前回(2022/11/7)のブログまでの萬葉集巻三雑歌に続き、巻三挽歌を、「わかたんかこれ 巻三挽歌 萬葉集巻三の配列その23」と題して、記します。(上村 朋)
1.~38.承前
『萬葉集』巻三雑歌の検討が前回で一応終わりました。巻三には挽歌の部立てもあります。『猿丸集』の第24歌の類似歌がある部立てです。歌は『新編国歌大観』によります。
39.『萬葉集』巻三挽歌にある歌の理解と関係分類判定
① 巻三の部立て「挽歌」にある歌についても、『萬葉集』の歌は、(その『萬葉集』に記載の)題詞のもとに歌があるという普通の理解が妥当であるという仮説を検証しつつ、歌と天皇の各種統治行為との関係を重視して検討します。
② 巻三の部立て「挽歌」には、題詞が28題あり、計69首の歌がそのもとにあります。「上宮聖徳皇子出遊竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌一首」と題した筆頭の歌2-1-418歌から、「悲傷死妻高橋朝臣作歌一首并短歌」と題した長歌と反歌2-1-484歌~2-1-486歌までです。
上記①に基づき、歌と天皇の各種統治行為(11区分)との関係(ブログ2022/3/21付け本文「2.」参照)を巻三挽歌で確認し、下記の表Fを得ました。そのための歌の理解の概要を下記「40.」に記します。
③ さらに、巻一雑歌、巻二の挽歌及び巻三雑歌の検討を参考とすると、巻三の部立て「挽歌」に関して、次のことを指摘できます。
第一 題詞に明記された歌の作詠時点は、家持が作った安積皇子への挽歌の天平16年である。そのあとに最後の題詞には作詠時点が明記されていない。
第二 巻二挽歌にあったような天皇あるいは皇太子への挽歌、と明記した題詞がない。皇太子には少なくとも聖武天皇の御代の基皇子がおられる。
第三 巻二挽歌にある「標目」がないが、天皇の代を意識したグループ化をして順に配列されている。但し第一グループの御代には、推古天皇の御代が加わっている。(挽歌の定義については下記第九及び付記1.参照。)
下記の表Fの歌は、巻三雑歌と同様に4グループに配されており、下表(「表 天皇の代による4グループ別にみた巻三挽歌の配列状況(2022/11/14現在)」)のように配列されている。
各グループの筆頭歌は、2-1-418歌、2-1-437歌、2-1-441歌、及び2-1-463歌である。
第四 題詞のひとつに「和銅四年辛亥河辺宮人見姫嶋松原美人屍哀慟作歌四首」がある。これに似た題詞「和銅四年歳次辛亥河辺宮人姫嶋松原見嬢子屍悲嘆作歌二首」が、巻二挽歌の標目「寧楽宮」にある。これらの題詞の理解の違いは、標目「寧楽宮」の有無による。
一般に、編纂物である『萬葉集』の歌は、当該巻、当該部立て及び当該標目を前提に理解するものであり、巻二にある二首は、明記された標目「寧楽宮」の時代に関する歌という理解のために、暗喩を重視せざるを得なかった。巻三の配列は、挽歌の対象者の亡くなった順というよりも、その歌を披露した(したい)と思われる時点の順になっている、と推測できる。巻三にある四首は、前後の題詞・歌から披露された時点は、和銅4年に「姫島の松原娘子」の話を聞いた時点、即ち最早の時点で和銅4年となる。最遅は、巻三の最終的編纂時点となる。暗喩を込めれば「寧楽宮」の御代を詠う第四グループにある歌(群)となり得るが標目「寧楽宮」がない。
表面的には作詠時点は最早の時点の歌あるが、暗喩では最遅の時点となる。さらに補足を下記「40.」の「2-1-437歌~2-1-430歌」の項に記す。
なお、この二首と四首はそれぞれ独立した歌である。また、萬葉集に二度も登場する「姫島の松原娘子」とは、2度天皇となった即位前の名が「阿倍内親王」の暗喩ではないか。(孝憲天皇、重祚して称徳天皇)
第五 このほか、第四グループの歌は、挽歌の対象者が安積皇子以外は無名の人物であり、標目のもとの歌でないので、暗喩によって判断した。
表 天皇の代による4グループ別にみた巻三挽歌の配列状況 (2022/11/14現在)
歌群のグループ |
