わかたんかこれ 萬葉巻四 三大部立ての理由 配列その16

前回(2023/8/7)の『萬葉集』巻四総括の補遺を行い、私の感想を記します。(2023/8/28  上村 朋)

1.~24.承前

萬葉集』巻三と巻四の配列に関して検討して前回その総括をし、補説も記した。さらに補説が必要とすることがあった。歌は、『新編国歌大観』による。

25.補説 その2

① 次の事項の補説をします。

第一 『萬葉集』の三大部立ての関係について 

第二 2-1-724歌以降の整理表について

第三 2-1-789歌以降の歌とその作者藤原久須麻呂について

第四 聖武天皇以降の皇位継承について

② 最初に、『萬葉集』の三大部立ての関係について記します。

 なぜ、三つの部立てを巻一と巻二はおいたのか。それは『萬葉集』編纂の目的から構成した区分であったのでしょう。巻三と巻四がそれを踏襲しているのは、大局的には同じ目的をもって追加編纂したからである、と思います。

 巻一・巻二と、巻三・巻四との違いは、後者に「譬喩歌」という部立てが挟まっていることです。わざわざ異質の部立て「譬喩歌」という部立てをおいていることには、編纂者の意図があるはずです。

 それは未来の天皇の御代をはっきりと予祝をすることが巻三と巻四編纂時に目的のひとつとなったからではないか。

③ 三大部立ては、歌を披露する場面による分類にみえます(ブログ2022/11/21 「41.③」)。巻四までを検討し終わって、この言に同意できます。

 律令制定以前も以後も、祭政一致であるのが天皇をトップとした体制でした。現在に残る養老律令は、神祇令その他を設け、天皇が、神々や祖先を祀るという決意表明をしており、臣下が濫りに墓を造るのを禁止しています。

 いわゆる大和政権は、中国大陸に成立している大国を意識し、その首都より海路を隔て遠距離にあるという地理的条件のもとに、その大国と同じように周囲の国々から朝貢をうけている国という認識をしています。同じ漢字圏にあるのですが、独自の文化もその大国に示す必要があります。大国と大きく異なる点は、革命思想を是認せず、皇族の長である天皇がトップにあり続ける、ということです。諸氏は、『日本書紀』も律令制定もそれを貫いていると指摘しています。詩文集編纂でも同じであるはずです。

④ そのため、三大部立ては、天皇体制の公的行動と公的発言の場面(雑歌)、逝去後の次の世に遷って神々となった人物たちが現世を乱すことのないようもてなす場面(挽歌)、そしてそのような神々の見守る今上天皇のもとで現世の人々の喜びを活写する場面(相聞)、を設定している、とみなせます。

 それにより、天皇をトップとする国家が最善でありかつ機能していることを歌によって示そうとしたのが『萬葉集』の巻一から巻四であり、巻五以下も(検討を尽くしていませんが)三大部立てを敷衍する部立てによって同じことを目指している、とみなせるのではないか。

 巻一~巻四の検討には、小松英雄氏の『みそひと文字の抒情詩』(笠間書院 2004)、神野志隆光氏の『万葉集をどう読むか――歌の「発見」と漢字世界』(東京大学出版会 2013)』、佐佐木隆氏の『言霊とは何か 古代日本人の信仰を読み解く』 (中公新書2013/8 No2230)、遠藤耕太郎氏の『万葉集の起源 東アジアに息づく抒情の系譜』(中公新書2020/6 No2592)、上野誠氏の『萬葉集講義 最古の歌集の素顔』(中公新書2020/9 No2608)をはじめとした多くの書籍などから有益なヒントをいただきました。深く感謝します。

