わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 萬葉集巻三の割注 

(決議案に国連加盟国の141か国が賛成しました。ロシアを支持して反対した国が4か国、棄権した国に、中国、インドなど35か国、投票しなかった国が12か国でした。それで侵略している側が引き下がるものではないでしょう。全面的な情報戦争・経済戦争がはじまりました。長引くことを覚悟しなければなりません。)

 前回(2022/2/28)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 聖徳太子は誰を詠ったか」に引き続き、第24歌の類似歌に関して、今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 萬葉集巻三の割注」、と題詞して記します。(上村 朋)

1.~19.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。今3-4-24歌の類似歌に関して、語句「寧楽」を検討し、歌本文における「寧楽」字を用いた都城の表記は「奈良」という語句では表せない、平城京を「理想の都城」とみなすような感情をこめているようにみえると指摘した。その確認のため、題詞の割注にある「寧楽」を検討している。なお、歌は『新編国歌大観』より引用する。)

20.再考 類似歌 その17 巻三の最初の編纂者は割注していないらしい

① 『万葉集』における「寧楽」表記には題詞や歌本文のほかに、題詞の割注に1例あります。巻四にある2-1-533歌です。

天皇海上女王御歌一首 寧楽宮即位天皇

 赤駒之 越馬柵乃 緘結師 妹情者 疑毛奈思

 あかごまの こゆるうませの しめゆひに いもがこころは うたがひもなし

(左注あり「右今案 此歌擬古之作也 但以時当便賜斯歌歟」)

 今、この割注(寧楽宮即位天皇也)が巻三の最初の編纂者の記した文章でない、と断言できるかどうかを検討中です。割注が編纂時の文章ではない、となれば、編纂者が関与した標目や題詞や歌本文とその配列に影響を及ぼすものではない、「古本の注」として扱えます。

② そのため、巻一~巻四にある割注すべてを対象として検討しています。(割注のある歌の一覧は前々回のブログ(2022/2/14付け)の付記1.に記載)。検討途中、歌本文の理解に及ぶことがあり、今回も、2-1-318歌などを検討しました。

 巻一と巻二にある標目と題詞及び巻三にある題詞11題(下記の2題を除く)に対する割注は、歌の理解に必須のものではなく、少なくとも、最初の編纂者が割注を作文していない、といえました。

 巻三で未検討の2題は、作詠の経緯に触れるものです。このタイプは、巻四にも4題あります。

2-1-318歌:暮春之月幸芳野離宮中納言大伴卿奉勅作歌一首并短歌  未径奏上歌

2-1-434歌:過勝鹿真間娘子墓時山部宿祢赤人作歌一首并短歌  東俗語云可豆思賀能麻末能弖胡

 前者の割注は、上奏に至らなかった歌という意味ではないか、とこれまで論じられており、後者の割注は、題詞にある娘子の東国下総国での呼び名が異なっていることを指摘している、とみられています。どちらも巻三の編纂者が作文していると考えられてきています。それを確認します。

③ 2-1-318歌より検討します。

 この歌は巻三の雑歌の部(計158首)にあります。

 巻三と巻四の部立てが巻二までのそれを意識しているので、相聞の部の配列や筆頭歌の位置付けには共通の特徴があるはずと予想しています。

 必ずしも作詠順の配列になっていない、と諸氏は指摘しています。

 巻一の雑歌同様に、歌と天皇の統治行為との関係(付記1.参照)を確認すると、「天皇及び太上天皇などの一般的公務に伴う(天皇が出席する儀礼行幸時の)歌群(関係分類「A1」)の歌が結局29首あり、都の造営・移転に関する歌群(関係分類「B」)の歌も1首ありました。この30首により、雑歌は4つのグループになっていました。標目を立ててよいほどに時代を区切っているグループです。(全158首対象の整理確認結果は、次回のブログに記します。)

 「A1~B」の歌が関係する天皇は、天武天皇から即位の順の配列となっています。

 巻三の雑歌の部の歌158首は、次のように整理できました。

表 万葉集巻三雑の部の配列における歌群の推定  (2022/3/14 現在)

