わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 題詞の寧楽

 前回(2021/11/15)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 題詞の寧楽」と題して記しました。

 今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 題詞の寧楽その2」と題して、記します。(上村 朋  追記2022/3/2 誤字脱字を訂正した。)

1.~11.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行い、3-4-23歌まではすべて恋の歌であることを確認した。3-4-24歌については類似歌(『萬葉集』の歌)の検討のため『萬葉集』巻一と巻二の標目「寧楽宮」を検討している。なお、歌は『新編国歌大観』より引用する。)

12.再考 類似歌 その9 題詞の「寧楽」 その2 

① 類似歌2-1-439歌の重要な参考歌(2-1-228歌)の理解のため、『萬葉集』歌での「寧楽宮」表記の意を確認中です。

今回、題詞にある「寧楽+宮以外の語句」という表記での「寧楽」(訓は「なら」)の意の検討を、続けます。

 『萬葉集』における「寧楽宮」あるいは「寧楽+宮以外の語句」という表記の用例は、付記1.表D以下のようにあり、表記の区分別題詞・歌本文等別に整理すると、次の表のようになります。

「寧楽宮」、「寧楽山」、「寧楽宅」及び「寧楽(乃)家」検討が済み、「寧楽京」以下を今回検討します。

 表 『萬葉集』での「寧楽」と言う表記の用例一覧 (標目での用例を除く) (2021/11/8現在)

所在の区分

      表記の区分

寧楽宮

寧楽山

寧楽宅

寧楽(乃)

寧楽京

寧楽故郷

寧楽乃京師

その他の寧楽

計(例)

題詞

2-1-78

2-1-79~

2-1-303~

2-1-768~

2-1-1636~

2-1-974~

2-1-1048~

2-1-1051~

2-1-1608~

--

 --

 9

歌本文

--

 --

 --

2-1-80

2-1-334

 --

2-1-331

2-1-1048

2-1-1608

2-1-303

2-1-1553

 7

歌本文左注

--

--

2-1-1468

--

--

--

--

2-1-262

 2

計(例)

 2

 1

 3

 2

 2

 2

 3

 3

 18

注1)歌は、『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号で示す。

③ 題詞にある「寧楽京」は、1例あります。そして歌本文にも1例あります。

 巻六 雑歌 2-1-1048  傷惜寧楽京荒虚作歌三首  作者不詳

        紅尓 深染西 情可母 寧楽乃京師尓 年之歴去倍吉

        くれなゐに ふかくしみにし こころかも ならのみやこに 

        としのへぬべき

 この題詞のもとにある残りに2首は次の歌です。

2-1-1049歌  世間乎 常無物跡 今曽知 平城宮師之 移徙見者

      よのなかを つねなきものと いまぞしる ならのみやこの 

      うつろふみれば

2-1-1050歌  石綱乃 又変若反 青丹吉 奈良乃都乎 又将見鴨

      いはつなの またをちかへり あほによし ならのみやこを

      またもみむかも

 巻六は、年紀が明記されてその年次順に配列されている歌群と「田辺福麿之歌集中出也」と左注されている歌群にわかれ、この題詞は、前者の最後の題詞となっています。

④ 土屋氏は、2-1-1048歌の大意は次のように示しています。

「紅の色にしみるが如く、深くしみ入った心であらうか、古里となった奈良の都に、なほ年を経ることであらう。」

 氏は、「奈良の都を去り兼ねた時人の声を代表して、誰人かの手になったものであらう」と評しています。

 題詞に留意せずに、この3首を最初に検討します。

 2-1-1048歌の四句「寧楽乃京師尓」の「寧楽」という(漢文での)熟語には「古い」とか「さびれた」とかの意は当たりません。「安んじて楽しむ」の意であり、「平城京」の「平城」(なら)の音を書き留めるために、別の万葉仮名として「寧楽」を選んだとみるならば、「古い」とか「さびれた」という形容を「平城京」に冠して訳すのは、訳す者の思い入れであり、不要な形容であると思います。

 「寧楽」という熟語の意を掛けて四句を詠んでいるならば、そのように思い続けている平城京が年を経て再び都になるのだ、という思いの歌が2-1-1048歌である、と思います。

 次にある歌2-1-1049歌の四句以下「平城宮師之 移徙見者」とは、都となり、一旦廃止され再び都となる「平城京」である、という思いから「寧楽京」という表記はあたらないとして避けているのではないか。

 三番目の歌2-1-1050歌の五句「又将見鴨」は、再び都となったことを喜んでいます。この歌においてのみ、「あをによし」と平城京を形容しているのは、元の平城京と変わらないことを強調しているのではないか。

⑤ このような3首を、題詞に留意して検討します。

 題詞の「傷惜」というのは漢文で熟語として辞典に記載があります。「いたみおしむ」の意とし、後漢書の例をあげています。「荒虚」も「あれはててむなしい」意とし、呉志の例をあげています。「寧楽」の漢文での意を考えると、題詞は、

 「「寧楽であるはずの都」があれはててむなしい状況を(目の当たりにして)いたみおしんで作る歌」という意味であり、作詠時点は、配列が時系列であるので直前の題詞にある天平16年春以降が作詠時点となります。そして題詞に留意しない歌の理解から平城京が都となる可能性が確実になった頃の歌を総称した題詞ではないか。題詞の作文は当該巻編纂時と推測します。

⑥ 3首の歌本文にいう「寧楽乃京師」(2-1-1048歌)、「平城宮師」(2-1-1049歌)及び「奈良乃都」(2-1-1050歌)は、「平城京」をいっています。題詞にいう「寧楽京」は「ならのみやこ」と訓み「平城京」を意味し、それに「寧楽」の熟語の意も加えられる「なら」の表記を選んで作文したのだ、と思います。

⑦ 歌本文にある「寧楽京」は、2-1-334歌の1首だけです。ここで検討しておきます。

 

 巻三 雑歌 2-1-334歌  帥大伴卿歌五首  (2-1-334歌~2-1-338歌)

    吾盛 復将変八方 殆 寧楽京乎 不見歟将成

    わがさかり またをちめやも ほとほとに ならのみやこを みずかなりなむ

 この題詞のもとにある5首の筆頭歌が2-1-334歌です。

 土屋氏は「吾が年の盛りは再びかへるであらうか。かへりはすまい。ほとんど奈良の都をも見ないことにならうか。」と大意を示しています。

 題詞の「帥大伴卿」より、歌の作詠時点は大伴旅人大宰府に居た時となります。神亀5年(728)頃妻の大伴郎女を伴って赴任しています。旅人の大宰帥時代の資料は『萬葉集』しかありません。

 巻三の配列をみると、2-1-331歌から2-1-354歌までの作者は、旅人が大宰帥のとき九州を任地としていたと思える人物であり、歌群を形成させて巻三編纂者は配列している、と言えます。旅人の讃酒歌もこの歌群にあります。

 旅人は、大宰師のとき妻を亡くしました。その間に都では、左大臣長屋王が自殺、大納言多治比池守が亡くなり、皇族ではない藤原光明子がはじめて皇后になり、藤原武智麻呂が大納言になりました。

⑧ 旅人は、帰任の途次失った妻を偲ぶ歌などを詠んでおり、夫婦の絆(というより妻を頼りにしていたの)が)強かったのでしょう。

 この題詞のもとに配列された5首の歌本文は、作者旅人の加齢と妻の死と都を遠く離れて勤務していることなどから、望郷の念というよりも老人の繰り言の歌です。

 歌に記す「寧楽京」とは自宅のある「平城京」のことであり、「なら」は掛詞であり「平城京」の「なら」のほかに熟語「寧楽」の意も利用し、「妻とともに過ごした平城京」を指しているのではないか、と思います。

 現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「元気なころの私が再び戻ってくるだろうか。そうはならないだろうし、ひょっとして(妻と暮らした)安らぎのあった奈良の都をみないままになるのではないか。」

題詞は、作詠とは別に、巻六編纂時点の作文と思います。

⑨ なお、5首目の歌は次のとおり。

  2-1-338歌  吾行者 久者不有 夢乃和太 湍者不成而 淵有毛

        わがゆきは ひさにはあらじ いめのわだ せにはならずて

        ふちにもありこそ

 三句「夢乃和太」とは、吉野川一勝地だそうです。

 筆頭歌3-3-334歌では、「寧楽京乎 不見歟将成(ならのみやこを みずかなりなむ)と詠った作者旅人がこの歌では「吾行者 久者不有」(わがゆきは ひさにはあらじ)と帰任を心待ちしている歌を詠ったと、諸氏の多くが理解しています。

 しかし、大宰府のトップである作者旅人が、自らの帰任が間近であるかのような歌(あるいは近く帰任があってほしいと願う歌)を、部下の前で詠うでしょうか。

 初句にある「吾行」(わがゆき)とは、動詞「ゆく」を名詞化した語句です。動詞「ゆく」の意は(『例解古語辞典』)、

A 前方へ進む・行く。目的地に向かって進む。

B 立ち去る。(雪や水が)流れていく・流れ去る。(年月日時などが)過ぎ去る。逝く・(人が)死ぬ

C 物事がはかどる。ある年齢に達する・年をとる。気が進む・愉快に思う・満足する。

と説明があります。

 二句にある「不有」(あらじ)の「じ」は打消しの推量の助動詞です。

 「吾行者 久者不有」とは、Cの意で、自分の寿命は長くはない、と推測しており(ほとんど断定の気持ちでしょう)、だから、吉野川の勝地も見たいものだがどうであろうか、という思いを詠った歌ではないか。このように、筆頭歌に添う理解をしてよい、と思います。

 この5首が披露された時期・場所は不明であっても、一つの歌群として編纂者が配列していることに留意して、理解すべきであると思います。

⑩ 次に、題詞にある「寧楽故郷」の用例2例を検討します。歌本文や左注には用例がありません。

 最初に2-1-1051歌を検討します。この歌は巻六にあり、「田辺福麻呂之歌集中出也」と左注のある歌群の筆頭歌です。編纂者は、配列について時系列をリスタートさせています。

 巻六 雑歌 2-1-1051  悲寧楽故郷作歌一首 幷短歌

     八隅知之 吾大王乃 ・・・天下 所知座跡 八百万 千年矣兼而 定家牟 平城京師者  炎乃 春尓之成者 ・・・大宮尚矣 恃有之 名良乃京矣 新世乃 事迩之有者・・・

    大宮人能 踏平之 通之道者 馬裳不行 人裳徃莫者 荒尓異類香聞

やすみしし わがおほきみの・・・あめのした しらしまさむと やほよろづ ちとせをかねて さだめけむ ならのみやこは かぎろひの はるにしなれば・・・おほみやすらを たのめりし ならのみやこを あらたよの ことにしあれば・・・おほみやひとの ふみならし かよひしみちは うまもゆかず ひともゆかねば あれにけるかも

  反歌 二首

  2-1-1052歌   立易 古京跡 成者 道之志婆草 長生尓異利

      たちかはり ふるきみやこと なりぬれば みちのしばくさ ながくおひにけり

  2-1-1053     名付西 奈良乃京之 荒行者 出立毎尓 嘆思益

    なつきにし ならのみやこの あれゆけば いでたつごとに なげきしまさる

⑪ 土屋氏は、2-1-1051歌について、「奈良の都の荒廃して行く状を叙し」「多分天平十三年頃の作か」と指摘しています。

 官人が恭仁京に移り住み、この長歌のような景に平城京がなるのは、平城京在住禁止令が出た以降でしょう。平城宮とその周辺の景であれば、遷都1,2年でこのようになるでしょう。

 2-1-1053歌は「いでたつごとに」と詠っているので、作者はまだ平城京に住居を構えている時点かもしれません。それは平城京在住禁止令により官人の屋敷が次々の空き家になる(あるいは解体されてゆく)状況の実感か想像ではないでしょうか。作者の屋敷は平城京にまだある頃の作詠か、と思えます。

 巻六における題詞はこの題詞以後に次の4題があり、そして福麻呂歌集の歌は終わります(巻六も終わります)。

2-1-1054歌 讃久迩新京歌二首幷短歌 (長歌が2首と短歌は反歌と題して7首)

2-1-1063歌 春日悲傷三香原荒墟作歌一首幷短歌 (短歌は反歌と題詞して2首)

2-1-1066歌 難波宮作歌一首幷短歌 (短歌は反歌として題詞して2首)

2-1-1069歌 過敏馬浦時作歌一首幷短歌 (短歌は反歌として題詞して2首)

(題詞にある「敏馬浦」及び歌にある「三犬乃浦」(みぬめのうら)は神戸側にあり、淡路島内ではありません。)

  これらがが時系列による配列であるならば、検討している題詞のもとの2-1-1051歌などは、遷都が決まりそうなときに平城京の荒廃を想像した歌であり、恭仁京遷都が決まったので2-1-1054などの長短歌を詠い、難波宮への遷都が決まって2-1-1066歌以下の長短歌を詠ったことになります。そうすると、その次の2-1-1069歌以下の長短歌は、次に遷都すべき土地(すなわち平城京)への期待の歌ではないか。

⑫ 福麻呂歌集からの最後の題詞にある、漢字「過」は、

すぎる:a通る・通過する bゆきすぎるc度を超すdあまる、など

すごす:aくらす

あやまつ:aまちがえるbしくじる

あやまち:aまちがいbしくじりcとが・つみ

などの意があります。

 題詞は、「みぬめのうら」をすぎるとき、と時点を限定しています。

 長歌と最初の反歌は、「みぬめのうら」を「百船」がゆきすぎる、と褒め、2首目の反歌は「おほわだのはま」を「千船」が泊つると褒めています。

 題詞は、難波の宮を都とする誤りをおかしたと非難している意を含んでいるのではないか。

 選んだのは過ちであったが難波宮は素晴らしい、しかし平城京はもっと素晴らしい、と詠っています。

 聖武天皇平城京に戻ろう、と訴えている歌であり、作詠時点(披露した時点)は、難波宮が都であると聖武天皇が言っていた時期に知人や上司に訴えた(同意を求めた)歌ではないか。そうすると、題詞もその時作文されている可能性があります。

 天平17年(745)五月太政官が諸司の官人にどこを都とすべきか計ったところ、全員が平城京を推しています。

⑬ では、1-1-1051歌は、実際どこで披露されたのでしょうか。「過敏馬浦時作歌」と題する歌と同じように、恭仁京への遷都をいやがり、歌本文は天平12年頃上司に訴えた歌ではないか。今上天皇聖武天皇)に直接訴えることはなかったでしょう。

 聖武天皇はその後、難波京、紫香楽京を経て天平17年(745)に平城京に都を戻しました。官人も平城京に改めて屋敷を持ったわけです。

 2-1-1051歌本文では、「故郷」の都城を「平城京師」(ならのみやこ)と表記しており、「寧楽京師」と表記していません。題詞にある「寧楽故郷」とは、2-1-1051歌本文の「平城京師」を、2-1-1052歌本文の「古京」(ふるきみやこ)を、2-1-1053歌本文の「奈良乃京」(ならのみやこ)を指していると思います。

 題詞にある「寧楽故郷」の「寧楽」は、「故郷」と同格の名詞であると同時に、「故郷」の形容詞ではないか。

 題詞の現代語訳を試みるならば、

「「なら」と呼ぶ「ふるさと」そして「安んじて楽しむ」と評価できる「ふるさと」を悲しんで作る歌一首・・・」

となります。

 題詞にある「寧楽故郷」の「故郷」とは、歌本文でいう「古京」である平城京と言う都城を、歌を詠む時点から振り返り、作者が以前住んでいたところを指す表現である、と思います。

 この歌の披露は、恭仁京遷都直前に上司や知人へ情報交換の際に示した歌ではないか。

⑭ 2-1-1051歌~2-1-1053歌の内容から題詞が作詠時に必要であったか疑問であり、巻六編纂時点の可能性が高いと思います。

⑮ 題詞に「寧楽故郷」とあるもう1例が、あります。

巻八 秋雑歌 2-1-1608歌 大原真人今城傷惜寧楽故郷歌一首

   秋去者 春日山之 黄葉見流 寧楽乃京師乃 荒良久惜毛

   あきされば かすがのやまの もみちみる ならのみやこの あるらくをしも

 土屋氏は、「秋になれば春日の山の紅葉を見る、奈良の都が荒れるのは惜しい。」と理解し、「歌は記述的すぎるであらう」「奈良をも故郷と呼んだとみえる」と指摘しています。

