わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 光明子はどこに 萬葉集巻三配列その7

 前回(2022/5/2)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 舞うは誰 萬葉集巻三の配列その6」に続き、今回「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 光明子はどこに 萬葉集巻三の配列その7」と題して記します。歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋)

1.~15.承前

 『萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、各歌について判定した表E(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を得ました。そして、「関係分類A1~B」の歌30首から、巻三雑歌は天皇の代を意識した4つのグループに分かれました。「関係分類A1~B」以外の歌においても第三グループまで確認できました。

各グループの筆頭歌は、2-1-235歌、2-1-290歌、2-1-315歌および2-1-378歌です。

 

16.第四グループの「分類A1~B」以外の歌 2-1-381歌

① 巻三雑歌の天皇の代を意識した4つ目のグループは、聖武天皇以降の天皇を象徴する「寧楽宮」に居られる天皇の代の歌、と予想しているところです(ブログ2022/3/21付け「3.③」参照)。

 「その天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌」という判定は、前回同様に、題詞のもとにおける歌意で「聖武天皇以降の天皇」の代に関する歌という可能性で判断することとします。ほかの代の可能性の有無は関係ありません。

② 4つ目のグループで「関係分類A1~B」以外の歌の最初は、2-1-381歌です。

 2-1-381歌  山部宿祢赤人詠故太政大臣藤原家之山池歌一首

    昔者之  旧堤者 年深 池之瀲尓 水草生家里

いにしへの ふるきつつみは としふかみ いけのなぎさに みくさおひにけり

 ブログ2022/3/21付け「3.②第十」では「挽歌ではなく雑歌として巻三の編纂者は扱っていますので、亡くなったことによる政治的空白を表現しているのでしょうか。何の暗喩があるのかまだわかっておらず、歌の理解が宿題」となっていました。だから表E作成時の関係分類は「H」でした。それを、ここで検討します。

③ 題詞より検討します。

 作者が、山部赤人とあるので、作詠時点は聖武天皇の御代の神亀天平年間である可能性が大変高い。

 「故太政大臣藤原家」とは、「死後、太政大臣を贈られた藤原不比等が、支給された土地に建てた邸宅」の意でしょう。勿論本人とその家族の居住用ですが不比等は資人を賜り、日常的な行政事務の一部も邸内で処理していますので、その区画もあります。

 高官の邸は、死後も、子孫居住の者があれば使用が可能だったのでしょうか。親が没した時点におけるその子らの官位は一般的に低いのですが、親が支給を受けていた区画に転居は許されたのでしょうか。それに関する律令の規定は未確認です。

 「故太政大臣藤原家」の利用状況が作詠時点でどうなっているのか、山部赤人が誰のために作詠したのか、及びいつ披露したのかについて、この題詞は直接言及していません。阿蘇瑞枝氏も土屋文明氏も言及していません。

 これらの検討のため、「故太政大臣藤原家」の利用状況を確認してみます。

④ 藤原不比等は、養老4年(720)8月3日に病死、同年10月23日太政大臣を贈られました。その邸は死後、娘の光明子が相続したと諸氏は指摘しています。

 律令のもとで、官人の親が支給された宅地(平城京内の土地の区画)も相続の対象なのか、詳しいことは未確認でありなんとも言えません。

 また、『続日本紀天平13年正月丁酉(15日)条に、「故太政大臣藤原朝臣の家、食封(じきふ)五千戸を返し上(たてまつ)る。・・・」とあり、これは藤原広嗣の乱の償いに藤原家伝来の封戸(ふこ)を返上したものだそうです。食封とは、大まかにいうと「戸」単位に徴税する収入の一定の部分と一定の労働力の徴発の権利が今日の給与として与えられる、という制度であり、相続できるもの(功封)もあったのだそうです。職田、位田は没後直ちに収公される規定(田令8)ですが、位田については6年の収公猶予期間が神亀3年(726)の勅で設けられ、宝亀9年(778)4月の勅で1年間とされています。

⑤ 藤原不比等邸は、平城京(と平城宮)が造営された時、同時に区画を指定(して支給)されており、平城遷都(710)のとき造られたことになります。そこは土師氏が支配していたところなので、土師氏の氏寺がありましたが、全て取り壊されることなく不比等の邸宅に取り込まれたそうです。古瓦の出土から平城京遷都前の建物があったと推測されています。

 藤原不比等には、首皇子(皇太子、後の聖武天皇)と結ばれた娘・光明子がいます。邸内の一郭に、不比等は、その嫁した娘の居宅を設けています。それは、皇太子妃の居宅であるのか、娘が実家に戻った際の私宅であるのかわかりません。前者であれば、律令制のもとでは新たに支給された区画という整理になるのではないか。

 手続きの詳細は別途の検討として、「故太政大臣藤原家」を誰が利用しているかをみれば、光明子が、不比等死(養老4年(720))後相続したのならば、「故太政大臣藤原家」(の区画内)を利用し続けることが出来たでしょう。また、子孫が現に居住しているとして返納を猶予されている期間中であれば、光明子はやはり利用し続けることが出来たと思います。藤原不比等の息子は、官人となって既に活躍していますから、住むところ別途支給されているでしょうから、もっぱら光明子が「故太政大臣藤原家」を利用できたでしょう。

⑥ その後、神亀元年(724)2月の聖武天皇即位にともなって、光明子は夫人となります(位階は従三位となったようです。付記1.③参照)。その時点では確実に、宅地の区画あるいは建物の支給を受けられます。それがどこであったか『続日本紀』ではわかりません。

神亀4年(727) 11月14日に大納言従二位多治比真人池守が、「百官の史生已上を引(ひき)ゐて、皇太子を太政大臣の第に拝(をが)む」と『続日本紀』にあります。この時点には光明子は確実に「故太政大臣藤原家」内に居住しています。この時光明子の立場は聖武天皇の夫人でした。

 このように、光明子は、「故太政大臣藤原家」を、夫人となっても利用し続けている、と認められます。

⑦ その後、天平元年(729)8月10日立后されて、直後(2か月しないうちに)令外の官司として皇后宮職がはじめて設けられています(付記1.⑨参照)。皇后宮が新たに設けられたのでしょう。

 立后後の最初の正月(天平2年)16日、後の踏歌の節会相当の公式行事(宴)を行った後、聖武天皇は「晩頭に、皇后宮に移幸したまひ」ました。これが(光明子の)皇宮宮の『続日本紀』初出です(付記1.⑩参照)。「移幸」とは、宮の外に出られたことを意味しますので、「皇后宮」は当時の平城宮の外に設けられていたことになります。

 その天皇に「百官の主典已上陪従し、蹈歌且つ奏(つかへまつ)り且つ行く。宮の裡(うち)に引き入れて、云々」と『続日本紀』では記述が続きます。定められた公式の行事ではない事柄に触れた記述です(付記1.⑩参照)。「陪従」しているので、事前に立案承認された臣下の行動です。

 蹈歌(踏歌)とは「男女が集団的に足拍子を踏んで祝福した正月の晩の歌舞で、平安初期に(朝廷の)節会に定着」(『世界大百科事典』(平凡社 改定新版2007/9))とあり、男踏歌と女踏歌は別々の日にあり、舞い方も舞うエリアも全然違います。男踏歌は、朝廷を出て貴族の屋敷を巡るのだそうで、後年延喜式で禁止されています。

 16日は、女踏歌の日ですので、この記述にある臣下の行動の目的は何なのでしょうか。

 この記述でも皇后宮の位置に触れておらず、「故太政大臣藤原家」(あるいはその邸内にある以前からの居住空間)か、別の場所なのかはわかりません。

 そして天平2年4月には皇后宮職に始めて施薬院を設けています。その活動に必要な土地、建物などの所在地の記述は『続日本紀』にありません。

⑧ また、天平17年(745)5月11日「是の日、(恭仁京より)平城へ行幸したまひ、中宮院を御在所(おましどころ)とす。旧(もと)の皇后の宮を宮寺とす。諸司の百官、各本曹(もとのつかさ)に帰る」と『続日本紀』にあります(付記1. ⑬、⑭参照)。

 聖武天皇平城宮にある(恭仁京遷都以前からある)既存の中宮院を御在所としており、諸司の百官は「各本曹(もとのつかさ)に帰った」のですから、既存の皇后宮も光明子が戻れる状況にあった、と思われます。

 その既存の皇后宮を「旧の皇后の宮」と呼ぶとすると、光明子聖武天皇は、天平17年の恭仁京へ戻ることを想定して新たな皇宮宮を平城京に用意していたことになりますが、それは有り得ることでしょうか。「宮寺」とするのは今後の方針表明と理解すれば、そこに当面住むことができます。その宮を、「旧の皇后の宮」と表記するでしょうか。

⑨ この天平17年5月11日の記述に対して、専門が日本古代史である渡辺晃宏氏は、端的に(『続日本紀』には)「皇后宮を宮寺にしたとは書かれていない」し、「皇后光明子が元住んでいた邸宅と断っていることは、恭仁京遷都以前に光明子が住いを移している可能性を裏付ける」、と指摘し、「都が平城宮を離れている間も、平城京において皇后宮職主導の写経事業は行われており平城宮官衙や施設はけっして放棄されていない」とも指摘しています。

 そして、渡辺氏は、皇后宮(平城宮光明皇后宮)は、光明子立后天平元年8月10日)後に、旧長屋王邸(左京三条二坊の地)に設けられた、と二条大路木簡などより指摘しています。(『日本の歴史04 平城京と木簡の世紀』(渡辺晃宏 講談社2001) P155~ なお、付記2.参照)。

 長屋王邸(の区画)は、藤原不比等邸と同じく平城宮に最も近い一等地ですが、天平元年二月の長屋王の変で官に没収されているはずです。

 なお、光明子の(平城京における)皇后宮は、従来の定説では、藤原不比等邸の居宅を改造したのではないか、とされていました。

⑩ 神亀4年(727) 11月14日には(聖武天皇の夫人の立場の)光明子は、立太子された基皇子とともに「故太政大臣藤原家」内に確実に居ます。その後基皇子は「東宮」に移って(付記1.④参照)、神亀5年9月死を迎えています。基皇子とともに東宮を移ったとしても、その東宮が「旧の皇后の宮」を兼ねていることはないと思います。

 渡部氏の説に従って理解すると、神亀4年11月から2年2カ月後(かつ皇后となって5カ月後)の天平2年正月16日条の記述では旧長屋王邸に設けた「皇后宮」に光明子は既に居住しています。

 光明子の「故太政大臣藤原家」の利用状況をみると、夫人から皇后となっても皇后宮への入居準備が整う間、従来どおり「故太政大臣藤原家」を利用していたのではないか。その間は「故太政大臣藤原家」(或いはその邸内の居宅部分)を「皇后宮」と称することになったのではないかと推測します。

 そうであれば、題詞にある「故太政大臣藤原家」は、天平17年時点から見た、「皇后となった光明子が元住んでいた邸宅」(「旧の皇后の宮」)の意、を含んでいる理解が可能です。

 後の法華寺が旧藤原不比等邸に立地しているということを信じれば、「旧の皇后の宮」は「故太政大臣藤原家」の区画にあり、新たな皇后宮が旧長屋王邸に設けられたということになります。

 そして、「故太政大臣藤原家」の園地は、光明子が旧長屋王邸に設けた「皇后宮」に移るまで、管理が行き届いているはずです。

 その「皇后宮」に移った以後の「故太政大臣藤原家」は相変わらず光明子が利用していたのかもしれませんが、天平17年時点に、その「旧の皇后の宮」(故太政大臣藤原家)のある区画を、官有地にして聖武天皇が「宮寺」にする、という方針を示したのだと思います。

 なお、『続日本紀天平13年正月丁酉(15日)条を参考として「家」が藤原不比等を祖とする一族の意とするならば、「故太政大臣藤原家」とは、立后された子を出した氏族の意をも含むことになります。

 「故太政大臣藤原家」が属地あるいは属人のどちらで理解するかは、題詞の文章だけでは決めかねます。

⑪ ここまで、「故太政大臣藤原家」の利用状況を検討してきました。(律令での手続きは未解明ですが)常住しているかのように光明子が利用し続けている状況でした。その光明子立后後は旧長屋王邸に設けた皇后宮が居宅となっています。

 その結果、この歌は、「故太政大臣藤原家」を居宅のようにしていた光明子に関する歌が有力です。題詞からこの歌の作詠時点を推測すると、光明子が利用していた時代であって、かつ作者山部赤人の活躍した神亀天平の時代となります。下限は光明子立后されて旧長屋王邸に設けた皇后宮に移った直後となります。即ち、神亀元年(724)~天平2年(729)となります。

 別途、前後の配列からも作詠時点を推測し、天平初期が作詠時点と推測したところです(ブログ2022/4/25付け「14.⑨」参照)。

 この歌は、下命によって山部赤人が詠んだと想定すると、さらに、作詠時点を特定できます。

 神亀元年(724)~天平2年(729)の間には、聖武天皇即位、芳野離宮行幸紀伊行幸聖武天皇男児誕生(基皇子と安積皇子)、基皇子立太子薨去立后、などというエポックメイキングとなる事柄があります。遣唐使の派遣はこの間ありません。神亀2年 5月の芳野離宮行幸(『続日本紀』に記載なし)では笠金村が長歌と短歌を詠っています(2-1-925歌など)。

⑫ 次に、題詞にある「山池」とは、題詞が(倭習があるとしても)漢文であるので、邸内の園地を代表的な事物二つを並べて表現している、と思います。題詞は園庭全体を対象に赤人が歌を詠んだ、ということを記述していることになります。

 『懐風藻』に、藤原宇合の「暮春曲宴南池」と題する詩などがありますが、不比等邸がその舞台であるならば池は園地にいくつかあったのでしょう。

 以上から、「故太政大臣藤原家」に皇后となってもしばらく居住した光明子が関わるエポックメイキングなことを絞り込めば、第一に生まれた皇子が皇太子となったこと、第二に聖武天皇が理由をくどくど言いつつ立后したことになるのではないか。

題詞の現代語訳を試みると、次のとおり。

 「山部宿祢赤人が、(皇太子が居られる、あるいは立后された光明子がおられる)故太政大臣藤原家の園地を詠む歌一首」

 「()」にくくった部分は、歌本文との整合と更なる傍証を要します。また、藤原一族として考えると、天平元年9月25日条の「祭故太政大臣藤原朝臣墓」の時も候補となり得ます(付記1.⑧参照)。

⑬ 次に、歌本文を検討します。

 二句に「旧堤」と言い、三句に「年深」と言っているのは、不比等が病死した直後ではない時期の作であることを示唆しています。「年深」は漢籍からの翻訳語だそうです(『日本古典文学全集万葉集』(小学館))。

 四句と五句にある「池之瀲尓 水草」については、池田三枝子氏が、『芸文類聚』(げいもんるいじゅう)の「水部下」の「池」の項を検出して、いずれにも水生植物が好もしい景物として詠まれていることを指摘しています(「故太政大臣藤原家の山池を詠む歌」(『美夫君志』(1993)))。

⑭ 阿蘇氏は、池田氏の指摘を紹介しつつも、「旧不比等邸を詠み、寂寞な趣を表出している」ので赤人は「不比等亡き後の空虚感、不比等在世当時には感じなかった寂しさを池の周囲に感じたのではないかと思われる」と指摘しています。

 伊藤博氏は、次のように大意を示しています(『萬葉集釋注』1996 集英社

 「ずっとずっと以前からのこの古い堤は、年の深みを加えて、池の渚に水草がびっしり生い茂っている。」

 そして、「いにしへ」、「ふるき」、「としふかみ」など時間の久しさをいうのは神々しさを表し、草の生い茂るのをいうのは賛美でもある」として「いにしえの英雄を回顧するこういう歌は雑歌の部の巻末歌にするのにふさわしい」と指摘しています。

 氏は、「何周忌かの催しに、(赤人は)供奉して行き、その人の立場で詠んだ歌かもしれぬ」とし、天皇の場合を例として八周忌の詠とすると神亀五年(728)8月3日に披露された歌という推測をしています。

 しかし、この歌は、『萬葉集』巻三の雑歌の部にある歌としての理解が求められています。挽歌の部に配列されていないことに十分留意してよい、と思います。

 なお、氏は、もともとこの歌で巻三雑歌の部は終わっていた形跡があるとし、この歌以降の歌は、天平17年(745)段階より下る桓武延暦初年(782)頃の『萬葉集』が二十巻本への編纂の折り(に加えられた歌)ではないか、と指摘しています。なお、氏は、標目(「・・・天皇代」と「寧楽宮」)の考察を示していません。

⑮ 土屋氏は、次のように大意を示しています。

「昔からある古い堤は年が長くなったので、池の水際には水草が生ひ茂ってしまった。」

 氏は、「歌に年深みとあっても客観的にはさして長い年月を言ふのではないかも知れぬ。一二春秋後にもかうした感慨はある筈である。」とし、「それほどさし迫った懐旧の情に燃えて居るといふ態のものではない。」と指摘しています。標目については伊藤氏と同じです。

⑯ 雑歌の部に配列されているこの歌は、園地の主人への献歌により、天皇による統治に関して詠った歌であろう、と私は思います。

 池田氏の指摘のように、この歌は水生植物が好もしい景物として詠まれているうえ、「旧の皇后の宮」と題詞に表記せず、「故太政大臣藤原家」とあり、そしてその臣下の邸宅の景を詠っていることを重視すると、藤原家が特に関係するお祝いの場面を詠っているのではないか。

 この歌は、上記⑩で指摘したように当時「故太政大臣藤原家」の当主であるような光明子に献上した歌であろうと思います。

 律令体制として、次期天皇がはっきりしているのは、今上天皇の立場からは望ましい状況であろう、と思います。生まれたばかりの皇子が皇太子となったとき、臣下は祝意を直接皇太子に申し上げています(神亀4年(727) 11月辛亥(14日))。

 また、立后も重要です。律令体制では、皇后とは、天皇に万一のことがあった場合、天皇として即位することも有り得る地位だからです。さらに皇后が男子を授かれば、次期天皇の第一候補となります。

 臣下として、立后されたらば、祝意を示さないわけにはゆきません。

⑰ どちらの時点で作詠されたかというと、臣下が祝賀し、挨拶に伺った等を『続日本紀』に記す立太子の時の歌ではないか。少なくとも元資料の段階ではその可能性が高いと思います。

 巻三の雑歌としては、皇太子など次期天皇に関して詠った歌、という位置付けが可能です。この歌は、今上天皇聖武天皇)以降の天皇、未来の天皇について詠っている歌といえます。

 なお、藤原一族としてエポックメイキングな、(天平元年9月28日条の)天皇が故太政大臣藤原朝臣の墓を祭っていただいた事柄も候補となりますが、その場合は作者赤人が献上する相手は家を継ぐはずの男子であり、その人物は「故太政大臣藤原家」ではなく自分に支給された宅地に建てた邸に居住していた可能性が大です。「故太政大臣藤原家」(という区画)との関係が、光明子より薄いと思います。

⑱ 現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 「ずっと以前からある古い堤は、しっかりと池を守り、年を重ねて今日に至った。その池の渚には水草がしっかり生い茂っているよ。」

 元資料の歌としては、古い堤とは、ゆるぎのない律令体制、池とは今上天皇と皇太子、そして、水草とは、それを支える優秀な官人特に藤原家の複数の人物を、寓意している、と思います。

 そして作詠時点は、神亀4年(727) 11月と推測します。

 巻三の雑歌としては、予祝の歌として、古い堤とは、ゆるぎない律令体制、池とはこれから即位するであろう天皇、そして、水草とは、それを支える優秀な官人を、寓意している、と思います。

 編纂者が作文した題詞は、元資料の束縛を避けるべく、叙景に用いた邸宅名だけ記し、詠んでいる対象の天皇の御代を限定しようとしていません。

 また、傍証も示せないので、上記⑫に示した題詞の現代語訳(試案)での、()にくくった部分は、省きます。

 このように、2-1-381歌は、聖武天皇を対象にした歌ではなく、皇太子を対象にした歌あり、上記①の判断基準に従って、天皇の代を意識したグループ分けの第四グループの歌である、と言えます。

⑲ 歌本文にある園地の景は管理されていれば毎年毎季みられる景であろう、とおもいます。園地は高級官人の邸にはいくつか設けられており、不比等邸内の様子は伝聞のみでも赤人には十分詠えます。

 この検討は、土屋氏の「それほどさし迫った懐旧の情に燃えて居るといふ態のものではない。」という指摘がヒントになりました。

 元資料の歌として、もう一つの理解、即ち立后のお祝の歌の場合、光明子は、立后のとき28歳でした。聖武天皇も同年生まれです。子を得る期待は一族にも(母が不比等の娘宮子である)聖武天皇にもあったと思います。藤原不比等は子に恵まれています。     「故太政大臣藤原家」の一族のこれからを予祝する歌となるでしょう。

 そうであれば、巻三編纂者は、これから即位する天皇に関する歌へと、配列と題詞により仕立て上げたことになります。

 元資料の歌の意が、どちらであっても、巻三の雑歌に配列するのが難しい、と思います。

⑳ 表E作成時は、この歌を、関係分類を「H」(下命の有無が不明な事柄に伴う(作詠した官人自身の感慨を詠う)歌群)としました。

 巻三雑歌の歌としてこの歌が上記⑱のような歌であれば、作者が赤人なので、関係分類を「C」(天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(Dを除く))に変更するのが妥当であろう、と思います。

