わかたんかこれ  猿丸集は恋の歌集か 不相兒は誰 萬葉集巻三配列その5

  前回(2022/4/11)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 萬葉集巻三の配列その4」に続き、今回「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 不相兒は誰 萬葉集巻三の配列その5」と題して記します。歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋)

1.~11.承前

 『萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、各歌について判定した表Eを得ました(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)。そして、「関係分類A1~B」の歌30首から、巻三雑歌は天皇の代を意識した4つのグループに分かれました。「関係分類A1~B」以外の歌においても第二グループまで確認できました。

 各グループの筆頭歌は、2-1-235歌、2-1-290歌、2-1-315歌および2-1-378歌です。

12.第三グループの「分類A1~B」以外の歌 2-1-330歌など

① 「分類A1~B」以外の歌で第三番目のグループの最初の歌2-1-329歌を確認したので、今回は2-1-330歌からです。聖武天皇の御代のみの時代の歌からなると予想しており、作詠(披露)時点は、聖武天皇が譲位された天平勝宝元年(749)が下限となります。

② 第三グループの歌である判定基準は、これまでのグループの判定基準と同じです。

即ち、「歌の作詠(披露)時点がその歌群のグループの天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌」と判定します。ほかの代の可能性の有無は関係ありません。

 例えば、作者未詳の伝承歌と推定でき、歌本文の内容(あるいはその暗喩)が当該天皇の代に改めて披露されてもおかしくないのであれば、そのグループの期間中に披露された歌の可能性を認め、そのグループの歌とみなします。

 また、作者が、そのグループの期間中に現役の官人であって、題詞の文章と歌本文が当該天皇の代の作詠あるいは披露されたとして矛盾がなければ、そのグループの歌とみなします。

③ さて、2-1-330歌は、題詞に「・・・通観作歌」とあります。作者通観は伝未詳であり、歌本文も時代を特定できる内容ではありません。聖武天皇の御代に作詠(披露)された歌ではない、と証するのが困難です。

 歌の内容における雑歌の要素は、このような戯れの咒をするような世の泰平を詠っていることか、と思います。

 直前にある2-1-329歌も、天平4年か天平6年が作詠時点で、聖武天皇の御代として順調な、泰平の世の時期の歌でした。藤原広嗣の乱(740)はまだ生じていません。

④ 2-1-331歌の作者小野老朝臣は、天平9年(937)大宰大弐従四位下で卒しています。大伴旅人大宰帥の時大宰少弐でした。この歌から2-1-340歌までは、一つの歌群を成しています。「寧楽」という表記のある2-1-331歌の検討時(ブログ2022/2/14付け「18.⑦」以下参照)、伊藤博氏も指摘しているように小野老が神亀6年(729)3月従五位上となったお祝いの席の歌と分かりました。

次にある2-1-341歌~353歌は、題詞に「大宰帥大伴卿讃酒歌十三首」とあり、聖武天皇の御代に大伴旅人天平13年(731)薨)が作詠(披露)した歌です。

 2-1-354歌は、旅人の讃酒歌に和した歌といえます。作者沙弥満誓は、俗名笠朝臣麻呂であり、元明上皇の病気平癒祈願のため、養老5年(721)出家し養老7年筑紫観世音寺別当となっています。大宰師大伴卿と重なります。

 これらも泰平の世を寿いでいます。

⑤ 次の2-1-355歌の作者若湯座王と、2-1-356歌の作者通観と2-1-357歌の作者日置少老(へきのをおゆ)の3人は、伝未詳です。

2-1-358歌の作者生石村主真人は、天平10年(738)頃美濃少目としかわかりません。

2-1-359歌の作者上古麿も伝未詳です。

これらの歌も、聖武天皇の御代で披露されたことがないということを証するのは難しいところです。各歌本文は、穏やかな各地の様子を詠っています。

⑥ 2-1-360歌ほか5首の作者山部宿祢赤人は、生没年未詳です。これらの作詠時点は題詞などから特定できませんが、題詞に年号とともに赤人名明記の題が2題あります。これより、聖武天皇の御代には官人であったことが分かります。