歌 番 号 |
関係する天皇 |
計 |
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関係分類A1~B&E2 &G |
関係分類C |
関係分類D |
関係分類E1&F |
関係分類H |
関係分類 I |
|||
第一グループ |
無し |
430~433(4首) |
419 (1首) |
418 420~428(10首) |
434~436(3首) |
429 (1首) |
19首 |
|
第二グループ |
無し |
437~440 (4首) |
無し |
無し |
無し |
無し |
4首 |
|
第三グループ |
無し |
446~448 (3首)
|
444~445 (2首) |
無し |
無し |
441~443 449~462 (17首) |
22首 |
|
第四グループ |
無し |
無し |
無し |
478~483 (6首) |
無し |
463~464 465~477 484~486 (18首) |
寧楽宮 |
24首 |
計 |
無し |
11首 |
3首 |
16首 |
3首 |
36首 |
|
69首 |
注1)歌番号は『新編国歌大観』記載の『萬葉集』の歌番号
注2)表Fよりこの表は作成した。
第六 巻一と巻三の雑歌に無名の人物が高貴な方を暗喩している例があるので、この巻三挽歌の最初の歌の、作者聖徳太子の見た「竜田山」の死人は、作者の将来の姿であり、自傷歌ではないか。
第七 皇子への挽歌と題詞で明記されているのは、聖武天皇の男子安積皇子(天平16年閏正月13日没)への挽歌のみである。皇子は天武、草壁、聖武の血統の最後の男性である。しかし作者は内舎人であった家持と明記しており、皇子の葬送儀礼時の歌と思えるような歌は配列されていない。
第八 最後の題詞のもとの歌は無名の人物(官人)の詠うその妻(無名の人物)への歌となっている。暗喩があるとすれば井上内親王への挽歌か。天平の時代の作詠歌に込められた暗喩であるので、これは巻三の部立て「挽歌」の最終編纂時点を推測する根拠になり得る。
第九 なお、ブログ2021/10/11付けで、2-1-145歌の左注を編纂者の作文とみなしたのは誤りであり、後代の者が演繹して作文したものである。しかし、後代もそのように理解していたのであるので、編纂者の時代も挽歌の定義はまさにその通りであった、と思う。
表F 巻三挽歌にある歌と天皇の統治行為との関係確認表 (2022/11/14現在)
関係分類 |
歌数 (題数) |
標目 |
挽歌対象者 |
該当歌 |
備考 |
無し |
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|
無し |
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B天皇が下命した都の造営・移転に関する歌群 |
無し |
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C天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(Dを除く) |
11 (5) |
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田口広麻呂
土形娘子
出雲娘子
姫島松原美人屍
摂津国班田史生丈部竜麻呂 |
430 刑部垂麿歌 431 人麿歌 432,433 人麿歌 437~440 河辺宮人歌
446~448 判官大伴三中歌 |
事後の送魂歌 事情不明 諸氏は刑死かという 火葬時の送魂歌 挽歌の対象者は任地(都か行幸先)で没 火葬時の送魂歌 挽歌の対象者は溺死者 任地(行幸先)で没 |
D天皇に対する謀反への措置に伴う歌群 |
1 (1) |
|
|
419 大津皇子歌 |
自傷歌 朱鳥元年(686)処刑24歳 |
2 (2) |
|
膳部王 |
444 倉橋部女王歌 445 作者未詳 |
||
