わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 登筑波山とある題詞 萬葉集巻三配列その10

 前回(2022/6/6)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 家はどこ 萬葉集巻三の配列その9」に続き、今回「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 登筑波山とある題詞 萬葉集巻三の配列その10」と題して記します。歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋) 

1.~20.承前

 『萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、各歌について判定した表E(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を得ました。そして、「関係分類A1~B」の歌30首は、天皇の代を意識した4つのグループに分かれました。それ以外の歌においても2-1-384歌まで各グループに分けられることを確認しました。

 各グループは天皇の代の順に配列されており、各筆頭歌は、2-1-235歌、2-1-290歌、2-1-315歌および2-1-378歌です。 

21.「分類A1~B」以外の歌 2-1-385歌その1 登筑波山とある題詞

① 巻三雑歌の天皇の代を意識した4つ目のグループは、聖武天皇以降の天皇を象徴する「寧楽宮」に居られる天皇の代の歌、と予想しているところです(ブログ2022/3/21付け「3.③」参照)。

 「その天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌」という判定は、前回同様に、題詞のもとにおける歌意で「聖武天皇以降の天皇」の代に関する歌という可能性で判断することとします。ほかの代の可能性の有無は関係ありません。

② 2-1-385歌から検討を再開します。長歌なので反歌があります。

 2-1-385歌 登筑波岳丹比真人国人作歌一首 并短歌

  鶏之鳴 東国尓 高山者 佐波尓雖有 明神之 貴山乃 儕立乃 見杲石山跡 神代従 人之言嗣 国見為 築羽乃山矣 冬木成 時敷時跡 不見而徃者 益而恋石見 雪消為 山道尚矣 名積叙吾来前一

  とりがなく あづまのくにに たかやまは さはにあれども ふたかみの たふときや まの なみたちの みがほしやまと かむよより ひとのいひつぎ くにみする つくはのやまを ふゆこもり ときじきときと みずてゆかば ましてこほしみ ゆきげする やまみちすらを なづみぞわがける

 

 2-1-386歌  反歌 

  築羽根矣 卌耳見乍 有金手 雪消乃道矣 名積来有鴨

  つくはねを よそのみみつつ ありかねて ゆきげのみちを なづみけるかも

③ 題詞より検討します。

 伊藤博氏は、この題詞を、次のように読み下しています。

 「筑波の岳に登りて、丹比真人国人が作る歌一首 あわせて短歌」

 丹比真人国人(たじひのまひとくにひと)と、作者名が明記されています。作者が、実際に筑波山山頂に登って作った歌とする根拠は、倭習漢文である題詞だけでは心もとありません。「登」字の対象に麓もありましたので(2-1-375歌 付記1.参照)。

 さて、『萬葉集』に、「筑波岳」(筑波嶺・筑波山)が題詞に表記されているのは、6題あります。当時の筑波山のイメージを、最初に確認します。

 題詞は、次のとおり。配列されている巻と部立て並びに作者に関して左注等を付記します。

  2-1-385歌 登筑波岳丹比真人国人作歌一首 并短歌 

 (巻三 雑歌 題詞に「丹比真人国人作歌」)

 2-1-1501歌  惜不登筑波山歌一首

   (巻八 夏雑歌 左注に「右一首 高橋連虫麻呂之歌中出」)

 2-1-1716歌 登筑波山詠月一首(巻九 雑歌 1718歌の左注に「右三首作者未詳」)

 2-1-1757歌 検税使大伴卿登筑波山時歌一首 幷短歌 

 (巻九 雑歌 1764歌の左注に「右件歌者高橋連虫麻呂之歌集中出」)

 2-1-1761歌 登筑波山歌一首 幷短歌  (同上) 

 2-1-1763歌 登筑波嶺為嬥歌会日作歌一首 幷短歌  (同上) 

④ このほか、左注に「右一首 筑波山作」とある歌が1首あります。作者名の記載はありません。

  2-1-1842歌 春雑歌 詠雪  (巻十)

  峯上尓 零置雪師 風之共 此間散良思 春者雖有 

  をのうへに ふりおけるゆきし かぜのむた ここにちるらし はるにはあれども

 この2-1-1842歌を、土屋氏は、

 「峯の上に降り置いた雪が、風と共に、此所に散るとみえる。春ではあるけれど」

と大意を示しています。

 左注を無視するならば、この歌は、(暦の上では)春なのに春日山山系が雪で白くなり平城京にも小雪が舞ったことを詠ったとも理解できます。

 題詞「詠雪」のもとにある歌は、ほとんどが平城京とその周辺の景と推測できます(例えば、2-1-1845歌で雪を例えている梅(の花)は当時自生していません。)

