わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 供祭 萬葉集巻三配列その8

 前回(2022/5/16)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 光明子はどこに 萬葉集巻三の配列その7」に続き、今回「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 供祭 萬葉集巻三の配列その8」と題して記します。歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋)

1.~16.承前

萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、各歌について判定した表E(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を得ました。そして、「関係分類A1~B」の歌30首は、天皇の代を意識した4つのグループに分かれました。それ以外の歌においても2-1-381歌まで確認できました。

 各グループの筆頭歌は、2-1-235歌、2-1-290歌、2-1-315歌および2-1-378歌です。

 

17.第四グループの「分類A1~B」以外の歌 2-1-382歌など

① 巻三雑歌の天皇の代を意識した4つ目のグループは、聖武天皇以降の天皇を象徴する「寧楽宮」に居られる天皇の代の歌、と予想しているところです(ブログ2022/3/21付け「3.③」参照)。

 「その天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌」という判定は、前回同様に、題詞のもとにおける歌意で「聖武天皇以降の天皇」の代に関する歌という可能性で判断することとします。ほかの代の可能性の有無は関係ありません。前回2-1-381歌が4つ目のグループの歌であることを確認しました。

② その次の歌、長歌2-1-382歌とその反歌を、今回検討します。

 2-1-382歌  大伴坂上郎女神歌一首 并短歌

 久堅之 天原従 生来 神之命 奥山乃 賢木之枝尓 白香付 木綿取付而 斎戸乎 忌穿居 竹玉乎 繁尓貫垂 十六自物 膝折伏 手弱女之 押日取懸 如此谷裳 吾者折奈牟 君尓不相可聞

 ひさかたの あまのはらより あれきたる かみのみこと おくやまの さかきのえだに しらかつけ ゆふとりつけて いはひへを いはひほりすゑ たかたまを しじにぬきたれ ししじもの ひざをりふして たわやめの おすひとりかけ かくだにも あれはこひなむ きみにあはじかも

2-1-383歌 反歌

 木綿畳 手取持而 如此谷母 吾波乞甞 君尓不相鴨

 ゆふたたみ てにとりもちて かくだにも あれはこひなむ きみにあはじかも

左注:右歌者、以天平五年冬十一月一 祭大伴氏神之時 聊作此歌一、 故曰神歌

 

③ この歌について、土屋文明氏は、「なお部分的の訓方に異説が多いのであるが、根本を私見のやうにとれば、上出の訓(下記⑥に引用)が最も自然であると私は信ずる。最も問題の中心となる点は神をキミと呼ぶかどうかといふことにかかって居る。」と指摘しています(『萬葉集私注 十』524p)。

 題詞より検討します。

 作者が、大伴坂上郎女、と明記されています。彼女の歌は『萬葉集』に多数あり、左注に記す天平5年頃は30代半ばかとも推定されています。

 「祭神歌」の「神」とは、神祇の神々(で単数でも複数でも)を指しているのであろう、と思います。題詞(漢文)の現代語訳の通例は、次のとおり。

 「大伴の坂上郎女の、神を祭る(あるいは祭りし)歌一首 并びに短歌」

 題詞には、祭る(あるいは祈願する)目的と歌を披露した場面とを、記していません。

④ 私は、当時の「神を祭る」とは、「神への祈願」と同義ではないか、と理解しています。(さらに下記⑩で述べます)

 また、「祭」は、例祭となれば、現在でも、事前に担当する者の(短期あるいは長期の)精進からはじまり、使用場所や用いる物品の穢れを祓うことや祝詞の準備や拝礼の順番や直会や、使用した物品の始末の仕方まで、手順その他が定められています。現代でも近くの町内の氷川神社や八幡社の春祭り・秋祭りでも簡素化しつつもそれがワンセットの「祭」です。

