わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 光明子はどこに 萬葉集巻三配列その7

 前回(2022/5/2)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 舞うは誰 萬葉集巻三の配列その6」に続き、今回「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 光明子はどこに 萬葉集巻三の配列その7」と題して記します。歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋)

1.~15.承前

 『萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、各歌について判定した表E(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を得ました。そして、「関係分類A1~B」の歌30首から、巻三雑歌は天皇の代を意識した4つのグループに分かれました。「関係分類A1~B」以外の歌においても第三グループまで確認できました。

各グループの筆頭歌は、2-1-235歌、2-1-290歌、2-1-315歌および2-1-378歌です。

 

16.第四グループの「分類A1~B」以外の歌 2-1-381歌

① 巻三雑歌の天皇の代を意識した4つ目のグループは、聖武天皇以降の天皇を象徴する「寧楽宮」に居られる天皇の代の歌、と予想しているところです(ブログ2022/3/21付け「3.③」参照)。

 「その天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌」という判定は、前回同様に、題詞のもとにおける歌意で「聖武天皇以降の天皇」の代に関する歌という可能性で判断することとします。ほかの代の可能性の有無は関係ありません。

② 4つ目のグループで「関係分類A1~B」以外の歌の最初は、2-1-381歌です。

 2-1-381歌  山部宿祢赤人詠故太政大臣藤原家之山池歌一首

    昔者之  旧堤者 年深 池之瀲尓 水草生家里

いにしへの ふるきつつみは としふかみ いけのなぎさに みくさおひにけり

 ブログ2022/3/21付け「3.②第十」では「挽歌ではなく雑歌として巻三の編纂者は扱っていますので、亡くなったことによる政治的空白を表現しているのでしょうか。何の暗喩があるのかまだわかっておらず、歌の理解が宿題」となっていました。だから表E作成時の関係分類は「H」でした。それを、ここで検討します。

③ 題詞より検討します。

 作者が、山部赤人とあるので、作詠時点は聖武天皇の御代の神亀天平年間である可能性が大変高い。

 「故太政大臣藤原家」とは、「死後、太政大臣を贈られた藤原不比等が、支給された土地に建てた邸宅」の意でしょう。勿論本人とその家族の居住用ですが不比等は資人を賜り、日常的な行政事務の一部も邸内で処理していますので、その区画もあります。

 高官の邸は、死後も、子孫居住の者があれば使用が可能だったのでしょうか。親が没した時点におけるその子らの官位は一般的に低いのですが、親が支給を受けていた区画に転居は許されたのでしょうか。それに関する律令の規定は未確認です。

 「故太政大臣藤原家」の利用状況が作詠時点でどうなっているのか、山部赤人が誰のために作詠したのか、及びいつ披露したのかについて、この題詞は直接言及していません。阿蘇瑞枝氏も土屋文明氏も言及していません。

 これらの検討のため、「故太政大臣藤原家」の利用状況を確認してみます。

④ 藤原不比等は、養老4年(720)8月3日に病死、同年10月23日太政大臣を贈られました。その邸は死後、娘の光明子が相続したと諸氏は指摘しています。

 律令のもとで、官人の親が支給された宅地(平城京内の土地の区画)も相続の対象なのか、詳しいことは未確認でありなんとも言えません。

 また、『続日本紀天平13年正月丁酉(15日)条に、「故太政大臣藤原朝臣の家、食封(じきふ)五千戸を返し上(たてまつ)る。・・・」とあり、これは藤原広嗣の乱の償いに藤原家伝来の封戸(ふこ)を返上したものだそうです。食封とは、大まかにいうと「戸」単位に徴税する収入の一定の部分と一定の労働力の徴発の権利が今日の給与として与えられる、という制度であり、相続できるもの(功封)もあったのだそうです。職田、位田は没後直ちに収公される規定(田令8)ですが、位田については6年の収公猶予期間が神亀3年(726)の勅で設けられ、宝亀9年(778)4月の勅で1年間とされています。

