わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 萬葉集巻三の配列その1 

 前回(2022/3/14)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 ・・・」で一端を述べた類似歌のある『萬葉集』巻三の配列に関して、今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 萬葉集巻三の配列その1」、と題して記します。また、歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋)<2023/12/25:a行幸関係を補足: 「3.③」。b歌番号の表記の誤りを訂正:「3.②の第十一における2-1-392歌」。>

 

1.『萬葉集』の巻三について 

① 『萬葉集』は何回かの編纂を経て今日みる20巻になりました。巻三については、巻一と巻二を前提に(そして以後の巻と無関係に)最初編纂されている、と諸氏が指摘しています。

② 今そのうちの雑歌と挽歌の部にある各歌の理解に資するべく、配列を検討したい、と思います。編纂者は編纂方針を巻一と巻二を参考として定めているでしょうから、巻一の雑歌の部の検討で用いた方法により、検討をすすめます。

2.天皇の統治行為の分類

① 巻一の雑歌は、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、歌そのものと巻一の理解に有益でした。

 その時の、歌と天皇の統治行為の分類基準を、2021/10/4付けブログの本文「4.②」より引用すると、下記③のとおり。

② 巻一で詠われている状況を念頭に天皇の統治行為を分類していますので、分類基準に偏りがあるかもしれませんが、すべての天皇の統治行為が対象になっています。巻一と巻三の各雑歌を比較しやすいように、同じ基準の分類で巻三を検討します。

③ 歌と天皇の統治行為との関係を11種類に分けます。

A1 天皇及び太上天皇などの一般的公務に伴う(天皇が出席する儀礼行幸時の)歌群、但しA2~Hを除く:

 例えば、作者が天皇の歌、天皇への応答歌、復命歌、宴席で披露(と思われる)歌

A2 天皇及び太上天皇などの死に伴う歌群:

 例えば、殯儀礼の歌(送魂歌・招魂歌)、追憶・送魂歌

B 天皇が下命した都の造営・移転に関する歌群:                      

 例えば、天皇の歌、応答歌、造営を褒める歌

C 天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(但しDを除く):

 例えば、皇子や皇女、官人の行動で、公務目的に直接関係なさそうなその旅中での感慨を詠う歌。復命に関する歌はA1あるいはA2あるいはDの歌群となる。

D 天皇に対する謀反への措置に伴う歌群:

 例えば、罪を得た人物の自傷歌、護送時の誰かの哀傷歌、後代の送魂歌

E1 皇太子の行動に伴う歌群(E2を除く):

 例えば、皇太子の行幸時の歌、皇太子主催の宴席での歌、公務目的に直接関係なさそうなその旅中での感慨を詠う歌 

E2 皇太子の死に伴う歌群:

例えば、殯儀礼の歌、事後の追憶の歌

F 皇子自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む):

 例えば、殯儀礼の歌、事後の追憶・哀悼の歌、主催した宴席など公務以外の宴席での歌、その公務の目的に直接関係なさそうなその旅中での感慨を詠う歌

G 皇女自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む):

 例えば、殯儀礼の歌、追憶の歌、送魂歌、主催した宴席など公務以外の宴席での歌

H下命の有無が不明な事柄に伴う(作詠した官人自身の感慨を詠う)歌群:

 上記のA~GやIの判定ができない歌(該当の歌は結局ありませんでした)

I 天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を詠う歌群:

 例えば、事後の送魂歌

 ここに送魂歌とは、死者は生者の世界に残りたがっているのでそれを断ち切ってもらう必要があるという信仰の上にある歌という意味である。当時は単に追悼をする歌はない。

 また、分類作業ではいずれかの分類に整理するものとしている(分類保留にした歌はない)。

 

3.巻三の雑歌の整理その1

① 巻三の雑歌(158首)の一次作業の結果を表Eとして付記1.に示します。その後の検討により7首について、「関係分類」の変更を認めました。表Eに◎印をつけた歌を「関係分類A1」としたうえで、以下の検討を行っています。

② 各歌の「関係分類」の判定について、いくつかの例と◎印の7首(題詞は4題)の変更理由をここに記し、そのほかは原則として表Eの備考欄と注記に記しました。

 

第一 雑歌の筆頭歌2-1-235歌は、題詞の文章より行幸の景を人麻呂が詠う歌と理解できますので、「A1」となります。

 関係分類整理の原則は題詞を優先しての判定です。

 元資料を推測すると、表Eの注記に記すように2-1-236歌の可能性があります。それから類推すると、同様に披露する場がある、ということになり、この歌は題詠であり、公的な儀式やその後の宴席での披露を前提にした歌ということになります。