 歌の配列を確認します。

 巻八の部立て「秋雑歌」(2-1-1515歌~2-1-1609歌)の配列は、鹿を詠む天皇御製から始まります。諸氏はおおむね年代順の配列であると指摘しています。それに従えば、この歌は2-1-1606歌、2-1-1607歌の左注に天平15年8月とありますので、それ以降の作詠時点となります。

 「秋雑歌」に配列されている2-1-1585歌~2-1-1595歌は「もみち」などを詠んでいますが、左注に10月17日(旧暦なので冬の月)の宴席の歌とあります。作詠時点より歌の内容で秋と判断して編纂者は配列しているとみられます。これにならえば2-1-1608歌の作詠時点は(月は限定不能であり)天平15年としか言えません。

 天平15年は都が「恭仁京」であったので、都のうちでの「故郷」といえば「平城京」を指していると当時は認識されていた、ということが指摘できます。それは、歌本文の「寧楽乃京師」という万葉仮名でも明らかです。

 また、「故郷」は「みやこ」と訓まれていません。「ふるさと」と訓んでいます。その「故郷」(普通名詞)を修飾しているのが「寧楽」です。歌本文に具体の都城名を詠み込んでいるのですから、「寧楽」という漢文の熟語の意味で「故郷」を修飾していて十分です。

 この題詞では、「寧楽故郷」とあり、歌本文には「寧楽乃京師」とあります。「なら」と訓む表記は同じ「寧楽」です。現代語訳すれば、題詞は「安んじて楽しむことができるふるさと」、歌本文は「ならのみやこ(平城京)」となります。

 さて、この歌の前後の歌が宴席で披露されている歌ばかりであので、この歌も同じでしょう。そうすると、題詞が作文された時点は巻八編纂時となります。

⑯ 以上の題詞にある「寧楽」の用例9例を整理すると、次のようになります。

 「寧楽」字は、いつから用いられたかを最初にみてみます。

 題詞の作文時点と歌本文の作詠時点について、題詞に留意して歌を理解した場合の理解で、整理すると、次のとおり。

 これをみると、題詞の作文時点は、ほぼ当該巻の編纂時点となりました。

歌本文は題詞に「寧楽宮」とある歌が一番早い用例であり和銅3年(710)、「寧楽山」が2番目であり遅くても神亀元年(724)、「寧楽(乃)家」が三番目であり天平3年(731) 、そして「寧楽宅」「寧楽京」「寧楽故郷」が天平12年~同16年以降と分かれています。

表 「寧楽」とある題詞の作文時点及びその歌の作詠時点の推定

(題詞に留意して歌を理解した場合 2021/11/22 現在)

歌番号

題詞での用例

題詞の作文時点

左の題詞のもとの歌本文の作詠時点

検討した主要なブログ

2-1-78

寧楽宮

歌本文と同時又は巻一編纂時又は萬葉集公表時が

和銅3年(710)2月(遷都前)

2021/10/18付け &2021/11/8付け

2-1-79~

寧楽宮

巻一編纂時又は萬葉集公表時

79歌 和銅3年(710)2月以前

80歌 同上又は巻一編纂時又は萬葉集公表時

2021/11/1付け &2021/11/8付け

2-1-303~

寧楽山

巻三編纂時

303歌 和銅3年(710)~天平元年(729長屋王没年)以前

304歌 同上

2021/11/15付け

2-1-768~

寧楽宅

巻四編纂時

天平12年(740)12月~同15年12月

2021/11/15付け

2-1-974~

寧楽(乃)家

巻六編纂時

天平3年(731)

2021/11/15付け

2-1-1048

寧楽京

巻六編纂時

天平16年(744)春以降

2021/11/22付け

2-1-1051

寧楽故郷

巻六最終編纂時

天平12年(740)頃

2021/11/22付け

2-1-1608

寧楽故郷

巻八編纂時

天平15年(743)以降

2021/11/22付け

2-1-1636

寧楽宅

巻八編纂時

天平12年(740)12月~同15年12月

2021/11/15付け

 

⑰ 次に、題詞でのその意味を、その題詞のもとにある歌の作詠時点順に整理すると、次のとおり。

 第一 作詠が和銅3年2月時点の「寧楽宮」(2-1-78歌)は、

「遷都のため造営中に「平城京」あるいは「平城宮」を指す。」(ブログ2021/10/18付け「7.⑱」)

さらに、「2-1-78歌~2-1-80歌」を一つの歌群と理解すれば、

「「平城京平城宮」を意味するとともに、「(将来において)安んじ楽しめる宮」の意も編纂者は含ませている」(ブログ2021/11/8付け「10.⑲」) この場合、題詞の作文時点は、『萬葉集』の公表が天智系の天皇となってからなので巻一の編纂をし直した時点以降になるのではないか。

 第二 作詠が和銅3年2月以前の可能性もある「寧楽宮」(2-1-79歌~)は、

「「新しく造営している都城」である「平城京」」の意に、「寧楽」字に評語の意を加えた平城京の「平城宮」を指し、将来の(「寧楽」である)宮をも意味している。(ブログ2021/11/1付け「9.⑪」)

さらに、「2-1-78歌~2-1-80歌」を一つの歌群と理解すれば、第一と同じことを指摘できる。

 第三 作詠が、作者長屋王の没年(729)以前である「寧楽山」(2-1-303歌、2-1-304歌)は、

 「現代の奈良山丘陵」を指す。人麻呂の時代でも天平の頃でも『萬葉集』では「平山」と表記されている例がある丘陵である。(ブログ2021/11/15付け「11.④」) 

  第四 作詠が天平3年である「寧楽(乃)家」(2-1-974歌)は、

「(作者旅人が帰任してきた)平城京」(ブログ2021/11/15付け「11.⑬」)の自宅を指す。

  第五 作詠が天平12年頃である「寧楽故郷」(2-1-1051歌)は、

「安んじて楽しむと評価できる故郷、即ち平城京」(このブログ(2021/11/zz付け)「12.⑩」) すなわち聖武天皇平城京によりつかず遷都を繰り返していたころの平城京を指す

  第六 作詠が天平15年以降である「寧楽故郷」(2-1-1608歌)は、

「「寧楽」という漢文の熟語の意味で「故郷」を修飾していて十分。故郷は普通名詞」である。(このブログ(2021/11/zz付け)「12.⑮」))

第七 作詠が、平城京より都が一旦離れていた時である「寧楽宅」(2-1-768歌、2-1-1636歌)は、

 「歌を贈った相手である坂上大嬢が現に暮らしている平城京の彼女の屋敷」である。(ブログ2021/11/15付け「11.⑨」及び同「11.⑩」) 相聞歌であり、題詞の作文は当該巻編纂時となる。

 第八 作詠が天平16年春以降であり、平城京が(再び)都となる可能性が確実になった頃である「寧楽京」(2-1-1048)は、

「寧楽京」は「ならのみやこ」と訓み「平城京」を意味し、それに「寧楽」の熟語の意を加えた文字使い。だと思います。「寧楽」という熟語の意を掛けて四句を詠んでいるならば、そのように思い続けている平城京が年を経て再び都になるのだ、という思いの歌が2-1-1048歌である。(ブログ2021/11/15付け「11.④」)

第九 また、「寧楽」とある題詞のもとである歌が、平城京が都でない期間に作詠された歌であれば、「故郷」とは、平城京を指している。当時の官人はそのように認識している。(このブログ(2021/11/zz付け)「12.⑮」))

その期間の平城京を、官人は「寧楽+京等みやこと訓む万葉仮名」でよく表現していたのではないか。

⑱ 題詞における「寧楽」の用例をこのように比較してみると、歌の作詠時点に題詞が作文された可能性があるのは、巻一にある2-1-78歌の題詞だけとなりました。

  しかし、2-1-78歌~2-1-80歌は、平城京の造営を詠う一つの歌群を成しているので、同時の作文であり、それは2-1-79歌と2-1-80歌の題詞で推測した、最早では当該巻の編纂時と同時、最遅では『萬葉集』公表時ということになると思います。

 そうすると、当該巻の編纂時に題詞を作文しているので、共通の認識がある人物が各巻を編纂していれば、「平城京」にかかわる「なら」という発音を書き留めるのに、表記できる万葉仮名として「平」字、「奈良」字、「寧楽」字は、意識して選んでいるのではないか、思います。それは歌本文を書き留めるのにも広く官人は意識していたことを推測させます。

 題詞とあわせていくつか検討した歌本文での「寧楽」用例でも、それが伺えました。

 題詞における「寧楽宮」について、付記2.に示すようなこれまでの考えを変更する必要は認められませんでした。

 歌本文で「なら」の万葉仮名の選択はどうなっているのかを、次に確認し、標目の「寧楽宮」の意を検討したい、と思います。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただきありがとうございます。

(2021/11/22 上村 朋)」

付記1.『萬葉集』における「寧楽」表記の用例と歌における「なら」と訓む歌について

①『萬葉集』における表記の「寧楽宮」関連の用例と訓について、『新編国歌大観』により確認した。

②『萬葉集』における表記の「寧楽宮」の用例を表D(巻別)に、「寧楽宮」以外の「寧楽」の用例を表E(巻別歌の作者別)に示す。

表D 『萬葉集』における「寧楽宮」とある例  (2021/9/20  21h現在)

調査対象区分

巻一と巻二

巻三と巻四

巻五以降

部立ての名で

無し

無し

無し

標目で

巻一と巻二

無し

無し

題詞で

2-1-78歌(割注し「一書云太上天皇御製」)

2-1-79~80歌(左注し「右歌作主未詳」)

無し

無し

題詞の割注で

無し

巻四 2-1-533歌(割注して「寧楽宮即位天皇也)

無し

歌本文で

無し

無し

無し

歌本文の左注で

無し

無し

無し

注1)歌は、『新編国歌大観』による。「巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での番号」で示す。

 

表E 『萬葉集』における表記の「寧楽」の用例で「寧楽宮」以外の用例 

 (2021/9/20  21h現在)

調査対象区分

巻一と巻二

巻三と巻四

巻五以下の巻

部立ての名で

無し

無し

無し

標目で

無し

無し

無し

題詞で

 

2-1-303~304寧楽山(長屋王作)

 

2-1-768寧楽宅(家持作)

2—1-974~975寧楽家(大伴卿作)

2-1-1048~1050寧楽京(割注し「作者不審」)

2-1-1051~1053寧楽故郷(田辺福麻呂)

2-1-1608寧楽故郷(大原真人作)

2-1-1636寧楽宅(家持作)

題詞の割注で

無し

無し

無し

歌本文で*

1首有り

3首有り

3首有り

歌本文の左注で

 

2-1-262遷都寧楽(作者未詳 題詞は「或本歌云」)

2-1-1468寧楽宅 (家持作)

注1)歌は『新編国歌大観』による。「巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での番号」で示す。

注2)巻五、巻七及び巻九以下には例がない。

注3)表中の*:歌本文の用例は、(次回の付記に示す予定の)表F参照。

 

付記2.題詞にある「寧楽宮」についての検討結果

① 題詞にある「寧楽宮」の用例では、

A 「寧楽宮」は、「平城京平城宮」を意味するとともに、「(将来において)安んじ楽しめる宮」の意も編纂者は含ませている。

Bこの用例での「寧楽宮」の意味するところは、巻一と巻二の標目「寧楽宮」に反映しているのではないか。

ということを指摘できた。

② 2021/11/1付けブログの「10.⑲」にそのほかの検討結果も記してある。

(付記終わり 2021/11/22   上村 朋)

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 題詞の寧楽

 前回(2021/11/8)、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 寧楽宮とは その3」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 題詞の寧楽」と題して、記します。(上村 朋 追記 2022/3/2 誤字脱字を訂正した。)

1.~10.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行い、3-4-23歌まではすべて恋の歌であることを確認した。3-4-24歌については類似歌(『萬葉集』の歌)の検討のため『萬葉集』巻一と巻二の標目「寧楽宮」を検討している。なお、歌は『新編国歌大観』より引用する。)

11.再考 類似歌 その8 題詞の「寧楽」 その1 

① 類似歌2-1-439歌の重要な参考歌(2-1-228歌)の理解のため、『萬葉集』歌での「寧楽宮」表記の意を確認中です。

 今回、題詞にある「寧楽+宮以外の語句」という表記での「寧楽」(訓は「なら」)の意を、検討します。

 『萬葉集』における「寧楽宮」あるいは「寧楽+宮以外の語句」という表記の用例は、付記1.表D以下のようにあります。

② それらの用例を、語句別題詞歌本文等別に整理すると、次の表のようになります。

「寧楽宮」、「寧楽山」及び「寧楽故郷」は題詞にのみの用例であり、寧楽宅などは題詞以外にも用例があります。

表 『萬葉集』での「寧楽」と言う表記の用例一覧 (標目での用例を除く) (2021/11/8現在)

所在の区分

      表記の区分

寧楽宮

寧楽山

寧楽宅

寧楽(乃)

寧楽京

寧楽故郷

寧楽乃京師

その他の寧楽

計(例)

題詞

2-1-78

2-1-79~

2-1-303~

2-1-768~

2-1-1636~

2-1-974~

2-1-1048~

2-1-1051~

2-1-1608~

--

 --

 9

歌本文

--

 --

 --

2-1-80

2-1-334

 --

2-1-331

2-1-1048

2-1-1608

2-1-303

2-1-1553

 7

歌本文左注

--

--

2-1-1468

--

--

--

--

2-1-262

 2

計(例)

 2

 1

 3

 2

 2

 2

 3

 3

 18

注1)歌は、『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号で示す。

 

③ 「寧楽宮」は既に検討しました(付記2.参照)ので、「寧楽山」よりはじめます。1例あります。

巻三 雑歌  2-1-303~304歌

   題詞:長屋王駐馬寧楽山作歌二首 

 部立てが雑歌なので、天皇との関係を巻一と巻二の歌と同様に確認すると、巻三の雑歌の歌(計158首)は付記3.表Dのようになります。主要な関係分類別を示すと下表のようになります。

 

表 巻三(雑歌)にある歌(158首)に関する天皇との関係の主要な分類別の歌数(2021/11/15現在)

関係分類

巻一雑歌

巻三雑歌

A1天皇及び太上天皇などの一般的公務に伴う(天皇が出席する儀礼行幸時の)歌群、但しA2~Hを除く)

 52

 17

C天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(Dを除く)

  4

 71

H下命の有無が不明な事柄に伴う(作詠した官人自身の感慨を詠う)歌群

  7

  9

I天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を詠う歌群   

  0

 53

上記以外の分類

 21

  8

   計   (首)

 84

158

注1)巻一の雑歌は、2021/10/4付けブログの付記1.表Aより作成。

注2)巻三の雑歌は、付記3.の表Dより作成。

 関係分類A1の歌が、巻一では52首(62%)に対して巻二では17首(11%)など、比率が異なり、編纂方針が全然違っている、と言えます。関係分類Cの巻三の歌は、任国への往復や任務での国内巡行・上京時の歌が圧倒的に多く、巻三は、天皇中心の編纂ではなく、官人はじめ官僚の感興が中心となり、また、相聞歌と見なしたほうがよい歌もあるなど、部立ての区分は一見すると判りにくくなっています。治世の様子を官人が報告する、というのが編纂方針なのでしょうか。詳しい検討は宿題とします。

④ そのような巻三の部立て「雑歌」のなかで、この2-1-303歌(と2-1-304歌)は、関係分類が「H」となったところです。作者の長屋王は、律令体制の中で枢要な役割を担っており、官人として当然下命がないまま都を離れることは許されない立場にあります。その下命について題詞には情報がありません。

 諸氏は、題詞を、「長屋王が、寧楽山(ならやま)に駐馬して作る歌二首」と訓んでいます。この訓では、長屋王は都を離れようとしたのか、寧楽山まで、国見をしようと来たのか、単に狩等のついでに立ち寄ったのか、が不明です。

 2-1-303歌について、土屋文明氏は、「旅行くにあたっての作であらう」、「ぬさを置き超ゆるといふことに興味を動かした程度の歌」及び「(作詠時点は)平城遷都(710)より前の作とは定めがたい」などを指摘しています(『萬葉集私注』)。その理由として、初句「さほすぎて」の佐保の地には、作者長屋王の邸があるので藤原京から来たという推測以外に、「邸のある佐保の地」と別れる地点に着いて、の意もある、と指摘しています。

