わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か このゆふへ 萬葉集巻三配列その17

 前回(2022/8/15)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 霰 萬葉集巻三の配列その16」に続き、今回「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か このゆふへ 萬葉集巻三の配列その17」と題して記します。歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋)

1.~28.承前

萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、各歌について判定した表E(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を得ました。そして、「関係分類A1~B」の歌30首は、天皇の代を意識した4つのグループに分かれました。それ以外の歌においても2-1-387歌まで各グループに分けられることを確認しました。

 各グループは天皇の代の順に配列されており、各筆頭歌は、2-1-235歌、2-1-290歌、2-1-315歌および2-1-378歌です。

29.「分類A1~B」以外の歌 2-1-389歌の歌本文 

① 今回同一の題詞のもとにある2首目の歌本文の検討を行います。

 題詞は、あらあらの検討が終わっています(ブログ2022/8/1付け参照)。2-1-388歌のあらあらの検討も2022/8/15付けブログで検討し、現代語訳の一試案も得ました(付記1.参照)。

 次に、2-1-389歌を検討します。

 2-1-389歌 仙柘枝歌三首

   此暮 柘之左枝乃 流来者  梁者不打而 不取香聞将有

   このゆふへ つみのさえだの ながれこば やなはうたずて とらずかもあらむ

   (左注あり) 右一首

 現代語訳例を2022/8/1付けブログ(「27.②」)に示しました。土屋文明氏と伊藤博氏の訳例です。両氏とも、「2-1-389歌の作中人物は、今、柘の小枝が流れてきたら、取るだろう、と詠っています。『柘枝』伝の味稲の例に倣う、と言っている」と理解しました。

② 語句の検討をします。

 初句「此暮」(このゆふへ)とある「この」とは、連語であり、その意は3意あります(『例解古語辞典』)。

 第一 話し手に最も近い事物をさす。

 第二 前に述べた物事をさしていう。こんな。

 第三 現在まで続いた、最近の。

 伊藤氏は、この歌を宴席の歌として、第一の意と理解しているかのようです。土屋氏の場合は不明です。

 初句「此暮」(このゆふへ)とある漢字「暮」とは、「動詞「くれる」、名詞「くれ」・「よる」、形容詞「おそい(晩)」という意があります(『角川新字源』)。

 その訓「ゆふへ」(後代はゆふべ)とは、夜から朝にかけての時間の推移のはじまりであり、「ゆふべ」から、「よひ」、「よなか」(午前零時過ぎ)、「あかつき」、「あけぼの」、「あした」と進行したようだとし、(月が関係する)明るさに関係なく、時間的な進行についての表現です(『例解古語辞典』、以下も原則同じ)。

「夕べ」(複合語では「夕+・・・」)は、「夜を中心とした時間の始まりであり、「夕映え」という語句からも知られるように、日暮れ時分で、まだ暗くない。「よひ」は暗い時間を指す。」、とあります。「あした」(複合語では「朝+・・・」)は昼間を中心とした時間の始まりだそうです。

③ そうすると、初句にある「ゆふへ」は、ある物事の始まりを示唆しているのかも知れません。

 そして、「この」の意に従い、初句「このゆふへ」には3案があります。「この」をその第一の意と理解した、

 第一 「この歌が披露された当日の「ゆふへ」のこととして詠いだした、」

を意味するほかに、「この」をその第二の意と理解した、

 第二 「歌が披露されることとなった宴席などその会合で話題となった事がらにおける「この」ゆふへ、として詠いだした(今その会合で話題としている事がらにあるような「ゆふへ」と詠い出した)。」

 また、「この」をその第三の意と理解した、

 第三 「歌が披露されることとなったその会合等までに既に話題となっていた事がらにおける「この」ゆふへ(官人の間で十分話題となっていたことを題材に、その話題にあるようなことがおこる「ゆふへ」と詠いだした)。」

