わかたんかこれ 萬葉巻四 湯原王歌 配列その10

 前回(2023/5/8)に引き続き『萬葉集』巻四に配列されている怨恨歌を検討します。(2023/5/29 上村 朋)

 

1.~12.承前

萬葉集』巻四にある「献天皇歌」という4字のみの題詞(とそのもとにある歌本文)から、ペンネームを使用して聖武天皇の後の御代に関する歌群のあることを確認しました。そのペンネームに怨恨歌の作者の名もあります。

『新編国歌大観』(角川書店)収載の『萬葉集』を対象に、検討しています。

13.巻四にある怨恨歌(続きその1) 湯原王歌は関係あるか 題詞から

① ここまで、題詞を重視して、その作文パターン別の意を確認し、配列と歌意を検討してきました。

 珍しい作文パターンは要注意でした。

 「作者名+怨恨歌〇首」という作文パターンは、巻一~巻四では巻四における聖武天皇の御代を詠う大歌群のなかに2題あるだけです。

 最初の怨恨歌は、前回(2023/5/8付けブログ)検討しました。「大伴坂上郎女怨恨歌一首并短歌」と題する2-1-622歌~2-1-623歌です(付記1.参照)。

 今回は、次の怨恨歌(紀女郎怨恨歌三首 2-1-646歌~2-1-648歌)と関係があるかもしれない、直前に配列されている歌(湯原王一首 2-1-645歌)を検討します。

『新編国歌大観』より引用します。

2-1-645歌 湯原王歌一首

   吾妹児尓 恋而乱在 久流部寸二 懸而縁与 余恋始

   わぎもこに こひてみだれば くるへきに かけてよせむと あがこひそめし

 

② この歌の前後の配列を確認し、題詞の作文パターンの意とこの題詞のもとにある歌本文を検討します。そして、必要に応じて編纂者の手元に集まった元資料としての歌意を推測し、巻四における歌としての意を確認します。

 それを以下に行ったところ、この二つの題詞は、一組の相聞歌群の可能性がある、ということになりました。

③ 怨恨歌の前後各5題は、次のとおりです。

2-1-641歌  湯原王亦贈歌一首

2-1-642歌  娘子復報贈歌一首

2-1-643歌  湯原王亦贈歌一首

2-1-644歌  娘子復報贈歌一首

(今回検討する歌) 2-1-645歌  湯原王歌一首

(怨恨歌) 2-1-646歌  紀女郎怨恨歌三首  (鹿人大夫之女名曰小鹿也安貴王之妻也)

2-1-649歌  大伴宿祢駿河麿歌一首

2-1-650歌  大伴坂上郎女歌一首

2-1-651歌  大伴宿祢駿河麿歌一首

2-1-652歌  大伴坂上郎女歌一首

2-1-653歌  大伴宿祢三依離復相歓歌一首

 

 題詞の作文パターンを重視して相聞歌群を確認します。

 5題前の2-1-641歌の題詞から、2題前の2-1-644歌のそれは、2-1-634歌の題詞(湯原王贈娘子歌二首  (志貴皇子之子也))から始まる湯原王と娘子の相聞歌群に含まれる題詞です。湯原王の「贈歌」に対し娘子の「報贈歌」が2-1-644歌まで繰り返えされています。あきらかに一組の歌群です。

 次の2-1-645歌(今回検討する歌)は、題詞の作文パターンが改まり、「湯原王歌一首」という「贈」字を省いた、おくる相手も明記していない題詞となっています。この作文であれば、相聞歌としてこの歌をおくった相手の候補者が広がります。当然配列上の制約があり、直前まで歌の応答をしていた「娘子」は有力候補の一人です。

④ そのため、題詞の作文パターンからみれば、おくった相手を念頭に2-1-645歌について配列上からは、3案が考えられます。

 第一案は、2-1-644歌までの一連の歌との関連を認め、その一連の歌とともに一組の相聞歌群を成す最後の歌、と推測する案です。

 題詞の作文パターンが異なるものの、湯原王が歌をこれまでおくっている「娘子」、あるいは、2-1-644歌までの一連の歌が披露されている場に居る人々に、この歌をおくっている(披露している)とみる案であり、多くの方がこのようにみています。

