わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 舞うは誰 萬葉集巻三配列その6 

 前回(2022/4/25)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 不相兒は誰 萬葉集巻三の配列その5」に続き、今回「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 舞うは誰 萬葉集巻三の配列その6」と題して記します。歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋) 

1.~14.承前

 『萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、各歌について判定した表E(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を得ました。そして、「関係分類A1~B」の歌30首から、巻三雑歌は天皇の代を意識した4つのグループに分かれました。「関係分類A1~B」以外の歌においても第三グループまで確認できました。

 各グループの筆頭歌は、2-1-235歌、2-1-290歌、2-1-315歌および2-1-378歌です。

 

15.第四グループの「関係分類A1~B」の歌再確認

① 「関係分類A1~B」以外の歌での第四番目のグループの検討の前に、「関係分類A1~B」の歌を再確認します。

 それは、当該グループであるという判定基準の指標がこれまでのグループと異ならざるを得ないからです。

 巻三雑歌の天皇の代を意識した4つ目のグループは、聖武天皇以降の天皇を象徴する「寧楽宮」に居られる天皇の代の歌、と予想しているところです(ブログ2022/3/21付け「3.③」参照)。

 当該グループである判定基準の指標は、これまで「歌の作詠(披露)時点がその歌群のグループの天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌」という基準でした。ほかの代の可能性の有無は関係ありません。

 しかし、『萬葉集』の歌は作詠(披露)時点が天平宝字3年(759)までであり、巻三の雑歌に限定すれば聖武天皇の時代までです。このため、作詠(披露)時点よりも題詞のもとにおける歌意で「聖武天皇以降の天皇」の代に関する歌という可能性で判断することとします。

 「その天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌」というのは同じであり、ほかの代の可能性の有無が関係ないことも同じです。(なお、第三グループまでの歌も当該天皇の代に関する歌意がくみ取れた歌でありました。)。

② そのため、「関係分類A1~B」の歌の四番目のグループの歌3首も、改めて「聖武天皇以降の天皇」の代に関する歌であるかを確認します。

 最初の2-1-378歌は、題詞「湯原王遊芳野作歌」から、「遊」が行幸準備時の意であり、聖武天皇の御代であれば、天平8年の芳野離宮行幸の準備の芳野行の時の歌と推測できました(ブログ2022/3/21付け「3.第八」及びブログ2022/4/25付け「14.⑨」参照)。

 「遊」の理解は2-1-243歌との比較検討によるものです(付記1.参照)。

③ 題詞の作文が「倭習漢文」であっても、構文に共通性があれば当該題詞の比較には意味があります。だから、吉野への行幸に関する題詞の表記のわずかな違いは、その表記の指す実態が異なっていることを示唆している、と思います。

 巻一には「幸于吉野宮(之)時」とある題詞が4題あるのに対して、巻三には「遊吉野時」(2-1-245歌)、「火葬吉野時(挽歌 2-1-432歌)、「幸芳野離宮時」(2-1-318歌)、及び「芳野(作歌)(2-1-378歌)各1題計4題あるものの、「幸」とある題は1題です。

 この題詞は、だから「幸」の時の作詠ではなく、また「芳野離宮(作歌)」でもなく、「芳野(作歌)」での作詠です。即ち、芳野離宮に向かう途中での作詠という理解が十分可能であり、それは歌本文の理解とも矛盾しません。

 また、題詞の文章は、新たな行幸の準備にあたっている、という理解が可能です。天平9年以降の行幸準備であり、新たな行幸の準備という時点設定が可能な歌です。

 それは、この歌が、聖武天皇以降の天皇の代に関する歌である、といえる、と思います。

④ そして、配列をみると、直前に配列されている2-1-375歌と2-1-376歌が恋の歌であって聖武天皇の男子の御子を待望する暗喩がありました。そうすると、この歌も、山蔭で鳴く鴨は、意に応えてくれない恋の相手を暗喩しているとも、また、未だに変化のない日常をおくっていると漏れ聞く(鴨の鳴き声)ばかりである、という暗喩もある、と認められます。

⑤ 2-1-378歌の次にあるのが、2-1-379歌と2-1-380歌です。この歌にも暗喩がある、と予想します。

 表E作成時は行幸に関連する業務での吉野滞在時の歌として、「A1」と判定しました。この2首にある「吾君」の理解に大別2案ありますが、そのどちらにおいても平城京でこの歌が作詠されたとすると、「吾君」を天皇とみれば「A1」ですがそうでなければ「I」と仮置きしなければならない歌と指摘し、再確認すべき歌としました(ブログ2022/3/21付け「3.② 第九」参照)。それをここで検討します。

 『新編国歌大観』より引用します。

2-1-379歌 湯原王宴席歌二首

   秋津羽之 袖振妹乎 玉匣 奥尓念乎 見賜吾君

   あきづはの そでふるいもを たまくしげ おくにおもふを みたまへあがきみ

 

2-1-380歌 (湯原王宴席歌二首)

