あけましておめでとうございます。
皆様のご健勝を祈念します。そして、楽しく振り返えられる年となりますように。
今年度の国の予算(案)が年末に閣議決定されました。国会で十分民意を汲んだ審議がされることを願います。
『萬葉集』巻四の検討が中途半端だったので、それからブログを再開したいと思います。割注と配列の検討です。(2023/1/9 上村 朋)(2023/7/31に)
1.萬葉集巻四の題詞に対する割注の性格
① 『萬葉集』巻一~巻三の題詞に対する注(割注)について以前検討し、それはその巻の編纂が終わって後に作文されたもの、いうなれば「古注」の一つである、と指摘しました(ブログ「わかたんかこれ・・・」(2022/3/14付け)の「20.」参照)。
巻三までの編纂者は、割注というスタイルによって、その巻の配列とその歌の理解に必須の情報を記述していませんでした。
『萬葉集』巻四は巻三と一組となって編纂されている、と諸氏が指摘しており、巻四の割注の性格は第三までのそれと同じである、と予想しています。
② 歌は、『新編国歌大観』の『萬葉集』(原本は西本願寺本)より引用します。
巻四の表記方法は、巻三までと同様に、歌本文にいわゆる万葉仮名を採用し、それ以外(部立ての名と題詞(割注を除く)に倭習漢文を採用しています。題詞の割注も倭習漢文と思われます。
③ 巻四において、割注を重視した歌本文の理解が割注を無視した歌本文の理解と異ならないならば、編纂者はその編纂手段に割注という作文形式を用いていない、と言えると思います。
2.巻四の題詞の割注の分類
① 巻四における題詞の割注は、26題にあります。その箇所を『新編国歌大観』の歌番号等で示すものとして、26題の割注を作文タイプ別にまとめると、次のとおり。
通覧すると、ほとんどが題詞に表記された人物(作者や歌を贈る相手など)に関する注記です。
第一 題詞に表記されている人物の具体的な名(通称・字・姓・諱等)のみを記すタイプ:4題:
2-1-525歌~2-1-531歌 題詞に表記されている「人物」は「京職藤原大夫」:(割注の文章は)卿諱曰麿也
2-1-765歌~2-1-766歌 「人物」は「紀女郎」: 女郎名曰小鹿也
2-1-785歌 「人物」は「紀女郎」: 女郎名曰小鹿也
第二 題詞に表記されている「人物」の氏族内・親子あるいは夫婦の関係を記すタイプ:16題:
2-1-521歌 「人物」は「石川郎女」 : 即佐保大伴大家也
2-1-522歌 「人物」は「大伴女郎」 : 今城王之母也今城王後賜大原真人氏也
2-1-534歌 「人物」は「海上女王」 : 志貴皇子之女也
2-1-535 歌~2-1-536歌 「人物」は「大伴宿奈麻呂宿祢」: 佐保大納言卿之第三子也
2-1-546歌~2-1-548歌 「人物」の記載なし: 笠朝臣金村 (付記1.参照)
2-1-549歌~2-1-551歌 「人物」の記載なし: 笠朝臣金村 (付記1.参照)
2-1-559歌 「人物」は「賀茂女王」 : 故左大臣長屋王之女也
2-1-582歌~2-1-583歌 「人物」は「余明軍」 : 明軍者大納言卿之資人也
2-1-589歌 「人物」は「田村大嬢」 : 大伴宿奈麿卿之女也
2-1-627歌 「人物」は「酒人女王」 : 女王者穂積皇子之孫女也
2-1-628歌 「人物」は「高安王」 : 高安王者後賜姓大原真人氏
2-1-634歌~2-1-635歌 「人物」は「湯原王」 : 志貴皇子之子也
2-1-646歌~2-1-648歌 「人物」は「紀郎女」 : 鹿人大夫之女名曰小鹿也安貴王之妻也
2-1-672 歌 「人物」は「春日王」 : 志貴皇子之子母曰多紀皇女也
2-1-697歌~2-1-698歌 「人物」は「広河女王」 : 穂積皇子之孫女上道王之女也
