わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 皇位継承 萬葉集巻三配列その14

 前回(2022/7/18)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 雖も 萬葉集巻三の配列その13」に続き、今回「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 皇位継承 萬葉集巻三の配列その14」と題して記します。

歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋)

1.~24.承前

萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、各歌について判定した表E(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を得ました。そして、「関係分類A1~B」の歌30首は、天皇の代を意識した4つのグループに分かれました。それ以外の歌においても2-1-386歌まで順に各グループに分けられることを確認しました。

 各グループは天皇の代の順に配列されており、各筆頭歌は、2-1-235歌、2-1-290歌、2-1-315歌および2-1-378歌です。 

25.「分類A1~B」以外の歌 2-1-387歌の現代語訳(試案)

① 巻三雑歌の天皇の代を意識した4つ目のグループは、聖武天皇以降の天皇を象徴する「寧楽宮」に居られる天皇の代の歌、と予想しているところです(ブログ2022/3/21付け「3.③」参照)。

 「その天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌」という判定は、前回同様に、題詞のもとにおける歌意で「聖武天皇以降の天皇」の代に関する歌という可能性で判断することとします。ほかの代の可能性の有無は関係ありません。

② 2-1-387歌の検討を続けます。歌は、次のとおり。

2-1-387歌 山部宿祢赤人歌一首

吾屋戸尓 韓藍蘇生之 雖干 不懲而亦毛 将蒔登曽念

わがやどに からあゐまきおほし かれぬれど こりずてまたも まかむとぞおもふ 

 伊藤博氏などは、題詞を「山部宿祢赤人のうたう歌 一首」と理解し、歌本文の二句を「韓藍種生之」に改めたうえで論じています。訓は『新編国歌大観』と同じです。

 ここまで、題詞の一次検討をし、歌本文二句にある「韓藍」はケイトウのほかにいくつかの示唆・暗喩が可能であり(2022/7/11付けブログ)、歌本文の三句「雖干」(かれぬれど)の「かる」を「枯る」と理解した場合を検討しました(前回の2022/7/18付けブログ)。

③ 歌本文の初句に戻り、順に検討をします。

初句「吾屋戸尓」(わがやどに)は、「吾」+「屋戸」+「尓」に語句分解ができ、それぞれ次のような理解が可能です。

 「吾」とは、

   連語「わが」:自称の代名詞「わ」+連体修飾語を作る格助詞「が」:私の。

   名詞「わ(倭)」+連体修飾語を作る格助詞「が」。:倭国の。

 「屋戸」とは、

   住んでいる所。(庭を含めて)家 

   家の戸口。また、家・屋敷。

   泊まる所。

 「尓」は、ここでは、名詞についているので格助詞の「に」となり、連用修飾語を作ります。『例解古語辞典』には「基本的には現代語の「に」と同じとし、15項目の意をあげています。その最初に、

「ひろく、物事が存在し、動作し、作用する場を示す(空間的、時間的及び心理的な場を示す。また物事が及ぶ範囲の始めや終わりを示す。)」

二つ目に、「動作の作用の向かう方向を示す」

などなどと説明しています。

④ そのため、初句「吾屋戸尓」(わがやどに)は、

  連語「吾」(わが)+名詞「屋戸」+格助詞「尓」

  名詞「倭」+格助詞(連体格の助詞)「が」+名詞「屋戸」+格助詞「尓」

の理解が可能であり、例えば

  作中人物(私)の住んでいる所の庭に、あるいは作中人物(私)の屋敷の敷地において

  倭国における作中人物(私)の住んでいる所の庭に、あるいは倭という家・屋敷(倭という国の骨格)において

という理解ができます。

 次に、「からあゐまきおほし」と訓んでいる二句「韓藍蘇生之」(あるいは伊藤氏らのいう「韓藍種生之」)は、前々回(2022/7/11付けブログ)検討しました。

 名詞「韓藍」+動詞句「蘇生之」

と語句分解でき、「韓藍」にはケイトウという本来の意に重ねて別の意も込めることができ、また、動詞句には多義があります。

 三句「雖干」(かれぬれど)は、前回(2022/7/18付けブログ)「枯れぬれど」の一例を検討しました。「雖」は漢字として確定の助字と仮定の助字の意があり、どちらでも理解可能でした。

 そのほか、下二段活用の「離れぬれど」とか「乾れぬれど」という理解も、用いている漢字の字義に拘らなければ可能ではないか、と思います。

⑤ 四句「不懲而亦毛」(こりずてまたも)は、

 動詞句「不懲」+助詞「而」+副詞「亦」+助詞「毛」

と理解できます。

このうち「懲」(こる」は同音異義の語句であり、

 「懲る」:上二段活用 何かをしてひどい目にあり、二度とするまいと思う。こりる。

 「凝る」:四段活用 a密集する。凝結する。

 「伐る・樵る」:四段活用 (薪などにするため)木を切る。

の3義あります(『例解古語辞典』)。

 伊藤氏らは、用いられている漢字の「懲る」の字義と理解されています。

 そして、「亦」(また)」は、『萬葉集』では副詞「また」を表記する漢字「復・又・亦」の一つとなっています。巻一~巻四の歌に、この3文字で表記された歌が、それぞれ、2首、5首、4首及び4首あり、「またあえるか・・・」という文意になる場合が圧倒的に多く、例外はこの2-1-387歌の「こりないでまた・・・する」のみです。なお巻三では「復」1首、「又」無し、及び「亦」4首の用例となります(付記1.参照)。

この歌本文では「亦」とあるので、その字義を生かせば「他と同様に。同じく」の意が副詞として第一義となります。

 「復」であれば、「再び」が第一義、「又」であれば、上記の二意のほかに「そのほかにもうひとつ。別にもうひとつ。」の意もあると、『例解古語辞典』は説明しています。

⑥ 次に五句「将蒔登曽念」(まかむとぞおもふ)を検討します。

 この句を語句分解すると、

動詞句「将蒔」+格助詞「登」+係助詞「曽」+動詞「念」

となります。

 「将蒔」の「蒔」の訓「まく」は、韓藍がケイトウの意であれば、「蒔く」の意と言えます。用いている漢字の字義を生かした訓となっています。

 しかし、「まく」の意は、いくつかあるので、ここでも「韓藍」の意に応じた(その用字の字義に拘らす)別の意の「まく」という理解もできます。

⑦ 次に、格助詞「登」(と)は、体言または体言に準ずる語句に付いて連用修飾語をつくる語句です。

 係助詞「曽」(ぞ)は、「もとは「そ」と清音であって、上代には「そ」と「ぞ」の両形が用いられ」(『例解古語辞典』)付いたごくを取り立てて強調する役割があります。係り結びとして次の語句「念」(おもふ)は連体形となっています。

「おもふ」 (四段活用)の意は、「基本的には現代語の「思う」と同じ」とし、次のようにいくつかの意をあげています。

 心に思う。

 いとしく思う。愛する。

 心配する。憂える。

 回想する。なつかしむ。

 表情に出す。・・・という顔つきをする。

 しかし、同辞典は「おもふ」の説明で、漢字混じりの表記は「思ふ」だけであり、『岩波古語辞典』(机上版 1982)も同じですが、要説して「胸のうちに、心配・恨み・執念・望み・恋・予想などを抱いて、おもてに出さず、じっとたくわえている意が原義。「おもひ」は内に蔵する点に中心を持つに対し、類義語「こころ」は外に向かって働く原動力を常に保っている点に相違がある。」とあります。

 また、『角川新版古語辞典』(再版1999)では「思・念・想・憶」とあり、名詞「おもひ」にも「思・念」とありました。同辞典は動詞「おもふ」の語釈の頭書に「心にある思念を起す。論理的に筋道をたどって結論に至る過程をいう「かんがふ」に対して、ひとまとまりの内容を心に抱き持つ意を表し、論理よりも情意を主とすることが多い。連用形「おもひ」が他の動詞を伴って複合動詞を作ることが多いが、原義を保持しているもののほかに接頭語に近いものもある。」と説明しています。

⑧ 『萬葉集』巻一~巻四の歌本文での用字で、漢字「念」と「思」をみると、『新編国歌大観』の訓で、

「念」の訓「おもふ」は150首でみられ、「思」の訓「おもふ」は42首にみられるだけでした(付記2.参照)。

 このため、『萬葉集』の巻一~巻四では、「念」の訓「おもふ」には、『例解古語辞典』等が立項している「おもふ」の意と同じとみます。

 なお、漢字「念」の意は、『角川新字源』には、

おもう(心の中にじっと思っていて、思いがはなれない。胸にもつ。なお、「思」を「おもふ」と訓むと「くふう・思案する。おもいしたう・思慕・なつかしく思う。」)

おもい・かんがえ

となえる など

とあります。この字義の意の範囲の訓と言えます。

 この歌で「おもふ」とは、今後韓藍をどう扱うかに関する作者(作中人物)の心構えを指しているのであろうと、推測します。

⑨ このような検討の結果、この歌本文で、用いている漢字の字義をよく生かしている『新編国歌大観』の訓のなかで、二句にある「蘇生(之)」の訓は際立っています。さらに、四句にある「懲」の訓なども字義を生かしていないかもしれません。

 さて,歌本文に用いられている語句(及び使用している文字)のあらあらの検討が終わりましたので、次に、歌本文の文としての構成を、主語とそれに対する動詞を明確にしてみてみます。

 仮訳を、「韓藍」は、ケイソウと仮定し、「雖」は二意のままとして、付します。5つの文からなる、といえることになりました。

文A  吾屋戸尓 韓藍蘇生之 (わがやどに からあゐまきおほし )

    私は、韓藍(ケイソウ)を「まきおほす」ことをした。   

   (あるいは、誰かが自分の屋敷にケイソウを「まきおほす」ことをする、と仮定する。)

文B 雖干(かれぬれど)

     それは、(事実として)「かる」ということになってしまった。しかし、

     それは、(仮定として)「かる」ということになるとしても、しかし、

文C 不懲(而)(こりずて)

     私は、それに「こる」という状態に陥らない。

文D  而亦毛 将蒔(またも まかむ)

          そしてまた私は、それ、つまり韓藍(ケイソウ)を「まく」つもりである。

文E (将蒔)登曽念 (とぞおもふ)

    私は、本当にそのように「おもふ」

⑩ 仮訳での「それ」は、いずれも二句にある「韓藍」が関係する事柄です。

 また、文Eの「そのように」には、2案があり得ます。

 第一案は、この歌の文が五つからなるので、文Dまでを総括したのが文Eと理解すると、歌本文は、

 文A~D+文Eの構成(以下、第一構成案という)

ということになります。「そのように」は、経緯すべてを指しています。

 第二案は、文Eと文Dは、歌の五句目を形成しており、文Eは、文Dのみのダメ押しをしている、と理解すると、歌本文は、

 文A~C+文D~Eの構成(同、第二構成案)

ということになります。「そのように」は、「まく」という行為を限定して指しています。

 前者は、「韓藍」との関係でいうと、経緯全体(あるいは仮定全体)を文Eが受けているので、文Eの作中人物が「韓藍」を(次の機会には)花が咲くよう必ず育てたい、という歌と理解できます。育てるのに苦労したという認識(あるいは苦労するものという仮定)が作中人物にあります。

 後者は、文A~Cが文D~Eの前提条件であり、「まく」つもりであることを強調しています。

「韓藍」との関係でいうと、植えてみて失敗したという経験があるが(あるいは、よく失敗するという風聞があるとして)、文Eの作中人物は、「蒔く」ということに取り組まなければ何も起こらない、という気持ちであると理解できます。蒔くのが第一に重要である、という認識です。

 どちらにしてもこの歌では、文Eの作中人物の決意表明の歌と理解できます。

⑪ 以上の語句・文の構成などの検討を踏まえて、二句にある「韓藍」の意別に、歌本文の各句を整理すると、付記3.の表を得ます。

「韓藍」の意は、これまでに検討したように大別して4案あります(2022/7/11付けブログ参照)。

 韓藍第1案 新到の植物ケイトウ

 韓藍第2案 近い過去に渡来した人物(たち)

 韓藍第3案 魅力ある人物(恋の相手)

 韓藍第4案 作中人物にとり価値ある人物(新人の官人など)

 上記韓藍第2案以下は、「韓藍」にその意を込めて歌を詠むために、用いる語句とその用字は選択されているであろう歌、として推測した案です。

付記3.の表に基づき、この4案ごとに同音意義の語句の有力な組合せで現代語訳(試案)を示せば、以下のとおり。

⑫ 韓藍第1案の現代語訳(試案)

イ)韓藍第1案の現代語訳(試案):韓藍とは新到の植物ケイトウ&文章は第一構成案かつ「雖」は確定の助字:

「植えたが枯れた。しかしまた植えよう(花をみたい)。」 即ち、

「わが屋敷の庭に、新たに日本にもたらされたケイトウを蒔いて育てたところ、枯れてしまったが、それに懲りないで、またも種を蒔こうと思う(我が屋敷で花をみたい)。」

 この(試案)は、作中人物が官人であれば(巻三編纂者は、題詞に山部赤人歌としています)、文意に無理はありません。

ㇿ)韓藍第1案の現代語訳(試案):韓藍とは新到の植物ケイトウ&文章は第一構成案かつ「雖」は仮定の助字:

「植えたのが枯れたとしても、チャレンジしよう(花をみたい)。(初句~三句が仮定)」 即ち、

「わが屋敷の庭に、新たに日本にもたらされたケイトウを蒔いて結局枯れてしまうことになっても、それに懲りないで、またも種を蒔こうと思う。(我が屋敷で花をみたい)」

 この(試案)も、作中人物が官人であれば、文意に無理はありません。

 しかし、作中人物が我が屋敷で咲かすことに拘っていることからすると、経験を詠んでいる歌(「イ)」の案)のほうが素直な詠いかたです。当時、官人の間でケイトウを我が屋敷で咲かせれば、貴人も観にきてくれる程の価値があったのでしょうか。

⑬ 次に、韓藍第2案の現代語訳(試案)です。

ハ)韓藍第2案の現代語訳(試案):韓藍とは近い過去に渡来した人物(たち)&文章は第一構成案かつ「雖」は確定の助字:a「雖」は確定の助字:

「倭という国の骨格において韓藍は、(何かを)蒔いて育てて空間的に離れたけれど、こりないで私が別に種をまこうと(あるいはまき散らそうと)心に思う。」 即ち、

「倭という国の骨格において、近い過去に渡来した人物(たち)は、何かを蒔いて育てても、空間的には離れた位置にいる。けれども、このような状態に懲りずに、又それとは別に種を蒔こうと私は心に思う。」

ふたたび種を蒔こうと(空間的位置を変更するために)私は心に思う。」

この(試案)は、国の中枢にいる「近い過去に渡来した人物(たち)」の行動の結果の現状を指摘し、それでも(同じ結果になろうとも)五句の作中人物は、何かにチャレンジしたい、と詠う歌と理解できます。五句の末字「念」字の主語となる人物は、「近い過去に渡来した人物(たち)」を支えようとしています。

この歌を鑑賞する現在から推測すれば、生母が百済系渡来の氏族である和氏出身の高野新笠である山部親王への皇位継承を後押ししようとする官人の決意表明の歌に理解可能です。

官人である五句の作中人物は、この歌を人にみだりに示せないでしょう。

何かの会合で、この歌を披露したとするならば、面前で、「雖」を、確定の助字として理解してよい、眼前の出来事か既定の事に関する話題の提供があったはずです。二句にある「韓藍」は、表面上はケイトウの意ですが、必然的に何かを暗喩していることになります。

ただこのような歌を披露する会合が題詞にある山部宿祢赤人の活躍した時代にあったとは思えません。聖武天皇没後であれば選択肢の一つとして官人は考えたかもしれません。そうすると、元資料の歌は、天平以後の作詠(披露)となってしまいます。当初の巻三に無い歌であった可能性が強い歌です。

 なお、「雖」は仮定の助字の意とすれば、「近い過去に渡来した人物(たち)が、何かを蒔いて育てた」ことを仮定のこととして上記「ハ」案を婉曲に言っていることになります。

⑭ 次に、韓藍第3案の現代語訳(試案)です。

ニ)韓藍第3案の現代語訳(試案):韓藍とは魅力ある人物(恋の相手)&文章は第二構成案かつ「雖」は確定の助字:

「相手と結ばれずに終わった。しかしまた相手を変えてチャレンジしよう。」即ち、

 「私の家の庭に韓藍を植えたが枯れてしまった。おなじように新鮮で魅力あるあの人を見染めて接触・交渉を試みて、相手にされなかった。それでも懲りないで、またほかにも魅力ある人はいる。その人にチャレンジしよう、と心に思う。」

 この(試案)は、浮気の場合を思えば文意に無理はありません。しかし、相手は誰でもよいのか、という印象が残り、恋の歌としてはあまりいただけません。この歌を贈る相手は、競争相手となる同性の人物でしょうか。

ホ)韓藍第3案の現代語訳(試案):韓藍とは魅力ある人物(恋の相手)&文章は第二構成案かつ「雖」は仮定の助字:

「相手にされないとしても、また(その相手に)チャレンジしよう。」即ち、

「吾が家の庭に種から育てた韓藍のように、見初めた相手に接触・交渉を試み、たとい相手にされなくとも懲りないで同一人物にさらに(これからも)アプローチしよう、と心に思う」

 この(試案)は、相手への思慕を恋焦がれて気が狂いそうだというような表現を避け、執拗に接触・交渉を試みることを宣言しています。ただ、相聞の歌で「懲りないで」という表現は、場合によっては無理押しをするかの印象を与えかねませんが、歌の遣り取りが重なる中であれば、誤解は避けられるでしょう。

 あるいは、男であれば複数の女性のもとに通い婚が成立していた当時において、政略的に結び付きたい場合もあるのでしょうから贈り物をいっぱい用意している、というシグナルの歌と理解したらよいのでしょうか。この理解では普通の相聞の歌とは違う歌となってしまいます。

⑮ 韓藍第4案の現代語訳(試案)

ヘ) 韓藍第4案の現代語訳(試案):韓藍とは、作中人物にとり価値ある人物(新人の官人など)&文章は第二構成案かつ「雖」は確定の助字:

「その人物を育てよう。」 即ち、

「吾が屋敷地(吾が家族)にいるある人物を教育・指導・推薦したが、ああ、(望みの)官位官職などに就けなかったとしても懲りないでその人物をさらに(これからも)応援しよう」

 この(試案)は、作中人物が官人であれば、文意に無理はありません。不肖の息子あるいは娘をこれからも後押しを続けよう(続けなければならない)という親の歌にみえます。

 その花を愛でる韓藍に身内の者を例えているので娘のことを詠っているのではないか、と思えます。

⑯ このように、韓藍の意は、第1案の用字通りの「新到の植物ケイトウ」から第4案の「作中人物にとり価値ある人物(新人の官人などのうち娘)まで、どれでもこの歌を用いる場面が想定可能であり、歌の理解が出来ない訳ではありませんでした。

 各案での作詠時点を推測すると、第1案の用字通りの「新到の植物ケイトウ」という認識が平城京を都であった時代にはあったとすると、巻三の部立てが成立した時点(天平17年ころ)と伊藤博氏が指摘する時点の前でも後でも該当します。伊藤氏は、この歌は後の追加とみています(作者は赤人説に氏はたっています)。

 第2案の意が含意している歌とみると、作詠時点は少なくとも聖武天皇の御代が過ぎて後が作詠時点となるのではないか。

 また、元資料の歌が伝承されてきたとして、第2案の意が含意できる、と意識的に認識した時点も聖武天皇の御代が過ぎて後のことでしょう。

⑰ 以上は、歌本文の文章からの可能性をみたものであり、巻三の雑歌の歌という条件及び題詞との関係は未検討です。

元資料の歌の推測と題詞の理解に立ち戻ります。

 『萬葉集』巻三の編纂者の手元にあった元資料の歌は、「韓藍」という「新到の植物のケイトウ」に寄せた思いと理解する歌が、第一候補になります。

 それは上記第1案のみの意の歌であり、「花が珍しい新到の植物」を屋敷に咲かせようとした官人の歌となります。来年を期した挨拶状に付けた歌という見立てです。例えば赤人クラスの官人の屋敷に咲かせられるような花ではないとすると、赤人の代作、となります。

