わかたんかこれ 萬葉集弓削皇子の歌その1

 前回(2023/10/23)に引きつづき『猿丸集』歌の第25歌の再確認を続けます。

1.~4.経緯

2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。12の歌群の想定を行い、3-4-25歌は、「第五 逆境の歌」の歌群に整理している。3-4-24歌までは、すべて類似歌とは異なる歌意の恋の歌であることを確認した。3-4-25歌の類似歌は『萬葉集』の2-1-120歌である。

歌は、『新編国歌大観』より引用する。

5.再考 2-1-120歌のための題詞の検討

① 2-1-120歌は『萬葉集』の巻二にあります。その題詞に用いられている「思」字は再検討中です。

 題詞での「思」字は、各巻の編纂者ごとに共通の意で用いられている、と予想しています。そのため、題詞に「思」字のある巻二の計3題のうち2題の検討を終え、最後の題詞(2-1-120歌の題詞)の「思」字の検討をし、2-1-120歌を再考します。

② 題詞と歌本文を引用します。部立ては「相聞」です。

2-1-120歌 題詞 弓削皇子思紀皇女御歌四首(2-1-119歌~2-1-122歌)

    歌本文 吾妹児尓 恋乍不有者 秋芽之 咲而散去流 花尓有猿尾

   わぎもこに こひつつあらずは あきはぎの さきてちりぬる はなにあらましを

 この歌の題詞は、「思」字を用いて作文されています。この題詞の「・・・御歌四首」により、2-1-119歌から2-1-122歌までは、一つの歌群とみなせます。

 この4首は、この題詞のもとで整合がとれた理解が必要です。題詞を再検討の後、歌本文をすべて再検討します。

③ 最初に、題詞を検討します。

 題詞に記載されている人物を確認します。

 弓削皇子は、父が天武天皇、母が天智天皇の皇女(大江皇女)であり、同母兄に長皇子がいます。文武天皇3年(699)薨去(27歳か)されています。柿本人麻呂歌集には弓削皇子に献上した歌が5首あります。

 紀皇女は、天武天皇の皇女の一人であり、母が曽我赤兄娘(大蕤娘)で、同母兄に穂積皇子がいます。 そのほかの記録がほんどない人物だそうです。穂積皇子の年齢は、推定できます。和銅8年(715)6月薨去時に40歳前半と推定(ウィキペディア及びブログ2023/10/16付け「3.⑬参照)できますので、弓削皇子薨去時(文武天皇3年)には、(40歳前半-16年で、つまり)24歳~29歳と推定でき、その妹はそれより若いことになります。

 だから弓削皇子と紀皇女は同世代であり、皇族として朝廷の行事で同席することがあったと推測できます。しかし、個人的に親しくしていたのかどうかは不明です。

 文武天皇は、当時としては15歳という先例のない異例の若さで即位した天皇であり、妃や皇后の記録がなく、25歳で崩御しています。妃と皇后となれる資格は皇族出身者が当時までの常例であるので、紀皇女は、独身であれば候補の一人と目される立場にあります。

④ 次に、作者とこの歌をおくった相手を確認します。

 題詞題詞の作文パターンは、「人物名A+思+人物名B+御歌〇首」です。

万葉集』巻二の部立て「相聞」にある題詞は、どの作文パターンにおいても、題詞の文章の最初に記された人物名が、その文章の主語になっており、作者でもあります。場合によって代作させた人物と理解すべきものもあります。(付記1.参照)。

 この題詞も、文章の最初に記されている「人物名A」がこの歌の作者です。即ち、弓削皇子です。

「思+人物名B」は作詠動機に関する語句と理解できます。

 しかし、おくった相手(あるいは披露した場面・機会)に関する語句は直接には記されていません。作者は人物名Bを「思」って作詠しているのですからその「思」っている相手が第一候補になりますが、その相手との仲介にたつ人物や単にぼやきたい人物(も披露した場面・機会)も、この題詞の文章では、これらを否定しているかどうか自体もはっきりしません。だから、おくった相手が誰か(あるいは披露した場面・機会)は、「思」字の理解と歌本文の内容次第となります。

⑤ さて、題詞の読み下しとその現代語訳(試案)は、前回、次のように示しました。

 読み下し文 「弓削皇子の紀皇女を思ふ御歌四首(2-1-119歌~2-1-122歌)」

現代語訳(試案) 「弓削皇子が、紀皇女を思う御歌四首」 (119~122)」 (ブログ2018/7/16付け)

 簡潔な倭習漢文であるので、現代語訳(試案)としては、これで十分である、と思います。

 諸氏の読み下し文では、「思」字を「おもふ」あるいは「しのふ」と訓んでいます。いずれの場合も、弓削皇子が、紀皇女に恋をしている、という理解が大多数です。

⑥ 巻二のこれまで検討してきた漢字「思」字を用いた題詞2題においては、歌本文の理解から次のようになりました。

  2-1-85歌の題詞:動詞であり「おもふ」と訓み、「恋する」意というよりも、日本語の「おもふ」の「心に思う」とか「心配する。憂える」意である。日常思い続けていることを詠っている歌群に編纂者は仕立てている(ブログ2023/10/16付け「3.⑤」)。

  2-1-114歌の題詞:動詞であり「おもふ」と訓み、漢字「思」の意のうち、「かんがえる」とか「思案する」とか「おもいやる」というものであり、日本語の「おもふ」の「心に思う」に通じる意で用いられている。「いとしく思う。愛する」とか「心配する。憂える」の意ではない(ブログ2023/10/23付け「3.⑬)。

 この題詞でも、同様に、漢字「思」の意のうち、「かんがえる」とか「思案する」とか「おもいやる」というものであり、日本語の「おもふ」の「心に思う」とか「心配する」意に通じているのであろうと推測(し作業仮説と)します。その確認は、巻二の歌の配列と当該歌本文から具体的な推測がこれまでの2題と同様に可能である、と思います。諸氏は恋を示唆しているとして指摘していますが、「思」字を用いていることから、少なくとも作者弓削皇子と紀皇女の間における恋の喫緊の課題を抱えていない、と予想しています。

⑦ なお、漢字「思」字は、万葉仮名として歌本文にも用いられています。多くの歌本文において「思」字は、日本語での「し」の音を表記しており、「おもふ」とか「しのふ」と訓まれている例は少数です(『新編国歌大観』による)。巻二の編纂者が漢字「思」字にイメージしている例になると思いますので、巻一と巻二での用例をみてみます。

 「思」字を、「おもふ」と訓んでいる歌は、巻一に1か所(部立て「雑歌」にある2-1-5歌)、巻二に9か所(「相聞」に4か所「挽歌」に5か所)あります。相聞にあるのは、柿本人麻呂が単身赴任する際の歌4首(2-1-131歌など)のみです。現に恋に陥っている際の歌ではありません。そのほかも同じです。

 「しのふ」と訓まれている歌は、巻一に1か所(部立て「雑歌」)にある2-1-54歌)、巻二に1か所(「挽歌」にある2-1-233歌)あります。ともに、現に恋に陥っている際の歌ではありません。

 このように、日本語を表記している歌本文でも、「おもふ」及び「しのふ」と訓んでいる際は、漢字「思」の意になっています。

 これから弓削皇子の気持ちを推測すると、現に恋をしている際の歌の題詞であれば「思+人物名」と記すよりも「贈+人物名」などとするのではないか。

 また、伊藤博氏のいうこの題詞のもとにある4首が後人仮託の歌(群)であれば、弓削皇子が現に恋をしているかどうかは問題外となります。

⑧ そして、題詞の作文のパターン(・・・御作歌◯首ではなく御歌〇首)からは、弓削皇子ご自身の詠作あるいは代作と断言できず、編纂者が弓削皇子の歌という建前で記載した歌、とも理解できます(ブログ2018/7/16付け「3.①」参照)。

 ここでは、弓削皇子ご自身の詠作(または代作者による弓削皇子の歌)としてまず検討します。

6.再考 2-1-119歌検討

① 4首の歌本文を順に検討します。4首は、ブログ2018/7/16付けで一度検討しました。その際は、恋の歌として、進展のない時点の歌であること、及び恋の進行順でもない片恋の歌を羅列していることを、指摘しました。

 最初に2-1-119歌について、題詞を無視した歌本文として検討し、次いでこの題詞のもとにある歌本文として検討します。

2-1-119歌 芳野河 逝瀬之早見 須臾毛 不通事無 有巨勢濃香問

よしのがは ゆくせのはやみ しましくも よどむことなく ありこせぬかも

 作者は、四句までの24文字を用いて、作者の言わんとすることの例としているかに見えます。

② 主な語句の意を確認します。

 初句「芳野河」とは、吉野山中にある川一般をさします。二句~四句の景は、吉野山中の川であればどこの瀬でも見られることだからです。

 二句にある「瀬」とは、川や海の浅くなっている所を指します。「淵」の対です。

三句「しましく」とは、副詞であり「しばらくの間」の意です(『例解古語辞典』)。

 四句にある動詞「よどむ」とは、「a流れる水が滞る」と「b物ごとがすらすら進まない・停滞する」(同上)の2意があります。

 五句の「ありこせぬかも」とは、「動詞「在り」の連用形+助動詞「こす」の未然形+上代の用法の連語「ぬかも」と分解できます。

動詞「在り」とは「aある・存在する bその場に居合わせるc(時が)たつ・経過する」意です。助動詞「こす」は主に上代に用いられているそうで、「他に対してあつらえ望む」意を表します。そして「ぬかも」は詠嘆の気持ちをこめた願望の意を表します(・・・ないかなあ、・・・てくれないかなあ)。 

だから「ありこせぬかも」とは、「a存在し続けてくれないかなあ bその場に居合わせてくれないかなあ c時がたってくれないかなあ・経過してくれないかなあ」の意となります。

③ 歌本文をみると、「ありこせぬかも」の対象となる事柄は明記されていません。初句~四句は、吉野山中の川の瀬における流水の状況を詠っています。その状況を「よどむことなし」(流れる水は滞らない)と表現し、「よどむ」の同音異義の意「物ごとがすらすら進まない」に転じて四句と五句で作者の言いたいことを表現しています。

 ただし、何がどのような状態になったら四句の「よどむことなく」なのか、は表現していません。作者とこの歌をおくられた人物との間では何が五句「ありこせぬかも」の対象であるかは自明のこととしてこの歌は詠まれています。

 このため、題詞を無視した歌本文の現代語訳は、それらに予想を加えることは控えて、次のようになります。

吉野山中を流れる川の瀬は、どこでも流れが速くわずかな時間も澱むことがない。そのようなよどむことのない状況になってくれないかなあ。」

④ この歌は、作者からみると、進捗していない事柄が動き出すこと、あるいは特定の人物との関係が改善することを願っていることになります。これは、恋愛中でもあり得ることです。しかし、そのための打開策は、その提案の有無を含めて当事者にしかわかっていません。

 作者が願っている例をあげると、

第一 官人として協議が行き詰まっている時、暗黙の手順の理解(前例踏襲・賄賂など)を求める時、相手の報告が遅れている時など

第二 個人的な事情として恋の文の遣り取りが滞っている時とか、交友関係の要改善時など

が考えられます。

言い換えると、一般に、恋に限らず、ある緊張関係・信頼関係が良い方向に向いていないと自覚している、という時の歌ではないか、と推測します。

 これだけの用途がこの歌にあるとすると、既に、誰もが利用できる伝承歌の一つとなっていたのかもしれません。

 伝承歌となったきっかけは、詠まれる機会が多い恋の歌の可能性が高い、と思います。相手との関係を作者側からみると、新たな関係を築くのが停滞しているか復縁を迫っているかの時点の歌ではないか。

⑤ このため、現代語訳は、一般的な想定のほか、多くの方が理解して恋の歌と限定した想定で、試みることとします。

第一案 作者とこの歌をおくった相手の間に何らかの緊張関係あるいは信頼関係の問題が生じていると想定した一般的な場合

吉野山中を流れる川の瀬は、流れが速くわずかな時間も澱むことがない。そのようによどむことのない状況が続いてくれないかなあ(なんとか解決したいですねえ)。」

五句「ありこせぬかも」は、「a存在し続けてくれないかなあ」の意と理解しました。「かも」には作者の詠嘆の気持ちがはいっています。

この歌は、歌をおくる前に打開する方法・手段の提案の有無に触れていませんが、その提案のための挨拶歌としても利用可能です。

前回の(試案)は、

吉野川の早瀬のところが暫くの間でも淀まないように、私の場合もなってくれないものかなあ。」

というものでした(ブログ2018/7/16付け 「5.②」)。

「私の場合」というのは、題詞の「思」字の理解の特異な例になるでしょうから、ここにいう恋の歌の場合の現代語訳(試案)に限定されると、今では整理できます。

 

第二案 作者とこの歌をおくった異性である相手の間に問題が生じていると作者が信じていると想定した場合(第一案の中の一例)

 「吉野山中を流れる川の瀬は、流れが速くしばらくの時間も澱むことがない。それと同じように私たちの仲もよどむことのないようになってくれないかなあ。」 

 五句「ありこせぬかも」は、「a存在し続けてくれないかなあ」の意、と理解しました。

この理解でも、事前に打開する方法・手段の提案のための挨拶歌としても利用可能です。

⑥ 次に、題詞のもとにある歌本文として現代語訳を試みます。

題詞から、作者は、「5.④」に指摘したように「人物名A」に相当する弓削皇子です。

おくった相手も、「5.④」に指摘したように、作詠事情で名が明記されている「人物名B」である紀皇女が有力候補であるもののAとBに関係のある人物であることなどを排除できません。

歌本文の現代語訳は、題詞を無視した歌本文と同様に、一般的な場合と、恋の歌と限定した場合に別けて試みます。

⑦ 題詞のもとにおいて、作者弓削皇子は、「紀皇女を思」って詠っていますので、紀皇女が関係する何らかの問題が生じていることを承知している、と推測できます。それだけが判っている場合を一般的な場合とします。題詞を無視した検討における「一般的な場合」に相当します。

 弓削皇子がどのようなことを「思」っているのか、題詞では判然としません。つまり、何が問題であったのかあるいは何が気になるのかが不明なので、その「何」に触れない現代語訳は上記⑤の第一案と同じになります。歌をおくった相手(披露された場面)に関しても歌本文には推測の手がかりがありません。

 しかしながら、題詞に「紀皇女を思い」とあるので、幾つかの想定が可能です。

二人は、同世代の皇族であり、紀皇女の悩み事を弓削皇子が聞いていたり、恋愛関係になっていたりしている時の歌である可能性があります。あるいは紀皇女の置かれている立場に起因する問題が発生した時の歌である可能性があります。つまり、紀皇女自身の悩みあるいは皇女が外部の事情に巻き込まれる場合の悩みです。

 そうすると、題詞の「思」字の内容は、身近なことで皇子・皇女間のちょっとした仲違いや教養獲得時の悩み、あるいは紀皇女の婚姻や斎院候補や寺社への勅使候補などへの作者弓削皇子の配慮なのではないか。あるいは恋愛関係でのことも想定できますが、恋の歌と限定した現代語訳を後程試みます。

⑧ その配慮の対象の具体的なことは当事者しかわからないので、歌本文の現代語訳としては、上記⑤に記す第一案と同じになります。歌の前提条件として配慮の具体的な対象は、歌をおくる相手と共有していることになります。

また、そのような歌が、なぜ巻二の編纂者の手元にあるかといえば、歌が公開されていたから(誰かが書き留めることができたから)ではないか。そうすると、「その配慮の対象」は周知のことか社交的な話題であって宴席で話題にできる事柄ではないか。二人の間だけの秘め事に関する歌は公開しないでしょう。

そのため、題詞の「思」字の意は、漢字「思」の意のうち、「かんがえる」とか「思案する」とか「おもいやる」というものであり、日本語の「おもふ」の「心に思う」とか「心配する」意に通じている、と推測してよい、と思います。

⑨ 次いで、恋の歌として現代語訳を試みます。

 この場合、皇子と皇女の恋の歌ですので、歌が公開されていたのであれば律令にも触れるような事態における歌ではあり得ません。だから密かに文の遣り取りをしていたのではなく、宴席等での社交的な遣り取りの歌の可能性が高いでしょう。

 歌本文の現代語訳は、上記の第二案と同じになります。そして巻二の編纂者がこの歌を知るのは容易です。

 「私たちの仲」がよどむとは、宴席等で二人のことが話題となったときその場の雰囲気を察しない応対を指しているのではないか。

 そうすると、題詞の「思」字の意は、「その場にふさわしい行動は何かを心に思い」とか「その場の雰囲気を考えて」とか「なりゆきで」という意ではないか。

 男女の恋愛の行く末を、「心に思う」とか「思案する」とか「おもいやる」ことは、題詞における漢字「思」字の意に合致します。

 そのため、恋愛の歌になぞらえた社交的な歌として、恋の歌は有り得ると思います。

⑩ 2-1-119歌の理解は、この題詞のもとにある残りの3首と整合する理解となることが条件です。上記の⑦以降の検討結果としての第一案と第二案を現代語訳(試案)の候補として3首との整合を検討することとします。

 なお、題詞のもとにある歌として、土屋文明氏は、「吾等の間もよどみとどこほることなくありたい」と理解し、伊藤博氏は、「二人の仲も・・・淀むことなくあってくれないものか」と理解し、ともに、弓削皇子が紀皇女におくった形の恋愛の歌、という外見を呈している、と指摘しています。

 次回は、2-1-120歌を再検討します。

 ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただき有難うございます。

(2023/11/6  上村 朋)

付記1.巻二の部立て「相聞」にある題詞の作文パターン別一覧

① 作文パターンごとに、作者名と歌をおくる相手の明記の有無を確認すると、次の表が得られる。

 その表では、歌の作者名を「人物名A」、歌をおくる相手を「人物名C」と整理した。題詞にその人を「思」って作詠したとある場合のその人は「人物名B」、そのほか歌をおくる相手と思われない人物名については、「人物名D」、「人物名E」などと整理した。

② 36題ある題詞において最初に記された人物名が作者(「人物名A」)であるのが34題あり、残りの2           題は「或本歌(曰、〇首」とあるだけの題詞である。

③ 歌をおくった人物(「人物名C」)を明記してある題詞は10題しかない。そのほかの題詞においては、配列や歌本文から歌をおくった人物像(あるいは披露された場面)の推定がほとんどの場合可能である。

 

 表 巻二 相聞の歌の題詞の作文パターン別一覧 (計36題 2023/10/30現在)

作文パターン

題詞のある歌番号等

題数

備考

人物名A+(思+人物名B)+作歌〇首

2-1-85歌

 1

返歌無し

人物名A+(思+人物名B)+歌〇首

2-1-119歌

 1

返歌無し

人物名A+・・・時+(思+人物名B)+作歌〇首

2-1-114歌

 1

返歌無し

人物名A+(贈+人物名C)+歌〇首

 

2-1-107歌、2-1-126歌、2-1-129歌*

 3

*は返歌無し

人物名A+(贈賜+人物名C)+歌〇首

2-1-110歌*

 1

*は返歌無し

人物名A+(報贈+人物名C)+歌〇首

2-1-94歌

 1

 

人物名A+(更贈+人物名C)+歌〇首

2-1-128歌

 1

 

人物名A+(賜+人物名C)+歌〇首

2-1-91歌、2-1-103歌

 2

返歌あり

・・・時+人物名A+(贈+人物名C)+歌〇首

2-1-93歌

 1

返歌あり

・・・時+人物名A+(贈与+人物名C)+歌〇首

2-1-111歌

 1

返歌あり

人物名A+(報贈)+歌〇首

2-1-102歌、 2-1-127歌

 2

 

人物名A+(奉和)+歌〇首

2-1-92歌、2-1-104歌、2-1-108歌、2-1-112歌、2-1-118歌

 5

 

・・・時+人物名A+(奉入)+歌〇首

2-1-113歌

 1

 

人物名A+娶+人物名D+時+作歌〇首

2-1-95歌

 1

 

人物名A+娉+人物名D+時+歌〇首

2-1-96歌、2-1-101歌

 2

 

