わかたんかこれ 萬葉巻四 坂上郎女が賜う歌 配列その4  

 前回(2023/2/20)に引き続き『萬葉集』巻四の配列を検討します。(2023/3/6  上村 朋)

1.~6.承前

 『萬葉集』巻四の配列に関する予想(作業仮説)を、巻三にならって行い、『新編国歌大観』(角川書店)収載の『萬葉集』を対象に、検討しています。聖武天皇以後の御代に関する歌群のあることが、「献天皇歌」という4字のみの題詞とそのもとにある歌から推測できました。(2023/4/10脱字2カ所を補いました)

7.天皇が関わる歌の疑問 その4  2-1-724歌以降の題詞と歌の特徴

① 「献天皇歌」という4字のみの題詞は『萬葉集』では、巻四に2題あるだけです。

 その題詞のもとにある歌には暗喩があり、その暗喩において、巻四の最終編纂者は、作者を、律令体制の中心にいる官人か聖武天皇の後の天皇になった人物に擬しています(ブログ2023/2/20付け参照)。

 そのため、巻四の最終編纂者は歌のグループ化にあたり暗喩による御代を登場させている可能性があります。そうであるならばその題詞以後に配列されている歌すべてにも同じ御代の歌という暗喩があるはずです。それを検討します。

② 『萬葉集』巻四はすべて相聞歌です。その題詞にある人物名(歌の作者(披露者)とその歌を贈る相手の氏名)から作詠時点を推計して巻四の配列を今検討しており、「献天皇歌」という題詞以降の歌について、作業した結果を付記2.の表H3に示します。

 その表の分析並びに「献天皇歌」という題詞及びそのもとにある3首の歌の理解(ブログ2023/2/20付け参照)、さらに巻四の最終編纂時点を考慮すると、次のことがわかりました。

 第一 最初の「献天皇歌」という2-1-724歌の題詞以降は、すべての歌に暗喩がある。暗喩は題詞に登場する人物を別の人物に見立てて成立している。

 第二 題詞に明記されている人物及び当該歌に関して推測した人物は、次のように見立てられている。

  題詞「献天皇歌」の「天皇」は、聖武天皇(ブログ2023/2/20付け参照)。

  2-1-724歌の作者である「未詳の人物」は、(割注を無視した場合)天皇に接することができない状況にある律令体制の中心にいる官人、あるいは、聖武天皇の後に天皇になった人物。

  2-1-728歌と2-1-729歌の作者である「未詳の人物」も、(割注を無視した場合)天皇に接することができない状況にある律令体制の中心にいる官人、あるいは、聖武天皇の後に天皇になった人物。

  2-1-725歌の相聞の相手である「未詳の人物」は、聖武天皇か。

  「大伴家持」は、聖武天皇の後に天皇となった人物(第一候補は光仁天皇)。

  「大伴坂上大嬢」は、聖武天皇の皇女である井上内親王(他戸王の母であり後に光仁天皇の皇后となる)。

  「大伴田村家の大嬢」は、聖武天皇の皇女である阿倍内親王孝謙天皇称徳天皇)。天武天皇男系子孫の最後の天皇である。

  「坂上郎女」は、聖武天皇の皇后である藤原光明子阿倍内親王の母である。

  「紀女郎」は、聖武天皇以前の天武系の天皇の代表として持統天皇か。

  「藤原久須麻呂」は、淳仁天皇か。

  2-1-769歌の作者である「藤原郎女」は、藤原家の人々を指すか。

  2-1-785歌の題詞の「友」は、聖武天皇の後に天皇になった人物(第一候補は光仁天皇)。

  2-1-786歌~2-1-788歌の題詞にある「娘子」は、高野新笠(白壁王の宮人(側室)であり光仁天皇即位後に高野朝臣を賜り夫人となった桓武天皇の母)。

 第三 2-1-724歌以降の歌は、暗喩により、天武系の皇統の主要な人物と聖武天皇の後の天皇になった人物の間の相聞歌が多い。それらの歌は、あの世に今はいる人物と聖武天皇の後に天皇となった人物の間の相聞歌であり、神を祭る際の歌に擬することが可能である。この一連の歌の暗喩は、巻四の最終編纂者の意図であろう。

 第四 これらの暗喩により、巻四の最終編纂者は聖武天皇の御代の後の御代を一つの歌群としているといえる。その歌群は2-1-724歌を筆頭歌とするか。

 第五 巻四配列の予想(ブログ2023/1/23付けの「3.①」)にたてた仮説のうち、第一~第三と第五は成立する。第四はさらに確認を要す(付記1.④参照)。

 第六 2-1-724歌の題詞の直前の題詞とそのもとにある歌本文に暗喩があれば、それは「献天皇歌」の暗喩と密接に関連があるかも知れない。

③ 上記のように推測した経緯を、何回かに別けて記します。

 編纂者の意図は、倭習漢文である題詞にこれまでも示されていました。そのため、2-1-724歌以降の題詞にまず注目して検討します。

 最初に、「献天皇歌」という題詞に挟まれている題詞2題(と歌本文3首)の検討を記します。

 2-1-724歌以下の題詞の作文タイプは、いくつかあります。その用例が3題以下となる作文タイプの題詞(と歌本文)は、巻四では少なく、配列のヒントがあるのではないか、と予想しています(用例が4題以上の作文タイプは「贈歌」と「和歌」)。

 用例が3題以下となる作文パターンは、次のとおり。

 「献天皇歌」:2-1-724歌の題詞、2-1-728歌~2-1-729歌の題詞 

(前回(ブログ2023/2/20付け)検討した)

 「作者名+歌」:2-1-725歌の題詞

 「作者名+相手の名+「賜歌」:2-1-726歌~2-1-727歌の題詞

 「作者名+思+氏名+作歌」:2-1-768歌の題詞

 「作者名+物贈+・・・」:2-1-785歌の題詞

 「作者名+報贈歌」:2-1-772歌、2-1-779歌、2-1-789歌~~2-1-791歌の題詞、

 「作者名+来報歌」:2-1-794歌~2-1-795歌の題詞

 これらを検討すると、巻四配列のヒントが本当にありました。

④ 最初の「献」字を用いた作文パターンの検討結果は2-1-725歌などの題詞を検討後に再掲します。

 「献」字を用いた題詞2題に挟まれているのは、用例が各々一つしかない作文パターンの題詞2題です。

 2-1-725歌の題詞は、「作者名+歌」というパターンです。2-1-723歌までの題詞にはよくあるパターンであり、巻四ではこの用例が最後となっています。『新編国歌大観』の『萬葉集』より引用します。

 2-1-725歌 大伴宿祢家持歌一首

   如是許 恋乍不有者 石木二毛 成益物乎 物不思四手
   かくかくばかり こひつつあらずは いはきにも ならましものを ものもはずして

 題詞を検討します。「大伴家持が詠った歌」というだけであり、誰にこの歌を贈ったのか(披露したのか)、記載はありません。巻四は相聞歌が収載されているので、この歌も誰かに贈って(披露して)いるのに、それを隠している題詞です。