 左注を信じたとしても、筑波山がまだ冠雪している時期における常陸国庁近くの春の雪の景ではないでしょうか。

 左注は、少なくとも筑波山中に作中人物がいることを示唆しているのではない、と思います。このため、筑波山に登ることを詠んでいる歌ではありません。「筑波山」に何かの暗喩も感じません。左注は、倭習漢文であり、その意は「筑波山で作る、即ち常陸国において作る」ということなのでしょうか。

⑤ 上記6題の検討を行います。

 題詞の作文タイプを「(不)登筑波岳(山・峯)を特記して比較すると、それぞれタイプが異なるようです。「*」印をつけた題詞は、長歌反歌に対するものです。

 2-1-385歌(*): 登筑波岳+人物名+作歌〇首

 2-1-1501歌: 惜不登筑波山(詠む理由)+歌〇首 

 2-1-1716歌: 登筑波山+詠+詠む対象〇首

 2-1-1757歌(*): 人物名+登筑波山+時+歌〇首

 2-1-1761歌(*): 登筑波山+歌〇首

 2-1-1763歌(*): 登筑波嶺+為・・・・+作歌

 これらの題詞のもとにある歌の元資料は、左注を信じれば2-1-385歌と2-1-1716歌の題詞以外は高橋連虫麻呂の歌集です。これらの題詞のもとにある歌以外に、「筑波岳」(筑波嶺・筑波山)と表記のある歌は、ありません。

 長歌反歌に対する題詞(*印)4題は、高橋連虫麻呂の歌集に3題ありますので、残りの1題も、同一時期の作詠であれば歌の理解に影響するかもしれません。

 なお、2-1-385歌の題詞の作文のタイプは、巻三には3題あり、その「登」字は、倭習漢文においては、同訓異義を込めることが可能な字でありました。即ち、「のぼる・のぼらせる」意を込めることが可能です(付記1.参照)。

 2-1-327歌と2-1-375歌の題詞にある「登」字には、暗喩がありました(付記1.参照)。

 2-1-385歌の題詞「登筑波岳」字にも、同じような用い方をされているかどうかに留意し歌本文を検討します。

⑥ 短歌のみに対する題詞を、先に検討します。2題あります。

 2-1-1501歌は、巻八の部立て「夏 雑歌」の最後の歌です。歌本文は次のとおり。

  筑波根尓 吾行利世波 霍公鳥 山妣兒令響 鳴麻志也其

 「つくはねに わがゆけりせば ほととぎす やまびことよめ なかましやそれ」

 

 伊藤博氏は、題詞を、「筑波山に登らざりしことを惜しむ歌一首」と読み下し、「巻八のうち、唯一私家集所出(の歌)であり、追補らしい」と指摘しています。

 巻八の「夏 雑歌」にある歌は、「わがやどの はなたちばなを ほととぎす・・」(2-1-1490歌)などと平城京内の官人の屋敷か平城京近くの山(とその麓)に来るホトトギスを詠っていることが歌本文からわかります。同じように、歌本文からこの一首2-1-1501歌のみ平城京を遠く離れた筑波山に来るホトトギスを詠っています。特異な場所におけるホトトギスの景の歌であり、しかもこの部立ての最後の歌です。

 また、ホトトギスは、雑歌にある歌も声を聞けるかどうか(いうなれば逢えるかどうか・遭遇するかどうか)あるいは聞いたときの思いを詠っているのに対して、この歌の、作者が出かけていたらホトトギスは鳴かなかったはず、という内容も特異です。

⑦ そこで注目するのが、この歌の初句の「筑波根」です。筑波山は「嬥歌会(かがひ)」(歌垣)のあった場所と当時官人に知られていたのではないか。そのように男女が集うあるいは男女が互いに知るきっかけとなる有名な祭りの見物時のような出来事の代名詞として「筑波山」が用いられているのではないか、と推測します。

 この歌は、「(我)ゆけりせば」という仮想したことが実現していたら、「(ホトトギスは)なかましや」という構文です。

 題詞を無視すると、歌本文の意は、「筑波山に私が行っていたら、そのホトトギスは大いに鳴いたであろうか。そのようなことにはならなかっただろう」となります。

 この理解は、筑波山において知人がおおいに鳴くホトトギスに出逢えたのは、私がその場にいなかったからである、何故ならば、ホトトギスは(ホトトギスならぬ)私を求めていてすぐ出逢えるのだからだ、ということになります。