の3案です。

 この第三の意であると、この歌は会合で披露されなくとも書簡のやりとりにおける歌と理解することも可能です。「この」という臨場感は、同席していることを要しないからです。

 また、初句は、どの句までを修飾しているのか(「このゆふへ」に設定したことは何句までのことか)は、まだわからない状況です。候補は、仮定の接続助詞「ば」のある三句までと、推量の助詞「む」のある五句までの2案があります。

④ 二句「柘之左枝乃 」(つみのさえだの)の「柘之左枝」とは、山桑の小枝を指します。題詞「仙柘枝歌三首」のもとにある歌なので、『柘枝伝』(しゃしでん)に登場する(仙女が化したという)「柘枝」を指しているのかもしれません。

 三句「流来者」は四句以下の文の前提として仮定をしている文です。初句~三句までが以下の文の条件文なのか、初句は五句までにかかるとして二句と三句のみが以下の文の条件文かは、三句までではわかりません。歌の披露は朗詠されたと想定できますので、この歌の元資料の段階であればその朗詠のトーンなどで上記のどちらであるかの推測が可能であったかもしれません。

 それでも、題詞より『柘枝伝』の一場面は思い浮かびます。

⑤ 四句「梁者不打而」(やなはうたずて)の「梁」とは、「魚を捕らえる仕掛けの一つ。川の瀬などに木を打ち並べて、一部をあけ、そこに簀(すのこ)を置いて魚を受ける」(『例解古語辞典』)というものです。杭や石などで、目的の魚の行き来する流路を誘導し、簀を通れないその魚が留まるという仕掛けです。洪水ともなれば、水没する施設です。

 「打」(うつ)とは、その仕掛けを設ける作業をいうのでしょう。

 「やな」を設けた瀬には、色々なものが流れ下ってくるので、邪魔になる物は取り除きます。流れてきた「山桑の小枝」が、「やな」に留まってしまったら邪魔なものとして取り除けられることになります。家に持ち帰ろうとするのは別に目的があるからでしょう。

 「やな」を設けていなければ、邪魔なものと「山桑の小枝」は認識されないでしょうし、自然流下してゆき、人の目から消えてゆきます。

 そして接続助詞「て」の後の文は五句にある「不取」であり、「て」は、「不取」という行為の状況や理由など述べていることになるのではないか。具体には、

 第一 連用修飾語をつくる場合、あとに出る動作や状態が、どんなふうにして行われるか、どんな状態で行われるか、どんな程度であるのか、などを示して、あとの語句にかかる。

