わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 聖徳太子は誰を詠ったか

 ウクライナへロシアが一方的に侵攻しました。昔も今も軍事力に大差があると思うと、行動は変わらないのでしょうか。

 前回(2022/2/14)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 まだある寧楽その1」に引き続き、第24歌の類似歌について、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 聖徳太子は誰を詠ったか」、と題して記します。(上村 朋)

 1.~18.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。今3-4-24歌の類似歌に関して、語句「寧楽」を検討し、歌本文における「寧楽」字を用いた都城の表記は「奈良」という語句では表せない、平城京を「理想の都城」とみなすような感情をこめているようにみえると指摘した。その確認のため、題詞にある割注の「寧楽」を検討している。なお、歌は『新編国歌大観』より引用する。)

19.再考 類似歌 その16 巻三の最初の編纂者は割注していない

① 『万葉集』における「寧楽」表記には題詞や歌本文のほかに、題詞の割注に1例あります。巻四にある2-1-533歌です。

天皇海上女王御歌一首 寧楽宮即位天皇

 赤駒之 越馬柵乃 緘結師 妹情者 疑毛奈思

 あかごまの こゆるうませの しめゆひに いもがこころは うたがひもなし

(左注あり「右今案 此歌擬古之作也 但以時当便賜斯歌歟」)

 今、この割注(寧楽宮即位天皇也)が巻三の最初の編纂者の記した文章でない、と断言できるかどうかを検討中です。

 割注が編纂時の文章ではない、となれば、編纂者が関与した標目や題詞や歌本文とその配列に影響を及ぼすものではないことになります。その割注は「古本の注」として扱えます。

② そのため、巻一~巻四にある割注すべてを対象として検討しています。(割注のある歌の一覧は前回のブログ(2022/2/14付け)の付記1.参照)。検討途中、歌本文の確認が必要となり、今回も、上宮聖徳皇子の歌(2-1-418歌)などを検討しました。

 巻一と巻二にある標目と題詞に対する割注は、歌の理解に必須のものではなく、少なくとも、最初の編纂者が割注を作文していない、といえました。

 巻三にある割注(11題)には、この巻だけの注記のタイプとして、作者の活躍した時代を紹介しているものが2題あります。

2-1-339歌:雑歌 沙弥満誓詠綿歌一首   造筑紫觀音寺別當俗姓笠朝臣麻呂也

2-1-418歌:挽歌 上宮聖徳皇子出遊竹原井之時見竜田山死人悲傷御作歌一首  小墾田宮御宇天皇代墾田宮御宇者豊御食炊屋姫天皇也諱額田謚推古

 前者は、前回(2022/2/14付けブログ)検討し、一般的な「作者の特定だけが目的というタイプ」の注記と整理し直せました。後者を今回検討します。最初に、歌そのものの理解です。

③ 2-1-418歌は、部立てが挽歌の部の筆頭歌です。竜田山でみた死人を対象に「上宮聖徳皇子」が詠う挽歌となっています(なお、『萬葉集』記載の挽歌の定義は、巻二の2-1-145歌の左注に従っています)。

萬葉集』の最初の挽歌の部は、巻二にあり、その筆頭歌は、皇位継承も十分可能であった皇子が自ら詠う歌となっています。巻三と巻四の部立てが巻二までのそれを意識しているので、挽歌の部の配列や筆頭歌の位置付けには共通の特徴があるはずと予想しています。

④ 最初に、配列を比較します。巻二の挽歌の部は、無念の死に至った人物の送魂の歌を収載しており、歴代天皇その他の人物にとりこの世に未練を残していては困る人物に対する挽歌を置いていることを、2021/10/11付けブログで指摘しました。

 巻二の挽歌は、天智天皇にとり気にかかる一人であった人物(有馬皇子)への挽歌から始まり皇族、そして非皇族への挽歌が配列され、最後に志貴皇子への挽歌という順です。

 巻三は、竜田山死人(非皇族)、死を賜った皇子、そのほかの皇子・皇女、次いで香具山の屍など非皇族(途中に長屋王とその子への挽歌を挟む)、そして、最後に安積皇子への挽歌となっています。

