前回(2023/6/12)に引き続き『萬葉集』巻四にある紀女郎の怨恨歌を検討します。(2023/6/26 上村 朋)
1.~15.承前
『萬葉集』巻四には、「献天皇歌」という4字のみの題詞(とそのもとにある歌本文)から、ペンネームを使用して聖武天皇の後の御代に関する歌群のあることを確認しました。そのペンネームに怨恨歌の作者の名もあります。
「作者名+怨恨歌〇首」という作文パターンの題詞が2題あり、紀女郎のそれは2題目です。
なお、『新編国歌大観』(角川書店)収載の『萬葉集』を対象に、検討しています。
16.巻四にある怨恨歌(続きその4) 紀女郎歌の第2歌
① 今回検討するのは次の歌です(紀女郎歌全3首の本文等は付記1.に記載)。
2-1-647歌 紀女郎怨恨歌三首
今者吾羽 和備曽四二結類 気乃緒尓 念師君乎 縦左久思者
いまはわは わびぞしにける いきのをに おもひしきみを ゆるさくおもへば
土屋文明氏の歌本文の大意は、次のとおり。氏は、「怨恨は失はれた恋に対する恨み」と坂上郎女の怨恨歌において指摘しています。
2-1-647歌 「今は吾はやる方なくなってしまった。命にかけて思った君を離してやると思へば。」
② 下記の検討の結果、この歌の元資料の歌とみなすと、恋の歌の一例ですが、次の現代語訳(試案)を得ました。
「今日となっても、私は本当に本当に思い煩うことだなあ。
命にかけて、いとしく思っていた貴方を、あの時目を離してしまったのだった、と回想するのだから。
(現在の貴方をみると、それで良かったのだと気づいたが、でも残念だなあ。)」
③ この怨恨歌3首は、前後の題詞からの検討(ブログ2023/5/29付け)で、直前の題詞の歌と一組の相聞歌群を成すかどうかが宿題となっています。それを歌本文で検討中です。
検討は、諸氏の理解の例を紹介したのち、歌ごとに、元資料の歌を検討し、題詞のもとにある3首の歌としての整合性をみて、直前の題詞との関係を確認します。
④ 土屋氏は、上記の大意を示し、2-1-647歌について「去り行く男性を止むなく許容する心持であらうが、複雑ではあっても、何か不徹底な趣が見える。結句あたりの調子はすなほに響く。」と指摘しています。なお、2-1-648歌については「別離を悲しむ心を常識的に表現したまでであらう」と指摘しています。
土屋氏は、また、この3首について「何人を対象としたものか明らかでない」と指摘し、題詞の割注は、安貴王との関係を示唆するも、「単なる題詠的作品と見えぬこともない」と指摘しています。
氏は、直前の題詞(とそのもとにある歌)とこの3首の関係に言及していません。
これに対して、伊藤博氏の現代語訳は、次のとおり。
「今となっては私はもう心がうちひしがれるばかり。あれほど命の綱と思いつめてきたあなたなのに、引き留めることができなくなったことを思うと。」
伊藤博氏の怨恨歌全3首の理解は、「恋における女の「怨恨」を主題にする歌」であり、中国の薄情な男性に対する女の恨みを好んで詩の主題とする風」の属する(作者の)創作歌と指摘しています。
そして、「三首、時間につれて思いが深まってゆき、組み立てた歌であることが知られる。先の坂上郎女の怨恨歌と異なり、相手ではなく踏み切れぬ自分の弱さやはかなさを悔やみ、怨恨が内省化されているのが目をひく。近代ではこの類を怨恨とはいわないかもしれない。」(『萬葉集釈注二』564p)と指摘しています。
また、直前の題詞(とそのもとにある歌)とこの3首の関係に言及していません。
なお、「この歌を含めた3首は、(相手にではなく)「親しい人々の集まる場で披露したものか」と指摘しています(『萬葉集釈注』564p)。
このように、両氏の理解は、恋の歌として別離を悲しむも、相手を一切非難していない歌という点が共通です。また、恋の相手が不明のままであるのも共通です。
そして、両氏が触れていない事項は、直前の題詞(とそのもとにある歌)との関係に関する考察がないことが共通しています。
⑤ 次に、題詞を無視して2-1-647歌を検討します。巻四編纂のための元資料としての検討です。