E1皇太子の行動に伴う歌群(E2を除く) |
1 (1) |
|
竜田山死人 |
418 上宮聖徳皇子歌 |
作者は皇太子 推古30年(622)没 |
E2 皇太子の死に伴う歌群 |
無し |
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F皇子自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む)
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9 (4) |
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河内王
石田王
石田王
|
420~422 手持王歌
423~425 丹生王歌
426~428 山前王歌 |
葬送儀礼の歌 河内王は天武天皇皇孫(長皇子の男子) 任地大宰府で持統8年(694)没し豊前国の葬られる |
6 (1) |
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安積皇子 |
478~483 家持歌 |
||
G皇女自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む) |
無し |
|
|
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|
H下命の有無が不明な事柄に伴う(作詠した官人自身の感慨を詠う)歌群 |
3 (1) |
|
勝鹿真間の娘子
|
434~436 山部赤人歌 |
事後の送魂歌 娘子とは入水した手児名 |
I天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を詠う歌群 |
1 (1) |
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香具山屍
|
429人麿歌
|
事後の送魂歌 屍は帰国途中の役民か貴人か不明 |
17 (4) |
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故人 題詞に無し
題詞に無し
大伴卿
|
441~443 大伴卿歌
449~453 大伴卿歌
454~456作者未詳 457~461 題詞に作者名無し 462題詞に作者名無し |
事後の送魂歌 「故人」は普通名詞である 作詠を神亀5年(728)と明記 旅中の安全祈願を亡き妻にしている 事後の送魂歌 作詠時点の明記無し
送魂歌 作詠時点明記無し 葬送儀礼の歌 作詠は天平3年
葬送儀礼の歌 |
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24 (8) |
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尼理願
大伴家持妾
同上
同上
同上
同上
同上
高橋朝臣妻
|
463~464 坂上郎女歌
465 家持歌
466 書持歌
467 家持歌
468家持歌
469~472 家持歌 473~477 家持歌
484~486 高橋朝臣歌 |
事後の送魂歌 作詠は天平7年 暗喩あるか
事後の送魂歌 挽歌の対象者の没年月日明記無く暗喩あるか
事後の送魂歌 暗喩あるか 事後の送魂歌 暗喩あるか 事後の送魂歌 暗喩あるか 事後の送魂歌 暗喩あるか 事後の送魂歌 暗喩あるか
事後の送魂歌 挽歌の対象者は無名の人物 暗喩あるか |
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計 418~486 |
69 (28) |
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注1)「関係分類」欄の分類は、巻一の雑歌と挽歌及び巻三の雑歌と挽歌の検討で用いたものと同じである。ブログ2022/3/21付け本文「2.」参照。
