わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か  萬葉集巻三の配列その4 

 前回(2022/4/4)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 萬葉集巻三の配列その3」に続き、今回「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 萬葉集巻三の配列その4」と題して記します。歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋) 

1.~10.承前

 『萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、各歌について判定した表E(前回のブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を得ました。そして、「関係分類A1~B」の歌30首から、雑歌の部は天皇の代を意識した4つのグループに分かれました。「関係分類A1~B」以外の歌において4つのグループの有無を確認中です。

 各グループの筆頭歌は、2-1-235歌、2-1-290歌、2-1-315歌および2-1-378歌です。これまでの検討の結果、第一及び第二グループには例外の歌はありませんでした。

11.第三グループの「分類A1~B」以外の歌の筆頭歌 門部王歌

① 第三グループの「分類A1~B」以外の歌を検討します。歌は、2-1-329歌から2-1-377歌です。聖武天皇の御代のみの時代の歌からなると予想しています(推定した巻三雑歌の部の歌群はブログ2022/4/4付け「7.①の表」参照。2022/3/21現在の推定結果です)。

 作詠(披露)時点は、聖武天皇が譲位された天平勝宝元年(749)が下限となります。

② 第三グループの歌である判定基準は、これまでのグループの判定基準と同じです。

即ち、「歌の作詠(披露)時点がその歌群のグループの天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌」と判定します。ほかの代の可能性の有無は関係ありません。

 例えば、作者未詳の伝承歌と推定でき、歌本文の内容(あるいはその暗喩)が当該天皇の代に改めて披露されてもおかしくないのであれば、そのグループの期間中に披露された歌の可能性を認め、そのグループの歌とみなします。

 また、作者が、そのグループの期間中に現役の官人であって、題詞の文章と歌本文が当該天皇の代の作詠あるいは披露されたとして矛盾がなければ、そのグループの歌とみなします。

③ 筆頭歌2-1-329歌の作者門部王は、諸氏の多くが題詞の割注に基づき、聖武天皇が即位した年である神亀元年(715)に正五位上を授けられ、天平11年(739) 4月3日に大原真人姓を賜与され臣籍降下している人物としています。

 和銅3年(710)無位から従五位の叙位をうけ、天平6年(734)朱雀門前で歌垣が開催された際には長田王らとともに頭を務めています。そして、天平17年(745)4月23日卒しています。最終官位は従四位上大蔵卿です。

 題詞(下記④に記載)には、「門部王・・・作歌一首」とあり、その表記から、門部王が臣籍降下以前に作った歌と理解でき、あきらかに聖武天皇の御代の歌となります。

 作詠(披露)時点はその通りですが、土屋氏は「歌の内容は相聞即ち恋愛歌」と指摘して雑歌の部の歌の要素を指摘していません。雑歌として編纂者が配列しているので、恋愛歌でない理解も可能でなければなりません。

 題詞に「在難波」とあるので、下命により、難波に出張してきている、という理解が可能です。

 そして、表E作成時には、「今上天皇を頂いて、海の民も心置きなく生活しており、ありがたいことだ、と詠う歌である」、として関係分類を「C」(天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(Dを除く))と判定しています(ブログ2022/3/21付け付記1.の表Eの注4「2-1-329歌」の項参照)。

 その理由の説明を尽くしていなかったので、ここに記します。

④ 題詞と歌本文を引用します。

   2-1-329歌  門部王在難波見漁父燭光作歌一首

    見渡者 明石之浦尓 焼火乃 保尓曽出流 妹尓恋久

    みわたせば あかしのうらに ともすひの ほにそいでぬる いもにこふらく

 題詞より、検討します。

 題詞は、作者名から書き起こし、詠うきっかけ(場所と「見」たもの)を記し、作者の行動(作るか伝承歌などを披露したか)の結果の歌一首を、ここに配列する、という順に記されています。

 詠うきっかけの、「在難波」と「見漁父燭光」とはどのようなことか、が問題です。

 題詞は、当時の官人が事務処理に用いていた書式(倭習の漢文)で記されています。

 巻三雑歌にある題詞の作文のタイプには、

(官位)人物名のみ+歌〇首というタイプが2-1-265歌など計30題

(官位)人物名+・・・+作歌〇首(あるいは・・・+(官位)人物名+作歌〇首)というタイプが2-1-235歌など計25題

などがあります。後者を細別してみると、

(官位)人物名+作歌〇首というタイプ: 2-1-248歌の1題 (長田王の歌)