 2-1-922歌  神亀元年甲子冬十月五日幸紀伊国于時山部宿祢赤人作歌一首 幷短歌 (聖武天皇行幸

 2-1-1010歌 八年丙子夏六月幸芳野宮之時山部宿祢赤人応詔作歌一首 幷短歌(天平8年 同上)

 また、2-1-943歌ほか3首のように、直前にある長歌(と短歌)の題詞を配列上重視すれば、歌本文に同じ景を詠んでおり、作詠時点を特定できる歌もあります。

 次の2-1-366歌の題詞は「或本歌曰」であり、2-1-365歌までの赤人歌と同時代の歌でよみ人しらずの伝承歌であり、聖武天皇の御代には披露されていない、とも言いきれません。

⑦ 次にある2-1-367歌~2-1-370歌は題詞に笠朝臣金村が「作歌」とありますが、題詞のみで作詠時点は特定できないものの、題詞に年号とともに金村の名が明記されているものが複数題あり、聖武天皇の御代に官人であることが分かります。

 2-1-912歌  養老七年癸亥夏五月幸于芳野離宮時笠宿祢金村作歌一首 幷短歌 (元正天皇行幸

  2-1-546歌  神亀元年甲子冬十月五日幸紀伊国之時為贈従駕人所誂娘子笠宿祢金村作歌一首 幷短歌  (聖武天皇行幸)

 2-1-925歌  神亀二年乙丑夏五月幸于芳野離宮時笠宿祢金村作歌一首 幷短歌

 2-1-933歌  冬十月幸于難波宮時笠宿祢金村作歌一首 幷短歌 (神亀2年か)

 2-1-940歌  三年丙寅秋九月十五日幸於播磨国印南野時笠宿祢金村作歌一首 幷短歌(神亀3年)

などという題詞です。

⑧ 笠朝臣金村のこの4首以下は、「たまたすき」の語意確認の際、ブログ2020/10/26付けで一度検討しています。2-1-369歌に「たまたすき」の用例がありました。

 2-1-367歌と2-1-368歌は、越前国に入国直前の歌であり、国守の交代であるならば、国府より出迎えの者がいるはずです。2-1-369歌と2-1-370歌は敦賀より国府に向かう海路の歌であり、2-1-371歌が国府到着後の公式の宴での挨拶歌、2-1-372歌はそれへの応答歌とみることができます。2-1-373歌は、新たな国守などの到着を待ち望んでいた、と詠う先任している者らの歓迎の歌ではないか、と思います(同ブログ「付記1.」参照)。

 2-1-371歌は題詞に「石上大夫(いそのかみまへつきみ)歌一首」とあります。「大夫」と尊称される「石上」氏の人物が、左注にある石上朝臣乙麿であるとすると、『続日本紀』に越前国守に任じられた記事はないものの、乙麿は、神亀元年聖武天皇即位後に正六位下から従五位下に叙され、天平4年従五位上丹後守などを経て天平勝宝元年(749)孝謙天皇の即位に伴って中納言となり、その翌年9月1日薨去しています。このように、乙麿は聖武天皇の御代に活躍した官人です。

 この歌は、表E作成時に判定したように、着任の挨拶歌です。内容をみると、何人もが口にしている歌と思われ、巻三編纂者は石上大夫に仮託したのではないか。

⑨ 2-1-373歌の作者安倍広庭は、天平4年(732)薨去していますが、聖武天皇の御代の作詠(披露)の可能性を否定できません。表E作成時は、暗喩があり、主賓の到着を待ち望んでいる歌と理解し、宴席の歌となり、関係分類は「C」と判定しました。「伊藤氏は宴席の歌らしい」と指摘しています。(同ブログ付記1.」参照)。

 2-1-374歌は、「某・・・作歌」タイプの題詞ではないので、伝承歌です(同ブログ「付記1.」参照)。門部王が披露しているので、聖武天皇の御代でも披露された歌といえます。任国での望郷の歌であり、題詞にある「思京歌」に留意すると、着任後しばらくするとこのような気持ちとなる、と先任の官人も口にした歌です。関係分類は「C」と判定しました。