注2) 「標目」を巻三雑歌や挽歌では設けていない。
注3)「該当歌」欄の番号は、『新編国歌大観』記載の『萬葉集』における歌番号。
注4)「備考」欄の記述は、上村朋の意見である。次の「40.」に示す歌の理解による。
40.巻三挽歌の各歌の理解の経緯
第一 歌の配列は、挽歌の対象者の亡くなった時点ではなく、その歌を披露した(したい)と思われる時点の順になっている、と推測できます。題詞は原則「・・・作歌〇首」という作文であり、例外は3題のみです(「神龜五年戊辰大宰帥大伴卿思恋故人歌三首」、「悲傷膳部王歌」及び「天平三年辛未秋七月大納言大伴卿薨之時歌六首」)。
第二 各歌別に記します。
2-1-418歌:①ブログ2022/2/28付けで「上宮聖徳皇子」という表記の検討をした。既に諸氏が、この作者名は、推古天皇の皇太子となった厩戸皇子(以下「日本書記の厩戸皇子」、と記し 後世「聖徳太子」と呼ばれ信仰の対象となった人物)と指摘している。『日本書紀』の推古朝の記述は、推古朝当時の記録そのままではなく、『日本書紀』編纂の目的に沿うよう、成立(養老4年(720))直前における天皇家の事情が反映している可能性が強い、と諸氏は指摘している。この時の天皇は元正天皇(在位715~724)であり、天皇家の事情とは、皇太子となる皇子は優秀である(ことが多い)という例を示したいことではないか。
②同ブログ「9.⑭」等において、次のように指摘した。
「『日本書紀』での「皇太子」という表記は、(巻ごとの執筆者の違いは置いておいて)履中天皇、清寧天皇、厩戸皇子及び天智天皇にあり、みな果断な行動をとった人物であるが、一人厩戸皇子のみ、天皇となる前に亡くなっている」「それは、皇子として無念であったろうという推測が可能。」
また同ブログ「9.⑯」で、巻二と巻三の筆頭歌は、次のような共通点がある、と指摘した。
「第一 皇位継承も十分可能であった皇子が筆頭歌を詠うこと 第二 挽歌の対象(有馬皇子も、行路死人も)は、今上天皇に悪意を持たず、初志が実現していない死者であること」
これをヒントにすると、巻二の挽歌の筆頭歌が、有馬皇子の自傷歌だったので、巻三の挽歌の筆頭歌も「日本書記の厩戸皇子」の自傷歌であると、確認した。竜田山死人(非皇族)は、天皇にとり送魂の歌を贈るべき人物を暗喩している。(送魂の歌については、付記1.参照。)
③(共同体のエリア内で)共同体に縁のない名も無き者が無念な思いを抱いて死んでしまったら、無念の人物がわるさをしないよう、その魂を鎮めるような歌(送魂歌)や行為は、その共同体を守るために必要なことであり、その土地々々にそれぞれ生じていて、伝承歌も生じていたと思える。
2-1-419歌:挽歌の対象者大津皇子は、天武天皇崩御直後謀反の意ありとされ、自死させられている。謀反が濡れ衣であれば自死させた側からみれば、その魂を鎮めるような歌(“送魂”する歌)を必要としていることになる。
2-1-420~2-1-422歌:①歌本文で河内王が葬られたと題詞に記す豊前国鏡山には、通称「外輪崎古墳」がある。それを明治27年(1894)に宮内庁が「勾金(まがりかね)陵墓参考地」(被葬候補者:天武天皇皇孫長親王の王子河内王)として陵墓参考地に治定されている。
②天智天皇皇孫にあたる白壁王と比較できる皇位継承の資格をもつ天武天皇皇孫の代表として挽歌が詠われているか。
③題詞より葬送儀礼の歌とする。あるいは都に作者は居ての送魂歌か。
2-1-423歌~2-1-425歌:①2-1-423歌はブログ2017/8/3付け及びブログ2020/9/21付けで触れた。延命祈願をしている状況を詠い、兄弟の死を悼む歌と理解した。検討は巻二の挽歌としての考察に及んでいなかった。葬送儀礼の歌か。
②丹生王は伝未詳。挽歌を詠われた石田王も伝未詳。石田王については次の2-1-426歌~2-1-428歌参照。
2-1-426歌~2-1-428歌:①作者山前王は、天武天皇皇孫で忍壁皇子の子。忍壁皇子は吉野盟約の1人。