 いずれにしても、「寧楽山」についていえば、土屋氏の理解は、「佐保の地」が南麓となる現代の奈良山丘陵ということになります。人麻呂が「平山」(ならやま)と詠っている(2-1-29歌)山、即ち、その「なら」を「平」字から「寧楽」字で表記したのが「寧楽山」と思います。

 現代の奈良山丘陵は、例えば、巻八の部立て「秋雑歌」にある2-1-1589歌でも「平山乃 峯之黄葉 ・・・」と書き留められています。この歌の作詠時点は天平10年(738)と推測でき、天平頃でも「平山」と書き留められている丘陵です(巻八は部立てごとにおおむね年代順に配列されている巻です。)

⑤ この題詞のもとにある歌2首に、「ならやま」への言及があるかどうかを確認します。

 2-1-303歌  佐保過而 寧楽乃手祭尓 置幣者 妹乎目不離 相見染跡衣

    さほすぎて ならのたむけに おくぬさは いもをめかれず あひみしめとぞ

 「佐保を過ぎゆき、奈良坂の手向(たむけ)に、旅の平安を祈って置くぬさは、妹を目から放さず会はせてくれといふ為だ。」(土屋氏)

 2-1-304歌  磐金之 凝敷山乎 超不勝而 哭者泣友 色尓将出八方

   いはがねの こごしきやまを こえかねて ねにはなくとも いろにいでめやも

 「岩ねのごつごつして居る山を越えきれないので、泣きに泣いても顔色に出さうか、出しはしない。」(土屋氏)

 この2首は、題詞に留意すれば、長屋王が、峠において、下馬して行旅の無事を祈るため幣を手向ける際、思っている女性とやむを得ず会えなくなるつらさを詠い、また会えるよう行旅の無事をこめて幣を手向けたと詠っている歌と理解できます。歌本文からは、長屋王が、「寧楽山」の峠に来たのは、国見でも何かの次いででもなく、大和国を離れる行旅に向かうため、ということが分かります。

 土屋氏は、2-1-303歌について、「奈良坂の手向け」の「奈良坂」は、「佐保から登ってきた道」の「略称」であり、「寧楽」というのはその坂のある山を指している、と認識しています。

 このように、手向けという行為をする場所は、道が峠となって超える山、即ち「寧楽山」であり、2-1-304歌では、その山を二句「こごしきやまを」と形容しています。

 奈良山丘陵には、明日香に都がある時代から北に向かう路が複数通っています。峠は、奈良盆地見納めの位置となりますので、多くの官人が幣を手向けたのだと思います。

 2-1-303歌の初句「さほすぎて」のように、北にむかって登ると、道は、東西方向の尾根が平坦になっているかのところにでて道は下りとなりますので、二句「ならのたむけ」とは「なら」を「平」字で書き留めている人麻呂詠う2-1-29歌(平山)にならい、登って来た勾配のある道と違った「平」なところが峠という認識であり、その道の最高標高点の位置である場所を「なら」で表している、と思われます。

 奈良盆地の北の丘陵(現代の奈良山丘陵)を通るどの道も生駒山を越えて難波に通じる道にくらべれば、「こごしき」ことはありません。2-1-304歌にいう「こごしきやま」が「寧楽山」とは一般には形容しないと思います。

 題詞に留意して理解すれば、2-1-304歌の「こごしきやま」とは何かの比喩であるかもしれません。長屋王の行旅の目的と関係があるのでしょうか。

⑥ このように、題詞に留意すると、2-1-303歌は、恋の歌であってかつ行旅を念頭においた手向けの歌として理解が可能です。2-1-304歌も比喩している何かに期してその成就を扶けるよう峠において神に祈願したと理解すれば手向けの歌となります。

 題詞に留意しないで歌本文を理解すれば、2-1-303は単純に異性を恋う歌であり、2-1-304歌も、同じく恋の歌であり、二句の「こごしきやま」とは相手の親などの反対を比喩的に言っているのではないか、と思います。

 そのため、この2首の元資料は、別々の場所で詠われた歌ではないか、即ち伝承歌(土屋氏のいう民謡)ではないか、と推測します。

 ただし、伝承歌として2-1-303歌の二句「寧楽乃手祭爾」(ならのたむけ)の「寧楽」(なら)という表記が気になります。この表記は、平城京遷都の前後頃から官人は用いていたであろう、と予想している(ブログ2021/10/31付け参照)からです。

 この2首を、詞書に留意せず峠での歌として検討すると、2-1-303歌は、これから女性に逢いにゆく際の歌、2-1-304歌は、逢いに行ったが逢えなかった帰りの歌と理解できます。

⑦ 題詞に留意して、別の理解があります。

 元資料が伝承歌であるならば、長屋王(没年は729)が、奈良山丘陵の峠で自ら口ずさむよりも、峠で休憩して人が朗詠したのを聞いた歌の類であろうという理解です。

 そうであると、その時書き留められた二句「ならのたむけに」は「寧楽乃・・・」とその時書き留められても年代的にはおかしくない、と思います。

 この場合、題詞を「寧楽山において(長屋王が)作る歌」、と記していると理解するのが困難になります。

 しかし、伝承歌とは、地名や形容句などの入れ替えが可能な歌でもあるという特徴に注目すれば、2-1-303歌ので地名「さほ」、2-1-303歌での形容句「こごしき」が長屋王の工夫したところなのかもしれません。

 そうであれば、「(長屋王が)作る歌」という題詞は無理のない文章と理解できます。

 それから、題詞にある「駐馬」とは、2-1-78歌の題詞での「御輿停駐」と比べると、その行旅を共にしている一団の規模や目的が違うように思えます。同じ皇族であってどうして違うのか、合点がゆきません。

 土屋氏の指摘のように長屋王の住居のひとつが佐保にあり、「寧楽山」に近いところから馬の遠乗りをして峠に来た際の歌であり、峠であるので「幣をたむける」ということの題詠であったのでしょうか。

 題詞に留意すれば、『続日本紀』が書き留めない長屋王の一面を捉えた歌といえます。

⑧ ここまで、題詞は諸氏の訓に、歌は『新編国歌大観』の訓に従い、理解を試みてきました。

この歌も、その訓で、長屋王が、伝承歌の「初句」の地名や形容句を替えるなどして、作った歌と理解可能ですので、作詠時点は平城京遷都(710)から長屋王没(724)までの間となり、歌に「寧楽乃手祭爾」とその時書き留められた可能性がある、と思います。

 次に、題詞の作文の時点の検討です。

 次のような題詞が巻三にあります。

 柿本人麻呂近江国上来自至宇治河辺作歌

 丹比真人笠麻呂往紀伊国超能勢山時作歌 (2-1-288歌)

 田口益人大夫任上野国司時至駿河国清見埼作歌 (2-1-299歌)

 この3首とも、旅の途中の歌ですが、乗り物には触れていません。この歌2-1-303歌はわざわざ「駐馬」という記述があります。「駐馬」に意味があるかのようですが、それが未だわかりません。

 ほかの題詞の一般的な文章と替えているので、巻三編纂者は元資料のままにしたというよりも特記したのではないか、という推測のほうがよいのではないか。題詞の作文は、巻三編纂時の作文ではないか、と思います。

⑨ 次に題詞にある「寧楽宅」を検討します。2例あります。

 巻四 相聞  2-1-768歌 在久迩京思留寧楽宅坂上大嬢大伴宿祢家持作歌一首

 この歌の前後は大伴家持の相聞の歌であり、題詞を信頼すれば、大伴家持が作者であり、用例「寧楽宅」は、「平城京にある坂上大嬢の屋敷(に居る)」となります。歌を詠んだ時点は、坂上大嬢一家が久迩京(恭仁京)にまだ転居していない頃、ということになります。

 恭仁京は、聖武天皇天平12年(740)12月遷都し、翌13年閏三月五位以上の者の平城京在住を禁止しました。ただ、天平13年正月元旦の朝賀を恭仁京聖武天皇は受けていますので、臨時の宿泊を天平12年から官人ははじめているはずです。このため、既に内舎人として天皇の近くにいる家持は13年正月平城京の自宅に戻っていなかったかもしれません。 

 家持の「在久迩京」とは、だから最早が天平12年12月となります。天平16年正月には天皇難波宮行幸し、そこへの遷都となってしまっていますので、「在久迩京」は最遅で天平15年12月ではないか。その間がこの歌本文の作詠時点となります。

 次に、題詞を作文した時点を検討します。

 この歌は相聞の歌です。この歌を相手におくったとき、備忘として相手と贈った年月は書き留めるとしても、このような題詞を作文するでしょうか。前後の歌の題詞とも書き方は平仄があっているので、巻四の編纂時にこの題詞が作文された(すなわち「寧楽宅」と書き留められた)、と思います。

 なお、歌本文(引用割愛)には、「寧楽」字はありません。

⑩ もう一例も家持の歌です。題詞と歌本文を引用します。

 巻八 秋相聞 2-1-1636歌 大伴宿祢家持従久迩京贈留寧樂宅坂上大娘歌一首

   足日木乃 山辺尓居而 秋風之 日異吹者 妹乎之曽念

   あしひきの やまへにをりて あきかぜの ひにけにふけば いもをしぞおもふ

 題詞を作文して「寧楽宅」と書き留めたのは、2-1-768同様に相聞歌なので、この歌を作ったときよりも、この歌のある巻の編纂時の可能性が高い、と指摘できます。

⑪ なお、左注に1例あるので、ここで確認します。

 巻八 春相聞  2-1-1468歌  大伴家持坂上大嬢歌一首

    春霞 軽引山乃 隔者 妹尓不相而 月曽経去来

    はるかすみ たなびくやまの へなれれば いもにあはずて つきぞへにける

 左注が「右従久迩京贈寧楽宅」とあります。

  2-1-768 947歌と比較すれば、左注の「寧楽宅」は、「平城京にある(坂上大嬢の居る)屋敷」の意となり、2-1-768 947歌の「寧楽宅」と同じとなります.

 「寧楽宅」を当時の普通名詞と理解すれば、この三つの「寧楽宅」の意は、「久迩京に遷都したにも関わらず平城京にある官人の屋敷」ということになります。作詠されたのはいずれも久迩京が都となっている時期であろう、と思います。

 左注を作文した時点で平城京を指す言葉として「寧楽」のみやこという表現が既にあった、ということになります。左注は、題詞と同様に、この巻編纂時点に作文された可能性が高いものの、編纂後の注釈である可能性も残ります。

⑫ 検討してきた「寧楽宅」の3例に共通していえるのは、久迩京(恭仁京)への遷都により、遷都前の都「ならのみやこ」を意識したとき、「平城」字ではなく、「寧楽」字を選んでいる、とみえる、ということです。

 聖武天皇は、天平12年(740)藤原広嗣の乱の鎮圧の報が届かない時点から平城京に居るのを避けるかの行動をとっています。遷都し造営途中の宮で元旦の朝賀を受け、自然災害も毎年『続日本紀』に記載があり、難波宮天平17年(745)一時危篤状態となり、結局平城京に同年5月戻ることになりました。平城京を捨て去ったかのような行為は官人にも歓迎されていませんでした。

⑬ 次に、題詞の「寧楽(乃)家」を検討します。1例あります。

巻六 雑歌 2-1-974   三年辛未大納言大伴卿在寧楽家思故郷歌二首

    須叟 去而見壮鹿 神名火乃 淵者浅而 瀬二香成良武

    しましくも ゆきてみてしか かむなびの ふちはあせにて せにかなるらむ

 2-1-975  (同上)

    指進乃 栗棲乃小野之 芽花 将落時尓之 行而手向六

    さすすみの くるすのをのの はぎのはな ちらむときにし ゆきてたむけむ

 歌本文には「寧楽」字はありません。

 「三年」とは、天平3年(731)の意です。この年の7月、「大納言大伴卿」(旅人)は、没しています。

 「在寧楽家思故郷」とは、「平城京にある自宅にあって、明日香の地に思いをはせた」の意であり、「寧楽」は平城京を意味しています。歌は天平3年の作詠ですが、題詞は、その作詠時点ではなく、恐らくは巻六編纂時の作文なのだと思います。この歌が披露された場面は、一族の私的な宴席か病床と推測します。

 歌本文にも「寧楽(乃)家」は1例(2-1-80歌)あります。その歌本文は「あをによし」という語句とともに2021/11/1付けブログで検討し、作詠時点は題詞からも平城京遷都(710)前後と推測しました。

 なお、巻六は、年紀が明記されてその年次順に配列されている歌群と「田辺福麿之歌集中出也」と左注されている歌群にわかれ、この題詞は、前者に属します。

 

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただきありがとうございます。

 次回は、残りの用例を検討し、題詞にある「寧楽」の特徴をみてみたい、と思います。

(2021/11/15  上村 朋)

付記1.『萬葉集』における「寧楽」字の用例と歌における「なら」と訓む歌について

①『萬葉集』における「寧楽宮」字関連の用例と訓について、『新編国歌大観』により確認した。

②『萬葉集』における「寧楽宮」字の用例を表Dに、「寧楽宮」以外の「寧楽」の用例を表Eに示す。

 

表D 『萬葉集』における「寧楽宮」とある例  (2021/10/4  現在)

調査対象区分

巻一と巻二

巻三と巻四

巻五以降

部立ての名で

無し

無し

無し

標目で

巻一と巻二

無し

無し

題詞で

2-1-78歌(割注し「一書云太上天皇御製」)

2-1-79~80歌(左注し「右歌作主未詳」)

無し

無し

題詞の割注で

無し

巻四 2-1-533歌(割注して「寧楽宮即位天皇也)

無し

歌本文で

無し

無し

無し

歌本文の左注で

無し

無し

無し

注1)歌は、『新編国歌大観』による。「巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での番号」で示す。

 

表E 『萬葉集』における表記の「寧楽」の用例で「寧楽宮」以外の用例  (2021/10/4  現在)

調査対象区分

巻一と巻二

巻三と巻四

巻五以下の巻

部立ての名で

無し

無し

無し

標目で

無し

無し

無し

題詞で

 

2-1-303~304寧楽山(長屋王作)

 

2-1-768寧楽宅(家持作)

2—1-974~975寧楽家(大伴卿作)

2-1-1048~1050寧楽京(割注し「作者不審」)

2-1-1051~1053寧楽故郷(田辺福麻呂)

2-1-1608寧楽故郷(大原真人作)

2-1-1636寧楽宅(家持作)

題詞の割注で

無し

無し

無し

歌本文で*

1首有り

3首有り

3首有り

歌本文の左注で

 

2-1-262遷都寧楽(作者未詳 題詞は「或本歌云」)

2-1-1468寧楽宅 (家持作)

注1)歌は『新編国歌大観』による。「巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での番号」で示す。

注2)巻五、巻七及び巻九以下には例がない。

注3)表中の*:歌本文の用例は、(次回の付記に示す)表F参照。

付記2.題詞にある「寧楽宮」についての検討結果

① 題詞にある「寧楽宮」の用例では、

A 「寧楽宮」は、「平城京平城宮」を意味するとともに、「(将来において)安んじ楽しめる宮」の意も編纂者は含ませている。

Bこの用例での「寧楽宮」の意味するところは、巻一と巻二の標目「寧楽宮」に反映しているのではないか。

ということを指摘できた。                                        

② 2021/11/1付けブログの「10.⑲」にそのほかの検討結果も記してある。

 

付記3.歌と天皇との関係(巻三雑歌、巻三挽歌) 

 2021/10/4付けブログ「4.②」に示す関係分類により、巻三(雑歌)を整理した。巻一の雑歌の整理は同ブログの付記3.の表Aである。

表D 巻三(雑歌)にある歌(158首)と天皇との関係   (2021/11/15現在)

関係分類

歌数

標目

該当歌

備考

A1天皇及び太上天皇などの一般的公務に伴う(天皇が出席する儀礼行幸時の)歌群、但しA2~Hを除く)

 17

 