⑤ 藤原不比等邸は、平城京(と平城宮)が造営された時、同時に区画を指定(して支給)されており、平城遷都(710)のとき造られたことになります。そこは土師氏が支配していたところなので、土師氏の氏寺がありましたが、全て取り壊されることなく不比等の邸宅に取り込まれたそうです。古瓦の出土から平城京遷都前の建物があったと推測されています。

 藤原不比等には、首皇子(皇太子、後の聖武天皇)と結ばれた娘・光明子がいます。邸内の一郭に、不比等は、その嫁した娘の居宅を設けています。それは、皇太子妃の居宅であるのか、娘が実家に戻った際の私宅であるのかわかりません。前者であれば、律令制のもとでは新たに支給された区画という整理になるのではないか。

 手続きの詳細は別途の検討として、「故太政大臣藤原家」を誰が利用しているかをみれば、光明子が、不比等死(養老4年(720))後相続したのならば、「故太政大臣藤原家」(の区画内)を利用し続けることが出来たでしょう。また、子孫が現に居住しているとして返納を猶予されている期間中であれば、光明子はやはり利用し続けることが出来たと思います。藤原不比等の息子は、官人となって既に活躍していますから、住むところ別途支給されているでしょうから、もっぱら光明子が「故太政大臣藤原家」を利用できたでしょう。

⑥ その後、神亀元年(724)2月の聖武天皇即位にともなって、光明子は夫人となります(位階は従三位となったようです。付記1.③参照)。その時点では確実に、宅地の区画あるいは建物の支給を受けられます。それがどこであったか『続日本紀』ではわかりません。

神亀4年(727) 11月14日に大納言従二位多治比真人池守が、「百官の史生已上を引(ひき)ゐて、皇太子を太政大臣の第に拝(をが)む」と『続日本紀』にあります。この時点には光明子は確実に「故太政大臣藤原家」内に居住しています。この時光明子の立場は聖武天皇の夫人でした。

 このように、光明子は、「故太政大臣藤原家」を、夫人となっても利用し続けている、と認められます。

⑦ その後、天平元年(729)8月10日立后されて、直後(2か月しないうちに)令外の官司として皇后宮職がはじめて設けられています(付記1.⑨参照)。皇后宮が新たに設けられたのでしょう。

 立后後の最初の正月(天平2年)16日、後の踏歌の節会相当の公式行事(宴)を行った後、聖武天皇は「晩頭に、皇后宮に移幸したまひ」ました。これが(光明子の)皇宮宮の『続日本紀』初出です(付記1.⑩参照)。「移幸」とは、宮の外に出られたことを意味しますので、「皇后宮」は当時の平城宮の外に設けられていたことになります。

 その天皇に「百官の主典已上陪従し、蹈歌且つ奏(つかへまつ)り且つ行く。宮の裡(うち)に引き入れて、云々」と『続日本紀』では記述が続きます。定められた公式の行事ではない事柄に触れた記述です(付記1.⑩参照)。「陪従」しているので、事前に立案承認された臣下の行動です。

 蹈歌(踏歌)とは「男女が集団的に足拍子を踏んで祝福した正月の晩の歌舞で、平安初期に(朝廷の)節会に定着」(『世界大百科事典』(平凡社 改定新版2007/9))とあり、男踏歌と女踏歌は別々の日にあり、舞い方も舞うエリアも全然違います。男踏歌は、朝廷を出て貴族の屋敷を巡るのだそうで、後年延喜式で禁止されています。

 16日は、女踏歌の日ですので、この記述にある臣下の行動の目的は何なのでしょうか。

 この記述でも皇后宮の位置に触れておらず、「故太政大臣藤原家」(あるいはその邸内にある以前からの居住空間)か、別の場所なのかはわかりません。

 そして天平2年4月には皇后宮職に始めて施薬院を設けています。その活動に必要な土地、建物などの所在地の記述は『続日本紀』にありません。

⑧ また、天平17年(745)5月11日「是の日、(恭仁京より)平城へ行幸したまひ、中宮院を御在所(おましどころ)とす。旧(もと)の皇后の宮を宮寺とす。諸司の百官、各本曹(もとのつかさ)に帰る」と『続日本紀』にあります(付記1. ⑬、⑭参照)。