 この歌を、天平16年以前の作詠(披露)とするのは、題詞「山部宿祢赤人歌一首」から「山部宿祢赤人」の作である、という判断(推測)です。

 その題詞の構成は、巻三の次の歌の題詞「仙柘枝歌三首」と同じです。歌数が単数と複数の違いがあるだけですが、この二つの題詞の理解が諸氏は多くの場合異なっています。この二つの題詞のもとにある歌本文の理解からそうなる、という論理です。しかし、それが徹底しているかどうか、「韓藍」の理解からして疑問です。

⑱ そもそも、雑歌の部に、単に「韓藍」(ケイトウ)を鑑賞したい、という歌を配列する必然性はありません。雑歌に配列されている歌には、この歌まで天皇の治世との関連がすべて指摘出来ています。この歌も、天皇との関連がある歌として理解してよい、と思います。編纂者が含意する意を踏まえてここに配列した、と考えられます。

 そのため、元資料の歌において、既に、「韓藍」という「新到の植物のケイトウ」に寄せた思いに合わせて一つの含意がある歌であったという理解が、元資料の第二候補となります。

 この歌での天皇の治世との関連とは、上記⑫で指摘したように、山部親王への皇位継承問題であり、巻三編纂の最終的段階に生じたことであり、この歌はそのころの作詠(披露)と推測できます。にも拘わらず巻三に左注をした人物は、題詞より「山部宿祢赤人」の作という考え方に疑問を呈していません。疑問に触れるのを避けているともとれますが、赤人作という伝承歌に含意があるということは(左注をした平安時代には)付随していなかったのではないか。

 だから、編纂者が含意を認めた歌(即ち第一候補の歌)であって、赤人に仮託したしたのではないか、と思います。作詠時点は今のところ不明ということになります。

 題詞「山部赤人歌一首」という倭習漢文は巻三編纂者の作文であることに留意してよい、と思います。題詞の理解は、赤人作と伝えられている、というトーンがあっておかしくはなく、それを次の題詞とその許にある歌が一体となって補強しています(2022/7/11付けブログ参照)。

⑲ 検討結果を整理すると、次のとおり。

第一 元資料の歌は「韓藍」(ケイトウ)を詠っている。しかし、歌本文のみから、「韓藍」にケイトウ以外のイメージが付与できる。

第二 付与されたイメージのうちの「近い過去に渡来した人物(たち)」により、この歌は巻三雑歌の要件を満足するものとして、ここに配列されている。付与されたイメージの歌は、天智天皇の孫にあたる白壁王の子が皇位継承者の候補として認知されるようになる白壁王の即位(770年)後の官人の関心事を詠っている。

第三 題詞は、付与されたイメージを排除しない。編纂時点からみると元資料の歌は伝承歌であることを言っている。

⑳ 次に、この歌が、巻三雑歌の天皇の代を意識したグループのどこに属するか、確認します。

「その天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌」という判定は、上記①に記したように、「前回同様に、題詞のもとにおける歌意で「聖武天皇以降の天皇」の代に関する歌という可能性で判断することとします。ほかの代の可能性の有無は関係ありません。

 上記⑱の第二と第三より、題詞もとにおける歌意で「聖武天皇以降の天皇」の代に関する歌と言えます。

 このため、この2-1-387歌は、巻三雑歌の天皇の代を意識した4つ目のグループ「聖武天皇以降の天皇を象徴する「寧楽宮」に居られる天皇の代の歌」となります。

 そして題詞「山部宿祢赤人歌一首」とは、次の題詞にならったものであり、ブログ2022/7/11付け「23.③」に示した「誰かが披露したという、山部宿祢赤人に関する歌 一首」という理解が妥当であろう、と思います。

㉑ なぜ、山部宿祢赤人を、巻三編纂者は作者としているのか。

 山部宿祢赤人の歌には、巻三に2-1-381歌があります(ブログ2022/5/16付け参照)。聖武天皇が、光明子の産んだ男子を皇太子に定めた際の予祝の歌と理解した歌です。この歌が当初は巻三掉尾の歌であったと伊藤氏が指摘しています。

この歌も、聖武天皇の御代における有名な歌人山部宿祢赤人に、巻三編纂者は予祝を‘依頼’したのではないか。この2-1-387歌と2-1-381歌に共通していることは、将来の天皇が示唆されていることです。

 共に聖武天皇が、皇位継承者として御認めになっている人物(のはず)である、と巻三編纂者は、言っているかに見えます。

㉒ この歌は、表E(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)では、「恋の歌」として関係分類を「I 天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を詠う歌群」と判定し、備考欄に「暗喩が不明」と記載しました。

 今回の検討により、関係分類は変更を要しませんが、「韓藍を愛でようという歌 赤人作」と訂正し、備考欄の記載も「暗喩は皇位継承問題関連」と訂正します。

ブログ「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 次回は次の歌2-1-388歌などを検討します。

(2022/7/25   上村 朋)

付記1.副詞「また」の用例

 『萬葉集』巻一~四の歌における副詞「また」の用例は次の表のとおり。題詞における用例は、巻一と巻二になく(左注にはある)、巻三と巻四に「又」があり巻四に「亦」がある。

  巻一~巻四の歌における副詞「また」の用例 (2022/7/25 現在)

用字:復

用字:又

用字:亦

巻一

2-1-37復還見牟

無し

2-1-31亦母相見八毛

 2

巻二

2-1-143復将見鴨

2-1-146又将見香聞

2-1-185又将見鴨

2-1-141亦還見武

2-1-195亦毛将相八方

5

巻三

2-1-334復将変八方

無し

2-1-291亦毛将見

2-1-387将蒔登曽念

2-1-486今亦更

4

巻四

2-1-543 復者不相香常

2-1-711復毛将相

2-1-612又更

2-1-704又外二将見

無し

4

  • 元資料は『新編国歌大観』記載の『萬葉集』。
  • 「亦」字の用例は別途固有名詞「亦打山」として、2-1-55歌と2-1-301歌にある。

 

付記2.『萬葉集』巻一~巻四における「念」字と「思」字の歌本文における用例数(2022/7/25現在)

巻(部立)

おもふ

ねむ

おもふ・しのふ

し(万葉仮名として)

巻一(雑歌)

11首

--

3首

11首

巻二(相聞)

 7首

 --

 3首

 5首

巻二(挽歌)

19首

--

6首

5首

巻三(雑歌)

17首

--

7首

4首

巻三(譬喩歌)

9首

--

8首

8首

巻四(相聞)

87首

1首

20首

17首

歌数計

150首

 1首

47首

50首

注1)元資料は『新編国歌大観』記載の『萬葉集』。

注2)題詞での用例は「思」(おもふ)だけである。

注3)1首のうちに「念」字と「思」字がありその訓がともに「おもふ」という歌もある。

注4)「思」字のうち「しのふ」と訓む歌は、2-1-54,2-1-196,2-1-233,2-1-370,2-1-467歌の5首である。

注5)このほか、「憶」字を「おもふ」と訓む歌もある(2-1-199,2-1-504)。また、「於毛保」字の歌もある(2-1-657)。

付記3.韓藍の示すところ別に2-1-387歌本文の各句を整理した表(2022/7/25 現在)

表 2-1-387歌各句別の検討表 

句別

意を検討する主な語句

韓藍第1案

韓藍第2案

韓藍第3案

韓藍その他の案

各案作成の第一要素

韓藍

新到の植物ケイトウ

近い過去に渡来した人物(たち)

魅力ある人物(恋の相手)

作中人物にとり価値ある人物(新人の官人など)

初句:吾屋戸尓

句全体の意

a吾が家の庭に

bわが屋敷地に、

a吾が屋敷地に、

b倭という国の骨格において、

a韓藍第1案に同じ

韓藍第2案の「a」に同じ

 

二句:韓藍蘇生之

蘇生(熟語として)

<採らない>

よみがえる。いきかえる。

よみがえる。いきかえる。

<採らない>

 

蘇生(訓「まきおほし」として)

「蒔き生(おほ)し」種を土に植えて育てて、

a「蒔き生し」(何かを)蒔いて育てて、

b「播き生し」(何かを)あちこち散らし大きくして、

c「枕き生し」抱いて寝て大きくし、

d「訓を再検討の場合」→下記注5)

「蒔き生し」種から育て(きっかけから今まで)、

「蒔き生し」教育し引き立て

句全体の意

a新到の植物ケイトウを蒔いて育てて、

b新到の植物ケイトウをあちこち散らしてしまって、

a(何かを)蒔いて育てて、

b(何かを)あちこちまき散らし、

c(何かを)抱いて寝ておおきくして、

見初めた相手に接触・交渉を試み、

人物を教育・指導・推薦し

三句:雖干

a確定の助字(・・・けれども)

b仮定の助字(たとい・・・としても)

同左

同左

発語の助字、「ただ(唯)」など

干(漢字として)

a<採らない>

bほす。

もとめる・おかす。

 

<採らない>

ほす。

干(訓「かる」として)

「枯る」

「離る」はなれる。

「離る」男女の仲が疎遠になる。

「乾る」干あがる(伸び代無し)

句全体の意

a枯れ(て花を見れなかっ)たけれども、

bたとい枯れるとしても、

a(空間的に)離れたけれど、

bたとい、(空間的に)離れるとしても、

a相手にされず

b たとい相手にされなくとも

a官位官職に就けなかったとしても

bたとい、期待に反しても

四句:不懲而亦毛

懲(訓「こる」として)

「懲る」こりる

a「懲る」こりる

b「凝る」密集する

「懲る」こりる

同左

亦(副詞「また」)

a「亦」同様に・やはり

b「又」別にもう一つ、

a「亦」他と同様に・同じく、

b「復」ふたたび、

c「又」それとは別に、

a「亦」他と同様に、同じく、

b「又」それとは別に、これはこれでまた、

「亦」

句全体の意

a懲りないで、

b種をあらたに得てまた、

懲りないで、それとは別に、

 

a懲りないで同一人物に

b懲りないで別の人物に

左のaに同じ

五句:将蒔登曽念

「蒔く」種をまく

a「播く」あちこち散らす。

b「蒔く」種をまく。

a「蒔く」その人にアプローチを続ける。

b「蒔く」別の人にアプローチする。

左のaに同じ

「念」心に思う(花をわが屋敷で是非みたい)

「念」心に思う

同左

同左

句全体の意

◎a第一構成案:再びケイトウの種を蒔き花をみたいと思う

b第二構成案:とにかくまたケイトウの種を蒔こうと思う

a第一構成案:

(何かを)まき散らそうと私は心に思う。

b第一構成案:

(何かの)種を蒔こうと私は心に思う。

a第二構成案:

さらに(これからも)アプローチしよう

b第二構成案:

また(別の人に)アプローチしよう

第二構成案

左のaに同じ

歌本文すべて

歌本文全体の構成

◎第一構成案

◎第一構成案

◎第二構成案

◎第二構成案

歌本文全体の趣旨

a雖は確定の助字:植えたが枯れた。しかしまた植えよう(花をみたい)。

b雖は仮定の助字:植えたのが枯れたとしても、チャレンジしよう(花をみたい)。(初句~三句が仮定)

◎a「雖」は確定の助字:韓藍は倭という国の骨格において(何かを)蒔いて育てて空間的に離れたけれど、こりないで私が別に種をまこうと(あるいはまき散らそうと)心に思う。(作中人物は官人)

b 「確定の助字」:韓藍は抱いて寝て大きくして(何かから)離れたが 私はそれとは別に何かの種を蒔こう(作中人物は官人)

c「仮定の助字」:韓藍が抱いて寝て大きくして、たとい空間的に離れるとしても、其れとは別に私は何かの種を蒔こう(作中人物は官人)

a雖は確定の助字:相手と結ばれずに終わった。しかしまた相手を変えてチャレンジしよう。

b雖は仮定の助字:相手にされないとしても、また(その相手に)チャレンジしよう。

雖は確定の助字:その人物を育てよう

注1)『新編国歌大観』の表記「韓藍蘇」は、多くの諸氏が「韓藍種」と訂正して論じている。

注2)第一構成案:歌本文五句の「登曽念」はそれまでの全体の総括をしていると見る。

 第二構成案:歌本文五句の「登曽念」は五句の「将蒔」の念押しと見る。

注3)◎印は、韓藍の案別に、最有力の案を示す。

注4)二句「韓藍蘇生之」は、『新編国歌大観』の訓に拘らず、下二段活用の動詞「まく」・「おほす」と解することが可能な新訓(「之」字が発音を示す字かどうか)があるならば、下例も候補となる。

例1)「設け生し」

例2)「設け負をせ」

例4)「設け果ほせ」

(付記終わり 2022/7/25  上村 朋)

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 雖も 萬葉集巻三配列その13

 前回(2022/7/11)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 何を詠うか 萬葉集巻三の配列その12」に続き、今回「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 雖も 萬葉集巻三の配列その13」と題して記します。

歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋) 

1.~23.承前

 『萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、各歌について判定した表E(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を得ました。そして、「関係分類A1~B」の歌30首は、天皇の代を意識した4つのグループに分かれました。それ以外の歌においても2-1-386歌まで順に各グループに分けられることを確認しました。

 各グループは天皇の代の順に配列されており、各筆頭歌は、2-1-235歌、2-1-290歌、2-1-315歌および2-1-378歌です。

24.「分類A1~B」以外の歌 2-1-387歌の「雖」

① 巻三雑歌の天皇の代を意識した4つ目のグループは、聖武天皇以降の天皇を象徴する「寧楽宮」に居られる天皇の代の歌、と予想しているところです(ブログ2022/3/21付け「3.③」参照)。

 「その天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌」という判定は、前回同様に、題詞のもとにおける歌意で「聖武天皇以降の天皇」の代に関する歌という可能性で判断することとします。ほかの代の可能性の有無は関係ありません。

② 2-1-387歌の検討を続けます。歌は、次のとおり。

2-1-387歌 山部宿祢赤人歌一首

吾屋戸尓 韓藍蘇生之 雖干 不懲而亦毛 将蒔登曽念

わがやどに からあゐまきおほし かれぬれど こりずてまたも まかむとぞおもふ 

 

 伊藤博氏などは、題詞を「山部宿祢赤人のうたう歌 一首」と理解し、歌本文の二句を「韓藍種生之」に改めたうえで論じています。(『新編国歌大観』は上記のように「韓藍蘇生之」を「からあゐまきおほし」と訓んでおり訓は同じです。)

 前回、題詞の一次検討をし、歌本文二句にある「韓藍」はケイトウのほかにいくつかの示唆・暗喩が可能であり、歌本文に用いられている漢字「雖」には確定の助字と仮定の助字の意があることを指摘しました。

③ その検討を、続けます。

 三句「雖干」の訓、「かれぬれど」は、

下二段活用の動詞「かる」の未然形+完了の助動詞「ぬ」の已然形+接続助詞「ど」

です。「かる」は同音異義の語句です。一般的には「枯る」と理解されています。

 枯る:下二段活用 a植物が枯れる。虫などが死んでひからびる。b(声が)しわがれる・かすれる。

 離る:下二段活用a(空間的に)離れる。遠ざかる。b(時間的に)間遠になる。足が遠くなる。c(心理的に)男女の仲が疎遠になる。心が離れる。

乾る・涸る:下二段活用  かわいて水気がなくなる。干あがる。

 駆る・駈る:四段活用  a追いたてる。狩りたてる。bしいてさせる。促す。c(馬や車を)走らせる。いそがせる。

 刈る:四段活用 密生した草などを、刃物で切り取る。かる。

 借る:四段活用 借用する。

 狩る:四段活用 a(鳥獣を)追い求めてつかまえる。b (花や草木などを)捜し求めて鑑賞する。

があります(『例解古語辞典』)。

「かる」に多義あるので、三句は、助字「雖」の意(過去への言及か、将来への言及か)をも踏まえた理解が必要です。

④ また、漢字「干」の意は、いくつかあります。しかし、漢字「「干」の訓にない「かる」とここでは訓んでいます。二句と三句「韓藍蘇生之 雖干」は倭習漢文とした意訳が訓となっているかに見えます。

 なお、漢字「干」の意は次のとおり。(『角川新字源』)

 おかす:おしかけて行って人にもとめおかう意。a分を越えて行う・しのぐ。bさからう・そむく。

 もとめる:自分からおしかけて無理に求める。

 あずかる:与

 たて:盾

 ふせぐ・まもる:

 ほす:かわかす。

 ひる:かわかす。

 えと:十干の総称

  などなど

⑤ さて、「雖」を、確定の助字として歌本文を(二句「韓藍蘇生之」は「韓藍種生之」の表記として)考えると、伊藤氏の大意が得られます。再掲します。

 「吾が家の庭に韓藍を蒔いて育てて、それは枯れてしまったけれど、懲りずにまた蒔こうと思います。」

 作中人物は、自らが韓藍(ケイトウ)を育てたか育てるのを指示し、(その花を楽しむ前に)枯れてしまったことを確認したが、またチャレンジすることを決意表明している、と理解できます。花を楽しめたとすれば、「懲りずに」また蒔くという表現をしないでしょう。

 元資料の歌として検討すると、ケイトウの花が終わるころ(秋深まって)の実景を詠っているとみられ、何かの贈答の際、屋敷内のちょっとした変化を伝えようとしている挨拶歌か、と推測できる歌です。

 ケイトウに寄せて何かを詠っているとみると、諸氏が指摘しているように、「韓藍」は恋の相手を寓意、ということが第一に考えられます。

 作中人物は、「韓藍」が枯れてしまったことを確認しているので(残り火があるとも詠っていないので)、四句以下で諦めない気持ちを詠っているのは、今日の付きまといと同じであり、恋愛の歌としてはいかがかと思います。恋愛の歌にこの歌は用いられないのではないか。

⑥ 次に、題詞によれば、作者(作中人物)は山部赤人か同じ官人と判断できますので、元資料は宴席の歌の可能性があります。

 その場合、面前で歌を披露するのですから、「雖」を、確定の助字として理解してよい、眼前の出来事か既定の事に関する話題の提供があったはずです。二句にある「韓藍」は、ケイトウの意ですが、必然的に何かを暗喩していることになります。

 ケイトウの蒔き時が限られているので、歌は、来年を期す、という趣旨を含意する歌となるのではないか。

 眼前の出来事等とは、「韓藍」が「新到の注目されている植物」であるので、例えば新たにできた役職関係の人事なのでしょうか。拡充される行事への参加の有無なのでしょうか。「韓藍」とは、その眼前の出来事等かその類似の事を示唆していると理解が可能な歌とである、といえます。

⑦ 「雖」を、仮定の助字として歌本文を考えると、伊藤氏の大意を参考にして、つぎの仮訳が得られます。

 「吾が家の庭に韓藍を蒔いて育てて、それが枯れ(ることになっ)たとしても、懲りずにまた蒔こうと思います。」

 初句~三句が、四句以下を言い出す仮定の条件という理解となります。「枯れた」とは、花を楽しむ前に枯れた、という意です。気を付けて育てないと花が咲かないことがあるのが「韓藍」(ケイトウ)であり、初句~三句は、その生育過程の重要性を作中人物は強調していることになります。

 この歌は、気を付けて育てても花がさかないことがあるけれど、それを承知のうえで繰り返し、チャレンジすることを決意表明している、と理解できます。

⑧ 元資料の歌としては、「雖」が確定の助字の場合と同様に、贈答の際の歌とも推測でき、また、恋の歌として、諦めない気持ちを詠っている、とも推測できる歌といえます。但し、同時にもっと相手の情に訴える歌をも贈る必要がある歌です。ケイトウの蒔き時が限られているのですから。