 また、ホトトギスを女性の意とし、筑波山は逢う瀬の意、そして、やまびことよむとは、噂が飛び交うことの意ととれば、別の歌意となり、この歌は、噂になった知人の恋愛の進捗を揶揄した歌になっています。

 春日山でのホトトギスを詠ったらこのような意は込められません。筑波山ホトトギスに限ります。

⑧ 土屋文明氏は、題詞より「筑波に登らないで、其所のほととぎすを聞かなかったのを惜しむ歌」と理解して、次のように指摘しています。

「常識的な感じを歌っただけで如何にもつまらない歌。「其(それ)」を結句に置いた例はこの歌だけだが、効果を上げて居るとはいへない。」

 確かに、この歌は、「筑波山」に飛来したホトトギスのうちにおおいに鳴くホトトギスがいたと聞き、その場に居たら私も聞けたのだろうか、と行けなかったことを惜しんでいる、とも理解できます。

 この場合、結句の「其(それ)」を省いても意は通じます。

 にも拘らず、結句に「其(それ)」を付け加えているのですから、「其(それ)」とは、作者とその場に居合わせている人たちにとり、共通に認識しているある事柄・人物をホトトギスという語句で念押ししているのではないか。

 おおいに鳴いたホトトギスを指して「其(それ)」というとともに、初句にある筑波山から歌垣を連想させて、作者とその周辺の人たちが注目している恋愛事件などをさして「「其(それ)」と言っているのではないか、即ち上記⑦に示した別の歌意がこの場合生じます。

 結句の「其(それ)」は、初句の「筑波根」と対を成した語句として用いていることに留意してよい、と思います。

⑨ ここまでは、(題詞を無視した)2-1-1501歌の元資料としての理解です。さらに題詞のもとにある歌として、題詞 「惜不登筑波山歌一首」を、作者自身が登らなかったことを惜しんでいるという理解であれば土屋氏のような理解が可能であり、誰かが「筑波山」を登り切れなかったことを惜しんでいる、という理解であれば、上記⑦の別の歌意も可能ですが、巻八の「夏 雑歌」の部立ての歌としては何かが不足しています。

 巻八の「夏 雑歌」の歌であれば、元資料の歌と同様に「筑波山」には特別の暗喩が込められている可能性があります。

 ここでは、「筑波山」には元資料の段階でも暗喩が込められていること、及び「(不)登筑波山」という表記が「国見」と結びついていないらしいことが確認できたので、2-1-385歌等の理解に資することが出来ます。

 巻八の「夏 雑歌」の題詞と歌としての更なる検討は別の機会に行うこととします。

⑩ 次に、短歌の2-1-1716歌の題詞を検討します。歌本文は次のとおり。

  天原 雲無夕尓 烏玉乃 宵度月乃 入巻悋毛

  あまのはら くもなきよひに ぬばたまの よわたるつきの いらまくをしも

 

 題詞のもとにある歌として理解すると、筑波山山頂に登って月を詠んだ歌となります。そうすると、山頂で(あるいは、人家の無い麓で)日没直後か、3,4時間後に没する月を惜しんでいます。その夜はそこに宿泊したのでしょうか。筑波山の嬥歌会を前提にしても、相手が見つからなかった心境を詠った歌という理解もむずかしいと思います。

 「登」字の用い方として、2-1-375歌において麓に「登る」という表現があった(付記1.③参照)ように、必ずしも山頂に登ったのではないかもしれません。そうであっても平城京の東方向に位置する春日山(の麓)という題詞にすると表面的な歌意ががらりと変わるものでもないように見受けられるのに「筑波山」と明記されています。

 題詞を無視すると、日が暮れてすぐ宴から、例えば主賓格の人物などが退席されることを惜しんでいる歌、あるいは、早めに退席する際の挨拶歌という理解が可能です。その理解が元資料の歌であっても、雑歌の部立てにある歌としては、天皇の関係での含意があると推測したくなります。

 筑波山と題詞に記すのは、二峯をもつ山であることが関係しているのでしょうか。題詞にある筑波山は山頂か麓のどちらであっても、いわゆる登山対象の山(か麓)のほか何かの暗喩があると思えます。