歌群のグループ名

歌番号

関係する天皇

  計

関係分類A1~B

左以外の分類

第一

235~245 (11首)

246~289 (44首)

天武天皇

持統天皇

文武天皇

 55首

第二

290~291 (2首)

292~314 (23首)

元正天皇

元明天皇

 25首

第三

315~328 (14首)

329~377  (49首)

聖武天皇

 63首

第四

378~380 (3首)

381~392  (12首)

寧楽宮

15首

 計

        (30首)

        (128首)

 

158首

注1)歌番号は、『新編国歌大観』記載の『萬葉集』での歌番号。

注2)関係分類とは、歌と天皇の統治行為との関係について事前に用意した11種類をいう。分類保留という分類項目は立てていない。

注3)この表は表E(次回ブログに記載予定)をもとに作成した。

④ 第一グループは、持統天皇が存命であった代の歌、というくくりらしく、天武天皇持統天皇文武天皇の三代を対象にしている歌です。

 第二グループは、元明天皇元正天皇の時代の歌です。

 第三グループは、聖武天皇の時代の歌です。

 第四グループは、聖武天皇の時代の歌か、或いは(推測するに巻一の標目にある)寧楽宮と称する宮を構えることになる将来の天皇の時代の歌か、と思います。

 今検討しようとしている2-1-318歌は、第三グループの最初にある関係分類「A1~B」にある歌です。

 関係分類「A1~B」の配列は、一読すると作詠順になっていません。

⑤ 配列検討のため、この歌の前後の歌として関係分類「A1~B」の歌をあげると次のとおり。

 2-1-315歌 復唱歌:作者藤原宇合が知造難波宮事に任じられたときの決意表明の歌。第三グループの筆頭歌。 作詠(披露)時点は神亀3(726)年。

 2-1-316歌 行幸時の歌か:神亀元(724)年3月1日条にある聖武天皇の芳野宮行幸時が最有力。

 2-1-317歌 旅中歌:波多朝臣小足歌。近江国まで、凱旋することになる藤原宇合を迎えに行った際の歌。作者は使者の内舎人一行の一人か。  

 2-1-318歌 2-1-319歌 即位と行幸を話題とする歌:今上天皇奉祝・予祝の歌。中納言大伴卿歌。 詳しくは下記⑥以下に記す。

 2-1-320歌 2-1-321歌 旅中歌というスタイルの予祝の歌:赤人歌 聖武天皇の即位の一連の行事の宴で富士山を詠う。

 2-1-322歌~ 2-1-324歌 旅中歌というスタイルの予祝の歌:作者不明歌だが富士山を詠う。

 2-1-325歌 2-1-326歌 旅中歌というスタイルの予祝の歌:赤人歌 船出の故事を詠う。

 2-1-327歌~ 2-1-328歌 行幸時の歌というスタイルで、決意披歴の歌:赤人が、聖武天皇天武天皇への誓いを詠う。第三グループの関係分類「A1~B」の歌では最後の歌。

 この配列を見ると、聖武天皇の事績(難波宮造都と蝦夷征伐)と即位の奉祝あるいはその御代を予祝する歌から構成されている、とみえます。

⑥ このような配列のもとにあるとすると、2-1-318歌は、即位のセレモニーである大嘗会その他の行事の最初の歌という位置付けになります。

 2-1-318歌の題詞(上記②に記す)から、順に検討します。

 題詞は、作詠対象であるかの行幸と作者名と作詠動機の「奉勅」を記しています。即ち、題詞の漢文は

 「暮春之月幸芳野離宮時」(以下文Aという)

 「中納言大伴卿」(以下文Bという)

 「奉勅作歌(一首并短歌)」(以下文Cという)

という三つの小文から成っています。

 文Aの「暮春の行幸」から、行幸は『続日本紀神亀元年3月1日条にある聖武天皇の芳野宮行幸であろう、と諸氏は指摘しています。天武天皇崩御後、持統天皇がよく行幸した吉野へ、聖武天皇は同年11月に行われる大嘗会の前に、行幸したことになります。