⑤ 題詞とそのもとにある歌の検討を通じ、編纂者が作文した題詞は、元資料の歌が披露された場面の説明を忠実に再現していないことが分かりました。

 部立ても題詞も倭習漢文で作文されています。編纂者は、当たり前のことですが漢字には多義があることを踏まえた作文パターンを用意していました。

 律令の施行は、口頭よりも漢文で伝達することを建前としており、それが倭習漢文を生んでいます。治世のための共通語としての漢文が行政・仏教関係者に普及してきています。それが、大陸にある大国の首都において作文された漢文にはない大和政権下での癖を生じ、倭習のある漢文となっています。

⑥ 巻一の最初の部立ての「雑」字は、「まじる・まじわる・あつまる」(純の対義語)と「まじえる」の大別2意があります。熟語として、

雑詠:いろいろの事物や季節を詠んだ詩歌。

雑言:a(漢)詩で五言とか七言とか、一句の字数の定まっていないもの。bよもやま話。

があります(『角川新字源』)。

 雑歌とは、「雑詠」に対する「いろいろの事物や季節を詠んだ、やまとのことばによる歌」の意の造語ではないか。そして、歌集の最初におくことにより、諸事を裁き、かつ率先垂範して国を治める天皇の事績に関するやまとのことばによる歌を集めた部立て、という意を込めて用いているのではないか。だから、宮廷行事や軍事行動の公的な場面の歌は、対象になっています。

 部立てとして「雑歌」を第一に編纂者は取り立てているので、「相聞」や「挽歌」でない歌の類という定義ではないはずです。

 諸氏の多くが、「雑歌」は「くさぐさのうた」の意で、相聞歌・挽歌以外の歌が収められている、と指摘していますが、これでは「くさぐさのうた」に私的なやりとりをした歌などを除いた理由がわかりません。訓みは「くさぐさのうた」であっても、その意ではないはずです。

⑦ 現に巻一と巻三にある部立て「雑歌」の最初の題詞のもとにある歌(巻頭歌)には、治世に関する御製が置かれています。そして両巻の最後にある題詞の歌は、新たな天皇を予想させる歌です。

(2-1-1歌はブログ2021/10/4付け「4.③」参照、2-1-235歌はブログ2022/3/21付け「3.② 第一」参照。また2-1-84歌はブログ2021/10/4付け「4.」参照、及び2-1-391歌・2-1-392歌の長歌反歌は、ブログ2022/10/10付け「33.」参照)

 巻三と巻四は、当初の『萬葉集』の増補である、と諸氏は指摘しています。当初の『萬葉集』の編纂意図を引き継いでいるならば、巻三と巻四も天皇のために編纂していることになります。新たな皇統の天皇のための再編纂です。

⑧ 次に、挽歌とは、歌が創られた時点ではなく、挽歌として利用された時点(用いた時点)で挽歌と判定されています(2021/10/11に訂正した2019/5/13付けのブログ参照」)。

 巻第二の編纂者は、挽歌の最初の歌群の5首目の2-1-145歌の左注は、「右件歌等 雖不挽棺之時所作 准擬歌意 故以載于挽歌類焉」(「右の件(くだり)の歌等は、棺を挽く時つくる所にあらずといへども、歌の意(こころ)をなずらふ」)と記しています。これらの歌をもって挽歌の部が構成されていると言っています。左注を記した時代にも挽歌をこのように理解していたことになり、遡って巻二編纂時の編纂者の時代の理解を推測した言です。

 この巻第二の挽歌の部の歌とは、「死者に哀悼の意・偲ぶ・懐かしむ意等を表わすために人々の前で用いられた歌と編纂者が信じた歌」というよりも、「死者と生者の当時の理解からは、死者の送魂と招魂に関わる歌と編纂者が認めた歌」です。今上天皇が死者の悪影響を受けないための歌です。挽歌という判定を、歌が創られた時点ではなく、挽歌として利用された時点(用いた時点)でしていることになります。元資料の歌が初めて披露された時点ではなく、題詞に記載の時点で披露された歌と理解できます。

