前回(2023/9/4)に引きつづき『猿丸集』歌の再確認を続けます。今回からその第25歌です。
1.経緯
2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。12の歌群の想定を行い、3-4-25歌は、「第五 逆境の歌」の歌群に整理している。3-4-24歌までは、すべて類似歌とは異なる歌意の恋の歌であることを確認した。
歌は、『新編国歌大観』より引用する。
2.再考 第五の歌群 第25歌の課題
① 3-4-25歌とその類似歌を『新編国歌大観』から引用します。同一題詞(詞書)のもとに5首ある歌の4番目の歌です。
3-4-25歌 おやどものせいしける女に、しのびて物いひけるをききつけて、女をとりこめていみじういふとききけるに、よみてやる ((3-4-22歌から3-4-26歌にかかる詞書)
わぎもこがこひてあらずはあきぎりのさきてちりぬるはなをらましを
3-4-25歌の類似歌 萬葉集 2-1-120歌 弓削皇子思紀皇女御歌四首 (2-1-119歌から2-1-122にかかる題詞)
わぎもこに こひつつあらずは あきはぎの さきてちりぬる はなにあらましを
(吾妹児尓 恋乍不有者 秋芽之 咲而散去流 花尓有猿尾)
② 類似歌の前回の検討が、巻三と巻四における歌本文での「思」字の検討(ブログ2022/7/25付け)及び題詞での「思」字の検討(ブログ2023/1/23付け)以前であるので、「思」字を正しく理解しているか確認を要します。
また、一部の語句の確認が不徹底でした。
それらを今回検討します。
3.再考 類似歌 2-1-120歌題詞の「思」字 その1
① 最初に、題詞にある漢字「思」字から再考します。
『萬葉集』巻二には、「思」字を用いた題詞が3題あります。その3題における「思」字の意を確認します。巻二編纂者は、同一の意で用いている、と予想しています。
巻三と巻四の題詞における「思」字に関して、ブログ2023/1/23付けでの結論は、次のとおりでした。
第一 巻三と巻四の編纂者が(倭習漢文である題詞で)用いる「思」字の意は共通である。その訓は「おもふ」であり、漢和辞典の「おもふ」という同訓異議の字の説明にあるように、「思」字は、「くふう。思案する。またおもいしたう。思慕。なつかしく思う」の意である。
第二 巻三の用例2-1-374歌の題詞では、「かんがえる、はかる」、あるいは「おもいやる、追想する」が妥当である。
第三 巻四の唯一の用例2-1-374歌の題詞では、「考える、はかる」である。
② 類似歌2-1-120歌のある巻二の編纂者は、その後の編纂である巻三と巻四の編纂者とほぼ同時期の人であり、漢文や漢字の理解や題詞の作文に用いている倭習漢文の用法は共有していると推測できます。
また、この歌が配列されているのは部立て「相聞」です。部立ての「相聞」とは、巻二や巻四では「(偉大な祖先など)神々の見守る今上天皇のもとでの現世の人々の喜びを活写する場面の歌」の謂いです(ブログ2023/8/29付け「25.②~④参照」)。
このため、2-1-120歌の題詞での「思」字は、「恋を(一方的にでも)している」意のみに限定できないと想定して歌本文を検討してよい、と思います。
③ 2-1-120歌の題詞の前回の現代語訳(試案)は次のようでした。
「弓削皇子が、紀皇女を思う御歌四首」 (119~122)」
『例解古語辞典』では古語「おもふ」 (四段活用)の意は、「基本的には現代語の「思う」と同じ」とし、次のようにいくつかの意をあげています。
心に思う。
いとしく思う。愛する。
心配する。憂える。
回想する。なつかしむ。
表情に出す。・・・という顔つきをする。
現代語の「思う」意は、これらを継承しているので、上記現代語訳(試案)は誤りではありません。さらに意訳をするとするならば、「心に思う」ものの、「いとしく思う。愛する」のか「心配する。憂える」のかなどを明確にしなければなりませんので、歌の理解・推測と密接不可分です。このため、簡素な漢文表記を生かすならば、上記現代語訳(試案)は妥当であろう、と思います。
④ 巻二における「思」字を用いた題詞3題は、すべて部立て「相聞」にあります。題詞は次のとおり。