②作者からみると、歌本文で石田王について「よろづよに たえじとおもひて かよひけむ きみ(をばあすゆ そとにかもみむ)」と詠み頼りに思う人物のように詠っている。葬送儀礼の歌か。
③このため、天智天皇皇孫にあたる白壁王と同じ天智天皇皇孫の代表として挽歌が詠われているかと思われる。
2-1-429歌:①天皇家であることを題詞に明記した挽歌が終わった最初の歌。
②挽歌の対象である香具山屍とは、その地域の共同体の一員ではない、よそ者(例えば帰途に就いた役民)であれば、それは当時の常態であるので、題詞にある「・・・悲慟作歌」と詠うのはその屍が貴人であるからではないか。無名の人物が貴人を暗喩している例もある。
2-1-430歌:①作者名は2-1-265歌の題詞にもある。その歌は巻三雑歌の第一グループ(天武天皇~文武天皇の御代の歌群)にある。②この歌も同時代を示すか。③挽歌の対象者が刑知であれば事後の送魂歌。
2-1-431歌:①挽歌の対象者(土形娘子)は火葬されている。火葬は文武4年(700)の道昭が最初の記録。天皇では持統天皇が最初である。天皇の火葬は文武、元明及び元正天皇で途切れている。
②作者は題詞に人麻呂とある。諸氏は人麻呂には平城京遷都後の作詠とみなせる歌が見当たらないと指摘している。
③対象者は、宮女であれば任地で死を迎えたことになる。一般的には故郷に帰れず無念の死と理解できる。火葬された際に披露されているので送魂歌。
2-1-432歌~2-1-433歌:①挽歌の対象者(出雲娘子)は火葬されている。その際披露されているので送魂歌。
②作者は題詞に人麻呂とある。③宮女であれば任地、それも行幸先で死を迎えたことになる。無念の死であろう。
2-1-434歌~2-1-436歌:①娘(名を作者の赤人は手児名、高橋虫麿は手児奈・手児名)についてはブログ2022/3/14付け(「20.⑯以下」)で触れたが、歌そのものの検討はしていない。千葉県市川市のHPでは「オーソドックスな昔話の再話」として『真間の手児奈』の話が記載されている。ウィキペディアでは、一つの説話として舒明天皇の時代の国造の娘で結婚後離別され親元にも戻れず言い寄られて結局入水したという話を記載している。作者赤人の時代には既に伝説になっていたヒロインである。
②歌本文によれば墓が設けられていたというが作者赤人ははっきりしない、と詠う。共同体のエリアにある入江の入水によるケガレを避けるのに墓を設けて祀る必要があったのであれば、墓標くらい明確にしていたであろう。そうでもないような詠いぶりなので、挽歌というより観光地に来た、という報告のような歌である。
③東京湾の現在の江戸川の当時の河口にあたる遠浅の海に湊があったとすると、澪は相対的に水深があったかも知れないが石を抱いて入水したのであろうか。ともかくも手児名が、無念な思いをこの世に残していったとすれば、それはこの世で争いの絶えないことへの無念であろうか。
④挽歌とすれば、この世に悪さをしないように(入水を誘うことのないように)、という後日の送魂歌という整理になる。
2-1-437歌~2-1-440歌:①和銅4年に起きた事件の直後に公式に葬送儀礼を行えたのか疑問であれので、「送魂歌」として仮置きする。題詞に和銅4年と明記があり、元明天皇の御代の歌となる。そのため第二グループの歌となる。
②『猿丸集』第24歌の類似歌が、2-1-439歌であり、その歌を中心にこの歌群をブログ2018/7/23付けで一度検討した。さらにブログ2021/10/4付けでも、触れた。
③確認できたことは、2-1-429歌の詞書の「・・・見香具山屍悲慟作歌」を含めて、「見」という文字は、「見・・・屍」という表現においては、「仄聞」あるいは「文書によって知る」という意、あるいは下命による作詠を示唆する言葉とも理解した方がよい、ということ、追悼歌として4首とも理解できるが(題詞を無視すれば)相聞の歌としても理解できること、少なくとも2-1-439歌に関して作業仮説をいくつか予想できること(ブログ2021/10/4付け「3.②」)、である。