 今日でいうと、会葬の席で用いられた歌と、時・処に関係なくその人を偲ぶ歌として詠われた歌(死者を弔いいわゆる成仏してほしいと願うことでもある歌)とをも指すことになります。その人の好きであった歌曲を、歌ったりBGMに用いれば、それは挽歌である、というのが巻第二の編纂者の定義です。今この世で生きている者がその死者に邪魔されないで生きてゆくのに歌を詠みあるいは披露し、その死者の霊を慰めるのは、当然(あるいはそのような慣例が残っていたの)であり、だから送魂と招魂の歌として利用された時、その歌は挽歌です。(2021/10/11に訂正したブログ2019/5/13付け)

⑨ 巻三の「挽歌」にある歌にもそれは該当しています。つまり、挽歌は伝承歌や他人の歌でもそれを挽歌として披露することができました(ブログ2022/11/28付け「42.②」)。そして「譬喩歌」という巻三にある部立ての示唆により挽歌の対象者には別人が想定できました。なお、ブログ2019/5/13付け「9.④」の指摘は誤りであり、巻三の挽歌も、各歌の暗喩を思えば、巻二の挽歌の編纂と同じでした。

⑩ 相聞は、公的行事の公的な発言ではない歌の類ばかりです。天皇の治世のよろしきを知らしむる歌であり、天皇・皇族・官人の公的発言ではないものとして日常の行動と感情が詠われている歌の類であり、愛情あふれる表現で日常を知らせあう歌や恋の歌、餞別の歌、宴席で遣り取りした歌、社交的な会合での歌、送り状に添えた歌などが収載されている部立てとなっている。元資料が労働歌であると推測できる歌は、それを用いた官人等が披露した歌として収載されています。

⑪ 後代の識者は、『萬葉集』の部立て「相聞」にある歌に左注等して、次のように注記しています。

 2-1-652歌左注に、「起居相問の歌(叔母甥という関係の二人は歌をしるして送りまた答へ、互に日常を尋ね合ったその歌)」(相問は相聞と同じ意でこの左注は用いている)

 2-1-730歌の題詞の割注に、「離絶數年復会相聞徃来」(・・・再び会い相聞往来した際の歌)(割注は「相聞」と記す)

 2-1-762歌の左注に、「于時姉妹諮問以歌贈答」(・・・文通し歌を以て贈答した際の歌)

⑫ さて部立て「譬喩歌」です。(ブログ2022/11/21付け参照)

 すべての歌本文に、表面の歌意と別途の歌意があることが確認でき、題詞は、表面の意に関することだけでした。譬喩は雑歌でも相聞でも用いている修辞法です。このため、譬喩という方法に注目すべし、というヒントのメッセージが、この部立ての名称にある、と思います。

 つまり、譬喩歌という巻三にある部立ては、巻三と巻四の歌に関する編纂者の注記である、とみなせます。巻三と巻四には、部立て「譬喩歌」と同じように別途の意がある歌が多々あったのは事実です。

 なお、巻五以降にある部立て「譬喩歌」は未検討です。

⑬ 次に、2-1-724歌以降の整理表について記します。

 ブログ2023/4/24付けで、題詞の作文パターンを重視し、「11.③」に、「表2-1-724歌以降の題詞の、作者別・題詞の用字別一覧(2023/4/24現在)」を得ました。その後のブログ2023/8/7付けまでの検討を加えて修正した結果は表にまとめて示していませんでしたので、ここに記します。標題も変更します。

 その要点は、巻四は、部立てが「相聞」なので贈歌答歌がペアとなるように理解するのが妥当であったこと、用いている用字を吟味し贈歌答歌を検討し直したこと、及びペンネームで記されている人物の歴史上の行動の暗喩を推理したこと、の3点です。

 

表 2-1-724歌以降の題詞における、作者別・相手別・題詞の用字別一覧 (2023/8/7現在)

歌の作者⇒暗喩の人物

おくった相手

⇒暗喩の人物

題の種別 (⇒2023/4/24現在の表のグループからの変更)

そのもとにある歌番号

歌本文も検討したブログ

発意の題での用字

応えた題での用字

記載なし(未詳の人物)⇒?