 この「祭神歌」が、祭のどのような場面で披露されたのか、諸氏はあまり論じていません。

 この長歌反歌の左注も、「祭神歌」がどのようなものかについては説明していません。

 このため、当面、この題詞は、「作者が、「祭神歌」と称せる類の歌を一首詠んだ」、というメッセージであると理解して、歌本文を検討することとします。

 左注は、歌本文の理解とも関係がありますから、後ほど詳しく検討します。

⑤ 歌本文は、土屋氏の説を基本に検討をすすめます。

 土屋氏は、次のような語釈や作意を指摘しています(『萬葉集私注 巻二』)。

 第一 長歌にある「生来 神之命」とは、祭りの招神によって神の顕はれ生ずることを信じていたのであらう。来るべき神に「かみのみこと」と呼びかけているので、この句で歌は一段落をなす。「神」は左注によれば大伴氏の氏神(祖先神である天忍日命)だが、この歌にはさうした事も表現されて居ない。別に氏人の仕へる神があったのかどうか分からない。また、作者のこれらの行為は祭神の社において行はれたかのか、住居の一部において行はれたのか、神事にうといので分からないのは残念。

 第二 長歌にある「齊戸」とは、祭祀に用ゐる甕。大膳式に叩甕を叩戸と記した所もあるように借字。神にへる酒を盛る容器であらう。

 第三 長歌にある「吾者折奈牟」とは、祭事に応じてあらはれる降る神に是非あひたい」と句を結んだのであらう。(土屋氏をはじめ諸氏は(底本としている西本願寺本の)「折」を「祈」として理解しています。)

 第四 長歌の末句「君尓不相可聞」とは、神の祭りのことに託して、恋人に逢はうとする希望としては如何にも作歌動機が浅くなりすぎる。降神の為に、ひたすら歌って居ると見るべきではないか。ただキミなる語が、さうした用法を許すかどうかのみが、残された問題のやうに思はれる。

 第五 左注に記す冬十一月に氏神を祭るのは、春冬の定期祭の一つであらうといふ。

 第六 「聊」は、かりそめに、ちょっと位の意。

なお、氏は、左注を引用して「大伴氏の氏神を祭るに際して作られたもの」とこの歌を理解しています(その大意の引用は割愛)。

⑥ 土屋氏は、また、『萬葉集私注 巻十』の「万葉二三首づつ」の「三 」で、この歌をとりあげ、祭における降神の所作を考察し、「斎戸」の理解を改め、現代語訳を次のように示しています。(同書523p)

 長歌2-1-382歌

 「久方の天の原からみ姿をあらはして来るといふ神さまよ、私達はあなたを御迎へするために奥山から取って来たさか木の枝に、白い木綿(ゆふ)しでを取りつけ、神の宿られる斎戸をあたり清めて立て据ゑ、竹玉をも多く糸に貫いて垂らし、猪か鹿のやうに膝を折って身を伏せ、手弱女たる私は襲(かさね)の衣を身にかけて、これ程にして私は神のみ姿をあらはされることを祈りねがひます。これでも神であるあなたに逢へないでありませうか。ぜひ逢ひたく願ひます。」

 反歌2-1-383歌

 「木綿で作ったみてぐらを手に取り持ってこれほどまでにして吾は祈り願ひます。神よぜひあなたに逢ひたいものです。」

⑦ 氏は、「この歌も降神の所作をあらはしているものとして巻一の藤原御井歌と比較して考へると面白い」と言い、次のことを指摘したうえ、上記③の引用文を記しているところです。

 第一 「天原従 生来」を、「あまの原あれ来る」とよむのは私案であるが、神を招かうとして居るのだからこれが穏当の訓であらう。

 第二 「斎戸」は、旧説は「斎甕」であったが、定本の別記(武田氏新解の説)に之を否定して祭壇神殿の儀とされたが、之はむしろ神を宿すもの即ち後世の神体に当たるもの、巻一の歌でいふ安礼にあたるものではあるまいか。襲を被ってさか木の前に祈るのは女がする降神の仕方とみえる。

 第三 「君」を恋ひ思ふ人として突然にここに相聞の意をこめるのはどう考へても不自然だ。神をも二人称の時には「キミ」と呼ぶことさへ認めればさうした不自然は犯さなくてすむ。

