋愛の行く末を、「心に思う」とか「思案する」とか「おもいやる」ことは、題詞における漢字「思」字の意に合致します。

 そのため、恋愛の歌になぞらえた社交的な歌として、恋の歌は有り得ると思います。

⑩ 2-1-119歌の理解は、この題詞のもとにある残りの3首と整合する理解となることが条件です。上記の⑦以降の検討結果としての第一案と第二案を現代語訳(試案)の候補として3首との整合を検討することとします。

 なお、題詞のもとにある歌として、土屋文明氏は、「吾等の間もよどみとどこほることなくありたい」と理解し、伊藤博氏は、「二人の仲も・・・淀むことなくあってくれないものか」と理解し、ともに、弓削皇子が紀皇女におくった形の恋愛の歌、という外見を呈している、と指摘しています。

 次回は、2-1-120歌を再検討します。

 ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただき有難うございます。

(2023/11/6  上村 朋)

付記1.巻二の部立て「相聞」にある題詞の作文パターン別一覧

① 作文パターンごとに、作者名と歌をおくる相手の明記の有無を確認すると、次の表が得られる。

 その表では、歌の作者名を「人物名A」、歌をおくる相手を「人物名C」と整理した。題詞にその人を「思」って作詠したとある場合のその人は「人物名B」、そのほか歌をおくる相手と思われない人物名については、「人物名D」、「人物名E」などと整理した。

② 36題ある題詞において最初に記された人物名が作者(「人物名A」)であるのが34題あり、残りの2           題は「或本歌(曰、〇首」とあるだけの題詞である。

③ 歌をおくった人物(「人物名C」)を明記してある題詞は10題しかない。そのほかの題詞においては、配列や歌本文から歌をおくった人物像(あるいは披露された場面)の推定がほとんどの場合可能である。

 

 表 巻二 相聞の歌の題詞の作文パターン別一覧 (計36題 2023/10/30現在)

作文パターン

題詞のある歌番号等

題数

備考

人物名A+(思+人物名B)+作歌〇首

2-1-85歌

 1

返歌無し

人物名A+(思+人物名B)+歌〇首

2-1-119歌

 1

返歌無し

人物名A+・・・時+(思+人物名B)+作歌〇首

2-1-114歌

 1

返歌無し

人物名A+(贈+人物名C)+歌〇首

 

2-1-107歌、2-1-126歌、2-1-129歌*

 3

*は返歌無し

人物名A+(贈賜+人物名C)+歌〇首

2-1-110歌*

 1

*は返歌無し

人物名A+(報贈+人物名C)+歌〇首

2-1-94歌

 1

 

人物名A+(更贈+人物名C)+歌〇首

2-1-128歌

 1

 

人物名A+(賜+人物名C)+歌〇首

2-1-91歌、2-1-103歌

 2

返歌あり

・・・時+人物名A+(贈+人物名C)+歌〇首

2-1-93歌

 1

返歌あり

・・・時+人物名A+(贈与+人物名C)+歌〇首

2-1-111歌

 1

返歌あり

人物名A+(報贈)+歌〇首

2-1-102歌、 2-1-127歌

 2

 

人物名A+(奉和)+歌〇首

2-1-92歌、2-1-104歌、2-1-108歌、2-1-112歌、2-1-118歌

 5

 

・・・時+人物名A+(奉入)+歌〇首

2-1-113歌

 1

 

人物名A+娶+人物名D+時+作歌〇首

2-1-95歌

 1

 

人物名A+娉+人物名D+時+歌〇首

2-1-96歌、2-1-101歌

 2

 

人物名A+歌〇首

2-1-117歌

 1

返歌あり

人物名A+(与+人物名E)+歌〇首

2-1-130歌

 1

返歌無し

人物名A+与+人物名F+相別+歌〇首

2-1-140歌

 1

贈歌あり

人物名A+・・・+而+作歌〇首

人物名A+・・・+臥病+作歌〇首

2-1-116歌*、

2-1-123歌

 2

*は返歌無し

人物名A+…時+歌〇首

2-1-131歌

 1

返歌あり

・・・時+人物名A+作歌

2-1-105歌、2-1-109歌、2-1-115歌

 3

返歌無しし

或本歌曰 &或本歌〇首

2-1-89歌、2-1-138歌

 2

返歌無しし

古事記曰+・・・時+人物名A+・・・而追徃時歌曰

2-1-90歌、

 1

返歌無し

 計

 

36

 

注1)歌番号等: 『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)人物名A: 題詞のもとの歌における作者の名と判断した人物。

注3)人物名B: 題詞のもとの歌の作者が詠うにあたって「思」った相手。

注4)人物名C: 題詞のもとの歌の作者が、その歌をおくった相手と判断した人物。

注5)人物名D,E,F:人物名A,BまたはCでない人物。人物名Cと重なっている場合がある。

’付記終わり 2023/11/6    上村 朋)