 聖武天皇平城宮にある(恭仁京遷都以前からある)既存の中宮院を御在所としており、諸司の百官は「各本曹(もとのつかさ)に帰った」のですから、既存の皇后宮も光明子が戻れる状況にあった、と思われます。

 その既存の皇后宮を「旧の皇后の宮」と呼ぶとすると、光明子聖武天皇は、天平17年の恭仁京へ戻ることを想定して新たな皇宮宮を平城京に用意していたことになりますが、それは有り得ることでしょうか。「宮寺」とするのは今後の方針表明と理解すれば、そこに当面住むことができます。その宮を、「旧の皇后の宮」と表記するでしょうか。

⑨ この天平17年5月11日の記述に対して、専門が日本古代史である渡辺晃宏氏は、端的に(『続日本紀』には)「皇后宮を宮寺にしたとは書かれていない」し、「皇后光明子が元住んでいた邸宅と断っていることは、恭仁京遷都以前に光明子が住いを移している可能性を裏付ける」、と指摘し、「都が平城宮を離れている間も、平城京において皇后宮職主導の写経事業は行われており平城宮官衙や施設はけっして放棄されていない」とも指摘しています。

 そして、渡辺氏は、皇后宮(平城宮光明皇后宮)は、光明子立后天平元年8月10日)後に、旧長屋王邸(左京三条二坊の地)に設けられた、と二条大路木簡などより指摘しています。(『日本の歴史04 平城京と木簡の世紀』(渡辺晃宏 講談社2001) P155~ なお、付記2.参照)。

 長屋王邸(の区画)は、藤原不比等邸と同じく平城宮に最も近い一等地ですが、天平元年二月の長屋王の変で官に没収されているはずです。

 なお、光明子の(平城京における)皇后宮は、従来の定説では、藤原不比等邸の居宅を改造したのではないか、とされていました。

⑩ 神亀4年(727) 11月14日には(聖武天皇の夫人の立場の)光明子は、立太子された基皇子とともに「故太政大臣藤原家」内に確実に居ます。その後基皇子は「東宮」に移って(付記1.④参照)、神亀5年9月死を迎えています。基皇子とともに東宮を移ったとしても、その東宮が「旧の皇后の宮」を兼ねていることはないと思います。

 渡部氏の説に従って理解すると、神亀4年11月から2年2カ月後(かつ皇后となって5カ月後)の天平2年正月16日条の記述では旧長屋王邸に設けた「皇后宮」に光明子は既に居住しています。

 光明子の「故太政大臣藤原家」の利用状況をみると、夫人から皇后となっても皇后宮への入居準備が整う間、従来どおり「故太政大臣藤原家」を利用していたのではないか。その間は「故太政大臣藤原家」(或いはその邸内の居宅部分)を「皇后宮」と称することになったのではないかと推測します。

 そうであれば、題詞にある「故太政大臣藤原家」は、天平17年時点から見た、「皇后となった光明子が元住んでいた邸宅」(「旧の皇后の宮」)の意、を含んでいる理解が可能です。

 後の法華寺が旧藤原不比等邸に立地しているということを信じれば、「旧の皇后の宮」は「故太政大臣藤原家」の区画にあり、新たな皇后宮が旧長屋王邸に設けられたということになります。

 そして、「故太政大臣藤原家」の園地は、光明子が旧長屋王邸に設けた「皇后宮」に移るまで、管理が行き届いているはずです。

 その「皇后宮」に移った以後の「故太政大臣藤原家」は相変わらず光明子が利用していたのかもしれませんが、天平17年時点に、その「旧の皇后の宮」(故太政大臣藤原家)のある区画を、官有地にして聖武天皇が「宮寺」にする、という方針を示したのだと思います。