2-1-235~2-1-236 人麿歌 行幸

2-1-237 天皇

2-1-238 志斐嫗歌 復命歌

2-1-239 長忌寸意吉麿歌 復命歌

2-1-267 長忌寸奥麿歌 行幸

2-1-288 丹比真人笠麿歌 行幸

2-1-289  288の応答歌 行幸

2-1-290 石上卿歌 行幸時 

2-1-291 穂積朝臣老歌 行幸

2-1-309 安貴王歌 行幸

2-1-317 波多朝臣小足歌 行幸途中の景

2-1-318~2-1-319 中納言大伴卿歌 吉野行幸

2-1-378 湯原王歌 吉野行幸時か

2-1-379~2-1-380 湯原王歌 宴席歌

 

 

 

 

267歌は土屋氏に従う

A2天皇及び太上天皇などの死に伴う歌群

  0

 

 

 

B天皇が下命した都の造営・移転に関する歌群

 0

 

 

 

C天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(Dを除く)

 71

 

2-1-246~2-1-247 長田王歌

2-1-248 石川大夫歌 長田王への挨拶歌

2-1-249 長田王歌 246歌時と同じ時期

2-1-250~2-1-258 人麿歌 羇旅歌

2-1-265 刑部垂麿歌 羇旅歌

2-1-266 人麿歌 羇旅歌

2-1-268  人麿歌 琵琶湖を詠う羇旅歌

2-1-272~2-1-280 高市連黒人歌 羇旅歌

2-1-281 石川少郎歌

2-1-282~2-1-283 高市連黒人歌 赴任時

2-1-284高市連黒人妻の歌 赴任時

2-1-286 高市連黒人歌 羇旅歌

2-1-287春日蔵首老歌 羇旅歌

2-1-292~2-1-293 間人宿祢大浦歌 宴席の歌

2-1-294 小田事歌 羇旅歌

2-1-295~2-1-298 角麿歌 羇旅歌か宴席歌

2-1-299~2-1-300 田口益人大夫歌 羇旅歌

2-1-306~2-1-307 柿本朝臣人麿歌 羇旅歌

2-1-308 高市黒人歌 近江旧都を詠う

2-1-314 (木偏に安)作村主益人歌

2-1-315 藤原宇合卿歌

2-1-320~2-1-321 山部赤人歌 富士山は官旅・赴任で仰ぎ見ることができる

2-1-322~2-1-324 未詳の人の歌 同上 

2-1-325~2-1-326山部赤人歌 羇旅歌

2-1-327~2-1-328 山部赤人長歌であり下命の歌か。

2-1-340 山上憶良歌 宴席歌

2-1-360~2-1-366 山部赤人歌 羇旅歌

2-1-367~2-1-368 笠朝臣金村歌 国内巡行あるいは羇旅歌

2-1-369~2-1-370笠朝臣金村歌 羇旅歌

2-1-371 石上大夫歌 国内巡行あるいは羇旅歌

2-1-372 笠朝臣金村歌か 誓約の歌

2-1-384 筑紫娘子 送別歌

2-1-391~2-1-392 若宮年魚麿誦する歌 羇旅歌

 

 

 

 

265歌と266歌も題詞による分類

 

 

2-1-282~1-2-284歌はブログ2018/1/29付け参照

292~293歌はブログ2018/3/26付け参照

 

 

 

 

 

 

 

 

 

308歌は、命がなければ旧都を詠めない

 

327歌の結句「いにしへおもへば」と詠める機会は?

 

2-1-369~2-1-372歌はブログ2020/10/26参照

 

D天皇に対する謀反への措置に伴う歌群

 0

 

 

 

E1皇太子の行動に伴う歌群(E2を除く)

 0

 

 

 

E2 皇太子の死に伴う歌群

 0

 

 

 

F皇子自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む)

 8

 

2-1-240~2-1-242 人麿歌 行幸

2-1-243 弓削皇子 単独吉野行の歌

2-1-244 春日王 243歌と一連

2-1-245 弓削皇子か 243歌の異伝歌

2-1-263~2-1-264人麿歌 

 

2-1-243歌は2-1-111~2-1-113歌とは別の時点

G皇女自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む)

 0

 

 

 

H下命の有無が不明な事柄に伴う(作詠した官人自身の感慨を詠う)歌群

 9

 

2-1-301 弁基歌 法師が恋の歌を求められたか

2-1-303~2-1-304 長屋王大和国を勝手に離れるのは疑いを招く

2-1-305 安倍広庭卿歌 宴席の歌か

2-1-310~2-1-312 博通法師歌 紀伊に出向いた理由不明

2-1-316 土理宣令歌 詠んだ場面不明

2-1-381 山部赤人

 

I天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を詠う歌群

53

 

2-1-259~2-1-262 鴨君歌 寧楽遷都後

2-1-269 志貴皇子歌 ムササビを詠う

2-1-270 長屋王歌 故郷を詠う

2-1-271 阿倍女郎歌 屋部坂(いわゆる志比坂)を詠う 恋の歌に寓意あるか

 

2-1-285 春日蔵老歌  夜行は私的旅行

2-1-302 大納言大伴卿歌

2-1-313 門部王歌 東市の樹を詠う相聞ではないかあるいは宴席の歌か

2-1-329 門部王歌 相聞の歌が雑歌とされている例

2-1-330 通観歌 

2-1-331 大宰少弐小野老歌 京を思う歌

2-1-332~2-1-333 防人司大伴四綱歌 京を思う歌

2-1-334~2-1-338 師大伴卿歌 老人の繰り言

2-1-339 沙弥満誓歌 綿を詠う歌

2-1-341~2-1-353 太宰師大伴卿 讃酒歌

2-1-354 沙弥満誓歌

2-1-355 若湯座王

2-1-356 釈通観歌

2-1-357 日置少老歌

2-1-358 生石村主歌 見学の記の歌か

2-1-359 上吉麿歌 叙景歌か

2-1-373 阿倍広庭歌 相聞歌

2-1-374 出雲守門部王歌 京を思う歌

2-1-375~2-1-376 山部赤人歌 相聞歌

2-1-377 石上乙麿歌

2-1-382~2-1-383 大伴坂上郎女 祭神歌

2-1-385~2-1-386 丹比真人国人歌 国見の時期ではない登山の歌

2-1-387 山部赤人

2-1-388~2-1-389 未詳の人の歌

2-1-390 若宮年魚麿の歌か

鴨君歌は葬礼の歌か

269歌と270歌の寓意不明

270歌が雑歌の理由不明

285歌は相聞か

 

 

 

2-1-329~2-1-333歌は宴席の歌か

 

334~359は巻一の雑歌にふさわしくない 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

373~377歌は巻一の雑歌にふさわしくない 

 

385~383歌と385~ 390歌は巻一の雑歌にふさわしくない 

  計

158

 

 

 

注1)「歌番号等」とは『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)「関係分類」は、ブログ2021/10/4付けの「4.②」に示す分類である。

注3)「該当歌」欄の歌評は上村朋の意見。原則題詞を信頼しての意見。

注4)「備考」欄のコメントは上村朋の意見。

(付記終わり 2021/11/15 上村朋)

 

 

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 誰が79歌を詠ったか 

 前回(2021/11/1)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 誰が79歌を詠ったか」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 寧楽宮とは その3」と題して、記します。(上村 朋)(2021/12/25訂正。聖武天皇の即位年が誤り、8章と9章が抜け落ちていました。それを訂正します。2022/3/21か所訂正。)

1.~7.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行い、3-4-23歌まではすべて恋の歌であることを確認した。3-4-24歌については類似歌(『萬葉集』の歌)の検討として、『萬葉集』巻一と巻二の標目「寧楽宮」を検討している。なお、歌は『新編国歌大観』より引用している。)

8.再考 類似歌 その6 「寧楽宮」の用例 2-1-79歌その2

① 『萬葉集』歌での題詞にある「寧楽宮」表記の例を、今回も確認します。

類似歌2-1-439歌の重要な参考歌(2-1-228歌)がある、『萬葉集』巻二の挽歌の、標目「寧楽宮」に関して検討中です。2-1-79歌と2-1-80歌の題詞と歌本文を引き続き検討し、そして題詞にある「寧楽宮」という表記の意味を考えます。

 前回、題詞に留意せずに行った2-1-79歌(多分元資料の歌となります)の検討で、初瀬川の舟運を利用した藤原宮から新都造営地への資材の運搬はあり得ず、次の四つの疑問が残りました。

第一 誰が詠っているか:歌本文全体にわたって作中人物は共通か

第二 結句の「吾毛通武」という作中人物と「きみ」の関係:不明

第三 「作家」の現状:造作途中の家を意味しているのではないか

第四 「千代二手」の理解:「千代」の期間に何が起こると予想しているか

② 歌本文を再掲します。

2-1-79歌  天皇乃 御命畏美 柔備尓之 家乎択 隠国乃 泊瀬乃川尓 舼浮而 吾行河乃 川隈之 八十阿不落 万段 顧為乍 玉桙乃 道行晩 青丹吉 楢乃京師乃 佐保川尓 伊去至而 我宿有 衣乃上従 朝月夜 清尓見者 栲乃穂尓 夜之霜落 磐床等 川之水凝 冷夜乎 息言無久 通乍 作家尓 千代二手 来座多公与 吾毛通武

おほきみの みことかしこみ にきびにし いへをおき こもりくの はつせのかはに ふねうけて わがゆくかはの かはくまの やそくまおちず よろづたび かへりみしつつ たまほこの みちゆきくらし あをによし ならのみやこの さほがはに いゆきいたりて わがねたる ころものうへゆ あさづくよ さやかにみれば たへのほに よるのしもふり いはとこと かはのひこり さむきよを やすむことなく かよひつつ つくれるいへに ちよまでに いませおほきみよ われもかよはむ

③ 最後の七句は、土屋文明氏に従い、つぎのような訓で前回検討しています(2021/10/25付けブログ「7.⑩と⑪参照」)。また四句も氏の訓によっています。

「さむきよを いこふことなく かよひつつ つくれるいへに ちよまでに きませまねくきみ われもかよはむ」

氏の大意:「かくのごとく寒い夜をも休むこともせず、通ひ来たって作った家に、千代の後までも来給へよしばしば君、吾も通はう」。

これに対して、上記①の第二から第四の疑問が生じたところです。

④ 最初に、2-1-79歌全体の構成を見直します。

借訓もある万葉仮名です。官人が業務で使う文体は漢文であるので、その助字の意も生かして歌を書き留めているのではないか、と想定できます。この歌には、助字である「乃」、「之」、「乃」、「尓(爾)」、「而」、「乍」「之」「乍」 などが「万葉仮名」として用いられています。  例えば、

天皇)乃 :(aすなわち(心理的屈折、摩擦、抵抗感などを経ての接続を示す)。bなんじ・なんじの。cその(指示代名詞)。) 

(柔備尓)之 :(aの(修飾・被修飾の限定など。主述句を作る)。 b代名詞(これ・これが。この)。) 

(泊瀬乃川)尓 :(aなんじ(代名詞) bしかり かくのごとし cこの(=此) dのみ(=耳))  

(舼浮)而、(伊去至)而: (aしかうして。  しかも。 しかるに。 しかるを。bすなわち(=乃)。 cなんじ(代名詞)。 dもし(=如)。 eごとし(=如))。 

(顧為)乍: (aたちまち。bあるいは。) 

(衣乃上)従 :(aより(動作・行為の始まる時間的空間的基点を示す)。bしたがって。cたとひ。)

(冷夜)乎:(a前置詞(=於) b他の語について状態を表す語となる接尾辞。 c疑問・詠嘆・反語の語気を表す(か や かな)。

(来座多公)与: (aと。bともに。cために。dおいて、おける。eよりは。f疑問・反語・詠嘆の語尾(か。や。かな。 gみな。 ことごとく(=挙)。) 

⑤ 2-1-79歌の構成を、前回、作中人物が造営中の平城京において「家を作った」歌と理解して、6部よりなる、と整理しました。上記①の第一の疑問を解消すべく、助字に留意し、再度作中人物は単数である、として検討してみます。

その構成の第一は 「初句~二句」(天皇乃 御命畏美)であり、歌の発端を詠っています。格助詞「の」という発音を書き留めるのに用いている「乃」字は、助字として「心理的屈折、抵抗感などを経た接続、という意の「即ち」でもあります。「天皇乃御命」に抵抗を感じるのは庶民にはあるでしょう。官人は表に出すのは絶対憚っていると思いますので、「乃」字は、素直にその「音」を書き留めているのではないか。

この歌に格助詞「の」を「乃」字表記したのは7カ所もあり、すべてそのように理解できました。

⑥ その第二は、「三句~十八句」であり、平城京造営地への移動の状況を詠っています。「天皇乃御命」は、官人はじめ万民に発せられていますので、複数の者が、これにより行動を起こしています。あるいは行動を余儀なくされています。平城京の造営は一大プロジェクトであり、多数の人が集まることになります。三句以下はその行動する人達を描写しているのではないか。

四句「家乎択」とは、必要な職種や人数を考慮して役民を集める、という官人の行動(役民からみれば運悪く選ばれて)を指しているのではないか。

新都造営は長期にわたるものであり、前回の2021/10/25付けブログ「7.⑤」で指摘したように庶民には嫌われています(『続日本紀』の、和銅2年冬10月庚戌(28日)詔や和銅4年9月丙子(4日)勅参照)。人員の確保などに苦労したはずです。個人はもちろん出身集落などに補填も必要であったと思います。そのため特記しているのが四句「家乎択」ではないか、と思います(土屋氏の理解を支持するところです。)

五句からの「隠国乃 泊瀬乃川尓 舼浮而」とは、舟運のある地域からは、船や筏など持参させたのでしょうか。奈良山丘陵で製造した瓦は佐保川を利用して平城京造営地に運ばれています。

八句からの「吾行河乃・・・顧為乍・・・佐保川尓 伊去至而」とは、船や筏などを上流に遡らせる人達に関して詠っているのではないか。流水路が曲がりくねる箇所など監視が行き届かなくなるところでの脱走があったのでしょうか。十三句からの「玉桙乃 道行晩」の黄昏も脱走の機会であったのでしょう。だから官人は行動を共にしなければならなかったのでしょうか。

⑦ その第三は、十九句~二十七句であり、到着した平城京造営地の景を詠います。宿泊所の居住環境の貧しさを詠っています。 役民にとっても官人にとってもそこは臨時の宿舎であり、家族と住む家ではありません。

その第四は、二十七句~三十句であり、平城京造営地にいる作中人物の行動を詠います。

 二十七句と二十八句で、休日も無い労働環境を詠い、二十九句と三十句で、運搬路の確保や建物の基礎作りや部材造りなどすべての作業をひっくるめて「作る」と表現し、「家」の完成を目指しています。上記①の第三の疑問に該当していると思います。必死に現場は動いている、という訴えにもとれます。

⑧ その第五は、三十一句~三十二句(千代二手 来座多公与)であり、「行動の目的を詠う」と前回みましたが、平城京造営事業の本部と現場との軋轢を詠っているのではないか。

進捗を気にする本部に対して視察にこれからも度々来て理解してくれ、と現場を預かる者が、訴えているのではないか、と思います。

作中人物は、その「家」の利用者を待っているのではありません。  

その第六は、三十二句(結句「吾毛通武」)であり、作中人物の決意を詠っています。作中人物は家に通うのではなく、家を作っている現場に通う、という決意を述べています。

⑨ このように、2-1-79歌が、6部からなることは変わりありませんでした。

長歌は、誰か一人の立場で作詠されているはずなので、作中人物がこの歌で訴えたいことが結句にあるので、「現場に通う」のは誰かと言うと、役民と現場を監理・監督・指揮をする官人が第一候補となり、中でも、一大プロジェクトの進捗に関する意見対立が歌に伺えるので、現場の官人が詠った歌である、と思います。

すなわち、6部構成の第一は、平城京造営の現場を預かる者(複数)が、下命を受けたことを述べ事業のスタートを示し、第二から、労働力の調達と、思わしくない居住環境と、それでも、役民や自分達も必死に働き、ここまでこぎつけたという現状を訴え、精度を落とさず急がす方法を、激励慰労を兼ねて、現場に足を運び、一緒によく考えてくれ、というのがこの歌の趣旨ではないか、と思います。

