わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 日本恋久 萬葉集巻三配列その20

 前回(2022/10/3)のブログに引き続き、萬葉集巻三の配列について、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 日本恋久 萬葉集巻三の配列その20」と題して、2-1-388歌以下3首の検討を続けます。歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋)

1.~31.承前

 『萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、各歌について判定した表E(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を得たほか、「関係分類A1~B」の歌30首は、天皇の代を意識した4つのグループに分かれました。それ以外の歌においても2-1-387歌まで各グループに分けられることを確認し、前回までに2-1-388歌からの3首の歌意の概略の検討が終わりました。

各グループは天皇の代の順に配列されており、各筆頭歌は、2-1-235歌、2-1-290歌、2-1-315歌および2-1-378歌です。

32.「分類A1~B」以外の歌 2-1-388歌~2-1-390歌の天皇の代は

① 題詞「仙柘枝歌三首」のもとにある歌3首の属する天皇の代を意識したグループを検討します。

 巻三雑歌の天皇の代を意識した4つ目のグループは、聖武天皇以降の天皇を象徴する「寧楽宮」に居られる天皇の代の歌、と予想しているところです(ブログ2022/3/21付け「3.③」参照)。

 そのグループであるとする判定基準の指標は、3つ目までは「歌の作詠(披露)時点がその歌群のグループの天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌」という基準でした。ほかの代の可能性の有無は関係ありません。

 しかし、『萬葉集』の歌は作詠(披露)時点が天平宝字3年(759)までであり、巻三の雑歌に限定すれば聖武天皇の時代までです。このため、4つ目のグループの判定は、作詠(披露)時点よりも題詞のもとにおける歌意における「聖武天皇以降の天皇」の代に関する歌という可能性で判断してきたところです(ブログ2022/5/2付け「15.①」参照)。

 なお、第三グループまでの歌も当該天皇の代に関する歌意がくみ取れた歌でありました。

② 2-1-388歌~2-1-390歌本文は、『柘枝伝』に登場する「つみのえだ」を題材とした歌三首とも理解できるところですが、3首共通の暗喩は、同一の題詞のもとの歌として光仁天皇の即位に関する歌でした(ブログ2022/10/3付け「31.⑩」参照)。

 『柘枝伝』に登場する「つみのえだ」を題材とする歌は、官人の間に十分この説話が流布していたと想定できる聖武天皇の代でも、詠われて披露されてもおかしくありませんが、その後の天皇の代でも披露は可能であり、この3首が聖武天皇以降の天皇を象徴する「寧楽宮」に居られる天皇の代の歌とするのを妨げません。

③ そして、歌本文の暗喩によらずとも、題詞は、倭習漢文として、漢字の意義を踏まえても「仙なる柘枝(つみのえだ)に関する歌三首」という理解となり得る(ブログ2022/8/1付け「26.④以降」、ブログ2022/10/3付け「31.③」など参照)ので、この3首は4つ目のグループに属する歌である、といえます。

 なお、現代語訳の最終的な試みは、後日示します。)

33.「分類A1~B」以外の歌 2-1-391歌と2-1-392歌

① 次に、巻三雑歌の最後の題詞にある長歌反歌(2-1-391歌と2-1-392歌)を検討します。

 『新編国歌大観』より引用します。

 2-1-391歌 羈旅歌一首 并短歌

  海若者 霊寸物香 淡路嶋 中尓立置而 白浪乎 伊与尓廻之 座待月 開乃門従者 暮去者 塩乎令満 明去者 塩乎令于 塩左為能 浪乎恐美 淡路嶋 礒隠居而 何時鴨 此夜乃将明跡 侍従尓 寐乃不勝宿者 瀧上乃 淺野之雉 開去歳 立動良之 率兒等 安倍而榜出牟 尓波母之頭氣師

  わたつみは くすしきものか あはぢしま なかにたておきて しらなみを いよにめぐらし ゐまちづき あかしのとゆは ゆふされば しほをみたしめ あけされば しほをひしむ しほさゐの なみをかしこみ あはぢしま いそがくりゐて いつしかも このよのあけむと さもらふに いのねかてねば たきのうへの あさののきぎし あけぬとし たちさわくらし いざこども あへてこぎでむ にはもしづけし

 

 2-1-392歌

  嶋伝 敏馬乃埼乎 許芸廻者 日本恋久 鶴左波尓鳴

  しまづたひ みぬめのさきを こぎみれば やまとこほしく たづさはになく

(左注あり) 右歌若宮年魚麻呂誦之、 但未審作者

 

② 題詞を検討します。

 題詞と歌は、表E(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を作成時に検討しました。

 題詞について、以前次のように指摘しました(ブログ2022/3/21付け「3.② 第十一」より)。

 第一 題詞に「羈旅歌〇首」とあるのは巻三の雑歌にもう2題ある。「柿本朝臣人麻呂羈旅歌八首」(2-1-250歌~)と「高市連黒人羈旅歌八首」(2-1-272歌~)である。

