わかたんかこれ 萬葉巻四 褁鮒・褁物 配列その5

 前回(2023/3/13)に引き続き『萬葉集』巻四の配列を検討します。(2023/3/27  上村 朋)

1.~8.承前

 『萬葉集』巻四の配列に関する予想(作業仮説)を、巻三にならって行い、『新編国歌大観』(角川書店)収載の『萬葉集』を対象に、検討しています。巻四の「献天皇歌」という4字のみの題詞(とそのもとにある歌本文)から、聖武天皇の後代の御代に関する歌群のあることが、推測できました。その題詞以降の題詞(とそのもとにある歌本文)について検討中です。

9.天皇が関わる歌の疑問 その6 物を贈る歌か

① 『萬葉集』において、「献天皇歌」という4字のみの題詞は、巻四に2題あるだけです。

その題詞以降において、用例の少ない題詞の作文パターン(付記1.参照)を集中的に検討しており、今回は「作者名+物贈+・・・」という作文パターンの題詞、即ち2-1-785歌の題詞(とそのもとにある歌本文)を、検討します。

『新編国歌大観』より、引用します。

2-1-785歌  紀女郎褁物贈友歌一首  (割注あり 女郎名曰小鹿也)  

  風高 辺者雖吹 為妹 袖左倍所沾而 苅流玉藻焉

  かぜたかく へにはふけども いもがため そでさへぬれて かれるたまもぞ

 この次に配列されている歌は、これに対応した返歌ではなく、「贈」字を用いた新たな題詞のもとにある大伴家持が娘子に贈る歌3首です(付記2.参照)。

② 検討は、題詞、題詞を横においた歌本文及び題詞のもとにある歌本文と三分して行い、前後あるいは関連ある題詞と歌とを参考にします。

倭習漢文である題詞を、最初に検討します。

「紀女郎」という名は抽象的です。男性ほど個人を特定できません。紀氏を名乗る官人の家族の一人の女性を指している、とみられます。古注である割注を信じれば通称が判り、官人の妻という属性が分かります。

③ 次に、漢字「褁」は、「裹」に通じます。音は「か」、その意は「aつつむ・すっぽりつつむ・まとう bつつみ・包んだものcたから・財宝 dはなぶさ(花房) e草の実」とあります(『角川新字源』以下同じ)。熟語に「裹革」(戦死した死体を馬の革ぶくろで包む)、「裹屍」(死体を包む)、「裹足」(足をとめて進まない・足ごしらえをする)、「裹頭」(戦争に行く装束(をする))をあげています。

 漢字「物」の意は、名詞として「aさまざまなもの・「万物」 bしなもの・道具 cものごと・ことがら・現象 d世事・俗事eたぐい・例・方式(左伝・哀元 「不失旧物」) fしるし・区分g鬼神hひと・ひとがら・材能・「人物」 」をあげています(同上)。そのほか動詞として「i見る・ものの形や性質を知る j名づける kしぬ(死)」などをあげています。国字として「もの」(さびしい)の意に「物」字があてられています。

 このため、題詞にある「褁物」とは、裹の熟語に多い「裹+名詞」にならえば、

「(ある特定の)ものをつつむ」、「しなもの・道具をつつむ」、「(ある特定の)ものごと・ことがらをつつむ」

などが、その意の候補となります。

 また、「友」字は、名詞として「aともだち・なかま bむれ(群)」の意があります。

  題詞の読み下しを試みると、次のとおり。

 「紀女郎の、「もの」をつつみ友におくる歌一首」 (以下785題詞第1案ということとします。)

 そうすると、この倭習漢文の作文パターンは、「作者名+別の行為+贈+相手の名+歌〇首」であり、歌を贈る前の作者の行動をも作文した、という新しい作文パターンとなります。

④ 土屋文明氏は、題詞を「紀女郎褁物贈友歌一首」として、「褁物というものを贈る」という理解(『萬葉集私注』)を示しています。「つつめるもの」という名詞の扱いであり、作文パターンは「作者名+物贈+・・・」です。

 そうすると、「褁物」とは、「つつんだ(ある特定の)もの」、「つつんだしなもの・道具」、「つつんだものごと・ことがら」のほかに、「褁」字を名詞とみて「まとう(ある特定の)もの」、「たからであるもの」、なども候補になります。