 「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただきありがとうございます。次回は2-1-382歌以下を検討します。

 (2022/5/16    上村 朋)

付記1.光明子関連の『続日本紀』の記述例(『新日本古典文学大系13 続日本紀二』より)

 各項の()内文章は上村朋の注記である。

① 神亀元年(724)2月甲午(4日):天皇、位を皇太子に禅りたまふ。(即位に伴い光明子は「夫人」になる。)

② 神亀4年(727)閏9月丁卯(29日): 皇子誕生す。(10月5日大赦、同月6日賜物、11月2日太政官と八省上表して祝賀し玩好物献上し宴を賜い、皇太子とする詔を発する。)

③ 神亀4年(727) 11月辛亥(14日):大納言従二位多治比真人池守、百官の史生已上を引(ひき)ゐて、皇太子を太政大臣の第に拝(をが)む。(同月21日従三位藤原夫人に食封一千戸を給う)

④ 神亀5年8月丙戌(28日):天皇東宮に御(おは)します。皇太子の病に縁りて、使を遣して幣帛を諸の陵に奉らしむ。(皇后が東宮に入ってかどうかの記述なし。)

⑤ 神亀5年(728)9月丙午(13日):皇太子薨しぬ。・・・太子幼く弱き為に喪の礼(ゐや)を具えず。但し京に在る官人以下と畿内の百姓とは素服する(喪服を着る)こと三日、諸国の・・・(以下略)

⑥ 天平元年(729)8月戌辰(10日):詔して正三位藤原夫人(光明子)を立てて皇后としたまふ。

⑦ 天平元年8月壬午(24日):五位と諸司の長官とを内裡に喚(め)しいる。而して・・・舎人親王勅を宣りて・・・(立后の理由等の詔。天平元年以降の記述に、立后に対する臣下の言動の記述はない。)

⑧ 天平元年9月丙子(28日):使を遣して渤海郡の信物を山陵六所に献(たてまつ)らしむ。併せて故太政大臣藤原朝臣の墓を祭らしむ。(山陵が天智天皇から六代と想定できるので、藤原家として名誉なことである。)

⑨ 天平元年9月27日:小野朝臣牛養を皇后宮大夫に任じる (皇后宮職は皇后光明子付きの宮司として令外の官司としてはじめて設けられる。判官以下の役職があり大夫は四等官の一つ。小野朝臣牛養は天平改元の詔の日に正五位下から従四位下に昇叙している。)

⑩ 天平2年正月辛丑(16日):天皇大安殿に御しまして、五位已上を宴したまふ。晩頭に、皇后宮に移幸(みゆき)したまふ。百官の主典已上陪従し、蹈歌且つ奏(つかへまつ)り且つ行く。宮の裡(うち)に引き入れて、酒・食(じき)を賜ふ。因りて短籍(たんじやう)を採らしむ。書くに、仁義礼智信の五字を以てし、・・・」 (養老職員令の規定では京官の主典以上は432人。16日は踏歌の節会の日。天皇臨席のところで年始めの祝詞を歌い、女性が舞う。あわせて宴を天皇が臣下に賜う。天皇の長久とその年の豊穣を祈る。年中行事となった以降はその2日前の14日に男の踏歌があり、天皇臨席の場の後、平安宮を出て振舞いを受けながら夜明けまで平安京内を回ったという。それからみると、16日皇后宮で(男女432人が)「蹈歌且つ奏(つかへまつ)り且つ行く」のは腑に落ちない。)

⑪ 天平2年4月辛未(17日):始めて皇后宮職に施薬院を置く。

⑫ 天平4年2月15日:故太政大臣の職田、位田、幷せて養戸は、並に官に収む。 (死後11年目に収公されるのは例外。職田、位田は没後直ちに収公される規定(田令8)。位田は6年の収公猶予期間が神亀3年の勅で設けられ、宝亀9年(778)4月の勅で1年間とされた)

⑬ 天平十七年五月甲子(7日):地震(なゐ)ふる。右大弁従四位下朝臣飯麻呂を遣して、平城宮を掃除(はらひきよ)めたまふ。

⑭ 天平十七年五月戌辰(11日)条:「幣帛を諸々の陵に奏る。・・・是の日、平城へ行幸したまひ、中宮院を御在所(おましどころ)とす。旧(もと)の皇后の宮を宮寺とす。諸司の百官、各本曹(もとのつかさ)に帰る。・・・是の月、地震ふること、常に異なり。往々(しばしば)ひらきさけて水泉湧き出づ」

付記2.1988年の長屋王家木簡発見と二条大路木簡発見について

① 発掘調査に関して、奈良国立文化財研究所『平城京左京二条二坊・三条二坊発掘調査報告』(1995)がある。

② 長屋王家木簡は、平城京左京三条二坊八坪東辺、長屋王の屋敷の東門のすぐ内側に掘られた南北溝状の遺構の遺物であり、屋敷内のゴミであるのが明らかである。

③ 二条大路木簡は、同坊八坪北辺の築地辺の外側、二条大路という公道上に南北両端掘られた東西に長い濠状の遺構の遺物である。共用のゴミ捨て場である。

④ 木簡は、それぞれ35,000点,74,000点が、1988年相次いで出土した。その当時全国で見つかっていた木簡の総数は65,000点であった。

⑤ 近接しているが遺構の使用時期が異なり、廃棄元も全く異なる。

⑥ 長屋王家の立地位置は、二条大路に接し南側にあり、時点は異なるが北側には藤原麻呂家が立地している。

⑦ 長屋王の変により官が土地建物を没収後、ここに光明子の皇后宮が造られたことが二条大路木簡などからわかった。

  (付記終わり  2022/5/16    上村 朋)

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 舞うは誰 萬葉集巻三配列その6 

 前回(2022/4/25)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 不相兒は誰 萬葉集巻三の配列その5」に続き、今回「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 舞うは誰 萬葉集巻三の配列その6」と題して記します。歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋) 

1.~14.承前

 『萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、各歌について判定した表E(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を得ました。そして、「関係分類A1~B」の歌30首から、巻三雑歌は天皇の代を意識した4つのグループに分かれました。「関係分類A1~B」以外の歌においても第三グループまで確認できました。

 各グループの筆頭歌は、2-1-235歌、2-1-290歌、2-1-315歌および2-1-378歌です。

 

15.第四グループの「関係分類A1~B」の歌再確認

① 「関係分類A1~B」以外の歌での第四番目のグループの検討の前に、「関係分類A1~B」の歌を再確認します。

 それは、当該グループであるという判定基準の指標がこれまでのグループと異ならざるを得ないからです。

 巻三雑歌の天皇の代を意識した4つ目のグループは、聖武天皇以降の天皇を象徴する「寧楽宮」に居られる天皇の代の歌、と予想しているところです(ブログ2022/3/21付け「3.③」参照)。

 当該グループである判定基準の指標は、これまで「歌の作詠(披露)時点がその歌群のグループの天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌」という基準でした。ほかの代の可能性の有無は関係ありません。

 しかし、『萬葉集』の歌は作詠(披露)時点が天平宝字3年(759)までであり、巻三の雑歌に限定すれば聖武天皇の時代までです。このため、作詠(披露)時点よりも題詞のもとにおける歌意で「聖武天皇以降の天皇」の代に関する歌という可能性で判断することとします。

 「その天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌」というのは同じであり、ほかの代の可能性の有無が関係ないことも同じです。(なお、第三グループまでの歌も当該天皇の代に関する歌意がくみ取れた歌でありました。)。

② そのため、「関係分類A1~B」の歌の四番目のグループの歌3首も、改めて「聖武天皇以降の天皇」の代に関する歌であるかを確認します。

 最初の2-1-378歌は、題詞「湯原王遊芳野作歌」から、「遊」が行幸準備時の意であり、聖武天皇の御代であれば、天平8年の芳野離宮行幸の準備の芳野行の時の歌と推測できました(ブログ2022/3/21付け「3.第八」及びブログ2022/4/25付け「14.⑨」参照)。

 「遊」の理解は2-1-243歌との比較検討によるものです(付記1.参照)。

③ 題詞の作文が「倭習漢文」であっても、構文に共通性があれば当該題詞の比較には意味があります。だから、吉野への行幸に関する題詞の表記のわずかな違いは、その表記の指す実態が異なっていることを示唆している、と思います。

 巻一には「幸于吉野宮(之)時」とある題詞が4題あるのに対して、巻三には「遊吉野時」(2-1-245歌)、「火葬吉野時(挽歌 2-1-432歌)、「幸芳野離宮時」(2-1-318歌)、及び「芳野(作歌)(2-1-378歌)各1題計4題あるものの、「幸」とある題は1題です。

 この題詞は、だから「幸」の時の作詠ではなく、また「芳野離宮(作歌)」でもなく、「芳野(作歌)」での作詠です。即ち、芳野離宮に向かう途中での作詠という理解が十分可能であり、それは歌本文の理解とも矛盾しません。

 また、題詞の文章は、新たな行幸の準備にあたっている、という理解が可能です。天平9年以降の行幸準備であり、新たな行幸の準備という時点設定が可能な歌です。

 それは、この歌が、聖武天皇以降の天皇の代に関する歌である、といえる、と思います。

④ そして、配列をみると、直前に配列されている2-1-375歌と2-1-376歌が恋の歌であって聖武天皇の男子の御子を待望する暗喩がありました。そうすると、この歌も、山蔭で鳴く鴨は、意に応えてくれない恋の相手を暗喩しているとも、また、未だに変化のない日常をおくっていると漏れ聞く(鴨の鳴き声)ばかりである、という暗喩もある、と認められます。

⑤ 2-1-378歌の次にあるのが、2-1-379歌と2-1-380歌です。この歌にも暗喩がある、と予想します。

 表E作成時は行幸に関連する業務での吉野滞在時の歌として、「A1」と判定しました。この2首にある「吾君」の理解に大別2案ありますが、そのどちらにおいても平城京でこの歌が作詠されたとすると、「吾君」を天皇とみれば「A1」ですがそうでなければ「I」と仮置きしなければならない歌と指摘し、再確認すべき歌としました(ブログ2022/3/21付け「3.② 第九」参照)。それをここで検討します。

 『新編国歌大観』より引用します。

2-1-379歌 湯原王宴席歌二首

   秋津羽之 袖振妹乎 玉匣 奥尓念乎 見賜吾君

   あきづはの そでふるいもを たまくしげ おくにおもふを みたまへあがきみ

 

2-1-380歌 (湯原王宴席歌二首)

   青山之 嶺乃白雲 朝尓食尓 恒見杼毛 目頬四吾君

   あをやまの みねのしらくも あさにけに つねにみれども めづらしあがきみ

⑥ 両歌の五句にある「吾君」(土屋氏の訓は‘わぎみ’)という表記は、巻一~巻四ではこの2首だけです。「我君」という用例もありません。「大君」とか「吾大君」の用例では、天皇を意味しています。

 土屋氏は、つぎのような大意を示しています。「玉匣」とは「櫛笥(くしげ)」の歌語であり、また、「ふた」・「覆ふ」・「箱」・「奥に思ふ」の枕詞ですが、氏は枕詞の意を大意から省くという方針を採っています。

 「あきつ羽の如き妙なる袖を振られる妹をば、吾が心に奥深く思ふのを、其の思ふ心を見知って下されよ、吾が君よ。」

「青山の峯に居る白雲の如く、朝に日にいつも見るけれども、なほ愛でたくうつくしき吾君であるよ」

 そして氏は、「(2-1-379歌の五句「見賜吾君」の)動詞ミルの目的はオモフヲであって、イモではあるまい。従ってワギミは宴席の他の人ではなくイモその人であらう・・・宴席の他の人では次の歌の「吾君」がつかなくなる」と指摘しています。

 そしてまた、2-1-380歌を(序歌を用ゐて調子と情緒を主として)「更に舞ふ処女に讃嘆した」歌であり、「宴席での模擬恋愛の表白」だが、「我が思ふ妹を他人に見賜へと誂へる歌としては卑俗になりすぎる」と指摘しています。

⑦ これに対して伊藤氏は、「吾君」を「あがきみ」と訓み、宴席の主賓と理解しています。「イモ」は「吾君」とみていません。

 『万葉集』歌の用例で、「大君」とか「吾大君」が天皇を指しているので、「吾君」も天皇や自分の仕える人あるいは上司を指しているとも理解できる語句です。題詞からは、宴席の歌なので、「吾君」は主賓に迎えている人物と理解できます。

 そして、枕詞を有意の枕詞として「お化粧箱に大事にしまいこんでおきたい」の意を加えると、歌の配列からは、「吾君」とは「天皇・自分の仕える人」であり作者湯原王から言えば聖武天皇か次代の孝謙天皇になぞらえることが可能となり、2-1-379歌は、次のように現代語訳できます。

 「トンボが羽をひらひらさせて優雅に飛び回るように、袖を優雅に動かし舞っている妹(女性)を私たちは大事にお化粧箱にしまっておきたいほど大事なお方である、と心に深く思っています。それをご照覧ください、(私が仰ぎ見る)わが君よ。」

 この歌は、主賓に挨拶している歌となります。

⑧ 次に、2-1-380歌の三句の万葉仮名「朝尓食尓」は、巻三の譬喩歌の部の2-1-406歌の初句にもあります。「朝も昼も」の意と思います。

 そして2-1-380歌の五句にある「目頬四(めづらし)」の意には、「賞賛すべきだ・すばらしい・かわいらしい」とか「目新しい・清新だ」とか「珍しい・めったにない」(『例解古語辞典』)があります。

 2-1-379歌の「吾君」が女性であれば、同じ題詞のもとにある2-1-380歌の「吾君」も同一の女性であろうと思います。

 そのうえ、この歌は、四句までに詠っている人物が、五句で褒め上げている、と理解が可能です。現代語訳を試みると、

 「(前歌の「妹」は)青山の峯にいつもかかっている白雲のように、朝も昼もいつも仰ぎ見る方でありますが、(舞うのを拝見させていただき、改めて思うのは)すばらしい吾君でありますことよ。」

 この場合、「吾君」とは、皇位継承順位が作者湯原王より上位の皇族の女性となるでしょう。

⑨ 題詞は、「湯原王宴席歌二首」とあり、前歌の題詞(「湯原王遊芳野作歌」)と異なっており、同じ作者の歌でも前歌とは別の機会に設けられた宴席におけるペアの歌であることを巻三編纂者ははっきりと示しています。また、湯原王がどこで詠んだのかは『萬葉集』と『続日本紀』に確たる記述がありません。

 しかし、皇位継承順位第一位である人物が舞を披露した例があります。

 『続日本紀天平10年5月癸卯には、「癸卯(5日)、群臣を内裏に宴(うたげ)す。皇太子、親(みづか)ら五節を儛ひたまふ。右大臣橘宿祢諸兄。詔を奉けたまはりて太上天皇元正上皇)に奏して曰はく、・・・」

とあり、天平10年立太子をすませた阿倍内親王が、天平15年(743)5月5日に元正上皇の御前で五節舞を披露しています。

 その際、右大臣橘宿祢諸兄は、元正上皇に、(天武天皇が秩序を維持するために礼と楽とが行われていくようにと、五節舞を造ったことを述べ)阿倍内親王に習わせ謹んで体得させて元正上皇の前で披露させたという聖武天皇のお言葉を言上し、元正上皇が、国の宝として皇太子に舞わせるのを見れば、天下に行われている大法は絶えることがないと感知されること、今日のこの舞は単なる遊戯ではなく、君臣祖子の間の倫理を教え導くものであり、その趣旨を銘記させるために人々に昇叙させてもらいたい、と聖武天皇に申し上げ、それをうけて、右大臣橘宿祢諸兄は、聖武天皇の「汝等も元正上皇のお言葉にあるように、君臣祖子の理を忘れることなく・・・長く遠く仕え奉れとして昇叙等を行う」というお言葉を群臣に披露しています。(『新日本古典文学体系12 続日本紀一』(岩波書店)より)

⑩ この状況は、題詞(「湯原王宴席歌二首」)にいう宴席の候補になる、と思います。その場で歌の朗詠ができなくともその時の聖武天皇のお言葉に「和した歌」に位置付けが可能な歌です。

 上記⑦と⑧の現代語訳(試案)は、「和した歌」という理解に叶っています。

 阿倍内親王は、天平勝宝元年(749)聖武天皇の譲位により即位しています。

⑪ 2-1-379歌は、『萬葉集』が世にでたころから振り返ると、別の理解も可能ではないか、と思います。暗喩をこめることが出来る歌です。

 この歌は、巻三の編纂者からみれば編纂者の当代においては過去に詠われた歌として引用ができる歌です。

 四句「奥尓念乎(おくにおもふを)」にある動詞「おもふ」には、「心に思う」のほか「いとしく思う」・「心配する・憂える」・「回想する・なつかしむ」の意があります(『例解古語辞典』)が、「心に思う」意と理解します。

 「吾君」を、主賓である天武系の天皇と想定してください。「舞っている「妹」」を持統天皇などに見立てても上記⑦の現代語訳(試案)はそのままでよい、と思います。2-1-379歌を再掲すると、

 「トンボが羽をひらひらさせて優雅に飛び回るように、袖を優雅に動かし舞っている妹(女性)を私たちは大事にお化粧箱にしまっておきたいほど大事なお方である、と心に深く思っています。それをご照覧ください、(私が仰ぎ見る)わが君よ。」

 天武系の人物の皇位継承が決まったので、臣下として望みが潰えた天智系の天皇を慰撫している歌となります。

 2-1-380歌は、上記⑧の(試案)から、五句にある「目頬四(めづらし)」の意を「目新しい・清新だ」と採り、

 「(前歌の「妹」は)青山の峯にいつもかかっている白雲のように、朝も昼もいつも仰ぎ見る方でありますが、(それはそれとし、今上天皇は)清新な吾君でありますことよ。」

と、「吾君」を褒めたたえた挨拶歌となります。

⑫ この題詞において、天皇臨席の宴席とすれば、この両歌の関係分類は「A1」であり、表E作成時のままとなります。そしてその天皇の想定には、次期天皇やその先で即位する天皇も加えられます。

 題詞のもとにおける歌意は「聖武天皇以降の天皇」の代に関するものとなり、第四のグループの歌といえます。

 2-1-375歌と2-1-376歌が、聖武天皇の男子の御子待望の歌であったとすると、新しい天皇にお仕えする決意の歌がこの題詞のもとの2首といえます。

 このように、表E作成時に関係分類を「A1」とした3首は、「聖武天皇以降の天皇」の代に関する歌になっていました。つまり「寧楽宮」の時代の歌でした。

 「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 次回は、「関係分類A1~B」以外の歌の検討を2-1-381歌から始めます。

 (2022/5/2    上村 朋)

付記1.「倭習漢文」である題詞の「遊」について

① 巻三に「遊」字を用いた題詞が2題ある。

2-1-243歌 弓削皇子遊吉野時御歌一首

  滝上之 三船乃山尓 居雲乃 常将有等 和我不念久尓

  たきのうへの みふねのやまに ゐるくもの つねにあらむと わがおもはなくに

2-1-378歌 湯原王遊芳野作歌一首

  吉野尓有 夏実之河乃 川余杼尓 鴨曽鳴成 山影尓之弖

  よしのにある なつみのかはの かはよどに かもぞなくなる やまかげにして

② 前者は、常にある雲のようにいつまでも生きられるとは私は思ってもいない、という自らの生の無常を詠っている。直前の長歌反歌は、「おほきみは かみにしませば・・・」と詠い、直後の歌は、これ(2-1-243歌)に和する歌と題詞にあって「おほきみは ちとせにまさむ・・・」と詠っている。そうすると、作者は自分を卑下して「大君」を讃えているかの歌である。天皇臨席の場ではこのような発想で讃えにくい。題詞の「遊」という漢字は少なくとも「行幸」時の公の席のものではない、ということを意味していると思える。

 弓削皇子文武天皇3年(699)年薨去なので文武天皇3年までに詠われている歌である。

③ 後者は、吉野山中の川淀に鴨がないているがそこは山蔭になっている、と詠う。「大君」を讃えるという比喩が、詞書や前後の配列からも認めにくい歌である。天皇の 臨席の有無を考えると前者の「遊」と同じと理解してよい。

(付記終わり。 2022/5/2   上村 朋)

わかたんかこれ  猿丸集は恋の歌集か 不相兒は誰 萬葉集巻三配列その5

  前回(2022/4/11)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 萬葉集巻三の配列その4」に続き、今回「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 不相兒は誰 萬葉集巻三の配列その5」と題して記します。歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋)

1.~11.承前

 『萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、各歌について判定した表Eを得ました(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)。そして、「関係分類A1~B」の歌30首から、巻三雑歌は天皇の代を意識した4つのグループに分かれました。「関係分類A1~B」以外の歌においても第二グループまで確認できました。

 各グループの筆頭歌は、2-1-235歌、2-1-290歌、2-1-315歌および2-1-378歌です。

12.第三グループの「分類A1~B」以外の歌 2-1-330歌など

① 「分類A1~B」以外の歌で第三番目のグループの最初の歌2-1-329歌を確認したので、今回は2-1-330歌からです。聖武天皇の御代のみの時代の歌からなると予想しており、作詠(披露)時点は、聖武天皇が譲位された天平勝宝元年(749)が下限となります。