2-1-699歌 「人物」は「石川朝臣広成」 : 後賜姓高円朝臣氏也
第三 作詠の経緯に触れるタイプ:3題:
2-1-724歌 「人物」は「天皇」のみ : 大伴坂上郎女在佐保宅作也
(題詞は「献天皇歌一首」)
2-1-728歌~2-1-729歌 「人物」は「天皇」のみ : 大伴坂上郎女在春日里作也
(題詞は「献天皇歌二首」)
2-1-730歌~2-1-731歌 「人物」は「大伴宿祢家持」 : 離絶数年復会相聞徃来
(題詞は「大伴宿祢家持贈坂上家大嬢歌二首」)
第四 「未詳」あるいは「名欠」と記すタイプ:3題:
2-1-674歌 「人物」は「表記無し」 : 不審作者
2-1-696歌 「人物」は「大伴宿祢千室」 : 未詳
2-1-712 歌 「人物」は「豊前国娘子大宅女」 : 未審姓氏
② 作文タイプ別に検討します。
作文タイプ第一や第二は、題詞に登場する人物(作者や歌を贈る相手など)の詳細に興味を示し、その人物の当時の別呼称や所属する氏族とか親子関係などを記述しています。
作文タイプ第三のうち、「献天皇歌〇首」という題詞に関しては結局作者を詮索した、ということになります。天皇が歌を献じられた理由に言及していないので、歌本文の理解を深める直接の情報ではありません。
また、作文タイプ第三に分類した2-1-730歌~2-1-731歌の題詞に対する割注は、作者大伴家持と歌を贈った相手大伴坂上大嬢の関係を記述しています。この用例も題詞に登場する「人物」同士のそのときの関係への興味であり、作者のこのときの立場を詮索したものということができます。
作文タイプ第四は、「不審作者」等と作者を特定することが出来なかったことを記し、割注の記したのは、作者への興味によるものであることを端的に示しています。
『萬葉集』の編纂の最終段階で、必要な事柄であれば題詞そのものを加除訂正すればよいことですから、編纂者自らが割注を作文するとは思えません。
どの作文タイプでも、歌本文の理解のために題詞で不足している必須の情報ではありません(編纂者が記す必要がありません)。割注の性格は巻三までと同様である、といえます。
③ 割注を施された「人物」は、巻四においてその名が初出の題詞において割注が施されています。
例外は、高安王です。また笠朝臣金村(付記1,参照)も例外です。
同一と思われる「人物」が重ねて割注をほどこされているのも例外でしょう。
④ 高安王の名は、2-1-580歌と2-1-628歌の題詞にあります。その後者に割注があります。
2-1-580歌の題詞では、「摂津大夫高安王」と表記されています。『続日本紀』において高安王の「摂津大夫」の官歴が確認できません。「摂津大夫」とは、摂津職(せっつしき)という官僚組織のトップの官人の称である「大夫」に任命されている(時の高安王)、の意であり、養老令によれば、正五位上相当の官位です。 『続日本紀』によれば高安王は聖武天皇即位の月の神亀元年(724)2月22日に正五位上となっています。
2-1-628歌の題詞では、単に「高安王」と表記されています。
巻四の割注の原則が「人物」名の初見のとき割注する、ということであれば、割注をした時点では別人であったということになります。
高安王と呼称される人物が二人いたと割注者は認識していたか、あるいは、割注をほどこされた『萬葉集』を書写の際の誤りか(「摂津大夫〇〇王」を書き誤ったか「摂津大夫」のみの題詞に何らかの理由で「高安王」を書き加えたか)、のどちらかです。
これは一つの仮定を置いた推測ですので、ここでは、理由はわからないが巻四の割注の原則の例外と上記③のように整理しておきます。