 それを宿題として歌本文を検討します。

⑤ 歌本文の表面上、作者大伴家持は、恋の進捗がない苦しさを訴えています。その相手を代名詞でも詠み込んでいないので、伝承歌と同じく、誰もが広く利用できる歌となっています。だから、諦めきれないのが特徴である恋と同じような、ある問題から逃れられない状況に追い込まれて悩み苦闘していることを訴えている歌としても利用可能であろう、と思います。

 さらに、配列を考慮すると、題詞が「献天皇歌」とある直前の歌(2-1-724歌)の作者の暗喩(上記①)からの連想で、作者には、例えば皇位継承者候補とならなければ物思いのとりこにならなかった人物、という暗喩があるのではないか。

 そうすると、作者大伴家持とは、「聖武天皇の後に天皇となった人物」の暗喩であり、この歌を贈った(披露した)相手は、その妻の立場にある人物か、援けを請いたい氏神や氏寺の本尊が候補となるのではないか。しかし、表面上は進捗が無いと詠う恋の歌であるので、前者は該当しない、と思います。氏神としての具体の名はさらにほかの題詞の検討を要します。

⑥ 次の題詞、2-1-726歌と2-1-727歌の題詞も、用例がひとつしかない「作者名+相手の名+「賜歌」という作文パターンです。歌は、長歌1首と反歌1首です。

  2-1-726歌 大伴坂上郎女従跡見庄賜留宅女子大嬢歌一首 并短歌

   常呼二跡 吾行莫国 小金門尓 物悲良尓 念有之 吾兒乃刀自緒 野干玉之 夜昼跡不言 念二思 吾身者痩奴 嘆丹師 袖左倍沾奴 如是許 本名四恋者 古郷尓 此月期呂毛 有勝益土

   とこよにと わがゆかなくに をかなどに ものかなしらに おもへりし あがこのとじを ぬばたまの よるひるといはず おもふにし あがみはやせぬ なげくにし そでさへぬれぬ かくばかり もとなしこひば ふるさとに このつきごろも ありかつましじ

  2-1-727歌 同上

   朝髪之 念乱而 如是許 名姉之恋曽 夢尓所見家留
   あさかみの おもひみだれて かくばかり なねがこふれぞ いめにみえける

   (左注あり)右歌報賜大嬢進歌也

 「賜」字のある題詞は、巻一~巻四では、天皇又は日並皇子尊が「賜う」とあり、例外はこの「坂上郎女が賜う」とある題詞だけです。『萬葉集』でのほかの倭習漢文(割注、左注)でも天皇が賜うという例ばかりです。

 漢字「賜」字は「目うえの人が目したの者に財貨をあたえる」意(『角川新字源』)であるものの、熟語は天子が与えるという例が優越しています。

 このため、倭習漢文として「坂上郎女が娘に賜う」ということは、坂上郎女を天皇に擬して編纂者は作文したのではないか。そして、暗喩を込めた題詞であるならば歌本文にも暗喩があるはずです。

⑦ まず、題詞は脇に置いておいて、歌本文をみると、

 長歌2-1-726歌本文では、「吾兒乃刀自」(あがこのとじ)と娘を「刀自」(一家の主婦)に見立てています。

 作者坂上郎女が務めていた刀自の役割を娘に既に譲ったか、あるいは娘が坂上郎女と居を別にして新たに刀自の立場になったかのような表現です。そして、これは親しみを込めた呼び掛けです。

 作詠時点が不明ですので、娘の「大嬢」が、坂上郎女が一時外泊している時期の刀自見習いのときか、居を別にして新たな家の刀自となっているときかは、不明です。

 作者坂上郎女自身は「如是許 本名四恋者 古郷尓 此月期呂毛 有勝益土」(かくばかり ・・・ ありかつましじ)と故郷におちおち落ち着いていられない、と詠い納めています。

 娘が心配で娘の顔をみて直接指導できるところに近々戻ることになってしまう、と詠っています。側に居て「吾兒乃刀自」を支えようかな、と詠っています。娘と同居するとは詠っていません。

 なお、「古郷」の用例は、巻一~巻四では、巻一の2-1-78歌の題詞1題及び巻四の2-1-629歌とこの歌の歌本文の2首にしかありません。「古い都」の意であり、平城京の南に位置する明日香浄御原の都(の地)を指していると理解できます。即ち天武天皇が居を構えたところです。

 「故郷」の用例は2-1-270歌と2-1-454歌ほか2首の題詞2題のほか歌本文に4首あり(訓「ふりにしさと「ふるさと」各2首」)ます。明日香の意以外も指して用いられています。

⑧ そして反歌2-1-727歌本文の三句~五句からは、仲のよい母親と娘の姿が浮かびます。迷惑である、という雰囲気がない長歌反歌となっています。

 しかし、仲のよい母娘の間の相聞の歌として、普段用いないであろう長歌反歌というのは、仰々しいと思います。

 それはともかく、詞書を無視した場合、このような長歌反歌の表面の意は、次のようなものと理解できます。

2-1-726歌:刀自である娘は心細そうに見送ってくれたが気にかかる。娘が心配で娘の居るところに近々戻ることになってしまうか。

2-1-727歌:心細そうに見送った娘が夢で会いに来たのだから。

⑨ 次に、題詞のもとにある歌として検討します。

 題詞には作者の居る地を「跡見庄」(あとみのたどころ)と明記してあります。平城京の南の郊外で現在の桜井市にある鳥見山東麓と推測されています。娘が居るのは平城京内の家でしょうから日帰りが可能な位置関係にあります。そして平城京の南にあたる方角には明日香の地があります。

 なお、大伴家持の2-1-768歌をみると、恭仁京坂上大嬢(娘)は行っていません。

長歌の初句にある「常呼」とは、当時死後人々がゆくところを指す語句です。初句~二句は、距離感の譬喩としては、大変大袈裟です。

 「常呼」に、この世の人は(死ぬことで)行けますが、戻れません。ただし、「常呼」の住人はこの世に関与が可能です。住人は、この世の人々が歓迎してくれれば豊作などに導き、歓迎されないとなれば、災厄をもたらします。だからこの世でその住人と縁のある人物は定例的に祭ることが重要です。

 そのため、初句~二句は、それほど敬して遠ざけられる間柄ではない、ということをも言っています。

⑩ そしてこの直前の2-1-725歌の作者は、「吾兒乃刀自」(坂上大嬢)の夫(現に夫婦になっているか許嫁の間柄なのかはわかりませんが)である大伴家持です。恋の歌にかこつけて、作者はある問題から逃れられない状況に追い込まれて悩み苦闘していることを訴えています(上記⑤)。

 この配列と作者名を考慮すると、2-1-726歌から2-1-727歌は、夫である家持の苦しい状況を妻が実母に相談に乗って、と訴えているのに作者坂上郎女は応えようという歌とも理解できます。