2-1-85歌~2-1-88歌:磐姫皇后思天皇御作歌四首
2-1-114歌:但馬皇女在高市皇子宮時思穂積皇子御作歌一首
2-1-119歌~2-1-122歌:弓削皇子思紀皇女御歌四首
土屋文明氏は、「思」字の訓みを示していませんが、伊藤博氏は、3題とも「しのふ」と訓み、題詞の現代語訳において「偲ぶ」と表記しています。
『例解古語辞典』では「しのぶ」を立項し、「偲ぶ」(上代は「しのふ」)と「忍ぶ」の2語句に説明があります。前者は、四段活用の動詞としては「a思い慕う。なつかしむ b賞美する」意としています。(「忍ぶ」は上二段活用の動詞)
⑤ 最初の題詞(2-1-85歌~2-1-88歌の4首の題詞)より順次検討します。
その題詞は、作者を磐姫皇后(いはのひめのおほきさき)と記しています。磐姫皇后は、武内宿祢の孫の娘であり臣下より出でて皇后となった方です。作詠時点においてその地位に揺らぎがあったわけではなく、また、嫉妬心の強い方として当時知られていた女性です。
題詞のもとにある4首の歌本文について、土屋氏は、「強い民謡風の要素の感ぜられることも否めない事実である」と指摘し、伊藤氏は、「磐姫の実作ではなく、持統朝の頃の後人が、新旧さまざまな歌を、煩悶、興奮、反省、嘆息の起承転結の心情展開に組み立てた連作」と指摘しています。
即ち、元資料の歌があり、それを題詞のもとに編纂者が配列している歌群である、ということになります。
そうすると、この題詞は、皇后が一時離れて暮らしている天皇に愛を確かめるべくおくった4首に仕立てられている歌群の題詞、と理解できます。
一つひとつの歌本文は、嫉妬深い皇后が、夫である天皇を「思」っての歌と理解できますが、4首が一つの題詞のもとに配列されている、ということに留意すれば、さらに、このような思いをしつつ暮らしているのですよ、という報告に近い歌であり、かつ離れていてもこの思いに応えた日々を過ごして居られますよね、と確認をしている歌とみなせます。つまり日常思い続けていることを詠っている歌群に編纂者は仕立てているのではないか。
だから、4首を総べる題詞の「思」字の訓は「おもふ」であって、「恋する」意というよりも、日本語の「おもふ」の「心に思う」とか「心配する。憂える」意と理解できます。「思い慕う」意の日本語の「しのふ」と訓むより適切である、と思います。
⑥ 次の題詞(2-1-114歌の題詞)での「思」字の意を確認します。
但馬皇女が作者と記す題詞が3題続く配列の最初の題詞です。3題でひとつの歌群を成している、と言えます。その歌群における題詞(と歌本文)であることに留意しなければなりません。
但馬皇女は、史書に誰の妻となったか記されていません。生没年も不明です。題詞は、高市皇子の宮に「在」った時に、但馬皇女が穂積皇子を「思」い作られた歌、と理解できます。
高市皇子は、天武天皇の長男であり、穂積皇子より約10~20歳年上です。二人はともに天武天皇の子として天皇を支える立場におり、それ相応の往来があった仲ではないか。高市皇子は、持統天皇の御世に、太政大臣に任命され皇族・臣下のトップとして天皇を支えています。高市皇子の薨去(696)、忍壁皇子の薨去(705)ののち、穂積皇子は、文武天皇により(太政官を統括する)知太政官事に任命されています。
⑦ 歌群を成す3題(とそのもとにある歌本文)の検討は、2題目(2-1-115歌)と3題目を先に検討し、それから1題目(2-114歌)に戻ることとします。
2-1-115歌 勅穂積皇子遣近江志賀山寺時但馬皇女御作歌一首
遺居而 恋管不有者 追及武 道之阿廻尓 標結吾勢
おくれゐて こひつつあらずは おひしかむ みちのくまみに しめゆへわがせ
この題詞から、穂積皇子が公務の出張を命じられた際の歌ということが判ります。皇子なので重要な役を臨時に命じられての出張でしょう。
題詞のもとにある歌本文を、恋の歌として理解すると、但馬皇女が、穂積皇子と離れるのに耐えられないと訴えている歌と理解できます。しかし、皇子と皇女という身分の者同士のあいだで、三句「追及武」を本当に実行できる環境に居ると二人が理解しているとは思えません。
皇族同士の婚姻は皇位継承の資格の優劣に関わるので、当時は天皇の裁可を要することなのではないか(付記1.参照)。穂積皇子と但馬皇女が勝手な振舞いをし、都を離れる皇子を追いかけるかのような歌を本気で詠んで披露するとは到底思えません。
