わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 萬葉集巻三の割注 

(決議案に国連加盟国の141か国が賛成しました。ロシアを支持して反対した国が4か国、棄権した国に、中国、インドなど35か国、投票しなかった国が12か国でした。それで侵略している側が引き下がるものではないでしょう。全面的な情報戦争・経済戦争がはじまりました。長引くことを覚悟しなければなりません。)

 前回(2022/2/28)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 聖徳太子は誰を詠ったか」に引き続き、第24歌の類似歌に関して、今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 萬葉集巻三の割注」、と題詞して記します。(上村 朋)

1.~19.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。今3-4-24歌の類似歌に関して、語句「寧楽」を検討し、歌本文における「寧楽」字を用いた都城の表記は「奈良」という語句では表せない、平城京を「理想の都城」とみなすような感情をこめているようにみえると指摘した。その確認のため、題詞の割注にある「寧楽」を検討している。なお、歌は『新編国歌大観』より引用する。)

20.再考 類似歌 その17 巻三の最初の編纂者は割注していないらしい

① 『万葉集』における「寧楽」表記には題詞や歌本文のほかに、題詞の割注に1例あります。巻四にある2-1-533歌です。

天皇海上女王御歌一首 寧楽宮即位天皇

 赤駒之 越馬柵乃 緘結師 妹情者 疑毛奈思

 あかごまの こゆるうませの しめゆひに いもがこころは うたがひもなし

(左注あり「右今案 此歌擬古之作也 但以時当便賜斯歌歟」)

 今、この割注(寧楽宮即位天皇也)が巻三の最初の編纂者の記した文章でない、と断言できるかどうかを検討中です。割注が編纂時の文章ではない、となれば、編纂者が関与した標目や題詞や歌本文とその配列に影響を及ぼすものではない、「古本の注」として扱えます。

② そのため、巻一~巻四にある割注すべてを対象として検討しています。(割注のある歌の一覧は前々回のブログ(2022/2/14付け)の付記1.に記載)。検討途中、歌本文の理解に及ぶことがあり、今回も、2-1-318歌などを検討しました。

 巻一と巻二にある標目と題詞及び巻三にある題詞11題(下記の2題を除く)に対する割注は、歌の理解に必須のものではなく、少なくとも、最初の編纂者が割注を作文していない、といえました。

 巻三で未検討の2題は、作詠の経緯に触れるものです。このタイプは、巻四にも4題あります。

2-1-318歌:暮春之月幸芳野離宮中納言大伴卿奉勅作歌一首并短歌  未径奏上歌

2-1-434歌:過勝鹿真間娘子墓時山部宿祢赤人作歌一首并短歌  東俗語云可豆思賀能麻末能弖胡

 前者の割注は、上奏に至らなかった歌という意味ではないか、とこれまで論じられており、後者の割注は、題詞にある娘子の東国下総国での呼び名が異なっていることを指摘している、とみられています。どちらも巻三の編纂者が作文していると考えられてきています。それを確認します。

③ 2-1-318歌より検討します。

 この歌は巻三の雑歌の部(計158首)にあります。

 巻三と巻四の部立てが巻二までのそれを意識しているので、相聞の部の配列や筆頭歌の位置付けには共通の特徴があるはずと予想しています。

 必ずしも作詠順の配列になっていない、と諸氏は指摘しています。

 巻一の雑歌同様に、歌と天皇の統治行為との関係(付記1.参照)を確認すると、「天皇及び太上天皇などの一般的公務に伴う(天皇が出席する儀礼行幸時の)歌群(関係分類「A1」)の歌が結局29首あり、都の造営・移転に関する歌群(関係分類「B」)の歌も1首ありました。この30首により、雑歌は4つのグループになっていました。標目を立ててよいほどに時代を区切っているグループです。(全158首対象の整理確認結果は、次回のブログに記します。)

 「A1~B」の歌が関係する天皇は、天武天皇から即位の順の配列となっています。

 巻三の雑歌の部の歌158首は、次のように整理できました。

表 万葉集巻三雑の部の配列における歌群の推定  (2022/3/14 現在)

歌群のグループ名

歌番号

関係する天皇

  計

関係分類A1~B

左以外の分類

第一

235~245 (11首)

246~289 (44首)

天武天皇

持統天皇

文武天皇

 55首

第二

290~291 (2首)

292~314 (23首)

元正天皇

元明天皇

 25首

第三

315~328 (14首)

329~377  (49首)

聖武天皇

 63首

第四

378~380 (3首)

381~392  (12首)

寧楽宮

15首

 計

        (30首)

        (128首)

 

158首

注1)歌番号は、『新編国歌大観』記載の『萬葉集』での歌番号。

注2)関係分類とは、歌と天皇の統治行為との関係について事前に用意した11種類をいう。分類保留という分類項目は立てていない。

注3)この表は表E(次回ブログに記載予定)をもとに作成した。

④ 第一グループは、持統天皇が存命であった代の歌、というくくりらしく、天武天皇持統天皇文武天皇の三代を対象にしている歌です。

 第二グループは、元明天皇元正天皇の時代の歌です。

 第三グループは、聖武天皇の時代の歌です。

 第四グループは、聖武天皇の時代の歌か、或いは(推測するに巻一の標目にある)寧楽宮と称する宮を構えることになる将来の天皇の時代の歌か、と思います。

 今検討しようとしている2-1-318歌は、第三グループの最初にある関係分類「A1~B」にある歌です。

 関係分類「A1~B」の配列は、一読すると作詠順になっていません。

⑤ 配列検討のため、この歌の前後の歌として関係分類「A1~B」の歌をあげると次のとおり。

 2-1-315歌 復唱歌:作者藤原宇合が知造難波宮事に任じられたときの決意表明の歌。第三グループの筆頭歌。 作詠(披露)時点は神亀3(726)年。

 2-1-316歌 行幸時の歌か:神亀元(724)年3月1日条にある聖武天皇の芳野宮行幸時が最有力。

 2-1-317歌 旅中歌:波多朝臣小足歌。近江国まで、凱旋することになる藤原宇合を迎えに行った際の歌。作者は使者の内舎人一行の一人か。  

 2-1-318歌 2-1-319歌 即位と行幸を話題とする歌:今上天皇奉祝・予祝の歌。中納言大伴卿歌。 詳しくは下記⑥以下に記す。

 2-1-320歌 2-1-321歌 旅中歌というスタイルの予祝の歌:赤人歌 聖武天皇の即位の一連の行事の宴で富士山を詠う。

 2-1-322歌~ 2-1-324歌 旅中歌というスタイルの予祝の歌:作者不明歌だが富士山を詠う。

 2-1-325歌 2-1-326歌 旅中歌というスタイルの予祝の歌:赤人歌 船出の故事を詠う。

 2-1-327歌~ 2-1-328歌 行幸時の歌というスタイルで、決意披歴の歌:赤人が、聖武天皇天武天皇への誓いを詠う。第三グループの関係分類「A1~B」の歌では最後の歌。

 この配列を見ると、聖武天皇の事績(難波宮造都と蝦夷征伐)と即位の奉祝あるいはその御代を予祝する歌から構成されている、とみえます。

⑥ このような配列のもとにあるとすると、2-1-318歌は、即位のセレモニーである大嘗会その他の行事の最初の歌という位置付けになります。

 2-1-318歌の題詞(上記②に記す)から、順に検討します。

 題詞は、作詠対象であるかの行幸と作者名と作詠動機の「奉勅」を記しています。即ち、題詞の漢文は

 「暮春之月幸芳野離宮時」(以下文Aという)

 「中納言大伴卿」(以下文Bという)

 「奉勅作歌(一首并短歌)」(以下文Cという)

という三つの小文から成っています。

 文Aの「暮春の行幸」から、行幸は『続日本紀神亀元年3月1日条にある聖武天皇の芳野宮行幸であろう、と諸氏は指摘しています。天武天皇崩御後、持統天皇がよく行幸した吉野へ、聖武天皇は同年11月に行われる大嘗会の前に、行幸したことになります。

 芳野離宮(吉野宮)への行幸に関連する長歌は、『萬葉集』の巻一~巻四において5組登場します。文A~文Cにならい、それらの題詞を分かち書きすると、つぎのとおり。

 2-1-27歌  天皇    幸于吉野宮時    御製歌

 2-1-36歌~       幸于吉野宮之時   柿本朝臣人麿作歌 

 2-1-70歌 太上天皇  幸于吉野宮時    高市連黒人作歌

 2-1-74歌~大行天皇  幸于吉野宮時    歌

 2-1-318歌~   暮春之月幸芳野離宮時  中納言大伴卿 奉勅作歌一首并短歌

 このほか巻六にも2組あります。

 2-1-912歌~   養老七年癸亥夏五月幸于芳野離宮時 笠朝臣金村作歌一首并短歌

 2-1-925歌~   神亀二年乙丑夏五月幸于芳野離宮時 笠朝臣金村作歌一首并短歌

 これをみると、文A部分は、「幸于吉野宮(芳野離宮)時」が大部分で、2-1-318歌~のみが「幸芳野離宮時」に替わっています。

⑦ 漢字「于」の意は、動詞であれば「赴く」などの意、助詞であれば「文のリズムをととのえることば」であり、前置詞であれば「おいて。於に通じる」と漢和辞典にあります。漢字「時」は名詞であれば ここでは「時期」とか「ある時点、ちょうどそのとき」とか「好機、機会、おり」という意で用いられている、と思います。

 そして「于」字のある歌では、行幸する場所を意味しかつその歌を披露する場所をも意味させていると思われ、これに対して、「于」字を用いていない語句「幸芳野離宮時」は、行幸する場所を意味せず「吉野離宮への行幸が話題にのぼったとき」とか「吉野離宮への行幸にあたり」とかという理解になるのではないか。

 「于」字の有無で文意が変わっている、といえます。

 題詞は純粋の漢文ではありませんが、当時の官人の用いていた用法で作文されているでしょうから、「幸于吉野宮(芳野離宮)時」と「幸芳野離宮時」に意味の違いがあったのだ、と思います。

⑧ なお、巻一における難波宮などへの行幸時の歌の題詞も「幸于〇〇宮時」とあり、「幸〇〇宮時」という表記はありません。巻三には「于」字表記のない題詞が、さらに2題あります。

 2-1-290歌  幸志賀時石上卿作歌 名闕

 2-1-309歌  幸伊勢国之時安貴王作歌一首

 前者は、第二グループの、「A1~B」の歌です。元明天皇元正天皇の時代の歌となります。

 作者を、「卿」という敬称でもって表記しているので、三位以上または参議以上である石川麻呂が候補となります。麻呂は和銅元年(708)3月に右大臣から空席であった左大臣に任命されています(同時に右大臣には藤原不比等が任命されています)。しかし、『続日本紀』には石上麻呂霊亀3年(717)3月に没するまでの行幸記事に「幸志賀」はなく、経由地としての記述もありません。行幸先は不明です。

 行幸の企画立案にかかわる右大臣の麻呂であれば、考えられる作詠時点は、結局採用しなかった行幸の企画立案時ではないか。この歌も行幸先で披露された歌ではない、と思います。

 また題詞にある「志賀」という表記は、柿本人麻呂の2-1-30歌本文の「楽浪之 思賀乃辛碕」及び2-1-218歌本文の「樂浪之 志賀津子等何」などのように、近江国の地名であり、離宮があったところなのでしょうか。「辛碕」は大津市下坂本唐崎に比定されています。

 しかし、歌本文には地名が詠み込まれておらず、望郷の伝承歌が元資料と推測できます。執務が一段落したとき、このような歌を口にしたのであろう、と思います。

⑨ 後者(2-1-309歌)も、配列からは、元明天皇元正天皇の時代の歌であるので、行幸記事をさがすと『続日本紀』にあります。元明天皇の養老2年(718)2月美濃国の醴泉への行幸で、通過地として「美濃、尾張、伊賀、伊勢など」とあります。作者安貴王は、志貴皇子の孫とも推測されている人物です。

 この歌の「幸伊勢国之時」とは、「美濃国の醴泉への行幸伊勢国経由と知ったとき」の意と理解できます。

 この2首の関係分類は、「天皇及び太上天皇などの一般的公務に伴う(天皇が出席する儀礼行幸時の)歌群(関係分類A1)となります。

 このように、「于」字表記の有無は、題詞の趣旨を表現している、と思います。

ついでに言い添えると、第二グループの「A1~B」の歌は歌数も2首と少ないですが、残りの1首2-1-291歌は歌本文に「志賀」を詠い、2首で企画だけで終わった行幸を話題とした歌となります。

⑩ 次に、2-1-318歌の題詞の、文B「中納言大伴卿」を検討します。

 作者大伴卿は、旅人となります。養老2年(718)3月に中納言に任じられ、天平2年10月大納言に任じられており、聖武天皇即位の頃は在京の官職でした。

 次に、2-1-318歌の題詞の、文C「奉勅作歌」を検討します。

 行幸先での行事は事前に準備が必要です。歌の披露の場のあることも従駕する人たちに周知しているはずです。

 一般に、公的な宴などでは、参会した主要な人々に歌の披露は求められていたのではないか。『萬葉集』の最後の歌2-1-4540歌は国守大伴家持の歌ですが、これに応じた歌が部下からあるのが当時の行事の式次第になっていたのではないか。

 和歌などを披露する公式の機会が訪れたらば、代作を頼んだりその場にふさわしい伝承歌を参会者は原則詠う、というマナーが当時あったのではないか(誰それの(所望した)歌として朗詠者が朗詠する)。

 だからわざわざ「奉勅作歌」と記述することは、行幸時に披露する歌ではない歌を作った、という含意があります。

 「幸芳野離宮時」というこの題詞のみの表現と矛盾しません。

 伊藤氏は、「旅人のごとき身分の人が讃歌を詠う理由」に戸惑っていますが、それは行幸先で披露する長歌の場合としての戸惑いでしょう。行幸先で諸王は短歌を披露しており、『萬葉集』には多々あります。

⑪ 2-1-318歌については、題詞の割注を含めてこれまでも諸氏が論じています。『セミナー万葉の歌人と作品 第四巻』(神野志隆光坂本信幸企画編集 2000)では、村山出氏と平山城児氏が論じています。

 村山氏は、聖武天皇左大臣に任命した長屋王らの間に、生母藤原夫人宮子に「大夫人」の尊称を賜ろうとした件での対立が続いていたことが原因で芳野宮でのすべての「讃歌奏上」が天皇の意思で取り止めとなったのではないか、と指摘しています。しかし、即位のセレモニーである芳野行幸で異例のことを今上天皇はしない、と思います。

 村山氏も平山氏も題詞における「于」字表記の有無について触れていません。また、巻三編纂者がこの割注を記していることを自明のこととしているのにも疑問を感じます。なお、『萬葉集研究』の27巻~34巻にはこの歌に関する論文はありませんでした。

 また、上記⑥であげた2-1-925歌の題詞には「神亀二年乙丑夏五月幸于芳野離宮時・・・」とあるものの、『続日本紀』にこれに対応する行幸の記述はありません。

萬葉集』の記述を信用すれば、すべての行幸が『続日本紀』に記述されているわけではなく、行幸時に歌の披露の場があるのが普通という推測の根拠にも2-1-925歌はなります。 

⑫ このため、2-1-318歌は、芳野離宮行幸準備の際、即位の一連の行事執行にあたり、予祝の歌を下命されて、宣命をも意識して旅人は作詠したものではないか、と思います。それは旅人の詩情を刺激したのでしょう。旅人の長歌はこれだけであり、かつ『萬葉集』記載歌では一番若年の歌であるので、伊藤博氏と(根拠は異なりますが)同じように、旅人個人にとってはエポックメイキングなことといえます。

 それはともかく、この歌は下命をきっかけにした歌であり、芳野宮行幸先での披露は念頭にありません。官人が作者である上記の芳野離宮時の歌も、題詞には奏上あるは披露という表記は省かれています。同じように「奉勅作歌」と題詞に記してあることは、別途今上天皇に達している歌と理解してよい、と思います。復命した時点は石上卿と同様宮中での執務中のことであり、宴席ではないでしょう。あるいは芳野離宮から還御されたときでしょうか。

⑬ さて、題詞の割注(未逕奏上歌)の検討です。

 聖武天皇天武天皇の崇敬の念が強いので、即位した直後に芳野宮行幸をしたのであろう、と思います。この行幸と、10月の紀伊国(海部郡)行幸大嘗祭までの一連の行事としています。

 『続日本紀』の10月条の記事と比較して、行幸先での天皇の行動や行事の記述が芳野宮行幸には一切なく紀伊国(海部郡)行幸は豊富です。これは大嘗会の記載が簡潔であるように神聖な面が芳野宮行幸に強いからではないか。

 この歌の作詠事情について、巻三の編纂者(少なくとも2-1-318歌をここに配列した編纂者)は、意を十分題詞に書き込んでいますので、更なる説明を割注でする必要を認めていないと思います。

 また、この割注の内容は、題詞を誤解しています。このためこの割注は、後人の作文となります。

⑭ 念のため、歌本文を紹介すると、 

 2-1-318歌 (題詞は上記②に記す)

   見吉野之  芳野乃宮者  山可良志  貴有師  水可良思  清有師   天地与  長久 

          萬代尓   不改将有   行幸之宮

     みよしのの よしののみやは やまからし たふとくあらし かはからし 

    さやけくあらし あめつちと ながくひさしく よろづよに かはらずあらむ

 いでましのみや

  土屋氏は次のようにその大意を示しています。

「吉野の宮は、山の成り立ちが貴いのであらう。川の成り立ちが清いのであらう。天地と共に長く久しく、萬代までも変わらず有るであらうめでたい行幸の宮である。」(『萬葉集私注二』新訂版)

 伊藤氏は、

 「み吉野、この吉野の宮は山の品格ゆえに尊いのである。・・・改(かわ)ることはないであろう。我が大君の行幸(いでまし)の宮は。」

と現代語訳を示しています(角川ソフィア文庫『新版万葉集一』)。

 この歌は長歌であり、反歌があります。

  2-1-319歌  昔見之 象乃小河乎 今見者 弥清 成尓来鴨

  むかしみし きさのをがはを いまみれば いよよさやけく なりにけるかも

⑮ 歌に用いられている語句について、長歌の「見吉野之 芳野」、「山可良志」、「水可良思」、「不改将有 行幸之宮」など及び短歌の「象乃小河」は、『萬葉集』では作者旅人のみの用語である、という諸氏の指摘があります。そして、聖武天皇の即位の詔の語句(不改(常典))を取り入れています。

平山氏は「措辞の新しさがある」と評しています。

 「(吉野)離宮永続の根拠をその環境の優秀性だけに求めている作品は他にみられない(高松寿夫氏)」など金村などの吉野讃歌が人麻呂歌をベースにしているのに対して異色である(人麻呂の行幸時の歌の影響下にない)、」とも指摘されています。

 反歌を、「よくこなれたやまと言葉の、しかもすぐれた抒情詩」と平山氏は指摘します。

 「昔見之 象乃小河乎」の語句を、旅人は、2-1-335歌でも用いています。この長歌反歌は、「芳野宮」の永遠性を詠っており、吉野の景は以前よりもさやかである、と天武天皇の御代を越える今上天皇の御代となるであろう、と詠っており、今上天皇の御代を奉祝・予祝する歌である、と思います。

⑯ 次に、2-1-434歌の割注を検討します。

 再掲すると、

2-1-434歌 過勝鹿真間娘子墓時山部宿祢赤人作歌一首并短歌  東俗語云可豆思賀能麻末能弖胡

 

 『新編国歌大観』は題詞と割注の訓を示していませんが、歌本文に「勝壮鹿乃 真間之手兒名」とあり、その訓が「かつしかの ままのてごな」とあります。

 割注を、「かづしかのままのてご」と伊藤氏は訓んでいます。

 題詞の「勝鹿真間娘子」は、「かつしかのままのをとめ」と訓むのでしょう。

 割注の意は、その土地で「かづしかのままのてご」という人物名を、官人の作文である題詞で、当時の共通語で「かつしかのままのをとめ」と表記している、と指摘した、というところです。名前の発音に注意を促しているので、「作詠の経緯に触れる」タイプの割注という整理でしたが、「(ちょっと発音が異なる)別名が〇〇」という割注と理解すれば、一般的な「作者の特定だけが目的というタイプ」の注記と整理し直せます。

⑰ この割注が無いとしても歌の理解は十分できます。娘子の名の呼び方で歌意が変わるわけではなく、巻三の編纂者は割注の必要を感じていないはずです。勝鹿真間娘子が伝説上の人物に当時既になっているので、後人がその土地での呼び方を紹介したのがこの割注である、と思います。