 題詞には「天皇」とだけあります。作者人麻呂が仕えた可能性のある天皇すべてが該当可能です。天武系の初代である天武天皇持統天皇文武天皇までに可能性があります。巻三編纂者の時点ではこの三代の天皇薨去されており、一代に限ってこの歌を理解しなくともよいのかもしれません。

 

第二 ◎印の歌2-1-240歌~2-1-242歌は、原則から判定すると、天皇の許可を得て狩をするはずですから「C」となります。しかし前後の歌の判定から、作者長皇子は、天皇の代理で狩の指揮をとっている、と編纂者は整理していると思えるので、表作成後「A1」とみなしました。歌本文にある「我大君」は、狩場に臨場されている天皇を指します。

 

第三 2-1-290歌と2-1-309歌は、題詞にある「幸志賀時」と「幸伊勢国之時」の理解が深まった結果、それぞれ「A1」と「C」とに分かれました。ブログ2022/3/14付け「20.⑥~⑧」参照。

 

第四 ◎印の歌2-1-316歌は、作詠時点は神亀元(724)年3月1日条にある聖武天皇の芳野宮行幸時が最有力となり、表作成後「A1」とみなしました。

 作者土理宣令(「刀利」とも書く)は、聖武天皇が皇太子(東宮)のとき憶良などとともに侍することを命じられています。完成したばかりの『日本書紀』を皇太子に講読している可能性があり、『日本書紀』への祝意の意の歌として、表作成時は「C」と判定しました。

 しかし、歌本文の上句の吉野を詠う点で聖武天皇行幸時の歌とみて、四句と五句は『日本書紀』記載の事柄をさすとしても、表作成後「A1」とみなしました。

 この歌の題詞には行幸との関連をうかがわせる記述がありませんが、前後の歌が聖武天皇の時代の歌であることを参考としました。

 土屋氏は、「吉野における作で、実際の吉野川を見て居るのであらう」と指摘し、伊藤氏も、「上二句は実景の作。「知らねども」を起こす。同音の効果もある。」、また「語り継がれたのは天武・持統の吉野の故事」と指摘しています。その故事は『日本書紀』に種々記述されています。

 なお、詠っている吉野の描写は想像でも可能でしょう。既に先輩の官人の歌がある地であり、景を詠み込んだ歌を事前に用意できたでしょう。だから、「・・・時作歌」とは、実際に行幸に従駕して作詠を始めたのではなく披露した時点が従駕時ということだと思います。また、この歌には割注や左注はそもそもありません。

 

第五 ◎印の歌2-1-317歌は、「野登瀬川」を歌本文に詠いこんでいます。この川はほかの萬葉集歌に詠われていない川であり、その川のある地に作者は行って詠ったものと見えます。

 『続日本紀』をみると、聖武天皇即位直後の神亀元年(724)3月25日条に陸奥国の太平洋岸で蝦夷反乱を奏上する記事があり、翌月7日に藤原宇合らが蝦夷征討を命じられています。そして同年11月15日条に内舎人近江国に派遣し、蝦夷征討を終えて凱旋直前の藤原宇合らを慰労されたという記事があります。凱旋日程等を指示したのではないか。藤原宇合らは聖武天皇大嘗祭(同年11月23日)の6日後に凱旋(同月29日条)しています。

 能登瀬川とは、現在の滋賀県の1級河川天野川中流域での名称であり、平城京から陸奥国国府に至る東山道不破の関の手前にある河です。

 作者は、内舎人たちの使節の一員であり、蝦夷征討軍一同への挨拶歌がこの歌であろう、と思います。

 原則からは「C」ですが、凱旋行事を大嘗会と連動させているので、「A1」とみてよい、と思います。

 歌本文の現代語訳を試みると、

「さざ波が磯をどんどん越えてゆくような進軍をされてもうここまで戻られた。それを迎える近江国能登瀬川の川音はなんとさやかなことよ。早い瀬ごとの川音は。(ご征討おめでとうございます。)」

 

 第六 ◎印の歌2-1-325歌と2-1-326歌は、聖武天皇即位に当たり、配列を念頭におくと、船出の故事を詠った、旅中歌というスタイルの予祝の歌とみなせます。長歌は「とほきよに かむさびゆかむ いでましところ」と詠いおさめています。作者赤人が現地に行ったかどうかは問題外です。

