暑中お見舞い申し上げます。前回(2023/6/26)に引き続き『萬葉集』巻四にある紀女郎の怨恨歌を検討します。(2023/7/17 上村 朋)
1.~16.承前
『萬葉集』巻四には、「献天皇歌」という4字のみの題詞(とそのもとにある歌本文)から、ペンネームを使用して聖武天皇の後の御代に関する歌群のあることを確認しました。そのペンネームに巻四にある怨恨歌2題の作者の名もあります。
紀女郎のそれは2題目であり、その2首目を検討中です。
なお、『新編国歌大観』(角川書店)収載の『萬葉集』を対象に、検討しています。
17.巻四にある怨恨歌(続きその5) 紀女郎歌の第2歌の別案
① 今回検討するのは次の歌です(紀女郎歌全3首は付記1.に記載)。
2-1-647歌 紀女郎怨恨歌三首
今者吾羽 和備曽四二結類 気乃緒尓 念師君乎 縦左久思者
いまはわは わびぞしにける いきのをに おもひしきみを ゆるさくおもへば
前回、題詞を無視した歌として(『萬葉集』記載の歌の元資料の歌として)の検討を行い、恋の歌であっても作者の心境に2案あるとしてその1案の現代語訳(試案)を示しました(付記2参照)。
今回は、もう1案と恋の歌ではない案とを検討します。
② 下記の検討の結果、題詞を無視すれば、恋の歌として、作者の心境が、「意に満たず気乗りしないあじけなさを伴う感慨を詠う」心境であれば、次のような複数の現代語訳(試案)となりました。
B1案 「今となっては、私は、本当に(眼前の事実や現在の事態を)寂しく思うところだ。命にかけていとおしく思っていた貴方を、人並の男であったと認めると回想すれば(でも、このような結果は残念だけど)。」
B2案 「今となっては、私は、本当に(眼前の事実や、現在の事態を)寂しく思うところだ。勢い・働きの(ある)男として、いとおしく思う・愛する貴方を、緩やかにする(評価方法を変えて見直す)と回想すれば(それにしても、現在の事態は残念である)。」
また、恋の歌ではなく、社交的な歌であれば、次のような複数の現代語訳(試案)となりました。
C1案 「(この歌を披露する時点という)今であるので、私は、本当に本当に寂しく思うよなあ。」(という、どうしようもないようなつらさ・やるせなさを伴う感慨に浸ることだ)。命にかけていとおしく思っていた貴方をさしつかえないと認めた(あるいは許可した)ことを回想すれば。」
C2案 「(この歌を披露する時点という)今となれば、私は、本当に本当に寂しく思うよなあ。」(という、どうしようもないようなつらさ・やるせなさを伴う感慨に浸ることだ)。勢いのある男の子といとおしく思っていた貴方をさしつかえないと(あるいは許可すると)認めたことを回想すれば。
③ この怨恨歌3首は、前後の題詞からの検討(ブログ2023/5/29付け)で、直前の題詞の歌と一組の相聞歌群を成すかどうかが宿題となっています。それを歌本文で検討途中です。
検討は、諸氏の理解の例を紹介したのち、歌ごとに、元資料の歌を検討し、題詞のもとにある3首の歌としての整合性をみて、直前の題詞との関係を確認します。今回は元資料の歌の検討が主となります。
④ この怨恨歌3首の土屋文明氏と伊藤博氏の理解は、前回(ブログ2023/6/26付け「16.②と④)で紹介しました。
両氏の理解は、恋の歌として別離を悲しむも、相手を一切非難していない歌という点が共通です。また、恋の相手が不明のままであるのも共通です。そして、両氏が触れていない事項は、直前の題詞(とそのもとにある歌)との関係に関する考察がないことです。
また、前回の検討で、題詞を無視した2-1-647歌に関して、恋の歌を想定し次の表を得ました。それに基づき検討します。
初句と二句は、「われ、わびにけり」を強調した文であり、作者は「わびしかりけり」と詠むのは不適切であって、連語「にけり」を用い「わびにけり」が妥当と判断しているので、「連語「にけり」と動詞「わぶ」に留意して得た表です。