② 第三グループの歌である判定基準は、これまでのグループの判定基準と同じです。

即ち、「歌の作詠(披露)時点がその歌群のグループの天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌」と判定します。ほかの代の可能性の有無は関係ありません。

 例えば、作者未詳の伝承歌と推定でき、歌本文の内容(あるいはその暗喩)が当該天皇の代に改めて披露されてもおかしくないのであれば、そのグループの期間中に披露された歌の可能性を認め、そのグループの歌とみなします。

 また、作者が、そのグループの期間中に現役の官人であって、題詞の文章と歌本文が当該天皇の代の作詠あるいは披露されたとして矛盾がなければ、そのグループの歌とみなします。

③ さて、2-1-330歌は、題詞に「・・・通観作歌」とあります。作者通観は伝未詳であり、歌本文も時代を特定できる内容ではありません。聖武天皇の御代に作詠(披露)された歌ではない、と証するのが困難です。

 歌の内容における雑歌の要素は、このような戯れの咒をするような世の泰平を詠っていることか、と思います。

 直前にある2-1-329歌も、天平4年か天平6年が作詠時点で、聖武天皇の御代として順調な、泰平の世の時期の歌でした。藤原広嗣の乱(740)はまだ生じていません。

④ 2-1-331歌の作者小野老朝臣は、天平9年(937)大宰大弐従四位下で卒しています。大伴旅人大宰帥の時大宰少弐でした。この歌から2-1-340歌までは、一つの歌群を成しています。「寧楽」という表記のある2-1-331歌の検討時(ブログ2022/2/14付け「18.⑦」以下参照)、伊藤博氏も指摘しているように小野老が神亀6年(729)3月従五位上となったお祝いの席の歌と分かりました。

次にある2-1-341歌~353歌は、題詞に「大宰帥大伴卿讃酒歌十三首」とあり、聖武天皇の御代に大伴旅人天平13年(731)薨)が作詠(披露)した歌です。

 2-1-354歌は、旅人の讃酒歌に和した歌といえます。作者沙弥満誓は、俗名笠朝臣麻呂であり、元明上皇の病気平癒祈願のため、養老5年(721)出家し養老7年筑紫観世音寺別当となっています。大宰師大伴卿と重なります。

 これらも泰平の世を寿いでいます。

⑤ 次の2-1-355歌の作者若湯座王と、2-1-356歌の作者通観と2-1-357歌の作者日置少老(へきのをおゆ)の3人は、伝未詳です。

2-1-358歌の作者生石村主真人は、天平10年(738)頃美濃少目としかわかりません。

2-1-359歌の作者上古麿も伝未詳です。

これらの歌も、聖武天皇の御代で披露されたことがないということを証するのは難しいところです。各歌本文は、穏やかな各地の様子を詠っています。

⑥ 2-1-360歌ほか5首の作者山部宿祢赤人は、生没年未詳です。これらの作詠時点は題詞などから特定できませんが、題詞に年号とともに赤人名明記の題が2題あります。これより、聖武天皇の御代には官人であったことが分かります。

 2-1-922歌  神亀元年甲子冬十月五日幸紀伊国于時山部宿祢赤人作歌一首 幷短歌 (聖武天皇行幸

 2-1-1010歌 八年丙子夏六月幸芳野宮之時山部宿祢赤人応詔作歌一首 幷短歌(天平8年 同上)

 また、2-1-943歌ほか3首のように、直前にある長歌(と短歌)の題詞を配列上重視すれば、歌本文に同じ景を詠んでおり、作詠時点を特定できる歌もあります。

 次の2-1-366歌の題詞は「或本歌曰」であり、2-1-365歌までの赤人歌と同時代の歌でよみ人しらずの伝承歌であり、聖武天皇の御代には披露されていない、とも言いきれません。

⑦ 次にある2-1-367歌~2-1-370歌は題詞に笠朝臣金村が「作歌」とありますが、題詞のみで作詠時点は特定できないものの、題詞に年号とともに金村の名が明記されているものが複数題あり、聖武天皇の御代に官人であることが分かります。

 2-1-912歌  養老七年癸亥夏五月幸于芳野離宮時笠宿祢金村作歌一首 幷短歌 (元正天皇行幸

  2-1-546歌  神亀元年甲子冬十月五日幸紀伊国之時為贈従駕人所誂娘子笠宿祢金村作歌一首 幷短歌  (聖武天皇行幸)

 2-1-925歌  神亀二年乙丑夏五月幸于芳野離宮時笠宿祢金村作歌一首 幷短歌

 2-1-933歌  冬十月幸于難波宮時笠宿祢金村作歌一首 幷短歌 (神亀2年か)

 2-1-940歌  三年丙寅秋九月十五日幸於播磨国印南野時笠宿祢金村作歌一首 幷短歌(神亀3年)

などという題詞です。

⑧ 笠朝臣金村のこの4首以下は、「たまたすき」の語意確認の際、ブログ2020/10/26付けで一度検討しています。2-1-369歌に「たまたすき」の用例がありました。

 2-1-367歌と2-1-368歌は、越前国に入国直前の歌であり、国守の交代であるならば、国府より出迎えの者がいるはずです。2-1-369歌と2-1-370歌は敦賀より国府に向かう海路の歌であり、2-1-371歌が国府到着後の公式の宴での挨拶歌、2-1-372歌はそれへの応答歌とみることができます。2-1-373歌は、新たな国守などの到着を待ち望んでいた、と詠う先任している者らの歓迎の歌ではないか、と思います(同ブログ「付記1.」参照)。

 2-1-371歌は題詞に「石上大夫(いそのかみまへつきみ)歌一首」とあります。「大夫」と尊称される「石上」氏の人物が、左注にある石上朝臣乙麿であるとすると、『続日本紀』に越前国守に任じられた記事はないものの、乙麿は、神亀元年聖武天皇即位後に正六位下から従五位下に叙され、天平4年従五位上丹後守などを経て天平勝宝元年(749)孝謙天皇の即位に伴って中納言となり、その翌年9月1日薨去しています。このように、乙麿は聖武天皇の御代に活躍した官人です。

 この歌は、表E作成時に判定したように、着任の挨拶歌です。内容をみると、何人もが口にしている歌と思われ、巻三編纂者は石上大夫に仮託したのではないか。

⑨ 2-1-373歌の作者安倍広庭は、天平4年(732)薨去していますが、聖武天皇の御代の作詠(披露)の可能性を否定できません。表E作成時は、暗喩があり、主賓の到着を待ち望んでいる歌と理解し、宴席の歌となり、関係分類は「C」と判定しました。「伊藤氏は宴席の歌らしい」と指摘しています。(同ブログ付記1.」参照)。

 2-1-374歌は、「某・・・作歌」タイプの題詞ではないので、伝承歌です(同ブログ「付記1.」参照)。門部王が披露しているので、聖武天皇の御代でも披露された歌といえます。任国での望郷の歌であり、題詞にある「思京歌」に留意すると、着任後しばらくするとこのような気持ちとなる、と先任の官人も口にした歌です。関係分類は「C」と判定しました。

 以上の歌は、すべて聖武天皇の御代が作詠(披露)時点となりました。

 

13.2-1-375歌など

① 次に、2-1-375歌ほか1首は、題詞より、山部宿祢赤人の作詠、また、2-1-377歌も題詞より石上乙麿朝臣と、作者名が明らかであり、2-1-360歌などと同様に聖武天皇の御代の作詠(披露)といえます。

 このように、第三グループの「分類A1~B」以外の歌と予想していた歌は、すべて、聖武天皇の御代に作詠(披露)された歌であるのを全否定できない歌ばかりでした。

② しかしながら、長歌2-1-375歌は「不相兒故荷」(あはぬこゆゑに)と詠いおさめており、恋の歌です。雑歌の要素がはっきりみてとれません。

 土屋文明氏は、「一首の構想は、嘱目の自然に寄せて恋情を抒べる形である」が、「自然と心情との契合は必ずしも顕密とは言はれない」と指摘しています。相聞ではなく雑歌に配列されているのは、「題詞に見える如く春日野登高の作の為である」とも指摘しています。

 伊藤氏は、「「恋」を主題とする宴席歌」と指摘しています。氏は、雑歌を「公の場におけるくさぐさの歌」と理解されています。長歌とその反歌なので、下命があって赤人が作詠したものと推測でき、その披露となれば公的な宴席が第一候補であり、伊藤氏のいう雑歌でも一般的な定義(例えば『日本大百科全書』)の雑歌としても納得がゆきます。

③ 表E作成の際は、「表面的には相聞歌(恋の歌)であり、雑歌の部に配列されているので雑歌に配列する理由が暗喩などであると思います。それがわからないので、雑歌としては「天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を詠う歌群」(「I」)と判定しました。念のため、次回に再確認します。」(ブログ2022/3/21付け)と宿題となっていました。それを、ここで、検討します。

 天皇の下命があれば伊藤氏のいう「公の場におけるくさぐさの歌」という雑歌の定義の範疇の歌になり、関係分類は「C」となり得ます。また、献呈歌であれば皇子に対してのものとして関係分類は「F」となり得ます。しかし、題詞の語句だけでは献呈歌(例えば2-1-263歌)とも決めかねます。

④ 改めて、2-1-375歌を、検討します。題詞は、倭習漢文で作文されている文章です。

 題詞の作文のタイプは、ブログ2022/4/11付けの「11.④」にあげた、

 (官位)人物名+登・・・+作歌〇首

であり、巻三には3題あります。「登・・・」の検討を最初にします。

2-1-327歌 登神岳山部宿祢赤人作歌一首 并短歌

2-1-375歌 山部宿祢赤人登春日野作歌一首 并短歌

2-1-385歌 登筑波岳丹比真人国人作歌一首 并短歌

萬葉集』において、題詞に「神岳」、「春日野」あるいは「筑波岳」とあるのはこれらの各1首しかありません。別途「筑波山」はあります。

⑤ 2-1-327歌の題詞にある「神岳」を、歌本文では「三諸乃 神名備山(尓)」(みむろの かむなびやま(に))と詠っていると思えます。『萬葉集』における題詞には、「神名備」とか「神名火」もありません。

萬葉集』の歌本文に「神岳」という表記は次の2首があります。

(巻二 挽歌)2-1-159歌 天皇崩御之時大后御作歌一首

     「・・・  神岳乃 山之黄葉乎 ・・・」(かむおかの やまのもみちを ・・・)

   (巻九 雑歌)2-1-1680歌  (大宝元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇紀伊国時歌十三首(2-1-1671~2-1-1683)

  「勢能山尓 黄葉常敷 神岳之 山黄葉者 今日散濫」

  (せのやまに もみちつねしく かむをかの やまのもみちは けふかちるらむ)

 万葉仮名「神岳」を「かむお(を)か」と訓んでいます。諸氏は、神岳に、雷岡・甘樫丘・みは山(明日香村橘寺東南のミハ山)・南淵山などを比定しています。

 しかし、漢字「岳」字の意(第一義が高大な山)と「神岳」の比定地のイメージはだいぶ違います。

⑥ 2-1-385歌の題詞にある「筑波岳」は、『萬葉集』の歌本文にその表記はありません。

 『萬葉集』の題詞には、「筑波山」が計4題。「筑波嶺」が1題あり、2-1-385歌本文に「国見為 築羽乃山」とあるほか、『萬葉集』の歌本文には、筑波根、筑波嶺、都久波尼(つくはね)などの表記があります。「つくばやま」と訓む別の万葉仮名表記もあります。

 歌本文における「つくばね」などは、常陸国(現茨城県)にある筑波山を指しており、「筑波岳」も2-1-385歌の歌本文をみれば筑波山に比定できます。筑波山は、大和三山と比較すれば「高大な山」に近いと言えるかもしれませんが、「岳」のイメージと差があるところです。

 そうすると、2-1-375歌の題詞にある「春日野」の「野」も、倭習漢文における表現であり、漢字「野」のイメージとギャップがあるかもしれません。

 なお、表E作成時の関係分類の判定は、2-1-327歌を今上天皇が即位時の決意表明をした歌(の代作を赤人がした)と理解して「A1」とし、2-1-385歌を管内巡察の歌と理解して「C」としました。これに比べると2-1-375歌は、上記③に記したように「I」とした、みかけは恋愛の歌であり、作詠事情がほかの2首とは異なっている、と思えます。

⑦ 漢字「野」字は、「もと、いなかや、ひいて、郊外の村里、のはら」の意であって、「aいなかや bの(町はずれ・いなか・のはら・はたけ・民間) cかざりけがない・いなかびた dいやしい」などの意があります。(『角川新字源』)

 諸氏は、この題詞にある「春日野」を、「春日大社を中心とする一帯」(伊藤氏)、「奈良市東部の春日山の西麓一帯。野は山沿いの傾斜地」(阿蘇瑞枝氏)、「春日山麓の高地であらう。春日山とは春日の地の山、即ち現在の奈良東方の連峰。みかさの山はその一峯。」(土屋氏)などに比定しています。

 平城京との位置関係を確認します。平城京の北部に平城宮が位置しています。その平城宮の真東の方向に東大寺が位置し、東大寺から東南方向に春日大社が位置します。春日大社の裏山が御蓋山(標高297m 三笠山 国土地理院1/5万図では「春日山」)となります。

 東大寺平城京の左京北部から張り出した形になる外京の東端を南北に走る道(七坊大路)に接してその東(平城京外)に位置します。春日大社も当然平城京の外に位置します。

 なお、聖武天皇の御代に春日大社の社殿は建っていません。春日大社HPによると、所在地は奈良県春日野町160であり、「神山である御蓋山山頂浮雲峯」に茨城県鹿島より武甕槌命様をお迎えし、社殿を神護慶雲2年(768)社殿が造営された」とあります。

⑧ 「春日」を地名とみて探すと、『続日本紀』の「和銅元年九月二十七日」条に、「至春日離宮」とあります。元明天皇行幸されています。離宮の名は地名の名にちなむ場合が多い。

 承平(しょうへい)年間(931~938)ごろ成立といわれる『倭名抄』に、「春日郷(加須加)」という表記が、大和国添上郡の郷名としてあります。古くはこの郷域をこえて、春日山とその南に連なる高円山の西麓一帯のかなり広い地域を春日(かすが)と称したらしい(『新日本古典文学大系12』397p)。

 堀池春峰氏によれば、ここにひらけた丘陵地は春日野とも高円野ともいわれて貴紳の遊行の地として知られ、聖武天皇天平11年ここで遊猟し(2-1-1032歌)、そのころここにあった高円の宮(2-1-4339歌&2-1-4340歌)、「高円の離宮」「高円の野の上の宮」「高円の尾の上の宮」(2-1-4530歌&2-1-4531歌)は、春日離宮の後身と指摘しています(同上)。

⑨ 当時は、集落(あるいは行政単位の郷)に接する川が、その集落等の名を付けて呼ばれています(同じ川が集落ごとに名を替えている例がある)が、春日川は見当たりません。近くに川が一つだけあったわけではないくらいの広い範囲が「春日」の地であって、現在の新薬師寺あたりも「春日」と称していた地域内のようです。東大寺の寺地の範囲を記した「東大寺山境四至図」という絵図(作成は天平勝宝8年(756))には新薬師寺が描かれ、その西側には「人家」と注記した〇印が2,3あります。新薬師寺は人家の山側の原野か林であった傾斜地に立地したと見えます。

 そうすると、東大寺以南の傾斜地で、集落も耕地もないところで、野遊びもでき庶民にとり薪を採りに行けるエリア(原野か林状の状態の傾斜地)を総称して「春日野」、その傾斜地を形成した山々や背景の山を、総称して「春日山」と当時呼んでいたのではないか。

⑩ 実際の御蓋山は、「なぶんけんブログ」のコラム「作寶樓2009/8付け:三笠の山に出し月かも」によると、

春日山連山の一峰、というよりもその中心をなすこの山は、平城宮跡のあたりからだと、春日山連山で最高標高を持つ背後の花山などと重なって、その輪郭が確認しづらいのですが、奈良公園の近辺からだとその端正な山容をよく把握することができます。」

とのことであり、平城宮から東を遠望した際には特に目立つ山ではないようです。

 平城京の東に広がる「野」は「春日山連山の野」であり、その野を目の前にしても「直近の山・峰の野」と呼ばないで、やはり「春日野」と言う場合もあったのではないか。

 それは、官人にとり、「野」は多用途に利用できるエリアであり、認識する「野」と称するエリアは、平城京の東にあるなら一つの名前で構わないという認識だったのではないか(以後「春日野A」という)。それのバックにあたる山など東方に見える山々を、「春日山」と称したのではないか(以後「春日山A」という)。

 そうすると、「春日里」も、「春日野A」が近くにある別宅、という意の普通名詞であって、実際は平城京内にある、借りている家屋敷でも「春日野A」の近くであれば「春日里」と称して通用したのではないでしょうか。

⑪ この立場からみると、伊藤氏のいう「春日大社を中心とする一帯」という「春日野」の定義は、範囲が狭いので、この歌の作者がイメージしているエリアを例示しただけではないか。

 阿蘇氏のそれは春日山が「なぶんけんブログ」のいう「春日山連山」を意味していても、「春日山A」よりも南縁が少ないと思えます。

 土屋氏のそれは、「春日山連山」の比高が相対的に高いエリアを指しており、緩傾斜地の割合が少ないように感じられます。

 『萬葉集』の歌本文での用例でも「春日野A」等が妥当であるかは、別途検討しなければなりません。

⑫ 次に、漢字「登」字は、「aのぼる(任用される・位につく・合格する・高いところにのぼるなど) bのぼせる(人を挙げ用いる・定める(登録する)・たてまつる(上進する)) c祭祀に用いる器の名 dみのる・成熟する e年齢が高い」などの意があります。「のぼる・のぼせる」という同訓異義の漢字の「上」については、「下からうえにのぼることであり、「登とは異なり上下まっすぐな場合、すみやかである場合についていう」等とあり、「昇」は、「日があがること」とあり、「登」は「だんだんと進みあがる。用途がひろい」とあります(『角川大字源』)。

「登」と表現すると、倭習漢文では同訓異義の語として利用できる、ということです。

そのため、題詞の現代語訳を試みると、今のところ「登」の理解は宿題として、次のようになります。

 「山部宿祢赤人が、「春日野A」の野に「登」り、作った歌一首 並びに短歌」

 

14.375歌本文の現代語訳(試案)

① 次に、歌本文を検討します。そして題詞と次歌(反歌)とあわせて雑歌たる所以を、検討します。

 歌本文を引用します。

 2-1-375歌

 春日乎 春日山乃 高座之 御笠乃山尓 朝不離 雲居多奈引 容鳥能 間無数鳴 雲居奈須 心射左欲比 其鳥乃 片戀耳二 晝者毛 日之盡 夜者毛 夜之盡 立而居而 念曽吾為流 不相兒故荷

「はるひを かすがのやまの たかくらの みかさのやまに あささらず くもゐたなびき かほどりの まなくしばなく くもゐなす こころいさよひ そのとりの かたこひのみに ひるはも ひのことごと よるはも よのことごと たちてゐて おもひぞわがする あはぬこゆゑに」

 2-1-376歌

高按之 三笠乃山尓 鳴鳥之 止者継流 恋哭為鴨

「たかくらの みかさのやまに なくとりの やめばつがるる こひもするかも」

② 2-1-375歌の初句にある「春日」について、『萬葉集』での「春日」の用例を確認したところ、次のようでした。

 第一 「春日(之)山 春日野 春日之野辺 春日里」という用例では、「かすが」と訓み、普通名詞の「山・野・野辺・里(さと)」を修飾する。

 第二 「春日」という用例では、「はるひ」と訓み、「四季の一つである「春」の季節の或る日」の意である。

 このため、初句「春日」の意の第一候補は、「春の或る日」とします。

 漢字「乎」は、疑問その他の助字に用いられています。『角川新字源』の「助字解説」には、「a於と同じbか・や・かな」とよみ、疑問・詠嘆・反語の語気を表す c接尾語的用法 例)確乎」とあります。

③ 二句にある「春日山」の歌本文における用例は、巻一~巻三では、この歌のみですが、巻四以下にはいくつも用例があります。

 2-1-587歌では「春日山 朝立雲之 不居日無(かすがやま あさたつくもの ゐぬひなく)」、2-1-738歌では「春日山 霞多奈引」と奈良盆地の東縁の山々(春日山A)に共時的に生じる現象を詠んでいます。

 2-1-1517歌では「春日山 黄葉家良思」(かすがやま もみちにけらし)と秋の景も「春日山A」を詠んでいます。

 2-1-1078歌の 「春日山 押而照有 此月者」でも、平城京から望める東にある山々の意と理解できます。このように、「春日山」表記は、歌本文でも「春日山A」として歌に用いられています。(付記1.参照)。

「なぶんけんブログ」にいう「春日山連山」プラスアルファの意であり、「春日山」が「春日山A」のどのあたりをイメージしているかは歌を聴いた人物が判断する、いわば歌語「春日山」になっています。

 二句にある「春日山」は、四句目にある「御笠乃山」を修飾していますので、「春日山と呼んでいる東の連山の中の(御蓋山)」という意であり、これは、「春日山A」の意です。