人物名A+歌〇首

2-1-117歌

 1

返歌あり

人物名A+(与+人物名E)+歌〇首

2-1-130歌

 1

返歌無し

人物名A+与+人物名F+相別+歌〇首

2-1-140歌

 1

贈歌あり

人物名A+・・・+而+作歌〇首

人物名A+・・・+臥病+作歌〇首

2-1-116歌*、

2-1-123歌

 2

*は返歌無し

人物名A+…時+歌〇首

2-1-131歌

 1

返歌あり

・・・時+人物名A+作歌

2-1-105歌、2-1-109歌、2-1-115歌

 3

返歌無しし

或本歌曰 &或本歌〇首

2-1-89歌、2-1-138歌

 2

返歌無しし

古事記曰+・・・時+人物名A+・・・而追徃時歌曰

2-1-90歌、

 1

返歌無し

 計

 

36

 

注1)歌番号等: 『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)人物名A: 題詞のもとの歌における作者の名と判断した人物。

注3)人物名B: 題詞のもとの歌の作者が詠うにあたって「思」った相手。

注4)人物名C: 題詞のもとの歌の作者が、その歌をおくった相手と判断した人物。

注5)人物名D,E,F:人物名A,BまたはCでない人物。人物名Cと重なっている場合がある。

’付記終わり 2023/11/6    上村 朋)

 

 

わかたんかこれ 猿丸集その213 恋歌確認25歌 萬葉集で昔を振り返る但馬皇女

前回(2023/10/16)に引きつづき『猿丸集』歌の第25歌の再確認を続けます。

1.~3.経緯

 2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。12の歌群の想定を行い、3-4-25歌は、「第五 逆境の歌」の歌群に整理している。3-4-24歌までは、すべて類似歌とは異なる歌意の恋の歌であることを確認した。

 歌は、『新編国歌大観』より引用する。

4.再考 類似歌 2-1-120歌のための2-1-114歌の検討

① 『萬葉集』の巻二にある題詞の「思」字を再検討中です。

 題詞での「思」字は、編纂者ごとに共通の意で用いられている、と予想しています。そのため、巻二にある2-1-120歌以外の題詞の「思」字の検討を先行させています。そのひとつ2-1-114歌に関して検討します。

② 題詞と歌本文を引用します。部立ては「相聞」です。

 2-1-114歌  但馬皇女高市皇子宮時思穂積皇子御作歌一首

秋田之 穂向乃所縁 異所縁 君尓因奈名 事痛有登母

あきのたの ほむきのよれる かたよりに きみによりなな こちたくありとも

 この歌の題詞は「思」字を用いて作文されています。この歌から2-1-116歌までは、題詞に、但馬皇女の「御作歌」と連続してあり、一つの歌群とみなせます。題詞にある「在高市皇子宮時」は、2-1-116歌の題詞にもあります。

③ 題詞は、前回のブログ(2023/9/4付け)での「在」字の検討を踏まえ、次のような読み下し文と現代語訳(試案)が得られます。

 「但馬皇女高市皇子宮に在りし時、穂積皇子を思う御作歌一首」

 「但馬皇女高市皇子の宮にある時居って、穂積皇子を思い、作られた(あるいはつくらせた)御歌一首。」(2-1-114歌題詞(試案))

 漢字「在」字は、「ある(a存在する bいる(在住) c生きている d・・・にある)」とか「明らかにする」の意があります。国字としては「います(ある・いるの敬語)の意があります(『角川新字源』)。 「居住」していた場合以外に一時滞在していた場合も表現できる漢字であり、その意に理解します。

④ 漢字「思」字は、動詞の場合「おもふ」と訓み、「aかんがえる。はかる。bねがう、のぞむ。(思身) cしたう。dおもいやる、追想する。(思詠) eあわれむ、かなしむ。(思秋)。」の意があります。

「おもふ」の同訓異義の説明では、「思」に「くふう・思案する・思いしたう・思慕」とあり、「念」は「心の中にじっと思っていて、思いがはなれない・胸にもつ」、「想」は「おもいやる・思いうかべる」とあります。

 2-1-114歌の題詞にある「思」字の意を、諸氏の多くは「cしたう」と理解して、この題詞は「恋の歌」のものと理解しています。しかし、上記のように「aかんがえる」あるいは「dおもいやる、追想する」という理解も可能です。同訓異義の説明に従えば、「思いしたう思慕」のほかに「くふう・思案する」の理解もあるということです。

 また、相聞歌とは、一般に、相手と歌の遣り取りをしている歌なので、相手の歌があれば、言外の意がくみ取りやすいうえに相手の人物も特定しやすくなります。しかし、そのような歌が2-1-114歌には無いので、歌の配列や題詞と歌本文から言外の意と歌をおくった相手を想定するほかありません。

 このため、題詞から相手を推測しようとすると、おくった相手の名を明記していませんので、「思」字がもし恋心を指すのであれば「思穂積皇子」から、第一候補は穂積皇子と想定できます。「思」字は別の意も示し得るので、その場合別の人物が候補となり得ます。

⑤ そのため、題詞以外歌本文や歌の配列にヒントを求めなければなりません。歌本文の理解を、題詞を無視して一度検討してみます。

 この歌本文は、二つの文からなります。四句の末尾「な」が、完了の助動詞「ぬ」の未然形につき文を言い切っている(上代語の)終助詞「な」であるので、初句~四句からなる一文と、五句のみの一文に分かれます。

 その終助詞「な」には、次の意があります。

a自分自身の願望・意志を表す

b呼びかけ・勧誘を表す

c相手に対する期待・願望を表す

 これから、初句~四句からなる最初の文の意は、歌本文だけでは1案に絞り込めない可能性があります。

⑥ 最初の文の主語は、四句にある「君尓因」より、明記していませんが作者である、とわかります。

 あとの文の主語は、五句にある動詞「有」により、明記されていない「それ」ではないか。具体的には何を指しているか推測しなければなりません。

 そのほかの、いくつかの語句の意の確認をしておきます。

 まず、「よる」と発音する語句が歌に三か所あります。同じ意なのかを確認します。

 二句と三句に「所縁」と表記されているのは、秋の刈り入れ頃の稲穂が田毎に一方向に頭を垂れる様子の描写に関する場面であり、それは「寄る」という動詞の意のうちの 「寄り添う・なびきよる」あるいは「もたれる・よりかかる」ではないか。

「寄る」の意は、『例解古語辞典』によれば、このほか「a近寄る・近づく b服従する c身をよせる・たよる e心が一方に向く・傾倒する」などもあります。

「よる」と発音する「撚る」((糸など)細長い物をねじって、互いにからませる」意)は、秋の稲穂の状況の描写に相応しくありません。

 次に、四句で「因」と表記されているのは、四句「君尓因奈名」(きみによりなな)という作者が「君」に惹かれているかの気持ちを詠っているところであり、動詞「寄る」の意のうち、「a近寄る・近づく c身をよせる・たよる e心が一方に向く・傾倒する」ではないか。あきらかに、「所縁」表記と意が異なっています。

 次に、五句にある「事痛(こちたし)」とは、「こと甚し」から変化したもので、程度をこえているようすを表し、「a(うわさが)やかましい bはなはだしい・おおげさだ・ぎょうさんだ」の意があります(同上)。

⑦ この歌の現代語訳を試みると、あとの文の主語が具体的には何であるかにより「事痛(こちたし)」の意に応じた主語が想定されるので、あとの文の試案は2案あります。

第一案 (「事痛(こちたし)」を「a(うわさが)やかましい」と理解する)

 「秋の田にある稲穂はなびいて一方に頭を垂れるように、ひたむきに貴方に(心も身をも)よせたい、それが噂になっていろいろ言われようとも」

第二案 (「事痛(こちたし)」を「bはなはだしい・おおげさだ・ぎょうさんだ」」と理解する)

 「秋の田にある稲穂はなびき一方に頭を垂れるように、ひたむきに貴方に心が向いてしまうなあ。それが大袈裟であろうとも」

⑧ 第一案は、貴方に惹かれていることが、たとえ噂となっても(貴方の気持ちに関係なく)心を寄せ続けたい、と詠っていると、理解しました。最初の文の主語は、作者です。あとの文の主語は、「それ」ですが具体的には「作者が「君尓因」(きみによったこと)」です。終助詞「名」(な)は、作者自身の願望・意志を表します。だから、最初の文とあとの文は、倒置文として一つの文ともみなせます。

 第二案は、貴方に惹かれる、という言い方が(その例えを含めて)大袈裟ではないか、と言われるほど素敵な方です、と詠っていると、理解しました。最初の文の主語は、作者です。あとの文の主語は、「それ」ですが具体的には「「君尓因」という状況の表現方法」です。終助詞「名」は、作者自身の願望・意志あるいは相手に対する期待・願望を表しています。

 歌における二つの文の間には一拍の間がある、といえます。そしてどちらの案でも作者の属性は不定です。そうすると、この歌は、誰もがこの歌を流用して用いることができる伝承歌の可能性もあります。

 第一案は、恋の歌と理解でき、第二案は、恋の歌とも、人物評価をした挨拶歌(だれかに報告した歌)ともとれます。

 この歌を知った人々が参考までに書き留めて置こうとする歌かどうかを基準にすれば、この(題詞を無視した)歌本文は、恋の歌という理解が素直です。

⑨ 題詞のもとにある歌として理解すると、題詞と構成している歌群の歌にも留意して理解することになります。歌本文は表面上題詞を無視した場合の第一案と第二案と同様な理解があり、2案あります。

 作者は、題詞から、但馬皇女(またはその代作者)となります。

 上記の第一案を仮定すれば、恋の歌として、「思穂積皇子」して作ったという題詞の表記から、おくった相手は穂積皇子でしょう。

 また、同第二案を仮定すれば、恋の歌ならば・題詞の「思穂積皇子」からおくった相手は穂積皇子でしょう。

 そして、人物評価をした挨拶歌ならば、穂積皇子はすばらしいあるいは皇子を選択した、と誰かに報告している、と理解できるので、題詞の「在高市皇子宮時」から高市皇子が第一の候補者となるのではないか。

⑩ このように2案ある歌本文の理解を1案とするには、2-1-114歌が属する歌群(2-1-114歌~2-1-116歌)の中の歌としての妥当性で判断できるのではないか。

 歌を詠んだ事情を記すとすれば、通常は題詞に表記されるでしょう。

 そして、この3首が時系列に配列されているとすれば、作詠時点は

 1首目が、但馬皇女が「在高市皇子宮時」の歌

 2首目が、「勅穂積皇子遣近江志賀山寺時」の歌 (歌本文の表面的な内容からは勅使の一行が都を離れる時点の歌)

 3首目が、「在高市皇子宮時」の後であって、「事既形」の後の時点の歌 

となります。

⑪ 1首目から2首目に至るまでの時間は、一番早くて常識的には月を単位にしたものであり、2首目と3首目のそれは、「事既形」という時点が2首目の直後という日を単位としたものから年を単位にしたものがあり得ます。

 前回は、2首目の直後のみと推測しました(ブログ2023/10/18付け「3.⑱」参照))が、それはこの歌群が恋の歌の場合だけです。

 巻二には「但馬皇女薨後穂積皇子冬日雪落遥望御墓悲傷流涕御作歌一首」と題する歌(2-1-203歌)も収載されており、巻二の編纂は、少なくとも但馬皇女の生涯を見返ることができる時点以降ですので、但馬皇女が歴代天皇の穂積皇子の重用をみての述懐の歌とも推測可能です。

 即ち、1首目と3首目(2-1-116歌)は年を単位とした時間の経過も可能であり、2-1-116歌は三句「己世尓」(おのがよに)から、但馬皇女の晩年の詠作の可能性もある歌です。

⑫ 歌群と認められる連続する3首について整理すると、次の表が得られます。2-1-114歌の題詞は、その現代語訳(試案)の第二案が恋の歌の場合と挨拶歌の場合に別れますので、計3ケースにおける3首の歌意の妥当性を比較したものです。恋の歌の歌群が2ケース、挨拶歌の歌群が1ケースです。

 恋の歌の歌群としては、2-1-115歌が皇女の歌として(伝承歌の引用としてであっても)あまりにも非常識であり、また題詞にある漢字「思」字の意は、直情的な恋の歌を詠む「思い」が第一義ではないので

 挨拶歌の歌群の3首である、と思います。

 即ち、表の「歌群の構成案C」であり、2-1-114歌が題詞第二案で挨拶の歌」のケースとなります。それは、但馬皇女天武天皇の皇子のなかで穂積皇子を次代のエースにと推奨した経緯を詠う歌群であり、ともいえます。

 この場合の作詠時点を推測すると、2-1-114歌は、少なくとも穂積皇子が2-1-115歌の題詞にある臨時の公務出張を命じられる以前、次いで2-1-115歌、次いで2-1-116歌は最早であれば、2-1-115歌の公務出張の復命直後であり最遅であれば、(三句「己世尓」という作者の感慨を重視した推測になり)知太政官事に任じられた直後であろう、と思います(前回ブログでの推測(「3.⑱」)をこのように訂正します)。

  表 2-1-114歌~2-1-116歌を一つの歌群と捉えた場合の歌意の候補 

   (2023/10/23 現在)

歌番号等

歌群の構成案A

歌群の構成案B

歌群の構成案C

検討したブログの日付

114歌が題詞第一案で恋の歌

114歌が題詞第二案で恋の歌

114歌が題詞第二案で挨拶の歌

2-1-114

題詞:高市皇子の宮に、ある時居って穂積皇子を「思」い但馬皇女が作った歌

歌本文:第一案(貴方に恋をしてしまった)

題詞:同左

歌本文:第二案(穂積皇子は素敵な方だ)

題詞:同左

歌本文:第二案(穂積皇子は素敵な方で期待を持てる方だ)

ブログ2023/10/23付け

2-1-115

題詞:穂積皇子が臨時の公務出張を命じられた際の但馬皇女の歌

歌本文:恋の歌但し歌意が皇族の立場を無視しすぎている(恋の歌として伝承歌の利用は不適切)

題詞:同左

歌本文:送別・壮行時に恋の歌の伝承歌を詠った(披露した)

題詞:同左

歌本文:送別・壮行時に送別・壮行の伝承歌を詠った(披露した)

ブログ2023/10/16付け

2-1-116

題詞:第一案:高市皇子の宮に、但馬皇女がある時居って竊に穂積皇子に接し、それが露見した際の但馬皇女の歌(「事」字不要か)。

歌本文:今後の大胆な行動を宣言する歌(「渡」の時制が未来では過去の作者の行動と歌意に矛盾あり)

題詞:第一案:同左(「事」字不要か)あるいは第二案:竊に穂積皇子に接した結果、成果があった際の但馬皇女の歌(「事」字が必須)

歌本文:(寄せ付けなかった穂積皇子の心を大胆な行動で得たと宣言する歌(「渡」の時制は過去 恋の競争相手におくった歌か)

題詞:第二案:同左(「事」字が必須)

歌本文:過去の大胆な行動を自画自賛あるいは振り返った歌(「渡」の時制は過去)。

「事」を喜び高市皇子へおくった歌或いは述懐歌

ブログ2023/10/16付け

各ケースの比較

115歌と116歌は、皇女が皇子におくる恋の歌として不自然

同左

3首とも皇女の歌として不自然さが少ない

 

注1 歌番号等:『新編国歌大観』の「巻番号―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号」

注2 第一案等は、各題詞または各歌本文における現代語訳(試案)の第一案等の意

注3 歌群の構成案Bにおける2-1-116歌の歌本文の現代語訳(試案)はブログ2023/10/16付けに示していないので、ここに記すと次のとおり。この歌を披露したのは周囲の者か恋の競争相手か。作者である但馬皇女の品位が疑われる内容の歌である。

「(穂積皇子にまつわる)いろんな噂があり、またそれがやかましいので、私は生まれてから未だ渡ったことのない朝の川を渡るようなことをしたのだ(そして噂の穂積皇子の愛を勝ち取ったのだ)。」

 

⑬ さて、2-1-114歌の題詞にある「思」字の理解です。この歌は、上表の「歌群の構成案C」の歌ですので、「思」字の意は、(上記④で指摘したように)「「かんがえる」とか「思案する」とか「おもいやる」というものであり、日本語の「おもふ」の「心に思う」に通じる意で用いられていることがわかりました、「いとしく思う。愛する」とか「心配する。憂える」の意ではない、と言えます。

このような検討の結果、巻二の題詞にある「思」字のある題詞3題のうち検討が終わった2題とも漢字「思」の意として用いられていることがわかりました。

⑭ 巻二の部立て「相聞」の配列を確認すると、「藤原宮御宇天皇代」は、最初の歌が「天皇賜藤原夫人御歌一首」と題する天皇の歌から始まっています。2-1-114歌~2-1-116歌が穂積皇子に関する歌と理解すると、天皇の歌に続き以下2-1-122歌まで皇子に関する歌を没年順に配列し、最後に弓削皇子に関する歌を再度配列した後に官人等(臣下)に関する歌を配列している、と理解できるようになります。

 そして、皇子である長皇子の2-1-130歌、柿本人麻呂の2-1-131歌~2-1-140歌で「相聞」は終わります。2-1-130歌以下は「寧楽宮」の代ともいえる配列です。

なお、長皇子は、元明天皇の御代の和銅8年(715)6月に薨去しており、皇子に関する歌の配列が没年順であることの例外になります。

 巻二の部立て「相聞」における皇子は、穂積皇子を除き、その母がみな天智天皇の皇女です。

また、2-1-130歌の題詞は「長皇子与皇弟御歌一首」とあり、「天皇の弟」と記されています。長皇子の薨去の年に作詠されたと仮定すると、元明天皇(父は天智天皇)の弟(あるいは兄)にあたる皇子で当時まで存命であったのは、志貴皇子のみですので、この2-1-130歌での「天皇の弟」とは、志貴皇子と理解できます。長皇子と志貴皇子が題詞に同時に明記されているのはこのほか巻一の部立て雑歌にある2-1-84歌の題詞があります。『新編国歌大観』の『萬葉集』は西本願寺本ですが、それには「長皇子與志貴皇子於佐紀宮倶宴歌」とあるようで、「与」字と「與」字の使い分けは語義の違いであるかも知れません。この検討は今の検討とは別問題なので別途の検討とします。

⑮ 次回は、巻二の題詞にある「思」字のある題詞で残る1題2-1-120歌の題詞を検討します。

 「ブログわかたんかこれ ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

(2023/10/23  上村 朋)

 

 

わかたんかこれ 猿丸集その212 恋歌確認25歌 巻二の「思」字

 前回(2023/9/4)に引きつづき『猿丸集』歌の再確認を続けます。今回からその第25歌です。

1.経緯

 2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。12の歌群の想定を行い、3-4-25歌は、「第五 逆境の歌」の歌群に整理している。3-4-24歌までは、すべて類似歌とは異なる歌意の恋の歌であることを確認した。

 歌は、『新編国歌大観』より引用する。

2.再考 第五の歌群 第25歌の課題

① 3-4-25歌とその類似歌を『新編国歌大観』から引用します。同一題詞(詞書)のもとに5首ある歌の4番目の歌です。

3-4-25歌  おやどものせいしける女に、しのびて物いひけるをききつけて、女をとりこめていみじういふとききけるに、よみてやる ((3-4-22歌から3-4-26歌にかかる詞書) 

     わぎもこがこひてあらずはあきぎりのさきてちりぬるはなをらましを

 

3-4-25歌の類似歌  萬葉集 2-1-120歌  弓削皇子思紀皇女御歌四首 (2-1-119歌から2-1-122にかかる題詞)

       わぎもこに こひつつあらずは あきはぎの さきてちりぬる はなにあらましを

(吾妹児尓 恋乍不有者 秋芽之 咲而散去流 花尓有猿尾)

② 類似歌の前回の検討が、巻三と巻四における歌本文での「思」字の検討(ブログ2022/7/25付け)及び題詞での「思」字の検討(ブログ2023/1/23付け)以前であるので、「思」字を正しく理解しているか確認を要します。

また、一部の語句の確認が不徹底でした。

それらを今回検討します。

 

