前回(2022/7/11)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 何を詠うか 萬葉集巻三の配列その12」に続き、今回「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 雖も 萬葉集巻三の配列その13」と題して記します。
歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋)
1.~23.承前
『萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、各歌について判定した表E(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を得ました。そして、「関係分類A1~B」の歌30首は、天皇の代を意識した4つのグループに分かれました。それ以外の歌においても2-1-386歌まで順に各グループに分けられることを確認しました。
各グループは天皇の代の順に配列されており、各筆頭歌は、2-1-235歌、2-1-290歌、2-1-315歌および2-1-378歌です。
24.「分類A1~B」以外の歌 2-1-387歌の「雖」
① 巻三雑歌の天皇の代を意識した4つ目のグループは、聖武天皇以降の天皇を象徴する「寧楽宮」に居られる天皇の代の歌、と予想しているところです(ブログ2022/3/21付け「3.③」参照)。
「その天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌」という判定は、前回同様に、題詞のもとにおける歌意で「聖武天皇以降の天皇」の代に関する歌という可能性で判断することとします。ほかの代の可能性の有無は関係ありません。
② 2-1-387歌の検討を続けます。歌は、次のとおり。
2-1-387歌 山部宿祢赤人歌一首
吾屋戸尓 韓藍蘇生之 雖干 不懲而亦毛 将蒔登曽念
わがやどに からあゐまきおほし かれぬれど こりずてまたも まかむとぞおもふ
伊藤博氏などは、題詞を「山部宿祢赤人のうたう歌 一首」と理解し、歌本文の二句を「韓藍種生之」に改めたうえで論じています。(『新編国歌大観』は上記のように「韓藍蘇生之」を「からあゐまきおほし」と訓んでおり訓は同じです。)
前回、題詞の一次検討をし、歌本文二句にある「韓藍」はケイトウのほかにいくつかの示唆・暗喩が可能であり、歌本文に用いられている漢字「雖」には確定の助字と仮定の助字の意があることを指摘しました。
③ その検討を、続けます。
三句「雖干」の訓、「かれぬれど」は、
下二段活用の動詞「かる」の未然形+完了の助動詞「ぬ」の已然形+接続助詞「ど」
です。「かる」は同音異義の語句です。一般的には「枯る」と理解されています。
枯る:下二段活用 a植物が枯れる。虫などが死んでひからびる。b(声が)しわがれる・かすれる。
離る:下二段活用a(空間的に)離れる。遠ざかる。b(時間的に)間遠になる。足が遠くなる。c(心理的に)男女の仲が疎遠になる。心が離れる。
乾る・涸る:下二段活用 かわいて水気がなくなる。干あがる。
駆る・駈る:四段活用 a追いたてる。狩りたてる。bしいてさせる。促す。c(馬や車を)走らせる。いそがせる。
刈る:四段活用 密生した草などを、刃物で切り取る。かる。
借る:四段活用 借用する。
狩る:四段活用 a(鳥獣を)追い求めてつかまえる。b (花や草木などを)捜し求めて鑑賞する。
があります(『例解古語辞典』)。
「かる」に多義あるので、三句は、助字「雖」の意(過去への言及か、将来への言及か)をも踏まえた理解が必要です。
④ また、漢字「干」の意は、いくつかあります。しかし、漢字「「干」の訓にない「かる」とここでは訓んでいます。二句と三句「韓藍蘇生之 雖干」は倭習漢文とした意訳が訓となっているかに見えます。
なお、漢字「干」の意は次のとおり。(『角川新字源』)
おかす:おしかけて行って人にもとめおかう意。a分を越えて行う・しのぐ。bさからう・そむく。
もとめる:自分からおしかけて無理に求める。
あずかる:与
たて:盾
ふせぐ・まもる:
ほす:かわかす。
ひる:かわかす。
えと:十干の総称
などなど
⑤ さて、「雖」を、確定の助字として歌本文を(二句「韓藍蘇生之」は「韓藍種生之」の表記として)考えると、伊藤氏の大意が得られます。再掲します。
「吾が家の庭に韓藍を蒔いて育てて、それは枯れてしまったけれど、懲りずにまた蒔こうと思います。」
作中人物は、自らが韓藍(ケイトウ)を育てたか育てるのを指示し、(その花を楽しむ前に)枯れてしまったことを確認したが、またチャレンジすることを決意表明している、と理解できます。花を楽しめたとすれば、「懲りずに」また蒔くという表現をしないでしょう。
