前回(2022/7/18)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 雖も 萬葉集巻三の配列その13」に続き、今回「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 皇位継承 萬葉集巻三の配列その14」と題して記します。
歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋)
1.~24.承前
『萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、各歌について判定した表E(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を得ました。そして、「関係分類A1~B」の歌30首は、天皇の代を意識した4つのグループに分かれました。それ以外の歌においても2-1-386歌まで順に各グループに分けられることを確認しました。
各グループは天皇の代の順に配列されており、各筆頭歌は、2-1-235歌、2-1-290歌、2-1-315歌および2-1-378歌です。
25.「分類A1~B」以外の歌 2-1-387歌の現代語訳(試案)
① 巻三雑歌の天皇の代を意識した4つ目のグループは、聖武天皇以降の天皇を象徴する「寧楽宮」に居られる天皇の代の歌、と予想しているところです(ブログ2022/3/21付け「3.③」参照)。
「その天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌」という判定は、前回同様に、題詞のもとにおける歌意で「聖武天皇以降の天皇」の代に関する歌という可能性で判断することとします。ほかの代の可能性の有無は関係ありません。
② 2-1-387歌の検討を続けます。歌は、次のとおり。
2-1-387歌 山部宿祢赤人歌一首
吾屋戸尓 韓藍蘇生之 雖干 不懲而亦毛 将蒔登曽念
わがやどに からあゐまきおほし かれぬれど こりずてまたも まかむとぞおもふ
伊藤博氏などは、題詞を「山部宿祢赤人のうたう歌 一首」と理解し、歌本文の二句を「韓藍種生之」に改めたうえで論じています。訓は『新編国歌大観』と同じです。
ここまで、題詞の一次検討をし、歌本文二句にある「韓藍」はケイトウのほかにいくつかの示唆・暗喩が可能であり(2022/7/11付けブログ)、歌本文の三句「雖干」(かれぬれど)の「かる」を「枯る」と理解した場合を検討しました(前回の2022/7/18付けブログ)。
③ 歌本文の初句に戻り、順に検討をします。
初句「吾屋戸尓」(わがやどに)は、「吾」+「屋戸」+「尓」に語句分解ができ、それぞれ次のような理解が可能です。
「吾」とは、
連語「わが」:自称の代名詞「わ」+連体修飾語を作る格助詞「が」:私の。
名詞「わ(倭)」+連体修飾語を作る格助詞「が」。:倭国の。
「屋戸」とは、
住んでいる所。(庭を含めて)家
家の戸口。また、家・屋敷。
泊まる所。
「尓」は、ここでは、名詞についているので格助詞の「に」となり、連用修飾語を作ります。『例解古語辞典』には「基本的には現代語の「に」と同じとし、15項目の意をあげています。その最初に、
「ひろく、物事が存在し、動作し、作用する場を示す(空間的、時間的及び心理的な場を示す。また物事が及ぶ範囲の始めや終わりを示す。)」
二つ目に、「動作の作用の向かう方向を示す」
などなどと説明しています。
④ そのため、初句「吾屋戸尓」(わがやどに)は、
連語「吾」(わが)+名詞「屋戸」+格助詞「尓」
名詞「倭」+格助詞(連体格の助詞)「が」+名詞「屋戸」+格助詞「尓」
の理解が可能であり、例えば
作中人物(私)の住んでいる所の庭に、あるいは作中人物(私)の屋敷の敷地において
倭国における作中人物(私)の住んでいる所の庭に、あるいは倭という家・屋敷(倭という国の骨格)において
という理解ができます。
次に、「からあゐまきおほし」と訓んでいる二句「韓藍蘇生之」(あるいは伊藤氏らのいう「韓藍種生之」)は、前々回(2022/7/11付けブログ)検討しました。
名詞「韓藍」+動詞句「蘇生之」
と語句分解でき、「韓藍」にはケイトウという本来の意に重ねて別の意も込めることができ、また、動詞句には多義があります。