例えば、造営期間が長いので役民は交代することになるので、その節目節目に激励し、所用の役民数がいつも確保できる対策などの提案に付した歌、とも理解できます。

また、作者は特定できるはずです(歌を実際に代作した人物の特定はなかなか難しいとしても)。

⑩ 以上の検討から、現代語訳を、題詞には留意せず、結句の作中人物が詠う歌として、試みると、つぎのとおり。

「大君の 御命令を慎んで承り、

(造営の各段取りに応じて)馴れている集落から人を選び

こもりくのと昔から言われる初瀬川沿いの集落からは舟運用の船やその材料を調達し、それを岸から曳く人々が河川の流水の蛇行に従い散らないよう見返りつつ確認し、また路の暮れるまで進み、「あをによし」と形容されるような状況の「ならのみやこ」の佐保川のほとりに(私は人々と共に)たどり着いた。

 (そこには宿舎が設けてあるが、)私の寝た衣の上から、朝の月の光にはっきり見ると、白い木綿のように夜の霜がふり、石の床のように川の水が凍っている。

そして、このような寒い夜を過ごしても休むこともなく、

(人々と私が)現場に通い、作っている「家」(はまだまだ途上)であるので、これからも長い年月の間には、貴方に見に来てほしい。

私も現場の監理・督促に(これからも)倦まず行こうと思っている。」(79歌第1案) 

 

⑪ 「あをによし」とは、奈良山の辺りで(青色の顔料にする)「あを(青)に(土)」を採取していたことから、奈良(山)を修飾する形容句ですが、「そのならやまに近い都城」とつなげ、造成が始まったばかりで都城の体をまだ成していない「ならのみやこ」を修飾しています(2021/10/18ブログの付記1.参照)。

瓦製造に関して技能者が全国から集められているように、当時の一大プロジェクトである平城京造営は、多くの職能にわたる人達を必要としていました。現場は集落自体が移転してきたような状況も生じていたのでしょう。施工の質、工程、資材調達、宿舎運営などで官人も気の抜けない大変な毎日をおくっていたと思います。 役民の誰か一人の作詠という歌ではありません。

⑫ このように理解できましたので、上記①の疑問の答えは、

第一は、現場監督の立場の官人(という役職の人物)、

第二は、官人組織の出先機関と本部という関係、

第三は、造作途中の家(広く造営事業)、

第四は、「千代」という期間に本部の適切な指導激励(優遇措置も)を度々いただきたい、

となりました。

題詞に留意しない歌の理解は、元資料の歌の理解となっているのではないかと思います。

元資料の歌では、「作家」という語句は「楢乃京師」に合わせたて「作楢乃宮」という語句であった歌かもしれません。平城宮が立地するあたりの造営の進捗が作詠時点では、実際楢の樹木にまだ囲まれている段階であったと推測します。

⑬ さて、歌本文にある「(青丹吉) 楢乃京師(乃)」の意の確認です。作詠者の助字の用い方をみれば、平城京造営中の状況を「楢乃京師」と評価して都城名として歌で用いたのではないか、と思います。

平城京造成地は、もともと水田と集落を落葉樹林が北側から囲う地域であり、集落も燃料その他の利用のため近くの落葉樹林を大切にしていたと思います。

平城京には、奈良山丘陵に近いことからの「奈良乃京師」(ならのみやこ)という呼称と表記が既にあり、それに「落葉樹林がみえる建設途上の都城」の意を、おなじ「なら」の音で歌に用いて表現している、と思います。平城京の別の表現として定着していた呼称ではなく、平城京の現状を評価した呼称といえます。

なお、漢字「楢」は樹木の「ナラ」を意味するだけです。「ナラ」は、コナラやミズナラなどのブナ科の落葉広葉樹をひっくるめて言っている語句だそうです。雑木林を成す樹木の一つです。どこにでもある樹木であり、貴重なものの代名詞ではなさそうです。

⑭ 次に、題詞に留意して、歌本文を検討します。題詞を再掲します。

(2-1-79歌の題詞): 或本 従藤原京遷于寧楽宮時歌

(現代語訳(試案): 「或る別の記録にある、藤原京から新たな都城の宮(寧楽宮)に遷る頃の歌」(「7.③」より)

 題詞にある「藤原京」は、『日本書記』で表記する「新益京」であると諸氏は指摘しており、そうであれば作詠時点をこの題詞ははっきりと限定しています。歌本文にも、次の都城である平城京(『日本書記』での表記でもある)の造営の状況を示す語句もあり、整合しています。

しかし、題詞が示すように「藤原京から遷都」でも「明日香宮から遷都」でも、歌本文は、遷都する都城における「作家」を題材としていますので、歌の理解に影響を与えません。

また、「或本」と記し、2-1-78歌と元資料が異なることを明記しています。しかし、2-1-78歌と2-1-79歌の理解には、元資料が異なることを『萬葉集』巻一の配列方針より重視する必要はない、と思います。

このため、題詞に留意した2-1-79歌の理解は、題詞に留意しない理解である現代語訳(試案)79歌第1案で、よい、と思います。

ただ、一つの題詞のもとの2-1-79歌と2-1-80歌は、整合が取れた理解ができることは必要なことです。

このため、2-1-79歌の現代語訳(試案)の成案が79歌第1案である、と判断するのは、2-1-80歌の検討後まで保留します。

9.再考 類似歌 その7 「寧楽宮」の用例 2-1-80歌

① 2-1-80歌も、最初は題詞に留意せず、検討します。歌を再掲します。

2-1-80歌 青丹吉 寧楽乃家爾者 万代爾 吾母将通 忘跡念勿

あをによし ならのいへには よろづよに われもかよはむ わするとおもふな 

 左注に「右歌作主未詳」とあります。諸氏は、「右歌」とは2-1-79歌と2-1-80歌をさしていると指摘しています。

土屋氏の示す大意は、つぎのとおり。

「奈良の新しい家には、万代の後までも吾も通はう。忘れるとは思ふなよ。」

氏は、「長歌の大要を述べた程度で、感動の見るべきものもない。或いは長歌の意に答へる心持であらう」と指摘しています。

② 初句より順に検討します。

初句「青丹吉」(あをによし)は、当時既に「顔料や塗料の青土(あおに)が取れる「なら(の)やま」を褒めている趣旨を踏まえ、「ならのみやこ」を修飾しており、2-1-79歌では「なら」の万葉仮名を「楢」に替えて平城京の現状を評価した表現としていました。

「ならのいへ」は建築途上ですので、「楢乃家」でもよいところを、「なら」の万葉仮名を「寧楽」に替えています。

漢字「寧楽」は、漢字として「ねいらく」と読み、「安んじ楽しむ」意です(『角川大字源』)。『墨子』の「尚賢中」篇の「寧楽在君 憂慼在臣」(寧楽は君に在りて憂慼(いうせき)は臣に在り)を例にあげています(聖王の時代を例にあげ君臣の間が親密であったことを指している章句です)。

そうすると、「寧楽乃家」とは、完成した「いへ」を指している、と思います。

③ 完成した「ならのいへ」に対する「あをによし」という語句の褒める意・讃える意は、「よい材料が取れる」意から「青丹吉」の「青」と「丹」は色彩を指すものに転じて、中国様式の建物が並ぶはずの「ならのみや」の誉め言葉に替えたのではないか。「吉」の「よ」と「し」は、ともに感動・詠嘆を表す間投助詞です。そのように意味を転換していることを示すために、「なら」の表記に、「楢」や「奈良」ではない好字をあてているのではないか。

「寧楽」を「なら」と訓むのは2-1-79歌にある「楢之京師」があることから類推できるところです。

あるいは、「寧楽乃京師」という表記が既に定着していれば、それを修飾する語句「あをによし」を「青丹吉」と表記したイメージは色彩豊かなものに自然となるでしょう。

④ 『萬葉集』にある「おをによし」の用例27首を検討した太田蓉子氏は、

2-1-1642歌  巻第八 冬雑歌 天皇御製歌

青丹吉 奈良乃山有 黒木用 造有室者 雖居座不飽可聞 

(あをによし ならのやまなる くろきもち つくれるむろは ませどあかぬか)

の「あをによし」は、「ならのやま」を修飾している誉め言葉として用いられている、と指摘しています。

天皇とは天平元年(729)神亀元年(724)即位した聖武天皇なので、この歌の作詠時点は、「ならのみやこ」には大極殿や大寺院などきらびやかな建物が既にある頃であり、「あをによし」が「ならのやま」を修飾しています。「あをによし」という語句について、この頃既に「あを(青)」と「に(丹)」は色彩を指すという理解が並行してあったのでしょうか。 

⑤ 2-1-79歌にある「青丹吉 楢乃京師」を受けて、2-1-80歌は「青丹吉 寧楽乃家」と詠っています。

「あをによし」の意味を色彩中心に替えて「なら」の表記を「寧楽」に替えるならば、京師全体はともかくも 平城宮は瓦で葺くことから始まりきらびやかになるはずだから、「(色彩優先の意の)青丹吉と形容できる平城宮」の意に、「青丹吉 寧楽乃家」はなり得ます。

「あをに(よし)」の意を替えても替えなくても、「なら」の漢字を替えたことは、2-1-79にいう「作家」と表記した「家」の評価を替えたことになります。そして、2-1-80歌において、2-1-79歌に言う「家」の将来像を示したことにもなります。

三句~四句「よろずよにわれもかよはむ」は、2-1-79歌の「千代二手 来座多公与 吾毛通武」に応えた語句と理解できます。

そして、2-1-79歌と2-1-80歌が、同一の作詠者の歌であれば、それまでの主張・意見を2-1-80歌で念押ししています。五句「忘跡念勿」(わするとおもふな)でそれを徹底させています。

2-1-79歌を送られた人物が2-1-80歌で返歌をしたとすれば、要望に応えてその「家」に行こう、と答えた歌ということになります。五句「忘跡念勿」(わするとおもふな)とは、送られた人物が応諾したことを忘れない、ということです。

⑥ 以上から、題詞に留意していない上記「8.⑩」の2-1-79歌の現代語訳(案)79歌第1案を前提に、2-1-80歌の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 2-1-79歌と作詠者が同じ場合

「あをによしと形容されるような「ならの都城」のその「家」には

非常に長い年月にわたり、私も通おう。(そう誓ったことを)私が忘れるとは思うなよ。」(80歌第1案)

 2-1-79歌を送られた者の返歌である場合

「あをによしと形容されるような「寧楽の平城宮」になるべきその「家」には

長い年月にわたり、私も通おう。それを私が忘れるとは思うなよ。」(80歌第2案)

前者は、2-1-79歌で「楢乃京師」と評した者が、「寧楽の都城のその家」と表現していることになり、熟語「寧楽」の意は「安んじ楽しむ」意であることから、「平城京に作っている家」が「寧楽乃家」と評されるようになるまで、努力を惜しまないと、誓った私を忘れないでほしい、と訴えている歌となります。

後者は、「楢乃京師」と評した者へ、貴兄が作っている「家」が「寧楽の都城にふさわしい家」に(確実に)なるよう、これからも応援を続けるから、がんばれ、という趣旨の歌になります。

そして、どちらの場合も、作詠者は、その役職を限定できます。後者の場合は2-1-79歌の作詠者とほぼ同じ位階のものと推測できます。

⑦ 『萬葉集』には、長歌が、多くの場合反歌を伴って収載されています。

元資料にも長歌2-1-79歌と共に反歌2-1-80歌があり、それをそのまま収載したとすれば、長歌の趣旨を繰り返す前者が妥当です。「家」が未完の状況にあって目標である状態の家にするため、努力をする、と詠っていて、2-1-79歌と2-1-80歌は平仄があいます。

上記「8.⑫」において、2-1-79歌における「作家」という表記は、元々「作楢乃宮」ではなかったかと推理してみました。2-1-80歌での「家」も、元資料では、「あをによし」の意を(長歌の場合と同じとして)転換しないままで「青丹吉 楢乃京師爾者」という初句と二句であった可能性もあると思います。

さらに、「平城京」という新たな都城に対して、「楢乃京師」とか「寧楽乃京師」という表記が既に定着していたならば、2-1-79歌で「家」と称したので、「家」の完成形を示唆する評語になり得る「寧楽」字を用いて、2-1-80歌では「寧楽乃家まで」と詠ったほうが、長歌になじんだ反歌といえる、と思います。

例えば、2-1-17歌のように「寧楽乃家万代」、2-134歌のように「寧楽乃家左右」、と記し、作者の決意を表せます。 

⑧ 同音異義の語句を用いた相聞の歌は、勅撰集にはときどきあります。返歌をする作詠者が、同音異義の語句の意を替えて相手の意見・依頼などを、かわしたり、いなしたり、迫ったりしている歌です(『萬葉集』では未確認です。付記1.参照)。

「あをによし」の意の転換は、この2-1-79歌と2-1-80歌の作詠者が異なっている場合には有り得ることと思います。

但し、それは「或本」で既にされていたのか、それとも巻一編纂者が行ったのかは、今の所不明です。だから元資料の歌は、80歌第1案とも80歌第2案とも、決めかねるところです。

巻一の編纂者の意図をも含めた検討の際に確認します。なお、「あをによし」を無意の枕詞とみても、80歌第1案とも80歌第2案と同趣旨になります。 

⑨ 次に、題詞に留意した検討をします。同じ題詞のもとにある2-1-79歌にも留意するものとします(題詞と現代語訳(試案)は、上記「8.⑫」に再掲しました。)

 この題詞は、繰り返しますが、

第一に、時点を平城京遷都前後と、作詠時点を明らかにしている

第二に、「或本」と記し、2-1-78歌と出所が異なる歌ということを明記している

第三に、『萬葉集』における「藤原京」という表記の唯一の例。

という特徴があります。

第一については、2-1-80歌は、歌本文中に「青丹吉 寧楽乃家爾者」と詠い、「ならのいへ」とは平城京における屋敷・宮を意味しますので、作詠時点を造営中と限定できないものの、題詞が指定する時期の事柄を詠う歌であり、この語句から、題詞と歌本文とは、時期に関して整合性があります。

2-1-79歌も、歌本文中の語句から題詞のいう時期の事柄を詠う歌と確認できました。

第二については、2-1-79歌と同様に歌の理解に影響を与えません。2-1-80歌の理解が、80歌第1案でも80歌第2案でもどちらでも、歌の内容と題詞は整合がとれているといえます。 

⑩ 第三の、「藤原京」という表記は、「藤原宮」であっても、次の都城の造営を題材にしているこの歌の内容に影響しません。だから、「藤原京」という表記は、『萬葉集』の編纂に関わる事柄と見ざるを得ません。歌の内容のみから「藤原京」を「藤原宮の誤記である」と判断するのは早計です。

なお、左注に「作者未詳」とありますが、『日本書記』に平城京造営関係の記事もあることから、ほぼ推測できるのに作者名をあげていないので、単純に元資料の不備であるのか、巻一の編纂者の配慮であるのかは判断しにくいところです。 

⑪ さて、この二つの歌の題詞にある、「寧楽宮」の意の確認です。 

2-1-79歌と2-1-80歌は、一つの題詞のもとにある一対の歌であるので、その題詞とこの2首の歌の理解は一体であってしかるべきです。

この2首の作詠者は、「ならのみやこ」の「ならのいへ」の造営の進捗状況を題材にしています。それを修飾するのに共通の「あをによし」という語句を用いています。

前者は、2-1-79歌での「楢乃京師」、2-1-80歌での「寧楽乃家」と、共通の「なら」を、「楢」字と「寧楽」字とで書き分け、それだけで「京師」と「家」に対する評語の機能も果たしています。

そして、題詞にも「なら」と訓む語句はあります。この2首での「なら」字の対比をみると、評語の機能を題詞でも果たしているのではないか、と推測できるところです。

この2首にある「あをによし」という語句は、二つの意のある同音異義の語句であって、別々の意がこの2首に用いられているという理解が、題詞に留意しない歌の理解では可能でした。

そして、「寧楽宮」の意が「新しく造営している都城」である「平城京」の意であれば、題詞に留意した場合の理解も、題詞に留意しない場合の理解と同じになりました。

題詞にある「寧楽」字にも評語の意が加わっているならば、2-1-80歌の「家」と同じく、将来の完成形の「宮」を褒めていることになります。

「宮」は巻一において、天皇の代を象徴して「標目」に用いられている字ですので、将来の「宮」を「寧楽宮」と称し、ひいてはその宮で、立派に天下を治められる天皇を示唆することが可能になります。つまり、2首の歌では、「寧楽宮」字は、平城京の「平城宮」をさしていますが、題詞の「寧楽宮」は将来の宮をも意味している、と考えられます。