 なお、巻九にある 2-1-1811歌は、題詞に「詠勝鹿真間娘子歌一首并短歌」、歌本文に「勝壮鹿乃 真間乃手兒奈」とありますが、割注はありません。左注もありません。

⑱ このように、今回検討した割注2題を作文した人物は、少なくとも最初の編纂者ではない、ということになりました。これで、巻三までの割注は、すべて「古注」の部類といえます。

 次回は、割注の検討をお休みし、巻三の歌の配列について記します。

ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき ありがとうございます。

(2022/3/14    上村 朋)

付記1.歌と天皇の統治行為との関係の分類について

 歌が詠われている状況について天皇の統治行為中心に整理分類し、関係分類を11分類した(ブログ2021/10/4付け)。次のとおり。 

A1 天皇及び太上天皇などの一般的公務に伴う(天皇が出席する儀礼行幸時の)歌群、但しA2~Hを除く:

例えば、作者が天皇の歌、天皇への応答歌、復命歌、宴席で披露(と思われる)歌

A2 天皇及び太上天皇などの死に伴う歌群:

  例えば、殯儀礼の歌(送魂歌・招魂歌)、追憶・送魂歌

B 天皇が下命した都の造営・移転に関する歌群:                      

  例えば、天皇の歌、応答歌、造営を褒める歌

C 天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(但しDを除く):

  例えば、皇子や皇女、官人の行動で、公務目的に直接関係なさそうなその旅中での感慨を詠う歌。復命に関する歌はA1あるいはA2あるいはDの歌群となる。

D 天皇に対する謀反への措置に伴う歌群:

  例えば、罪を得た人物の自傷歌、護送時の誰かの哀傷歌、後代の送魂歌

E1 皇太子の行動に伴う歌群(E2を除く):

  例えば、皇太子の行幸時の歌、皇太子主催の宴席での歌、公務目的に直接関係なさそうなその旅中での感慨を詠う歌 

E2 皇太子の死に伴う歌群:

  例えば、殯儀礼の歌、事後の追憶の歌

F 皇子自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む):

  例えば、殯儀礼の歌、事後の追憶・哀悼の歌、主催した宴席など公務以外の宴席での歌、その公務の目的に直接関係なさそうなその旅中での感慨を詠う歌

G 皇女自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む):

  例えば、殯儀礼の歌、追憶の歌、送魂歌、主催した宴席など公務以外の宴席での歌

H下命の有無が不明な事柄に伴う(作詠した官人自身の感慨を詠う)歌群:

   上記のA~GやIの判定ができない歌(該当の歌は結局ありませんでした)

I 天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を詠う歌群:

  例えば、事後の送魂歌

 ここに送魂歌とは、死者は生者の世界に残りたがっているのでそれを断ち切ってもらう必要があるという信仰の上にある歌という意味である。当時は単に追悼をする歌はない。また、分類作業ではいずれかの分類に整理するものとしている(分類保留にした歌はない)。

(付記終わり 2022/3/14  上村 朋)

 

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 聖徳太子は誰を詠ったか

 ウクライナへロシアが一方的に侵攻しました。昔も今も軍事力に大差があると思うと、行動は変わらないのでしょうか。

 前回(2022/2/14)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 まだある寧楽その1」に引き続き、第24歌の類似歌について、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 聖徳太子は誰を詠ったか」、と題して記します。(上村 朋)

 1.~18.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。今3-4-24歌の類似歌に関して、語句「寧楽」を検討し、歌本文における「寧楽」字を用いた都城の表記は「奈良」という語句では表せない、平城京を「理想の都城」とみなすような感情をこめているようにみえると指摘した。その確認のため、題詞にある割注の「寧楽」を検討している。なお、歌は『新編国歌大観』より引用する。)

19.再考 類似歌 その16 巻三の最初の編纂者は割注していない

① 『万葉集』における「寧楽」表記には題詞や歌本文のほかに、題詞の割注に1例あります。巻四にある2-1-533歌です。

天皇海上女王御歌一首 寧楽宮即位天皇

 赤駒之 越馬柵乃 緘結師 妹情者 疑毛奈思

 あかごまの こゆるうませの しめゆひに いもがこころは うたがひもなし

(左注あり「右今案 此歌擬古之作也 但以時当便賜斯歌歟」)

 今、この割注(寧楽宮即位天皇也)が巻三の最初の編纂者の記した文章でない、と断言できるかどうかを検討中です。

 割注が編纂時の文章ではない、となれば、編纂者が関与した標目や題詞や歌本文とその配列に影響を及ぼすものではないことになります。その割注は「古本の注」として扱えます。

② そのため、巻一~巻四にある割注すべてを対象として検討しています。(割注のある歌の一覧は前回のブログ(2022/2/14付け)の付記1.参照)。検討途中、歌本文の確認が必要となり、今回も、上宮聖徳皇子の歌(2-1-418歌)などを検討しました。

 巻一と巻二にある標目と題詞に対する割注は、歌の理解に必須のものではなく、少なくとも、最初の編纂者が割注を作文していない、といえました。

 巻三にある割注(11題)には、この巻だけの注記のタイプとして、作者の活躍した時代を紹介しているものが2題あります。

2-1-339歌:雑歌 沙弥満誓詠綿歌一首   造筑紫觀音寺別當俗姓笠朝臣麻呂也

2-1-418歌:挽歌 上宮聖徳皇子出遊竹原井之時見竜田山死人悲傷御作歌一首  小墾田宮御宇天皇代墾田宮御宇者豊御食炊屋姫天皇也諱額田謚推古

 前者は、前回(2022/2/14付けブログ)検討し、一般的な「作者の特定だけが目的というタイプ」の注記と整理し直せました。後者を今回検討します。最初に、歌そのものの理解です。

③ 2-1-418歌は、部立てが挽歌の部の筆頭歌です。竜田山でみた死人を対象に「上宮聖徳皇子」が詠う挽歌となっています(なお、『萬葉集』記載の挽歌の定義は、巻二の2-1-145歌の左注に従っています)。

萬葉集』の最初の挽歌の部は、巻二にあり、その筆頭歌は、皇位継承も十分可能であった皇子が自ら詠う歌となっています。巻三と巻四の部立てが巻二までのそれを意識しているので、挽歌の部の配列や筆頭歌の位置付けには共通の特徴があるはずと予想しています。

④ 最初に、配列を比較します。巻二の挽歌の部は、無念の死に至った人物の送魂の歌を収載しており、歴代天皇その他の人物にとりこの世に未練を残していては困る人物に対する挽歌を置いていることを、2021/10/11付けブログで指摘しました。

 巻二の挽歌は、天智天皇にとり気にかかる一人であった人物(有馬皇子)への挽歌から始まり皇族、そして非皇族への挽歌が配列され、最後に志貴皇子への挽歌という順です。

 巻三は、竜田山死人(非皇族)、死を賜った皇子、そのほかの皇子・皇女、次いで香具山の屍など非皇族(途中に長屋王とその子への挽歌を挟む)、そして、最後に安積皇子への挽歌となっています。

 皇族優先の配列と最後に皇子を置いていることは共通しています。最後の皇子が自殺を迫られていないことも共通です。

 配列は、巻三の筆頭歌の対象者である竜田山死人(非皇族)が、天皇にとり送魂の歌を贈るべき人物を暗喩していれば同じ発想での配列といえます。

⑤ 次に、巻三の筆頭歌2-1-418歌の題詞を検討します。

 題詞は、作者名を「上宮聖徳皇子」と明記しています。

 これは、巻一などにある「標目」の表現に倣えば、「上宮」というところに居を構えた「聖徳」と人が言う(あるいは、人々が讃える)「皇子」、と理解できます。

日本書紀』をみると、「上宮聖徳皇子」という表記はありません。「皇子」で活躍した人物ならば『日本書紀』に登場しているはずなので、「上宮」という表記を頼りに探すと、用明天皇紀に初出する「厩戸皇子」(そして推古天皇が即位元年に皇太子にして国政をすべて委任したと記されている人物)がいます。「上宮」とは、「厩戸皇子」が最初に居を構えていたエリアをさしていました。

 諸氏も、「上宮聖徳皇子」という作者名は、推古天皇の皇太子となった厩戸皇子(以下「日本書記の厩戸皇子」、と記します)と指摘しますが、なぜ編纂者がそのように記したのかにあまり言及していません。その理由を確認します。(『日本書紀』に登場しない皇子が「上宮聖徳皇子」という名で当時知られていた、という可能性はない、と思います)。

「日本書記の厩戸皇子」は、後世「聖徳太子」と呼ばれ信仰の対象となった人物です。

⑥ 『日本書紀』など現存の資料で、「日本書記の厩戸皇子」を、どのように表現しているかを、当該資料の成立順に示すと、次のようになります。

第一 厩戸皇子:『日本書紀用明天皇元年(585)条

第二 (更なる名として) 豊耳聡聖徳。或名 豊聡耳法大王。或云 法主王:

用明天皇元年(585)条の分注

第三 厩戸豊聡耳皇子&皇太子&(皇太子となって以後に)上宮厩戸豊聡耳太子:

日本書紀』推古元年(593)二月条 この条以降推古紀では薨去まで「皇太子」と記す

第四 太子を名づけて利(和か)歌弥多弗利(わかみたふり):『隋書』隋の開皇20年(600)条

第五 厩戸豊耳皇子命:

日本書紀』推古29年(621)条 薨去時の記事の最初

第六 上宮皇太子・上宮豊聡耳皇子:

日本書紀』推古29年(621)条 薨去時の記事の最後段

第七 上宮太子聖徳皇:

法起寺三重塔露盤銘』 慶雲6年(706) (『聖徳太子伝私記』引用文)

第八 上宮之厩戸豊聡耳命:『古事記』 用明段 (後に天皇となる者に『古事記』は「命」を使用)

その序によれば撰上は和銅5年(712)

第九 『日本書記』編纂者は、上記第一~第三及び第五~第六を明記:

『日本書記』の成立は養老4年(720) 編纂者の認識を示す(第二は保留) 

第十 聖徳太子:『懐風藻』 序 成立は序によると天平勝宝3年11月(751/12~752/1) 

第十一 上宮聖徳皇子:『萬葉集』2-1-418歌の題詞:

 巻三の編纂時点を推測すると、最早は、2-1-478歌の作詠時点である安積皇子薨去天平16年(744))以降、最遅は、『萬葉集』の公表前でかつ大伴家持が死後に復位した時点,延暦25年(806)以降。

第十二 聖徳皇太子:『日本霊異記』上巻第四縁・同第五縁 (太子の名に三つありとして「厩戸豊聡耳、聖徳、上宮」を明記(上四縁)。厩戸皇子(上五縁)とも記す。聖徳太子は無し。)

  延暦6年(787)一旦完成し、増補した現存の形は弘仁年間(810~824)成立。

第十三 聖徳王・聖徳法王・上宮厩戸豊聡耳命:『上宮聖徳法王帝説』:

 主要部分の成立は弘仁年間(810~917)、現在の形には永承5年(1050)までの間

第十四 上宮太子と申す聖(ひじり):『三宝絵詞』 (日本仏教史の冒頭の説話が聖徳太子伝。その最後に、三つの名を紹介。聡明さを強調する名(厩戸豊聡耳皇子)、仏教との関係からの名(聖徳太子)、国政を執った面からの名(上宮太子))  永観2年(984)成立

    (以下省略)

⑦ これらのうち、『日本書紀』の記述は、推古朝当時の記録そのままではない、と諸氏は指摘しています。

 「天皇」の称号が用いられた確実な史料は天武天皇の時代からであり、制度的な「天皇」号の成立は689年に成立した浄御原令と想定されています。「皇太子」号もそれ以後用いられた称号です。

 また、『日本書紀』記載の憲法十七条にある「国司」という職名は大宝令(701制定)に初めて定められており、推古朝当時このような職名はありません。

 そして、『日本書紀』の編修過程は音韻研究からそのあらましが明らかになっています。

 森博達氏は、

第一 推古紀記載の巻二十二は、「基本的に和化漢文で記述され、倭音によって歌謡が表記されているような、倭習に満ちている巻」

第二 憲法十七条は、推古朝の用字論から、文武朝(697~)から述作がはじまり、さらに和銅7年(714)以降に潤色・加筆の可能性がある。

と指摘し、推古紀の述作者が正史に名を残す学者であるとすると、文章博士山田史御方と推測しています(『日本書紀の謎を解く』 中公新書 1999)。

 吉村武彦氏は、「日本書記の厩戸皇子」の記述には『史記』の文章から潤色したものがあり、それは没後に信仰の対象になった影響である、と指摘しています(『聖徳太子岩波新書 2002)。

⑧ 「日本書記の厩戸皇子」が中心となった外交や自身の仏教への関心は事実であっても、それらについて記した推古天皇時代の文章(元資料)が、『日本書紀』の編纂にあたりそのままのかたちで引用されていない、ということです。

 すなわち、上記第一以下は『日本書紀』推古紀の編纂時点における編纂者の認識となります(上記第九。なお、第二の分注が『日本書紀』成立時に既にあったとしても、この論は成立します)。

 また、吉村氏は、上記第一の表記「厩戸皇子」は実名であろうから、居を構えたところをいう「上宮」という名が生前は使われたであろう、と指摘しています。

 だから、上記の第一から第六(第二は保留し第四を除く)の、名称を含む推古紀の記述は、『日本書紀』編纂の目的に沿うよう、成立(養老4年(720))直前における天皇家の事情が反映している可能性が強い、といえます。

 この時の天皇元正天皇(在位715~724)です。母である元明天皇(在位707~715)から譲位をうけ、弟であり皇太子であった首皇子聖武天皇、在位724~749)に譲位した天皇です。

 天皇家の事情とは、皇太子となる皇子は優秀である(ことが多い)という例を示したいことではないか。「日本書紀厩戸皇子」について、誕生譚や片岡山遊行説話という奇瑞譚(付記1.参照)を記し、聡明な皇子であることを強調しています。

⑨ 『日本書紀』は、漢文の文化圏において、日本列島に都城をおく天皇専制律令国家の正当的歴史観を示すのが目的であったとみることができます。仏教の受容は天皇専制のための手段であり、統制をしっかりしています。皇極天皇4年(645)の乙巳の変後に即位した孝徳天皇(在位645~654)は、大化元年(645)8月癸卯条に記す「大化僧尼詔」で、仏教界の統制方針を明示しました。

 その際、仏教興隆の経過を述べた個所で、支援した人物として蘇我稲目蘇我馬子をあげ「日本書記の厩戸皇子」を称揚していません。

 『古事記』は、元明天皇の、律令国家の正当的歴史観を確定したい、また首皇子の即位にむけた帝王教育の教材をとりあえず得たいということから成ったという説があります(青木和夫氏「古事記撰上の事情」)。

 巻三の編纂が最早の推測時点であっても、『日本書紀』と『古事記』は参考にできました。そのどちらの編纂者も、「日本書記の厩戸皇子」に対して「聖徳」という形容をしていません。

 上記第七は、13世紀成立の書物に引用されているものであり、巻三編纂者が知り得たかどうかについて今は保留します。

⑩ 次に、上記第十の『懐風藻』は漢詩集です。その序は勿論漢文で書かれており、文化の伝来を記述する段に「日本書記の厩戸皇子」を「聖徳太子」と記しています。その序は、人物名を淡海先帝(天智天皇)、「龍潜王子」(大津皇子)、「鳳翥天皇」(文武天皇)や「藤太政」(藤原 史=藤原不比等)と記しています。

 「聖徳太子」も、その一環でのネーミングであり、鳳翥天皇などの命名法にならうならば、「聖徳+太子」からなる名です。

 「聖徳」とは、熟語として「優れた徳」とか「天子の徳」という意です(『角川大字源』)。熟語「聖徳」を用いた詩が『懐風藻』に1詩あります(付記3.参照)。

 「聖」とは、漢文・漢語では「aひじり。知徳がすぐれて、物事の理に通じている人、一つの道の奥義をきわめた人。b天子の尊称。c天子に関することの上にそえることば。dさとい、かしこい。」などの意があり、日本語の語義としては「aひじり。高徳の僧。例えば高野聖。bせい。英語のsaintの音訳」の意が加わります。

 推古天皇天武天皇の時代は、当然漢文・漢語の意だけです。

「徳」とは、「aとく。すぐれた才能、人格者のりっぱな行い、おしえ・人民を教化する力など。b徳を習得した人、人格者。cめぐみ・さいわい」等の意があります(同上)。

 「太子」とは「天子や諸侯の世継ぎの子。世子」とか「漢代以後、天子の位を継ぐ皇太子、諸王の子を太子という」とあります(同上)。

 このような漢字の意なので、「日本書記の厩戸皇子」を、序の作者が中国風に「太子」と表現し、その人物を称賛する語句として「聖徳」を用いている理由は、序の文を読むと推古天皇の治世の輔弼の状況である、と思います(付記3.参照)。

 『懐風藻』の成立は、『萬葉集』巻三の編纂時期の最早の予測時点より10年足らず後の時点であり、巻三の編纂者は参考にしたかもしれない資料です。

 なお、『日本書紀』には、ほかの皇子に対して「太子」という表記を用いている箇所があります(各巻の執筆担当者の違いの影響は未検討)。

⑪ 次に、上記第十二の『日本霊異記』は、延暦6年(787)一旦完成しています。巻三の推測最遅編纂時点より20年前です。その際に世に知られ、それに「聖徳皇太子」の説話が含まれていたならば、場合によっては参考にできます。

 その説話(上四縁)は「聖徳皇太子示異表縁」と題して、「日本書記の厩戸皇子」について、

 「進止威儀似僧而行 加製勝鬘法花等経疏 弘法利物、定考績勲之階、故曰聖徳」

と記しています。

 その意は、「仏法をひろめ、冠位の制を定められたことから聖徳と申し上げる」となります。

 二つの側面の業績をあげており、三つの名のうちの「聖徳」の意は、「知徳がすぐれて、物事の理に通じている人」となると思います。

 編纂者の景戒の時代には、100数十年前の人物を、既に仏教関係者が「聖徳」とも申し上げ布教活動をしていた、ということです。仏教側は、布教のため、歴代天皇のほかに、仏教伝来早期のころの天皇家でかかわりの深い人物を称揚したいという思いもあったのではないか。

⑫ また、天皇家に近い人にも、例えば聖武天皇の皇后である光明子が香・薬などを法隆寺厩戸皇子の命日に施入したり、厩戸皇子追善供養のため僧行信が阿倍内親王(後の孝謙天皇)にはかり上宮王院を建立(739ころ)し、厩戸皇子の所持品・鉄鉢を施入するなど、厩戸皇子個人への信仰があります(上宮王院は現在の法隆寺の一部である東院伽藍)。

 このような状況が、『萬葉集』巻三の推測最早編纂時点(744)前後でも既に生じていました。僧たちに法話の話題としての共通資料があったのか、と思います。

 しかしながら、巻三の編纂者は、官人であるので、『日本書紀』が座右の書であり、仏教説話集である『日本霊異記』は参考にしなかったのではないか、と思います。

 次に、上記の第十三と第十四は、仏教側の視点での資料であり、かつ『萬葉集』巻三の推測最遅編纂時点以後ですので、編纂者に影響を与えられないでしょう。

⑬ これらから推測すると、皇子と官人の作品集である『懐風藻』に示される漢文の素養を共有している『萬葉集』巻三の編纂者は、『日本書紀』を参照し、厩戸皇子の治世面の実績を官人として尊重し、「上宮」に居を構えたところの「皇子」と独自にネーミングしたか、とも言えます。

 しかし、天皇輔弼の実績を歌本文が積極的に必要としていません。上記⑤での疑問、なぜ編纂者は「上宮聖徳皇子」と記したか、のヒントは、歌本文にあるかもしれません。

 なお、『懐風藻』との前後関係は、巻三の編纂時期の推測結果次第であり、いうなれば、この歌は、巻三の最終編纂時点判定の材料の一つになっています。

⑭ 『日本書紀』との関係では、同書での「皇太子」という表記は、(巻ごとの執筆者の違いは置いておいて)履中天皇清寧天皇厩戸皇子及び天智天皇にあります。みな果断な行動をとった人物ですが、一人厩戸皇子のみ、天皇となる前に亡くなっています。