3.再考 類似歌 2-1-120歌題詞の「思」字 その1 

① 最初に、題詞にある漢字「思」字から再考します。

 『萬葉集』巻二には、「思」字を用いた題詞が3題あります。その3題における「思」字の意を確認します。巻二編纂者は、同一の意で用いている、と予想しています。

 巻三と巻四の題詞における「思」字に関して、ブログ2023/1/23付けでの結論は、次のとおりでした。

 第一 巻三と巻四の編纂者が(倭習漢文である題詞で)用いる「思」字の意は共通である。その訓は「おもふ」であり、漢和辞典の「おもふ」という同訓異議の字の説明にあるように、「思」字は、「くふう。思案する。またおもいしたう。思慕。なつかしく思う」の意である。

 第二 巻三の用例2-1-374歌の題詞では、「かんがえる、はかる」、あるいは「おもいやる、追想する」が妥当である。

 第三 巻四の唯一の用例2-1-374歌の題詞では、「考える、はかる」である。

② 類似歌2-1-120歌のある巻二の編纂者は、その後の編纂である巻三と巻四の編纂者とほぼ同時期の人であり、漢文や漢字の理解や題詞の作文に用いている倭習漢文の用法は共有していると推測できます。

 また、この歌が配列されているのは部立て「相聞」です。部立ての「相聞」とは、巻二や巻四では「(偉大な祖先など)神々の見守る今上天皇のもとでの現世の人々の喜びを活写する場面の歌」の謂いです(ブログ2023/8/29付け「25.②~④参照」)。

 このため、2-1-120歌の題詞での「思」字は、「恋を(一方的にでも)している」意のみに限定できないと想定して歌本文を検討してよい、と思います。

③ 2-1-120歌の題詞の前回の現代語訳(試案)は次のようでした。

弓削皇子が、紀皇女を思う御歌四首」 (119~122)」

『例解古語辞典』では古語「おもふ」 (四段活用)の意は、「基本的には現代語の「思う」と同じ」とし、次のようにいくつかの意をあげています。

心に思う。

いとしく思う。愛する。

心配する。憂える。

回想する。なつかしむ。

表情に出す。・・・という顔つきをする。

現代語の「思う」意は、これらを継承しているので、上記現代語訳(試案)は誤りではありません。さらに意訳をするとするならば、「心に思う」ものの、「いとしく思う。愛する」のか「心配する。憂える」のかなどを明確にしなければなりませんので、歌の理解・推測と密接不可分です。このため、簡素な漢文表記を生かすならば、上記現代語訳(試案)は妥当であろう、と思います。

④ 巻二における「思」字を用いた題詞3題は、すべて部立て「相聞」にあります。題詞は次のとおり。

2-1-85歌~2-1-88歌:磐姫皇后思天皇御作歌四首

2-1-114歌:但馬皇女高市皇子宮時思穂積皇子御作歌一首

2-1-119歌~2-1-122歌:弓削皇子思紀皇女御歌四首

 土屋文明氏は、「思」字の訓みを示していませんが、伊藤博氏は、3題とも「しのふ」と訓み、題詞の現代語訳において「偲ぶ」と表記しています。

『例解古語辞典』では「しのぶ」を立項し、「偲ぶ」(上代は「しのふ」)と「忍ぶ」の2語句に説明があります。前者は、四段活用の動詞としては「a思い慕う。なつかしむ b賞美する」意としています。(「忍ぶ」は上二段活用の動詞)

⑤ 最初の題詞(2-1-85歌~2-1-88歌の4首の題詞)より順次検討します。

その題詞は、作者を磐姫皇后(いはのひめのおほきさき)と記しています。磐姫皇后は、武内宿祢の孫の娘であり臣下より出でて皇后となった方です。作詠時点においてその地位に揺らぎがあったわけではなく、また、嫉妬心の強い方として当時知られていた女性です。

題詞のもとにある4首の歌本文について、土屋氏は、「強い民謡風の要素の感ぜられることも否めない事実である」と指摘し、伊藤氏は、「磐姫の実作ではなく、持統朝の頃の後人が、新旧さまざまな歌を、煩悶、興奮、反省、嘆息の起承転結の心情展開に組み立てた連作」と指摘しています。

即ち、元資料の歌があり、それを題詞のもとに編纂者が配列している歌群である、ということになります。

そうすると、この題詞は、皇后が一時離れて暮らしている天皇に愛を確かめるべくおくった4首に仕立てられている歌群の題詞、と理解できます。

一つひとつの歌本文は、嫉妬深い皇后が、夫である天皇を「思」っての歌と理解できますが、4首が一つの題詞のもとに配列されている、ということに留意すれば、さらに、このような思いをしつつ暮らしているのですよ、という報告に近い歌であり、かつ離れていてもこの思いに応えた日々を過ごして居られますよね、と確認をしている歌とみなせます。つまり日常思い続けていることを詠っている歌群に編纂者は仕立てているのではないか。

だから、4首を総べる題詞の「思」字の訓は「おもふ」であって、「恋する」意というよりも、日本語の「おもふ」の「心に思う」とか「心配する。憂える」意と理解できます。「思い慕う」意の日本語の「しのふ」と訓むより適切である、と思います。

⑥ 次の題詞(2-1-114歌の題詞)での「思」字の意を確認します。

但馬皇女が作者と記す題詞が3題続く配列の最初の題詞です。3題でひとつの歌群を成している、と言えます。その歌群における題詞(と歌本文)であることに留意しなければなりません。

但馬皇女は、史書に誰の妻となったか記されていません。生没年も不明です。題詞は、高市皇子の宮に「在」った時に、但馬皇女が穂積皇子を「思」い作られた歌、と理解できます。

高市皇子は、天武天皇の長男であり、穂積皇子より約10~20歳年上です。二人はともに天武天皇の子として天皇を支える立場におり、それ相応の往来があった仲ではないか。高市皇子は、持統天皇の御世に、太政大臣に任命され皇族・臣下のトップとして天皇を支えています。高市皇子薨去(696)、忍壁皇子薨去(705)ののち、穂積皇子は、文武天皇により(太政官を統括する)知太政官事に任命されています。

⑦ 歌群を成す3題(とそのもとにある歌本文)の検討は、2題目(2-1-115歌)と3題目を先に検討し、それから1題目(2-114歌)に戻ることとします。

2-1-115歌 勅穂積皇子遣近江志賀山寺時但馬皇女御作歌一首

遺居而 恋管不有者 追及武 道之阿廻尓 標結吾勢
おくれゐて こひつつあらずは おひしかむ みちのくまみに しめゆへわがせ

この題詞から、穂積皇子が公務の出張を命じられた際の歌ということが判ります。皇子なので重要な役を臨時に命じられての出張でしょう。

題詞のもとにある歌本文を、恋の歌として理解すると、但馬皇女が、穂積皇子と離れるのに耐えられないと訴えている歌と理解できます。しかし、皇子と皇女という身分の者同士のあいだで、三句「追及武」を本当に実行できる環境に居ると二人が理解しているとは思えません。

皇族同士の婚姻は皇位継承の資格の優劣に関わるので、当時は天皇の裁可を要することなのではないか(付記1.参照)。穂積皇子と但馬皇女が勝手な振舞いをし、都を離れる皇子を追いかけるかのような歌を本気で詠んで披露するとは到底思えません。

次の題詞にある「竊接」と表現している事柄が密通やいわゆる出来ちゃった婚であれば、勝手な振舞いとして処罰の対象になるでしょう。しかし、穂積皇子がこの事件により処罰されたという史書の記録はありません。

また、官人であっても、都に残っている相手が三句「追及武」と言い募ってそれを実行したら、軍事ではない公務であっても出張する本人にとり迷惑至極のことでしょう。都に居ることになる者は、任務を果たし無事の帰京を願うなどと詠うのが普通ではないか。

なお、土屋氏は、「幾分民謡風な一般的な調子がみえる」ものの「一層切実な声をきくことができるやうに思う」と指摘しています。

⑧ これから、この歌は、恋のためではなく、公務出張する穂積皇子の無事を単に身近に居る者として願った歌ではないか。誰もが知っている元資料であるので、そのままあるいはそれに少し手を入れた歌は、誰が披露しても親しい者が都を離れる者への送別・餞別の歌と理解できます。

一般に、勅使の一行は、任じられると賜宴や私的な(身近な者たちによる)壮行会がいくつかあります。その場では無事を願う歌、家族の留守居の決意などの歌が披露されています。

そして、一つの歌群の歌の1首が、恋の歌でないと判れば、その歌群のほかの歌も恋の歌でない可能性があります。

次の歌(2-1-116歌)でも但馬皇女は、当時の常識にはずれた行動を詠っているという理解(下記⑨以下参照)に対応して、この歌は切実に恋しい気持ちを詠ったと理解するのは、皇女という身分の縛りが大きいと思います。

⑨ 3題目の2-1-116歌の題詞は、但馬皇女が、高市皇子の宮に「在」ったときと記しています。1題目の2-1-114歌と同じ時期の歌です。漢字「在」字は、「ある(a存在する bいる(在住) c生きている d・・・にある)」とか「明らかにする」の意があります。国字としては「います(ある・いるの敬語)の意があります(『角川新字源』)。

2-1-116歌  但馬皇女高市皇子宮時竊接穂積皇子事既形而御作歌一首
人事乎 繁美許知痛美 己世尓 未渡 朝川渡

ひとごとを しげみこちたみ おのがよに いまだわたらぬ あさかはわたる

 この題詞の意は、普通、ひそかに穂積皇子に逢ったことが露見した際の但馬皇女の歌、と理解されています。

題詞の読み下し文には、「事」字と「既」字の理解により、次の試案があり得ます。

第一案 「但馬皇女高市皇子宮に在りし時、竊に穂積皇子に接し、事、既に形(あらわ)る。しこうして作らるる歌(あるいはつくらす歌)一首」

第二案 「但馬皇女高市皇子宮に在りし時、竊に穂積皇子に接す。事、既にして形る。しこうして作らるる歌(あるいはつくらす歌)一首」

普通に理解されているのは第一案です。しかし「事」字を省いて、「但馬皇女高市皇子宮時竊接穂積皇子既形而御作歌一首」と作文しても第一案の趣旨に理解できます。そのため、倭習漢文作成にあたり、「事」をわざわざ付け加えたとも判断でき、「竊接穂積皇子」の後に成った何かを指している可能性があります。それが、第二案です。

「事」字の意が、「竊に穂積皇子に接した」ことを指すか、「接した結果、ある行動が実ってある事が成った」ことを指すか、の違いであり、これに応じて、「既」字の意が変化し得る(下記⑫参照)ので得た2案です。

⑩ 題詞は倭習漢文ですので、2-1-116歌の題詞に用いている漢字にはその意が(「思」字以外も)反映されているはずです。

「竊接穂積皇子」という文章における「竊」字の意は、『角川新字源』によれば、次のとおり。「竊」字は、「窃」とも現代は表記されている漢字です。

A ぬすむ

 B ぬすびと

 C ひそかに・そっと:ア心の中で イ人知れず内心

 など

 そして、「ひそかに」の同訓異義(6字あり)をみると、次のとおり。

 陰:「陽」の対。ひかげの意でかげでこっそり。

 間:すきまを見はからい、おおっぴらにせず、そっと。

 私:「公」の対。ないしょで、また個人的に。

 竊・窃:人目をぬすんでこっそりと。

 微:おしのびの意。

 密:他の者に知られないよう秘密で。

 

「接」字の意は、次のとおり。

 A まじわる

 B あう(合)・会する・あわせる

 C つぐ(継):アひっつく・つながる イひきつぐ・うけつづける ウつなぐ(接続)

 D ちかづく・ちかづける

 E むかえる(迎)

 F もてなす(応接)

 など

 熟語に、「面接・新接・隣接・溶接」、「接意・接遇・接見・接吻」などがあります。

⑪ これらの意を踏まえると、題詞にある「竊接穂積皇子」(せつせつ ほづみこうし)の意は、「穂積皇子に、人目をぬすんでこっそりと会する」、「人目をぬすんでこっそりと、穂積皇子にちかづく(あるいは穂積皇子を迎える)」という意と理解できます。「在高市皇子宮時」という時点ですので、高市皇子宮での出来事という理解も可能です。

この歌群のなかの直前の歌2-1-115歌が「恋の歌」でないことに留意すれば、高市皇子宮での多数の人が参加した会合に出席した二人が、わざわざ別席を設けて話をしたのではないか。それは、高市皇子の代理あるいは但馬皇女の意志としてひそかに直接二人だけで面談されたのか、という推測です。例えば、皇子同士で外聞を憚ることの相談・情報交換の必要が生じても直接二人だけで面談するのは皇位継承に関して誤解を招きかねない、という事情があったのでしょうか。

高市皇子の監視のもとに置かれている皇女が「情を通じた」、ということを婉曲に表現したという推測では2-1-115歌との統一的な理解が難しい、と思います。

⑫ 次に、題詞にある「既形」の「既」字には、「aつきる bおわる(終) cみな(皆) dすでに(「未」と対) eすでにして f月ごとの給米」の意があります。「形」字には、「aあらわれる(現) bあらわれ・ありさま cかたち・かた」の意があります。

 題詞の「事既形」という文章の意は、第一案及び第二案のほかに、「こと 既(つき)てあらわる」、「事、既(おわ)りて、あらわる」とも読み下せます。ともに両案系の理解が可能です。

 これらからも、2-1-116歌の題詞は、恋の歌の題詞にはなりにくい第二案を否定できません。

第二案の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 「但馬皇女高市皇子の宮にある時居って、穂積皇子に人目をぬすんでこっそりと会することがあった。その後、(ある)事が実現したので作られた(あるいはつくらせた)御歌一首。」(2-1-116歌題詞(試案))

⑬ 2-1-116歌の題詞の理解がこのようになると、歌本文は「恋の歌」以外の理解が可能です。

 歌本文について、土屋氏が、初句と二句は「当時の常識であらう」が三句以下には「測々たるものがある」と指摘し、伊藤氏が「川」は「恋の障害をあらわすことが多い」と指摘しているように、恋の歌という理解を諸氏はしています。

元資料(題詞を無視した歌本文)があるならば、その意は、そうかもしれません。

題詞のもとにある歌本文は、作者を「高市皇子の宮に在ったときの但馬皇女」として理解しなければなりません。

 その時、但馬皇女と穂積皇子は何歳ぐらいであったのか。

但馬皇女薨去元明天皇の御代の和銅元年(708)6月です(『続日本紀』)が年齢の記載はありません。『萬葉集』にも記載はありません。

穂積皇子は、和銅8年(715)6月薨去時に40歳前半と推定(ウィキペディア及び付記2.参照)できますので、2-1-116歌の作詠時点の穂積皇子の年齢は、高市皇子薨去持統天皇10年(696)7月なので、その生前における年齢として幅を持って推測が可能です。 

即ち、高市皇子薨去したとき、穂積皇子は(40-19)歳~(40+5-19)歳、となります。薨去の年の作詠でないならば、作詠時点で穂積皇子は10代半ばという推測も可能となります(付記2.参照)。

但馬皇女の作詠時点の年齢は、穂積皇子を憧れる世代とすれば同年齢(つまり10代半ば)以下の可能性があります。また、2-1-116歌の三句「己世尓」(おのがよに)の意が「自分の人生・生涯」の意とすれば、人生経験が皇子より長いともとれるので、穂積皇子より例えば10年年上と仮定すると20代半ば以上となります。

⑭ なお、穂積皇子には、「但馬皇女薨後御穂積皇子冬日雪落遥望墓悲傷流涕御作歌一首」と題する歌が『萬葉集』にあります(2-1-203歌)。但馬皇女薨去和銅元年(708)6月であり、その時点では穂積皇子は知太政官事に任命されています。皇位継承候補者ではない皇子のトップというその立場を重視すると、親しくしていただけではなく、但馬皇女の皇族中の地位あるいは年長者として目を掛けてくれたことに留意して2-1-203歌を詠った(あるいは作らせた歌)と推測できます。

個人的に特別な恋情を持ち続けていたことを薨去後数カ月過ぎた日の降雪をみて公けにする必然性が薄く、また、妻としていたのであれば、題詞にそれが判るよう表記するのではないか。

⑮ 2-1-116歌に戻り、歌本文の検討を続けます。

歌本文の五句に「朝川渡」(あさかはわたる)とあります。その意を諸氏は、「朝という時点に川を(みずから)渡る」意であり、「朝川」という川の名ではない、と指摘しています(川の名には「当該地の河」というネーミングが多い。例)明日香川 )。

 五句「朝川渡」は、言い切りになっており、動詞「渡」は終止形(「わたる」)です。

 一般に、動詞の言い切りは時制が不定です。前後の語句、文脈からその言い切りの時制を推測することになります。推測できる時制は、「過去、完了、現在、進行形」であり、「未来」については予測・予定を意味します。

 動詞「渡」で、例を示します。

(きのふ)朝に川を渡る:渡ったのは、この文章を記した時点ではなく過去のことです。

(けふの)朝に川をわたる:この文章を記した時点が朝以降であるならば、渡ったのは過去のことです。この文章を記した時点に渡り終わった意(完了)とも、文章を記した時点に渡っている(現在)とも、今渡りつつあることの表現(進行形)とも理解可能です。さらに、文章を夜明け前に記したとすれば「(けふ)の朝」は「未来」にあたり、「わたる」ことを予測・予定として示していることになります。

⑯ 最初に恋の歌としての可能性の低いことを題詞から指摘(上記⑪)しましたが、念のため検討をします。題詞は、第一案が有力となります。第二案でも理解可能でしょう。

 土屋氏は、「朝の川を渡る」と理解し、今後の行動を指すと理解しているようです。

 伊藤氏は、「朝の冷たい川を渡ろうとしている――この初めての思いを私は何としても成し遂げるのだ」と理解しています。

両氏は、今後の行動・予定を宣言している、という理解です。

「わたらむ」という表現では足りないから「わたる」と作者は詠ったという理解です。

歌本文をみると、今後の行動・予定とは、高市皇子の宮で逢って噂となったが、今後は自らが穂積皇子を訪ねるということを指すことになります。上記⑦で指摘した事情から処罰を覚悟でもう一度でも逢いたいと願った歌と理解できますが、五句が「渡」と言い切りになっており、願望であることを自覚した歌でないのが不思議です。

土屋氏は、題詞の理解が第一案と異なるようですが、穂積皇子と「竊接」するにあたり、但馬皇女は「高市皇子宮を出ている」と理解しています。ということは、今後も同じ行動を続けることになります。そうであると、既に行っていることを「己世尓 未渡 朝川渡」と詠ったことになります。「渡」の時制は進行形と理解できます。そうすると、初句と二句は、「噂になったので」ではなく「・・・であっても」の意であってほしい歌です。

伊藤氏は角川文庫の『新版万葉集一 現代語訳付き』ではその点に触れていません。

 このように、恋の歌としては詠い方が不自然です。

⑰ 次に、恋の歌ではないとして検討します。この場合、題詞の理解は第二案が有力となります。

 題詞より、但馬皇女が穂積皇子にひそかに(人の目をぬすんで)会い、働きかけ、皇子はそれに応えた結果、ある事を実現したあるいはある事を得た際に、但馬皇女が詠った(披露した)歌、と理解できます。

 五句「朝川渡」は言い切りになっており、動詞「渡」の時制は、「過去、完了、現在、進行形」の何れの理解も可能であり、未来(今後)のことと理解しなくともよい表現になっています。

 そして、二句「繁美許知痛美」は並立している「・・・み・・・み」の用法であり、次のような現代語訳(試案)が可能です。

 「(穂積皇子にまつわる)いろんな噂があり、またそれがやかましいので、私は生まれてから未だ渡ったことのない朝の川を渡るようなことをしたのだ(その甲斐があった)。」(2-1-116歌現代語訳(試案))

 女なのに男のもとへ行き夜明けに戻るというような破天荒な行為に相当することをしたが、それを行った私の思いは良い結果を生んだ、という喜びの歌、と理解しました。「渡」の時制は「過去」です。

 このような譬喩を詠う但馬皇女の年齢は10代前半の年齢より少なくとも20代ではないか。上記⑬での幅をもった推定年齢とも合致します。「竊接」して行った行動は、皇女と皇子の間の慣例を破った行動だったのではないか。