④ 三句にある「高座之」は「御笠」の枕詞であり、この歌のみの用例である、と諸氏は指摘します。「高座」とは貴人の高い座席の意です。天蓋がついています。反歌2-1-376歌の初句にある「高按」の「按」について阿蘇氏は、革製の鞍に対して木製の鞍をいい、借訓の用字と指摘しています。用例はこの1首だけです。

 長歌とそれに伴う反歌なので、「高座之 御笠乃山」を反歌で「高按之 三笠乃山」と繰り返している、とみえます。

 七句にある「容鳥」は、『萬葉集』に4例あり、付記1.に記す2-1-1051歌のように春の景物とともにも詠まれています。春にはよく鳴く鳥らしい。ヒバリという説もあるそうです。特定の山にだけ生息する鳥ではなさそうです。

⑤ 最後の句「不相児故荷」(あはぬこゆゑに)にある「兒」の漢字の意は、「こ。こども(aちのみご bわらべ c男の子・むすこ d兵士)、自称(a子が親に対して b婦女の自称)」などです(『角川大字源』)。

 阿蘇氏は、(雑歌にあることよりすれば)「春日山に遊んだ時、耳目に触れた景物を題材にして、人々に披露した、恋情を主題とする歌」(『新潮日本古典集成 萬葉集』)という理解を支持しています。

 万葉仮名「児」は、2-1-95歌の「安見児」が采女の名であるように、『萬葉集』では、人物に用いるのであるならば女性をさしています。 「臨時」と題する歌で古歌集にある歌と左注がある2-1-1270歌は、複数形で用いていますが、題詞を考慮すると、宴席の歌としてその宴席にいる女性たちを指していると思われます。

 「不相」の主語は作中人物ですので「(私は)あうことがまだない・逢えないでいる」という意になります。

⑥ 従って、標高297mの御蓋山は、歌本文の万葉仮名「笠」を用いた「三笠山」と表現し、長歌の初句にある「乎」字を、詠嘆の意とみて現代語訳を試みると、

 2-1-375歌

「春ともなったのであるが、ああ。「春日山A」のうちの(高座のようにみえる)三笠の山に、朝はいつも雲がたなびいていて、かおどりが絶え間なくしきりに鳴いている。その居座った雲が消えないように心は覆われたまま、片恋ばかりして鳴き止められないかお鳥のように、昼は昼で一日中、夜は夜で一晩中立ったり座ったりしながら、物思いに私は沈んでいる。逢えないでいるあの子のために。」

 2-1-376歌

「(高座のようにみえる)三笠の山でちょっと鳴き止んではまた鳴き続けている鳥のように、募る思いが何度も胸にせまる切ない恋をしていることよ。」

となります。

 春の朝方に雲がかかるのは「春日山A」の範囲では普通のことであり、また「春日野A」ではどこででもかお鳥の鳴き声が聞こえます。このことは御蓋山に限りません。それなのに、御蓋山を舞台にしてわが恋を詠うのは、それを修飾する語句が必須の歌なのでしょうか。

⑦ 御蓋山を修飾する語のある歌は、『萬葉集』に15例あります。しかし、「春日山」と「高座」と二つの修飾語のあるのはこの歌だけです。このうち、「春日山」の用例はこの歌だけですが「春日在(有)」が15例中4例あります。「高座・高按」は、「大王之・皇之・王之」と同じく各1例です。「春日山」は「御蓋山」の地理的位置を特定していますが、「高座」は、「御笠(山)」が天皇と関係あるかにしています。

 この長歌反歌は、作中人物の恋が、作者の強調する「御蓋山」に「朝必ずかかる雲」と「鳴きやまない鳥」とに共通するものがある、と詠っています。それは、「御蓋山の山頂がなかなか見えない」ことと「御蓋山において、かお鳥が一羽ではなく多くのかお鳥が相手を求めて鳴き続いている」ことと共通するものがある、と詠っていることであり、その相手とは、作中人物にとっては「不相児」ということになります。

⑧ 恋の歌として、「児」は、ある女性を匿名で表現しています。

 そしてこの歌の披露された場面が、春日野での野遊びの一環の会合・宴席であろうことが、題詞より想像が可能でも、伊藤氏の雑歌の定義「公の場におけるくさぐさの歌」と理解するには、少なくとも皇子・皇女の参加が必要ではないでしょうか。献呈歌であっても同じです。

 あるいは下命による野遊びというのであれば、作者赤人は代作していることになり、雑歌の要件を満足します。

 題詞に歌を披露した場面のヒントがないので、すっきり割り切れば、天皇や皇后や皇子らの関わる宴席が想定可能です。そのような席にふさわしい暗喩があるかどうかです。

⑨ この前後の歌の配列をみると、作詠(披露)時点がはっきりしているのは、次の歌です。

 2-1-334歌以下:大宰師大伴卿歌五首は、天平2年12月の上京以前。

 2-1-341歌以下:大宰師大伴卿讃酒歌十三首も、同上。

 2-1-374歌:題詞にある門部王が出雲守であったのは、養老年間から神亀年間。

 2-1-378歌:吉野行幸は、天平時代に聖武天皇天平8年6月27日~7月13日。

 2-1-383歌:左注を信じれば天平5年

 このように天平の初期が作詠時点となります。

 この歌も天平初期が作詠時点と推測できます。

 この頃、天皇周辺では、長屋王の変以外政情は落ち着いていますが、皇位後継者に恵まれていません。光明子との間の基王が夭折して以後男子に恵まれず唯一の子・阿倍内親王を20歳になった天平10年に皇太子にしています。

 そうすると、天平初期は皇子誕生を官人が期待していた時期であろう、と思います。

 その期待をストレートに口にできる人物は限られた人だけでしょう。

 それを恋の歌として山部赤人が詠ったのがこの歌ではないか。

⑩ 「春日野A」は、養老元年遣唐使一行が航海の無事を祈る祭祀をおこなったところでもあり、そのような祈願の際に利用されていた「野」であったと見えます。その後春日大社の社殿が立てられるところでもあります。

 題詞にある「登春日野」とは、祭祀を行う意が暗喩されているのではないか。漢字「登」字には「のぼせる」とよみ、「(人を挙げ用いる・定める(登録する)・たてまつる(上進する))」とか「みのる・成熟する 」の意もあります。

 長歌の末句にある「不相兒」は、そうすると、聖武天皇の新たな御子を暗喩している、と思います。漢字「兒」は「こども」の意です。ちのみごも男の子も意味しています。

 題詞の現代語訳(試案)を次のように改訳し、暗喩に配慮しておきたい、と思います。

「山部宿祢赤人が、「春日野A」に至り(思いを込めて)作った歌一首ならびに短歌」

⑪ 次の歌2-1-377歌は、山の名に興じた歌と理解されていますが、この長歌反歌に和して、光明子の御子のみを願っていることを暗喩しています。

 巻三の編纂者は、この暗喩によって、2-1-375歌~2-1-377歌を雑歌としている、と思います。

 題詞の「春日野」は、まさに「春日野A」がふさわしく、春日野の特定の場所を意味していません。

 「関係分類」は、「I」がやはり適切である、と思います。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただきありがとうございます。

 (2022/4/25  上村 朋)

付記1.萬葉集での「春日(之)山」表記の例

① 巻三では2-1-375歌本文にあるのみ。

② 題詞での例は無い。

③ 歌本文での例

2-1-587歌 春日山 朝立雲之 不居日無(かすがやま あさたつくもの ゐぬひなく)

2-1-680歌 春日山 朝居雲乃

2-1-738歌 春日山 霞多奈引

2-1-953歌 春日之山者 打靡 春去徃跡 山上丹 霞田名引

2-1-1051歌 春尓之成者 春日山 御笠之野辺尓 桜花 木晩窂 貌鳥者 間無数鳴 露霜乃 秋去来者 射駒山 飛火賀塊丹 芽乃枝乎 石辛見散之 狭男壮鹿者 (はるにしなれば かすがやま みかさののへに さくらばな このくれがくり かほとりは まなくしばなく つゆしもの あきさりくれば いこまやま とぶひがたけに はぎのえを しがらみちらし、さをしかは)

2-1-1078歌 春日山 押而照有 此月者

2-1-1377歌 春日山 山高有良之

2-1-1517歌 春日山 黄葉家良思(かすがやま もみちにけらし)

 2-1-1572歌 春日山者 色付二家利

2-1-1608歌 秋去者 春日山之 黄葉見流

2-1-1847歌 春霞 春日山尓 速立尓来

2-1-1848歌 滓鹿能山尓 霞軽引

2-1-1849歌 春日山霞棚引 夜目見侶

2-1-2184歌 九月乃 鐘礼乃雨尓 春日之山者 色付丹来

2-1-2185歌 春日山乎 令黄物者

2-1-2199歌 借香能山者 黄始南

2-1-2203歌 今日見者 春日山者 色就尓家里

④ 参考:「みかさやま」を形容する例

2-1-375歌 春日山乃 高座之 御笠乃山尓

2-1-2216歌  春日有 三笠山者 色付丹家里

 (付記終わり 2022/4/25  上村 朋)

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か  萬葉集巻三の配列その4 

 前回(2022/4/4)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 萬葉集巻三の配列その3」に続き、今回「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 萬葉集巻三の配列その4」と題して記します。歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋) (2023/12/25歌番号1か所訂正:付記2 ⑥)

1.~10.承前

 『萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、各歌について判定した表E(前回のブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を得ました。そして、「関係分類A1~B」の歌30首から、雑歌の部は天皇の代を意識した4つのグループに分かれました。「関係分類A1~B」以外の歌において4つのグループの有無を確認中です。

 各グループの筆頭歌は、2-1-235歌、2-1-290歌、2-1-315歌および2-1-378歌です。これまでの検討の結果、第一及び第二グループには例外の歌はありませんでした。

11.第三グループの「分類A1~B」以外の歌の筆頭歌 門部王歌

① 第三グループの「分類A1~B」以外の歌を検討します。歌は、2-1-329歌から2-1-377歌です。聖武天皇の御代のみの時代の歌からなると予想しています(推定した巻三雑歌の部の歌群はブログ2022/4/4付け「7.①の表」参照。2022/3/21現在の推定結果です)。

 作詠(披露)時点は、聖武天皇が譲位された天平勝宝元年(749)が下限となります。

② 第三グループの歌である判定基準は、これまでのグループの判定基準と同じです。

即ち、「歌の作詠(披露)時点がその歌群のグループの天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌」と判定します。ほかの代の可能性の有無は関係ありません。

 例えば、作者未詳の伝承歌と推定でき、歌本文の内容(あるいはその暗喩)が当該天皇の代に改めて披露されてもおかしくないのであれば、そのグループの期間中に披露された歌の可能性を認め、そのグループの歌とみなします。

 また、作者が、そのグループの期間中に現役の官人であって、題詞の文章と歌本文が当該天皇の代の作詠あるいは披露されたとして矛盾がなければ、そのグループの歌とみなします。

③ 筆頭歌2-1-329歌の作者門部王は、諸氏の多くが題詞の割注に基づき、聖武天皇が即位した年である神亀元年(715)に正五位上を授けられ、天平11年(739) 4月3日に大原真人姓を賜与され臣籍降下している人物としています。

 和銅3年(710)無位から従五位の叙位をうけ、天平6年(734)朱雀門前で歌垣が開催された際には長田王らとともに頭を務めています。そして、天平17年(745)4月23日卒しています。最終官位は従四位上大蔵卿です。

 題詞(下記④に記載)には、「門部王・・・作歌一首」とあり、その表記から、門部王が臣籍降下以前に作った歌と理解でき、あきらかに聖武天皇の御代の歌となります。

 作詠(披露)時点はその通りですが、土屋氏は「歌の内容は相聞即ち恋愛歌」と指摘して雑歌の部の歌の要素を指摘していません。雑歌として編纂者が配列しているので、恋愛歌でない理解も可能でなければなりません。

 題詞に「在難波」とあるので、下命により、難波に出張してきている、という理解が可能です。

 そして、表E作成時には、「今上天皇を頂いて、海の民も心置きなく生活しており、ありがたいことだ、と詠う歌である」、として関係分類を「C」(天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(Dを除く))と判定しています(ブログ2022/3/21付け付記1.の表Eの注4「2-1-329歌」の項参照)。

 その理由の説明を尽くしていなかったので、ここに記します。

④ 題詞と歌本文を引用します。

   2-1-329歌  門部王在難波見漁父燭光作歌一首

    見渡者 明石之浦尓 焼火乃 保尓曽出流 妹尓恋久

    みわたせば あかしのうらに ともすひの ほにそいでぬる いもにこふらく

 題詞より、検討します。

 題詞は、作者名から書き起こし、詠うきっかけ(場所と「見」たもの)を記し、作者の行動(作るか伝承歌などを披露したか)の結果の歌一首を、ここに配列する、という順に記されています。

 詠うきっかけの、「在難波」と「見漁父燭光」とはどのようなことか、が問題です。

 題詞は、当時の官人が事務処理に用いていた書式(倭習の漢文)で記されています。

 巻三雑歌にある題詞の作文のタイプには、

(官位)人物名のみ+歌〇首というタイプが2-1-265歌など計30題

(官位)人物名+・・・+作歌〇首(あるいは・・・+(官位)人物名+作歌〇首)というタイプが2-1-235歌など計25題

などがあります。後者を細別してみると、

(官位)人物名+作歌〇首というタイプ: 2-1-248歌の1題 (長田王の歌)

(官位)人物名+・・・時+作歌〇首(あるいは・・・時+(官位)人物名+作歌〇首、以下同じ): 2-1-235歌など計14題

(官位)人物名+駐・・・+作歌〇首: 2-1-303歌の1題 (長屋王の歌)

(官位)人物名+往・・・+見・・・+作歌〇首: 2-1-310歌の1題 (伝通法師の歌)

(官位)人物名+詠・・・+作歌〇首: 2-1-313歌の1題 (門部王の歌)

(官位)人物名+至・・・+作歌〇首: 2-1-325歌の1題 (山部赤人の歌)

(官位)人物名+登・・・+作歌〇首: 2-1-327歌など計3題 (山部赤人の歌)

(官位)人物名+在・・・+見・・・+作歌〇首: 2-1-329歌の1題 (門部王の歌)

(官位)人物名+塩津山+作歌〇首: 2-1-367歌の1題 (笠金村の歌)

(官位)人物名+芳野+作歌〇首: 2-1-378歌の1題 (湯原王の歌)

となります。

⑤ これを見ると、「(官位)人物名」と+「作歌〇首」の間に作詠事情などを記すのが、基本の記述方法といえます。その中で2-1-310歌と2-1-329歌の題詞とは、作詠事情などを記すのに「見」字を用いています。「見」字につては一度検討したことがあります。

 対象の題詞(付記1.参照)にある「見・・・屍」という表現について、ブログ2018/7/23付けで検討し、「「見・・・屍」という表現においては、「仄聞」あるいは「文書によって知る」という意、あるいは下命による作詠を示唆する言葉とも理解した方がよいのではないか、及び(挽歌ですので)目視しなければ追悼の歌が作れない訳ではありません」と指摘しました。

 上一段活用の動詞「みる」(見る)の意は、「a視覚に入れる・みる・ながめる。b思う・解釈する。c(・・・の)思いをする・経験する。d見定める・見計らう。」などいろいろの意があります。『例解古語辞典』) 「見・・・屍」の場合は、d見定める・見計らう。」ではないかと推測したところです。

 この題詞でも「見」字に留意して検討したい、と思います。

 なお、「在」字はいままで検討したことがありません。

⑥ 題詞の頭書の「門部王」という人物の経歴は『続日本紀』で上記③に記したように判り、この歌の作詠時点は聖武天皇の御代と確定しました。さらに題詞にある「在難波」が修飾する語句と歌本文から更に絞りこめる可能性があります。

 また、『萬葉集』で、「難波」と題詞にある場合は、殆どが「難波宮」という表記であり、「難波」とだけあるのは、『萬葉集』でこの歌の題詞と次の二つの題詞だけです(付記2.参照)。

  2-1-1751歌  春三月諸卿大夫等下難波時歌二首 并短歌

  2-1-1755歌  難波経宿明日還来之時歌一首 并短歌

⑦ 前者2-1-1751歌の「春三月」の時点については、二説あります。歌本文をみると、平城京から難波に移動する途中の竜田山を詠う長歌2首と短歌と移動途中の道の景を詠い、天皇が登場しない旅中の歌です。行幸時の行事・宴の模様を詠っていません。

 このため、行幸ではない事例を『続日本紀』でみると、天平4年(732)の春三月の、藤原宇合が知造難波宮事に任じられた後期難波宮が完成した時(作者と思われる高橋虫麻呂藤原宇合との関係より)があるのではないかと土屋氏も伊藤氏も推測しています。

 また、聖武天皇天平6年の行幸(3/10 難波宮着 3/19平城宮に還御)の際という推測もあります。「下難波時」とは、行幸の従駕とは別に準備の先行部隊における歌(だから公式行事に関連しない歌)、という意と理解できるからです。

 この時の6年の行幸に直接関係あるかにみえる題詞が、次のようにあります。

 2-1-1002歌  春三月幸于難波宮之時歌六

 巻六の雑歌の部にある歌であり、前歌2-1-1001歌の題詞に「六年申戌・・・」とあり天平6年作詠と断定できる歌であり、この歌は聖武天皇天平6年の行幸時の歌、となります。難波への途中、住吉に寄り、住吉の浜を景にして詠っている6首です。最後の一首は土地褒めの歌であり、天皇が何かの行事をするため住吉に寄ったと思われます。作者は、将に従駕しており、天皇が住吉に留まっている時が作詠時点でしょう。

 作者が天皇と共にしていれば「幸難波宮」、そうでない場合は「難波(時)」という整理ができます。

 そのため、2-1-1751歌の「春三月」は、どちらを作詠時点かこれだけでは決めかねますが、聖武天皇の御代の歌に変わりありません。

⑧ 後者2-1-1755歌について、歌本文に「君之将見 其日左右庭 」(きみがみむ そのひまでには)と詠っていますが、官人が今上天皇を「君」と歌に表現しません。「君」とは、上司か同僚の意でしょうから、行幸に先行した行動時の歌とも理解が可能です。

 直前の題詞(2-1-1751歌の題詞)を念頭においても、2-1-1751歌の題詞と同様作詠時点は上記の2案が残ります。

 なお、左注によれば、どちらの歌(群)も高橋虫麻呂歌集が元資料となります。

 どちらの時点であっても「幸于難波宮時」などと差別化した表記であり、行幸に直接関係のない場所・時点を指している、と推測できます。

 だから、同じように「宮」字を省いたこの(2-1-329歌の)題詞の「在難波」は、行幸に直接関係のない場所・時点・事情を指している、と推測できます。行幸の従駕で難波に居ても、従駕とは関係の薄い私的な行動時をも「在難波」は意味することが可能です。そのため、この歌は、今上天皇の御前で披露されていない、と思われます。

 作詠時点(天平4年あるいは6年)は、門部王が大原真人姓を賜与され臣籍降下する前であり、この時「在難波」であれば、無位からの叙位が蔭位によっているとすると、天平6年に門部王は45歳前後となります。

⑨ 次に、「見漁父燭光」の語句を検討します。「見」字の意から、上記⑤に記したように、「漁父燭光」を視覚に入れた意以外の意の可能性があり、また、歌本文に「漁父燭光」が直接詠われていますので、歌本文とあわせて検討します。

 歌本文は、初句「見渡者」(みわたせば)と、海の見える処に作者が居るかに詠いだしています。

 題詞を前提にすれば「難波に居て、海を見渡したたら、」という理解も可能ですが、その難波に居て、どの辺の浦の漁火が見えるのでしょうか。

 「在難波」で、歌本文にある「明石の浦」近くの漁火を見ることが出来るのは僥倖であろう、と思います。

 作者が、難波宮のある台地に立って(現在の大阪湾との比高が約15~20mある台地です)、「明石の浦」(現明石川河口の東側なので難波の台地の約50km先)近辺の船団の、現在の集魚灯ではないかがり火である漁火が見えるでしょうか。

⑩ 阿蘇氏は、漁火を詠んだ(主題とした)歌としています。そして「西宮一民全注」は見えないと断言し、「明石は見えなくても、明石の漁火でなくてはならなかった」としている、と紹介したうえ、明石に歌枕的意識があったろうことは認められる、と指摘しています。これは雑歌たる所以という指摘ではありません。

 土屋氏は、上記③で引用したように「この一首の内容は恋愛歌」と指摘しています。

恋愛歌であるならば、この歌の眼目は四句と五句にあります。漁火が一晩中消えないので目立つことを、「妹を恋ふ」気持ちの持続していることが誰にもわかるようになったことの譬えとしている歌です。

 土屋氏は、「三句までの部分が作者の実際体験」であることが知られるとし、(題詞には編纂者が後に付したものがあるが)「従来伝へるままに従へばさうした単なる自然の景を、すぐ恋愛感に結び付けて表現する技巧が、既に存在したものと言へる」といい、「いはば作歌が遊戯的になって居る」と指摘しています。

 土屋氏は、作者の実際体験について直接言及していません。

 漁火の用途を知れば、この歌の三句までの景は思い浮かべられるでしょう。実際体験や人の話からでも、それを知ることができます。また、作者門部王は、作詠時点においては壮年になっています。

⑪ そして、恋愛歌として、漁火の景を実景に近づける工夫が作者にあってもおかしくないので、難波江や住之江より明石の浦(の漁民)を積極的に作者は選んで詠っている、ということになります。