 この2-1-1716歌の題詞の理解は配列も確認して一意になると予想しますが、割愛します。

⑪ 歌本文について、土屋文明氏は次のように指摘しています。

 「「登筑波山」といふ特殊な場合の作でありながら、歌には其の特殊な点は少しも表現されていない。山上では、月も平原乃至平原の涯の山に入るので、その辺は好題材であるのにそれもあらはれて居ない。・・・結果としては常套的表現で終わっている。」

 そして、雑歌の部立てに配列されていることから、単純に月の景を詠んでいる歌とは思えません。筑波山の月という表現に暗喩がある、と思います。

萬葉集』記載の歌としてのさらなる検討は別途のこととしても、この短歌2首の題詞にある「筑波山」は、常陸国にある筑波山という山自体のみを指しているほかに、暗喩があり、何かの代名詞ともいえるような用い方をされていることが確認できました。

⑫ 次に、長歌反歌に対する題詞を検討します。みな「登筑波山・・・」とあります。

 2-1-385歌より検討します。歌本文は、上記②に記しました。

 いくつかの語句は、確認を要します。

 「明神(之)」:5句目にある

 「冬木成」:13句目にある

 「国見」:11句目にある

 「見」:8句目、15句目及び16句目にある

 順に確認します。

⑬ 諸氏は、歌本文五句にある「明神(之)」は「朋神」の誤りとしています。

 土屋文明氏は、「冬木成」について、「春の枕詞に用ゐられる語であるが、ここは其の原義を以て用ゐたのであらう。夜ごもりが夜ふけの極みである如く、冬の極み、冬の終わり近くの意とみえる」。と指摘して、次のようにこの歌の大意を示しています。

 「東国に高い山は多くあるけれど、二つの神の貴い山で、並び立って居るめでたい山として、神代から人が言ひつぎ伝へて来、又よく国見をする筑波の山を、冬の終わりの、登るべき時季でない時だとて、見ずに去ったなら一層見たくあるであらうから、雪どけのする山道さへをも困難して吾は来た。」

⑭ 次に、11句目にある「国見」です。氏は、(天皇ではなくて)「一般人も亦それをしたものと見える」と評しています。

 『萬葉集』において、「国見」という表記は、2-1-2歌が最初です。氏は、国見について「国の形状を見るものであるが、同時に之によって、民の貧富まで察せられることが、仁徳天皇の物語などで知られる」と説明しています。巻一には2-1-38歌にも用いられ、その意は、2-1-2歌と同じと氏は指摘しています。

 この歌における歌本文の「国見」表記の前後の語句は、

 「見杲石山跡 神代従 人之言嗣 国見為 築羽乃山(矣)」

とあり、「築羽乃山」は二つの修飾を受けています。

ひとつ目は、「みがほしやまと かむよより ひとのいひつぎ」(してきた山)という、「見たい山」の筆頭である山であるという修飾こと、二つ目は、「くにみする つくはのやま」という、「国見」をするに適切な場所であるという修飾です。つまり筑波山は、常に「見たい」山であり、「国見する」山、と認識しています。

⑮ その二つ目の修飾である「国見」を検討します。

 官人には、平城京の遥か東方にある山のうちで富士山と筑波山は既に有名な山であったようです。

 また、養老年間に成立した『常陸風土記』には、「筑波郡」の項に、富士山と違って春と秋「足柄の坂から東の国々男女が騎馬や徒歩で登り遊び楽しみ日を暮らす」とあり歌も例示されており、それは歌垣が当時も行われているかのように記述されています。常陸国に着任したことのある官人なども関東平野で目立つ山であることと歌垣の伝統があることを都で口にしていたのでしょう。

 『常陸風土記』には筑波山での国見をしたという説話は記載されていません。この歌に「国見」と詠いこむのは、国見に都合のよい眺望の良い山であるという認識からであろう、と思います。

 「国見」という表記は、『萬葉集』では既に、2-1-2歌にあります。それにならえば、いわば天皇の専権事項に関する表記が「国見」であり、常陸国内を対象に「国見」をするとは常陸国守でも行えない(「国見」と公文や歌に記さない)と思います。常陸国守は巡察の一環として筑波山に行った、と記すにとどめるでしょう。