三句「雖干」(かれぬれど)は、前回(2022/7/18付けブログ)「枯れぬれど」の一例を検討しました。「雖」は漢字として確定の助字と仮定の助字の意があり、どちらでも理解可能でした。
そのほか、下二段活用の「離れぬれど」とか「乾れぬれど」という理解も、用いている漢字の字義に拘らなければ可能ではないか、と思います。
⑤ 四句「不懲而亦毛」(こりずてまたも)は、
動詞句「不懲」+助詞「而」+副詞「亦」+助詞「毛」
と理解できます。
このうち「懲」(こる」は同音異義の語句であり、
「懲る」:上二段活用 何かをしてひどい目にあり、二度とするまいと思う。こりる。
「凝る」:四段活用 a密集する。凝結する。
「伐る・樵る」:四段活用 (薪などにするため)木を切る。
の3義あります(『例解古語辞典』)。
伊藤氏らは、用いられている漢字の「懲る」の字義と理解されています。
そして、「亦」(また)」は、『萬葉集』では副詞「また」を表記する漢字「復・又・亦」の一つとなっています。巻一~巻四の歌に、この3文字で表記された歌が、それぞれ、2首、5首、4首及び4首あり、「またあえるか・・・」という文意になる場合が圧倒的に多く、例外はこの2-1-387歌の「こりないでまた・・・する」のみです。なお巻三では「復」1首、「又」無し、及び「亦」4首の用例となります(付記1.参照)。
この歌本文では「亦」とあるので、その字義を生かせば「他と同様に。同じく」の意が副詞として第一義となります。
「復」であれば、「再び」が第一義、「又」であれば、上記の二意のほかに「そのほかにもうひとつ。別にもうひとつ。」の意もあると、『例解古語辞典』は説明しています。
⑥ 次に五句「将蒔登曽念」(まかむとぞおもふ)を検討します。
この句を語句分解すると、
動詞句「将蒔」+格助詞「登」+係助詞「曽」+動詞「念」
となります。
「将蒔」の「蒔」の訓「まく」は、韓藍がケイトウの意であれば、「蒔く」の意と言えます。用いている漢字の字義を生かした訓となっています。
しかし、「まく」の意は、いくつかあるので、ここでも「韓藍」の意に応じた(その用字の字義に拘らす)別の意の「まく」という理解もできます。
⑦ 次に、格助詞「登」(と)は、体言または体言に準ずる語句に付いて連用修飾語をつくる語句です。
係助詞「曽」(ぞ)は、「もとは「そ」と清音であって、上代には「そ」と「ぞ」の両形が用いられ」(『例解古語辞典』)付いたごくを取り立てて強調する役割があります。係り結びとして次の語句「念」(おもふ)は連体形となっています。
「おもふ」 (四段活用)の意は、「基本的には現代語の「思う」と同じ」とし、次のようにいくつかの意をあげています。
心に思う。
いとしく思う。愛する。
心配する。憂える。
回想する。なつかしむ。
表情に出す。・・・という顔つきをする。
しかし、同辞典は「おもふ」の説明で、漢字混じりの表記は「思ふ」だけであり、『岩波古語辞典』(机上版 1982)も同じですが、要説して「胸のうちに、心配・恨み・執念・望み・恋・予想などを抱いて、おもてに出さず、じっとたくわえている意が原義。「おもひ」は内に蔵する点に中心を持つに対し、類義語「こころ」は外に向かって働く原動力を常に保っている点に相違がある。」とあります。
また、『角川新版古語辞典』(再版1999)では「思・念・想・憶」とあり、名詞「おもひ」にも「思・念」とありました。同辞典は動詞「おもふ」の語釈の頭書に「心にある思念を起す。論理的に筋道をたどって結論に至る過程をいう「かんがふ」に対して、ひとまとまりの内容を心に抱き持つ意を表し、論理よりも情意を主とすることが多い。連用形「おもひ」が他の動詞を伴って複合動詞を作ることが多いが、原義を保持しているもののほかに接頭語に近いものもある。」と説明しています。
⑧ 『萬葉集』巻一~巻四の歌本文での用字で、漢字「念」と「思」をみると、『新編国歌大観』の訓で、
「念」の訓「おもふ」は150首でみられ、「思」の訓「おもふ」は42首にみられるだけでした(付記2.参照)。
このため、『萬葉集』の巻一~巻四では、「念」の訓「おもふ」には、『例解古語辞典』等が立項している「おもふ」の意と同じとみます。
なお、漢字「念」の意は、『角川新字源』には、
おもう(心の中にじっと思っていて、思いがはなれない。胸にもつ。なお、「思」を「おもふ」と訓むと「くふう・思案する。おもいしたう・思慕・なつかしく思う。」)