 そのため「C」から「A1」に変更しました。なおブログ2022/3/14付け「20.⑤」参照。

 

第七 2-1-375歌~2-1-377歌は、表面的には相聞歌(恋の歌)であり、雑歌の部に配列されているので雑歌に配列する理由が暗喩などであると思います。それががわからないので、雑歌としては「天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を詠う歌群」(「I」)と判定しました。念のため、次回に再確認します。

 

第八 2-1-378歌は、その題詞の表記が特異です。「湯原王芳野作歌」とあり、諸氏は「湯原王が吉野で作った歌」と指摘しています。

 吉野は、聖武天皇も即位後すぐ芳野離宮行幸しているように、聖地です。湯原王が吉野に行くのは行幸随行あるいはその準備ではないか。一人許可されて(自分のために)吉野入りはできないでしょう。

  だから、ほかのいくつかの歌の題詞にある「幸芳野時」(2-1-290歌)とか「遊吉野時」(2-1-242歌)でもない、「幸」字も「遊」字も用いていない題詞であるものの、湯原王が吉野に行くことができる理由がほかに見当たらないので、行幸準備かとみて、「A1」と判定しました。

 なお、作者湯原王志貴皇子の子であり、白壁王(後の光仁天皇)の弟です。聖武天皇の吉野行幸に従うことは可能の世代のはずですが、『続日本紀』等に叙位叙勲の記録がなく生没年も不明です。

 歌の理解は、土屋氏に従います。

 

第九 2-1-379歌と2-1-380歌の題詞は、「湯原王宴席歌」とあり、この表記も特異です。諸氏は「湯原王が宴席で披露した(多分自作の)歌」と指摘しています。

 直前の2-1-378歌と同時の作詠であれば、「・・・三首」という題詞にまとめて配列できるところを2題の題詞による配列となっているので、別の機会の歌であろう、と推測し、吉野での歌であるならば、行幸に関連する業務での滞在時の歌として、「A1」と判定しました。

 吉野ではなく平城京で詠まれたとすると、歌本文にある「吾君」を天皇とみれば「A1」ですがそうでなければ「I」と仮置きしなければならない歌です。「(前後の歌本文とあわせての再確認は2-1-378歌とともに後程行います。)

 

 第十 2-1-381歌は、とりあえず、「下命の有無が不明な事柄に伴う(作詠した官人自身の感慨を詠う)歌群」(「H」)と判定しました。

 この歌を、伊藤博氏は、藤原不比等の鎮魂歌と指摘しています。

 阿蘇氏は、この歌の前後の配列から作詠時点を天平3,4年(731,732)頃と推測し、「不比等の子らの繁栄ぶりは確かな事実であったが、本歌を詠んだ赤人の思いは、そこになく、不比等亡き後の空虚感であったのではないかと思われる。不比等在世当時には感じなかった寂しさを、赤人は池の周囲に感じたのではないかと思われる」と指摘しています。

 しかし、赤人が現地(邸内の池)に立つことが出来る立場であったのかどうかが不明です。「故太政大臣藤原家」のその池の景を想像して詠っているのではないか。挽歌ではなく雑歌として巻三の編纂者は扱っていますので、亡くなったことによる政治的空白を表現しているのでしょうか。何の暗喩があるのかまだわかっておらず、歌の理解が宿題となってしまっています。

 「故太政大臣藤原家」は、故太政大臣藤原不比等)亡き(720)後、娘の光明皇后が相続し皇后宮にもなっています(『続日本紀天平2年(730)正月16日条など。神亀4年(727)にはここで基皇子を出産している)。そして天平17年(745)宮寺となっています(法華寺の前身)。光明皇后天平宝字4年(760)崩御しています。

 

第十一 雑歌の最後の歌は、反歌の2-1-392歌です。詞書は「羈旅歌一首 幷短歌」と、あります。題詞には作者名もないので、この歌と天皇の統治行為との関係がわかりません。歌本文をみると長歌反歌も船旅であり、2-392歌では「日本恋久」(やまとこひしく)と詠っているのでは官人の平城京への帰任の歌と推測し、「C」と判定しました。

 土屋氏は、長歌(2-1-391歌)と反歌の元資料が別々に伝承され、長歌を「純粋の詩としてみれば寧ろ雑駁に近いもの」、反歌は「多くの先蹤のある句で組み立てられて居る」と指摘し、巻三編集者が、「一組の長歌反歌に仕立てたのであらう」と指摘しています。しかし、氏は、どこに向かって船を出そうとしているかには触れていません。