 題詞のもとにある長歌反歌の表面上の意は、かわりません。長歌反歌を娘に坂上郎女は「賜」っているのですから、経験のある私が相談に乗るよ、と伝えた歌と理解できます。

 2-1-725歌の「例えば皇位継承者候補とならなければ物思いはなかった人物という暗喩」にも同じように「相談に乗る」というイメージは重ねることができます。

 そうすると、「母」である「坂上郎女」とは、天皇家の誰かということになるのではないか。そして母と娘という関係の坂上大嬢も天皇家の誰かになります。

⑪ それを、これらの歌を挟んでいる前後の題詞(と歌本文)との関係で確認します。

 直前の題詞と歌本文

 2-1-724歌 献天皇歌一首  (大伴坂上郎女在佐保宅作也)

   足引乃 山二四居者 風流無三 吾為類和射乎 害目賜名

   あしひきの やまにしをれば みやびなみ わがするわざを とがめたまふな

 直後の題詞と歌本文

 2-1-728歌 献天皇歌二首  (大伴坂上郎女在春日里作也)

  二宝鳥乃 潜池水 情有者 君尓吾恋 情示左祢

  にほどりの かづくいけみづ こころあらば きみにあがこふる こころしめさね

 2-1-729歌 同上

  外居而 戀乍不有者 君之家乃 池尓住云 鴨二有益雄

  よそにゐて こひつつあらずは きみがいへの いけにすむといふ かもにあらましを

 この3首の作者は、天皇に接することができない状況にある律令体制の中心にいる官人、あるいは、聖武天皇の後に天皇になった人物であり、次の意の歌でした。(ブログ2023/2/20付け「6.⑭~」参照)

 2-1-724歌は、下句「吾為類和射 害目賜名」(わがするわざを とがめたまふな)により、「わざ」を行うにあたっての(又は事後における)断わりをいれた挨拶歌

 2-1-728歌は、池の水に助けを求め恋していることを相手に訴える歌

 2-1-729歌は、自分の意志ひとつで移動できるカモになりたいと現状を嘆く歌

⑫ そして、次の暗喩を提起しました。(ブログ2023/2/20付け「6.⑭」参照)

 2-1-724歌:題詞の「天皇」が聖武天皇であれば、天皇の思いに直接には添えられないことを報告するという暗喩があるのではないか。

 2-1-728歌:2-1-728歌本文の四句にある「君」が聖武天皇を暗喩し、聖武天皇の思いをそれでも大事にする決意を暗喩として述べている、と理解できます。

 2-1-729歌:留鳥ではない鳥だが、留鳥と同じように行動したい、という暗喩があると理解できます。

 この2首の暗喩からは、聖武天皇の男系ではない人物を天皇位に昇らせる(あるいは登る)がご承知いただきたい、と訴えている歌ということになります。

 以上は、題詞の割注を古注のひとつであるものの無視した理解です。

 割注に従うと、2-1-724歌と2-1-728歌と2-1-729歌の作者は坂上郎女となります。しかし、この割注は、歌本文の作詠者に関する注釈であり、「献天皇歌」を作詠する理由に関する注釈ではありません。

 つまり、元資料に関する注釈であり、(最終編纂者が作文したと思われる)題詞そのものとそのもとにある歌本文に関する注釈とは思えません。

⑬ 2-1-724歌から2-1-729歌をひとつの歌群と捉えると、2-1-729歌の作者は、坂上郎女の名に隠れている人物の指導を頂き、聖武天皇の思いを継ぐべく行動を起こしたい、と暗喩で訴えている、という理解ができます。

 2-1-729歌の題詞の直後の題詞(「大伴宿祢家持贈坂上家大嬢歌二首」)のもとにある歌(2-1-731歌)において、作者大伴家持は、「吾妹子与 携行而 副而将座」(わぎもこと たづさはりゆきて たぐひてをらむ)と、坂上大嬢と共に歩むと詠っているので、この2-1-729歌には、坂上郎女に擬されている人物のご指導に従い、聖武天皇の後継問題に対処したい、という暗喩があり得ます。

 そうすると、この歌は、『萬葉集』における巻四の配列上(元明天皇元正天皇の御代ではなく)今上天皇聖武天皇)の御代にあるので、題詞の「賜」字と暗喩における聖武天皇の後継問題ということに留意すれば、作者坂上郎女には、天皇家の誰かで女性であれば、聖武天皇の皇后か聖武天皇の御代には既に「常与」に居る女性の天皇を暗喩しているのではないかと推測できます。

⑭ 坂上郎女には、『萬葉集』にその娘二人が登場します。姉が田村大嬢、妹が坂上大嬢です。

 聖武天皇の皇后には、実子阿倍内親王(後の孝謙天皇称徳天皇)がおり、その内親王からみて異母妹に井上内親王(後の光仁天皇皇后)と不破内親王(新田部皇子の子である塩焼王の妻)がいます。

 そのため、母坂上郎女と娘でも妹の坂上大嬢は、聖武天皇の皇后と井上内親王の暗喩と推測できます。

 後程、田村大嬢と坂上大嬢が登場する題詞でそれを確認することとします。

⑮ 『新編日本古典文学全集6 萬葉集』(小学館)は、「「賜」字は、目上から目下に与えることを表す字。皇族から庶民に与える以外には用いることが少ないこと、及び、坂上郎女が娘大嬢に「賜」とあるのは、両人の関係を私的に上下の関係ととらえる立場にあった家持の手になったもの(題詞)であろう。」、と指摘しています。

 土屋文明氏は、「賜」字にコメントはなく、次のような指摘をしています(『萬葉集私注』)。

 2-1-725歌:家持歌であるが、多分題詠であらう。

 2-1-726歌~2-1-727歌:(初句にある)「常呼」とは常世の国。遠くへだたった国、乃至は此の世ならぬ国の意もこめられて居るのであらう。地名「跡見」は藤原宮近く。「跡見庄」(あとみのたどころ)とは、作者の氏族の私有の田園(稲作をしている)。

 ともに暗喩についての指摘はありません。伊藤博氏も同じです。

 ブログ「わかたんかこれ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

次回は、「作者名+思+氏名+作歌」という作文タイプの2-1-768歌の題詞などを検討します。

(2023/3/6    上村 朋)

付記1.『萬葉集』巻四の配列について(2023/3/6現在のコメント)

① 題詞の文章に明記のある人物名をもとに、歌(より正確には元資料である歌)の作詠時点(披露時点)を推計して巻四の配列を検討し2023/1/23現在の整理結果を下記の表1に示す。各歌の作業結果はブログ2023/1/23付けの付記1.とこのブログ2023/3/6付けの付記2.に別けて示す。

② 履歴が未詳の人物も多いほか、作詠時点が明記されていない題詞も多く、作詠時点の整理は、天皇の御代別となり配列が作詠時点順かどうかは検討が済んでいない。

③ 巻四の歌は、天皇の歴代順に4グループの歌群をつくる。ただし、最後のグループは天皇の歴代でさらに二つに分けられそうであるが、その境目の歌が今のところ、一案に絞り切れていない。