 明石とは、畿内の西の端に位置しているので、地方(歌に詠われる「あまさかるひな」)への入り口と官人にはみなされています。官人にとり、都を離れる思いを募らせ、あるいは都に近づいた思いが沸きあがってくる位置にあるのが明石の浦です。

 都からは遠いところですが畿内であり、都までまだ道のりのあることが、作者の「妹」を思い始めてからの期間をも象徴しています。

 その明石の浦に船を泊めたら、官人は、難波から遠望するよりも間近に漁火を視野に入れることができ、漁火のメリットも聞いたり見たりしたでしょう。初句「見渡者」(みわたせば)は、その明石の浦での実景としても、岐阜・長良川の鵜飼いを、堤防の上に座って見るような距離が漁船と(浜の)官人の間にはあるので、実感する漁火の明るさはどの程度だったでしょうか。

 なお、相坂は畿内の東のはずれですが、燃え続ける漁火に出逢える海辺ではありません。

⑫ 題詞を無視すると、歌本文の三句までが四句にある「保」字(燃え続けている炎)を修飾しており、作者が自分の思いが人に知られるのを恐れないでいることを象徴しているかの恋愛歌とも理解できます。

 五句にある「妹」とは、女性を親しんでいう語で兄(せ)と対の語であり、男性から姉妹・妻・恋人などに対していうのが普通(『例解古語辞典』)だそうです。

 巻三の雑歌に配列するため、編纂者の手元にあった元資料の歌の作者は、壮年になっている門部王です。五句にある「妹」が、作者の恋人であれば若々しい限りであり、妻であれば、なんと仲が良い事でしょう。「妹」が恋人であれば、あるいは元資料は若者が詠った伝承歌か、と疑いたくなるほどです。

⑬ さて、題詞の検討に戻ります。恋愛歌であれば、題詞は、「門部王歌一首」でも、「門部王漁父燭光作歌一首」でも十分です。

 しかしながら、巻三の巻三の編纂者は、「在難波見」という文字を加えて「門部王在難波見漁父燭光作歌一首」としています。これは次のいずれにも訓めます。歌を引用している『新編国歌大観』は題詞については訓み下しを示していません。レ点などを打っているだけです。

 「門部王、難波に在りて漁父の燭光(ともしび)を見て、作る歌一首」

 「門部王の難波に在りて、漁父の燭光を見て作る歌一首」

 前者の場合、燭光を視野に収めるのは僥倖です。視野に入ったとしても、恋の炎の譬喩に、遠望した「明石の浦の漁火」や近くの浦の漁火であっても、かすかにあるいはぼやっと見える、という状況であり、適しているとは思えません。

 後者は、浦を限定しない「漁火」を「見」たということであり、「見」字の理解によっては可能です。

「見」字の意は、遠望したという「a視覚に入れる・みる・ながめる。」ではなく、「c(・・・の)思いをする・経験する。」とか「d見定める・見計らう。」の意で用いられているのではないか、と思います。「見・・・屍」の例と同じく、「仄聞」あるいは「文書によって知る」という意、あるいは上司の下命(出題)に応じた作詠を示唆する言葉とも理解した方がよいのではないか、と思います。

 門部王は、この恋愛歌を、難波に居たときに漁火が話題となったのをきっかけとしてこの歌を詠んだか伝承歌を朗詠したのではないか、と思います。

 現代においても「みる」という語句は「見る・看る・観る・覧る」とも表記され、目によって物の外見・内容などを知る、物事を経験したり物事や人に対して身をもって働きかけを行う、とか、補助動詞として用いるとか(『日本国語大辞典』第2版)、この時代からの用法が続いています。

⑭ まだ雑歌である所以が判っていません。

 この歌本文は、三句までの内容は、四句と五句の内容の例え、と理解できます。

 四句と五句が、妻を愛することの表白とすれば、泰平の世の歌です。そうであれば、三句までも泰平の世を詠っている、と思われます。

 四句と五句が、表面化しても(多分若い)恋人へ固執している自分の気持ちを持て余している表白とすれば、三句までは明るい漁火に吸い寄せられる魚に自分を例えているのではないか。炎であぶり出されるものを詠っている、と理解できます。

 前者であれば、聖武天皇の御代を喜んでいる歌になり、後者であれば、恋愛歌となります。

 天平4年(732)とか同6年(734)が作詠時点であれば、聖武天皇が即位(724)し長屋王の変(729)があった後であり、天然痘の大流行(737)や藤原広嗣の乱(740)や大地震(745)などはその後の事となる時点です。 

⑮ 題詞に「在難波」と加えているのは、官人が難波に居ることが天皇の命によることを明確にしており、この歌は、後者の恋愛歌ではなく、前者の歌であるという巻三編纂者の意思表示ではないか、と思います。

 畿内の果て、地方の入り口である明石の浦での漁火で生業をたてている人々と、下命を除いたら最大の関心事が妻であるという官人を、並行に詠う歌に、編纂者は題詞を作文して変換したと思います。

 題詞における「見」字は、漁火の示す現実(泰平)に作者の門部王が気付いた意で、用いられている、と思います。辞書にいう「d見定める・見計らう。」の意です。

 

 現代語訳を試みれば、次のとおり。

    2-1-329歌  門部王が難波に居られた時、漁民の漁火(いさりび)を見定めて(思いを込め)、作った歌一首

   「見渡すと畿内の果ての明石の浦に、漁火が燃えています。いつものように漁民は仕事に励んでいるのがその炎によってはっきりわかります。同じように、私が常に妻をいとおしく思っていることも知れ渡ってしまいました(征討軍の編成されることもなく、今上天皇の御代は、ありがたい御代です。)」

⑯ 以上が、表Eの判定にあたり、「今上天皇を頂いて、海の民も心置きなく生活しており、ありがたいことだ、と詠う歌である」とした理由です。

 『萬葉集』における雑歌の一般的な定義は、「相聞、挽歌に属さない内容の歌を総括する(部立て)。遊猟(ゆうりょう)、行幸など宮廷生活の晴の場でなされた歌などを収め、編纂にあたっては「雑歌」が他の二つの部に優先する。」(『日本大百科全書』)というものです。

 この歌は、雑部に配列されたこの題詞を前提にすれば、相聞の歌よりも雑歌の部の歌として理解でき、かつ部立ても適切です。

 なお、歌本文について、土屋氏は、題詞より「三句までの序は作者の実際経験であることが知れる。」等を指摘するものの、雑の部の歌としての考察は省略しています。

⑰ 聖武天皇は、天武天皇持統天皇の血をひき、父である文武天皇没後17年目に即位した男性の天皇です。その間の元明元正天皇は芳野宮には行幸していません。聖武天皇は即位の翌月行幸しています。文武天皇は、即位して4年後に芳野宮に行幸しています。

 元資料の作詠時点の検討はまた別の課題と思います。

 ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

次回は、2-1-330歌から検討します。

(2022/4/11   上村 朋)

付記1.万葉集の巻一~巻四の題詞に、「見・・・屍」等とある歌の例

① 2-1-429歌の詞書: 柿本朝臣人麻呂見香具山屍悲慟作歌一首

② 2-1-437歌の題詞: 和銅四年辛亥河辺宮人見姫嶋松原美人屍哀慟作歌四首

現代語訳(試案): 「和銅四年辛亥の年に、河辺宮で奉仕する宮人が、(難波の)姫島の松原での乙女の入水を聞き、悲しんで作った歌四首」 (ブログ2018/7/23付け)

③ 挽歌に「見」字や「視」字を用いた題詞もある。

2-1-220歌の題詞: 讃岐狭岑嶋視石中死人柿本朝臣人麿作歌一首 幷短歌

2-1-418歌の題詞: 上宮聖徳皇子出遊竹原井之時見竜田山死人悲傷御作歌一首

付記2. 万葉集の題詞における「難波」表記の例

① 巻一 2-1-64歌 慶雲三年丙午幸難波宮時  志貴皇子御作歌

  2-1-66歌 太上天皇幸于難波宮時歌

  2-1-71歌 ・・・・幸于難波宮時歌

② 巻三 2-1-0315歌 式部卿藤原宇合卿被使改造難波堵之時作歌一首 (神亀3年10月式部卿従三位で知造難波宮事に宇合は任じられ、後期難波宮天平4年3月完成)

     2-1-329歌 本文「11.④」に記載

③ 巻六 2-1-933歌 冬十月幸于難波宮時笠朝臣金村作歌一首 并短歌 (神亀2年10月10日聖武天皇は難波行幸。 11月10日難波で冬至の賀。11月中旬に還幸か。)

  2-1-955歌 五年戊辰幸于難波宮時作歌四首 (神亀五年に聖武天皇の難波行幸は『続日本紀』に記事なし)

  2-1-1002歌 春三月幸于難波宮之時歌六首 (天平6年3月10日聖武天皇平城京出発、同月19日還幸。)

  2-1-1066歌 難波宮作歌一首 并短歌

④ 巻九 2-1-1751歌 本文「11.⑥」に記載

  2-1-1755歌 本文「11.⑥」に記載

  2-1-1794歌 天平五年癸酉遣唐使舶発難波入海之時親母贈子歌一首 并短歌

⑤ 巻十八 2-1-4080歌 太上皇御在於難波宮之時歌七首 (割注し「清足姫天皇也」)/ 左大臣橘宿祢歌一首

⑥ 巻二十 2-1-2-1-4481歌 天平勝宝八歳丙申二月朔乙酉廿四日戊申 太上天皇大后幸行於河内離宮 経信以壬子伝幸於難波宮也 三月七日於河内国伎人郷馬国人之家宴歌三首 

 (付記終わり 2022/4/11   上村 朋)

わかたんか 猿丸集は恋の歌集か  萬葉集巻三の配列その3

 前回(2022/3/28)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 萬葉集巻三の配列その2」に続き、今回「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 萬葉集巻三の配列その3」と題して記します。歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋)

1.~6.承前

 『萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、各歌について判定した表E(前回のブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を得ました。そして、「関係分類A1~B」の歌30首から、雑歌の部は天皇の代を意識した4つのグループに分かれました。「関係分類A1~B」以外の歌において4つのグループの有無を確認中です。

7.巻三の雑歌の整理その3

① 「関係分類A1~B」の歌により、それ以外の歌も形式的に4つのグループに分れてしまいます。それが前回予想した次の表です。

表 万葉集巻三雑の部の配列における歌群の推定  (2022/3/21  現在)

歌群のグループ名

歌番号

関係する天皇

  計

関係分類A1~B

左以外の分類

第一

235~245 (11首)

246~289 (44首)

天武天皇

持統天皇

文武天皇

 55首

第二

290~291 (2首)

292~314 (23首)

元明天皇

元正天皇

 25首

第三

315~328 (14首)

329~377  (49首)

聖武天皇

 63首

第四

378~380 (3首)

381~392  (12首)

寧楽宮

 

15首

 計

        (30首)

        (128首)

 

158首

注1)歌番号は、『新編国歌大観』記載の『萬葉集』での歌番号

注2)関係分類とは、歌と天皇の統治行為との関係を事前に用意した11種類への該当歌をいう。ブログ2022/3/21付け本文「2.③」参照。

注3)この表は、表Eをもとに、表Eの◎印の歌を「A1」と判定しなおして作成した(ブログ2022/3/14付けに示した表と同じ。) 表Eは、ブログ2022/3/21付け付記1.に記載。

注4)「歌番号:左以外の分類」欄の歌で一番多いのは「C」である。「H」と「I」には、「G」までに分類できない歌も天皇の下命の有無で分類した(分類保留の歌はない)。

 

② 「関係分類A1~B」以外の歌2-1-246歌から2-1-289歌は、前回の検討で確かに関係する天皇文武天皇までに限られており、歌群第一グループの歌でした。

 その判定基準は、「歌の作詠(披露)時点がその歌群のグループの天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌と判定する」でした。ほかの代の可能性の有無は関係ありません。

 例えば、作者未詳の伝承歌と推定でき、歌本文の内容(あるいはその暗喩)が当該天皇の代に改めて披露されてもおかしくないのであれば、そのグループの期間中に披露された歌の可能性を認め、そのグループの歌とみなします。

 また、作者が、そのグループの期間中に現役の官人であって、題詞の文章と歌本文が当該天皇の代の作詠あるいは披露されたとして矛盾がなければ、そのグループの歌とみなします。

 今回もこの基準で、「関係分類A1~B」以外の歌を、2-1-292歌から検討します。

8.間人(はしひと)宿祢大浦初月歌二首など

① 歌群第二グループは、文武天皇崩御された慶雲4年(707)7月から元正天皇の譲位時点の神亀元年(724)1月までが、作詠(あるいは披露された)期間です。各歌の作詠(披露)時点を推定し、その時点と題詞等との矛盾の有無をみてみます。

 「関係分類A1~B」以外の歌の最初は、題詞に「間人(はしひと)宿祢大浦初月歌二首」とある2-1-292歌と2-1-293歌です。この2首は、2018/3/26付けブログで一度検討しました。題詞よりみて、月齢が大変若い月(初月)であることは共通しているので、その初月の見え始めと見納めの歌と理解しました。月明りを頼りに夜道を行く歌です。

 この作者は、伝未詳です。作詠時点の情報が題詞にもありません。だから上記の期間に作詠あるいは披露されたことがない、と断言できないことになります。

 2-1-294歌の作者小田事(をだのつかふ)、2-1-295歌ほか3首の角麻呂及び2-1-310歌ほか2首の博通法師も、伝未詳で、作詠時点の情報が題詞にもありませんので、同じです。

 人麻呂歌である2-1-306歌ほか1首は、元明天皇元正天皇の御代にも披露された伝承歌といえます。

② 最初の歌である間人宿祢大浦の歌二首の直前にある「関係分類A1~B」の歌(石上卿と穂積朝臣老の歌)は、採用しなかった行幸の企画立案時の歌でした(ブログ2022/3/14付け参照)。

 次の歌2-1-294歌は、和歌山県かつらぎ町にある妹背山と紀の川を挟んで対岸にある勢能山を越える、と詠います。勢能山は、『萬葉集』では常に「勢能山」と表記されています。

 元明元正天皇の次の天皇聖武天皇を意識したかのような歌が続いています。

続日本紀』によれば、元明元正天皇は芳野宮にゆくのを自重しているかにみえます。

③ 作詠(披露)時点の確認に戻ります。

 2-1-299歌ほか1首の作者田口朝臣益人は、『続日本紀』に、和銅元年(708)3月3日に従五位上で上野守に任ぜられています。「大夫」と尊称される位にいます。題詞にある「任上野国司時至駿河浄見埼」とは、その任国に着任する際、という意であり、和銅元年の作詠となりますので、元明天皇の御代での歌です。

 

9.弁基歌一首

① その次の2-1-301歌の作者は、弁基、と題詞にあります。

 弁基とは、大宝元年(701)3月19日に勅命により還俗した春日蔵首(かすがのくらおびと)老の還俗前の名前ですので、この歌が弁基と名乗っていた時代の作詠(披露)ならば、文武天皇の御代の歌、となります。

 土屋氏は、「2-1-288歌とともに大宝元年(701)9月の紀伊行幸の時、とみるのが自然である」と指摘しています。初句にある「亦打山」が紀伊路にある山の名です。

 そうであると、巻三編纂者は、この701年の紀伊行幸の時の歌であることを元資料などで承知をしていて、この一首だけ行幸歌と題詞に明記せず、さらに作者名を、以前の僧であった時代の「弁基」として、ここに配列していることになります。

 なぜでしょうか。

 なお、701年以降で紀伊国への行幸は、『続日本紀』によれば、聖武天皇神亀元年(724)10月までありません。701年以前では持統天皇4年(690)まで遡ります。

② 歌を引用します。

  2-1-301歌 弁基歌一首

   亦打山 暮越行而 廬前乃 角太河原尓 独可毛将宿

   まつちやま ゆふこえゆきて いほさきの すみだかはらに ひとりかもねむ

   (左注あり 「右或云 弁基者春日蔵首老之法師名也」)

 題詞の意は、「弁基が詠った歌一首」あるいは「弁基が披露した歌」であり、「春日蔵首老の歌としては還俗する前に属する歌」、と理解できます。還俗前ですので、遅くとも文武天皇の御代の歌となってしまいます。

 歌本文をみると、平城京から紀伊に向かう途中、紀伊国に入ったところの景を詠っている、とみえます。

 表E作成時は、僧である作者が詠んだ歌として、旅行の目的もわからないまま、やむを得ず「I」と判定しました。作者が判っている伝承歌という扱いをしていません。

③ 紀伊路の地名・特徴と思える語句を、歌本文で確認すると、初句にある「亦打山」、三句にある「廬前」と四句にある「角太(河原)」があります。

 「亦打山」とは、当時はその頂が大和国紀伊国の国境であったという小山であり、『萬葉集』にも何首かに詠われています。現在は和歌山県橋本市内なります。伊藤氏は、「まつちやま」とは「大和・紀伊の国境」にある、と指摘しています。

 「廬前」とは、現在の橋本市隅田町あたりの総名であったかと諸氏は指摘し、「角太」は総名の中の一地区の名かという指摘があります。

 作者は、「河原」の所在地を、「亦打山」近くとか一つの集落名を冠した河原、と単純に言わずに、山の名と二つの地名(と思える語句)「廬前」と「角太」を用いて示しています。このような修飾方法に、歌を理解するヒントがあるのではないかと思います。

④ 最初に、「亦打山」を検討します。『萬葉集』では、巻四までに2例あります。

   2-1-55歌  「大宝元年辛丑秋九月太上天皇幸于紀伊国時歌」(2-1-54歌と2-1-55歌の題詞)

   朝毛吉 木人乏母 亦打山 行来跡見良武 樹人友師母

   あさもよし きひとともしも まつちやま ゆきくとみらむ きひとともしも

    (左注あり。「右一首 調首淡海」)

 「亦打山」は、「行くとては見、来るとては見、していることであろう」と、見上げる山として詠われています。

 『続日本紀』の、題詞にある時点の行幸記事には、「天皇紀伊国に幸(みゆき)したまふ」とあり、今上天皇とともに「太上天皇」の同行が明記されています。しかし、この題詞では、今上天皇文武天皇)の名をわざわざ省いています。これはこの歌が、巻一の標目「藤原宮御宇天皇代」に配列されているからでしょう。

  2-1-546歌 神亀元年甲子冬十月幸紀伊国之時為贈従駕人所誂娘子笠朝臣金村作歌一首 并短歌

  (長歌) ・・・木道尓入立 真土山 越良武公者 ・・・

       ・・・きぢにいりたち まつちやま こゆらむきみは ・・・

 「・・・紀州への道に入って、真土山を越えるであろうあなたは、・・・」

 「真土山」は、国境の峠の意ととれます。大和国紀伊国と境には関があるわけではないので国境の意ではないと思います。

⑤ 巻五以下にも用例があります。

  2-1-1684歌  後人歌二首

   朝裳吉 木方徃君我 信土山 越濫今日曽 雨莫零根

   あさもよし きへゆくきみが まつちやま こゆらむけふぞ あめなふりそね

 この題詞は、直前にある題詞「大宝元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇紀伊国時歌十三首(2-1-1671歌~の題詞)を受けている記述です。2-1-55歌の行幸の還御は、10月19日でした。題詞にある「後人」とは、この行幸が終わった後に詠んだ人の意であり、伝未詳の人たちです。

 「信土山」は、国境の峠の意ととれます。

  2-1-3023歌  寄物陳思

    橡之 衣解洗 又打山 古人尓者 猶不如家利

    つるはみの きぬときあらひ まつちやま もとつひとには なほしかずけり

 初句~二句は、「又打山」の序詞であり「又(ほどいた衣を)うつ」と「(じっと)てまつかのような(やま)」に続き、初句から三句が序詞として四句の「もとつひと」を修飾しています。

 「(やはり)じっと待っていてくれる、元の女房にかなう女はいないなあ」

という意の、よみ人しらずの伝承歌です。

 この歌で「まつちやま」は、見上げる山です。

  2-1-3168歌  羇旅発思

   乞吾駒 早去欲 亦打山 将待妹乎 去而速見牟

   いであがこま はやくゆきこそ まつちやま まつらむいもを ゆきてはやみむ

 この歌は、よみ人しらずの伝承歌です。平安時代催馬楽「我駒」ともなっています。

 「真土山ではないが、待っているであろう妹を」と詠い、「まつちやま」は、見上げる山です。

 このように、「まつちやま」と訓む山の名は、伊藤氏のいう「大和・紀伊の国境」にある山を指し、当時の有名な小山そのものや国境での峠などの代名詞という扱いです。

 後年の『紀伊国名所図会』の「真土山」の図には、手前から奥に落合川、薬師堂(現極楽寺に比定)か、真土山の順に描き、更にその右奥に真土山峠を描いています。落合川に沿う薬師堂の門前の道が街道のように見えます。紀の川吉野川)は絵の手前にあたり、描かれていないようです。

⑥ 次に、「廬前」(いほさき)です。

 『萬葉集』には、この歌だけにある用語です。

 「廬」(いほ)とは、『角川古語大辭典』では、「草木を結んで作った仮の住居。本来は「いみこもり」や農事のためのものであったが、和歌などでは隠遁者の住居である草庵の意に用いられることが多い。・・・葬礼後、墓の側に設ける小屋をもいう。・・・後には田の番小屋の意に(限定して)この語をもちいた」とあります。