天皇

聖武天皇

(A1とB1は意識的に巻四から割愛)

 

献  A0⇒A2

献  B0⇒B2

724

728~729

この2題、2022/3/6付け&2023/2/20付け

家持

光仁天皇

記載なし(未詳の人物)⇒聖武天皇

(献・贈字無し)

  C0⇒C1

 

725

 

2023/2/20付け&2023/3/6付け

記載なし(未詳の人物)⇒持統天皇

 

和歌 S2

767

 

坂上大嬢

井上内親王

 贈  D 0⇒D1

又・・・和歌 O2⇒O1

又・・・和歌 P2⇒P1

又・・・和歌 Q2⇒Q1

更・・・贈  E0⇒E1

 

 

 

 

 

(Q2割愛)

 

(E2割愛)

730~731

735~737

 

739

 

742~743

 

744~758

この5題、

2023/3/13付け

&2023/4/24付け

 

思・・・作歌 F1

更・・・贈  G0⇒G1

 

(G2は割愛)

768

770~771

この2題、

2023/3/13付け&2023/4/24付け

贈  H0⇒H1

(H2は割愛)

773~777

2023/4/24付け

紀女郎

持統天皇

報贈  U3⇒U1

贈  I1

更・・・贈  J0⇒J1

 (U2は割愛)

772

778

780~784

 

 

 

娘子

高野新笠

 贈  K0⇒K1

(K2割愛)

786~788

 

藤原久須麻呂⇒淳仁天皇

 (V1割愛)

贈  L1

報贈 V3⇒V2

789~791

792~793

 

坂上郎女⇒藤原光明子

坂上大嬢

井上内親王

 

賜   M0⇒C2

726~727

2023/3/6付け&

2023/3/27付け

贈  N0⇒N1

(N2は割愛)

763~764

 

坂上大嬢

井上内親王

家持

光仁天皇

 

贈 O1⇒D2

同・・・贈 P1⇒O2

同・・・贈 Q1

⇒P2

732~734

738

 

740~741

この3題、2023/3/13付け&

2023/4/24付け

大伴田村家大嬢⇒阿倍内親王

坂上大嬢

井上内親王

 贈  R0⇒R1

(R2は割愛)

759~762

 

紀女郎⇒持統天皇

家持

光仁天皇

 贈  S1

 

 

報贈 I2

765~766

779

 

友⇒光仁天皇

 

褁物を贈る歌 T0⇒J2

785

2023/3/27付け

 

藤原郎女⇒藤原家の人々

家持

光仁天皇

 

和歌  F2

769

2023/3/13付け

藤原久須麻呂⇒

淳仁天皇

家持

光仁天皇

 

来報  L2

794~795

 

題詞の計

 

20題⇒17題

9題⇒12題

 

 

注1)2023/4/24現在の表における「題詞にある用字とグループ別」のうち「献・贈・思・・・作歌」欄と「和歌・報贈・来報」欄は、「発意した題詞での用字」と「応えた題詞の用字)」に今回(2023/9/zz)改めた。

注2)今回、次のような考えで正した(ブログ2023/4/24付け参照)。

献:自主的におくる場合のほか、求められて奉答・返歌した場合もあった。

賜:要件を満たしたから積極的に賜う場合(能動的に賜う)もあり、願いがまずあって賜うようになった場合(受動的に賜う)だけではない。

注3)2023/4/24現在の表では「献・贈・思・・・作歌」欄には、「献・贈・思・・・作歌」とさらに「褁物贈」という用字のある題詞を整理した。「和歌・報贈・来報」欄には、「和歌・報贈・来報」という用字のある題詞を整理した。

