わかたんかこれ 猿丸集恋歌確認35歌 ほととぎすは誰のこと

前回(2024/4/22)に引きつづき『猿丸集』歌の再確認をします。今回は第35歌です。

1.経緯

2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。12の歌群を想定し、3-4-34歌まで、すべて類似歌とは異なる歌意の恋の歌であることを再確認した。歌は、『新編国歌大観』より引用する。

2.再考の結果概要 3-4-35歌 

① 『猿丸集』の第35番目の歌と、その類似歌と諸氏が指摘する歌は、次のとおり。

3-4-35歌 あだなりける女に物をいひそめて、たのもしげなき事をいふほどに、ほととぎすのなきければ

    ほととぎすながなくさとのあまたあればなをうとまれぬおもふものから

3-4-35歌の類似歌 1-1-147歌  題しらず    よみ人知らず 

    ほととぎすながなくさとのあまたあれば猶うとまれぬ思ふものから

今回類似歌として、『伊勢物語』第四十三段にある次の歌を認め、追加して検討します。

3-4-35歌の二つ目の類似歌   5-415-80歌    また人(男)

    ほととぎす汝がなく里のあまたあればなほうとまれぬ思ふものから

『新編国歌大観』の解題では、「(『伊勢物語』の)根幹部分は、9世紀後半成立。現在本の形は、10世紀中頃成立」としています。同解題は『猿丸集』について「藤原公任の『三十六人撰』の成立(1006~1009頃)以前に存在していたとみられる」としています。『古今和歌集』のよみ人しらずの歌が類似歌になっており、『古今和歌集』の成立(延喜14年(914))以前にさかのぼるのは難しいとみられます。二つの歌集成立時点の前後関係が微妙です。少なくともそれぞれの歌集の元資料を『猿丸集』の編纂者は参照し得た可能性があるので、第四十三段にある5-415-80歌を類似歌と認めて検討することとします(付記1.参照)。

② この3首は、詞書が異なるものの、歌本文は、清濁抜きの平仮名表記をすると、まったく同じです。再確認を以下のようにしたところ、次のことが言えます。

第一 この歌3-4-35歌は、詠う直前に聞こえてきたほととぎすの鳴き声に寄せて愛していると詠っています。そのほととぎすは、作者自身も指します。

第二 ひとつ目の類似歌は、類似歌の記載されている『古今和歌集』の部立て「夏歌」にあることに留意した理解が妥当です。ほととぎすは、寄る里の候補からわが屋敷を除外したのかという心配を詠っています。なお、元資料の歌は別の理解も可能であるかもしれません。

そして、ほととぎすは、渡り鳥であるホトトギスの意のみです。

第三 二つ目の類似歌は、「ほととぎすのかた」(ホトトギスの絵)を添えた懸想文にある歌であり、ほととぎすは、懸想した女をも指します。そのため、ほととぎすの意が、この歌や一つ目の類似歌と異なるので、歌意も異るのは明らかです。

第四 この歌は、類似歌2首と歌意が異なっている「恋の歌」であることは、前回とおなじでした。

③ 検討は、3-4-35歌を最初に、次に類似歌を順次行います。

3.再考 3-4-35歌の詞書 その1

① 3-4-35歌を、まず詞書から検討します。

詞書は、いくつかの文からなります。

第一 あだなりける女に :この歌をおくった相手についての作者の評価を記す。この文が修飾する語句が一見はっきりしていない。

第二 物をいひそめて、:作者あるいは相手の行動を記す。「いひそむ」の主語が省略されている。

第三 たのもしげなき事をいふほどに、 :「いふ」の主語は作者あるいは相手であるが前後の文との関係で確定する。

第四 ほととぎすのなきければ :この歌を詠む直接のきっかけを作者の立場から指摘。

② 第一の文にある「あだなり」とは、「(人の心などについて)移ろいやすく頼みがたい、はかなく心もとない」のほかに「粗略である。無益である」意があります(『例解古語辞典』)。