 元資料が宴席の歌の可能性もあります。面前で歌を披露するのですから、「雖」を、仮定の助字として理解してよい、眼前の出来事か既定の事か今後の事に関する話題の提供があったはずです。今後の事とは、今日でいえば、明日のひいきチームの勝負予想とか注目の事件の展開予想とか過去の類似の事件の推移などなどが該当するでしょう。

 そして、二句にある「韓藍」は、ケイトウの意ですが、必然的に眼前の出来事等を暗喩していることになります。

 「韓藍」の「韓」により「新到の観賞用の植物」を意味する「韓藍」には、「近い過去に渡来した人物たち」や「新人(例えば官人生活を蔭位でスタートできる人物で優秀な者)」の意を含めることができます(前回ブログ2022/7/11付け参照)。

 宴席において眼前の出来事等には、「近い過去に渡来した人物たち」や新人の官人に関することも有り得ます。

⑨ 「雖」を仮定の助字としての仮訳は、次の意を含み得ます。

「吾が家に居る近い過去に渡来した人物たちを育てて、それがうまくゆかないとしても、懲りずにまた育てようと思います。」

 「吾が家族のある人物を、養育しても、かならずしもうまくゆかないものであって、また別の人物に注目して懲りずにまた育てようと思います。」

 前者の仮訳において作中人物は、「近い過去に渡来した人物たち」でないことになます。

 後者の仮訳において作中人物は、氏族の代表格で活躍している人物とか皇族で子らの臣籍降下を願っている人物が想定できます。

 どちらの場合も作中人物は天皇や皇后・妃ではない、官位を持つ人物と言ってもよいので、題詞の文章にある人物と矛盾しません。

⑩ このように、多義のある「かる」を「枯る」と理解した場合、「雖」を確定の助字と訓んでも仮定の助字と訓んでも、歌は成立します。別の意での可能性の有無は確認を要します。ほかの同音異義の語句も確認を要します。

 次回は種々なる意を検討します。

ブログ「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただきありがとうございます。

(2022/7/18   上村 朋)

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 何を詠うか 萬葉集巻三配列その12 

 前回(2022/7/4)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 国見する山 萬葉集巻三の配列その11」に続き、今回「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 何を詠うか 萬葉集巻三の配列その12」と題して記します。歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋)<2023/12/25訂正:「23.⑨での動詞の活用確認>

1.~22.承前

 『萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、各歌について判定した表E(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を得ました。そして、「関係分類A1~B」の歌30首は、天皇の代を意識した4つのグループに分かれました。それ以外の歌においても2-1-386歌まで各グループに分けられることを確認しました。

 各グループは天皇の代の順に配列されており、各筆頭歌は、2-1-235歌、2-1-290歌、2-1-315歌および2-1-378歌です。 

23.「分類A1~B」以外の歌 2-1-387歌は何を詠うか

① 巻三雑歌の天皇の代を意識した4つ目のグループは、聖武天皇以降の天皇を象徴する「寧楽宮」に居られる天皇の代の歌、と予想しているところです(ブログ2022/3/21付け「3.③」参照)。

 「その天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌」という判定は、前回同様に、題詞のもとにおける歌意で「聖武天皇以降の天皇」の代に関する歌という可能性で判断することとします。ほかの代の可能性の有無は関係ありません。

② 2-1-387歌は、次のとおり。

 2-1-387歌 山部宿祢赤人歌一首

 吾屋戸尓 韓藍蘇生之 雖干 不懲而亦毛 将蒔登曽念

 わがやどに からあゐまきおほし かれぬれど こりずてまたも まかむとぞおもふ 

 

 伊藤博氏は、題詞を「山部宿祢赤人の歌 一首」と読み下し、歌本文を次のように大意を示しています。

 但し、二句「韓藍蘇生之」は「韓藍種生之」の表記のはずと判断した上の理解です。

 「吾が家の庭に韓藍を蒔いて育てて、それは枯れてしまったけれど、懲りずにまた蒔こうと思います。」

 「韓藍」とは、当時舶来の植物であるケイトウであり、染料となります。氏は、「性懲りもなくまたよい女性を手に入れるように努力する」という意を寓した作ではないか(『萬葉集釋注』(1996)と指摘しています。

 諸氏の理解も、寓喩ある歌であり、「韓藍」は相手の女性をさす、とみています。

 

③ 題詞から、検討します。

 「人名+歌〇首」という表記は、巻三のここまでの題詞によくあった作文タイプであり、山部宿祢赤人とは作者名であり、巻三の次の題詞「仙柘枝歌三首」が例外である、というのが諸氏の理解です(多くの人が「仙柘枝という仙女に関する歌 三首」の意と説明しています)

 ここでは、諸氏の理解(以下第一の理解)と、念のため次の題詞と同じような理解(同、第二の理解)をも検討することとします。

 山部宿祢赤人の歌は、『萬葉集』に神亀天平の時代と題詞に明記された歌があります。伊藤博氏のいう(下記④参照)「巻三記載の歌はすべて天平16年以前の歌」の一首、といえるでしょう。

 第一の理解であれば、題詞は、

 「山部宿祢赤人が天平16年以前に披露した歌 一首」

 第二の理解であれば、題詞は、

 「誰かが披露したという、山部宿祢赤人に関する歌 一首」(下記④の伊藤氏に従えば、作詠時点は二十巻本編成時までの間)

ということになります。

④ 伊藤氏は、巻三の編纂について次のように指摘しています。

 第一 部立てが三つになったのは天平17年(745)段階と考える。

 第二 この歌を含む2-1-382歌~2-1-392歌は一括してさらに下る時代(二十巻本編成時らしい)に追補されたものと推測する。

 第三 巻三の雑歌の最後の歌は、(もともと)2-1-381歌である。

 なお、2-1-381歌の題詞は「山部宿祢赤人詠故太政大臣藤原家之山池歌一首」です。この歌は、ブログ2022/5/16付けで題詞と歌本文を検討しました。

 2-1-387歌の題詞には、作詠時点や作詠事情が明記されていません。(巻三編纂のための)元資料にそれらが全然記録されていなかったとは信じられません。そのため、巻三の編纂者は、元資料の記されている各種情報から取捨選択してこの題詞を作文している、と言えます。それでもここに配列している事情は巻三の雑歌にあることと歌本文などによりわかるはずと編纂者は考えていた、ということになります。

 題詞の理解は、歌本文の理解が優先する、ということになりますので。歌本文を検討後改めて触れます。

⑤ 歌本文を検討します。

 いつくかの語句を確認します。

 最初に、寓喩があると諸氏が指摘する「韓藍」(からあゐ)です。現在のケイトウのことです。

 土屋文明氏は「当時新到の外来鑑賞植物であり、それだけに一つの感興を供へたものであったかも知れないが、単なるあゐの歌としては動機薄弱である。恐らく本意は比喩にある」とし、本意は「一度失敗した恋愛を再び繰りかへさうといふのであろう」と指摘しています(歌本文の二句の表記は「韓藍種生之」に対する指摘)。

 伊藤氏も(この歌には)「寓喩あり、と考える」とし、「巻三にある部立て「譬喩歌」に配列するのが至当」と指摘しています。

 しかし、両氏は、巻三の部立て「雑歌」に編纂者が配列した理由に言及していません。この歌について、伊藤氏のいう追補の理由が不明のままです。

 元資料の歌には何らかの寓意・比喩・寓喩があるとみるのには同感しますが、「雑歌」に配列している所以のものもあるのではないか、と推測します。

 元資料の歌と巻三雑歌の歌は、これまでと同様に、別の歌として検討をすすめます。

⑥ ケイトウについて、農林水産省の広報誌Webマガジン『aff』にある「四季の花:農林水産省(maff.go.jp)」では、次のように説明があります。

 「残暑の中、炎立つように極彩色の花を咲かせる。熱帯アジアやインド原産のヒユ科一年草で中国経由で渡来した。花期は7~10月、用途は庭植えや鉢植え、切り花。文献上の初見は『万葉集』で、山部赤人らにより「韓藍」「鶏冠草」の別名で4首詠まれている。すでに当時から観賞用として栽培され、また昔は草染めの原料や、食用としても利用された。」

 平安時代に書かれた『本草和名』で、鶏冠草(けいかんそう)の和名は加良阿為(からあゐ)とあります。

 『萬葉集』にある4首(付記1.参照)をみると、この歌は巻三の雑歌にあり、ケイトウが枯れたがまた植えると詠い、そのほかの3首は巻七などの比喩歌・秋相聞・寄物陳思の部立てでその花を詠っています。

 これから、この歌でのケイトウは、ほかの3首とは別の視点で捉えて詠まれているのではないか、と思えます。

⑦ 「韓藍」(からあゐ)の「韓」とは、外国よりもたらされたことを示しています。

 「韓」とはもと朝鮮半島の西南端にあった小国の名で、朝鮮の意ですが、『例解古語辞典』では「から(韓)」の立項はなく、「から(唐・漢)」の立項があります。その説明は、

「中国。転じて、広く外国一般をもさす。また、「から(の)・・・」のように、中国・朝鮮半島などから渡来したものに付ける」語句、とあります。

 さらに転じて「珍しい物の意を添える語句」と説明している古語辞典(三省堂『全訳読解古語辞典』(5版))もあります。

 『萬葉集』において「から」と訓む漢字の使用例をみると、次の表が得られました。

 これから、少なくとも『萬葉集』では、「から(唐・漢)・・・」の場合の意は「から(韓)・・・」、「から(辛)・・・」にも通じている、と言えます。

表 『万葉集』で「から」と訓む漢字で「唐」と「漢」以外の例(2022/7/11現在)

パターン

「辛」字

「韓」字

「可良」字

「加良」字

・・・崎

辛乃埼2-1-135

韓埼2-1-3254 &2-1-3255

 

 

・・・人

辛人之 2-1-572

 

 

 

・・・藍

辛藍  2-1-2282

韓藍 2-1-387 &  2-1-1366

 

 

・・・衣

辛衣2-1-2626 & 2-1-2690

韓衣2-1-957&  2-1-2198

可良許呂毛 2-1-3501

可良己呂毛 2-1-3502

可良己呂茂 2-1-4425

 

・・・亭

 

韓亭 2-1-3690の題詞

可良等麻里 2-1-3692

 

・・・帯

 

韓帯 2-1-3813

 

 

・・・国

 

韓国 2-1-3907 &  2-1-4264

可良久尓 2-1-3649 &2-1-3695

加良久尓 2-1-817

その他

(助詞「から」、「辛」、

などなど)

 

 

山可良志 2-1-318

永可良志  2-1-318

隔之可良尓 2-1-641

近物可良 2-1-956

可良伎孤悲乎母 2-1-3674

可良吉恋乎母 2-1-3954

などなど

 

 

⑧ だから、「韓藍」という表記には、「新到の観賞用の植物」の意のほかに、「外国より渡来した観賞用の植物以外のもの」の意も付与できます。また、その花の美しさから、「魅力ある人物・価値ある人物」の意も付与できると思います。

 聖武天皇の御代までの間において、植物以外のもので渡来したものの代表ともいえるのは、渡来してきた人々と仏教と律令制の国家像があります。

 日本列島には、4世紀以降、帰化人とその後称される人々が渡来しています。それは、応神天皇のころからの時期、5世紀後半からの時期、白村江(663)以後の百済高句麗の亡命者と3度のピークがあります。

 当時の中央政府を支えたグループの一つであり、新たな文物をもたらした人たちです。

 「韓藍」という語句が、聖武天皇の御代でも土屋氏の指摘するように「当時新到の外来鑑賞植物」であれば、「韓藍」には、人についても「近い過去に渡来した人物たち」を示唆させることができます。

 『萬葉集』に詠われたケイトウは、実際、この2-1-387歌以外では題詞を意識すれば恋の相手と選べる人物を示唆したり、恋の出の落胆ぶりを目立つ花色で示唆しています。さらに、「当時新到」を強く意識すれば、新人(例えば官人生活を蔭位でスタートできる人物で優秀な者)をも示唆できると思います。

 この歌で示唆するものは、当然巻三の配列や歌本文や題詞との関係で限定され、恋の相手と選べる人物もあり得ますがそのほかの場合も可能である、といえます。

⑨ 次に、「韓藍」とある二句「韓藍蘇生之」(からあゐまきおほし)の「蘇生」です。

 諸氏の多くは、二句を「韓藍種生之」(からあゐまきおほし)」とみなして論じています。今、ここでの検討は『新編国歌大観』に拠っていますので、二句が「韓藍種生之」表記は後程比較検討します。

「蘇生」は、熟語として「よみがえる。いきかえる。回生。更生。蘇活。」の意があります(『角川大字源』)。なお、歌本文で漢字の熟語とみなせるのは、「蘇生」だけです。

 「蘇生」を、「まく」と『新編国歌大観』では訓ませています。単独の漢字や熟語の意味からは連想できない訓ですが、今はこれによって検討します。

 その訓「まく」という発音には、同音異義の語句があります。動詞を中心に、『例解古語辞典』にはつぎのような語句が立項されています。

枕く:四段活用 a枕とする。b抱いて寝る。

巻く・捲く:四段活用 長い物を、くるくるとまるめる。巻きつける。

蒔く・播く:四段活用 a(種などを)まく。b(播く)あちこちに散らす。c「蒔絵」をする。

任く:下二段活用 任命する。

負く:下二段活用 a力やわざがおとっていて敗れる。b対抗しきれない。c我を折って、相手の主張に従う。

設く:下二段活用 (上代語):aあらかじめ用意する。設ける。bその時期を待ち受ける。また、待ち受けた時がくる。

まく:(連語):推量の助動詞「む」の古い未然形「ま」+上代の準体助:

例)かけまくもあやにかしこし・鳴く声を聞かまく欲りと

 また、二句「韓藍蘇生之」(からあゐまきおほし)の動詞「おほす」も、同音異義の語句です。四義あります。

生す:四段活用 おおきくする。育てる。「おふす」という発音の動詞もいくつか立項されています。

仰す:a命じる。bお命じになる。c(「仰せたまふ」の形で、全体で)おっしゃる。d(「言ふ」の尊敬語)おっしゃる。

負ほす:下二段活用a背に負わせる。b責任をおわせる。罪をかぶせる。c(傷を)負わせる。

果ほす:下二段活用 補助動詞:しとげる。

⑩ このため、二句「韓藍蘇生之」(からあゐまきおほし)は、色々の理解が可能となっています。

 さらに、三句「雖干」(かれぬれど)の「雖」字は、漢文での助字として用いられて字です。『角川新字源』)によれば、

 確定の助字:・・・けれども。

 仮定の助字: たとい・・・としても。

   例)論語・学而「雖曰未学、吾必謂之学。」

     (未だ学ばずと雖も、吾は必ず之を学びたりと謂わん。)

発語の助字:これ。

ただ:「唯」と同意。

もし:「若」

ごとし:「若・如」

 『新編国歌大観』は、「確定の助字」とみた訓を三句に与えているようです。それはどのような根拠があるのでしょうか。

次回は、これらを検討し、歌本文の理解をしたい、と思います。

 「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 コロナが再流行しはじめました。暑さも増してきます。体調にみなさま、気を付けたください。

(2022/7/11   上村 朋)

付記1.『萬葉集』で、ケイトウを詠う歌(計4首)

巻三 雑歌 2-1-387歌 山部宿祢赤人歌一首

吾屋戸尓 韓藍蘇生之 雖干 不懲而亦毛 将蒔登曽念

わがやどに からあゐまきおほし かれぬれど こりずてまたも まかむとぞおもふ

巻七 譬喩歌  2-1-1366歌 寄花

秋去者 影毛将為跡 吾蒔之 韓藍之花乎 誰採家牟

あきさらば うつしもせむと わがまきし からあゐのはなを たれかつみけむ

巻十 秋相聞  2-1-2282歌  寄花

恋日之 氣長有者 三苑圃能 辛藍花之 色出尓来

こふるひの けながくしあれば  わがそのの からあゐのはなの いろにいでにけり

巻十一 寄物陳思 2-1-2794

隠庭 恋而死鞆 三苑原之 鶏冠草花乃 色二出目八目

こもりには こひてしぬとも みそのふの からあゐのはなの いろにいでめやも

 

 表 4首における植物のケイトウの詠いぶりの比較  (2022/7/11現在)

歌番号等

文字

詠う

比喩に用いるケイトウの部位

特徴

部立て

2-1-387

韓藍(諸氏は韓藍種)

ケイトウは枯れた。また植えたい

不明(本文参照)

花に触れない

また蒔くと詠う

巻三 雑歌

2-1-1366

韓藍之花

ケイトウは咲いたが誰かに摘まれてしまった。

咲いた花

咲いた花を詠う

巻七 譬喩歌

22-1-2282

辛藍花

ケイトウの花は目立つ色の花

目立つ花色

咲いた花を詠う

巻十 秋相聞

2-1-2794

鶏冠草花

ケイトウの花は目立つ色の花

目立つ花色

咲いた花を詠う

巻十一 寄物陳思

 

(付記終わり 2022/7/11  上村 朋)

 

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 国見する山 萬葉集巻三配列その11 

 前回(2022/6/27)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 登筑波山とある題詞 萬葉集巻三の配列その10」に続き、今回「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 国見する山 萬葉集巻三の配列その11」と題して記します。歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋) 

1.~21.承前

 『萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、各歌について判定した表E(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を得ました。そして、「関係分類A1~B」の歌30首は、天皇の代を意識した4つのグループに分かれました。それ以外の歌においても2-1-384歌まで各グループに分けられることを確認しました。

 各グループは天皇の代の順に配列されており、各筆頭歌は、2-1-235歌、2-1-290歌、2-1-315歌および2-1-378歌です。

22.「分類A1~B」以外の歌 2-1-385歌その2 助動詞「かも」と国見する山

① 巻三雑歌の天皇の代を意識した4つ目のグループは、聖武天皇以降の天皇を象徴する「寧楽宮」に居られる天皇の代の歌、と予想しているところです(ブログ2022/3/21付け「3.③」参照)。

 「その天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌」という判定は、前回同様に、題詞のもとにおける歌意で「聖武天皇以降の天皇」の代に関する歌という可能性で判断することとします。ほかの代の可能性の有無は関係ありません。

② 2-1-385歌(長歌)と2-1-386歌(反歌)の検討を続けます。題詞と歌本文は付記1.に記します。

 前回、この長歌反歌の題詞にある「筑波岳」に、別の意が付与されていたらそれは巻三編纂者のみの意図と理解することが許される、と推測しました。

 そして次のことも分りました。

第一 当時、筑波山は、官人には、美濃国以東では富士山と並んで有名な山であり、歌垣が行われた山であり、二つの峯のある山である、として知られていたこと。

第二 常陸国に赴くと、筑波山は南北にある山地の北よりにある主峰であることが分かり、その山地をその麓を含み「筑波山」と称して官人は歌に詠ったこと。

第三 『萬葉集』において、筑波山を題詞に表記している6題とそのもとにある歌本文の元資料では、筑波山」の表記に別の意も付与している歌があり、 『萬葉集』の各部立てに配列された歌においても筑波山の表記に別の意もあると十分推測できる歌があったこと。

第四 2-1-385歌の作者が、実際に筑波山山頂に登って作った歌とする根拠は、倭習漢文である題詞だけでは心もとないが、歌本文では山頂に着いたという事実が表現されていること。

第五 2-1-385歌と2-1-386歌において、山頂における行動や感動はなんら記されていないこと。

第六 2-1-385歌と2-1-386歌の元資料においては、「筑波山」に別の意は付与されていないこと。

③ この歌2-1-385歌が、巻三の部立て雑歌にあるがために、筑波山の表記に別の意が付与されているかどうかを確認します。

 前回は歌本文の検討を優先していたので、題詞を改めて検討します。

 最初に、元資料の歌の作詠時点の確認です。題詞に明記されていません。

 伊藤博氏は、『萬葉集』について、巻十六までを第一部として、最も新しい歌は天平16年(744)7月20日の日付をもつ歌としています(万葉集の構成その1:『萬葉集の歌群と配列 下 古代和歌史研究8』(塙書房 1992): 第十章より)。