次の題詞にある「竊接」と表現している事柄が密通やいわゆる出来ちゃった婚であれば、勝手な振舞いとして処罰の対象になるでしょう。しかし、穂積皇子がこの事件により処罰されたという史書の記録はありません。
また、官人であっても、都に残っている相手が三句「追及武」と言い募ってそれを実行したら、軍事ではない公務であっても出張する本人にとり迷惑至極のことでしょう。都に居ることになる者は、任務を果たし無事の帰京を願うなどと詠うのが普通ではないか。
なお、土屋氏は、「幾分民謡風な一般的な調子がみえる」ものの「一層切実な声をきくことができるやうに思う」と指摘しています。
⑧ これから、この歌は、恋のためではなく、公務出張する穂積皇子の無事を単に身近に居る者として願った歌ではないか。誰もが知っている元資料であるので、そのままあるいはそれに少し手を入れた歌は、誰が披露しても親しい者が都を離れる者への送別・餞別の歌と理解できます。
一般に、勅使の一行は、任じられると賜宴や私的な(身近な者たちによる)壮行会がいくつかあります。その場では無事を願う歌、家族の留守居の決意などの歌が披露されています。
そして、一つの歌群の歌の1首が、恋の歌でないと判れば、その歌群のほかの歌も恋の歌でない可能性があります。
次の歌(2-1-116歌)でも但馬皇女は、当時の常識にはずれた行動を詠っているという理解(下記⑨以下参照)に対応して、この歌は切実に恋しい気持ちを詠ったと理解するのは、皇女という身分の縛りが大きいと思います。
⑨ 3題目の2-1-116歌の題詞は、但馬皇女が、高市皇子の宮に「在」ったときと記しています。1題目の2-1-114歌と同じ時期の歌です。漢字「在」字は、「ある(a存在する bいる(在住) c生きている d・・・にある)」とか「明らかにする」の意があります。国字としては「います(ある・いるの敬語)の意があります(『角川新字源』)。
2-1-116歌 但馬皇女在高市皇子宮時竊接穂積皇子事既形而御作歌一首
人事乎 繁美許知痛美 己世尓 未渡 朝川渡
ひとごとを しげみこちたみ おのがよに いまだわたらぬ あさかはわたる
この題詞の意は、普通、ひそかに穂積皇子に逢ったことが露見した際の但馬皇女の歌、と理解されています。
題詞の読み下し文には、「事」字と「既」字の理解により、次の試案があり得ます。
第一案 「但馬皇女の高市皇子宮に在りし時、竊に穂積皇子に接し、事、既に形(あらわ)る。しこうして作らるる歌(あるいはつくらす歌)一首」
第二案 「但馬皇女の高市皇子宮に在りし時、竊に穂積皇子に接す。事、既にして形る。しこうして作らるる歌(あるいはつくらす歌)一首」
普通に理解されているのは第一案です。しかし「事」字を省いて、「但馬皇女在高市皇子宮時竊接穂積皇子既形而御作歌一首」と作文しても第一案の趣旨に理解できます。そのため、倭習漢文作成にあたり、「事」をわざわざ付け加えたとも判断でき、「竊接穂積皇子」の後に成った何かを指している可能性があります。それが、第二案です。
「事」字の意が、「竊に穂積皇子に接した」ことを指すか、「接した結果、ある行動が実ってある事が成った」ことを指すか、の違いであり、これに応じて、「既」字の意が変化し得る(下記⑫参照)ので得た2案です。
⑩ 題詞は倭習漢文ですので、2-1-116歌の題詞に用いている漢字にはその意が(「思」字以外も)反映されているはずです。
「竊接穂積皇子」という文章における「竊」字の意は、『角川新字源』によれば、次のとおり。「竊」字は、「窃」とも現代は表記されている漢字です。
A ぬすむ
B ぬすびと
C ひそかに・そっと:ア心の中で イ人知れず内心
など
そして、「ひそかに」の同訓異義(6字あり)をみると、次のとおり。
陰:「陽」の対。ひかげの意でかげでこっそり。
間:すきまを見はからい、おおっぴらにせず、そっと。
私:「公」の対。ないしょで、また個人的に。
竊・窃:人目をぬすんでこっそりと。
微:おしのびの意。
密:他の者に知られないよう秘密で。
「接」字の意は、次のとおり。
A まじわる
B あう(合)・会する・あわせる