⑱ 2-1-116歌は、3題で構成する一つの歌群の最後の歌です。2-1-115歌の次に配列されているので、2-1-115歌の題詞でいう「勅穂積皇子遣近江志賀山寺」が2-1-116歌の題詞にいう「事」ではないか。それを但馬皇女が喜んだ歌ではないか。誰に披露した歌かというと、天武天皇の長男である高市皇子が有力です。

但馬皇女が「竊接」した場所は、皇女が出向いた高市皇子の宮であり、2-1-116歌の題詞にある「在」字は、居住している意に限定して理解しなくともよい漢字です。

⑲ それでは、歌群の最初の歌2-1-114歌にもどり、次回検討したい、と思います。

 「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

(2023/10/16   上村 朋)

付記1.養老令の規定

① 養老令第十三 継嗣令に次の規定がある(sol.dti.ne.jp/hiromi/kansei/yoroidx.html より)。

皇兄弟子条:天皇の兄弟、皇子は、みな親王とすること{女帝の子もまた同じ}。それ以外は、いずれも諸王とすること。親王より五世(=五世の王 ※ここでは親王を一世として数える)は、王の名を得ているとしても皇親の範囲には含まない。

王娶親王条:王が親王を娶ること、臣が五世の王を娶るのを許可すること。ただし、五世の王は、親王を娶ることはできない。

② 王娶親王条は、親王の結婚には制約があること、さらに別途の規定のあることを示唆している。

 

付記2.但馬皇女の作詠時点での年齢推定について

① 但馬皇女は、『続日本紀』に天武天皇の皇女であることと没年が記されているが、年齢の記載がない。

② 高市皇子宮に居て穂積皇子(母は曽我氏の娘)を対象にしたと記す2-1-114歌及び2-1-116歌の題詞をヒントに年齢を推定する。

③ 穂積皇子は、『六国史』によると、時期不明だが浄広弐に叙され、慶雲2年(705)知太政官事、和銅8年(715)正月一品に叙せられている。そして同年7月27日に死去している。浄広弐は後年の蔭位の制に準じた最初の叙任ではないか。

④ 「浄広弐」とは、天武天皇14年(685)冠位四十八階と同時に諸王について別に定められた冠位制にあるだけである。冠位制を定めたと同時に穂積皇子が浄広弐に叙されたという推定が最早の推定となる。後年の大宝律令にある選叙令は蔭位制適用が子孫21歳以上となっている。その21歳以上という基準は前例と違和感がないものとすれば、穂積皇子は685年には21歳、と推定できる。

しかし、舎人親王(母は新田部皇女)は生年が天武天皇6年(676)で持統天皇9年(685)に浄広弐に叙されている。9歳である。弓削皇子(母は大江皇女)は生年不明だが、持統7年(693)に同母兄の長皇子とともに浄広弐に叙されている。長皇子は、子の栗栖王の生誕が683年及び智努王の生誕が693年とされており、男性として早ければ20歳以前で父親になり得る。その弟である弓削皇子は確実に10代で浄広弐に叙任されているといえる。

⑤ これらから穂積皇子も、最初の叙任として浄広弐に任じられたのは、10歳以上21歳以前、それも10代前半の可能性がたかい。このため、穂積皇子薨去時(715)は、40代前半の年齢と推定できる。

⑥ 穂積皇子と但馬皇女が「ひそかにあった」のが恋愛を理由とすれば、第一に二人の年齢差は余りない可能性を指摘できる。

⑦ 但馬皇女高市皇子宮に居た(或いは在った)のは高市皇子の生前である。高市皇子持統天皇10年(696)薨去しているので、その696年には穂積皇子が40代前半より19年若い(即ち21~26歳)ことになり、皇子より若い皇女は26歳よりマイナスα歳以下(5歳若ければ16歳以下)、と推定できる。高市皇子存命の頃の但馬皇女の年齢は16歳以下であることになる。

⑧ 但し、二人の年齢差を気にしないでよければ、年上と推定可能である。

(付記終わり。 2023/10/16)

 

 

わかたんかこれ 猿丸集の第24歌再確認のまとめ

 また明日も暑い日のようです。日向に長く居続けないようにしましょう。

『猿丸集』の第24歌の類似歌の理解のための『萬葉集』の検討を前回(2023/8/28)のブログで終わり、24歌再確認のまとめを行います。(上村 朋)

1.~26.経緯

『猿丸集』の歌は、各歌の類似歌とは歌意が別の歌であることを一度確認したが、違いの度合いを保留中の歌に3-4-24歌がある(2018/7/23付けブログ)。それは類似歌の理解に2案併記で留まっているからである。

2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行い、3-4-23歌まではすべて恋の歌(付記1.①~③参照)であることを確認し3-4-24歌も、題詞と歌本文からは恋の歌となった。そして類似歌については、所載の『萬葉集』巻三の構成と配列も検討した(付記1.④以下参照)。

歌は、『新編国歌大観』より引用する。

27.再考 第五の歌群 第24歌 再確認のまとめ

① 3-4-24歌は、『猿丸集』に想定した歌群の「第五の歌群 逆境の歌群」(3-4-19歌~3-4-26歌)にある、と現在整理しています。

3-4-24歌  (3-4-22歌の詞書をうける)おやどものせいしける女に、しのびて物いひけるをききつけて、女をとりこめていみじういふとききけるに、よみてやる

人ごとのしげきこのごろたまならばてにまきつけてこひずぞあらまし

 

3-4-24歌の類似歌  『萬葉集』巻三  挽歌  

2-1-439歌  和銅四年辛亥河辺宮人見姫嶋松原美人屍哀慟作歌四首(437~440)

      ひとごとの しげきこのころ  たまならば てにまきもちて こひずあらましを

(人言之 繁比日 玉有者 乎尓巻以而 不恋有益雄)

② この両歌は、題詞が異なります。しかし歌本文では清濁抜きの仮名書きでは五句にある一字が違うだけです。そして初句にある「ひとこと」が同音異義の語句であり、その意が、3-4-24歌は「人事」であり、「よそのこと、自分たちの仲を裂こうとする家族・一族の行動」をさし、類似歌は「人言」であり、「噂」をさす違いがあります。二句にある「このころ」という語句の具体的な時点にも違いがあります。そのため、歌本文の現代語訳(試案)は、だいぶ異なることになりました。

猿丸集編纂者が、中途半端な理解で萬葉集歌を類似歌として扱っているとも思えません。類似歌に関して、収載されている巻三の構成・編纂方針も確認しました。そのうえで下記の検討をして、次のようなことが判りました。

第一 3-4-24歌は、その題詞のもとにある歌として、恋の歌である。題詞はブログ2018/7/9付けの現代語訳(試案)が、そして歌本文はブログ2018/7/23付けの現代語訳(試案)が妥当である。同じ題詞のもとにあるほかの歌との整合もとれている。

第二 3-4-24歌の類似歌は、『萬葉集』巻三の編纂方針により部立て「挽歌」に配列されているので、挽歌である。部立て「相聞」にある歌ではない。題詞と歌本文についてブログ2018/7/23付けの現代語訳(試案)が妥当である。部立て「挽歌」にある歌ということを重視する方法は、詞書を重視して『猿丸集』を検討する方法に通じている。なお、『萬葉集』の部立て「挽歌」の意は、巻二でも巻三でも同じである(挽歌の定義等については付記3.参照)。

第三 3-4-24歌と類似歌の異なる点は、まず恋の歌と挽歌ということであり、その歌意の違いは、3-4-23歌までの傾向と同じで、大きく異なる。また、両歌に同音意義語を用いている点は3-4-23歌までの傾向と重なる。

第四 3-4-24歌は、『猿丸集』に設定した12の歌群のうちの「 第五 逆境の歌」の歌群に属していている。

第五 3-4-24歌の類似歌に関連してブログ2021/10/4付けで予想した5事項(作業仮説)は、あたっている。但し、その第三(その人物は、誰かを暗喩している、と考えられる(仮説C))はあいまいな表現であった。「各々の題詞に言う人物は、それぞれ誰かを暗喩している(仮設C’)」のほうが適切である。

③ 既に再確認したことを記し、次に、今回の検討結果を記します。

最初に、題詞と歌本文のみから得た現代語訳(試案)は、『猿丸集』の配列及び類似歌について収載されている『萬葉集』巻三等の検討を経てもかわりませんでした。

3-4-24歌の題詞: 「親や兄弟たちが私との交際を禁じてしまった女に、親の目を盗んで逢っていることをその親たちが知るところとなり、女を押し込め厳しく注意をしたというのを聞いたので、詠んで女に送った(歌)」(ブログ2018/7/9付けより)

3-4-24歌の歌本文: 「自分達に関係ない(仲を裂こうとする)ことがごたごたしていて煩わしいこのごろで(逢えませんねえ。)、あなたが美しい宝石であるならば、手にまきつけることで(あなたとの一体となるので)、あなたをこれほど恋こがれることはないであろうに。」(ブログ2018/7/23付け「6.&7.」より)

このように、3-4-24歌は、親たちの監視が続いている女と作者との変わらぬ愛を、男の立場で表現した歌と理解できました(ブログ2018/7/23付け「8.」参照)。当事者は逆境にたたされています。なお、同一の題詞のもとにある〇首の1首がこの歌です。歌をおくられた女からみると、『猿丸集』記載の順番に受けとることにより、作者(男)が事態の認識をしたうえ変わらぬ愛を誓ってくれていると理解できる歌になっています。整合性があります。(ブログ2018/8/20付け参照)。

④ 次に、題詞と歌本文のみから得た類似歌2-1-439歌の現代語訳(試案)は、巻三の構成などを考慮してもかわりませんでした。諸氏のいう挽歌案としての理解です。(相聞歌案としての理解は付記2.参照。挽歌の定義は付記3.参照)

2-1-439歌の題詞: 「和銅四年辛亥の年に、河辺宮で奉仕する宮人が、(難波の)姫島の松原での乙女の入水を聞き、悲しんで作った歌四首」

2-1-439歌の歌本文: 「噂が飛び交う(なかなか逢うことも叶わなかった)ころ、あなたが玉であるならば、(貴方のお相手の方は)手に巻いて持ち、(恋で仕事が手に付かないことも)恋しく思うこともなかったであろうに。」(この現代語訳(試案)を439挽歌第一(案)ということにします。) 

及び別案 「・・・玉であるならば、手に巻いて身近に感じ(、たよりもないのもあせることなく)恋しく思うことがあなたにもなかってしょうに」(同、439挽歌第二(案)) (題詞はブログ2018/7/23付け「4.⑨」、歌本文は「同ブログ「5.③」参照) 

⑤ この詞書にある「見・・・屍」という表現は、「仄聞」あるいは「文書によって知る」という意、あるいは下命による作詠を示唆する言葉とも理解した方がよい。同じような表現がある、(巻二の部立て「挽歌」にある)2-1-228歌と2-1-229歌の題詞「・・・姫嶋松原見嬢子屍悲嘆作歌二首」と、(巻三の挽歌にある)2-1-439歌等4首の詞書「・・・見香具山屍悲慟作歌」でも同じです。追悼の歌とか挽歌は、屍を目視しなければが作れないという類の歌ではありません(ブログ2018/7/23付け「4.」)。 

 また、同ブログ「4.⑤」では、「作歌」という表現も、「その時あるいはその行事に披露された歌」あるいは「会合で話題となった際に披露された歌」を指す歌語とみなせ、前者は、朝廷が人々の死を悼む(あるいは遺族の生活を支えようと決意表明する)行事とか家族や一族が行う葬式の類、と指摘しました。歌本文は、題詞のもとにある歌として、相手の男が誠意ある男であったらば、このように思うであろう、と作者が詠ったと理解しました。詞書にいう「水死の美人」を弔う歌とみなしたところです(同上ブログ参照)   

⑥『萬葉集』巻一~巻四についてその編纂方針が形に現れているであろう、部立て、標目、題詞、宮城の呼称などを前回まで検討してきました。そして『萬葉集』の部立て「挽歌」とは、下記の付記3.に記すように、「死者は生者の世界に残りたがっているのでそれを断ち切ってもらう必要があるという信仰の上にある歌」という意味であって、天皇からみれば、死後に、その人物の活躍(の結果の天変地異、庶民の不幸)があれば偉大な人物であったと認めざるを得ず、天皇としては、偉大な人物の死後も祀る儀礼等を続けてその人物の活躍を来世に留めてこそ現世が安泰です。巻二も巻三も天皇家のための部立て「挽歌」 です。

 当時は、単に追悼をする歌を挽歌と意識してはいません。官人の家であっても、亡くなった妻が(当然現世に未練がある状態で来世に逝ったので)現世の家族を縛らぬよう、信仰上の儀式を行いその際披露する歌が挽歌というものです。このようなことを確認できました。

⑦ そのため、類似歌4-3-439歌を、ブログ2018/7/23付けで、詞書にいう「水死の美人」を弔う歌とみなしたのは浅薄な理解でした。「弔う」とは、現代では「人の死を悲しみいたむ」意(『新明解国語辞典』)ですが、現世の関係者に、「水死の美人」が迷惑かけないように、という願いを込めた歌でした。

 同じ「水死の美人」を詠う挽歌が巻二と巻三にあります。2-1-228歌と2-1-229歌の題詞にある「姫嶋松原美人屍」と類似歌2-1-439歌にある「姫嶋松原見嬢子屍」です。どちらの題詞でも挽歌の対象者は、天皇家との関係が全くない人物ですので暗喩で天皇家の誰かに重ねられます。  『萬葉集』の編纂者はそのためにここに配列しています。歌本文も伝承歌かそれに近く、水死した以外に特別な個人情報のない歌となっています。

 暗喩は、巻二では、天武系の女系天皇(複数)を(ブログ2021/10/11付け「5.⑫」)、巻三では、元正天皇(ブログ2022/11/28付け「42.⑥」)と推測しました。 

⑧ 上記②の第五は、表面上の人物名は、萬葉集巻一~巻四の編纂過程をみると、三大部立てと天皇家のための歌集というのは堅持していても編纂者(あるいは監修者)が変わっています。だから、暗喩する人物と表記の人物名について各巻ごとには一定の対応をしても、通巻して同じとするのは難しかったのではないか。なお、巻四にも作者や歌をおくった人物に、天皇の御代によっては暗喩がありました(ブログ2023/3/6付けなど参照)。

⑨ ここまでは、3-4-24歌の類似歌は、現存の『萬葉集』に収載されている歌、ということを前提にしていました。『猿丸集』が編纂された当時、この類似歌を含めていくつかの系統での写本『萬葉集』(あるいはその一部)を編纂者は知ることができたのではないか、あるいはその『萬葉集』の元資料も『猿丸集』が編纂された当時まで伝わっていたのではないか、ということを不問にしてきました。

 その中に、3-4-24歌の歌本文あるいはそれによく似た歌を、恋の歌と理解する訓なり解釈があるとすれば、それを参考にできたはずです。

『猿丸集』の3-4-23歌までは、その類似歌との差異は大きく異なるものでしたので、その傾向の中に3-4-24歌以降の歌も例外なく該当すれば、恋の歌を前提に3-4-24歌の類似歌を選択していない、と言い切れます。これは全歌の検討が終わればおのずと結論を得ます。

 それは、『猿丸集』編纂者が、編纂にあたりその類似歌を相当意識していることになり、類似歌の理解をも提示しているのが『猿丸集』となります。いうなれば類似歌が多数収載されている『萬葉集』と『古今和歌集』の独自の理解の方法を提案していることになります。題詞に従い、歌本文を理解し、その際同音異義の語句に留意するという方法です。

 そのほかに、『猿丸集』編纂者が3-4-24歌の類似歌を挽歌案で理解していたと推測してよい理由があるかどうかを、念のため検討します。

⑩『猿丸集』の成立時点について、『新編国歌大観』の「解題」は、「公任の三十六人撰の成立(1006~ 1009頃) 以前に存在していたとみられる歌集」としています。成立時点を幅で示していません。最遅の成立時期に成ったとしても、『萬葉集』歌の全てが統一的に当時理解されていたとは思えません。新たな訓に挑んでいる人たちが当時でもいたのですから。

 最早の成立時期は、『古今和歌集』歌が類似歌であることを認めるならば、『古今和歌集』成立直後となります。紀貫之には『万葉集抄』五巻があったと伝えられています。貫之と同時代の人も訓を施そうという人がいたことになります。

 このように『萬葉集』に訓を施すことは、何人もが試みており、その集成が天暦が5年(951年)に梨壺の五人 が命により附訓したものであったのでしょう。短歌を中心に4000首以上の歌に附訓するのは一朝一夕でできるものではありません。しかし梨壺の五人の訓と異なる訓が流布を禁止されたわけでもないでしょう。『猿丸集』編纂者は、たしかに色々な訓の『萬葉集』歌をみることができたと思います。あるいは自ら訓を工夫していたかもしれません。

 それでも、題詞を重視した『猿丸集』の編纂からは、3-4-24歌の類似歌が恋の歌である、という理解はしていない、と思います。部立てと題詞を重視したら、恋の歌とはいえないのですから。

『猿丸集』の編纂者は3-4-24歌の類似歌を挽歌と認めている、と思います。

⑪ また、『新編国歌大観』の「解題」は、「前半に萬葉集の異体歌および出典不明の伝承歌を、後半に古今集の読人不知歌および萬葉集歌を収載し構成している雑纂の古歌集」と説明しています。しかし、これまでの検討から、そうではなく、『猿丸集』は特定の編纂者による特定の目的を持って、題詞を作文して歌を配列した編纂物である、と、確信を持って言えます。作者あるいは披露した場面は仮想の設定であるとしても、歌集編纂は『萬葉集』でも『古今和歌集』にしても同じです。元資料の歌は素材としての扱いを受けています。

 そのため、歌本文に注目すれば、元資料と寸分たがわぬ表記であるはずなので、元資料の歌意と部立てのもとの題詞に従った歌の歌意は異なる場合があります。巻三や巻四の歌は、それを意識して現代語訳を試みてきたところです。類似歌を『萬葉集』記載の歌と認めるならば、元資料の歌意でなくなります。類似歌を『萬葉集』記載の元資料と認めるならば、元資料の歌意で類似歌を理解してしかるべきです。前者であれば、どの写本の『萬葉集』であっても「挽歌」という部立てにある歌として理解することが妥当であり、後者であれば、元資料が現今まで(『萬葉集』を除いて)残っていないので何ともいえませんし、類似歌を『萬葉集』歌と言うのが誤りである、ということになります。

⑫ だから、『猿丸集』の理解には、類似歌を無視して良いのであり、文字通り歌本文のみに注目して似たような歌本文を現存の歌集で探せば『萬葉集』記載の歌がある、というだけのことです。ただ、『猿丸集』を理解することで、類似歌のある歌集『萬葉集』などの理解が私には深まりました。

⑬ 『猿丸集』は、当時でも啓蒙の書であったのではないか。『萬葉集』歌と『古今和歌集』歌の理解を、示唆しようとして『猿丸集』を編纂したのが編纂者の立場ではないのか。それが正しい理解であるなら古人が既に唱えているはずだ、として『猿丸集』という名にしているのではないか、とも推測します。

 ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧しただき、ありがとうございます。

 次回からは3-4-25歌の再確認をします。

(2023/9/4   上村 朋)

付記1.『猿丸集』が恋の歌の場合の歌群その他について(ブログ2020/7/6」付け「1.」より)

①『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義している。

第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと 

第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと

② 恋の歌の歌集と仮定して歌群を想定したところ、1案として12の歌群を得た。歌群名が固定できていないが、次のような歌群である。

第一 相手を礼讃する歌群:3-4-1歌~3-4-3歌 (3首 詞書2題) 

この歌群は歌集の序ともとれる内容の歌群である。

第二 逢わない相手を怨む歌群:3-4-4歌~3-4-9歌 (6首 詞書5題)

第三 訪れを待つ歌群:3-4-10歌~3-4-11歌 (2首 詞書2題)

第四 あうことがかなわぬ歌群:3-4-12歌~3-4-18歌 (7首 詞書4題)