動詞「わぶ」も、形容詞「わびし」の説明にあるような、「どうしようもないようなつらさ・やるせなさ」と「意を満たず気乗りしないあじけなさ」を表している動詞といえます。
表 2-1-647歌各句の意の候補案 (恋の歌の場合 2023/6/24現在)
事項 |
A案 |
B案 |
作者の心境 |
作者は、どうしようもないようなつらさ・やるせなさを伴う感慨を詠っている |
作者は、意に満たず気乗りしないあじけなさを伴う感慨を詠っている |
初句の「今」 |
「にけり」という感慨を持った時点 |
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二句にある連語「にけり」のきっかけ |
はっと気づいたのは ① 「ゆるさくおもふ」という行為から ② 詠われていない現在の事態から |
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二句にある「わび」の意 |
① 動詞とみなす (「侘ぶ:a嘆き、思い煩う。b寂しく思う。つらがる。c困ったという様子を示す。迷惑がる。d落ちぶれる。」) |
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三句「気乃緒尓」の意 |
① 命にかけて(土屋氏) ② 勢いのある男の子と(試案1) ③ 働きのある男子と(試案2) |
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三句が修飾する語句 |
① 四句の「念」 ② 四句の「念」と五句の「縦左久」 ③ 五句の「縦左久」 |
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四句の「念」の意 |
① こころに思う。 ② いとおしく思う。愛する。 ③ 心配する。憂える。 |
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五句の「思」の意 |
① 回想する。なつかしむ。 ② (「念」の意が上記①または②の場合での別候補)心配する。憂える。 |
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五句の「ゆるす」の意 |
① 緩す。ゆるやかにする。ゆるめる。 ② 解き放す。自由にする。 ③ 人並と認める。承認する。 ④ |
⑤ この歌を恋の歌として検討すると、事項「作者の心境」のA案、即ち作詠時点においても恋の相手へ心を寄せているという理解が第一候補となるとして前回検討し、今回B案を検討します。
⑥ B案は、初句と二句からなる一文が、意に満たず気乗りしないあじけなさを伴う感慨を詠っている、と理解しています。
連語「にけり」を用いているきっかけは、「詠われていない現在の(ある)事態」に気づいたからでしょう。その現在の事態から相手を「ゆるさくおもふ」ということになり、一つの感慨を詠っていることになります。
句ごとに現代語訳を試みると、つぎのとおり。
初句 今者吾羽 (いまはわは) :今となっては、私は、
二句 和備曽四二結類 (わびぞしにける):(眼前の事実や、現在の事態から受けるのは)本当に寂しく思うことだなあ。
三句 気乃緒尓 (いきのをに):命にかけて
四句 念師君乎 (おもひしきみを):いとおしく思っていた貴方を
五句 縦左久思者 (ゆるさくおもへば):人並と認められると回想すれば。あるいは解き放つ・自由にすると回想すれば。(でも、このような事態は残念だけど。)
いとおしく思っていた人物を、今になって人並と改めて評価するのは当時過大評価していたのでしょうし、解き放つと評価するも同じでしょう。
少し意訳をすれば、
「今となっては、私は、本当に(眼前の事実や現在の事態を)寂しく思うところだ。命にかけていとおしく思っていた貴方を、人並の男であったと認めると回想すれば(でも、このような結果は残念だけど)。」