おもい・かんがえ
となえる など
とあります。この字義の意の範囲の訓と言えます。
この歌で「おもふ」とは、今後韓藍をどう扱うかに関する作者(作中人物)の心構えを指しているのであろうと、推測します。
⑨ このような検討の結果、この歌本文で、用いている漢字の字義をよく生かしている『新編国歌大観』の訓のなかで、二句にある「蘇生(之)」の訓は際立っています。さらに、四句にある「懲」の訓なども字義を生かしていないかもしれません。
さて,歌本文に用いられている語句(及び使用している文字)のあらあらの検討が終わりましたので、次に、歌本文の文としての構成を、主語とそれに対する動詞を明確にしてみてみます。
仮訳を、「韓藍」は、ケイソウと仮定し、「雖」は二意のままとして、付します。5つの文からなる、といえることになりました。
文A 吾屋戸尓 韓藍蘇生之 (わがやどに からあゐまきおほし )
私は、韓藍(ケイソウ)を「まきおほす」ことをした。
(あるいは、誰かが自分の屋敷にケイソウを「まきおほす」ことをする、と仮定する。)
文B 雖干(かれぬれど)
それは、(事実として)「かる」ということになってしまった。しかし、
それは、(仮定として)「かる」ということになるとしても、しかし、
文C 不懲(而)(こりずて)
私は、それに「こる」という状態に陥らない。
文D 而亦毛 将蒔(またも まかむ)
そしてまた私は、それ、つまり韓藍(ケイソウ)を「まく」つもりである。
文E (将蒔)登曽念 (とぞおもふ)
私は、本当にそのように「おもふ」
⑩ 仮訳での「それ」は、いずれも二句にある「韓藍」が関係する事柄です。
また、文Eの「そのように」には、2案があり得ます。
第一案は、この歌の文が五つからなるので、文Dまでを総括したのが文Eと理解すると、歌本文は、
文A~D+文Eの構成(以下、第一構成案という)
ということになります。「そのように」は、経緯すべてを指しています。
第二案は、文Eと文Dは、歌の五句目を形成しており、文Eは、文Dのみのダメ押しをしている、と理解すると、歌本文は、
文A~C+文D~Eの構成(同、第二構成案)
ということになります。「そのように」は、「まく」という行為を限定して指しています。
前者は、「韓藍」との関係でいうと、経緯全体(あるいは仮定全体)を文Eが受けているので、文Eの作中人物が「韓藍」を(次の機会には)花が咲くよう必ず育てたい、という歌と理解できます。育てるのに苦労したという認識(あるいは苦労するものという仮定)が作中人物にあります。
後者は、文A~Cが文D~Eの前提条件であり、「まく」つもりであることを強調しています。
「韓藍」との関係でいうと、植えてみて失敗したという経験があるが(あるいは、よく失敗するという風聞があるとして)、文Eの作中人物は、「蒔く」ということに取り組まなければ何も起こらない、という気持ちであると理解できます。蒔くのが第一に重要である、という認識です。
どちらにしてもこの歌では、文Eの作中人物の決意表明の歌と理解できます。
⑪ 以上の語句・文の構成などの検討を踏まえて、二句にある「韓藍」の意別に、歌本文の各句を整理すると、付記3.の表を得ます。
「韓藍」の意は、これまでに検討したように大別して4案あります(2022/7/11付けブログ参照)。
韓藍第1案 新到の植物ケイトウ
韓藍第2案 近い過去に渡来した人物(たち)
韓藍第3案 魅力ある人物(恋の相手)
韓藍第4案 作中人物にとり価値ある人物(新人の官人など)
上記韓藍第2案以下は、「韓藍」にその意を込めて歌を詠むために、用いる語句とその用字は選択されているであろう歌、として推測した案です。
付記3.の表に基づき、この4案ごとに同音意義の語句の有力な組合せで現代語訳(試案)を示せば、以下のとおり。
⑫ 韓藍第1案の現代語訳(試案)
イ)韓藍第1案の現代語訳(試案):韓藍とは新到の植物ケイトウ&文章は第一構成案かつ「雖」は確定の助字:
「植えたが枯れた。しかしまた植えよう(花をみたい)。」 即ち、
「わが屋敷の庭に、新たに日本にもたらされたケイトウを蒔いて育てたところ、枯れてしまったが、それに懲りないで、またも種を蒔こうと思う(我が屋敷で花をみたい)。」
この(試案)は、作中人物が官人であれば(巻三編纂者は、題詞に山部赤人歌としています)、文意に無理はありません。