 第二 接続語をつくる場合、それで、そのため、という気持ちで、あとに述べる事がらの原因・理由などを述べる。

 第三 接続語をつくる場合、それでいて、そのくせ、という気持ちで、あとに述べる事がらに対して、一応の断わり述べる。

などの意があります。

⑥ 次に、五句「不取香聞将有」(とらずかもあらむ)を検討します。

「やな」が無いとなれば、「山桑の小枝」は邪魔なものという認識が生じません。流れてきても注目されず自然と人の目から消えてゆきます。

やなを設けていなければ「不取」ということは、ごく自然なことでしょう。

 動詞「とる」は同音異義の語句で、その意は次のようなものです(ブログ2022/8/15付け「28.⑪」より引用)。

「取る」:a手に持つ。b(拍子を)とる。

「捕る」:とらえる。

「執る」:手に持って扱う。操作する。

「採る」:採用する。採択する。

などなどです。

 「とらず」の「ず」は、打消しの助動詞「ず」の連用形あるいは終止形です。

 「香聞将有」(かもあらむ)の「かも」は助動詞「ず」の連用形に付いており、係助詞となります。詠嘆を込めた疑いを表します。

⑦ 「香聞将有」(かもあらむ)の「あら」は、ラ変の動詞「あり」の未然形です。

 ラ変動詞「あり」とは、「有り・在り・」と表記し、「aある。存在する。bその場に居合わせる。c(時が)たつ。経過する。」の意があります。

 「む」は推量の助動詞です。誰のことを推測しているかにより、その表すところが変わる語句です。「かも」の係り結びとなって、ここでは連体形、となっています。

 第一 この歌の作者(歌を披露した人物)が自らの行動について推測しているのならば、「あることを実現しようとする意志・意向」を表します。

 第二 この歌の作者(歌を披露した人物)が(「このゆふへ」における)第三者の行動について推測しているのならば、「物事の実現を予測したり、事態を不確かなこととして推量したりする意」或いは「(連体形を用いて)そうなることを仮定したり断定することを避けて婉曲に言ったりする意」を表します。

  第三 相手の行動についての推測では、「こそ・・・め」の係り結びなどの形をとったりするので、ここでは該当しない、と思います。

⑧ このような意のある語句を用いた歌本文について、文の構成を、題詞から示唆される『柘枝伝』の説話に留意し検討します。

 初句にある「このゆふへ」が修飾する文・語句の範囲に関して、大別して2案があります。

 「このゆふへ」に起こる事がらで、重要なことと作者が認識しているのは、二句~三句にある「つみのさえだがながれくる」ということか、あるいは五句にある「とらずかもあらむ」という行動か、のどちらであるかという点で2案あります。

 このため、歌本文の文の構成は次の2案となります。

 第一案 初句「このゆふへ」に起こる事がらについて、三句「ながれこば」と仮定すると、五句(誰かが)「とらずかもあらむ」となる。

 第二案 初句「このゆふへ」に起こる事がらを予測すると、五句(誰かが)「とらずかもあらむ」となる。

 初句のみでどちらであるか即断できないので、初句のみで独立の文として整理することとします。

 また、五句は、作者が推測しているのは誰の行動か、で案が別れます。

 

 文A このゆふへ :(『柘枝伝』にあるような場面である)このような夕方 (「この」は上記③第二の意)

    (別案)今日この場で話題となった事がらのような夕方 (「この」は上記③第三の意)

 別案であれば、「ゆふへ」が夜のはじまりということで「何かの始まり」の意を付け加えることができるのではないか。

 

 作者も披露を受けた人たちも、『柘枝伝』をよく承知している人物なので、歌を披露した当日の定性的な属性(月日や月齢や恒例の儀式の当日など)が『柘枝伝』の特定の場面を想起させる、ということが「このゆふへ」である可能性は少ない、と思います。 それでも、『柘枝伝』の説話にある一場面を念頭に作者は「このゆふへ」と詠い出したのではないか。それは、初句にある「ゆふへ」が、夜の始まりを意味するので『柘枝伝』での仙女と味稲との最初の出会いのような事がら(味稲が「つみのさえだ」を流れから手にとりあげた場面)を指すのではないか

 それが『柘枝伝』に記載のある話題であるのは確かなことですが、作者の意図は、それから想起することを話題として詠いだしたのかどうかは、不明です。

 このため、「このゆふへ」の意は、「この」の意を上記③に記した第二の意または第三の意が該当し、夜のはじまりである「ゆふへ」を重視すれば、第三の意の案である「文A(別案)」が理解の第一候補となります。

 なお、文Aのみでは、文Aが修飾している文・語句の範囲は不定です。

 

 文B つみのさえだの ながれこば :「つみのさえだ」が、(目の前に)流れてくる としたらば、

  この文Bは、文Cと文Dの前提条件となっています。

 「つみのさえだ」は、「この」の意が第二の意であれば、「仙女が化したという柘枝」を意味し、「この」の意が第三の意であれば、単なる「つみのさえだ」(山桑の小枝)を意味します。暗喩の有無はまだわかりません。

 文C やなはうたずて :(その流れに)梁は、設けることをしないで、

 この文により、梁がない場面ということが分かりますので、梁が既に打ってある『柘枝伝』の一場面と異なる状況ということになります。文Bにある「ながれこば」という条件は、梁を打っていないときのことであることになり、文Aの理解は、「文A(別案)」が唯一の理解となります。