 だから、歌本文の「くにみする つくはのやま」という表現は、天皇が「国見」をするに適切な場所であることを言っているだけ、と思います。

 つまり、歌本文では、国見に適する山が筑波山である、と紹介するだけにとどまっており、土屋氏が、「一般人も」国見するのかというのは誤解である、と思います。作者国人は、「国見」をしたいとも行ったとも詠っておらず、ただ「登った」と詠っているだけです。

 伊藤氏は、「国見為 築羽乃山矣」を「春ごとに国見が行われてきた筑波山よ」と、また「不見而徃者」を国見しないで行ってしまったなら」と現代語訳しています。この理解も、作者国人が筑波山に登る目的を、誤解している、と思います。

⑯ ひとつ目の、常に「見たい」山を検討します。動詞「見る」については、ブログ2018/7/23付けで2-1-439歌の検討にあたり、次のように指摘しました。

 「「見・・・屍」という表現においては、「仄聞」あるいは「文書によって知る」という意、あるいは下命による作詠を示唆する言葉とも理解した方がよいのではないか、と思います。目視しなければ追悼の歌が作れない訳ではありません。 「見」は、いわば歌語です」。

 また、ブログ2022/4/11付けで検討した2-1-329歌の「見」字の意は、遠望したという「a視覚に入れる・みる・ながめる。」ではなく、「c(・・・の)思いをする・経験する。」とか「d見定める・見計らう。」(『例解古語辞典』)の意であって、2-1-329歌の題詞における「見」字は、漁火の示す現実(泰平)に作者の門部王が気付いた意で、用いられている、と思う、と指摘しました。

 ここでもそれらの用法を念頭に検討することとします。

⑰ 2-1-385歌本文の8句目にある「見杲石山(跡)」(みがほしやま)とは、上一段活用の「みる」の連用形+願望の助動詞「がほし」の連体形+名詞「山」であり、この歌では題詞から実際に登っているかにみえますので、「見上げる(目視する)山」の意ではなく、「登りたい山」の意と理解できます。常陸国庁に都から赴任してきた官人は、筑波山を目視しつつ着任します。現在でも利根川の堤防からまた都内からも筑波山は望めます。

 歌本文の15句目にある「不見(而徃者)」を、伊藤博氏は、「行ってしまったら」と登山を経験しないで、と理解して目視の意と氏は理解していません。

 土屋氏も、「見ずに(去ったならば)」と、目視の意と理解していません。

 16句目の「見」は、動詞「こふしむ」の連用形の語尾の音を示している万葉仮名で、漢字自身の意は関係ない用法です。

 反歌2-1-386歌にも「見」字が用いられていますが、それは「目視する」意です。

⑱ 以上の検討を踏まえて、詞書を無視して2-1-385歌の現代語訳を試みると、次のとおり。

 2-1-385歌

 「鶏が時を告げる朝が最初に来る東の方角にある国々のなかでは高い山はというと多くある。そのなかで、二柱の神が並び居る貴い山として、信仰すべきと登山してきた山と神代より言い伝えてきた山、そして、すめらみことが国見をする山である筑波山を、冬の終わりだから登山するべき時季ではないとして通り過ぎたならば、生涯筑波嶺を恋しく思い続けることになり、悔やまれるので、雪解けしている山路であっても困難しながら私は目的の場所まで登ってきた。」

 2-1-386歌

 二つの峯からなる筑波山を遠く見上げているばかりということに満足できず、雪がまだ残り雪どけの道を苦労してきたことだ。」

 作者が登山した時季は、『常陸風土記』にいう「かがひ」を行う時期ではないようであり、単に常陸国が一望できる場所に登った、と詠っているかに見えます。しかし、登ってから遠望した常陸国に関する感慨を詠っていません。

 歌本文13句目にある「冬木成」を、土屋氏の指摘(上記⑬)に従えば、「冬こもる」時期とは、立春(現行の暦では2月4日前後)近くに当たります。官人には行事の重なる頃であり、本当に登山したのか、と思います。

 確認すると、歌本文は、このように登りたい理由と登る途中の描写に終始して、山頂に到達して後の作中人物がとった行動や感動を一切記していません。山頂に着いたという事実の指摘で歌を終えています。反歌も山頂に着いたという事実の指摘だけです。

 この現代語訳(試案)は、題詞の有無にかかわらず同じです。そして歌本文での「筑波山」には、登山対象の山の意のみとしました。

 題詞の歌本文で「筑波山」の表記が異なっています。題詞に「筑波岳」、長歌歌本文に「築羽乃山」、反歌歌本文に「築羽根」とあります。題詞が倭習漢文ですので書き改めただけかもしれませんが後程確認をしたい、と思います。