④このため、「見」字の意を「仄聞」と捉えて詠んだ歌とし、当時の死生観(付記1.参照)を踏まえて、4首とも「追悼歌」ではなく直後の(和銅4年の)「送魂歌」として仮置きする。
⑤似た題詞「和銅四年歳次辛亥河辺宮人姫嶋松原見嬢子屍悲嘆作歌二首」が、巻二挽歌の標目「寧楽宮」にある。この歌のある巻三挽歌には標目がない。その違いは上記「39.③ 第四」に記した。
2-1-441歌~2-1-443歌:①題詞が「・・・作歌」となっていない3題のひとつ(「・・・思恋故人歌」)。
②挽歌対象者は題詞では「故人」であり、固有名詞ではない。「故人」とは普通名詞の「亡くなった人」の意ではないか。作者旅人が代作した歌か。あるいは伝承歌か。伊藤博氏は、題詞は「思恋故人歌三首」であり、作詠時点と作者名を省いた理解を示している。旅人の大宰師としての赴任を神亀5年ごろと諸氏は指摘するが、『続日本紀』に記載はない。旅人の妻は2-1-449歌等とその題詞からは大宰府で亡くなったらしいが赴任直後と推測する根拠が希薄である。旅人が披露した歌であれば事後の送魂歌。
③題詞の配列からみると、作者明記の歌(赤人と大伴三中。共に聖武天皇の御代に活躍)の間にある歌の元資料は伝承歌の可能性がある。また題詞にある神亀五年は聖武天皇の御代であり、この時点明記により第三グループの最初の歌となる。
④元資料の歌としてみると(題詞を無視すると)、2-1-441歌は、送魂歌。2-1-442歌は、夫の野辺の送りをして自宅に戻る際を詠う送魂歌。三句「都にて」は入れ替え可能である。そして2-1-443歌は、官人である夫の妻への送魂歌。
2-1-444歌:①作者は伝未詳であり、長屋王の変による長屋王の死は、長屋王の自殺が自らの決断したものなのか、死罪の代替として宇合らに強要されたものなのかは明らかでなく、歌本文のように「雲隠」という表記をするのが妥当であるかどうか疑問である。このためこの歌は、伝承歌の流用の可能性がある。②何れにしても事後の送魂歌。
2-1-445歌:①この挽歌の対象者は、長屋王の子。事後の送魂歌。②しかし、官人でない人物の死にあたり披露することができる歌。元資料は伝承歌か。③題詞が「・・・作歌」となっていない3題のひとつ(「悲傷膳部王歌」)
2-1-446歌~2-1-448歌:挽歌対象者は任地で自死した官人。自死の理由は歌本文では過労死なのか何なのか不明。作者は挽歌対象者の上司であるので、葬儀の際の葬送儀礼の歌ではないか。
2-1-449歌~2-1-453歌:①歌の内容は事後の送魂歌。
②一見すると、任地で妻を亡くした大伴卿(旅人)が、大納言に着任のため上京するにあたり、亡き妻に引き留められぬように、また上京途中の安全を妻に祈願している歌。
③しかし、題詞には挽歌の対象者は明記されていない。2-1-441歌等の題詞に作者は大伴卿とあり、元資料が一連のものとすれば、挽歌の対象者は普通名詞の「故人」となるか。
2-1-454歌~2-1-456歌:①題詞に挽歌の対象者と作者名がない。諸氏は題詞の配列等から作者を旅人、対象者はその妻と指摘する。②3首とも妻を失った直後の心境を詠う送魂歌。
2-1-457歌~2-1-462歌:①葬儀の際の葬送儀礼の歌ではないか。2-1-461歌が詠う「みどり子」とは作中人物の孫か。
②一つ題詞のもとにある6首であり、部下であった者(例えば資人)、身近に仕えた者や「きみ」と問いかける同僚などの立場の歌とみられる(左注は後人の作文)。
③題詞が「・・・作歌」となっていない3題のひとつ(「・・・之時歌」)。
2-1-463歌~2-1-464歌:①挽歌の対象者尼理願は還俗していないので作者坂上郎女宅近くに郎女らが寄進した尼寺で亡くなったのであろう。作詠時点が天平7年であれば国分寺・国分尼寺が創建される以前である。当時出家者(僧や尼)は俗人の家の寄留者になれる存在ではない。理願は新羅から招来した尼であり、尊敬されていたのではないか。
②元資料は、有馬温泉の湯治に行っている人物への書状に記した歌か。事後の送魂歌。