 「先・前」(さき)とは、「a基準となる部分から見て離れている部分の頂点で、とがった部分。「崎・岬」と書いた場合は、山・丘・島などの突き出した端のところ  b空間的に前方の部分。C先追・先払いの略」等と説明が同大辭典にあります。

⑦ 巻三の歌に、万葉仮名として「前」字を用いた歌がこのほかいくつかあります。氏名や国名での用字を除くと、次のとおり。その用例の、土屋文明氏と伊藤博氏の現代語訳も引用します。

 これをみると、漢字「前」の意を利用した使用例といえます。それからいえば、この歌でも、同大辭典の「b空間的に前方の部分」の意であり、「廬前」は「屋前」と同じ用法で、地名ではない可能性があります。

 2-1-252歌 野嶋之前乃(のしまのさきの):土屋氏は、(淡路の)野島が崎(地名) 伊藤氏も地名

 2-1-275歌 磯前(いそのさき):同、近江の磯のみ崎(普通名詞)&岩石の多い岬

 2-1-413歌 屋前尓植生(やどにうゑおほし):宿に植ゑるが如く&わが家の庭に植え育てて

 2-1-414歌 屋前之橘(やどのたちばな):宿の橘&お庭の橘

 2-1-446歌 前坐置而(まへにすゑおきて):前に据ゑて&目の前に据え置き

 2-1-467歌 屋前乃石竹(やどのなでしこ) :宿のナデシコ&庭のナデシコ

 2-1-469歌 吾屋前尓(わがやどに):吾が家に&わが家の庭前に

 2-1-472歌 屋前尓花咲(やどにはなさき):此の宿に花の咲く(時も)&この庭にナデシコの花が咲き

⑧ 次に、「角太(河原)」です。

 「角・隅」(すみ)とは、「一つの物や区域の、周辺部、境界部。方形のものは、そのかど。」が同大辭典での第一義です。

 「すみた」あるいは「すみだ」という見出し語は、同大辭典にありませんでした。

 現在の橋本市には「隅田町〇〇」という町名が多々あります。隅田町芋生、隅田町上兵庫、隅田町真土などと合計11の町名に、それぞれ橋本市内の郵便番号が付されており、広い範囲を指している地名が「隅田」となります。「角太」の後代の表記が「隅田」であれば、「廬前」という地名は当時の行政単位にも用いられる程度の地域の中心地の名であってもおかしくありません。しかし、その確認ができません。

 そしてこのような広さの「隅田」という地域が面する川というと、第一候補は紀の川奈良県内では吉野川)です。

⑨ そうすると、この歌における「廬」の意は、「草木を結んで作った仮の住居」として、三句にある「廬前」とは、行幸であるので天皇の今夜の宿(臨時に設けられている行宮)の前、即ち行宮を設けた地域を指し、四句にある「角太(河原)」とは、その地域にある一角を指しているのではないか。地理的には現在の橋本市の「隅田町〇〇」というエリアの河岸段丘に設けられた天皇の今夜の宿の周辺、ということになる、と思います。

 従駕の者の臨時の宿泊施設を設ける場所は、耕作地でもなく多くの伐採を伴う林でもなく湿原でもないところであろう、と思えます。

⑩ この歌の背景は、還俗半年目に、春日蔵首老となった弁基がはじめて従駕することになった行幸である、701年の紀伊行幸であろう、と思います。それが元資料となって2-1-301歌となったのではないか。

元資料の歌の意を、上記のような用字として、確認します。

初句「亦打山」は、大和国紀伊国の国境にある山を指しています。

二句「暮越行而」(ゆふこえゆきて」と詠うので、作者は平城京において、詠んでいるのか、従駕して「亦打山」を今越えてきて現地において詠んでいるか、そのどちらかであろう、と思います。

三句にある万葉仮名「廬前」が、諸氏の想定するように地名であるならば、訓「いを」に「仮の住居」、即ち今夜の行宮の意を掛けて詠みこんでいます。

四句にある「角太河原(尓)」は、夕方「亦打山」を越えたと詠っているので、「亦打山」近くの紀の川河岸段丘でしょう。

五句「独可毛将宿」の「可毛」(かも)は、係助詞で、詠嘆をこめた疑いを表しています。

⑪ 元資料の歌として、「廬前」は「行宮」をいう、と割り切って現代語訳を試みると、次のとおり。

「(平城京のある大和より)真土山を、夕方越えて行って、行宮(かりみや)が設けられる隅田の地の河原に、ひとり寝るのであろうか。」

 

 このような元資料の歌を作詠したのは、還俗して半年目の、春日蔵首老となった「弁基」です。僧の立場を止む無く離れ、一般の官人として再出発した「弁基」です。将来に対して不安が無いわけではありませんが、秘めたる自信もあったと思います。

 従駕することを知らされた作者が、平城京において、従駕が叶った喜びと不安を詠った歌といえます。わざわざ人に披露したのは、自分の決意をこの歌に込めていたのではないか。

⑫ このような元資料の歌を、元明元正天皇の御代の歌として、ここに配列しているのは、配列からこの歌に加え得る暗喩を巻三の編纂者は確信しているのではないか、と思います。

 再出発した「弁基」の時代というのは、還俗させた文武天皇は不幸にして崩御したため、新たに即位した元明天皇の御代となりました。

 新たな天皇にとっても、思いもよらない展開で、譲位を受けて新たな道を始めました。官人たちにとっても、おもいもよらない展開で、新たな天皇に仕えることとなりました。

 巻三の編纂者は、その点に着目し、元明天皇のもとの官人の歌としてここに配列したのではないか。

⑬ 弁基は、大宝元年3月19日勅により還俗し、春日蔵首老という姓名を頂いた人物です。

 この前後の勅命による還俗には、刑罰による意味を持っていないものがいくつもあります。それは遣唐使が派遣されなかった時期にみられ、学問僧として新羅に派遣された者も含まれており、大陸文化を摂取し律令制の学芸部門の陣容を整えるためではないかという推論があります(『新日本古典文学大系12 続日本紀1』補注1-139 (岩波書店 1989)より)。

 春日蔵首老は、和銅7年(714)正月3日従五位下に叙せられており、『懐風藻』に「従五位下常陸介春日蔵首老一絶(年五十二)、五言、述懐」と題する詩があります。還俗時の年は、39歳頃となりますが、その後地方官として赴任するなど一般の官人の道に進み、学芸部門の役職に就いていないようです。

 春日蔵首老の還俗は、想像していなかった即位を迎えた元明天皇に通じるところがあります。

⑭ この元資料の歌は、巻三に配列された歌として、即ち上記「7.①」の表で歌群第二グループの歌として理解しようとすると、つぎのような現代語訳(試案)が可能です。

  2-1-301歌  弁基が披露した歌

 「(京を出発し)真土山を、夕方越えて行って、行宮(かりみや)が設けられる隅田の地の一角にでも、ひとり寝ることになるのであろうか。(還俗して官人として再スタートするが、今上天皇の為に、微力ながら力を尽くしたいものだ。)」

 

 官人としての決意表明の歌という位置付けになり得る歌です。

 そのため、ここに配列しているのは、元資料が行幸に関する歌であるものの、春日蔵首老が法名として文武天皇の御代まで名乗っていたことが明白である「弁基」という名にすることで、巻三の編纂者は、歌の意を今上天皇の御代の歌に転換したのではないか。

⑮ このような暗喩をこの歌に持たせるならば、作者は「よみ人しらず」でもよいところです。

 巻三で、「或本」等の引用歌を除くと、作者とおぼしい個人名のない歌は、つぎのとおりであり、「よみ人しらず」という題詞はありません。

 2-1-322歌 詠不二山歌一首 幷短歌 (割注あり。「笠朝臣金村歌中之出」)

 2-1-372歌 和歌一首

 2-1-391歌 羈旅歌一首 幷短歌

 2-1-414歌 和歌一首

 2-1-445歌 悲膳部王歌一首

 2-1-454歌 還入故郷家即作歌三首

 2-1-457歌 天平三年辛未(しんぴ)秋七月大納言大伴卿薨之時作歌六

 2-1-473歌 悲緒末息更作歌五首

 このように、編纂者は、作者名から「よみ人しらず」を排除しているからなのでしょうが、なによりも、還俗している人物の歌、という位置付けが重視された、と思います。 

 このように、暗喩を想定すると、この歌は、少なくとも元明天皇元正天皇の御代を詠む歌という位置付けが可能です。

10.大納言大伴卿歌など

① 次に、2-1-302歌の題詞にも暦年表記がありません。作者大伴卿が、大伴宿祢安麿であれば、慶雲2年(705)大納言となり、和銅7年(714)薨じており、元明天皇の御代における歌の可能性があります。

 2-1-303ほか1首の作者長屋王は、聖武天皇の御代の天平元年(729)に自殺を強いられています。歌の理解については、一度検討したことがあります。題詞にある「駐馬」の理由は保留して、作詠時点は平城京遷都(710)から長屋王没(724)までの間と推測したところです(ブログ2021/11/15付「11.④~参照)。

 2-1-305歌の作者中納言安倍広庭は、慶雲4年(707)ころ従五位上であり、天平4年74歳で薨じています。これらも元明元正天皇の御代での作詠(披露)の可能性があります。

② 2-1-308歌の作者高市連黒人は、伝未詳です。2-1-272歌ほか8首の作者でもあります。持統・文武天皇の頃の人、といわれています。題詞に暦年表記がありませんので、伝承歌として元明元正天皇の御代に披露された、という位置付けに巻三編纂者はしているのでしょう。

 直前にある人麻呂歌2-1-306歌ほか1首も、同様な扱いといえます。なお、人麻呂歌の歌意に関しては、配列からの検討を要します。

③ 2-1-309歌の作者安貴王は、志貴皇子の孫であり、天平元年(729)従五位下に叙されています。

 題詞には「幸伊勢国之時安貴王作歌一首」とあり、「・・・之時」という書式の題詞の一つです。

 伊勢国への行幸とは、『続日本紀』には元正天皇の養老2年(718)2月7日に出発した美濃(醴泉)への行幸が伊賀と伊勢経由をしているので、この行幸を指すと思います。

 そうすると、安貴王9歳のころの歌となります。9歳で既に歌を詠み始めていたことになります。

 無位の安貴王が行幸に従駕したいというよりも単に海を見たい、波に触りたい気持ちを詠った歌ではないでしょうか。

 手ほどきした人物の添削があったのでしょうが、単純率直な気持ちを詠った歌ともいえます。

 土屋氏は、無位の時の歌ではないとして、「旅中(従駕したとき)の一つの思ひつきを詠って居るとみるべき」、と指摘しています。

 表E作成時は、宴席の歌かと推測して、「関係分類」を「I」と判定しましたが、「C」に変更します。

 なお、この行幸以後の伊勢行幸聖武天皇天平12年(740)10月29日出発の東国巡幸のときとなります。『続日本紀』にあるこの巡行従駕者の叙位の記事に、安貴王の名はありません。

④ 2-1-313歌の作者門部王は、和銅3年(710)従五位下天平17年(744)従四位上で卒しています。臣籍降下して「大原真人」という氏姓を賜った人物です。この歌が元明天皇元正天皇の御代に披露されたことがない、と証明するには情報が不足しています。

 最後の歌2-1-314歌の作者〇(木偏に安)作村主益人(くらつくりのすぐりますひと)は、伝未詳です。

 天平6,7年に内匠寮大属として長官佐為王を饗応していますので、元正天皇の御代には官人になっていたのでしょう。

 歌本文にある鏡山は河内王の陵を設けたところです(2-1-420歌参照)。

 この歌は、作者が任国の或いは派遣された豊前国を離れる際の、挨拶歌ではないか。 そうであれば当時の伝承歌であった可能性も生じます。

 このように、2-1-292歌から2-1-314歌まで、作者名と題詞等から歌群第二グループの時代というのを全面的に否定できる歌が、結局ありませんでした。

⑤ ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 次回は、上記の表で第三グループの歌を検討します。

(2022/4/4  上村 朋)

 

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か  萬葉集巻三の配列その2 

 前回(2022/3/21)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 萬葉集巻三の配列その1」と題して配列を検討しました。今回はその続きで、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 萬葉集巻三の配列その2」、と題して記します。また、歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋)

1.~3.承前

萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、各歌について判定した表E(前回のブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を得ました。そして、「関係分類A1~B」の歌30首から、雑歌の部は天皇の代を意識した4つのグループから成る、と前回指摘しました。4つ目のグループは、巻一に準じれば「寧楽宮」の代、ということになります。

4.巻三の雑歌の整理その2

① 「関係分類A1~B」以外の歌も、その4つのグループになるか、及び各グループの筆頭歌の意義などを確認します。

 前回予想した巻三雑歌の部の配列は次のとおりでした。

表 万葉集巻三雑の部の歌群の推定  (2022/3/21  現在)

歌群のグループ名

歌番号

関係する天皇

  計

関係分類A1~B

左以外の分類

第一

235~245 (11首)

246~289 (44首)

天武天皇

持統天皇

文武天皇

 55首

第二

290~291 (2首)

292~314 (23首)

元正天皇

元明天皇

 25首

第三

315~328 (14首)

329~377  (49首)

聖武天皇

 63首

第四

378~380 (3首)

381~392  (12首)

寧楽宮

 

15首

 計

        (30首)

        (128首)

 

158首

注1)歌番号は、『新編国歌大観』記載の『萬葉集』での歌番号

注2)関係分類とは、歌と天皇の統治行為との関係を事前に用意した11種類への該当歌をいう。ブログ2022/3/21付け本文「2.③」参照。

注3)この表は、表Eをもとに、表Eの◎印の歌を「A1」と判定しなおして作成した(ブログ2022/3/14付けに示した表と同じ。) 表Eは、ブログ2022/3/21付け付記1.に記載。

注4)「歌番号:左以外の分類」欄の歌で一番多いのは「C」である。「H」と「I」には、「G」までに分類できない歌も天皇の下命の有無で分類した(分類保留の歌はない)。

② 歌の作詠(披露)時点がその歌群のグループの天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌と判定することとします。ほかの代の可能性の有無は関係ありません。

 例えば、作者未詳の伝承歌と推定でき、歌本文の内容(あるいはその暗喩)が当該天皇の代に改めて披露されてもおかしくないのであれば、そのグループの期間中に披露された歌の可能性を認め、そのグループの歌とみなします。

 また、作者が、そのグループの期間中に現役の官人であって、題詞の文章と歌本文が当該天皇の代の作詠あるいは披露されたとして矛盾がなければ、そのグループの歌とみなします。

5.長田王の歌  「 ・・・之時歌」

① 上記の表で歌群第一グループのうち「関係分類A1~B」以外の歌を、最初に検討します。年代的には文武天皇崩御慶雲4年(707)までに作詠された(あるいは披露された)と推定できるかを確認し、その作詠(披露)時点と題詞等との矛盾の有無をみて判定します。

 「関係分類A1~B」以外の歌の最初は、題詞に「長田王被遣筑紫渡水島之時歌二首」とある2-1-246歌と2-1-247歌です。

 表Eは、題詞にある長田王を作者とみなして作成しました。

 しかし、題詞に「・・・之時」とあるので、2022/3/14付けブログの「20.⑨」で2-1-309歌を検討した際と同じく、「水島のこと(あるいは水島へ渡ることが話題になった時の歌」とも理解できることに気が付きました。長田王の作詠した歌ではない恐れがあります。

 水島とは、景行紀十八年に地名由来説話の記載がある島です。「葦北(熊本県葦北郡など)に至った皇軍は小島に渡って食事をすることになり、小左(おひだり)という者が冷たい水を持ってくるよう命じられた。しかし島に水はない。切羽詰まった小左が天神地祇に祈ると崖から寒泉(しみず)が湧き出してきた。そこでこの島を水嶋という」(ウィキペディアより)由来記です。

 熊本県八代市球磨川の分流のひとつである南川の河口にある周囲40m前後の岩山だそうです。

② 2-1-246歌から2-1-249歌は、題詞3題をみると、長田王が関わる一つの歌群として配列されている、とみなせます。

 平城京に居を構える長田王が水島に行くには、筑紫に行く用務を拝命し、出来るならば水島の近くに行く必要が生じるのが望ましい。

 また、第一グループの歌であれば、少なくとも文武天皇の御代に、長田王は筑紫に遣わされていなければなりません。

 しかしながら、『続日本紀』には長田王の筑紫派遣の記事はありません。大宰師の任命もすべてが記載されていないので、直ちに可能性無し、と断定できません。蔭位の制(付記1.参照)によって文武天皇の御代に官人の活動を始めていれば可能性はあります。

③ 長田王は、『続日本紀和銅4年(711)4月7日条に初出しています。「詔して文武百寮の成選(じょうせん)の者に位を叙したまふ」とあり、従五位上長田王は、正五位下を授けられています。

 長田王は蔭位の制による初叙があり(例えば諸王の子であれば従五位下)、次いで従五位上を授けられ、そして考査期間を越えたので官人としての勤務状況がまた考査された結果、和銅4年に正五位下が授けられたということです。

 和銅4年は文武天皇崩御の年(慶雲4年(707))から4年目であり、文武天皇の御代に官人として活動を始めているのは確かなことです。

 長田王は、和銅5年には伊勢斎宮へ派遣されています(2-1-81歌の題詞)。しかし、このことも初叙も『続日本紀』に記載がありません。『続日本紀』によれば、その後、霊亀2年(716)10月20日従四位下・近江守、神亀6年(729)3月4日正四位下天平元年9月28日衛門督になり、天平9年(737)6月18日卒しています(流行していた天然痘か)。

 だから、文武天皇の御代から聖武天皇の御代までに筑紫に派遣された可能性が、長田王にはあります。

 なお、『続日本紀』に、定期の叙位(成選(じょうせん)の者)の記述は、慶雲4年(707)2月、和銅4年(711)、霊亀元年(715)があります。慶雲4年2月の成選の叙位の記事には個人名に触れていません。

④ 第一のグループの歌としては文武天皇の御代の作詠(披露)時点の可能性を追求することになります。

 題詞にある「・・・之時」を再確認すると、「・・・之時」の意は、二つ考えられます。

 第一 長田王が筑紫に実際に遣わされて、その後に水島行が話題になった場合

 第二 長田王が平城京に居て、筑紫のことが話題になり、薩摩に近い水島にも触れた場合

 前者は、左注をした人物も想定していたかもしれません。

 文武天皇の御代の作詠(披露)であれば、後者の可能性が大きい、と思います。

 題詞にいう「遣わされる」というのは任官ではなく、臨時の用務での筑紫派遣の意味合いではないか。文武天皇の御代での長田王の立場からはその可能性よりも、平城京に居た長田王が筑紫の話を聞く機会があり、作詠の機会に恵まれたと推測します。

 大宰府はじめ各国からは朝集使(使者に必ず四等官)が毎年上京しています。

 平城京における公的な宴席は多々あります。そのような席で石川大夫と会話をする機会があった際の歌が、この歌群の歌という理解です。

 大宝2年(702)8月には薩摩・多褹(たね)の反乱がおこり、征討後の10月3日に唱更国司(辺戌を守る国司の意。)が柵を建てることを奏上しています(『続日本紀』)。これが薩摩国の始まりだそうです。

 都で筑紫管内が話題となれば隼人のことに及ぶということが、文武天皇の御代に十分に有り得ることです。

⑤ 歌本文をみてみます。

 2-1-246歌の歌本文は、水島を褒めている歌です。伝承歌であれば、地元側の立場の人物が披露した歌であり、長田王の作詠であれば、「行きたいね」という挨拶歌でしょう。

 2-1-247歌は舟で水島に渡ろう、と詠い、それに和した2-1-248歌は、「和我世故我 三船乃登麻里 瀾立目八方」(わがせこが みふねのとまり なみたためやも)と、泊を重ねて水島にわたるかに詠っています。2-1-248歌の歌本文には地名は詠み込まれていません。

 水島近くの葦北の地から水島に行くのに、陸路ではなく、船で泊を重ねて行くルートもあるでしょうが、それよりも筑紫に行くのに海路はよく利用されています。

 だから、この歌は、来ていただけるならば、停泊地はみな波おだやかに貴方を迎えるでしょう、と平城京から筑紫への海路の旅をも詠み込んでいるのではないか。

 2-1-249歌は、現地に行ったならばの感慨を長田王が詠っているものとみえます。水島の地理的位置が、時々反乱を起こす薩摩の地に近いことの感慨ではないか。

 これらの歌で、現在の現地の事情が反映している語句は、2-1-248歌の二句にある「野坂乃浦」ですが、その比定地が定かではありません。つまり、現地に行ってないと詠えない歌ではない、ということです。

⑥ 水島は、大宰府から遠すぎます。上記④の第一の場合、筑紫へ臨時に派遣された理由から現地付近に行く必要性の説明が要ります。

 薩摩等の反乱の際、「実に神威に頼りて遂に荒ぶる賊を平げき。ここに、幣帛を奉りてその祷(いのり)を賽す」(大宝2年10月3日条)ことをしておりその際、水島近くに対象の一社があったのでしょうか。