将来どこに新都が設けられようと、律令を作った人物の後裔が支配の拠点とするのに変わりありません。評語機能を生かした理解を「寧楽宮」にしても(将来の「寧楽宮」であっても)、天皇家に不都合は生じません。 

⑫ しかし、このような理解が、「寧楽宮」を明記する二つの題詞とこの3首において整合性を持ち、さらに、巻一全体の理解からも有力にならないと、「寧楽宮」は、「平城京に造営される「平城宮」相当(天皇の居住空間であり政策決定の空間でもある)内裏や大内裏相当部分相当)」の意だけであろう、と思います。

次回は、「寧楽宮」を明記する二つの題詞とこの3首から、編纂方針を検討したいと思います。

ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

(2021/11/1  上村 朋)

 

10.題二つと歌三つを一群の歌とみると

① 類似歌2-1-439歌の重要な参考歌(2-1-228歌)がある、『萬葉集』巻二の挽歌の、標目「寧楽宮」と同じ語句のある二つの題詞とそのもとにある歌三首により、「寧楽宮」に関して総合的な検討をします(題詞と歌本文は付記1.参照)。

 ここまでの検討で、三首の歌は、平城京遷都に関する歌であり、その題詞に留意して、次のように理解したところです。

2-1-78歌:1か月後には平城京への遷都の式典を挙げられることになった感慨の歌。

(2021/10/18付けブログ参照)

2-1-79歌:平城京造営の現場に詰めている官人の決意の歌。(2021/11/1付けブログ参照)

2-1-80歌:2案あり、2-1-79歌の反歌、あるいは、現場と一体となって造営を完成させると、上司の決意の短歌。(2021/11/1付けブログ参照)

 そして、「楢乃京師」と「寧楽乃家」が対比されていることなどから別の意もある歌と思えました。

② 遷都を詠った歌(歌群)は、「歌と天皇の関係」を整理した2021/19/4付けブログの付記3.の表Aによれば、巻一に3群あり、どの歌も「宮」を念頭に詠っています。

 近江への遷都に関する歌は、2-1-17歌~2-1-19歌であり、三輪山を詠むなど、去らねばならない土地への思いを詠んでいます。

 藤原京への遷都に関する歌は、「藤原宮之役民作歌」(2-1-50歌)と遷都後志貴皇子の明日香の風を詠う歌(2-1-51歌)と「藤原宮御井歌」(2-1-52歌~2-1-53歌)があり、みな新都奉祝の歌となっています。さらに旧都と新都との違いを詠う2-1-29歌~2-1-33歌も遷都時の式典用の歌と理解が可能です。配列は、2-1-29歌などを切り離して先に置き、そのほかの歌はまとめて配列しています。

 平城京への遷都に関する歌は、2-1-78歌~2-1-80歌であり、旧都(宮)に思いをはせる歌と、官人が造営の苦労を詠う歌です。2-1-80歌は、長歌である2-1-79歌に応えた短歌とみたほうが、全体で奉祝の意が強くなっていますが、『萬葉集』には反歌とある歌です。

 これらを通じて、遷都に関する歌に、天皇の歌を、巻一の編纂者は採用せず、作詠者や題材も重ならないようしているかにみえます。

③ 巻一の編纂者は、検討対象の題詞2題を標目「藤原宮御宇天皇代」の最後のほうに並べています。この「代」の配列順は、時系列とみえるので、次に、配列からの特徴をみてみたい、と思います。

 二つの題詞の共通点と異なる点を、これまでの検討結果から確認すると、

共通点は、

第一 作詠時点が平城京の造営時と、明記していること、

第二 作者名に言及していないこと、

第三 「遷」の時点以後の宮を「寧楽宮」と明記していること。

 異なる点は、

第十一 元の資料が異なることを「或本」という書き留め方で明記していること、

第十二 「遷」以前の都城あるいは宮をさす語句が異なること(「藤原宮」と「藤原京」)、

第十三 同時点の歌ではないこと(前の題詞は年月が明記してあり、後の題詞は省略されており時系列の配列であれば作詠年月が前の題詞以後を示唆している)

④ 次に、3首の歌の共通点と異なる点を確認すると、

 共通点は、

第五 「宮」の名を表記していないこと、

第六 作者名に関して割注あるいは左注があること、

第七 造営の進捗がはかばかしくないことを詠っていること。  

 異なる点は、

第十六 前の題詞のもとにある1首にだけ一云の語句が記されていること(異伝付記はこの1首)、

第十七 後の題詞のもとにある2首にだけ「家」を表記していること、

第十八 作詠した人物の官職が違うと推定できること。

 このようなことが指摘できます。

⑤ 二つの題詞の共通点である第一「作詠時点が平城京の造営時」と第二「「遷」の時点以後の宮を「寧楽宮」」明記は、この二つの題詞が一群を成す、ということを示ている、といえます。 

 そして、2-1-78歌の題詞は、年月の明記が、あきらかに歌の理解に資しています。遷都一か月前の歌である2-1-78歌は、遷都に最小限必要な建造物や広場の目途が立った頃と推測できます。

 しかし、2-1-79歌と2-1-80歌は、題詞に留意しなくとも理解でき、その頃の歌、というのが分かります。

 2-1-79歌は、役民の集め方から詠い、「家」の完成までには何度も視察を繰り返せる時間のあることを示しています。この内容は2-1-78歌の後のことを詠っていると限定できるでしょうか。

 一般に、プロジェクトの立ち上げ直後に苦労は集中するものです。平城京特に平城宮造営の工程では遷都の詔から2年後の遷都の時点までが一番苦労した時期であろうと思います。2-1-79歌とその元資料は、役民を集合させることから詠いはじめる歌の内容からみて、造営初期頃の歌であり、現場が本部に訴えた歌ではないか、と思います。すなわち、2-1-78歌以前に詠われたものだと思います。

 重要な建造物である大極殿のお披露目は、『日本書記』の記述からは7年後と推測でき、遷都の日取りはその完成を条件としないで決められているようです。遷都の日時の決定が、(藤原京の前例があるにもかかわらず)一般的な工程を前提とはなっていないかの印象を歌より受けるところです。

⑥ だから、この配列は、巻一の編纂者の編纂方針に従い、事実の発生順とは異なる順番になっている、と言えます。そして、これまでの検討で明らかなように、2-1-78歌が、遷都一か月前の状況を示す歌として、数ある伝承歌のなかから適切な歌を取り上げ加工した歌であるので、この2-1-78歌の題詞は、次の題詞と密接な関連を編纂者は持たせて記したか、と推測できます。

 二つの題詞の異なる点第十一「元の資料が異なることを「或本」という書き留め方で明記していること」は、「或本」ではない歌には確かな元資料があることを主張している言い方であり、2-1-78歌の元資料は2-1-79歌などよりも確かな存在であるかの印象を与えています。しかし2-1-78歌の元資料は明らかになっていません。

⑦ 次に、3首の歌の共通点である第五「「宮」の名を表記していないこと」と第七「造営の進捗がはかばかしくないこと」は、新たに造るどの都城の「宮」にも通用する歌(のはず)である、と編纂者が主張しているかに思います。どの時代でも、新都に遷都しようとする時点に過去を振り返ることはよくあることであり、また役民を存分に集めなければ新都はできません。

 次に、3首の歌の異なる点第十六「前の題詞のもとにある1首にだけ一云の語句が記されていること」は、配列が時系列でないことと関係があるのではないか。この歌は、四句と五句に注目してよい歌ということではないか。

「一云」(『萬葉集』原文は付記1.参照)について、土屋氏は『萬葉集私注巻一』では触れていません。

新日本古典文学大系1』では、

「一書に、「あなたのあたりを見ないでいられるだろうか」と言う。」

 と現代語訳しています。

⑧ 現代語訳を試みる前に、語句の意を確認します。

 「みず」とは、「見る」(上一段活用)の連用形に打消しの助動詞「ず」が付いた形です。「見る」の意は、「a視覚に入れる。見る。b思う。解釈する。c見定める。見計らう。」などがあります。

 「ても」は活用語の連用形につく接続助詞で、「仮定」の意であり、「たとえ・・・でも」となります。

 「か」は係助詞で、「疑い、問いかけ、反語」の意を添えます。

 「ある」とは、「あり」の未然形です。その意は、「aある。存在する。bその場に居合わせる c(時が)たつ。経過する。」の意があります。

 「見る」と「あり」と「か」は、それぞれ同音異義のある語句とみなせるほどその意は多岐にわたります。「見る」の意の違いだけでも、次のような現代語訳(試案)がいくつか考えられます。

 たとえ(あなたのあたりを)見ないままで 時が過ぎるだろうか、いやそうではない(必ず見ることになる)。(第1案)

 たとえ(あなたのあたりを)思わないままで、時がたつだろうか、いやそうではない(必ずあなたが注目される)。(第2案)

 たとえ(あなたのあたりを)見定めないままで、時がすぎるだろうか、いやそうではない(必ずあなたを注目するようになる)(第3案)

「か」の意を、上記の(試案)では反語としましたが、疑問の意とすれば、例えば、

(あなたのあたりを)見ないままで 時が過ぎてゆくのだろうか。(第11案)

となるなど(試案)が同数増えてしまいます。

⑨ このようにいろいろな理解が出来る句が「一云」の句であるということは、歌本文の理解は、題詞や配列をよく考えて改めて検討する必要があるのではないか、と思います。言い換えると、この「一云」の句の理解が1案になるなら、前後の歌の理解を助ける、と思います。

 2-1-78歌は、題詞を踏まえた場合の78歌第3案と理解しました(原文は付記1.参照)。

 2-1-78歌の現代語訳(試案)は、次のとおり。

題詞:「和銅三年庚戌春二月、平城京に遷都しようとしている頃に、(その造営の視察と激励に行きその帰りに、)御輿を長屋原に停め、休憩し、古い郷を遠くに望みみて作る歌」 (2021/10/18付けブログ 「6.⑭」より)

歌本文:「明日香の里(に何か)を置いて去ることになれば「きみがあたり」が見えなくなるだろう。(明日香の地を後にして、このような新たな都で日本を統(す)べるのだから、天武天皇の時代は遥か昔となりますね。)(78歌第3案)」(同ブログ「6.⑱」より)

⑩ これに対して 例えば、

 「明日香の里(に何か)を置いて去ることになればたとえ(あなたのあたりを)見ないままで 時が過ぎるだろうか、いやそうではない(必ず見ることになる)。」(上記第1案の場合)

 「明日香の里(に何か)を置いて去ることになればたとえ(あなたのあたりを)思わないままで、時がたつだろうか、いやそうではない(必ずあなたが注目される)。」(上記第2案の場合)

 

を検討すると、この2例では、明日香の里に置いたままにする「何か」は、天武天皇とか天武天皇の定めた方針とか思い出などが候補になります。

 78歌第3案では、「天武天皇の時代は遥か昔」と理解しましたが、題詞にある「寧楽宮」に「将来の宮」も含意しているとすれば、その発想は過去にも適用され、「天武天皇の定められたことには過去のことになったものもある」意などをも含意していることになります。

 78歌第3案は、そのため、「何か」を「思出」に替えたい、と思います。題詞は2021/10/18付けブログの現代語訳(試案)でよい、と思います。

 「明日香の里(に思出)を置いて去ることになれば「きみがあたり」が見えなくなるだろう。(明日香の地を後にして、このような新たな都で日本を統(す)べるのだから、天武天皇の時代は遥か昔となりますね。)」(78歌第4案)

 2-1-78歌は、時点が限定されていますが、続く2-1-79歌と2-1-80歌は今上天皇以降にも関する歌と理解してもよい、ということで、歌の配列はあくまでも時系列によっている、ということになります。

⑪ 次に、 二つの題詞の異なる点である、第十二「「遷」以前の都城あるいは宮をさす語句が異なること」は、「藤原宮」と限定しない理解を2-1-79歌と2-1-80歌に許している意であれば、上記⑤の趣旨(新しい都城造営にも通用する歌)とも一致します。

⑫ 次に、3首の歌の異なる点第十七「後の題詞のもとにある2首にだけ「家」を表記していること」は、平城京宮のひとつの建造物に関して「家」というのは不審です。ひとつの建造物だけが遷都の式典の妨げになっているとは信じられません。造営は、現代の住宅団地を造るのと同様に、基礎となる地盤をまとめて作り、建造物の規格を統一などして部材の効率的準備をするなどして建築にかかります。しかし、ひとつの建造物を例に進捗を示すという歌での工夫としては有り得ると思います。それでも、「寧楽宮」の意の拡張に資する表現となっています。

 また、漢字「宮」には、「6.③」(ブログ2021/10/18付け)に引用したように、「a大きな建物、bいえ・住居、c天子(またはきさき)のいるところ(皇居)、d先祖の御霊屋(みたまや)・宗廟e」等の意があります。

 「宮」とは、大きな「家」も言えるのであり、そうすると単なる歌での工夫ではなさそうです。

 (「楢乃京師」と表記した人物は、作詠時点の「京師」を評価して「楢」字を用いている、と前回(2021/11/1付けブログ「8.⑬」)で指摘しました。 そして「寧楽宮」と表記した人物は、「宮」を、評価して「寧楽」字を用いているのではないか。安んじることができ楽しみを共有できる「宮」とプラスに評価している(同「9.⑥」)と指摘しました。)

⑬ 次に、3首の歌の異なる点第十八「作詠した人物の官職が違うと推定できること」は、遷都の儀式に関する歌を収載していないので、柿本人麻呂のような作者に頼る必要がなく、造営に関する歌となれば色々な人物の歌となるのは、普通のことである、と思います。

 これは、題詞の共通点第二に関係し、題詞と歌本文のこれまでの検討から作詠者(の少なくとも官職)はほぼ判明しました。

2-1-78歌は、伝承歌を利用した歌でした。そして『萬葉集』巻一に収載している歌の実作者は不明です。

 2-1-79歌の作者は、「8.⑨」で指摘したように平城京造営において現場を担当したものと特定できます。だから2-1-80歌が反歌であれば当然に、また2-1-80歌が答歌であっても特定できます しかし、事実の発生順という配列を装うのであれば、作詠者を明らかにするのは歌の内容を限定しすぎてしまい、巻一の編纂者は伏せざるを得なかったのではないか、と思います。

⑭ さて、ブログ2021/10/25付け(「7.③」)で宿題となっていた2-1-79歌と2-1-80歌の題詞を(歌本文の検討が一応終わりましたので)、2-1-78歌の題詞を念頭に、再検討します。

 題詞の現代語訳(試案)は、

 「或る別の記録にある、藤原京から、新たな都城における私にとって「寧楽」となるはずの宮に、遷る頃の歌」(「7.③」参照)

ということとして、歌本文の検討をしてきました。

 3首がひとつの歌群を成していれば、2-1-78歌の題詞の次に配列したことにより、

 「或る別の記録をここに引用する。(天皇が)藤原京(の藤原宮)から(平城京の)「寧楽宮」に遷る頃の歌」(79&80題詞改定(案))

という意になっている、とみることができます。「寧楽」となるはずの宮の意が含意しても構わないところです。

 題詞の「或本」を除いた部分は、現代で言えば、「今の町(のこの家)から(今より便利と言われる)ニュータウンの(新しい)家に移る時の歌」という表現と同じであり、言葉足らずの表現かもしれませんが、意は通じまた移ろうと決定した指導者を非難した意はありません。

 上記⑤で指摘した「新しい都城造営にも通用する歌」としても矛盾しません。

⑮ しかしながら、一つの歌群のなかで、「従藤原宮・・・」とある2-1-78歌と比較できるように2-1-79歌では「従藤原京・・・」としているので、何か意味を込めている、と思います。支障ないというような消極的な理由ではなく積極的な理由から「藤原京」という表現を、編纂者は是としたのだと思います。

 漢字「京」の意を確認すると、次のとおりです(『角川大字源』)。

京:a高い丘・大きい丘 bたかい cおおきいdみやこ・君主の居城のある土地 e方形の大きな穀物倉庫 f数の単位 など

 藤原宮より藤原京藤原京より藤原宮は当然広いエリアを意味します。藤原宮からは天皇が新しい都城の住居に移られますが、藤原京から移るとは、そのほかの誰かが移られるのを示唆しているのでしょうか。(平城京を含めて)新しい都城の「宮」を、「寧楽宮」と言っているのであれば、今上天皇以外の誰かが新しい都城の主となる可能性を認めた言い方と言えます。移る前のその人物の住居は「宮」ではないという意味で「家」と表記するのはおかしくありません。このような含意があるのではないか。