 長歌をみると、地名が、淡路島、伊予の順に登場し、海神が白波を伊予(四国)に届ける、と詠い、作者は淡路島を西にむかって船出しようとしている、と理解できます。

 短歌をみると、島伝いに敏馬(みぬめ・神戸市の東部)の崎をめぐるところまで西から航海して来て、作者は「日本恋久」と詠います。やっと、生駒山などが見えるようになった時の感慨を詠っているのではないか、と思います。

 つまり長歌の中の主人公は西に向かい、反歌の中の主人公は東に向かう、という状況です。そのような伝承歌を一組に編纂者はしている、とみえます。「C」の判定は変わりませんが、この長歌反歌はだれの旅の出発から帰着までを詠もうとしたのか、興味をもつところです。

 なお、題詞に「羈旅歌〇首」とあるのは巻三の雑歌にもう2題あります。

 「柿本朝臣人麻呂羈旅歌八首」(2-1-250歌~)に詠まれているのは、摂津国(三津)から明石海峡を経由し、加古の島(加古川河口の島)までの地名などが登場しています。すべて、平城京から西にある地名です。2-1-256歌では「自明門 倭島所見(あかしのとより やまとしまみゆ)」と詠っています。明石海峡を過ぎると生駒山脈がみえてきてその山並みを越えたところに平城京があります。だから「日本恋久」と詠う歌は帰任の際の思いであろうと思います。

 この八首を伊藤氏などは、二つの歌群からなり「最初が往路、次が帰路の旅情」と指摘しています。

 「高市連黒人羈旅歌八首」(2-1-270歌~)には、平城京から山背国と東にある地名が並びます。琵琶湖の海路と三河などの陸路の歌です。

 これから考えると、長歌反歌で、平城京を後にして公務にいそしみ、今帰任するという、地方勤務の一官人の感慨を詠う一組にしたのではないか。そのような歌が西と東の方面と別けて既にあるのに巻三の最後の歌として編纂者は配列しています。

 

③ その結果、巻三の雑歌に関して、次のようなことを指摘できます。

第一 歌と天皇の統治行為との関係を11分類し、歌を整理すると、「天皇及び太上天皇などの一般的公務に伴う(天皇が出席する儀礼行幸時の)歌群(関係分類「A1」)の歌が29首(表Eの分類A1とそれ以外での◎印の歌の計)あり、また都の造営・移転に関する歌群(関係分類「B」)の歌も1首あります。

 そして、これらの歌番号を追うと、連続していくつかの歌があり、それが4つのグループとなっています。

 それは下記の表の「歌番号 関係分類A1~B」欄の歌群となります。

第二 「関係分類A1~B」の歌の配列から、雑歌の配列は、作詠時点(披露された時点)順ではなく、作詠期間が4区分されて配列されおり、その区分内も作詠時点(披露された時点)順ではありません。

 その  4区分のうち最初の3区分は、「関係分類A1~B歌」の歌の作詠時点(重要な行事・事績)により、天皇の在位期間で区分されている、とみなせます。

 最後の区分もそうであるとすると、聖武天皇以後の天皇の在位時期となりますが、歌の作者である湯原王は、生没年未詳であり、天皇名は不定となります。湯原王聖武天皇の在位期間に存命なのは確かなので、最後の区分を、聖武天皇の特別な在位期間と整理しようとすると、2-1-378歌の作者湯原王に吉野へ行けと下命があった時点が、『続日本紀』からはわかりません。聖武天皇が吉野行幸をいつ思い立ったのかがわかりません。(『続日本紀』によれば聖武天皇の最後の吉野行幸天平8年です。)

 それよりも、最初の3区分の考えを踏襲して、聖武天皇以後の天皇の在位時期に対応しているのではないか、と思います。巻一の標目の順を考慮すると、4番目の区分は、聖武天皇以降の天皇を象徴する「寧楽宮」に居られる天皇、ということになります。

 巻三の雑歌の部の構成を表で示すと、次のようになっている、といえます(これは2020/3/14付けブログで示した表と同じです)。

表 万葉集巻三雑の部の配列における歌群の推定  (2022/3/21  現在)

歌群のグループ名

歌番号

関係する天皇

  計

関係分類A1~B

左以外の分類

第一

235~245 (11首)