ㇿ)韓藍第1案の現代語訳(試案):韓藍とは新到の植物ケイトウ&文章は第一構成案かつ「雖」は仮定の助字:
「植えたのが枯れたとしても、チャレンジしよう(花をみたい)。(初句~三句が仮定)」 即ち、
「わが屋敷の庭に、新たに日本にもたらされたケイトウを蒔いて結局枯れてしまうことになっても、それに懲りないで、またも種を蒔こうと思う。(我が屋敷で花をみたい)」
この(試案)も、作中人物が官人であれば、文意に無理はありません。
しかし、作中人物が我が屋敷で咲かすことに拘っていることからすると、経験を詠んでいる歌(「イ)」の案)のほうが素直な詠いかたです。当時、官人の間でケイトウを我が屋敷で咲かせれば、貴人も観にきてくれる程の価値があったのでしょうか。
⑬ 次に、韓藍第2案の現代語訳(試案)です。
ハ)韓藍第2案の現代語訳(試案):韓藍とは近い過去に渡来した人物(たち)&文章は第一構成案かつ「雖」は確定の助字:a「雖」は確定の助字:
「倭という国の骨格において韓藍は、(何かを)蒔いて育てて空間的に離れたけれど、こりないで私が別に種をまこうと(あるいはまき散らそうと)心に思う。」 即ち、
「倭という国の骨格において、近い過去に渡来した人物(たち)は、何かを蒔いて育てても、空間的には離れた位置にいる。けれども、このような状態に懲りずに、又それとは別に種を蒔こうと私は心に思う。」
ふたたび種を蒔こうと(空間的位置を変更するために)私は心に思う。」
この(試案)は、国の中枢にいる「近い過去に渡来した人物(たち)」の行動の結果の現状を指摘し、それでも(同じ結果になろうとも)五句の作中人物は、何かにチャレンジしたい、と詠う歌と理解できます。五句の末字「念」字の主語となる人物は、「近い過去に渡来した人物(たち)」を支えようとしています。
この歌を鑑賞する現在から推測すれば、生母が百済系渡来の氏族である和氏出身の高野新笠である山部親王への皇位継承を後押ししようとする官人の決意表明の歌に理解可能です。
官人である五句の作中人物は、この歌を人にみだりに示せないでしょう。
何かの会合で、この歌を披露したとするならば、面前で、「雖」を、確定の助字として理解してよい、眼前の出来事か既定の事に関する話題の提供があったはずです。二句にある「韓藍」は、表面上はケイトウの意ですが、必然的に何かを暗喩していることになります。
ただこのような歌を披露する会合が題詞にある山部宿祢赤人の活躍した時代にあったとは思えません。聖武天皇没後であれば選択肢の一つとして官人は考えたかもしれません。そうすると、元資料の歌は、天平以後の作詠(披露)となってしまいます。当初の巻三に無い歌であった可能性が強い歌です。
なお、「雖」は仮定の助字の意とすれば、「近い過去に渡来した人物(たち)が、何かを蒔いて育てた」ことを仮定のこととして上記「ハ」案を婉曲に言っていることになります。
⑭ 次に、韓藍第3案の現代語訳(試案)です。
ニ)韓藍第3案の現代語訳(試案):韓藍とは魅力ある人物(恋の相手)&文章は第二構成案かつ「雖」は確定の助字:
「相手と結ばれずに終わった。しかしまた相手を変えてチャレンジしよう。」即ち、
「私の家の庭に韓藍を植えたが枯れてしまった。おなじように新鮮で魅力あるあの人を見染めて接触・交渉を試みて、相手にされなかった。それでも懲りないで、またほかにも魅力ある人はいる。その人にチャレンジしよう、と心に思う。」
この(試案)は、浮気の場合を思えば文意に無理はありません。しかし、相手は誰でもよいのか、という印象が残り、恋の歌としてはあまりいただけません。この歌を贈る相手は、競争相手となる同性の人物でしょうか。
ホ)韓藍第3案の現代語訳(試案):韓藍とは魅力ある人物(恋の相手)&文章は第二構成案かつ「雖」は仮定の助字:
「相手にされないとしても、また(その相手に)チャレンジしよう。」即ち、
「吾が家の庭に種から育てた韓藍のように、見初めた相手に接触・交渉を試み、たとい相手にされなくとも懲りないで同一人物にさらに(これからも)アプローチしよう、と心に思う」
この(試案)は、相手への思慕を恋焦がれて気が狂いそうだというような表現を避け、執拗に接触・交渉を試みることを宣言しています。ただ、相聞の歌で「懲りないで」という表現は、場合によっては無理押しをするかの印象を与えかねませんが、歌の遣り取りが重なる中であれば、誤解は避けられるでしょう。