C つぐ(継):アひっつく・つながる イひきつぐ・うけつづける ウつなぐ(接続)
D ちかづく・ちかづける
E むかえる(迎)
F もてなす(応接)
など
熟語に、「面接・新接・隣接・溶接」、「接意・接遇・接見・接吻」などがあります。
⑪ これらの意を踏まえると、題詞にある「竊接穂積皇子」(せつせつ ほづみこうし)の意は、「穂積皇子に、人目をぬすんでこっそりと会する」、「人目をぬすんでこっそりと、穂積皇子にちかづく(あるいは穂積皇子を迎える)」という意と理解できます。「在高市皇子宮時」という時点ですので、高市皇子宮での出来事という理解も可能です。
この歌群のなかの直前の歌2-1-115歌が「恋の歌」でないことに留意すれば、高市皇子宮での多数の人が参加した会合に出席した二人が、わざわざ別席を設けて話をしたのではないか。それは、高市皇子の代理あるいは但馬皇女の意志としてひそかに直接二人だけで面談されたのか、という推測です。例えば、皇子同士で外聞を憚ることの相談・情報交換の必要が生じても直接二人だけで面談するのは皇位継承に関して誤解を招きかねない、という事情があったのでしょうか。
高市皇子の監視のもとに置かれている皇女が「情を通じた」、ということを婉曲に表現したという推測では2-1-115歌との統一的な理解が難しい、と思います。
⑫ 次に、題詞にある「既形」の「既」字には、「aつきる bおわる(終) cみな(皆) dすでに(「未」と対) eすでにして f月ごとの給米」の意があります。「形」字には、「aあらわれる(現) bあらわれ・ありさま cかたち・かた」の意があります。
題詞の「事既形」という文章の意は、第一案及び第二案のほかに、「こと 既(つき)てあらわる」、「事、既(おわ)りて、あらわる」とも読み下せます。ともに両案系の理解が可能です。
これらからも、2-1-116歌の題詞は、恋の歌の題詞にはなりにくい第二案を否定できません。
第二案の現代語訳を試みると、つぎのとおり。
「但馬皇女が高市皇子の宮にある時居って、穂積皇子に人目をぬすんでこっそりと会することがあった。その後、(ある)事が実現したので作られた(あるいはつくらせた)御歌一首。」(2-1-116歌題詞(試案))
⑬ 2-1-116歌の題詞の理解がこのようになると、歌本文は「恋の歌」以外の理解が可能です。
歌本文について、土屋氏が、初句と二句は「当時の常識であらう」が三句以下には「測々たるものがある」と指摘し、伊藤氏が「川」は「恋の障害をあらわすことが多い」と指摘しているように、恋の歌という理解を諸氏はしています。
元資料(題詞を無視した歌本文)があるならば、その意は、そうかもしれません。
題詞のもとにある歌本文は、作者を「高市皇子の宮に在ったときの但馬皇女」として理解しなければなりません。
その時、但馬皇女と穂積皇子は何歳ぐらいであったのか。
但馬皇女の薨去は元明天皇の御代の和銅元年(708)6月です(『続日本紀』)が年齢の記載はありません。『萬葉集』にも記載はありません。
穂積皇子は、和銅8年(715)6月薨去時に40歳前半と推定(ウィキペディア及び付記2.参照)できますので、2-1-116歌の作詠時点の穂積皇子の年齢は、高市皇子の薨去が持統天皇10年(696)7月なので、その生前における年齢として幅を持って推測が可能です。
即ち、高市皇子が薨去したとき、穂積皇子は(40-19)歳~(40+5-19)歳、となります。薨去の年の作詠でないならば、作詠時点で穂積皇子は10代半ばという推測も可能となります(付記2.参照)。
但馬皇女の作詠時点の年齢は、穂積皇子を憧れる世代とすれば同年齢(つまり10代半ば)以下の可能性があります。また、2-1-116歌の三句「己世尓」(おのがよに)の意が「自分の人生・生涯」の意とすれば、人生経験が皇子より長いともとれるので、穂積皇子より例えば10年年上と仮定すると20代半ば以上となります。
⑭ なお、穂積皇子には、「但馬皇女薨後御穂積皇子冬日雪落遥望墓悲傷流涕御作歌一首」と題する歌が『萬葉集』にあります(2-1-203歌)。但馬皇女の薨去は和銅元年(708)6月であり、その時点では穂積皇子は知太政官事に任命されています。皇位継承候補者ではない皇子のトップというその立場を重視すると、親しくしていただけではなく、但馬皇女の皇族中の地位あるいは年長者として目を掛けてくれたことに留意して2-1-203歌を詠った(あるいは作らせた歌)と推測できます。