 第四 この歌で見ると、大伴氏の氏神が史的伝説では天忍日命といふやうに極められて居ても、日常の祭神信仰ではもっと漠然とした天の原からの神を氏神としてあがめたものと見える。そのことは武田氏の新解に言及してあったと思ふ。

⑧ それでは、歌本文を検討します。

 この歌は、「みそぎ」という語句を検討の際、比較したことがあります。その時は土屋氏が「斎戸」の理解を改める以前の理解で検討し、「神をキミと呼ぶかどうかといふこと」は不問のままでした(ブログ2020/9/21付け)。

 氏の指摘する「斎戸」の理解は、祭り方の研究課題ですので別途の検討とし、ここでは、この歌が、巻三雑歌の天皇の代を意識した4つのグループのいずれに属するかという点に焦点をあてて、検討します。

 そのため、作者坂上郎女は何を題材に詠ったのか、それは、天平時代の今上天皇聖武天皇)の御代のことか、あるいはそれ以後の御代のことか、そして暗喩があるか、に絞って検討します。

⑨ さて、歌本文をみると、初句より最後から四句目までは、神に祈る準備と祈っている行動(「降神の所作」)を記しています。

 歌本文の最後から三句目・二句目の「如此谷裳 吾者折奈牟」(かくだにも あれはこひなむ)とは、「このように作中人物は祈願した(ところ)」という祈願のまとめの語句ですが、具体的には何を「折」ったのかは明確に表現されていません。

 歌本文の最後の句「君尓不相可聞」において、祈願した事柄が明らかになっています。「君」があってくれないからです。そして、その「君」を、土屋氏は「祭りに際して招じた神(神々)」と指摘し、伊藤博氏は「祖先を指すであろうが作者坂上郎女の亡夫宿奈麻呂をも意識する」と指摘し、諸氏は「祭りに際して招じた大伴氏の神」か「相聞の相手」が多い。土屋氏が可能性を指摘している「神々」の理解は少ない。

⑩ 当時、祭る者自身が生存しているこの世の次に行くあの世に居る(もう死ぬことのない)方々のうちで、祖先神とは、この世で偉大なことを成し遂げられた方及び成し遂げられず無念の思いを抱いている方と信じられています(何柱でも可)。 

 祖先神を祭るとは、この世に居る子孫である祭る側の人々にとり、神々があの世の生活で満ち足りるようにもてなすことです。それにより、この世に居る子孫の活動への関心を逸らし、あるいは、この世に居る者が成し遂げたいことの応援・指導(および邪魔する事柄を抑えることなど)をしてくれるように、仕向けることです。その結果、祈願したい事柄、例えば翌年の五穀豊穣とか個人の延命などが成就されることとなる、というのです。祖先神でない神々(諸々の天つ神、国つ神)も、災害や疫病の流行を起こしているのをみれば、同様にもてなすことが必要である、と信じられています(付記1.参照)。

 祭る、ということは、だから常に何かを祈願している、ということになり、歌舞などの奉納、神との会食(直会)がセットとなっているのが祭です。

⑪ 左注が記す11月の祭とは、例祭であり、今年の神(神々)の応対に感謝し、来年の五穀豊穣や祭る側の人々の活躍のために、十分神(神々)をもてなす、ということになります。

 そのために、神のお姿を直接拝見する必要があるでしょうか。それが必要ならば誰もが同じように詠うはずですが、そのような歌は『萬葉集』にありません。そもそも姿のわからない存在が神です。

 当時、巫女が神を感得するようなこともあったでしょうが、それは(目的の祈願のための手段として)感得することを願った結果です。

⑫ 左注を無視すれば、歌本文の最後の句にある「君」は、作者の居るこの世の「君」であり、恋の相手に逢いたいと神(神々)に祈願する歌と同じ構造の歌になります。初句から最後の句の直前までは、祭る方法手順を述べているだけです。

 『萬葉集』での別の祈願を詠う歌を例示します。

 2-1-423歌 石田王卒之時丹生王作歌一首 并短歌

 名湯竹乃 十縁皇子 ・・・ 吾屋戸尓 御室乎立而 枕辺尓 齋戸乎居 竹玉乎 無間貫垂 木綿手次 可比奈尓懸而 天有 左佐羅能小野之 七相菅 手取持而 久堅乃 天川原尓 出立而 禊身而麻之乎 高山乃 石穂乃上尓 伊座都流香物