246~289 (44首)

天武天皇

持統天皇

文武天皇

 55首

第二

290~291 (2首)

292~314 (23首)

元正天皇

元明天皇

 25首

第三

315~328 (14首)

329~377  (49首)

聖武天皇

 63首

第四

378~380 (3首)

381~392  (12首)

寧楽宮

15首

 計

        (30首)

        (128首)

 

158首

注1)歌番号は、『新編国歌大観』記載の『萬葉集』での歌番号

注2)関係分類とは、歌と天皇の統治行為との関係を事前に用意した11種類への該当歌をいう。本文「2.③」参照。分類保留と分類項目は立てていない。

注3)この表は、表Eをもとに、表Eの◎印の歌を「A1」と判定しなおして作成した(前回のブログ2022/3/14付けに示した表と同じ)。

注4)「歌番号:左以外の分類」欄の歌で一番多いのは「C」である。「H」と「I」には、「G」までに分類できない歌も天皇の下命の有無で分類した(分類保留の歌はない)。

 

④ 「歌番号:左以外の分類」での確認や雑歌の筆頭歌の考察等もする必要があります。それらは次回とします。

ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

(2022/3/21  上村 朋) 

付記1.巻三雑歌と天皇の統治行為との関係の整理について

本文「2.」の分類を巻三雑歌に適用し、次の表Eを得た。

表E 巻三の部立て雑歌にある歌(158首(2-1-235~2-1-392))と天皇の統治行為との関係を整理した表(この表作成後の検討で関係分類「A1」に変更した歌に◎印を付し、再確認を予定している歌に△印を付す)          (2022/3/21 現在)

関係分類

歌数

該当歌

備考

A1天皇及び太上天皇などの一般的公務に伴う(天皇が出席する儀礼行幸時の)歌群、但しA2~Hを除く)

22

2-1-235* 行幸時 人麿歌

2-1-236* 天皇出御の宴席時

2-1-237 持統天皇

2-1-238 復命歌

2-1-239 応詔歌 持統・文武行幸

2-1-243*~2-1-245* 行幸準備:吉野

2-1-290* 行幸時:志賀 石上卿歌

2-1-291 和する歌:滋賀 穂積朝臣老歌

2-1-318*,2-1-319* 行幸準備時:中納言大伴卿歌

2-1-320*,2-1-321*旅中歌:赤人歌

2-1-322*~2-1-324*旅中歌:作者不明

2-1-327*,2-1-328* 行幸時:赤人歌

2-1-378* 行幸準備:湯原王

2-1-379*,2-1-380* 行幸時の宴席歌:湯原王

公的宴席での歌か

 

 

 

 

題詞の「遊」は行幸準備。

 

企画のみで終わった行幸

2-1-290歌と違和感あり

 

行幸聖武天皇即位の関連行事

即位を祝い富士山を詠う

富士山を詠う

 

即位時の歌

 

前歌との配列による

 

A2天皇及び太上天皇などの死に伴う歌群

0

無し

 

B天皇が下命した都の造営・移転に関する歌群

1

2-1-315* 復命歌:藤原宇合

 

知造難波宮事に任じられたときの決意表明

 

C天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(Dを除く)