 例えば、2-1-644歌までの一連の歌に物語性を認めその総括的なことを作者が詠うための題詞が2-1-645歌の題詞であり、そのためここまでの作文パターンを変え相手の名を明記しない題詞の作文パターンとしている、という理解です。

 第二案は、2-1-644歌までとは関係ない、返歌または贈られた歌が省かれた別の相聞歌群の歌と推測する案です。

 この題詞から別の作文パターンが始まっており、怨恨歌3首の題詞とも異なるので、1題で一つの相聞歌群という理解です。

 第三案は、次の怨恨歌(2-1-646等3首)の題詞と一組をなす相聞歌群の歌と推測する案です。

 この題詞から別の作文パターンであるうえ、その次の怨恨歌3首の題詞の前にあるので、最初の(坂上郎女の)怨恨歌にならい、怨恨歌と一組の相聞歌となっていると推測する案です。

 さらに、題詞の配列及び前後の歌の歌本文の検討によりこれらのいずれかになると予想しています。

⑤ この歌の次に配列されている歌(怨恨歌)から、どのような相聞歌群が推測できるかを考えると、次の2案が想定できます。

 第一案は、直前の題詞と、一組の相聞歌群を成すと推測する案です。上記④第三案と同じように最初の怨恨歌にならった案です。

 第二案は、前後の題詞と異なる作文パターンであるので、1題で一つの相聞歌群と見る案です。上記④第二案あるいは第一案とセットになる理解となる案です。

 怨恨歌が、次の題詞と一組の相聞歌となることはありません。

 怨恨歌の次の2-1-649歌以下4首の題詞の作文パターンは、2-1-645歌と同じ「作者名+歌〇首」であるので、誰におくったは不明ですが歌本文の検討(下記⑥以下に記す)からそれらが怨恨歌と一組の相聞歌群を成すとは思えませんでした。

 このように、(紀女郎の)怨恨歌の題詞を含む相聞歌群の推測は、2-1-644歌を含む相聞歌群の推測(上記④の3案)と矛盾するものではありません。

⑥ 題詞の検討を続けます。

 その次にある(2-1-649歌の)題詞から4題は、すべて2-1-645歌の題詞と同じ作文パターンであり、大伴宿祢駿麿の歌に大伴坂上郎女が応えているかにみえる2組の相聞歌群です。この二人は、左注に叔母と甥の関係とあり、挨拶歌の類と推測できます。このため、怨恨歌の作者との関係が薄く、怨恨歌と一つの相聞歌群を成すとは思えません。

 そして、怨恨歌から5題目にあたる2-1-653歌の題詞の作文パターンは、2-1-645歌と同じ「作者名+歌〇首」に詠う事情を加えたパターンです。6題目(2-1-654歌~2-1-655歌)以降の題詞は、以下のように2-1-645歌と同じ作文パターンに戻っています。

2-1-654歌~2-1-655歌  大伴坂上郎女歌二首

2-1-656歌~2-1-658歌  大伴宿祢駿河麿歌三首

2-1-659歌~2-1-664歌  大伴坂上郎女歌六

2-1-665歌  市原王歌一首

2-1-666歌  安都宿祢年足歌一首

2-1-667歌  大伴宿祢像見歌一首

(以下略)

⑦ 次の2-1-653歌は、題詞から再会を喜ぶ歌、と理解できます。土屋氏は「筑紫帰来後の作か」と指摘しています。

 作者である大伴三依は、大伴御行の子であり、『続日本紀』によれば正六位上となった時期は不詳ですが、天平20年(748) 2月19日従五位天平勝宝6年(754) 7月13日主税頭、天平勝宝9年(757) 6月16日三河守、天平宝字3年(759) 5月17日仁部少輔、6月16日従五位上、同11月5日遠江守というように、国守を歴任しています。当然いずれかの国の介や掾の経験もある人物であり、都に妻を残しての赴任もあったと推測できます。