第五 逆境の歌群:3-4-19歌~3-4-26歌 (8首 詞書3題)

第六 逆境深まる歌群:3-4-27歌~3-4-28歌 (2首 詞書2題)

第七 乗り越える歌群:3-4-29歌~3-4-32歌 (4首 詞書3題)

第八 もどかしい進展の歌群:3-4-33歌~3-4-36歌 (4首 詞書4題)

第九 破局再確認の歌群:3-4-37歌~3-4-41歌 (5首 詞書2題)

      (当初案から名称変更)

第十 「懐かしんでいる歌群」あるいは「未練の歌群」:3-4-42歌~3-4-44歌 (3首 詞書2題)

      (当初案から名称変更と対象歌を減少)

第十一 「新たなチャレンジの歌群」:3-4-45歌~3-4-49歌 (5首 詞書4題) (当初案から対象歌を増加し名称変更)

第十二 今後に期待する歌群:3-4-50歌~3-4-52歌 (3首 詞書2題)

      この歌群は、歌集編纂者の後記とも思わせる歌群である。

③ 恋の歌確認の方法は、これまで通り、次のことが前提である。(「2020/7/6」付けブログ参照。)

第一 言葉は、ある年代には共通の認識で使われるものであり、その年代をすぎると、それまでの認識のほかに新たな認識を加えたりして使われるものである、という考えを前提とする。もてはやされる用語(とその使い方)がある、ということを認めたものである。

第二 字数や律などに決まりのあるのが、詩歌であり、和歌はその詩歌の一つである。だから、和歌の表現は伝えたい事柄に対して文字を費やすものである。

第三 和歌は、歌集として今日まで伝わっている。その歌集の撰者・編纂者は、自らの意図で歌を取捨選択し歌集を作っている。だから、歌集の撰者・編纂者の意図と個々の作品(各歌)の作者の意図とは別である。歌集そのものとそれに記載の歌とは別の作品、ということある。

④ 猿丸集の第24歌については、ブログ2018/7/23付けで最初検討した。3-4-24歌は、親たちの監視が続いている女と作者との変わらぬ愛を男の立場で表現した歌であり、題詞のもとで逆境にある作者の恋の歌と理解した。しかし、類似歌については恋の歌あるいは挽歌と理解する2案のままで1案に絞るのは暫く保留した。ただ、『猿丸集』のこれまでの各歌とその類似歌との関係がこの3-4-24歌にも当てはまるとすると、この歌が相聞歌であるので、類似歌は、2案のうちの「439挽歌(案)」である可能性が高い、と推測した。

⑤ そして24歌の題詞は、3-4-22歌以下五首にかかる題詞であるので、5首検討後、題詞のもとで一連の歌と認められるかをブログ2018/8/20付けで検討し、3-4-24歌の類似歌の理解がどちらであっても、「3-4-22歌の詞書のかかる歌として、当事者の希望を全うしようとする一連の歌といえた。また、類似歌を、5首の替わりにならべても、当事者の希望を全うしようとする一連の歌として女に理解してもらえる構成になっていなかった。   

⑥ 猿丸集の第24歌の再確認は、ブログ「2021/11/4付け」より始めている。『猿丸集』の編纂者の時代に、類似歌の理解が439挽歌(案)か439相聞歌(案)どちらの案であったかの確認を行っている。『萬葉集』の巻一~巻四の編纂方針を確認するなどをブログ2023/8/28付けまで行い、類似歌は、題詞と歌本文からも、また、巻三の(推定した)編纂方針及び配列からも「挽歌」という部立ての歌であり、相聞の歌ではないことが判った。

付記2.類似歌(2-1-439歌)を相聞歌と理解した場合の現代語訳(ブログ2018/7/23より)

① 歌本文を、題詞を無視して理解した場合、相聞歌としての理解が可能になる。

② 試みた現代語訳(試案)は、つぎのとおり。

「人の噂が激しいこの頃なので(逢えないで時が過ぎてゆきます)。貴方が玉であったらいつも手に巻いて持ち歩き(肌も触れ合い)いたずらに貴方を恋しく思うこともないでしょうに。」

③ この(試案)であれば、普通の状態における男女の相聞歌である。親の監視の度合いが3-4-24歌と違っており、3-4-24歌が、いわば、逆境にいる者へ送った歌とすれば、この(試案)は、土屋氏のいう民謡がベースの歌で順境にいる者へおくった歌である、といえる。

付記3.『萬葉集』における挽歌について

① 部立てのひとつ「挽歌」とは、ブログ2022/11/28付けの「付記1.」に記すように、巻二の部立て「挽歌」にある歌の定義を、ブログ2019/5/13付け「8.③」で確認している。即ち、

「死者に哀悼の意・偲ぶ・懐かしむ意等を表わすために人々の前で用いられた歌と編纂者が信じた歌」である、というよりも、「死者と生者の当時の理解からは、死者の送魂と招魂に関わる歌と編纂者が認めた歌」です。挽歌という判定は、歌が創られた時点ではなく、挽歌として利用された時点(用いた時点)でしている。今この世で生きている者がその死者に邪魔されないで生きてゆくのに歌を詠みあるいは披露し、その死者の霊を慰めるのは、当然(あるいはそのような慣例が残っていた)であり、だから送魂と招魂の歌として利用された時、その歌が挽歌である。

② 別の定義もある。即ち、

「死者は生者の世界に残りたがっているのでそれを断ち切ってもらう必要があるという信仰の上にある歌」という意味である。当時は単に追悼をする歌はない。死後に、その人物の活躍(の結果の天変地異、庶民の不幸)があれば偉大な人物であったと認めざるを得ない。天皇の支配は、偉大な人物の死後も祀る儀礼等を続けていてこそ安泰である(ブログ2022/11/14「付記1.」及び同2021/10/11「5」参照)。今上天皇にとっては、そのための儀式は重要である。

③ 巻二の挽歌の部は、無念の死に至った人物の送魂の歌を収載しており、歴代天皇その他の人物にとりこの世に未練を残していては困る人物に対する歌が部立て「挽歌」にある(ブログ2021/10/11付け)。

④ 巻三の挽歌の部は、竜田山死人(非皇族)、死を賜った皇子、そのほかの皇子・皇女、次いで香具山の屍など非皇族(途中に長屋王とその子への挽歌を挟む)の人物への挽歌である。巻三の筆頭歌の対象者である竜田山死人(非皇族)が、天皇にとり送魂の歌を贈るべき人物を暗喩していれば、対象者はすべての対象者に暗喩があるとみたほうがよく、巻二と同様に歴代天皇その他の人物にとりこの世に未練を残していては困る人物に対する歌となっていた。人物に暗喩のあることを、部立て「譬喩歌」により編纂者は示唆している。そして配列は、その歌を披露した(したい)と思われる時点の順であった(ブログ2022/11/14付け)。

(付記終わり 2023/9/4 上村 朋)

わかたんかこれ 萬葉巻四 三大部立ての理由 配列その16

前回(2023/8/7)の『萬葉集』巻四総括の補遺を行い、私の感想を記します。(2023/8/28  上村 朋)

1.~24.承前

萬葉集』巻三と巻四の配列に関して検討して前回その総括をし、補説も記した。さらに補説が必要とすることがあった。歌は、『新編国歌大観』による。

25.補説 その2

① 次の事項の補説をします。

第一 『萬葉集』の三大部立ての関係について 

第二 2-1-724歌以降の整理表について

第三 2-1-789歌以降の歌とその作者藤原久須麻呂について

第四 聖武天皇以降の皇位継承について

② 最初に、『萬葉集』の三大部立ての関係について記します。

 なぜ、三つの部立てを巻一と巻二はおいたのか。それは『萬葉集』編纂の目的から構成した区分であったのでしょう。巻三と巻四がそれを踏襲しているのは、大局的には同じ目的をもって追加編纂したからである、と思います。

 巻一・巻二と、巻三・巻四との違いは、後者に「譬喩歌」という部立てが挟まっていることです。わざわざ異質の部立て「譬喩歌」という部立てをおいていることには、編纂者の意図があるはずです。

 それは未来の天皇の御代をはっきりと予祝をすることが巻三と巻四編纂時に目的のひとつとなったからではないか。

③ 三大部立ては、歌を披露する場面による分類にみえます(ブログ2022/11/21 「41.③」)。巻四までを検討し終わって、この言に同意できます。

 律令制定以前も以後も、祭政一致であるのが天皇をトップとした体制でした。現在に残る養老律令は、神祇令その他を設け、天皇が、神々や祖先を祀るという決意表明をしており、臣下が濫りに墓を造るのを禁止しています。

 いわゆる大和政権は、中国大陸に成立している大国を意識し、その首都より海路を隔て遠距離にあるという地理的条件のもとに、その大国と同じように周囲の国々から朝貢をうけている国という認識をしています。同じ漢字圏にあるのですが、独自の文化もその大国に示す必要があります。大国と大きく異なる点は、革命思想を是認せず、皇族の長である天皇がトップにあり続ける、ということです。諸氏は、『日本書紀』も律令制定もそれを貫いていると指摘しています。詩文集編纂でも同じであるはずです。

④ そのため、三大部立ては、天皇体制の公的行動と公的発言の場面(雑歌)、逝去後の次の世に遷って神々となった人物たちが現世を乱すことのないようもてなす場面(挽歌)、そしてそのような神々の見守る今上天皇のもとで現世の人々の喜びを活写する場面(相聞)、を設定している、とみなせます。

 それにより、天皇をトップとする国家が最善でありかつ機能していることを歌によって示そうとしたのが『萬葉集』の巻一から巻四であり、巻五以下も(検討を尽くしていませんが)三大部立てを敷衍する部立てによって同じことを目指している、とみなせるのではないか。

 巻一~巻四の検討には、小松英雄氏の『みそひと文字の抒情詩』(笠間書院 2004)、神野志隆光氏の『万葉集をどう読むか――歌の「発見」と漢字世界』(東京大学出版会 2013)』、佐佐木隆氏の『言霊とは何か 古代日本人の信仰を読み解く』 (中公新書2013/8 No2230)、遠藤耕太郎氏の『万葉集の起源 東アジアに息づく抒情の系譜』(中公新書2020/6 No2592)、上野誠氏の『萬葉集講義 最古の歌集の素顔』(中公新書2020/9 No2608)をはじめとした多くの書籍などから有益なヒントをいただきました。深く感謝します。

⑤ 題詞とそのもとにある歌の検討を通じ、編纂者が作文した題詞は、元資料の歌が披露された場面の説明を忠実に再現していないことが分かりました。

 部立ても題詞も倭習漢文で作文されています。編纂者は、当たり前のことですが漢字には多義があることを踏まえた作文パターンを用意していました。

 律令の施行は、口頭よりも漢文で伝達することを建前としており、それが倭習漢文を生んでいます。治世のための共通語としての漢文が行政・仏教関係者に普及してきています。それが、大陸にある大国の首都において作文された漢文にはない大和政権下での癖を生じ、倭習のある漢文となっています。

⑥ 巻一の最初の部立ての「雑」字は、「まじる・まじわる・あつまる」(純の対義語)と「まじえる」の大別2意があります。熟語として、

雑詠:いろいろの事物や季節を詠んだ詩歌。

雑言:a(漢)詩で五言とか七言とか、一句の字数の定まっていないもの。bよもやま話。

があります(『角川新字源』)。

 雑歌とは、「雑詠」に対する「いろいろの事物や季節を詠んだ、やまとのことばによる歌」の意の造語ではないか。そして、歌集の最初におくことにより、諸事を裁き、かつ率先垂範して国を治める天皇の事績に関するやまとのことばによる歌を集めた部立て、という意を込めて用いているのではないか。だから、宮廷行事や軍事行動の公的な場面の歌は、対象になっています。

 部立てとして「雑歌」を第一に編纂者は取り立てているので、「相聞」や「挽歌」でない歌の類という定義ではないはずです。

 諸氏の多くが、「雑歌」は「くさぐさのうた」の意で、相聞歌・挽歌以外の歌が収められている、と指摘していますが、これでは「くさぐさのうた」に私的なやりとりをした歌などを除いた理由がわかりません。訓みは「くさぐさのうた」であっても、その意ではないはずです。

⑦ 現に巻一と巻三にある部立て「雑歌」の最初の題詞のもとにある歌(巻頭歌)には、治世に関する御製が置かれています。そして両巻の最後にある題詞の歌は、新たな天皇を予想させる歌です。

(2-1-1歌はブログ2021/10/4付け「4.③」参照、2-1-235歌はブログ2022/3/21付け「3.② 第一」参照。また2-1-84歌はブログ2021/10/4付け「4.」参照、及び2-1-391歌・2-1-392歌の長歌反歌は、ブログ2022/10/10付け「33.」参照)

 巻三と巻四は、当初の『萬葉集』の増補である、と諸氏は指摘しています。当初の『萬葉集』の編纂意図を引き継いでいるならば、巻三と巻四も天皇のために編纂していることになります。新たな皇統の天皇のための再編纂です。

⑧ 次に、挽歌とは、歌が創られた時点ではなく、挽歌として利用された時点(用いた時点)で挽歌と判定されています(2021/10/11に訂正した2019/5/13付けのブログ参照」)。

 巻第二の編纂者は、挽歌の最初の歌群の5首目の2-1-145歌の左注は、「右件歌等 雖不挽棺之時所作 准擬歌意 故以載于挽歌類焉」(「右の件(くだり)の歌等は、棺を挽く時つくる所にあらずといへども、歌の意(こころ)をなずらふ」)と記しています。これらの歌をもって挽歌の部が構成されていると言っています。左注を記した時代にも挽歌をこのように理解していたことになり、遡って巻二編纂時の編纂者の時代の理解を推測した言です。

 この巻第二の挽歌の部の歌とは、「死者に哀悼の意・偲ぶ・懐かしむ意等を表わすために人々の前で用いられた歌と編纂者が信じた歌」というよりも、「死者と生者の当時の理解からは、死者の送魂と招魂に関わる歌と編纂者が認めた歌」です。今上天皇が死者の悪影響を受けないための歌です。挽歌という判定を、歌が創られた時点ではなく、挽歌として利用された時点(用いた時点)でしていることになります。元資料の歌が初めて披露された時点ではなく、題詞に記載の時点で披露された歌と理解できます。

 今日でいうと、会葬の席で用いられた歌と、時・処に関係なくその人を偲ぶ歌として詠われた歌(死者を弔いいわゆる成仏してほしいと願うことでもある歌)とをも指すことになります。その人の好きであった歌曲を、歌ったりBGMに用いれば、それは挽歌である、というのが巻第二の編纂者の定義です。今この世で生きている者がその死者に邪魔されないで生きてゆくのに歌を詠みあるいは披露し、その死者の霊を慰めるのは、当然(あるいはそのような慣例が残っていたの)であり、だから送魂と招魂の歌として利用された時、その歌は挽歌です。(2021/10/11に訂正したブログ2019/5/13付け)

⑨ 巻三の「挽歌」にある歌にもそれは該当しています。つまり、挽歌は伝承歌や他人の歌でもそれを挽歌として披露することができました(ブログ2022/11/28付け「42.②」)。そして「譬喩歌」という巻三にある部立ての示唆により挽歌の対象者には別人が想定できました。なお、ブログ2019/5/13付け「9.④」の指摘は誤りであり、巻三の挽歌も、各歌の暗喩を思えば、巻二の挽歌の編纂と同じでした。

⑩ 相聞は、公的行事の公的な発言ではない歌の類ばかりです。天皇の治世のよろしきを知らしむる歌であり、天皇・皇族・官人の公的発言ではないものとして日常の行動と感情が詠われている歌の類であり、愛情あふれる表現で日常を知らせあう歌や恋の歌、餞別の歌、宴席で遣り取りした歌、社交的な会合での歌、送り状に添えた歌などが収載されている部立てとなっている。元資料が労働歌であると推測できる歌は、それを用いた官人等が披露した歌として収載されています。

⑪ 後代の識者は、『萬葉集』の部立て「相聞」にある歌に左注等して、次のように注記しています。

 2-1-652歌左注に、「起居相問の歌(叔母甥という関係の二人は歌をしるして送りまた答へ、互に日常を尋ね合ったその歌)」(相問は相聞と同じ意でこの左注は用いている)

 2-1-730歌の題詞の割注に、「離絶數年復会相聞徃来」(・・・再び会い相聞往来した際の歌)(割注は「相聞」と記す)

 2-1-762歌の左注に、「于時姉妹諮問以歌贈答」(・・・文通し歌を以て贈答した際の歌)

⑫ さて部立て「譬喩歌」です。(ブログ2022/11/21付け参照)

 すべての歌本文に、表面の歌意と別途の歌意があることが確認でき、題詞は、表面の意に関することだけでした。譬喩は雑歌でも相聞でも用いている修辞法です。このため、譬喩という方法に注目すべし、というヒントのメッセージが、この部立ての名称にある、と思います。

 つまり、譬喩歌という巻三にある部立ては、巻三と巻四の歌に関する編纂者の注記である、とみなせます。巻三と巻四には、部立て「譬喩歌」と同じように別途の意がある歌が多々あったのは事実です。

 なお、巻五以降にある部立て「譬喩歌」は未検討です。

⑬ 次に、2-1-724歌以降の整理表について記します。

 ブログ2023/4/24付けで、題詞の作文パターンを重視し、「11.③」に、「表2-1-724歌以降の題詞の、作者別・題詞の用字別一覧(2023/4/24現在)」を得ました。その後のブログ2023/8/7付けまでの検討を加えて修正した結果は表にまとめて示していませんでしたので、ここに記します。標題も変更します。

 その要点は、巻四は、部立てが「相聞」なので贈歌答歌がペアとなるように理解するのが妥当であったこと、用いている用字を吟味し贈歌答歌を検討し直したこと、及びペンネームで記されている人物の歴史上の行動の暗喩を推理したこと、の3点です。

 

表 2-1-724歌以降の題詞における、作者別・相手別・題詞の用字別一覧 (2023/8/7現在)

歌の作者⇒暗喩の人物

おくった相手

⇒暗喩の人物

題の種別 (⇒2023/4/24現在の表のグループからの変更)

そのもとにある歌番号

歌本文も検討したブログ

発意の題での用字

応えた題での用字

記載なし(未詳の人物)⇒?