あるいは、男であれば複数の女性のもとに通い婚が成立していた当時において、政略的に結び付きたい場合もあるのでしょうから贈り物をいっぱい用意している、というシグナルの歌と理解したらよいのでしょうか。この理解では普通の相聞の歌とは違う歌となってしまいます。
⑮ 韓藍第4案の現代語訳(試案)
ヘ) 韓藍第4案の現代語訳(試案):韓藍とは、作中人物にとり価値ある人物(新人の官人など)&文章は第二構成案かつ「雖」は確定の助字:
「その人物を育てよう。」 即ち、
「吾が屋敷地(吾が家族)にいるある人物を教育・指導・推薦したが、ああ、(望みの)官位官職などに就けなかったとしても懲りないでその人物をさらに(これからも)応援しよう」
この(試案)は、作中人物が官人であれば、文意に無理はありません。不肖の息子あるいは娘をこれからも後押しを続けよう(続けなければならない)という親の歌にみえます。
その花を愛でる韓藍に身内の者を例えているので娘のことを詠っているのではないか、と思えます。
⑯ このように、韓藍の意は、第1案の用字通りの「新到の植物ケイトウ」から第4案の「作中人物にとり価値ある人物(新人の官人などのうち娘)まで、どれでもこの歌を用いる場面が想定可能であり、歌の理解が出来ない訳ではありませんでした。
各案での作詠時点を推測すると、第1案の用字通りの「新到の植物ケイトウ」という認識が平城京を都であった時代にはあったとすると、巻三の部立てが成立した時点(天平17年ころ)と伊藤博氏が指摘する時点の前でも後でも該当します。伊藤氏は、この歌は後の追加とみています(作者は赤人説に氏はたっています)。
第2案の意が含意している歌とみると、作詠時点は少なくとも聖武天皇の御代が過ぎて後が作詠時点となるのではないか。
また、元資料の歌が伝承されてきたとして、第2案の意が含意できる、と意識的に認識した時点も聖武天皇の御代が過ぎて後のことでしょう。
⑰ 以上は、歌本文の文章からの可能性をみたものであり、巻三の雑歌の歌という条件及び題詞との関係は未検討です。
元資料の歌の推測と題詞の理解に立ち戻ります。
『萬葉集』巻三の編纂者の手元にあった元資料の歌は、「韓藍」という「新到の植物のケイトウ」に寄せた思いと理解する歌が、第一候補になります。
それは上記第1案のみの意の歌であり、「花が珍しい新到の植物」を屋敷に咲かせようとした官人の歌となります。来年を期した挨拶状に付けた歌という見立てです。例えば赤人クラスの官人の屋敷に咲かせられるような花ではないとすると、赤人の代作、となります。
この歌を、天平16年以前の作詠(披露)とするのは、題詞「山部宿祢赤人歌一首」から「山部宿祢赤人」の作である、という判断(推測)です。
その題詞の構成は、巻三の次の歌の題詞「仙柘枝歌三首」と同じです。歌数が単数と複数の違いがあるだけですが、この二つの題詞の理解が諸氏は多くの場合異なっています。この二つの題詞のもとにある歌本文の理解からそうなる、という論理です。しかし、それが徹底しているかどうか、「韓藍」の理解からして疑問です。
⑱ そもそも、雑歌の部に、単に「韓藍」(ケイトウ)を鑑賞したい、という歌を配列する必然性はありません。雑歌に配列されている歌には、この歌まで天皇の治世との関連がすべて指摘出来ています。この歌も、天皇との関連がある歌として理解してよい、と思います。編纂者が含意する意を踏まえてここに配列した、と考えられます。
そのため、元資料の歌において、既に、「韓藍」という「新到の植物のケイトウ」に寄せた思いに合わせて一つの含意がある歌であったという理解が、元資料の第二候補となります。
この歌での天皇の治世との関連とは、上記⑫で指摘したように、山部親王への皇位継承問題であり、巻三編纂の最終的段階に生じたことであり、この歌はそのころの作詠(披露)と推測できます。にも拘わらず巻三に左注をした人物は、題詞より「山部宿祢赤人」の作という考え方に疑問を呈していません。疑問に触れるのを避けているともとれますが、赤人作という伝承歌に含意があるということは(左注をした平安時代には)付随していなかったのではないか。
だから、編纂者が含意を認めた歌(即ち第一候補の歌)であって、赤人に仮託したしたのではないか、と思います。作詠時点は今のところ不明ということになります。