 これをヒントに、巻二の挽歌の筆頭歌が、有馬皇子の自傷歌でしたので、巻三の挽歌の筆頭歌も「日本書記の厩戸皇子」の自傷歌と予想し、確認してみます。

 2-1-418歌の題詞によれば、「上宮聖徳皇子」は、たまたま「行路死人」をみて詠っています。その死人のその後のことを、読み手に編纂者は一任しています。

 行路死人は、天然痘など伝染病が流行った時や都へ集めた役民の帰国の際生じやすいものです(付記2.参照)。

 『万葉集』には、路傍の死者に対する歌として、人麿詠う2-1-220歌~2-1-222歌および2-1-426歌もあります。

 だから、名も無き者が無念な思いを抱いて死んだであろうことを鎮めるような歌や行為は、共同体を守るために必要なことであり、その土地々々にそれぞれ生じていたと推測できます。

 土屋氏は、2-1-418歌の歌本文について、「此の時代のものとしては、現在見る形が直ちに作者の原作か否かは疑問であらうが、吾々は感銘深い作として此の一首を十分受け入れることが出来る」と指摘しています。

⑮ つまり、助ける人もなく家族とはなれ一人逝く人物に対する挽歌として素直に理解できる歌を、巻三の編纂者は、挽歌の部の筆頭歌としているといえます。

 「上宮聖徳皇子」の詠作でなく、「人麿」や「憶良」や「都に役民として上京中の人物」であっても、素直に理解できる歌です。歌本文のみの元資料は、土屋氏のいう民謡の類ともいえます。

 「日本書紀厩戸皇子」は、その地位を追われたりしていません。助ける人もなく家族とはなれ一人逝く状況にもなっていません。しかし、皇太子のままで生涯を終わっています。それは、皇子として無念であったろうという推測ができます。

 だから、歌本文の「行路死人」は、厩戸皇子自身である可能性があります。近い将来の自分の姿を、題詞にいう竜田山で見た死人に重ねて詠った歌ではないか。死は、流行病に掛かればあっけなく訪れます(天平九年(737)の藤原四兄弟のように)。

⑯ そうであれば、巻三の筆頭歌は、上記④で指摘した「天皇にとり送魂の歌を贈るべき人物を暗喩している」歌となります。

 巻二と巻三の筆頭歌は、次のような共通点があることになります。

 第一 皇位継承も十分可能であった皇子が筆頭歌を詠うこと

 第二 挽歌の対象(有馬皇子も、行路死人も)は、今上天皇に悪意を持たず、初志が実現していない死者であること

 このため、作文した題詞と元資料の歌の組合せは編纂者の意図による、と推測できます。

 そうすると、作者名に「聖徳」と冠したのは、作者の聡明さを訴えるためだったのではないか。『日本書紀』が最後に記している「上宮豊聡耳皇子」(上記⑥の第六)をベースに(推測編纂時点によっては『懐風藻』の序を参考に)ネーミングしたのではないか、と思います。

 このように、作者名の由来も理解でき、上記③での予想のようになりました。これを前提に、題詞の割注の検討をします。

⑰ 2-1-418歌の題詞の作者名に「上宮」が含まれているので、「日本書紀厩戸皇子」ということが2-1-418歌の題詞の割注が関与なしで、できました。

 そして、歌本文は、「一人逝く人物に対する挽歌」として作者名は不用の歌です。作者名と歌との関係は題詞の文章に拠っています。そのようになっているので、割注を巻三の編纂者は必要としていません。

 『日本書紀』記載の片岡山遊行説話の歌の対象人物は「飢人」であり、異なっており、説話とこの2-1-418歌の共通部分は、作者の聡明さだけです。それは言わずもがなの指摘であり、割注は後人の作文と思います。

 割注が、『日本書紀』推古紀にある片岡山遊行説話を思い出させることで人物を特定させたつもりであれば、『日本書紀』との照合は左注でよく行われているものの、時代を記すという方法での一般的な「作者の特定だけが目的というタイプ」の割注と、整理し直せるかもしれません。

⑱ さて、巻三の11題の割注には、ほかに、作詠の経緯に触れるものが2題あります。このタイプは、巻四にも4題あります。

2-1-318歌:暮春之月幸芳野離宮中納言大伴卿奉勅作歌一首并短歌  未径奏上歌

2-1-434歌:過勝鹿真間娘子墓時山部宿祢赤人作歌一首并短歌  東俗語云可豆思賀能麻末能弖胡

 これらの割注が、いつ作文されたかについては、次回に検討します。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき ありがとうございます。

(2022/2/28    上村 朋)

付記1. 聖徳太子の片岡山遊行説話について

① 推古21年12月庚午朔条にある説話であり、「日本書記の厩戸皇子」は歌も詠っている。(小学館『新編日本古典文学全集 日本書記②』より)

・・・時に飢たる者みちのほとりに臥せり。よって姓名をとひたまふ。而るを言さず。・・・安らかに臥せれとのたまふ。即ち歌(うたよみ)して曰(のたま)はく

 しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こや)せる その田人(たひと)あはれ 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て 臥せる その田人あはれ

② 同全集は、「皇太子の仁慈を語り、飢えた人が神仙と見抜く非凡な聖人であることを説く説話につながってゆく。 田人の原文は「多比等」=農夫の意。萬葉集歌では「竜田山死人」を歌では「旅人」という。行路死人であり、皇太子の歌での飢える田人と異なる。」と指摘する。

③ 歌の原文「多比等」を「田人」と認識すれば、人物像に三つの可能性がある。

「田人」だから常住者であり、地縁の共同体の一員でありながら放置されているので、

aその共同体自体が飢餓に苦しんでいる。物乞いのため一人に道に出てきた。

bその共同体にとり止むを得ない措置として道端にしかいられない(助ける手段がないとあきらめた重病人か自ら隔離生活をしたい流行病者が有力)。

c帰国する役民や自ら流浪の身になっている者を強制的に使用していたが、用済み又は隔離せざるを得ない状態になった。

④ どの人物像でも、この歌は、一個人を目にしただけで社会の課題を把握した、という趣旨の歌となる。官人の職務怠慢の現場を見たことにもなる。非凡さを示す歌であるが、「飢人」が神仙という話につなげにくい歌の理解になる。この歌は元々土屋氏のいう民謡の類ではないか。作者名は、その時この歌を使用した(であろう)人物の名である。

⑤ 原文「多比等」は、「飢えた人」とか「死んでしまった人」とか「帰国途中の役民」の意の表現に差し替え可能である。これに連動して差し替える語句もある。

付記2.役民の帰国に関する記述例

①『日本書紀孝徳天皇 大化二年2月甲申(22日)条の詔:薄葬令と旧俗の廃止

 旧俗の廃止とは、「愚俗」の禁止をいう。役民が故郷と都を往復す途次での事故に対し路傍の住民が祓除の強要(死人をケガレとする習俗の悪用) 、河に溺死した者に偶然出会った者が溺死者の仲間に祓除の強要、役民の炊飯時路傍の家人が 祓除の強要(別のかまどの火を用いるのは村落共同体としてのかまどの火が穢されたことになる)等の愚俗を禁止した。この禁を犯した場合は、その族も同罪とした。

②『続日本紀元明天皇 和銅5年正月16日条の詔:「役民が郷里に還る時食料欠乏から飢えて道路の溝壑に転塡せる者が多いから、物を恵みあるいは手厚く埋葬し、本人の戸籍のある国に報告せよ」

③『続日本紀元正天皇 養老4年(720)3月17日条:「人々が物を運んで入京し用事が終わったら早く帰還すべきです。還る旅程の食糧を支給し飢え疲れることなく帰らせてやりたい…」という奏上は許可された。

④ 上記の「付記1.③ c」も例となる。

付記3.懐風藻の序と詩での「聖徳」の用例について

① 序には署名がない。序の作者(と詩の撰者)には、淡海三船石上宅嗣など数名があげられているが推定の域にとどまる(『懐風藻』江口孝夫 講談社学術文庫 2000)

② 編纂時期は天平勝宝3年(751)11月と明記している。聖武天皇孝謙天皇に譲位して3年目である。

③ 序は、結局、天智天皇の時代を賛美している。

④ 序の関係する文は次のとおり。

「逮乎聖徳太子、設爵分官、肇制礼義。然而 専崇釈教、未遑篇章」聖徳太子に逮(およ)んで、爵を設け官を分かち、肇(はじ)めて礼義を制(さだ)めたまふ。然(しか)れどももっぱらに釈教を崇(あが)めて、いまだ篇章にいとまあらず。(江口孝夫『懐風藻』 講談社学術文庫 、2000)

⑤ 序の作者は、聖徳太子について、「孔子の説く礼儀を国に整えたが詩文より仏教に熱心で、聖徳太子は詩文を残さなかった」という認識を示している。ここにいう「聖徳太子」は、「日本書記の厩戸皇子」であるのは、序の前後の文章から明らかであり、「聖徳」というのは、治世への貢献に対する評価である。

⑥「聖徳」を用いた詩は、釈道慈の詩に1首ある(第103詩)。

五言 在唐奉本国皇太子 一首

三宝持聖徳  仏教は皇太子のすぐれた徳行をお守りし

百霊扶仙骨  百神のみ霊(たま)は皇太子の不老長寿にお尽しし

寿共日月長  ご寿命は日月と同じように長く

徳与天地久  御徳は天地と同じように久しくあられますように  (江口氏の訳による)

   (付記終わり 2022/2/28 )

 

 

 

わかたんかこれ  猿丸集は恋の歌集か 第24歌 まだある寧楽その1

  三度目のワクチン接種が立春前にできました。それはコロナ対策の一つであり、まだまだ続きます。今年も、猿丸集各歌の再確認をしてゆきたいと思います。よろしくお願いいたします。(追記:18.⑨の「なおがき」に2-1-331歌に関して更なる追記と付記1.にあった誤記を訂正しました。2023/1/27) 

 前回(2021/12/20)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 再度1553歌その2」に引き続き、第24歌の類似歌について、今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 まだある寧楽その1」、と題詞して記します。(上村 朋) 

1.~17.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。今3-4-24歌の類似歌に関して、語句「寧楽」を検討し、歌本文における「寧楽」字を用いた都城の表記は「奈良」という語句では表せない、平城京を「理想の都城」とみなすような感情をこめているようにみえることがわかった。なお、歌は『新編国歌大観』より引用する。)

18.再考 類似歌 その15 萬葉集の編纂者も注記しているか

① 『万葉集』における「寧楽」表記には題詞や歌本文のほかに、題詞の割注に1例あります。巻四にある2-1-533歌です。

天皇海上女王御歌一首 寧楽宮即位天皇

 赤駒之 越馬柵乃 緘結師 妹情者 疑毛奈思

 あかごまの こゆるうませの しめゆひに いもがこころは うたがひもなし

(左注あり「右今案 此歌擬古之作也 但以時当便賜斯歌歟」)

 題詞の割注を土屋氏が「古本の注」と言い、「天皇は古本の注に「寧楽宮即位天皇也」とあるごとく聖武天皇である」と指摘しています。土屋氏は「古本の注」によらず題詞にある「天皇」を聖武天皇と断定したうえ傍証として「古本の注」をあげています。

② 割注が編纂時の文章ではない、とすれば、編纂者の関知しない文章であり、編纂者が関与した標目や題詞や歌本文とその配列には関係ない文章なので、ここまで検討対象にしてきませんでした。

 しかし、現在に残る『万葉集』の各巻は複数回の編纂を経たものが、何回かの写本を経てきたものです。編纂途中及びその後、疑問を感じたり確認したことがあったと思います。割注という注記手法は、それらを記録して残す方法のひとつです。そのため、割注が記された時点として最初の編纂時とその後を峻別し、最初の編纂者の記した文章でなければ、後者として「古本の注」と定義して、検討をすすめます。

 巻四の割注検討のために、巻三及び先行して最初の編纂が行われている巻一と巻二における割注をも、併せて検討します(割注のある歌の一覧は付記1.参照)。

 このため、中納言大伴卿の歌(2-1-318歌)のほか、沙弥満誓・山上憶良聖徳太子の歌(2-1-339歌、2-1-340歌及び2-1-418歌)などをも検討することになりました。

③ 最初に、巻一と巻二です。ともに標目のもとに歌が配列され、標目と題詞に対する割注があります。

 標目に対しては、「・・・宮御宇天皇代」と記す「天皇」に関して割注があります。

 その割注の仕方は、例えば「泊瀬朝倉宮御宇天皇(代)」には、『日本書紀』での表記「大泊瀬幼武天皇」(おほはつせわかたけのみこと)とおなじような訓となる表記である「大泊瀬稚武天皇」(おほはつせのわかたけのすめらみこと)という表記で割注しています(『古事記』は「大長谷若建天皇」と表記しています)。

 「・・・天皇代」という表記を採用していない標目「寧楽宮」には、割注がありません。

 そのため、巻一と巻二で題詞に「天皇」という表記がある歌は、すべて標目のもとに歌が配列されているので、標目の割注に頼らずその「天皇」を『日本書紀』などに記載の天皇名と比定することができます。結果として割注の示す天皇名と一致しています。

 これは、割注が、巻一と巻二に必須のものではないことを示しており、最初の編纂者の記したものではない、といえます。その表現は、『日本書紀』と異なるなど少なくともそれに100%依拠しようとしていません。だから、標目に対する割注は、二度目以降の編纂者か後人が記したもの、といえます。

 なお、標目に用いられている「寧楽宮」という表記の意味するところは、それまでの標目に準じれば、特定の天皇(一代に限定できなくとも)の居所を指しているとみることができるので、天皇の居所としての「宮」は、標目「藤原宮御宇天皇代」に造られた都城藤原京における藤原宮の次は、都城平城京における「宮」となります。その平城京で即位した男系の天皇聖武天皇から桓武天皇まで3代います。

④ 次に、巻一の題詞の割注を検討します。5題あります。

 2-1-7歌の題詞には、「未詳」とあります。何が「未詳」なのかと考えると、編纂者が題詞に明示している作者名を疑っているのでしょうか。それは最初の編纂者がする行為とは思えません。

 2-1-13歌の題詞の割注は、作者がその後天皇となられたことを注記しています。作者をさらに特定するものですが、作詠時点が標目により題詞「中大兄・・・」は、その天皇の時代の呼び名としては妥当です。標目を立てて歌を配列している趣旨よりして天皇ではない時の歌であるので、このような割注を最初の編纂時に設けるのは不自然と思います。

 残りの3題の割注は巻一のみにあるタイプのものです。2-1-32歌~,2-1-34歌及び2-1-78歌題詞にある、「一書云・・・」などとあります。これらは、作者名への疑問であり、編纂の不徹底を指摘するかのような文章であり、二回目以降の編纂の注記か後人の注記でしょう。

⑤ 巻二では、題詞10題に割注があります。ほとんどは、題詞記載の人物をさらに特定するものです。

 例えば、2-1-129歌は作者と贈った相手の二人に対して、あります。これらは親子の関係や別称などです。題詞のみから歌本文の理解が素直にでき、割注は不用です。後人が記した可能性が高い、と思います。巻一の2-1-13歌の題詞と同じようなタイプの割注です。

 巻二において例外的な割注は、挽歌の部にある歌2首に対して「古歌集出」等とあるものと、作詠の経緯に触れたものです。

 2-1-146歌には、柿本人麿歌集、2-1-162歌には、古歌集に記載があると記しています。これらはほかの巻にはないタイプの注記です。

 この割注は、歌をここに配列していることに関する疑問を呈する注記ではないか。朝廷あるいは有力部族が独自に記録したものではない私的に記録していたものを元資料としている、とわざわざ指摘する注記です。その元資料が題詞に記す作詠事情以外にも用いられた歌であるかの印象を得ます。

⑥ 次に、作詠の経緯に触れた2-1-112歌の題詞の割注を検討します。

 この歌は、2-1-111歌~2-1-113歌で一つの歌群となっている歌です。

 2-1-111歌は、弓削皇子額田王に贈った歌であり、次の2-1-112歌はその礼状に付けた歌であり、別途弓削皇子額田王に松の枝を贈った際における額田王の礼状(返歌)という組み合わせとなっています。

 今、歌本文の内容(寓意するものなどを含む)に立入らず、3首の題詞をみると、2-1-113歌の「吉野より・・・遣る時・・・」という題詞より弓削皇子額田王はこの時同一場所ではなく離れたところに居ることが分かります。言い換えるとわかるように、前後3首で歌群をつくっているような配列となっています。

 これから、2-1-112歌の題詞にある割注は、最初の編纂者が記す必要を感じていない事柄ではないか。

 巻一、巻二の標目の表記の仕方はそもそも『古事記』や『日本書紀』とは異なり独特です。『続日本紀』での各天皇の表記とも異なる表記であり、また修史に携わらない官人の個人的な歌集と思われる「古歌集」の歌も編纂に用いるなど異なる歴史観を編纂者は持っている、と見られます。

⑦ 次に、 巻三の割注を検討します。

 巻三には標目が無く、雑歌と譬喩歌と挽歌と三つの部立てをたてています。

 巻三には11題に割注があります。7題は、題詞記載の人物を特定するものです(うち4題は「名欠」など特定できていないという注記です。

 この巻だけの注記のタイプとして、作者の活躍した時代を紹介しているものが2題あります。

 2-1-339歌:雑歌 沙弥満誓詠綿歌一首   造筑紫觀音寺別當俗姓笠朝臣麻呂也

 2-1-418歌:挽歌 上宮聖徳皇子出遊竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌一首  小墾田宮御宇天皇代墾田宮御宇者豊御食炊屋姫天皇也諱額田謚推古

⑧ 前者は、作者について、俗姓と赴任した「筑紫」での役職を注記しています。これは題詞記載の人物をさらに特定するものですが、歌の配列へのヒントになっているので、この注記タイプに整理しました。

 歌本文の五句にある動詞「みゆ」とは、「a物が目にうつる・見える」、「b(人が)姿を見せる。現れる」、「c人に見えるようにする。みせる」などの意があります(『例解古語辞典』)。

 表面的には「筑紫の綿はまだ身に着けたことがないが暖かく見える」と、大宰府管内産の綿(真綿)は機能がすぐれていると見えますよ、と詠っています。

 大宰府が都に送る綿は、品質が良いと朝廷より評価されていたようで、税(庸調)の物品として名があがっています。

 作者沙弥満誓は官人としてそれを知らない訳がありません。(大宰府に赴任して着てみて)承知しているはずにも関わらず、筑紫の綿の効用を伝聞のように詠っています。動詞「みゆ」の意はaです。

 前後の題詞とそのもとにある歌本文は、大宰府管内に赴任して来ている官人の望郷(あるいは望京)の歌が配列されています。そのように互いに披露できるのは、宴席での題詠だからだと思いますが、沙弥満誓は同席していてこの歌を披露した、と思います。

⑨ 望郷の歌が配列されているので宴席での歌としては随分と趣向を変えた歌と思えます。

 そうすると、沙弥満誓の歌は、直前の歌2-1-338歌などを受けて、筑紫の任を解かれて上京される方々は、「筑紫の綿」と同様に、都では有能な方と評価されていますよ、絶対。」、と同席の官人を慰めかの歌としているのではないか。動詞「みゆ」の意には、bもあります。

 次の憶良の歌(2-1-340歌)は、表面的には宴席の退出を詠っていますが、沙弥満誓の歌を承けて、「憶良等」と複数の者を主語として、筑紫を退出する即ち都に栄転する気分を詠っています。筑前守として赴任している憶良自身は亡くなる数年前であり、当時幼年の子が居るとは思えない年齢です。この頃でも単身赴任の官人も当然居たと思いますし、赴任してきている官人たちの気持ちを代弁して詠ったものといえます。

 このような理解は前者のような割注がなくともできますが、話題にした「綿」と作者の接点を指摘しているので、作者の活躍した時代(作詠時点)を紹介しているタイプの注記と整理したところです。

 このようなタイプの注記が巻四でも例外的な注記のタイプであり、巻三と巻四の割注が統一的にされているとすれば、作者の特定だけが目的というタイプの注記、と整理し直したほうが妥当かもしれません。

 沙弥満誓は、旅人の讃酒歌十三首の次にも一首配列され、酒に快く酔った気持ちを歌っています。

 なお、伊藤博氏は、「2-1-331歌~2-1-340歌は、小野老が神亀6年(729)3月従五位上となったお祝いの席の歌」と指摘しています。そして2-1-339歌を、前歌までを受けて「筑紫も捨てたものではないとの寓意がこもる」と指摘していますが、それでは次の歌2-1-340歌までを一連の歌と捉えていないことになります。お祝いの席の歌であれば、2-1-331歌は、「寧楽乃京師」と表記している歌であり、小野老の喜びが望郷の念に加わっており、また、師大伴卿の歌と題された5首の歌には、祝宴に列席した官人が披露した歌をその場で師大伴卿が助言した(添削した)形の歌も含まれていると理解してよいのではないか、と思います。