最初に、文の構成をみます。
二句に、係助詞「ぞ」を用い、「和備」(わび)を強調し、その述部となる「四二結類」(しにける)が係り結びとして連体形になっています。このため、二句で文が終わっている、と理解できるものの、三句以下にその事情を説明しています。そのため歌全体としては倒置法による一文とみなせます。
また、係助詞「ぞ」によって作者の心境を強調していることから、初句と二句で一文を成し、なぜならば、と一呼吸おいて、改めて三句以下でその心境のよってきたる所以を述べた一文を付け加えている、という二つの文から成る、という理解も出来ます。
⑥ 初句と二句を検討します。
初句と二句は、「われ、わびにけり」を強調した文といえます。
二句「和備曽四二結類」(わびぞしにける)は、その強調の仕方に2案の理解があるかもしれません。
第一案 形容動詞「わびし」の語幹による名詞化あるいは動詞「わぶ」の名詞化+係助詞「曽」(ぞ)+サ変の動詞「す」の連用形「四」(し)+連語「にけり」の連体形「二結類」(にける)
第二案 動詞「わぶ」の連用形+係助詞「曽」(ぞ)+副助詞「四」(し)+連語「にけり」の連体形「二結類」(にける)
上記第一案は、わざわざ「わびし」または「わぶ」を名詞化し、動詞「す」により改めて動詞化していることにより、「わびにけり」を強調・注意喚起している、と理解する案です。
同第二案の「係助詞「曽」(ぞ)+副助詞「四」(し)」という用例は、『萬葉集』ではこの歌だけです。だから、特別に「わびにけり」を強調・注意喚起していると理解する案です。歌の用例がこの1例だけであり、第一案の理解があるので、無理にこのように理解する必要はないかもしれません。
いづれにしても、作者は「わびしかりけり」と詠むのは不適切であって、連語「にけり」が妥当と判断しているので、助動詞「けり」と連語「にけり」のニュアンスの差異に留意したい、と思います。
また、「ぞ」などにより強調・注意喚起しているのは、「和備」ですので、その理解も重要です。
⑦ 連語「にけり」とは、完了の助動詞「ぬ」の連用形+回想の助動詞「けり」であり、「・・・てしまった。・・・てしまったのだなあ」の意です。完了の助動詞「ぬ」は活用語の連用形に付くので、直前の「し」を活用語の連用形と理解すれば、上記⑥の第一案であるサ変動詞「す」の連用形ということになります。直前の「ぞ」と「し」を係助詞や副助詞とみれば、同第二案である上二段活用の動詞「わぶ」の連用形に付いていることになります。
助動詞「けり」には、ある事がらが、過去に実現していたことに気が付いた驚きや詠嘆の気持ちを表す意があります。完了の助動詞「ぬ」を用いて「にけり」となっている場合は、「今まで気づかなかったり、見すごしたりしていた眼前の事実や、現在の事態から受ける感慨などに、はじめてはっと気づいた驚きや詠嘆の気持ちを表す」とことが多い、とされています(『例解古語辞典』)。
単に「けり」では、「ある事がらが、過去に実現していたことに気がついた驚きや詠嘆の気持ちを表す」だけであり、「眼前の事実や、現在の事態から受ける感慨など」への驚きや詠嘆ではないことになります。
⑧ 次に、名詞「わび」は、『例解古語辞典』には、「侘び」として俳諧用語としての説明があるのみです。
形容詞「わびし」(侘し)とは、「どうしようもないようなつらさ・やるせなさや、意に満たず気乗りしないあじけなさを表す」語句であり、「aつらい。やるせない。途方にくれる。aあじけない。つまらない。」という2意があります(『例解古語辞典』 以下同じ)。
動詞「わぶ」(侘ぶ)とは、「侘ぶ:a嘆き、思い煩う。b寂しく思う。つらがる。c困ったという様子を示す。迷惑がる。d落ちぶれる。」の意です。
動詞「わぶ」も、形容詞「わびし」の説明にあるような、「どうしようもないようなつらさ・やるせなさ」と「意を満たず気乗りしないあじけなさ」を表している動詞といえ、「わびし」、「わぶ」という状況にある人物の心境は、二通りに大別できるようです。