 そして、巻四に配列されている2-1-559歌から、大伴三依は神亀年間から天平年間初頭にかけて大宰師・大伴旅人と共に筑紫に赴いていたと諸氏が指摘しています。

 そうすると、大伴三依と次の題詞に作者として明記されている大伴坂上郎女とは、同族の誼で以前より行き来のある仲であったのは確かなことです。その(2-1-654歌と2-1-655歌の題詞の)作文パターンは、「湯原王歌一首」(2-1-645歌)と同じです。おくった相手は割愛されています。

 このため、この二つの題詞で一組の相聞歌群となっている、といえます。

⑧ 2-1-665歌の題詞以下は、作者同士の関係からいえば1題で一つの相聞歌群とみなせます。

 このように、2-1-645歌から(上記に引用した)2-1-667歌までは、おくった相手が割愛されている作文パターンの題詞という共通点があります。このため、2-1-649歌の題詞からは、1題で一つの相聞歌群を成すか、作者同士の関連が認められれば複数題が一組の相聞歌群になっているのが主流である、と予想できます。

 怨恨歌は、その複数題が一組の相聞歌群の中ほどにあります。

14.巻四にある怨恨歌(続きその2) 湯原王歌は関係あるか 歌本文から

① 次に、このような題詞からの推測が妥当なのかを、各題詞のもとの歌本文より検討します。原則として土屋文明氏が『萬葉集私注』に示す大意により検討します。

 怨恨歌の5題前の2-1-641歌の題詞から2-1-644歌の題詞までは、2-1-634歌から始まる湯原王と娘子の相聞歌群に含まれる歌です。歌本文をみると、娘子は、湯原王が旅に妻を同行していると、指摘(2-1-637歌)しています。

 それを前提に、湯原王の歌を順にみると、2-1-634歌で、訪ねたのに帰すのかと詠っていますが、2-1-639歌で、訪ねることが叶わないが形見を湯原王は送り、2-1-641歌で形見を(歌の上で)受け取ってもらったその一晩は(逢っていないのは)一月ほどに感じられると詠い、2-1-643歌で「とほからぬ さとをくもゐにや」と形見の「わが衣」ではなく実際に逢ってほしい、と訴えています。

 その結果湯原王の恋は、娘子と歌の贈答を繰り返しただけで終わっています。

 湯原王は、旅の途中で、宿泊地から「遠からぬ里」に居る「娘子」をどのような経緯で知ったのでしょうか。宿泊地でその土地の女性を知る機会は、(歓迎の意の)宴席に大きな可能性があります。だから、すべての歌は同一の日に詠まれた応答歌であろうと思います。娘子とは、接待役の女性の一人です。 

 この恋の相聞歌は宴席で披露され、二人が交わした歌が巻四編纂者の手元に集まったのは、二人のどちらかが提供したというよりも誰かがその場で書き留めた(即ち宴席の場)可能性が高い、と思います。それが元資料ではないか。

 なお、湯原王天智天皇の孫ですが、『続日本紀』に叙位・任官の記載がなく、また政治面での記載もない人物であり生没年未詳です。

② 次に、2-1-645歌は、上記「13.④」の3案での検討を要します。

 検討に入る前に、留意すべき点があります。

 歌本文の訓について、多くの諸氏は、『萬葉集略解』(橘千蔭)の説に従い、二句は「恋而乱者」として理解しています。『新編国歌大観』の訓もそれに従っています。

 その現代語訳の例をあげます。

 例1:「あなたを、恋い慕って心が乱れたら 「くるべき」に 掛けて縒りをかけようと思って わたしは恋し始めたのです。」(『新日本古典文学全集』(小学館))

 「くるべき」とは糸を操る道具の意としています。本来ぐるぐる廻る意の「くるめく」の音転「クルベク」の名詞形と説明しています。しかし、頭注において、2-1-644歌までとの関係及び次歌(2-1-646歌)との関係に触れていません。

 例2:「あの子に恋い焦がれて心が乱れたならば、乱れ心を糸車にかけて、うまいこと撚り直せばよいと、そう思って恋い初めただけさ・・・。」(角川文庫『新編万葉集 現代語訳付き 伊藤博訳注』)

 糸車とは、『新明解国語辞典 第八版』に「糸を紡ぐための車」とあります。伊藤氏は、「別れるときはこう言おうと思っての表現で一種の負け惜しみ」と指摘しています。2-1-644歌までの全体を結んでいる歌として上記④の第一案の理解です。