⑲ 次に、2-1-1757歌の題詞を検討します。題詞は「検税使大伴卿登筑波山時歌一首 幷短歌」です。

 題詞にある「検税使大伴卿」が筑波山に登った人物であるとすると、その人が詠った歌が『萬葉集』にありません。歌本文は、登った人物を先導して一緒に登ったと思える人物が、接待役を果たせた、と詠っている歌です。いうなれば自画自賛した歌です。これに応えて「検税使大伴卿」も詠うのが通常の接待時の対応ではないか。そうすると、来られた場合を想定して接待役の立場で習作したのが、この歌ではないか。あるいは、接待の宴席でこのような状況が考えられるがいかがか、と登山の予想を示し結局断念を導いた歌ではないか。いづれにしても机上の作の可能性が大きいと言えます。

 題詞のみではなく、歌本文を見ると、次のことを指摘できます(歌本文の引用を割愛します)。

第一 接待する人物が誰であっても用いることができる歌である。大伴卿個人への配慮がない。

第二 登ってからの眺望を詠っていない。暑い中の登山の苦しさを詠っている。

第三 反歌において、楽しみ方が異なるのに歌垣の登山とわざわざ比較している。

 なお、歌本文に「見」字を用いた語句があります。「筑波乃山乎 欲見 (君座登)」(つくばのやまを みまくほり(きみきませりと))と詠いだし、「峯上乎 公尓令見者 男神毛」(をのへを きみにみすれば ひこかみも)と山に登ったことを詠っています。「欲見」は、「見(目視し)たい」意ではなく、「登ってみたい」意と理解できます。

 土屋氏は、「平坦たる叙事で、特にとりあげるほどのところはない」歌、と評しています。歌本文における「筑波山」は、筑波山地の主峰である二峯のある山を指しているのみです。題詞にある「筑波山」も同じではないか。

 氏は、大伴卿について大伴道足という説を、歌の配列が時系列であることをも考慮して提案していますが、今は紹介のみとします。

⑳ 次に、2-1-1761歌の題詞を検討します。題詞は「登筑波山歌一首 幷短歌 」です。(歌の引用は割愛します。)

 歌本文に「見」字を用いています。「登而見者・・・鳥羽能淡海毛 秋風尓 白波立奴」(のぼりてみれば・・・)と山頂からの眺めを詠っており、「見」字は、「視界に入れる」意であり、作中人物は登って四方を見渡しています。

 そして、作中人物は雁の声を聞いており、「鳥羽能淡海」の白波を目にしています。筑波山山頂からではあり得ないことです。そして「筑波嶺乃 吉久乎見者」(つくばねの よけくをみれば)と、筑波山山頂を見上げたかの表記もあり、「登」ったのは、筑波山地であっても常陸国庁に近い丘ではないか。二峯ある筑波山ではなくても実際の筑波山地をも筑波山は意味し、そのほかの意は込められていません。

 題詞においてもおなじではないか。

㉑ 次に、2-1-1763歌の題詞を検討します。題詞は「登筑波嶺為嬥歌会日作歌一首 幷短歌」です。

 題詞について、土屋氏が次のように指摘しています。

「「為嬥歌会日登筑波嶺」とあるべき様にも考へられる。筑波山に登ったので、嬥歌の会の日の為に作った歌と解すべきであらう。『萬葉集』の題詞に用ゐた「為」は皆タメの意である。・・・即ち嬥歌会の日に諸人の唱ふべき為の歌詞として、この歌を作り、其の土地の人にあたへたと解すべきであらう。」

 氏は、作者が登山した際、嬥歌会のことを聞いて作ったと理解しています。

 しかし、常陸国庁において、少なくとも筑波山に登ることになった際には作者は嬥歌会のことを聞かされているはずです。筑波山を見つつ着任した官人はあの筑波山かと合点したはずです。

 そうすると、題詞は、土屋氏の指摘するように、次のように読み下すのではないか。

 「筑波の峯に登り、嬥歌の会の日の為に作る歌 ならびに短歌」

  題詞は、山頂に到着しての感慨として嬥歌の会の日のことを想像して詠った歌、の意となります。

 歌本文には、「筑波乃山之 裳羽服津乃 其津乃上尓 率而」(つくはのやまの もはきつの そのつのうへに あどもひて)とあります。「裳羽服津」は種々検討されていますが、今、地名「裳羽服」というところの「津」(あるいは「裳羽服」と修飾するところの「津」)と理解し、船着き場、渡し場という人が集う場所のような筑波山の女体峯近くの場所を意味し、題詞より「嬥歌会」の会場ではないか、と推測できます。題詞にいうように筑波山に登り着いたところ(広場)で「嬥歌会」が行われている、ということになります