 以上の歌は、すべて聖武天皇の御代が作詠(披露)時点となりました。

 

13.2-1-375歌など

① 次に、2-1-375歌ほか1首は、題詞より、山部宿祢赤人の作詠、また、2-1-377歌も題詞より石上乙麿朝臣と、作者名が明らかであり、2-1-360歌などと同様に聖武天皇の御代の作詠(披露)といえます。

 このように、第三グループの「分類A1~B」以外の歌と予想していた歌は、すべて、聖武天皇の御代に作詠(披露)された歌であるのを全否定できない歌ばかりでした。

② しかしながら、長歌2-1-375歌は「不相兒故荷」(あはぬこゆゑに)と詠いおさめており、恋の歌です。雑歌の要素がはっきりみてとれません。

 土屋文明氏は、「一首の構想は、嘱目の自然に寄せて恋情を抒べる形である」が、「自然と心情との契合は必ずしも顕密とは言はれない」と指摘しています。相聞ではなく雑歌に配列されているのは、「題詞に見える如く春日野登高の作の為である」とも指摘しています。

 伊藤氏は、「「恋」を主題とする宴席歌」と指摘しています。氏は、雑歌を「公の場におけるくさぐさの歌」と理解されています。長歌とその反歌なので、下命があって赤人が作詠したものと推測でき、その披露となれば公的な宴席が第一候補であり、伊藤氏のいう雑歌でも一般的な定義(例えば『日本大百科全書』)の雑歌としても納得がゆきます。

③ 表E作成の際は、「表面的には相聞歌(恋の歌)であり、雑歌の部に配列されているので雑歌に配列する理由が暗喩などであると思います。それがわからないので、雑歌としては「天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を詠う歌群」(「I」)と判定しました。念のため、次回に再確認します。」(ブログ2022/3/21付け)と宿題となっていました。それを、ここで、検討します。

 天皇の下命があれば伊藤氏のいう「公の場におけるくさぐさの歌」という雑歌の定義の範疇の歌になり、関係分類は「C」となり得ます。また、献呈歌であれば皇子に対してのものとして関係分類は「F」となり得ます。しかし、題詞の語句だけでは献呈歌(例えば2-1-263歌)とも決めかねます。

④ 改めて、2-1-375歌を、検討します。題詞は、倭習漢文で作文されている文章です。

 題詞の作文のタイプは、ブログ2022/4/11付けの「11.④」にあげた、

 (官位)人物名+登・・・+作歌〇首

であり、巻三には3題あります。「登・・・」の検討を最初にします。

2-1-327歌 登神岳山部宿祢赤人作歌一首 并短歌

2-1-375歌 山部宿祢赤人登春日野作歌一首 并短歌

2-1-385歌 登筑波岳丹比真人国人作歌一首 并短歌

萬葉集』において、題詞に「神岳」、「春日野」あるいは「筑波岳」とあるのはこれらの各1首しかありません。別途「筑波山」はあります。

⑤ 2-1-327歌の題詞にある「神岳」を、歌本文では「三諸乃 神名備山(尓)」(みむろの かむなびやま(に))と詠っていると思えます。『萬葉集』における題詞には、「神名備」とか「神名火」もありません。

萬葉集』の歌本文に「神岳」という表記は次の2首があります。

(巻二 挽歌)2-1-159歌 天皇崩御之時大后御作歌一首

     「・・・  神岳乃 山之黄葉乎 ・・・」(かむおかの やまのもみちを ・・・)

   (巻九 雑歌)2-1-1680歌  (大宝元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇紀伊国時歌十三首(2-1-1671~2-1-1683)

  「勢能山尓 黄葉常敷 神岳之 山黄葉者 今日散濫」

  (せのやまに もみちつねしく かむをかの やまのもみちは けふかちるらむ)