 皇族優先の配列と最後に皇子を置いていることは共通しています。最後の皇子が自殺を迫られていないことも共通です。

 配列は、巻三の筆頭歌の対象者である竜田山死人(非皇族)が、天皇にとり送魂の歌を贈るべき人物を暗喩していれば同じ発想での配列といえます。

⑤ 次に、巻三の筆頭歌2-1-418歌の題詞を検討します。

 題詞は、作者名を「上宮聖徳皇子」と明記しています。

 これは、巻一などにある「標目」の表現に倣えば、「上宮」というところに居を構えた「聖徳」と人が言う(あるいは、人々が讃える)「皇子」、と理解できます。

日本書紀』をみると、「上宮聖徳皇子」という表記はありません。「皇子」で活躍した人物ならば『日本書紀』に登場しているはずなので、「上宮」という表記を頼りに探すと、用明天皇紀に初出する「厩戸皇子」(そして推古天皇が即位元年に皇太子にして国政をすべて委任したと記されている人物)がいます。「上宮」とは、「厩戸皇子」が最初に居を構えていたエリアをさしていました。

 諸氏も、「上宮聖徳皇子」という作者名は、推古天皇の皇太子となった厩戸皇子(以下「日本書記の厩戸皇子」、と記します)と指摘しますが、なぜ編纂者がそのように記したのかにあまり言及していません。その理由を確認します。(『日本書紀』に登場しない皇子が「上宮聖徳皇子」という名で当時知られていた、という可能性はない、と思います)。

「日本書記の厩戸皇子」は、後世「聖徳太子」と呼ばれ信仰の対象となった人物です。

⑥ 『日本書紀』など現存の資料で、「日本書記の厩戸皇子」を、どのように表現しているかを、当該資料の成立順に示すと、次のようになります。

第一 厩戸皇子:『日本書紀用明天皇元年(585)条

第二 (更なる名として) 豊耳聡聖徳。或名 豊聡耳法大王。或云 法主王:

用明天皇元年(585)条の分注

第三 厩戸豊聡耳皇子&皇太子&(皇太子となって以後に)上宮厩戸豊聡耳太子:

日本書紀』推古元年(593)二月条 この条以降推古紀では薨去まで「皇太子」と記す

第四 太子を名づけて利(和か)歌弥多弗利(わかみたふり):『隋書』隋の開皇20年(600)条

第五 厩戸豊耳皇子命:

日本書紀』推古29年(621)条 薨去時の記事の最初

第六 上宮皇太子・上宮豊聡耳皇子:

日本書紀』推古29年(621)条 薨去時の記事の最後段

第七 上宮太子聖徳皇:

法起寺三重塔露盤銘』 慶雲6年(706) (『聖徳太子伝私記』引用文)

第八 上宮之厩戸豊聡耳命:『古事記』 用明段 (後に天皇となる者に『古事記』は「命」を使用)

その序によれば撰上は和銅5年(712)

第九 『日本書記』編纂者は、上記第一~第三及び第五~第六を明記:

『日本書記』の成立は養老4年(720) 編纂者の認識を示す(第二は保留) 

第十 聖徳太子:『懐風藻』 序 成立は序によると天平勝宝3年11月(751/12~752/1) 

第十一 上宮聖徳皇子:『萬葉集』2-1-418歌の題詞:

 巻三の編纂時点を推測すると、最早は、2-1-478歌の作詠時点である安積皇子薨去天平16年(744))以降、最遅は、『萬葉集』の公表前でかつ大伴家持が死後に復位した時点,延暦25年(806)以降。

第十二 聖徳皇太子:『日本霊異記』上巻第四縁・同第五縁 (太子の名に三つありとして「厩戸豊聡耳、聖徳、上宮」を明記(上四縁)。厩戸皇子(上五縁)とも記す。聖徳太子は無し。)