 氏の論を前提とすると、この歌は巻三にある歌なので、天平16年(744)7月20日以前に元資料は詠まれた(披露された)ことになります。

 巻三雑歌のこの歌の前後に配列されている歌本文と題詞には、大伴坂上郎女作の歌(2-1-382歌および2-1-383歌)があるのでその歌と同時代か、という程度(左注を信じれば大伴坂上郎女歌は天平5年冬十一月の作詠)、あるいは(伝承歌を除き)時系列の配列ならばそれ以降と推測できます。

④ 元資料の題詞は現存していませんので、巻三雑歌に配列する際の題詞しか参考にできません。

 巻三の編纂者は、

「登筑波岳丹比真人国人作歌一首 并短歌」

と作文しています。読み下すならば、

「筑波岳に登りて丹比真人国人の作る歌一首 ならびに短歌」

となります。

 この文章が、元資料に拠っているという仮定を置くと、一緒に登る人物も、作詠時点も記さないなど作詠事情は歌本文に委ねている、という姿勢での作文を巻三の編纂者はしています。

 山部赤人作の2-1-375歌(2022/4/25付けブログ参照)や大伴坂上郎女作の2-1-382歌(2022/5/30付けブログ参照)の題詞を作文する姿勢と同じであるならば、この題詞は、巻三の編纂者にとり歌の理解に十分な情報が入っている文章ということなのでしょう。

 諸氏の検討の殆どは、作者が常陸国に赴任していた場合に限定されています。しかし、筑波山に関する一般的な知識があれば、この歌は、どこに居ても誰にでも、詠める内容ではないかと思える歌です。

⑤ 作者名はその題詞に「丹比真人国人」と明記されていますのでその履歴から作詠時点を再度検討します。

 『続日本紀』によれば、丹比真人国人は、天平10年(738)閏7月7日に従五位上で民部少輔となり、天平18年(746)4月22日に正五位下となっていますので、天平16年には従五位上の位階であることになります。

 養老律令の官位令によれば、常陸国守は従五位上、介が正六位下、及び大掾正七位上です。このため、丹比真人国人には天平16年までに常陸守、常陸介、あるいは常陸大掾に着任した可能性がありますが、確かめられません。臨時の任務についても確かめられません。

 結局、この歌を作者が披露した時点(あるいは作詠時点)は天平16年以前ということまでです。上記③の検討結果と変わりません。そのとき作者がどのような立場で、どこに居たのかは、未だに分かっていません。

⑥ 披露した(作詠した)時点に、作者がどのような立場で、どこに居たかを推測できれば、どのような事情で作詠することとなったのかがわかるかもしれません。

 常陸国にある山に実際に登ったとしたならば、そのとき国内の東国・常陸国にいたことは確かなことです。

 詠われている登山は、歌本文によれば(時季を選んだ)管内巡察時ではなく、「時敷時(跡)」(2-1-385歌)と表現される臨時の登山です。

 作者の「丹比真人国人」が常陸守の時であれば、通常の事務執行にあたっての登山は、一人だけで登る訳ではありませんから「時敷時(跡)」の登山を立場上避けるでしょう。年中行事のひとつとして春になれば管内巡察があったのではないか。今日のようにスポーツとして個人的に登山するとしても公人として立場上一人で登ることは禁じられているはずです。

 作者が常陸介か常陸大掾であっても事情は同じです。

⑦ だから、臨時の登山というのであれば、作者は受け身で登ったのか、ということになります。題詞にも、2-1-385歌と2-1386歌の歌本文にも、誰と登ったかに触れていないので、この推測は可能です。

 例えば、元資料の歌は、誰かが常陸国に来て登山の申し出があり、それに対して、常陸国に着任している官人として案内・接待のための歌ではないか、という推測です。

 歌本文をみると、登る理由を、「時敷時跡 不見而徃者 益而恋石見」(ときじきときと みずてゆかば ましてこほしみ)と記し、はじめての登山の時の歌として詠んでいます。そうすると、この歌は常陸国に着任している官人が、登りたい人の代作をした、と理解するほかない内容の歌という理解になります。この場合は事前に長歌反歌を用意する時間があるでしょう。

 元資料の題詞や作詠事情の記録は現存していませんので、巻三雑歌に配列する際に作文したと思われる題詞しか参考にできません。

 その題詞の文章からこの歌は代作である、と直ちに断言できないのが難点です。この歌を代作したとすると、登る理由からして、登った山頂での思いを詠う歌があって然るべきと考えられます。その歌(あるいはその代作らしき歌)は『萬葉集』にありません。雪の消えない時期の筑波山の山頂に到着したときの歌は巻九までにもありません。

 もっとも、ペアの歌であって一方がない、という例は同じ「登筑波山」の歌で、巻九にあります(2-1-1756歌と2-1-1757歌)。

⑧ このほか、案内・接待のための歌を、作者が受け身で詠むというケースに、常陸国庁での宴席などにおいて、筑波山が話題となった際、登山の状況を想像し説明した歌ということが想定できます。

 そうであれば、それでも登ろうという応答と、それは大変だからしぶしぶ諦めようという応答のどちらかの歌の応酬がその席であるでしょう。実際は登らないのですから、どちらの応酬であろうと伝承歌などからその宴席にふさわしい適当な歌が選ばれて披露されるということもあるでしょう。あるいは反歌がその応酬歌の短歌であったかもしれませんが、長歌と一体の反歌とみて検討します。

 しかし、長歌反歌に仕立てて即興でこのような歌が披露されるのでしょうか。宴席での披露であれば機会を捉えて披露されたと見るべきです。理由はわかりませんが予め作詠されていた歌となってしまいます。

 この場合も、題詞から代作という理解が可能ということが条件となります。

⑨ また、作者が臨時に常陸国に派遣されてきた場合も検討しなければなりません。作者「丹比真人国人」が、このような歌を詠うケースを想定すると、2ケースあります。

 第一 実際に「時敷時(跡)」でも登山を希望し、実行した際の歌

 第二 常陸国庁での宴席などにおいて、筑波山が話題となった際、登山の状況を想像した歌

 第一のケースであれば、この歌(長歌反歌)だけでなく、作者は登ったあとの喜びを同じように長歌反歌に詠うのではないか。それは案内してくれた官人への感謝を表すことでもあり、それが『萬葉集』にないのは、この想定が誤りであるか、巻三編纂者が省いたかのどちらかです。なお、題詞の理解とこの解釈は矛盾しません。

 第二のケースであれば、挨拶歌として、皆さんは登れてうらやましい、というあらかじめ用意した長歌反歌ということが想定できます。このあとの応酬は上記⑧と同様になるでしょう。

 「時敷時(跡)」の登山を詠う歌であるので比較すれば第二のケースに可能性を感じます。

⑩ さらに、作者「丹比真人国人」は別の役職等で都あるいは常陸国以外の地に居た場合も検討しなければなりません。

 当時筑波山は有名な山でしたので、何かの行事や宴席で、常陸国筑波山の様子が話題になった際などに登山の苦労を詠った、という想定が可能です。あるいは、常陸国に着任した官人への手紙に付した歌か、という想定です。

 この歌は、作者「丹比真人国人」の実際の経験であるかもしれませんが、登山の様子を聞かされただけでも詠えない訳ではありません。歌本文(付記1.参照)をみると、登山したその日の本人固有の感慨が一般的な表現に収まっているかにみえ、この想定を全否定できません。また、題詞の理解とこの想定は矛盾しません。

唯、登山に適した気候の良い時の歌でないのが、話題となったその場の雰囲気にあっていたのかが気になります。

 なお、都に居て伝聞を聴いてから詠った歌は、例えば巻三に、2-1-246歌から2-1-249歌(2022/3/28付けブログ参照))があります。

⑪ このように元資料の歌を作詠した作者「丹比真人国人」の三つの立場を整理すると、次のようになります。

 第一 常陸国に既に作者が着任していれば、常陸国を訪れた人物の代作の歌となり、即興で詠ってよいものかという点が課題である。

 第二 臨時に常陸国に作者が訪れた際であれば、長歌反歌で一組の歌を、挨拶歌としてあらかじめ準備して披露できる。

 第三 常陸国以外(例えば都)に作者が居ての作詠であれば、長歌反歌で一組の歌なので、あらかじめ準備された歌として披露できる。

 第二の想定であれば、その時の常陸国守に何かを訴える歌でしょう。題詞にある「筑波岳」は、「常陸国にあるあの有名な筑波山」という実際の山の名前であり、元資料の歌として、一見別の意があるとは思えません。

 当時の筑波山のイメージの範疇をはみ出た表現は、「国見為 築羽乃山(矣)」です。これは、臨時に訪れた際の挨拶歌として、その時期の様子を織り込んで筑波山に登りたいもの(善政を天皇に奉告したい)、と詠ったのか、と思います。

 第三の想定であれば、誰かに何かを訴える歌でしょう。しかし、筑波山を恋の相手とみなして相聞の歌と理解するのは難しく、常陸国に着任している官人と消息を交わす手紙に記した歌とか、私的な宴席での歌なのでしょうか。

「国見為 築羽乃山(矣)」という表現は、常陸国に着任している官人には第二と同様な意で、私的な宴席での歌ならば、異な感じを持ちます。

 作者「丹比真人国人」の履歴でこれらの想定に相当するものの記録が現在知られていませんが、具体的なケースを想定すると、誰かの随行常陸国に行ったのか(その誰かの代作歌か)、常陸国に赴任した知人への手紙に記したか、というところではないか。

 作詠時点は不定ですが、作者「丹比真人国人」が自ら詠う機会を絞り込むことが出来たと思います。

⑫ 次に、雑歌の部立てにある題詞のもとにある歌、として理解するならば、天皇との関係を見る必要があります。

 筑波山の当時のイメージ、「富士山と並ぶ有名な山」と「歌垣が行われた山」と「二つの峯のある山」(上記②第一)の三つのうち、「富士山と並ぶ有名な山」であることを、この題詞は強調しているのではないか。

 筑波山の表記が、歌本文の「築羽乃山」から、題詞では、「筑波岳」とあり、わざわざ「岳」字を用いています。

 巻三における題詞の作文のタイプで「(官位)人物名+登・・・+作歌〇首」とあるのは、既に指摘したように3題あります。

 2-1-327歌 登神岳山部宿祢赤人作歌一首 并短歌

 2-1-375歌 山部宿祢赤人登春日野作歌一首 并短歌

 2-1-385歌 登筑波岳丹比真人国人作歌一首 并短歌

 前2題は天皇に関する歌でした(ブログ2022/3/21付けの「付記1.表Eの注4」及びブログ2022/4/25付け参照)。

 「有名な山」とは、天皇との関係では、天皇制のトップの地位である「天皇位」の暗喩ではないか。

 そうすると、題詞において、「登筑波岳」、とあるのは、天皇位に昇る、ということになります。歌本文には末句「名積叙吾来前一」のように「(山に)来る」という表現がされ、「登」字は用いられておらず、題詞のみに表記されています。元資料の歌に関係なく作文されているようにも見える題詞(倭習漢文)となっています。

 元資料の歌を巻三の雑歌としてここに配列しているのは、巻三の編纂者ですので、天皇位の代名詞と筑波山をみなすのは、編纂者の意図ということになります。

⑬ 筑波山天皇位の代名詞とみると、歌本文は、どのように理解できるか。用いられている語句についてみると、次のとおり。

 長歌において、

 第一 五句目からの「明神之 貴山(乃)」(ふたかみのたふたきやま)とは、「祖先神と今上天皇」を意味できます。天平頃かそれ以前の作詠ですのでこのようにみなせます。

 第二 十一句目からの「国見為 築羽乃山(矣)」(くにみする つくはのやま)とは、「国見をする天皇」をも含み得ます。

 第三 末句の「名積叙吾来前一」(なづみぞわがける)の「なづむ」とは、「水・雪・草などに足腰を取とられて、先へ進むのに難渋する意」とそれから転じて「一つことにかかずらう意が(『岩波古語辞典』)。語意として「a行き悩む・難儀する b離れずにまつわりつく cひとつのことにとらわれてなやむ・こだわるdひたむきに思いをかける」をあげています。

 このため、「名積叙吾来前一」とは、「難渋しながらここにたどり着く(着いた)」の意のほか、「あることにかかずらい(こだわって)ここにたどり着く(着いた)」の意が生じ得ます。

 そうすると、「難渋しながら天皇位に昇る(昇った)」、あるいは「(なにかに)かかずらい、天皇位に昇る(昇った)」という理解が可能です。

 反歌においては、

 第十一 五句の「名積来有鴨」(なづみけるかも)とは、「かも」が終助詞であるならば、疑問の意や願望の意や反語の意と理解してもよく、

「難渋しながら(あるいは(何かに)かかずらいつつ)天皇位に昇るか?」とか

「難渋しながら(あるいは(何かに)かかずらいつつ)天皇位に昇りたい」とか

「難渋しながら(あるいは(何かに)かかずらいつつ)天皇位に昇るのかね」とか

の意味が生じ得ます。

 これらは、題詞に、誰が作者と一緒に登ったのかを記していないので、一緒に登った誰かを補うことができ、その一緒に登った誰かのこれからを予祝するような理解をこの歌に許していることになります。

⑭ これらを踏まえて、題詞とそのもとにある2-1-385歌と2-1-386歌とを、改めて、巻三の部立て雑歌にある歌として、現代語訳を試みると、次のとおり。

(題詞)「「登筑波岳」と題し、丹比真人国人の作る歌一首 ならびに短歌」

 (歌本文)

  2-1-385歌

 「鶏が時を告げる朝が最初に来る東の方角にある国々のなかでは高い山はというと多くある。そのなかで、二柱の神が並び居る貴い山として、登山されてきた山と神代より言い伝えてきた山、そして、だから、すめらみことが国見をする山である筑波山を、冬の終わりなので登山するべき時季ではないとして通り過ぎたならば、生涯筑波山を恋しく思い続けることになり、悔やまれるので、雪解けしている山路であっても困難しながら私は目的の場所まで登ってきた。」(二峯のある筑波山のように、天皇位に昇られた祖先神と今上天皇も、国見をしてこの国を治めてきている。春の直前になって何もせず時を過ごしては、悔いを残すので、難渋したここまで歩んできた。)

 2-1-386歌

  「筑波山を遠く見上げているばかりということに満足できず、雪がまだ残り雪どけの道を苦労してきたことだよ。」(どなたかが天皇位に昇られるのだ、と傍観せず、前向きに、苦難の道をなにかにこだわって歩みたいなあ。)

 

 このように、筑波山に国見する山と詠っている点が、ほかの筑波山を詠う歌と違っている歌です。

⑮ なお、元資料における反歌の「かも」は終助詞で「詠嘆」の意を表すとみて、前回は現代語訳(試案)しました。土屋氏は、五句の「(名積)来有鴨」について、「名積(なづみ)に重心を置いた詠嘆と見れば、文法的に細かく言はぬ方が反って自然であらう」と指摘しています。

 伊藤氏は、この歌について、「難渋しながら登ったとうたうのは、裏から筑波山をほめたことになる。そして、歌は、多くの物の中から一つを取り出して強調する讃歌の型を踏んでいる」と指摘して、(自身の現代語訳を前提にして)「裏からの讃歌は、表から迫るに及ばない。ここには筑波山がどんな山かの描写がなく、作者の気持ちだけが先走っている。」とも指摘しています。上記②の第五の指摘より作者の気持ちを斟酌されていますが、巻三の雑歌にある歌であり誰に披露した(あるいはしようとした)歌かという点を重視した理解をしてよいと思います。

 上記②に前回の検討結果を記しましたが、そのうち第六は次のように訂正します。

「第六 2-1-385歌と2-1-386歌の元資料においては、「筑波山」に当時の常識とは別に「国見する山」という別の意が付与されていること。」

 そして、上記③での設問「巻三の部立て雑歌にあるがために、筑波山の表記に別の意が付与されている」かについては、そのとおりでした。

⑯ 次に、この歌が、巻三雑歌の天皇の代を意識したグループのどこに属するか、を検討します。

 この歌は作者名が題詞に明記されています。作者国人が活躍したその時代は聖武天皇の御代です。

 聖武天皇は巻三の最新の歌の作詠時点である天平16年閏正月13日安積親王を失っています。それは、元資料を詠った作者の預かり知らぬことであったかもしれませんが、巻三の編纂者は、この事実から、この歌を聖武天皇以後の後継者争いに関する歌に仕立てているのではないか。

 そうすると、この題詞のもとにあるこの歌は、今上天皇である聖武天皇以後のことに関して詠っている歌、と言えます。 

 これは、前回のブログの「21.①」に記した、「その天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌」という判定は、「前回同様に、題詞のもとにおける歌意で「聖武天皇以降の天皇」の代に関する歌という可能性」によるという基準をクリアしています。

 このため、この長歌反歌は、巻三雑歌の天皇の代を意識した4つ目のグループ「聖武天皇以降の天皇を象徴する「寧楽宮」に居られる天皇の代の歌」となります。

⑯ さて、歌と天皇の各種統治行為との関係は、表E作成時は、「管内巡察時における丹比真人国人の歌」として、関係分類「C」(天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(Dを除く))としていました。

 今回の検討の結果、天皇の下命がない歌と理解できたので、関係分類を「I」(天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を詠う歌群)に変更します。

 巻三の編纂者が『常陸風土記』を意識していたとすると、風土記における神祖尊(みおやのみこと)のように歓迎されるだろうという予祝の意で、筑波山に登るだけの歌をここに配列している可能性も検討したくなる歌でした。

「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 次回は、2-1-387歌を検討します。

 コロナワクチンの4回目の接種にお出かけの際、また接種直後は、くれぐれも水分・塩分の補給や体調変化にお気をつけください。

(2022/7/4   上村 朋)

付記1.2-1-385歌と2-1-386歌の題詞と歌本文

① 『新編国歌大観』より引用する。

2-1-385歌 登筑波岳丹比真人国人作歌一首 并短歌

鶏之鳴 東国尓 高山者 佐波尓雖有 明神之 貴山乃 儕立乃 見杲石山跡 神代従 人之言嗣 国見為 築羽乃山矣 冬木成 時敷時跡 不見而徃者 益而恋石見 雪消為 山道尚矣 名積叙吾来前一

とりがなく あづまのくにに たかやまは さはにあれども ふたかみの たふときやまの なみたちの みがほしやまと かむよより ひとのいひつぎ くにみする つくはのやまを ふゆこもり ときじきときと みずてゆかば ましてこほしみ ゆきげする やまみちすらを なづみぞわがける

 

 2-1-386歌  反歌 

築羽根矣 卌耳見乍 有金手 雪消乃道矣 名積来有鴨

つくはねを よそのみみつつ ありかねて ゆきげのみちを なづみけるかも

② 2022/6/27付けブログで示した現代語訳(試案)

題詞:伊藤博氏:「筑波の岳に登りて、丹比真人国人が作る歌一首 あわせて短歌」

 2-1-385歌

「鶏が時を告げる朝が最初に来る東の方角にある国々のなかでは高い山はというと多くある。そのなかで、二柱の神が並び居る貴い山として、信仰すべきと登山してきた山と神代より言い伝えてきた山、そして、すめらみことが国見をする山である筑波山を、冬の終わりだから登山するべき時季ではないとして通り過ぎたならば、生涯筑波嶺を恋しく思い続けることになり、悔やまれるので、雪解けしている山路であっても困難しながら私は目的の場所まで登ってきた。」