④ この作業は、次の仮説のもとで行っている(ブログ2023/1/23付け「3.①」参照) 。

 第一 編纂者は、聖武天皇の御代の途中までに詠作あるいは披露された歌により巻四を構成しており、聖武天皇の御代を今上天皇の御代として題詞を作文している。

 第二 歴代天皇の御代を指標として歌群をつくり、その歌群を御代の暦年順に配列している。その歌群は数代の御代を単位にしていることもある。

 第三 未来の天皇の御代をも想起できる配列としている。

 第四 配列は、相聞の範疇の歌によって天皇の統治を讃え、さらに予祝することを目的にしているのではないか。

 第五 配列は、最終編纂時点において定まった。

 

表1 天皇の御代による『萬葉集』巻四の配列の推測(2023/1/23 現在)

グループ

天皇の御代

グループの筆頭歌

備考

1

天武天皇以前

2-1-487:巻四巻頭歌

難波を都とした天皇

2

持統・文武天皇

2-1-499:巻四で最初の人麻呂歌

持統天皇:在位690~697 没年703

文武天皇:在位697~707

3

元明元正天皇

2-1-516:巻四で唯一の志貴皇子

元明天皇:在位707~715 

元正天皇:在位715~724

4A

聖武天皇以降

2-1-525:京職藤原大夫歌

聖武天皇:在位724~749

4B

聖武天皇以降

2-1-724:未詳の人物の「献天皇歌」

孝謙天皇(阿倍内親王):在位749~758

淳仁天皇:758~764

称徳天皇(阿倍内親王):在位764~770

光仁天皇:770~781

4C

聖武天皇以降

2-1-728:未詳の人物の歌の「献天皇歌」

 

4D

聖武天皇以降

寧楽宮?

2-1-789:大伴家持

 

注1)歌の引用は、『新編国歌大観』所載の『萬葉集』による。「同書の巻番号―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号」で示す。

注2)グループ4A~グループ4Dは、一つのグループである。別の作業仮説(仮説第三)にもかかわるが、さらに分割の可能性がある。その境目の歌が、今のところ一案に絞りきれず検討途中であるので、その候補の歌で4A~4Dのミニグループを示した。「寧楽宮」の御代を詠う筆頭歌の候補が複数あるからである(2023/1/23現在)。

 

付記2.万葉集巻四の題詞にある作者等と歌を贈る相手の一覧その2

① 巻四筆頭歌(2-1-487歌)から2-1-524歌までの題詞の一覧(2023/1/23 現在)は、ブログ2023/1/23付けの付記2.に「表H1」として記載している。

② 2-1-525歌以下を、表H2(2-1-525~)と表H3(2-1-725~)に別けて記す。表H2と表H3にはブログ2023/6/12付けまでの検討結果を2023/7/15反映させた。

表H2 『萬葉集』巻四 525歌~724歌(2023/1/23 現在の確認時点を2023/4/10現在に修正)

歌番号等

題詞での作者(披露者)→題詞での贈る相手

作詠(披露)時点の推測と備考(題詞での賜・思・贈・和歌・作歌等の区分など)

2-1-525~ 2-1-527

京職藤原大夫→大伴郎女

京職藤原大夫は『続日本紀養老5年(721)従四位上左右京大夫神亀3年(726)正月2日条では京職大夫(ともに聖武天皇の御代)

京職藤原(麿)大夫が贈る歌。

2-1-528~ 2-1-531

大伴郎女→明記無いが題詞の「和歌」より京職藤原大夫

大伴郎女の和した歌。

 

2-1-532

大伴郎女→明記無いが題詞の「又」により京職藤原大夫

旋頭歌。大伴郎女の和した歌。

2-1-525歌~2-1-532歌は一つの歌群。

2-1-533

天皇海上女王

海上女王は聖武天皇の御代の人(2023/1/9付けブログ参照) 天皇が賜う歌。

2-1-534

海上女王→天皇

2-1-533歌と一対の歌

海上女王が奉和した歌。

2-1-535~ 2-1-536

大伴宿奈麿宿祢→明記無し

作詠時期不明。大伴宿奈麿宿祢の歌。

大伴宿奈麿宿祢は、和銅元年(708)越階し従五位上神亀元年(724)従四位下、死没不詳

2-1-537~ 2-1-538

安貴王→明記無し(歌初句~二句により離れている妻)

作詠時期は聖武天皇の御代か。左注に記す事件は神亀年間(724^729)

安貴王の歌。安貴王は神亀6年(729)無位から従五位下天平17年(745)従五位上

2-1-539

門部王→明記無し

門部王Aは和銅3年(710)無位から従五位下、養老3年(719)伊賀志摩按察使、天平11年(739)大原真人姓で臣籍降下

門部王Bは、和銅6年(713)無位から従四位下天平3年(730)従四位上

門部王の歌。

2-1-540~ 2-1-545

高田女王→今城王

作詠時期は天平11年(739)以前か。

高田女王が贈る歌。

高田女王は高安王の子と伝えられている。

今城王は臣籍降下し大原真人を賜るのが天平11年か。天平20年(747)兵部少丞正七位下天平宝字8年(764)正月従五位上

2-1-546~ 2-1-548

娘子の代作者笠金村→(紀伊行幸の)従駕の人

題詞に神亀元年(724)甲子冬十月の作とある。

紀伊行幸聖武天皇

朝臣金村の作る歌。娘子の代作。

2-1-549~ 2-1-551

朝臣金村→(行幸時に得た)娘子

題詞に同(神亀)二年(725)乙丑春三月の作とある。笠朝臣金村の作る歌。

2-1-552~ 2-1-554

明記無し(大宰府の官人)→大宰少弐石川足人朝臣

題詞に(神亀)五年(728)戌辰の作とある。

大宰府の官人の餞別の歌。

2-1-555

大伴宿祢三依→明記無し(歌本文の「吾君」)

前後の題詞の人物と同時期の在大宰府の時期か。大伴宿祢三依の歌。

大伴宿祢三依は大納言大伴御行の子。天平20年(748)従五位下宝亀元年(770)弘仁天皇即位時に従四位下

2-1-556~ 2-1-557

丹生女王→大宰師大伴卿(大伴旅人

丹生女王が贈る歌。

丹生女王は天平11年(739)従四位上天平勝宝2年(750)正四位上

旅人の在大宰府時の歌か。

2-1-558

大宰師大伴卿→大弐丹比県守卿

作詠時期は県守の権参議へ栄転時。

大宰師大伴卿が贈る歌。

丹比県守は、和銅8年(715)従四位下及び(平城宮の)造宮卿、神亀6年(729)2月大弐から権参議、天平3年(731)参議。

2-1-559

賀茂女王→大伴宿祢三依

三依が大宰府在任中に贈られた歌か。2-1-555歌参照

賀茂女王が贈る歌。

2-1-560~ 2-1-561

土師宿祢水道→明記無し(歌本文からは妻又は思い人)