 なお、『続日本紀天平13年正月丁酉(15日)条を参考として「家」が藤原不比等を祖とする一族の意とするならば、「故太政大臣藤原家」とは、立后された子を出した氏族の意をも含むことになります。

 「故太政大臣藤原家」が属地あるいは属人のどちらで理解するかは、題詞の文章だけでは決めかねます。

⑪ ここまで、「故太政大臣藤原家」の利用状況を検討してきました。(律令での手続きは未解明ですが)常住しているかのように光明子が利用し続けている状況でした。その光明子立后後は旧長屋王邸に設けた皇后宮が居宅となっています。

 その結果、この歌は、「故太政大臣藤原家」を居宅のようにしていた光明子に関する歌が有力です。題詞からこの歌の作詠時点を推測すると、光明子が利用していた時代であって、かつ作者山部赤人の活躍した神亀天平の時代となります。下限は光明子立后されて旧長屋王邸に設けた皇后宮に移った直後となります。即ち、神亀元年(724)~天平2年(729)となります。

 別途、前後の配列からも作詠時点を推測し、天平初期が作詠時点と推測したところです(ブログ2022/4/25付け「14.⑨」参照)。

 この歌は、下命によって山部赤人が詠んだと想定すると、さらに、作詠時点を特定できます。

 神亀元年(724)~天平2年(729)の間には、聖武天皇即位、芳野離宮行幸紀伊行幸聖武天皇男児誕生(基皇子と安積皇子)、基皇子立太子薨去立后、などというエポックメイキングとなる事柄があります。遣唐使の派遣はこの間ありません。神亀2年 5月の芳野離宮行幸(『続日本紀』に記載なし)では笠金村が長歌と短歌を詠っています(2-1-925歌など)。

⑫ 次に、題詞にある「山池」とは、題詞が(倭習があるとしても)漢文であるので、邸内の園地を代表的な事物二つを並べて表現している、と思います。題詞は園庭全体を対象に赤人が歌を詠んだ、ということを記述していることになります。

 『懐風藻』に、藤原宇合の「暮春曲宴南池」と題する詩などがありますが、不比等邸がその舞台であるならば池は園地にいくつかあったのでしょう。

 以上から、「故太政大臣藤原家」に皇后となってもしばらく居住した光明子が関わるエポックメイキングなことを絞り込めば、第一に生まれた皇子が皇太子となったこと、第二に聖武天皇が理由をくどくど言いつつ立后したことになるのではないか。

題詞の現代語訳を試みると、次のとおり。

 「山部宿祢赤人が、(皇太子が居られる、あるいは立后された光明子がおられる)故太政大臣藤原家の園地を詠む歌一首」

 「()」にくくった部分は、歌本文との整合と更なる傍証を要します。また、藤原一族として考えると、天平元年9月25日条の「祭故太政大臣藤原朝臣墓」の時も候補となり得ます(付記1.⑧参照)。

⑬ 次に、歌本文を検討します。

 二句に「旧堤」と言い、三句に「年深」と言っているのは、不比等が病死した直後ではない時期の作であることを示唆しています。「年深」は漢籍からの翻訳語だそうです(『日本古典文学全集万葉集』(小学館))。

 四句と五句にある「池之瀲尓 水草」については、池田三枝子氏が、『芸文類聚』(げいもんるいじゅう)の「水部下」の「池」の項を検出して、いずれにも水生植物が好もしい景物として詠まれていることを指摘しています(「故太政大臣藤原家の山池を詠む歌」(『美夫君志』(1993)))。

⑭ 阿蘇氏は、池田氏の指摘を紹介しつつも、「旧不比等邸を詠み、寂寞な趣を表出している」ので赤人は「不比等亡き後の空虚感、不比等在世当時には感じなかった寂しさを池の周囲に感じたのではないかと思われる」と指摘しています。