ちなみに、現代語の形容詞「わびしい(侘しい)」は、「a心を慰める(自分を受け入れてくれるあたたかい)ものがなくて、ものさびしく感じられる様子だ。b欲求が満たされず心が晴れない様子だ。」の意があります(『新明解国語辞典8版』)。 なお、現代語の動詞「わびる(侘びる)」は接尾語的な用語だそうです。
⑨ このため、初句と二句からなる一文は、「わぶ」という状況の作者の心境により次の2案あることになります。
作者は、どうしようもないようなつらさ・やるせなさを伴う感慨を詠っている
作者は、意に満たず気乗りしないあじけなさを伴う感慨を詠っている
連語「にけり」の意が、「今まで気づかなかったり、見すごしたりしていた眼前の事実や、現在の事態から受ける感慨などに、はじめてはっと気づいた驚きや詠嘆の気持ちを表す」とすれば、四句~五句「念師君乎者 縦左久思者」(おもひしきみを ゆるさくおもへば)の「思」とは、作詠時点での「思」ではないか。
(作者が)「念師君」(おもひしきみ)に関して、作詠時点において、何か「はっと気が付く」ことがあったのでしょう。
⑩ 次に、三句「気乃緒尓」(いきのをに)に関して、土屋文明氏は、「玉と玉とを貫く玉の緒の如く、呼吸と呼吸とを貫くに緒を想定しそれを生命と見ての表現であらうか。」と指摘しています。氏の現代語訳では「命にかけて」としています。
「気乃緒」(いきのを)は、連語「息の緒」であり、「命の綱。命の限り。」の意とあります(『例解古語辞典』)。
「気」(いき)は、「aいき・呼吸。b勢い・働き」の意です(同上)。
「緒」(を)は、「a糸。b(糸からの連想で)「長く続くもの、絶えないもののたとえ」の意です(同上)。
なお、日本語「を」は、「緒」のほか「男」や「麻」という同音異議の語句もあります。(同上)
格助詞「に」は、体言に付いて連用修飾語を作ります。修飾する語句は、直後にある「念」(おもふ)が常識的ですが、五句の「縦左久」(ゆるさく)(動詞ゆるすの未然形+準体助詞「く」)という名詞句も候補になり得ます。
なんとなれば、恋の歌であれば、命の限り「念」(おもふ)ことを実行していた作者が、「縦左久」(ゆるさく)という意に反したこともするのは、これも大変な決断であったはずだからです。
さらに、この二つの行為を比較して、「縦左久」(ゆるさく)のほうがより重大と理解すれば、
「気乃緒尓 (念師君乎) 縦左久思者」
と「縦左久」のみを修飾している、という理解となります。
土屋氏と伊藤氏は、四句にある「念」(おもふ)とのみに関連付けて「命にかけて思った(君)」と理解しています。
⑪ 四句にある動詞「念」(おもふ)とは、「aこころに思う。bいとしく思う。愛する。c心配する。憂える。d回想する。なつかしむ。e表情にだす。」の意があります(『例解古語辞典』)。
五句にある動詞「思」(おもふ)も、その訓が同じですので、同じ意が候補となります。
日本語の「おもふ」の表記は、『萬葉集』巻四の歌本文では漢字「念」字であることが多く、漢字「思」字で表した歌は大変少ない。歌本文での漢字「思」字は、万葉仮名として「し」の音を表している場合がほとんどです。そのため、この歌本文(2-1-647歌の五句)の表記はその例外になります。
この歌では、「念」字と「思」字をもちいて日本語「おもふ」を表記していますので、細かいニュアンスが異なっている可能性が予想できます。
漢字の意を確認すると、漢字の訓として「おもふ」の場合の意は、漢和辞典の同訓異字の説明では、
思:くふう。思案する。また思いしたう。思慕。なつかしく思う。
念:心の中にじっと思っていて、思いがはなれない。胸にもつ。
想:おもいやる。思いうかべる。
とあります。
また、倭習漢文である題詞において、巻四では「思」字の意は「(作者は)かんがえる。はかる」でした(ブログ2023/1/23付け「4.⑨~⑬」参照)。
この歌が恋の歌として「おもふ」の最初の表記「念」字の漢字の意を優先させると、「思」字の場合の「おもふ」は、「念」字の意と重ならない意が有力となります。即ち、「くふう。思案する」と「なつかしく思う」が有力であり、日本語の「おもふ」の意(上記のa~e)でみると、cとdが有力ではないか。