前回(ブログ2018/11/5付け)での、「後者のような女であれば、「いひそめ」て政略結婚もしない、と思う」という指摘は誤りでした。政略結婚であれば、後者のような女でも一般に男は対象とするでしょう。

平安時代の官人階層の人々は妻問婚であり、このように女を評価できるのは、はじめての懸想文を贈るという段階ではなく顔を合わせられるようになって以降のことです。だから、第一の文は、この歌の作者は最初の懸想文の返事を得て何度か対面し夜を共に過ごしていたことがあることを示しています。

従って、「いひそむ」を、「求愛作法として(作者が)最初の懸想文を贈る意」、とした前回の詞書の現代語訳(試案)は誤りでした。

③ この第一の文が修飾する語句は次の2案が考えられます。

 A 第一の文のみで一つの文章が終わる、と理解する。第二の文以下にその経緯を記す。

 B 第一の文は第二の文とともに、第三の文にある行動の前提条件となっている、と理解する。即ち、「あだなりける女」に言葉をかけようとしたところ、の意。

 しかし、『猿丸集』の詞書には、Aのような作文が、ありません。おくる相手を記した詞書は、3-4-6歌の詞書が「なたちける女のもとに」、3-4-42歌の詞書が「なたちける女のもとに」とあるように、経緯を続けて説明する例がありません。

 このため、経緯を少し詳しく説明するならば、Bではないか。

④ また、「あだなり」という表現がある詞書が、この『猿丸集』に3首あります。3-4-3歌と3-4-46歌とこの歌3-4-35歌です。この歌以外の用例を確認します。

3-4-3歌を再確認した(ブログ2020/7/13付け)際、詞書にある「あだなりける(ひと)」を「無益で役にたたない(お人ではないか)」と理解しました。

3-4-46歌のこれまでの検討(ブログ2019/5/27付けからブログ2019/7/8付け)での詞書においては、「(あなたは大変な)移り気(で頼みがたい)」と理解しました。

「あだなり」の両意の用例があります。このため、この歌の詞書での「あだなり」の意は、両意に可能性があることになります。

⑤ 第二の文にある「いひそむ」について、倉田実氏は、その用例が次の三点ほどに分けられると指摘しています。

a 初めて言い出す。言い始める。言いかける。

b 言い染める。言い続ける。染料で色がつくように、言う行為を継続したり、強めたりする。色にかかわる語彙が(その歌や文中に)ある場合は「言ひ染む」意を汲み取ったほうがよい。

c 初めて懸想文を贈る。

(倉田氏の論文「平安貴族の求婚事情  懸想文の「言ひ初め」という儀礼作法」(『王朝びとの生活誌  『源氏物語』の時代と心性』(森話社 小嶋菜温子・倉田実・服藤早苗編2013/3))による)。

 「あだなり」の意が上記②でのAまたはBでも「いひそむ」の意は氏の指摘するaまたはbに可能性があります。前回(ブログ2018/11/5付け)では、「いひそむ」はcの意に拘ってしまいました。

⑥ また、第二の文にある「物」には、「個別の事物を、直接に明示しないで一般化していう」意や「普通のもの。世間一般の事物」の意もあります。

第三の文にある「たのもし」とは、「a頼みにすることができる。心じょうぶである。頼もしい。b暮らしむきが豊かで、何の心配もない。裕福である」意です(『例解古語辞典』)。

「たのもしげなきこと」と評価されたのは作者ではないか。第一の文にある「あだなりける女(つまり作者が「いひそめ」た相手)が、作者の話を聞く前に言ったということではないか。

 「ほどに」とは連語として「時間的経過を表す」か、接続助詞として「原因理由を示す」意があります。第四の文との関係を考慮すると、連語ではないか。前回と同様に、「言うその時・言う折に」の意であり、女と対面し、会話をしはじめようとしたその時」と理解できます。

