わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 家はどこ 萬葉集巻三配列その9

 前回(2022/5/30)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 供祭 萬葉集巻三の配列その8」に続き、今回「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 家はどこ 萬葉集巻三の配列その9」と題して記します。歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋)

1.~19.承前

萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、各歌について判定した表E(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を得ました。そして、「関係分類A1~B」の歌30首は、天皇の代を意識した4つのグループに分かれました。それ以外の歌においても2-1-383歌まで、そのグループに分かれました。

各グループの筆頭歌は、2-1-235歌、2-1-290歌、2-1-315歌および2-1-378歌です。

20.「分類A1~B」以外の歌 2-1-384歌など

① 巻三雑歌における天皇の代を意識した4つ目のグループは、聖武天皇以降の天皇を象徴する「寧楽宮」に居られる天皇の代の歌、と予想しているところです(ブログ2022/3/21付け「3.③」参照)。

 「その天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌」という判定は、前回同様に、題詞のもとにおける歌意で「聖武天皇以降の天皇」の代に関する歌という可能性で判断することとします。ほかの代の可能性の有無は関係ありません。

 次の歌、2-1-384歌を検討します。

 2-1-384歌 筑紫娘子贈行旅歌一首  娘子字曰児嶋

    思家登 情進莫 風候 好為而伊麻世 荒其路

    いへおもふと こころすすむな かざまもり よくしていませ 

    あらしそのみち

② 題詞から検討します。一般に、次のように読み下されています。

 「筑紫の娘子、行旅(たびひと)に贈る歌一首  娘子の字(あざな)は児嶋(こしま)と曰ふ」

 贈った人が記され、歌の作者は記されていません。贈った相手が誰か、例えば官人かどうかにも触れていない表記です。

 歌を贈った人物である「筑紫娘子」について、諸氏は、2-1-970歌の題詞に作者として記されている「娘子」であり、2-1-972歌で詠われている「筑紫乃子嶋(こしま)」と同一人物か、と指摘しています。そうであれば、大伴旅人が大宰師であった前後の太宰府における遊行女婦の一人となります。

 このように、この題詞における「筑紫娘子」という表記は、個人の名ではなく、「筑紫」に居る「娘子」という普通名詞です。

③ 次に、「行旅」について、土屋文明氏は「大宰官人等などであらうか。或は旅人上京の時、其の従者等に贈ったものと想像してよいかも知れぬ。其の時(天平2年冬12月)の旅人の従者や坂上郎女等は海路上京したことが知られている。」と指摘しています。

 熟語として「行旅」は「旅人。行客」と「たび。旅行」の意があります(『大漢和辞典』)が、珍しい部類の熟語です。土屋氏は、前者の「旅人。行客」と理解しています。

 歌本文をみると、二句「情進莫」、三句「風候」、四句「好為而伊麻世」と旅行の途次に生じ得る事柄へ注意に触れていますので、「行旅」とは「こうりょ」と訓み「旅の行程全体、上京であれば大宰府から都に到着までの間」という意の和語ではないかともみることができます。 

 そのような意に「行旅」を用いた倭習漢文とみれば、読み下し文は、次のようになるでしょうか。

 「筑紫の娘子の贈る行旅の歌一首  娘子の字は児嶋という」

 なお、題詞は、歌本文を検討後に再度検討する予定です。

④ 歌本文を検討します。

 土屋文明氏は、歌本文の五句を「あらきそのみち」と訓み、大意を、次のように示しています。

 「故郷の家を恋ひ思ふといふので心はやり給ふなよ。風まもりをよくして行きたまへよ。荒い其の路をば。」

 伊藤博氏は、題詞にある「行旅」を「こうりょ」と訓み、「旅行者。ここでは都へ帰る人」の意として、題詞を「・・・行旅に贈る歌」と読み下し、次のように現代語訳しています。

 「家郷を思うあまりにお心をせかせなさいますな。風向きをよく見きわめていらっしゃいませ。荒うございますよ、大和への海路(うなじ)は。」

 両氏は、官人やその家族や従者のうち海路で上京する人々に贈られた歌(送別の挨拶歌)であり、ただただ、道中安全に、と詠う歌、とみています。そして、道中の目的地にあるのが「故郷」、「家郷」であるという理解をされています。

⑤ 初句にある「家」(いへ)とは、『例解古語辞典』に、「家族の住む場所」、「家がら・家系」、「良い家柄」、「(仏門にはいっていない)普通の人が住む家。俗世間」とあります。