 万葉仮名「神岳」を「かむお(を)か」と訓んでいます。諸氏は、神岳に、雷岡・甘樫丘・みは山(明日香村橘寺東南のミハ山)・南淵山などを比定しています。

 しかし、漢字「岳」字の意(第一義が高大な山)と「神岳」の比定地のイメージはだいぶ違います。

⑥ 2-1-385歌の題詞にある「筑波岳」は、『萬葉集』の歌本文にその表記はありません。

 『萬葉集』の題詞には、「筑波山」が計4題。「筑波嶺」が1題あり、2-1-385歌本文に「国見為 築羽乃山」とあるほか、『萬葉集』の歌本文には、筑波根、筑波嶺、都久波尼(つくはね)などの表記があります。「つくばやま」と訓む別の万葉仮名表記もあります。

 歌本文における「つくばね」などは、常陸国(現茨城県)にある筑波山を指しており、「筑波岳」も2-1-385歌の歌本文をみれば筑波山に比定できます。筑波山は、大和三山と比較すれば「高大な山」に近いと言えるかもしれませんが、「岳」のイメージと差があるところです。

 そうすると、2-1-375歌の題詞にある「春日野」の「野」も、倭習漢文における表現であり、漢字「野」のイメージとギャップがあるかもしれません。

 なお、表E作成時の関係分類の判定は、2-1-327歌を今上天皇が即位時の決意表明をした歌(の代作を赤人がした)と理解して「A1」とし、2-1-385歌を管内巡察の歌と理解して「C」としました。これに比べると2-1-375歌は、上記③に記したように「I」とした、みかけは恋愛の歌であり、作詠事情がほかの2首とは異なっている、と思えます。

⑦ 漢字「野」字は、「もと、いなかや、ひいて、郊外の村里、のはら」の意であって、「aいなかや bの(町はずれ・いなか・のはら・はたけ・民間) cかざりけがない・いなかびた dいやしい」などの意があります。(『角川新字源』)

 諸氏は、この題詞にある「春日野」を、「春日大社を中心とする一帯」(伊藤氏)、「奈良市東部の春日山の西麓一帯。野は山沿いの傾斜地」(阿蘇瑞枝氏)、「春日山麓の高地であらう。春日山とは春日の地の山、即ち現在の奈良東方の連峰。みかさの山はその一峯。」(土屋氏)などに比定しています。

 平城京との位置関係を確認します。平城京の北部に平城宮が位置しています。その平城宮の真東の方向に東大寺が位置し、東大寺から東南方向に春日大社が位置します。春日大社の裏山が御蓋山(標高297m 三笠山 国土地理院1/5万図では「春日山」)となります。

 東大寺平城京の左京北部から張り出した形になる外京の東端を南北に走る道(七坊大路)に接してその東(平城京外)に位置します。春日大社も当然平城京の外に位置します。

 なお、聖武天皇の御代に春日大社の社殿は建っていません。春日大社HPによると、所在地は奈良県春日野町160であり、「神山である御蓋山山頂浮雲峯」に茨城県鹿島より武甕槌命様をお迎えし、社殿を神護慶雲2年(768)社殿が造営された」とあります。

⑧ 「春日」を地名とみて探すと、『続日本紀』の「和銅元年九月二十七日」条に、「至春日離宮」とあります。元明天皇行幸されています。離宮の名は地名の名にちなむ場合が多い。

 承平(しょうへい)年間(931~938)ごろ成立といわれる『倭名抄』に、「春日郷(加須加)」という表記が、大和国添上郡の郷名としてあります。古くはこの郷域をこえて、春日山とその南に連なる高円山の西麓一帯のかなり広い地域を春日(かすが)と称したらしい(『新日本古典文学大系12』397p)。

 堀池春峰氏によれば、ここにひらけた丘陵地は春日野とも高円野ともいわれて貴紳の遊行の地として知られ、聖武天皇天平11年ここで遊猟し(2-1-1032歌)、そのころここにあった高円の宮(2-1-4339歌&2-1-4340歌)、「高円の離宮」「高円の野の上の宮」「高円の尾の上の宮」(2-1-4530歌&2-1-4531歌)は、春日離宮の後身と指摘しています(同上)。