⑩ 作者の活躍した時代を紹介しているもう一つの割注が、後者の2-1-418歌の題詞にあるものです。

 歌は、挽歌の部の筆頭歌です。行路死人への「上宮聖徳皇子」が詠う挽歌となっていますが、次回検討します。(なお、挽歌の定義は、巻二の2-1-145歌の左注に従います)。

「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

(2022/2/14  上村 朋)

付記1.巻一~巻四における標目及び題詞に対する割注のある歌の一覧

 巻一~巻四における標目及び題詞に対する割注を下表に整理した。割注を概観すると、人物に対する注記が多いので、人物への言及の度合いの程度を区分している整理する。

 また、注記している人物が、女性と天皇の場合、それを特記している。

表 巻一~巻四における標目及び題詞に対する割注のある歌一覧 

(2022/2/14 現在  *印は注記参照)

割注のタイプ

巻一

巻二

巻三

巻四

 

単に天皇名を記す

「・・・天皇代」7代

2-1-13*天皇

「・・・天皇代」 8代

 

2-1-533*

天皇

 

当該人物の親子の関係・夫婦関係を記す

 

2-1-101*

2-1-102* 女

2-1-126*

2-1-129b*

2-1-401

 

2-1-521 女

2-1-522* 女

2-1-534* 女

2-1-535

2-1-559女

2-1-589女

2-1-627女

2-1-634*

2-1-646~ 女

2-1-672

2-1-697~女

 

 

当該人物の字・姓等のみを単に記す

 

2-1-110 女

2-1-129a* 女

2-1-313*

2-1-329*

2-1-525

2-1-628*

2-1-699*

2-1-765女

2-1-785

 

作者の活躍した時代を紹介している

 

 

2-1-339*

2-1-418* 天皇

 

 

 

作詠の経緯に触れる

 

2-1-112

2-1-318*

2-1-434

2-1-582~

2-1-724女

2-1-728~女

2-1-730~

 

古歌集出等と触れる

 

2-1-146

2-1-162

 

 

 

一書云・或云等と記す

2-1-32~*

2-1-34*

2-1-78*

 

 

 

 

未詳と記す・名欠と記す

2-1-7 女

2-1-150女

2-1-226

2-1-238女

2-1-248

2-1-290

2-1-302

2-1-674* 女

2-1-696

2-1-712 女

 

合計  (題(代を含む))

12題

(うち女1題)

18題

(うち女4題)

11題

(うち女1題)

24題

(うち女13題)

 

  • 歌番号は、『新編国歌大観』の『万葉集』による。
  • *印を付した歌について

 2-1-13歌:作者「中大兄」に注記して「近江宮御宇天皇」と記す。標目にある「近江大津宮御宇天皇」としていない。

2-1-32歌~&2-1-34歌:作者について題詞にいう人物と別人の名をあげる。

2-1-78歌:題詞に記していない作者について、名(太上天皇持統天皇)をあげる。

2-1-101歌:「平城朝」任大納言・・・と記す。「平城朝」は元明天皇の御代を指す。

2-1-102歌:「近江朝」大納言・・・と記す。「近江朝」は天智天皇の御代。

2-1-126歌:歌を贈った相手を注記する。

 2-1-129歌:作詠人物について女で当該人物の字・姓等のみを単に記す。また歌を贈った相手(男)について当該人物の親子の関係を記す。表では、前者を2-1-129a、後者を2-1-129bと示した。

 2-1-313歌&2-1-329歌:後に「賜姓大原真人氏」を注記する。

 2-1-318歌:題詞に「勅(みことのり)をうけたまわりて作る歌」とあるが、土屋氏は「従駕を命じられて、用意した歌であり公表の機会がなかった作」と割注を理解している。

2-1-339歌:本文参照 (この項2023/1/27追記)

 2-1-418歌:作詠者について注記せず、作詠者の御代の天皇を割注は紹介する。挽歌の部の筆頭歌であり、巻三の編纂者は作詠者を天皇に見立てているか。

 2-1-522歌:作者の子が「賜姓大原真人氏」とまで注記する。

 2-1-533歌:作者の天皇について「寧楽宮即位天皇」と注記する。贈った相手の注記はない。

 2-1-534歌:作者が「志貴皇子之女」と注記する。

 2-1-628歌:作者が後に「賜姓大原真人氏」と注記する。

 2-1-634歌:「志貴皇子の子」と注記する。

 2-1-699歌:作者が後に「賜姓高円朝臣氏」と注記する。

 2-1-674歌:女の立場で男の作者が2-1-673歌に和する歌。

(付記終わり 2022/2/14)

 

 

 

 また、注記している人物が、女性と天皇の場合、それを特記している。

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 再度1553歌その2 

 前回(2021/12/13)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 再度1553歌その1」と題して記しました。

 今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 再度1553歌その2」と題して、記します。(上村 朋)

1.~15.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行い、3-4-23歌まではすべて恋の歌であることを確認した。3-4-24歌については類似歌(『萬葉集』の歌)の検討のため『萬葉集』巻一と巻二の標目「寧楽宮」を検討している。なお、歌は『新編国歌大観』より引用する。)

16.再考 類似歌 その13 平城の人奈良の人寧楽の人

① 「寧楽」、「楢」、「名良」字を用いた都城の表記は「奈良」では表せない何かを込めて選ばれた文字による都城表記である、と2021/12/6付けブログの「14.⑪」で指摘したのち、2-1-1553歌の理解の再検討を示唆し、今再検討中です。

② 歌本文の「寧楽」表記で、都城(あるいはその宮)ではなく人物を修飾しているのはこの歌だけです。

 この歌本文の語句を前回再確認しましたので、次に、歌本文に「なら」+人物(像)」という表記のある歌の比較を試みます。

 『萬葉集』において、「「なら」+人物(像)」と詠う歌は、6首あります。

「寧楽人(之為)」が1首(検討対象の2-1-1553歌)、「平城(之人等)」が3首、「奈良(尓安流伊毛)」が2首です。

③ 3首ある「平城・・・」の歌を最初に確認します。

 巻七 雑歌 羇旅 2-1-1205歌

   玉津嶋 能見而伊座 青丹吉 平城有人之 待間者如何

   たまつしま よくみていませ あをによし ならなるひとの まちとはばいかに

 玉津島を詠う伝承歌です。雑歌の部立てにある歌なので、行幸とか公務中に関係深い歌と、とりあえず推測できます。

 玉津島とは紀伊国和歌の浦にあり、満潮時には6つの島山だけとなる干潟にあった島山の一つだそうです。『続日本紀』(神亀元年10月条)によればこの干潟近くに聖武天皇行幸がありしばらく滞在しています。行幸の目的は、自らが海に面する必要がある行事などを行うことだったのでしょうか。

 この歌は、羇旅と題している歌であり、風光明媚な景色をみたことを、旅の土産話にしなさいよ、と誘っている歌です(諸氏の現代語訳例は割愛します)。つまり、土地の者の詠う土地褒めの歌です。聖武天皇行幸があった地には公務のついでに官人は寄り道をしたのでしょうか。

 「平城有人」とは、平城京が居住地と定められている官人(とその家族)達のうちの誰か、であり、都が平城京にあったころが作詠時点と推測できます。作者にとり、平城京への思いは二の次の詠い方であり、熟語「寧楽」の意(安んじて楽しむ)を用いる特別な理由はないと思います。

④ 巻七の雑歌の配列を題詞で見ると、

「詠+〇」13題(〇は天に始まり鳥に終わる。計57首)

「思故郷」 1題(1首)

「詠+〇」 2題(〇は井と琴。各1首)

「地名+作」 3題(地名は、芳野・山背各5首、摂津21首)

「羇旅」  1題(計91首)

「問答」 1題(計4首)

「臨時」 4題(無題12首・就所発思3首・寄物発思1首・行路1首  計17首)

「旋頭歌」 1題(計24首)

の順に配列してあります。

 これらの歌を、天皇との関係でみるならば、公宴・行幸時の歌より公務の旅行時の歌のはずであり、その際の作者自作か官人が知り得た歌ということになります。

 「羇旅」と言う題詞の歌は、便りを運ぶと言われている雁を詠うものの地名は詠みこんでいない歌から始まります。歌本文における地名を追うと、おおよそ国ごとにまとまっています。その国の地名等が繰り返しでてくる場合もあります。

 この歌2-1-1205歌の前後は紀伊国の地名を詠み込んだ歌が並んでいます。「玉津嶋」表記のある歌は、この歌と2-1-1207歌および2-1-1212歌があります。前2首は間にある2-1-1206歌とともに、都への関心より眼前の玉津島(のある干潟)や海女に関心を向けている歌と言えます。

 2-1-1212歌は作者が「右七首者藤原卿作 未審年月」とある歌の一首です。卿とは、三位以上または大納言から参議の職にある人への敬称であり、藤原一族の誰かを指して「藤原卿」と言っている、とみられます。人物の特定ができないものの、高位の官人です。土屋氏は、この歌を「感じ方の卑俗なのが目に立ちすぎる」と評し、右七首には民謡風のもあり、始めから作者未詳の歌かと疑っています。

 配列からも、「平城有人」は、作詠時点の都城である平城京に居住する人物で以上の意を持ちこんでいない歌のようです。

⑤ 巻十 春相聞 寄花 2-1-1910歌

   梅花 吾者不令落 青丹吉 平城之人 来管見之根

   うめのはな われはちらさじ あをによし ならなるひとも きつつみるがね 

 この歌は、花に寄せた相聞歌です。相聞歌とは「相聞往来歌」とも称し、私的な感情を伝える歌の類という部立ての名称です。

 阿蘇氏は、現代語訳を次のように示しています。

 「梅の花を私は散らすまい。青土のよい奈良、その奈良の人も、たびたび来て見ることができるように。」

 渡来した梅は、どこにでもある自生の植物ではなく、愛でてしかるべきものとして植栽されたものであったのでしょう。だから、作者が官人(又はその家族)であるならば居住地である平城京でこの歌を詠んでいる、と推測できます。

 自宅の庭の梅が、見に来てくれないうちに散るかもしれないと作者は危惧しています。しかし、散るのを引き伸ばす手段は(当時であれば)風にあてないように花瓶に生けること以外は私に思いつきません。お待ちしていますと必死に哀願している作者未詳歌です。

 あるいは、梅が散らないうちに(時期に間に合わせて)結果を報告してくれるのでしょうね、とやんわり何かの催促をしている歌です。

 「平城之人」とは、前者であれば相手の居住地の都城名で婉曲に相手をさしています。後者であれば、「平城京を勤務地とするそれ相応の官人」の意であってもおかしくありません。いずれにしても当時の都城平城京を「平城」は意味します。相手への思いを熟語「寧楽」に託すのはためらう相手のようです。

⑥ 配列をみると、題詞「詠花」にある9首は、景物が、卯の花 梅の花 藤波、春野の花、奥山のあしびの花、梅の花、をみなへし、梅の花(当該歌)、山吹、と言う順に配列されています。梅の花を詠む歌が飛び飛びに3首あります。

 念のためその3首を確認します。

 配列2首目の2-1-1904歌は、その後天平20年春3月に、宴席で古歌として披露されています(2-1-4066歌)。招待された人の挨拶歌として用いられています。

 配列6首目の2-1-1908歌の四句「花尓供養者」(はなにそなへば)とは、神仏に奉る意です。梅の花としだれ柳を仏への供物として、恋人と逢うことを願おうという歌です。恋の成就を仏に願う歌は珍しいと阿蘇氏は指摘しています。

 配列の8首目の2-1-1910歌は、上記⑤に記しました。

 3首の作者とも、梅の花はその時期には観るべきものという確固とした意見を持っています。その梅の花都城に特別の関係はないようです。3首の比較からも上記⑤の結論は変わりません。

⑦ 巻十 秋相聞  寄花  2-1-2291歌 

   吾屋前之 芽子開二家里 不落間尓 早来可見 平城里人

   わがやどの はぎさきにけり ちらぬまに はやきてみべし ならのさとびと

 二句にある「芽子」(はぎ)とは、現在も8月から10月に咲く花です。当時も自生しており、この歌の作者は「吾屋」と呼べる建物に居るので、植栽した「芽子」かもしれません。開花している期間は梅とそんなに変わらないでしょう。作者が官人(あるいはその家族)であれば、居住地は平城京になります。その相手も官人(あるいはその家族)が有力なので、居住地はやはり平城京になります。もっとも、2-1-1553歌にあるような「庄」に滞在している場合もあるでしょう。

 五句「平城里人」とは、別の「里」に居る誰か(里とは諸氏によれば平城京の坊里の意)ではないか、と思います。時期の挨拶歌であれば、作者に近い人物として「庄」に居る兄弟姉妹が「平城里人」かもしれません。

 「ならのさとびと」に、居住する都城の意のほかに含意する必要はないでしょう。

⑧ 次に、2首ある「奈良・・・」の歌を確認します。ともに大伴家持の歌です。

  巻十八  2-1-4131歌 教喩史生尾張少咋歌一首幷短歌 ・・・

       (長歌2-1-4130歌と短歌2-1-4133歌までの題詞)

   安乎尓与之 奈良尓安流伊毛我 多不可尓 麻都良牟己呂 之可尓波安良司可

   おをによし ならにあるいもが たかたかに まつらむこころ 

   しかにはあらじか

 短歌のあとの左注に、「右五月十五日守大伴宿祢家持作之」とあります。

 天平感宝元年(749)五月十五日に越中守であった家持が重婚の罪を犯す疑いのあった部下を諭している歌です。「奈良」は平城京、即ち妻の居住する都城平城京を指します。居住地は簡明に示してよい歌です(現代語訳の例割愛)。

⑨ 巻十九 2-1-4247歌  九月三日宴歌二首(2-1-4246歌と2-1-4247歌二首の題詞)

   安乎尓与之 奈良比等美牟登 和我世故我 之米家牟毛美知 都知尓於知米也毛

   あをによし ならひとみむと わがせこが しめけむもみち つちにおちめやも

    右一首守大伴宿祢家持作之

 題詞にあるように宴席において2-1-4246歌(久米広縄作)に応えた歌がこの歌です。そのため、二句にある「奈良比等」とは4246歌を受けて広縄の妻、三句にある「世故」(背子)とは広縄であると多くの諸氏は指摘しています。単身赴任してきている広縄は、妻への言付けや物を朝集使など上京する者に頼める立場にいます。

 作詠時点は天平勝宝2年(750)9月です。

 土屋氏は大意を次のように示しています。

「アヲニヨシ(枕詞)奈良人が見るやうにと、吾が君がしろしめしたであらう紅葉は、地に落ちはしないであらう。」

 土屋氏は、「a奈良から近く来る人でもあって、共々にそれを待つ心持であらうか。広縄のワギモコを言って居ると見るべきか。bこの次の歌2-1-4248歌を伝誦した河辺朝臣東人は十月に越中に到着したのであらう。」と指摘しています。

⑩ 広縄の歌は次の歌です。

  巻十九 2-1-4246歌  九月三日宴歌二首(2-1-4246歌と2-1-47歌二首の題詞)

   許能之具礼 伊多久奈布里曽 和芸毛故尓 美勢牟我多米尓 母美知等里氐牟

   このしぐれ いたくなふりそ わぎもこに みせむがために もみちとりてむ

 左注に、「右一首掾久米朝臣広縄作之」とあります。

 土屋氏の大意を示します。

 「此の時雨よひどく降るなよ。吾妹子に見せようために紅葉を折り取らう。」

 吉村豊氏は、五句を「黄葉を取っておきたいから」と理解しています。

 五句にある「もみちとりてむ」とは、

 もみち(名詞)+とる(四段活用の動詞「とる」の連用形+完了の助動詞「つ」の未然形+推量の助動詞「む」の終止形

と理解できます。

 助動詞二つの「てむ」は連語となり、四句を考えればここでは「強い意思・意向を表す」意が適切です。

 動詞「とる」は、a取る・に持つ b執る・手にもって取り扱うc引き取るd穫る・採るe捕る などの意があります(『例解古語辞典』)。

⑪ 「和芸毛故」が平城京に居ると仮定すれば、「とる」ことをして後、どのようにして広縄は見せるのでしょうか。次に紅葉の葉を何枚かあるいは枝付きのままの葉を送るのでしょうか。送ったものから、越中の時雨に打たれている眼前の紅葉の景を「和芸毛故」は再現できるでしょうか。文字だけで(手紙と景を詠んだ歌だけで)想像をさせてもらったほうが余程広縄の感動を共有できるのではないか。

 この場合、この歌は反語であり、「「和芸毛故」の居る大和国ではみられない、見事な紅葉の景ですね」とその宴席からの眺めを褒めただけの歌ではないか、と思います。また、宴席で、上司の家持を前にして妻への思いがこみあげてきたかに詠うとは思えません。

 土屋氏が可能性を指摘している「奈良から近く来る人でもあって、共々にそれを待つ心持で」近く来るはずの人物を「和芸毛故」と仮定すれば、「とる」ことをしておいて、眼前の紅葉の景はこのようであったと、その人物に説明するのでしょうか。それは客をもてなす方法ではありません。

⑫ この広縄の歌に応じて、詠ったのが家持の2-1-4247歌となります。

 紅葉を楽しむ期間は1,2週間というものではありません。時雨で紅葉は進むとしても、強風に遭わなければ今がピークならば、見栄えは落ちるでしょうが、ピーク時の見事さを想起する状況が残る時期が続きます。

 越中の紅葉が時雨で落葉しないように、平城京で時雨が降っても落葉せず、紅葉を楽しめるでしょう。

 家持は、単身赴任している広縄の願いは通じて、平城京の自宅に居る広縄の妻も、(時雨に負けない)紅葉を愛でるであろう(二句にある「奈良比等美牟(登)」)、と応じたのであろう、と思います。

 広縄と家持が愛でた越中の紅葉は、一か月後に越中に来た河辺東人が、愛でることができたようです。このとき、家持は東人から藤原皇后(光明皇后)の詠った歌を聞き取っています(2-1-4248歌)。

⑬ 巻十九の歌の配列は、題詞や左注に記されている日時から推測すると、時系列の順といえます。

 この歌の前後の配列を確認すると、下記の表にようになります。対の歌として配列されているのは、長歌反歌の組合せである2-1-4244歌~2-1-4245歌および2-1-4251歌~2-1-4252歌並びに題詞で括られる2-1-4246歌と2-1-4247歌だけです。記されている日時をまたがって一つの課題の歌を書き留めているとは思えません(勿論歌に登場する季節は。共通に秋です)。

 題詞で括られた2首は整合性のある理解が上記のように得られました。

表 2-1-4247歌前後の配列検討 (2021/12/20現在)

歌番号等

作者

家持が書き留めた時点

歌を披露した席・相手

備考

2-1-4241

家持

天平勝宝2年(750)5月

不明

 

2-1-4252

家持

同5月

不明

 

2-1-4243

家持

同6月15日

不明

 

2-1-4244

在京の坂上郎女

同9月以前

越中の大嬢

長歌

2-1-4245

在京の坂上郎女

同9月以前

越中の大嬢

反歌

2-1-4246

広縄

同9月3日

宴席 家持

 

2-1-4247

家持

同9月3日

宴席 広縄

 

2-1-4248

藤原皇后

同10月5日聞き取り

宴席か

東人より

2-1-4249

家持

同10月16日

朝集使の餞時

 

2-1-4250

家持

同12月

不明

 

2-1-4251

三形沙弥

天平勝宝2年内 聞き取り

左大臣藤原北卿(房前)

長歌 広縄より

2-1-4252

三形沙弥

同上 聞き取り

同上

反歌 広縄より

2-1-4253

家持

天平勝宝3年1月3日

越中守舘の宴

 

注1)歌番号等:『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集雁号―当該歌集での歌番号

 

⑭ さて、「奈良(比等)」です。2-1-4246歌があって詠まれている歌にこの語句がありますので、官人の居住地と定められている「平城京」の意であり、そのほかの意を含意するものではない、と思えます。

⑮ 次に 「寧楽」表記の歌2-1-1553歌を検討します。歌を再掲します。

  巻八 秋雑歌 2-1-1553歌  

     典鋳正紀朝臣鹿人至衛門大尉大伴宿祢稲公跡見庄作歌一首

     射目立而 跡見乃岳辺之 瞿麦花 総手折 吾者将去 寧楽人之為

     いめたてて とみのをかへの なでしこのはな 

     ふさたをり われはもちゆく ならひとのため

 