そうすると、三句「気乃緒尓」が五句にある「思」を修飾している可能性は、少ない、と考えられます。
⑫ 五句にある動詞「ゆるす」とは、「a緩す。ゆるやかにする。ゆるめる。b解き放す。自由にする。cさしつかえないと認める。許可する。d赦す。(罪や義務などを)免ずる。赦免する。免除する。e人並と認める。承認する。」の意があります。
『萬葉集』で、歌本文にある「縦」字を「ゆるす」と訓む歌は、五首しかありません(付記2.参照)。
その最初の歌が坂上郎女の怨恨歌(長歌)であり、その意は上記の「cさしつかえないと認める。許可する」と言えます。
二番目の歌が紀女郎の怨恨歌の2首目のこの歌です。土屋氏は「b解き放す。自由にする」でした。山口大の吉村誠教授は「a緩す。ゆるやかにする。ゆるめる。」の意とし、「あなたとの関係を自分が緩める」と理解しています。どちらも自分の行動に失恋の原因を求めているかのようですが、作者の相手への目線はどうでしょうか。
三番目~五番目は「許可する・(罪や義務などを)免ずる」または「さしつかえないと認める・許可する」です。二番目について諸氏の理解が異なっている、つまり、作者はこの語句に特に意図を込めているかに見えます。
作者を拒否した相手に、「cさしつかえないと認める。許可する」とも理解可能な歌をおくるでしょうか。そのような歌を詠む姿勢自体が相手を遠ざけています。「念師君」あるいは「念師君」への思いを知っている例えば親友にこの歌を披露しても共感を呼ばないのではないか。
さらに、この歌(元資料の歌)は本当に恋の歌であったかにも疑いが生じます。巻四は部立てが相聞歌なので、恋の歌のほかに宴席での歌や社交的な場での挨拶歌などの可能性もあります。その元資料の歌も宴席での歌などの可能性があります。例えば宴席の歌であれば、宴席でのゲームに負けた相手とか、急務により途中退席を余儀なくされた人物に対して披露した歌という推測もあり得ます。
社交的な場での歌として相手を推測すると、話題となった人物に関して披露した歌という推測もあり得ます。
そもそも日本語「ゆるす」を用いて詠う歌は、相聞の歌に限りません。
⑬ 以上の検討を整理すると、巻四の題詞を無視した元資料の歌について、次のことを指摘できます。
初句~二句における「和備」(わび)の理解は、三句以下の文意に連動しています。
初句~二句の意は、連語「にけり」の意に留意し、上記⑨に記したように作者の心境は2案の検討を要します。
三句は、念のため2意が候補となります。
四句にある「念(師君)」の「念」字は、恋の歌であれば、上記⑪に記した動詞「念」(おもふ)の意のa~cが有力となります。
五句にある「(縦左久)思」の「思」字は、同動詞「念」(おもふ)の意のd、あるいは「念」(おもふ)の意がa~bの場合はcも候補となるのではないか。
五句にある「縦(左久思」の「縦」字は、恋の歌と仮定すれば、「a緩す。ゆるやかにする。ゆるめる。b解き放す。自由にする。e人並と認める。承認する。」が候補か。
それを句ごとに整理すると、次の表のとおり。作者の心境は2案ですが、その他比較した事項では作者の心境に関係なく共通となりました。
表 2-1-647歌各句の意の候補案 (恋の歌の場合 2023/6/24現在)
事項 |
A案 |
B案 |
作者の心境 |
作者は、どうしようもないようなつらさ・やるせなさを伴う感慨を詠っている |
作者は、意に満たず気乗りしないあじけなさを伴う感慨を詠っている |
初句の「今」 |
「にけり」という感慨を持った時点 |
|
二句にある連語「にけり」のきっかけ |
はっと気づいたのは ① 「ゆるさくおもふ」という行為から ② 詠われていない現在の事態から |
|
二句にある「わび」の意 |
① 動詞とみなす |
|
三句「気乃緒尓」の意 |
① 命にかけて(土屋氏) ② 勢いのある男の子と(試案1) ③ 働きのある男子と(試案2) |