 芳野離宮(吉野宮)への行幸に関連する長歌は、『萬葉集』の巻一~巻四において5組登場します。文A~文Cにならい、それらの題詞を分かち書きすると、つぎのとおり。

 2-1-27歌  天皇    幸于吉野宮時    御製歌

 2-1-36歌~       幸于吉野宮之時   柿本朝臣人麿作歌 

 2-1-70歌 太上天皇  幸于吉野宮時    高市連黒人作歌

 2-1-74歌~大行天皇  幸于吉野宮時    歌

 2-1-318歌~   暮春之月幸芳野離宮時  中納言大伴卿 奉勅作歌一首并短歌

 このほか巻六にも2組あります。

 2-1-912歌~   養老七年癸亥夏五月幸于芳野離宮時 笠朝臣金村作歌一首并短歌

 2-1-925歌~   神亀二年乙丑夏五月幸于芳野離宮時 笠朝臣金村作歌一首并短歌

 これをみると、文A部分は、「幸于吉野宮(芳野離宮)時」が大部分で、2-1-318歌~のみが「幸芳野離宮時」に替わっています。

⑦ 漢字「于」の意は、動詞であれば「赴く」などの意、助詞であれば「文のリズムをととのえることば」であり、前置詞であれば「おいて。於に通じる」と漢和辞典にあります。漢字「時」は名詞であれば ここでは「時期」とか「ある時点、ちょうどそのとき」とか「好機、機会、おり」という意で用いられている、と思います。

 そして「于」字のある歌では、行幸する場所を意味しかつその歌を披露する場所をも意味させていると思われ、これに対して、「于」字を用いていない語句「幸芳野離宮時」は、行幸する場所を意味せず「吉野離宮への行幸が話題にのぼったとき」とか「吉野離宮への行幸にあたり」とかという理解になるのではないか。

 「于」字の有無で文意が変わっている、といえます。

 題詞は純粋の漢文ではありませんが、当時の官人の用いていた用法で作文されているでしょうから、「幸于吉野宮(芳野離宮)時」と「幸芳野離宮時」に意味の違いがあったのだ、と思います。

⑧ なお、巻一における難波宮などへの行幸時の歌の題詞も「幸于〇〇宮時」とあり、「幸〇〇宮時」という表記はありません。巻三には「于」字表記のない題詞が、さらに2題あります。

 2-1-290歌  幸志賀時石上卿作歌 名闕

 2-1-309歌  幸伊勢国之時安貴王作歌一首

 前者は、第二グループの、「A1~B」の歌です。元明天皇元正天皇の時代の歌となります。

 作者を、「卿」という敬称でもって表記しているので、三位以上または参議以上である石川麻呂が候補となります。麻呂は和銅元年(708)3月に右大臣から空席であった左大臣に任命されています(同時に右大臣には藤原不比等が任命されています)。しかし、『続日本紀』には石上麻呂霊亀3年(717)3月に没するまでの行幸記事に「幸志賀」はなく、経由地としての記述もありません。行幸先は不明です。

 行幸の企画立案にかかわる右大臣の麻呂であれば、考えられる作詠時点は、結局採用しなかった行幸の企画立案時ではないか。この歌も行幸先で披露された歌ではない、と思います。

 また題詞にある「志賀」という表記は、柿本人麻呂の2-1-30歌本文の「楽浪之 思賀乃辛碕」及び2-1-218歌本文の「樂浪之 志賀津子等何」などのように、近江国の地名であり、離宮があったところなのでしょうか。「辛碕」は大津市下坂本唐崎に比定されています。

 しかし、歌本文には地名が詠み込まれておらず、望郷の伝承歌が元資料と推測できます。執務が一段落したとき、このような歌を口にしたのであろう、と思います。

⑨ 後者(2-1-309歌)も、配列からは、元明天皇元正天皇の時代の歌であるので、行幸記事をさがすと『続日本紀』にあります。元明天皇の養老2年(718)2月美濃国の醴泉への行幸で、通過地として「美濃、尾張、伊賀、伊勢など」とあります。作者安貴王は、志貴皇子の孫とも推測されている人物です。

