わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 国見する山 萬葉集巻三配列その11 

 前回(2022/6/27)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 登筑波山とある題詞 萬葉集巻三の配列その10」に続き、今回「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 国見する山 萬葉集巻三の配列その11」と題して記します。歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋) 

1.~21.承前

 『萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、各歌について判定した表E(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を得ました。そして、「関係分類A1~B」の歌30首は、天皇の代を意識した4つのグループに分かれました。それ以外の歌においても2-1-384歌まで各グループに分けられることを確認しました。

 各グループは天皇の代の順に配列されており、各筆頭歌は、2-1-235歌、2-1-290歌、2-1-315歌および2-1-378歌です。

22.「分類A1~B」以外の歌 2-1-385歌その2 助動詞「かも」と国見する山

① 巻三雑歌の天皇の代を意識した4つ目のグループは、聖武天皇以降の天皇を象徴する「寧楽宮」に居られる天皇の代の歌、と予想しているところです(ブログ2022/3/21付け「3.③」参照)。

 「その天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌」という判定は、前回同様に、題詞のもとにおける歌意で「聖武天皇以降の天皇」の代に関する歌という可能性で判断することとします。ほかの代の可能性の有無は関係ありません。

② 2-1-385歌(長歌)と2-1-386歌(反歌)の検討を続けます。題詞と歌本文は付記1.に記します。

 前回、この長歌反歌の題詞にある「筑波岳」に、別の意が付与されていたらそれは巻三編纂者のみの意図と理解することが許される、と推測しました。

 そして次のことも分りました。

第一 当時、筑波山は、官人には、美濃国以東では富士山と並んで有名な山であり、歌垣が行われた山であり、二つの峯のある山である、として知られていたこと。

第二 常陸国に赴くと、筑波山は南北にある山地の北よりにある主峰であることが分かり、その山地をその麓を含み「筑波山」と称して官人は歌に詠ったこと。

第三 『萬葉集』において、筑波山を題詞に表記している6題とそのもとにある歌本文の元資料では、筑波山」の表記に別の意も付与している歌があり、 『萬葉集』の各部立てに配列された歌においても筑波山の表記に別の意もあると十分推測できる歌があったこと。

第四 2-1-385歌の作者が、実際に筑波山山頂に登って作った歌とする根拠は、倭習漢文である題詞だけでは心もとないが、歌本文では山頂に着いたという事実が表現されていること。

第五 2-1-385歌と2-1-386歌において、山頂における行動や感動はなんら記されていないこと。

第六 2-1-385歌と2-1-386歌の元資料においては、「筑波山」に別の意は付与されていないこと。

③ この歌2-1-385歌が、巻三の部立て雑歌にあるがために、筑波山の表記に別の意が付与されているかどうかを確認します。

 前回は歌本文の検討を優先していたので、題詞を改めて検討します。

 最初に、元資料の歌の作詠時点の確認です。題詞に明記されていません。

 伊藤博氏は、『萬葉集』について、巻十六までを第一部として、最も新しい歌は天平16年(744)7月20日の日付をもつ歌としています(万葉集の構成その1:『萬葉集の歌群と配列 下 古代和歌史研究8』(塙書房 1992): 第十章より)。

 氏の論を前提とすると、この歌は巻三にある歌なので、天平16年(744)7月20日以前に元資料は詠まれた(披露された)ことになります。

 巻三雑歌のこの歌の前後に配列されている歌本文と題詞には、大伴坂上郎女作の歌(2-1-382歌および2-1-383歌)があるのでその歌と同時代か、という程度(左注を信じれば大伴坂上郎女歌は天平5年冬十一月の作詠)、あるいは(伝承歌を除き)時系列の配列ならばそれ以降と推測できます。

④ 元資料の題詞は現存していませんので、巻三雑歌に配列する際の題詞しか参考にできません。

 巻三の編纂者は、

「登筑波岳丹比真人国人作歌一首 并短歌」

と作文しています。読み下すならば、

「筑波岳に登りて丹比真人国人の作る歌一首 ならびに短歌」

となります。

 この文章が、元資料に拠っているという仮定を置くと、一緒に登る人物も、作詠時点も記さないなど作詠事情は歌本文に委ねている、という姿勢での作文を巻三の編纂者はしています。