⑨ 当時は、集落(あるいは行政単位の郷)に接する川が、その集落等の名を付けて呼ばれています(同じ川が集落ごとに名を替えている例がある)が、春日川は見当たりません。近くに川が一つだけあったわけではないくらいの広い範囲が「春日」の地であって、現在の新薬師寺あたりも「春日」と称していた地域内のようです。東大寺の寺地の範囲を記した「東大寺山境四至図」という絵図(作成は天平勝宝8年(756))には新薬師寺が描かれ、その西側には「人家」と注記した〇印が2,3あります。新薬師寺は人家の山側の原野か林であった傾斜地に立地したと見えます。

 そうすると、東大寺以南の傾斜地で、集落も耕地もないところで、野遊びもでき庶民にとり薪を採りに行けるエリア(原野か林状の状態の傾斜地)を総称して「春日野」、その傾斜地を形成した山々や背景の山を、総称して「春日山」と当時呼んでいたのではないか。

⑩ 実際の御蓋山は、「なぶんけんブログ」のコラム「作寶樓2009/8付け:三笠の山に出し月かも」によると、

春日山連山の一峰、というよりもその中心をなすこの山は、平城宮跡のあたりからだと、春日山連山で最高標高を持つ背後の花山などと重なって、その輪郭が確認しづらいのですが、奈良公園の近辺からだとその端正な山容をよく把握することができます。」

とのことであり、平城宮から東を遠望した際には特に目立つ山ではないようです。

 平城京の東に広がる「野」は「春日山連山の野」であり、その野を目の前にしても「直近の山・峰の野」と呼ばないで、やはり「春日野」と言う場合もあったのではないか。

 それは、官人にとり、「野」は多用途に利用できるエリアであり、認識する「野」と称するエリアは、平城京の東にあるなら一つの名前で構わないという認識だったのではないか(以後「春日野A」という)。それのバックにあたる山など東方に見える山々を、「春日山」と称したのではないか(以後「春日山A」という)。

 そうすると、「春日里」も、「春日野A」が近くにある別宅、という意の普通名詞であって、実際は平城京内にある、借りている家屋敷でも「春日野A」の近くであれば「春日里」と称して通用したのではないでしょうか。

⑪ この立場からみると、伊藤氏のいう「春日大社を中心とする一帯」という「春日野」の定義は、範囲が狭いので、この歌の作者がイメージしているエリアを例示しただけではないか。

 阿蘇氏のそれは春日山が「なぶんけんブログ」のいう「春日山連山」を意味していても、「春日山A」よりも南縁が少ないと思えます。

 土屋氏のそれは、「春日山連山」の比高が相対的に高いエリアを指しており、緩傾斜地の割合が少ないように感じられます。

 『萬葉集』の歌本文での用例でも「春日野A」等が妥当であるかは、別途検討しなければなりません。

⑫ 次に、漢字「登」字は、「aのぼる(任用される・位につく・合格する・高いところにのぼるなど) bのぼせる(人を挙げ用いる・定める(登録する)・たてまつる(上進する)) c祭祀に用いる器の名 dみのる・成熟する e年齢が高い」などの意があります。「のぼる・のぼせる」という同訓異義の漢字の「上」については、「下からうえにのぼることであり、「登とは異なり上下まっすぐな場合、すみやかである場合についていう」等とあり、「昇」は、「日があがること」とあり、「登」は「だんだんと進みあがる。用途がひろい」とあります(『角川大字源』)。

「登」と表現すると、倭習漢文では同訓異義の語として利用できる、ということです。

そのため、題詞の現代語訳を試みると、今のところ「登」の理解は宿題として、次のようになります。

 「山部宿祢赤人が、「春日野A」の野に「登」り、作った歌一首 並びに短歌」

 

14.375歌本文の現代語訳(試案)