注4)2023/4/24現在の表では配列上「献・贈・思・・・作歌」欄の題詞とその直後の「和歌・報贈・来報」欄の題詞は、一つの歌群(グループ)と整理した。そうならない場合も一つのグループとすると、グループ名はA~V(22グループ)となった。グループ名に付している数字は、返歌の無いグループ(0)、返歌があるグループ(1と2)、返歌だけのグループ(3)であることを示す。今回そのグループ名は残して整理し20グループとなった。

注5)歌番号とは、『新編国歌大観』所載の『萬葉集』における歌番号である。

注6)「歌本文も検討したブログ」欄には、検討の例示として当該歌を検討したブログ「わかたんかこれ ・・・」の当該年月日を記す

⑭ 次に、部立て「相聞」にある2-1-789歌以降の歌とその作者藤原久須麻呂について補説します。

 藤原久須麻呂は、大伴家持が「報贈」し(2-1-789歌~2-1-791歌)、そして「贈」歌した(2-792歌~2-1-793歌)相手であり、その後彼は大伴家持に「来報」して(2-1-794歌~2-1-795歌)います。

 藤原久須麻呂については、ブログ2023/3/6付けの「付記2.②の表H3」の「注記2」で、奈良時代では数少ない皇族以外の男子が皇女(天武天皇からみればひ孫)を妻として迎えた例と紹介しました。「報贈」等にある2意(ブログ2023/4/10付け「10.③以下」など参照)に注目し、補説します。

 ペンネーム大伴家持の歌として2-1-793歌を理解すれば、時期をみはからってあなたのお心に添うようにするという申し出であり、ペンネーム藤原久須麿の歌としての2-1-795歌は、家持の現状認識と処理方針を承認したことになります。

 天皇の後継者について、進行している方向に異議はない、という暗喩をみることができます。

 怨霊の概念がはっきりしてきた時代であり、家持に擬される人物は、2-1-725歌以降で、常世の国にいる、称徳天皇以前の天武系天皇の意見を伺っており、ペンネーム藤原久須麿もその一人です。

⑮ 巻四最後の題詞とそのもとにある歌は次のとおり。

2-1-794歌  藤原朝臣久須麻呂来報歌二首

奥山之 磐影尓生流 菅根乃 懃吾毛 不相念有哉
おくやまの いはかげにおふる すがのねの ねもころわれも あひおもはざれや

2-1-795歌  同上

春雨乎 待常二師有四 吾屋戸之 若木乃梅毛 未含有

はるさめを まつとにしあらし わがやどの わかきのうめも いまだふふめり

 伊藤博氏の現代語訳を引用します。

  2-1-794歌 藤原朝臣久須麻呂、来報(こた)ふる歌二首

   奥山の岩影にひっそり生えている菅の根のように、私だって、心の底からねんごろに思っていないことがあるものですか。

  2-1-795歌 同上

   梅の若木は春雨の降るのを待つもののようです。わが家の梅の木の若木もいまもなおつぼんだままです。

 氏は、2-1-795歌の四句と五句について、「我が家の梅を持ち出すことで、(家持の)2-1-793歌の(「きみがまにまに」という)申し出に同意したもの」と指摘しています。

 土屋文明氏は、2-1-789歌以下の相聞歌について、

「相識者間の贈答が、恋愛相聞の歌の如き表現をとるのは時代の習俗であるから、之も梅花に寄せての、二青年間の日常起居の相聞とみるべきではないか」と指摘し、

2-1-795歌について、

「梅は家持の家にも久須麻呂の家にもあったものと見える。之は単にその近況を伝へたものと見るだけで十分だ。新舶来の梅樹を互に珍重しあったのであらう。」、と指摘しています。