 用いられている語句を前回(2021/12/13付けブログ)検討し直して、下表の「歌理解の(試案)」欄という結果を得ました。奈良の都に居る人のために四句にある「ふさたをり」と言う行為を特記すべく旋頭歌となっている、と理解したところです。六句にある「ならひと」の意が、下表の第2案(平城京を惜しんでいる官人)であれば、「寧楽」表記を用いる意義がある、と思います。

 

表 2-1-1553歌の句等ごとの検討結果と歌理解の(試案)  (2021/12/13現在)

語句の区分

第1案

第2案

歌理解の(試案)

題詞

作者強調

跡見庄強調

左の第2案

初句:いめたてて

有意の枕詞

無意の枕詞

左の第1案

二句:とみのをかへの

狩猟地

跡見庄

左の第1案

三句:なでしこのはな

秋の花ナデシコ

人物をも暗喩

左の第2案

四句:ふさたをり

たくさん手折り

夫差を取り除き

左の第1案

五句:われはもちゆく

持ってゆく

心に思い都にゆく

左の両案

六句:ならひと(のため)

平城京にいる特定個人

平城京を惜しんでいる官人

左の両案

⑯ 題詞を無視して、上表の「歌理解の(試案)」欄に従い、この歌本文の現代語訳を試みます。

 初句「射目立而」とは、有意の枕詞としてその語句通りに理解すると、「柴などを立てまわしたりして遮蔽物が出来上がっていることを言っている」こととなり、それは狩において「射手が待つところ」です。

 二句「跡見乃岳辺之」の「跡見」とは地名にもありますが、もともとは、狩の際、獲物の跡を見て居場所を突き止める役の者を言います。

 (小高い丘を意味する)「をか」を書き留めるのに用いている漢字は、巻八では「丘」より「岳」が多く、この二つの漢字の意義は意識していないで用いられている、とみることができます。そうすると、二句は、「跡見をする者が配置されている丘のあたり」という理解が可能です。

 だから初句~二句は、「狩をする射手が居て獲物の動きを報告する者もいる丘の周辺(の)」と理解できます。そのような狩をする丘の所在地は、跡見庄という人家や農地があるところから離れていて然るべきです。少なくとも、二句までには明確に示されていない、という理解ができます。

 三句「瞿麦花」は、その丘周辺に咲いているナデシコをいっています。さらに、その丘にいる人物の暗喩の有無はわかりません。三句で旋頭歌の前半が終わります。

 四句「総手折」とは、「たくさん手折り」と理解します。「ナデシコがたくさん咲いている景が前提の表現であり、農地でもなく、家が立ち並んでいる(居住している)景でもない、ということです。

 五句「吾者将去」 にある漢字「将」は、漢文では助字として「まさに・・・せんとする」意を表します。五句のこの表記は過去形ではありません。

 六句「寧楽人之為」とは、「奈良」では表せない何かを込めて選ばれた文字」として「寧楽」表記にして書き留めている、とみるので、「恭仁京へ遷都後の平城京を惜しんでいる官人(とその家族)たちのために」となります。

⑰ 旋頭歌の前半部(初句~三句)で詠った情景を前に、旋頭歌の後半部は、作者が行える行為を数えあげているのではないか。そして、六句より、作詠時点は恭仁京へ遷都後となります。

 このため、歌本文の現代語訳を試みると、次のとおり。

 「狩をする射手が居て獲物の動きを報告する者もいる丘の周辺に咲いているナデシコの花。そのナデシコの花をたくさん手折り、持ってゆこうか、恭仁京へ遷都後の平城京を惜しんでいる人たちのために(あるいは特定の人のために)。」

 題詞を無視してかつナデシコに積極的暗喩を認めないこの理解は、平城京が荒廃したらこのようになる、と詠った歌ではないか、と思えるような(試案)となりました。

 すこし六句を意訳して改訳したいと思います。

 「狩をする射手が居て獲物の動きを報告する者もいる丘の周辺に咲いているナデシコの花。そのナデシコの花をたくさん手折り、持ってゆこうか、平城京を後にした人のために。」(以下1553歌別訳、と略称します。)

 その丘は恭仁京へ遷都したら想像できる平城京(跡)ではないか。旋頭歌の後半部の最初にあたる四句「総手折」は、「平城京の荒廃」を象徴する行為であり、旋頭歌と言うスタイルが生きている、と思います。

⑱ 歌本文がこのような理解となったとき、題詞はどのように理解できるか。

 歌本文の「跡見乃岳辺」を「跡見庄」(の近くの丘)」と題詞は地名として記している、としか理解できません。

 題詞の現代語訳は、ブログ2021/11/29付け「13.⑧」の(試案)が素直である、と思います。すなわち、

 「典鋳正(役職名)紀朝臣鹿人が衛門大尉(役職名)大伴宿祢稲公の跡見庄(とみのたどころ)に至って作る歌一首」

 ただし、題詞に登場している人物の肩書が時系列上矛盾するという指摘もあり、跡見庄が、大伴宿祢稲公が自由に使える庄であったかどうかも定かではありません。

 それでも、地名を特定した題詞に、上記の1553歌別訳は、そぐわない理解ということになります。

 初句を無意の枕詞と割り切った歌とみれば、「跡見庄」近くに咲いているナデシコを持ち帰る歌(庄近くで咲いている花を平城京の居宅に居る者への手土産とする歌)になります。作詠時点は、平城京が都であった頃、となります。

 現代語訳を試みると、初句は「跡見」にかかる無意の枕詞と割り切りますので、つぎのとおり。

「跡見庄の丘の周辺に咲いているナデシコの花。そのナデシコの花をたくさん手折り、持ってゆこうか、平城京からここに来られないでいる人のために。」(以下1553歌新訳と略称する)

 これは、題詞を無視すると、初句の語句も意のある語句と理解した上記の1553歌新訳を、導けるままにしていることになります。1553歌別訳は元資料の歌の意であったのでしょうか。

 歌本文の現代語訳(試案)については、このように、雑歌の部立ての歌で恋の歌以外の理解となった上記の1553歌新訳を採り、同ブログ「13.⑨」の(試案)は撤回します。

⑲ 前後の配列から、確認します。

 2-1-1551歌~2-1-1554歌は小歌群を成す、と同ブログで推測しました。

 2-1-1551歌は、前回ブログ2021/12/6付け「15.⑤」で、「旋頭歌として歌を披露する必然性がある」と指摘し、これから同じ旋頭歌である2-1-1553歌は、1553歌別訳にたどりつきました。

 2-1-1552歌は、ブログ2021/11/29付け「13.⑩」で、土屋氏の(二句を「をそろはうとし」と訓む)訳を示しました。

  「咲く花も真実のないのはうとましい。遅く実のなる花の、長くつづく心には、やはり及ばない。」

 この歌は、題詞には「はぎ」と明記してありますが歌には花の名を詠いこんでいない歌です。

 花は、人物の暗喩にも都城の暗喩にもなり得るところです。

 2-1-1554歌は、同「13.⑪」で、「ハギが散り乱れるほど咲いているのに、(近くに来ないで)遠くで鹿が鳴いている、と第三者の立場で詠っている」と指摘しました。ハギに「平城京」の意を重ねていると見ることが可能な歌であり、鹿に聖武天皇を重ねることができます。しかし、皇統が聖武天皇系(あるいは天武系)の時代にはこのような理解を可能とする配列を『萬葉集』に編纂者ができるでしょうか。

 この小歌群を、巻八の編纂者はそれでも収載しています。それは、秋の花を詠っている歌であるとともに、2-1-1551歌の旋頭歌をきっかけに都ではなくなった平城京を詠っている歌が続いている、という理解の回避に編纂者は自信があったのではないか、と思います。

 その工夫の一つが、この4首の題詞ではないか。人物名のみの題詞が多い秋雑歌で、2-1-1552歌から2-1-1554歌は連続して、詠う対象や作詠場所を付け加えた題詞となっています。

⑳ 何故このような理解可能の歌をここに配列しているのか、及び1553歌別訳が元資料の理解かどうかは、巻八の配列・構成を解明する際に改めて検討することとし、今は、「寧楽」の検討として、そのような暗喩も読み取れる歌が2-1-1553歌である、という理解に達した、としてさきに進みます。

 そうすると、2-1-1553歌の「寧楽人」とは、題詞に留意し作詠時点を都が平城京にある時の歌として「平城京に居住している家族」の意に「平城京を惜しんでいる官人」(それは「平城京退去を迫られた官人家族」といえる)の暗喩もある、という理解となります。時代が経ち、編纂時点では、恭仁京遷都後には別の理解も生じたとされる歌であると考えても、公表できる歌になっていた、という理解です。

 

17.再考 類似歌 その14 再考 平城の人奈良の人寧楽の人のまとめ

① ここまでの、「なら+(人物(像))」表記のある歌の検討結果を、作者の立ち位置に留意してまとめると次の表になります。

表 『萬葉集』で「なら」+人物(像)」という表記のある歌 (2021/12/20現在)

歌番号等

「なら」の表記

左欄の意

歌の趣旨

作者の立位置

2-1-1205

平城有人

平城京在住者(官人とその家族)

紀伊の玉津島を詠う土地褒めの歌

作者は玉津島に定住している人物

2-1-1553

寧楽人

平城京在住者及び暗喩に平城京退去を迫られた官人家族

たくさん咲いている花をたくさん持ち帰ると詠う歌(1553歌新訳)

作者は「跡見の丘」に来ているとしている

2-1-1910

平城之人

平城京在住者で作者の待ち人

訪問・報告を願う歌

作者も平城京在住者か

2-1-2291

平城里人

平城京在住者でかつ歌を贈る相手

伝承歌

作者も平城京在住者

2-1-4131

奈良尓安流伊毛

平城京在住者である部下の妻

重婚の疑いある部下を教え諭す歌

作者と部下は任地に居る

2-1-4247

奈良比等

単身赴任してきた部下の妻で平城京在住者

宴席での前歌の応答歌

作者と部下は任地に居る

注1)歌番号等:『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

② このように、「「なら」+人物(像)」と詠う歌6首のうち、「寧楽人」という表記にだけに暗喩の可能性がある、と認められるような歌として、『萬葉集』に記されている、と言えます。

 上記「16.①」にいう、「寧楽」、「楢」、「名良」字を用いた都城の表記は「奈良」では表せない何かを込めて選ばれた文字による都城表記である、ということに例外はない、といえます。

 「寧楽」表記には、平城京を「理想の都城」とみなすような感情をこめているようにみえます。

 

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を今年もご覧いただき、ありがとうございます。

 ブログは年末年始お休みし、「寧楽宮」の検討を続けます。

 新型コロナウイルスはまだ終息していません。またワクチン接種をうけ、皆さまとともに次の大波が回避できたらよい、と思います。

皆様 良い年をお迎えください。

(2021/12/20  上村 朋)

 

 

わあかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 再度1553歌その1 

 前回(2021/12/6)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 歌本文の「なら」」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 再度1553歌その1」と題して、記します。(上村 朋)

1.~14.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行い、3-4-23歌まではすべて恋の歌であることを確認した。3-4-24歌については類似歌(『萬葉集』の歌)の検討のため『萬葉集』巻一と巻二の標目「寧楽宮」を検討している。なお、歌は『新編国歌大観』より引用する。)

15.

再考 類似歌 その12 再び「寧楽人」

① 「寧楽」、「楢」、「名良」字を用いた都城の表記は「奈良」では表せない何かを込めて選ばれた文字による都城表記である、と前回(ブログ2021/12/6付け「14.⑪」)指摘したのち、2-1-1553歌の理解の再検討を示唆しました。

 この歌は、2-1-1550歌~2-1-1554歌という小歌群に属する(雑歌の部立てであるのに)恋の歌であり、女性(の関係者)に決意表明をしている歌という、個人的な事柄に関する歌です。それなのに、作者あるいは『萬葉集』編纂者が、なぜ「寧楽」表記を選んだのか、というとまどいです。

 その歌を、再確認します。

② 歌本文の「寧楽」表記で、都城(あるいはその宮)ではなく人物を修飾しているのはこの歌だけです。

 この歌本文の語句を再確認し、歌本文に「なら」+人物(像)」という表記のある歌の比較を試みます。

 歌を再掲します。

巻八 秋雑歌 2-1-1553歌  典鋳正紀朝臣鹿人至衛門大尉大伴宿祢稲公跡見庄作歌一首

     射目立而 跡見乃岳辺之 瞿麦花 総手折 吾者将去 寧楽人之為

     いめたてて とみのをかへの なでしこのはな ふさたをり 

     われはもちゆく ならひとのため

 この歌は、ブログ2021/11/29付けで、次のように理解しました。

 題詞:「典鋳正(役職名)紀朝臣鹿人が衛門大尉(役職名)大伴宿祢稲公の跡見庄(とみのたどころ)に至って作る歌一首」 (同ブログ「13.⑧」)

 歌本文:「狩場の射目のように囲ってあって、良く見える跡見にある丘にあるのに見えない「なでしこの花」。それを、是非手折って私は持ってゆく、奈良の都に居る人のために。」 

 前回は、この歌の前後が短歌であるのに旋頭歌であること、そして、奈良の都に居る人のために「ふさたをり」と言う方法で準備をして、持ってゆくのだ、と言っていることの検討が、不足していました。

 

③ 巻八「秋雑歌」には、長歌はなく筆頭歌から短歌です。 例外はナデシコをともに詠いこんでいる2-1-1541歌とこの歌および(この歌もある小歌群にある)2-1-1551歌の3首だけです。

 2-1-1541歌は、「山上憶良秋野花歌二首」と題する小歌群の2首目の歌です。いわゆる秋の七草の名を並べただけの歌です。

 この小歌群について土屋氏は、「短歌と旋頭歌を並べて、一つの内容を現はすといふ新しい工夫はあるが、内容そのものは、全くの記載文であって、別に取り上げる程の特色もないものである。旋頭歌としても並べた物の名の音数により限定されて、さうする外なかったのであらうか」と評しています。七首を詠み込むと音数が確かに短歌にあいませんでした。

④ では、2-1-1551歌は、「音数」に限定されて旋頭歌になったかというと、そのようなことはなく、短歌を旋頭歌に仕立てなのではないかと思える歌にみえます。

 

2-1-1551歌: 藤原朝臣八束歌一首

   棹四香能 芽子二貫置有 露之白珠 相佐和仁 誰人可毛 手尓将巻知布

   さをしかの はぎにぬきおける つゆのしらたま あふさわに 

   たれのひとかも てにまかむちふ

 土屋氏は、「内容はつまらぬことである。旋頭歌の形に興じて作ったに過ぎぬものであらう。「あふさはに」は調子のための,囃し言葉ではないかとさへ疑はれる」と指摘しています。この歌を藤原八束が披露した場所・日時を特定したりしていませんので、歌に物語性が生じていません。

 吉村氏は、「人妻を誰が気軽に誘うのかという寓意。宴席の歌」と指摘しています。

 吉村氏の理解であれば、例えば次のような短歌でも作者の考えを示せます。

さをしかの はぎにぬきおける しらたまを たれのひとかも てにまかむちふ

 それを旋頭歌にして詠っているのは、「あふさわに」に何か特別な意味を付与しているのではないか、と疑います。

⑤ 「あふさわに」が囃し言葉であれば、「あふさわに」をいれた歌(短歌や旋頭歌)がいくつもその宴席で詠われ舞が演じられたのでしょう。

 「しらたま」が誰を暗示しているか不明ですが、手に巻きたいと詠うのと手に巻かないと詠うのでは「しらたま」の評価が反対になります。女性であれば愛想のある人物か無愛想の人物かがはっきり分かれます。

 「しらたま」がその場で話題となった事柄(官職・天皇上皇の寵遇など)であれば、作者は一般に処世のためには否定的に詠うでしょう。

 題詞に作者として明記された藤原八束の立場であれば、否定する度合い(を示す語彙)の選択が重要ではないでしょうか。そうすると、上句のように「しらたま」の状況を説明してしまうと、「あふさわに」という語句は省けない語句となります。「音数」に限定されて旋頭歌になったといえます。

 「あふさわに」は、宣長の説(なほざりの意)が無難ではないかと土屋氏は指摘し、小島氏らは「深い考えもなく・無造作に」と理解しています。

 「さをしかの はぎにぬきおける しらたま」とは誰と誰を暗示しているのでしょうか。

 旋頭歌として歌を披露する必然性があり、囃し言葉を用いたのではない、と思います。

 作者藤原朝臣八束は、父が藤原房前藤原永手の弟にあたり、聖武天皇に寵遇を受けた人物です。天皇の命により特別に上奏や勅旨を伝達する役目を担ったといいます。 兄よりも先に天平20年参議に任じられ、天平神護2年(766)没しています。

 なお、この歌は、巻八の秋雑歌にある歌であり、七夕歌3首の次に配列されていますが、七夕歌と対になっているようにはみえない歌です。

⑥ 次に、この歌2-1-1553歌は、「総手折」(ふさたをり)が必然の語句であるならば、「音数」に限定されて旋頭歌になったのであろう、と思います。

 この歌が、「瞿麦花」(なでしこのはな)を、「吾者将去 寧楽人之為」(われはもちゆく ならひとのため)を「吾は持ち行く・・・」と理解しそれが詠う目的であれば、「総手折」(ふさたをり)は省いても意は通じます。だから、初句「いめたてて」は「とみ」の枕詞として、次のような短歌でもよい、と思います。

   いめたてて とみのをかへの なでしこを われはもちゆく 

   ならひとのため

 それを、旋頭歌に仕立てているのは、「総手折」という手順も重要である、という作者(あるいは編纂者)の意図なのではないか。この推測が正しければ、題詞や前後の歌との関連などを検討することでわかるはずです。読者に理解してもらわなければならないのだから編纂者はヒントをそれらにちりばめているはずです。

⑦ 題詞より検討します。登場する人物の肩書が時系列上矛盾するという指摘があります。歌を詠んだ場所まで明記しているのに登場人物の関係を誤っているかにみえるのに、編纂者は、沈黙しています。それについて左注はありません。題詞に作者名のほかに特記した場所(跡見)には何かを掛けているのか題詞だけでは判断に苦しみます。

 歌の初句を有意の語句として前回は、歌を理解しました。それは、「ふさたをる」ナデシコを、特定の場所でかつ特殊な用途の設備を設けた時期におけるナデシコであると、限定しています。歌の初句を枕詞と割り切っても、特定の氏に関係深い庄に咲いているナデシコであって、産地を限定しています。

 有意の語句とすれば、地名よりも「初句」の語句の意味するところを重視することになり、題詞は、「初句」の語句を用いるために作詠地点をあげたことになります。そして、跡見庄近くで狩猟するのは、ナデシコの咲くころと言う時期に関係なく、庶民(公民など)を苦しめることになります。そもそも跡見庄の近くでの狩猟は避けてしかるべきであり、異常なことをしていることを詠っていることになります。これからも、初句は無意の枕詞に割り切るという理解もあり得ます。

 ナデシコに人物の暗喩があれば、狩猟場に登場する人物、あるいは、「撫でし子」(女性など)ではないか、とみることができます。

⑧ 四句にある「ふさたをり」とは、「ふさ」+「たをる」と分解できる語句です。二つの意があります。

 第一 「ふさ」が、形容動詞の語幹であって、数多いさまを表し、「ふさたをる」とは、たくさんのナデシコを手折る意。

 第二 「ふさ」が、人名「夫差」であれば、「ふさたをる」とは、「夫差」を挫折させる意です。「た(をる)」は、語調を整える接頭語と理解できますので、「夫差」のような人物(国を滅ぼすような国王)に翻意を促す意。

 「夫差」は中国の春秋時代の呉王であり、臥薪嘗胆した人物ですが、臣下の伍子胥を自殺に追い込み、越に負けて呉の最期の王となった人物です。

⑨ 五句にある「もつ」には、「手にとる」とか「所有する」とか「心に思う・心中に思う」の意があります。漢字「将」は漢文では助字でもあり、「まさに・・・せんとする」とか「ひきゐて」とか「もって」とかの意があります。

 次に、最後の句(六句)にある「寧楽人」とは、

第一 いつの時代にも通じる、平城京に居を構えている官人(とその家族)、

第二 平城京に居を構えている作者にとり縁の深い特定の官人(またはその家族の一人)、

第三 恭仁京へ遷都後の平城京を惜しんでいる官人(とその家族)