 この歌の「幸伊勢国之時」とは、「美濃国の醴泉への行幸伊勢国経由と知ったとき」の意と理解できます。

 この2首の関係分類は、「天皇及び太上天皇などの一般的公務に伴う(天皇が出席する儀礼行幸時の)歌群(関係分類A1)となります。

 このように、「于」字表記の有無は、題詞の趣旨を表現している、と思います。

ついでに言い添えると、第二グループの「A1~B」の歌は歌数も2首と少ないですが、残りの1首2-1-291歌は歌本文に「志賀」を詠い、2首で企画だけで終わった行幸を話題とした歌となります。

⑩ 次に、2-1-318歌の題詞の、文B「中納言大伴卿」を検討します。

 作者大伴卿は、旅人となります。養老2年(718)3月に中納言に任じられ、天平2年10月大納言に任じられており、聖武天皇即位の頃は在京の官職でした。

 次に、2-1-318歌の題詞の、文C「奉勅作歌」を検討します。

 行幸先での行事は事前に準備が必要です。歌の披露の場のあることも従駕する人たちに周知しているはずです。

 一般に、公的な宴などでは、参会した主要な人々に歌の披露は求められていたのではないか。『萬葉集』の最後の歌2-1-4540歌は国守大伴家持の歌ですが、これに応じた歌が部下からあるのが当時の行事の式次第になっていたのではないか。

 和歌などを披露する公式の機会が訪れたらば、代作を頼んだりその場にふさわしい伝承歌を参会者は原則詠う、というマナーが当時あったのではないか(誰それの(所望した)歌として朗詠者が朗詠する)。

 だからわざわざ「奉勅作歌」と記述することは、行幸時に披露する歌ではない歌を作った、という含意があります。

 「幸芳野離宮時」というこの題詞のみの表現と矛盾しません。

 伊藤氏は、「旅人のごとき身分の人が讃歌を詠う理由」に戸惑っていますが、それは行幸先で披露する長歌の場合としての戸惑いでしょう。行幸先で諸王は短歌を披露しており、『萬葉集』には多々あります。

⑪ 2-1-318歌については、題詞の割注を含めてこれまでも諸氏が論じています。『セミナー万葉の歌人と作品 第四巻』(神野志隆光坂本信幸企画編集 2000)では、村山出氏と平山城児氏が論じています。

 村山氏は、聖武天皇左大臣に任命した長屋王らの間に、生母藤原夫人宮子に「大夫人」の尊称を賜ろうとした件での対立が続いていたことが原因で芳野宮でのすべての「讃歌奏上」が天皇の意思で取り止めとなったのではないか、と指摘しています。しかし、即位のセレモニーである芳野行幸で異例のことを今上天皇はしない、と思います。

 村山氏も平山氏も題詞における「于」字表記の有無について触れていません。また、巻三編纂者がこの割注を記していることを自明のこととしているのにも疑問を感じます。なお、『萬葉集研究』の27巻~34巻にはこの歌に関する論文はありませんでした。

 また、上記⑥であげた2-1-925歌の題詞には「神亀二年乙丑夏五月幸于芳野離宮時・・・」とあるものの、『続日本紀』にこれに対応する行幸の記述はありません。

萬葉集』の記述を信用すれば、すべての行幸が『続日本紀』に記述されているわけではなく、行幸時に歌の披露の場があるのが普通という推測の根拠にも2-1-925歌はなります。 

⑫ このため、2-1-318歌は、芳野離宮行幸準備の際、即位の一連の行事執行にあたり、予祝の歌を下命されて、宣命をも意識して旅人は作詠したものではないか、と思います。それは旅人の詩情を刺激したのでしょう。旅人の長歌はこれだけであり、かつ『萬葉集』記載歌では一番若年の歌であるので、伊藤博氏と(根拠は異なりますが)同じように、旅人個人にとってはエポックメイキングなことといえます。