 そして題詞の読み下しを試みると、例えば、「つつんだ(ある特定の)もの」を例とすると次のとおり。

 「紀女郎の、つつんだ(ある特定の)ものを友に送る(際の)歌一首」(以下785題詞第2案という)

 「褁」字の理解でいくつもの案があり得て、一案に絞るヒントが題詞にありませんので、題詞の読み下し文を1案に絞るのを今は保留とします。

⑤ なお、巻四におけるこの作文パターンの題詞は、2-1-724歌以前に2題あります。

 2-1-580歌 大納言大伴卿摂津大夫高安王歌一首
   吾衣 人莫著曽 網引為 難波壮士乃 手尓者雖触

   あがころも ひとになきせそ あびきする なにはをとこの てにはふるとも

 題詞のもとにある歌本文として、土屋氏はその大意を、次のように示しています。

 「吾が衣を他人には着せなさるな。若し御自身御気に召さぬなら、網引きの難波男に投げ与へられようとも。」

 題詞を横においた歌本文でも、その大意は変わらないと思います。「あがころも」とは、「私(作者)が貴方に贈った衣」の意で、新しいかどうかは関係ない、と理解できます。「なにはをとこ」も仲間の一人である人々の間の伝承歌であった可能性があります。

 土屋氏は、「当時の貴族からは(網引きの)「難波男」は人間の部類と感ぜられなかった(ということである)。老人(大伴旅人)はよい気持ちで上等な贈り物をする前に自ら興じて居るのである」と指摘しています。二句にある「ひと」とは、袍を穿く人、即ち官人を指します。

 氏は、題詞の作文パターンが「作者名+物贈+・・・」と理解しており、785題詞第2案と同じ訓み方になります。「新袍」の「新」は形容詞と理解して然るべきであり、読み下し文は、次のとおり。

「大納言大伴卿の、新しき袍(あるいは新袍)を摂津大夫高安王に贈る(際の)歌一首」

 題詞の「新袍」を、歌本文では「(あが)ころも」と詠っています。「(あが)ころも」とは「(貴方に贈る)新しく誂えた袍」の意と理解できます。

⑥ もう一首は、次の歌です。

2-1-628歌 高安王褁鮒贈娘子歌一首  (割注あり 高安王者後賜姓大原真人氏)

   奥弊徃 辺去伊麻夜 為妹 吾漁有 藻臥束鮒
   おきへゆき へをゆきいまや いもがため わがすなどれる もふしつかふな

 土屋氏は題詞の「褁鮒」に言及していません。氏の歌本文の大意は、次のとおり。

 「沖の方へ行き、又岸に行き、いまのこと、妹の為に吾がすなどった藻臥束鮒(もふしつかぶな)でありますよ。」

 氏は、「伊麻夜」とは、「今、やっとのことでぐたいの意か」と言い、「「藻臥束鮒」とは藻に臥して居る一束即ち二寸程の鮒であらうと言われている。作者の造語であらうか、或いは当時の通用語か。・・・贈物に添へた歌であるからただそれだけの意味だらう」と指摘しています。

 氏の理解する題詞の作文パターンは、「作者名+物贈+・・・」であることが、これから判明します。785題詞第2案と同じ訓み方です。

「藻臥束鮒」とは、藻に隠れている一束ほどの大きさの鮒、という諸氏の指摘があります。「鮒」字は、「こいに似た淡水魚を指します。

 鮒が好んで藻の下に生息する魚であれば、藻を目標に「すなどり」をするのは当時でも常識でしょう。特記することではないのに、作者はそれを強調しています。そこにこの歌の暗喩があるのかもしれない、と予想できます。

⑦ 「藻臥束鮒」の意を確認します。

漢字「臥」には、隠れる意はありません。

 古語で「ふし」とは、四段活用の動詞「ふす」の連用形です。「ふす」の意は「a姿勢を低くする・腹ばいになる・うつむく、b身体を倒して横になる・横たわる、c下に隠れる・身体を隠す」などです(『例解古語辞典』 以下同じ)。