 第二 この題詞のもとにある長歌反歌各1首は、平城京を後にして公務にいそしみ、今帰任するという、地方勤務の一官人の感慨を詠う一組にしたのではないか。そのような歌が第一にいうように西と東の方面に別けて既にある。

③ 上記第一の前者の題のもとにある歌は、「作者名を人麿に仮託した歌群のひとつでありこれらも当時の伝承歌のひとつ」(ブログ2022/3/28「6.①」です。また、最初の歌2-1-250歌は、五・七を2回繰り返している部分しか記されていない歌、と理解すると、長歌であるのかもしれません。

 後者の題のもとにある歌は、作詠時点を特定できる歌はなく、旅中の宿泊地や著名の地を題材にした歌であり、黒人特有の経験というよりも旅行者である官人の歌を、黒人の名でまとめた歌群であり当時の伝承歌とみなせます。しかし、土屋文明氏は、連作ではないが黒人作の歌とみなしています。

 この題詞は、仮託する人物名も記していませんので、別々の元資料の歌を一つの歌群とするための題詞である可能性が大です。

 歌は、都を離れた地を詠っており、羇旅の歌といえるので、歌との関連からみて題詞は不自然なところはありません。ただ、巻三の羈旅の歌と題する題詞で人物名を記していないのが特異です。巻三雑歌は多くが人物名を題詞に記していることからいうと、注目してよいことです。

 歌本文を検討後、改めて、それらの理由を確認することとします。

④ 歌本文についてもブログ2022/3/21付け「3.② 第十一」で次のように指摘しています。

 第三 歌本文をみると長歌反歌も船旅であり、2-1-392歌では「日本恋久」(やまとこひしく)と詠っているのでは官人の平城京への帰任の歌と推測する。

 第四 長歌をみると、地名が、淡路島、伊予の順に登場し、海神が白波を伊予(四国)に届ける、と詠い、作者は淡路島を西にむかって船出しようとしている、と理解できる。

 第五 短歌をみると、島伝いに敏馬(みぬめ・神戸市の東部)の崎をめぐるところまで西から航海して来て、作者は「日本恋久」と詠います。やっと、生駒山などが見えるようになった時の感慨を詠っているのではないか、と思う。

 第六 つまり長歌の中の主人公は西に向かい、反歌の中の主人公は東に向かう、という状況である。そのような伝承歌を一組に編纂者はしている、とみえる。「C」(「歌と天皇の統治行為との関係」分類が「天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(但し謀反への措置を除く)」)の判定は変わらないが、この長歌反歌はだれの旅の出発から帰着までを詠もうとしたのか、興味をもつところ。

⑤ 作中人物を推測します。

 長歌(2-1-391歌)は、いわゆる潮時を自ら見きわめている情景を詠っています。

 そして、「率兒等 安倍而榜出牟 尓波母之頭氣師」(いざこども あへてこぎでむ にはもしづけし)とあり、船団を率いる人物(この旅行の主人役の官人)というよりも、この船団の船の運航を仕切る船長(船頭の長)であるかの口調です。また、船団を率いる人物であるならば部下の官人や船長との会話を主とし、仕事にかかるに「率兒等」への呼びかけは船の運用に関することなので船長に任してしかるべきです。(「率兒等」という語句は「去来子等」という表記で2-1-63歌にもあります。)

 土屋文明氏は、「全体が常識的で航海者が口ずさむには適するであらう(歌)」と指摘しています。

 阿蘇瑞枝氏は、この歌群の歌を、「西から東へ向かう帰路の船旅の歌。海のスケール大きく神秘的な働きを讃え、・・・大和に向かって船を出す喜びの気持ちを詠む。宴席で吟唱するのにふさわしい内容と調べを持っている。」と指摘し、作中人物が官人か船長かについては触れていません。しかし官人が宴席で吟唱する歌であれば、官人が作中人物と推測できます。

 しかし、その場合、結びの句「率兒等 安倍而榜出牟 尓波母之頭氣師」は、少なくとも「率兒等」を同僚に呼びかける、あるいは上司に進言するにふさわしい表現に変更する必要があります。

 私は、長歌について土屋氏の理解に従いたい、と思います(『萬葉集私注』161p~参照)。

⑥ 反歌(2-1-392歌)は、「敏馬乃埼」(みぬめのさき)という地名が淡路島より大和よりの地名であり、かつ長歌の後に位置する反歌に詠われているので、上記第五のように指摘したところです。その作中人物は、船上に居る人物であり、河内や摂津の地名ではなく「日本恋久」(やまとこほし)と都に思いをはせています。船長の家族が、都に居住している確率は少ないのではないか。

  四句にある「日本恋久」について、土屋氏は、「やまとこひしく」と訓み、阿蘇氏は「やまとこほしく」と訓んでいます。歌を引用している『新編国歌大観』では上記①に記したように後者とおなじ「やまとこほしく」です。

 「こほし」について、『例解古語辞典』では、「「こひし」の古形。慕わしい。恋しく思う。「ゆかし」と同じように「知りたい・みたい」といった意味で用いられることがある。」と説明し、後者の用例として『今昔物語』をあげています。