両氏の理解は、作者を大伴家持と藤原久須麻呂がそれぞれ詠った歌としての理解に留まっています。ペンネーム大伴家持等の歌の理解に触れていません。

⑯ 次に、皇位継承について、記します。巻三と巻四の編纂において、聖武天皇今上天皇としていることに関連します。

 聖武天皇は皇子にめぐまれませんでした。皇女の阿倍内親王に譲位後崩御しましたが、聖武天皇の皇后光明子は、御璽と駅鈴を保持し続け、光明子崩御(760)後には(その時の今上天皇である)淳仁天皇が引き継いでいます。阿倍内親王淳仁天皇からそれらを奪い再度践祚称徳天皇)しています。次いで光仁天皇が引き継いでいます。

淳仁天皇とは、天武天皇皇子舎人親王の七男大炊王です。 舎人親王の母である新田部皇女は天智天皇の皇女です。孝謙天皇から譲位を受け践祚し、その時孝謙天皇は、太上天皇となっています。但し政治の実権は光明子孝謙天皇光明子の娘である阿倍内親王)の信任のもとにほとんど藤原仲麻呂にありました。淳仁天皇聖武の遺勅を廃して孝謙天皇により立太子されました。しかし、758年の即位後は孝謙天皇太上天皇)と対立するまでに至り、廃位され、764年親王の待遇で淡路島に流され翌765年同国で公式には病死しています。

⑰ そして称徳天皇皇位継承者について意思を示さず崩御しました。崩御後、遺宣があったとして白壁王が推され践祚光仁天皇となります。妻である聖武天皇の皇女・井上内親王を皇后とし、その内親王が産んだ他戸(おさべ)王を皇太子にたてています。その後廃され、次の天皇桓武天皇の母は、皇族ではありません。

淳仁天皇という漢風諡号は明治時代になってからの追贈であり、古文書では廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいてい、あわじはいたい)と呼ばれていますが、歴代に加えた史書も存在します。称徳天皇の御代には、直前に天皇位にいた人物として遇されていないことになります。

だから、光仁天皇の即位は、当時としては、男子として聖武天皇の次に正式に即位した天皇という認識になります。淳仁天皇の認識と同じく、白壁王(即位して光仁天皇)は、聖武天皇の皇太子に擬することが可能です。

 以上で補説を終わります。

26.巻三と巻四検討の感想

① 『猿丸集』3-4-24歌の検討にあたり、類似歌をできるだけ正確に理解しようとして類似歌のある『萬葉集』を巻単位で検討をしました。『猿丸集』や『萬葉集』は編纂物ですから、編纂者によりそこに配列されている意を汲み取ることが歌の理解に必要だからです。その際感じたことを二、三記しておきます。

② 巻一と巻二の編纂理由を、巻三と巻四編纂者はよく承知しており、新たな皇統にならざるを得ない状況に対応した「やまとのことばによる歌集」を編纂したのではないか。歴代天皇からみると、『日本書紀』や『続日本紀』と違い『萬葉集』は、朝廷に備えるべき書物という認識はなかったようです。

③ 『猿丸集』編纂は、『萬葉集』の訓読作業と関係があるのかもしれません。類似歌が『萬葉集』と『古今和歌集』に集中しており、『猿丸集』は、両歌集理解の手引きになっています。その理解は、私には大変理にかなっている、と感じました。

 ブログ2020/1/6付けで次のように指摘しました。

「類似歌に関して、当時における新解釈をいくつかの歌について『猿丸集』編纂者は採用していることを、古人の説(に従ったところ)の理解によるものであるとして示しているのではないか。(ここに述べている)自説は、古人某がすでに述べている、という論理構成をとっている文がよくあります。」

 この予想は、あたっているかもしれません。

④ 『萬葉集』巻一~巻四は、この4巻に共通の「寧楽宮」と、部立て「譬喩歌」をたてている理由の二つの理解が重要でした。編纂者の構想力に敬意を表します。

⑤ 『萬葉集』巻五以降の編纂方針も検討したほうが良い、と思っていますが、後日のこととします。

ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただきありがとうございます。

次回からは、『猿丸集』第24歌の再確認に戻ります。

(2023/8/28  上村 朋)