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三句が修飾する語句 |
① 四句の「念」 ② 四句の「念」と五句の「縦左久」 ③ 五句の「縦左久」 |
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四句の「念」の意 |
① こころに思う。 ② いとしく思う。愛する。 ③ 心配する。憂える。 |
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五句の「思」の意 |
① 回想する。なつかしむ。 ② (「念」の意が上記①または②の場合での別候補)心配する。憂える。 |
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五句の「ゆるす」の意 |
① 緩す。ゆるやかにする。ゆるめる。 ② 解き放す。自由にする。 ③ 人並と認める。承認する。 |
⑭ 恋の歌としてこの歌を理解するとすれば、事項「作者の心境」については、作詠時点においても恋の相手へ心を寄せているA案が第一候補です。最初にA案で検討します。
連語「にけり」を用いているきっかけは、「詠われていない現在の(ある)事態」に気づいたからでしょう。その現在の事態から相手を「ゆるさくおもふ」ということになり、一つの感慨が生じたのではないか。
「ゆるさくおもった」結果「詠われていない現在の事態」が生じて(あるいは生じたと思い)、その事態の意味合いにはっと気づいた感慨であるとすると、それは、恋の歌の範疇ではなく、『萬葉集』の部立てでは「雑歌」の範疇の歌の可能性もあります。
⑮ 三句は、恋の歌であれば表の①(命にかけて(土屋氏))がふさわしい。三句が修飾する語句は事項「作者の心境」がA案なので、当時の相手に対する気持ちである表の①(四句の「念」)が妥当である、と思います。
四句の「念」の意は、表の②(いとしく思う。愛する)が第一候補であり、恋の進捗度合いによっては、単に表の①(こころに思う)がありこれが第二候補となります。
五句の「思」は、事項「作者の心境」がA案なので、表の①(回想する。なつかしむ。)が第一候補であり、表の②が無いと言い切れませんのでそれが第二候補となります。
⑯ 恋の歌として、事項「作者の心境」A案の現代語訳を、試みます。
初句 いまはわは :(この歌を披露する時点という)現在であるので、私は、
二句 わびぞしにける :本当に本当に思い煩ってしまったのだなあ」(という、どうしようもないようなつらさ・やるせなさを伴う感慨に浸ることだ)。
三句 いきのをに :命にかけて
四句 おもひしきみを :いとしく思っていた貴方を
五句 ゆるさくおもへば :ゆるめていたと回想すれば。(あるいは、人並であったと認めると回想すれば。)
五句の()内の趣旨は、作者のような立場の人物は相手にしないという当時の常識を是とする人物であったということです。
これを意訳すれば、二つの文からなる歌として、
2-1-647歌
「今日となっても、私は、本当に本当に、思い煩うことだなあ。
命にかけて、いとしく思っていた貴方を、あの時目を離してしまったのだった、と回想するのだから。
(現在の貴方をみると、それで良かったのだと気づいたが、でも残念だなあ。)」
作者が詠うきっかけとなった「詠われていない現在の事態」はどのようなものだったかは不明ですが、その後の相手の官人としてのおもいのほかの活躍に接した時と想像します。
そして、この理解であれば、この歌は相手にも披露できますし、仲間うちにぼやいた歌として披露も可能でしょう。
⑰ なお、二句にある「わび」の意は、動詞として「嘆き、思い煩う」ではなく、「寂しく思う。つらがる。」意としても「作者の心境」はA案の恋の歌という理解が可能でしょう。ただ今も未練があるとして「嘆き、思い煩う」の意とした(試案)としたところです。元資料の披露された状況が伝わっていないので、朗詠された時の雰囲気で理解が左右されるところでしょうから私の作者への思い入れによる(試案)です。