⑦ 次に、第一の文から第三の文までの動詞は、二つあり、それに対する主語を確認します。

第一の文にある助詞「に」は、第二の文との関係では「動作・作用の向けられる相手・対象となるものを示す」意となるので、第二の文にある、「いひそむ」の主語は作者となります。

 もう一つの動詞は第三の文にある「いふ」であり、第二の文までが前提条件であると理解すれば、その主語は作者の相手(あだなりける女)となります。

⑧ 第四の文にある「ほととぎす」は、三代集においては聴覚で捉えられるもの(視覚で捉えられないもの)として詠われています。前回は、俳句でいう三夏の季語となっている鳥であるホトトギスが鳴いた際、あちこちで鳴くのを浮気の例によく喩えられていることを作者は思い出したのだと思われる、と指摘しました。

 しかし、その根拠を示していませんでした。

⑨ 三代集の恋の部立てでの用例をみてみます。

古今和歌集』の部立て「恋歌」(一~五)の「ほととぎす」の用例では、鳴き声を、相手を求めて鳴くと見立ててホトトギスに作者自身を、あるいは、姿をみせぬ相手に見立てています。

例えば前者は1-1-499歌、1-1-578歌、1-1-579歌、1-1-641歌及び1-1-719歌の5首、後者は1-1-710歌の1首があり、前者が多い。また、序詞中にあり、見立てのない歌である歌が、1-1-469歌1首あります。

後撰和歌集』の部立て「恋歌」(一~六)では、前者は1-2-548歌、1-2-549歌、1-2-951歌及び1-21020歌の4首、 後者は1-2-547歌、1-2-867歌、1-2-912歌、1-2-950歌及び2-1-1006歌の5首、と半々です。

拾遺和歌集』の部立て「恋」(一~五)では、前者に1-3-820歌及び1-3-821歌の2首があるだけです。

男のみをほととぎすに例えていませんので、作者が思い出したのは、正確には「ホトトギスに作者自身か相手を譬えたうえで、自分の立場を訴えている歌がある」ということになります。このように訂正します。

⑩ 第四の文にある「なきければ」とは、動詞「なく」の連用形+助動詞「けり」の已然形+接続助詞「ば」です。あとに述べる事がら省略されている形です(記されていれば第五の文ということになります)。

その省略された事がらは、3-4-3歌の詞書「・・・ありければ、よめる」 及び3-4-8歌の詞書「・・・心もとなかりければよめる」に倣い、「よめる」であろう、と思います。

助動詞「けり」の意は、「今まで気づかなかったり、見すごしたりしていた眼前の事実や、現在の事態から受ける感慨などに、はじめてはっと気づいた驚きや詠嘆の気持ちを表す」意ではないか。

また、接続助詞「ば」は「あとに述べる事がらの起こる原因・理由を表わす接続語」ではないか。

だから、「なきければ」とは、作者の心の中では「鳴いたので、その(ホトトギスの)習性に気が付き、ホトトギスを景とした恋の歌をも思い浮かび、(相手に対する自分の気持ちを伝えるべく、歌を詠んだ)」というところではないか。

⑪ ここまでの検討で、一意とならなかったのは、「あだなり」の意と「ほととぎす」の寓意の有無(作者自身か相手か、男か女かあるいは無いか)です。これは歌本文を参照しつつ検討したい、と思います。

このような理解のもとで、詞書の現代語訳を改めて試みると、次のとおり。

「「あだなり」と評価する女に話しかけようとしたとき、その女が頼みにすることができない(あるいは心じょうぶでない・頼もしくない)ということを作者に言った丁度その時に、ホトトギスが鳴いたので、(詠んだ歌)」