 山部赤人作の2-1-375歌(2022/4/25付けブログ参照)や大伴坂上郎女作の2-1-382歌(2022/5/30付けブログ参照)の題詞を作文する姿勢と同じであるならば、この題詞は、巻三の編纂者にとり歌の理解に十分な情報が入っている文章ということなのでしょう。

 諸氏の検討の殆どは、作者が常陸国に赴任していた場合に限定されています。しかし、筑波山に関する一般的な知識があれば、この歌は、どこに居ても誰にでも、詠める内容ではないかと思える歌です。

⑤ 作者名はその題詞に「丹比真人国人」と明記されていますのでその履歴から作詠時点を再度検討します。

 『続日本紀』によれば、丹比真人国人は、天平10年(738)閏7月7日に従五位上で民部少輔となり、天平18年(746)4月22日に正五位下となっていますので、天平16年には従五位上の位階であることになります。

 養老律令の官位令によれば、常陸国守は従五位上、介が正六位下、及び大掾正七位上です。このため、丹比真人国人には天平16年までに常陸守、常陸介、あるいは常陸大掾に着任した可能性がありますが、確かめられません。臨時の任務についても確かめられません。

 結局、この歌を作者が披露した時点(あるいは作詠時点)は天平16年以前ということまでです。上記③の検討結果と変わりません。そのとき作者がどのような立場で、どこに居たのかは、未だに分かっていません。

⑥ 披露した(作詠した)時点に、作者がどのような立場で、どこに居たかを推測できれば、どのような事情で作詠することとなったのかがわかるかもしれません。

 常陸国にある山に実際に登ったとしたならば、そのとき国内の東国・常陸国にいたことは確かなことです。

 詠われている登山は、歌本文によれば(時季を選んだ)管内巡察時ではなく、「時敷時(跡)」(2-1-385歌)と表現される臨時の登山です。

 作者の「丹比真人国人」が常陸守の時であれば、通常の事務執行にあたっての登山は、一人だけで登る訳ではありませんから「時敷時(跡)」の登山を立場上避けるでしょう。年中行事のひとつとして春になれば管内巡察があったのではないか。今日のようにスポーツとして個人的に登山するとしても公人として立場上一人で登ることは禁じられているはずです。

 作者が常陸介か常陸大掾であっても事情は同じです。

⑦ だから、臨時の登山というのであれば、作者は受け身で登ったのか、ということになります。題詞にも、2-1-385歌と2-1386歌の歌本文にも、誰と登ったかに触れていないので、この推測は可能です。

 例えば、元資料の歌は、誰かが常陸国に来て登山の申し出があり、それに対して、常陸国に着任している官人として案内・接待のための歌ではないか、という推測です。

 歌本文をみると、登る理由を、「時敷時跡 不見而徃者 益而恋石見」(ときじきときと みずてゆかば ましてこほしみ)と記し、はじめての登山の時の歌として詠んでいます。そうすると、この歌は常陸国に着任している官人が、登りたい人の代作をした、と理解するほかない内容の歌という理解になります。この場合は事前に長歌反歌を用意する時間があるでしょう。

 元資料の題詞や作詠事情の記録は現存していませんので、巻三雑歌に配列する際に作文したと思われる題詞しか参考にできません。

 その題詞の文章からこの歌は代作である、と直ちに断言できないのが難点です。この歌を代作したとすると、登る理由からして、登った山頂での思いを詠う歌があって然るべきと考えられます。その歌(あるいはその代作らしき歌)は『萬葉集』にありません。雪の消えない時期の筑波山の山頂に到着したときの歌は巻九までにもありません。

 もっとも、ペアの歌であって一方がない、という例は同じ「登筑波山」の歌で、巻九にあります(2-1-1756歌と2-1-1757歌)。

⑧ このほか、案内・接待のための歌を、作者が受け身で詠むというケースに、常陸国庁での宴席などにおいて、筑波山が話題となった際、登山の状況を想像し説明した歌ということが想定できます。

