わかたんかこれ 萬葉巻四 紀女郎怨恨歌 配列その11

 前回(2023/5/8)に引き続き『萬葉集』巻四に配列されている怨恨歌を検討します。(2023/6/12 上村 朋)

1.~14.承前

 『萬葉集』巻四にある「献天皇歌」という4字のみの題詞(とそのもとにある歌本文)から、ペンネームを使用して聖武天皇の後の御代に関する歌群のあることを確認しました。そのペンネームに怨恨歌の作者の名もあります。

 『新編国歌大観』(角川書店)収載の『萬葉集』を対象に、検討しています。

15.巻四にある怨恨歌(続きその3) 紀女郎歌の元資料

① 「作者名+怨恨歌〇首」という題詞の作文パターンは、巻一~巻四では巻四における聖武天皇の御代を詠う歌群のなかに2題あるだけです。

 最初の怨恨歌は、前回(2023/5/8付けブログ)検討した「大伴坂上郎女怨恨歌一首并短歌」と題する2-1-622歌~2-1-623歌 です。今回は、次の怨恨歌3首の検討です。題詞の配列からの紀女郎の怨恨歌の検討は前回しました。

 2-1-646歌  紀女郎怨恨歌三首  (鹿人大夫之女名曰小鹿也安貴王之妻也)

  世間之 女尓思有者 吾渡 痛背乃河乎 渡金目八
  よのなかの をみなにしあらば わがわたる あなせのかはを わたりかねめや

 2-1-647歌  同上

  今者吾羽 和備曽四二結類 氣乃緒尓 念師君乎 縦左久思者
  いまはわは わびぞしにける いきのをに おもひしきみを ゆるさくおもへば

 2-1-648歌  同上

  白妙乃 袖可別 日乎近見 心尓咽飯 哭耳四所泣
  しろたへの そでわかるべき ひをちかみ こころにむせひ ねのみしなかゆ

 

② この怨恨歌3首は、前後の題詞からの検討(ブログ2023/5/29付け)で、直前の題詞の歌と一組の相聞歌群を成すかどうかが宿題となっています。それを歌本文で検討します。

 検討は、諸氏の理解の例を紹介したのち、歌ごとに、元資料の歌を検討し、題詞のもとにある3首の歌としての整合性をみて、直前の題詞との関係を確認します。

③ 2-1-646歌の歌本文から検討します。

 最初に、土屋文明氏の歌本文の大意を次に引用します。氏は、「怨恨は失はれた恋に対する恨み」と坂上郎女の怨恨歌において指摘しています。

2-1-646歌 「世間普通の女であるならば、吾が渡る痛背の川を渡りかねはすまいが、吾は夫に去られて居るので、其の連想のある此の川をば渡りがたくするのである。」 

2-1-647歌 「今は吾はやる方なくなってしまった。命にかけて思った君を離してやると思へば。」

2-1-648歌 「袖を分けて別るべき日が近いので、心にむせつまって、ただ泣きのみ泣かれる。」

 土屋氏は、この3首について「何人を対象としたものか明らかでない」と指摘し、題詞の割注は、安貴王との関係を示唆するも、「単なる題詠的作品と見えぬこともない」と指摘しています。

2-1-646歌については、「全体の表現が極めて間接的で、体験から生まれた歌なら、かう廻りくどい言い方にはならぬ筈である。」と氏は指摘しています。「痛背の川」とは、「川の名アナセを背子を感嘆愛惜する意に言葉をあやなしたところが作歌の重要な動機となって居ると見える」とも指摘しています。

 また、2-1-647歌について「去り行く男性を止むなく許容する心持であらうが、複雑ではあっても、何か不徹底な趣が見える。結句あたりの調子はすなほに響く。」、2-1-648歌については「別離を悲しむ心を常識的に表現したまでであらう」と指摘しています。

 直前の題詞(とそのもとにある歌)とこの3首の関係を検討していません。関係ないとの認識のようです。

④ これに対して、伊藤博氏のこの3首の理解は、「恋における女の「怨恨」を主題にする歌」であり、中国の薄情な男性に対する女の恨みを好んで詩の主題とする風」の属する(作者の)創作歌と指摘しています。

 そして、「三首、時間につれて思いが深まってゆき、組み立てた歌であることが知られる。先の坂上郎女の怨恨歌と異なり、相手ではなく踏み切れぬ自分の弱さやはかなさを悔やみ、怨恨が内省化されているのが目をひく。近代ではこの類を怨恨とはいわないかもしれない。」(『萬葉集釈注二』564p)と指摘しています。

