わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か  萬葉集巻三の配列その2 

 前回(2022/3/21)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 萬葉集巻三の配列その1」と題して配列を検討しました。今回はその続きで、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 萬葉集巻三の配列その2」、と題して記します。また、歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋)

1.~3.承前

萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、各歌について判定した表E(前回のブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を得ました。そして、「関係分類A1~B」の歌30首から、雑歌の部は天皇の代を意識した4つのグループから成る、と前回指摘しました。4つ目のグループは、巻一に準じれば「寧楽宮」の代、ということになります。

4.巻三の雑歌の整理その2

① 「関係分類A1~B」以外の歌も、その4つのグループになるか、及び各グループの筆頭歌の意義などを確認します。

 前回予想した巻三雑歌の部の配列は次のとおりでした。

表 万葉集巻三雑の部の歌群の推定  (2022/3/21  現在)

歌群のグループ名

歌番号

関係する天皇

  計

関係分類A1~B

左以外の分類

第一

235~245 (11首)

246~289 (44首)

天武天皇

持統天皇

文武天皇

 55首

第二

290~291 (2首)

292~314 (23首)

元正天皇

元明天皇

 25首

第三

315~328 (14首)

329~377  (49首)

聖武天皇

 63首

第四

378~380 (3首)

381~392  (12首)

寧楽宮

 

15首

 計

        (30首)

        (128首)

 

158首

注1)歌番号は、『新編国歌大観』記載の『萬葉集』での歌番号

注2)関係分類とは、歌と天皇の統治行為との関係を事前に用意した11種類への該当歌をいう。ブログ2022/3/21付け本文「2.③」参照。

注3)この表は、表Eをもとに、表Eの◎印の歌を「A1」と判定しなおして作成した(ブログ2022/3/14付けに示した表と同じ。) 表Eは、ブログ2022/3/21付け付記1.に記載。

注4)「歌番号:左以外の分類」欄の歌で一番多いのは「C」である。「H」と「I」には、「G」までに分類できない歌も天皇の下命の有無で分類した(分類保留の歌はない)。

② 歌の作詠(披露)時点がその歌群のグループの天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌と判定することとします。ほかの代の可能性の有無は関係ありません。

 例えば、作者未詳の伝承歌と推定でき、歌本文の内容(あるいはその暗喩)が当該天皇の代に改めて披露されてもおかしくないのであれば、そのグループの期間中に披露された歌の可能性を認め、そのグループの歌とみなします。

 また、作者が、そのグループの期間中に現役の官人であって、題詞の文章と歌本文が当該天皇の代の作詠あるいは披露されたとして矛盾がなければ、そのグループの歌とみなします。

5.長田王の歌  「 ・・・之時歌」

① 上記の表で歌群第一グループのうち「関係分類A1~B」以外の歌を、最初に検討します。年代的には文武天皇崩御慶雲4年(707)までに作詠された(あるいは披露された)と推定できるかを確認し、その作詠(披露)時点と題詞等との矛盾の有無をみて判定します。

 「関係分類A1~B」以外の歌の最初は、題詞に「長田王被遣筑紫渡水島之時歌二首」とある2-1-246歌と2-1-247歌です。

 表Eは、題詞にある長田王を作者とみなして作成しました。

 しかし、題詞に「・・・之時」とあるので、2022/3/14付けブログの「20.⑨」で2-1-309歌を検討した際と同じく、「水島のこと(あるいは水島へ渡ることが話題になった時の歌」とも理解できることに気が付きました。長田王の作詠した歌ではない恐れがあります。

 水島とは、景行紀十八年に地名由来説話の記載がある島です。「葦北(熊本県葦北郡など)に至った皇軍は小島に渡って食事をすることになり、小左(おひだり)という者が冷たい水を持ってくるよう命じられた。しかし島に水はない。切羽詰まった小左が天神地祇に祈ると崖から寒泉(しみず)が湧き出してきた。そこでこの島を水嶋という」(ウィキペディアより)由来記です。

 熊本県八代市球磨川の分流のひとつである南川の河口にある周囲40m前後の岩山だそうです。

② 2-1-246歌から2-1-249歌は、題詞3題をみると、長田王が関わる一つの歌群として配列されている、とみなせます。

 平城京に居を構える長田王が水島に行くには、筑紫に行く用務を拝命し、出来るならば水島の近くに行く必要が生じるのが望ましい。

 また、第一グループの歌であれば、少なくとも文武天皇の御代に、長田王は筑紫に遣わされていなければなりません。

 しかしながら、『続日本紀』には長田王の筑紫派遣の記事はありません。大宰師の任命もすべてが記載されていないので、直ちに可能性無し、と断定できません。蔭位の制(付記1.参照)によって文武天皇の御代に官人の活動を始めていれば可能性はあります。