また、2-1-580歌の題詞の趣旨が、大伴旅人とその時の摂津大夫との関係の強調であっても、あるいは大伴旅人と高安王との個人的関係の強調であっても、大伴旅人が歌を贈った直接の事情が分からないのは同じです。
⑤ 重ねて割注がある人物について、検討します。
「紀女郎」(あるいは紀郎女)という人物名は、巻四の題詞の6題にあり、そのうちの3題に割注があります。巻四の配列順に示すと次のとおり。
怨恨歌と題詞に明記した3首(2-1-646歌~2-1-648歌)からなる歌群の題詞に、「紀郎女」への割注が、あります。
次に「紀女郎」への割注が、大伴家持との最初の贈答歌群(2-1-765歌~2-1-767)の題詞にあります。大伴家持との最初の贈答歌群に引き続き二つ目の贈答歌群(贈歌がなく報贈歌のみの1首)と、同三つ目の贈答歌群(2-1-778歌~2-1-784歌)があり、これらをの一連の歌群と認めれば最初の歌の題詞にある割注といえます。
そして、「紀女郎」への割注が、もうひとつ、友に贈る歌(2-1-782歌)と題する題詞にもあります。
その割注の文章は、上記①に示したように、「紀女郎」への割注は同文ですが、「紀郎女」とは異なります。
割注は、3つの歌群にある、と理解できます。呼称は「小鹿」と共通ですが、3つの割注に登場するその「小鹿」はそれぞれ別人であるとすると、巻四の割注をする原則と平仄があうことになります。
呼称の「小鹿」は皆同一人物を指すと多くの方が指摘していますが、歌本文の内容からは同一人物でないと矛盾するところがある、と確認するのが難しいので、別人という理解を妨げません。割注が同文である「紀女郎」は歌本文で差異が認められるかどうかは検討を要します。
⑥ 割注されているものの、配列上気になる人物がいます。
単に「天皇」と表記していることへの割注は1題だけです。それは単に「天皇」という表記が巻四の題詞の5題の最初の題にあります。これは巻四の割注をする原則に従っているといえます。
「天皇」と単にある題詞は、「難波天皇」、「岡本天皇」、及び「近江天皇」の順にその宮の所在地を冠した天皇名のある題詞の後に配列された題詞において用いられています。
巻四の配列における各天皇の順番を題詞で追うと、宮の所在地を冠したと思われる3人の天皇が(具体の歴史上の天皇がどなたであっても)歴代順の配列です。その後に配列されている単に「天皇」と表記のある題詞をみると、「賜海上女王」、「思酒人女王」、「献八代女王」を相手にした相聞の歌です。海上女王と「矢代王」(八代女王と重なるとみる)の(『続日本紀』の)叙位の記述(付記2.参照)から「天皇」は聖武天皇が有力であり、同一の天皇を略して「天皇」とのみ表記している、とみることができます。少なくとも、編纂者はそのように扱っているかに見えます。
そして、それらの後に配列されている「献天皇歌〇首」という題詞の「天皇」も、配列から同様に聖武天皇であろうと推測が、できます。
『萬葉集』の巻四に配列している歌は、題詞に表記されている作詠者(披露した人物)の人物の名を基準にとると、聖武天皇の御代までに作詠された歌となっているとみられ(編纂に用いた元資料もそうであったと思えます)、巻四の編纂者が、聖武天皇を今上天皇として扱うことは可能であり、単に「天皇」と表記するのは素直な表記の一つと思えます。
このため、単に「天皇」と表記のあるいくつかの題詞の最初に割注がある、という理解が可能です。
⑦ しかし、「天皇」と単にある題詞5題の作文を比較すると、最初の3題は、「天皇」と(相聞歌としての)相手の人物とを表記していますが、最後の2題はそういう表記ではありません。
その題詞から「天皇」を特定する可能性のある情報を含む題詞と、そのような情報がない題詞とがあり、配列上両者は混在していません。題詞は倭習であっても漢文ですので、文意が異なってもおかしくありません。