 「なゆたけの とをよるみこ・・・わがやどに みむろをたてて まくらへに いはひへをすゑ たかたまを まなくぬきたれ ゆふたすき かひなにかけて あめなる ささらのをのの ななふすけ てにとりもちて ひさかたの あまのかはらに いでたちて みそぎてましを たかやまの いはほのうへに いませつるかも」

 この歌では、石田王の延命あるいは病気平癒を自らが祈りたかったが、それも出来ないうちに石田王の死を知って、作中人物でもある作者は嘆いています。この歌の初句から「禊身而(麻之乎)」までは経緯と祈願する手順を詠い、2-1-382歌と同じです。この歌を「たまたすき」の検討の際取り上げ、「祭主が最後に示した行動「みそぎて(ましを)」で代表しているものは、祈願全体であり、「みそき」という語句は、祭主として祈願する意となる。」と理解しました(ブログ2020/9/21付け「5.⑥」)。

 以後の句「高山乃 石穂乃上尓 伊座都流香物」は、祭主の詠嘆、祈願していればそうならなかった、という嘆きと理解できます。歌の最後で、「みそぎ」の(祈願の)目的が明確になります。

 延命の場合でも、なかなか逢えない場合でも、歌の構造は同じになっています。

⑬ 十一月の例祭の際、この歌の朗詠を聞いた人々は、詠むまでの事情を承知していますから、この歌は、この世にいる「君」にあいたいと詠っている歌と理解されたと思います。

 一方、左注が作詠時の事情の一端を記していると見るならば、作文された時点に関わりなく、参考となります。

 このため、元資料での歌がどのような歌であったかを、左注を信じた場合と、そうでない場合とに別けて確認し、次に巻三の雑歌として検討したい、と思います。

 

18.左注の検討

① 歌本文を離れて、左注を官人の記した漢文の一つとして検討します。

 上記「17.②」に示した左注を、再掲します。

 右歌者、以天平五年冬十一月一 祭大伴氏神之時 聊作此歌一、 故曰神歌

 

 左注と題詞は、それぞれ作文された当時の官人が用いていた倭習漢文(白文)である可能性もあります。また、返り点などは、『新編国歌大観』の編集委員会の付したものですが、古くからの返り点などを継承しています(付記2.参照)。

② 今、『新編国歌大観』の『萬葉集』を前提として検討していますが、ここでは左注の漢文の返り点などと訓をも検討対象とします。

 最初に、用いている主な漢字を確認します。

 左注にある、「供祭」が、熟語にあるか辞典にあたると、『大漢和辞典』(諸橋轍次)に、「まつりのようにあてる」(祭りに何かを供する)意の熟語として記載がありますが、『角川新字源』に記載がありません。漢語では珍しい熟語である、と分かります。

 多くの諸氏は「供祭」を「まつる」と訓んでいます。しかし、「祭」字のみでも「まつる」と訓むことができます。漢文における「供祭」と「祭」は意が異なっていますので、作文した人物は違いのある事柄に対する表現と認識している、と推測できます。

 漢字「供」は、「そなえる」、「そなえ。そなえもの。供物」、「自分から事情を申し述べる」などの意がありますが主に「そなえる」意に用いられています。「そなえる」とは、「供え物をする。設ける。あることの役にたてる」という意です(『角川新字源』)。

 漢字「祭」は、「元来、人と神とがまじわり接する」意であり、「いけにえを供え、儀式としてするまつり」の意です。「まつり」と訓む漢字「祀」(し)は、「定まったまつり。例えば五祀(中国の家庭で行う春、夏、季夏(夏の末)、秋、冬の一組のまつり(またはその一つ。))」と『角川新字源』にあります。