 「束」(つか)とは、接尾語として「a上代の長さの単位。四本の指で握ったほどの長さ b束ねたものを数えるときにいう語」です。

 それくらいの大きさの「鮒」を1尾だけ娘子に贈ったのでしょうか。また、作者高安王は、何を目的として娘子にこの歌を添えて「藻臥束鮒」を贈ったのでしょうか。

⑧ この歌と前後の各4首は、ブログ2023/1/23付けで一度検討しました。題詞を横においた歌本文の概略検討では、これらの歌すべてが宴席で朗詠・披露された(かつどの天皇の御代でも朗詠・披露できた)歌であり、題詞のもとにある歌としては、題詞のある人名などから聖武天皇の御代が善い御代であるのを象徴する歌、ということになりました。

 このため、2-1-628歌の五句「藻臥束鮒」とは、藻を目標に「すなどり」をするという当時の常識を思えば、鮒と同様にもう作者の手中にあると同然の状態の誰かを示唆している語句ではないか。その誰かは、歌を贈られた「娘子」となり、そろそろ良い返事をもらえる頃ではないか、と催促する歌と理解可能です。

 土屋氏の指摘するように、「藻臥束鮒」は作者の即興の造語であるかもしれません。

 題詞を横においた歌(披露された時点の歌)を、(官人が記録する際ではなく)巻四に配列するにあたり、その歌意を伝えるべく題詞に「褁鮒」を加えたのではないか。単純な題詞「高安王贈娘子歌一首」でも十分歌意が通じると思われるのに、わざわざ「褁鮒」を加えて「造語」の補足説明をしている感があります。

 巻四編纂者の意に留意した理解を題詞と歌本文にしたほうがよい、と思いますので、2-1-628歌の題詞の作文パターンは、「作者名+物贈+・・・」でなく、(2-1-785歌の題詞と同じ)「作者名+別の行為+贈+相手の名+歌」という新たな作文パターンと理解してよい、と思います。

 そのため、2-1-628歌の題詞の読み下しは、裹の熟語に倣った785題詞第1案に準じて、

「高安王の、鮒を褁み、娘子に贈る(際の)歌一首」

となります。

 そして、2-1-785歌の題詞も、

 「紀女郎の、「もの」をつつみ友におくる歌一首」 (785題詞第1案)

が有力となります。

 なお、検討している『新編国歌大観』(角川書店)記載の『萬葉集』において題詞に、読み下し文はありません。

⑨ 次に、2-1-785歌の歌本文について、題詞を横においての検討をします。

 初句~二句「風高 辺者雖吹」(かぜたかく へにはふけども」)を検討します。

 用字を検討します。最初に表記している漢字の意を確認します。

 漢字「風」の意は、「aかぜ bかぜがふく cかぜにふかれてすずむ dおしえeならわしfいきおい(威風)g病気の名hうた」などのほか「iほのめかす(諷) jそらんじる・暗唱する(諷)」の意もあります(『角川新字源』)。

 漢字「高」については、「たかい。「卑」「下」の対の語句。有形・無形・大小を通じていう」と「たかい」の同音異義の説明にあります。ちなみに漢字「崇」には「山や岩の険しく高いこと。転じて、崇重高貴の意となる。また積み上げる意がある」、とあります。

 漢字「辺」は「邊」字の俗字です(現代の日本では教育漢字です。)。「aふちbほとり・あたり(そば・はずれ・きし・みぎわ)cさかい・かぎり・ふちdつづく・となりあう」の意があります。

⑩ 古語の意を確認します。

「かぜ」には、「a吹く風 b(家風を訓読みした語である連語「いへのかぜ」として)その家に代代伝わる流儀 c病気の風邪」の意があります。 「かぜのたより」という風を擬人化した「風の使い」や「かぜまもる」という「(状況を)見定める」意の連語もあります。

「たかし」とは、「a物の丈が高い・また空の上方にある b身分が高い cすぐれている d(声や音が)おおきい e(評判が)高い・有名だ」の」意があります。

 名詞「へ」とは、「aあたり・ほとり・辺b岸に近い所」の意です。

 なお、現代語の形容詞「高い」には、「そのものが、比較の対象とする(一般に予測される)ものよりすぐれていると認められる状態だ(例えば能力がたかい)」とか「そのものの影響などの及ぶ範囲が、一般に予測される(比較の対象とする)ものより大きいとみとめられる状態だ(音・評判が高い)」という意もあります(『新明解国語辞典』(第八版)。