旅人在大宰府の時。土師水道は、巻五梅花の宴に土師氏御道と見える。

土師宿祢水道の作る歌(上京の船中の口吟の歌)。

2-1-562~ 2-1-565

大宰大監大伴宿祢百代→明記無し

旅人在大宰府の時。大伴百代は、巻五梅花の宴にも見える。

大宰大監大伴宿祢百代の歌。

2-1-566~ 2-1-567

坂上郎女→明記無し

前後の題詞からは坂上郎女在大宰府時か。そうでなければ作詠時期未詳となる。

坂上郎女の歌。

2-1-568

賀茂女王→明記無し

前後の題詞からは旅人在大宰府の時。

賀茂女王の歌。

2-1-569~ 2-1-570

大宰大監大伴宿祢百代等→駅使(左注では大伴稲公と大伴胡麿)

左注を信じれば天平2年(730)大宰師大伴卿病気の時。

大宰大監大伴宿祢百代等が贈る歌。

2-1-571~ 2-1-574

大宰府の官人等→大宰師大伴卿

大宰師大伴卿(大伴旅人)の大納言任命時。

天平2年(730)の送別歌。

大宰府の官人等の餞別の歌。

2-1-575~ 2-1-576

沙弥満誓 →大宰師大伴卿 

作詠時期は天平2年(730)か。題詞に大宰師大伴卿(大伴旅人)上京後とある。

沙弥満誓が贈る歌。

沙弥満誓は養老7年(723)2月造筑紫観世音寺別当

2-1-577~ 2-1-578

大宰師大伴卿→沙弥満誓

2-1-575~2-1-576歌と一対の歌。

大宰師大伴卿が和した歌。

2-1-579

筑後守葛井連大成→大宰師大伴卿 

作詠時期は天平2年(730)か。

大成が作る歌。

題詞に大宰師大伴卿(大伴旅人)上京後とある。

2-1-580

大納言大伴卿→摂津大夫高安王

作詠時期は天平2年(730)か。

大納言大伴卿が贈る歌。

贈答品に添えた歌。大宰師大伴卿(大伴旅人)上京と関係あるか。

2-1-581

大伴三依→明記無し

作詠時期は天平3年(731)か。

大伴三依の歌。

歌の内容は旅人薨去後のさびしさ。

2-1-582~ 2-1-583

余明軍→大伴宿祢家持

作詠時期は天平3年(731)か。

余明軍が与える歌。

余明軍が大伴旅人薨去後に資人の職を離れる際か。家持が初めて登場した題詞。

2-1-584~ 2-1-587

大伴坂上家大娘→大伴宿祢家持 (注2参照)

作詠時点不明。家持20歳以降とすれば天平10年(738)以降。大伴坂上家大娘が報贈する歌。

大伴坂上家大娘は坂上郎女と宿麻呂未の子。後に家持の妻となる。それ以外未詳。

大伴宿祢家持は、『公卿補任天応元年条によれば養老2年(718)生れ。天平17年従五位下天平18年(746)3月10日宮内少輔、同年 6月21日越中守、天平宝字6年(762)正月信部大輔、天平宝字8年(764)正月薩摩守宝亀2年従四位下神護景雲4年(770)6月民部少輔、同10月正五位下宝亀11年(780)参議・右大弁、延暦4年(785)8月28日薨去中納言従三位兼行春宮大夫陸奥按察使鎮守府将軍)、延暦25年(806)3月17日復位(従三位)。

2-1-588

大伴坂上郎女→明記無し(帰ろうとする招待客か)

作詠時期は、天平2年か(2023/5/8付けブログ参照)。大伴坂上郎女の歌。

憶良の2-1-340歌と対にできない歌(20220214付けブログ「18.⑨」参照)

2-1-589

大伴宿祢稲公→田村大嬢

作詠時期は2-1-589歌に同じ(2023/5/8付けブログ参照)。大伴宿祢稲公が贈る歌。

大伴宿祢稲公は大伴旅人の弟。田村大嬢は作者の姪。 

2-1-590~ 2-1-613

笠女郎→大伴宿祢家持

家持20歳以降とすれば天平10年(738)以降

笠女郎が贈る歌。笠女郎は伝未詳。

2-1-614~ 2-1-615

大伴宿祢家持→笠女郎

家持20歳以降とすれば天平10年(738)以降。

大伴宿祢家持が和した歌。

2-1-612歌と2-1-613歌に返歌した歌か。

2-1-616~ 2-1-620

山口女王→大伴宿祢家持

家持20歳以降とすれば天平10年(738)以降。

山口女王が贈る歌。山口女王は伝未詳。

2-1-621

大神女郎→大伴宿祢家持

家持20歳以降とすれば天平10年(738)以降。

大神女郎が贈る歌。大神女郎は伝未詳。

2-1-622~ 2-1-623

大伴坂上郎女→明記無し (注2参照)

作詠時期不明。大伴坂上郎女の自分の行動を悔やんだ歌。

題詞に「怨恨歌」と明記する長歌反歌

2-1-624

西海道節度使判官佐伯宿祢東人の妻→夫

作詠時期は天平4年(732)。妻が贈る歌。出立の際であれば宴席での歌か。

佐伯宿祢東人は西海道節度使判官として天平4年外従五位下を授けられる。節度使藤原宇合

2-1-625

佐伯宿祢東人→妻

2-1-624歌の返歌。

佐伯宿祢東人が和した歌。

2-1-626

池辺王→明記無し

(全巻で「宴誦」とある唯一の題詞→注2参照)

作詠時期は天平4年(732)か。

池辺王の宴席で披露した歌。題詞の「宴席」とは、前歌等とあわせて西海道節度使の送別時を指すか。

池辺王は神亀4年(727)従五位下天平9年(737)内匠頭。大友皇子の孫で葛野王の子。

2-1-627

天皇→酒人女王

作詠時期不明。天皇が酒人女王を「思」い作る歌。

宴席の歌。2023/1/9付けブログ「5.」参照。宴席は前歌等と同じ西海道節度使の送別時であれば、作詠時期は天平4年となる。

2-1-628

高安王→娘

高安王の臣籍降下(713)以前。高安王が宴席で物を贈り催促する歌。(2023/3/29付けブログ「9.⑥~⑧」参照)。

高安王は和銅6年(713)に無位から従五位下(21歳か)。天平11年臣籍降下し大原真人となる。天平14年(742)没。

2-1-629

八代女王天皇

ブログ2023/1/23付け参照 作詠時期不明。

八代女王が献じる歌。

2-1-630

娘子→佐伯宿祢赤麿

作詠時期不明。娘子が報贈する歌。

2-1-633歌までが一つの歌群。

佐伯宿祢赤麿は伝未詳。万葉集収載歌では各種宴席で道化役に徹している。

2-1-631

佐伯宿祢赤麿→娘子

佐伯宿祢赤麿が和する歌。

2-1-632

大伴四綱→明記無し

作詠時期不明。大伴四綱の歌。宴席の歌

大伴四綱は2-1-332歌などの題詞で大宰府にある防人司の祐(すけ)とある。天平10年(738)大和少掾

2-1-633

佐伯宿祢赤麿→明記無し

作詠時期不明。佐伯宿祢赤麿の歌。

2-1-634~ 2-1-635

湯原王→娘子 

(2023/4/10付け参照 以下2-1-645歌まで同じ)