 そうであれば、それでも登ろうという応答と、それは大変だからしぶしぶ諦めようという応答のどちらかの歌の応酬がその席であるでしょう。実際は登らないのですから、どちらの応酬であろうと伝承歌などからその宴席にふさわしい適当な歌が選ばれて披露されるということもあるでしょう。あるいは反歌がその応酬歌の短歌であったかもしれませんが、長歌と一体の反歌とみて検討します。

 しかし、長歌反歌に仕立てて即興でこのような歌が披露されるのでしょうか。宴席での披露であれば機会を捉えて披露されたと見るべきです。理由はわかりませんが予め作詠されていた歌となってしまいます。

 この場合も、題詞から代作という理解が可能ということが条件となります。

⑨ また、作者が臨時に常陸国に派遣されてきた場合も検討しなければなりません。作者「丹比真人国人」が、このような歌を詠うケースを想定すると、2ケースあります。

 第一 実際に「時敷時(跡)」でも登山を希望し、実行した際の歌

 第二 常陸国庁での宴席などにおいて、筑波山が話題となった際、登山の状況を想像した歌

 第一のケースであれば、この歌(長歌反歌)だけでなく、作者は登ったあとの喜びを同じように長歌反歌に詠うのではないか。それは案内してくれた官人への感謝を表すことでもあり、それが『萬葉集』にないのは、この想定が誤りであるか、巻三編纂者が省いたかのどちらかです。なお、題詞の理解とこの解釈は矛盾しません。

 第二のケースであれば、挨拶歌として、皆さんは登れてうらやましい、というあらかじめ用意した長歌反歌ということが想定できます。このあとの応酬は上記⑧と同様になるでしょう。

 「時敷時(跡)」の登山を詠う歌であるので比較すれば第二のケースに可能性を感じます。

⑩ さらに、作者「丹比真人国人」は別の役職等で都あるいは常陸国以外の地に居た場合も検討しなければなりません。

 当時筑波山は有名な山でしたので、何かの行事や宴席で、常陸国筑波山の様子が話題になった際などに登山の苦労を詠った、という想定が可能です。あるいは、常陸国に着任した官人への手紙に付した歌か、という想定です。

 この歌は、作者「丹比真人国人」の実際の経験であるかもしれませんが、登山の様子を聞かされただけでも詠えない訳ではありません。歌本文(付記1.参照)をみると、登山したその日の本人固有の感慨が一般的な表現に収まっているかにみえ、この想定を全否定できません。また、題詞の理解とこの想定は矛盾しません。

唯、登山に適した気候の良い時の歌でないのが、話題となったその場の雰囲気にあっていたのかが気になります。

 なお、都に居て伝聞を聴いてから詠った歌は、例えば巻三に、2-1-246歌から2-1-249歌(2022/3/28付けブログ参照))があります。

⑪ このように元資料の歌を作詠した作者「丹比真人国人」の三つの立場を整理すると、次のようになります。

 第一 常陸国に既に作者が着任していれば、常陸国を訪れた人物の代作の歌となり、即興で詠ってよいものかという点が課題である。

 第二 臨時に常陸国に作者が訪れた際であれば、長歌反歌で一組の歌を、挨拶歌としてあらかじめ準備して披露できる。

 第三 常陸国以外(例えば都)に作者が居ての作詠であれば、長歌反歌で一組の歌なので、あらかじめ準備された歌として披露できる。

 第二の想定であれば、その時の常陸国守に何かを訴える歌でしょう。題詞にある「筑波岳」は、「常陸国にあるあの有名な筑波山」という実際の山の名前であり、元資料の歌として、一見別の意があるとは思えません。

 当時の筑波山のイメージの範疇をはみ出た表現は、「国見為 築羽乃山(矣)」です。これは、臨時に訪れた際の挨拶歌として、その時期の様子を織り込んで筑波山に登りたいもの(善政を天皇に奉告したい)、と詠ったのか、と思います。