 そして、土屋文明氏は(題詞のもとにある歌本文として)初句~二句を「風が高く岸には吹くけれども」と大意を示しています。

 これらを踏まえると、初句~二句が景を描写しているだけとすれば、その意は、「風音高く、海岸に風が吹きつけるけれども」という意であろう、と推測します。

⑪ 次に、三句以下「為妹 袖左倍所沾而 苅流玉藻焉」を検討します。

用字で確認したいのは「妹」字と「玉藻」字と「焉」字です。

 古語「いも」は女性を親しんでいう語であり「せ」(兄)と対となる語です。「男性から姉妹・妻・恋人などに対していうのが普通。女性から女性に対していう場合もある」という語です。

 古語「玉藻」は、歌語であり「も」(藻)の美称です。藻とは水中に生えている植物の総称です。

 漢字「藻」は、「水中にはえる植物の総称・みずくさ」の意のほかに「あや・かざり」とか「詩・歌・文章のことばの意などもあります。

 漢字「焉」は、句末に用いる助字であり、「疑問・反語の意を表す」、「決定断定の意」あるいは「語調を整えるためにそえる」字です。

 古語「ぞ」は終助詞であり、体言に付く場合は「・・・なるぞ、・・・だぞ」と強く断言していう気持ちの言い切りとして用いられます。

 土屋氏は、(題詞のもとにある歌として)次のような大意を示しています。

「君の為に袖までぬれて刈った玉藻でありますぞ」

 題詞を横においた歌としても妥当な理解である、と思います。

⑫ そして、この歌の作者を推測すると、「妹」と言っているので、普通であれば男となるでしょう。そうするとこの歌は、男性が普段しない玉藻を刈るという仕事をして女性にそれを贈る際の歌ではないか。

 海岸にでて玉藻を刈るという仕事をするのは女性に限られたものではありませんが、男性には魚を獲る仕事があります。風音高く海岸に風が吹きつけるときは、漁をするのに安全面で不適であり、岸辺で玉藻を刈るのも不適ではないか。だから男性は海に出ないで陸上で仕事をするか、休業状態になり、女性も同じです。

 しかし、風音高く海岸に風が吹きつけるときでも、玉藻を刈るのは男性であれば、それも仲間と共にの作業であれば、安全面の心配は低下するでしょう。

 そうすると、「妹」が浜での仕事を休むとき、玉藻を刈りにわざわざ男性が岸辺に行くのは、玉藻刈りを仕事としている女性たちの手助けをすることになります。

 そして漁も玉藻刈りも集団で行う仕事なので、仕事がはかどったら(例えばこの1週間の予定収穫量を早めに達成するので)、男性の相手をする時間ができるでしょうという問いかけに、この歌はなります。

 このため、労働に関する伝承歌である可能性がこの歌にあります。

 男性が海岸から離れた集落に居る女性に玉藻を贈ろうとして自ら玉藻を刈るには、今日でいう漁業権が設定されていない岸辺で行わなければならず、可能性は低いでしょう。

⑬ だから、この歌は、漁を休まざるを得なかった男性たちが、空いた時間を利用して玉藻を刈って女性たちに届けようとしている歌といえます。

 仮に作者が女性であるとすると、その「妹」は、玉藻を刈る仲間の女性の一人が想定でき、玉藻を刈ることが困難になった高齢の女性とかを助けようとしていることになります。同一集落内のこととしては有り得ることですが、風の強い日を例としてこのように詠う可能性が高いのは前者ではないか。

 このため、現代語訳(試案)を試みると、次のようになります。

「風音高く、海岸に風が吹きつけるけれども、君の為に袖までぬれて刈った玉藻です(、これは)。」(以下題詞を横においた現代語訳という)。

 そして、この歌は、男女の掛け合いの際の歌の一つではなかろうか。

 土屋氏は、題詞に注記せず、歌本文については(題詞に基づいて)「人に玉藻を包んで送るに添へた歌であるが、全くの消息文である。」と指摘しています。 「消息」とは、現代語で「その時点において、どのような状態で暮らしているか(に置かれているか)についての情報」の意です(『新明解国語辞典』第8版)。