 また、直前の題詞(とそのもとにある歌)とこの3首の関係に言及していません。

 2-1-646歌の現代語訳を氏は、「私がもし世の常の女であったなら、・・・この川をわたりかねてためらうなどということはけっしてありますまい」としています。これは、世の常の女の状況下でないから作者は川を渡るのをためらう、という意です。渡らない理由が、作者特有の事情にあることは両氏とも同じです。

 両氏の理解は、また、別離を悲しみ、しかし相手を一切非難していない歌という点が共通です。また、恋の相手を不明のままにしており、直前の題詞(とそのもとにある歌)との関係を検討していません。

⑤ 次に、題詞にある「怨恨歌」ということを無視してこの3首を検討します。巻四編纂のための元資料の検討です。

 最初に、2-1-646歌です。文の構成をみます。

 初句と二句は、二句にある助詞「ば」が活用語の未然形に付いているので、作者が三句以下を言い出すための仮定の条件を示しています。作者は、大人の女性のうち、「世間之 女」と定義した女性について述べようとしています。

 その条件のもとで作者の出した結論・意見が、三句以下の文となります。作者は、「世間之 女」の行動を推測し、反語・疑問の形で詠い、自らの行動を示唆しています。

 作者の訴えたいことを汲むのに苦労する歌です。

⑥ 初句と二句を検討します。

 初句にある「世間」(よのなか)とは、「a世間・社会」のほかに「b世間の評判・名声 c世間なみであること d男女間の情 e(よのなかの・よのなかにの形で)あとに続く語の意を強める」などの意もあります。

 このため、初句~二句にある「世間之 女」(よのなかの をみな)の意は、a(及びc)とb(及びe)とでは、意味がだいぶ違う意になります。

 すなわち、「世間なみの成人女性」の意と「この上ない(特別な)あるいは名声のある成人女性」の意と別れます。

 そして、「副助詞「し」により、「世間之 女」を強調しています。

 初句と二句は、「世間之 女」の意により2案があることになります。

⑦ 三句と五句にある動詞「渡」(わたる」には、「a(川や海などを)わたる b(年月を)経過する・すごす」意があります。

 三句~四句にある「吾渡 痛背乃河」(わがわたる あなせのかは)の用字をみると、三句にある「わたる」の意は、aの意でしょう。

 だから、四句にある「河」には、「吾渡河」と「痛背乃河」という二つの属性が提示されていることになります。

 最初の属性「作者が川を渡る」という言い方に、当時、女性の一つの決意が示されているという理解があったとするならば、その理解には渡る河を限定していません。特定の川でないとその一つの決意が示されないという理解ではないでしょう。『新編国歌大観』の訓の「わがわたる」に、仮定の意はありません。

 決意の表明が「吾渡河」で完結しているので、その決意に関する作者の何らかの認識あるいは感情が、次の「河」の修飾語に反映されている、と推測できます。いわば、「痛背乃」というのは、間投句という理解が可能となります。

⑧ その修飾語には、ある特定のイメージを象徴する具体の河川の名前でも、用いることができるでしょう。

「痛背乃河」は、大和国三輪山北麓の「穴師川」(現在の巻向川)を指している、という諸氏の指摘があります。その可能性を検討します。

 なお、「痛背」を「あなせ」と訓む理由は『新編国歌大観』に従うので不問とします。

 川は、多くの河が当時、川が流れている土地の名を冠してと呼ばれています。そして、川の名を歌に詠み込む場合音数が優先し「の」字が加わる場合があります。例えば、「あすかがは」は、歌に「あすかのかは(に・の)」とも表記されています。

 「痛背乃河」が「穴師川」(現在の巻向川の桜井市穴師付近を流れている部分の名。川が谷を出る付近にあたる。)の意であるとすると、「穴師川」のイメージの推測にその川を詠んだ『萬葉集』の歌を参考にできます。

 巻七の、「詠雲」とある題詞の一首目2-1-1091歌及び「詠河」の一首目2-1-1104歌には、「痛足河」及び「病足之川」とあります。この2首に、穴師川は、絶えることない流れとなっている川でかつ上流の雨ですぐ増水する川と詠われています。当時、水無瀬川状態になることに無縁な流れであるものの、川遊びや千鳥は詠われていません。

 2-1-1104歌の三句以下「往水之 絶事無 又反将見」(ゆくみづの たゆることなく またかへりみむ)は「流水をまた見よう」とも流水を共にみた人物をまたみたい」とも諸氏に理解されています(付記1.参照)。