③ 漢字「以」は、「ひきいる」、「もちいる」、「おもう。おもうに。」、「ゆえに」、「もって」(助字)などの意があります。助字「以」は、

第一 「もって」と訓み、手段・材料などを示す(・・・を用いてなど)、材料・内容などを示す、のほか「於」とほぼ同じなど

第二 「もってす」の意

第三 「と、ともに」と訓み、「与」と同じ

第四 「すでに」と訓み、已と音通

などの用例があります。

 漢字「聊」は、助字として、「いささか」と訓み、「ちょっと、かりそめに」の意があります。「聊」字は、もともと、「耳が鳴る」、「たよる。たのむ。「頼」に同じ」、「願う。「願」に同じ」、「たのしむ」とか「やすんじる」意があります。「聊作」という熟語は辞書にありません。

 漢字「故」は、助字でもあり、その意は「ゆゑ。ゆゑに」、「ことさらに」、「もと。以前に。」、「もとより。」などがあります。

 漢字「曰」は、「い」と訓み、「ものをいう。名付ける。」の意。「いわく」とか「のたまわく」とも訓みます。

④ このような漢字を用いている漢文なので、後代の人物は、「供祭」を「まつりのようにあてる」(祭りに何かを供する)意の熟語と理解して、次のように読み下したのではないか、と私は思います(理由は⑦以下に記す)。

 「右の歌は、天平五年の冬十一月をもっての大伴の氏神の(祭りの)時、供祭す。いささかに此の歌を作る。 故に(相聞の歌にあらずして)神を祭る歌と曰う。」 (提案1)

 この読み下し文は、主語を明確にすると、三つの文からなり、一つ目は「右の歌は、「供祭」した。」、二つ目は、「これは天平五年の例祭に新しく作った歌」、三つ目は「新しい歌は、祭神歌(祈願に関する歌)である(相聞の歌ではない)。」です。この順に文が置かれている、と理解したものです。

 「供祭」とは、祭りにおいて奉納の一環としてかつ直会でも披露した、という意ではないか。「祭」字が祭り全行程を意味するものとして「供」字が祭に何かが加わった意で用いられており、それはこの年の秋の大伴氏の例祭に、特別な祈願があったことを示唆しています。

⑤ 伊藤博氏は、左注を、次のように読み下しています。

 「右の歌は、天平の五年の冬十一月をもちて、大伴の氏の神を供祭(まつ)る時に、いささかにこの歌を作る。故に神を祭る歌といふ。」

 氏の理解では、この漢文は、二つの文「右の歌は、天平五年の例祭に新しく作った歌である。」と「新しい歌は、祭神歌(祈願の歌)である。」が、この順に置かれている、というものでしょう。

 氏は、「供祭」を、「祭」と同義としているようです。

⑥ このような読み下しのほかに、倭習漢文として、新たに次のような返り点などを付し、読み下すことができる、と思います。

 右歌者、以天平五年冬十一月一 祭大伴氏神之時聊作此歌 故曰神歌

 「右の歌は、天平五年冬十一月において、大伴の氏神の(祭りの)時、願い作るところの此の歌を、供えて祭る。 故に神を祭る歌と曰う。」(提案2)

 「祭」とは、今年の例祭を執行したという意です。「供祭」とは、例年と違って加わったことがあり、それにまつわる歌なども新たに奉納した、という意です。

 この読み下し文は、二つの文からなり、「右の歌は、天平五年の例祭に役立てた。」と「この歌は、相聞の歌ではなく祭神歌(祈願に関する歌)である」とが、この順に置かれている、と理解しました。

 「祭神歌」という概念が、左注を作文した人物の時代にあったものとみえます。『古今和歌集』を前提とすれば、四季歌や屏風歌や歌合の歌(題詠歌)や相聞歌とも異なるところの、祭の際奉納する歌である、ということを注記したのだ、と思います。

 倭習の漢文というのは、奈良時代とそれ以降も当時の官人の漢字の使い癖が入っている漢文を指して言っています。漢文に詳しい方々、奈良時代平安時代の公用文などに詳しい方々などのご意見を頂き、提案1と2は再考したい、と思っています。

⑦ 理由は次のとおり。

 この漢文において、動詞と思えるのは、漢字の意と文での配置からみると、「祭」字と「作」字のほかに、「供」字と「聊」字にも可能性があります。そして作詠時点は「秋十一月」と明記しています。その作詠時点における行動が動詞と思われる漢字に示されている、と理解できます。