 文D とらずかもあらむ :(「つみのさえだ」を)私は手にすることはないだろうか、どうであろう。

(別案)(「つみのさえだ」を)誰かは手にすることはないだろうか、どうであろう。

 五句にある「かも」には、反語の意がなく「詠嘆を込めた疑い」の意ですが、なぜ「詠嘆」するのかはっきりしていません。しかし、「つみのさえだ」を、手にしたい気持ちが自分か誰かに生じることを作者は認めている表現である、と理解できます。

 なお、五句にある「とる」の意を「取る」の意で検討してきましたが、「採る」の意とすると、

 文D’ とらずかもあらむ :(「つみのさえだ」を)私は採用することはないだろうか、どうであろう。

(別案)(「つみのさえだ」を)誰かは採用することはないだろうか、どうであろう。

となり、「つみのさえだ」に暗喩が込められていることになり、2-1-388歌にある「吉志美我高嶺」の第一案、第三案それぞれに対応する歌の理解が可能です。

⑨ ところで、この歌に対する疑問があります。流れてきた「つみのさえだ」を手にする(採用する)際に、梁に拘っていることです。

 一般に、川の瀬に「つみのさえだ」が流れてきて、それを拾い上げる意思があれば、梁がなくとも、瀬に入り手にすることができます。梁がないと手にできないものではありません。だから、「目にした(そしてどこか気になった)「つみのさえだ」を、流れ去ってゆく前にさっと手にするかどうか、と悩むのも大袈裟ですが、手にするのに「梁」の有無をなぜ気にしているのでしょう。「つみのさえだ」が流れてくるのをみてから「梁」を設けていたら、今後もいくつも流れてくる「つみのさえだ」を手にする、ということになります。

 もともと流れてきた「つみのさえだ」は手にする価値のあるものでしょうか。「つみのさえだ」を小道具にした遊びがあるとも思えません。自然に流れ去って当然の「つみのさえだ」をわざわざ拾いあげようとすることを重視している理由は何でしょうか。

⑩ 題詞を前提にすると、「つみのさえだ」は「梁を打たない」という表現により、『柘枝伝』における「つみのさえだ」でない、即ち特別なことを期待しているのではない、ということを強調しているのではないか。

 川を流れ下ってきた「つみのさえだ」に価値があるとは思えません。それを拾いあげるのは、気まぐれの行為か、美化しても趣味の範囲の行為です。

 官人ですから、拾いあげるといっても、自ら行うよりも下僚や家人に拾ってこさせた、というのが実情だと思います。それをほかの官人が(例えば官人の品位を問題として)とがめだてする程のこともないでしょう。

 この歌は、「このゆふへ」という語句で、時点と状況を示し、『柘枝伝』における「つみのさえだ」でない「つみのさえだ」を、(私か誰かは)拾いあげる「かも」と詠っていることになります。これは、このようなことは目くじらたてることではない、と言っているように見えます。

 同じ題詞のもとにある直前の歌(2-1-388歌)は、「『柘枝伝』における、仲睦まじい夫婦であった時期のエピソード」の歌でした(2022/8/15付けブログ「28.⑯」参照)。その『柘枝伝』ではその後仙女は仙界に突如還り夫婦は破局を迎えています。それを前提にすると、この歌でいう、「つみのさえだ」は、(『柘枝伝』に登場するものとちがい)結果として破局を迎えるものでもない、ということを言っている、と思えます。