 「消息文」と評したのは、玉藻をどのようにして用意したかを単に記しただけ、ということでしょう。

 男性も女性も海に関わる仕事を休むほどの強い風が吹いた時の女性側に朗詠している歌であるので、題詞を横に置いた歌としては、消息文に収まっていません。

⑭ 次に、三番目として、題詞のもとの歌としての検討をします。

 題詞の読み下し文は、上記の785題詞第1案として、検討します。

 題詞の「「もの」をつつみ」の「もの」とは、歌本文の下句から「「妹」のために作者が刈った(刈らせた)玉藻」、となります。

 作者紀女郎は、紀氏を名乗る官人の家族の一人である女性ですので、玉藻を実際には「刈」らせた立場の人物でしょう。

 その玉藻は歌本文によれば、風の強い日に採取できた玉藻です。それは藻の上等品である条件とも思えませんので、何故それを強調して詠っているのでしょうか。

 紀女郎は、伝承歌を利用して、題詞にいう「友」に何事かを伝えているのではないか。

⑮ 「玉藻」は、当時食べ物としても利用されています。官人には現物支給もされています。よくある食料の一つである「玉藻」は、装束とか櫛や鏡という身の回りの品物にある貴重性がありません。それなのに、贈るにあたってなぜこのような歌をわざわざ詠んだのか、という疑問もあります。

 珍しくもない品物に、当たり前のことを詠う歌は、人に悟られず特別な意味をその歌や歌っている物事に込めることが可能です。情報伝達の手段になり得ます。例えば、大きな障害と二人が考えていた事柄がクリアしたことの連絡とか、隠し子が生まれたという母親側からの報告とかに用いることが可能な歌になるということです。

 だから、玉藻や、風が強い、ということに暗喩のあることが予想できます。

 また、題詞にいう「友」を「妹」と表現しているように、作者である紀女郎と「妹」は親密な間柄である、と推測できます。

⑯ 最初に「玉藻」を検討します。

「玉藻」とは、海藻類を指す歌語であり、藻の種類を問わない語句です。

「玉藻」とは、美称の「玉」+「藻」であるので、「藻」という語句に暗喩があり、その暗喩のあるものが「玉」のようなと評価できるのではないか。

 初句~二句で、風が強いのが玉藻を刈るのには制約なっている、と詠っています。玉藻(玉のようなもあるもの)を手に入れるのに通常は障害がある、という意となり、それを乗り越えてこれを贈る、という意を含んだ歌となり得ます。

⑰ まとめると、題詞のもとの歌としての理解では、次のような現代語訳となりました。

 「風音高く、海岸に風が吹きつけるけれども(初句~二句)、 君の為に袖までぬれて刈った(あるいは人に刈らせて得た)玉藻ですからね(三句~五句)(あなたのお役にたつものですよ)」

 題詞にいう「褁物」の「物」は、玉藻に暗喩されている大事な、価値のある物を指している、と推測できます。

 そして、それは、上記③にあげた意のうちの「(ある特定の)もの」か「しなもの」を指している、ということになります。題詞においては少なくとも物品を指している語句である、と理解できます。

 この歌が、献天皇歌のあとに配列されているので、天皇に関わる大事なものという理解はいかがであろうか。即ち天皇位に登るのに大事なものという暗喩です。

⑱ 題詞にいう「紀女郎」とは、そうすると、自らの子孫の即位を諦めた常世の国に居る持統天皇聖武天皇を暗喩しているのではないか。そして題詞にいう「友」とは、天武系の天皇を意味するのではないか。

 なお、漢字「風」と「高」の意を汲めば、初句「風高」とは、「評判がたかいと」、二句「辺者雖吹」とは、「このあたりではうわさになっているけれど」と意を推理することが可能であろう、と思います。しかし、朗詠される歌であれば、あり得ないことですが、この題詞のもとに文字化された歌であれば、検討を要するのではないか。

 今回は、2-1-628歌の題詞と歌本文について、ブログ2023/1/23付けでの前後の配列の検討に基づいて検討をすすめましたが、配列については改めて検討します。その際には、「褁」字の理解(用法)の再確認、並びに、未検討である2-1-622歌から始まる大伴坂上郎女の怨恨歌と2-1-646歌から始まる紀女郎の怨恨歌の理解を深めたい、と思います。