  延暦6年(787)一旦完成し、増補した現存の形は弘仁年間(810~824)成立。

第十三 聖徳王・聖徳法王・上宮厩戸豊聡耳命:『上宮聖徳法王帝説』:

 主要部分の成立は弘仁年間(810~917)、現在の形には永承5年(1050)までの間

第十四 上宮太子と申す聖(ひじり):『三宝絵詞』 (日本仏教史の冒頭の説話が聖徳太子伝。その最後に、三つの名を紹介。聡明さを強調する名(厩戸豊聡耳皇子)、仏教との関係からの名(聖徳太子)、国政を執った面からの名(上宮太子))  永観2年(984)成立

    (以下省略)

⑦ これらのうち、『日本書紀』の記述は、推古朝当時の記録そのままではない、と諸氏は指摘しています。

 「天皇」の称号が用いられた確実な史料は天武天皇の時代からであり、制度的な「天皇」号の成立は689年に成立した浄御原令と想定されています。「皇太子」号もそれ以後用いられた称号です。

 また、『日本書紀』記載の憲法十七条にある「国司」という職名は大宝令(701制定)に初めて定められており、推古朝当時このような職名はありません。

 そして、『日本書紀』の編修過程は音韻研究からそのあらましが明らかになっています。

 森博達氏は、

第一 推古紀記載の巻二十二は、「基本的に和化漢文で記述され、倭音によって歌謡が表記されているような、倭習に満ちている巻」

第二 憲法十七条は、推古朝の用字論から、文武朝(697~)から述作がはじまり、さらに和銅7年(714)以降に潤色・加筆の可能性がある。

と指摘し、推古紀の述作者が正史に名を残す学者であるとすると、文章博士山田史御方と推測しています(『日本書紀の謎を解く』 中公新書 1999)。

 吉村武彦氏は、「日本書記の厩戸皇子」の記述には『史記』の文章から潤色したものがあり、それは没後に信仰の対象になった影響である、と指摘しています(『聖徳太子岩波新書 2002)。

⑧ 「日本書記の厩戸皇子」が中心となった外交や自身の仏教への関心は事実であっても、それらについて記した推古天皇時代の文章(元資料)が、『日本書紀』の編纂にあたりそのままのかたちで引用されていない、ということです。

 すなわち、上記第一以下は『日本書紀』推古紀の編纂時点における編纂者の認識となります(上記第九。なお、第二の分注が『日本書紀』成立時に既にあったとしても、この論は成立します)。

 また、吉村氏は、上記第一の表記「厩戸皇子」は実名であろうから、居を構えたところをいう「上宮」という名が生前は使われたであろう、と指摘しています。

 だから、上記の第一から第六(第二は保留し第四を除く)の、名称を含む推古紀の記述は、『日本書紀』編纂の目的に沿うよう、成立(養老4年(720))直前における天皇家の事情が反映している可能性が強い、といえます。

 この時の天皇元正天皇(在位715~724)です。母である元明天皇(在位707~715)から譲位をうけ、弟であり皇太子であった首皇子聖武天皇、在位724~749)に譲位した天皇です。

 天皇家の事情とは、皇太子となる皇子は優秀である(ことが多い)という例を示したいことではないか。「日本書紀厩戸皇子」について、誕生譚や片岡山遊行説話という奇瑞譚(付記1.参照)を記し、聡明な皇子であることを強調しています。

⑨ 『日本書紀』は、漢文の文化圏において、日本列島に都城をおく天皇専制律令国家の正当的歴史観を示すのが目的であったとみることができます。仏教の受容は天皇専制のための手段であり、統制をしっかりしています。皇極天皇4年(645)の乙巳の変後に即位した孝徳天皇(在位645~654)は、大化元年(645)8月癸卯条に記す「大化僧尼詔」で、仏教界の統制方針を明示しました。