元資料の歌として検討すると、ケイトウの花が終わるころ(秋深まって)の実景を詠っているとみられ、何かの贈答の際、屋敷内のちょっとした変化を伝えようとしている挨拶歌か、と推測できる歌です。
ケイトウに寄せて何かを詠っているとみると、諸氏が指摘しているように、「韓藍」は恋の相手を寓意、ということが第一に考えられます。
作中人物は、「韓藍」が枯れてしまったことを確認しているので(残り火があるとも詠っていないので)、四句以下で諦めない気持ちを詠っているのは、今日の付きまといと同じであり、恋愛の歌としてはいかがかと思います。恋愛の歌にこの歌は用いられないのではないか。
⑥ 次に、題詞によれば、作者(作中人物)は山部赤人か同じ官人と判断できますので、元資料は宴席の歌の可能性があります。
その場合、面前で歌を披露するのですから、「雖」を、確定の助字として理解してよい、眼前の出来事か既定の事に関する話題の提供があったはずです。二句にある「韓藍」は、ケイトウの意ですが、必然的に何かを暗喩していることになります。
ケイトウの蒔き時が限られているので、歌は、来年を期す、という趣旨を含意する歌となるのではないか。
眼前の出来事等とは、「韓藍」が「新到の注目されている植物」であるので、例えば新たにできた役職関係の人事なのでしょうか。拡充される行事への参加の有無なのでしょうか。「韓藍」とは、その眼前の出来事等かその類似の事を示唆していると理解が可能な歌とである、といえます。
⑦ 「雖」を、仮定の助字として歌本文を考えると、伊藤氏の大意を参考にして、つぎの仮訳が得られます。
「吾が家の庭に韓藍を蒔いて育てて、それが枯れ(ることになっ)たとしても、懲りずにまた蒔こうと思います。」
初句~三句が、四句以下を言い出す仮定の条件という理解となります。「枯れた」とは、花を楽しむ前に枯れた、という意です。気を付けて育てないと花が咲かないことがあるのが「韓藍」(ケイトウ)であり、初句~三句は、その生育過程の重要性を作中人物は強調していることになります。
この歌は、気を付けて育てても花がさかないことがあるけれど、それを承知のうえで繰り返し、チャレンジすることを決意表明している、と理解できます。
⑧ 元資料の歌としては、「雖」が確定の助字の場合と同様に、贈答の際の歌とも推測でき、また、恋の歌として、諦めない気持ちを詠っている、とも推測できる歌といえます。但し、同時にもっと相手の情に訴える歌をも贈る必要がある歌です。ケイトウの蒔き時が限られているのですから。
元資料が宴席の歌の可能性もあります。面前で歌を披露するのですから、「雖」を、仮定の助字として理解してよい、眼前の出来事か既定の事か今後の事に関する話題の提供があったはずです。今後の事とは、今日でいえば、明日のひいきチームの勝負予想とか注目の事件の展開予想とか過去の類似の事件の推移などなどが該当するでしょう。
そして、二句にある「韓藍」は、ケイトウの意ですが、必然的に眼前の出来事等を暗喩していることになります。
「韓藍」の「韓」により「新到の観賞用の植物」を意味する「韓藍」には、「近い過去に渡来した人物たち」や「新人(例えば官人生活を蔭位でスタートできる人物で優秀な者)」の意を含めることができます(前回ブログ2022/7/11付け参照)。
宴席において眼前の出来事等には、「近い過去に渡来した人物たち」や新人の官人に関することも有り得ます。
⑨ 「雖」を仮定の助字としての仮訳は、次の意を含み得ます。
「吾が家に居る近い過去に渡来した人物たちを育てて、それがうまくゆかないとしても、懲りずにまた育てようと思います。」
「吾が家族のある人物を、養育しても、かならずしもうまくゆかないものであって、また別の人物に注目して懲りずにまた育てようと思います。」
前者の仮訳において作中人物は、「近い過去に渡来した人物たち」でないことになます。
後者の仮訳において作中人物は、氏族の代表格で活躍している人物とか皇族で子らの臣籍降下を願っている人物が想定できます。
どちらの場合も作中人物は天皇や皇后・妃ではない、官位を持つ人物と言ってもよいので、題詞の文章にある人物と矛盾しません。
⑩ このように、多義のある「かる」を「枯る」と理解した場合、「雖」を確定の助字と訓んでも仮定の助字と訓んでも、歌は成立します。別の意での可能性の有無は確認を要します。ほかの同音異義の語句も確認を要します。
次回は種々なる意を検討します。
ブログ「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただきありがとうございます。
(2022/7/18 上村 朋)