 漢字「家」の意は、「aいえ b家をかまえる cおっと(夫) dつま(妻)」などの意があり(『角川新字源』)、その「aいえ」は、次のような説明があります。

「すまい・住居」、「たてもの・みせ」、「家族・「一家」」、「いえがら・「良家」」、「くらし・世帯」

 両氏は、それを「故郷」、「家郷」と意訳しています。

 この歌を、上京する官人の家族に贈った場合は、贈った人物からみて「家」とは「あなた方の家・屋敷」の意となり、単身赴任者に贈った場合は「あなたの妻、家族、」あるいは「あなたの家・屋敷」と理解されたと推測できます。

 「筑紫娘子」が贈る際に面前で朗詠をするのですから、「家」(いへ)と表現(発音)に拘らず、贈る相手が「思う」であろう対象をもっと具体的な言葉にして朗詠するのではないか、と思います。

 だから、この歌は、伝承された歌の、後から生まれたあるバージョンの歌ではないか、と思います。

 その伝承歌を最初に検討したい、と思います。

⑥ なお、陸路での上京を前提として、道中安全を詠う歌も『萬葉集』にあります。五句が2-1-384歌と同じです(左注における()は通例の読み下し文)。

2-1-570歌  太宰大監大伴宿祢百代等贈駅使歌二首 (2-1-569~2-1-570歌)

   周防在 磐国山乎 将越日者 手向好為与 荒其道

   すはにある いはくにやまを こえむひは たむけよくせよ あらしそのみち

   左注:右一首少典山口忌寸若麻呂  

     以前天平二年庚午(かのえうま)夏六月 帥(そち)大伴卿忽生瘡脚疾苦枕席

     因此馳駅(ちやく)上奏 望請庶弟稲公姪胡麻呂欲語遺言者

     勅右兵庫助大伴宿祢稲公治部少丞大伴宿祢胡麻呂兩人 給駅発遣令看卿病

     (はゆまをたまひて、つかはし、卿のやまひをとりみしめたまふ)

     而径数旬幸得平復 于時稲公等以病既療発府上京 於是大監大伴宿祢百代

     少典山口忌寸若麿及卿男家持等 相送駅使共到夷守駅家

     聊(いささかに)飲悲別乃(すなわち)作此歌

 2-1-570歌は、疾患した大宰師大伴卿が規定に従い上奏し、それに応じて派遣されてきた使者(駅使(はゆまづかひ)。急使)が、任務を終えて帰京する際の送別の歌です。急使は、平安京大宰府の間を4,5日で走るそうです。

 当時、大宰師など重要な役職である官人は、陸路での往復が義務付けられていました。

 歌に、峠のある山の名を一つ詠いこんでいます。目的地の情報は歌にありませんが、復命しなければならない駅使の立場では、平城宮が目的地であるのは、題詞と左注によって明らかです。

 歌にある「磐国山」は『萬葉集』ではこの歌にのみ登場する山名です。山陽道の駅名に周防国の石国(岩国市関戸付近)があります。歌に用いている「磐国山」という表記は、「荒其道」に結び付けるための文字遣いなのでしょうか。なお、現在の「岩国山」とは位置が違うようです。

⑦ この二つの歌を比べると、2-1-383歌のほうに、歌を贈った人の心遣いが豊かに感じられます。それはともかく海路か陸路かにより別の歌が披露されたことになります。

 土屋文明氏が、2-1-971歌に関して、次のように指摘しています。

 「2-1-971歌の左注に「自吟振袖之歌」とあるのを見ると、これらの歌は「振袖之歌」と呼びならはした別離の曲にあった如く見える。大宰府官の解任上京を送るために誦する慣ひとなって居たものであらうか。」、

 「或いは在来の曲に若干の創意を加へたものと見るべきであらうか」

 このように、大宰府を出発する官人への送別歌には、パターン化された歌もいくつか既にできていたのでしょう。ちなみに「振袖之歌」は海路陸路どちらで上京されるとしても、披露できるのではないか。

⑧ ところで、2-1-384歌の初句「思家登」の「家」は、「あなたの家」であっても、その人物が船の乗組員であるならば、大宰府管内に「家」があることになり得ます。この場合、この歌を贈った人物の「家」ともなる、ということであり、二句「情進莫」とは、別れてきた家族の心配はするな、の意になり得ます。