 作詠時点と動詞「祭」が結び付く事柄に、例年秋に行う氏神に奉告祈願する祭があります。冬十一月に宮中では例年新嘗祭がある(付記1.参照)ように、大伴氏も氏神に対する例祭を許されていました。

 作詠時点と動詞「作」が結び付く事柄に、この世の「君」に関する歌であるこの歌(2-1-382歌の歌本文)があります。そしてこの歌は今回新たに作られた歌と理解できます。

 「供」字は「祭」と接してあり、今年の秋の例祭に関係があることになります。

 「聊」字は「作」字と接してあり、この世の「君」に関する歌にしか関係しません。

 そのため、「供祭」とは、その氏神への例祭の際に、この歌を奉納して祭を執り行ったことを指しているのではないか。そして、「聊」とは、「作る」動機を指しているとみました。例祭にあわせた祈願に関係していますから、ちょっとした気持ちで作ったのではないはずです。

 倭習というのは、「右の歌は、供祭の歌なり」というべきところの省略法、出来るだけ読み下し文に近い語順などに感じたところです。

⑧ このように、「供祭」と「祭」に意味するところの違いを認め、「聊」の意を刷新した結果が、上記の新たな返り点などによる読み下し文(提案2)であり、『新編国歌大観』による返り点などに対する新たな読み下し文(提案1)です。

 この二つの新たな読み下し文は、まとめると、

 「2-1-382歌の元資料の歌は、天平5年氏神への例祭のために、この歌は作られ、そして披露された。」、という趣旨の漢文である、という理解となります。

⑨ その事情は、その年の大伴氏一族の活動、即ち作詠時点から探れるはずです。

作詠時点の天平5年とは、『続日本紀』によれば左右京及び諸国は飢饉に見舞われており、4月に第九次遣唐使(大使は多治比広成)が難波津を出港しています。前者は頻繁にある事ですが、後者は特別な事です。

 その遣唐使一行には、大伴氏一族の大伴古麻呂が一員となっています(『続日本紀』に記載がありませんが付記3.参照)。そのほかの大伴氏一族の官人をみると、大伴旅人は既に天平3年7月67歳で没し、大伴道足は天平3年参議、坂上郎女の元夫である大伴宿奈麻呂従五位下となるのは天平15年、家持が内舎人となったのは天平10年です。

 大伴氏一族の官人としてこの年特別なことに従事しているのは外国に出張している大伴古麻呂です。

⑩ 氏神の例祭は、氏の上が行う定めです。一族として既に出発にあたり祈願したであろう大伴古麻呂の業務成功と無事帰国(今年のみの特別な祈願)を、氏の上は改めて例祭で祈願したのではないか。作者坂上郎女は歌を奉納する立場であったと思います。大伴古麻呂は、この例祭の頃、順調ならば唐の長安(現在の中国陝西省省都西安市内)に居るはずです。

 元資料としてのこの歌は、遣唐使派遣に関わる歌であることが分かり、天皇の統治行為に関わる歌として雑歌の資格があることになります。それが、雑歌に配列している理由になり得ます。

⑪ このように新たに詠み下した左注は、元資料の経緯を記している、と言えます。

 そうすると、左注を前提として理解した元資料の歌においては、「斎戸」の理解にかかわらず、末句の「君」は、この世の人物で、作者の一族の有力なひとりであって、当面国内にいない大伴古麻呂を意味する代名詞です。

⑫ 次に、では、左注を無視して(左注を作文したのは巻三編纂者でないとすると)、元資料の歌の理解はどうなるか。題詞と歌本文だけから作詠時点を限定できるか、という設問になります。