 それはともかく、この歌は下命をきっかけにした歌であり、芳野宮行幸先での披露は念頭にありません。官人が作者である上記の芳野離宮時の歌も、題詞には奏上あるは披露という表記は省かれています。同じように「奉勅作歌」と題詞に記してあることは、別途今上天皇に達している歌と理解してよい、と思います。復命した時点は石上卿と同様宮中での執務中のことであり、宴席ではないでしょう。あるいは芳野離宮から還御されたときでしょうか。

⑬ さて、題詞の割注(未逕奏上歌)の検討です。

 聖武天皇天武天皇の崇敬の念が強いので、即位した直後に芳野宮行幸をしたのであろう、と思います。この行幸と、10月の紀伊国(海部郡)行幸大嘗祭までの一連の行事としています。

 『続日本紀』の10月条の記事と比較して、行幸先での天皇の行動や行事の記述が芳野宮行幸には一切なく紀伊国(海部郡)行幸は豊富です。これは大嘗会の記載が簡潔であるように神聖な面が芳野宮行幸に強いからではないか。

 この歌の作詠事情について、巻三の編纂者(少なくとも2-1-318歌をここに配列した編纂者)は、意を十分題詞に書き込んでいますので、更なる説明を割注でする必要を認めていないと思います。

 また、この割注の内容は、題詞を誤解しています。このためこの割注は、後人の作文となります。

⑭ 念のため、歌本文を紹介すると、 

 2-1-318歌 (題詞は上記②に記す)

   見吉野之  芳野乃宮者  山可良志  貴有師  水可良思  清有師   天地与  長久 

          萬代尓   不改将有   行幸之宮

     みよしのの よしののみやは やまからし たふとくあらし かはからし 

    さやけくあらし あめつちと ながくひさしく よろづよに かはらずあらむ

 いでましのみや

  土屋氏は次のようにその大意を示しています。

「吉野の宮は、山の成り立ちが貴いのであらう。川の成り立ちが清いのであらう。天地と共に長く久しく、萬代までも変わらず有るであらうめでたい行幸の宮である。」(『萬葉集私注二』新訂版)

 伊藤氏は、

 「み吉野、この吉野の宮は山の品格ゆえに尊いのである。・・・改(かわ)ることはないであろう。我が大君の行幸(いでまし)の宮は。」

と現代語訳を示しています(角川ソフィア文庫『新版万葉集一』)。

 この歌は長歌であり、反歌があります。

  2-1-319歌  昔見之 象乃小河乎 今見者 弥清 成尓来鴨

  むかしみし きさのをがはを いまみれば いよよさやけく なりにけるかも

⑮ 歌に用いられている語句について、長歌の「見吉野之 芳野」、「山可良志」、「水可良思」、「不改将有 行幸之宮」など及び短歌の「象乃小河」は、『萬葉集』では作者旅人のみの用語である、という諸氏の指摘があります。そして、聖武天皇の即位の詔の語句(不改(常典))を取り入れています。

平山氏は「措辞の新しさがある」と評しています。

 「(吉野)離宮永続の根拠をその環境の優秀性だけに求めている作品は他にみられない(高松寿夫氏)」など金村などの吉野讃歌が人麻呂歌をベースにしているのに対して異色である(人麻呂の行幸時の歌の影響下にない)、」とも指摘されています。

 反歌を、「よくこなれたやまと言葉の、しかもすぐれた抒情詩」と平山氏は指摘します。

 「昔見之 象乃小河乎」の語句を、旅人は、2-1-335歌でも用いています。この長歌反歌は、「芳野宮」の永遠性を詠っており、吉野の景は以前よりもさやかである、と天武天皇の御代を越える今上天皇の御代となるであろう、と詠っており、今上天皇の御代を奉祝・予祝する歌である、と思います。

⑯ 次に、2-1-434歌の割注を検討します。

 再掲すると、

2-1-434歌 過勝鹿真間娘子墓時山部宿祢赤人作歌一首并短歌  東俗語云可豆思賀能麻末能弖胡

 