 元資料の元々の原歌を推測すると、五句が「あらきこのうみ」であって、玄界灘へ船出する人々(漁民や海外貿易に従事する人たち)の家族や上司が詠った歌であったのではないか。

 そして、この歌は、徴用された役民を、家族知人が見送る歌ともなり得ますし、(租・調である)公物を都へ搬送する船の乗組員を見送る歌ともなり得、そして、官人の上京を見送る歌ともなるにあたって五句が「あらき(し)このみち」に替わったのではないか。

 2-1-384歌の元資料の原歌は、次のような大意の歌ではなかったのか、と思います。

 「家族のことに、気持ちを集中しすぎないように。天気・風の向きに気を付けて、船を操ってくださいな、これから行く海路は。」

 海に出たら、陸のことは忘れて、気象の変化と操船に集中せよ、という教訓歌にもなっています。

 歌本文の三句にある「風候」とは漢字の熟語としては、「気候」、「風の吹き具合」、「風の方向を計る器具。かざみ」の意があります。

⑨ そのような元資料の原歌を、大宰府を出発する人物に対する送別の歌に利用しようとすると、上記⑤で指摘したように、贈る相手によって用いる語句を、例えば次のようなグルーピングで考えたことと思います。

第一 単身赴任の官人であって海路で上京できる人達

第二 大宰府に家族を同道してきた官人であって海路で上京できる人達とその家族

第三 大宰府まで同道してきた従者とその家族

第四 船の乗組員で大宰府管内に住む人

第五 船の乗組員で他国の停泊予定地出身の人

第六 船の乗組員の家族知人で便宜を図ってもらって乗船する人

第七 罪人と護送する官人

大別すると、官人か否かとなります。

 上記グループごとに、初句の「思家登」の「思家」と五句の荒其路の「其路」は、適切な語句が選ばれたのではないか、と思います。

⑩ 題詞に、歌を贈った人物として筑紫娘子とあるのは、男が船に乗り込むという前提の歌として、原則女が朗詠する歌ということを示しているのかもしれません。

 元資料の原歌の作詠時点は、このため不明となります。元資料の成立も伝承歌であるので、普通名詞の人物は、特定の時点の特定の人物というわけにゆかないと思います。

2-1-384歌の元資料の歌は、このような歌である、と理解できます。

⑪ さて、巻三の雑歌としての検討です。

 この歌は、官人が記録した歌です。官人が作った歌ではありません。そして、この題詞は、上記②で指摘したように、普通名詞の女性「筑紫娘子」が、この歌を贈った、と記しており、相手も特定していない漢文です。

 最初に、題詞を検討します。

 伝承歌の検討時(上記⑨)にならい、贈った相手を、大別官人の送別の歌かあるいは船組員の送別の歌かを、検討します。

 前者に理解して巻三編纂者がここに配列したとすると、2-1-570歌のように贈る相手を明確にした題詞になるのではないか。送別の歌である2-1-552歌や2-1-558歌や2-1-970歌などは相手を明確に記しています。

 だから、後者の歌としてかつ官人からみれば無名に等しい人物に対して用いた歌として、巻三編纂者はここに配列したのではないか。

 そうであると、題詞にある「行旅」とは、旅人の意よりも無名に等しい人物の「旅の行程全体」であり、元資料の原歌の趣旨が残っている、とみて、詞書を倭習漢文として、現代語訳を試みると、次のとおり。

 「筑紫の娘子が贈った旅行の心得の歌一首  (後注:娘子の字は児嶋という)」

 「筑紫娘子」の個人名を明記する必要を巻三の編纂者は感じていなかった、と思います。「娘子字曰児嶋」は後人が官人に贈られた歌と理解したことからの注であろう、と思います。

⑫ 次に、歌本文の検討です。

 初句にある「家」は、出発する人物の同道していない家族と意として、現代語訳を試みます。

 「家族のことに、気持ちを散らさないで。天気・風の向きに気を付けて、船を操ってくださいな、荒々しいのが常なのが海の路ですから。」

 当時の船は、風待ちをしつつ航海しており、また、波がたてば揺れも大きかったのでしょう。

 この歌は、題詞にある「筑紫(娘子)」により、旅の出発地は大宰府(管内にある湊)であろう、と想像できます。行く先は、官人が客として乗船していれば、平安京(に近い大阪湾の湊)でしょう。しかし、官人に贈ったと題詞にあるわけではありません。行く先は、色々ある、と示唆している題詞です。

