わかたんかこれ 巻三譬喩歌 萬葉集巻三配列その24

 前回(2022/11/14)のブログまでで萬葉集の巻三挽歌の検討が一応終わりました。今回「わかたんかこれ 巻三比喩歌 萬葉集巻三の配列その24」と題して、記します。(上村 朋)

1.~40.承前

萬葉集』巻三の部立て「雑歌」と「挽歌」は、四つの年代を意識して編纂されていました。残りの部立ては「比喩歌」です。歌は『新編国歌大観』によります。

41.『萬葉集』巻三比喩歌の検討

① 巻三の譬喩歌についても、『萬葉集』の歌は、(その『萬葉集』に記載の)題詞のもとに歌があるという普通の理解が妥当であるという仮説を検証しつつ、歌と天皇の各種統治行為との関係を重視して検討します。

② 巻三は三つの部門に別けて編纂されています。「雑歌」、「譬喩歌」そして「挽歌」です。

 なお「譬喩歌」という部立ては、『萬葉集』では巻三にあるだけです。先行して編纂されはじめたという巻一~巻二の部立ては「雑歌・相聞・挽歌」の順であり、そのあと編纂されはじめたという巻三~巻四では「雑歌・譬喩歌・挽歌・相聞」の順です。そして最終編纂時点で部立ての順序が変更されたかどうかはわかっていません。この部立ての順序は、歌の配列に関わりますので、理由があるはずです。

 諸氏は「譬喩」とは修辞上の分類項目ではないかとみて、三大部立て(順不同の雑歌と相聞と挽歌)と異なる分類方法である、と指摘しています。

③ 三大部立ては、歌を披露する場面による分類のようにみえ、「譬喩」を用いた歌も配列されています。

 それなのに巻三では部立てとして「雑歌」と「挽歌」の間に、一つの部立てとして置かれています。次に置かれている「挽歌」の検討からみると理解の示唆をしているのかもしれません。

 この点は後程検討するとして、最初に譬喩歌という部立てにある題詞と歌本文の検討をします。

④ 部立て「譬喩歌」には、「標目」の区分はなく、題詞が22題と歌本文が25首とがあります。ほかの部立てより明らかに少ない歌数です。

 題詞より検討します。

 題詞の作文は、

 「作者(あるいは披露した人物)」+(相手など)+「歌〇首」

 「作者(あるいは披露した人物)」を欠き、「和歌」・「報歌」+「歌〇首」

の2タイプがあります。

 後者も題詞の配列を考慮すれば十分「作者(あるいは披露した人物)」を特定できます。そのため、題詞には、必ずその歌の「作者(あるいは披露した人物)」を明記している、といえます。

⑤ また、作詠時点(披露した時点)の暦年表記が全然ありません。明記されている作者名の記載されている肩書と死亡年次で推測すると、次のようになります。(ここでは、従来通り左注を後代の注として扱います)

 2-1-393歌(筆頭歌)   天武天皇の御代

 2-1-394歌~2-1-397歌 聖武天皇の御代 天平初年の前後か

 2-1-398歌~  聖武天皇の御代  天平10年前後より以降か

 雑歌や挽歌における天皇の御代を指標とした作詠(披露)時点の4グループ区分にあてはまらないで、特定の2代の御代の歌です。

 そして、天皇の臨席や官人の公務の出張を直接示唆するような記述などもないので、「譬喩歌」にある歌は、天皇の各種統治行為との関係は重視されていない、とみなせます。

⑥ 題詞のみから、わかることは単に誰が作詠したか(披露したか)が分かるだけです。これでは、歌本文が「譬喩」を用いた歌」である、と理解するのは「譬喩歌」という部立てにあるからということになります。そして、すべての歌本文に、表面の歌意と別途の歌意があることを下記のように確認できました。

 このため、題詞は、表面の意に関するだけである、ということになりました。当然ながら、元資料が確かにある(編纂にあたって詠作された歌ではない)ということも題詞は示唆しています。

 部立ての名称が歌の理解に重要である、ということです。歌の修辞法のうち、譬喩という方法に注目すべし、というヒントのメッセージが、この部立ての名称にある、と思います。

⑦ 次に、歌本文を検討します。

 伊藤博氏は、譬喩歌とは「人間の姿態・行為・感情を事例に譬えて述べる歌」と定義し、各歌での「人間の姿態・行為・感情」(以下では感情等という)を指摘しています。氏の定義に従い、氏の指摘に倣い、各歌本文についてそれを検討したのが下表です。その「譬えている感情等」欄に記しています。

 表をみると、譬えている感情等は、作者(披露者)がだれであっても変わらない、と言えます。作者(披露者)に依存した譬喩のある歌を編纂者は選んでいません。つまり、譬えている感情等を相手に伝えるのに、だれもが用いることが出来る歌である、ということです。

⑧ このようなことは、譬喩歌でなくとも多くの名歌の(暗喩ではなく)表面的な歌意では同じことが言えます。初句を伝えるだけで、その歌の云わんとしていることが伝わり、伝えた人物の(その歌意とは別にある)意志・意向が何であるかが伝わります。伝承歌の多くも同じような目的のため繰り返し色々な人が披露したのでしょう。

 そうすると、巻三の部立て「譬喩歌」とは、いうなれば暗喩を重視している歌を集めた部立て、ということになります。

表 巻三譬喩歌にある各歌での事例で譬えている感情等の推計(2022/11/21現在)

