わかたんかこれ 再び巻三挽歌 萬葉集巻三配列その25

 前回(2022/11/21)のブログまで萬葉集巻三の検討をしてきました。今回「わかたんかこれ 再び挽歌 萬葉集巻三の配列その25」と題して、記します。(上村 朋)

1.~41.承前

 『萬葉集』巻三の部立て「譬喩歌」の検討からそのあとに配列されている部立て「挽歌」の理解の再検討が必要となりました。なお、歌は『新編国歌大観』によります。

42.『萬葉集』巻三挽歌の再検討

① 巻三の部立て「譬喩歌」の歌は、題詞のもとに歌があるという普通の理解が妥当であり、さらに譬喩歌という部立てにあることから、もう一つの理解がすべての歌にありました(ブログ2022/11/21付け参照)。

 挽歌の部の歌にももう一つの理解が可能な歌(暗喩のある歌)がありましたが、すべての歌でその暗喩を確認していません(ブログ2022/11/14付け参照)。

 『萬葉集』の部立てにおいて、例外的な修辞に関する意の語句を用いた部立てである「譬喩歌」が直前にあるのが部立ての「挽歌」ですので、修辞から別途の意がすべての歌に認められるかを改めて確認します。

 その際、今まで同様に挽歌においては歌と天皇の各種統治行為との関係を重視して検討します。

② 巻三の部立て「挽歌」の定義を確認しておきます。

 『萬葉集』で「挽歌」という部立ては巻二にあうのが最初です。そのなかの歌の一つ2-1-145歌の左注において、挽歌という判定を、歌が創られた時点ではなく、挽歌として利用された時点(用いた時点)としています(2019/5/13付けのブログ参照」)。

 巻三の「挽歌」にある歌にもそれは該当しました。つまり、挽歌は伝承歌や他人の歌でもそれを挽歌として披露することができる、ということです(付記1.参照)。

③ 次に、譬喩歌の定義を確認しておきます。

 伊藤博氏は、譬喩歌とは「人間の姿態・行為・感情を事例に譬えて述べる歌」と定義し、各歌での「人間の姿態・行為・感情」を指摘しています。

 私は、前回、「巻三の部立て「譬喩歌」とは、いうなれば暗喩を重視している歌を集めた部立て」、と指摘しました。だから、譬喩歌とは、意識的に特定の別の意を連想するように詠む表現方法をとっている歌ということである、と理解しています。

④ 部立て「挽歌」にある譬喩(暗喩)は、挽歌の対象者に関してであるとすると、挽歌ということに変わりありません。伊藤氏の定義でいえば「人間の姿態」の範疇のことを譬えているのではないか。「人間の行為」や「人間の感情」を譬えるとすれば挽歌でなくなるのではないか。

⑤ 当時、挽歌には、死者が死者の世界に行けないと、死者と生者が一緒にいるという混沌とした世界が続くことになる(死者にかき回される状況が続く)ので、それを解消し、生者の秩序は生者のみでつくり保てるようにするという意識が働いている歌の分類があります(送魂歌)。

 偉大な祖先が神になるならば、それ以外の偉大な人物も神になる資格があり、死後も常々丁重に扱い、この世に執着しない状況にしておいて然るべきです。

⑥ そのため、巻三の最終編纂時点において

 第一 当時の政治的あるいは社会通念上、天皇からみて祟り等をおそれて祭る必要が指摘できる人物であること、

 第二 上記第一に該当する人物が題詞に明記されていないこと

を条件に、皇位継承が天智系となってからの天皇の立場からみて、そのような人物を譬喩(暗喩)しているかについて、部立て「挽歌」にあるすべての歌を確認をします。

 既に指摘した譬喩(暗喩)もあります。

 題詞での挽歌の対象者が、皇族であると題詞に明記されている歌、即ち、上宮聖徳皇子と大津皇子と長田王と膳部王と安積皇子である歌、並びに河内王と石田王である歌には、譬喩を込める必要が薄い、と考えられます。

 また、挽歌の作者(披露した人物)が、皇族と題詞に明記されているのは、膳部王への歌と安積皇子への歌以外の歌です。膳部王への歌には題詞に作者名を明記していない歌もあります。安積皇子への歌は、『萬葉集』の最終編纂者の候補の1人である大伴家持と明記されています。

 皇位継承資格の劣る河内王と石田王への歌は、天智系の皇子と天武系の皇子を代表しているのではないか、と整理しました。

 以上の検討の結果が下記の表です。

表 巻三挽歌にある各歌での譬喩の推測(2022/11/28現在)

歌番号

題詞での作者(披露者)

題詞での挽歌の対象者

譬喩されている挽歌の対象者

418

上宮聖徳皇皇子

上宮聖徳皇子

 無し

 419

大津皇子

大津皇子

 無し

420~422

手持女王

河内王

天武天皇系皇子

423~425

丹生王

石田王

天智天皇系皇子

426~428

山前王

石田王

天智天皇系皇子

 429

柿本人麻呂

香具山屍

草壁皇子(皇太子で死去)

 430

刑部垂麻呂

田口広麻呂

道祖王(廃皇太子)

431

柿本人麻呂

土形娘子

持統天皇

432~433

柿本人麻呂

出雲娘子

持統天皇

434~436

山部赤人

真間娘子

元明天皇

437~440

河辺宮人

姫島松原美人屍

元正天皇

441~443

大宰師大伴卿

故人

文武天皇

444

倉橋部女王

長田王

 無し

 445

明記無し

膳部王

 無し

446~448

判官大伴三中

史生丈部竜麻呂

廃帝淳仁天皇

449~453

大宰師大伴卿

明記無し

基王(皇太子で死去)