 または、大宰府から帰任する人の餞の宴は泊まりを重ねながら何度か行われているのが通例です(例えば、2-1-571歌)。あるいは大宰府での宴席で「冷水」が話題となり水島の地名由来説話が話題となって、歌の応酬があったあるいは披露されたということも有り得ます。

 しかしながら、この歌群の配列は筑紫への愛着を感じさせる歌ではないので、これらの想定は該当しない、と思います。

 このように、長田王の筑紫派遣の必要性・可能性の全てを検討し終わったわけではありませんが、「・・・之時」の意は、上記④の第二が有力であり、この一連の歌は、文武天皇の御代での作詠(披露)であれば、平城京におけるものではないか、と思います。

⑦ 次に、2-1-248歌の題詞には作者の名があります。それから作詠時点の推測を試みます。

 諸氏は、作者を論じて、和銅神亀のころの作詠を想定されています。

 なお、この歌の題詞「石川大夫和歌 名闕」は、前歌2-1-247歌一首に和する歌と理解して表Eを作成しました。

 この歌には左注があり、石川大夫について候補者を2名あげています。

 土屋氏は、和銅神亀のころを前提に別途石川足人を候補としています。この人物は『萬葉集略解』(橘千陰)にある説です。また、長田王の筑紫派遣の有無とその時期を、氏は論じていません。

 2-1-248歌の題詞にある「(石川)大夫」とは、当時は五位の人物の尊称とされています。『萬葉集』における名前の表記方法の統一性から土屋氏は、左注があげる候補者の一人石川宮麿は、慶雲2年(705)11月に従四位下で大弐に任じられていますが、否定されました。

 左注があげるもう一人の候補者石川吉美侯は、『続日本紀』の大宰少弐の任命の記載がありません。

 『続日本紀』には、大宰師の任命もすべてが記載されておらず、大宰少弐も同じです。このような人物が当時大宰府にいなかった、と断言する材料が今のところありません。

 和銅神亀のころが作詠(披露)時点という説は否定する材料がない、ということです。

⑧ 上記④の第二で、かつ文武天皇の御代の場合、「石川大夫」の歌は、大宰府での勤務経験が必須の歌でしょうか。水島の地理的相対的な位置関係や筑紫へ行く行程は誰でもが承知しており、だから誰でもが詠えます(会話に割って入ることができます)。

 だから「石川大夫」は「大夫」と尊称される(五位にあること)以外の条件はない、と思います。

 即ち、『続日本紀』に大宰府への任命記事がなくとも、五位の「石川大夫」を想定できればよいことになります。その第一候補が左注であげる候補者の一人石川吉美侯です。

 ただ、『続日本紀和銅6年(713)1月23日条に「正七位上石川朝臣君子に従五位下(を授く)」とあり、同養老5年(721)6月26日条に「従五位上石川朝臣君子を侍従」とあります。この人物は和銅6年(713)まで五位となっていませんので、石川君子が「石川吉美侯」と同一人物であるならば対象外となります。

 左注があげるもう一人の候補石川宮麿は、慶雲2年(705)11月に従四位下で大弐に任じられています。従四位下の下が正五位上ですので、慶雲2年(705)11月以前に「大夫」と尊称されていた可能性があります。それは文武天皇の御代となります。

⑨ このように、「石川大夫」の検討からは、作詠(披露)時点は、和銅神亀のころでも、文武天皇の御代でも可能性があります。

 言い換えると、文武天皇の御代の歌として配列可能です。

 「・・・之時」の検討と重ね合わせると、文武天皇の御代での平城京における作詠(披露)の歌群であろう、と思います。

 まとめると、

 2-1-246歌は、伝承歌を誰かが披露した歌です。長田王がこのように詠いだす理由が希薄です。

 2-1-247歌は、長田王が いってみたいとそれに和した歌です。挨拶歌です。

 この2首が題詞「・・・之時」のもとにある歌です。

 2-1-248歌で、石川大夫が、そうであるならばと、筑紫への旅、次いで水島への旅の安全を寿ぎ

 2-1-249歌は、それを受けて、長田王が、水島で薩摩を望見したと仮定した歌です。

 少なくとも巻三の編纂者は、このような理解が可能なように題詞を作文して配列している、といえます。

 

6.人麿歌など

① 2-1-250歌からの9首の作者は、「人麿」と題詞にあります。作詠(披露)時点の年号等を題詞に明記していません(以後の歌でも原則同じです)。

 これらの歌は、だから文武天皇の御代に折に触れ披露されていた伝承歌、という理解が可能です。

 なお、作者名を人麿に仮託した歌が『萬葉集』にある、と諸氏は指摘しています。これらも当時の伝承歌のひとつです。2-1-266歌以下の人麿歌の作詠(披露)時点の検討は割愛します。

 これらの人麿歌の次に配列されている2-1-259歌等の作者鴨君足人、あるいは2-1-265歌の作者刑部垂麿と、2-1-267歌の作者長忌寸意吉麿は、伝未詳です。文武天皇崩御慶雲4年(707)までに詠まれたかどうかは判定不能です。つまり文武天皇の御代に披露された歌ではない、と積極的に主張できません。

② 次に、2-1-263歌他1首を人麿が献じたという新田部皇子は、文武天皇4年(700)浄広弐に叙せられています。養老4年藤原不比等死後、知五衛及授刀舎人事に任命され、朝廷直轄の軍事力の統括者となっています。歌を献じた時点は文武天皇の御代にも可能性があります。

 2-1-269歌の作者志貴皇子は、天智天皇の子であり、元正天皇の御代まで存命でした。『続日本紀』では「霊亀2年(716)8月11日薨す」という記事があります。

 2-1-270歌の作者長屋王は、慶雲元年(704)正四位上文武天皇の御代21歳となっています。

  2-1-271歌の作者阿倍女郎は、中臣朝臣東人との贈答歌があります。その東人は、長田王と同時期の和銅4年(711)4月17日の成選の結果で正七位上から従五位下を授けられています。考査の期間が必要なので官人としてのスタートは文武天皇の御代であったと思います。

 題詞にいう「屋部坂」とは、土屋氏は、河内より坂を越えて平城京を望見できる坂(志比坂)と、推測しています。なお、阿倍女郎は何人かが『萬葉集』に登場しています。

 2-1-272歌等の作者高市連黒人は、伝未詳ですが、2-1-70歌の題詞に作詠時点とともに名前が明記(太上天皇持統天皇)の芳野宮行幸時作詠)されており、持統・文武天皇の頃の人、といわれています。

③ 2-1-281歌の作者石川少郎は、左注に従えば石川君子となります。石川君子は、『続日本紀和銅6年(713)1月23日条で正七位上から五階一気に昇進し従五位下を授けられています。蔭位による初叙が低い官人であるならば、此の特進は官人としての履歴を経た後の事でしょうから、文武天皇の御代に官人となったと推測できます。なお、蔭位の制では、従五位庶子であれば従八位下となります。

 2-1-281歌本文初句にある「然」の地は福岡県粕屋郡の志賀島を指します。

 作者石川少郎は、文武天皇の御代に筑紫勤務の経験をすることが可能です。

 「少郎」とは中国では他人の子を呼ぶ敬称の中で兄弟の一番末に当たる男子をいうそうです。

④ 2-1-282歌~2-1-284歌の作者は高市連黒人とその妻です。作詠時点は題詞に明記されていません。高市連黒人は2-1-272歌等で指摘したように、持統・文武天皇の頃の人、といわれています。

 2-1-285歌と2-1-287歌と最後の歌2-1-289歌の作者春日蔵老は、大宝元年(701)勅により還俗しています。

 2-1-288歌の作者丹比真人笠麿は、伝未詳です。

 このように、第一グループのこれらの歌は、文武天皇の御代までに作詠あるいは初めて披露された歌ということができます。これは伝承歌などが元明天皇の御代に披露されなかった、ということを意味するものではありません。

⑤ ブログ「わかたんかこれ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 「関係分類A1~B」以外の歌で第二グループ以下の歌は、次回検討します。

(2022/3/28  上村 朋)

付記1.蔭位制について

 養老令では、21歳に達して後、

① 親王の子は従四位下、諸王の子は従五位下、五世王の嫡子は正六位上 五世王の庶子正六位下が初叙。

② 諸臣では、一位の嫡子が従五位下・・・・・・・従五位の嫡子が従八位上が初叙。 庶子は一階を降し、三位以上の孫はまた一階を降す。

(付記終わり  2022/3/28  上村 朋)

 

 

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 萬葉集巻三の配列その1 

 前回(2022/3/14)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 ・・・」で一端を述べた類似歌のある『萬葉集』巻三の配列に関して、今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 萬葉集巻三の配列その1」、と題して記します。また、歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋)<2023/12/25:a行幸関係を補足: 「3.③」。b歌番号の表記の誤りを訂正:「3.②の第十一における2-1-392歌」。>

 

1.『萬葉集』の巻三について 

① 『萬葉集』は何回かの編纂を経て今日みる20巻になりました。巻三については、巻一と巻二を前提に(そして以後の巻と無関係に)最初編纂されている、と諸氏が指摘しています。

② 今そのうちの雑歌と挽歌の部にある各歌の理解に資するべく、配列を検討したい、と思います。編纂者は編纂方針を巻一と巻二を参考として定めているでしょうから、巻一の雑歌の部の検討で用いた方法により、検討をすすめます。

2.天皇の統治行為の分類

① 巻一の雑歌は、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、歌そのものと巻一の理解に有益でした。

 その時の、歌と天皇の統治行為の分類基準を、2021/10/4付けブログの本文「4.②」より引用すると、下記③のとおり。

② 巻一で詠われている状況を念頭に天皇の統治行為を分類していますので、分類基準に偏りがあるかもしれませんが、すべての天皇の統治行為が対象になっています。巻一と巻三の各雑歌を比較しやすいように、同じ基準の分類で巻三を検討します。

③ 歌と天皇の統治行為との関係を11種類に分けます。

A1 天皇及び太上天皇などの一般的公務に伴う(天皇が出席する儀礼行幸時の)歌群、但しA2~Hを除く:

 例えば、作者が天皇の歌、天皇への応答歌、復命歌、宴席で披露(と思われる)歌

A2 天皇及び太上天皇などの死に伴う歌群:

 例えば、殯儀礼の歌(送魂歌・招魂歌)、追憶・送魂歌

B 天皇が下命した都の造営・移転に関する歌群:                      

 例えば、天皇の歌、応答歌、造営を褒める歌

C 天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(但しDを除く):

 例えば、皇子や皇女、官人の行動で、公務目的に直接関係なさそうなその旅中での感慨を詠う歌。復命に関する歌はA1あるいはA2あるいはDの歌群となる。

D 天皇に対する謀反への措置に伴う歌群:

 例えば、罪を得た人物の自傷歌、護送時の誰かの哀傷歌、後代の送魂歌

E1 皇太子の行動に伴う歌群(E2を除く):

 例えば、皇太子の行幸時の歌、皇太子主催の宴席での歌、公務目的に直接関係なさそうなその旅中での感慨を詠う歌 

E2 皇太子の死に伴う歌群:

例えば、殯儀礼の歌、事後の追憶の歌

F 皇子自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む):

 例えば、殯儀礼の歌、事後の追憶・哀悼の歌、主催した宴席など公務以外の宴席での歌、その公務の目的に直接関係なさそうなその旅中での感慨を詠う歌

G 皇女自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む):

 例えば、殯儀礼の歌、追憶の歌、送魂歌、主催した宴席など公務以外の宴席での歌

H下命の有無が不明な事柄に伴う(作詠した官人自身の感慨を詠う)歌群:

 上記のA~GやIの判定ができない歌(該当の歌は結局ありませんでした)

I 天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を詠う歌群:

 例えば、事後の送魂歌

 ここに送魂歌とは、死者は生者の世界に残りたがっているのでそれを断ち切ってもらう必要があるという信仰の上にある歌という意味である。当時は単に追悼をする歌はない。

 また、分類作業ではいずれかの分類に整理するものとしている(分類保留にした歌はない)。

 

3.巻三の雑歌の整理その1

① 巻三の雑歌(158首)の一次作業の結果を表Eとして付記1.に示します。その後の検討により7首について、「関係分類」の変更を認めました。表Eに◎印をつけた歌を「関係分類A1」としたうえで、以下の検討を行っています。

② 各歌の「関係分類」の判定について、いくつかの例と◎印の7首(題詞は4題)の変更理由をここに記し、そのほかは原則として表Eの備考欄と注記に記しました。

 

第一 雑歌の筆頭歌2-1-235歌は、題詞の文章より行幸の景を人麻呂が詠う歌と理解できますので、「A1」となります。

 関係分類整理の原則は題詞を優先しての判定です。

 元資料を推測すると、表Eの注記に記すように2-1-236歌の可能性があります。それから類推すると、同様に披露する場がある、ということになり、この歌は題詠であり、公的な儀式やその後の宴席での披露を前提にした歌ということになります。

 題詞には「天皇」とだけあります。作者人麻呂が仕えた可能性のある天皇すべてが該当可能です。天武系の初代である天武天皇持統天皇文武天皇までに可能性があります。巻三編纂者の時点ではこの三代の天皇薨去されており、一代に限ってこの歌を理解しなくともよいのかもしれません。

 

第二 ◎印の歌2-1-240歌~2-1-242歌は、原則から判定すると、天皇の許可を得て狩をするはずですから「C」となります。しかし前後の歌の判定から、作者長皇子は、天皇の代理で狩の指揮をとっている、と編纂者は整理していると思えるので、表作成後「A1」とみなしました。歌本文にある「我大君」は、狩場に臨場されている天皇を指します。

 

第三 2-1-290歌と2-1-309歌は、題詞にある「幸志賀時」と「幸伊勢国之時」の理解が深まった結果、それぞれ「A1」と「C」とに分かれました。ブログ2022/3/14付け「20.⑥~⑧」参照。

 

第四 ◎印の歌2-1-316歌は、作詠時点は神亀元(724)年3月1日条にある聖武天皇の芳野宮行幸時が最有力となり、表作成後「A1」とみなしました。

 作者土理宣令(「刀利」とも書く)は、聖武天皇が皇太子(東宮)のとき憶良などとともに侍することを命じられています。完成したばかりの『日本書紀』を皇太子に講読している可能性があり、『日本書紀』への祝意の意の歌として、表作成時は「C」と判定しました。

 しかし、歌本文の上句の吉野を詠う点で聖武天皇行幸時の歌とみて、四句と五句は『日本書紀』記載の事柄をさすとしても、表作成後「A1」とみなしました。

 この歌の題詞には行幸との関連をうかがわせる記述がありませんが、前後の歌が聖武天皇の時代の歌であることを参考としました。

 土屋氏は、「吉野における作で、実際の吉野川を見て居るのであらう」と指摘し、伊藤氏も、「上二句は実景の作。「知らねども」を起こす。同音の効果もある。」、また「語り継がれたのは天武・持統の吉野の故事」と指摘しています。その故事は『日本書紀』に種々記述されています。

 なお、詠っている吉野の描写は想像でも可能でしょう。既に先輩の官人の歌がある地であり、景を詠み込んだ歌を事前に用意できたでしょう。だから、「・・・時作歌」とは、実際に行幸に従駕して作詠を始めたのではなく披露した時点が従駕時ということだと思います。また、この歌には割注や左注はそもそもありません。

 

第五 ◎印の歌2-1-317歌は、「野登瀬川」を歌本文に詠いこんでいます。この川はほかの萬葉集歌に詠われていない川であり、その川のある地に作者は行って詠ったものと見えます。

 『続日本紀』をみると、聖武天皇即位直後の神亀元年(724)3月25日条に陸奥国の太平洋岸で蝦夷反乱を奏上する記事があり、翌月7日に藤原宇合らが蝦夷征討を命じられています。そして同年11月15日条に内舎人近江国に派遣し、蝦夷征討を終えて凱旋直前の藤原宇合らを慰労されたという記事があります。凱旋日程等を指示したのではないか。藤原宇合らは聖武天皇大嘗祭(同年11月23日)の6日後に凱旋(同月29日条)しています。

 能登瀬川とは、現在の滋賀県の1級河川天野川中流域での名称であり、平城京から陸奥国国府に至る東山道不破の関の手前にある河です。

 作者は、内舎人たちの使節の一員であり、蝦夷征討軍一同への挨拶歌がこの歌であろう、と思います。

 原則からは「C」ですが、凱旋行事を大嘗会と連動させているので、「A1」とみてよい、と思います。

 歌本文の現代語訳を試みると、

「さざ波が磯をどんどん越えてゆくような進軍をされてもうここまで戻られた。それを迎える近江国能登瀬川の川音はなんとさやかなことよ。早い瀬ごとの川音は。(ご征討おめでとうございます。)」

 

 第六 ◎印の歌2-1-325歌と2-1-326歌は、聖武天皇即位に当たり、配列を念頭におくと、船出の故事を詠った、旅中歌というスタイルの予祝の歌とみなせます。長歌は「とほきよに かむさびゆかむ いでましところ」と詠いおさめています。作者赤人が現地に行ったかどうかは問題外です。

 そのため「C」から「A1」に変更しました。なおブログ2022/3/14付け「20.⑤」参照。

 

第七 2-1-375歌~2-1-377歌は、表面的には相聞歌(恋の歌)であり、雑歌の部に配列されているので雑歌に配列する理由が暗喩などであると思います。それががわからないので、雑歌としては「天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を詠う歌群」(「I」)と判定しました。念のため、次回に再確認します。

 

第八 2-1-378歌は、その題詞の表記が特異です。「湯原王芳野作歌」とあり、諸氏は「湯原王が吉野で作った歌」と指摘しています。

 吉野は、聖武天皇も即位後すぐ芳野離宮行幸しているように、聖地です。湯原王が吉野に行くのは行幸随行あるいはその準備ではないか。一人許可されて(自分のために)吉野入りはできないでしょう。

  だから、ほかのいくつかの歌の題詞にある「幸芳野時」(2-1-290歌)とか「遊吉野時」(2-1-242歌)でもない、「幸」字も「遊」字も用いていない題詞であるものの、湯原王が吉野に行くことができる理由がほかに見当たらないので、行幸準備かとみて、「A1」と判定しました。

 なお、作者湯原王志貴皇子の子であり、白壁王(後の光仁天皇)の弟です。聖武天皇の吉野行幸に従うことは可能の世代のはずですが、『続日本紀』等に叙位叙勲の記録がなく生没年も不明です。

 歌の理解は、土屋氏に従います。

 

第九 2-1-379歌と2-1-380歌の題詞は、「湯原王宴席歌」とあり、この表記も特異です。諸氏は「湯原王が宴席で披露した(多分自作の)歌」と指摘しています。

 直前の2-1-378歌と同時の作詠であれば、「・・・三首」という題詞にまとめて配列できるところを2題の題詞による配列となっているので、別の機会の歌であろう、と推測し、吉野での歌であるならば、行幸に関連する業務での滞在時の歌として、「A1」と判定しました。

 吉野ではなく平城京で詠まれたとすると、歌本文にある「吾君」を天皇とみれば「A1」ですがそうでなければ「I」と仮置きしなければならない歌です。「(前後の歌本文とあわせての再確認は2-1-378歌とともに後程行います。)

 

 第十 2-1-381歌は、とりあえず、「下命の有無が不明な事柄に伴う(作詠した官人自身の感慨を詠う)歌群」(「H」)と判定しました。

 この歌を、伊藤博氏は、藤原不比等の鎮魂歌と指摘しています。

 阿蘇氏は、この歌の前後の配列から作詠時点を天平3,4年(731,732)頃と推測し、「不比等の子らの繁栄ぶりは確かな事実であったが、本歌を詠んだ赤人の思いは、そこになく、不比等亡き後の空虚感であったのではないかと思われる。不比等在世当時には感じなかった寂しさを、赤人は池の周囲に感じたのではないかと思われる」と指摘しています。

 しかし、赤人が現地(邸内の池)に立つことが出来る立場であったのかどうかが不明です。「故太政大臣藤原家」のその池の景を想像して詠っているのではないか。挽歌ではなく雑歌として巻三の編纂者は扱っていますので、亡くなったことによる政治的空白を表現しているのでしょうか。何の暗喩があるのかまだわかっておらず、歌の理解が宿題となってしまっています。

 「故太政大臣藤原家」は、故太政大臣藤原不比等)亡き(720)後、娘の光明皇后が相続し皇后宮にもなっています(『続日本紀天平2年(730)正月16日条など。神亀4年(727)にはここで基皇子を出産している)。そして天平17年(745)宮寺となっています(法華寺の前身)。光明皇后天平宝字4年(760)崩御しています。

 

第十一 雑歌の最後の歌は、反歌の2-1-392歌です。詞書は「羈旅歌一首 幷短歌」と、あります。題詞には作者名もないので、この歌と天皇の統治行為との関係がわかりません。歌本文をみると長歌反歌も船旅であり、2-392歌では「日本恋久」(やまとこひしく)と詠っているのでは官人の平城京への帰任の歌と推測し、「C」と判定しました。

 土屋氏は、長歌(2-1-391歌)と反歌の元資料が別々に伝承され、長歌を「純粋の詩としてみれば寧ろ雑駁に近いもの」、反歌は「多くの先蹤のある句で組み立てられて居る」と指摘し、巻三編集者が、「一組の長歌反歌に仕立てたのであらう」と指摘しています。しかし、氏は、どこに向かって船を出そうとしているかには触れていません。