③ これに対して、土屋文明氏は、二句は「恋而乱在」のままとし、「こひてみだれり」と訓んでいます(氏の訓の全体 は下記⑩に引用してあります)。また、三句「久流部寸二」を「くるべきに」と訓み五句は一種の反語の格と解して、次の大意を示しています(『萬葉集私注』 )。

 例3:「吾妹子に恋ひて心がみだれて居る。かうした時には、乱れた糸を「くるべき」に掛けて寄せる如くに寄せ整へようと、吾が恋ひ始めたであらうか。」

 氏は、『萬葉集私注』の十巻の「讀萬書留 七 一種の反語」において、「恋ひ恋ひて恋ひ乱れて手のつけ様がなくなった時に、くるべきに掛けて寄せようとした恋ではないのであるから致し方ないと当惑思ひ病む者のみ歌はあるのではあるまいか。」と、結句は大津皇子の2-1-109歌の結句とともに反語と解すべしとしています。

 そして、氏は「(結句を反語とみる)十分文法的根拠をあげられないがそう見なければ作歌動機は実に荒涼たるものになってしまう」と主張されています。

 また、「吾妹子に」と句を起こして居る点は、「前からの娘子との贈答の一つの如くにも見えるし、題詞に重きを置けば、別の場合の作を同一作者の為にここに載せたとも見られる。」と指摘しています。上記「13.④」の第一案と第二案の可能性を指摘していることになります。

 なお、「くるべき」とは「糸を掛けて処理するもの。吾が少年の頃郷里でグルメキと呼んで居たものは竹製の枠のごときものであった。」と説明しています。

④ この3例は、三句~四句にある「久流部寸二 懸而縁(与)」ということを行う行為は、初句~二句にある「吾妹子爾 恋而乱在」という状況において行う行為の譬喩として用いられている、と理解しています。私も同じように思います。

 今、『新編国歌大観』記載の『萬葉集』に基づき検討をしているので、土屋氏と同様に、二句は同書記載通りの「恋而乱在」のままとして、その訓については同書記載に拘らず、土屋氏の訓を基本にして検討することとします。

⑤ 初句より、語句を順に確認します。

「吾妹子」(わぎもこ)は、親しい女性をいう語句であって主として妻や恋人を男性から呼ぶ語句です。だから既に親しい関係になっている女性のはずです。あるいは、そのような女性に勝手にみなして用いていることになります。

 動詞「恋」(こふ)とは、「(異性を)慕う・恋する」意(『例解古語辞典』)であり、不安が増す時や満足を感じる時がくりかえされるものです。

 ここでは、「わぎもこ」と詠いだしているのですから、「わぎもこ」とは、一度は満足を感じる時を過ごした後の恋の相手、あるいは溺愛の妻を指しているのではないか。

⑥ 二句「恋而乱在」は、漢文調の文章であり、二句の訓はその読み下し文ではないか。漢字の意味を参考として理解したい、と思います。

 漢字「恋」は、「aこう。おもい慕う。bこい  c国字として「こいしい」」です(『角川新字源』以下同じ)。

 漢字「而」は、ここでは助字として用いられており、その意は、「a順接(しこうして) b逆説(しかれども・しかも・しかるに) c接続(すなわち・そこで・(乃・則と同じ))」があります。

 漢字「乱」の意は、「治」の対であり、「秩序がみだれる。(みだれる・みだす意で)広くつかわれる。」とあります。

 これらを勘案すると、「恋而乱在」を漢文として、読み下すとすれば、

「こひ、しこうしてみだれり」

「こふもみだるる」あるいは「こふれどもみだれり」

「こひて、すなわちみだるる」

の3案が考えられますが、どの案にしても、恋は不安になる時もあるもの、ということを言っているのではなく、

「一旦親しい関係となっていて、その後二人のその関係がくずれた」

という理解が妥当するのではないか。

 このため、二句「恋而乱在」という状況は、親しい関係に齟齬が生じていると作者は感じている、という状況となります。

⑦ 三句に登場する「くるべき」について、『精選版 日本国語大辞典』には「糸を繰る道具。台に短いさおを立て、その上に回転するわくをつけたもの。」とあります。

 それが糸車であるならば、綿から糸をつむぐ(糸を作る)作業に使う道具です。(付記2.参照)