 伊藤博氏は、次のように大意を示しています(『萬葉集釋注』1996 集英社

 「ずっとずっと以前からのこの古い堤は、年の深みを加えて、池の渚に水草がびっしり生い茂っている。」

 そして、「いにしへ」、「ふるき」、「としふかみ」など時間の久しさをいうのは神々しさを表し、草の生い茂るのをいうのは賛美でもある」として「いにしえの英雄を回顧するこういう歌は雑歌の部の巻末歌にするのにふさわしい」と指摘しています。

 氏は、「何周忌かの催しに、(赤人は)供奉して行き、その人の立場で詠んだ歌かもしれぬ」とし、天皇の場合を例として八周忌の詠とすると神亀五年(728)8月3日に披露された歌という推測をしています。

 しかし、この歌は、『萬葉集』巻三の雑歌の部にある歌としての理解が求められています。挽歌の部に配列されていないことに十分留意してよい、と思います。

 なお、氏は、もともとこの歌で巻三雑歌の部は終わっていた形跡があるとし、この歌以降の歌は、天平17年(745)段階より下る桓武延暦初年(782)頃の『萬葉集』が二十巻本への編纂の折り(に加えられた歌)ではないか、と指摘しています。なお、氏は、標目(「・・・天皇代」と「寧楽宮」)の考察を示していません。

⑮ 土屋氏は、次のように大意を示しています。

「昔からある古い堤は年が長くなったので、池の水際には水草が生ひ茂ってしまった。」

 氏は、「歌に年深みとあっても客観的にはさして長い年月を言ふのではないかも知れぬ。一二春秋後にもかうした感慨はある筈である。」とし、「それほどさし迫った懐旧の情に燃えて居るといふ態のものではない。」と指摘しています。標目については伊藤氏と同じです。

⑯ 雑歌の部に配列されているこの歌は、園地の主人への献歌により、天皇による統治に関して詠った歌であろう、と私は思います。

 池田氏の指摘のように、この歌は水生植物が好もしい景物として詠まれているうえ、「旧の皇后の宮」と題詞に表記せず、「故太政大臣藤原家」とあり、そしてその臣下の邸宅の景を詠っていることを重視すると、藤原家が特に関係するお祝いの場面を詠っているのではないか。

 この歌は、上記⑩で指摘したように当時「故太政大臣藤原家」の当主であるような光明子に献上した歌であろうと思います。

 律令体制として、次期天皇がはっきりしているのは、今上天皇の立場からは望ましい状況であろう、と思います。生まれたばかりの皇子が皇太子となったとき、臣下は祝意を直接皇太子に申し上げています(神亀4年(727) 11月辛亥(14日))。

 また、立后も重要です。律令体制では、皇后とは、天皇に万一のことがあった場合、天皇として即位することも有り得る地位だからです。さらに皇后が男子を授かれば、次期天皇の第一候補となります。

 臣下として、立后されたらば、祝意を示さないわけにはゆきません。

⑰ どちらの時点で作詠されたかというと、臣下が祝賀し、挨拶に伺った等を『続日本紀』に記す立太子の時の歌ではないか。少なくとも元資料の段階ではその可能性が高いと思います。

 巻三の雑歌としては、皇太子など次期天皇に関して詠った歌、という位置付けが可能です。この歌は、今上天皇聖武天皇)以降の天皇、未来の天皇について詠っている歌といえます。

 なお、藤原一族としてエポックメイキングな、(天平元年9月28日条の)天皇が故太政大臣藤原朝臣の墓を祭っていただいた事柄も候補となりますが、その場合は作者赤人が献上する相手は家を継ぐはずの男子であり、その人物は「故太政大臣藤原家」ではなく自分に支給された宅地に建てた邸に居住していた可能性が大です。「故太政大臣藤原家」(という区画)との関係が、光明子より薄いと思います。

⑱ 現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 「ずっと以前からある古い堤は、しっかりと池を守り、年を重ねて今日に至った。その池の渚には水草がしっかり生い茂っているよ。」

 元資料の歌としては、古い堤とは、ゆるぎのない律令体制、池とは今上天皇と皇太子、そして、水草とは、それを支える優秀な官人特に藤原家の複数の人物を、寓意している、と思います。