 この歌で「梁」の有無を気にしているのは、直前の歌と比較することを求めている、のかもしれません。

⑪ ここでは、文Dで現代語訳を試みます。

 以上の検討の結果

 文Aの「このゆふへ」の意は、文Bと文Cにより、「文A(別案)」となります。

 文Dは2案(行動する人物別)、となります。

 文Aの「このゆふへ」のかかる文の範囲は、まだ定かではありません。

(試案)は、つぎのとおり。

 第一案 作者が、自身の行動を推測している場合

「今日この場で話題となった事がらのような夕方 (「この」は上記③第三の意 文A(別案))、

「つみのさえだ」が、(目の前に)流れてくるとしたらば、

(その流れに)梁は、設けることをしないで、

私は手にすることはないだろうか、どうであろう。」

 なお、「ゆふへ」が夜のはじまりということで「何かの始まり」の意を付け加えることができるのではないか。

 これを、2-1-389歌現代語訳試案第一とします。

「このゆふべ」と作者自らが場面設定をし、その「ゆふべ」での自らの行動を推測しているので、「このゆふべ」は、文Bを修飾しても文B~文Dを修飾しても、どちらでも歌の意は、同じです。強いていえば、直近の文Bを修飾しているほうが文の構成としてわかりやすい、と思います。

 第二案 作者が、誰かの行動を推測している場合

 「今日この場で話題となった事がらのような夕方 (「この」は上記③第三の意 文A(別案))、

「つみのさえだ」が、(目の前に)流れてくるとしたらば、

(その流れに)梁は、設けることをしないで、

(「つみのさえだ」を)誰かは手にすることはないだろうか、どうであろう。(文D(別案))

 なお、「ゆふへ」が夜のはじまりということで「何かの始まり」の意を付け加えることができるのではないか。

 これを、2-1-389歌現代語訳試案第二とします。

「このゆふべ」と作者自らが場面設定をし、その「ゆふべ」での誰かの行動を推測しているので、「このゆふべ」は、文Bを修飾しています。「このゆふべ」の文Bの場合の誰かの行動を作者が推測している歌です。

 いまのところ、この(試案)2案の一方を否定できる材料がありません。さらに文D’の案もあり得ます。

 一つの題詞のもとの3首は、同時に成り立つ歌のはずであり、後ほど3首の比較検討で、試案は1案になると予測しています。

⑫ 伊藤氏は、宴席で、『柘枝伝』の味稲になりかわって出席者の誰かが詠んだ前歌(2-1-388歌)を承けた歌であるが、宴席が夕方であったのかもしれない、という推測をしていますが、「この」の意に留意すると、そのようにこの歌の披露の場面を限定する具体的な材料がありません。少なくとも話題とした事がらは、「ゆふへ」を強調できる事がらであったのか、と推測するのみであり、宴のように対面での場面なのか、書面に記されて特定の人物に示されたのかあるかは回覧されたのか、題詞からもわかりません。

 この題詞のもとにもう一首あります。それを次回検討します。

 ブロブ「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。(2022/8/22  上村 朋)

付記1.2-1-388歌の現代語訳試案について

① ブログ2022/8/15付けの「28.⑧」に題詞及び「28.⑯」に歌本文の(試案)を示している。但し、細部は詰めていない。

2-1-388歌 仙柘枝歌三首

   霰零 吉志美我高嶺乎 險跡 草取可奈和 妹手乎取

   あられふり きしみがたけを さがしみと くさとりはなち いもがてをとる

 (題詞) 仙女である柘枝の(あるいは、に関する)歌三首歌 (仮案)

 (歌本文) 「(恐ろしい)霰が降ってきて遮るもののない「きしみがたけ」にいるのを「さがし」と判断したので、私は、手にしていた草を放り捨て、いそぎ妹の手をとった(霰から逃げるために)。」(2-1-338歌現代語訳試案第一)

② 『柘枝伝』での説話を下敷きにして、仲睦まじいエピソードを表面上詠っている。

③ 「霰」(あられ)とは今日の雹も含めた当時の表現。草を手にしているのだからは冬ではない。

④ 「吉志美我高嶺」には暗喩がある。類似歌(5-353-19歌(『肥前風土記逸文にある歌))にある「きしみがたけ」を援用している。

⑤ 動詞「險」(さがし)とは、「けわしい」と「危うい・危険だ」の意がある。

(付記終わり 2022/8/22  上村 朋)