4.再考 3-4-35歌の歌本文

① 次に、歌本文を検討します。いくつかの文からなっています。

第一 ほととぎす :詞書に従い、聞こえてきた鳴き声の主であるほととぎすに呼び掛ける。

第二 ながなくさとのあまたあれば :ほととぎすと人々との接点を確認している。

第三 なをうとまれぬ :ほととぎすが人々に「うとまれる」という一般的事実を記す。

第四 おもふものから :接続助詞「ものから」の後の語句が割愛されている。

② 第一の文は、詞書に従えば、今声を聞かせてくれたホトトギスに呼びかけています。

第二の文は、渡り鳥なので夏になれば多くの里にきて鳴くほととぎすの習性を指摘しています。

一方、男で官人であれば、妻問婚としていくつかの女の住む屋敷を訪ねるのは、当然のことです。(官人と思われる)作者も同じ行動をとります。

少なくとも、あちこち訪ねるということを官人とホトトギスは共有しているので、ホトトギスを妻問婚の男の立場にみなすことは可能です。

ただし、各里へホトトギスは平等に来るのか(官人の男はわけへだてなくそれぞれの妻を訪問するか)などは不問とした見立てです。

そして、夫を待つ立場の女と鳴き続けるホトトギスには、相手を求めている(出会うのを待っている)という共通点があります。ホトトギスを妻問婚の女の立場にみなすことも可能です。

なお、三代集の部立て「恋(歌)」におけるホトトギスを景としている歌には、上記「3.⑨」に記したようにホトトギスを作者自身または恋の相手を暗喩している歌の両方があります。

③ そして、第一の文のほととぎすは、今鳴き声を聞かせてくれたほととぎすという特定のほととぎすなので、第二の文は、その特定のほととぎすも例外ではないことを示唆していることになります。

第二の文の末尾「ば」は、活用語の已然形に付いており、その意は3つあります(『例解古語辞典』)。

「あとに述べる事がらの起こる原因・理由を表わしている」(a)

「あとに述べる事がらに気が付いた場合を表わす(・・・ところが)」(b)

「その事柄があると、いつもあとに述べる事がらが起こる、という事がらを示す」(c)

第二の文に対して「あとに述べる事がら」というのが第三の文と思われます。

④ 第三の文「なをうとまれぬ」とは、

 「副詞「猶」+四段活用の動詞「疎む」の未然形+助動詞「る」の連用形+完了の助動詞「ぬ」の終止形

であり、助動詞「る」の意は、受け身か自発か可能の意があります。

そのほかの語句の意はつぎのようです(『例解古語辞典』)

副詞「猶」とは、「aやはり・依然として bさらに・ますます」の意です。

動詞「疎む」とは、「a四段活用の場合、いやだと思う。忌み嫌う。b下二段活用の場合、うとましく思わせる。嫌うように仕向ける(bの意は「言ひうとむ」など他の動詞とともに用いるのが普通)。」の意です。

 第一と第二の文との関係で人々に「うとまれぬ」という対象はホトトギスです。そしてホトトギスに擬している人物も対象でしょう。

助動詞「る」が受け身の意であれば、「お前(ホトトギス)は人々に疎まれてしまっている」という理解となります。

助動詞「る」が自発の意であれば、「だからお前(ホトトギス)は人々に自然と疎まれるようになってしまった」という理解になります。

助動詞「る」が可能の意であれば、「お前(ホトトギス)は人々に疎まれるようになる可能性があった」という理解になります。

⑤ 第四の文にある「思ふ」は、「a心に思う bいとしく思う・愛する c心配する」意などがあります。

 また「ものから」は接続助詞であり、「a・・・けれども、・・・ものの、の意(逆接)であとへ続ける場合 b・・・ので、・・・だから、の意(順接)であとへ続ける場合」があります。後者の意は中世以降現れます(『例解古語辞典』)。

中世とは歴史学での時代区分であり古代と近世との間の時代をさし、日本史では通常、「近古(時には中古をも含める)」をいうそうです(『明解国語辞典』)。近古とは、日本史では鎌倉・室町時代を言います(同辞典)。鎌倉・室町時代の始まりが守護地頭設置の年とすれば1085年となります。中古とは主として平安時代をさし(同辞典)、特に日本文学史の時代区分で、平安時代を中心にした時期をいう(『広辞苑第7版』)そうです。