⑦ これはこれで一案です。
三句と四句を再度検討します。
三句「気乃緒尓」(いきのをに)に関して、土屋文明氏は、「玉と玉とを貫く玉の緒の如く、呼吸と呼吸とを貫くに緒を想定しそれを生命と見ての表現であらうか。」と指摘しています。氏の現代語訳では「命にかけて」としており、上記の表ではそれを第一候補にしています。
「気乃緒」(いきのを)は、連語「息の緒」であり、「命の綱。命の限り。」の意(『例解古語辞典』)と異なるので、「連語」と決めつけなくともよいのではないか。
「気」(いき)は、「aいき・呼吸。b勢い・働き」の意です(同上)。
「緒」(を)は、「a糸。b(糸からの連想で)「長く続くもの、絶えないもののたとえ」の意です(同上)。
そして、日本語「を」には、「緒」のほか「男」や「麻」という同音異議の語句もあります(同上)。そのため、三句「気乃緒尓」(いきのをに)」は、
「勢い・働きが長く続くものとして」、あるいは「勢い・働きの(ある)男として」というような意に理解ができるかもしれません(それが上表の試案1と試案2です)。
そうすると、三句以下は、
「勢い・働きが長く続くものとして、いとおしく思う貴方を解き放す・自由にすると回想すれば。」
あるいは
「勢い・働きの(ある)男として、いとおしく思う貴方を、緩るやかにする(評価方法を変えて見直す)と回想すれば・なつかしめば。」
となり得ます。
⑧ 改めて、少し意訳した現代語訳を試みると、次のようになります。
「今となっては、私は、本当に(眼前の事実や、現在の事態を)寂しく思うところだ。勢い・働きの(ある)男として、いとおしく思う・愛する貴方を、緩やかにする(評価方法を変えて見直す)と回想すれば(それにしても、現在の事態は残念である)。」
この理解は、現在の事態から「君」の今日を推測して、作者の意に満たず気乗りしないあじけなさを伴う感慨が生じたということです。
この理解は、作者と「君」の間の恋のもつれは昔のこととして、作者の身の回りに居るような人に対して、現在の事の推移から生じた述懐として伝えた歌、と推測できます。
⑨ これは、四句にある「君」の行動を、当初の目的にむかって努力をしたが(私への愛を貫こうとしてくれたが)、そうできなかった貴方の事情が現在の状況から理解でき、許す気持ちになった、ということをまわりくどく言っている、という理解になります。なお、上記⑥の現代語訳(試案)でも同じです。
⑩ このため、恋の歌である元資料の歌は、上記⑥と⑧の現代語訳(試案)、即ち、B案の歌としても理解できました。昔々の恋の思い出であるので、恋の歌というよりも、それに関した談話を今発表するという挨拶歌の類とみることもできます。
⑪ 題詞のもとにある歌としての理解に、このふたつの(試案)は可能かどうかを確認します。
題詞の現代語訳は、一首目の2-1-646歌の検討の際に、
「紀女郎の詠う、自分の行動を悔やんだ歌3首」
と提案しています。題詞は巻四編纂者が記した倭習漢文であるので、坂上郎女の怨恨歌の題詞と同じ理解(ブログ2023/5/8付け「12.⑨」参照)でよい、と思います。
上記⑥及び⑧の現代語訳(試案)は、この題詞のもとの歌としても、昔の失恋を詠う恋の歌と理解可能です。巻四にある2-1-647歌として、B案も理解可能です。
⑫ 次に、編纂されて巻四の歌2-1-647歌とされた元資料の歌としては、既に指摘したように、恋の歌と決めつける必然性はない、という観点から、検討を行います。
ブログ2023/6/26付けの「16.⑫」での指摘のように、相手を「ゆるす」歌であるので、宴席での歌や社交的な場での挨拶歌などの可能性もあります。例えば宴席の歌であれば、宴席でのゲームに負けた相手とか、急務により途中退席を余儀なくされた人物に対して披露した歌という推測です。
そもそも日本語「ゆるす」を用いて詠う歌は、相聞の歌に限りません。