 その際、仏教興隆の経過を述べた個所で、支援した人物として蘇我稲目蘇我馬子をあげ「日本書記の厩戸皇子」を称揚していません。

 『古事記』は、元明天皇の、律令国家の正当的歴史観を確定したい、また首皇子の即位にむけた帝王教育の教材をとりあえず得たいということから成ったという説があります(青木和夫氏「古事記撰上の事情」)。

 巻三の編纂が最早の推測時点であっても、『日本書紀』と『古事記』は参考にできました。そのどちらの編纂者も、「日本書記の厩戸皇子」に対して「聖徳」という形容をしていません。

 上記第七は、13世紀成立の書物に引用されているものであり、巻三編纂者が知り得たかどうかについて今は保留します。

⑩ 次に、上記第十の『懐風藻』は漢詩集です。その序は勿論漢文で書かれており、文化の伝来を記述する段に「日本書記の厩戸皇子」を「聖徳太子」と記しています。その序は、人物名を淡海先帝(天智天皇)、「龍潜王子」(大津皇子)、「鳳翥天皇」(文武天皇)や「藤太政」(藤原 史=藤原不比等)と記しています。

 「聖徳太子」も、その一環でのネーミングであり、鳳翥天皇などの命名法にならうならば、「聖徳+太子」からなる名です。

 「聖徳」とは、熟語として「優れた徳」とか「天子の徳」という意です(『角川大字源』)。熟語「聖徳」を用いた詩が『懐風藻』に1詩あります(付記3.参照)。

 「聖」とは、漢文・漢語では「aひじり。知徳がすぐれて、物事の理に通じている人、一つの道の奥義をきわめた人。b天子の尊称。c天子に関することの上にそえることば。dさとい、かしこい。」などの意があり、日本語の語義としては「aひじり。高徳の僧。例えば高野聖。bせい。英語のsaintの音訳」の意が加わります。

 推古天皇天武天皇の時代は、当然漢文・漢語の意だけです。

「徳」とは、「aとく。すぐれた才能、人格者のりっぱな行い、おしえ・人民を教化する力など。b徳を習得した人、人格者。cめぐみ・さいわい」等の意があります(同上)。

 「太子」とは「天子や諸侯の世継ぎの子。世子」とか「漢代以後、天子の位を継ぐ皇太子、諸王の子を太子という」とあります(同上)。

 このような漢字の意なので、「日本書記の厩戸皇子」を、序の作者が中国風に「太子」と表現し、その人物を称賛する語句として「聖徳」を用いている理由は、序の文を読むと推古天皇の治世の輔弼の状況である、と思います(付記3.参照)。

 『懐風藻』の成立は、『萬葉集』巻三の編纂時期の最早の予測時点より10年足らず後の時点であり、巻三の編纂者は参考にしたかもしれない資料です。

 なお、『日本書紀』には、ほかの皇子に対して「太子」という表記を用いている箇所があります(各巻の執筆担当者の違いの影響は未検討)。

⑪ 次に、上記第十二の『日本霊異記』は、延暦6年(787)一旦完成しています。巻三の推測最遅編纂時点より20年前です。その際に世に知られ、それに「聖徳皇太子」の説話が含まれていたならば、場合によっては参考にできます。

 その説話(上四縁)は「聖徳皇太子示異表縁」と題して、「日本書記の厩戸皇子」について、

 「進止威儀似僧而行 加製勝鬘法花等経疏 弘法利物、定考績勲之階、故曰聖徳」

と記しています。

 その意は、「仏法をひろめ、冠位の制を定められたことから聖徳と申し上げる」となります。

 二つの側面の業績をあげており、三つの名のうちの「聖徳」の意は、「知徳がすぐれて、物事の理に通じている人」となると思います。

 編纂者の景戒の時代には、100数十年前の人物を、既に仏教関係者が「聖徳」とも申し上げ布教活動をしていた、ということです。仏教側は、布教のため、歴代天皇のほかに、仏教伝来早期のころの天皇家でかかわりの深い人物を称揚したいという思いもあったのではないか。