『猿丸集』は、『新編国歌大観』(角川書店)の「解題」によると、「公任の三十六人撰の成立(1006~1009頃)以前に存在していたとみられる歌集」ですので、「ものから」の意は上記のa(逆接)となります。

⑥ 逆接の助動詞の直後の文である第四の文は、第三の文までの作者の理解の結果、作者の気づいた思いを記しているのではないか。

詞書に従えば、相手の女が作者を面前で非難したところ、ホトトギスの鳴き声が聞こえてきたことを捉えてこの歌を詠んだ、と理解できます。だから、ホトトギスがこの里に来て今鳴いていることを景とした歌といえます。

第四の文は、鳴く里がたくさんあるホトトギスが、今この里(貴方のところ)に来ているのがなによりの証拠であり、貴方を大事に思っているよ、と訴えている、と思います。

⑦ 相手の女は、この歌を聞かされて、理解したようです。『猿丸集』の次の歌はこの歌の返歌ではありません。そしてその次の歌の詞書には、「卯月のつごもりに郭公をまつとてよめる」とあり、女が作者かと推測できます。

 今鳴いているホトトギスを、作者自身が自分に擬しているので、「うとまれぬ」中の助動詞「る」は、「可能」の意であ、第二文にある「ば」は、「あとに述べる事がらに気が付いた場合を表わす(・・・ところが)」(b)

が妥当ではないか。

⑧ 以上の検討を踏まえて、3-4-35歌の詞書に従い、現代語訳を改めて試みると、次のとおり。

 「 ホトトギスよ、お前が鳴く里はたくさんあるので(あるいは、あるということで)、やはり自然と忌み嫌われてきてしまったね。でもいとしく思っているのでそのホトトギスはこの里に今来ているのではないか(今ホトトギスが鳴いたではないか)。」(3-4-35歌本文改訳)

 多くの里からこの里を選んで鳴いているホトトギスが、ここに居る私だ、と作者は相手に訴えた、と理解できます。ホトトギスは作者自身の暗喩であり、「ものから」は逆説の意です

 三代集には、鳴いているホトトギスに、このように作者自身の暗喩のある歌がいくつもあります(上記3.⑨参照)。

作者は、逢ったとたん、詞書にあるような訴えを受けても、相手の女は、妻に留めておきたい女であり、少なくともこの場から逃げ出すつもりはなく、今鳴いたほととぎすが私なのだと、信頼をつなぎ止めるべく、機会を逃さず詠んだ歌がこの歌といえます。

⑨ 次に、この(試案)は、『猿丸集』の配列の検討からみると、どうか。

 『猿丸集』は12の歌群が想定でき(ブログ2020/6/15付け参照)、この歌は「第八 もどかしい進展の歌群:3-4-33歌~3-4-36歌 (4首 詞書4題)」の3番目の歌です。

 久しぶりに訪れた男はすぐ打ち解けた対応をされていません。丁度鳴いたホトトギスを景として反論し、信頼をつなぎ止めようとしていますので、この歌群にある歌として、この(試案)の理解は不合理ではありません。

5.再考 3-4-35歌の詞書 その2

① 歌本文の上記の検討結果に基づき、詞書で宿題(上記3.⑪参照)としていた「あだなり」の意と「ほととぎす」の寓意の有無を確認します。

② 歌本文にある「ほととぎす」は、「今鳴き声が聞こえたほととぎす」であり、上記4.⑧に示した現代語訳(試案)では、作者自身をも擬しています。

③ 詞書にあるように、待ちに待った男(作者)の顔をみた途端作者を詰問した相手の女は、裏表のない、物言いが率直な人物なのではないか。「あだなり」の意は、「粗略な」であり、「(人の心などについて)「移ろいやすく頼みがたい、はかなく心もとない」ではなく3-4-3歌の用例に近い意味合いと思います。