題詞「山部赤人歌一首」という倭習漢文は巻三編纂者の作文であることに留意してよい、と思います。題詞の理解は、赤人作と伝えられている、というトーンがあっておかしくはなく、それを次の題詞とその許にある歌が一体となって補強しています(2022/7/11付けブログ参照)。
⑲ 検討結果を整理すると、次のとおり。
第一 元資料の歌は「韓藍」(ケイトウ)を詠っている。しかし、歌本文のみから、「韓藍」にケイトウ以外のイメージが付与できる。
第二 付与されたイメージのうちの「近い過去に渡来した人物(たち)」により、この歌は巻三雑歌の要件を満足するものとして、ここに配列されている。付与されたイメージの歌は、天智天皇の孫にあたる白壁王の子が皇位継承者の候補として認知されるようになる白壁王の即位(770年)後の官人の関心事を詠っている。
第三 題詞は、付与されたイメージを排除しない。編纂時点からみると元資料の歌は伝承歌であることを言っている。
⑳ 次に、この歌が、巻三雑歌の天皇の代を意識したグループのどこに属するか、確認します。
「その天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌」という判定は、上記①に記したように、「前回同様に、題詞のもとにおける歌意で「聖武天皇以降の天皇」の代に関する歌という可能性で判断することとします。ほかの代の可能性の有無は関係ありません。
上記⑱の第二と第三より、題詞もとにおける歌意で「聖武天皇以降の天皇」の代に関する歌と言えます。
このため、この2-1-387歌は、巻三雑歌の天皇の代を意識した4つ目のグループ「聖武天皇以降の天皇を象徴する「寧楽宮」に居られる天皇の代の歌」となります。
そして題詞「山部宿祢赤人歌一首」とは、次の題詞にならったものであり、ブログ2022/7/11付け「23.③」に示した「誰かが披露したという、山部宿祢赤人に関する歌 一首」という理解が妥当であろう、と思います。
㉑ なぜ、山部宿祢赤人を、巻三編纂者は作者としているのか。
山部宿祢赤人の歌には、巻三に2-1-381歌があります(ブログ2022/5/16付け参照)。聖武天皇が、光明子の産んだ男子を皇太子に定めた際の予祝の歌と理解した歌です。この歌が当初は巻三掉尾の歌であったと伊藤氏が指摘しています。
この歌も、聖武天皇の御代における有名な歌人山部宿祢赤人に、巻三編纂者は予祝を‘依頼’したのではないか。この2-1-387歌と2-1-381歌に共通していることは、将来の天皇が示唆されていることです。
共に聖武天皇が、皇位継承者として御認めになっている人物(のはず)である、と巻三編纂者は、言っているかに見えます。
㉒ この歌は、表E(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)では、「恋の歌」として関係分類を「I 天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を詠う歌群」と判定し、備考欄に「暗喩が不明」と記載しました。
今回の検討により、関係分類は変更を要しませんが、「韓藍を愛でようという歌 赤人作」と訂正し、備考欄の記載も「暗喩は皇位継承問題関連」と訂正します。
ブログ「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。
次回は次の歌2-1-388歌などを検討します。
(2022/7/25 上村 朋)
付記1.副詞「また」の用例
『萬葉集』巻一~四の歌における副詞「また」の用例は次の表のとおり。題詞における用例は、巻一と巻二になく(左注にはある)、巻三と巻四に「又」があり巻四に「亦」がある。
巻一~巻四の歌における副詞「また」の用例 (2022/7/25 現在)
巻 |
用字:復 |
用字:又 |
用字:亦 |
計 |
巻一 |
2-1-37復還見牟 |
無し |
2-1-31亦母相見八毛 |
2 |
巻二 |
2-1-143復将見鴨 |
2-1-146又将見香聞 2-1-185又将見鴨 |
2-1-141亦還見武 2-1-195亦毛将相八方 |
5 |
巻三 |
2-1-334復将変八方 |
無し |
2-1-291亦毛将見 2-1-387将蒔登曽念 2-1-486今亦更 |
4 |
巻四 |
2-1-543 復者不相香常 2-1-711復毛将相 |