 ともに「柿本朝臣人麿之歌集出」と左注にある歌です。だから(たとえ作者が誰であっても)伝承歌の可能性が強い歌であり、この歌の作詠(披露)時点にはよく知られた歌であり、修飾語に「穴師川」を用いるとするならば、作者も知っていた可能性が高い、と思います。

 2-1-1104歌は、「途切れない作者の愛情」がある状況を暗喩していると理解できます。

 しかしながら、歌での川の名は「あなせ(の)かは」であり、実際に三輪山北麓を流れる川は「あなしかは」です。川の名の主要な要素である地名が異なります。このため、この理解は『萬葉集』編纂後の後代(平安時代以降の時代)に生じたと言えます。元資料の歌の理解としては無理があります。

⑨ 次に、作者の何らかの認識あるいは感情を、直接表している語句として「痛背」(あなせ)を理解すると、土屋氏などが指摘しているように「痛背乃河」は、

 感動詞「あな」+名詞(で妹と対となる)「背」+助詞「の」+名詞「河」

という名詞句と理解できます。

「あな」とは、「驚いたり感動したりしたときに自然に発する語。ああ。」です(『例解古語辞典』 以下同じ)。

「背」は、これまで作者に逢いに来てくれていた人物であり、作者はよく知っている(つもり)の人物です。だから、「背」と呼びかけるにはいろいろの思いが重なっていると推測できます。

 現代での例をあげれば、メールにある「彼女の犬」という語句のみで、「彼女の、かわいがっていたが散歩にゆけなくなってしまった老犬」の意であることは、事情を知っている者同士では了解できます。そしてその彼女の犬への思いと、またメールを送った人物が抱いているその彼女への感情・思いも「彼女の犬」という語句に込められている、とメールを送られた人物は理解できるでしょう。

 この歌がおくられたり披露された場面は、「背」の君とか「背」の君をよくしる人物におくられたりした時と推測できますので、「痛背乃河」に、現代での例のような当事者間の了解・理解があるとみることが可能です。

⑩ そのような「背乃河」を、恋の歌として理解しようとすると、

 「背」の君のよい思い出につながる河:例えば、「「背」の君の(渡って私のもとに通ってきたところの)河」

 「背」の君との破局の原因を婉曲に示す河:例えば、「あの人の(、あの女のところへ行くのに渡ると聞いた)河」

とベクトルが異なる2案が想定可能です。

 つまり、当事者間では了解できる何かを「背乃河」という縮約した表記で言っている、という理解です。少なくとも、「背」の君は作者にとって今も気になる存在である、と言えます。

 この場合、2-1-1104歌を作者が承知しているならば、作者の愛情は「背」の君にまだあるはずであり、よい思い出につながる河につながり、上記⑧と同じ意となります。

 2-1-1104歌を知らないで詠っているならば、よい思い出につながる河なのか、破局の原因を婉曲に示す河なのか、は不明です。 但し、『萬葉集』巻四の編纂者は知っているので、よい思い出につながる河として、ここに配列している可能性があります。

⑪ 次に、五句「渡金目八」(わたりかねめや)の「八」(や)は反語の助詞です。

 動詞「渡る」の連用形+接尾語「かぬ」の未然形+推量の助動詞「む」の已然形+終助詞「や」(反語・疑問の意)

 「かぬ」は、「・・・することができない。・・・しかねる」意を添える語であり(『例解古語辞典』)、

 五句の「や」は、初句~二句に示された仮定に対する反語・疑問でしょう。

 五句の意は、「世間之 女」は、「河を渡ることができない、ということか、いやそうではない」、という意となります。

 作者は、「吾渡(河)」と自分の決意を表明しているのに、「世間之 女」の行動の例に言及しているので、

 作者の決意がほかの成人女性と同じかどうかを気にしていることになります。あるいは作者自身の決意が妥当かどうかを自問自答していることになります。

 そして、作者はその人らと同じことをしている、ということを念押ししているか、その人らに及ばないということを確認しているかのどちらかになります。

 自分と「この上ない(特別な)あるいは名声のある成人女性」との比較であれば、その人らと同じことをするすることになる、ということを宣言していることになります。作者は、そのような成人女性と自覚していないから比較しているのであり、だいそれたことだが、決断した、という気持ちで詠っていることになります。