454~456

明記無し

明記無し

聖武天皇

457~462

明記無し

大納言大伴卿

志貴皇子

463~464

大伴坂上郎女

尼理願

称徳天皇孝徳天皇

465~466

大伴家持

大伴家持の亡妾

井上内親王

467

弟大伴書持

大伴家持の亡妾(和歌)

井上内親王

468

家持

明記無し

井上内親王

469~472

家持

明記無し

井上内親王

473~477

家持(悲緒未息更作歌)

明記無し

他戸親王(皇太子で死去)

478~483

大伴家持

安積皇子

 無し

484~486

高橋朝臣

高橋朝臣の妻

高野新笠桓武天皇の実母)

 

 

 

 

注1)「歌番号」は、『新編国歌大観』所載の『萬葉集』の歌番号。

 

⑦ 譬喩している人物は、持統天皇以下の歴代天皇とその間の皇太子の立場で死去した人物や廃皇太子などで、推測ができました。

 例外は、部立て「挽歌」の最後の題詞の歌(2-1-484歌~2-1-486歌)における譬喩の候補とした高野新笠です。皇后ではありませんが皇位を継ぐ者(桓武天皇)を生んだ人物です。

 持統天皇は初めて火葬された天皇です。

 2-1-465歌などの譬喩の候補とした井上内親王は、光仁天皇の皇后ですが、呪詛による大逆を図ったと密告され皇后を廃され、その子他戸親王とともに幽閉先で急逝しています。光仁天皇はその祟りを恐れ秋篠寺の建立や改葬を行っています。

 2-1-441歌などの対象が、「故人」と題詞に明記して、作者の大宰師大伴卿の妻と具体的に明記していない理由はこの譬喩にあるのではないか。(なお、各歌の理解は2022/11/21付けブログに記してある。)

⑧ 挽歌は、天皇の代を意識したグループ化をして順に配列され、各グループの筆頭歌は、2-1-418歌、2-1-437歌、2-1-441歌、及び2-1-463歌です(ブログ2022/11/14付け参照)。

譬喩の人物の配列もこのグループ化に従っているかを、みると、2-1-430歌のみが疑問です。ほかの人物を譬喩しているのかもしれません。

 第4グループは聖武天皇の御代に作詠(披露)された歌からなる歌のグループなので、必然的に譬喩という表現が多用されていました。

 このような譬喩が成り立つならば、題詞での挽歌の対象者が、巻二と異なり官人などが多く取り上げられている理由となり得ます。

⑨ このような譬喩での送魂歌であっても本来の挽歌の役割を果たすと、巻三編纂者が考えていなければ、この推測は成り立ちません。

 巻三雑歌の後半にある歌の暗喩が巻三編纂者の意図であるとすれば、編纂者の立場を天皇に訴える手段としてこのような譬喩を用いている、という理解も可能です。この推測は、巻三の最終の編纂時期と編纂者の議論と関係があることになるので、一つの検討結果として、ここに記しておきます。

 なお、今回の検討で、各歌の(譬喩を含まない)理解に、修正はありません(保留はそのままです)。

⑩ ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧しただき、ありがとうございます。

 次回は、しばらく休み、猿丸集第24歌の類似歌の検討から再開したい、と思います。

付記1.部立て「挽歌」の定義

① 巻二の部立て「挽歌」にある歌の定義(ブログ2019/5/13付け「8.③」より)

この巻第二の挽歌の部の歌とは、「死者に哀悼の意・偲ぶ・懐かしむ意等を表わすために人々の前で用いられた歌と編纂者が信じた歌」である、というよりも、「死者と生者の当時の理解からは、死者の送魂と招魂に関わる歌と編纂者が認めた歌」である。

挽歌という判定を、歌が創られた時点ではなく、挽歌として利用された時点(用いた時点)でしています。

今日でいうと、会葬の席で用いられた歌と、時・処に関係なくその人を偲ぶ歌として詠われた歌(死者を弔いいわゆる成仏してほしいと願うことでもある歌)とをも指すことになる。その人の好きであった歌曲を、歌ったりBGMに用いれば、それは挽歌である、というのが巻第二の編纂者の定義である。今この世で生きている者がその死者に邪魔されないで生きてゆくのに歌を詠みあるいは披露し、その死者の霊を慰めるのは、当然(あるいはそのような慣例が残っていた)であり、だから送魂と招魂の歌として利用された時、その歌は挽歌である。

② 律令では、死に関する儀礼を「喪葬令」に規定している。それは、招魂(喪)と送魂(葬)の儀礼がワンセットであることを意識している規定と理解できる。死者を、円満に死者の世界に送ることをストーリーとしており、死者が死者の世界に行けないと、死者と生者が一緒にいるという混沌とした世界が続くことになる(死者にかき回される状況が続く)ので、それを解消し、生者の秩序は生者のみでつくり保てるようにするという意識である。

偉大な祖先が神になるならば、それ以外の偉大な人物も神になる資格があり、死後も常々丁重に扱い、この世に執着しない状況にしておいて然るべきである。(ブログ2021/10/11付け「5.⑤」より。『万葉集の起源 東アジアに息づく抒情の系譜』(遠藤耕太郎 中公新書2020/6)における喪葬の論に従う))。

③ 巻三の部立て「挽歌」にある歌の定義は、巻二の定義を踏襲して検討し、違和感がなかった(ブログ2022/11/14)

(付記終わり 2022/11/28  上村 朋)