 『古典基礎語辞典』では、「こほし」を立項し、「こひし(恋し)」を見よと説明しています。その「こひし(恋し)」では、3意あるとしています。

a恋人に逢いたい切なる気持ちを表す。用例は『源氏物語』明石巻より。

b時間的・空間的に隔たった場所・事物などに対して、再び行きたい、見たいなど心ひかれる気持ち。用例は『増鏡』十六より。

c「なつかしい。亡くなった人や過ぎ去った昔を偲んでいう。(中古以降の用法) 用例は『源氏物語』明石巻と『平家物語』九小宰相身投より。

 この歌においては、bの意であろう、と思います。だから四句は、「大和(にある都と家族のところ)に行きたい・見たい」と詠っていると理解します。

 そのため、作中人物は、官人であろう、と思います。

 土屋氏は、「長歌とは別に存した」歌とみており、作中人物の吟味は特にしていません。阿蘇氏もしていません。

⑦ 私は、反歌についても土屋氏の理解に従いたい、と思います。氏の現代語訳(大意)はつぎのとおり。

 「島づたひに敏馬の崎をこぎめぐって行くと、大和の方のことが恋しく思はれ、鶴のあまた鳴くのがきこえる」(『萬葉集私注二』164pより)

 なお、阿蘇氏は、「こほし」を一字一音で記した例が巻五に2例ある、と指摘しています。その意を確認すると2-1-836歌にある「古保志枳」は上記のb、そして2-1-879歌にある「故保斯吉」)は、上記のaでした。

⑧ このように長歌反歌の作中人物のイメージが異なります。異なるのは元資料の取捨選択でそうなっただけで羈旅の歌であるのは変わらない、という見方もありますが、人物名を記した題詞「羇旅〇首」には歌が各八首あるのに対して、この歌群は長歌1首反歌1首ですから、編纂者の意図の結果の可能性があります。

 反歌が、元資料の歌意を離れてひとつの歌群として長歌と組み合わされているので、歌群としては、ある目的地に向かう羈旅の歌として配列されているのではないか、と思います。

 この歌群は、阿蘇氏の指摘するように「西から東へ向かう帰路」の船旅の歌とも理解可能です。

 しかし、作中人物が異なるので、一つの旅行を詠っている歌ならば、長歌は、反歌の作中人物をむかえに行き、乗船されて後、目的地に向かうという反歌を添えているという理解も可能です。

 この歌群は、編纂者の手元の資料から題詞「羇旅歌一首 幷短歌」に相応しい歌が選ばれており、題詞に人物名を省いているのも作中人物が異なるためであろう、と推測します。

⑨ 次に、この歌はどの天皇の御代の歌として配列されているか、を検討します。

 歌本文に作詠時点(年代)を特定できる語句はありません。

 2-1-390歌までの巻三の配列を重視すれば、聖武天皇あるいはそれ以後の御代を詠った歌となります。2-1-390歌の暗喩を前提にすれば、光仁天皇、あるいは桓武天皇の御代に擬せられている、ということになります。

 だから、羇旅の歌として「寧楽宮」に居られる天皇の代に披露され得る歌です。

 なお、光仁天皇は、父が天智天皇の皇子施基親王(志貴皇子)、母が贈太政大臣紀諸人の女橡(とち)姫です。即位のとき62歳でした。

 桓武天皇は、父が白壁王(光仁天皇)、母が高野新笠(たかののにいかさ)です。山部王として従五位下天平宝字八年(764)授けられ、父白壁王が宝亀元年10月即位後の11月に親王となり四品を授けられています。同4年正月皇太子となっています。即位のとき45歳でした。 

⑩ そうであれば、歌に暗喩が込められているのではないか。

 2-1-391歌の作中人物は、官人階層を代表する人物を、「瀧上乃 淺野之雉 開去歳 立動良之」とは特定の皇子を擁立する動きを示唆しているのではないか。

 2-1-392歌の作中人物は、「寧楽宮」という天皇ではないか。「日本恋久」とは、律令体制のトップの指導力が発揮されることを指し、「たづ」(官人)がそれを期待しているところです。

⑪ この歌群に対する上記①の第二の指摘は、誤りでした。

 また、上記④の第三の「帰任」の歌という推測は、羇旅の歌という建前のものであり、この歌群に込められた暗喩は、律令体制の再出発、新たな皇統の出現を祝う歌となります。

 そして、上記④の第六に指摘した、「だれの旅の出発から帰着までの歌か」については、「寧楽宮」の天皇となりました。

⑫ 以上で巻三雑歌にある歌と天皇の御代との関係の検討が一応終わりました。表Eは修正を要することになりました。

 巻三雑歌にある各歌は、すべて天皇の代を意識した4つのグループに分かれて配列されていました。4つ目のグループは、天皇を特定していない未来の天皇の代として巻一で用意されていた「寧楽宮」に属する歌ですが、歌数は巻一より格段に増えて、15首となりました。

 まだ、巻三雑歌の配列全体については、巻頭歌と掉尾歌との理解などからの検討が残っています。

次回は、それらを検討したい、と思います。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

(2022/10/10  上村 朋)