① 次に、歌本文を検討します。そして題詞と次歌(反歌)とあわせて雑歌たる所以を、検討します。

 歌本文を引用します。

 2-1-375歌

 春日乎 春日山乃 高座之 御笠乃山尓 朝不離 雲居多奈引 容鳥能 間無数鳴 雲居奈須 心射左欲比 其鳥乃 片戀耳二 晝者毛 日之盡 夜者毛 夜之盡 立而居而 念曽吾為流 不相兒故荷

「はるひを かすがのやまの たかくらの みかさのやまに あささらず くもゐたなびき かほどりの まなくしばなく くもゐなす こころいさよひ そのとりの かたこひのみに ひるはも ひのことごと よるはも よのことごと たちてゐて おもひぞわがする あはぬこゆゑに」

 2-1-376歌

高按之 三笠乃山尓 鳴鳥之 止者継流 恋哭為鴨

「たかくらの みかさのやまに なくとりの やめばつがるる こひもするかも」

② 2-1-375歌の初句にある「春日」について、『萬葉集』での「春日」の用例を確認したところ、次のようでした。

 第一 「春日(之)山 春日野 春日之野辺 春日里」という用例では、「かすが」と訓み、普通名詞の「山・野・野辺・里(さと)」を修飾する。

 第二 「春日」という用例では、「はるひ」と訓み、「四季の一つである「春」の季節の或る日」の意である。

 このため、初句「春日」の意の第一候補は、「春の或る日」とします。

 漢字「乎」は、疑問その他の助字に用いられています。『角川新字源』の「助字解説」には、「a於と同じbか・や・かな」とよみ、疑問・詠嘆・反語の語気を表す c接尾語的用法 例)確乎」とあります。

③ 二句にある「春日山」の歌本文における用例は、巻一~巻三では、この歌のみですが、巻四以下にはいくつも用例があります。

 2-1-587歌では「春日山 朝立雲之 不居日無(かすがやま あさたつくもの ゐぬひなく)」、2-1-738歌では「春日山 霞多奈引」と奈良盆地の東縁の山々(春日山A)に共時的に生じる現象を詠んでいます。

 2-1-1517歌では「春日山 黄葉家良思」(かすがやま もみちにけらし)と秋の景も「春日山A」を詠んでいます。

 2-1-1078歌の 「春日山 押而照有 此月者」でも、平城京から望める東にある山々の意と理解できます。このように、「春日山」表記は、歌本文でも「春日山A」として歌に用いられています。(付記1.参照)。

「なぶんけんブログ」にいう「春日山連山」プラスアルファの意であり、「春日山」が「春日山A」のどのあたりをイメージしているかは歌を聴いた人物が判断する、いわば歌語「春日山」になっています。

 二句にある「春日山」は、四句目にある「御笠乃山」を修飾していますので、「春日山と呼んでいる東の連山の中の(御蓋山)」という意であり、これは、「春日山A」の意です。

④ 三句にある「高座之」は「御笠」の枕詞であり、この歌のみの用例である、と諸氏は指摘します。「高座」とは貴人の高い座席の意です。天蓋がついています。反歌2-1-376歌の初句にある「高按」の「按」について阿蘇氏は、革製の鞍に対して木製の鞍をいい、借訓の用字と指摘しています。用例はこの1首だけです。

 長歌とそれに伴う反歌なので、「高座之 御笠乃山」を反歌で「高按之 三笠乃山」と繰り返している、とみえます。

 七句にある「容鳥」は、『萬葉集』に4例あり、付記1.に記す2-1-1051歌のように春の景物とともにも詠まれています。春にはよく鳴く鳥らしい。ヒバリという説もあるそうです。特定の山にだけ生息する鳥ではなさそうです。

⑤ 最後の句「不相児故荷」(あはぬこゆゑに)にある「兒」の漢字の意は、「こ。こども(aちのみご bわらべ c男の子・むすこ d兵士)、自称(a子が親に対して b婦女の自称)」などです(『角川大字源』)。

 阿蘇氏は、(雑歌にあることよりすれば)「春日山に遊んだ時、耳目に触れた景物を題材にして、人々に披露した、恋情を主題とする歌」(『新潮日本古典集成 萬葉集』)という理解を支持しています。