 2-1-386歌

 「二つの峯からなる筑波山を遠く見上げているばかりということに満足できず、雪がまだ残り雪どけの道を苦労してきたことだ。」

③ 2022/6/27付けブログでの指摘1:この現代語訳(試案)は、題詞の有無にかかわらず同じ。そして歌本文での「筑波山」には、登山対象の山の意としている。

 確認すると、歌本文は、このように登りたい理由と登る途中の描写に終始して、山頂に到達して後の作中人物がとった行動や感動を一切記していない。山頂に着いたという事実の指摘で歌を終えている。反歌も山頂に着いたという事実の指摘だけである。

④ 2022/6/27付けブログでの指摘2:題詞の歌本文で「筑波山」の表記が異なっている。題詞に「筑波岳」、長歌歌本文に「築羽乃山」、反歌歌本文に「築羽根」。題詞が倭習漢文なので書き改めただけかもしれないが後程確認する。

(付記終わり  2022/7/4  上村 朋)

 

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 登筑波山とある題詞 萬葉集巻三配列その10

 前回(2022/6/6)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 家はどこ 萬葉集巻三の配列その9」に続き、今回「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 登筑波山とある題詞 萬葉集巻三の配列その10」と題して記します。歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋) 

1.~20.承前

 『萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、各歌について判定した表E(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を得ました。そして、「関係分類A1~B」の歌30首は、天皇の代を意識した4つのグループに分かれました。それ以外の歌においても2-1-384歌まで各グループに分けられることを確認しました。

 各グループは天皇の代の順に配列されており、各筆頭歌は、2-1-235歌、2-1-290歌、2-1-315歌および2-1-378歌です。 

21.「分類A1~B」以外の歌 2-1-385歌その1 登筑波山とある題詞

① 巻三雑歌の天皇の代を意識した4つ目のグループは、聖武天皇以降の天皇を象徴する「寧楽宮」に居られる天皇の代の歌、と予想しているところです(ブログ2022/3/21付け「3.③」参照)。

 「その天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌」という判定は、前回同様に、題詞のもとにおける歌意で「聖武天皇以降の天皇」の代に関する歌という可能性で判断することとします。ほかの代の可能性の有無は関係ありません。

② 2-1-385歌から検討を再開します。長歌なので反歌があります。

 2-1-385歌 登筑波岳丹比真人国人作歌一首 并短歌

  鶏之鳴 東国尓 高山者 佐波尓雖有 明神之 貴山乃 儕立乃 見杲石山跡 神代従 人之言嗣 国見為 築羽乃山矣 冬木成 時敷時跡 不見而徃者 益而恋石見 雪消為 山道尚矣 名積叙吾来前一

  とりがなく あづまのくにに たかやまは さはにあれども ふたかみの たふときや まの なみたちの みがほしやまと かむよより ひとのいひつぎ くにみする つくはのやまを ふゆこもり ときじきときと みずてゆかば ましてこほしみ ゆきげする やまみちすらを なづみぞわがける

 

 2-1-386歌  反歌 

  築羽根矣 卌耳見乍 有金手 雪消乃道矣 名積来有鴨

  つくはねを よそのみみつつ ありかねて ゆきげのみちを なづみけるかも

③ 題詞より検討します。

 伊藤博氏は、この題詞を、次のように読み下しています。

 「筑波の岳に登りて、丹比真人国人が作る歌一首 あわせて短歌」

 丹比真人国人(たじひのまひとくにひと)と、作者名が明記されています。作者が、実際に筑波山山頂に登って作った歌とする根拠は、倭習漢文である題詞だけでは心もとありません。「登」字の対象に麓もありましたので(2-1-375歌 付記1.参照)。

 さて、『萬葉集』に、「筑波岳」(筑波嶺・筑波山)が題詞に表記されているのは、6題あります。当時の筑波山のイメージを、最初に確認します。

 題詞は、次のとおり。配列されている巻と部立て並びに作者に関して左注等を付記します。

  2-1-385歌 登筑波岳丹比真人国人作歌一首 并短歌 

 (巻三 雑歌 題詞に「丹比真人国人作歌」)

 2-1-1501歌  惜不登筑波山歌一首

   (巻八 夏雑歌 左注に「右一首 高橋連虫麻呂之歌中出」)

 2-1-1716歌 登筑波山詠月一首(巻九 雑歌 1718歌の左注に「右三首作者未詳」)

 2-1-1757歌 検税使大伴卿登筑波山時歌一首 幷短歌 

 (巻九 雑歌 1764歌の左注に「右件歌者高橋連虫麻呂之歌集中出」)

 2-1-1761歌 登筑波山歌一首 幷短歌  (同上) 

 2-1-1763歌 登筑波嶺為嬥歌会日作歌一首 幷短歌  (同上) 

④ このほか、左注に「右一首 筑波山作」とある歌が1首あります。作者名の記載はありません。

  2-1-1842歌 春雑歌 詠雪  (巻十)

  峯上尓 零置雪師 風之共 此間散良思 春者雖有 

  をのうへに ふりおけるゆきし かぜのむた ここにちるらし はるにはあれども

 この2-1-1842歌を、土屋氏は、

 「峯の上に降り置いた雪が、風と共に、此所に散るとみえる。春ではあるけれど」

と大意を示しています。

 左注を無視するならば、この歌は、(暦の上では)春なのに春日山山系が雪で白くなり平城京にも小雪が舞ったことを詠ったとも理解できます。

 題詞「詠雪」のもとにある歌は、ほとんどが平城京とその周辺の景と推測できます(例えば、2-1-1845歌で雪を例えている梅(の花)は当時自生していません。)

 左注を信じたとしても、筑波山がまだ冠雪している時期における常陸国庁近くの春の雪の景ではないでしょうか。

 左注は、少なくとも筑波山中に作中人物がいることを示唆しているのではない、と思います。このため、筑波山に登ることを詠んでいる歌ではありません。「筑波山」に何かの暗喩も感じません。左注は、倭習漢文であり、その意は「筑波山で作る、即ち常陸国において作る」ということなのでしょうか。

⑤ 上記6題の検討を行います。

 題詞の作文タイプを「(不)登筑波岳(山・峯)を特記して比較すると、それぞれタイプが異なるようです。「*」印をつけた題詞は、長歌反歌に対するものです。

 2-1-385歌(*): 登筑波岳+人物名+作歌〇首

 2-1-1501歌: 惜不登筑波山(詠む理由)+歌〇首 

 2-1-1716歌: 登筑波山+詠+詠む対象〇首

 2-1-1757歌(*): 人物名+登筑波山+時+歌〇首

 2-1-1761歌(*): 登筑波山+歌〇首

 2-1-1763歌(*): 登筑波嶺+為・・・・+作歌

 これらの題詞のもとにある歌の元資料は、左注を信じれば2-1-385歌と2-1-1716歌の題詞以外は高橋連虫麻呂の歌集です。これらの題詞のもとにある歌以外に、「筑波岳」(筑波嶺・筑波山)と表記のある歌は、ありません。

 長歌反歌に対する題詞(*印)4題は、高橋連虫麻呂の歌集に3題ありますので、残りの1題も、同一時期の作詠であれば歌の理解に影響するかもしれません。

 なお、2-1-385歌の題詞の作文のタイプは、巻三には3題あり、その「登」字は、倭習漢文においては、同訓異義を込めることが可能な字でありました。即ち、「のぼる・のぼらせる」意を込めることが可能です(付記1.参照)。

 2-1-327歌と2-1-375歌の題詞にある「登」字には、暗喩がありました(付記1.参照)。

 2-1-385歌の題詞「登筑波岳」字にも、同じような用い方をされているかどうかに留意し歌本文を検討します。

⑥ 短歌のみに対する題詞を、先に検討します。2題あります。

 2-1-1501歌は、巻八の部立て「夏 雑歌」の最後の歌です。歌本文は次のとおり。

  筑波根尓 吾行利世波 霍公鳥 山妣兒令響 鳴麻志也其

 「つくはねに わがゆけりせば ほととぎす やまびことよめ なかましやそれ」

 

 伊藤博氏は、題詞を、「筑波山に登らざりしことを惜しむ歌一首」と読み下し、「巻八のうち、唯一私家集所出(の歌)であり、追補らしい」と指摘しています。

 巻八の「夏 雑歌」にある歌は、「わがやどの はなたちばなを ほととぎす・・」(2-1-1490歌)などと平城京内の官人の屋敷か平城京近くの山(とその麓)に来るホトトギスを詠っていることが歌本文からわかります。同じように、歌本文からこの一首2-1-1501歌のみ平城京を遠く離れた筑波山に来るホトトギスを詠っています。特異な場所におけるホトトギスの景の歌であり、しかもこの部立ての最後の歌です。

 また、ホトトギスは、雑歌にある歌も声を聞けるかどうか(いうなれば逢えるかどうか・遭遇するかどうか)あるいは聞いたときの思いを詠っているのに対して、この歌の、作者が出かけていたらホトトギスは鳴かなかったはず、という内容も特異です。

⑦ そこで注目するのが、この歌の初句の「筑波根」です。筑波山は「嬥歌会(かがひ)」(歌垣)のあった場所と当時官人に知られていたのではないか。そのように男女が集うあるいは男女が互いに知るきっかけとなる有名な祭りの見物時のような出来事の代名詞として「筑波山」が用いられているのではないか、と推測します。

 この歌は、「(我)ゆけりせば」という仮想したことが実現していたら、「(ホトトギスは)なかましや」という構文です。

 題詞を無視すると、歌本文の意は、「筑波山に私が行っていたら、そのホトトギスは大いに鳴いたであろうか。そのようなことにはならなかっただろう」となります。

 この理解は、筑波山において知人がおおいに鳴くホトトギスに出逢えたのは、私がその場にいなかったからである、何故ならば、ホトトギスは(ホトトギスならぬ)私を求めていてすぐ出逢えるのだからだ、ということになります。

 また、ホトトギスを女性の意とし、筑波山は逢う瀬の意、そして、やまびことよむとは、噂が飛び交うことの意ととれば、別の歌意となり、この歌は、噂になった知人の恋愛の進捗を揶揄した歌になっています。

 春日山でのホトトギスを詠ったらこのような意は込められません。筑波山ホトトギスに限ります。

⑧ 土屋文明氏は、題詞より「筑波に登らないで、其所のほととぎすを聞かなかったのを惜しむ歌」と理解して、次のように指摘しています。

「常識的な感じを歌っただけで如何にもつまらない歌。「其(それ)」を結句に置いた例はこの歌だけだが、効果を上げて居るとはいへない。」

 確かに、この歌は、「筑波山」に飛来したホトトギスのうちにおおいに鳴くホトトギスがいたと聞き、その場に居たら私も聞けたのだろうか、と行けなかったことを惜しんでいる、とも理解できます。

 この場合、結句の「其(それ)」を省いても意は通じます。

 にも拘らず、結句に「其(それ)」を付け加えているのですから、「其(それ)」とは、作者とその場に居合わせている人たちにとり、共通に認識しているある事柄・人物をホトトギスという語句で念押ししているのではないか。

 おおいに鳴いたホトトギスを指して「其(それ)」というとともに、初句にある筑波山から歌垣を連想させて、作者とその周辺の人たちが注目している恋愛事件などをさして「「其(それ)」と言っているのではないか、即ち上記⑦に示した別の歌意がこの場合生じます。

 結句の「其(それ)」は、初句の「筑波根」と対を成した語句として用いていることに留意してよい、と思います。

⑨ ここまでは、(題詞を無視した)2-1-1501歌の元資料としての理解です。さらに題詞のもとにある歌として、題詞 「惜不登筑波山歌一首」を、作者自身が登らなかったことを惜しんでいるという理解であれば土屋氏のような理解が可能であり、誰かが「筑波山」を登り切れなかったことを惜しんでいる、という理解であれば、上記⑦の別の歌意も可能ですが、巻八の「夏 雑歌」の部立ての歌としては何かが不足しています。

 巻八の「夏 雑歌」の歌であれば、元資料の歌と同様に「筑波山」には特別の暗喩が込められている可能性があります。

 ここでは、「筑波山」には元資料の段階でも暗喩が込められていること、及び「(不)登筑波山」という表記が「国見」と結びついていないらしいことが確認できたので、2-1-385歌等の理解に資することが出来ます。

 巻八の「夏 雑歌」の題詞と歌としての更なる検討は別の機会に行うこととします。

⑩ 次に、短歌の2-1-1716歌の題詞を検討します。歌本文は次のとおり。

  天原 雲無夕尓 烏玉乃 宵度月乃 入巻悋毛

  あまのはら くもなきよひに ぬばたまの よわたるつきの いらまくをしも

 

 題詞のもとにある歌として理解すると、筑波山山頂に登って月を詠んだ歌となります。そうすると、山頂で(あるいは、人家の無い麓で)日没直後か、3,4時間後に没する月を惜しんでいます。その夜はそこに宿泊したのでしょうか。筑波山の嬥歌会を前提にしても、相手が見つからなかった心境を詠った歌という理解もむずかしいと思います。

 「登」字の用い方として、2-1-375歌において麓に「登る」という表現があった(付記1.③参照)ように、必ずしも山頂に登ったのではないかもしれません。そうであっても平城京の東方向に位置する春日山(の麓)という題詞にすると表面的な歌意ががらりと変わるものでもないように見受けられるのに「筑波山」と明記されています。

 題詞を無視すると、日が暮れてすぐ宴から、例えば主賓格の人物などが退席されることを惜しんでいる歌、あるいは、早めに退席する際の挨拶歌という理解が可能です。その理解が元資料の歌であっても、雑歌の部立てにある歌としては、天皇の関係での含意があると推測したくなります。

 筑波山と題詞に記すのは、二峯をもつ山であることが関係しているのでしょうか。題詞にある筑波山は山頂か麓のどちらであっても、いわゆる登山対象の山(か麓)のほか何かの暗喩があると思えます。

 この2-1-1716歌の題詞の理解は配列も確認して一意になると予想しますが、割愛します。

⑪ 歌本文について、土屋文明氏は次のように指摘しています。

 「「登筑波山」といふ特殊な場合の作でありながら、歌には其の特殊な点は少しも表現されていない。山上では、月も平原乃至平原の涯の山に入るので、その辺は好題材であるのにそれもあらはれて居ない。・・・結果としては常套的表現で終わっている。」

 そして、雑歌の部立てに配列されていることから、単純に月の景を詠んでいる歌とは思えません。筑波山の月という表現に暗喩がある、と思います。

萬葉集』記載の歌としてのさらなる検討は別途のこととしても、この短歌2首の題詞にある「筑波山」は、常陸国にある筑波山という山自体のみを指しているほかに、暗喩があり、何かの代名詞ともいえるような用い方をされていることが確認できました。

⑫ 次に、長歌反歌に対する題詞を検討します。みな「登筑波山・・・」とあります。

 2-1-385歌より検討します。歌本文は、上記②に記しました。

 いくつかの語句は、確認を要します。

 「明神(之)」:5句目にある

 「冬木成」:13句目にある

 「国見」:11句目にある

 「見」:8句目、15句目及び16句目にある

 順に確認します。

⑬ 諸氏は、歌本文五句にある「明神(之)」は「朋神」の誤りとしています。

 土屋文明氏は、「冬木成」について、「春の枕詞に用ゐられる語であるが、ここは其の原義を以て用ゐたのであらう。夜ごもりが夜ふけの極みである如く、冬の極み、冬の終わり近くの意とみえる」。と指摘して、次のようにこの歌の大意を示しています。

 「東国に高い山は多くあるけれど、二つの神の貴い山で、並び立って居るめでたい山として、神代から人が言ひつぎ伝へて来、又よく国見をする筑波の山を、冬の終わりの、登るべき時季でない時だとて、見ずに去ったなら一層見たくあるであらうから、雪どけのする山道さへをも困難して吾は来た。」

⑭ 次に、11句目にある「国見」です。氏は、(天皇ではなくて)「一般人も亦それをしたものと見える」と評しています。

 『萬葉集』において、「国見」という表記は、2-1-2歌が最初です。氏は、国見について「国の形状を見るものであるが、同時に之によって、民の貧富まで察せられることが、仁徳天皇の物語などで知られる」と説明しています。巻一には2-1-38歌にも用いられ、その意は、2-1-2歌と同じと氏は指摘しています。

 この歌における歌本文の「国見」表記の前後の語句は、

 「見杲石山跡 神代従 人之言嗣 国見為 築羽乃山(矣)」

とあり、「築羽乃山」は二つの修飾を受けています。

ひとつ目は、「みがほしやまと かむよより ひとのいひつぎ」(してきた山)という、「見たい山」の筆頭である山であるという修飾こと、二つ目は、「くにみする つくはのやま」という、「国見」をするに適切な場所であるという修飾です。つまり筑波山は、常に「見たい」山であり、「国見する」山、と認識しています。

⑮ その二つ目の修飾である「国見」を検討します。

 官人には、平城京の遥か東方にある山のうちで富士山と筑波山は既に有名な山であったようです。

 また、養老年間に成立した『常陸風土記』には、「筑波郡」の項に、富士山と違って春と秋「足柄の坂から東の国々男女が騎馬や徒歩で登り遊び楽しみ日を暮らす」とあり歌も例示されており、それは歌垣が当時も行われているかのように記述されています。常陸国に着任したことのある官人なども関東平野で目立つ山であることと歌垣の伝統があることを都で口にしていたのでしょう。

 『常陸風土記』には筑波山での国見をしたという説話は記載されていません。この歌に「国見」と詠いこむのは、国見に都合のよい眺望の良い山であるという認識からであろう、と思います。

 「国見」という表記は、『萬葉集』では既に、2-1-2歌にあります。それにならえば、いわば天皇の専権事項に関する表記が「国見」であり、常陸国内を対象に「国見」をするとは常陸国守でも行えない(「国見」と公文や歌に記さない)と思います。常陸国守は巡察の一環として筑波山に行った、と記すにとどめるでしょう。

 だから、歌本文の「くにみする つくはのやま」という表現は、天皇が「国見」をするに適切な場所であることを言っているだけ、と思います。

 つまり、歌本文では、国見に適する山が筑波山である、と紹介するだけにとどまっており、土屋氏が、「一般人も」国見するのかというのは誤解である、と思います。作者国人は、「国見」をしたいとも行ったとも詠っておらず、ただ「登った」と詠っているだけです。

 伊藤氏は、「国見為 築羽乃山矣」を「春ごとに国見が行われてきた筑波山よ」と、また「不見而徃者」を国見しないで行ってしまったなら」と現代語訳しています。この理解も、作者国人が筑波山に登る目的を、誤解している、と思います。

⑯ ひとつ目の、常に「見たい」山を検討します。動詞「見る」については、ブログ2018/7/23付けで2-1-439歌の検討にあたり、次のように指摘しました。

 「「見・・・屍」という表現においては、「仄聞」あるいは「文書によって知る」という意、あるいは下命による作詠を示唆する言葉とも理解した方がよいのではないか、と思います。目視しなければ追悼の歌が作れない訳ではありません。 「見」は、いわば歌語です」。

 また、ブログ2022/4/11付けで検討した2-1-329歌の「見」字の意は、遠望したという「a視覚に入れる・みる・ながめる。」ではなく、「c(・・・の)思いをする・経験する。」とか「d見定める・見計らう。」(『例解古語辞典』)の意であって、2-1-329歌の題詞における「見」字は、漁火の示す現実(泰平)に作者の門部王が気付いた意で、用いられている、と思う、と指摘しました。

 ここでもそれらの用法を念頭に検討することとします。

⑰ 2-1-385歌本文の8句目にある「見杲石山(跡)」(みがほしやま)とは、上一段活用の「みる」の連用形+願望の助動詞「がほし」の連体形+名詞「山」であり、この歌では題詞から実際に登っているかにみえますので、「見上げる(目視する)山」の意ではなく、「登りたい山」の意と理解できます。常陸国庁に都から赴任してきた官人は、筑波山を目視しつつ着任します。現在でも利根川の堤防からまた都内からも筑波山は望めます。