⑫ これまでの検討を整理すると、恋の歌として、

 初句~二句に、2意(普通の女性と特別な女性)があります。

 三句は、1意でした。

 四句は、作者の相手の男性への思いに2意(よい思い出と破局への怒り)ありました。川の名の引用はありません。

 五句は、初句の2意に対応しています。

 さて、土屋氏は、上記③に引用したように、世間普通の女ならば河は誰もが渡るが、このような名の河であると渡りにくいが私も渡ることになる、という理解ですので、初句~二句と四句を一方に限定した例となります。そして川の名を引用しています。

 土屋氏の理解は、巻四にある題詞のもとの歌として示されています。

 しかし、元資料の歌は、このような理解と異なる場合も有り得た歌となりました。

⑬ 令和の時代の私には、作者と「背」の君との間にある作詠時点の感情を推測する手掛かりがないので、元資料の当初に詠まれた作意を正確に推測するのは至難のことです。

 また、この歌が伝承歌となった段階が元資料ということであれば、作中人物(この歌の引用者)と「背」の君との間にある感情によってこの歌の理解が異るものとして利用されていたことになります。

 つまり、『萬葉集』巻四におけるこの歌は、その題詞によって、作者と「背」の君との間にある感情が限定されているのではないか。それは同一の題詞のもとにある3首からなる歌群として統一的に理解することになります。

⑭ そのため、この元資料の歌の理解は作者と「背」の君との間にある感情は、大別次の2案があるものとなります。そして、巻四の題詞のもとの歌としての検討に進みたい、と思います。

 第1案:世間なみの成人女性であれば、

私が渡ろうとしている川が、ああ、「背」の君の(渡って通ってきた或いはあの女性に通う)河ということで、渡るのに躊躇するであろうか。そのようなことはない。(だから私も当然のこととして渡るのである)。

 第2案:世間なみの成人女性であれば、

私が渡ろうとしている川が、ああ、「背」の君の(渡って通ってきた或いはあの女性に通う)河ということで、渡るのに躊躇するであろうか。しかし私は躊躇しつつ渡るのである)。

 第3案:この上ない(特別な)成人女性であれば、

私が渡ろうとしている川が、ああ、「背」の君の(渡って通ってきた或いはあの女性に通う)河ということで、渡るのに躊躇するであろうか。(だから私も、同じように川を渡るのである)。   

⑮ 次に、巻四の歌として、特定の題詞のもとにある3首の最初の歌として、検討します。

 題詞は「紀女郎怨恨歌三首」ですので、「紀女郎と当時呼ばれていた女性が作者である「怨恨歌」と称することができる3首」、と理解できます。

 「紀女郎」とは、紀氏に関係ある女性の意です。巻四には、大伴家持と笠女郎や大神女郎との贈答歌があります。それらは宴席の歌ではないのが明らかなので、「女郎」と記す女性は、少なくとも官人の家族である成人女性と言えます。

 題詞の割注では、安貴王の妻とあります。妻となり得る立場の女性は「女郎」と表記し得るもののようです。

 なお、安貴王には、長歌2-1-537歌と反歌2-1-538歌が『萬葉集』にあります。その題詞の割注に「右安貴王娶因幡八上釆女 係念極甚愛情尤盛 於時勅断不敬之罪退却本郷焉 于是王意悼怛聊作此歌也」とあります。

 一般に、王や官人の妻であれば、夫に対して、通常妻の立場を強く主張するでしょう。婚姻は氏族が結びつく有力な方法であり、少なくとも妻の立場を自ら諦めるとは信じられません。

 だから、紀女郎が、実際に夫と別れる際、元資料の歌のような歌意で詠むとは思えません。

⑯ 次に、「怨恨」とは、土屋氏は、「失はれた恋に対する恨み」の意としています。「怨恨歌」とはその恨みの歌、ということになります。

私は、大伴郎女の怨恨歌の検討の結果、巻四にある「題詞のもとの歌」として「「怨恨歌」とは「歌」字の意を「大和の言葉による歌」とすると、恋の相手をうらめしく思うよりも(期待を断ち切れないでいた)「自分の行動を悔やんだ歌」の意であり、特定の相手におくりつけた歌ではなく、周囲の者に心情を吐露した歌ではないか。」と理解しました(ブログ2023/5/8付け「12.⑨」参照)。また「特定の個人を念頭においた歌ではなく、私的な場の社交的な歌である」(同ブログ「12.⑰」参照) 即ち大伴郎女の怨恨歌は社交の場(例えば女性の集まりの場)での歌でした。