 『新編国歌大観』は題詞と割注の訓を示していませんが、歌本文に「勝壮鹿乃 真間之手兒名」とあり、その訓が「かつしかの ままのてごな」とあります。

 割注を、「かづしかのままのてご」と伊藤氏は訓んでいます。

 題詞の「勝鹿真間娘子」は、「かつしかのままのをとめ」と訓むのでしょう。

 割注の意は、その土地で「かづしかのままのてご」という人物名を、官人の作文である題詞で、当時の共通語で「かつしかのままのをとめ」と表記している、と指摘した、というところです。名前の発音に注意を促しているので、「作詠の経緯に触れる」タイプの割注という整理でしたが、「(ちょっと発音が異なる)別名が〇〇」という割注と理解すれば、一般的な「作者の特定だけが目的というタイプ」の注記と整理し直せます。

⑰ この割注が無いとしても歌の理解は十分できます。娘子の名の呼び方で歌意が変わるわけではなく、巻三の編纂者は割注の必要を感じていないはずです。勝鹿真間娘子が伝説上の人物に当時既になっているので、後人がその土地での呼び方を紹介したのがこの割注である、と思います。

 なお、巻九にある 2-1-1811歌は、題詞に「詠勝鹿真間娘子歌一首并短歌」、歌本文に「勝壮鹿乃 真間乃手兒奈」とありますが、割注はありません。左注もありません。

⑱ このように、今回検討した割注2題を作文した人物は、少なくとも最初の編纂者ではない、ということになりました。これで、巻三までの割注は、すべて「古注」の部類といえます。

 次回は、割注の検討をお休みし、巻三の歌の配列について記します。

ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき ありがとうございます。

(2022/3/14    上村 朋)

付記1.歌と天皇の統治行為との関係の分類について

 歌が詠われている状況について天皇の統治行為中心に整理分類し、関係分類を11分類した(ブログ2021/10/4付け)。次のとおり。 

A1 天皇及び太上天皇などの一般的公務に伴う(天皇が出席する儀礼行幸時の)歌群、但しA2~Hを除く:

例えば、作者が天皇の歌、天皇への応答歌、復命歌、宴席で披露(と思われる)歌

A2 天皇及び太上天皇などの死に伴う歌群:

  例えば、殯儀礼の歌(送魂歌・招魂歌)、追憶・送魂歌

B 天皇が下命した都の造営・移転に関する歌群:                      

  例えば、天皇の歌、応答歌、造営を褒める歌

C 天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(但しDを除く):

  例えば、皇子や皇女、官人の行動で、公務目的に直接関係なさそうなその旅中での感慨を詠う歌。復命に関する歌はA1あるいはA2あるいはDの歌群となる。

D 天皇に対する謀反への措置に伴う歌群:

  例えば、罪を得た人物の自傷歌、護送時の誰かの哀傷歌、後代の送魂歌

E1 皇太子の行動に伴う歌群(E2を除く):

  例えば、皇太子の行幸時の歌、皇太子主催の宴席での歌、公務目的に直接関係なさそうなその旅中での感慨を詠う歌 

E2 皇太子の死に伴う歌群:

  例えば、殯儀礼の歌、事後の追憶の歌

F 皇子自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む):

  例えば、殯儀礼の歌、事後の追憶・哀悼の歌、主催した宴席など公務以外の宴席での歌、その公務の目的に直接関係なさそうなその旅中での感慨を詠う歌

G 皇女自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む):

  例えば、殯儀礼の歌、追憶の歌、送魂歌、主催した宴席など公務以外の宴席での歌

H下命の有無が不明な事柄に伴う(作詠した官人自身の感慨を詠う)歌群:

   上記のA~GやIの判定ができない歌(該当の歌は結局ありませんでした)

I 天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を詠う歌群:

  例えば、事後の送魂歌

 ここに送魂歌とは、死者は生者の世界に残りたがっているのでそれを断ち切ってもらう必要があるという信仰の上にある歌という意味である。当時は単に追悼をする歌はない。また、分類作業ではいずれかの分類に整理するものとしている(分類保留にした歌はない)。

(付記終わり 2022/3/14  上村 朋)