天皇

聖武天皇

(A1とB1は意識的に巻四から割愛)

 

献  A0⇒A2

献  B0⇒B2

724

728~729

この2題、2022/3/6付け&2023/2/20付け

家持

光仁天皇

記載なし(未詳の人物)⇒聖武天皇

(献・贈字無し)

  C0⇒C1

 

725

 

2023/2/20付け&2023/3/6付け

記載なし(未詳の人物)⇒持統天皇

 

和歌 S2

767

 

坂上大嬢

井上内親王

 贈  D 0⇒D1

又・・・和歌 O2⇒O1

又・・・和歌 P2⇒P1

又・・・和歌 Q2⇒Q1

更・・・贈  E0⇒E1

 

 

 

 

 

(Q2割愛)

 

(E2割愛)

730~731

735~737

 

739

 

742~743

 

744~758

この5題、

2023/3/13付け

&2023/4/24付け

 

思・・・作歌 F1

更・・・贈  G0⇒G1

 

(G2は割愛)

768

770~771

この2題、

2023/3/13付け&2023/4/24付け

贈  H0⇒H1

(H2は割愛)

773~777

2023/4/24付け

紀女郎

持統天皇

報贈  U3⇒U1

贈  I1

更・・・贈  J0⇒J1

 (U2は割愛)

772

778

780~784

 

 

 

娘子

高野新笠

 贈  K0⇒K1

(K2割愛)

786~788

 

藤原久須麻呂⇒淳仁天皇

 (V1割愛)

贈  L1

報贈 V3⇒V2

789~791

792~793

 

坂上郎女⇒藤原光明子

坂上大嬢

井上内親王

 

賜   M0⇒C2

726~727

2023/3/6付け&

2023/3/27付け

贈  N0⇒N1

(N2は割愛)

763~764

 

坂上大嬢

井上内親王

家持

光仁天皇

 

贈 O1⇒D2

同・・・贈 P1⇒O2

同・・・贈 Q1

⇒P2

732~734

738

 

740~741

この3題、2023/3/13付け&

2023/4/24付け

大伴田村家大嬢⇒阿倍内親王

坂上大嬢

井上内親王

 贈  R0⇒R1

(R2は割愛)

759~762

 

紀女郎⇒持統天皇

家持

光仁天皇

 贈  S1

 

 

報贈 I2

765~766

779

 

友⇒光仁天皇

 

褁物を贈る歌 T0⇒J2

785

2023/3/27付け

 

藤原郎女⇒藤原家の人々

家持

光仁天皇

 

和歌  F2

769

2023/3/13付け

藤原久須麻呂⇒

淳仁天皇

家持

光仁天皇

 

来報  L2

794~795

 

題詞の計

 

20題⇒17題

9題⇒12題

 

 

注1)2023/4/24現在の表における「題詞にある用字とグループ別」のうち「献・贈・思・・・作歌」欄と「和歌・報贈・来報」欄は、「発意した題詞での用字」と「応えた題詞の用字)」に今回(2023/9/zz)改めた。

注2)今回、次のような考えで正した(ブログ2023/4/24付け参照)。

献:自主的におくる場合のほか、求められて奉答・返歌した場合もあった。

賜:要件を満たしたから積極的に賜う場合(能動的に賜う)もあり、願いがまずあって賜うようになった場合(受動的に賜う)だけではない。

注3)2023/4/24現在の表では「献・贈・思・・・作歌」欄には、「献・贈・思・・・作歌」とさらに「褁物贈」という用字のある題詞を整理した。「和歌・報贈・来報」欄には、「和歌・報贈・来報」という用字のある題詞を整理した。

注4)2023/4/24現在の表では配列上「献・贈・思・・・作歌」欄の題詞とその直後の「和歌・報贈・来報」欄の題詞は、一つの歌群(グループ)と整理した。そうならない場合も一つのグループとすると、グループ名はA~V(22グループ)となった。グループ名に付している数字は、返歌の無いグループ(0)、返歌があるグループ(1と2)、返歌だけのグループ(3)であることを示す。今回そのグループ名は残して整理し20グループとなった。

注5)歌番号とは、『新編国歌大観』所載の『萬葉集』における歌番号である。

注6)「歌本文も検討したブログ」欄には、検討の例示として当該歌を検討したブログ「わかたんかこれ ・・・」の当該年月日を記す

⑭ 次に、部立て「相聞」にある2-1-789歌以降の歌とその作者藤原久須麻呂について補説します。

 藤原久須麻呂は、大伴家持が「報贈」し(2-1-789歌~2-1-791歌)、そして「贈」歌した(2-792歌~2-1-793歌)相手であり、その後彼は大伴家持に「来報」して(2-1-794歌~2-1-795歌)います。

 藤原久須麻呂については、ブログ2023/3/6付けの「付記2.②の表H3」の「注記2」で、奈良時代では数少ない皇族以外の男子が皇女(天武天皇からみればひ孫)を妻として迎えた例と紹介しました。「報贈」等にある2意(ブログ2023/4/10付け「10.③以下」など参照)に注目し、補説します。

 ペンネーム大伴家持の歌として2-1-793歌を理解すれば、時期をみはからってあなたのお心に添うようにするという申し出であり、ペンネーム藤原久須麿の歌としての2-1-795歌は、家持の現状認識と処理方針を承認したことになります。

 天皇の後継者について、進行している方向に異議はない、という暗喩をみることができます。

 怨霊の概念がはっきりしてきた時代であり、家持に擬される人物は、2-1-725歌以降で、常世の国にいる、称徳天皇以前の天武系天皇の意見を伺っており、ペンネーム藤原久須麿もその一人です。

⑮ 巻四最後の題詞とそのもとにある歌は次のとおり。

2-1-794歌  藤原朝臣久須麻呂来報歌二首

奥山之 磐影尓生流 菅根乃 懃吾毛 不相念有哉
おくやまの いはかげにおふる すがのねの ねもころわれも あひおもはざれや

2-1-795歌  同上

春雨乎 待常二師有四 吾屋戸之 若木乃梅毛 未含有

はるさめを まつとにしあらし わがやどの わかきのうめも いまだふふめり

 伊藤博氏の現代語訳を引用します。

  2-1-794歌 藤原朝臣久須麻呂、来報(こた)ふる歌二首

   奥山の岩影にひっそり生えている菅の根のように、私だって、心の底からねんごろに思っていないことがあるものですか。

  2-1-795歌 同上

   梅の若木は春雨の降るのを待つもののようです。わが家の梅の木の若木もいまもなおつぼんだままです。

 氏は、2-1-795歌の四句と五句について、「我が家の梅を持ち出すことで、(家持の)2-1-793歌の(「きみがまにまに」という)申し出に同意したもの」と指摘しています。

 土屋文明氏は、2-1-789歌以下の相聞歌について、

「相識者間の贈答が、恋愛相聞の歌の如き表現をとるのは時代の習俗であるから、之も梅花に寄せての、二青年間の日常起居の相聞とみるべきではないか」と指摘し、

2-1-795歌について、

「梅は家持の家にも久須麻呂の家にもあったものと見える。之は単にその近況を伝へたものと見るだけで十分だ。新舶来の梅樹を互に珍重しあったのであらう。」、と指摘しています。

両氏の理解は、作者を大伴家持と藤原久須麻呂がそれぞれ詠った歌としての理解に留まっています。ペンネーム大伴家持等の歌の理解に触れていません。

⑯ 次に、皇位継承について、記します。巻三と巻四の編纂において、聖武天皇今上天皇としていることに関連します。

 聖武天皇は皇子にめぐまれませんでした。皇女の阿倍内親王に譲位後崩御しましたが、聖武天皇の皇后光明子は、御璽と駅鈴を保持し続け、光明子崩御(760)後には(その時の今上天皇である)淳仁天皇が引き継いでいます。阿倍内親王淳仁天皇からそれらを奪い再度践祚称徳天皇)しています。次いで光仁天皇が引き継いでいます。

淳仁天皇とは、天武天皇皇子舎人親王の七男大炊王です。 舎人親王の母である新田部皇女は天智天皇の皇女です。孝謙天皇から譲位を受け践祚し、その時孝謙天皇は、太上天皇となっています。但し政治の実権は光明子孝謙天皇光明子の娘である阿倍内親王)の信任のもとにほとんど藤原仲麻呂にありました。淳仁天皇聖武の遺勅を廃して孝謙天皇により立太子されました。しかし、758年の即位後は孝謙天皇太上天皇)と対立するまでに至り、廃位され、764年親王の待遇で淡路島に流され翌765年同国で公式には病死しています。

⑰ そして称徳天皇皇位継承者について意思を示さず崩御しました。崩御後、遺宣があったとして白壁王が推され践祚光仁天皇となります。妻である聖武天皇の皇女・井上内親王を皇后とし、その内親王が産んだ他戸(おさべ)王を皇太子にたてています。その後廃され、次の天皇桓武天皇の母は、皇族ではありません。

淳仁天皇という漢風諡号は明治時代になってからの追贈であり、古文書では廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいてい、あわじはいたい)と呼ばれていますが、歴代に加えた史書も存在します。称徳天皇の御代には、直前に天皇位にいた人物として遇されていないことになります。

だから、光仁天皇の即位は、当時としては、男子として聖武天皇の次に正式に即位した天皇という認識になります。淳仁天皇の認識と同じく、白壁王(即位して光仁天皇)は、聖武天皇の皇太子に擬することが可能です。

 以上で補説を終わります。

26.巻三と巻四検討の感想

① 『猿丸集』3-4-24歌の検討にあたり、類似歌をできるだけ正確に理解しようとして類似歌のある『萬葉集』を巻単位で検討をしました。『猿丸集』や『萬葉集』は編纂物ですから、編纂者によりそこに配列されている意を汲み取ることが歌の理解に必要だからです。その際感じたことを二、三記しておきます。

② 巻一と巻二の編纂理由を、巻三と巻四編纂者はよく承知しており、新たな皇統にならざるを得ない状況に対応した「やまとのことばによる歌集」を編纂したのではないか。歴代天皇からみると、『日本書紀』や『続日本紀』と違い『萬葉集』は、朝廷に備えるべき書物という認識はなかったようです。

③ 『猿丸集』編纂は、『萬葉集』の訓読作業と関係があるのかもしれません。類似歌が『萬葉集』と『古今和歌集』に集中しており、『猿丸集』は、両歌集理解の手引きになっています。その理解は、私には大変理にかなっている、と感じました。

 ブログ2020/1/6付けで次のように指摘しました。

「類似歌に関して、当時における新解釈をいくつかの歌について『猿丸集』編纂者は採用していることを、古人の説(に従ったところ)の理解によるものであるとして示しているのではないか。(ここに述べている)自説は、古人某がすでに述べている、という論理構成をとっている文がよくあります。」

 この予想は、あたっているかもしれません。

④ 『萬葉集』巻一~巻四は、この4巻に共通の「寧楽宮」と、部立て「譬喩歌」をたてている理由の二つの理解が重要でした。編纂者の構想力に敬意を表します。

⑤ 『萬葉集』巻五以降の編纂方針も検討したほうが良い、と思っていますが、後日のこととします。

ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただきありがとうございます。

次回からは、『猿丸集』第24歌の再確認に戻ります。

(2023/8/28  上村 朋)

 

 

わかたんかこれ 萬葉集巻四 配列のまとめ  配列その15

 夏の甲子園がはじまりました。もう数校が散りました。

 前回(2023/7/31)までの『萬葉集』巻四の配列の検討結果のまとめを行います。(2023/8/7 上村 朋)

1.~20.承前

萬葉集』巻四(相聞歌)の配列について、巻三にならい予想(作業仮説)をたてて検討してきました。そして巻三と同様に、聖武天皇の後の御代に関する歌群のあることを確認するなど、その予想は妥当なものでした。題詞と歌本文も新たな理解で現代語訳(試案)が出来た歌がいくつもありました。そして巻三と巻四を一体とした検討がこれからです。

なお、『新編国歌大観』(角川書店)収載の『萬葉集』を対象に、検討しています。

21.巻四の検討のまとめ

① 巻四の検討を始めるにあたり、予想(作業仮説)を、ブログ2023/1/23付けに記しました。題詞が倭習漢文であること、歌本文が元資料段階での歌と題詞のもとにある歌は峻別できる、として検討してきました。

 その結果、巻四の「献天皇歌」という4字のみの題詞(とそのもとにある歌本文)から、聖武天皇の後代の御代に関する歌群を編纂者が用意していることが分かり、また作業仮説は全体として誤りとはなりませんでした。

② 巻四の配列を検討した結果、作業仮説の事項(下記第一から第五)の結論は、次のとおり。

 第一 編纂者は、聖武天皇の御代の途中までに詠作あるいは披露された歌により巻四を構成しており、聖武天皇の御代を今上天皇の御代として題詞を作文している。

 第二 歴代天皇の御代を指標として歌群をつくり、その歌群を御代の暦年順に配列している。その歌群は今上天皇の後の御代(未来の天皇の御代)をいれて5つの歌群となっている。それを下記④の表に示す。

 第三 未来の天皇の御代は、題詞に明記する作者名とその作者名をペンネームとする人物の歌として語いる。それを語句に2意のある用語を用いた題詞と歌本文により創出している。

 第四 配列は、相聞の範疇の歌によって天皇の統治を讃え、さらに予祝することを目的にしていると見られる。それは寧楽宮を都城とする天皇の予祝である。

 第五 そして、巻四の配列は、その中核的編纂時に定まった。それは『萬葉集』最終編纂時点においても多分修正されていないであろう。

③ そして次のことも指摘できます。

 第十一 既にあった巻一と巻二相当の歌集にも、未来の天皇の御代の予祝があったとする歌を補ったのではないかと推量できる。巻一から巻四の目的を一つにしたことになるのではないか。

 第十二 題詞は倭習漢文で作文されているので、漢字の意に留意し、作文パターンが事前に準備されている。

 第十三 歌本文は、題詞のもとにある歌として厳密に理解しないと、編纂者の意図が汲めないことを痛感した。

 第十四 「寧楽宮」とは、未来の天皇の御代のうち、光仁天皇の御代を指す。巻一から巻四に共通して用いている。

 第十五 光仁天皇の御代には、怨霊という概念が成立しその対応方法も実行されており、天皇もそれを行う状況になっていた。聖武天皇今上天皇として歌集を編纂するのは、その対応の一方策とみられる。

④ 巻四の配列は、そのため次の表のようになります。

 表 『萬葉集』巻四の配列の推測(2023/8/7 現在)

歌群

天皇の御代

歌群の筆頭歌

備考

1

天武天皇以前

2-1-487:巻四巻頭歌で天皇の妹の歌

難波を都とした天皇

2

持統・文武天皇

2-1-499:巻四で最初の人麻呂歌

持統天皇:在位690~697 没年703

文武天皇:在位697~707

3

元明元正天皇

2-1-516:巻四で唯一の志貴皇子

元明天皇:在位707~715 

元正天皇:在位715~724

4

聖武天皇

2-1-525:京職藤原大夫が大伴郎女に贈る歌

聖武天皇:在位724~749

孝謙天皇(阿倍内親王):在位749~758

淳仁天皇:758~764

称徳天皇(阿倍内親王):在位764~770

5

光仁天皇

2-1-724:未詳の人物の「献天皇歌」

光仁天皇:770~781

注1)歌の引用は、『新編国歌大観』所載の『萬葉集』による。「同書の巻番号―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号」で示す。

注2)編纂上、今上天皇聖武天皇という建前である。その次の御代は「寧楽宮」を都城とする天皇の御代である。その御代(光仁天皇の御代)の歌は、暗喩による。そのため題詞に明記の作者のほかにその作者名をペンネームとした人物の歌にもなっている。

 

⑤ 相聞の歌とは、おくった歌とそれに応えた歌(例えば贈歌に対して和歌・報歌、(挽歌のように)並立する歌)が一組であり、配列でもそれを前提にしていました。

 土屋文明氏は、歌が社交の道具と既になっているとして「恋愛歌」のようなところがあっても(部立て「相聞歌」にある歌は)、実は単純な起居相聞の歌と見るべきであると指摘しています(2-1-649歌以下の4首での指摘)。

 

22.巻三の検討のまとめ

① 巻四は巻三と一体に編纂されていますので、改めて巻三のまとめを抄録しさらに追記します。巻三の配列検討の総括はブログ2022/11/7付けで行いました。

 部立てごとに、記します。

② 巻三雑歌は、巻三の編纂者による次のような方針のもとに編纂されている、と推測でき(同ブログ)「36.⑨」)、検討した結果その推測は妥当でした。

 第一 編纂時点を聖武天皇の御代と固定している。

 第二 天武天皇から聖武天皇までを即位順に3グループとしたのち、聖武天皇の御代終了後に即位する天皇の時代を「寧楽宮」の御代と称した4つ目のグループを作っている。そして、3つ目のグループには聖武天皇崩御に関する歌は配列していない。

 第三 「寧楽宮」とは、聖武天皇崩御以降において官人が希望を寄せる男性の天皇を想定している御代に擬す。そのため、巻一の標目にある「寧楽宮」の意と通じている。

 第四 各グループは、歌と天皇の統治行為の関係分類の「A1,A2又はB」により区分を示し、「C」以下の区分の歌により当代の治世を表現している。(関係分類についてはブログ2022/3/21付け参照)

 第五 巻三雑歌の最終の編纂に合わせ、『萬葉集』の公表を許されるよう巻一と巻三の雑歌全体の統一性をとるよう巻をまたいで見直している。

 第六 代々の天皇の庇護のもとに次の天皇は即位するものであり、「寧楽宮」の御代の天皇とその御代を予祝するものとしている。

 この結果、巻三は、既に神とみなされる業績のある天皇の御代から始まり、期待されているあるいは事を成そうと意気込む天皇の御代までを統一的に編纂しており、今上天皇への忠誠を示しています。これは、『萬葉集』が公に認められるきっかけとなったのではないか、と推測します。

③ 次に、巻三の挽歌は、ブログ2022/11/14付けで次のように指摘しました。

 第一 題詞に作詠時点が明記された最後の歌は、家持が作った安積皇子への挽歌であり、天平16年である。そのあとにある題詞には、作詠時点が明記されていない。

 第二 巻二の挽歌にあったような天皇あるいは皇太子への挽歌、と明記した題詞がない。皇太子のまま薨去された皇子には、聖武天皇の御代の基皇子がおられる。

 第三 巻二の挽歌にある「標目」がないが、天皇の代を意識したグループ化をして順に配列されている。但し第一グループの御代には、推古天皇の御代が加わっている。

 第四 巻三の挽歌の歌には、挽歌の対象者に暗喩が認められるもの多くある。それにより聖武天皇以後の「寧楽宮」という未来の天皇の代も設定していることになる。

 第五 歌の配列は、挽歌の対象者の亡くなった時点ではなく、その歌を披露した(したい)と思われる時点の順になっている。

④ なお、律令では、死に関する儀礼を「喪葬令」に規定しています。それは、招魂(喪)と送魂(葬)の儀礼がワンセットであることを意識している規定と理解できます。死者を、円満に死者の世界に送ることをストーリーとしており、死者が死者の世界に行けないと、死者と生者が一緒にいるという混沌とした世界が続くことになる(死者にかき回される状況が続く)ので、それを解消し、生者の秩序は生者のみでつくり保てるようにするという意識です。

 そのため、「寧楽宮」という未来の天皇の代における挽歌も意義あるものとなります。

⑤ 巻三挽歌にある各歌での譬喩の推測は次の表のとおり。

表 巻三挽歌にある各歌での譬喩の推測(2022/11/28現在)

歌番号

題詞での作者(披露者)

題詞での挽歌の対象者

譬喩されている挽歌の対象者

歌群のグループ区分

418

上宮聖徳皇皇子

上宮聖徳皇子

 無し

第零

 419

大津皇子

大津皇子

 無し

第一

420~422

手持女王

河内王

天武天皇系皇子

第一

423~425

丹生王

石田王

天智天皇系皇子

第一

426~428

山前王

石田王

天智天皇系皇子

第一

 429

柿本人麻呂

香具山屍

草壁皇子(皇太子で死去)

第一

 430

刑部垂麻呂

田口広麻呂

道祖王(廃皇太子)

第一

431

柿本人麻呂

土形娘子

持統天皇

第一

432~433

柿本人麻呂

出雲娘子

持統天皇

第一

434~436

山部赤人

真間娘子

元明天皇

第二

437~440

河辺宮人

姫島松原美人屍

元正天皇

第二

441~443

大宰師大伴卿

故人

文武天皇

第一

444

倉橋部女王

長田王

 無し

第三

 445

明記無し

膳部王

 無し

第三

446~448

判官大伴三中

史生丈部竜麻呂

廃帝淳仁天皇

第四

449~453

大宰師大伴卿

明記無し

基王(皇太子で死去)

第三

454~456

明記無し

明記無し

聖武天皇

第三

457~462

明記無し

大納言大伴卿

志貴皇子

第三

463~464

大伴坂上郎女

尼理願

称徳天皇孝徳天皇

第四

465~466

大伴家持

大伴家持の亡妾

井上内親王

第四

467

弟大伴書持

大伴家持の亡妾(和歌)

井上内親王

第四

468

家持

明記無し

井上内親王

第四

469~472

家持

明記無し

井上内親王

第四

473~477

家持(悲緒未息更作歌)

明記無し

他戸親王(皇太子で死去)

第四

478~483

大伴家持

安積皇子

 無し

第四

484~486

高橋朝臣

高橋朝臣の妻

高野新笠桓武天皇の実母)

第四

26題 69首

 

 

 

注1)「歌番号」は、『新編国歌大観』所載の『萬葉集』の歌番号。

注2)この表は、ブログ2022/11/28付け「42.⑥」の表に、グループ区分を加えたものである。

注3)譬喩している人物は、持統天皇以下の歴代天皇とその間の皇太子の立場で死去した人物や廃皇太子などと、推測ができた。例外は、部立て「挽歌」の最後の題詞の歌(2-1-484歌~2-1-486歌)における譬喩の候補とした高野新笠だけ。皇后ではないが皇位を継ぐ者(桓武天皇)を生んだ人物であり、桓武天皇即位後皇太后薨去後に贈皇太后、贈太皇太后になっている人物である。