 歌本文の15句目にある「不見(而徃者)」を、伊藤博氏は、「行ってしまったら」と登山を経験しないで、と理解して目視の意と氏は理解していません。

 土屋氏も、「見ずに(去ったならば)」と、目視の意と理解していません。

 16句目の「見」は、動詞「こふしむ」の連用形の語尾の音を示している万葉仮名で、漢字自身の意は関係ない用法です。

 反歌2-1-386歌にも「見」字が用いられていますが、それは「目視する」意です。

⑱ 以上の検討を踏まえて、詞書を無視して2-1-385歌の現代語訳を試みると、次のとおり。

 2-1-385歌

 「鶏が時を告げる朝が最初に来る東の方角にある国々のなかでは高い山はというと多くある。そのなかで、二柱の神が並び居る貴い山として、信仰すべきと登山してきた山と神代より言い伝えてきた山、そして、すめらみことが国見をする山である筑波山を、冬の終わりだから登山するべき時季ではないとして通り過ぎたならば、生涯筑波嶺を恋しく思い続けることになり、悔やまれるので、雪解けしている山路であっても困難しながら私は目的の場所まで登ってきた。」

 2-1-386歌

 二つの峯からなる筑波山を遠く見上げているばかりということに満足できず、雪がまだ残り雪どけの道を苦労してきたことだ。」

 作者が登山した時季は、『常陸風土記』にいう「かがひ」を行う時期ではないようであり、単に常陸国が一望できる場所に登った、と詠っているかに見えます。しかし、登ってから遠望した常陸国に関する感慨を詠っていません。

 歌本文13句目にある「冬木成」を、土屋氏の指摘(上記⑬)に従えば、「冬こもる」時期とは、立春(現行の暦では2月4日前後)近くに当たります。官人には行事の重なる頃であり、本当に登山したのか、と思います。

 確認すると、歌本文は、このように登りたい理由と登る途中の描写に終始して、山頂に到達して後の作中人物がとった行動や感動を一切記していません。山頂に着いたという事実の指摘で歌を終えています。反歌も山頂に着いたという事実の指摘だけです。

 この現代語訳(試案)は、題詞の有無にかかわらず同じです。そして歌本文での「筑波山」には、登山対象の山の意のみとしました。

 題詞の歌本文で「筑波山」の表記が異なっています。題詞に「筑波岳」、長歌歌本文に「築羽乃山」、反歌歌本文に「築羽根」とあります。題詞が倭習漢文ですので書き改めただけかもしれませんが後程確認をしたい、と思います。

⑲ 次に、2-1-1757歌の題詞を検討します。題詞は「検税使大伴卿登筑波山時歌一首 幷短歌」です。

 題詞にある「検税使大伴卿」が筑波山に登った人物であるとすると、その人が詠った歌が『萬葉集』にありません。歌本文は、登った人物を先導して一緒に登ったと思える人物が、接待役を果たせた、と詠っている歌です。いうなれば自画自賛した歌です。これに応えて「検税使大伴卿」も詠うのが通常の接待時の対応ではないか。そうすると、来られた場合を想定して接待役の立場で習作したのが、この歌ではないか。あるいは、接待の宴席でこのような状況が考えられるがいかがか、と登山の予想を示し結局断念を導いた歌ではないか。いづれにしても机上の作の可能性が大きいと言えます。

 題詞のみではなく、歌本文を見ると、次のことを指摘できます(歌本文の引用を割愛します)。

第一 接待する人物が誰であっても用いることができる歌である。大伴卿個人への配慮がない。

第二 登ってからの眺望を詠っていない。暑い中の登山の苦しさを詠っている。

第三 反歌において、楽しみ方が異なるのに歌垣の登山とわざわざ比較している。

 なお、歌本文に「見」字を用いた語句があります。「筑波乃山乎 欲見 (君座登)」(つくばのやまを みまくほり(きみきませりと))と詠いだし、「峯上乎 公尓令見者 男神毛」(をのへを きみにみすれば ひこかみも)と山に登ったことを詠っています。「欲見」は、「見(目視し)たい」意ではなく、「登ってみたい」意と理解できます。

 土屋氏は、「平坦たる叙事で、特にとりあげるほどのところはない」歌、と評しています。歌本文における「筑波山」は、筑波山地の主峰である二峯のある山を指しているのみです。題詞にある「筑波山」も同じではないか。

 氏は、大伴卿について大伴道足という説を、歌の配列が時系列であることをも考慮して提案していますが、今は紹介のみとします。

⑳ 次に、2-1-1761歌の題詞を検討します。題詞は「登筑波山歌一首 幷短歌 」です。(歌の引用は割愛します。)

 歌本文に「見」字を用いています。「登而見者・・・鳥羽能淡海毛 秋風尓 白波立奴」(のぼりてみれば・・・)と山頂からの眺めを詠っており、「見」字は、「視界に入れる」意であり、作中人物は登って四方を見渡しています。

 そして、作中人物は雁の声を聞いており、「鳥羽能淡海」の白波を目にしています。筑波山山頂からではあり得ないことです。そして「筑波嶺乃 吉久乎見者」(つくばねの よけくをみれば)と、筑波山山頂を見上げたかの表記もあり、「登」ったのは、筑波山地であっても常陸国庁に近い丘ではないか。二峯ある筑波山ではなくても実際の筑波山地をも筑波山は意味し、そのほかの意は込められていません。

 題詞においてもおなじではないか。

㉑ 次に、2-1-1763歌の題詞を検討します。題詞は「登筑波嶺為嬥歌会日作歌一首 幷短歌」です。

 題詞について、土屋氏が次のように指摘しています。

「「為嬥歌会日登筑波嶺」とあるべき様にも考へられる。筑波山に登ったので、嬥歌の会の日の為に作った歌と解すべきであらう。『萬葉集』の題詞に用ゐた「為」は皆タメの意である。・・・即ち嬥歌会の日に諸人の唱ふべき為の歌詞として、この歌を作り、其の土地の人にあたへたと解すべきであらう。」

 氏は、作者が登山した際、嬥歌会のことを聞いて作ったと理解しています。

 しかし、常陸国庁において、少なくとも筑波山に登ることになった際には作者は嬥歌会のことを聞かされているはずです。筑波山を見つつ着任した官人はあの筑波山かと合点したはずです。

 そうすると、題詞は、土屋氏の指摘するように、次のように読み下すのではないか。

 「筑波の峯に登り、嬥歌の会の日の為に作る歌 ならびに短歌」

  題詞は、山頂に到着しての感慨として嬥歌の会の日のことを想像して詠った歌、の意となります。

 歌本文には、「筑波乃山之 裳羽服津乃 其津乃上尓 率而」(つくはのやまの もはきつの そのつのうへに あどもひて)とあります。「裳羽服津」は種々検討されていますが、今、地名「裳羽服」というところの「津」(あるいは「裳羽服」と修飾するところの「津」)と理解し、船着き場、渡し場という人が集う場所のような筑波山の女体峯近くの場所を意味し、題詞より「嬥歌会」の会場ではないか、と推測できます。題詞にいうように筑波山に登り着いたところ(広場)で「嬥歌会」が行われている、ということになります

 そして、そこに、山頂は「足柄から東の地域から人があつまり」(『常陸風土記』の記述)そのようなことができる広さがあるところではないのを作者は実感したと思います。往時の歌垣は、筑波山の麓でないと成立しないと思います。だから、作者は、実際には筑波山に登っていないのではないか。

 題詞を無視すれば、歌本文は、筑波山の裾野にある沼沢近くで行われた『常陸風土記』の記述にあるような歌垣の様子を想像した歌です。

 そのため、宴席で、いくつかの筑波山に関連する歌とともに披露された机上の作ではないのか。筑波山に何かを暗喩しているとは思いません。題詞にいう「筑波嶺」は「筑波山があるエリアを指すか山自体を指す」と思われますが、短歌における暗喩のようなものには気が付きませんでした。

 題詞は、巻九の編纂者の作文した倭習漢文であろう、と思います。

㉒ このように、長歌反歌に対する題詞4題においては、少なくとも元資料の歌では筑波山が何かの譬喩としても用いられているとは思えません。題詞においても、同じでした。

萬葉集』の部立てに配列されている歌として、もし筑波山に暗喩があるならば、万葉集各巻の編纂者の意図であろう、と推測できます。

 短歌のみの題詞においては2首とも元資料の歌に「筑波山」に2意があり、万葉集記載の歌としてもその可能性を指摘でき、筑波山のイメージも官人は共有していたとみられます。

 だから、この長歌2-1-385歌は、他の題詞の歌とは別の巻である巻三に記載されていますので、この題詞のもとにある歌にだけ、別の意が筑波山に付与されていてもそれは巻三編纂者のみの意図と理解することが許される、と思います。

 「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 次回も2-1-385歌の検討を続けます。

 (2022/6/27  上村 朋)

付記1.巻三における題詞「(官位)人物名+登・・・+作歌〇首」の意

①『萬葉集』巻三には表記のタイプの題詞が3題ある。

2-1-327歌 登神岳山部宿祢赤人作歌一首 并短歌

2-1-375歌 山部宿祢赤人登春日野作歌一首 并短歌

2-1-385歌 登筑波岳丹比真人国人作歌一首 并短歌

② 最初の2-1-327歌とその反歌である2-1-328歌は、行幸時の(代作の)歌というスタイルで、決意披歴の歌であり、聖武天皇天武天皇への誓いを詠う、と推測し、表E作成時(2022/3/21現在)、その「注4」で、「2-1-327,2-1-328:上記3つの長歌を献じられた今上天皇が、応えた歌である。天武天皇を尊敬しその治世をいつも顧みて進みたい、という決意表明ではないか。その意を受けて赤人が詠った歌である。長歌は「いにしへおもへば」と詠いおさめる。」と注記した。「登神岳」とは、祖先神への誓のために登った、ということになる。それは、「祖先神に誓う場所」に「神岳」が選ばれ、神岳に登ることにより他に抜きんでた権威をもたせていることになっている(ブログ2022/4/11付け参照)。

③ 次の2-1-375歌では、「登」と表現すると、「だんだんと進みあがる。用途がひろい」(『角川大字源』)とあるように、倭習漢文(即ち題詞)では同訓異義の語として利用できることを指摘した。題詞にある「登春日野」とは、祭祀を行う意が暗喩されているのではないか。漢字「登」字には「のぼせる」とよみ、「人を挙げ用いる・定める(登録する)・たてまつる(上進する))」とか「みのる・成熟する 」の意もある。

 そして題詞の現代語訳(試案)は次のとおり。

「山部宿祢赤人が、「春日野A」に至り(思いを込めて)作った歌一首ならびに短歌」

「春日野A」とは、平城京の東にみえる山々の麓の野(であり官人がよく祭祀を行う野)を指す。反歌(2-1-376歌)もあわせて検討すると、それは祭壇をつくりそこで皇位継承者の誕生を願っている歌である。(ブログ2022/4/25付けの「13.」以下参照)

(付記終わり 2022/6/27  上村 朋)

 

 

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 家はどこ 萬葉集巻三配列その9

 前回(2022/5/30)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 供祭 萬葉集巻三の配列その8」に続き、今回「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 家はどこ 萬葉集巻三の配列その9」と題して記します。歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋)

1.~19.承前

萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、各歌について判定した表E(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を得ました。そして、「関係分類A1~B」の歌30首は、天皇の代を意識した4つのグループに分かれました。それ以外の歌においても2-1-383歌まで、そのグループに分かれました。

各グループの筆頭歌は、2-1-235歌、2-1-290歌、2-1-315歌および2-1-378歌です。

20.「分類A1~B」以外の歌 2-1-384歌など

① 巻三雑歌における天皇の代を意識した4つ目のグループは、聖武天皇以降の天皇を象徴する「寧楽宮」に居られる天皇の代の歌、と予想しているところです(ブログ2022/3/21付け「3.③」参照)。

 「その天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌」という判定は、前回同様に、題詞のもとにおける歌意で「聖武天皇以降の天皇」の代に関する歌という可能性で判断することとします。ほかの代の可能性の有無は関係ありません。

 次の歌、2-1-384歌を検討します。

 2-1-384歌 筑紫娘子贈行旅歌一首  娘子字曰児嶋

    思家登 情進莫 風候 好為而伊麻世 荒其路

    いへおもふと こころすすむな かざまもり よくしていませ 

    あらしそのみち

② 題詞から検討します。一般に、次のように読み下されています。

 「筑紫の娘子、行旅(たびひと)に贈る歌一首  娘子の字(あざな)は児嶋(こしま)と曰ふ」

 贈った人が記され、歌の作者は記されていません。贈った相手が誰か、例えば官人かどうかにも触れていない表記です。

 歌を贈った人物である「筑紫娘子」について、諸氏は、2-1-970歌の題詞に作者として記されている「娘子」であり、2-1-972歌で詠われている「筑紫乃子嶋(こしま)」と同一人物か、と指摘しています。そうであれば、大伴旅人が大宰師であった前後の太宰府における遊行女婦の一人となります。

 このように、この題詞における「筑紫娘子」という表記は、個人の名ではなく、「筑紫」に居る「娘子」という普通名詞です。

③ 次に、「行旅」について、土屋文明氏は「大宰官人等などであらうか。或は旅人上京の時、其の従者等に贈ったものと想像してよいかも知れぬ。其の時(天平2年冬12月)の旅人の従者や坂上郎女等は海路上京したことが知られている。」と指摘しています。

 熟語として「行旅」は「旅人。行客」と「たび。旅行」の意があります(『大漢和辞典』)が、珍しい部類の熟語です。土屋氏は、前者の「旅人。行客」と理解しています。

 歌本文をみると、二句「情進莫」、三句「風候」、四句「好為而伊麻世」と旅行の途次に生じ得る事柄へ注意に触れていますので、「行旅」とは「こうりょ」と訓み「旅の行程全体、上京であれば大宰府から都に到着までの間」という意の和語ではないかともみることができます。 

 そのような意に「行旅」を用いた倭習漢文とみれば、読み下し文は、次のようになるでしょうか。

 「筑紫の娘子の贈る行旅の歌一首  娘子の字は児嶋という」

 なお、題詞は、歌本文を検討後に再度検討する予定です。

④ 歌本文を検討します。

 土屋文明氏は、歌本文の五句を「あらきそのみち」と訓み、大意を、次のように示しています。

 「故郷の家を恋ひ思ふといふので心はやり給ふなよ。風まもりをよくして行きたまへよ。荒い其の路をば。」

 伊藤博氏は、題詞にある「行旅」を「こうりょ」と訓み、「旅行者。ここでは都へ帰る人」の意として、題詞を「・・・行旅に贈る歌」と読み下し、次のように現代語訳しています。

 「家郷を思うあまりにお心をせかせなさいますな。風向きをよく見きわめていらっしゃいませ。荒うございますよ、大和への海路(うなじ)は。」

 両氏は、官人やその家族や従者のうち海路で上京する人々に贈られた歌(送別の挨拶歌)であり、ただただ、道中安全に、と詠う歌、とみています。そして、道中の目的地にあるのが「故郷」、「家郷」であるという理解をされています。

⑤ 初句にある「家」(いへ)とは、『例解古語辞典』に、「家族の住む場所」、「家がら・家系」、「良い家柄」、「(仏門にはいっていない)普通の人が住む家。俗世間」とあります。

 漢字「家」の意は、「aいえ b家をかまえる cおっと(夫) dつま(妻)」などの意があり(『角川新字源』)、その「aいえ」は、次のような説明があります。

「すまい・住居」、「たてもの・みせ」、「家族・「一家」」、「いえがら・「良家」」、「くらし・世帯」

 両氏は、それを「故郷」、「家郷」と意訳しています。

 この歌を、上京する官人の家族に贈った場合は、贈った人物からみて「家」とは「あなた方の家・屋敷」の意となり、単身赴任者に贈った場合は「あなたの妻、家族、」あるいは「あなたの家・屋敷」と理解されたと推測できます。

 「筑紫娘子」が贈る際に面前で朗詠をするのですから、「家」(いへ)と表現(発音)に拘らず、贈る相手が「思う」であろう対象をもっと具体的な言葉にして朗詠するのではないか、と思います。

 だから、この歌は、伝承された歌の、後から生まれたあるバージョンの歌ではないか、と思います。

 その伝承歌を最初に検討したい、と思います。

⑥ なお、陸路での上京を前提として、道中安全を詠う歌も『萬葉集』にあります。五句が2-1-384歌と同じです(左注における()は通例の読み下し文)。

2-1-570歌  太宰大監大伴宿祢百代等贈駅使歌二首 (2-1-569~2-1-570歌)

   周防在 磐国山乎 将越日者 手向好為与 荒其道

   すはにある いはくにやまを こえむひは たむけよくせよ あらしそのみち

   左注:右一首少典山口忌寸若麻呂  

     以前天平二年庚午(かのえうま)夏六月 帥(そち)大伴卿忽生瘡脚疾苦枕席

     因此馳駅(ちやく)上奏 望請庶弟稲公姪胡麻呂欲語遺言者

     勅右兵庫助大伴宿祢稲公治部少丞大伴宿祢胡麻呂兩人 給駅発遣令看卿病

     (はゆまをたまひて、つかはし、卿のやまひをとりみしめたまふ)

     而径数旬幸得平復 于時稲公等以病既療発府上京 於是大監大伴宿祢百代

     少典山口忌寸若麿及卿男家持等 相送駅使共到夷守駅家

     聊(いささかに)飲悲別乃(すなわち)作此歌

 2-1-570歌は、疾患した大宰師大伴卿が規定に従い上奏し、それに応じて派遣されてきた使者(駅使(はゆまづかひ)。急使)が、任務を終えて帰京する際の送別の歌です。急使は、平安京大宰府の間を4,5日で走るそうです。

 当時、大宰師など重要な役職である官人は、陸路での往復が義務付けられていました。

 歌に、峠のある山の名を一つ詠いこんでいます。目的地の情報は歌にありませんが、復命しなければならない駅使の立場では、平城宮が目的地であるのは、題詞と左注によって明らかです。

 歌にある「磐国山」は『萬葉集』ではこの歌にのみ登場する山名です。山陽道の駅名に周防国の石国(岩国市関戸付近)があります。歌に用いている「磐国山」という表記は、「荒其道」に結び付けるための文字遣いなのでしょうか。なお、現在の「岩国山」とは位置が違うようです。

⑦ この二つの歌を比べると、2-1-383歌のほうに、歌を贈った人の心遣いが豊かに感じられます。それはともかく海路か陸路かにより別の歌が披露されたことになります。

 土屋文明氏が、2-1-971歌に関して、次のように指摘しています。

 「2-1-971歌の左注に「自吟振袖之歌」とあるのを見ると、これらの歌は「振袖之歌」と呼びならはした別離の曲にあった如く見える。大宰府官の解任上京を送るために誦する慣ひとなって居たものであらうか。」、

 「或いは在来の曲に若干の創意を加へたものと見るべきであらうか」

 このように、大宰府を出発する官人への送別歌には、パターン化された歌もいくつか既にできていたのでしょう。ちなみに「振袖之歌」は海路陸路どちらで上京されるとしても、披露できるのではないか。

⑧ ところで、2-1-384歌の初句「思家登」の「家」は、「あなたの家」であっても、その人物が船の乗組員であるならば、大宰府管内に「家」があることになり得ます。この場合、この歌を贈った人物の「家」ともなる、ということであり、二句「情進莫」とは、別れてきた家族の心配はするな、の意になり得ます。

 元資料の元々の原歌を推測すると、五句が「あらきこのうみ」であって、玄界灘へ船出する人々(漁民や海外貿易に従事する人たち)の家族や上司が詠った歌であったのではないか。

 そして、この歌は、徴用された役民を、家族知人が見送る歌ともなり得ますし、(租・調である)公物を都へ搬送する船の乗組員を見送る歌ともなり得、そして、官人の上京を見送る歌ともなるにあたって五句が「あらき(し)このみち」に替わったのではないか。