 第三の想定であれば、誰かに何かを訴える歌でしょう。しかし、筑波山を恋の相手とみなして相聞の歌と理解するのは難しく、常陸国に着任している官人と消息を交わす手紙に記した歌とか、私的な宴席での歌なのでしょうか。

「国見為 築羽乃山(矣)」という表現は、常陸国に着任している官人には第二と同様な意で、私的な宴席での歌ならば、異な感じを持ちます。

 作者「丹比真人国人」の履歴でこれらの想定に相当するものの記録が現在知られていませんが、具体的なケースを想定すると、誰かの随行常陸国に行ったのか(その誰かの代作歌か)、常陸国に赴任した知人への手紙に記したか、というところではないか。

 作詠時点は不定ですが、作者「丹比真人国人」が自ら詠う機会を絞り込むことが出来たと思います。

⑫ 次に、雑歌の部立てにある題詞のもとにある歌、として理解するならば、天皇との関係を見る必要があります。

 筑波山の当時のイメージ、「富士山と並ぶ有名な山」と「歌垣が行われた山」と「二つの峯のある山」(上記②第一)の三つのうち、「富士山と並ぶ有名な山」であることを、この題詞は強調しているのではないか。

 筑波山の表記が、歌本文の「築羽乃山」から、題詞では、「筑波岳」とあり、わざわざ「岳」字を用いています。

 巻三における題詞の作文のタイプで「(官位)人物名+登・・・+作歌〇首」とあるのは、既に指摘したように3題あります。

 2-1-327歌 登神岳山部宿祢赤人作歌一首 并短歌

 2-1-375歌 山部宿祢赤人登春日野作歌一首 并短歌

 2-1-385歌 登筑波岳丹比真人国人作歌一首 并短歌

 前2題は天皇に関する歌でした(ブログ2022/3/21付けの「付記1.表Eの注4」及びブログ2022/4/25付け参照)。

 「有名な山」とは、天皇との関係では、天皇制のトップの地位である「天皇位」の暗喩ではないか。

 そうすると、題詞において、「登筑波岳」、とあるのは、天皇位に昇る、ということになります。歌本文には末句「名積叙吾来前一」のように「(山に)来る」という表現がされ、「登」字は用いられておらず、題詞のみに表記されています。元資料の歌に関係なく作文されているようにも見える題詞(倭習漢文)となっています。

 元資料の歌を巻三の雑歌としてここに配列しているのは、巻三の編纂者ですので、天皇位の代名詞と筑波山をみなすのは、編纂者の意図ということになります。

⑬ 筑波山天皇位の代名詞とみると、歌本文は、どのように理解できるか。用いられている語句についてみると、次のとおり。

 長歌において、

 第一 五句目からの「明神之 貴山(乃)」(ふたかみのたふたきやま)とは、「祖先神と今上天皇」を意味できます。天平頃かそれ以前の作詠ですのでこのようにみなせます。

 第二 十一句目からの「国見為 築羽乃山(矣)」(くにみする つくはのやま)とは、「国見をする天皇」をも含み得ます。

 第三 末句の「名積叙吾来前一」(なづみぞわがける)の「なづむ」とは、「水・雪・草などに足腰を取とられて、先へ進むのに難渋する意」とそれから転じて「一つことにかかずらう意が(『岩波古語辞典』)。語意として「a行き悩む・難儀する b離れずにまつわりつく cひとつのことにとらわれてなやむ・こだわるdひたむきに思いをかける」をあげています。

 このため、「名積叙吾来前一」とは、「難渋しながらここにたどり着く(着いた)」の意のほか、「あることにかかずらい(こだわって)ここにたどり着く(着いた)」の意が生じ得ます。