個人的に特別な恋情を持ち続けていたことを薨去後数カ月過ぎた日の降雪をみて公けにする必然性が薄く、また、妻としていたのであれば、題詞にそれが判るよう表記するのではないか。
⑮ 2-1-116歌に戻り、歌本文の検討を続けます。
歌本文の五句に「朝川渡」(あさかはわたる)とあります。その意を諸氏は、「朝という時点に川を(みずから)渡る」意であり、「朝川」という川の名ではない、と指摘しています(川の名には「当該地の河」というネーミングが多い。例)明日香川 )。
五句「朝川渡」は、言い切りになっており、動詞「渡」は終止形(「わたる」)です。
一般に、動詞の言い切りは時制が不定です。前後の語句、文脈からその言い切りの時制を推測することになります。推測できる時制は、「過去、完了、現在、進行形」であり、「未来」については予測・予定を意味します。
動詞「渡」で、例を示します。
(きのふ)朝に川を渡る:渡ったのは、この文章を記した時点ではなく過去のことです。
(けふの)朝に川をわたる:この文章を記した時点が朝以降であるならば、渡ったのは過去のことです。この文章を記した時点に渡り終わった意(完了)とも、文章を記した時点に渡っている(現在)とも、今渡りつつあることの表現(進行形)とも理解可能です。さらに、文章を夜明け前に記したとすれば「(けふ)の朝」は「未来」にあたり、「わたる」ことを予測・予定として示していることになります。
⑯ 最初に恋の歌としての可能性の低いことを題詞から指摘(上記⑪)しましたが、念のため検討をします。題詞は、第一案が有力となります。第二案でも理解可能でしょう。
土屋氏は、「朝の川を渡る」と理解し、今後の行動を指すと理解しているようです。
伊藤氏は、「朝の冷たい川を渡ろうとしている――この初めての思いを私は何としても成し遂げるのだ」と理解しています。
両氏は、今後の行動・予定を宣言している、という理解です。
「わたらむ」という表現では足りないから「わたる」と作者は詠ったという理解です。
歌本文をみると、今後の行動・予定とは、高市皇子の宮で逢って噂となったが、今後は自らが穂積皇子を訪ねるということを指すことになります。上記⑦で指摘した事情から処罰を覚悟でもう一度でも逢いたいと願った歌と理解できますが、五句が「渡」と言い切りになっており、願望であることを自覚した歌でないのが不思議です。
土屋氏は、題詞の理解が第一案と異なるようですが、穂積皇子と「竊接」するにあたり、但馬皇女は「高市皇子宮を出ている」と理解しています。ということは、今後も同じ行動を続けることになります。そうであると、既に行っていることを「己世尓 未渡 朝川渡」と詠ったことになります。「渡」の時制は進行形と理解できます。そうすると、初句と二句は、「噂になったので」ではなく「・・・であっても」の意であってほしい歌です。
伊藤氏は角川文庫の『新版万葉集一 現代語訳付き』ではその点に触れていません。
このように、恋の歌としては詠い方が不自然です。
⑰ 次に、恋の歌ではないとして検討します。この場合、題詞の理解は第二案が有力となります。
題詞より、但馬皇女が穂積皇子にひそかに(人の目をぬすんで)会い、働きかけ、皇子はそれに応えた結果、ある事を実現したあるいはある事を得た際に、但馬皇女が詠った(披露した)歌、と理解できます。
五句「朝川渡」は言い切りになっており、動詞「渡」の時制は、「過去、完了、現在、進行形」の何れの理解も可能であり、未来(今後)のことと理解しなくともよい表現になっています。
そして、二句「繁美許知痛美」は並立している「・・・み・・・み」の用法であり、次のような現代語訳(試案)が可能です。
「(穂積皇子にまつわる)いろんな噂があり、またそれがやかましいので、私は生まれてから未だ渡ったことのない朝の川を渡るようなことをしたのだ(その甲斐があった)。」(2-1-116歌現代語訳(試案))
女なのに男のもとへ行き夜明けに戻るというような破天荒な行為に相当することをしたが、それを行った私の思いは良い結果を生んだ、という喜びの歌、と理解しました。「渡」の時制は「過去」です。