⑥ 巻三のもう一つの部立て「譬喩歌」については、下記「23.④と⑨」に記します。

 

23.巻一から巻四の特徴

① 『萬葉集』は編纂が何度か行われて後、時を置いた書写を繰り返して今日の姿となっています。『萬葉集』全体の編纂のなかでの巻四を確認し、次いで巻四の編纂方針を再検討します。

 歌集の外形である部立て、配列(順)、題詞の作文パターンなどを通じて確認します。

② 外形では、まず部立てです。

萬葉集』の巻一は雑歌という部立てをして、また巻二は相聞と挽歌という部立てをして、歌を配列しています。配列は、巻一も巻二も、部立てごとに天皇の代でいくつかのグループ(歌群化)として、グループを歴代順に並べています。そしてこの2巻での部立てが、『萬葉集』の三大部立てと言われています。

 巻三は、雑歌と挽歌の部立てをして、その二つの部立ての間に「譬喩歌」という部立てを置いています。修辞上の分類名のようです。部立ての雑歌と挽歌の配列は、巻一や巻二のそれと同じです。

 巻四は、相聞の部立てのみであり、配列は、巻一や巻二と同じです。配列上、いわゆる三大部立てがこの2巻で揃います(繰り返されている、と言えます)。

 巻五は、雑歌の部立てのみで歌を配列しています。巻六も部立ては雑歌のみです。巻七は雑歌と譬喩歌と挽歌の部立があり、巻八には雑歌と相聞を四季にわけた部立て(計8つ)があります。

 巻九は一巻で三大部立てがあります。このため、巻五~巻八でもって三大部立てを揃えているとみて 、ひとくくりとします。そして巻十から巻十三と、巻十四以降とがそれぞれひとくくりとなります(巻五以降の部立ての中の歌の配列は今考慮外です)。

③ これから、巻四は、巻一と巻二をモデルとして巻三と一体で編纂されているといえます。巻五以降は巻一と巻二がすべての場合モデルになっているかは疑問です。

 そのため、巻一から巻四のみを対象に編纂方針を推測するのは、巻五以降の各巻別の歌の配列は未検討でも、価値があると思います。

④ 以下、四巻に絞って検討します。

 巻一などにあった「標目」(例えば「泊瀬朝倉宮御宇天皇代」 )という表記は、巻三と巻四にはありません。しかし、歌群には歴然とした天皇の代による歌群があったので、巻一・巻二と同様な意識で編纂していると言えます。

 そして、譬喩歌という新たな部立てを雑歌の次にたてています。これは、(相聞等に分類できる歌なのに)譬喩を含む歌(さらに大々的に譬喩を用いた歌)のみで構成した部立てであり、巻一と巻二の編纂と異なります。これは、いわば編纂者の注記の部立てではないか。雑歌という部立ての左注のような意識ではないか。それは三大部立ての左注でもあります。

 部立て「譬喩歌」にある歌全25首は、大変わかりやすい譬喩の歌です。ただ、土屋文明氏が、歌の出来を褒めている歌は一首もありません。諸氏もほぼ同じでしょう。そのような歌を、編纂者は部立てをしてまで収載しています。編纂者の美意識を越えた何かによって設けられたのが譬喩歌という部立てであると断定してよいのではないか。

⑤ 次に題詞です。題詞は、官人の馴れ親しんでいる倭習漢文で作文されています。作文パターンがいくつもありますが、既存の巻一と巻二のそれと、巻三と巻四の主たるそれは違います。編纂者(あるいは編纂を命じた者)の編纂方針の違いがあると思えます。

 ただし、現行の巻一と巻二は、巻三以降の編纂時の加除訂正があると言えます。それにより巻一と巻二の編纂目的よりも、巻一~巻四を対象とした一つの編纂目的で編纂し直されている、と言えます。

⑥ 歌本文は、その元資料が推測可能でした。その天皇の御代に作詠された歌と披露された伝承歌であり、編纂者が新たに作詠したと思える元資料はないようです。伝承歌については「てにをは」を始め編纂者による改変の有無は確認しようがありません。異伝歌がいくつもある中から適切なものを選んでいるだけかもしれません。

 また、題詞の人名その他の情報から作詠時点がほぼ推定できる元資料の歌があります。それによれば、聖武天皇の御代までに作詠された歌でした。一番新しい作詠時点は聖武天皇の御代であり、聖武天皇への挽歌がありませんので、巻三と巻四の編纂の最早時点は聖武天皇の御代となりました。最遅時点は、『萬葉集』が世に知られた時点の直前としかいえません。

⑦ 外形からは、このようなことが指摘できます。

 歌本文の内容を、題詞のもとにある歌本文として検討すると、次のことが指摘できます。

 第一 題詞には倭習漢文の作文パターンがあるので、同一趣旨の場合は同一パターンになっていると想定でき、そのパターンの用例同士あるいは類似のパターンとの比較が有効な検討方法となった。

 第二 部立て「相聞」収載の歌は、おくった歌(及び誘っている歌)とそれに応えた歌が一組であり、収載はそれを基本としていると見られる。

 第三 題詞と歌全体で二意ある歌が連続して配列してあるのは、意図があると判断した。これは怨霊対策として有効であろう。

 第四 『猿丸集』第24歌の類似歌2-1-439歌は、第二グループの歌群の「部立て」挽歌の筆頭の題詞のもとにある歌4首の3首目の歌である。題詞にある「見」という文字は、「見・・・屍」という表現においては、「仄聞」あるいは「文書によって知る」という意、あるいは下命による作詠を示唆する言葉とも理解した方がよい。この題詞は送魂歌を意味する(ブログ2022/11/14付け「40.「2-1-437歌~2-1-440歌」」)。題詞を無視すれば相聞の歌とも理解可能である。挽歌の対象者である姫島松原美人(屍)は、上記「22.⑤」のように元正天皇かと推測している(同ブログ「39.③ 第四」での指摘は誤り)。

⑧ 必ずしも天皇のために詠まれた(披露された)歌ではない元資料の歌を作文した題詞のもとにおくことで編纂意図を貫いた歌集が『萬葉集』の巻三と巻四である、ということになります。

 今日でいえば編纂者の作品ですので、元資料の歌がその作者の意そのままで収載されているとは限りません。

⑨ 奈良時代は、天皇を中心とする専制国家の制度をつくり、それを徹底実践しようとしています。中国大陸の重要部分を統一している国家と同様に、日本列島を統一している国家が天皇を中心とする専制国家です。そのために、現行の巻一と巻二相当の歌集が既に公になっているだけでは不足している何かを補うために巻三と巻四は編纂されたのではないか。

 だから、巻三と巻四の編纂は、巻一と巻二の不足をも補って行い、現行の巻一~巻四を編纂しなおしたのではないか。

 別の見方をすれば、巻三と巻四の編纂者は既存の巻一と巻二の編纂目的を強く意識して編纂をしている、といえます。別の基準による部立てと思われる譬喩歌という部立てを加えているのは、2-1-1歌から巻四の最後の歌までを共通の目的に編纂し直すための方策ではないのか、と理解できます。

 つまり、2-1-1歌から2-1-xxx歌までを編纂した歌集に対して新たな編纂方針から確認し、場合によっては歌をα首追加して巻一と巻二とし、2-1-(xxx+α+1)歌から2-1-yyy歌までで一組となる歌集を追加して、巻三と巻四として、巻一から巻四が一つの編纂方針で編纂された歌集になるように作業をしている、と言えます。(その後の『萬葉集』編纂者の手で追加がなければ2-1-yyy歌とは(『新編国歌大観』の歌番号の)2-1-795歌です。

⑩ その目的は、今上天皇の御代(とその御子孫によるの御代)につながる寧楽宮の御代を予祝することではないか。それは、天武天皇の霊を慰めることにつながるからです。編纂時期が既に怨霊の概念が確立する頃であり、朝廷の公式行事の執行だけでは足りないものがある、と感じている人々もいたはずです。

 なお、『萬葉集』20巻の全体の成立論は別途の課題です。

⑪ 歴代天皇の御代を指標として巻三と巻四の歌群を比較すると、つぎのとおり。

表 巻三と巻四の部立て別・天皇の代による歌群グループ別・歌の配列状況

(譬喩歌を除く 2023/8/zz現在)

歌群のグループ名

巻三

巻四

関係する天皇

巻三 雑歌

巻三 挽歌

巻四 相聞歌

第零

 

418

487~499

  (13首)

難波を都とした天皇

 

第一

235~ 289

 (55首)

419~436

 (19首)

499~515

  (17首)

天武天皇

持統天皇

文武天皇

第二

290~314 

(25首)

437~440

 (4首)

516~524

  (9首)

元正天皇

元明天皇

第三

315~377

 (63首)

441~462

 (22首)

525~723

  (99首)

聖武天皇

第四

378~392 (15首)

463~486

(24首)

724~795

  (82首)

孝謙天皇

淳仁天皇

称徳天皇

寧楽宮(狭義)

 計

  (158首)

    (69首)

  (319首)

 

備考

388~390は「仙であっても幹ではない枝に関する歌」、

挽歌の対象者の殆どに別の人物の暗喩あり

第四グループの歌の作者には別の人物の暗喩あり

 

注1)歌番号は、『新編国歌大観』記載の『萬葉集』での歌番号

注2)巻三雑歌に関しては、「表 天皇の代による4グループ別にみた巻三雑歌の配列状況(2022/10/10現在における表E’に基づいた表)(2022/10/31現在)による。巻四にならい第零グループを設定した。

注3)巻三挽歌に関しては、ブログ2022/11/14付け及び2022/11/28付けの表による。巻四にならい第零グループを設定した。

注4)巻四相聞歌に関しては、ブログ2023/1/23付けの表H1及びブログ2023/3/6付けの表H2・表H3などから作成したブログ2023/3/6付けの表1による。

注5)「関係する天皇」欄の「寧楽宮」とは、聖武天皇崩御後に即位する(官人が待ち望んだ)天皇を示唆している。『萬葉集』が公表された時の天皇が天智系の天皇であるので、皇位継承の天武系から天智系への転換を編纂者は念頭において、第四のグループを設けた、と推測できる。結果的に、巻一雑歌にある標目「寧楽宮」の意と重なり得る。

 

24.補説 元資料が宴席の歌と私的な社交的な場の歌の例

① 坂上郎女の怨恨歌を検討した際、それ以降に配列されている題詞(とそのもとにある歌)が、恋の歌ではなく、宴席等の社交的な場の歌の相聞の歌であり対の題詞(と歌)である事への言及が不十分でしたので、ここに補説します。

 2-1-624歌と2-1-625歌については、ブログ2023/5/8付けの「12.⑭」で、「夫婦の間を往復した歌」ではなく(元資料の)歌は送別会の席の歌ではないかと指摘しています。

 2-1-626歌は、「池辺王宴誦歌一首」と題詞に「宴誦歌」とあります。一見恋の歌のようですが、宴席で誰かの気持ちを代作した歌とも理解可能です。

 2-1-627歌は、題詞「天皇思酒人女王御製歌一首 (女王者穂積皇子之孫女也) 」があり、ブログ2023/2/13付け「5.⑨~⑰」の検討で、宴席で披露された歌でした。ブログ2023/5/8付け「12.⑯」に指摘しているように2-1-626歌と一対の歌群です。

② 2-1-628歌は、「高安王褁鮒贈娘子歌一首 (高安王者後賜姓大原真人氏) 」と題詞にある歌です。ブログ2023/3/27付け「9.⑥」以下で検討しました。(2-1-785歌の題詞と同じ)「作者名+別の行為+贈+相手の名+歌」という新たな作文パターンと理解し、歌を贈った「娘子」に、そろそろ良い返事をもらえる頃ではないか、と催促する歌でした。鮒が眼前にあるから詠った歌であり、宴席で披露された歌です。

 次の2-1-629歌は、「八代女王天皇歌一首」と題詞にあり、ブログ2023/2/13付け「5.⑥」では「この題詞のもとにある歌本文は、既に天皇と極めて親密な関係であったかに(あるいはその疑いを掛けられたと)理解できる」及び「一方的に自らの行動を通告するという詠いぶりであり「献天皇歌」という題詞は、穏やかに「和歌」(返歌)するという内容ではないことを示している、」と指摘したものの、披露された場の指摘を割愛していました。改めて推測すれば、天皇の周囲のものに急ぎ申し開きをする必要があったとすれば、その人達が居る(天皇の出席に関係なく)宴席での披露ではなかったか、と推測できます。つまり宴席での歌です。

 そして、2-1-628歌で言い寄られた女性が、例え天皇のお言葉でも、と拒否した歌ではないか。八代女王の名は、2-1-628歌が高安王の作としたので、題詞を作文した編纂者がつり合いを考えたのだと思います。 つまり2-1-628歌と2-1-629歌は一対の宴席の歌です。

③ ここまでの歌は特異な作文パターンもあり、明確に複数の題詞で一組の相聞歌群が続いているとはにわかに断定しにくいところでした。

 2-1-630歌 娘子報贈佐伯宿祢赤麿歌一首 

 この題詞は次の題詞(2-1-631歌 佐伯宿祢赤麿和歌一首)と一組の相聞歌群を成し、宴席の歌です。純粋の求婚歌であれば、娘子は人づてに人物像の噂を聞いた段階で拒絶しており、白髪が生えていることを現認しても返事をしないでしょう。この歌のように詠って拒絶しているのですから、宴席で披露しあった戯れ歌です。だから「娘子」の代作を同席の者がした歌かもしれません。

 2-1-632歌 大伴四綱宴席歌一首

 次の題詞(2-1-633歌 佐伯宿祢赤麿歌一首)とともに一組の相聞歌群を成しています。土屋氏の理解でともに宴席の歌です。さらに大伴四綱が2-1-631歌を受けて女性の立場で詠み(三句の君は男性を指す)、白髪が生えているのを(2-1-630歌で)揶揄された佐伯宿祢赤麿が、人の噂になりすぎては(行けない)ね、と男性の立場で娘子への執着を諦めたとの理解も可能です。

 このように、宴席では、披露された歌に対して、それに応じた歌が披露されるということで自然に相聞歌群としての一組が出来上がっています。

④ 2-1-626以下2-1-633歌までの元資料は、相手と私的に遣り取りした歌ではなく、多数の人がいる場面で披露されています。また、2-1-634歌以下2-1-644歌はブログ2023/5/27付けで検討し、やはり宴席での歌でした。題詞は披露された場面は自由に補える作文パターンであり、題詞のもとにある歌としても、宴席等、多くの人に披露した歌と理解できます。

⑤ 次に、紀女郎の怨恨歌(という題詞のもとにある歌)は、社交的な場で披露された歌でした。その次にある歌2-1-649歌は、男性(大伴駿河麿)の厚かましい詠いぶりです。2-1-650歌(の作者坂上郎女)はそれに対して、あえないのはあなたの行動が原因だ、と詠います。一組の相聞歌となっています。なお、大伴駿河麿と坂上郎女は甥と叔母の関係であり、伯母という立場への配慮が足りないという気持ちがあるとも、久しぶりの甥からの歌にご活躍ですね、私を忘れていたのですね、と応じたとも推測できる一組の相聞歌となっています。

 2-1-651歌は、(2-1-649歌と比べれば)男性が無沙汰をしてしまったことを詫びて都合を問いかけている詠いぶりです。2-1-652歌は、便りのないことを案じていた、と穏やかに詠っています。この組み合わせの歌2首も一対の相聞歌です。

⑥ このように、宴席とか社交的な挨拶歌か社交的な場での遣り取り(あるいは文通で)の歌で歌群としている題詞(とそのもとの歌)の組合せが、坂上郎女と紀女郎と怨恨歌の前後には配列されています。

 それにより、天皇の統治を讃えるため、皇族・官人の穏やかな日常を活写しています。

 ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧しただき ありがとうございます。

しばらく夏休みをとり、『猿丸集』第24歌の再検討にもどりたい、と思います。

(2023/8/7  上村 朋)

 

わかたんかこれ 萬葉巻四 天然痘の流行  配列その15

前回(2023/7/24)に引き続き『萬葉集』巻四にある紀女郎の怨恨歌を検討します。(2023/7/31 上村 朋)

1.~18.承前

萬葉集』巻四には、「献天皇歌」という4字のみの題詞(とそのもとにある歌本文)から、ペンネームを使用して聖武天皇の後の御代に関する歌群のあることを確認しました。そのペンネームに巻四にある怨恨歌2題の作者の名もあります。

紀女郎のそれは2題目であり、歌本文についてその全3首のあらあらの検討が終わりました。

 なお、『新編国歌大観』(角川書店)収載の『萬葉集』を対象に、検討しています。

 

19.巻四にある怨恨歌(続きその7) 紀女郎歌における題詞と歌の関係

① 紀女郎の怨恨歌という歌群(付記1.参照)の3首については、まだ、題詞のもとの歌として3首の整合を確認していません。そして前後の題詞からの検討(ブログ2023/5/29付け)で、この怨恨歌3首が直前の題詞の歌と一組の相聞歌群を成すかどうかという宿題が残っています。

② その際は、巻四の編纂の目的が、相聞の範疇の歌によって天皇の統治を讃え、さらに予祝することを目的としているのではないか、という仮説のもとに検討します。(ブログ2023/1/23付け「3.①」に記す仮説の一部であり、付記2.参照。)

 また、相聞歌とは、土屋文明氏の「歌が社交の具となり当時親しい人々の間では挨拶歌を恋歌仕立てとして楽しんでいた」(付記3.参照)という指摘にあるように、統治の公式行事に必要な歌を除いた諸々の歌をいうものです。各種賜宴の場、あるいは同族や知人との私的空間における場、あるいは労働の現場の歌などを総称したのが相聞歌と定義します。

③ 下記の検討をした結果は、つぎのとおり。

第一 紀女郎の怨恨歌の題詞は、坂上郎女の怨恨歌と同じく、恋に関する歌のみでなく広く相聞歌の題詞として、「紀女郎(と当時呼ばれていた女性)の詠う「怨恨歌」と称する歌3首」という現代語訳(試案)が妥当である。

第二 紀女郎の怨恨歌は、「湯原王歌一首」という直前にある題詞とともに一対の相聞歌群となっており、社交的な場での歌であり、恋の歌ではない。

第三 この一対の相聞歌群は、題材を、天平天然痘の大流行にとり、罹患した人物の歌(2-1-645歌)とそれを見守るだけであった人物の歌(2-1-646歌~2-1-648歌)で構成されている。社交的な遣り取りの歌と理解できる。

第四 題詞の配列上、宴席での男女の相聞歌が終わりこの相聞歌群からは社交的な遣り取りの歌の類の相聞歌が配列されている。恋の歌3首がここに配列されているとは思えない。

第五 「湯原王歌一首」という題詞のもとの歌の配列は、このような理解が合理的である。

第六 紀女郎の怨恨歌3首の現代語訳(試案)は、下記のとおり。

 2-1-646歌 下記⑬あるいは下記「20.③」

 2-1-647歌 下記⑩

 2-1-648歌 下記⑨

第七 巻四の編纂の目的が、上記②の仮説でないと否定しなくともよい。

④ 最初に、題詞を再確認します。

紀女郎の怨恨歌の題詞の意は、題詞の作文パターンも同じである坂上郎女の怨恨歌と同様に、(期待を断ち切れないでいた)「自分の行動を悔やんだ歌」と理解しました。漢字「怨」と「恨」の同訓異義を考慮し「人に対してよりも自分に対してのことば(恨)」を重視したものです。「怨」字の意の「うらむ」は「aうらめしく思う bにくむ・かたきと思う cうらみ dあだ・かたき」と細別でき(『角川新字源』)、「怨恨」とは、残念・無念の気持ちを表現したものと理解できます。即ち、