「ゆるさくおもった」結果「わぶ」という状況に作者はいるという理解になります。
⑬ そうすると、作者の心境は、社交上A案、即ち「作者は、どうしようもないようなつらさ・やるせなさを伴う感慨を詠っている」のであり、そのうえで「ゆるす」と言っていることになります。
五句にある語句「ゆるす」の意を確認すると、『萬葉集』で、歌本文にある「縦」字を「ゆるす」と訓む用例は、五首しかありません(前回ブログの付記2.参照)。
動詞「ゆるす」とは、「a緩す。ゆるやかにする。ゆるめる。b解き放す。自由にする。cさしつかえないと認める。許可する。d赦す。(罪や義務などを)免ずる。赦免する。免除する。e人並と認める。承認する。」の意があります(『例解古語辞典』)。恋の歌であるからと上記の表ではそのうち「a,b,e」ではないかと絞りました。
用例の最初の歌が坂上郎女の怨恨歌(長歌)であり、その意は上記の「cさしつかえないと認める。許可する」と言えます。
二番目の歌が紀女郎の怨恨歌の2首目のこの歌です。その意の理解について多くの方の理解は、上記のcではありません。
三番目~五番目は「許可する・(罪や義務などを)免ずる」または「さしつかえないと認める・許可する」という上記の「c」です。
今 恋の歌でないとして検討していますので、他の用例と同じように2-1-647歌の場合も上記のcの理解も可能であるのではないか。
⑭ そのうえで句ごとに逐語訳すると、次のとおり。
初句 いまはわは :(この歌を披露する時点という)今であるので、私は、
二句 わびぞしにける :本当に本当に寂しく思うよなあ。」(という、どうしようもないようなつらさ・やるせなさを伴う感慨に浸ることだ)。
三句 いきのをに :命にかけて
四句 おもひしきみを :いとおしく思っていた貴方を
五句 ゆるさくおもへば :さしつかえないと認めた(あるいは許可した)ことを回想すれば
⑮ このような理解であれば、作者が目にした現在の状況から過去の自らの行動に関する感慨を詠った歌であり、親しい者との会合や手紙に付した歌という披露の場が想定可能です。それは恋の歌ではなく土屋氏が指摘する「2-1-652歌の左注は、上掲4首の作歌動機を察する糸口とならう。歌が社交の具となり、歌のために歌を作る風習の既に存したことが知られる」の一例であり、社交的な挨拶歌の類であり、相聞歌の範疇の歌です。
さらに、三句「気乃緒尓」の意を上記の表の試案1あるいは試案2を想定すれば、つぎのような逐語訳が得られます。
初句 いまはわは :(この歌を披露する時点という)今となれば、私は、
二句 わびぞしにける :本当に本当に寂しく思うよなあ。」(という、どうしようもないようなつらさ・やるせなさを伴う感慨に浸ることだ)。
三句 いきのをに :勢いのある男の子と
四句 おもひしきみを :いとおしく思っていた貴方を
五句 ゆるさくおもへば :さしつかえないと(あるいは許可すると)認めたことを回想すれば
⑯ 四句にある「君(きみ)」は、前者の理解では、作者に親しい人物と推測できます。後者の理解では、親しい人物あるいはそれほどでもないがよく知る人物と推測できます。そして後者の理解は三句にある「気乃緒(いきのを)」の理解が『萬葉集』においては特異となります。また、現在の状況に「君」との関わりがあるようですが、歌本文だけでははっきりしません。
係助詞「ぞ」によって作者の心境を強調していること、及び、現在の状況と「君」との関わりが不明なことから、初句と二句で一文を成し、なぜならば、と一呼吸おいて、改めて三句以下でその心境のよってきたる所以を述べた一文を付け加えている、という二つの文から成る、という理解をしたいと思います。
⑰ この題詞における3首はその整合性を重視して理解してしかるべきであり、その検討まで元資料の歌の仮の現代語訳(試案)として、恋の歌の理解2種とそうでない理解1種を残すこととします。