 その際、「撚りをかけるという行為」は、重要な作業です。繭からほぐし出した糸はとても細く、そのままでは糸としては使えません。何本かを束にしないといけないのですが、この束に軽く撚りをかけると、丈夫な一本の糸として使えるようになります。さらにその糸の何本かを撚って一本の糸にすればさらに丈夫になります。

 この歌の作詠時点における技術水準を私は知らないのですが、安定した親しい関係は撚りをかけてできた糸に例えられるでしょう。

⑧ 四句「懸而縁与」にも二句と同じような動詞の漢字を「而」字で結んだ表現があります。

 漢字「懸」は、動詞として「aかける(心にかける・つりさげる・かかげる) bかかる(ぶらさがる・かけはなれる)」の意を持ちます。

 漢字「縁」は、動詞として「aよる(因)(もとづく・たよる・したがう) bまとう・まつわる・めぐらす」の意を持ちます。そして「縁」字を「よる」と訓む場合、「寄」(たよってつく)や「因」(基づく・手がかりやひっかかりにする・ちなむ)と異なり「より従う・たよる・基づく・まといつく・よじのぼる」の意だそうです(『角川新字源』)。

 日本語の下二段活用の動詞「かく」(懸く)は、「aかける・ひっかけるb高く掲げるc情けなどをかけるdふせぎとめる など」の意があります。

 日本語の下二段活用の動詞「よす」(寄す)は、「a近づける・近寄らせるb関係づけるcかこつける・ちなむ d傾倒する・心を傾ける など」の意があります。

 このため、四句の訓「かけてよせむと」とは、三句とのつながりで「くるべきに糸をかけて糸同士をまといつくかせ丈夫な糸にする」意のほかに、五句とのつながりで「貴方にまつわりそして心を傾ける」意をも、くみ取ってもよいかも知れません。

⑨ 五句にある「こひそめし」は、下二段活用の動詞「こひそむ」の連用形+過去の助動詞「き」の連体形です。三句以下で一文となっている文章の文末にあります。

「き」の意は、連体形で文を終止したとき詠嘆感動の意を表します(『角川古語大辞典』)。土屋氏の反語とみる理解とは異なる理解が可能になります。

 なお、『例解古語辞典』では「き」の意を、「a話し手自身の経験と直接体験を、回想して述べる b話し手の経験と無関係に過去の事実を確かにあったこととして述べる」とし、前者の場合が多いと説明しています。『角川古語大辞典』の連体形で文を終止した場合の理解は回想している意の上記aの一例と理解できます。

⑩ このような、用いている漢字・(日本語の)語句の検討を踏まえると、歌本文の訓は、あらためて土屋氏の訓に従ってよい、と思います。つぎのとおり。

2-1-645歌 わぎもこに こひてみだれり くるべきに かけてよせむと あがこひそめし

 

 そして、その訓の理解において土屋氏は上記③の例3に引用したように五句を反語としていますが、私は詠嘆と理解しました。

 宴席での歌が配列されているので、この歌も宴席で披露するとして、相手に訴え、その 席の雰囲気に反するのが少ないのは、反語で終わる歌よりも詠嘆で終わる歌ではないか。

 氏の指摘する大津皇子の2-1-109歌も詠嘆の理解が可能であろう、と思います。

⑪ さて、歌本文は、二つの文からなります。

 初句~二句で一文となり、作者が現状認識を述べています。つまり、「わぎもこ」と呼べる間柄になったのち、その女性との関係に齟齬を来した、と作者は認識しています。原因には触れていません。