女は、誠実な人物といえます。

④ 詞書の現代語訳(試案)を、改めて示すと、つぎのとおり。

「話し方に粗略なところがあると思っている女に話しかけようとしたとき、その女が頼みにすることができないなどと作者に言った丁度その時に、ホトトギスが鳴いたので、(詠んだ歌)」(3-4-35歌詞書の現代語訳改訳(試案))

 

6.再考 類似歌 1-1-147歌

① 類似歌は 『古今和歌集』巻三「夏歌」にある歌です。

詞書は「題しらず よみ人しらず」ですので、作詠事情は不明です。

だから、部立て「夏歌」にある歌という点だけは考慮してこの歌を理解する必要があります。

② 第三「夏歌」の配列を、前回(ブログ2018/11/5「2.」)検討した結果は、次のとおりでした。

第一 『古今和歌集』の編纂者は、(編纂のための)元資料の歌を、詞書や歌の語句を適宜補い、初夏から、三夏をはさみながら仲夏、晩夏の順に並べている。

第二 『古今和歌集』に配列するにあたり、『古今和歌集』の編纂者は、現代の季語に相当する語とその語の状況を細分した歌群を設け、歌群単位で時節の進行を示そうとしている。

第三 その歌群は、つぎのとおり。

 初夏の歌群 1-1-135歌~1-1-139歌

 ほととぎすの初声の歌群 1-1-140歌~1-1-143歌

 よく耳にするほととぎすの歌群 1-1-144歌~1-1-148歌 (類似歌はこの歌群の歌)

 盛んに鳴くほととぎすの歌群 1-1-149歌~1-1-155歌

 戻ってなくほととぎすの歌群 1-1-156歌~1-1-164歌

 夏を惜しむ歌群 1-1-165歌~1-1-168歌

第四 「よく耳にするほととぎすの歌群」の歌では、類似歌を保留すると、ほととぎすがよく鳴いている。そしてその鳴き声から作中の主人公は昔を思い出し感慨を述べている。つまり、『古今和歌集』の「夏歌」のこの歌群に置かれた歌は、昔を思い出させるほどにほととぎすが鳴く時期となったなあ、という感慨を詠んでいる歌となっている。

なお、各歌群と比較すると、ほととぎすが過去を思い出させている歌は、この歌群のみに集められている。

第五 検討対象である類似歌も、この歌群にあるので、同様であろうという推測は確実である。

③ 上記までの歌の語句の検討を踏まえて、現代語訳を試みます(前回は『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』の訳を採りました)。

 詞書は、「題しらず よみ人しらず」なので、元資料の作詠時点は『古今和歌集』編纂の時代以前と推測できます。

 歌本文は、いくつかの文よりなります。

第一 ほととぎす :夏の時季に聞けるのを楽しみにしているほととぎすに呼び掛けている。

第二 ながなくさとのあまたあれば :ほととぎすと人々との接点を確認している。

第三 なをうとまれぬ :ほととぎすが「うとまれる」という一般的事実を記す。

第四 おもふものから :作者は何を「おもふ」のかが、割愛されている。

④ 題詞では作詠事情が不明です。第一の文は、部立てが「夏歌」であることと第二の文以下を参考にすると、夏歌として詠う対象(景)を宣言している、と思えます。

第二の文は、ホトトギスは渡り鳥なので夏になれば多くの里で鳴き声を聞けるようになることを指摘しています。里とは人家が集まっているところで、集落・村落を指します。また、宮中に仕えている者などが自宅を指していう語句でもあり、各官人の屋敷をも意味することが出来る語句です。