作詠時期不明。湯原王が宴席で贈る歌。

2-1-634~2-1-644歌は一つの歌群。湯原王詠う2-1-378歌は巻三の配列から聖武天皇の御代が作詠時点となる。この歌群の歌も同じ頃か。

この題詞の割注によれば湯原王志貴皇子の子。

2-1-636~ 2-1-637

娘子→湯原王

娘子が報贈する歌。

2-1-638~ 2-1-639

湯原王→娘子

湯原王が贈る歌。

2-1-640

娘子→湯原王

娘子が報贈する歌。

2-1-641

湯原王→娘子

湯原王が贈る歌。

2-1-642

娘子→湯原王

娘子が報贈する歌。

2-1-643~

湯原王→娘子

湯原王が贈る歌。

2-1-644

娘子→湯原王

娘子が報贈する歌。

この歌で娘子との相聞歌は終わるか。

2-1-645

湯原王→明記無し

作詠時期不明。湯原王の歌。

2-1-646~ 2-1-648

紀女郎→明記無いが歌本文からあなせの君(注2参照)

作詠時期不明なるも天然痘大流行時の歌もあるか。紀女郎の自分の行動を悔やんだ歌。

紀女郎は、割注に従えば紀朝臣鹿人の子で安貴王の妻。紀朝臣鹿人は天平9年(737)外従五位下で主殿頭

2-1-649

大伴宿祢駿河麿→明記無いが左注によれば大伴坂上郎女

作詠時期不明。大伴宿祢駿河麿の歌。

2-1-649~2-1-652歌は一つの歌群。652歌の左注によれば大伴宿祢駿河麿と大伴坂上郎女の間での挨拶歌。土屋氏は恋愛歌の様な所があっても実は単純な起居相聞の歌と見るべきである(相識者間の贈答が恋愛相聞の歌の如き表現を獲るのは時代の習俗)と指摘。

2-1-650

大伴坂上郎女→明記無し(大伴宿祢駿河麿か)

作詠時期不明。

大伴坂上郎女の歌。

2-1-651

大伴宿祢駿河麿→明記無し(大伴坂上郎女

大伴宿祢駿河麿の歌。

2-1-652

大伴坂上郎女→明記無し(大伴宿祢駿河麿か)

大伴坂上郎女の歌。

2-1-653

大伴宿祢三依→明記無し

大宰府から帰京時の挨拶歌とすれば作詠時期は天平3~4年頃か。

大伴宿祢三依の喜ぶ歌。

2-1-654~ 2-1-655

大伴坂上郎女→明記無いが歌本文によれば「宅有人」即ち坂上郎女の身内

作詠時期不明。2-1-653歌の返歌であれば天平3~4年頃か。大伴坂上郎女の歌。

「宅有人」(いへなるひと)とは大伴宿祢三依をいうか。

2-1-656~ 2-1-658

大伴宿祢駿河麿→明記無し(2-1-654歌などと一対の歌であれば、「宅有人」か)

<2023/2/28 >

作詠時期は天平18年(746)以前か。大伴宿祢駿河麿の歌。

大伴宿祢駿河麿は天平15年正六位上から従五位下となる。同18年越前守。宝亀7年(776)卒。

2-1-659~2-1-664歌と一対の歌。

2-1-659~ 2-1-664

大伴坂上郎女→明記無し(大伴宿祢駿河麿か)

大伴坂上郎女の歌。

2-1-665

市原王→明記無し(歌本文の「左手蝿師子」かその子を知る人物か)

作詠時期不明。市原王の歌。

市原王は安貴王の子で志貴皇子のひ孫といわれ、天平11年(739)東大寺写経司の舎人。天平15年(743)従五位下

2-1-666

安都宿祢年足→明記無し(歌本文によれば愛妻之児、即ち作者の妻)

作詠時点は聖武天皇の御代か。

安都宿祢年足の歌。

安都宿祢年足は伝未詳。安都氏は養老3年(719)連姓から宿祢姓にかわる。

2-1-667

大伴宿祢像見→明記無し(歌本本文によれば妹(あの子))

作詠時期不明。孝謙天皇称徳天皇の御代の可能性もある。大伴宿祢像見の歌。

大伴宿祢像見は天平勝宝2年(750)摂津少進・正六位上天平宝字8年(764)の藤原仲麻呂の乱後に従五位下宝亀3年(772)従五位上

2-1-668

安倍朝臣虫麿→明記無し(歌本文によれば「吾妹子」 2-1-669歌等と一対の歌ならば大伴坂上郎女か同女が代作した人物)

作詠時期は聖武天皇の御代か。

安倍朝臣虫麿の歌。

安倍朝臣虫麿と大伴坂上郎女は同腹の姉妹が母。安倍朝臣虫麿は天平9年(737)外従五位下天平勝宝4年(752)中務大輔従四位下で没。

2-1-669~ 2-1-670

大伴坂上郎女→明記無し(安倍朝臣虫麿)

2-1-668歌と一対の歌。

大伴坂上郎女の歌。代作の可能性あり。

2-1-671

厚美王→明記無し(歌本文の「君」)

作詠時期不明。孝謙天皇の御代の可能性もある。厚美王の歌。

厚美王は天平勝宝元年(749)無位より従五位下孝謙朝天平勝宝6年(754年太皇太后藤原宮子葬儀御装束司天平勝宝7年(755年少納言在任時に伊勢神宮奉幣使天平勝宝9年(757年従五位上

土屋氏は宴席歌という。

2-1-672

春日王→明記無し

作詠時期は聖武天皇の御代。

春日王の歌。

春日王志貴皇子の子。養老7年(723)無位より従四位下天平17年(745)散位正四位下で没。2-1-244歌の作者とは別人。安貴王の父とも言われる。土屋氏は宴席歌という。

2-1-673

湯原王→明記無し

作詠時期不明。土屋氏は宴席歌という。

湯原王の歌。

2-1-674

明記無し→湯原王

2-1-673歌と一対の歌。

土屋氏は宴席歌という。

未詳の人物の和する歌。

2-1-675

安倍朝臣虫麿→明記無し(大伴坂上郎女

作詠時期は聖武天皇の御代か。

安倍朝臣虫麿よ大伴坂上郎女はいとこ(2-1-668歌参照)との贈答歌。

安倍朝臣虫麿の歌。

2-1-676~ 2-1-677

大伴坂上郎女→明記無し(安倍朝臣虫麿)

2-1-675歌と一対の歌。

大伴坂上郎女の歌。

2-1-678~ 2-1-681

中臣女郎→大伴宿祢家持

作詠時期不明。中臣女郎が贈る歌。

中臣女郎は伝未詳。

2-1-683~ 2-1-685

大伴宿祢家持→交遊(2-1-683歌の歌本文の「君」)