 三句~五句が次の一文となり、二人の関係は永遠のものになると信じていたのに、と自省の弁を述べています。その例に、くるべきを用いて行う作業をあげています。

作者が男性であるならば、その作業をよく知っている人物となります。

 官人の禄は現物であり、絹・絁・糸・綿・布など繊維製品や鍬・塩・海産物があります。宴を天皇が臣下に賜う際に、繊維製品をも賜ることもあります(付記2.参照)。

くるべきを用いた作業を、当時の官人の家族も日頃していたとすれば、官人がくるべきの機能をよく知る機会があった可能性があります。

 しかし、この歌を官人が披露する(用いる)ことはあるとしても最初にこの歌を詠んだ人物が官人であるかどうかは何とも言えません。

⑫ 元資料の作者の詮索はさておいて、歌本文の現代語訳を、逐語訳すると、次のとおり。

わぎもこ」は、妻ではなく恋人を想定します。関係修復が絶対必要な(別れてはならない)相手への歌にもなるでしょうが、宴席の歌としては妻を対象に詠わない、と思うからです。

 愛しい子に

 恋をして(順調だったのに)今の二人の関係に心がみだれる

 糸車に

 かけて撚って丈夫な糸ができるように、わたしたちもしっかりした関係になりたいと

思って貴方に恋をしたのに (2-1-645歌現代語訳試案)

 この場合、宴席の歌であるならば、「愛しい子」は、眼前に居る人物です。話しかけたところわざと横を向いてしまった同僚であるかもしれません。

⑫ このような理解となる歌が上記「14.④」の3案のどれに該当するか、を次に検討します。

 2-1-644歌までを披露したその宴席での歌であるならば、目の前に居る女性を「愛しい子」に見立てて、詠いかけている、ということになります。

 2-1-644歌までの湯原王に歌を奉贈している(宴席に居る)娘子を、「愛しい子」とその場で言い換えて詠うのは違和感があります。また、2-1-645歌の題詞の作文パターンが、2-1-644歌までの題詞と異にして配列されています。

「愛しい子」が湯原王の妻を指すのであれば、娘子は固辞しているのに、なぜ妻が機嫌を損ねたのか疑問です。

 2-1-645歌は、2-1-644歌までの湯原王と娘子の贈答歌の歌群と関係がない歌であり、上記「13.④」の第一案には該当しません。

 ただし、2-1-644歌までを披露した宴席ではないとしたら、宴席の歌と題詞にある2-1-626歌と同じように、(その宴席に居る)娘子や同僚を「愛しい子」と呼び、詠いかける(披露する)ことは不自然ではありません。

 このように上記「13.④」の第二案はあり得ます。

⑭ そして、次に配列されている紀女郎の怨恨歌とは、作詠時点において相愛ではない、という共通点がありますので、同種の歌というくくりで、(宴席ではなく例えば女性たちの)社交的な場で詠われた歌として理解すると、一組を成す相聞歌群とみなすことが可能であり、第三案も有り得ます。

 つまり第3案を否定しきれません。

 このほか、代作した宴席の歌という可能性もありますが、「わぎもこ」という語句により作者の性別は変わらないので、結論は同じです。

⑮ では、宴席の歌でなく、私人(湯原王自身)の恋の歌と理解すると、どうか。

 作者の湯原王が、他の女性と歌の応答(と訪問)を繰り返すのは、それが妻(あるいは最愛の妻妾)との仲への悪影響がない、という確信(とか自信)があってこそのことです。又は妻あるいは最愛の妻妾になってほしいと願ってのことです。官人や皇族は一夫多妻制が是とされていた時代ですので、この歌のような状況に陥ることは湯原王にも想定が可能です。

 だから、私人の恋の歌という理解も可能ですが、そのような歌が巻四の編纂者の手元に集まるでしょうか。恋の歌としては、否定的です。

 ただし、親しい友人から私的な会合への誘いがないことを恨んで送った歌、つまり社交的な挨拶歌(「わぎもこ」はその友人を指すことになります)であるならば、その親しい友人と巻四編纂者の関係で提供があるかもしれません。そのような元資料をここに配列しているのは編纂者の考えであり、社交的な場の歌として仕立てられていることになります。上記「13.④」の第二案が有力ですが、第三案の可能性も残ります。