③以下の題詞とそのもとにある歌に暗喩があるので、この3首にも想定すれば、理願に称徳天皇(孝謙天皇の重祚、阿倍内親王)を重ねることができる。称徳天皇は出家のまま即位した唯一の天皇である。有馬温泉の人物の暗喩は、持統天皇であろうか。
④直前の題詞は挽歌の対象者を大納言大伴卿と明記しており、大伴卿に別の人物を重ねていない、と推測する。この歌は、称徳天皇の挽歌を私的に詠むということになり、それは天武系の天皇の御代のこととなる。そのため、この暗喩により第四グループの最初の歌となり得る。
2-1-465歌~2-1-477歌:①挽歌の対象者は家持の亡き妾。つまり無名の人物である。また、家持は、繰り返し詠っている。この13首はいくつかの題詞のもとにあり、作詠時点と作者を省いている題詞があり、これまでの題詞の作文と異なる。
②題詞に亡き妾の亡くなった日時を明記せず、作詠時点を明記している。思い出しては歌を作るほど未だに気になっている人物がこの挽歌の対象者である。
この次に配列されている歌群の対象者に貴人が暗喩されているならば、この歌群の対象者にも誰かが暗喩されている可能性がある。
③部立て「挽歌」において作詠時点が明記されている題詞では時系列になっているので、女性の挽歌対象者に暗喩されているのは怨霊になったとみなされた井上内親王か。内親王死後、天変地異が続き、光仁天皇の病、山部親王の大病があって、急遽改葬されている。
2-1-465歌:一緒にいないことを確認している歌であり、故人を偲ぶ歌でもあるが、今も何かにつけ一緒にいないことが気にかかっている。つまり現世を故人はまだ気にしている。亡き妾はあの世で満足して暮らしてほしい、の意も含みうるので事後の送魂歌。
2-1-466歌:前の歌に和しているので事後の送魂歌。
2-1-467歌:題詞が改まっている。なでしこの花が亡き妾のいうよう作者の身近に咲いて、もう思い残すことはないのではないか、と詠ったと理解できる。だから、亡き妾はあの世で満足して暮らしてほしい、という意も含みうる歌であるので、事後の送魂歌。
2-1-468歌:題詞が改まっている。秋の初日7月1日だからというのがきっかけの歌である。またしても妻のことが気にかかっているのであり、単なる故人を偲ぶ歌ではない。また、一つの歌群にある歌である。このため、事後の送魂歌。
2-1-469歌~2-1-472歌:長歌と反歌による事後の送魂歌。
2-1-473歌~2-1-477歌:題詞に対象者と作詠時点を明記していない。題詞「悲緒未息更作歌五首」と「悲傷」という表記ではない。「悲緒」とは亡き妾のことを思い出すきっかけが次々と起こる日常であることの造語なのか。奥つ城のある佐保山をみあげ、思い続けていると詠い、作者は亡き妾と向き合っている。
2-1-478歌~2-1-483歌:①挽歌の対象者は、聖武天皇の天平16年当時唯一の皇子。律令での死に関する儀礼を定める「喪葬令(そうそうりょう)」に則った葬送儀礼時の歌であれば、挽歌の対象者に対する皇子や皇女の(名を明記した)歌も編纂者は配列するのではないか。
②そのため、これらは個人的な送魂歌。作者家持は、当時内舎人であり、天皇の身辺警護の役であり、皇子の身近にいたわけではない。
③そうであれば、天智系の天皇の立場から天武系の最後の男子への送魂歌としての暗喩を含んで配列されているか。事後の送魂歌となる。
2-1-484歌~2-1-486歌:①巻三挽歌の最後の題詞のもとにある歌群。妻は行き隠れた山背の相楽山の山あいに風葬か土葬をされたのであろう。仲睦まじい夫婦であったと詠っている。ただ、この挽歌の対象者は高貴な官人の妻でもなく、無名の人物である。表面的にはその妻への送魂歌となっている。
②亡くなった時点と作詠時点を題詞に明記していない。 作詠順の配列とすると2-1-478歌の題詞を根拠に最早は天平16年(744)。
③しかしながら、高貴な方をこの妻に重ねることが可能であり、直前の題詞のもとの歌との時系列で対象者を検討すると、女性であれば、光仁天皇の妻(高野新笠。非皇族でかつ有力な氏族の娘ではないが桓武天皇(山部親王)の母)への事後の送魂歌とみなせる。