74

◎2-1-240*~2-1-242* 長皇子の狩:人麿歌

2-1-246,2-1-247 旅中歌 長田王歌

2-1-248 旅中歌 和する歌

2-1-249* 旅中歌 長田王歌

2-1-250~2-1-258 旅中歌:人麿歌

2-1-265 旅中歌:滋賀を詠う刑部垂麿歌

2-1-266* 旅中歌:宇治川を詠う人麿歌

2-1-267* 旅中歌:降雨中の行旅を詠う長忌寸意吉麿歌

2-1-268 旅中歌:琵琶湖の夕景を詠う人麿歌

2-1-272~2-1-280 旅中歌:高市連黒麿歌 

2-1-281 旅中歌:石川少郎歌

2-1-282~2-1-283 旅中歌:高市連黒麿歌 

2-1-284 応答歌 高市連黒麿妻歌

2-1-285 旅中歌 春日蔵老歌

2-1-286 旅中歌:高市連黒麿歌

2-1-287 旅中歌:春日蔵老歌

2-1-288* 旅中歌:紀伊国 笠麿歌

2-1-289* 旅中歌:紀伊国 春日蔵首老歌

2-1-299,2-1-300 旅中歌:田口益人大夫歌

2-1-303,2-1-304 旅中歌:長屋王

2-1-306,2-1-307 旅中歌:人麿歌

2-1-308 近江旧都を詠う:高市連黒人歌

2-1-309* 宴席の歌か:安貴王歌

2-1-313 宴席の題詠か:門部王歌

2-1-314 旅中歌:(木偏に安)作村村主益人歌 

◎2-1-316* 東宮に侍す時の歌か:土理宣令歌

◎2-1-317* 旅中歌:波多朝臣小足歌

◎2-1-325*,2-1-326* 旅中歌:赤人歌

2-1-329* 難波から見えた海を詠う

 門部王歌

2-1-358管内巡察時の宴席歌 生石村主真人歌

2-1-360~2-1-366 旅中歌:赤人歌

2-1-367,2-1-368 旅中歌:笠金村歌

2-1-369,2-1-370 旅中歌:笠金村歌

2-1-371 着任の挨拶歌:石上大夫歌

2-1-372 復命歌:作者未詳

△2-1-373* 着任歓迎歌:安倍広庭卿歌

△2-1-374* 任国での歌:門部王歌

2-1-384 旅中歌:筑紫娘子歌

2-1-385,2-1-386管内巡察:多比真人国人歌

2-1-391*,2-1-392* 旅中歌:作者未詳

皇子は遊猟を勝手に行えないのではないか

巡察時の歌を含む

 

 

 

近江国より上京時

 

暗喩不明

 

地名の詮索は保留 行幸時なら作者は先遣隊員か

 

 

 

 

送別の席の歌 ブログ2018/1/29付け参照

同上

 

公務での夜行か

 

 

 

駿河国の景

 

ブログ2021/11/15付け参照

 

 

 

「幸伊勢之国時」は従駕の意ではない

 

 

 

 

 

 

東宮に進講する際の歌 日本書記720完成

持節大将軍藤原宇合を迎えた使節一行の一人が作者

斉明天皇の故事と伊予温泉を詠う

海の民の生活を報告

 

ブログ2020/10/26参照

ブログ2020/10/26参照

ブログ2020/10/26参照

ブログ2020/10/26参照

ブログ2020/10/26参照

ブログ2020/10/26参照

ブログ2020/10/26参照

ブログ2020/10/26参照

 

 

2-1-392は部立て最後の歌(反歌

D天皇に対する謀反への措置に伴う歌群

0

無し

 

E1皇太子の行動に伴う歌群(E2を除く)

0

無し

 

E2 皇太子の死に伴う歌群

0

無し

 

F皇子自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む)

 

4

2-1-263*,2-1-264* 雪を詠う新田部皇子への人麿歌 

2-1-269* むささびを詠う志貴皇子歌 

2-1-270 故郷を詠う長屋王

新田部皇子は735没

 

志貴皇子は716没

長屋王は729没

G皇女自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む)

0

無し

 

H下命の有無が不明な事柄に伴う(作詠した官人自身の感慨を詠う)歌群

11

2-1-259~2-1-262 香具山とその麓の現況を嘆く歌:鴨君足人歌

2-1-271* 諧謔の歌:阿倍女郎歌

 

2-1-295~2-1-298 宴席の題詠歌か起承転結の4首:角麿歌

2-1-359 明日香への望郷歌:上古麿歌

2-1-381* 藤原家の庭園を詠む:赤人歌

 

 

阿倍女郎は中臣東人との贈答歌がある。

摂津住吉を褒める歌 作者未詳

 

 

 

 

I天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を詠う歌群

46

2-1-292,2-1-293 初月を詠う 間人宿祢大浦

2-1-294 相聞の歌:小田事歌

2-1-301旅中歌:弁基歌(僧であるので任国への途中ではない) 

2-1-302* 雪を惜しむ:大納言大伴卿歌

2-1-305 相聞歌:中納言安倍広庭歌 

2-1-310~2-1-312 紀伊の石室を詠う:博通法師歌

2-1-330 応答歌:通観歌

2-1-331*~2-1-340* 宴席での題詠歌: 大宰少弐小野老その他の歌

2-1-341*~2-1-353* 讃酒歌:旅人

2-1-354 応答歌: 沙弥満誓歌

2-1-355 旅中歌:若湯座王

2-1-356 白雲の叙景歌:釈通観歌

2-1-357白雲の叙景歌:日置少老歌

△2-1-375*,2-1-376* 相聞歌:赤人歌

△2-1-377* 和した歌:石上乙麿歌

2-1-382,2-1-383 神を祀る歌:大伴坂上郎女

2-1-387 恋の歌:赤人歌

2-1-388~2-1-390 仙柘枝媛を詠う:作者未詳歌

ブログ2018/3/26付け参照

宴席での題詠か

 