第四 聖武天皇平城京の主人)

 「奈良」では表せない何かを込めて選ばれた文字」として「寧楽」表記に拘っているとしたら、上記のうちの第三の意が有力な候補となります。第四であるならば、題詞がもっとすっきりした「某の作る歌」で足りるので除外できると思います。

⑩ そして前後の歌の配列を検討すると、部立て「秋雑歌」にある数少ない旋頭歌は、意を尽くすため、かつ音数から旋頭歌になっていると理解できます。

 また、2-1-1551歌以下3首は秋の景としてハギとナデシコと1種類を取り上げており、直前の小歌群が行事である七夕、直後の小歌群が2種類を取り上げており、小歌群として配列されていると見てよい、と思います。そして3首には、語意に悩む語句がそれぞれあります。(「あふさわに」、「をそろはうとし」、「ふさとをり」)。その語句が歌の理解にキーポイントになっているかに見えます。

⑪ これらを句ごとに整理すると、次の表となります。第三の意で歌の理解を試みる場合も示します。

表 句等ごとの検討結果と歌理解の(試案)

区分

第1案

第2案

第3案

歌理解の(試案)

題詞

作者強調

跡見庄強調

 

左の第2案

初句:いめたてて

有意の枕詞

無意の枕詞

 

左の第1案

二句:とみのをかへの

狩猟地

跡見庄

 

左の第1案

三句:なでしこのはな

秋の花ナデシコ

人物をも暗喩

 

左の第2案

四句:ふさたをり

たくさん手折り

夫差を取り除き

 

左の第1案

五句:われはもちゆく

持ってゆく

心に思い都にゆく

 

左の両案

六句:ならひと(のため)

平城京にいる特定個人

平城京を惜しんでいる官人

 

左の両案

 

 

 

 

 

 

⑫ 六句にある「ならひと」の意が第2案(平城京を惜しんでいる官人)であれば、「寧楽」表記を用いる意義がある、と思います。

 その場合、上表の「歌理解の(試案)」欄でこの歌を理解できるようにしている、と思います。

 上記②に示した2-1-1553歌の現代語訳(試案)の評価は今、保留します。

 『萬葉集』における「「なら」に居る人物」と詠う歌との比較は、次回したい、と思います。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

(2021/12/13  上村 朋)

 

 

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 歌本文の「なら」

 前回(2021/11/29)、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 歌本文の寧楽」と題して記しました。

 今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 歌本文の「なら」」と題して、記します。(上村 朋 2022/3/2、付記1.に脱落していた「表G 万葉集で「平城」表記一覧 附「奈良」表記」追記した。)

1.~13.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行い、3-4-23歌まではすべて恋の歌であることを確認した。3-4-24歌については類似歌(『萬葉集』の歌)の検討のため『萬葉集』巻一と巻二の標目「寧楽宮」を検討している。なお、歌は『新編国歌大観』より引用する。)

14.再考 類似歌 その11 「寧楽」の歌本文での用例 その2

① 類似歌2-1-439歌の重要な参考歌(2-1-228歌)の理解のため、『萬葉集』歌での「寧楽宮」表記の意を確認中です。

 今回は、歌本文の万葉仮名を「なら」と訓む地名等のある歌を検討します。ひろく『新編国歌大観』において「なら」と訓んでいる表記(寧楽、平城、奈良、平、楢など)で地名等を指す用例は、53首に54例あり、付記1.の表Fのとおりです。

 表Fは、配列と題詞に留意して検討した歌意に従い、推測した作詠時点も記載しています。2-1-29イは歌の一部ですが、1首とカウントして整理してあります。

② 歌本文で「寧楽」表記の「なら」は、7例あり、前回(ブログ2021/11/29付け)などでその意を検討しました。そのほかの表記も対象に表Fから整理すると、次の表1.となります。

表1. 『萬葉集』歌本文での訓「なら」が名詞系の場合、その表記別意味別一覧 (2021/12/6 現在)

意 味 区 分

   表記の 区 分

計(例)

 

寧樂

平城

奈良

名良

 

奈良山丘陵(奈良盆地北端)の峠

 1

 0

 0

 0

 0

 0

 0

 1

都城の宮

平城宮相当+α)

 1

 0

 0

 0

 1

 0

 0

 2

都城の宮

平城宮

 0

 0

 0

 0

 1

 0

 0

 1

都城平城京+α)

 3

 0

 0

 0

 0

 1

 0

 4

都城平城京

 2

 9

21

 0

 0

 0

 0

32

奈良山丘陵(奈良盆地北端)

 0

 0

 4

 6

 2

 0

 1

13

明日香の丘の名

 0

 0

 1

 0

 0

 0

 0

 1

 合 計

 7

 9

26

 6

 4

 1

 1

54

注1)『新編国歌大観』記載の『萬葉集』で、句頭の表記文字の訓が「なら」とある歌で、その意が都城・地名・山名と思われる歌を集計した表Fより、作成した。

注2)「+α」とは、当該表記が漢字としての意(例えばを熟語「寧楽」など)が加わっている意。

 

③ 「寧楽」表記との比較は、後程改めて検討することとします。

 最初に「平城」表記をみると、9例あり、すべて都城である「平城京」の意でした。

 「平城宮」の意の例は、ありませんでした。『続日本紀』には「平城宮」(ならのみや)に行幸など(巻四和銅2年8月辛亥(28日)条、同和銅2年12月丁亥(5日)条)という記述があります。

 平城遷都の詔(巻四和銅元年2月戊寅(15日条)では、「平城(へいぜい)之地 四禽叶図 三山作鎮・・・」とあり、「なら」と訓んでいません。詔の文章という制約があっての訓なのか、それともその地が中国の「平城」(付記2.参照)という都市になぞらえられるという意なのか、わかりません。歌本文の「平城(京師など)」はみな「なら(のみやこ)」と訓まれています。

 巻別に整理すると、下記の表2.のようになります。巻一と巻二に「平城」表記の歌はありません。「平城」という表記そのものは早くても平城遷都前後から用いられはじめたはずですので、巻一と巻二に平城京遷都(710)後の歌もあるので、記載があってもおかしくありません。しかし、積極的に避けて編纂したのか、適切な歌がなかっただけなのか、不明です。

 「平城」表記で最も早い作詠時点は、作者明記の歌では2-1-997歌の養老2年(718 大伴坂上郎女)です。作者名の明記がない歌では、当然ながら2-1-2291歌などの平城京遷都後となります。

 また、「あをによし」と訓む修飾語がある「平城」表記が4首あります。「平山」(ならやま)の修飾語として平城遷都以前から「あをによし」が既にありました(例えば柿本人麻呂の2-1-29歌)ので、「なら」と訓む「平城」も修飾したのでしょう。この場合、「青丹吉」と色彩を強調しているかの表記ばかりです。

 なお、漢字としての「平城」の意は、ブログ2021/10/18付け「6.④」で確認したところです。

表2.『萬葉集』歌本文にある「平城」の意別巻別一覧(作詠時点の推計あり) (2021/12/6 現在)

「平城」の意味

巻一と巻二の歌

巻三と巻四の歌

巻五以降の歌

平城宮相当+α

無し

無し

無し

平城京+α

無し

無し

無し

奈良山丘陵の峠 

無し

無し

無し

平城京

 (9例)

 

平城京乎2-1-333(大伴四綱)天平2以前

(青丹吉)平城有人之2-1-1205(作者未詳伝承歌) 平城京遷都後 

(青丹吉)平城之人2-1-1910(作者未詳伝承歌) 平城京遷都後 

平城里人2-1-2291(作者未詳伝承歌か。)平城京遷都後

(青丹吉)平城之明日香乎2-1-997(大伴坂上郎女)養老2年以降

平城京師2-1-1643(大伴旅人) 師在任中

(青丹与之)平城京師由2-1-4269(作主未詳) 天平5

平城京師之2-1-1049(作者不審)天平12以降

平城京師者2-1-1051(田辺福麻呂歌集中の歌)天平12以降

計 9例

無し

1例

8例

注1)歌は、『新編国歌大観』の巻数―当該巻の歌集番号―当該歌集の歌番号で示す。

注2)付記1.の表Fより作成。

 

④ 次に、「奈良」表記をみると、26例あります。「平城京」の意が21例を占めます。そのほかは奈良山丘陵の意が4例、明日香にある丘の名の意が1例です。

 巻別に整理すると、次の表3.が得られます。巻一と巻二には、1例あり、「奈良山丘陵」を意味する2-1-17歌で、その作詠時点は平城京遷都以前です。「奈良」表記でも「平城京」の意の例が巻一と巻二にない、ということです。

 なお、漢字「奈」と「良」の意は次のように漢和辞典に説明があります。

奈:a木の名。柰(だい べにりんご)bいかん。いかんせんc如に通ずd姓のひとつ。など。

 熟語として、「奈河」(死後に行く血の河)、「奈良」(大和国の地名。寧楽・乃楽・平城)などの説明があります。中国古典に「奈良」という熟語の用例はないようです。

 良:aよくbまことにcふかいdはなはだ などなど。

 熟語として、「良策」、「良友」、「良師」、「良死」(寿命を全うしてしぬこと・よい死にざま)、「良心」などを説明しています。

 

表3. 『萬葉集』歌本文にある「奈良」の意別巻別一覧(作詠時点の推計あり) (2021/12/6 現在)

「奈良」の意味

巻一と巻二の歌

巻三と巻四の歌

巻五以降の歌

作詠が710年~739年

作詠が740年~

平城京+α

無し

無し

無し

無し

平城京

 (21例)

無し

無し

2-1-810&2-1-812 神亀5年(728)

ほか計9例

2-1-1050歌 740以降

ほか計13例

奈良山丘陵

  (4例)

2-1-17歌

(662~667)

無し

2-1-1642歌 729以前

2-1-3858歌 神亀年間

2-1-2320歌 時点不明

 

明日香の丘の名

  (1例)

 

 

2-1-1510歌 恭仁京遷都後

 

計 26例

1例

無し

12例

13例

注1)歌は、『新編国歌大観』の巻数―当該巻の歌集番号―当該歌集の歌番号で示す。

注2)付記1.の表Fより作成。

 

「あをによし」という修飾語が4例あり、すべて「青丹吉(与之)」という表記です。「青」と「丹」という色を強調したかの表記です。

⑤ 次に、「平」表記の歌をみると、6例すべてが「平山」表記であり、「奈良山丘陵」の意でした。都城名に「平」を用いて「なら」(のみやこ)と訓む歌は『萬葉集』にありません。

 作詠時点は、柿本人麻呂作の2-1-29歌と2-1-29イ歌が藤原京遷都(694)以前(巻一記載)であり、2-1-2492歌と長歌2-1-3251歌が作者未詳で作詠時点不明であり、残りの2-1-1589歌と2-1-1992歌が天平10年作の歌です。都城が明日香にある時代から、「奈良山丘陵」に対して継続的に「平山」という表記は用いられていた、とみることができます。

⑥ 次に、「楢」表記の歌は4例あり、その意は3種ありました。

 「都城の宮(平城宮)+α」の意は、1例2-1-79歌があり、巻一にある平城京造営中の歌です(ブログ2021/11/1付け参照)。「+α」とは、「あをによし」とは程遠い「楢」の木々の目立つまだ出来上がっていない都城の形容の意も含んでいる、と理解したところです。

 二番目に、「奈良山丘陵」の意は、2例2-1-596歌と2-1-3254歌であり、天平時代の作です。

 三番目に、「平城宮」の意は、1例2-1-3244歌でした。2-1-3244歌の理解は土屋文明氏の理解に従いました。天平末期の作であり、奉幣使を詠う歌です。天皇に拝謁後の出発なので「平城宮」の意で「楢従出而」と表記されている、と理解しました。

 この歌を、多くの諸氏は、初句「帛〇(口偏に旁が刀)」(みてぐら)は二句にある「楢」の枕詞とみて、吉野行幸時の道中を詠う歌と理解しており、それによれば、単に「都を出発して」という理解となり、「楢」は、「(平城)宮」ではなく「平城京」を意味することになります。(諸橋轍次大漢和辞典』に「帛〇(口偏に旁が刀)」の「〇」字はありませんでした。)

⑦ 次に、「名良」表記は、2-1-1051歌の1例だけです。左注に「右廿一首田辺福麻呂之歌集中出也」とある「悲寧楽故郷作歌一首并短歌」と題する歌です。作詠時点を天平12年以降と推測した歌です。

 題詞にある「寧楽故郷」の「寧楽」の意を、ブログ2021/11/22付け「12.⑩」以下で検討しました。

「寧楽」は、「故郷」と同格の名詞であると同時に、「故郷」の形容詞ではないかとして、題詞の現代語訳を

「「なら」と呼ぶ「ふるさと」そして「安んじて楽しむ」と評価できる「ふるさと」を悲しんで作る歌一首・・・」(同「12.⑬」)と試みました。

題詞にある「寧楽故郷」の「故郷」とは、歌本文でいう「古京」である平城京と言う都城を、歌を詠む時点から振り返り、作者が以前住んでいたところを指す表現である、と思います。「寧楽」の意は、「平城京+α」とみたところです。

⑧ 長歌である2-1-1051歌本文には、「なら」表記が、「名良乃京矣」のほかもう一例(「平城京師」)あります。

 歌本文から「なら」表記に関する部分を引用します。

 2-1-1051歌 (抜粋)

八隅知之 吾大君乃 ・・・ 千年牟兼而 定家矣 平城京師者 炎乃 春尓之成者 ・・・ 万世丹 栄将往迹 思煎石 大宮尚矣 恃有之 名良乃京矣 新世乃 事尓之有者 ・・・

やすみしし わがおほきみの ・・・ ちとせをかねて さだめけむ ならのみやこは かぎろひの はるにしなれば ・・・ よろづよに さかえゆかむと おもへりし おほみやすらを たのめりし ならのみやこを あらたよの ことにしあれば ・・・

 

 阿蘇氏は次のような現代語訳を示しています。

 「天下をあまねく支配しておいでになるわが大君が、・・・千年万年の将来までもお考えになってお定めになったと思われる奈良の都は、かぎろいの立つ春になると、・・・ (天地の寄りあう遠い)行く末までこの都は栄えて行くであろうと、そう思っていたこの大宮すら、頼みにしていたその奈良の都すら、新しい時代の事とて・・・」

 長歌の最初には千年万年も見通して造営した「平城京師」と詠い、次には遷都で捨て去ろうとする都城を「名良乃京」と言い換えています。題詞にある「悲寧楽故郷」の思いは「名良乃京」の表記にも込めているのではないか、と思います。

⑨ 「名良」の漢字の意義を確認すると、次のような説明が『大漢和辞典』にあります。

 「名」:aなのる bなをよぶ cなづける dな(人の名など) eなだかい fすぐれている g人を数える助数詞 hふれ・命令・号令 などなど。

 熟語として、「名良」の立項は無し

 「良」:上記④参照

 「なら」という音を、「平城」と書き留めるのと、「名良」と書き留めるのでは、違う感情が伴っているのではないか。

 前者「平城京師」は淡々と都城名をあげていても後者「名良乃京」には、題詞の「寧楽」と同様に、漢字の語義を踏まえて「すぐれていてよい都城である「平城京」」という意味を込めて作者は用い(あるいは書き留めた人物は記し)たのではないかと推測できます。

 そうすると、「名良(乃京)」のその意は「平城京+α」である、と認めてもよい、と思います。

⑩ 最後に、「常」表記の歌は、1例2-1-3250歌であり、「常山」という表記で「奈良山丘陵」の意でした。作詠時点を表Fでは不明としましたが、「あをによし」という修飾語を、「青丹吉」と書き留められているので、額田王作の2-1-17歌と同時期の可能性もあるのではないか。あるいは、東山・北陸への出立の送迎歌ですので、「空見津 倭国 青丹吉 常山越而 山代之・・・」と出立地である倭国から詠いだしており、奈良山丘陵に近い平城京遷都後が作詠時点(書き留めた時点)かもしれません。

 なお、漢字「常」は、aはた。日月や黄竜をえがいた天子の長い旗 b長さの単位 cつね、などの意の漢字です。「常(山)」表記を「なら(やま)」と訓むのは、『萬葉集』でもこの歌だけです。

 この次の歌は「或本歌曰」と題した同じ長歌であって、「緑丹吉 平山過而 氏川渡・・・」と詠っており、「常山」は「ならやま」と訓むほかないのではないか、と思います。

⑪ さて、「寧楽」表記を、改めて検討したい、と思います。

 歌本文で「寧楽」表記の用例は、「なら」と訓む表記54例中、7例しかありません(ブログ2021/11/22付け参照)。(表Fから作成した「寧楽」の意別巻別一覧は、ブログ2021/11/29付け「13.⑫」参照。)

 そのうち2-1-303歌のような奈良山丘陵の峠という用例は他の表記にはありませんでした。

 また、「平城宮」をさした例はこの「寧楽」1例と「楢」表記に2例あるだけです。

2-1-80歌における造営中の「平城宮」をさして「寧楽」表記 (具体には「寧楽乃家」)

 2-1-79歌における造営中の「平城宮」をさして「楢」表記 (具体には「楢乃京師」)

 2-1-3244歌における奉幣使の道中歌とみた場合の出発地としての「平城宮」をさして「楢」表記(具体的には「楢従出而」)

 2-1-3244歌は諸氏のように行幸時の歌とみれば「平城京」の意でもよく、どの程度「平城宮」を意識しているのか不明です。

 結局、作者が、意図をもって書き留めたのは、造営途中の宮に対して詠った、2-1-79歌と2-1-80歌の2首だけ、となります。この二首は、『萬葉集』では、長歌とそれに付随する反歌として記載されています。

 残りの「寧楽」の用例は、「平城京」の意であり、作詠箇所が、大宰府の望郷の思いも加わった巻三の2首(2-1-331歌、2-1-334歌)と作詠時点からみて恭仁京に遷都など平城京に官人が居住できない状況下における巻六と巻八の歌2首(2-1-1048歌、2-1-1608歌)と、「寧楽人」と表記する2-1-1553歌です。

 この2-1-1553歌の理解は、歌本文の「なら」表記をこのように通覧すると、前回(ブログ2021/11/29付け)の理解は再検討が必要かもしれません。

⑫ 「平城京」という都城の意で用いられている表記のみを比較してみます。

都城平城京)の意の「なら」は、「平城京+α」の4例を加えて計36例あり、「奈良」表記が21例と58%を占めており、「平城」表記は9例で25%とこの二つで83%となり、「寧楽」5例(14%)と「名良」1例(計3%)です。

平城京+α」の4例は、「寧楽」表記で3例(2-1-331歌など)、「名良」表記で1例(2-1-1051歌)ありますが、多くの用例がある「平城」表記と「奈良」表記には、一例もありません。

 また、都城平城京」の宮(平城宮)の意を歌本文に書き留める例は大変少なく3例だけですが、「平城宮相当+α」の意が2例でした。

 「寧楽」、「楢」、「名良」字を用いた都城の表記は「奈良」では表せない何かを込めて選ばれた文字による都城表記である、といえます。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 次回は、「寧楽人」と「寧楽宮」を再検討したい、と思います。

(2021/12/6   上村 朋)

付記1.『萬葉集』における表記の「寧楽」の用例と歌における「なら」と訓む歌について

①『萬葉集』における表記の「寧楽宮」関連の用例と訓について、『新編国歌大観』により確認した。

②『萬葉集』における表記の訓が「なら」であって、その表記が句頭にある場合でかつそれが都城名・地名・山名と思われる歌を表Fに示す。

③ また、『萬葉集』における表記で「平城」とあるのは歌本文以外にもある。題詞等での例を表Gに示す。

④ なお、『萬葉集』の歌本文における表記の「寧楽宮」の用例(表D)、「寧楽宮」以外の「寧楽」の用例(表E)は前回ブログ(2021/11/15付け)にも付記している。

表F  『萬葉集』における表記の訓が「なら」であって、その表記が句頭にある場合でかつそれが都城名・地名・山名と思われる歌一覧    (2021/11/29 現在を今回(2021/12/6付けブログ時)の確認で誤字訂正と注に追記))