③ 長田王は、『続日本紀和銅4年(711)4月7日条に初出しています。「詔して文武百寮の成選(じょうせん)の者に位を叙したまふ」とあり、従五位上長田王は、正五位下を授けられています。

 長田王は蔭位の制による初叙があり(例えば諸王の子であれば従五位下)、次いで従五位上を授けられ、そして考査期間を越えたので官人としての勤務状況がまた考査された結果、和銅4年に正五位下が授けられたということです。

 和銅4年は文武天皇崩御の年(慶雲4年(707))から4年目であり、文武天皇の御代に官人として活動を始めているのは確かなことです。

 長田王は、和銅5年には伊勢斎宮へ派遣されています(2-1-81歌の題詞)。しかし、このことも初叙も『続日本紀』に記載がありません。『続日本紀』によれば、その後、霊亀2年(716)10月20日従四位下・近江守、神亀6年(729)3月4日正四位下天平元年9月28日衛門督になり、天平9年(737)6月18日卒しています(流行していた天然痘か)。

 だから、文武天皇の御代から聖武天皇の御代までに筑紫に派遣された可能性が、長田王にはあります。

 なお、『続日本紀』に、定期の叙位(成選(じょうせん)の者)の記述は、慶雲4年(707)2月、和銅4年(711)、霊亀元年(715)があります。慶雲4年2月の成選の叙位の記事には個人名に触れていません。

④ 第一のグループの歌としては文武天皇の御代の作詠(披露)時点の可能性を追求することになります。

 題詞にある「・・・之時」を再確認すると、「・・・之時」の意は、二つ考えられます。

 第一 長田王が筑紫に実際に遣わされて、その後に水島行が話題になった場合

 第二 長田王が平城京に居て、筑紫のことが話題になり、薩摩に近い水島にも触れた場合

 前者は、左注をした人物も想定していたかもしれません。

 文武天皇の御代の作詠(披露)であれば、後者の可能性が大きい、と思います。

 題詞にいう「遣わされる」というのは任官ではなく、臨時の用務での筑紫派遣の意味合いではないか。文武天皇の御代での長田王の立場からはその可能性よりも、平城京に居た長田王が筑紫の話を聞く機会があり、作詠の機会に恵まれたと推測します。

 大宰府はじめ各国からは朝集使(使者に必ず四等官)が毎年上京しています。

 平城京における公的な宴席は多々あります。そのような席で石川大夫と会話をする機会があった際の歌が、この歌群の歌という理解です。

 大宝2年(702)8月には薩摩・多褹(たね)の反乱がおこり、征討後の10月3日に唱更国司(辺戌を守る国司の意。)が柵を建てることを奏上しています(『続日本紀』)。これが薩摩国の始まりだそうです。

 都で筑紫管内が話題となれば隼人のことに及ぶということが、文武天皇の御代に十分に有り得ることです。

⑤ 歌本文をみてみます。

 2-1-246歌の歌本文は、水島を褒めている歌です。伝承歌であれば、地元側の立場の人物が披露した歌であり、長田王の作詠であれば、「行きたいね」という挨拶歌でしょう。

 2-1-247歌は舟で水島に渡ろう、と詠い、それに和した2-1-248歌は、「和我世故我 三船乃登麻里 瀾立目八方」(わがせこが みふねのとまり なみたためやも)と、泊を重ねて水島にわたるかに詠っています。2-1-248歌の歌本文には地名は詠み込まれていません。

 水島近くの葦北の地から水島に行くのに、陸路ではなく、船で泊を重ねて行くルートもあるでしょうが、それよりも筑紫に行くのに海路はよく利用されています。

 だから、この歌は、来ていただけるならば、停泊地はみな波おだやかに貴方を迎えるでしょう、と平城京から筑紫への海路の旅をも詠み込んでいるのではないか。

 2-1-249歌は、現地に行ったならばの感慨を長田王が詠っているものとみえます。水島の地理的位置が、時々反乱を起こす薩摩の地に近いことの感慨ではないか。

 これらの歌で、現在の現地の事情が反映している語句は、2-1-248歌の二句にある「野坂乃浦」ですが、その比定地が定かではありません。つまり、現地に行ってないと詠えない歌ではない、ということです。