 この歌は、船旅に出発する無名の誰かに、その家族か知人が(同行しない立場で)贈った歌が、この歌ということになります。そして、贈った「筑紫娘子」は伝言を頼まれた人物という位置付けになります。

 また、もともとは伝承歌であるので、歌本文をみても、特定の時代にのみ結びつくような語句はありません。

 そうすると、この歌は、時代を問わずどの天皇の御代でも朗詠できる歌といえます。

上記①に示した「題詞のもとにおける歌意で「聖武天皇以降の天皇」の代に関する歌という可能性」があり、「その天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌」と言ってよいので、この歌は、四つ目のグループの歌になり得ます。

⑬ 今、この歌の前後は、配列などより、聖武天皇以降の天皇を象徴する「寧楽宮」に居られる天皇の代の歌と予想しており(上記「①」)、直前の2-1-382歌、2-1-383歌もその予想通りでした。

 そして、この歌に暗喩があるとすれば、巻三雑歌の天皇の代を意識した4つ目のグループの歌として、今上天皇から次の天皇への代替わりを示唆しているのではないか。

 この歌を贈られた人物を、今上天皇とみると、天皇家の家族や官人とも別れて船出する、としたら、あの世です。それを官人の立場から示唆しているのがこの歌ではないか。天皇が統治するという体制そのものは、律令とそれを施行する官人の確たる意思により何の心配もありません。「情進莫」と詠っている所以です。

⑭ 無名の人物が天皇に準じる人物を示唆している例は、以前に検討した2-1-418歌がそうでした(ブログ2022/2/28付け参照)。巻三の挽歌の筆頭歌で、「上宮聖徳皇子出遊竹原井之時見竜田山死人悲傷御作歌一首」と題する歌でした。

 巻三の挽歌は、巻二の挽歌の部と同じ発想で配列されています。この歌は、表面上は助ける人もなく家族とはなれ一人逝く人物に対する挽歌として素直に理解できる歌です。

 聖徳太子は皇太子のままで生涯を終わっているので、巻三の編纂者は皇子として無念であったろうから歌本文の「行路死人」に、近い将来の自分の姿を重ねた歌であるとして、挽歌の筆頭歌においている、と指摘したところです(付記1.参照)。筆頭歌であって、挽歌の対象である竜田山死人(非皇族)が、天皇にとり送魂の歌を贈るべき人物を暗喩していました。

⑮ 歌と天皇の各種統治行為との関係を、表E作成時には、官人またはその家族の入京時の歌として「C」(天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(Dを除く))としています。

 しかし、ここまでの検討の結果、この歌は、筑紫娘子が作った歌ではなく伝承歌と認められるので、歌と天皇の各種統治行為との関係は、「関係分類I」(天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を歌う歌群)に、変更します。

⑯ 大伴旅人が呼び寄せたという坂上郎女もその従者もこのような歌で送別されて大宰府を出発したと思います。

 2-1-3412歌の題詞によれば、大宰師大伴卿が天平12年12月大宰府を出発するに先立ち、同年11月傔従等は別途海路経由による出発をしています。2-1-968歌の題詞によれば、坂上郎女は同年11月に師の家を出発した、とあります。

 坂上郎女は、大宰師大伴卿を大宰府に残して平安京に向かったのです。

 このような歌を出発にあたり贈られた坂上郎女は、改めて大宰師大伴卿に健康上の注意を促したと思います。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 次回は、2-2-385歌から検討します。(2022/6/6   上村 朋)

付記1.巻二と巻三の挽歌の筆頭歌について

① ブログ2022/2/28付けの「19.⑯」 で次のように指摘した。

② 巻三の筆頭歌は、「天皇にとり送魂の歌を贈るべき人物を暗喩している」歌。巻二の筆頭歌も同じ。

③ 巻二と巻三の筆頭歌は、次のような共通点がある。

第一 皇位継承も十分可能であった皇子が筆頭歌を詠うこと

第二 挽歌の対象(有馬皇子も、行路死人も)は、今上天皇に悪意を持たず、初志が実現していない死者であること

④ 『萬葉集』における題詞は編纂者が作文しており、元資料の歌の組合せは編纂者の意図による、と推測できる。

(付記終わり 2022/6/6   上村 朋)