「夏歌」の各歌群の歌をみると、ホトトギスの鳴き声は夏を感じさせるものであるものの、聞くのに苦労している感もあります。

なお、詞書から作者を男と限定できませんので、ホトトギスを妻問婚の男の立場の暗喩がある、と直ちに推測できません。

⑤ 第二の文の末尾「ば」は、上記「4.③」に記すように3意あります。

第三の文にある、助動詞「る」には、上記「4.④」に記すように3意あります。

 第四の文にある、接続助詞「ものから」にも、上記「4.⑤」に記すように2意あります。

⑥ 次に、部立て「夏」の配列より、検討します。

この歌は、「夏歌」の歌群「よく耳にするほととぎすの歌群(1-1-144歌~1-1-148歌)」にあります。上記②の第四と第五で指摘したように、この歌群にある歌は、鳴き声を聞くチャンスが多くなっている頃の歌であり、「昔を思い出させるほととぎすの鳴く時期となったなあ」、という感慨をもてる時季の歌となっています。

だから、第二の文は、「あまたの里」で現に鳴いている状況をも記している文でもあります。

そのため、この夏に、既にあちらこちらの人から鳴いたのを聞いたと言われるものの、作者だけはまだ聞いていない状況にあると推測できます。

第三の文にある「うとまれぬ」とは、作者の居る里がホトトギスに「うとまれぬ」と気が付いて嘆いているのではないか。昨年もホトトギスにうとまれた里のあったことを思いだしたのではないか。

助動詞「る」は「可能」の意ではないか。わが里に来て鳴こうとするには、ほととぎすの意志が働いた結果であり、来ない選択をされた可能性もある、ということに作者は気が付いたので、この歌を詠んでいる、と思えます。

⑦ 第四の文にある「思ふ」は、「(聞かせてほしいと)心に思う」意であり、「ものから」は逆説の意であって、第四の文は、「聞きたいと願うけれどもダメかなあ」という気持ちの文ではないか。

 次に配列されている1-1-148歌は、昔は聞かせてもらったのに、今年はまだだなあ、という歌となっています。

⑧ このため、類似歌1-1-147歌の歌本文の現代語訳を試みると、次のようになります。

 「ホトトギスよ、お前が鳴く里はたくさんあるというので、私の里は除かれてしまった(ようだ)。聞きたいと思うものの叶えられるかなあ。」(1-1-147歌現代語訳(試案))

第二の文の末尾「ば」は、「あとに述べる事がらに気が付いた場合を表わす(・・・ところが)(b)」意であろうと思います。

ホトトギスに暗喩はありません。他の人と同じように鳴き声を聞かせてほしい、と願っている歌です。

⑨ 前回(ブログ2018/11/5付け)で、現代語訳として、『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』の訳(下記)を採ることとしましたが、今回の確認で不適となりました。 

「ほととぎすよ。何しろおまえが鳴く里が多いものだから、私はおまえを愛してはいるのだが、やはり自然にいやになるよ。」

その『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』は、(この歌は)「男女のどちらが詠んだとしても、相手の浮気を風刺した歌である」、と指摘しています。この指摘は、『古今和歌集』の編纂者が部立て「夏歌」に配列した歌に対するものとは思えません。

古今和歌集』の元資料は、他の人と同じように鳴き声を聞かせてほしい、と願っている歌であるのか、相手の浮気を諷刺した歌であるのかは、分かりません。しかしながら、『古今和歌集』の部立て「夏歌」にある歌は、前者の歌です。

⑩ 二つ目の類似歌の検討は、次回とします。

ブログ「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 (2024/5/13   上村 朋)

付記1.『業平集』での1-1-147歌類似の歌について

① 『新編国歌大観』所載の『業平集』にも1-1-147歌本文と同様な歌がある(3-6-19歌)。

 同解題によれば『業平集』は、「古今集後撰集伊勢物語、それに大和物語から、後人が在原業平

関係の歌を選びだして編集したもの」と解説している。

 このため、『猿丸集』の編纂の後の成立と割り切った。

② その歌意は、その詞書に従い、1-1-147歌に対する『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』』の理解に同じである。ほととぎすは歌をおくった女を暗喩している。

 (付記終わり 2024/5/13   上村 朋)