 2-1-384歌の元資料の原歌は、次のような大意の歌ではなかったのか、と思います。

 「家族のことに、気持ちを集中しすぎないように。天気・風の向きに気を付けて、船を操ってくださいな、これから行く海路は。」

 海に出たら、陸のことは忘れて、気象の変化と操船に集中せよ、という教訓歌にもなっています。

 歌本文の三句にある「風候」とは漢字の熟語としては、「気候」、「風の吹き具合」、「風の方向を計る器具。かざみ」の意があります。

⑨ そのような元資料の原歌を、大宰府を出発する人物に対する送別の歌に利用しようとすると、上記⑤で指摘したように、贈る相手によって用いる語句を、例えば次のようなグルーピングで考えたことと思います。

第一 単身赴任の官人であって海路で上京できる人達

第二 大宰府に家族を同道してきた官人であって海路で上京できる人達とその家族

第三 大宰府まで同道してきた従者とその家族

第四 船の乗組員で大宰府管内に住む人

第五 船の乗組員で他国の停泊予定地出身の人

第六 船の乗組員の家族知人で便宜を図ってもらって乗船する人

第七 罪人と護送する官人

大別すると、官人か否かとなります。

 上記グループごとに、初句の「思家登」の「思家」と五句の荒其路の「其路」は、適切な語句が選ばれたのではないか、と思います。

⑩ 題詞に、歌を贈った人物として筑紫娘子とあるのは、男が船に乗り込むという前提の歌として、原則女が朗詠する歌ということを示しているのかもしれません。

 元資料の原歌の作詠時点は、このため不明となります。元資料の成立も伝承歌であるので、普通名詞の人物は、特定の時点の特定の人物というわけにゆかないと思います。

2-1-384歌の元資料の歌は、このような歌である、と理解できます。

⑪ さて、巻三の雑歌としての検討です。

 この歌は、官人が記録した歌です。官人が作った歌ではありません。そして、この題詞は、上記②で指摘したように、普通名詞の女性「筑紫娘子」が、この歌を贈った、と記しており、相手も特定していない漢文です。

 最初に、題詞を検討します。

 伝承歌の検討時(上記⑨)にならい、贈った相手を、大別官人の送別の歌かあるいは船組員の送別の歌かを、検討します。

 前者に理解して巻三編纂者がここに配列したとすると、2-1-570歌のように贈る相手を明確にした題詞になるのではないか。送別の歌である2-1-552歌や2-1-558歌や2-1-970歌などは相手を明確に記しています。

 だから、後者の歌としてかつ官人からみれば無名に等しい人物に対して用いた歌として、巻三編纂者はここに配列したのではないか。

 そうであると、題詞にある「行旅」とは、旅人の意よりも無名に等しい人物の「旅の行程全体」であり、元資料の原歌の趣旨が残っている、とみて、詞書を倭習漢文として、現代語訳を試みると、次のとおり。

 「筑紫の娘子が贈った旅行の心得の歌一首  (後注:娘子の字は児嶋という)」

 「筑紫娘子」の個人名を明記する必要を巻三の編纂者は感じていなかった、と思います。「娘子字曰児嶋」は後人が官人に贈られた歌と理解したことからの注であろう、と思います。

⑫ 次に、歌本文の検討です。

 初句にある「家」は、出発する人物の同道していない家族と意として、現代語訳を試みます。

 「家族のことに、気持ちを散らさないで。天気・風の向きに気を付けて、船を操ってくださいな、荒々しいのが常なのが海の路ですから。」

 当時の船は、風待ちをしつつ航海しており、また、波がたてば揺れも大きかったのでしょう。

 この歌は、題詞にある「筑紫(娘子)」により、旅の出発地は大宰府(管内にある湊)であろう、と想像できます。行く先は、官人が客として乗船していれば、平安京(に近い大阪湾の湊)でしょう。しかし、官人に贈ったと題詞にあるわけではありません。行く先は、色々ある、と示唆している題詞です。

 この歌は、船旅に出発する無名の誰かに、その家族か知人が(同行しない立場で)贈った歌が、この歌ということになります。そして、贈った「筑紫娘子」は伝言を頼まれた人物という位置付けになります。

 また、もともとは伝承歌であるので、歌本文をみても、特定の時代にのみ結びつくような語句はありません。

 そうすると、この歌は、時代を問わずどの天皇の御代でも朗詠できる歌といえます。

上記①に示した「題詞のもとにおける歌意で「聖武天皇以降の天皇」の代に関する歌という可能性」があり、「その天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌」と言ってよいので、この歌は、四つ目のグループの歌になり得ます。

⑬ 今、この歌の前後は、配列などより、聖武天皇以降の天皇を象徴する「寧楽宮」に居られる天皇の代の歌と予想しており(上記「①」)、直前の2-1-382歌、2-1-383歌もその予想通りでした。

 そして、この歌に暗喩があるとすれば、巻三雑歌の天皇の代を意識した4つ目のグループの歌として、今上天皇から次の天皇への代替わりを示唆しているのではないか。

 この歌を贈られた人物を、今上天皇とみると、天皇家の家族や官人とも別れて船出する、としたら、あの世です。それを官人の立場から示唆しているのがこの歌ではないか。天皇が統治するという体制そのものは、律令とそれを施行する官人の確たる意思により何の心配もありません。「情進莫」と詠っている所以です。

⑭ 無名の人物が天皇に準じる人物を示唆している例は、以前に検討した2-1-418歌がそうでした(ブログ2022/2/28付け参照)。巻三の挽歌の筆頭歌で、「上宮聖徳皇子出遊竹原井之時見竜田山死人悲傷御作歌一首」と題する歌でした。

 巻三の挽歌は、巻二の挽歌の部と同じ発想で配列されています。この歌は、表面上は助ける人もなく家族とはなれ一人逝く人物に対する挽歌として素直に理解できる歌です。

 聖徳太子は皇太子のままで生涯を終わっているので、巻三の編纂者は皇子として無念であったろうから歌本文の「行路死人」に、近い将来の自分の姿を重ねた歌であるとして、挽歌の筆頭歌においている、と指摘したところです(付記1.参照)。筆頭歌であって、挽歌の対象である竜田山死人(非皇族)が、天皇にとり送魂の歌を贈るべき人物を暗喩していました。

⑮ 歌と天皇の各種統治行為との関係を、表E作成時には、官人またはその家族の入京時の歌として「C」(天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(Dを除く))としています。

 しかし、ここまでの検討の結果、この歌は、筑紫娘子が作った歌ではなく伝承歌と認められるので、歌と天皇の各種統治行為との関係は、「関係分類I」(天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を歌う歌群)に、変更します。

⑯ 大伴旅人が呼び寄せたという坂上郎女もその従者もこのような歌で送別されて大宰府を出発したと思います。

 2-1-3412歌の題詞によれば、大宰師大伴卿が天平12年12月大宰府を出発するに先立ち、同年11月傔従等は別途海路経由による出発をしています。2-1-968歌の題詞によれば、坂上郎女は同年11月に師の家を出発した、とあります。

 坂上郎女は、大宰師大伴卿を大宰府に残して平安京に向かったのです。

 このような歌を出発にあたり贈られた坂上郎女は、改めて大宰師大伴卿に健康上の注意を促したと思います。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 次回は、2-2-385歌から検討します。(2022/6/6   上村 朋)

付記1.巻二と巻三の挽歌の筆頭歌について

① ブログ2022/2/28付けの「19.⑯」 で次のように指摘した。

② 巻三の筆頭歌は、「天皇にとり送魂の歌を贈るべき人物を暗喩している」歌。巻二の筆頭歌も同じ。

③ 巻二と巻三の筆頭歌は、次のような共通点がある。

第一 皇位継承も十分可能であった皇子が筆頭歌を詠うこと

第二 挽歌の対象(有馬皇子も、行路死人も)は、今上天皇に悪意を持たず、初志が実現していない死者であること

④ 『萬葉集』における題詞は編纂者が作文しており、元資料の歌の組合せは編纂者の意図による、と推測できる。

(付記終わり 2022/6/6   上村 朋)

 

 

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 供祭 萬葉集巻三配列その8

 前回(2022/5/16)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 光明子はどこに 萬葉集巻三の配列その7」に続き、今回「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 供祭 萬葉集巻三の配列その8」と題して記します。歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋)

1.~16.承前

萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、各歌について判定した表E(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を得ました。そして、「関係分類A1~B」の歌30首は、天皇の代を意識した4つのグループに分かれました。それ以外の歌においても2-1-381歌まで確認できました。

 各グループの筆頭歌は、2-1-235歌、2-1-290歌、2-1-315歌および2-1-378歌です。

 

17.第四グループの「分類A1~B」以外の歌 2-1-382歌など

① 巻三雑歌の天皇の代を意識した4つ目のグループは、聖武天皇以降の天皇を象徴する「寧楽宮」に居られる天皇の代の歌、と予想しているところです(ブログ2022/3/21付け「3.③」参照)。

 「その天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌」という判定は、前回同様に、題詞のもとにおける歌意で「聖武天皇以降の天皇」の代に関する歌という可能性で判断することとします。ほかの代の可能性の有無は関係ありません。前回2-1-381歌が4つ目のグループの歌であることを確認しました。

② その次の歌、長歌2-1-382歌とその反歌を、今回検討します。

 2-1-382歌  大伴坂上郎女神歌一首 并短歌

 久堅之 天原従 生来 神之命 奥山乃 賢木之枝尓 白香付 木綿取付而 斎戸乎 忌穿居 竹玉乎 繁尓貫垂 十六自物 膝折伏 手弱女之 押日取懸 如此谷裳 吾者折奈牟 君尓不相可聞

 ひさかたの あまのはらより あれきたる かみのみこと おくやまの さかきのえだに しらかつけ ゆふとりつけて いはひへを いはひほりすゑ たかたまを しじにぬきたれ ししじもの ひざをりふして たわやめの おすひとりかけ かくだにも あれはこひなむ きみにあはじかも

2-1-383歌 反歌

 木綿畳 手取持而 如此谷母 吾波乞甞 君尓不相鴨

 ゆふたたみ てにとりもちて かくだにも あれはこひなむ きみにあはじかも

左注:右歌者、以天平五年冬十一月一 祭大伴氏神之時 聊作此歌一、 故曰神歌

 

③ この歌について、土屋文明氏は、「なお部分的の訓方に異説が多いのであるが、根本を私見のやうにとれば、上出の訓(下記⑥に引用)が最も自然であると私は信ずる。最も問題の中心となる点は神をキミと呼ぶかどうかといふことにかかって居る。」と指摘しています(『萬葉集私注 十』524p)。

 題詞より検討します。

 作者が、大伴坂上郎女、と明記されています。彼女の歌は『萬葉集』に多数あり、左注に記す天平5年頃は30代半ばかとも推定されています。

 「祭神歌」の「神」とは、神祇の神々(で単数でも複数でも)を指しているのであろう、と思います。題詞(漢文)の現代語訳の通例は、次のとおり。

 「大伴の坂上郎女の、神を祭る(あるいは祭りし)歌一首 并びに短歌」

 題詞には、祭る(あるいは祈願する)目的と歌を披露した場面とを、記していません。

④ 私は、当時の「神を祭る」とは、「神への祈願」と同義ではないか、と理解しています。(さらに下記⑩で述べます)

 また、「祭」は、例祭となれば、現在でも、事前に担当する者の(短期あるいは長期の)精進からはじまり、使用場所や用いる物品の穢れを祓うことや祝詞の準備や拝礼の順番や直会や、使用した物品の始末の仕方まで、手順その他が定められています。現代でも近くの町内の氷川神社や八幡社の春祭り・秋祭りでも簡素化しつつもそれがワンセットの「祭」です。

 この「祭神歌」が、祭のどのような場面で披露されたのか、諸氏はあまり論じていません。

 この長歌反歌の左注も、「祭神歌」がどのようなものかについては説明していません。

 このため、当面、この題詞は、「作者が、「祭神歌」と称せる類の歌を一首詠んだ」、というメッセージであると理解して、歌本文を検討することとします。

 左注は、歌本文の理解とも関係がありますから、後ほど詳しく検討します。

⑤ 歌本文は、土屋氏の説を基本に検討をすすめます。

 土屋氏は、次のような語釈や作意を指摘しています(『萬葉集私注 巻二』)。

 第一 長歌にある「生来 神之命」とは、祭りの招神によって神の顕はれ生ずることを信じていたのであらう。来るべき神に「かみのみこと」と呼びかけているので、この句で歌は一段落をなす。「神」は左注によれば大伴氏の氏神(祖先神である天忍日命)だが、この歌にはさうした事も表現されて居ない。別に氏人の仕へる神があったのかどうか分からない。また、作者のこれらの行為は祭神の社において行はれたかのか、住居の一部において行はれたのか、神事にうといので分からないのは残念。

 第二 長歌にある「齊戸」とは、祭祀に用ゐる甕。大膳式に叩甕を叩戸と記した所もあるように借字。神にへる酒を盛る容器であらう。

 第三 長歌にある「吾者折奈牟」とは、祭事に応じてあらはれる降る神に是非あひたい」と句を結んだのであらう。(土屋氏をはじめ諸氏は(底本としている西本願寺本の)「折」を「祈」として理解しています。)

 第四 長歌の末句「君尓不相可聞」とは、神の祭りのことに託して、恋人に逢はうとする希望としては如何にも作歌動機が浅くなりすぎる。降神の為に、ひたすら歌って居ると見るべきではないか。ただキミなる語が、さうした用法を許すかどうかのみが、残された問題のやうに思はれる。

 第五 左注に記す冬十一月に氏神を祭るのは、春冬の定期祭の一つであらうといふ。

 第六 「聊」は、かりそめに、ちょっと位の意。

なお、氏は、左注を引用して「大伴氏の氏神を祭るに際して作られたもの」とこの歌を理解しています(その大意の引用は割愛)。

⑥ 土屋氏は、また、『萬葉集私注 巻十』の「万葉二三首づつ」の「三 」で、この歌をとりあげ、祭における降神の所作を考察し、「斎戸」の理解を改め、現代語訳を次のように示しています。(同書523p)

 長歌2-1-382歌

 「久方の天の原からみ姿をあらはして来るといふ神さまよ、私達はあなたを御迎へするために奥山から取って来たさか木の枝に、白い木綿(ゆふ)しでを取りつけ、神の宿られる斎戸をあたり清めて立て据ゑ、竹玉をも多く糸に貫いて垂らし、猪か鹿のやうに膝を折って身を伏せ、手弱女たる私は襲(かさね)の衣を身にかけて、これ程にして私は神のみ姿をあらはされることを祈りねがひます。これでも神であるあなたに逢へないでありませうか。ぜひ逢ひたく願ひます。」

 反歌2-1-383歌

 「木綿で作ったみてぐらを手に取り持ってこれほどまでにして吾は祈り願ひます。神よぜひあなたに逢ひたいものです。」

⑦ 氏は、「この歌も降神の所作をあらはしているものとして巻一の藤原御井歌と比較して考へると面白い」と言い、次のことを指摘したうえ、上記③の引用文を記しているところです。

 第一 「天原従 生来」を、「あまの原あれ来る」とよむのは私案であるが、神を招かうとして居るのだからこれが穏当の訓であらう。

 第二 「斎戸」は、旧説は「斎甕」であったが、定本の別記(武田氏新解の説)に之を否定して祭壇神殿の儀とされたが、之はむしろ神を宿すもの即ち後世の神体に当たるもの、巻一の歌でいふ安礼にあたるものではあるまいか。襲を被ってさか木の前に祈るのは女がする降神の仕方とみえる。

 第三 「君」を恋ひ思ふ人として突然にここに相聞の意をこめるのはどう考へても不自然だ。神をも二人称の時には「キミ」と呼ぶことさへ認めればさうした不自然は犯さなくてすむ。

 第四 この歌で見ると、大伴氏の氏神が史的伝説では天忍日命といふやうに極められて居ても、日常の祭神信仰ではもっと漠然とした天の原からの神を氏神としてあがめたものと見える。そのことは武田氏の新解に言及してあったと思ふ。

⑧ それでは、歌本文を検討します。

 この歌は、「みそぎ」という語句を検討の際、比較したことがあります。その時は土屋氏が「斎戸」の理解を改める以前の理解で検討し、「神をキミと呼ぶかどうかといふこと」は不問のままでした(ブログ2020/9/21付け)。

 氏の指摘する「斎戸」の理解は、祭り方の研究課題ですので別途の検討とし、ここでは、この歌が、巻三雑歌の天皇の代を意識した4つのグループのいずれに属するかという点に焦点をあてて、検討します。

 そのため、作者坂上郎女は何を題材に詠ったのか、それは、天平時代の今上天皇聖武天皇)の御代のことか、あるいはそれ以後の御代のことか、そして暗喩があるか、に絞って検討します。

⑨ さて、歌本文をみると、初句より最後から四句目までは、神に祈る準備と祈っている行動(「降神の所作」)を記しています。

 歌本文の最後から三句目・二句目の「如此谷裳 吾者折奈牟」(かくだにも あれはこひなむ)とは、「このように作中人物は祈願した(ところ)」という祈願のまとめの語句ですが、具体的には何を「折」ったのかは明確に表現されていません。

 歌本文の最後の句「君尓不相可聞」において、祈願した事柄が明らかになっています。「君」があってくれないからです。そして、その「君」を、土屋氏は「祭りに際して招じた神(神々)」と指摘し、伊藤博氏は「祖先を指すであろうが作者坂上郎女の亡夫宿奈麻呂をも意識する」と指摘し、諸氏は「祭りに際して招じた大伴氏の神」か「相聞の相手」が多い。土屋氏が可能性を指摘している「神々」の理解は少ない。

⑩ 当時、祭る者自身が生存しているこの世の次に行くあの世に居る(もう死ぬことのない)方々のうちで、祖先神とは、この世で偉大なことを成し遂げられた方及び成し遂げられず無念の思いを抱いている方と信じられています(何柱でも可)。 

 祖先神を祭るとは、この世に居る子孫である祭る側の人々にとり、神々があの世の生活で満ち足りるようにもてなすことです。それにより、この世に居る子孫の活動への関心を逸らし、あるいは、この世に居る者が成し遂げたいことの応援・指導(および邪魔する事柄を抑えることなど)をしてくれるように、仕向けることです。その結果、祈願したい事柄、例えば翌年の五穀豊穣とか個人の延命などが成就されることとなる、というのです。祖先神でない神々(諸々の天つ神、国つ神)も、災害や疫病の流行を起こしているのをみれば、同様にもてなすことが必要である、と信じられています(付記1.参照)。

 祭る、ということは、だから常に何かを祈願している、ということになり、歌舞などの奉納、神との会食(直会)がセットとなっているのが祭です。

⑪ 左注が記す11月の祭とは、例祭であり、今年の神(神々)の応対に感謝し、来年の五穀豊穣や祭る側の人々の活躍のために、十分神(神々)をもてなす、ということになります。

 そのために、神のお姿を直接拝見する必要があるでしょうか。それが必要ならば誰もが同じように詠うはずですが、そのような歌は『萬葉集』にありません。そもそも姿のわからない存在が神です。

 当時、巫女が神を感得するようなこともあったでしょうが、それは(目的の祈願のための手段として)感得することを願った結果です。

⑫ 左注を無視すれば、歌本文の最後の句にある「君」は、作者の居るこの世の「君」であり、恋の相手に逢いたいと神(神々)に祈願する歌と同じ構造の歌になります。初句から最後の句の直前までは、祭る方法手順を述べているだけです。

 『萬葉集』での別の祈願を詠う歌を例示します。

 2-1-423歌 石田王卒之時丹生王作歌一首 并短歌

 名湯竹乃 十縁皇子 ・・・ 吾屋戸尓 御室乎立而 枕辺尓 齋戸乎居 竹玉乎 無間貫垂 木綿手次 可比奈尓懸而 天有 左佐羅能小野之 七相菅 手取持而 久堅乃 天川原尓 出立而 禊身而麻之乎 高山乃 石穂乃上尓 伊座都流香物