 ちなみに、漢字「遷」とは、

 第一 うつす・うつる: aのぼる・高いところに上がる b地位官職などがかわる 普通栄転をいうcうごく・移動するdしりぞく・さるeばらばらになる

第二 うつす:aうごかす bかえる・あらためるcしりぞける・追放する

であり、熟語には、

遷御・遷幸:天子が宮城からでてよそに移る

遷喬:鳥が深い谷間から出て高い木に移る。転じて官位の昇進のたとえ。

 このほか、遷移、遷都、遷人をあげ、2-1-50歌の左注や2-1-51歌の題詞にある「遷居」はありませんでした。

 また、漢字「遷」の第一義に関して、同訓異義として、「移」は「うつしかえ。うつりかわる。元来は、苗を植えかえること。」、「徒」は「その場所を立ちのいて、うつる。転居する意、うつす・うつる。」、「遷」は 「位置をかえてうつる。官職や場所についてひろくいう。」という違いがあるそうです。

⑯ 2-1-78歌の題詞中の「藤原宮」に対して、2-1-79歌と2-1-80歌の題詞中の「藤原京」に違和感が少々生じていても、「寧楽宮」の意が同じであれば、この順序に配列することにより、「平城遷都にあたっての歌」という共通の理解が2-1-78歌から1-1-80歌に生じています。そして、題詞にある「寧楽宮」に含意していることに応じた歌の理解がこれにより、検討してきたように可能となっています。

 だから、題詞に漢字の「寧楽」と「宮」の意を利用しているのは、意識的なものであろう、と思います。そうすると、「寧楽宮」という表記は、平城京遷都にあたり当時一般的に用いられていたから可能であった、と言えます。「藤原京」が「藤原宮」の誤字と認めて理解するのは、早計だと思います。

⑰ 「寧楽宮」という語句に二つの意が生じ得ることを前提に、題詞を対のように配列したのは、巻一の編纂者の意図であろう、と思います。

 このような題詞のもとにある歌として、現代語訳(試案)は、2-1-79歌は「79歌第1案」になり、2-1-80歌は「あをによし」の意を転換して「寧楽乃家」を修飾しているとみて、長歌に応答した歌(「80歌第2案」即ち短歌)でよいとみえますが、「反歌」とされているのを無視できない、と思います。

 2-1-78歌と(応答した短歌あるいは長歌反歌のどちらでも)2-1-80歌は、藤原京造営時の「藤原宮之役民作歌」(2-1-50歌)と同じように、懸命に造営事業を推進した様子を記し、新たな都を寿ぐ歌となっています。

 だから、「遷都造営の労苦をはげましあう歌謡」とか「かわらぬ奉仕を誓っている歌」とか「君臣和楽の思想から喜び進んで新しい都を造っている様子を述べる(歌)」という見方も可能となっています。

 『萬葉集』巻一は、編纂された歌集です。その編纂者の意図は標目と題詞と歌の配列とに反映しているはずです。歌の理解は、元資料の歌ではなく、巻一編纂の意図に添う歌として解釈しなければなりません。

 だから、元資料からみれば、意味の転換(あるいは追加)をしている歌もあるはずです。

⑱ ここまでの検討で、2題3首は一群の歌と捉えて、理解してよい、ということになりますので、現代語訳(試案)は、

 2-1-78歌は、題詞が2021/10/18付けブログ「6.⑭」記載の「(試案)」、歌本文は「78歌第3案」となります。

 また、2-1-79歌は、題詞が上記⑭に示す「79&80題詞改定(案)」、歌本文は「79歌第1案」、その返歌である2-1-80歌の歌本文は、反歌とあるので、「80歌第1案」(2021/11/1付けブログ「9.⑥」参照)

という理解がよい、と思います。

 題詞が、元資料の段階で題詞が歌に附してあったかとなると、疑問であり、『萬葉集』巻一の編纂時(またはその補充の編纂時)の可能性が、あります。だから、その時点で2-1-80歌は、「あをによし ならのいへ」の意を替えたもう一つの歌である「80歌第2案」を兼ねたかもしれません。

 場合によっては『萬葉集』が公けにされたであろう時点(例えば平城天皇の御代)ということも有り得ることになります。

 題詞にある「寧楽宮」が、歌にある「楢乃京師」の「平城宮」を指しているのは誤りではありません。2-1-78歌の題詞と歌本文で理解した平城京大内裏等相当部分を意味する用語「寧楽宮」という理解と同じです。

 そして、漢字の意を十分わきまえている当時の文化人人が歌を記録し編纂しているのだから、題詞にある「寧楽」には二重の意味を持たせることは十分可能なことです。

 そして、巻一の編纂者は、同一の語句は、その編纂物ではどこでも同じ意であるのが原則としている、と思います。

⑲ 「寧楽宮」と明記のある題詞とそのもとにある歌3首を検討し、「寧楽宮」を総合的に検討したところ、次のことが分かりました。

第一 「なら(の)やま」と呼んでいた奈良山丘陵に近い都城の意で「ならのみやこ」と平城京は計画段階から呼ばれていた可能性がある。

第二 その呼び方が先行してあったから、「楢乃京師」や「寧楽宮」という表記がうまれたのではないか。

第三 「寧楽」は熟語として「安んじ楽しむ」の意がある。「楢」と対にされ、評語として歌で用いられている。

第四 「寧楽宮」は、「平城京平城宮」を意味するとともに、「(将来において)安んじ楽しめる宮」の意も編纂者は含ませている。

第五 題詞にある「藤原京」は、遷る人物が天皇以外の人物も遷る、ということを訴えている。

第六 この2題3首での「寧楽宮」の意味するところは、巻一と巻二の標目「寧楽宮」に反映しているのではないか。

第七 「あおをによし」の意が「寧楽」字に掛かるためには、2-1-80歌はきっかけとなり得る歌である。

第八 配列を考慮し、「楢」と「寧楽」の対比を考えると、現代語訳(試案)は、諸氏の示すものと異なる理解となった。

「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。                                                                                          

 題詞にある「寧楽」という語句・「なら」と訓む語句の用例は、このほかの歌にもあります。次回からはそこでの「寧楽」の意も確認し、2題3首の検討結果を再確認したい、と思います。

 (2021/11/8   上村 朋)

付記1. 『萬葉集』の本文(2-1-78歌~2-1-80歌)

2-1-78歌 和銅三年庚戌春二月従藤原宮遷于寧楽宮時御輿停長屋原逈望古郷作歌 

 飛鳥 明日香能里乎 置而伊奈婆 君之当者 不所見香聞安良武 一云 君之当乎 不見而香毛安良牟

とぶとりの あすかのさとを おきていなば きみがあたりは みえずかもあらむ  一に云う きみがあたりをみずてかもあらむ

2-1-79歌  或本 従藤原京遷于寧楽宮時歌

天皇乃 御命畏美 柔備尓之 家乎択 隠国乃 泊瀬乃川尓 舼浮而 吾行河乃 川隈之 八十阿不落 万段 顧為乍 玉桙乃 道行晩 青丹吉 楢乃京師乃 佐保川尓 伊去至而 我宿有 衣乃上従 朝月夜 清尓見者 栲乃穂尓 夜之霜落 磐床等 川之水凝 冷夜乎 息言無久 通乍 作家尓 千代二手 来座多公与 吾毛通武

おほきみの みことかしこみ にきびにし いへをおき こもりくの はつせのかはに ふねうけて わがゆくかはの かはくまの やそくまおちず よろづたび かへりみしつつ たまほこの みちゆきくらし あをによし ならのみやこの さほがはに いゆきいたりて わがねたる ころものうへゆ あさづくよ さやかにみれば たへのほに よるのしもふり いはとこと かはのひこり さむきよを やすむことなく かよひつつ つくれるいへに ちよまでに いませおほきみよ われもかよはむ

注)最後の七句は、土屋文明氏に従い、つぎのような訓で検討している(2021/10/25付けブログ「7.⑩と⑪参照」)。

「さむきよを いこふことなく かよひつつ つくれるいへに ちよまでに きませまねくきみ われもかよはむ」

2-1-80歌 青丹吉 寧楽乃家爾者 万代爾 吾母将通 忘跡念勿

あをによし ならのいへには よろづよに われもかよはむ わするとおもふな 

 左注に「右歌作主未詳」とある。

(付記終わり  2021/11/8   上村 朋)

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 誰が79歌を詠ったか

 前回(2021/10/25)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 寧楽宮とは その2」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 誰が79歌を詠ったか」と題して、記します。(上村 朋)

1.~7.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行い、3-4-23歌まではすべて恋の歌であることを確認した。3-4-24歌については類似歌(『萬葉集』の歌)の検討として、『萬葉集』巻一と巻二の構成を引き続き検討している。なお、歌の引用は『新編国歌大観』による。)

8.再考 類似歌 その6 「寧楽宮」の用例 2-1-79歌その2

① 『萬葉集』歌での題詞にある「寧楽宮」表記の例を、今回も確認します。

 類似歌2-1-439歌の重要な参考歌(2-1-228歌)がある、『萬葉集』巻二の挽歌の、標目「寧楽宮」に関して検討中です。2-1-79歌と2-1-80歌の題詞と歌本文を引き続き検討し、そして題詞にある「寧楽宮」という表記の意味を考えます。

 前回、題詞に留意せずに行った2-1-79歌(多分元資料の歌となります)の検討で、初瀬川の舟運を利用した藤原宮から新都造営地への資材の運搬はあり得ず、次の四つの疑問が残りました。

第一 誰が詠っているか:歌本文全体にわたって作中人物は共通か

第二 結句の「吾毛通武」という作中人物と「きみ」の関係:不明

第三 「作家」の現状:造作途中の家を意味しているのではないか

第四 「千代二手」の理解:「千代」の期間に何が起こると予想しているか

 

② 歌本文を再掲します。

2-1-79歌  天皇乃 御命畏美 柔備尓之 家乎択 隠国乃 泊瀬乃川尓 舼浮而 吾行河乃 川隈之 八十阿不落 万段 顧為乍 玉桙乃 道行晩 青丹吉 楢乃京師乃 佐保川尓 伊去至而 我宿有 衣乃上従 朝月夜 清尓見者 栲乃穂尓 夜之霜落 磐床等 川之水凝 冷夜乎 息言無久 通乍 作家尓 千代二手 来座多公与 吾毛通武

おほきみの みことかしこみ にきびにし いへをおき こもりくの はつせのかはに ふねうけて わがゆくかはの かはくまの やそくまおちず よろづたび かへりみしつつ たまほこの みちゆきくらし あをによし ならのみやこの さほがはに いゆきいたりて わがねたる ころものうへゆ あさづくよ さやかにみれば たへのほに よるのしもふり いはとこと かはのひこり さむきよを やすむことなく かよひつつ つくれるいへに ちよまでに いませおほきみよ われもかよはむ

③ 最後の七句は、土屋文明氏に従い、つぎのような訓で前回検討しています(2021/10/25付けブログ「7.⑩と⑪参照」)。また四句も氏の訓によっています。

「さむきよを いこふことなく かよひつつ つくれるいへに ちよまでに きませまねくきみ われもかよはむ」

氏の大意:「かくのごとく寒い夜をも休むこともせず、通ひ来たって作った家に、千代の後までも来給へよしばしば君、吾も通はう」。

これに対して、上記①の第二から第四の疑問が生じたところです。

④ 最初に、2-1-79歌全体の構成を見直します。

 借訓もある万葉仮名です。官人が業務で使う文体は漢文であるので、その助字の意も生かして歌を書き留めているのではないか、と想定できます。この歌には、助字である「乃」、「之」、「乃」、「尓(爾)」、「而」、「乍」「之」「乍」 などが「万葉仮名」として用いられています。  例えば、

天皇)乃 :(aすなわち(心理的屈折、摩擦、抵抗感などを経ての接続を示す)。bなんじ・なんじの。cその(指示代名詞)。) 

(柔備尓)之 :(aの(修飾・被修飾の限定など。主述句を作る)。 b代名詞(これ・これが。この)。) 

(泊瀬乃川)尓 :(aなんじ(代名詞) bしかり かくのごとし cこの(=此) dのみ(=耳))  

(舼浮)而、(伊去至)而: (aしかうして。  しかも。 しかるに。 しかるを。bすなわち(=乃)。 cなんじ(代名詞)。 dもし(=如)。 eごとし(=如))。 

(顧為)乍: (aたちまち。bあるいは。) 

(衣乃上)従 :(aより(動作・行為の始まる時間的空間的基点を示す)。bしたがって。cたとひ。)

(冷夜)乎:(a前置詞(=於) b他の語について状態を表す語となる接尾辞。 c疑問・詠嘆・反語の語気を表す(か や かな)。

(来座多公)与: (aと。bともに。cために。dおいて、おける。eよりは。f疑問・反語・詠嘆の語尾(か。や。かな。 gみな。 ことごとく(=挙)。) 

⑤ 2-1-79歌の構成を、前回、作中人物が造営中の平城京において「家を作った」歌と理解して、6部よりなる、と整理しました。上記①の第一の疑問を解消すべく、助字に留意し、再度作中人物は単数である、として検討してみます。

 その構成の第一は 「初句~二句」(天皇乃 御命畏美)であり、歌の発端を詠っています。格助詞「の」という発音を書き留めるのに用いている「乃」字は、助字として「心理的屈折、抵抗感などを経た接続、という意の「即ち」でもあります。「天皇乃御命」に抵抗を感じるのは庶民にはあるでしょう。官人は表に出すのは絶対憚っていると思いますので、「乃」字は、素直にその「音」を書き留めているのではないか。

 この歌に格助詞「の」を「乃」字表記したのは7カ所もあり、すべてそのように理解できました。

⑥ その第二は、「三句~十八句」であり、平城京造営地への移動の状況を詠っています。「天皇乃御命」は、官人はじめ万民に発せられていますので、複数の者が、これにより行動を起こしています。あるいは行動を余儀なくされています。平城京の造営は一大プロジェクトであり、多数の人が集まることになります。三句以下はその行動する人達を描写しているのではないか。

 四句「家乎択」とは、必要な職種や人数を考慮して役民を集める、という官人の行動(役民からみれば運悪く選ばれて)を指しているのではないか。

 新都造営は長期にわたるものであり、前回の2021/10/25付けブログ「7.⑤」で指摘したように庶民には嫌われています(『続日本紀』の、和銅2年冬10月庚戌(28日)詔や和銅4年9月丙子(4日)勅参照)。人員の確保などに苦労したはずです。個人はもちろん出身集落などに補填も必要であったと思います。そのため特記しているのが四句「家乎択」ではないか、と思います(土屋氏の理解を支持するところです。)

 五句からの「隠国乃 泊瀬乃川尓 舼浮而」とは、舟運のある地域からは、船や筏など持参させたのでしょうか。奈良山丘陵で製造した瓦は佐保川を利用して平城京造営地に運ばれています。

 八句からの「吾行河乃・・・顧為乍・・・佐保川尓 伊去至而」とは、船や筏などを上流に遡らせる人達に関して詠っているのではないか。流水路が曲がりくねる箇所など監視が行き届かなくなるところでの脱走があったのでしょうか。十三句からの「玉桙乃 道行晩」の黄昏も脱走の機会であったのでしょう。だから官人は行動を共にしなければならなかったのでしょうか。

⑦ その第三は、十九句~二十七句であり、到着した平城京造営地の景を詠います。宿泊所の居住環境の貧しさを詠っています。 役民にとっても官人にとってもそこは臨時の宿舎であり、家族と住む家ではありません。

 その第四は、二十七句~三十句であり、平城京造営地にいる作中人物の行動を詠います。

 二十七句と二十八句で、休日も無い労働環境を詠い、二十九句と三十句で、運搬路の確保や建物の基礎作りや部材造りなどすべての作業をひっくるめて「作る」と表現し、「家」の完成を目指しています。上記①の第三の疑問に該当していると思います。必死に現場は動いている、という訴えにもとれます。

⑧ その第五は、三十一句~三十二句(千代二手 来座多公与)であり、「行動の目的を詠う」と前回みましたが、平城京造営事業の本部と現場との軋轢を詠っているのではないか。