⑯ 以上を整理すると、この2-1-645歌は、

 上記「13.④」の第一案は、ありません。

 同第二案は、宴席の歌としてあり得ます。社交的な場での挨拶歌として詠われた歌としてもあり得ます。

 同第三案は、(宴席ではなく例えば女性たちの)社交的な場で詠われた歌としてあり得ます。ただし、紀女郎の怨恨歌もその社交的な場で詠われた歌であることが条件です。

 このため、2-1-645歌は、紀女郎の怨恨歌(次回検討予定)の理解により、相聞歌群として一組となる題詞(と歌本文)の有無が、決まることになりました。

⑰ 怨恨歌の以降で2-1-649歌以下の4題のもとにある歌は、作者(大伴宿祢駿河麿と大伴坂上郎女)が、叔母と甥の関係です。歌の内容は、社交的な挨拶歌です(上記「13.⑦」参照)。

 伊藤氏は、この4首を「娘婿と姑とが贈答歌に恋物語を楽しんだものである」、「天平の世の人々はこのしたたかさを文化として尊んだのである」、と指摘しています。

 2-1-652歌の左注にある語句「題歌送答相聞起居」は元資料の「作詠動機を察する糸口であり、歌が社交の具となっていた」という土屋氏の指摘からも一つの歌群とみることができます。このため、怨恨歌と一組の相聞歌群になっていないといえます。

 歌は、作者である大伴宿祢三依が、再会した相手の若々しいのを褒めています。その相手の名は、題詞には割愛されています。

 この歌は、(土屋氏はじめ諸氏の理解とは異なり)直前の歌(2-1-653歌)に対しての応答歌ではないか。

 2-1-654歌の四句~五句に(都に居住し続けて留守を守ってきた相手の妻である)「いへなるひとも まちこひぬらむ」と都に戻ってきた人物をねぎらい、2-1-655歌の初句~二句に「たまもりに たまはさづけて」と久しぶりの二人の時間を大切にしてくだい(いままでは私が話相手になっていましたが)、と挨拶している歌に理解できます。

 このため、2-1-653歌~2-1-655歌は一組の相聞歌群を成す、といえます。

⑱ 次の題詞のもとにある2-1-656歌~2-1-658歌の作者大伴駿河麿とその次の題詞のもとにある6首(2-1-659歌~2-1-664歌)の作者は叔母と甥の関係であり、歌の内容は、社交的な挨拶歌です。 

 諸氏はこの2題のもとの歌を一組の相聞歌群とみています。土屋氏は、「前の贈答(2-1-649歌~2-1-655歌まで)の歌)の記載方法から推測すると(叔母が)駿河麿に答へたもの」、「娘に代わっての作か。2-1-664歌は娘の為にして(作詠)いる。」と指摘しています。

 伊藤氏は「(2-1-649歌)以下4題のもとの歌(~655歌まで)以上に恋歌を楽しみ、物語を地で行く趣が強い」と指摘し、坂上郎女歌は前半3首と後半3首に分かれ、「後半は駿河麿の3首からはみ出た歌いぶり」、「二嬢の代作などといってしまうと、文雅が一挙に消え失せてしまう」とも指摘しています。

 恋の歌か社交的な場の挨拶歌かの判定はともかくも、一組の相聞歌群であるのにかわりありません。

 2-1-665歌以下2-1-667歌までは、題詞のもとに各1首だけです。それぞれ、詠っている女性は、旅先の浜に居る娘、妻、通っている女性であり、それぞれ別々の相聞歌群を成す、とみられます。 

 この3首は序詞や枕詞に興味があって作詠されている、また2-1-666歌は題詠、という指摘が諸氏にあります。2-1-668歌の題詞と2-1-669歌~2-1-670歌の題詞は左注による作者の関係からも一組の相聞歌群を成しています。そのため、この3首も、私的な社交的な会合における歌とくくることが出来るかもしれません。

 なお、2-1-680歌の左注の内容について土屋氏は、「此の時代の歌に対する態度を知り得るにはよい手がかりである。戯歌を作って贈答し、それが本集に収録されて居るといふ事実は否定出来ない」と指摘しています。

⑲ このように、怨恨歌以降にある2-1-645歌の題詞の作文パターンは、2-1-659歌~2-1-664歌の題詞まで、対の題詞がある相聞歌群ばかりです。

 歌本文の検討からも、題詞の検討結果である上記「12.⑧」の指摘は裏付けられました。

ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただき有難うございます。

次回は、紀女郎の怨恨歌を検討します。

(2023/5/29   上村 朋)