 この歌も、巻四にある「題詞のもとの歌」として社交の場の歌であり、実際に紀女郎が「河を渡る」決意をした際の歌ではない、と理解してよい、と思います。2-1-670歌の左注にあるような、「いささかに戯歌を作りて、もちて問答をなせるなり」の類の歌ではないか(付記2.参照)。

 題詞の現代語訳を試みるとつぎのとおり。

 「紀女郎の詠う、自分の行動を悔やんだ歌3首」

⑰ 次に、歌本文を検討します。

 上記のような題詞の意のもとで2-1-646歌の元資料の歌の理解(上記⑫~⑭)を基本に検討します。

 元資料歌にいう「河を渡る」という決意が、題詞に示す「自分の行動」であるので、その決意を悔やんだ歌として理解を限定することになります。

 そうすると、作中人物は、河を渡りたくなかったのにそうせざるを得なかったことになります。つまり、未練があるのに、別れる選択を相手がしたことを認めた場合の歌となります。上記⑭の第2案が有力となります。

 四句にある「痛背乃河」(あなせのかは)は、土屋氏の指摘するように「(川の名アナセを)背子を感嘆愛惜する意」が妥当であり、作中人物は、相手をよい思い出のある人物と認識して、河を渡ったことになります。

 題詞のもとには3首あるので、その理解の整合性を確認したい、と思いますので、3首をすべて元資料の歌としての検討をさきにしたい、と思います。

 ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただき有難うございます。

 (2023/6/12  上村 朋)

付記1.「あなし(の)かは」を詠む歌について

①『萬葉集』には「あなし(の)かは」を表記している歌が、巻七に二首ある。左注で「右二首柿本朝臣人麿之歌集出」とくくられているので、その右二首計4首を引用する。

② 2-1-1091歌 詠雲   (題詞「詠雲」の一首目)

痛足河 河浪立奴 巻目之 由槻我高仁 雲居立有良志

あなしがは かはなみたちぬ まきむくの ゆつきがたけに くもゐたてるらし

 2-1-1092歌 (同上)

足引之 山河之瀬 響苗年 弓月高 雲立渡

あしひきの やまがはのせの なるなへに ゆつきがたけに くもたちわたる

(左注あり) 右二首柿本朝臣人麿之歌集出

③ 2-1-1104歌 詠河  (題詞「詠河」の一首目)

巻向之 病足之河由 往水之 絶事無 又反将見

まきむくの あなしのかはゆ ゆくみづの たゆることなく またかへりみむ

2-1-1105歌 (同上)

黒玉之 夜去来者 巻向之 川音高之母 荒足鴨疾

ぬばたまの よるさりくれば まきむくの かはおとたかしも あらしかもとき

(左注あり) 右二首柿本朝臣人麿之歌集出

④ 阿蘇瑞枝氏は、次のように指摘する。

A万葉集中にある巻向地方の歌は人麿歌集に特に多く(14首)、この地域と人麿と特別な関係が指摘されている。

B 2-1-1091歌を斎藤茂吉は「写生の極致ともいふべき優れた歌」(「柿本人麿評釈篇巻之下」)という。

C稲岡耕二氏は写生歌とする見方は「近代的すぎる」と指摘し、「雲を恋人の霊魂と見る古代的意識と無縁ではない」 「叙景歌と見まがうばかりの作品でありながら、じつは深い思慕の情をたたえたものであるという人麻呂歌(である)」「巻向の女性への恋心が、立ちのぼる雲をそのタマとして見させているとすべきであろう」という。

D 2-1-1104歌の類歌に2-1-37歌がある。吉野行幸従駕の際の歌で吉野の地を讃えることを通して天皇賛歌を行っている。初句~三句は「たゆることなく」を起こす序。

E 「巻向地方と人麿との関係からみて、妻への愛が背景にあったという指摘がある。痛足河の忘れがたさを詠んでいるのはそのかわのほとりに忘れかねる理由があるからである(全註)」

付記2.土屋文明氏の相聞歌の理解 (『萬葉集私注』より)

① 2-1-652歌の左注は、上掲4首の作歌動機を察する糸口とならう。歌が社交の具となり、歌のために歌を作る風習の既に存したことが知られる。

② 2-1-649歌~2-1-655歌は、恋愛歌の様な所があっても実は単純な起居相聞の歌と見るべきである。さうした場合でも、相当な甘美な言葉を交換する当時の感覚といふものは、其の時代の作品を受け入れるに考慮して置くべきものであらう。

③「相問」は「相聞」と同意に用いられる。相聞と部類される歌の性格を知る手がかりとならう。

(付記終わり  2023/6/12  上村 朋)