(官位)人物名+・・・時+作歌〇首(あるいは・・・時+(官位)人物名+作歌〇首、以下同じ): 2-1-235歌など計14題

(官位)人物名+駐・・・+作歌〇首: 2-1-303歌の1題 (長屋王の歌)

(官位)人物名+往・・・+見・・・+作歌〇首: 2-1-310歌の1題 (伝通法師の歌)

(官位)人物名+詠・・・+作歌〇首: 2-1-313歌の1題 (門部王の歌)

(官位)人物名+至・・・+作歌〇首: 2-1-325歌の1題 (山部赤人の歌)

(官位)人物名+登・・・+作歌〇首: 2-1-327歌など計3題 (山部赤人の歌)

(官位)人物名+在・・・+見・・・+作歌〇首: 2-1-329歌の1題 (門部王の歌)

(官位)人物名+塩津山+作歌〇首: 2-1-367歌の1題 (笠金村の歌)

(官位)人物名+芳野+作歌〇首: 2-1-378歌の1題 (湯原王の歌)

となります。

⑤ これを見ると、「(官位)人物名」と+「作歌〇首」の間に作詠事情などを記すのが、基本の記述方法といえます。その中で2-1-310歌と2-1-329歌の題詞とは、作詠事情などを記すのに「見」字を用いています。「見」字につては一度検討したことがあります。

 対象の題詞(付記1.参照)にある「見・・・屍」という表現について、ブログ2018/7/23付けで検討し、「「見・・・屍」という表現においては、「仄聞」あるいは「文書によって知る」という意、あるいは下命による作詠を示唆する言葉とも理解した方がよいのではないか、及び(挽歌ですので)目視しなければ追悼の歌が作れない訳ではありません」と指摘しました。

 上一段活用の動詞「みる」(見る)の意は、「a視覚に入れる・みる・ながめる。b思う・解釈する。c(・・・の)思いをする・経験する。d見定める・見計らう。」などいろいろの意があります。『例解古語辞典』) 「見・・・屍」の場合は、d見定める・見計らう。」ではないかと推測したところです。

 この題詞でも「見」字に留意して検討したい、と思います。

 なお、「在」字はいままで検討したことがありません。

⑥ 題詞の頭書の「門部王」という人物の経歴は『続日本紀』で上記③に記したように判り、この歌の作詠時点は聖武天皇の御代と確定しました。さらに題詞にある「在難波」が修飾する語句と歌本文から更に絞りこめる可能性があります。

 また、『萬葉集』で、「難波」と題詞にある場合は、殆どが「難波宮」という表記であり、「難波」とだけあるのは、『萬葉集』でこの歌の題詞と次の二つの題詞だけです(付記2.参照)。

  2-1-1751歌  春三月諸卿大夫等下難波時歌二首 并短歌

  2-1-1755歌  難波経宿明日還来之時歌一首 并短歌

⑦ 前者2-1-1751歌の「春三月」の時点については、二説あります。歌本文をみると、平城京から難波に移動する途中の竜田山を詠う長歌2首と短歌と移動途中の道の景を詠い、天皇が登場しない旅中の歌です。行幸時の行事・宴の模様を詠っていません。

 このため、行幸ではない事例を『続日本紀』でみると、天平4年(732)の春三月の、藤原宇合が知造難波宮事に任じられた後期難波宮が完成した時(作者と思われる高橋虫麻呂藤原宇合との関係より)があるのではないかと土屋氏も伊藤氏も推測しています。

 また、聖武天皇天平6年の行幸(3/10 難波宮着 3/19平城宮に還御)の際という推測もあります。「下難波時」とは、行幸の従駕とは別に準備の先行部隊における歌(だから公式行事に関連しない歌)、という意と理解できるからです。

 この時の6年の行幸に直接関係あるかにみえる題詞が、次のようにあります。

 2-1-1002歌  春三月幸于難波宮之時歌六

 巻六の雑歌の部にある歌であり、前歌2-1-1001歌の題詞に「六年申戌・・・」とあり天平6年作詠と断定できる歌であり、この歌は聖武天皇天平6年の行幸時の歌、となります。難波への途中、住吉に寄り、住吉の浜を景にして詠っている6首です。最後の一首は土地褒めの歌であり、天皇が何かの行事をするため住吉に寄ったと思われます。作者は、将に従駕しており、天皇が住吉に留まっている時が作詠時点でしょう。