⑱ 次に、このような理解で、題詞のもとにある歌となっているか、です。
題詞の意は、上記⑩に記したとおりです。
上記の元資料の歌の3種の理解であっても、題詞のもとにある歌として「作者が悔やんだ歌」と理解可能です。
紀女郎が詠ったという題詞は、巻四の編纂者の作文であり、編纂者の独特の意見である可能性がありますが、この2-1647歌は元資料の歌がそのまま収載されている、という推測も可能です。
次回は、3首目の歌を検討します。
ブログ「わかたんかこれ ・・・」とご覧いただき、ありがとうございます。
(2023/7/17 上村 朋)
付記1.紀女郎の怨恨歌について
①『萬葉集』より
2-1-646歌 紀女郎怨恨歌三首 (鹿人大夫之女名曰小鹿也安貴王之妻也)
世間之 女尓思有者 吾渡 痛背乃河乎 渡金目八
よのなかの をみなにしあらば わがわたる あなせのかはを わたりかねめや
2-1-647歌 同上
今者吾羽 和備曽四二結類 気乃緒尓 念師君乎 縦左久思者
いまはわは わびぞしにける いきのをに おもひしきみを ゆるさくおもへば
2-1-648歌 同上
白妙乃 袖可別 日乎近見 心尓咽飯 哭耳四所泣
しろたへの そでわかるべき ひをちかみ こころにむせひ ねのみしなかゆ
② 参考:土屋文明氏の大意(氏は、「怨恨は失はれた恋に対する恨み」と坂上郎女の怨恨歌において指摘している)。
2-1-646歌 「世間普通の女であるならば、吾が渡る痛背の川を渡りかねはすまいが、吾は夫に去られて居るので、其の連想のある此の川をば渡りがたくするのである。」
2-1-647歌 「今は吾はやる方なくなってしまった。命にかけて思った君を離してやると思へば。」
2-1-648歌 「袖を分けて別るべき日が近いので、心にむせつまって、ただ泣きのみ泣かれる。」
付記2.ここまでの紀女郎の怨恨歌3首の検討結果
① 紀女郎の怨恨歌はブログ2023/6/12付け以降で検討している。先行して坂上郎女の怨恨歌をブログ2023/5/8付けで検討している。
② 題詞のもとにある1首目の現代語訳(試案)は次のとおり。
2-1-646歌 紀女郎の詠う、自分の行動を悔やんだ歌3首
「世間なみの成人女性であれば、私が渡ろうとしている川が、ああ、「背」の君の(渡って通ってきた或いはあの女性に通う)河ということで、渡るのに躊躇するであろうか。しかし私は躊躇しつつ渡るのである。」
この(試案)は、別れる選択を相手がしたことを、作中人物は未練があるのに認めた場合の歌という理解であり、作中人物は、相手をよい思い出のある人物と認識して、河を渡ったことになる。
しかし、3首全体の整合性検討が済んでいないので、仮置きした案である(ブログ2023/6/12付け「15.⑰」参照)
③ 巻四にある「題詞のもとの歌」としては社交の場の歌であり、実際に紀女郎が「河を渡る」決意をした際の歌ではない、と理解してよい。2-1-670歌の左注にあるような、「いささかに戯歌を作りて、もちて問答をなせるなり」の類の歌ではないか。
④ 二首目は、検討中であり、題詞を無視した歌として検討した1案を得ている。本文にいうA案である。
A案:「今日となっても、私は本当に本当に思い煩うことだなあ。
命にかけて、いとしく思っていた貴方を、あの時目を離してしまったのだった、と回想するのだから。
(現在の貴方をみると、それで良かったのだと気づいたが、でも残念だなあ。)」
これは、恋の歌であり、作者の心境は「作者は、どうしようもないようなつらさ・やるせなさを伴う感慨を詠おうとしている」として理解したものである。朗詠された時の雰囲気で理解が左右されるところであるので、私の作者への思い入れによる(試案)である。(ブログ2023/6/26付け 「16.⑯と⑰参照」)
⑤ 題詞のもとにある歌としてもA案は、恋を貫きたかったということを詠った歌とも理解できる。(同ブログ「16.⑱」参照)
(付記終わり 2023/7/17 上村 朋)