 そして作詠時点は、神亀4年(727) 11月と推測します。

 巻三の雑歌としては、予祝の歌として、古い堤とは、ゆるぎない律令体制、池とはこれから即位するであろう天皇、そして、水草とは、それを支える優秀な官人を、寓意している、と思います。

 編纂者が作文した題詞は、元資料の束縛を避けるべく、叙景に用いた邸宅名だけ記し、詠んでいる対象の天皇の御代を限定しようとしていません。

 また、傍証も示せないので、上記⑫に示した題詞の現代語訳(試案)での、()にくくった部分は、省きます。

 このように、2-1-381歌は、聖武天皇を対象にした歌ではなく、皇太子を対象にした歌あり、上記①の判断基準に従って、天皇の代を意識したグループ分けの第四グループの歌である、と言えます。

⑲ 歌本文にある園地の景は管理されていれば毎年毎季みられる景であろう、とおもいます。園地は高級官人の邸にはいくつか設けられており、不比等邸内の様子は伝聞のみでも赤人には十分詠えます。

 この検討は、土屋氏の「それほどさし迫った懐旧の情に燃えて居るといふ態のものではない。」という指摘がヒントになりました。

 元資料の歌として、もう一つの理解、即ち立后のお祝の歌の場合、光明子は、立后のとき28歳でした。聖武天皇も同年生まれです。子を得る期待は一族にも(母が不比等の娘宮子である)聖武天皇にもあったと思います。藤原不比等は子に恵まれています。     「故太政大臣藤原家」の一族のこれからを予祝する歌となるでしょう。

 そうであれば、巻三編纂者は、これから即位する天皇に関する歌へと、配列と題詞により仕立て上げたことになります。

 元資料の歌の意が、どちらであっても、巻三の雑歌に配列するのが難しい、と思います。

⑳ 表E作成時は、この歌を、関係分類を「H」(下命の有無が不明な事柄に伴う(作詠した官人自身の感慨を詠う)歌群)としました。

 巻三雑歌の歌としてこの歌が上記⑱のような歌であれば、作者が赤人なので、関係分類を「C」(天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(Dを除く))に変更するのが妥当であろう、と思います。

 「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただきありがとうございます。次回は2-1-382歌以下を検討します。

 (2022/5/16    上村 朋)

付記1.光明子関連の『続日本紀』の記述例(『新日本古典文学大系13 続日本紀二』より)

 各項の()内文章は上村朋の注記である。

① 神亀元年(724)2月甲午(4日):天皇、位を皇太子に禅りたまふ。(即位に伴い光明子は「夫人」になる。)

② 神亀4年(727)閏9月丁卯(29日): 皇子誕生す。(10月5日大赦、同月6日賜物、11月2日太政官と八省上表して祝賀し玩好物献上し宴を賜い、皇太子とする詔を発する。)

③ 神亀4年(727) 11月辛亥(14日):大納言従二位多治比真人池守、百官の史生已上を引(ひき)ゐて、皇太子を太政大臣の第に拝(をが)む。(同月21日従三位藤原夫人に食封一千戸を給う)

④ 神亀5年8月丙戌(28日):天皇東宮に御(おは)します。皇太子の病に縁りて、使を遣して幣帛を諸の陵に奉らしむ。(皇后が東宮に入ってかどうかの記述なし。)

⑤ 神亀5年(728)9月丙午(13日):皇太子薨しぬ。・・・太子幼く弱き為に喪の礼(ゐや)を具えず。但し京に在る官人以下と畿内の百姓とは素服する(喪服を着る)こと三日、諸国の・・・(以下略)

⑥ 天平元年(729)8月戌辰(10日):詔して正三位藤原夫人(光明子)を立てて皇后としたまふ。

⑦ 天平元年8月壬午(24日):五位と諸司の長官とを内裡に喚(め)しいる。而して・・・舎人親王勅を宣りて・・・(立后の理由等の詔。天平元年以降の記述に、立后に対する臣下の言動の記述はない。)