2-1-612又更 2-1-704又外二将見 |
無し |
4 |
- 元資料は『新編国歌大観』記載の『萬葉集』。
- 「亦」字の用例は別途固有名詞「亦打山」として、2-1-55歌と2-1-301歌にある。
付記2.『萬葉集』巻一~巻四における「念」字と「思」字の歌本文における用例数(2022/7/25現在)
巻(部立) |
念 |
念 |
思 |
思 |
訓 |
おもふ |
ねむ |
おもふ・しのふ |
し(万葉仮名として) |
巻一(雑歌) |
11首 |
-- |
3首 |
11首 |
巻二(相聞) |
7首 |
-- |
3首 |
5首 |
巻二(挽歌) |
19首 |
-- |
6首 |
5首 |
巻三(雑歌) |
17首 |
-- |
7首 |
4首 |
巻三(譬喩歌) |
9首 |
-- |
8首 |
8首 |
巻四(相聞) |
87首 |
1首 |
20首 |
17首 |
歌数計 |
150首 |
1首 |
47首 |
50首 |
注1)元資料は『新編国歌大観』記載の『萬葉集』。
注2)題詞での用例は「思」(おもふ)だけである。
注3)1首のうちに「念」字と「思」字がありその訓がともに「おもふ」という歌もある。
注4)「思」字のうち「しのふ」と訓む歌は、2-1-54,2-1-196,2-1-233,2-1-370,2-1-467歌の5首である。
注5)このほか、「憶」字を「おもふ」と訓む歌もある(2-1-199,2-1-504)。また、「於毛保」字の歌もある(2-1-657)。
付記3.韓藍の示すところ別に2-1-387歌本文の各句を整理した表(2022/7/25 現在)
表 2-1-387歌各句別の検討表
句別 |
意を検討する主な語句 |
韓藍第1案 |
韓藍第2案 |
韓藍第3案 |
韓藍その他の案 |
各案作成の第一要素 |
韓藍 |
新到の植物ケイトウ |
近い過去に渡来した人物(たち) |
魅力ある人物(恋の相手) |
作中人物にとり価値ある人物(新人の官人など) |
初句:吾屋戸尓 |
句全体の意 |
a吾が家の庭に bわが屋敷地に、 |
a吾が屋敷地に、 b倭という国の骨格において、 |
a韓藍第1案に同じ |
韓藍第2案の「a」に同じ
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二句:韓藍蘇生之 |
蘇生(熟語として) |
<採らない> |
よみがえる。いきかえる。 |
よみがえる。いきかえる。 |
<採らない>
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蘇生(訓「まきおほし」として) |
「蒔き生(おほ)し」種を土に植えて育てて、 |
a「蒔き生し」(何かを)蒔いて育てて、 b「播き生し」(何かを)あちこち散らし大きくして、 c「枕き生し」抱いて寝て大きくし、 d「訓を再検討の場合」→下記注5) |
「蒔き生し」種から育て(きっかけから今まで)、 |
「蒔き生し」教育し引き立て |
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句全体の意 |
a新到の植物ケイトウを蒔いて育てて、 b新到の植物ケイトウをあちこち散らしてしまって、 |
a(何かを)蒔いて育てて、 b(何かを)あちこちまき散らし、 c(何かを)抱いて寝ておおきくして、 |
見初めた相手に接触・交渉を試み、 |
人物を教育・指導・推薦し |
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三句:雖干 |
雖 |
a確定の助字(・・・けれども) b仮定の助字(たとい・・・としても) |
同左 |
同左 |
発語の助字、「ただ(唯)」など |
干(漢字として) |
a<採らない> bほす。 |
もとめる・おかす。
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<採らない> |
ほす。 |
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干(訓「かる」として) |
「枯る」 |
「離る」はなれる。 |
「離る」男女の仲が疎遠になる。 |
「乾る」干あがる(伸び代無し) |