   青山之 嶺乃白雲 朝尓食尓 恒見杼毛 目頬四吾君

   あをやまの みねのしらくも あさにけに つねにみれども めづらしあがきみ

⑥ 両歌の五句にある「吾君」(土屋氏の訓は‘わぎみ’)という表記は、巻一~巻四ではこの2首だけです。「我君」という用例もありません。「大君」とか「吾大君」の用例では、天皇を意味しています。

 土屋氏は、つぎのような大意を示しています。「玉匣」とは「櫛笥(くしげ)」の歌語であり、また、「ふた」・「覆ふ」・「箱」・「奥に思ふ」の枕詞ですが、氏は枕詞の意を大意から省くという方針を採っています。

 「あきつ羽の如き妙なる袖を振られる妹をば、吾が心に奥深く思ふのを、其の思ふ心を見知って下されよ、吾が君よ。」

「青山の峯に居る白雲の如く、朝に日にいつも見るけれども、なほ愛でたくうつくしき吾君であるよ」

 そして氏は、「(2-1-379歌の五句「見賜吾君」の)動詞ミルの目的はオモフヲであって、イモではあるまい。従ってワギミは宴席の他の人ではなくイモその人であらう・・・宴席の他の人では次の歌の「吾君」がつかなくなる」と指摘しています。

 そしてまた、2-1-380歌を(序歌を用ゐて調子と情緒を主として)「更に舞ふ処女に讃嘆した」歌であり、「宴席での模擬恋愛の表白」だが、「我が思ふ妹を他人に見賜へと誂へる歌としては卑俗になりすぎる」と指摘しています。

⑦ これに対して伊藤氏は、「吾君」を「あがきみ」と訓み、宴席の主賓と理解しています。「イモ」は「吾君」とみていません。

 『万葉集』歌の用例で、「大君」とか「吾大君」が天皇を指しているので、「吾君」も天皇や自分の仕える人あるいは上司を指しているとも理解できる語句です。題詞からは、宴席の歌なので、「吾君」は主賓に迎えている人物と理解できます。

 そして、枕詞を有意の枕詞として「お化粧箱に大事にしまいこんでおきたい」の意を加えると、歌の配列からは、「吾君」とは「天皇・自分の仕える人」であり作者湯原王から言えば聖武天皇か次代の孝謙天皇になぞらえることが可能となり、2-1-379歌は、次のように現代語訳できます。

 「トンボが羽をひらひらさせて優雅に飛び回るように、袖を優雅に動かし舞っている妹(女性)を私たちは大事にお化粧箱にしまっておきたいほど大事なお方である、と心に深く思っています。それをご照覧ください、(私が仰ぎ見る)わが君よ。」

 この歌は、主賓に挨拶している歌となります。

⑧ 次に、2-1-380歌の三句の万葉仮名「朝尓食尓」は、巻三の譬喩歌の部の2-1-406歌の初句にもあります。「朝も昼も」の意と思います。

 そして2-1-380歌の五句にある「目頬四(めづらし)」の意には、「賞賛すべきだ・すばらしい・かわいらしい」とか「目新しい・清新だ」とか「珍しい・めったにない」(『例解古語辞典』)があります。

 2-1-379歌の「吾君」が女性であれば、同じ題詞のもとにある2-1-380歌の「吾君」も同一の女性であろうと思います。

 そのうえ、この歌は、四句までに詠っている人物が、五句で褒め上げている、と理解が可能です。現代語訳を試みると、

 「(前歌の「妹」は)青山の峯にいつもかかっている白雲のように、朝も昼もいつも仰ぎ見る方でありますが、(舞うのを拝見させていただき、改めて思うのは)すばらしい吾君でありますことよ。」

 この場合、「吾君」とは、皇位継承順位が作者湯原王より上位の皇族の女性となるでしょう。

⑨ 題詞は、「湯原王宴席歌二首」とあり、前歌の題詞(「湯原王遊芳野作歌」)と異なっており、同じ作者の歌でも前歌とは別の機会に設けられた宴席におけるペアの歌であることを巻三編纂者ははっきりと示しています。また、湯原王がどこで詠んだのかは『萬葉集』と『続日本紀』に確たる記述がありません。

 しかし、皇位継承順位第一位である人物が舞を披露した例があります。

 『続日本紀天平10年5月癸卯には、「癸卯(5日)、群臣を内裏に宴(うたげ)す。皇太子、親(みづか)ら五節を儛ひたまふ。右大臣橘宿祢諸兄。詔を奉けたまはりて太上天皇元正上皇)に奏して曰はく、・・・」

とあり、天平10年立太子をすませた阿倍内親王が、天平15年(743)5月5日に元正上皇の御前で五節舞を披露しています。

 その際、右大臣橘宿祢諸兄は、元正上皇に、(天武天皇が秩序を維持するために礼と楽とが行われていくようにと、五節舞を造ったことを述べ)阿倍内親王に習わせ謹んで体得させて元正上皇の前で披露させたという聖武天皇のお言葉を言上し、元正上皇が、国の宝として皇太子に舞わせるのを見れば、天下に行われている大法は絶えることがないと感知されること、今日のこの舞は単なる遊戯ではなく、君臣祖子の間の倫理を教え導くものであり、その趣旨を銘記させるために人々に昇叙させてもらいたい、と聖武天皇に申し上げ、それをうけて、右大臣橘宿祢諸兄は、聖武天皇の「汝等も元正上皇のお言葉にあるように、君臣祖子の理を忘れることなく・・・長く遠く仕え奉れとして昇叙等を行う」というお言葉を群臣に披露しています。(『新日本古典文学体系12 続日本紀一』(岩波書店)より)