 そうすると、「難渋しながら天皇位に昇る(昇った)」、あるいは「(なにかに)かかずらい、天皇位に昇る(昇った)」という理解が可能です。

 反歌においては、

 第十一 五句の「名積来有鴨」(なづみけるかも)とは、「かも」が終助詞であるならば、疑問の意や願望の意や反語の意と理解してもよく、

「難渋しながら(あるいは(何かに)かかずらいつつ)天皇位に昇るか?」とか

「難渋しながら(あるいは(何かに)かかずらいつつ)天皇位に昇りたい」とか

「難渋しながら(あるいは(何かに)かかずらいつつ)天皇位に昇るのかね」とか

の意味が生じ得ます。

 これらは、題詞に、誰が作者と一緒に登ったのかを記していないので、一緒に登った誰かを補うことができ、その一緒に登った誰かのこれからを予祝するような理解をこの歌に許していることになります。

⑭ これらを踏まえて、題詞とそのもとにある2-1-385歌と2-1-386歌とを、改めて、巻三の部立て雑歌にある歌として、現代語訳を試みると、次のとおり。

(題詞)「「登筑波岳」と題し、丹比真人国人の作る歌一首 ならびに短歌」

 (歌本文)

  2-1-385歌

 「鶏が時を告げる朝が最初に来る東の方角にある国々のなかでは高い山はというと多くある。そのなかで、二柱の神が並び居る貴い山として、登山されてきた山と神代より言い伝えてきた山、そして、だから、すめらみことが国見をする山である筑波山を、冬の終わりなので登山するべき時季ではないとして通り過ぎたならば、生涯筑波山を恋しく思い続けることになり、悔やまれるので、雪解けしている山路であっても困難しながら私は目的の場所まで登ってきた。」(二峯のある筑波山のように、天皇位に昇られた祖先神と今上天皇も、国見をしてこの国を治めてきている。春の直前になって何もせず時を過ごしては、悔いを残すので、難渋したここまで歩んできた。)

 2-1-386歌

  「筑波山を遠く見上げているばかりということに満足できず、雪がまだ残り雪どけの道を苦労してきたことだよ。」(どなたかが天皇位に昇られるのだ、と傍観せず、前向きに、苦難の道をなにかにこだわって歩みたいなあ。)

 

 このように、筑波山に国見する山と詠っている点が、ほかの筑波山を詠う歌と違っている歌です。

⑮ なお、元資料における反歌の「かも」は終助詞で「詠嘆」の意を表すとみて、前回は現代語訳(試案)しました。土屋氏は、五句の「(名積)来有鴨」について、「名積(なづみ)に重心を置いた詠嘆と見れば、文法的に細かく言はぬ方が反って自然であらう」と指摘しています。

 伊藤氏は、この歌について、「難渋しながら登ったとうたうのは、裏から筑波山をほめたことになる。そして、歌は、多くの物の中から一つを取り出して強調する讃歌の型を踏んでいる」と指摘して、(自身の現代語訳を前提にして)「裏からの讃歌は、表から迫るに及ばない。ここには筑波山がどんな山かの描写がなく、作者の気持ちだけが先走っている。」とも指摘しています。上記②の第五の指摘より作者の気持ちを斟酌されていますが、巻三の雑歌にある歌であり誰に披露した(あるいはしようとした)歌かという点を重視した理解をしてよいと思います。

 上記②に前回の検討結果を記しましたが、そのうち第六は次のように訂正します。

「第六 2-1-385歌と2-1-386歌の元資料においては、「筑波山」に当時の常識とは別に「国見する山」という別の意が付与されていること。」

 そして、上記③での設問「巻三の部立て雑歌にあるがために、筑波山の表記に別の意が付与されている」かについては、そのとおりでした。

⑯ 次に、この歌が、巻三雑歌の天皇の代を意識したグループのどこに属するか、を検討します。

 この歌は作者名が題詞に明記されています。作者国人が活躍したその時代は聖武天皇の御代です。

 聖武天皇は巻三の最新の歌の作詠時点である天平16年閏正月13日安積親王を失っています。それは、元資料を詠った作者の預かり知らぬことであったかもしれませんが、巻三の編纂者は、この事実から、この歌を聖武天皇以後の後継者争いに関する歌に仕立てているのではないか。