 題詞にある「坂上郎女が「祭神歌」と称せる類の歌を詠う」ということが、ヒントとなります。

 家刀自が例祭にあたり新たに歌を詠むのは、慣例にないことではないか、と思います。例祭での家刀自の奉納歌は、氏ごとに幾つかの伝承歌が既にあったと思います。

 大伴旅人の死後の大伴一族の盛事には、天平3年の大伴道足参議任命、天平5年大伴古麻呂遣唐使の一員、天平勝宝2年の大伴古麻呂の遣唐副使任命、天平10年大伴家持内舎人に任じられことなどが、あげられるでしょう。そうすると、家刀自である坂上郎女が、氏の上の命を受けて新たな歌を奉納する機会は、例外といえる頻度と言えるのではないか。

 坂上郎女の歌は、『萬葉集』では年代的には天平勝宝2年の歌が最後と言われています。「従京師来贈歌一首 并短歌」と題する2-1-4244歌などです。

 元資料の歌が、「この世にいる「君」にあいたいと詠っている歌」であるならば、第一候補が天平5年の例祭時、第二候補が天平勝宝2年の例祭時となります。

 左注を無視しても、同じ結論にたどり着けました。

 これは、歌に関して題詞の漢文で詠う目的も示していると言えるので、巻三の編纂者が左注を作文していない、ということになります。

 

19.巻三の雑歌として

① 次に、巻三の雑歌として検討します。

 上記「18.⑫」の理解となった元資料の歌を、巻三編纂者は、雑歌として配列しています。題材が遣唐使関連なので、雑歌の資格はありますが、天皇の代を意識したグループ別けは、聖武天皇の御代のグループの歌になります。

 しかし、配列からは4つ目のグループの歌と予想できるところです。

 改めて、題詞に戻り考えてみます。

 題詞は、作詠時点と詠う目的とに直接触れていません。左注の漢文は、巻三編纂者が預かり知らぬことですから、題詞は左注に縛られません。

 このため、この題詞のもとでは、確実に将来、この世の「君」にあえることを祈願した歌、という理解が可能です。「君」の意の拡張が可能となっています。

② この歌の作詠時点は、題詞に明記されている作者名から聖武天皇の御代となりますが、「あいたい」人物に逢えるのは、当然将来です。

 天皇の代を単位とすれば、あう時点は聖武天皇以降の、「君」は(代名詞ではなく名詞として)将来の天皇(例えば寧楽宮と仮称する天皇)あるいはその御代に出会いたいという趣旨の歌になります。

 「君(きみ)」の意は、『例解古語辞典』には、代名詞では、「対称。あなた」ですが、名詞では、「a天皇。b自分の仕える人。主人。主君。c(・・・のきみの形で)敬意を表す。・・・さま」とあります。

 そうすると、この歌は、巻三雑歌の天皇の代を意識した四つ目のグループの歌の要件(上記「17.①」参照)を満たします。

③ このような検討の結果、上記「17.⑧」で絞った今回の検討課題は、

「題材」は、天平五年の大伴一族の一大関心事

天皇の御代」は、暗喩より、巻三の雑歌の天皇の代を意識した四つ目のグループの歌

「暗喩」は、題材を直接明らかにしていない題詞の作文によって、「君」にある

ということになりました。

 また、土屋氏が問題点とした「君」は、元資料においては、題材判明もあり、この世の人物の代名詞ということが分かりました。

 左注は、巻三編纂者の知らないことであり、左注を作文した人物は、元資料の作詠時点と詠う目的に注目しており、この歌が雑歌のこの位置に配列された所以への関心は、無かったようです。

④ 次に、表E作成時、この歌は、「関係分類I」(天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を歌う歌群)としました。元資料は遣唐使派遣に関して詠っており、関係分類は、「C」(天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(Dを除く))が適切です。

 しかし、明確に作詠時点を題詞に記しておらず、「作者が、「祭神歌」と称せる類の歌を一首詠んだ」、というメッセージの題詞であると理解(上記「17.④」)して、何かを祈願する際の歌と整理して、表E作成時のまま、とします。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 次回は、2-2-384歌から検討します。

 (2022/5/30   上村 朋)

付記1.新嘗祭聖武天皇の疫病対策などについて

① 律令に定められた国家祭祀としての新嘗祭は、それまでの神々への対処方法を踏襲している、と諸氏は指摘する。新嘗祭は、その年の新穀などを天神地祇に供えて感謝の奉告を行い、これらの供え物を神からの賜りものとしてみずからも食することによって、収穫を感謝し翌年の豊穣を祈願する。