清濁抜きの訓

歌番号等

表記

凡その作詠時点

備考  

ならしのをかの

2-1-1510

奈良思乃岳能

恭仁京遷都(740)以後

題:大伴田村大嬢与妹坂上大嬢歌一首

〇地名:明日香にある丘の名前

ならちきかよふ

2-1-3996

(青丹吉)奈良治伎可欲布

天平19/3

大伴池主の大伴家持への返歌

平城京への道

ならちなる

2-1-871

奈良遅那留

天平2/7/10

官人吉田宜が都から山上憶良におくった返歌 〇平城京へ至る道

ならなるひとの

2-1-1205

(青丹吉)平城有人之

平城京遷都後

玉津島を詠う伝承歌。作者未詳。

平城京

ならなるひとも

2-1-1910

(青丹吉)平城之人

平城京遷都後

伝承歌。巻十の相聞歌。梅の花を詠む。(作者未詳) 〇平城京

ならにあるいもか

2-1-4131

(安乎尓与之)奈良尓安流伊毛我

天平20/5

(大伴宿祢家持作)

平城京

ならのあすかを

2-1-997

(青丹吉)平城之明日香乎

養老2年以降

題詞:大伴坂上郎女元興寺之里歌一首

元興寺は養老2年平城京左京に移った。

平城京

ならのいへには

2-1-80

(青丹吉)寧楽乃家尓者

平城京遷都前後

題詞:或本従藤原京遷于寧楽宮時歌

反歌。 左注し「右歌作主未詳」

平城京 平城宮

ならのおほちは

2-1-3750

(安乎尓与之)奈良能於保知波

天平12前後

(中臣朝臣宅守作)

平城京

ならのさとひと

2-1-2291

平城里人

平城京遷都後

伝承歌か。作者は未詳。

里とは平城京の坊里の意 〇平城京

ならのたむけに

2-1-303

寧楽乃手祭尓

没年729前

題詞:長屋王駐馬寧楽山作歌二首

〇奈良山丘陵の峠

ならのみやこし

2-1-1643

平城京

師在任中

題詞:太宰帥大伴卿冬日見雪憶京歌一首

平城京

ならのみやこに

2-1-810

 

2-1-812

 

2-1-886

2-1-1048

 

2-1-3624

 

2-1-3634

 

2-1-3698

2-1-4290

(阿遠尓与之)奈良乃美夜古尓

(阿遠尓与之)奈良乃美夜古尓

 

奈良乃美夜古尓

寧楽乃京師尓

 

(安乎尓余之)奈良能美夜古尓

(安乎尓与之)奈良能美也故尓

奈良能弥夜故尓

(青丹余之)奈良能京師尓

神亀5

 

神亀5

 

天平2

天平12以降

天平8

 

天平8

 

天平8

天平勝宝4

 

 

(太宰帥大伴卿作)

2-1-810歌の答歌(都に居る官人の作)

 

山上憶良作)

題詞:傷惜寧樂京荒墟作歌三首割注し「作者不審」 

(伝承歌。 作者は未詳) 

 

遣新羅使人の一人である大判官の作)

遣新羅使人で大判官以外の一人の作)

題詞:為応詔儲作歌一首幷短歌(大伴家持作)  〇全歌みな平城京

ならのみやこの

2-1-79

 

2-1-1049

 

2-1-1053

 

2-1-1608

(青丹吉)楢乃京師乃

 

平城京師之

 

奈良乃京之

 

寧楽乃京師乃

平城京遷都前後

 

天平12以降

天平12以降

天平15以降

題詞に「遷干寧楽宮」 左注し「歌作主未詳」

 

題詞に「寧楽京荒墟」 割注し「作者不審」

 

題詞に「寧楽故郷」 (大原真人作)

 

題詞:「大原真人今城傷惜寧樂故郷歌一首」

〇全歌みな平城京

ならのみやこは

2-1-331

 

2-1-1051

 

2-1-3635

2-1-3640

2-1-3941

(青丹吉)寧楽乃京師者

 

平城京師者

 

奈良能美也故波

奈良能美夜故波

(青丹余之)奈良能美夜古波

天平元年

天平12以降

 

天平8

天平8

天平16/4/5

題詞:「太宰少弐小野老朝臣歌一首」 左注に「右廿一首田辺福麻呂之歌集中出也」

題詞:「悲寧楽故郷作歌一首并短歌」(田辺福麻呂歌集中の歌)

遣新羅使人の一人)

遣新羅使人の一人)

大伴家持作)

〇全歌みな平城京

ならのみやこゆ

2-1-4269

(青丹与之)平城京師由

天平5

題詞に「天平五年・・・作主未詳」)

平城京

ならのみやこを

2-1-333

2-1-334

 

2-1-1050

 

 

2-1-1051

平城京

寧楽京乎

 

(青丹吉)奈良乃都乎

 

名良乃京矣

 

 

天平2以前

天平2以前

 

天平12以降

 

天平12以降

 

 

 

(大伴四綱作)

 

(帥大伴卿作:在任は神亀4~天平2)

題詞:「傷惜寧楽京荒墟作歌三首」 左注に「右廿一首田辺福麻呂之歌集中出也」

題詞:「悲寧楽故郷作歌一首并短歌」 左注に「右廿一首田辺福麻呂之歌集中出也」

〇全歌みな平城京

ならのやまなる

2-1-1642

(青丹吉)奈良乃山有

729以前

題詞に「天皇御製歌一首」(聖武天皇作)

〇奈良山丘陵 

ならのやまの

2-1-17

(青丹吉)奈良能山乃

662~667

題詞:額田王近江国時作歌井戸王即和歌(井戸王作)

〇奈良山丘陵

ならのわきへに

2-1-4002

(青丹吉)奈良乃吾家尓

天平20/3以前

題詞:述恋緒歌一首 (大伴家持作)

平城京

ならのわきへを

2-1-4072

奈良野和芸遮敝乎

天平20/3

大伴家持作)

平城京

ならひとのため

2-1-1553

寧楽人之為

天平年間

(紀朝臣鹿人作)

平城京

ならひとみむと

2-1-4247

(安乎尓与之)奈良比等美牟登

天平勝宝2/9

左注に「右一首守大伴宿祢家持作之」

平城京

ならやまこえて

2-1-29イ

 

 

 

2-1-3250

 

 

2-1-3254

(青丹吉)平山越而

 

 

(青丹吉)常山越而

 

楢山越而

 

 

藤原京遷都(694)以前

不明

 

天平終わり(土屋)

題詞に「過近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌」

 

 

 

長歌(作者未詳) 東山・北陸への出立の送迎歌

 

長歌(作者未詳) 東山・北陸への出立の送迎歌

〇全部みな奈良山丘陵

ならやますぎて

2-1-3251

 

2-1-3979

(緑丹吉)平山過而

(青丹余之)奈良夜麻須疑氐

不明

 

天平18/9/25

長歌(作者未詳) 伝承歌 羇旅歌

 

題詞:哀傷長逝之弟歌一首幷短歌(大伴家持作) 〇全部みな奈良山丘陵

ならやまの

2-1-596

 

2-1-1589

 

2-1-2320

 

2-1-2492

 

2-1-3858

 

 

 

楢山之

 

平山乃

 

奈良山乃

 

平山

 

奈良山乃

 

 

 

 

恭仁京時代

天平10/10/17

不明

 

不明

 

神亀年間(土屋)

 

 

題:笠女郎贈大伴宿祢家持歌廿四首

 

左注に「右一首内舎人縣犬養宿祢吉男」

巻十雑歌 題:詠雪 伝承歌か。

 

左注に「(以前一百四十九首柿本朝臣人麻呂之歌集出)」

題詞:謗佞人歌一首

左注に「右歌一首博士消奈行文大夫作之」

〇全部みな奈良山丘陵

ならやまを

2-1-1592

平山乎

天平10/10/17

左注に「右一首三手代人名」

〇奈良山丘陵

ならやまをこえ

2-1-29

(青丹吉)平山乎超

藤原京遷都(694)以前

長歌 (柿本人麻呂作)

〇奈良山丘陵

ならよりいてて

2-1-3244

楢従出而

天平末期(土屋)

雑歌にある長歌 題詞は無し。奉幣使を詠う(土屋氏)。作者は未詳。〇平城宮

ならをきはなれ

2-1-4032

(安遠迮与之)奈良乎伎波奈礼

天平18/5

題:忽見入京述懐之作生別悲兮断腸万廻怨緒難禁聊奉所心一首并二絶  左注に「右大伴宿祢池主報贈和歌 五月二日」 

平城京

 54例

(53首)

寧楽: 7例

平城: 9例

奈良:26例

平山: 6例

その他: 6例

 

訓「あをによし」が掛かる「なら」は27首

内訳:寧楽: 2例

平城: 4例

奈良: 16例

平山: 3例

その他: 2例

注1)歌は『新編国歌大観』による。「巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での番号」で示す。

注2)2-1-29歌は、歌本文と一部異伝の2-1-29イを一首の歌として作表している。同一カ所の言い換えの部分に用例があるので、2首各1例という扱いをしている。

注3)2-1-1051歌には「なら」が2例ある。

注4)「凡その作詠時点」欄の「(土屋)」とは、土屋文明氏の意見(『萬葉集私注』)に依り判定した意である。

注5)ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」で2021/11/22付けまでに検討した歌は、その結果より題詞に留意した歌意を採用して、作詠時点の推計をしている。

注6)作詠時点を不明と推測した歌は、すべて、「ならやま」と訓む歌である(計4首)。

注7)2-1-2291歌は、歌本文の「平城里人」が、「明日香人」となった元資料があったとすれば、その伝承歌を平城遷都後に利用した異伝歌ともいえる歌である。そうでない歌であっても歌本文に「平城」表記をしているので、作詠時点は、平城遷都(710)後となる。作者と「平城里人」は官人かその家族ならば共に都が居住地であり、近くに居るのに訪問してこない相手への歌と理解できる。

注8)2-1-17歌は、近江遷都(667)に従い居住を移す際の歌である。

注9)「あをによし」と訓む修飾語を「表記」欄に付記した(計27首)。

表G 万葉集で「平城」表記一覧   附「奈良」表記 (2021/11/29  現在)

調査対象区分

題詞等の文

備考

題詞で

2-1-3938十六年四月五日独居平城故宅作歌六

 

題詞の割注で

2-1-101(大伴宿祢娉巨勢郎女時歌一首)  大伴宿祢諱曰安麻呂也難波朝右大臣大紫大伴長徳卿之第六子平城朝任大納言兼大将軍薨也

平城朝:平城天皇の治世の時

歌本文で

9首。(すべて表Fに記載 )

 

左注で

2-1-3943 右六首歌者天平十六年四月五日独居於平城故郷旧宅大伴宿祢家持作*

 

注1)歌は『新編国歌大観』による。「巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での番号」で示す。

注2)の2-1-3943歌は、題詞が「十六年四月五日独居於平城故宅作歌六首」とある6番目の歌。

注3)なお、題詞に「奈良」とあるのは、「橘奈良麻呂」という個人名のみ(2-1-1015歌など19首に対する5題)。

 

(付記終わり 2021/12/6  上村 朋)

 

 

 

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 歌本文の寧楽

 前回(2021/11/22)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 題詞の寧楽」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 歌本文の寧楽」と題して、記します。(上村 朋)(2021/12/25追記  本文「13.⑪」の引用誤りや付記の表F一部追記等する) 

1.~12.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行い、3-4-23歌まではすべて恋の歌であることを確認した。3-4-24歌については類似歌(『萬葉集』の歌)の検討のため『萬葉集』巻一と巻二の標目「寧楽宮」を検討している。なお、歌は『新編国歌大観』より引用する。)

13.再考 類似歌 その10 「寧楽」の歌本文での用例 その1

① 類似歌2-1-439歌の重要な参考歌(2-1-228歌)の理解のため、『萬葉集』歌での「寧楽宮」表記の意を確認中です。

 今回は、歌本文に「寧楽」とある歌を改めて検討します。「寧楽」表記は7首7例あります。なお、ひろく(『新編国歌大観』において)「なら」と訓んでいる表記(寧楽、平城、奈良、平、楢など)の用例は、53首に54例あり、付記1.の表Fに示します。

 表Fは、配列と題詞に留意して検討した歌意に従い推測した作詠時点も記載しています。2-1-29イは歌の一部ですが、1首とカウントして整理してあります。

② 歌本文に「寧楽」と表記のある歌は、題詞での「寧楽」表記の検討の際に5首ほど検討しています。あと2首ありますので、(当然配列とその題詞に留意し)検討します。

 2-1-331歌:用例は「寧楽乃京師」  

 2-1-1553:用例は「寧楽人」 

③ 「寧楽乃京師」という表記のある、2-1-1048歌と2-1-1608歌は、2-1-1048歌の題詞にある「寧楽」の用例とともに検討(2021/11/22付けブログ)しました。

 巻三 雑歌 2-1-331歌 大宰少貳小野老朝臣歌一首

   青丹吉 寧楽乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有

   あをによし ならのみやこは さくはなの にほふがごとく いまさかりなり

 吉村誠氏は、「五句「今盛有」と、今をほめることによって最高の讃美とする」、と指摘し、「奈良の都は咲く花の照り輝くように今を盛りとしている」と大意を示しています。

 この歌の前後の配列をみると、土屋氏が指摘するように、「大宰府にあって、遥かに奈良(平城京)の盛観をしのび幾分の憧憬を交へての作」とみてよい、と思います。

 2-1-334歌の検討時(2021/11/15付けブログ)に、「巻三の配列をみると、2-1-331歌から2-1-354歌までの作者は、旅人が大宰帥のとき九州を任地としていたと思える人物であり、歌群を形成させて巻三編纂者は配列している、と言えます。」と指摘しました。その歌群の筆頭歌がこの歌です。

 「寧楽乃京師」は、平城京を指しますが、熟語の「寧楽」の意を重視して望郷の気持ちを表すために「寧楽乃京師」を選び、「平城乃京師」とか「奈良乃京師」を選んでいないのではないか。吉村氏の指摘するような平城京を賛美している理解でも、「寧楽乃京師」がベストの表記である、と思います。

④ この歌は、初句「あをによし」が「なら」を修飾しています。2-1-80歌も「あをによし」が「なら」を修飾しており、その検討のとき、「(完成した「ならのいへ」に対する)「あをによし」という語句の褒める意・讃える意は、「よい材料が取れる」意から「青丹吉」の「青」と「丹」は色彩を指すものに転じて、中国様式の建物が並ぶはずの「ならのみや」の誉め言葉に替えたのではないか。」と指摘しました(ブログ2021/11/1付け「9.③」参照)。

 この歌での「あほによし」は、まさに「青」と「丹」という万葉仮名は、色彩を意識した使い方といえます(「よ」と「し」は、ともに感動・詠嘆を表す間投助詞)。作詠時点は、大伴旅人が大宰師である時なので、天平元年(729)頃と推測しました。旅人作の2-2-334歌の作詠時点と同じです(付記1.表F参照)。

 2-1-80歌は遷都(710)前後が作詠時点と推測できますので、都に居た旅人は2-1-80歌を知り得たでしょう。平城遷都の計画が浮かんできたころから「平城京」に対して「寧楽乃京師」と書き留めることがあったのなら、当然大伴旅人は知っており、この歌が「寧楽乃京師」の初例ではないことになります。

⑤ 次に、2-1-1553歌を検討します。

 巻八 秋雑歌 2-1-1553歌  

   典鋳正紀朝臣鹿人至衛門大尉大伴宿祢稲公跡見庄作歌一首

     射目立而 跡見乃岳辺之 瞿麦花 総手折 吾者将去 寧楽人之為

     いめたてて とみのをかへの なでしこのはな ふさたおり 

     われはもちゆく ならひとのため

 歌本文の大意を、土屋氏は、初句を「跡見」にかかる枕詞、四句を「われはもちゆかむ」と訓み、

 「跡見の岡べの撫子の花をば、多く手折って吾は持って行かう、奈良人のために。」

と示しています。

 最初に、巻八の秋雑歌の配列を確認します。2-1-1538歌を検討した際、一度行いました(ブログ2018/4/9付け)が、改めて検討しました。なお、諸氏は年代順に配列されていると指摘しています。

 年代順であっても、そのなかで秋の景での配列を確認したところ、秋雑歌95首は秋の景などによる歌群の設定がある、と認めてもよいようです(付記2.参照)。また、筆頭歌は岡本天皇御製歌(舒明天皇の歌)であり、四季の雑歌の筆頭歌を比較すると、類似歌2-1-439歌とその重要な参考歌(2-1-228歌)との関係の検討の参考となると思える類似の事がらがありました。付記2.に特記しておきます。

⑥ この歌の前後の歌群は次のようなものです。

 天皇御製の雁の歌から、露と紅葉を詠う歌までの歌群(2-1-1543歌~2-1-1547歌)

 (初秋の)七夕歌から、三笠山のもみぢが散りゆくと詠う歌までの歌群(2-1-1548歌~2-1-1558歌)

 秋立つと詠う歌から、雁を詠う歌(もみぢを詠う4首の前の歌)までの歌群(2-1-1559~2-1-1571歌)

 2-1-1553歌は、「(初秋の)七夕歌から・・・」の歌群にあることになります。

秋雑歌のなかで、なでしこの花を歌本文に詠うのは2-1-1542歌(秋の七草を詠み込んでいる憶良の歌)とこの歌だけです。また、花を詠う歌で、歌本文には単に「はな」とあるのが、2-1-1552歌1首で、花は題詞に明記されているハギです。

 配列から言えるのは、景の順序の理由を不問とすると、ハギを詠む歌に挟まれて配列されているこの2-1-1553歌の前後の歌との関連性が気になる、ということぐらいです。

⑦ 題詞について、検討します。

 作者名ともう一人作者が「至った」という庄の持ち主の役職が題詞に明記してありますが、それらの役職の在任期間がかみ合っていません。

 土屋氏は、紀鹿人の「典鋳正(いもののかみ)は正六位相当職であり、天平9年従五位下になって天平9年12月に主殿頭になっているから、それ以前の作」だが、大伴稲公の「衛門大尉は、従六位下相当の官職。正六位下の官職兵庫助に天平2年にはついていたので、これからは天平2年以前の作」となり、「律令の定めの如く契合しない場合が少なくないので、作詠時点は、大まかに天平の時代か」、という推測をしています。そうすると、歌本文の五句にある「寧楽(人)」は平城京をさしていることになります。

 秋雑歌の詞書は、作者A(の嘱目B)の歌、あるいは作者Aがある場所Cにいて作った歌というパターンがほとんどで、登場人物が2人となり官職が明記されているのはこの2-1-1553歌だけです。何か理由があって編纂者はこのように作文しているのでしょう。

⑧ とりあえず、題詞の現代語訳を試みると、次のとおり。

「典鋳正(役職名)紀朝臣鹿人が衛門大尉(役職名)大伴宿祢稲公の跡見庄(とみのたどころ)に至って作る歌一首」

 跡見庄とは、奈良県桜井市外山付近(三輪山の麓)が所在地ではないかと言われる大伴氏の庄です。郊外の農園というところのようです。「跡見」とは地名ですが、もともとは、狩猟の際、獲物の跡を見て居場所を突き止める役の者を言います。

 大伴坂上郎女は、跡見のことを「ふるさと」とも詠んでいますので、女子や子供には別宅のような気安さで来られる場所であったのでしょう。

⑨ 次に歌本文を検討します。

 初句「射目立而」の「射目」とは、狩猟の際、射手が獲物を射るときの姿を隠す柴などの遮蔽物をいうそうです(聖武天皇の吉野行幸時の赤人歌2-1-931歌参照)。

狩猟とは獲物の居る狩場において、射手が待つところへ獲物を追い込ませて成立するもののようです。

 初句「射目立而」とは、柴などを立てまわしたりして遮蔽物が出来上がっていることを言っている、と理解できますので、三句にある「瞿麦花」(なでしこのはな)の周辺状況の比喩ではないか。

 三句「なでしこのはな」の「なでしこ」は、「撫でし子」(かわいい子・愛する子)と同音異義の語句です。それを意識すると、作者は、「寧楽人」と特定の誰かとの縁を付けようとしているのではないか。他家の庄である跡見庄に「至」って詠んだということは、誰かに対面して訴えた席での歌ではないかと推測します。

 五句「寧楽人之為」とは、平城京に居を構えている作者自身か作者の子供を指しており、対面の目的は求婚ではないか。

 このように推測できますので、 歌本文の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 「狩場の射目のように囲ってあって、良く見える跡見にある丘にあるのに見えない「なでしこの花」。それを、是非手折って私は持ってゆく、奈良の都に居る人のために。」

 決意表明をしている歌、と理解しました。

⑩ この歌の前後の配列との整合を確認します。

七夕歌が2-1-1550歌で終わり、2-1-1551歌は、作者名のみの題詞で、土屋氏は「さほ鹿の置いた白露であるから、人は手に巻くことなど思ふなかれ」の意の歌であると指摘している旋頭歌です。