「紀女郎の詠う、自分の行動を悔やんだ歌3首」

です(ブログ2023/6/12付け「15.⑯」)。

 これが意訳に過ぎるならば、

「紀女郎(と当時呼ばれていた女性)の詠う「怨恨歌」と称する歌3首」

としてもよい、と思います。これは、倭習漢文の題詞ですので、(現代語の怨恨と異なる)人を憎む意を含まない「怨恨」の意の歌」ということを強調したものです。

⑤ さて、この題詞の直前の題詞は、2-1-645歌の「湯原王歌一首」です。「贈」字を用いておらず。誰におくった歌か(及びどのような場面で披露したか)を不明のままにしている題詞です。

 だから、歌本文が表現している内容によっては次の題詞、即ち「紀女郎怨恨歌三首」と一対の相聞歌群を成す題詞となり得ます。同じように、内容によっては2-1-645歌が2-1-634歌から2-1-644歌までの歌群と一対の相聞歌群になるでしょう。どちらに巻四編纂上の合理性があるかによって、判断することになります。

 土屋氏は、「吾妹子に」と句を起こして居る点は、「前からの娘子との贈答の一つの如くにも見えるし、題詞に重きを置けば、別の場合の作を同一作者の為にここに載せたとも見られる。」と指摘しているところです。私は題詞を重視します。巻四の題詞と歌本文の配列は、編纂者の意図のもとにあるのですから。

⑥ それに対して、ブログ2023/5/29付けの検討時の結論は、題詞だけでの検討では当然不定でした。

 但し、「湯原王歌一首」と「紀女郎怨恨歌三首」はこの順に配列されているので、相聞歌群として一組となる題詞(と歌本文)であるならば、「2-1-645歌が(宴席ではなく例えば女性たちの)社交的な場で詠われた歌であり紀女郎の怨恨歌もその社交的な場で詠われた歌であることが条件」(同ブログ「14.⑯」)ということでした。

 なお、その際、現代語訳を割愛していました。ここに、現代語訳を試みれば、

湯原王が詠った(あるいは披露した)歌一首」 

となります。

⑦ 次に、歌本文を再確認します。

 2-1-645歌については、ブログ2023/5/29付けで歌本文の現代語訳を試み、次の(試案)を得ました。題詞のもとの歌として、

「愛しい子に恋をして(順調だったのに)今の二人の関係に心がみだれる。糸車にかけて撚って丈夫な糸ができるように、わたしたちもしっかりした関係になりたいと思って貴方に恋をしたのに 。」(2-1-645歌現代語訳試案 )

この(試案)は、三句にある「くるべき」とは、現在の糸車の機能をもつ道具を指す名詞であり、五句は詠嘆という理解です。

 但し、歌の訓は、土屋文明氏に従うのが妥当であるので、『新編国歌大観』の訓とは異なります(付記1.②参照)。

⑧ 2-1-648歌の検討時に想起した天平天然痘の大流行時における歌とみれば、作中人物である男は、罹患して死を覚悟している状況に居るのではないか。「二人の関係に心がみだれる」とは、逢うこを絶対避けざるを得ないからです。罹患させてはならず、自分は死ぬのは確かなので、貴方と添い遂げられないのは残念だ、と詠っている歌となります。

 湯原王を作者に擬しているのは編纂者の意見です。天然痘により湯原王薨去したかどうかは不明です。作者とその相手「わぎもこ」との関係は、第一候補が恋が進行中の恋人、第二候補が妻あるいは兄妹です。

⑨ 次に、紀女郎の怨恨歌3首(の歌本文)すべてが上記⑥に引用した条件を満足するか、を確認します。

 これまで得られた現代語訳(試案)で、1案となったのは、3つ目の歌2-1-648歌でした。この歌から検討します。

「白妙製の衣の袖をならべたこともあった貴方と別れるべき日が近いので、心のうちにむせびなくだけでなく(気持ちがあふれて)、声をあげてただもう泣けて泣けてならない。」 (2-1-648歌現代語訳(試案1)

 この理解は、二句~三句にある「そでわかるべきひ」とは当然訪れる日を指し、当然と作中人物が思う理由は歌本文のみでは不明でした。そのため、2ケースが想定できます。即ち、

第一案 自分の行動によって「「そでわかるべきひ」を招いたから

第二案 誰かとの「別れるべき日」が(自分には強制されたものであり)確実なのに作中人物自身が何もできないから

 このうち第一案は、作中人物の私的なことであろうとしか推測できませんが、当事者間では既知の理由が共有されていたのでしょう。

 第二案は、天平天然痘大流行時のことが推測できます(ブログ2023/7/24付け「18.⑭」)。

 そして愛しているとしても、防疫のためのやむを得ない作中人物の行動といえます。それは、罹患した場合の誰もが行う行動であろう、と思います。そのため、2-1-645歌の披露があったとき、私もこうだった、と訴えている歌がこの歌ということになり得ます。その場は、女性同士の社交の場とか見舞の手紙に付した歌などが想定でき、上記⑥の条件「紀女郎の怨恨歌もその社交的な場で詠われた歌であること」になります。

⑩ 2つ目の2-1-647歌は、恋の歌ではなく社交的な歌として検討したとき、次の現代語訳(試案)を得ました。

 「(この歌を披露する時点という)今となれば、私は、本当に本当に寂しく思うよなあ。」(という、どうしようもないようなつらさ・やるせなさを伴う感慨に浸ることだ)。命をかけて(あるいは勢いのある男の子と)いとおしく思っていた貴方をさしつかえないと(あるいは許可すると)認めたことを回想すれば」(ブログ2023/7/17付け「17.⑭と⑮」参照)

 この歌を「2-1-647歌現代語訳(試案)」とします。

 この理解は、二句にある動詞「わぶ」の理解において、作者の心境を「どうしようもないようなつらさ・やるせなさ」として「意に満たず気乗りしないあじけなさ」を否定しています(ブログ2023/6/26付け「16.⑧」参照)。

 また、五句にある「縦」を「ゆるす」(動詞)と訓む用例は『萬葉集』に5例あり「さしつかえないと認める・許可する」意が4例でありこの歌も恋の歌ではないので同じであると推測しました(ブログ2023/6/26付け付記2.及びブログ2023/7/17付け「17.⑬」参照)。

⑪ このような理解であれば、作者が目にした現在の状況から過去の自らの行動に関する感慨を詠った歌であり、親しい者との会合(での歌)や手紙に付した歌という披露の場が想定可能です(ブログ2023/7/17付け「17.⑮」参照)。天平天然痘の大流行時の歌となり得ます。

 題詞のもとにある歌ですから女性(紀女郎)が作中人物でしょう。相手の人物は男性であってもおかしくありません。2-1-645歌の題詞と一対の題詞と湯原王との恋人関係にあったときを振り返っての歌なのでしょうか。あるいは、作中人物の兄妹とか子供なのでしょうか。

 なお、三句にある「いきのを」の理解は、『萬葉集』では、「いのちにかけて」の意が通例であり、平安時代においてはそれに限られている、と言えます。

⑫ 次に、現代語訳が複数案ありそれからの有力案としての一案を提案したのが、1つ目の歌2-1-646歌です。その現代語訳(試案)はつぎのとおり。

「世間なみの成人女性であれば、私が渡ろうとしている川が、ああ、「背」の君の(渡って通ってきた或いはあの女性に通う)河ということで、渡るのに躊躇するであろうか。しかし私は躊躇しつつ渡るのである)。」 

 これは、ブログ2023/6/12付け「15.⑭の第二案」です。

 この理解は、元資料歌にいう「河を渡る」という決意が、題詞に従えば「自分の行動」となり、理解を限定していることになります。そして作中人物は、河を渡りたくなかったのにそうせざるを得なかったことになります。つまり、未練があるのに、別れる選択を相手がしたことを認めた場合の歌となります。(同ブログ「15.⑰」)。

 これは、「河を渡る」という表現は例えであり、伊藤博氏が指摘するように、これが当時の用法であれば、多くのもののとる行動を作中人物は行っていることになります。社交的な場面で共通の話題になり得るものであり、披露しても詠った人物の心情に理解が得られる歌である、ということが想定可能です。

 なお、初句にある「よのなかのをみな」は「世間なみの成人女性」の意です(ブログ2023/6/12付け参照)。

⑬ 武田祐吉氏は『萬葉集全註釋』で「作者には「痛背の河を渡る」(という表現)でわかることがあったのであろうが今は致し方がない。独りよがりの歌というべきだ」と指摘しています。巻四の編纂者もわかっていたから収載したのでしょうから、その後すたれた用法(謂れがわからなくなった用法)として、その例えの何たるかを推測するほかありません。

 ここでは、天然痘の大流行で罹患した当人が重症化の兆しがあればあきらめざるを得ず、防疫のため一般私人より物理的な距離をとる(世話を放棄し、例えば官の指定する特定の条件を満足する場所に当人を移動させる)ことを言っているのか、と推測します。

 そうすると、それを背景として、現代語訳(試案)は次のように改訳できる、と思います。恋の歌という思い入れは不要ですので。

 「世間なみの成人女性であれば、私が渡ろうとしている川が、ああ、「背」の君の渡る河であっても、渡るのに躊躇するであろうか。しかし私は躊躇しつつ(「背」の君を残し)渡るのである)。」(2-1-646歌現代語訳(試案))

 身近で世話をして一緒に死んでもよい、と思っているものの家族にもあなたにも止められてそれができない、と詠っています。

 「背」の君は、恋人や夫を親しく指す語句です。身近な男性も親しんでそう呼んでいますのでその場合は兄弟となります(題詞を無視すれば、男性が友人を言う場合にも用いられているのが「背」です)。恋人ならば、2-1-645歌の作中人物とは素直に同じ立場になります。

⑭ このように紀女郎の怨恨歌3首は、一つの題詞のもとにある一組の歌群として、天平天然痘の大流行時のことを詠い、つぎのことを満たしていることがわかりました。

第一 3首とも、歌本文において作中人物は、多くの方が指摘しているように、別離を悲しんでいるが相手を一切非難していないし、別れることを当然視している。2-1-645歌の作中人物も止むを得ず別れるのに相手を非難していないし別れることも当然視している。このような状況となったのは不可抗力であったと2-1-645歌と3首の作者は共に信じているかにみえる。そのため、互いに当然視しているのは共通の社会的現象(特に天平天然痘の大流行)と推測できる。

第二 3首とも、作中人物は成人した女であり、その相手は、身近な人物であり、2-1-645歌の作中人物(男)と歌を贈り合っているという理解が可能である。土屋氏の指摘のように恋の歌に仕立てた社交的な遣り取りの歌といえる。

第三 3首とも、相手は男性とみられるが、特定の人物というよりもある状況下にいる男性を話題とした歌ともとれる。そのような歌を特定の人物の場合に流用して用いていることも可能である。

⑮ これは、2-1-645歌が天平天然痘の大流行時の歌であるならば、上記⑥に引用したブログ2023/5/29付けの、2-1-645歌の題詞と一対の題詞となる条件(「2-1-645歌が(宴席ではなく例えば女性たちの)社交的な場で詠われた歌であり紀女郎の怨恨歌もその社交的な場で詠われた歌であることが条件」)を満足しています。

 このため、歌の内容からも、2-1-645歌と2-1-646歌以下3首は、題詞のもとの歌として一対の相聞歌となっています。2-1-645歌と2-1-634歌~2-1-644歌までの歌を一組の相聞歌とみなすよりも合理的な理解であろう、と思います。

 さらに、天然痘の大流行時の歌でなくとも、死を覚悟した人物とその家族・友人の歌であっても一対の題詞の歌といえるのではないか。

20.湯原王歌の再検討

① 題詞2題が一対の相聞歌の題詞であるならば、各歌に用いている語句も関連があるのかが気にかかります。例えば、2-1-648歌の二句~三句にある「わかるべきひと」と、2-1-645歌の三句の「くるべきに」の「べき」が推量の助動詞「べし」であれば、2-1-645歌の歌意に別案があるかもしれません。

そのほか2-1-645歌には同音異義の語句があったのです。

 「2-1-645歌現代語訳試案」は、「くるべきに」を「繰るべきに」、「かけて」を「懸けて」、「よせむ」を「寄せむ」と理解して得たところです。

しかし、同音異議の語句があります。

訓「くるべきに」には、名詞「くるべき」のほかに

第一 「呉るべきに」 :下二段活用の動詞「呉る」とは「与える・やる・くれる」意(『例解古語辞典』)

第二 「暗る(眩る)べきに」 :下二段活用の動詞「暗る(眩る)」とは「途方にくれる・思い惑う」意

訓「かけて」には、「懸けて」(情けなどをかける)のほかに

第十一 動詞「かく」+助詞「て」 :下二段活用の動詞「かく」とは「欠く 」

         また、下二段活用の動詞「懸く・掛く」とは「情などをかける」ほかに「aかける・ひっかける 

b その時期になる・時がいたる など」の意がある

第十二 副詞「かけて」 :「心にかけて・口にだして」の意

第十三 連語「掛けて」 :「a・・・を兼ねて b・・・にわたって c(はかりに)かけて」の意

訓「よせむ」には、

第二十一 「よせむ」: 下二段活用の動詞「寄す」とは、「a近づける・近寄らせる。b関係づける・関係させていう。cかこつける・ちなむ。d傾倒する・心を傾ける。e迫ってくる fなどなど」の意

訓「こひそむ」には、「恋ひ初む」のほかに、

第三十一 「恋ふ」+「染む」: 下二段活用の「染む」とは、「(心に)深くしみつける」意

第三十二 「乞ひ(請ひ)+「初む」: 四段活用の動詞「乞ふ・請ふ」+補助動詞「初む」

  「乞ふ・請ふ」とは、ここでは「神仏に祈り願う」意、

② 歌を引用します。訓は、土屋氏の訓に従っています。(ブログ2023/5/29付け「14.②~④参照」)

2-1-645歌 湯原王歌一首

   吾妹児尓 恋而乱在 久流部寸二 懸而縁与 余恋始

   わぎもこに こひてみだれば くるへきに かけてよせむと あがこひそめし

(土屋氏の訓は、「わぎもこに こひてみだれり くるべきに かけてよせむと あがこひそめし」)

③ これらの語句の意を意識して2-1-645歌の現代語訳の別案を検討します。

 別案第一 「愛しい貴方に恋をして(順調だったのに)今の二人の関係に心がみだれる。思い惑うことには、心にかけて(貴方と)関係を深めようと、私は慕い始めたのに。ああ・・・」

(くる=暗る(眩る)、かけて=副詞、)

 別案第二 「愛しい子に恋をして(順調だったのに)今の二人の関係に心がみだれる。(貴方に)与えるべき(接すべき)なのは、流行り病いを欠いた状態の私であり、そして貴方に近づこうと私は神に祈願し始めていたのに。ああ・・・」。

(くる=呉る、かく=欠く、 こひ=乞ひ、)

 例えば、このような理解も、少なくとも3首との一組の相聞歌であれば、有り得るのではないか、と思います。当事者同士の歌の交換であれば、よく知っていることは省かれて詠われても伝えたいことは通じます。これらの理解は、天平天然痘の大流行時を振り返ったときの歌といえるでしょう。

④ ちなみに、伊藤博氏の現代語訳は、3首と一対の相聞歌としてではなく、2-1-634歌から2-1-644歌までの全体を結んでいる歌として、つぎのようなものです。

「あの子に恋い焦がれて心が乱れたならば、乱れ心を糸車にかけて、うまいこと撚り直せばよいと、そう思って恋い初めただけさ・・・。」(角川文庫『新編万葉集 現代語訳付き 伊藤博訳注』)

 一種の負け惜しみの歌と氏は指摘しています。このような理解もあるのが、この2-1-645歌です。

⑤ 今は、巻四の配列を検討しており、付記2に記す予想(作業仮説)の確認をしています。

 この一対の相聞歌群が、聖武天皇の治世において大変残念なことが起こったが、多くの人材を失いつつも、乗り切ったことを回想している歌である、と言う理解に、このような別案であっても変わりはありません。

 このため、この一対の相聞歌群は、上記「19.②」の仮説(相聞の範疇の歌によって天皇の統治を讃え、さらに予祝することを目的にしているのではないか。)の事例に該当します。

⑤ 以上、紀女郎の怨恨歌と題する題詞とそのもとの歌の検討をしてきました。

ブログ「わかたんか ・・・」をご覧いただきありがとうございます。

 次回は、これまでの巻四の配列検討のここまでのまとめをし、夏休みを挟んで『猿丸集』第24歌の類似歌の再検討にもどりたい、と思います。

(2023/7/31  上村 朋)

付記1.紀女郎の怨恨歌について

①『新編国歌大観』所載の『萬葉集』より

2-1-646歌  紀女郎怨恨歌三首  (鹿人大夫之女名曰小鹿也安貴王之妻也)

世間之 女尓思有者 吾渡 痛背乃河乎 渡金目八
よのなかの をみなにしあらば わがわたる あなせのかはを わたりかねめや

2-1-647歌  同上

今者吾羽 和備曽四二結類 気乃緒尓 念師君乎 縦左久思者

いまはわは わびぞしにける いきのをに おもひしきみを ゆるさくおもへば

2-1-648歌  同上

白妙乃 袖可別 日乎近見 心尓咽飯 哭耳四所泣

しろたへの そでわかるべき ひをちかみ こころにむせひ ねのみしなかゆ

② 附:直前の題詞と歌本文

2-1-645歌 湯原王歌一首

   吾妹児尓 恋而乱在 久流部寸二 懸而縁与 余恋始

   わぎもこに こひてみだれば くるへきに かけてよせむと あがこひそめし

(土屋氏の訓は、「わぎもこに こひてみだれり くるべきに かけてよせむと あがこひそめし」)

③ 参考:土屋文明氏の大意

2-1-645歌 「吾妹子に恋ひて心がみだれて居る。かうした時には、乱れた糸を「くるべき」に掛けて寄せる如くに寄せ整へようと、吾が恋ひ始めたであらうか。」(結句は反語。ブログ2023/5/9付け「14.③」に引用)

2-1-646歌 「世間普通の女であるならば、吾が渡る痛背の川を渡りかねはすまいが、吾は夫に去られて居るので、其の連想のある此の川をば渡りがたくするのである。」 (ブログ2023/6/12付け「15.③」に引用)

2-1-647歌 「今は吾はやる方なくなってしまった。命にかけて思った君を離してやると思へば。」(同上)

2-1-648歌 「袖を分けて別るべき日が近いので、心にむせつまって、ただ泣きのみ泣かれる。」(同上)

 

付記2.巻四配列検討のための予想(作業仮説)

ブログ2023/1/23付け「3.①」においてたてた作業仮説は次の5点である。

 第一 編纂者は、聖武天皇の御代の途中までに詠作あるいは披露された歌により巻四を構成しており、聖武天皇の御代を今上天皇の御代として題詞を作文している。

 第二 歴代天皇の御代を指標として歌群をつくり、その歌群を御代の暦年順に配列している。その歌群は数代の御代を単位にしていることもある。

 第三 未来の天皇の御代をも想起できる配列としている。

 第四 配列は、相聞の範疇の歌によって天皇の統治を讃え、さらに予祝することを目的にしているのではないか。

 第五 配列は、最終編纂時点において定まった。

 なお、これらは、倭習漢文である題詞のみの検討、題詞と歌本文による検討及び配列の検討で確かめられる、と予想している。

 

付記3.土屋文明氏の相聞歌論(『萬葉集私注』第2巻 2-1-652歌の「左注」への指摘)

① 2-1-652歌の左注に「題歌送答相問起居」とあるのは、上掲4首(2-1-649歌~2-1-652歌)の作歌動機を察する糸口とならう。歌が社交の具となり、歌のために歌を作る風習の既に存したことが知られる。

② 2-1-649歌~2-1-652歌の四首の如きは、恋愛歌の様な所があっても実は単純な起居相聞の歌と見るべきである。つまりさうした場合でも、相当甘美な言葉を交換する当時の感覚といふものは、其の時代の作品を受け入れるに考慮して置くべきものであらう。

③ 「相問」は「相聞」と同意に用ゐられている。相聞と部類される歌の性格を知る手がかりとならう。

(付記終わり 2023/7/31 )