具体にその題詞を示すと次のとおり。
2-1-627歌 天皇思酒人女王思御製歌一首
2-1-724歌 献天皇歌一首
2-1-728歌~2-1-729歌 献天皇歌二首
少なくとも最後の2題の「天皇」は、(割注は編纂者が作文していないならば)聖武天皇以外の可能性、最終編纂時点までの間の天皇の可能性をも秘めている、といえます。
以上は、題詞の文章の比較から指摘できたことです。巻四全体の配列の検討の際、留意したいと思います。
⑧ また、「天皇」への割注「寧楽宮即位天皇也」にある「寧楽宮」とは、標目や題詞にある場合の検討をし、巻一~巻三では、編纂者が2意を込めた表記としていると推測しました。
「寧楽宮」という表記について、2-1-78歌等の題詞においては「平城京の平城宮」を意味するとともに、「(将来において)安んじ楽しめる宮」の意も編纂者は含ませているもの」及び「この2題3首での「寧楽宮」の意味するところは、巻一と巻二の標目「寧楽宮」に反映しているのではないか」と、2021/11/8付けブログで指摘しました。標目にある「寧楽宮」が「(将来において)安んじ楽しめる宮」でもあり(ブログ2021/11/8付け参照)、巻三の歌の配列でもそれは意識されていることを指摘しました(ブログ2022/11/7付け「36.⑨」参照)。
巻一~巻四を一組の歌集と捉えている『萬葉集』の最終編集者は、「寧楽宮」の意は少なくとも巻一から巻四まで共通の意で用いている、と思います。この割注における「寧楽宮」の意にその意がないとなれば、割注者と最終編纂者は別人ということになります。
⑨ 割注者は、聖武天皇について、『続日本紀』が記す「天璽国押開豊桜彦天皇 (割注して勝宝感神聖武天皇)」(あめしるしくにおしはらきとよさくらのすめらみこと (しょうほうかむじんしゃうむわうだい))と異なる天皇名として「「寧楽宮即位天皇」」と表記しています。
なお、『続日本紀』には、「寧楽京(宮)」という表記はなく、「平城京」を「平城之大宮」と表記した宣命の引用があります。
「奈良京」と書かれた木簡が発掘されています(平城京右京一条二坊四坪遺跡 奈良文化財研究所 「木簡庫」)が、「寧楽京」と書かれた木簡は未発見です。
⑩ 巻四の割注者は、巻一~巻三を参考にして、「寧楽京(師)」等と表記した平城京の「平城宮」を「寧楽宮」と表記して、「寧楽宮御宇天皇代」を聖武天皇の御代の名称としてイメージしたら、聖武天皇を指して「寧楽宮即位天皇」と呼称することが出来ます。しかし、平城京で即位した天皇は元正天皇や文武天皇もおりますが、今上天皇の御代であれば聖武天皇おひとりに限定できます。聖武天皇のみに「寧楽宮」を冠するのは割注者独自の見識となります。
なお、同じ巻四にある2-1-491歌の題詞に記す「近江天皇」という表記は『日本書紀』や『続日本紀』にはありません。
巻三の題詞では、近江大津京を指す語句のあるのは1題のみです。2-1-308歌の題詞「高市連黒人近江舊都歌一首」であり、「宮」名を用いていませんし割注もありません。 なお、題詞で「(人物名)+献天皇歌」という表記は、巻一~巻三にはありません。天皇を念頭に「(人物名)+奉和歌」という表記「(人物名)+応詔和歌」は巻二にも巻三にあります。
⑪ 巻四にある歌は、既に作詠されて官人の誰かが記録した歌及び編纂者が承知していた伝承歌が元資料であって、巻四に収載するために新たに作詠された歌がある、と諸氏は指摘していませんし、私もそのようにいまのところ理解しています。
そして、巻四は部立てが「相聞」ですので、その歌は、歌を贈る人あるいはその歌を朗詠して聞かせたい人の居ることを前提とした歌です。口説きたい相手、妻、恋人、及び物を贈る相手などへの歌とその返歌のほかに、宴席での座興の歌とか、都を離れる際の挨拶歌などが「相聞」にあります。