 そして、そこに、山頂は「足柄から東の地域から人があつまり」(『常陸風土記』の記述)そのようなことができる広さがあるところではないのを作者は実感したと思います。往時の歌垣は、筑波山の麓でないと成立しないと思います。だから、作者は、実際には筑波山に登っていないのではないか。

 題詞を無視すれば、歌本文は、筑波山の裾野にある沼沢近くで行われた『常陸風土記』の記述にあるような歌垣の様子を想像した歌です。

 そのため、宴席で、いくつかの筑波山に関連する歌とともに披露された机上の作ではないのか。筑波山に何かを暗喩しているとは思いません。題詞にいう「筑波嶺」は「筑波山があるエリアを指すか山自体を指す」と思われますが、短歌における暗喩のようなものには気が付きませんでした。

 題詞は、巻九の編纂者の作文した倭習漢文であろう、と思います。

㉒ このように、長歌反歌に対する題詞4題においては、少なくとも元資料の歌では筑波山が何かの譬喩としても用いられているとは思えません。題詞においても、同じでした。

萬葉集』の部立てに配列されている歌として、もし筑波山に暗喩があるならば、万葉集各巻の編纂者の意図であろう、と推測できます。

 短歌のみの題詞においては2首とも元資料の歌に「筑波山」に2意があり、万葉集記載の歌としてもその可能性を指摘でき、筑波山のイメージも官人は共有していたとみられます。

 だから、この長歌2-1-385歌は、他の題詞の歌とは別の巻である巻三に記載されていますので、この題詞のもとにある歌にだけ、別の意が筑波山に付与されていてもそれは巻三編纂者のみの意図と理解することが許される、と思います。

 「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 次回も2-1-385歌の検討を続けます。

 (2022/6/27  上村 朋)

付記1.巻三における題詞「(官位)人物名+登・・・+作歌〇首」の意

①『萬葉集』巻三には表記のタイプの題詞が3題ある。

2-1-327歌 登神岳山部宿祢赤人作歌一首 并短歌

2-1-375歌 山部宿祢赤人登春日野作歌一首 并短歌

2-1-385歌 登筑波岳丹比真人国人作歌一首 并短歌

② 最初の2-1-327歌とその反歌である2-1-328歌は、行幸時の(代作の)歌というスタイルで、決意披歴の歌であり、聖武天皇天武天皇への誓いを詠う、と推測し、表E作成時(2022/3/21現在)、その「注4」で、「2-1-327,2-1-328:上記3つの長歌を献じられた今上天皇が、応えた歌である。天武天皇を尊敬しその治世をいつも顧みて進みたい、という決意表明ではないか。その意を受けて赤人が詠った歌である。長歌は「いにしへおもへば」と詠いおさめる。」と注記した。「登神岳」とは、祖先神への誓のために登った、ということになる。それは、「祖先神に誓う場所」に「神岳」が選ばれ、神岳に登ることにより他に抜きんでた権威をもたせていることになっている(ブログ2022/4/11付け参照)。

③ 次の2-1-375歌では、「登」と表現すると、「だんだんと進みあがる。用途がひろい」(『角川大字源』)とあるように、倭習漢文(即ち題詞)では同訓異義の語として利用できることを指摘した。題詞にある「登春日野」とは、祭祀を行う意が暗喩されているのではないか。漢字「登」字には「のぼせる」とよみ、「人を挙げ用いる・定める(登録する)・たてまつる(上進する))」とか「みのる・成熟する 」の意もある。

 そして題詞の現代語訳(試案)は次のとおり。

「山部宿祢赤人が、「春日野A」に至り(思いを込めて)作った歌一首ならびに短歌」

「春日野A」とは、平城京の東にみえる山々の麓の野(であり官人がよく祭祀を行う野)を指す。反歌(2-1-376歌)もあわせて検討すると、それは祭壇をつくりそこで皇位継承者の誕生を願っている歌である。(ブログ2022/4/25付けの「13.」以下参照)

(付記終わり 2022/6/27  上村 朋)