④このように、2-1-463歌以降は、大伴家ゆかりの人物などへの挽歌は、安積皇子への挽歌をはさみ天皇家にとって重要な故人への暗喩がある歌とも理解できる歌として配列されている。題詞に明記された作詠時点では天平16年までの歌において、このような暗喩を順序良く見ることが出来るのは、巻三挽歌の最終編纂時点を十分示唆しており、編纂時点で将来のある時点(御代)になったときの事後の送魂歌とみることが出来る。
(「40.」終わり)
「わかたんかこれ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。
次回は 巻三の部立て「比喩歌」について記します。
(2022/11/14 上村 朋)
付記1.挽歌について(ブログ2021/10/11付け「5.⑤」をベースにして)
① 挽歌とは、2-1-145歌において、編纂者自身が記したと思われる左注で定義しており、挽歌という判定を、歌が創られた時点ではなく、挽歌として利用された時点(用いた時点)でしている(2019/5/13付けのブログ参照」)。とみなしたところである。しかし、当該歌その後の検討で巻一~巻三にある左注が編纂者の作文でない、とわかった。その左注を作文した時代でも挽歌をそのように理解していたことは確かであり、『萬葉集』巻二の歌にあたってもその定義が該当しているので、このブログでは「挽歌」という表記をこの定義で用い続けている。
② 律令では、死に関する儀礼を「喪葬令」に規定している。それは、招魂(喪)と送魂(葬)の儀礼がワンセットであることを意識している規定と理解できます。死者を、円満に死者の世界に送ることをストーリーとしており、死者が死者の世界に行けないと、死者と生者が一緒にいるという混沌とした世界が続くことになる(死者にかき回される状況が続く)ので、それを解消し、生者の秩序は生者のみでつくり保てるようにするという意識である( 『万葉集の起源 東アジアに息づく抒情の系譜』(遠藤耕太郎 中公新書2020/6)参照。死者に対して、生の世界に未練を残さないよう送魂するのが大事である。死者が死者の世界に行けないと、死者と生者が一緒にいるという混沌とした世界が続くことになる(死者にかき回される状況が続く)。それを解消し、生者の秩序は生者のみでつくり保てるようにするためである。このように遠藤氏は指摘する。)。
③ 偉大な祖先が神になるならば、それ以外の偉大な人物も神になる資格があり、死後も常々丁重に扱い、この世に執着しない状況にしておいて然るべきである。
④ ひとつの家族であれば、父母はそのような人物である。そのため死んだ場合はその死を確かめる招魂をした後、送魂する儀礼がワンセット(あるいは送魂し、確認をする招魂の儀礼がワンセット)となり、その後も祀りを続けることになる。天皇家にとってもそれは同じ。
当時の人々の死生観に基づく円満に死者をその世界におくる或いは留まってもらう歌、死者に現世へのこだわりを減じさせようと願う歌が送魂歌といえる。
⑤ 死んだ者は、庶民ならば風葬である。巻一の2-1-207歌~2-1-216歌がそれを詠っている。平安時代でも野ざらしで死者を見送った。貞観13年(871)の太政官符号には鴨川の下流を指して、近年耕地化されつつあるがここは「百姓葬送の地、放牧之処」であるので耕地化を禁止すると命令している。
後代の『餓鬼草紙』の絵の中で、フィクションは5人の餓鬼だけである。それ以外、例えば敷物の上の腐乱した遺体、犬が食っている遺体などは当時の誰もが知っていた普通の葬送の地の光景がまとめて描かれている。
⑥ 表F作成にあたり、挽歌をさらに区分し、「喪葬令」によると思われる葬送儀礼時の歌、(一般に葬送時の)送魂歌、事後(後日)の送魂歌の3区分をたてた。ここに送魂歌とは、死者は生者の世界に残りたがっているのでそれを断ち切ってもらう必要があるという信仰の上にある歌という意味である。当時は単に追悼をする歌はない。また、巻三の最終編纂時点では怨霊という観念がすでに生じている。
(付記終わり 2022/11/14 上村 朋)