歌番号

題詞での作者(披露者)→題詞での贈る相手(想定した贈る相手)

歌本文の注目語句

譬えている感情等

393

紀皇女→(恋の相手)

軽の池 鴨

来て下さいな

394

造筑紫観世音寺別当沙弥満誓→(知人などへの報告)

足柄山の船木

人妻となってしまったのはびっくり

395

大宰大監大伴宿祢百代→(知人などへの報告)

夜の梅 折る

機会を逃して残念

396

満誓沙弥→(恋の相手・訪問相手)

山の端にいさよ月

早くお逢いしたい・お出ましを

397

余明軍→(競争相手)

標結いをした小松

手を出すな

398

399

400

笠郎女郎→大伴宿祢家持

紫草

陸奥の真野

岩本菅

人の噂になったのだから逢ってくださいな

401

402

藤原朝臣八束→(相手の親)

妹の家に咲いた梅

時期を待っていたのに

403

大伴宿祢駿河麿→(相手の親・頼んだ相手)

あの梅の花が散る

それは人違いでしょうね・お願いしていたことは大丈夫でしょうね

404

大伴坂上郎女→(相手・親戚一同)

山守のいる山と標結 恥しつ

先約があるとは知らず悪かった・(題詞の「氏族の宴」から)あの件は一件落着しています

405

大伴宿祢駿河麿→(相手・親戚一同)

山守のいる山と標結

(歌本文のみより)あなたの意見は今も尊重される・(題詞の「和歌」より)御理解感謝する・

406

大伴宿祢家持→坂上家大嬢

逢いたい

407

娘子→佐伯宿祢赤麿

神の社 春日野での粟蒔き

うるさい貴方の妻がいなかったらば逢えたのに

408

佐伯宿祢赤麿→(娘子)

神の社 春日野での粟蒔き 

ほんとに妻はうるさい・(題詞の「さらに贈る」より)大丈夫だよ、内緒にできる。

409

娘子→(佐伯宿祢赤麿・寄り来る男ども)

憑きたる神

妻は大事にしてね・逢えませんよ

410

大伴宿祢駿河麿→(坂上家当主)

葱苗

年頃になったかな・(題詞より)私にください

411

大伴宿祢家持→坂上家大嬢

ナデシコの花

毎日逢いたい

412

大伴宿祢駿河麿→(恋の相手)

千重波 玉

どうして逢ってくれないのか

413

大伴坂上郎女→(娘への求婚者)

橘を植え育てるる

大事な娘をあなたにやれない

414

(大伴宿祢駿河麿)→(大伴坂上郎女

庭に植えてある橘

是非とも逢わせてください

415

市原王

きすめる玉

娘を大事にしてほしい

416

大網公人主

塩焼き衣の藤衣

恋の次のステップに進めないのが残念

417

大伴宿祢家持

山菅の根

でも諦めていませんから

 22題 25首

 

 

注1)「歌番号」は、『新編国歌大観』所載の『萬葉集』の歌番号。

注2)「題詞での作者(披露者)→題詞での贈る相手(想定した贈る相手)」は、題詞に明記された人物名であり()書きは、この歌を示す相手として題詞と歌本文から想定可能な人物像を推測した。

注3)「歌本文の注目語句」は、歌本文における「譬えている感情等」を推測した主要な語句。

注4)「譬えている感情等」は、伊藤博氏のいう譬喩歌定義「人間の姿態・行為・感情を事例に譬えて述べる歌」における各歌での「人間の姿態・行為・感情」(以下では感情等という)をいう。その理解の検討例を⑨以下に示している。

 

⑨ この部立ての配列は部立て「挽歌」の前にあります。それは、部立て「挽歌」の歌は、修辞に気を配り、その譬喩を読み取れ、ということを示唆した「部立ての配列」なのではないか。上記③での予想は確認したほうがよい、と思います。

⑩ 私の歌本文の理解について例示します。表面の歌意を優先して示し、別途の歌意はその次とします。

 2-1-393歌:相聞の歌です。鴨は秋に日本列島に渡ってきて番(つがい)となり、春に北方の繁殖地に戻るものが多い鳥です。鴨は番であるのに、と詠う。 別途の意は、私たちもそうであるのにそうなっていない、鴨が軽の池にきたように来てくださいな、と訴えている。  

 2-1-396歌: 三句~四句「やまのはにいさよふ月」とは、暗くなってから出る月で待ちかねている月。月はいづれ昇ってきて鑑賞できるがそれが待ち遠しい、と詠う。別途の歌意は、貴方に早く逢いたい、あるいは、皆さんが待ちかねていると来場を促している。

 2-1-404歌:「はじをしつ」と詠うのは、相手を非難しているか、作者は落胆しているか、のどちらかである。題詞にあるように「族の宴」で披露している歌であれば、落胆しているものの相手と和解が成っていることを皆に知らせている歌であり、次にある2-1-405歌とペアの歌としてここに配列されている。

 ペアの歌としてみると、別途の歌意は2案ある。両歌本文のみからの「上下関係に変化なし」という歌意と、題詞を考慮する場合「あの件は和解が成っている」という歌意がある。

⑪ 次回は改めて巻三挽歌を検討したい、と思います。

 ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

(2022/11/21   上村 朋)