作詠時期不明。大伴家持が別れる際の歌

「交遊」とは男性の遊ぶ仲間か。待つ女の立場で詠っているという理解は題詞による。

2-1-686~ 2-1-692

大伴坂上郎女→明記無し(2-1-687歌本文にいう「吾背」、2-1-6688歌本文にいう「君」)

作詠時期は聖武天皇の御代か。

大伴坂上郎女の歌。

大伴坂上郎女の恋の歌では最後の歌群(その後は娘の大嬢への歌のみ)

2-1-693

大伴宿祢三依→明記無し

作詠時期不明。大伴宿祢三依の歌。

送別時の歌

2-1-694~ 2-1-695

大伴宿祢家持→娘子(2-1-694歌本文によれば「百礒礒之大宮人」(宮中の女官・采女))

作詠時期は聖武天皇の御代。

家持が贈る歌。

2-1-696

大伴宿祢千室→明記無し

作詠時期は聖武天皇の御代。大伴宿祢千室の歌。

大伴宿祢千室は2-1-4322歌の左注を信じれば天平勝宝6年左兵衛督(従五位相当職)

2-1-697~ 2-1-698

広河女王→明記無し

作詠時期は聖武天皇の御代又は孝謙天皇の御代

広河女王の歌。

広河女王は、天平宝字7年(763)無位より従五位下。割注によれば父は上道王。上道王は和銅5年(712)無位から従四位下神亀4年(727)没。

2-1-699

石川朝臣広成→明記無し(歌本文によれば「家人」。注2参照)

作詠時期は高円朝臣に改姓以前。聖武天皇の御代又は孝謙天皇の御代。

石川朝臣広成は2-1-1604題詞によれば天平15年(743)ごろ内舎人。『続日本紀』によれば天平宝字4年(760)2月従五位下で高円朝臣を賜る。宝亀元年(770)伊予守のとき正五位下となる。

石川朝臣広成の歌。

2-1-700~ 2-1-702

大伴宿祢像見→明記無し

作詠時期不明。称徳天皇の御代の可能性もある。2-1-667歌参照。大伴宿祢像見の歌。

女性の立場で詠んでいる。

2-1-703

大伴宿祢家持→娘子

作詠時期不明。家持が作る歌。

2-1-704~ 2-1-705

河内百枝娘子→大伴宿祢家持

作詠時期不明。河内百枝娘子は伝未詳。河内百枝娘子が贈る歌。

2-1-706~ 2-1-707

坐部麻蘇娘子→明記無し

作詠時期不明。坐部麻蘇娘子の歌。

坐部麻蘇娘子は伝未詳。

2-1-708~ 2-1-709

大伴宿祢家持→童女

作詠時期不明。家持が贈る歌。

2-1-710~ 2-1-711

粟田女娘子→大伴宿祢家持

作詠時期不明。粟田女娘子が贈る歌。

粟田女娘子は伝未詳。

2-1-712

豊前国娘子大宅女→明記無し

作詠時期不明。大宅女の歌

大宅女は伝未詳。

2-1-713

安都扉娘子→明記無し

作詠時期不明。安都扉娘の歌

安都扉娘は伝未詳。

2-1-714~ 2-1-716

丹波大女娘子→大伴宿祢家持

作詠時期不明。丹波大女娘子の歌。

丹波大女娘子は伝未詳。

2-1-717~ 2-1-723

大伴宿祢家持→娘子(注2参照)

作詠時期不明。娘子は不明。

家持が贈る歌。

2-1-724

明記無し→天皇

作詠時期不明。ブログ2023/2/20付け本文参照。

未詳の人物が天皇に献じる歌。

注1)歌番号等は、『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)補注

2-1-584~2-1-587歌:巻四における坂上大娘(大嬢)と家持の相聞歌の最初(家持への返歌のみ)。大娘(大嬢)はこの時歌本文で「幼婦」といっている。巻四の配列では、次に家持に返歌のある歌群は2-1-730~2-1-758歌。「献天皇歌二首」と題する題詞の歌群の次にある歌群。

2-1-622~2-1-623歌:①諸氏は漢詩の玉台新詠などにある怨恨詩を模範とした創作と指摘。②土屋文明氏曰く「末句などはせっぱつまった失恋者の作であるか否かを疑はしめる。」&「代作の可能性がある、または代詠的動機からか」 ③ブログ2023/5/8付け参照。「怨恨歌」とは、(期待を断ち切れないでいた)「自分の行動を悔やんだ歌」の意か。④題詞に「怨恨歌」とあるのは巻四ではもう1題ある(2-1-646~2-1-648歌の題詞)。⑤また、後日のブログ2023/5/8付け参照。

2-1-626歌:橋本四郎氏の現代語訳:松の葉ごとに月さま渡る。おいで待つうち一月経った。あの世へ行ったか彼(か)の様の、こうも夜離れは何とした。(『古典集成万葉集四』の解説290p) 

2-1-646~2-1-648歌:①「怨恨歌」と題詞にあるのはこのほか2-1-622~2-1-623歌の題詞のみ。②土屋氏曰く「2-1-636歌は全体の表現が極めて間接的であり、体験から生まれた歌ならかう廻りくどい言方にはならぬはずである。」③紀鹿人の父紀朝臣鹿人に関しては2-1-1553歌を検討したブログ2021/11/29付け「13.⑤」以降参照 ④また次回以降のブログ2023/6/12付け以下を参照。

2-1-699歌:①恭仁京への遷都は天平12年(740)、造営中止を天平15年、難波宮遷都が天平16年である。歌の理解には「泉之里」の地を再確認する必要がある。②この歌は、2-1-1604歌の題詞にある内舎人の時期の作とすれば、聖武天皇内舎人として恭仁京に居るとき、平城京にまだ居る家族へ贈った挨拶歌か。しかし、歌本文にある「家人」は「都に居る妻や子」を意味し得る。作者は地方勤務となる。「泉之里」とは長く居たとすれば恭仁京付近では不自然。

2-1-717~2-1-723歌:①土屋氏は「七首ともただ一通りのことを歌って居るにすぎない。前にみえる数人の娘子達にそれぞれ贈りかへしたものを、ひとまとめにしたものと思はれる」という。②伊藤博氏は「2首、4首、1首に分れる(川を隔てて嘆くという状況設定、2-1-719歌を受ける歌、絶望の気持ちを述べて全体を収める)」という。

(補注終わり)

表H3 『萬葉集』巻四 725歌~795歌(2023/1/23現在の確認時点を2023/6/12現在に修正) 

歌番号

題詞での作者(披露者)→題詞での贈る相手

作詠(披露)時点の推測と備考(題詞での賜・思・贈・和歌・作歌等の区分など)

(参考)