 「わかたんかこれ ・・・」をごらんいただき、ありがとうございます。

 次回は、「作者名+報贈歌」という作文パターンの題詞を検討します。

(2023/3/27  上村 朋)

付記1.万葉集巻四の2-1-724歌以降にある題詞の作文パターンについて(2023/3/13 現在)

① 『萬葉集』において最初の「献天皇歌」という4字のみの題詞は、巻四の2-1-724歌である。巻四でそれ以降の題詞には特殊な作文パターンの題詞が集中してある。

② 2-1-724歌以下の題詞を、作文パターン別にみると、次のとおり。

「献天皇歌」:2-1-724歌、2-1-728歌~2-1-729歌の題詞(2題):ブログ2023/2/20付けで検討

 「作者名+歌」:2-1-725歌の題詞(1題):ブログ2023/3/6付けで検討

 「作者名+相手の名+「賜歌」:2-1-726歌~2-1-727歌の題詞(1題):ブログ2023/3/6付けで検討

 「作者名+思+氏名+作歌」:2-1-768歌の題詞(1題):ブログ2023/3/13付けで検討

 「作者名+物贈+・・・」:2-1-785歌の題詞(1題):今回のブログ(2023/3/zz付け)で検討

 「作者名+報贈歌」:2-1-772歌、2-1-779歌、2-1-789歌~~2-1-791歌の題詞(3題):次回以降で検討

 「作者名+来報歌」:2-1-794歌~2-1-795歌の題詞(1題):同上

 「作者名+贈+相手の名+歌」(多数):同上

 「(作者名)+和+(相手の名)+歌」(多数):同上

③ 2-1-724以前の題詞には、「作者名+歌」、「作者名+贈+相手の名+歌」及び「(作者名)+和+(相手の名)+歌」という作文パターンが多数ある。

④ 題詞は、倭習漢文である。当時の官人が業務執行上用いていた漢文のスタイルである。

 

付記2.2-1-785歌の題詞の直後にある題詞と歌について

①『新編国歌大観』より引用する。

 2-1-786歌  大伴宿祢家持贈娘子歌三首

前年之 先年従 至今年 恋跡奈何毛 妹尓相難

をととしの さきつとしより ことしまで こふれどなぞも いもにあひかたき

土屋文明氏の大意:一昨年のそれ以前より今年まで恋い思っていたが、どうして妹に会い難いのだろう)

 2-1-787歌  同上

打乍二波 更毛不得言 夢谷 妹之手本乎 纒宿常思見者

うつつには さらにもえいはず いめにだに いもがたもとを まきぬとしみば

(同上[大意:実際にはさらにまた言うことはありませんが、せめて夢にだけでも妹の袂を枕として寝ているこを見るならば(この上もない幸せです))

 2-1-788歌  同上

吾屋戸之 草上白久 置露乃 寿母不有惜 妹尓不相有者

わがやどの くさのうへしろく おくつゆの みもをしくあらず いもにあはずあれば

(同上大意:我が家の草の上白く置く露ははかないが、そのように我が身も惜しくはありません。妹に会わないでいるならば)

② この3首は、題詞によって、「娘子」に贈った恋の歌となっている。文のやりとりができるものの、まだ逢えていない段階の歌と理解できる。3首の歌本文にいう「妹」が一人の女性(3首が同一の人物に贈った歌)であるとすると、一昨年から文のやりとりから進展がないのだから、作者家持はなんと忍耐強い人なのか。又、相手の「娘子」が迷惑がらず応対しているかにみえるのは不思議である。

③ この3首を、一つの題詞のもとにまとめているのは、編纂上の理由があると推測する。

④ 土屋氏は、2-1-649歌以下の4首について(左注より歌が社交の具と既になっているとして)「恋愛歌」のような所があっても実は単純な起居相聞の歌と見るべきである」と指摘する。この3首も単純な起居相聞の歌であれば、「娘子」とは同居していない家族の一人から三人と見てよい。2-1-785歌で土屋氏がいう「消息文」となる。少なくとも題詞を横においた歌本文は「消息文」といってよい。

(付記終わり 2023/3/27  上村 朋)