 万葉仮名「児」は、2-1-95歌の「安見児」が采女の名であるように、『萬葉集』では、人物に用いるのであるならば女性をさしています。 「臨時」と題する歌で古歌集にある歌と左注がある2-1-1270歌は、複数形で用いていますが、題詞を考慮すると、宴席の歌としてその宴席にいる女性たちを指していると思われます。

 「不相」の主語は作中人物ですので「(私は)あうことがまだない・逢えないでいる」という意になります。

⑥ 従って、標高297mの御蓋山は、歌本文の万葉仮名「笠」を用いた「三笠山」と表現し、長歌の初句にある「乎」字を、詠嘆の意とみて現代語訳を試みると、

 2-1-375歌

「春ともなったのであるが、ああ。「春日山A」のうちの(高座のようにみえる)三笠の山に、朝はいつも雲がたなびいていて、かおどりが絶え間なくしきりに鳴いている。その居座った雲が消えないように心は覆われたまま、片恋ばかりして鳴き止められないかお鳥のように、昼は昼で一日中、夜は夜で一晩中立ったり座ったりしながら、物思いに私は沈んでいる。逢えないでいるあの子のために。」

 2-1-376歌

「(高座のようにみえる)三笠の山でちょっと鳴き止んではまた鳴き続けている鳥のように、募る思いが何度も胸にせまる切ない恋をしていることよ。」

となります。

 春の朝方に雲がかかるのは「春日山A」の範囲では普通のことであり、また「春日野A」ではどこででもかお鳥の鳴き声が聞こえます。このことは御蓋山に限りません。それなのに、御蓋山を舞台にしてわが恋を詠うのは、それを修飾する語句が必須の歌なのでしょうか。

⑦ 御蓋山を修飾する語のある歌は、『萬葉集』に15例あります。しかし、「春日山」と「高座」と二つの修飾語のあるのはこの歌だけです。このうち、「春日山」の用例はこの歌だけですが「春日在(有)」が15例中4例あります。「高座・高按」は、「大王之・皇之・王之」と同じく各1例です。「春日山」は「御蓋山」の地理的位置を特定していますが、「高座」は、「御笠(山)」が天皇と関係あるかにしています。

 この長歌反歌は、作中人物の恋が、作者の強調する「御蓋山」に「朝必ずかかる雲」と「鳴きやまない鳥」とに共通するものがある、と詠っています。それは、「御蓋山の山頂がなかなか見えない」ことと「御蓋山において、かお鳥が一羽ではなく多くのかお鳥が相手を求めて鳴き続いている」ことと共通するものがある、と詠っていることであり、その相手とは、作中人物にとっては「不相児」ということになります。

⑧ 恋の歌として、「児」は、ある女性を匿名で表現しています。

 そしてこの歌の披露された場面が、春日野での野遊びの一環の会合・宴席であろうことが、題詞より想像が可能でも、伊藤氏の雑歌の定義「公の場におけるくさぐさの歌」と理解するには、少なくとも皇子・皇女の参加が必要ではないでしょうか。献呈歌であっても同じです。

 あるいは下命による野遊びというのであれば、作者赤人は代作していることになり、雑歌の要件を満足します。

 題詞に歌を披露した場面のヒントがないので、すっきり割り切れば、天皇や皇后や皇子らの関わる宴席が想定可能です。そのような席にふさわしい暗喩があるかどうかです。

⑨ この前後の歌の配列をみると、作詠(披露)時点がはっきりしているのは、次の歌です。

 2-1-334歌以下:大宰師大伴卿歌五首は、天平2年12月の上京以前。

 2-1-341歌以下:大宰師大伴卿讃酒歌十三首も、同上。

 2-1-374歌:題詞にある門部王が出雲守であったのは、養老年間から神亀年間。

 2-1-378歌:吉野行幸は、天平時代に聖武天皇天平8年6月27日~7月13日。

 2-1-383歌:左注を信じれば天平5年

 このように天平の初期が作詠時点となります。

 この歌も天平初期が作詠時点と推測できます。

 この頃、天皇周辺では、長屋王の変以外政情は落ち着いていますが、皇位後継者に恵まれていません。光明子との間の基王が夭折して以後男子に恵まれず唯一の子・阿倍内親王を20歳になった天平10年に皇太子にしています。