 長歌をみると、地名が、淡路島、伊予の順に登場し、海神が白波を伊予(四国)に届ける、と詠い、作者は淡路島を西にむかって船出しようとしている、と理解できます。

 短歌をみると、島伝いに敏馬(みぬめ・神戸市の東部)の崎をめぐるところまで西から航海して来て、作者は「日本恋久」と詠います。やっと、生駒山などが見えるようになった時の感慨を詠っているのではないか、と思います。

 つまり長歌の中の主人公は西に向かい、反歌の中の主人公は東に向かう、という状況です。そのような伝承歌を一組に編纂者はしている、とみえます。「C」の判定は変わりませんが、この長歌反歌はだれの旅の出発から帰着までを詠もうとしたのか、興味をもつところです。

 なお、題詞に「羈旅歌〇首」とあるのは巻三の雑歌にもう2題あります。

 「柿本朝臣人麻呂羈旅歌八首」(2-1-250歌~)に詠まれているのは、摂津国(三津)から明石海峡を経由し、加古の島(加古川河口の島)までの地名などが登場しています。すべて、平城京から西にある地名です。2-1-256歌では「自明門 倭島所見(あかしのとより やまとしまみゆ)」と詠っています。明石海峡を過ぎると生駒山脈がみえてきてその山並みを越えたところに平城京があります。だから「日本恋久」と詠う歌は帰任の際の思いであろうと思います。

 この八首を伊藤氏などは、二つの歌群からなり「最初が往路、次が帰路の旅情」と指摘しています。

 「高市連黒人羈旅歌八首」(2-1-270歌~)には、平城京から山背国と東にある地名が並びます。琵琶湖の海路と三河などの陸路の歌です。

 これから考えると、長歌反歌で、平城京を後にして公務にいそしみ、今帰任するという、地方勤務の一官人の感慨を詠う一組にしたのではないか。そのような歌が西と東の方面と別けて既にあるのに巻三の最後の歌として編纂者は配列しています。

 

③ その結果、巻三の雑歌に関して、次のようなことを指摘できます。

第一 歌と天皇の統治行為との関係を11分類し、歌を整理すると、「天皇及び太上天皇などの一般的公務に伴う(天皇が出席する儀礼行幸時の)歌群(関係分類「A1」)の歌が29首(表Eの分類A1とそれ以外での◎印の歌の計)あり、また都の造営・移転に関する歌群(関係分類「B」)の歌も1首あります。

 そして、これらの歌番号を追うと、連続していくつかの歌があり、それが4つのグループとなっています。

 それは下記の表の「歌番号 関係分類A1~B」欄の歌群となります。

第二 「関係分類A1~B」の歌の配列から、雑歌の配列は、作詠時点(披露された時点)順ではなく、作詠期間が4区分されて配列されおり、その区分内も作詠時点(披露された時点)順ではありません。

 その  4区分のうち最初の3区分は、「関係分類A1~B歌」の歌の作詠時点(重要な行事・事績)により、天皇の在位期間で区分されている、とみなせます。

 最後の区分もそうであるとすると、聖武天皇以後の天皇の在位時期となりますが、歌の作者である湯原王は、生没年未詳であり、天皇名は不定となります。湯原王聖武天皇の在位期間に存命なのは確かなので、最後の区分を、聖武天皇の特別な在位期間と整理しようとすると、2-1-378歌の作者湯原王に吉野へ行けと下命があった時点が、『続日本紀』からはわかりません。聖武天皇が吉野行幸をいつ思い立ったのかがわかりません。(『続日本紀』によれば聖武天皇の最後の吉野行幸天平8年です。)

 それよりも、最初の3区分の考えを踏襲して、聖武天皇以後の天皇の在位時期に対応しているのではないか、と思います。巻一の標目の順を考慮すると、4番目の区分は、聖武天皇以降の天皇を象徴する「寧楽宮」に居られる天皇、ということになります。

 巻三の雑歌の部の構成を表で示すと、次のようになっている、といえます(これは2020/3/14付けブログで示した表と同じです)。

表 万葉集巻三雑の部の配列における歌群の推定  (2022/3/21  現在)

歌群のグループ名

歌番号

関係する天皇

  計

関係分類A1~B

左以外の分類

第一

235~245 (11首)

246~289 (44首)

天武天皇

持統天皇

文武天皇

 55首

第二

290~291 (2首)

292~314 (23首)

元正天皇

元明天皇

 25首

第三

315~328 (14首)

329~377  (49首)

聖武天皇

 63首

第四

378~380 (3首)

381~392  (12首)

寧楽宮

15首

 計

        (30首)

        (128首)

 

158首

注1)歌番号は、『新編国歌大観』記載の『萬葉集』での歌番号

注2)関係分類とは、歌と天皇の統治行為との関係を事前に用意した11種類への該当歌をいう。本文「2.③」参照。分類保留と分類項目は立てていない。

注3)この表は、表Eをもとに、表Eの◎印の歌を「A1」と判定しなおして作成した(前回のブログ2022/3/14付けに示した表と同じ)。

注4)「歌番号:左以外の分類」欄の歌で一番多いのは「C」である。「H」と「I」には、「G」までに分類できない歌も天皇の下命の有無で分類した(分類保留の歌はない)。

 

④ 「歌番号:左以外の分類」での確認や雑歌の筆頭歌の考察等もする必要があります。それらは次回とします。

ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

(2022/3/21  上村 朋) 

付記1.巻三雑歌と天皇の統治行為との関係の整理について

本文「2.」の分類を巻三雑歌に適用し、次の表Eを得た。

表E 巻三の部立て雑歌にある歌(158首(2-1-235~2-1-392))と天皇の統治行為との関係を整理した表(この表作成後の検討で関係分類「A1」に変更した歌に◎印を付し、再確認を予定している歌に△印を付す)          (2022/3/21 現在)

関係分類

歌数

該当歌

備考

A1天皇及び太上天皇などの一般的公務に伴う(天皇が出席する儀礼行幸時の)歌群、但しA2~Hを除く)

22

2-1-235* 行幸時 人麿歌

2-1-236* 天皇出御の宴席時

2-1-237 持統天皇

2-1-238 復命歌

2-1-239 応詔歌 持統・文武行幸

2-1-243*~2-1-245* 行幸準備:吉野

2-1-290* 行幸時:志賀 石上卿歌

2-1-291 和する歌:滋賀 穂積朝臣老歌

2-1-318*,2-1-319* 行幸準備時:中納言大伴卿歌

2-1-320*,2-1-321*旅中歌:赤人歌

2-1-322*~2-1-324*旅中歌:作者不明

2-1-327*,2-1-328* 行幸時:赤人歌

2-1-378* 行幸準備:湯原王

2-1-379*,2-1-380* 行幸時の宴席歌:湯原王

公的宴席での歌か

 

 

 

 

題詞の「遊」は行幸準備。

 

企画のみで終わった行幸

2-1-290歌と違和感あり

 

行幸聖武天皇即位の関連行事

即位を祝い富士山を詠う

富士山を詠う

 

即位時の歌

 

前歌との配列による

 

A2天皇及び太上天皇などの死に伴う歌群

0

無し

 

B天皇が下命した都の造営・移転に関する歌群

1

2-1-315* 復命歌:藤原宇合

 

知造難波宮事に任じられたときの決意表明

 

C天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(Dを除く)

74

◎2-1-240*~2-1-242* 長皇子の狩:人麿歌

2-1-246,2-1-247 旅中歌 長田王歌

2-1-248 旅中歌 和する歌

2-1-249* 旅中歌 長田王歌

2-1-250~2-1-258 旅中歌:人麿歌

2-1-265 旅中歌:滋賀を詠う刑部垂麿歌

2-1-266* 旅中歌:宇治川を詠う人麿歌

2-1-267* 旅中歌:降雨中の行旅を詠う長忌寸意吉麿歌

2-1-268 旅中歌:琵琶湖の夕景を詠う人麿歌

2-1-272~2-1-280 旅中歌:高市連黒麿歌 

2-1-281 旅中歌:石川少郎歌

2-1-282~2-1-283 旅中歌:高市連黒麿歌 

2-1-284 応答歌 高市連黒麿妻歌

2-1-285 旅中歌 春日蔵老歌

2-1-286 旅中歌:高市連黒麿歌

2-1-287 旅中歌:春日蔵老歌

2-1-288* 旅中歌:紀伊国 笠麿歌

2-1-289* 旅中歌:紀伊国 春日蔵首老歌

2-1-299,2-1-300 旅中歌:田口益人大夫歌

2-1-303,2-1-304 旅中歌:長屋王

2-1-306,2-1-307 旅中歌:人麿歌

2-1-308 近江旧都を詠う:高市連黒人歌

2-1-309* 宴席の歌か:安貴王歌

2-1-313 宴席の題詠か:門部王歌

2-1-314 旅中歌:(木偏に安)作村村主益人歌 

◎2-1-316* 東宮に侍す時の歌か:土理宣令歌

◎2-1-317* 旅中歌:波多朝臣小足歌

◎2-1-325*,2-1-326* 旅中歌:赤人歌

2-1-329* 難波から見えた海を詠う

 門部王歌

2-1-358管内巡察時の宴席歌 生石村主真人歌

2-1-360~2-1-366 旅中歌:赤人歌

2-1-367,2-1-368 旅中歌:笠金村歌

2-1-369,2-1-370 旅中歌:笠金村歌

2-1-371 着任の挨拶歌:石上大夫歌

2-1-372 復命歌:作者未詳

△2-1-373* 着任歓迎歌:安倍広庭卿歌

△2-1-374* 任国での歌:門部王歌

2-1-384 旅中歌:筑紫娘子歌

2-1-385,2-1-386管内巡察:多比真人国人歌

2-1-391*,2-1-392* 旅中歌:作者未詳

皇子は遊猟を勝手に行えないのではないか

巡察時の歌を含む

 

 

 

近江国より上京時

 

暗喩不明

 

地名の詮索は保留 行幸時なら作者は先遣隊員か

 

 

 

 

送別の席の歌 ブログ2018/1/29付け参照

同上

 

公務での夜行か

 

 

 

駿河国の景

 

ブログ2021/11/15付け参照

 

 

 

「幸伊勢之国時」は従駕の意ではない

 

 

 

 

 

 

東宮に進講する際の歌 日本書記720完成

持節大将軍藤原宇合を迎えた使節一行の一人が作者

斉明天皇の故事と伊予温泉を詠う

海の民の生活を報告

 

ブログ2020/10/26参照

ブログ2020/10/26参照

ブログ2020/10/26参照

ブログ2020/10/26参照

ブログ2020/10/26参照

ブログ2020/10/26参照

ブログ2020/10/26参照

ブログ2020/10/26参照

 

 

2-1-392は部立て最後の歌(反歌

D天皇に対する謀反への措置に伴う歌群

0

無し

 

E1皇太子の行動に伴う歌群(E2を除く)

0

無し

 

E2 皇太子の死に伴う歌群

0

無し

 

F皇子自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む)

 

4

2-1-263*,2-1-264* 雪を詠う新田部皇子への人麿歌 

2-1-269* むささびを詠う志貴皇子歌 

2-1-270 故郷を詠う長屋王

新田部皇子は735没

 

志貴皇子は716没

長屋王は729没

G皇女自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む)

0

無し

 

H下命の有無が不明な事柄に伴う(作詠した官人自身の感慨を詠う)歌群

11

2-1-259~2-1-262 香具山とその麓の現況を嘆く歌:鴨君足人歌

2-1-271* 諧謔の歌:阿倍女郎歌

 

2-1-295~2-1-298 宴席の題詠歌か起承転結の4首:角麿歌

2-1-359 明日香への望郷歌:上古麿歌

2-1-381* 藤原家の庭園を詠む:赤人歌

 

 

阿倍女郎は中臣東人との贈答歌がある。

摂津住吉を褒める歌 作者未詳

 

 

 

 

I天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を詠う歌群

46

2-1-292,2-1-293 初月を詠う 間人宿祢大浦

2-1-294 相聞の歌:小田事歌

2-1-301旅中歌:弁基歌(僧であるので任国への途中ではない) 

2-1-302* 雪を惜しむ:大納言大伴卿歌

2-1-305 相聞歌:中納言安倍広庭歌 

2-1-310~2-1-312 紀伊の石室を詠う:博通法師歌

2-1-330 応答歌:通観歌

2-1-331*~2-1-340* 宴席での題詠歌: 大宰少弐小野老その他の歌

2-1-341*~2-1-353* 讃酒歌:旅人

2-1-354 応答歌: 沙弥満誓歌

2-1-355 旅中歌:若湯座王

2-1-356 白雲の叙景歌:釈通観歌

2-1-357白雲の叙景歌:日置少老歌

△2-1-375*,2-1-376* 相聞歌:赤人歌

△2-1-377* 和した歌:石上乙麿歌

2-1-382,2-1-383 神を祀る歌:大伴坂上郎女

2-1-387 恋の歌:赤人歌

2-1-388~2-1-390 仙柘枝媛を詠う:作者未詳歌

ブログ2018/3/26付け参照

宴席での題詠か

 

 

宴席での題詠か

宴席歌か

 

法師は従駕が疑問

 

覆水盆に返らずの意か

望郷歌&天皇讃歌

 

 

讃酒歌が前提の歌か

 

 

 

宴席の歌か。暗喩が不明

 

宴席の歌か。暗喩が不明

「君」が不明。左注は無視してここに分類。

暗喩が不明

相聞歌 雑歌の要素不明

158

 

 

注1)歌は、『新編国歌大観』の巻番号―当該巻の歌集番号―当該歌集の歌番号で示す。

注2)「該当歌」欄のコメントは上村朋の意見。「殯儀礼」とは皇族・高位の官人に対する官許の葬送儀礼相当を言う。

注3)◎印の歌(計7首)は、関係分類をその後「A1」に変更した。そのうえで検討をすすめている。

△印の歌は、2022/3/21現在再確認を予定している。

注3)「*」印の歌についての注記

  2-1-235: 天皇歌の前に置かれ、かつ筆頭歌なので、天武天皇の時の歌と編纂者が仕立てたか。題詞では人麿が、雷丘で詠んでいる。本文「3.② 第一」参照。

  2-1-236: 2-1-235歌左注にある或本の歌。2-1-235歌の元資料か。五句「宮敷座」により、行事に伴う宴席で人麿は詠んでいる。

 2-1-240~2-1-242歌:本文「3.② 第二」参照

  2-1-243~2-1-245:①題詞の「弓削皇子遊吉野時・・・」について諸氏が、2-1-111歌の題詞「幸吉野宮時 弓削皇子贈・・」と同時期と指摘している。②三船山に雲は常にあるものの例と理解した。題詞に「遊」というが行幸準備か。2022/3/14付けブログ「20.⑥」以降を参照。

  2-1-249:2-1-246歌からの一連の歌とみると、正月などに薩摩隼人の舞などを宮中に見ただけだった長田王の現地での感慨の歌となる。

  2-1-263,2-1-264:新田部皇子が雪の日に人を寄せた際の歌と理解して、関係分類を「F」とした。

   2-1-266:四句「いさよふなみ」は何を暗示して居るか不明。四句と五句は、とどこおり漂う波の行方がわからない(伊藤博氏)と、流れきれずに居る波は流れ行くべき方もなく湛へられている(停滞に重きを置く土屋氏)という理解がある。

  2-1-267:①前後の歌の配列からは近江国大和国の地名を期待するところだが不明。 ②三句「神之埼」は「みわのさき」と『新編国歌大観』の『萬葉集』は訓む。2-1-157歌の初句「神山之」も「みわやまの」と訓んでいる。これは前歌にある「三諸之 神の神須疑・・」より推測が可能である。③土屋氏は、2-1-267歌の「神」を必ずしも「みわ」と訓まねばならぬ根拠はない、として「和泉貝塚市の東南近木川河口付近の地(行基が神崎船息を置いた地)とみるべき」と指摘。また四句の「狭野乃渡」の「さの」は神崎の東南に続いて今和泉佐野市がある、と指摘する。「わたり」は河海をわたる所の意、武庫のわたり、難波のわたり等の如く濟津をいふと同時に基地たる港をもいふやうに見えるからここのその意にとれば自然とも指摘し、五句の「家」は作者が宿るべき家とも指摘する。もともと人家がないことを確認している。④伊藤氏は現和歌山県新宮市三輪崎と佐野一帯、という。⑤四句にある「わたり」とは、土屋氏のいうように、地元の人だけでなく官人も公用に利用している常設の利用頻度がある施設か、その付近の意であろう。河の渡しであれば、その位置は河口を避け増水に備えられる微高地または段丘が近くにある河原という地点となり人家はない。船泊りであれば、その位置は官か行基が造った停泊施設であり、避難用であれば常住の人家がないところもある、と推測できる。⑥土屋氏の指摘する「神崎船息」とは『行基年譜』にいう活動のひとつで「神崎というところの船泊」を指すが、資料批判をすると、行基の活動拠点楊津院と一体となった神崎川下流の河尻(神崎)の泊であると推測できる。作者が降雨中の移動で海路または陸路という二つの推測ができる。

  2-1-269:① 狩場から都に逃げてきたムササビが捕獲され献上に添えようとした歌がある(2-1-1032歌)。献上前に死んだのでそのままとなった。夜行性のムササビは、猟師が捕獲対象としていないだろう。何者かを夜行性のムササビに例えている歌か。夜這いに失敗した男をからかった歌か。折口信夫氏の『口訳萬葉集』では「宴席歌」としている。

② 配列は、近江旧都を詠う人麿歌の次にある。また千鳥が鳴く歌に挟まれている。今後の検討を要する。

③ 志貴皇子が何者かを積極的に例えている、とみて「関係分類」を「F」とした。

  2-1-271:歌意保留。坂の地肌が赤いことを詠うのか。土屋説で、整理した。

  2-1-288:題詞「(人物名)往紀伊国・・・歌」は、公務の旅行時であるが、「幸…時」と記していないので行幸の従駕時ではない。この歌の前後には、公的な場ではないところでの軽妙な歌が多い。

2-1-289:作者名が、弁基が701年還俗に与えられた名前である「春日蔵首老」である。それ以降の作詠時点である。

  2-1-290:本文「3.② 第三」と2022/3/14付けブログ「20.⑥~⑧」を参照

  2-1-302:① 割注の「未詳」とは、作者「大納言大伴卿」への注記。大伴安麿といわれている。

② 土屋氏は「勘の部類」だとして大伴旅人と言い、巻三の配列が歌の「製作年代」に割合に無関心。編纂者は巻一と巻二の拾遺のつもりらしい、のも「勘」という理由のひとつ、という。

③ 私の「勘」では宴席の題詠かと思うが、関係分類は「I」とした。

  2-1-309: 2022/3/14付けブログ「20.⑥」以降参照

  2-1-315:①作者藤原宇合が知造難波宮事に任じられた時(神亀3年(726)10月)の予祝の歌(伊藤氏)として復唱復命した歌。11種の「関係分類」では、A1よりも、造難波宮に関する歌と捉えられるので、Bとする。 ②難波宮聖武天皇が命じて天平4年(732)完成(後期難波宮といわれる)。

  2-1-316:本文「3.② 第四」参照。

 2-1-317:本文「3.② 第五」参照。

  2-1-318&2-1-319:割注(「未経奏上歌」)を今保留して関係分類を整理している。2022/3/14付けブログ参照。題詞にいう「暮春之月幸芳野離宮時」とは神亀元年3月1日からの聖武天皇行幸が最有力である。

 2-1-320歌~2-1-321:歌の富士山を詠う赤人歌は、聖なる山のように今上天皇の御代が後々まで言い継がれてゆかれるようになる、と予祝する歌である。この歌は聖武天皇の即位の一連の行事でのある宴席で披露が可能な歌。

 2-1-322歌~2-1-324歌:今上天皇は富士山のように誰もが仰ぎ見る方である、と予祝する歌である。

  2-1-325&2-1-326:本文「3.② 第六」参照。

 2-1-327,2-1-328:上記3つの長歌を献じられた今上天皇が、応えた歌である。天武天皇を尊敬しその治世をいつも顧みて進みたい、という決意表明ではないか。その意を受けて赤人が詠った歌である。長歌は「いにしへおもへば」と詠いおさめる。

 2-2-329歌:そのような天皇を頂いて、海の民も心置きなく生活しており、ありがたいことだ、と詠う歌であり、関係分類は「C」(天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(Dを除く))。

 2-1-331~2-1-340:ブログ2022/2/14参照。小野老の叙位を祝う宴での披露歌か。

  2-1-341~2-1-353:土屋氏は「中国の讃酒歌にならった妻を亡くした後の大宰師大伴卿の歌」という。

  2-1-373:暗喩があり、主賓の到着を待ち望んでいる歌となる。

 2-1-374:望郷(京)歌

  2-1-375,2-1-376&2-1-377:本文「3.② 第七」参照。

  2-1-378:本文「3.② 第八」参照。

  2-1-379&2-1-380:本文「3.② 第九」参照。

 2-1-381:本文「3.② 第十」参照。配列から編纂者の意図をくみ取りたいが今のところ分からない。

 2-1-391,2-1-392:①雑歌の最後の歌。本文「3.② 第十一」参照。左注を信じれば、古歌であり、当時誦したという若宮年魚麻呂なる人物は経歴未詳である。

(表E 終り )

(付記終わり 2022/3/21   上村 朋)