⑥ 水島は、大宰府から遠すぎます。上記④の第一の場合、筑紫へ臨時に派遣された理由から現地付近に行く必要性の説明が要ります。

 薩摩等の反乱の際、「実に神威に頼りて遂に荒ぶる賊を平げき。ここに、幣帛を奉りてその祷(いのり)を賽す」(大宝2年10月3日条)ことをしておりその際、水島近くに対象の一社があったのでしょうか。

 または、大宰府から帰任する人の餞の宴は泊まりを重ねながら何度か行われているのが通例です(例えば、2-1-571歌)。あるいは大宰府での宴席で「冷水」が話題となり水島の地名由来説話が話題となって、歌の応酬があったあるいは披露されたということも有り得ます。

 しかしながら、この歌群の配列は筑紫への愛着を感じさせる歌ではないので、これらの想定は該当しない、と思います。

 このように、長田王の筑紫派遣の必要性・可能性の全てを検討し終わったわけではありませんが、「・・・之時」の意は、上記④の第二が有力であり、この一連の歌は、文武天皇の御代での作詠(披露)であれば、平城京におけるものではないか、と思います。

⑦ 次に、2-1-248歌の題詞には作者の名があります。それから作詠時点の推測を試みます。

 諸氏は、作者を論じて、和銅神亀のころの作詠を想定されています。

 なお、この歌の題詞「石川大夫和歌 名闕」は、前歌2-1-247歌一首に和する歌と理解して表Eを作成しました。

 この歌には左注があり、石川大夫について候補者を2名あげています。

 土屋氏は、和銅神亀のころを前提に別途石川足人を候補としています。この人物は『萬葉集略解』(橘千陰)にある説です。また、長田王の筑紫派遣の有無とその時期を、氏は論じていません。

 2-1-248歌の題詞にある「(石川)大夫」とは、当時は五位の人物の尊称とされています。『萬葉集』における名前の表記方法の統一性から土屋氏は、左注があげる候補者の一人石川宮麿は、慶雲2年(705)11月に従四位下で大弐に任じられていますが、否定されました。

 左注があげるもう一人の候補者石川吉美侯は、『続日本紀』の大宰少弐の任命の記載がありません。

 『続日本紀』には、大宰師の任命もすべてが記載されておらず、大宰少弐も同じです。このような人物が当時大宰府にいなかった、と断言する材料が今のところありません。

 和銅神亀のころが作詠(披露)時点という説は否定する材料がない、ということです。

⑧ 上記④の第二で、かつ文武天皇の御代の場合、「石川大夫」の歌は、大宰府での勤務経験が必須の歌でしょうか。水島の地理的相対的な位置関係や筑紫へ行く行程は誰でもが承知しており、だから誰でもが詠えます(会話に割って入ることができます)。

 だから「石川大夫」は「大夫」と尊称される(五位にあること)以外の条件はない、と思います。

 即ち、『続日本紀』に大宰府への任命記事がなくとも、五位の「石川大夫」を想定できればよいことになります。その第一候補が左注であげる候補者の一人石川吉美侯です。

 ただ、『続日本紀和銅6年(713)1月23日条に「正七位上石川朝臣君子に従五位下(を授く)」とあり、同養老5年(721)6月26日条に「従五位上石川朝臣君子を侍従」とあります。この人物は和銅6年(713)まで五位となっていませんので、石川君子が「石川吉美侯」と同一人物であるならば対象外となります。

 左注があげるもう一人の候補石川宮麿は、慶雲2年(705)11月に従四位下で大弐に任じられています。従四位下の下が正五位上ですので、慶雲2年(705)11月以前に「大夫」と尊称されていた可能性があります。それは文武天皇の御代となります。

⑨ このように、「石川大夫」の検討からは、作詠(披露)時点は、和銅神亀のころでも、文武天皇の御代でも可能性があります。

 言い換えると、文武天皇の御代の歌として配列可能です。

 「・・・之時」の検討と重ね合わせると、文武天皇の御代での平城京における作詠(披露)の歌群であろう、と思います。

 まとめると、

 2-1-246歌は、伝承歌を誰かが披露した歌です。長田王がこのように詠いだす理由が希薄です。

 2-1-247歌は、長田王が いってみたいとそれに和した歌です。挨拶歌です。

 この2首が題詞「・・・之時」のもとにある歌です。

 2-1-248歌で、石川大夫が、そうであるならばと、筑紫への旅、次いで水島への旅の安全を寿ぎ

 2-1-249歌は、それを受けて、長田王が、水島で薩摩を望見したと仮定した歌です。

 少なくとも巻三の編纂者は、このような理解が可能なように題詞を作文して配列している、といえます。

 