2-1-724

明記無し→天皇

作詠時期不明。ブログ2023/2/20付け本文参照

未詳の人物が天皇に献じた歌

2-1-725

大伴宿祢家持→明記無し

作詠時期不明。題詞に「贈」字や「和歌」字無し。

家持の歌。ブログ2023/3/6付け本文参照。

相手の人物は未詳の人物。

2-1-726~

2-1-727

大伴坂上郎女坂上大嬢

作詠時期不明。大伴坂上郎女が娘に「賜」う歌。ブログ2023/3/6付け本文参照。

2-1-728~ 2-1-729

明記無し→天皇

作詠時期不明。ブログ2023/2/20付け本文参照。

未詳の人物が天皇に献じた歌。

2-1-730~ 2-1-731

大伴宿祢家持→坂上大嬢

作詠時期不明。

家持が贈る歌A。この歌の返歌無し。

2-1-732~ 2-1-734

坂上大嬢→大伴宿祢家持

作詠時期不明。

坂上大嬢が贈る歌A。

以下家持の「和歌」と一対になった題詞が2-1-743歌まで三組続く。表面上一つの歌群とみなせる。

2-1-735~ 2-1-737

大伴宿祢家持→坂上大嬢

前歌に対する「和歌」

2-1-738

坂上大嬢→大伴宿祢家持

坂上大嬢が贈る歌B

2-1-739

大伴宿祢家持→坂上大嬢

前歌に対する「和歌」

2-1-740~ 2-1-741

坂上大嬢→大伴宿祢家持

坂上大嬢が贈る歌C

2-1-742~ 2-1-743

大伴宿祢家持→坂上大嬢

前歌に対する「和歌」

2-1-744~ 2-1-758

大伴宿祢家持→坂上大嬢(注2参照)

作詠時期不明。

家持が贈る歌B。この歌の返歌無し。

2-1-759~ 2-1-762

大伴田村家の大嬢→妹坂上大嬢

作詠時期不明。

田村大嬢が妹に贈る歌。この歌の返歌無し。

土屋氏は、単に消息がはりの歌、歌を遊戯の具とする一例と指摘。

2-1-763~ 2-1-764

大伴坂上郎女→女子大嬢(坂上大嬢)

作詠時期不明。

大伴坂上郎女が娘に贈る歌。この歌の返歌無し。

2-1-765~ 2-1-766

紀女郎→大伴宿祢家持

作詠時期不明。

紀女郎が贈る歌。

2-1-767

大伴宿祢家持→紀女郎

作詠時期は2-1-765歌などに同じ。

前歌に対する「和歌」

2-1-768

大伴宿祢家持→坂上大嬢

(ブログ2023/3/13付け参照)

作詠時期は、恭仁京遷都(740)後、難波宮遷都(744)以前。

恭仁京で家持が坂上大嬢を「思」い作る歌

ブログ2023/3/zz付け参照

2-1-769

藤原郎女→大伴宿祢家持

前歌に対する「和歌」

作詠時期は、恭仁京遷都(740)後、難波宮遷都(744)以前。

藤原郎女は、藤原氏の女性か。聖武天皇に従って恭仁京に来たか。

2-1-770~ 2-1-771

大伴宿祢家持→(坂上)大嬢

作詠時期は、恭仁京遷都(740)後、難波宮遷都(744)以前。

家持が贈る歌C。この歌の返歌無し。

2-1-772

大伴宿祢家持→紀女郎 (ブログ2023/4/10付け参照)

作詠時期は不明。配列を重視すれば、恭仁京遷都(740)後、難波宮遷都(744)以前。

家持が「報贈」する歌。この歌の返歌無し。

2-1-773~ 2-1-777

大伴宿祢家持→坂上大嬢

作詠時期は、恭仁京遷都(740)後、難波宮遷都(744)以前。

恭仁京より家持が贈る歌D。この歌の返歌無し。

2-1-778

大伴宿祢家持→紀女郎

作詠時期不明。

家持が贈る歌

2-1-779

紀女郎→大伴宿祢家持(ブログ2023/4/10付け参照)

紀女郎が「報贈」する歌。前歌の返歌か。

2-1-780~ 2-1-784

大伴宿祢家持→紀女郎

作詠時期不明。

家持が贈る歌

2-1-785

紀女郎→友(ブログ2023/3/27付け参照)

作詠時期不明。元資料は労働歌。

紀女郎が「物」を贈る歌

前歌の返歌とみれば「友」は大伴家持か。

2-1-786~ 2-1-788

大伴宿祢家持→娘子

作詠時期不明。

家持が贈る歌

前歌の返歌とみれば「娘子」は紀女郎か。

2-1-789~ 2-1-791

大伴宿祢家持→藤原朝臣久須麻呂(注2参照及びブログ2023/4/10付け参照))

作詠時期は天平宝字8年(764)以前の家持在京の時。藤原朝臣久須麻呂は仲麻呂の乱天平宝字8年)で殺される。2-1-789歌~2-1-795歌は一連の歌の歌。

土屋氏は相識者間の贈答が恋愛相聞の歌の如き表現を獲るのは時代の習俗であり、二青年間の日常起居の相聞と見るべき、と指摘。

家持が「報贈」する歌。

2-1-792~ 2-1-793

大伴宿祢家持→藤原朝臣久須麻呂

作詠時期は天平宝字8年(764)以前の家持在京の時。

家持が「贈」る歌

2-1-794~ 2-1-795

藤原朝臣久須麻呂→大伴宿祢家持 (後日のブログ2023/3/zz付け参照)

作詠時期は天平宝字8年(764)以前の家持在京の時。

久須麻呂が家持に「来報」する歌。

土屋氏は両家に新舶来の梅を互いに珍重しあったのであらう、と指摘。

注1)歌番号等は、『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)補注

2-1-725歌以下全てにある暗喩については、後日のブログ2023/3/zz付け参照

2-1-744~2-1-758歌:①伊藤博氏は、5首ずつ分かれ、それぞれ「夢のあひ」、「現の逢い」、「逢うて後の恋」が主題という。

2-1-789~ 2-1-791歌:① 歌を贈った相手藤原朝臣久須麻呂は藤原仲麻呂慶雲3年(706)生まれ)の三男。訓儒麻呂と『続日本紀』は記す。天平宝字8年(764)9月の仲麻呂の乱恵美押勝の乱)の際、孝謙上皇淳仁天皇から取り上げた軍事指揮権の発動に必須の駅鈴(御璽と鈴印)の奪取に向かい宮中で殺された。参議であった。② 『続日本紀』には、天平宝字2年(758)正月に東海東山道問民苦使(臨時地方行政監察官)となった際の業績が記されている。③久須麻呂は天武天皇の曽孫にあたる三世王の山縵女王(加豆良女王)を妻としたが、これは奈良時代に臣下が皇親を妻とした数少ない事例である。これは、当時強力な権力を握っていた藤原仲麻呂皇親と姻戚関係を結ぶことで、自らの家を天皇家と対等の地位に置こうとしたものと岸俊夫氏は指摘する(『藤原仲麻呂吉川弘文館(1969))。④ 父藤原仲麻呂は、淳仁天皇とともに、孝謙上皇弓削道鏡寵愛を諫めたが、孝謙上皇は激怒し、天平宝字6年(762)6月、孝謙は出家して尼になるとともに「天皇は恒例の祭祀などの小事を行え。国家の大事と賞罰は自分が行う」と宣言する。(補注終わり)

(付記終わり  2023/3/6   上村 朋)