⑧ 天平元年9月丙子(28日):使を遣して渤海郡の信物を山陵六所に献(たてまつ)らしむ。併せて故太政大臣藤原朝臣の墓を祭らしむ。(山陵が天智天皇から六代と想定できるので、藤原家として名誉なことである。)

⑨ 天平元年9月27日:小野朝臣牛養を皇后宮大夫に任じる (皇后宮職は皇后光明子付きの宮司として令外の官司としてはじめて設けられる。判官以下の役職があり大夫は四等官の一つ。小野朝臣牛養は天平改元の詔の日に正五位下から従四位下に昇叙している。)

⑩ 天平2年正月辛丑(16日):天皇大安殿に御しまして、五位已上を宴したまふ。晩頭に、皇后宮に移幸(みゆき)したまふ。百官の主典已上陪従し、蹈歌且つ奏(つかへまつ)り且つ行く。宮の裡(うち)に引き入れて、酒・食(じき)を賜ふ。因りて短籍(たんじやう)を採らしむ。書くに、仁義礼智信の五字を以てし、・・・」 (養老職員令の規定では京官の主典以上は432人。16日は踏歌の節会の日。天皇臨席のところで年始めの祝詞を歌い、女性が舞う。あわせて宴を天皇が臣下に賜う。天皇の長久とその年の豊穣を祈る。年中行事となった以降はその2日前の14日に男の踏歌があり、天皇臨席の場の後、平安宮を出て振舞いを受けながら夜明けまで平安京内を回ったという。それからみると、16日皇后宮で(男女432人が)「蹈歌且つ奏(つかへまつ)り且つ行く」のは腑に落ちない。)

⑪ 天平2年4月辛未(17日):始めて皇后宮職に施薬院を置く。

⑫ 天平4年2月15日:故太政大臣の職田、位田、幷せて養戸は、並に官に収む。 (死後11年目に収公されるのは例外。職田、位田は没後直ちに収公される規定(田令8)。位田は6年の収公猶予期間が神亀3年の勅で設けられ、宝亀9年(778)4月の勅で1年間とされた)

⑬ 天平十七年五月甲子(7日):地震(なゐ)ふる。右大弁従四位下朝臣飯麻呂を遣して、平城宮を掃除(はらひきよ)めたまふ。

⑭ 天平十七年五月戌辰(11日)条:「幣帛を諸々の陵に奏る。・・・是の日、平城へ行幸したまひ、中宮院を御在所(おましどころ)とす。旧(もと)の皇后の宮を宮寺とす。諸司の百官、各本曹(もとのつかさ)に帰る。・・・是の月、地震ふること、常に異なり。往々(しばしば)ひらきさけて水泉湧き出づ」

付記2.1988年の長屋王家木簡発見と二条大路木簡発見について

① 発掘調査に関して、奈良国立文化財研究所『平城京左京二条二坊・三条二坊発掘調査報告』(1995)がある。

② 長屋王家木簡は、平城京左京三条二坊八坪東辺、長屋王の屋敷の東門のすぐ内側に掘られた南北溝状の遺構の遺物であり、屋敷内のゴミであるのが明らかである。

③ 二条大路木簡は、同坊八坪北辺の築地辺の外側、二条大路という公道上に南北両端掘られた東西に長い濠状の遺構の遺物である。共用のゴミ捨て場である。

④ 木簡は、それぞれ35,000点,74,000点が、1988年相次いで出土した。その当時全国で見つかっていた木簡の総数は65,000点であった。

⑤ 近接しているが遺構の使用時期が異なり、廃棄元も全く異なる。

⑥ 長屋王家の立地位置は、二条大路に接し南側にあり、時点は異なるが北側には藤原麻呂家が立地している。

⑦ 長屋王の変により官が土地建物を没収後、ここに光明子の皇后宮が造られたことが二条大路木簡などからわかった。

  (付記終わり  2022/5/16    上村 朋)