⑱ 次に、このような理解で、題詞のもとにある歌となっているか、です。
題詞にある怨恨歌の意を、坂上郎女の怨恨歌の場合、私は(期待を断ち切れないでいた)「自分の行動を悔やんだ歌」と理解しました(ブログ2023/5/8付け「12.⑨」)
2-1-646歌の検討の際には、題詞の現代語訳を、
「紀女郎の詠う、自分の行動を悔やんだ歌3首」
と提案しています。
この意の題詞のもとにある歌として、恋の歌として上記の(試案)は、恋を貫きたかったということを詠った歌とも理解できますので、題詞のもとにある歌として、このままでも理解可能です。
紀女郎が詠ったという題詞は、巻四の編纂者の作文であり、編纂者の意見である可能性がありますが、巻四の歌は元資料の歌がそのまま収載されている、と推測できます。
⑲ これは元資料の歌の理解の1例です。B案あるいは恋の歌でないとして理解可能かどうかも確認したい、と思います。それを次回検討します。
ブログ「わかたんかこれ ・・・」とご覧いただき、ありがとうございます。
(2023/6/26 上村 朋)
付記1.紀女郎の怨恨歌について
①『萬葉集』より
2-1-646歌 紀女郎怨恨歌三首 (鹿人大夫之女名曰小鹿也安貴王之妻也)
世間之 女尓思有者 吾渡 痛背乃河乎 渡金目八
よのなかの をみなにしあらば わがわたる あなせのかはを わたりかねめや
2-1-647歌 同上
今者吾羽 和備曽四二結類 気乃緒尓 念師君乎 縦左久思者
いまはわは わびぞしにける いきのをに おもひしきみを ゆるさくおもへば
2-1-648歌 同上
白妙乃 袖可別 日乎近見 心尓咽飯 哭耳四所泣
しろたへの そでわかるべき ひをちかみ こころにむせひ ねのみしなかゆ
② 参考:土屋文明氏の大意
2-1-646歌 「世間普通の女であるならば、吾が渡る痛背の川を渡りかねはすまいが、吾は夫に去られて居るので、其の連想のある此の川をば渡りがたくするのである。」 (ブログ「わかたんかこれ ・・・」(2023/6/12付け)参照)
2-1-647歌 本文参照
2-1-648歌 「袖を分けて別るべき日が近いので、心にむせつまって、ただ泣きのみ泣かれる。」
付記2.『萬葉集』の歌本文で「縦」字を「ゆるす」と訓む例:5例のみ
・・・ 真十鏡 磨師情乎 縦手師 其日之極 ・・・:まそかがみ とぎしこころを ゆるしてし そのひのきはみ
(吉村誠山口大学教授:・・・真澄の鏡のように研ぎ澄ました純粋な心をあなたに許したその日を最後として・・・「縦」の意は「さしつかえないと認める・許可する」か)
巻四 2-1-647歌 紀女郎の怨恨歌:本文参照
(吉村誠氏:今は自分はがっかりして気がめいっている。命のように大事に思っていたあなたを引き留める出来なかったことを思うと
氏は「ゆるさく」とは緩むこと。あなたとの関係を緩めてしまったということ。と理解。つまり「縦」の意は「ゆるやかにする・ゆるめる」)
巻四 2-1-676歌 「坂上郎女歌二首」の最初の歌
真十鏡 磨師心乎 縦者 後尓雖云 驗将在八方
まそかがみ とぎしこころを ゆるしてば のちにいふとも しるしあらめやも
(吉村誠氏:真澄鏡ではないが研ぎ澄ました気持ちを緩めて許してしまったならば、後になってとやかく言ったとしても効果がありましょうか。氏は「縦」の意を「さしつかえないと認める・許可する」としている)
巻八 2-1-旧1657歌 和歌一首
官尓毛 縦賜有 今夜耳 将欲酒可毛 散許須奈由米
つかさにも ゆるしたまへり こよひのみ のまむさけかも ちりこすなゆめ
(「縦」の意は禁酒令に触れない趣旨の「許可する・(罪や義務などを)免ずる」の意)
巻十一 2-1-旧2770歌 寄物陳思
道辺乃 五柴原能 何時毛々々々 人之将縦 言乎思将待
みちのへの いつしばはらの いつもいつも ひとのゆるさむ ことをしまたむ
(「縦」の意は「さしつかえないと認める・許可する」)
(付記終わり 2023/6/26)