このような譬喩を詠う但馬皇女の年齢は10代前半の年齢より少なくとも20代ではないか。上記⑬での幅をもった推定年齢とも合致します。「竊接」して行った行動は、皇女と皇子の間の慣例を破った行動だったのではないか。
⑱ 2-1-116歌は、3題で構成する一つの歌群の最後の歌です。2-1-115歌の次に配列されているので、2-1-115歌の題詞でいう「勅穂積皇子遣近江志賀山寺」が2-1-116歌の題詞にいう「事」ではないか。それを但馬皇女が喜んだ歌ではないか。誰に披露した歌かというと、天武天皇の長男である高市皇子が有力です。
但馬皇女が「竊接」した場所は、皇女が出向いた高市皇子の宮であり、2-1-116歌の題詞にある「在」字は、居住している意に限定して理解しなくともよい漢字です。
⑲ それでは、歌群の最初の歌2-1-114歌にもどり、次回検討したい、と思います。
「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。
(2023/10/16 上村 朋)
付記1.養老令の規定
① 養老令第十三 継嗣令に次の規定がある(sol.dti.ne.jp/hiromi/kansei/yoroidx.html より)。
皇兄弟子条:天皇の兄弟、皇子は、みな親王とすること{女帝の子もまた同じ}。それ以外は、いずれも諸王とすること。親王より五世(=五世の王 ※ここでは親王を一世として数える)は、王の名を得ているとしても皇親の範囲には含まない。
王娶親王条:王が親王を娶ること、臣が五世の王を娶るのを許可すること。ただし、五世の王は、親王を娶ることはできない。
② 王娶親王条は、親王の結婚には制約があること、さらに別途の規定のあることを示唆している。
付記2.但馬皇女の作詠時点での年齢推定について
① 但馬皇女は、『続日本紀』に天武天皇の皇女であることと没年が記されているが、年齢の記載がない。
② 高市皇子宮に居て穂積皇子(母は曽我氏の娘)を対象にしたと記す2-1-114歌及び2-1-116歌の題詞をヒントに年齢を推定する。
③ 穂積皇子は、『六国史』によると、時期不明だが浄広弐に叙され、慶雲2年(705)知太政官事、和銅8年(715)正月一品に叙せられている。そして同年7月27日に死去している。浄広弐は後年の蔭位の制に準じた最初の叙任ではないか。
④ 「浄広弐」とは、天武天皇14年(685)冠位四十八階と同時に諸王について別に定められた冠位制にあるだけである。冠位制を定めたと同時に穂積皇子が浄広弐に叙されたという推定が最早の推定となる。後年の大宝律令にある選叙令は蔭位制適用が子孫21歳以上となっている。その21歳以上という基準は前例と違和感がないものとすれば、穂積皇子は685年には21歳、と推定できる。
しかし、舎人親王(母は新田部皇女)は生年が天武天皇6年(676)で持統天皇9年(685)に浄広弐に叙されている。9歳である。弓削皇子(母は大江皇女)は生年不明だが、持統7年(693)に同母兄の長皇子とともに浄広弐に叙されている。長皇子は、子の栗栖王の生誕が683年及び智努王の生誕が693年とされており、男性として早ければ20歳以前で父親になり得る。その弟である弓削皇子は確実に10代で浄広弐に叙任されているといえる。
⑤ これらから穂積皇子も、最初の叙任として浄広弐に任じられたのは、10歳以上21歳以前、それも10代前半の可能性がたかい。このため、穂積皇子薨去時(715)は、40代前半の年齢と推定できる。
⑥ 穂積皇子と但馬皇女が「ひそかにあった」のが恋愛を理由とすれば、第一に二人の年齢差は余りない可能性を指摘できる。
⑦ 但馬皇女が高市皇子宮に居た(或いは在った)のは高市皇子の生前である。高市皇子は持統天皇10年(696)薨去しているので、その696年には穂積皇子が40代前半より19年若い(即ち21~26歳)ことになり、皇子より若い皇女は26歳よりマイナスα歳以下(5歳若ければ16歳以下)、と推定できる。高市皇子存命の頃の但馬皇女の年齢は16歳以下であることになる。
⑧ 但し、二人の年齢差を気にしないでよければ、年上と推定可能である。
(付記終わり。 2023/10/16)