 作者が天皇と共にしていれば「幸難波宮」、そうでない場合は「難波(時)」という整理ができます。

 そのため、2-1-1751歌の「春三月」は、どちらを作詠時点かこれだけでは決めかねますが、聖武天皇の御代の歌に変わりありません。

⑧ 後者2-1-1755歌について、歌本文に「君之将見 其日左右庭 」(きみがみむ そのひまでには)と詠っていますが、官人が今上天皇を「君」と歌に表現しません。「君」とは、上司か同僚の意でしょうから、行幸に先行した行動時の歌とも理解が可能です。

 直前の題詞(2-1-1751歌の題詞)を念頭においても、2-1-1751歌の題詞と同様作詠時点は上記の2案が残ります。

 なお、左注によれば、どちらの歌(群)も高橋虫麻呂歌集が元資料となります。

 どちらの時点であっても「幸于難波宮時」などと差別化した表記であり、行幸に直接関係のない場所・時点を指している、と推測できます。

 だから、同じように「宮」字を省いたこの(2-1-329歌の)題詞の「在難波」は、行幸に直接関係のない場所・時点・事情を指している、と推測できます。行幸の従駕で難波に居ても、従駕とは関係の薄い私的な行動時をも「在難波」は意味することが可能です。そのため、この歌は、今上天皇の御前で披露されていない、と思われます。

 作詠時点(天平4年あるいは6年)は、門部王が大原真人姓を賜与され臣籍降下する前であり、この時「在難波」であれば、無位からの叙位が蔭位によっているとすると、天平6年に門部王は45歳前後となります。

⑨ 次に、「見漁父燭光」の語句を検討します。「見」字の意から、上記⑤に記したように、「漁父燭光」を視覚に入れた意以外の意の可能性があり、また、歌本文に「漁父燭光」が直接詠われていますので、歌本文とあわせて検討します。

 歌本文は、初句「見渡者」(みわたせば)と、海の見える処に作者が居るかに詠いだしています。

 題詞を前提にすれば「難波に居て、海を見渡したたら、」という理解も可能ですが、その難波に居て、どの辺の浦の漁火が見えるのでしょうか。

 「在難波」で、歌本文にある「明石の浦」近くの漁火を見ることが出来るのは僥倖であろう、と思います。

 作者が、難波宮のある台地に立って(現在の大阪湾との比高が約15~20mある台地です)、「明石の浦」(現明石川河口の東側なので難波の台地の約50km先)近辺の船団の、現在の集魚灯ではないかがり火である漁火が見えるでしょうか。

⑩ 阿蘇氏は、漁火を詠んだ(主題とした)歌としています。そして「西宮一民全注」は見えないと断言し、「明石は見えなくても、明石の漁火でなくてはならなかった」としている、と紹介したうえ、明石に歌枕的意識があったろうことは認められる、と指摘しています。これは雑歌たる所以という指摘ではありません。

 土屋氏は、上記③で引用したように「この一首の内容は恋愛歌」と指摘しています。

恋愛歌であるならば、この歌の眼目は四句と五句にあります。漁火が一晩中消えないので目立つことを、「妹を恋ふ」気持ちの持続していることが誰にもわかるようになったことの譬えとしている歌です。

 土屋氏は、「三句までの部分が作者の実際体験」であることが知られるとし、(題詞には編纂者が後に付したものがあるが)「従来伝へるままに従へばさうした単なる自然の景を、すぐ恋愛感に結び付けて表現する技巧が、既に存在したものと言へる」といい、「いはば作歌が遊戯的になって居る」と指摘しています。

 土屋氏は、作者の実際体験について直接言及していません。

 漁火の用途を知れば、この歌の三句までの景は思い浮かべられるでしょう。実際体験や人の話からでも、それを知ることができます。また、作者門部王は、作詠時点においては壮年になっています。

⑪ そして、恋愛歌として、漁火の景を実景に近づける工夫が作者にあってもおかしくないので、難波江や住之江より明石の浦(の漁民)を積極的に作者は選んで詠っている、ということになります。

 明石とは、畿内の西の端に位置しているので、地方(歌に詠われる「あまさかるひな」)への入り口と官人にはみなされています。官人にとり、都を離れる思いを募らせ、あるいは都に近づいた思いが沸きあがってくる位置にあるのが明石の浦です。

 都からは遠いところですが畿内であり、都までまだ道のりのあることが、作者の「妹」を思い始めてからの期間をも象徴しています。

 その明石の浦に船を泊めたら、官人は、難波から遠望するよりも間近に漁火を視野に入れることができ、漁火のメリットも聞いたり見たりしたでしょう。初句「見渡者」(みわたせば)は、その明石の浦での実景としても、岐阜・長良川の鵜飼いを、堤防の上に座って見るような距離が漁船と(浜の)官人の間にはあるので、実感する漁火の明るさはどの程度だったでしょうか。