⑫ また、天皇家に近い人にも、例えば聖武天皇の皇后である光明子が香・薬などを法隆寺厩戸皇子の命日に施入したり、厩戸皇子追善供養のため僧行信が阿倍内親王(後の孝謙天皇)にはかり上宮王院を建立(739ころ)し、厩戸皇子の所持品・鉄鉢を施入するなど、厩戸皇子個人への信仰があります(上宮王院は現在の法隆寺の一部である東院伽藍)。

 このような状況が、『萬葉集』巻三の推測最早編纂時点(744)前後でも既に生じていました。僧たちに法話の話題としての共通資料があったのか、と思います。

 しかしながら、巻三の編纂者は、官人であるので、『日本書紀』が座右の書であり、仏教説話集である『日本霊異記』は参考にしなかったのではないか、と思います。

 次に、上記の第十三と第十四は、仏教側の視点での資料であり、かつ『萬葉集』巻三の推測最遅編纂時点以後ですので、編纂者に影響を与えられないでしょう。

⑬ これらから推測すると、皇子と官人の作品集である『懐風藻』に示される漢文の素養を共有している『萬葉集』巻三の編纂者は、『日本書紀』を参照し、厩戸皇子の治世面の実績を官人として尊重し、「上宮」に居を構えたところの「皇子」と独自にネーミングしたか、とも言えます。

 しかし、天皇輔弼の実績を歌本文が積極的に必要としていません。上記⑤での疑問、なぜ編纂者は「上宮聖徳皇子」と記したか、のヒントは、歌本文にあるかもしれません。

 なお、『懐風藻』との前後関係は、巻三の編纂時期の推測結果次第であり、いうなれば、この歌は、巻三の最終編纂時点判定の材料の一つになっています。

⑭ 『日本書紀』との関係では、同書での「皇太子」という表記は、(巻ごとの執筆者の違いは置いておいて)履中天皇清寧天皇厩戸皇子及び天智天皇にあります。みな果断な行動をとった人物ですが、一人厩戸皇子のみ、天皇となる前に亡くなっています。

 これをヒントに、巻二の挽歌の筆頭歌が、有馬皇子の自傷歌でしたので、巻三の挽歌の筆頭歌も「日本書記の厩戸皇子」の自傷歌と予想し、確認してみます。

 2-1-418歌の題詞によれば、「上宮聖徳皇子」は、たまたま「行路死人」をみて詠っています。その死人のその後のことを、読み手に編纂者は一任しています。

 行路死人は、天然痘など伝染病が流行った時や都へ集めた役民の帰国の際生じやすいものです(付記2.参照)。

 『万葉集』には、路傍の死者に対する歌として、人麿詠う2-1-220歌~2-1-222歌および2-1-426歌もあります。

 だから、名も無き者が無念な思いを抱いて死んだであろうことを鎮めるような歌や行為は、共同体を守るために必要なことであり、その土地々々にそれぞれ生じていたと推測できます。

 土屋氏は、2-1-418歌の歌本文について、「此の時代のものとしては、現在見る形が直ちに作者の原作か否かは疑問であらうが、吾々は感銘深い作として此の一首を十分受け入れることが出来る」と指摘しています。

⑮ つまり、助ける人もなく家族とはなれ一人逝く人物に対する挽歌として素直に理解できる歌を、巻三の編纂者は、挽歌の部の筆頭歌としているといえます。

 「上宮聖徳皇子」の詠作でなく、「人麿」や「憶良」や「都に役民として上京中の人物」であっても、素直に理解できる歌です。歌本文のみの元資料は、土屋氏のいう民謡の類ともいえます。

 「日本書紀厩戸皇子」は、その地位を追われたりしていません。助ける人もなく家族とはなれ一人逝く状況にもなっていません。しかし、皇太子のままで生涯を終わっています。それは、皇子として無念であったろうという推測ができます。