 さらに、天皇は地上にある日本の統治を任せられている立場なので、祭がおこなわれる日時を考えると、太陽の恵みである新穀を頂くことで天照大神の霊威を改めて更新を受けるのが目的である、という理解も重なる。

② 新嘗祭は、式典従事者の確認を事前に行い、使用する場所・天皇をはじめ主要な人物・使用する物の穢れを事前にとり、清浄な状態を維持し、この祭りだけのための神座などを,建物内に設ける儀式を経て当日(11月中の卯の日)を迎える。翌日(辰の日)の豊明節会(よとのあかりのせちえ)がセットとなっており、五節の舞などがあり、最後に禄を賜る。

③ 祭服は、純白生織りのままの絹地で製作される。 天皇の着る神事の服の中で最も清浄かつ神聖な服装である。神饌は、稲作物(蒸ご飯、栗の御粥などと新米から醸した酒)、鮮魚、干物、果物など。

④ 氏の神の祭については、藤原氏の春日祭の研究が進んでいる。式次第などは公祭となった時点のものが判る(岡田精司編『古代祭祀の歴史と文学』(塙書房1997)の「氏神祭祀と「春日祭」」(土橋誠))。

⑤ 佐佐木隆氏は、『言霊とは何か 古代日本人の信仰を読み解く』(中公新書2230(2013/8)で、次のように指摘する。

天皇による統治は、それを皇祖神や天神地祇がよしと認めてくれることにより、天皇ははじめて国家を統治することができるのだった。それだけでなく、天皇の治世中に起こるさまざまな現象も、神の意志を反映するものだった(66p)。

・たとえ神の血統を継ぐとされている天皇であっても、人間の発することば自体には威力がなく、それを聞き入れる神々の霊力によってしか自体は動かない(68p)。

⑥ 天然痘が九州で勢いを増すころ、聖武天皇は、大宰府管内の疫病対策として次のことをさせている(『続日本紀天平7年8月12日条の勅)。

第一 幣帛を大宰府管内の天神地祇に捧げて人民のために祈祷をさせる。

第二 観世音寺その他の諸寺に金剛般若経を読誦させる。

第三 疫病に苦しむものに恵みを与え、万種の丸薬散薬温薬を給付する。

第四 長門国よりこちらの諸国の国守もしくは介は、ひたすら斎戒し、道饗祭(みちあえのまつり:悪鬼の侵入するのを防ぐため街道で行う祭祀)をして(疫病を)防げ。

付記2.『新編国歌大観』記載の『萬葉集』について

① 歌を引用している『新編国歌大観』第二巻記載の『萬葉集』は、西本願寺本を底本として校訂を加えたもの。

「解題」(861p~)によれば、序・題詞・左注などの漢文は、底本に存する振り仮名をすべて省略し、底本のよみ方にこだわらず、最小限、読点・返り点を付してある。

② 底本の西本願寺本は、国立国会図書館デジタルコレクションで、みることができる。それをみると、頭注や朱で書き入れがあるなど、先人の理解と写本作成者の理解が『萬葉集』の本文以外に記されているが、題詞や左注に返り点等は付されていないということが分かる。

付記3. 天平5年出発した遣唐使について

① 16年ぶりの遣唐使であり、『萬葉集』には、これに関連した山上憶良の「好去好来歌」や笠金村の入唐使に贈る歌もある。

② 第一船の大使多治比広成は翌年11月種子島に帰着し天平7年3月入京した。第二船の副使中臣名代は唐に流し戻され天平8年8月入京した。第三船の平群広成は崑崙国に漂着するなどして天平11年7月入京した。第四船は行方不明。

③ 石山寺蔵遺教経の跋文によると、唐人陳延昌は、「日本使国子監大学朋古満(大伴古麻呂か)」にこの経典を付し、流伝せしめようとしている。(寧遣614p)。(『新日本古典文学大系 3 続日本紀』(岩波書店)補注11 の二八(553p))。

(付記終わり  2022/5/30   上村 朋)