 なお、相坂は畿内の東のはずれですが、燃え続ける漁火に出逢える海辺ではありません。

⑫ 題詞を無視すると、歌本文の三句までが四句にある「保」字(燃え続けている炎)を修飾しており、作者が自分の思いが人に知られるのを恐れないでいることを象徴しているかの恋愛歌とも理解できます。

 五句にある「妹」とは、女性を親しんでいう語で兄(せ)と対の語であり、男性から姉妹・妻・恋人などに対していうのが普通(『例解古語辞典』)だそうです。

 巻三の雑歌に配列するため、編纂者の手元にあった元資料の歌の作者は、壮年になっている門部王です。五句にある「妹」が、作者の恋人であれば若々しい限りであり、妻であれば、なんと仲が良い事でしょう。「妹」が恋人であれば、あるいは元資料は若者が詠った伝承歌か、と疑いたくなるほどです。

⑬ さて、題詞の検討に戻ります。恋愛歌であれば、題詞は、「門部王歌一首」でも、「門部王漁父燭光作歌一首」でも十分です。

 しかしながら、巻三の巻三の編纂者は、「在難波見」という文字を加えて「門部王在難波見漁父燭光作歌一首」としています。これは次のいずれにも訓めます。歌を引用している『新編国歌大観』は題詞については訓み下しを示していません。レ点などを打っているだけです。

 「門部王、難波に在りて漁父の燭光(ともしび)を見て、作る歌一首」

 「門部王の難波に在りて、漁父の燭光を見て作る歌一首」

 前者の場合、燭光を視野に収めるのは僥倖です。視野に入ったとしても、恋の炎の譬喩に、遠望した「明石の浦の漁火」や近くの浦の漁火であっても、かすかにあるいはぼやっと見える、という状況であり、適しているとは思えません。

 後者は、浦を限定しない「漁火」を「見」たということであり、「見」字の理解によっては可能です。

「見」字の意は、遠望したという「a視覚に入れる・みる・ながめる。」ではなく、「c(・・・の)思いをする・経験する。」とか「d見定める・見計らう。」の意で用いられているのではないか、と思います。「見・・・屍」の例と同じく、「仄聞」あるいは「文書によって知る」という意、あるいは上司の下命(出題)に応じた作詠を示唆する言葉とも理解した方がよいのではないか、と思います。

 門部王は、この恋愛歌を、難波に居たときに漁火が話題となったのをきっかけとしてこの歌を詠んだか伝承歌を朗詠したのではないか、と思います。

 現代においても「みる」という語句は「見る・看る・観る・覧る」とも表記され、目によって物の外見・内容などを知る、物事を経験したり物事や人に対して身をもって働きかけを行う、とか、補助動詞として用いるとか(『日本国語大辞典』第2版)、この時代からの用法が続いています。

⑭ まだ雑歌である所以が判っていません。

 この歌本文は、三句までの内容は、四句と五句の内容の例え、と理解できます。

 四句と五句が、妻を愛することの表白とすれば、泰平の世の歌です。そうであれば、三句までも泰平の世を詠っている、と思われます。

 四句と五句が、表面化しても(多分若い)恋人へ固執している自分の気持ちを持て余している表白とすれば、三句までは明るい漁火に吸い寄せられる魚に自分を例えているのではないか。炎であぶり出されるものを詠っている、と理解できます。

 前者であれば、聖武天皇の御代を喜んでいる歌になり、後者であれば、恋愛歌となります。

 天平4年(732)とか同6年(734)が作詠時点であれば、聖武天皇が即位(724)し長屋王の変(729)があった後であり、天然痘の大流行(737)や藤原広嗣の乱(740)や大地震(745)などはその後の事となる時点です。 

⑮ 題詞に「在難波」と加えているのは、官人が難波に居ることが天皇の命によることを明確にしており、この歌は、後者の恋愛歌ではなく、前者の歌であるという巻三編纂者の意思表示ではないか、と思います。

 畿内の果て、地方の入り口である明石の浦での漁火で生業をたてている人々と、下命を除いたら最大の関心事が妻であるという官人を、並行に詠う歌に、編纂者は題詞を作文して変換したと思います。

 題詞における「見」字は、漁火の示す現実(泰平)に作者の門部王が気付いた意で、用いられている、と思います。辞書にいう「d見定める・見計らう。」の意です。

 