6.人麿歌など

① 2-1-250歌からの9首の作者は、「人麿」と題詞にあります。作詠(披露)時点の年号等を題詞に明記していません(以後の歌でも原則同じです)。

 これらの歌は、だから文武天皇の御代に折に触れ披露されていた伝承歌、という理解が可能です。

 なお、作者名を人麿に仮託した歌が『萬葉集』にある、と諸氏は指摘しています。これらも当時の伝承歌のひとつです。2-1-266歌以下の人麿歌の作詠(披露)時点の検討は割愛します。

 これらの人麿歌の次に配列されている2-1-259歌等の作者鴨君足人、あるいは2-1-265歌の作者刑部垂麿と、2-1-267歌の作者長忌寸意吉麿は、伝未詳です。文武天皇崩御慶雲4年(707)までに詠まれたかどうかは判定不能です。つまり文武天皇の御代に披露された歌ではない、と積極的に主張できません。

② 次に、2-1-263歌他1首を人麿が献じたという新田部皇子は、文武天皇4年(700)浄広弐に叙せられています。養老4年藤原不比等死後、知五衛及授刀舎人事に任命され、朝廷直轄の軍事力の統括者となっています。歌を献じた時点は文武天皇の御代にも可能性があります。

 2-1-269歌の作者志貴皇子は、天智天皇の子であり、元正天皇の御代まで存命でした。『続日本紀』では「霊亀2年(716)8月11日薨す」という記事があります。

 2-1-270歌の作者長屋王は、慶雲元年(704)正四位上文武天皇の御代21歳となっています。

  2-1-271歌の作者阿倍女郎は、中臣朝臣東人との贈答歌があります。その東人は、長田王と同時期の和銅4年(711)4月17日の成選の結果で正七位上から従五位下を授けられています。考査の期間が必要なので官人としてのスタートは文武天皇の御代であったと思います。

 題詞にいう「屋部坂」とは、土屋氏は、河内より坂を越えて平城京を望見できる坂(志比坂)と、推測しています。なお、阿倍女郎は何人かが『萬葉集』に登場しています。

 2-1-272歌等の作者高市連黒人は、伝未詳ですが、2-1-70歌の題詞に作詠時点とともに名前が明記(太上天皇持統天皇)の芳野宮行幸時作詠)されており、持統・文武天皇の頃の人、といわれています。

③ 2-1-281歌の作者石川少郎は、左注に従えば石川君子となります。石川君子は、『続日本紀和銅6年(713)1月23日条で正七位上から五階一気に昇進し従五位下を授けられています。蔭位による初叙が低い官人であるならば、此の特進は官人としての履歴を経た後の事でしょうから、文武天皇の御代に官人となったと推測できます。なお、蔭位の制では、従五位庶子であれば従八位下となります。

 2-1-281歌本文初句にある「然」の地は福岡県粕屋郡の志賀島を指します。

 作者石川少郎は、文武天皇の御代に筑紫勤務の経験をすることが可能です。

 「少郎」とは中国では他人の子を呼ぶ敬称の中で兄弟の一番末に当たる男子をいうそうです。

④ 2-1-282歌~2-1-284歌の作者は高市連黒人とその妻です。作詠時点は題詞に明記されていません。高市連黒人は2-1-272歌等で指摘したように、持統・文武天皇の頃の人、といわれています。

 2-1-285歌と2-1-287歌と最後の歌2-1-289歌の作者春日蔵老は、大宝元年(701)勅により還俗しています。

 2-1-288歌の作者丹比真人笠麿は、伝未詳です。

 このように、第一グループのこれらの歌は、文武天皇の御代までに作詠あるいは初めて披露された歌ということができます。これは伝承歌などが元明天皇の御代に披露されなかった、ということを意味するものではありません。

⑤ ブログ「わかたんかこれ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 「関係分類A1~B」以外の歌で第二グループ以下の歌は、次回検討します。

(2022/3/28  上村 朋)

付記1.蔭位制について

 養老令では、21歳に達して後、

① 親王の子は従四位下、諸王の子は従五位下、五世王の嫡子は正六位上 五世王の庶子正六位下が初叙。

② 諸臣では、一位の嫡子が従五位下・・・・・・・従五位の嫡子が従八位上が初叙。 庶子は一階を降し、三位以上の孫はまた一階を降す。

(付記終わり  2022/3/28  上村 朋)