 「なゆたけの とをよるみこ・・・わがやどに みむろをたてて まくらへに いはひへをすゑ たかたまを まなくぬきたれ ゆふたすき かひなにかけて あめなる ささらのをのの ななふすけ てにとりもちて ひさかたの あまのかはらに いでたちて みそぎてましを たかやまの いはほのうへに いませつるかも」

 この歌では、石田王の延命あるいは病気平癒を自らが祈りたかったが、それも出来ないうちに石田王の死を知って、作中人物でもある作者は嘆いています。この歌の初句から「禊身而(麻之乎)」までは経緯と祈願する手順を詠い、2-1-382歌と同じです。この歌を「たまたすき」の検討の際取り上げ、「祭主が最後に示した行動「みそぎて(ましを)」で代表しているものは、祈願全体であり、「みそき」という語句は、祭主として祈願する意となる。」と理解しました(ブログ2020/9/21付け「5.⑥」)。

 以後の句「高山乃 石穂乃上尓 伊座都流香物」は、祭主の詠嘆、祈願していればそうならなかった、という嘆きと理解できます。歌の最後で、「みそぎ」の(祈願の)目的が明確になります。

 延命の場合でも、なかなか逢えない場合でも、歌の構造は同じになっています。

⑬ 十一月の例祭の際、この歌の朗詠を聞いた人々は、詠むまでの事情を承知していますから、この歌は、この世にいる「君」にあいたいと詠っている歌と理解されたと思います。

 一方、左注が作詠時の事情の一端を記していると見るならば、作文された時点に関わりなく、参考となります。

 このため、元資料での歌がどのような歌であったかを、左注を信じた場合と、そうでない場合とに別けて確認し、次に巻三の雑歌として検討したい、と思います。

 

18.左注の検討

① 歌本文を離れて、左注を官人の記した漢文の一つとして検討します。

 上記「17.②」に示した左注を、再掲します。

 右歌者、以天平五年冬十一月一 祭大伴氏神之時 聊作此歌一、 故曰神歌

 

 左注と題詞は、それぞれ作文された当時の官人が用いていた倭習漢文(白文)である可能性もあります。また、返り点などは、『新編国歌大観』の編集委員会の付したものですが、古くからの返り点などを継承しています(付記2.参照)。

② 今、『新編国歌大観』の『萬葉集』を前提として検討していますが、ここでは左注の漢文の返り点などと訓をも検討対象とします。

 最初に、用いている主な漢字を確認します。

 左注にある、「供祭」が、熟語にあるか辞典にあたると、『大漢和辞典』(諸橋轍次)に、「まつりのようにあてる」(祭りに何かを供する)意の熟語として記載がありますが、『角川新字源』に記載がありません。漢語では珍しい熟語である、と分かります。

 多くの諸氏は「供祭」を「まつる」と訓んでいます。しかし、「祭」字のみでも「まつる」と訓むことができます。漢文における「供祭」と「祭」は意が異なっていますので、作文した人物は違いのある事柄に対する表現と認識している、と推測できます。

 漢字「供」は、「そなえる」、「そなえ。そなえもの。供物」、「自分から事情を申し述べる」などの意がありますが主に「そなえる」意に用いられています。「そなえる」とは、「供え物をする。設ける。あることの役にたてる」という意です(『角川新字源』)。

 漢字「祭」は、「元来、人と神とがまじわり接する」意であり、「いけにえを供え、儀式としてするまつり」の意です。「まつり」と訓む漢字「祀」(し)は、「定まったまつり。例えば五祀(中国の家庭で行う春、夏、季夏(夏の末)、秋、冬の一組のまつり(またはその一つ。))」と『角川新字源』にあります。

③ 漢字「以」は、「ひきいる」、「もちいる」、「おもう。おもうに。」、「ゆえに」、「もって」(助字)などの意があります。助字「以」は、

第一 「もって」と訓み、手段・材料などを示す(・・・を用いてなど)、材料・内容などを示す、のほか「於」とほぼ同じなど

第二 「もってす」の意

第三 「と、ともに」と訓み、「与」と同じ

第四 「すでに」と訓み、已と音通

などの用例があります。

 漢字「聊」は、助字として、「いささか」と訓み、「ちょっと、かりそめに」の意があります。「聊」字は、もともと、「耳が鳴る」、「たよる。たのむ。「頼」に同じ」、「願う。「願」に同じ」、「たのしむ」とか「やすんじる」意があります。「聊作」という熟語は辞書にありません。

 漢字「故」は、助字でもあり、その意は「ゆゑ。ゆゑに」、「ことさらに」、「もと。以前に。」、「もとより。」などがあります。

 漢字「曰」は、「い」と訓み、「ものをいう。名付ける。」の意。「いわく」とか「のたまわく」とも訓みます。

④ このような漢字を用いている漢文なので、後代の人物は、「供祭」を「まつりのようにあてる」(祭りに何かを供する)意の熟語と理解して、次のように読み下したのではないか、と私は思います(理由は⑦以下に記す)。

 「右の歌は、天平五年の冬十一月をもっての大伴の氏神の(祭りの)時、供祭す。いささかに此の歌を作る。 故に(相聞の歌にあらずして)神を祭る歌と曰う。」 (提案1)

 この読み下し文は、主語を明確にすると、三つの文からなり、一つ目は「右の歌は、「供祭」した。」、二つ目は、「これは天平五年の例祭に新しく作った歌」、三つ目は「新しい歌は、祭神歌(祈願に関する歌)である(相聞の歌ではない)。」です。この順に文が置かれている、と理解したものです。

 「供祭」とは、祭りにおいて奉納の一環としてかつ直会でも披露した、という意ではないか。「祭」字が祭り全行程を意味するものとして「供」字が祭に何かが加わった意で用いられており、それはこの年の秋の大伴氏の例祭に、特別な祈願があったことを示唆しています。

⑤ 伊藤博氏は、左注を、次のように読み下しています。

 「右の歌は、天平の五年の冬十一月をもちて、大伴の氏の神を供祭(まつ)る時に、いささかにこの歌を作る。故に神を祭る歌といふ。」

 氏の理解では、この漢文は、二つの文「右の歌は、天平五年の例祭に新しく作った歌である。」と「新しい歌は、祭神歌(祈願の歌)である。」が、この順に置かれている、というものでしょう。

 氏は、「供祭」を、「祭」と同義としているようです。

⑥ このような読み下しのほかに、倭習漢文として、新たに次のような返り点などを付し、読み下すことができる、と思います。

 右歌者、以天平五年冬十一月一 祭大伴氏神之時聊作此歌 故曰神歌

 「右の歌は、天平五年冬十一月において、大伴の氏神の(祭りの)時、願い作るところの此の歌を、供えて祭る。 故に神を祭る歌と曰う。」(提案2)

 「祭」とは、今年の例祭を執行したという意です。「供祭」とは、例年と違って加わったことがあり、それにまつわる歌なども新たに奉納した、という意です。

 この読み下し文は、二つの文からなり、「右の歌は、天平五年の例祭に役立てた。」と「この歌は、相聞の歌ではなく祭神歌(祈願に関する歌)である」とが、この順に置かれている、と理解しました。

 「祭神歌」という概念が、左注を作文した人物の時代にあったものとみえます。『古今和歌集』を前提とすれば、四季歌や屏風歌や歌合の歌(題詠歌)や相聞歌とも異なるところの、祭の際奉納する歌である、ということを注記したのだ、と思います。

 倭習の漢文というのは、奈良時代とそれ以降も当時の官人の漢字の使い癖が入っている漢文を指して言っています。漢文に詳しい方々、奈良時代平安時代の公用文などに詳しい方々などのご意見を頂き、提案1と2は再考したい、と思っています。

⑦ 理由は次のとおり。

 この漢文において、動詞と思えるのは、漢字の意と文での配置からみると、「祭」字と「作」字のほかに、「供」字と「聊」字にも可能性があります。そして作詠時点は「秋十一月」と明記しています。その作詠時点における行動が動詞と思われる漢字に示されている、と理解できます。

 作詠時点と動詞「祭」が結び付く事柄に、例年秋に行う氏神に奉告祈願する祭があります。冬十一月に宮中では例年新嘗祭がある(付記1.参照)ように、大伴氏も氏神に対する例祭を許されていました。

 作詠時点と動詞「作」が結び付く事柄に、この世の「君」に関する歌であるこの歌(2-1-382歌の歌本文)があります。そしてこの歌は今回新たに作られた歌と理解できます。

 「供」字は「祭」と接してあり、今年の秋の例祭に関係があることになります。

 「聊」字は「作」字と接してあり、この世の「君」に関する歌にしか関係しません。

 そのため、「供祭」とは、その氏神への例祭の際に、この歌を奉納して祭を執り行ったことを指しているのではないか。そして、「聊」とは、「作る」動機を指しているとみました。例祭にあわせた祈願に関係していますから、ちょっとした気持ちで作ったのではないはずです。

 倭習というのは、「右の歌は、供祭の歌なり」というべきところの省略法、出来るだけ読み下し文に近い語順などに感じたところです。

⑧ このように、「供祭」と「祭」に意味するところの違いを認め、「聊」の意を刷新した結果が、上記の新たな返り点などによる読み下し文(提案2)であり、『新編国歌大観』による返り点などに対する新たな読み下し文(提案1)です。

 この二つの新たな読み下し文は、まとめると、

 「2-1-382歌の元資料の歌は、天平5年氏神への例祭のために、この歌は作られ、そして披露された。」、という趣旨の漢文である、という理解となります。

⑨ その事情は、その年の大伴氏一族の活動、即ち作詠時点から探れるはずです。

作詠時点の天平5年とは、『続日本紀』によれば左右京及び諸国は飢饉に見舞われており、4月に第九次遣唐使(大使は多治比広成)が難波津を出港しています。前者は頻繁にある事ですが、後者は特別な事です。

 その遣唐使一行には、大伴氏一族の大伴古麻呂が一員となっています(『続日本紀』に記載がありませんが付記3.参照)。そのほかの大伴氏一族の官人をみると、大伴旅人は既に天平3年7月67歳で没し、大伴道足は天平3年参議、坂上郎女の元夫である大伴宿奈麻呂従五位下となるのは天平15年、家持が内舎人となったのは天平10年です。

 大伴氏一族の官人としてこの年特別なことに従事しているのは外国に出張している大伴古麻呂です。

⑩ 氏神の例祭は、氏の上が行う定めです。一族として既に出発にあたり祈願したであろう大伴古麻呂の業務成功と無事帰国(今年のみの特別な祈願)を、氏の上は改めて例祭で祈願したのではないか。作者坂上郎女は歌を奉納する立場であったと思います。大伴古麻呂は、この例祭の頃、順調ならば唐の長安(現在の中国陝西省省都西安市内)に居るはずです。

 元資料としてのこの歌は、遣唐使派遣に関わる歌であることが分かり、天皇の統治行為に関わる歌として雑歌の資格があることになります。それが、雑歌に配列している理由になり得ます。

⑪ このように新たに詠み下した左注は、元資料の経緯を記している、と言えます。

 そうすると、左注を前提として理解した元資料の歌においては、「斎戸」の理解にかかわらず、末句の「君」は、この世の人物で、作者の一族の有力なひとりであって、当面国内にいない大伴古麻呂を意味する代名詞です。

⑫ 次に、では、左注を無視して(左注を作文したのは巻三編纂者でないとすると)、元資料の歌の理解はどうなるか。題詞と歌本文だけから作詠時点を限定できるか、という設問になります。

 題詞にある「坂上郎女が「祭神歌」と称せる類の歌を詠う」ということが、ヒントとなります。

 家刀自が例祭にあたり新たに歌を詠むのは、慣例にないことではないか、と思います。例祭での家刀自の奉納歌は、氏ごとに幾つかの伝承歌が既にあったと思います。

 大伴旅人の死後の大伴一族の盛事には、天平3年の大伴道足参議任命、天平5年大伴古麻呂遣唐使の一員、天平勝宝2年の大伴古麻呂の遣唐副使任命、天平10年大伴家持内舎人に任じられことなどが、あげられるでしょう。そうすると、家刀自である坂上郎女が、氏の上の命を受けて新たな歌を奉納する機会は、例外といえる頻度と言えるのではないか。

 坂上郎女の歌は、『萬葉集』では年代的には天平勝宝2年の歌が最後と言われています。「従京師来贈歌一首 并短歌」と題する2-1-4244歌などです。

 元資料の歌が、「この世にいる「君」にあいたいと詠っている歌」であるならば、第一候補が天平5年の例祭時、第二候補が天平勝宝2年の例祭時となります。

 左注を無視しても、同じ結論にたどり着けました。

 これは、歌に関して題詞の漢文で詠う目的も示していると言えるので、巻三の編纂者が左注を作文していない、ということになります。

 

19.巻三の雑歌として

① 次に、巻三の雑歌として検討します。

 上記「18.⑫」の理解となった元資料の歌を、巻三編纂者は、雑歌として配列しています。題材が遣唐使関連なので、雑歌の資格はありますが、天皇の代を意識したグループ別けは、聖武天皇の御代のグループの歌になります。

 しかし、配列からは4つ目のグループの歌と予想できるところです。

 改めて、題詞に戻り考えてみます。

 題詞は、作詠時点と詠う目的とに直接触れていません。左注の漢文は、巻三編纂者が預かり知らぬことですから、題詞は左注に縛られません。

 このため、この題詞のもとでは、確実に将来、この世の「君」にあえることを祈願した歌、という理解が可能です。「君」の意の拡張が可能となっています。

② この歌の作詠時点は、題詞に明記されている作者名から聖武天皇の御代となりますが、「あいたい」人物に逢えるのは、当然将来です。

 天皇の代を単位とすれば、あう時点は聖武天皇以降の、「君」は(代名詞ではなく名詞として)将来の天皇(例えば寧楽宮と仮称する天皇)あるいはその御代に出会いたいという趣旨の歌になります。

 「君(きみ)」の意は、『例解古語辞典』には、代名詞では、「対称。あなた」ですが、名詞では、「a天皇。b自分の仕える人。主人。主君。c(・・・のきみの形で)敬意を表す。・・・さま」とあります。

 そうすると、この歌は、巻三雑歌の天皇の代を意識した四つ目のグループの歌の要件(上記「17.①」参照)を満たします。

③ このような検討の結果、上記「17.⑧」で絞った今回の検討課題は、

「題材」は、天平五年の大伴一族の一大関心事

天皇の御代」は、暗喩より、巻三の雑歌の天皇の代を意識した四つ目のグループの歌

「暗喩」は、題材を直接明らかにしていない題詞の作文によって、「君」にある

ということになりました。

 また、土屋氏が問題点とした「君」は、元資料においては、題材判明もあり、この世の人物の代名詞ということが分かりました。

 左注は、巻三編纂者の知らないことであり、左注を作文した人物は、元資料の作詠時点と詠う目的に注目しており、この歌が雑歌のこの位置に配列された所以への関心は、無かったようです。

④ 次に、表E作成時、この歌は、「関係分類I」(天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を歌う歌群)としました。元資料は遣唐使派遣に関して詠っており、関係分類は、「C」(天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(Dを除く))が適切です。

 しかし、明確に作詠時点を題詞に記しておらず、「作者が、「祭神歌」と称せる類の歌を一首詠んだ」、というメッセージの題詞であると理解(上記「17.④」)して、何かを祈願する際の歌と整理して、表E作成時のまま、とします。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 次回は、2-2-384歌から検討します。

 (2022/5/30   上村 朋)

付記1.新嘗祭聖武天皇の疫病対策などについて

① 律令に定められた国家祭祀としての新嘗祭は、それまでの神々への対処方法を踏襲している、と諸氏は指摘する。新嘗祭は、その年の新穀などを天神地祇に供えて感謝の奉告を行い、これらの供え物を神からの賜りものとしてみずからも食することによって、収穫を感謝し翌年の豊穣を祈願する。

 さらに、天皇は地上にある日本の統治を任せられている立場なので、祭がおこなわれる日時を考えると、太陽の恵みである新穀を頂くことで天照大神の霊威を改めて更新を受けるのが目的である、という理解も重なる。

② 新嘗祭は、式典従事者の確認を事前に行い、使用する場所・天皇をはじめ主要な人物・使用する物の穢れを事前にとり、清浄な状態を維持し、この祭りだけのための神座などを,建物内に設ける儀式を経て当日(11月中の卯の日)を迎える。翌日(辰の日)の豊明節会(よとのあかりのせちえ)がセットとなっており、五節の舞などがあり、最後に禄を賜る。

③ 祭服は、純白生織りのままの絹地で製作される。 天皇の着る神事の服の中で最も清浄かつ神聖な服装である。神饌は、稲作物(蒸ご飯、栗の御粥などと新米から醸した酒)、鮮魚、干物、果物など。

④ 氏の神の祭については、藤原氏の春日祭の研究が進んでいる。式次第などは公祭となった時点のものが判る(岡田精司編『古代祭祀の歴史と文学』(塙書房1997)の「氏神祭祀と「春日祭」」(土橋誠))。

⑤ 佐佐木隆氏は、『言霊とは何か 古代日本人の信仰を読み解く』(中公新書2230(2013/8)で、次のように指摘する。

天皇による統治は、それを皇祖神や天神地祇がよしと認めてくれることにより、天皇ははじめて国家を統治することができるのだった。それだけでなく、天皇の治世中に起こるさまざまな現象も、神の意志を反映するものだった(66p)。

・たとえ神の血統を継ぐとされている天皇であっても、人間の発することば自体には威力がなく、それを聞き入れる神々の霊力によってしか自体は動かない(68p)。

⑥ 天然痘が九州で勢いを増すころ、聖武天皇は、大宰府管内の疫病対策として次のことをさせている(『続日本紀天平7年8月12日条の勅)。

第一 幣帛を大宰府管内の天神地祇に捧げて人民のために祈祷をさせる。

第二 観世音寺その他の諸寺に金剛般若経を読誦させる。

第三 疫病に苦しむものに恵みを与え、万種の丸薬散薬温薬を給付する。

第四 長門国よりこちらの諸国の国守もしくは介は、ひたすら斎戒し、道饗祭(みちあえのまつり:悪鬼の侵入するのを防ぐため街道で行う祭祀)をして(疫病を)防げ。

付記2.『新編国歌大観』記載の『萬葉集』について

① 歌を引用している『新編国歌大観』第二巻記載の『萬葉集』は、西本願寺本を底本として校訂を加えたもの。

「解題」(861p~)によれば、序・題詞・左注などの漢文は、底本に存する振り仮名をすべて省略し、底本のよみ方にこだわらず、最小限、読点・返り点を付してある。

② 底本の西本願寺本は、国立国会図書館デジタルコレクションで、みることができる。それをみると、頭注や朱で書き入れがあるなど、先人の理解と写本作成者の理解が『萬葉集』の本文以外に記されているが、題詞や左注に返り点等は付されていないということが分かる。

付記3. 天平5年出発した遣唐使について

① 16年ぶりの遣唐使であり、『萬葉集』には、これに関連した山上憶良の「好去好来歌」や笠金村の入唐使に贈る歌もある。

② 第一船の大使多治比広成は翌年11月種子島に帰着し天平7年3月入京した。第二船の副使中臣名代は唐に流し戻され天平8年8月入京した。第三船の平群広成は崑崙国に漂着するなどして天平11年7月入京した。第四船は行方不明。

③ 石山寺蔵遺教経の跋文によると、唐人陳延昌は、「日本使国子監大学朋古満(大伴古麻呂か)」にこの経典を付し、流伝せしめようとしている。(寧遣614p)。(『新日本古典文学大系 3 続日本紀』(岩波書店)補注11 の二八(553p))。

(付記終わり  2022/5/30   上村 朋)