 

宴席での題詠か

宴席歌か

 

法師は従駕が疑問

 

覆水盆に返らずの意か

望郷歌&天皇讃歌

 

 

讃酒歌が前提の歌か

 

 

 

宴席の歌か。暗喩が不明

 

宴席の歌か。暗喩が不明

「君」が不明。左注は無視してここに分類。

暗喩が不明

相聞歌 雑歌の要素不明

158

 

 

注1)歌は、『新編国歌大観』の巻番号―当該巻の歌集番号―当該歌集の歌番号で示す。

注2)「該当歌」欄のコメントは上村朋の意見。「殯儀礼」とは皇族・高位の官人に対する官許の葬送儀礼相当を言う。

注3)◎印の歌(計7首)は、関係分類をその後「A1」に変更した。そのうえで検討をすすめている。

△印の歌は、2022/3/21現在再確認を予定している。

注3)「*」印の歌についての注記

  2-1-235: 天皇歌の前に置かれ、かつ筆頭歌なので、天武天皇の時の歌と編纂者が仕立てたか。題詞では人麿が、雷丘で詠んでいる。本文「3.② 第一」参照。

  2-1-236: 2-1-235歌左注にある或本の歌。2-1-235歌の元資料か。五句「宮敷座」により、行事に伴う宴席で人麿は詠んでいる。

 2-1-240~2-1-242歌:本文「3.② 第二」参照

  2-1-243~2-1-245:①題詞の「弓削皇子遊吉野時・・・」について諸氏が、2-1-111歌の題詞「幸吉野宮時 弓削皇子贈・・」と同時期と指摘している。②三船山に雲は常にあるものの例と理解した。題詞に「遊」というが行幸準備か。2022/3/14付けブログ「20.⑥」以降を参照。

  2-1-249:2-1-246歌からの一連の歌とみると、正月などに薩摩隼人の舞などを宮中に見ただけだった長田王の現地での感慨の歌となる。

  2-1-263,2-1-264:新田部皇子が雪の日に人を寄せた際の歌と理解して、関係分類を「F」とした。

   2-1-266:四句「いさよふなみ」は何を暗示して居るか不明。四句と五句は、とどこおり漂う波の行方がわからない(伊藤博氏)と、流れきれずに居る波は流れ行くべき方もなく湛へられている(停滞に重きを置く土屋氏)という理解がある。

  2-1-267:①前後の歌の配列からは近江国大和国の地名を期待するところだが不明。 ②三句「神之埼」は「みわのさき」と『新編国歌大観』の『萬葉集』は訓む。2-1-157歌の初句「神山之」も「みわやまの」と訓んでいる。これは前歌にある「三諸之 神の神須疑・・」より推測が可能である。③土屋氏は、2-1-267歌の「神」を必ずしも「みわ」と訓まねばならぬ根拠はない、として「和泉貝塚市の東南近木川河口付近の地(行基が神崎船息を置いた地)とみるべき」と指摘。また四句の「狭野乃渡」の「さの」は神崎の東南に続いて今和泉佐野市がある、と指摘する。「わたり」は河海をわたる所の意、武庫のわたり、難波のわたり等の如く濟津をいふと同時に基地たる港をもいふやうに見えるからここのその意にとれば自然とも指摘し、五句の「家」は作者が宿るべき家とも指摘する。もともと人家がないことを確認している。④伊藤氏は現和歌山県新宮市三輪崎と佐野一帯、という。⑤四句にある「わたり」とは、土屋氏のいうように、地元の人だけでなく官人も公用に利用している常設の利用頻度がある施設か、その付近の意であろう。河の渡しであれば、その位置は河口を避け増水に備えられる微高地または段丘が近くにある河原という地点となり人家はない。船泊りであれば、その位置は官か行基が造った停泊施設であり、避難用であれば常住の人家がないところもある、と推測できる。⑥土屋氏の指摘する「神崎船息」とは『行基年譜』にいう活動のひとつで「神崎というところの船泊」を指すが、資料批判をすると、行基の活動拠点楊津院と一体となった神崎川下流の河尻(神崎)の泊であると推測できる。作者が降雨中の移動で海路または陸路という二つの推測ができる。