作者(あるいは朗詠した人物)と相聞歌の相手は、位階が低い人物は難しくなりますが、題詞に記された官人であれば、調べるのは編纂時点に近くなくとも可能です。
このため、割注が作文された時代を、巻四編纂者の時代だけに限定するには根拠が薄弱です。
編纂者の作文でなければ、「寧楽宮」の意は、巻一にある標目の「寧楽宮」の意と同一とみなす必要はないことになります。上記⑦の指摘が生じる所以です。
ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。
次回から、聖武天皇の御代のほかに寧楽宮の御代があるかどうかを含めて巻四の配列を検討します。
(2023/1/9 上村 朋)
付記1.2-1-546歌~2-1-548歌及び2-1-549歌~2-1-511歌の題詞の後段にある「笠朝臣金村」を、このブログ本文では割注として扱っている。
付記2.『続日本紀』の記述例
① 海上女王は、元正天皇の御代の養老7年正月丙子(10日)条の叙位に名があるのが初見である。
「・・・日下部女王 広背女王・・・海上女王 智努女王 葛野王に並に従四位下」
これらの女王は初授で従四位下なので選叙令35によればいずれも親王の女であり、日下部女王や葛野王は『続日本紀』にはここに記されているだけであり、智努女王の系は未詳であるという(『新日本古典文学大系13 続日本紀二』の脚注)。
② 海上女王は、また聖武天皇即位にともなう神亀元年2月甲午(4日)条の叙位の記事にその名がある。
但し、「海上王」という表記である。「智努女王」は上記①に指摘した養老7年正月丙子(10日)条と同じ。
③ この『続日本紀』の記事は、海上女王が「志貴皇子の子」という根拠とならない。親王の子、というだけである。にも拘わらず。2-1-533歌の割注者は「志貴皇子の子」としているのは、私が未確認の別の史料に割注者は依っているのであろう。『新日本古典文学大系13 続日本紀二』の脚注は、海上女王が「志貴皇子の子」と説明しているのは2-1-533歌の割注を信頼してのものであろう。
「神亀元年2月甲午 天皇 位を皇太子に禅(ゆず)りたまふ。神亀元年2月甲午 禅を受けて大極殿に即位(くらゐにつ)きたまふ。」
この文において「天皇」とは、元正天皇を指す。禅定の時点の今上天皇である。
⑤ 酒人女王は、『続日本紀』に見当たらない。「酒人内親王」という表記は、光仁天皇の后となった井上内親王が天平勝宝6年(754)に高齢出産で生んだ人物として『日本後記』にある。
土屋文明氏は、『萬葉集私注』で、2-1-627歌の「作者及作意」の項に、『本朝皇胤紹運録』(応永33年(1426年)成立)にも「酒人女王」の記載があり、桓武天皇同母妹(光仁天皇御代の伊勢斎宮)とあるが別人と指摘している。
⑥ 八代女王は、『続日本紀』天平9年(737年)2月14日条に、「矢代王」が「無位から正五位上に叙せられる」とある。また、聖武天皇崩御後の天平宝字2年12月8日条に、「矢代王」が「従四位下矢代女王の位記を毀つ。先帝に幸せられて志を改むるを以ってなり」とある。
⑦ この「矢代王」を『萬葉集』編纂者が「八代女王」と表記したという推測は、聖武天皇が編纂者にとり今上天皇であるので、巻四の配列上、題詞の「天皇」とは今上天皇である聖武天皇である、という仮定によるのであろう。
⑧ 一般に、『続日本紀』での天皇の表記と『萬葉集』での天皇の表記は同じではない。これは皇族の方々にも該当する場合がある。例えば、芝基皇子とか施基親王に対し志貴皇子。矢代王に対し八代女王。
(付記終わり 2023/1/9 上村 朋)