⑩ この状況は、題詞(「湯原王宴席歌二首」)にいう宴席の候補になる、と思います。その場で歌の朗詠ができなくともその時の聖武天皇のお言葉に「和した歌」に位置付けが可能な歌です。

 上記⑦と⑧の現代語訳(試案)は、「和した歌」という理解に叶っています。

 阿倍内親王は、天平勝宝元年(749)聖武天皇の譲位により即位しています。

⑪ 2-1-379歌は、『萬葉集』が世にでたころから振り返ると、別の理解も可能ではないか、と思います。暗喩をこめることが出来る歌です。

 この歌は、巻三の編纂者からみれば編纂者の当代においては過去に詠われた歌として引用ができる歌です。

 四句「奥尓念乎(おくにおもふを)」にある動詞「おもふ」には、「心に思う」のほか「いとしく思う」・「心配する・憂える」・「回想する・なつかしむ」の意があります(『例解古語辞典』)が、「心に思う」意と理解します。

 「吾君」を、主賓である天武系の天皇と想定してください。「舞っている「妹」」を持統天皇などに見立てても上記⑦の現代語訳(試案)はそのままでよい、と思います。2-1-379歌を再掲すると、

 「トンボが羽をひらひらさせて優雅に飛び回るように、袖を優雅に動かし舞っている妹(女性)を私たちは大事にお化粧箱にしまっておきたいほど大事なお方である、と心に深く思っています。それをご照覧ください、(私が仰ぎ見る)わが君よ。」

 天武系の人物の皇位継承が決まったので、臣下として望みが潰えた天智系の天皇を慰撫している歌となります。

 2-1-380歌は、上記⑧の(試案)から、五句にある「目頬四(めづらし)」の意を「目新しい・清新だ」と採り、

 「(前歌の「妹」は)青山の峯にいつもかかっている白雲のように、朝も昼もいつも仰ぎ見る方でありますが、(それはそれとし、今上天皇は)清新な吾君でありますことよ。」

と、「吾君」を褒めたたえた挨拶歌となります。

⑫ この題詞において、天皇臨席の宴席とすれば、この両歌の関係分類は「A1」であり、表E作成時のままとなります。そしてその天皇の想定には、次期天皇やその先で即位する天皇も加えられます。

 題詞のもとにおける歌意は「聖武天皇以降の天皇」の代に関するものとなり、第四のグループの歌といえます。

 2-1-375歌と2-1-376歌が、聖武天皇の男子の御子待望の歌であったとすると、新しい天皇にお仕えする決意の歌がこの題詞のもとの2首といえます。

 このように、表E作成時に関係分類を「A1」とした3首は、「聖武天皇以降の天皇」の代に関する歌になっていました。つまり「寧楽宮」の時代の歌でした。

 「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 次回は、「関係分類A1~B」以外の歌の検討を2-1-381歌から始めます。

 (2022/5/2    上村 朋)

付記1.「倭習漢文」である題詞の「遊」について

① 巻三に「遊」字を用いた題詞が2題ある。

2-1-243歌 弓削皇子遊吉野時御歌一首

  滝上之 三船乃山尓 居雲乃 常将有等 和我不念久尓

  たきのうへの みふねのやまに ゐるくもの つねにあらむと わがおもはなくに

2-1-378歌 湯原王遊芳野作歌一首

  吉野尓有 夏実之河乃 川余杼尓 鴨曽鳴成 山影尓之弖

  よしのにある なつみのかはの かはよどに かもぞなくなる やまかげにして

② 前者は、常にある雲のようにいつまでも生きられるとは私は思ってもいない、という自らの生の無常を詠っている。直前の長歌反歌は、「おほきみは かみにしませば・・・」と詠い、直後の歌は、これ(2-1-243歌)に和する歌と題詞にあって「おほきみは ちとせにまさむ・・・」と詠っている。そうすると、作者は自分を卑下して「大君」を讃えているかの歌である。天皇臨席の場ではこのような発想で讃えにくい。題詞の「遊」という漢字は少なくとも「行幸」時の公の席のものではない、ということを意味していると思える。

 弓削皇子文武天皇3年(699)年薨去なので文武天皇3年までに詠われている歌である。

③ 後者は、吉野山中の川淀に鴨がないているがそこは山蔭になっている、と詠う。「大君」を讃えるという比喩が、詞書や前後の配列からも認めにくい歌である。天皇の 臨席の有無を考えると前者の「遊」と同じと理解してよい。

(付記終わり。 2022/5/2   上村 朋)