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句全体の意 |
a枯れ(て花を見れなかっ)たけれども、 bたとい枯れるとしても、 |
a(空間的に)離れたけれど、 bたとい、(空間的に)離れるとしても、 |
a相手にされず b たとい相手にされなくとも |
a官位官職に就けなかったとしても bたとい、期待に反しても |
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四句:不懲而亦毛 |
懲(訓「こる」として) |
「懲る」こりる |
a「懲る」こりる b「凝る」密集する |
「懲る」こりる |
同左 |
亦(副詞「また」) |
a「亦」同様に・やはり b「又」別にもう一つ、 |
a「亦」他と同様に・同じく、 b「復」ふたたび、 c「又」それとは別に、 |
a「亦」他と同様に、同じく、 b「又」それとは別に、これはこれでまた、 |
「亦」 |
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句全体の意 |
a懲りないで、 b種をあらたに得てまた、 |
懲りないで、それとは別に、
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a懲りないで同一人物に b懲りないで別の人物に |
左のaに同じ |
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五句:将蒔登曽念 |
蒔 |
「蒔く」種をまく |
a「播く」あちこち散らす。 b「蒔く」種をまく。 |
a「蒔く」その人にアプローチを続ける。 b「蒔く」別の人にアプローチする。 |
左のaに同じ |
念 |
「念」心に思う(花をわが屋敷で是非みたい) |
「念」心に思う |
同左 |
同左 |
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句全体の意 |
◎a第一構成案:再びケイトウの種を蒔き花をみたいと思う b第二構成案:とにかくまたケイトウの種を蒔こうと思う |
a第一構成案: (何かを)まき散らそうと私は心に思う。 b第一構成案: (何かの)種を蒔こうと私は心に思う。 |
a第二構成案: さらに(これからも)アプローチしよう b第二構成案: また(別の人に)アプローチしよう |
第二構成案 左のaに同じ |
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歌本文すべて |
歌本文全体の構成 |
◎第一構成案 |
◎第一構成案 |
◎第二構成案 |
◎第二構成案 |
歌本文全体の趣旨 |
a雖は確定の助字:植えたが枯れた。しかしまた植えよう(花をみたい)。 b雖は仮定の助字:植えたのが枯れたとしても、チャレンジしよう(花をみたい)。(初句~三句が仮定) |
◎a「雖」は確定の助字:韓藍は倭という国の骨格において(何かを)蒔いて育てて空間的に離れたけれど、こりないで私が別に種をまこうと(あるいはまき散らそうと)心に思う。(作中人物は官人) b 「確定の助字」:韓藍は抱いて寝て大きくして(何かから)離れたが 私はそれとは別に何かの種を蒔こう(作中人物は官人) c「仮定の助字」:韓藍が抱いて寝て大きくして、たとい空間的に離れるとしても、其れとは別に私は何かの種を蒔こう(作中人物は官人) |
a雖は確定の助字:相手と結ばれずに終わった。しかしまた相手を変えてチャレンジしよう。 b雖は仮定の助字:相手にされないとしても、また(その相手に)チャレンジしよう。 |
雖は確定の助字:その人物を育てよう |
注1)『新編国歌大観』の表記「韓藍蘇」は、多くの諸氏が「韓藍種」と訂正して論じている。
注2)第一構成案:歌本文五句の「登曽念」はそれまでの全体の総括をしていると見る。
第二構成案:歌本文五句の「登曽念」は五句の「将蒔」の念押しと見る。
注3)◎印は、韓藍の案別に、最有力の案を示す。
注4)二句「韓藍蘇生之」は、『新編国歌大観』の訓に拘らず、下二段活用の動詞「まく」・「おほす」と解することが可能な新訓(「之」字が発音を示す字かどうか)があるならば、下例も候補となる。
例1)「設け生し」
例2)「設け負をせ」
例4)「設け果ほせ」
(付記終わり 2022/7/25 上村 朋)