恋の歌とみれば、白露(を贈ろうしている相手)に手をだすな、と詠っている歌です。その次に2-1-1552歌が配列されています。

 2-1-1552歌 大伴坂上郎女晩芽子歌一首

     咲花毛 乎曽呂波猒 奥手有 長意尓 尚不如家里

     さくはなも をそろはいとはし おくてなる ながきこころに

     なほしかずけり

 題詞の現代語訳を試みると、「大伴坂上郎女のおそ咲きのハギに関する歌一首」となります。

 土屋氏は、二句を「をそろはうとし」と訓み、

 「咲く花も真実のないのはうとましい。遅く実のなる花の、長くつづく心には、やはり及ばない。」

という大意を示しています。

 二句にある「乎曽呂」には軽率の意との説(武田博士)もあるそうです。

 「見栄えより実が成るかどうかが重要なのです(お話は聞けません)」という歌と理解できるので、2-1-1553歌の上記の現代語訳(試案)は、それでもお願いする歌と理解できます。この2-1-1552歌の題詞にいうハギは、相手を暗喩し、2-1-1553歌の「なでしこ」は大伴家の女性の暗喩ではないか。

 他家の庄である跡見庄に「至」って詠んだ理由の詮索が過ぎるでしょうか。この理解には、2-1-1552歌を土屋氏が「全体は常識的で、教訓歌の匂いさへある」と言っているのもヒントになったところです。

 だから作詠時点は、土屋氏と同様に天平年間か、という程度の推測となります。

⑪ 次に、その次の歌2-1-1554歌との関係を確認します。

2-1-1554歌  湯原王鳴鹿歌一首

    秋芽之 落乃乱尓 呼立而 鳴奈流鹿之 音遥者

    あきはぎの ちりのまがひに よびたてて なくなるしかの こゑのはるけさ

 この歌は、ハギが散り乱れるほど咲いているのに、(近くに来ないで)遠くで鹿が鳴いている、と第三者の立場で詠っています。

 2-1-1553歌で決意を披歴しても近づけないでいるではないか、と揶揄している、とも取れます。

 さらに次の歌2-1-1555歌は、「市原王歌一首」と、作者名のみの題詞で紅葉の歌です。

 このように、2-1-1551(1550歌は誤り(2021/12/25訂正))~2-1-1554歌は小歌群とみなしても、上記の2-1-1553の現代語訳(試案)は小歌群の中の歌という理解が可能であろう、と思います。

⑫ 以上で歌本文にある「寧楽」の用例7例全ての検討が終わりました。「寧楽」の意味別にまた『萬葉集』の概略の巻に整理してみると、次の表のようになります。

 熟語の「寧楽」の意を加えた用例には、「寧楽」の意に「+α」があるとして「寧楽」とは別の意であるとして整理しました。

例えば2-1-1048歌は、前回のブログ(2021/11/22付け)の「12.⑥」で記したように、「+α」の用例です。2-1-1608歌は、「12.⑮」で記したように「+α」の用例ではない、と整理できます。

 平城京遷都(710)前後の歌2-1-80歌にある「寧楽乃家」が「寧楽」の最初の用例となりました。「あほによし」という語句が掛かっている用例です。そして熟語「寧楽」の意が加わっている用例でした。

 

表 『萬葉集』歌本文にある「寧楽」の意別巻別一覧(作詠時点の推計あり) (2021/11/29 現在)

「寧楽」の意味

巻一と巻二の歌

巻三と巻四の歌

巻五以降の歌

平城宮相当+α(1例)

(青丹吉)寧楽乃家尓者2-1-80(作者未詳) 平城京遷都(710)前後

 

 

平城京+α(3例)

 

(青丹吉)寧楽乃京師者2-1-331(小野老作)天平元年(729)頃

寧楽京乎2-1-334(帥大伴卿作)天平2以前

寧楽乃京師尓2-1-1048 (「作者不審」)天平12以降

 

奈良山丘陵の峠 (1例)

 

寧楽乃手祭尓2-1-303(長屋王) 没年729前

 

平城京

 (2例)

 

 

寧楽人之為2-1-1553 (紀朝臣鹿人作)天平年間

寧楽乃京師乃2-1-1608 (大原真人作) 天平15以降

計(7例)

1例

3例

3例

注1)歌は、『新編国歌大観』の巻数―当該巻の歌集番号―当該歌集の歌番号で示す。

注2)付記1.の表Fより作成。

注3)「+α」とは、熟語「寧楽」の意が加わっている意。

 

⑬ 「寧楽」という語句を用いた「寧楽山」とか「寧楽乃山」とかの表記で奈良山丘陵をさす例は、ありませんでした。「平山」から「寧楽(山)」という発想が生まれていない、と推測します。

 2-1-303歌の用例は、峠を意味します。平城京(甍を葺いた大極殿五重塔など)を望める最後の地点です。作者の活躍時期を考慮すれば作詠時点は少なくとも平城京遷都(710)後と推測できますので、平城京を「ならのみやこ」と呼び「寧楽(のみやこ)」という表記が先行してあったからこそ、このように書き留めたられたのではないか、と推測します。

 いずれにしても、作詠時点から都城平城京を意味していると断定できる「寧楽乃京師」などの用例を含め、歌本文にある各種「なら」の用例との比較を要しますので、それを次回に検討したい、と思います。

「ブログわかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

(2021/11/29  上村 朋)

付記1.『萬葉集』における「寧楽」表記の用例と歌における「なら」と訓む歌について

①『萬葉集』における表記の「寧楽宮」関連の用例と訓について、『新編国歌大観』により確認した。

②『萬葉集』における(万葉仮名の)表記の訓が「なら」であって、その表記が句頭にある場合でかつそれが都城名・地名・山名と思われる歌を表Fに示す。そして「あほによし」と訓む修飾語を付記した。

③ なお、『萬葉集』における表記の「寧楽宮」の用例(表D)、「寧楽宮」以外の「寧楽」の用例(表E)は前回ブログ(2021/11/15付け)にも付記している。

表F  『萬葉集』における表記の訓が「なら」であって、その表記が句頭にある場合でかつそれが都城名・地名・山名と思われる歌一覧   

  (2021/11/29 現在) (2021/12/25追記と誤字訂正))

清濁抜きの訓

歌番号等

表記

凡その作詠時点

備考  

ならしのをかの

2-1-1510

奈良思乃岳能

恭仁京遷都(740)以後

題:大伴田村大嬢与妹坂上大嬢歌一首

〇地名:明日香にある丘の名前

ならちきかよふ

2-1-3996

(青丹吉)奈良治伎可欲布

天平19/3

大伴池主の大伴家持への返歌

平城京への道

ならちなる

2-1-871

奈良遅那留

天平2/7/10

官人吉田宜が都から山上憶良におくった返歌 〇平城京へ至る道

ならなるひとの

2-1-1205

(青丹吉)平城有人之

平城京遷都後

玉津島を詠う伝承歌。作者未詳。

平城京

ならなるひとも

2-1-1910

(青丹吉)平城之人

平城京遷都後

伝承歌。巻十の相聞歌。梅の花を詠む。(作者未詳) 〇平城京

ならにあるいもか

2-1-4131

(安乎尓与之)奈良尓安流伊毛我

天平20/5

(大伴宿祢家持作)

平城京

ならのあすかを

2-1-997

(青丹吉)平城之明日香乎

養老2年以降

題詞:大伴坂上郎女元興寺之里歌一首

元興寺は養老2年平城京左京に移った。

平城京

ならのいへには

2-1-80

(青丹吉)寧楽乃家尓者

平城京遷都前後

題詞:或本従藤原京遷于寧楽宮時歌

反歌。 左注し「右歌作主未詳」

平城宮平城京は誤り)

ならのおほちは

2-1-3750

(安乎尓与之)奈良能於保知波

天平12前後

(中臣朝臣宅守作)

平城京

ならのさとひと

2-1-2291

平城里人

平城京遷都後

伝承歌か。作者は未詳。

里とは平城京の坊里の意 〇平城京

ならのたむけに

2-1-303

寧楽乃手祭尓

没年729前

題詞:長屋王駐馬寧楽山作歌二首

〇奈良山丘陵の峠

ならのみやこし

2-1-1643

平城京

師在任中

題詞:太宰帥大伴卿冬日見雪憶京歌一首

平城京

ならのみやこに

2-1-810

 

2-1-812

 

2-1-886

2-1-1048

 

2-1-3624

 

2-1-3634

 

2-1-3698

2-1-4290

(阿遠尓与之)奈良乃美夜古尓

(阿遠尓与之)奈良乃美夜古尓

奈良乃美夜古尓

寧楽乃京師尓

 

(安乎尓余之)奈良能美夜古尓

(安乎尓与之)奈良能美也故尓

奈良能弥夜故尓

(青丹余之)奈良能京師尓

神亀5

 

神亀5

 

天平2

天平12以降

天平8

 

天平8

 

天平8

天平勝宝4

(太宰帥大伴卿作)

 

2-1-810歌の答歌(都に居る官人の作)

 

山上憶良作)

題詞:傷惜寧樂京荒墟作歌三首割注し「作者不審」 

(伝承歌。 作者は未詳) 

 

遣新羅使人の一人である大判官の作)

 

遣新羅使人で大判官以外の一人の作)

題詞:為応詔儲作歌一首幷短歌(大伴家持作)  〇全歌みな平城京

ならのみやこの

2-1-79

 

2-1-1049

 

2-1-1053

 

2-1-1608

(青丹吉)楢乃京師乃

平城京師之

 

奈良乃京之

 

寧楽乃京師乃

平城京遷都前後

天平12以降

天平12以降

天平15以降

題詞に「遷干寧楽宮」 左注し「歌作主未詳」

 

題詞に「寧楽京荒墟」 割注し「作者不審」

 

題詞に「寧楽故郷」 (大原真人作)

 

題詞:「大原真人今城傷惜寧樂故郷歌一首」

〇全歌みな平城京

ならのみやこは

2-1-331

 

2-1-1051

 

2-1-3635

2-1-3640

2-1-3941

(青丹吉)寧楽乃京師者

平城京師者

 

奈良能美也故波

奈良能美夜故波

(青丹余之)奈良能美夜古波

天平元年

天平12以降

天平8

天平8

天平16/4/5

題詞:「太宰少弐小野老朝臣歌一首」 左注に「右廿一首田辺福麻呂之歌集中出也」

題詞:「悲寧楽故郷作歌一首并短歌」(田辺福麻呂歌集中の歌)

遣新羅使人の一人)

遣新羅使人の一人)

大伴家持作)

〇全歌みな平城京

ならのみやこゆ

2-1-4269

(青丹与之)平城京師由

天平5

題詞に「天平五年・・・作主未詳」)

平城京

ならのみやこを

2-1-333

 

2-1-334

 

2-1-1050

 

2-1-1051

平城京

 

寧楽京乎

 

(青丹吉)奈良乃都乎

名良乃京矣

天平2以前

天平2以前

天平12以降

天平12以降

 

(大伴四綱作)

 

(帥大伴卿作:在任は神亀4~天平2)

 

題詞:「傷惜寧楽京荒墟作歌三首」 左注に「右廿一首田辺福麻呂之歌集中出也」

題詞:「悲寧楽故郷作歌一首并短歌」 左注に「右廿一首田辺福麻呂之歌集中出也」

〇全歌みな平城京

ならのやまなる

2-1-1642

(青丹吉)奈良乃山有

729以前

題詞に「天皇御製歌一首」(聖武天皇作)

〇奈良山丘陵 

ならのやまの

2-1-17

(青丹吉)奈良能山乃

662~667

題詞:額田王近江国時作歌井戸王即和歌(井戸王作)

〇奈良山丘陵

ならのわきへに

2-1-4002

(青丹吉)奈良乃吾家尓

天平20/3以前

題詞:述恋緒歌一首 (大伴家持作)

平城京

ならのわきへを

2-1-4072

奈良野和芸遮敝乎

天平20/3

大伴家持作)

平城京

ならひとのため

2-1-1553

寧楽人之為

天平年間

(紀朝臣鹿人作)

平城京

ならひとみむと

2-1-4247

(安乎尓与之)奈良比等美牟登

天平勝宝2/9

左注に「右一首守大伴宿祢家持作之」

平城京

ならやまこえて

2-1-29イ

 

 

2-1-3250

 

2-1-3254

(青丹吉)平山越而

 

(青丹吉)常山越而

楢山越而

藤原京遷都(694)以前

不明

 

天平終わり(土屋)

題詞に「過近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌」

 

長歌(作者未詳) 東山・北陸への出立の送迎歌

長歌(作者未詳) 東山・北陸への出立の送迎歌

〇全部みな奈良山丘陵

ならやますぎて

2-1-3251

 

2-1-3979

(緑丹吉)平山過而

(青丹余之)奈良夜麻須疑氐

不明

 

天平18/9/25

長歌(作者未詳) 伝承歌 羇旅歌

 

題詞:哀傷長逝之弟歌一首幷短歌(大伴家持作) 〇全部みな奈良山丘陵

ならやまの

2-1-596

 

2-1-1589

 

2-1-2320

2-1-2492

 

2-1-3858

楢山之

 

平山乃

 

奈良山乃

平山

 

奈良山乃

恭仁京時代

天平10/10/17不明

不明

 

神亀年間(土屋)

題:笠女郎贈大伴宿祢家持歌廿四首

 

左注に「右一首内舎人縣犬養宿祢吉男」

 

巻十雑歌 題:詠雪 伝承歌か。

左注に「(以前一百四十九首柿本朝臣人麻呂之歌集出)」

題詞:謗佞人歌一首

左注に「右歌一首博士消奈行文大夫作之」

〇全部みな奈良山丘陵

ならやまを

2-1-1592

平山乎

天平10/10/17

左注に「右一首三手代人名」

〇奈良山丘陵

ならやまをこえ

2-1-29

(青丹吉)平山乎超

藤原京遷都(694)以前

長歌 (柿本人麻呂作)

〇奈良山丘陵

ならよりいてて

2-1-3244

楢従出而

天平末期(土屋)

雑歌にある長歌 題詞は無し。奉幣使を詠う(土屋氏)。作者は未詳。〇平城宮

ならをきはなれ

2-1-4032

(安遠迮与之)奈良乎伎波奈礼

天平18/5

題:忽見入京述懐之作生別悲兮断腸万廻怨緒難禁聊奉所心一首并二絶  左注に「右大伴宿祢池主報贈和歌 五月二日」 

平城京

 54例

(53首)

寧楽: 7例

平城: 9例

奈良:26例

平山: 6例

その他: 6例

 

訓「あをによし」が掛かる「なら」は27首

内訳:寧楽: 2例

平城: 4例

奈良: 16例

平山: 3例

その他: 2例

注1)歌は『新編国歌大観』による。「巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での番号」で示す。

注2)2-1-29歌は、歌本文と一部異伝の2-1-29イを一首の歌として作表している。同一カ所の言い換えの部分に用例があるので、2首各1例という扱いをしている。

注3)2-1-1051歌には「なら」の用例が2例ある。

注4)「凡その作詠時点」欄の「(土屋)」とは、土屋文明氏の意見(『萬葉集私注』)に依り判定した意である。

注5)ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」で2021/11/22付けまでに検討した歌は、その結果より題詞に留意した歌意を採用して、作詠時点の推計をしている。

注6)作詠時点を不明と推測した歌は、すべて、「ならやま」と訓む歌である(計4首)。

注7)2-1-2291歌は、歌本文の「平城里人」が、「明日香人」となった元資料があったとすれば、その伝承歌を平城遷都後に利用した異伝歌ともいえる歌である。そうでない歌であっても歌本文に「平城」表記をしているので、作詠時点は、平城遷都(710)後となる。作者と「平城里人」は官人かその家族ならば共に都が居住地であり、近くに居るのに訪問してこない相手への歌と理解できる。

注8)2-1-17歌は、近江遷都(667)に従い居住を移す際の歌である。(2021/12/25追加)

注9)「あをによし」と訓む修飾語を「表記」欄に付記した(計27首)。

   

付記2.『萬葉集』巻八の部立て「秋雑歌」の配列について

① 『萬葉集』巻八の部立て「秋雑歌」にある95首について、詠う景などから配列を検討した結果、下記の表に示すように、歌群を認めた。

② この歌群は、諸氏の指摘する年次順のもとで、その下位の配列方針と思われる。皇族歌の歌群を除き、繰り返し立秋から立冬にむかう景が登場する歌を配列している。

表 万葉集巻八「秋雑歌」の歌群推定 (2021/11/29現在)

歌群番号

当該歌群の歌番号

内容

 1

2-1-1515~2-1-1521

皇族歌:岡本天皇長屋王

 2

2-1-1522~2-1-1538

七夕歌~をみなへし・あきはぎを詠う

 3

2-1-1539~2-1-1542

「秋風ふく」歌~憶良の秋野花歌2首

 4

2-1-1543~2-1-1547

天皇御製歌2首(雁を詠う)~露といろづく山の歌

 5

2-1-1548~2-1-1558

七夕歌~三笠山のもみぢばの散る歌

 6

2-1-1559~2-1-1571

秋立つ歌~雁の歌

 7

2-1-1572~2-1-1584

春日山のもみぢ葉の歌~鹿と秋萩の歌

 8

2-1-1585~2-1-1595

もみぢ葉を詠う歌のみ

 9

2-1-1596~2-1-1604

秋の田の歌~秋萩が盛り過ぎゆくと詠う歌

 10

2-1-1605~2-1-1609

はなすすきを詠う歌~秋萩と暁の露を詠う歌

 

③ 最初に、皇族方の歌のみからなる小歌群を置いている。

④ 四季の雑歌(春雑歌~冬雑歌)の部立てにおいて、筆頭歌の作者は天皇関係者とするのが原則か、と思える。

春雑歌筆頭歌の題詞:志貴皇子懽御歌一首(しきのみこのよろこびのおんうた一首)

     同 次の題詞:鏡王女一首

夏雑歌筆頭歌の題詞:藤原夫人歌一首(天武天皇の夫人、藤原鎌足の娘五百重姫の歌)

     同 次の題詞:志貴皇子御歌一首

秋雑歌筆頭歌の題詞:岡本天皇御製歌(舒明天皇の歌)

     同 次の題詞:大津皇子御歌一首

冬雑歌筆頭歌の題詞:舎人娘子雪歌一首(2-1-61歌の作者 伝未詳)

     同 次の題詞:太上天皇 御製歌一首(元正天皇の歌)

     三番目の題詞:天皇 御製歌一首(聖武天皇

     四番目の題詞:大宰師大伴卿冬日見雪憶京歌一首

⑤ 冬雑歌の筆頭歌(2-1-1640歌)の作者舎人娘子は、持統(天皇が)上皇時代の三河行幸に従駕した際に詠んだ歌が2-1-61歌としてある。2-1-1640歌で雪が降っていると詠う「真神之原」は、2-1-199歌によれば天武天皇の浄御原宮の所在地である。

 2-1-1640歌は、「いたくなふりそ いへのあらなくに」と詠い、次にある太上天皇 御製歌2-1-1641歌は、「つくれるむろは よろづよまでに」、天皇 御製歌一首2-1-1642歌は、「つくれるむろは ませどあかぬかも」と詠う。次にある2-1-1643歌は、平城京を「憶」って詠っている。この4首の配列は、新しい都を褒めている、という理解を可能としている。

⑥ だから、冬雑歌の筆頭歌2-1-1640歌は、藤原京に遷都した持統天皇天武天皇を偲んでいる代作のような位置づけになっている。筆頭歌は次の元正天皇以前の女性天皇(有力なのは持統天皇)歌に擬しているのではないか、と推測できる。

⑦ さらに、『萬葉集』各巻における部立て「雑歌」すべてを確認すると、

 天皇歌あるいは天皇行幸時の臣下の歌が筆頭歌となっているのは、巻一雑歌、巻三雑歌、巻六雑歌、巻八雑歌、巻九雑歌の5巻ある。

 そのほか雑歌のあるのは、巻五、巻七、巻十(春夏秋冬の雑歌)、巻十三、巻十四がある。その筆頭歌の具体の作者名が題詞にあるのは、巻五(大宰師大伴卿)のみであり、それ以外は左注に「柿本朝臣人麿(之)歌集あるいは古歌集」にある」とある歌を含めて作者はみな未詳である。

(付記終わり 2021/11/29   上村 朋)