  2-1-269:① 狩場から都に逃げてきたムササビが捕獲され献上に添えようとした歌がある(2-1-1032歌)。献上前に死んだのでそのままとなった。夜行性のムササビは、猟師が捕獲対象としていないだろう。何者かを夜行性のムササビに例えている歌か。夜這いに失敗した男をからかった歌か。折口信夫氏の『口訳萬葉集』では「宴席歌」としている。

② 配列は、近江旧都を詠う人麿歌の次にある。また千鳥が鳴く歌に挟まれている。今後の検討を要する。

③ 志貴皇子が何者かを積極的に例えている、とみて「関係分類」を「F」とした。

  2-1-271:歌意保留。坂の地肌が赤いことを詠うのか。土屋説で、整理した。

  2-1-288:題詞「(人物名)往紀伊国・・・歌」は、公務の旅行時であるが、「幸…時」と記していないので行幸の従駕時ではない。この歌の前後には、公的な場ではないところでの軽妙な歌が多い。

2-1-289:作者名が、弁基が701年還俗に与えられた名前である「春日蔵首老」である。それ以降の作詠時点である。

  2-1-290:本文「3.② 第三」と2022/3/14付けブログ「20.⑥~⑧」を参照

  2-1-302:① 割注の「未詳」とは、作者「大納言大伴卿」への注記。大伴安麿といわれている。

② 土屋氏は「勘の部類」だとして大伴旅人と言い、巻三の配列が歌の「製作年代」に割合に無関心。編纂者は巻一と巻二の拾遺のつもりらしい、のも「勘」という理由のひとつ、という。

③ 私の「勘」では宴席の題詠かと思うが、関係分類は「I」とした。

  2-1-309: 2022/3/14付けブログ「20.⑥」以降参照

  2-1-315:①作者藤原宇合が知造難波宮事に任じられた時(神亀3年(726)10月)の予祝の歌(伊藤氏)として復唱復命した歌。11種の「関係分類」では、A1よりも、造難波宮に関する歌と捉えられるので、Bとする。 ②難波宮聖武天皇が命じて天平4年(732)完成(後期難波宮といわれる)。

  2-1-316:本文「3.② 第四」参照。

 2-1-317:本文「3.② 第五」参照。

  2-1-318&2-1-319:割注(「未経奏上歌」)を今保留して関係分類を整理している。2022/3/14付けブログ参照。題詞にいう「暮春之月幸芳野離宮時」とは神亀元年3月1日からの聖武天皇行幸が最有力である。

 2-1-320歌~2-1-321:歌の富士山を詠う赤人歌は、聖なる山のように今上天皇の御代が後々まで言い継がれてゆかれるようになる、と予祝する歌である。この歌は聖武天皇の即位の一連の行事でのある宴席で披露が可能な歌。

 2-1-322歌~2-1-324歌:今上天皇は富士山のように誰もが仰ぎ見る方である、と予祝する歌である。

  2-1-325&2-1-326:本文「3.② 第六」参照。

 2-1-327,2-1-328:上記3つの長歌を献じられた今上天皇が、応えた歌である。天武天皇を尊敬しその治世をいつも顧みて進みたい、という決意表明ではないか。その意を受けて赤人が詠った歌である。長歌は「いにしへおもへば」と詠いおさめる。

 2-2-329歌:そのような天皇を頂いて、海の民も心置きなく生活しており、ありがたいことだ、と詠う歌であり、関係分類は「C」(天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(Dを除く))。

 2-1-331~2-1-340:ブログ2022/2/14参照。小野老の叙位を祝う宴での披露歌か。

  2-1-341~2-1-353:土屋氏は「中国の讃酒歌にならった妻を亡くした後の大宰師大伴卿の歌」という。

  2-1-373:暗喩があり、主賓の到着を待ち望んでいる歌となる。

 2-1-374:望郷(京)歌

  2-1-375,2-1-376&2-1-377:本文「3.② 第七」参照。

  2-1-378:本文「3.② 第八」参照。

  2-1-379&2-1-380:本文「3.② 第九」参照。

 2-1-381:本文「3.② 第十」参照。配列から編纂者の意図をくみ取りたいが今のところ分からない。

 2-1-391,2-1-392:①雑歌の最後の歌。本文「3.② 第十一」参照。左注を信じれば、古歌であり、当時誦したという若宮年魚麻呂なる人物は経歴未詳である。

(表E 終り )

(付記終わり 2022/3/21   上村 朋)