 だから、歌本文の「行路死人」は、厩戸皇子自身である可能性があります。近い将来の自分の姿を、題詞にいう竜田山で見た死人に重ねて詠った歌ではないか。死は、流行病に掛かればあっけなく訪れます(天平九年(737)の藤原四兄弟のように)。

⑯ そうであれば、巻三の筆頭歌は、上記④で指摘した「天皇にとり送魂の歌を贈るべき人物を暗喩している」歌となります。

 巻二と巻三の筆頭歌は、次のような共通点があることになります。

 第一 皇位継承も十分可能であった皇子が筆頭歌を詠うこと

 第二 挽歌の対象(有馬皇子も、行路死人も)は、今上天皇に悪意を持たず、初志が実現していない死者であること

 このため、作文した題詞と元資料の歌の組合せは編纂者の意図による、と推測できます。

 そうすると、作者名に「聖徳」と冠したのは、作者の聡明さを訴えるためだったのではないか。『日本書紀』が最後に記している「上宮豊聡耳皇子」(上記⑥の第六)をベースに(推測編纂時点によっては『懐風藻』の序を参考に)ネーミングしたのではないか、と思います。

 このように、作者名の由来も理解でき、上記③での予想のようになりました。これを前提に、題詞の割注の検討をします。

⑰ 2-1-418歌の題詞の作者名に「上宮」が含まれているので、「日本書紀厩戸皇子」ということが2-1-418歌の題詞の割注が関与なしで、できました。

 そして、歌本文は、「一人逝く人物に対する挽歌」として作者名は不用の歌です。作者名と歌との関係は題詞の文章に拠っています。そのようになっているので、割注を巻三の編纂者は必要としていません。

 『日本書紀』記載の片岡山遊行説話の歌の対象人物は「飢人」であり、異なっており、説話とこの2-1-418歌の共通部分は、作者の聡明さだけです。それは言わずもがなの指摘であり、割注は後人の作文と思います。

 割注が、『日本書紀』推古紀にある片岡山遊行説話を思い出させることで人物を特定させたつもりであれば、『日本書紀』との照合は左注でよく行われているものの、時代を記すという方法での一般的な「作者の特定だけが目的というタイプ」の割注と、整理し直せるかもしれません。

⑱ さて、巻三の11題の割注には、ほかに、作詠の経緯に触れるものが2題あります。このタイプは、巻四にも4題あります。

2-1-318歌:暮春之月幸芳野離宮中納言大伴卿奉勅作歌一首并短歌  未径奏上歌

2-1-434歌:過勝鹿真間娘子墓時山部宿祢赤人作歌一首并短歌  東俗語云可豆思賀能麻末能弖胡

 これらの割注が、いつ作文されたかについては、次回に検討します。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき ありがとうございます。

(2022/2/28    上村 朋)

付記1. 聖徳太子の片岡山遊行説話について

① 推古21年12月庚午朔条にある説話であり、「日本書記の厩戸皇子」は歌も詠っている。(小学館『新編日本古典文学全集 日本書記②』より)

・・・時に飢たる者みちのほとりに臥せり。よって姓名をとひたまふ。而るを言さず。・・・安らかに臥せれとのたまふ。即ち歌(うたよみ)して曰(のたま)はく

 しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こや)せる その田人(たひと)あはれ 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て 臥せる その田人あはれ

② 同全集は、「皇太子の仁慈を語り、飢えた人が神仙と見抜く非凡な聖人であることを説く説話につながってゆく。 田人の原文は「多比等」=農夫の意。萬葉集歌では「竜田山死人」を歌では「旅人」という。行路死人であり、皇太子の歌での飢える田人と異なる。」と指摘する。