 現代語訳を試みれば、次のとおり。

    2-1-329歌  門部王が難波に居られた時、漁民の漁火(いさりび)を見定めて(思いを込め)、作った歌一首

   「見渡すと畿内の果ての明石の浦に、漁火が燃えています。いつものように漁民は仕事に励んでいるのがその炎によってはっきりわかります。同じように、私が常に妻をいとおしく思っていることも知れ渡ってしまいました(征討軍の編成されることもなく、今上天皇の御代は、ありがたい御代です。)」

⑯ 以上が、表Eの判定にあたり、「今上天皇を頂いて、海の民も心置きなく生活しており、ありがたいことだ、と詠う歌である」とした理由です。

 『萬葉集』における雑歌の一般的な定義は、「相聞、挽歌に属さない内容の歌を総括する(部立て)。遊猟(ゆうりょう)、行幸など宮廷生活の晴の場でなされた歌などを収め、編纂にあたっては「雑歌」が他の二つの部に優先する。」(『日本大百科全書』)というものです。

 この歌は、雑部に配列されたこの題詞を前提にすれば、相聞の歌よりも雑歌の部の歌として理解でき、かつ部立ても適切です。

 なお、歌本文について、土屋氏は、題詞より「三句までの序は作者の実際経験であることが知れる。」等を指摘するものの、雑の部の歌としての考察は省略しています。

⑰ 聖武天皇は、天武天皇持統天皇の血をひき、父である文武天皇没後17年目に即位した男性の天皇です。その間の元明元正天皇は芳野宮には行幸していません。聖武天皇は即位の翌月行幸しています。文武天皇は、即位して4年後に芳野宮に行幸しています。

 元資料の作詠時点の検討はまた別の課題と思います。

 ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

次回は、2-1-330歌から検討します。

(2022/4/11   上村 朋)

付記1.万葉集の巻一~巻四の題詞に、「見・・・屍」等とある歌の例

① 2-1-429歌の詞書: 柿本朝臣人麻呂見香具山屍悲慟作歌一首

② 2-1-437歌の題詞: 和銅四年辛亥河辺宮人見姫嶋松原美人屍哀慟作歌四首

現代語訳(試案): 「和銅四年辛亥の年に、河辺宮で奉仕する宮人が、(難波の)姫島の松原での乙女の入水を聞き、悲しんで作った歌四首」 (ブログ2018/7/23付け)

③ 挽歌に「見」字や「視」字を用いた題詞もある。

2-1-220歌の題詞: 讃岐狭岑嶋視石中死人柿本朝臣人麿作歌一首 幷短歌

2-1-418歌の題詞: 上宮聖徳皇子出遊竹原井之時見竜田山死人悲傷御作歌一首

付記2. 万葉集の題詞における「難波」表記の例

① 巻一 2-1-64歌 慶雲三年丙午幸難波宮時  志貴皇子御作歌

  2-1-66歌 太上天皇幸于難波宮時歌

  2-1-71歌 ・・・・幸于難波宮時歌

② 巻三 2-1-0315歌 式部卿藤原宇合卿被使改造難波堵之時作歌一首 (神亀3年10月式部卿従三位で知造難波宮事に宇合は任じられ、後期難波宮天平4年3月完成)

     2-1-329歌 本文「11.④」に記載

③ 巻六 2-1-933歌 冬十月幸于難波宮時笠朝臣金村作歌一首 并短歌 (神亀2年10月10日聖武天皇は難波行幸。 11月10日難波で冬至の賀。11月中旬に還幸か。)

  2-1-955歌 五年戊辰幸于難波宮時作歌四首 (神亀五年に聖武天皇の難波行幸は『続日本紀』に記事なし)

  2-1-1002歌 春三月幸于難波宮之時歌六首 (天平6年3月10日聖武天皇平城京出発、同月19日還幸。)

  2-1-1066歌 難波宮作歌一首 并短歌

④ 巻九 2-1-1751歌 本文「11.⑥」に記載

  2-1-1755歌 本文「11.⑥」に記載

  2-1-1794歌 天平五年癸酉遣唐使舶発難波入海之時親母贈子歌一首 并短歌

⑤ 巻十八 2-1-4080歌 太上皇御在於難波宮之時歌七首 (割注し「清足姫天皇也」)/ 左大臣橘宿祢歌一首

⑥ 巻二十 2-1-旧4457歌 天平勝宝八歳丙申二月朔乙酉廿四日戊申 太上天皇大后幸行於河内離宮 経信以壬子伝幸於難波宮也 三月七日於河内国伎人郷馬国人之家宴歌三首 

 (付記終わり 2022/4/11   上村 朋)