 そうすると、天平初期は皇子誕生を官人が期待していた時期であろう、と思います。

 その期待をストレートに口にできる人物は限られた人だけでしょう。

 それを恋の歌として山部赤人が詠ったのがこの歌ではないか。

⑩ 「春日野A」は、養老元年遣唐使一行が航海の無事を祈る祭祀をおこなったところでもあり、そのような祈願の際に利用されていた「野」であったと見えます。その後春日大社の社殿が立てられるところでもあります。

 題詞にある「登春日野」とは、祭祀を行う意が暗喩されているのではないか。漢字「登」字には「のぼせる」とよみ、「(人を挙げ用いる・定める(登録する)・たてまつる(上進する))」とか「みのる・成熟する 」の意もあります。

 長歌の末句にある「不相兒」は、そうすると、聖武天皇の新たな御子を暗喩している、と思います。漢字「兒」は「こども」の意です。ちのみごも男の子も意味しています。

 題詞の現代語訳(試案)を次のように改訳し、暗喩に配慮しておきたい、と思います。

「山部宿祢赤人が、「春日野A」に至り(思いを込めて)作った歌一首ならびに短歌」

⑪ 次の歌2-1-377歌は、山の名に興じた歌と理解されていますが、この長歌反歌に和して、光明子の御子のみを願っていることを暗喩しています。

 巻三の編纂者は、この暗喩によって、2-1-375歌~2-1-377歌を雑歌としている、と思います。

 題詞の「春日野」は、まさに「春日野A」がふさわしく、春日野の特定の場所を意味していません。

 「関係分類」は、「I」がやはり適切である、と思います。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただきありがとうございます。

 (2022/4/25  上村 朋)

付記1.萬葉集での「春日(之)山」表記の例

① 巻三では2-1-375歌本文にあるのみ。

② 題詞での例は無い。

③ 歌本文での例

2-1-587歌 春日山 朝立雲之 不居日無(かすがやま あさたつくもの ゐぬひなく)

2-1-680歌 春日山 朝居雲乃

2-1-738歌 春日山 霞多奈引

2-1-953歌 春日之山者 打靡 春去徃跡 山上丹 霞田名引

2-1-1051歌 春尓之成者 春日山 御笠之野辺尓 桜花 木晩窂 貌鳥者 間無数鳴 露霜乃 秋去来者 射駒山 飛火賀塊丹 芽乃枝乎 石辛見散之 狭男壮鹿者 (はるにしなれば かすがやま みかさののへに さくらばな このくれがくり かほとりは まなくしばなく つゆしもの あきさりくれば いこまやま とぶひがたけに はぎのえを しがらみちらし、さをしかは)

2-1-1078歌 春日山 押而照有 此月者

2-1-1377歌 春日山 山高有良之

2-1-1517歌 春日山 黄葉家良思(かすがやま もみちにけらし)

 2-1-1572歌 春日山者 色付二家利

2-1-1608歌 秋去者 春日山之 黄葉見流

2-1-1847歌 春霞 春日山尓 速立尓来

2-1-1848歌 滓鹿能山尓 霞軽引

2-1-1849歌 春日山霞棚引 夜目見侶

2-1-2184歌 九月乃 鐘礼乃雨尓 春日之山者 色付丹来

2-1-2185歌 春日山乎 令黄物者

2-1-2199歌 借香能山者 黄始南

2-1-2203歌 今日見者 春日山者 色就尓家里

④ 参考:「みかさやま」を形容する例

2-1-375歌 春日山乃 高座之 御笠乃山尓

2-1-2216歌  春日有 三笠山者 色付丹家里

 (付記終わり 2022/4/25  上村 朋)