③ 歌の原文「多比等」を「田人」と認識すれば、人物像に三つの可能性がある。

「田人」だから常住者であり、地縁の共同体の一員でありながら放置されているので、

aその共同体自体が飢餓に苦しんでいる。物乞いのため一人に道に出てきた。

bその共同体にとり止むを得ない措置として道端にしかいられない(助ける手段がないとあきらめた重病人か自ら隔離生活をしたい流行病者が有力)。

c帰国する役民や自ら流浪の身になっている者を強制的に使用していたが、用済み又は隔離せざるを得ない状態になった。

④ どの人物像でも、この歌は、一個人を目にしただけで社会の課題を把握した、という趣旨の歌となる。官人の職務怠慢の現場を見たことにもなる。非凡さを示す歌であるが、「飢人」が神仙という話につなげにくい歌の理解になる。この歌は元々土屋氏のいう民謡の類ではないか。作者名は、その時この歌を使用した(であろう)人物の名である。

⑤ 原文「多比等」は、「飢えた人」とか「死んでしまった人」とか「帰国途中の役民」の意の表現に差し替え可能である。これに連動して差し替える語句もある。

付記2.役民の帰国に関する記述例

①『日本書紀孝徳天皇 大化二年2月甲申(22日)条の詔:薄葬令と旧俗の廃止

 旧俗の廃止とは、「愚俗」の禁止をいう。役民が故郷と都を往復す途次での事故に対し路傍の住民が祓除の強要(死人をケガレとする習俗の悪用) 、河に溺死した者に偶然出会った者が溺死者の仲間に祓除の強要、役民の炊飯時路傍の家人が 祓除の強要(別のかまどの火を用いるのは村落共同体としてのかまどの火が穢されたことになる)等の愚俗を禁止した。この禁を犯した場合は、その族も同罪とした。

②『続日本紀元明天皇 和銅5年正月16日条の詔:「役民が郷里に還る時食料欠乏から飢えて道路の溝壑に転塡せる者が多いから、物を恵みあるいは手厚く埋葬し、本人の戸籍のある国に報告せよ」

③『続日本紀元正天皇 養老4年(720)3月17日条:「人々が物を運んで入京し用事が終わったら早く帰還すべきです。還る旅程の食糧を支給し飢え疲れることなく帰らせてやりたい…」という奏上は許可された。

④ 上記の「付記1.③ c」も例となる。

付記3.懐風藻の序と詩での「聖徳」の用例について

① 序には署名がない。序の作者(と詩の撰者)には、淡海三船石上宅嗣など数名があげられているが推定の域にとどまる(『懐風藻』江口孝夫 講談社学術文庫 2000)

② 編纂時期は天平勝宝3年(751)11月と明記している。聖武天皇孝謙天皇に譲位して3年目である。

③ 序は、結局、天智天皇の時代を賛美している。

④ 序の関係する文は次のとおり。

「逮乎聖徳太子、設爵分官、肇制礼義。然而 専崇釈教、未遑篇章」聖徳太子に逮(およ)んで、爵を設け官を分かち、肇(はじ)めて礼義を制(さだ)めたまふ。然(しか)れどももっぱらに釈教を崇(あが)めて、いまだ篇章にいとまあらず。(江口孝夫『懐風藻』 講談社学術文庫 、2000)

⑤ 序の作者は、聖徳太子について、「孔子の説く礼儀を国に整えたが詩文より仏教に熱心で、聖徳太子は詩文を残さなかった」という認識を示している。ここにいう「聖徳太子」は、「日本書記の厩戸皇子」であるのは、序の前後の文章から明らかであり、「聖徳」というのは、治世への貢献に対する評価である。

⑥「聖徳」を用いた詩は、釈道慈の詩に1首ある(第103詩)。

五言 在唐奉本国皇太子 一首

三宝持聖徳  仏教は皇太子のすぐれた徳行をお守りし

百霊扶仙骨  百神のみ霊(たま)は皇太子の不老長寿にお尽しし

寿共日月長  ご寿命は日月と同じように長く

徳与天地久  御徳は天地と同じように久しくあられますように  (江口氏の訳による)

   (付記終わり 2022/2/28 )