 そうすると、この題詞のもとにあるこの歌は、今上天皇である聖武天皇以後のことに関して詠っている歌、と言えます。 

 これは、前回のブログの「21.①」に記した、「その天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌」という判定は、「前回同様に、題詞のもとにおける歌意で「聖武天皇以降の天皇」の代に関する歌という可能性」によるという基準をクリアしています。

 このため、この長歌反歌は、巻三雑歌の天皇の代を意識した4つ目のグループ「聖武天皇以降の天皇を象徴する「寧楽宮」に居られる天皇の代の歌」となります。

⑯ さて、歌と天皇の各種統治行為との関係は、表E作成時は、「管内巡察時における丹比真人国人の歌」として、関係分類「C」(天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(Dを除く))としていました。

 今回の検討の結果、天皇の下命がない歌と理解できたので、関係分類を「I」(天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を詠う歌群)に変更します。

 巻三の編纂者が『常陸風土記』を意識していたとすると、風土記における神祖尊(みおやのみこと)のように歓迎されるだろうという予祝の意で、筑波山に登るだけの歌をここに配列している可能性も検討したくなる歌でした。

「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 次回は、2-1-387歌を検討します。

 コロナワクチンの4回目の接種にお出かけの際、また接種直後は、くれぐれも水分・塩分の補給や体調変化にお気をつけください。

(2022/7/4   上村 朋)

付記1.2-1-385歌と2-1-386歌の題詞と歌本文

① 『新編国歌大観』より引用する。

2-1-385歌 登筑波岳丹比真人国人作歌一首 并短歌

鶏之鳴 東国尓 高山者 佐波尓雖有 明神之 貴山乃 儕立乃 見杲石山跡 神代従 人之言嗣 国見為 築羽乃山矣 冬木成 時敷時跡 不見而徃者 益而恋石見 雪消為 山道尚矣 名積叙吾来前一

とりがなく あづまのくにに たかやまは さはにあれども ふたかみの たふときやまの なみたちの みがほしやまと かむよより ひとのいひつぎ くにみする つくはのやまを ふゆこもり ときじきときと みずてゆかば ましてこほしみ ゆきげする やまみちすらを なづみぞわがける

 

 2-1-386歌  反歌 

築羽根矣 卌耳見乍 有金手 雪消乃道矣 名積来有鴨

つくはねを よそのみみつつ ありかねて ゆきげのみちを なづみけるかも

② 2022/6/27付けブログで示した現代語訳(試案)

題詞:伊藤博氏:「筑波の岳に登りて、丹比真人国人が作る歌一首 あわせて短歌」

 2-1-385歌

「鶏が時を告げる朝が最初に来る東の方角にある国々のなかでは高い山はというと多くある。そのなかで、二柱の神が並び居る貴い山として、信仰すべきと登山してきた山と神代より言い伝えてきた山、そして、すめらみことが国見をする山である筑波山を、冬の終わりだから登山するべき時季ではないとして通り過ぎたならば、生涯筑波嶺を恋しく思い続けることになり、悔やまれるので、雪解けしている山路であっても困難しながら私は目的の場所まで登ってきた。」

 2-1-386歌

 「二つの峯からなる筑波山を遠く見上げているばかりということに満足できず、雪がまだ残り雪どけの道を苦労してきたことだ。」

③ 2022/6/27付けブログでの指摘1:この現代語訳(試案)は、題詞の有無にかかわらず同じ。そして歌本文での「筑波山」には、登山対象の山の意としている。

 確認すると、歌本文は、このように登りたい理由と登る途中の描写に終始して、山頂に到達して後の作中人物がとった行動や感動を一切記していない。山頂に着いたという事実の指摘で歌を終えている。反歌も山頂に着いたという事実の指摘だけである。

④ 2022/6/27付けブログでの指摘2:題詞の歌本文で「筑波山」の表記が異なっている。題詞に「筑波岳」、長歌歌本文に「築羽乃山」、反歌歌本文に「築羽根」。題詞が倭習漢文なので書き改めただけかもしれないが後程確認する。

(付記終わり  2022/7/4  上村 朋)