付記1.坂上郎女の怨恨歌について

① 2023/5/8付けブログで検討した。

② この怨恨歌は、(同族の祭りとか女性だけとか)私的な場での相聞歌の最後の歌になっているかに見え、この題詞のみで一組の相聞歌群とみるよりも、伝未詳の作者の歌の題2題とともに、恋の歌に関する「内省の歌」という一つの歌群をなす、とみてよいと思える歌である(同ブログ「12.⑭」)。

③ 特定の個人を念頭においた歌ではなく、相聞歌といっても私的な場の社交的な歌である(同ブログ「12.⑰」)。

 

付記2.綿と糸車(いとぐるま)について

第一 聖武天皇の御代における綿について

① 蚕の繭を裂き拡げた真綿(まわた)を指す。木綿の生産が日本で始まるまで、「綿」といえばこれ。

② 延喜式でも綿は、糸や絹などとともに繊維製品として調の一種となっている。

③ 禄のほか官人が特別に物を賜ることもある。例えば、『続日本紀聖武天皇の御代の霊亀2年11月10日条に「大納言多治比真人池守に霊寿幷せと絁(あしぎぬ)・綿を賜ふ」、霊亀4年10月5日条に「天下の、皇子(みこ)と同じき日に産まれたる者(ひと)に布一端 綿二屯 稲廿束」(を賜ふ)、とある。

第二 糸車について (京都府相楽郡精華町精華町ふるさとデジタルアーカイブ(せいか舎)より)

①「みんなの民具」の一つである糸車について、糸をつむぐ道具として次のような説明がある。

糸車:「綿から糸をつむぐ〔糸を作る〕作業で使いました。右の車と左のツム(紡錘)という軸(じく)とをヒモでつなぎます。そして、綿の筋(すじ)の先をツムにとりつけ、左手で綿の繊維を引きのばしながら、右手でハンドルを回して車を回転させると、ツムもつられて動くので、この力を利用して綿から引き出した繊維の筋に縒(よ)りをかけて糸にしていきます。」

「摘みとった綿〔綿花:めんか〕は、種をぬき〔綿繰り:わたくり〕、綿毛をほぐした〔綿打ち:わたうち〕のち、糸車を使って繊維に縒(よ)りをかけて糸に仕上げていきます〔糸紡ぎ:いとつむぎ〕」

② なお、せいか舎コラム「綿から糸へ」参照

③ 糸車の車はツム(紡錘)に比べると大きい。

第三 撚ることについて (日本撚糸工業組合連合会HPより)

①「撚る(よる)」とはねじりあわせること。

② 糸の製造を川上部門、糸加工、生地の製造、縫製を川中部門、製品流通を川下部門と分けています。
撚糸は川上部門の後、川中部門の最初に位置する糸加工という工程です。川上部門で製造された原糸(生糸)を受け取り、糸を引きそろえて撚りをかけて、次の工程である生地(織物や編物)の製造へ渡します。

③ では、なぜ糸に撚りをかけるのでしょう?
たとえば、かいこからとれる生糸。繭からほぐし出した糸はとても細く、そのままでは糸としては使えません。何本かを束にしないといけないのですが、ばらばらになって扱いにくくなります。この生糸の束に軽く撚りをかけると、丈夫な一本の糸として使えるようになります。

④ もともと撚糸はこのような簡単な目的のためにおこなわれたのですが、撚りをかける回数(撚糸の単位は、1メートルあたり糸が何回転したかで表します)を変えたり、太さの異なる2本の糸を撚りあわせたり、一度撚りをかけた糸を何本かそろえて逆方向に回転させて一本の糸にしたり、いろいろな工夫をしているうちに、その糸で作られる生地の風あいや肌ざわり、丈夫さなどがまったく違ってくるという効果がでてきたのです。
現在では技術の進歩により、多種多様な撚糸が行われており、糸に様々な表情をつけています。また合成繊維では従来になかった新しい繊維(原糸)がどんどん開発され、それに対応する新しい撚糸方法がたえず研究されています。
撚糸加工には蓄積された高い技術力と、新しいものに対するすばやい適応能力が必要なのです。

(付記終わり 2023/5/29)