 進捗を気にする本部に対して視察にこれからも度々来て理解してくれ、と現場を預かる者が、訴えているのではないか、と思います。

 作中人物は、その「家」の利用者を待っているのではありません。  

 その第六は、三十二句(結句「吾毛通武」)であり、作中人物の決意を詠っています。作中人物は家に通うのではなく、家を作っている現場に通う、という決意を述べています。

⑨ このように、2-1-79歌が、6部からなることは変わりありませんでした。

長歌は、誰か一人の立場で作詠されているはずなので、作中人物がこの歌で訴えたいことが結句にあるので、「現場に通う」のは誰かと言うと、役民と現場を監理・監督・指揮をする官人が第一候補となり、中でも、一大プロジェクトの進捗に関する意見対立が歌に伺えるので、現場の官人が詠った歌である、と思います。

 すなわち、6部構成の第一は、平城京造営の現場を預かる者(複数)が、下命を受けたことを述べ事業のスタートを示し、第二から、労働力の調達と、思わしくない居住環境と、それでも、役民や自分達も必死に働き、ここまでこぎつけたという現状を訴え、精度を落とさず急がす方法を、激励慰労を兼ねて、現場に足を運び、一緒によく考えてくれ、というのがこの歌の趣旨ではないか、と思います。

 例えば、造営期間が長いので役民は交代することになるので、その節目節目に激励し、所用の役民数がいつも確保できる対策などの提案に付した歌、とも理解できます。

 また、作者は特定できるはずです(歌を実際に代作した人物の特定はなかなか難しいとしても)。

⑩ 以上の検討から、現代語訳を、題詞には留意せず、結句の作中人物が詠う歌として、試みると、つぎのとおり。

「大君の 御命令を慎んで承り、

(造営の各段取りに応じて)馴れている集落から人を選び

こもりくのと昔から言われる初瀬川沿いの集落からは舟運用の船やその材料を調達し、それを岸から曳く人々が河川の流水の蛇行に従い散らないよう見返りつつ確認し、また路の暮れるまで進み、「あをによし」と形容されるような状況の「ならのみやこ」の佐保川のほとりに(私は人々と共に)たどり着いた。

 (そこには宿舎が設けてあるが、)私の寝た衣の上から、朝の月の光にはっきり見ると、白い木綿のように夜の霜がふり、石の床のように川の水が凍っている。

そして、このような寒い夜を過ごしても休むこともなく、

(人々と私が)現場に通い、作っている「家」(はまだまだ途上)であるので、これからも長い年月の間には、貴方に見に来てほしい。

私も現場の監理・督促に(これからも)倦まず行こうと思っている。」(79歌第1案) 

 

⑪ 「あをによし」とは、奈良山の辺りで(青色の顔料にする)「あを(青)に(土)」を採取していたことから、奈良(山)を修飾する形容句ですが、「そのならやまに近い都城」とつなげ、造成が始まったばかりで都城の体をまだ成していない「ならのみやこ」を修飾しています(2021/10/18ブログの付記1.参照)。

 瓦製造に関して技能者が全国から集められているように、当時の一大プロジェクトである平城京造営は、多くの職能にわたる人達を必要としていました。現場は集落自体が移転してきたような状況も生じていたのでしょう。施工の質、工程、資材調達、宿舎運営などで官人も気の抜けない大変な毎日をおくっていたと思います。 役民の誰か一人の作詠という歌ではありません。

⑫ このように理解できましたので、上記①の疑問の答えは、

第一は、現場監督の立場の官人(という役職の人物)、

第二は、官人組織の出先機関と本部という関係、

第三は、造作途中の家(広く造営事業)、

第四は、「千代」という期間に本部の適切な指導激励(優遇措置も)を度々いただきたい、

となりました。

 題詞に留意しない歌の理解は、元資料の歌の理解となっているのではないかと思います。

 元資料の歌では、「作家」という語句は「楢乃京師」に合わせたて「作楢乃宮」という語句であった歌かもしれません。平城宮が立地するあたりの造営の進捗が作詠時点では、実際楢の樹木にまだ囲まれている段階であったと推測します。

⑬ さて、歌本文にある「(青丹吉) 楢乃京師(乃)」の意の確認です。作詠者の助字の用い方をみれば、平城京造営中の状況を「楢乃京師」と評価して都城名として歌で用いたのではないか、と思います。

 平城京造成地は、もともと水田と集落を落葉樹林が北側から囲う地域であり、集落も燃料その他の利用のため近くの落葉樹林を大切にしていたと思います。

 平城京には、奈良山丘陵に近いことからの「奈良乃京師」(ならのみやこ)という呼称と表記が既にあり、それに「落葉樹林がみえる建設途上の都城」の意を、おなじ「なら」の音で歌に用いて表現している、と思います。平城京の別の表現として定着していた呼称ではなく、平城京の現状を評価した呼称といえます。

 なお、漢字「楢」は樹木の「ナラ」を意味するだけです。「ナラ」は、コナラやミズナラなどのブナ科の落葉広葉樹をひっくるめて言っている語句だそうです。雑木林を成す樹木の一つです。どこにでもある樹木であり、貴重なものの代名詞ではなさそうです。

⑭ 次に、題詞に留意して、歌本文を検討します。題詞を再掲します。

(2-1-79歌の題詞): 或本 従藤原京遷于寧楽宮時歌

(現代語訳(試案): 「或る別の記録にある、藤原京から新たな都城の宮(寧楽宮)に遷る頃の歌」(「7.③」より)

 題詞にある「藤原京」は、『日本書記』で表記する「新益京」であると諸氏は指摘しており、そうであれば作詠時点をこの題詞ははっきりと限定しています。歌本文にも、次の都城である平城京(『日本書記』での表記でもある)の造営の状況を示す語句もあり、整合しています。

 しかし、題詞が示すように「藤原京から遷都」でも「明日香宮から遷都」でも、歌本文は、遷都する都城における「作家」を題材としていますので、歌の理解に影響を与えません。

 また、「或本」と記し、2-1-78歌と元資料が異なることを明記しています。しかし、2-1-78歌と2-1-79歌の理解には、元資料が異なることを『萬葉集』巻一の配列方針より重視する必要はない、と思います。

 このため、題詞に留意した2-1-79歌の理解は、題詞に留意しない理解である現代語訳(試案)79歌第1案で、よい、と思います。

 ただ、一つの題詞のもとの2-1-79歌と2-1-80歌は、整合が取れた理解ができることは必要なことです。

 このため、2-1-79歌の現代語訳(試案)の成案が79歌第1案である、と判断するのは、2-1-80歌の検討後まで保留します。

9.再考 類似歌 その6 「寧楽宮」の用例 2-1-80歌

① 2-1-80歌も、最初は題詞に留意せず、検討します。歌を再掲します。

2-1-80歌 青丹吉 寧楽乃家爾者 万代爾 吾母将通 忘跡念勿

あをによし ならのいへには よろづよに われもかよはむ わするとおもふな 

 左注に「右歌作主未詳」とあります。諸氏は、「右歌」とは2-1-79歌と2-1-80歌をさしていると指摘しています。

 土屋氏の示す大意は、つぎのとおり。

「奈良の新しい家には、万代の後までも吾も通はう。忘れるとは思ふなよ。」

氏は、「長歌の大要を述べた程度で、感動の見るべきものもない。或いは長歌の意に答へる心持であらう」と指摘しています。

② 初句より順に検討します。

 初句「青丹吉」(あをによし)は、当時既に「顔料や塗料の青土(あおに)が取れる「なら(の)やま」を褒めている趣旨を踏まえ、「ならのみやこ」を修飾しており、2-1-79歌では「なら」の万葉仮名を「楢」に替えて平城京の現状を評価した表現としていました。

 「ならのいへ」は建築途上ですので、「楢乃家」でもよいところを、「なら」の万葉仮名を「寧楽」に替えています。

 漢字「寧楽」は、漢字として「ねいらく」と読み、「安んじ楽しむ」意です(『角川大字源』)。『墨子』の「尚賢中」篇の「寧楽在君 憂慼在臣」(寧楽は君に在りて憂慼(いうせき)は臣に在り)を例にあげています(聖王の時代を例にあげ君臣の間が親密であったことを指している章句です)。

 そうすると、「寧楽乃家」とは、完成した「いへ」を指している、と思います。

③ 完成した「ならのいへ」に対する「あをによし」という語句の褒る意・讃える意は、「よい材料が取れる」意から「青丹吉」の「青」と「丹」は色彩を指すものに転じて、中国様式の建物が並ぶはずの「ならのみや」の誉め言葉に替えたのではないか。「吉」の「よ」と「し」は、ともに感動・詠嘆を表す間投助詞です。そのように意味を転換していることを示すために、「なら」の表記に、「楢」や「奈良」ではない好字をあてているのではないか。

 「寧楽」を「なら」と訓むのは2-1-79歌にある「楢之京師」があることから類推できるところです。

 あるいは、「寧楽乃京師」という表記が既に定着していれば、それを修飾する語句「あをによし」を「青丹吉」と表記したイメージは色彩豊かなものに自然となるでしょう。

④ 『萬葉集』にある「おをによし」の用例27首を検討した太田蓉子氏は、

2-1-1642歌  巻第八 冬雑歌 天皇御製歌

青丹吉 奈良乃山有 黒木用 造有室者 雖居座不飽可聞 

(あをによし ならのやまなる くろきもち つくれるむろは ませどあかぬか)

の「あをによし」は、「ならのやま」を修飾している誉め言葉として用いられている、と指摘しています。

  天皇とは神亀元年(724)即位した聖武天皇なので、この歌の作詠時点は、「ならのみやこ」には大極殿や大寺院などきらびやかな建物が既にある頃であり、「あをによし」が「ならのやま」を修飾しています。「あをによし」という語句について、この頃既に「あを(青)」と「に(丹)」は色彩を指すという理解が並行してあったのでしょうか。 

⑤ 2-1-79歌にある「青丹吉 楢乃京師」を受けて、2-1-80歌は「青丹吉 寧楽乃家」と詠っています。

 「あをによし」の意味を色彩中心に替えて「なら」の表記を「寧楽」に替えるならば、京師全体はともかくも 平城宮は瓦で葺くことから始まりきらびやかになるはずだから、「(色彩優先の意の)青丹吉と形容できる平城宮」の意に、「青丹吉 寧楽乃家」はなり得ます。

 「あをに(よし)」の意を替えても替えなくても、「なら」の漢字を替えたことは、2-1-79にいう「作家」と表記した「家」の評価を替えたことになります。そして、2-1-80歌において、2-1-79歌に言う「家」の将来像を示したことにもなります。

 三句~四句「よろずよにわれもかよはむ」は、2-1-79歌の「千代二手 来座多公与 吾毛通武」に応えた語句と理解できます。

 そして、2-1-79歌と2-1-80歌が、同一の作詠者の歌であれば、それまでの主張・意見を2-1-80歌で念押ししています。五句「忘跡念勿」(わするとおもふな)でそれを徹底させています。

 2-1-79歌を送られた人物が2-1-80歌で返歌をしたとすれば、要望に応えてその「家」に行こう、と答えた歌ということになります。五句「忘跡念勿」(わするとおもふな)とは、送られた人物が応諾したことを忘れない、ということです。

⑥ 以上から、題詞に留意していない上記「8.⑩」の2-1-79歌の現代語訳(案)79歌第1案を前提に、2-1-80歌の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 2-1-79歌と作詠者が同じ場合

「あをによしと形容されるような「ならの都城」のその「家」には

非常に長い年月にわたり、私も通おう。(そう誓ったことを)私が忘れるとは思うなよ。」(80歌第1案)

 2-1-79歌を送られた者の返歌である場合

「あをによしと形容されるような「寧楽の平城宮」になるべきその「家」には

長い年月にわたり、私も通おう。それを私が忘れるとは思うなよ。」(80歌第2案)

 前者は、2-1-79歌で「楢乃京師」と評した者が、「寧楽の都城のその家」と表現していることになり、熟語「寧楽」の意は「安んじ楽しむ」意であることから、「平城京に作っている家」が「寧楽乃家」と評されるようになるまで、努力を惜しまないと、誓った私を忘れないでほしい、と訴えている歌となります。

 後者は、「楢乃京師」と評した者へ、貴兄が作っている「家」が「寧楽の都城にふさわしい家」に(確実に)なるよう、これからも応援を続けるから、がんばれ、という趣旨の歌になります。

 そして、どちらの場合も、作詠者は、その役職を限定できます。後者の場合は2-1-79歌の作詠者とほぼ同じ位階のものと推測できます。

⑦ 『萬葉集』には、長歌が、多くの場合反歌を伴って収載されています。

 元資料にも長歌2-1-79歌と共に反歌2-1-80歌があり、それをそのまま収載したとすれば、長歌の趣旨を繰り返す前者が妥当です。「家」が未完の状況にあって目標である状態の家にするため、努力をする、と詠っていて、2-1-79歌と2-1-80歌は平仄があいます。

 上記「8.⑫」において、2-1-79歌における「作家」という表記は、元々「作楢乃宮」ではなかったかと推理してみました。2-1-80歌での「家」も、元資料では、「あをによし」の意を(長歌の場合と同じとして)転換しないままで「青丹吉 楢乃京師爾者」という初句と二句であった可能性もあると思います。

 さらに、「平城京」という新たな都城に対して、「楢乃京師」とか「寧楽乃京師」という表記が既に定着していたならば、2-1-79歌で「家」と称したので、「家」の完成形を示唆する評語になり得る「寧楽」字を用いて、2-1-80歌では「寧楽乃家まで」と詠ったほうが、長歌になじんだ反歌といえる、と思います。

 例えば、2-1-17歌のように「寧楽乃家万代」、2-134歌のように「寧楽乃家左右」、と記し、作者の決意を表せます。 

⑧ 同音異義の語句を用いた相聞の歌は、勅撰集にはときどきあります。返歌をする作詠者が、同音異義の語句の意を替えて相手の意見・依頼などを、かわしたり、いなしたり、迫ったりしている歌です(『萬葉集』では未確認です。付記1.参照)。

 「あをによし」の意の転換は、この2-1-79歌と2-1-80歌の作詠者が異なっている場合には有り得ることと思います。

 但し、それは「或本」で既にされていたのか、それとも巻一編纂者が行ったのかは、今の所不明です。だから元資料の歌は、80歌第1案とも80歌第2案とも、決めかねるところです。

 巻一の編纂者の意図をも含めた検討の際に確認します。なお、「あをによし」を無意の枕詞とみても、80歌第1案とも80歌第2案と同趣旨になります。 

⑨ 次に、題詞に留意した検討をします。同じ題詞のもとにある2-1-79歌にも留意するものとします(題詞と現代語訳(試案)は、上記「8.⑫」に再掲しました。)

 この題詞は、繰り返しますが、

第一に、時点を平城京遷都前後と、作詠時点を明らかにしている

第二に、「或本」と記し、2-1-78歌と出所が異なる歌ということを明記している

第三に、『萬葉集』における「藤原京」という表記の唯一の例。

という特徴があります。

 第一については、2-1-80歌は、歌本文中に「青丹吉 寧楽乃家爾者」と詠い、「ならのいへ」とは平城京における屋敷・宮を意味しますので、作詠時点を造営中と限定できないものの、題詞が指定する時期の事柄を詠う歌であり、この語句から、題詞と歌本文とは、時期に関して整合性があります。

 2-1-79歌も、歌本文中の語句から題詞のいう時期の事柄を詠う歌と確認できました。

 第二については、2-1-79歌と同様に歌の理解に影響を与えません。2-1-80歌の理解が、80歌第1案でも80歌第2案でもどちらでも、歌の内容と題詞は整合がとれているといえます。 

⑩ 第三の、「藤原京」という表記は、「藤原宮」であっても、次の都城の造営を題材にしているこの歌の内容に影響しません。だから、「藤原京」という表記は、『萬葉集』の編纂に関わる事柄と見ざるを得ません。歌の内容のみから「藤原京」を「藤原宮の誤記である」と判断するのは早計です。

 なお、左注に「作者未詳」とありますが、『日本書記』に平城京造営関係の記事もあることから、ほぼ推測できるのに作者名をあげていないので、単純に元資料の不備であるのか、巻一の編纂者の配慮であるのかは判断しにくいところです。 

⑪ さて、この二つの歌の題詞にある、「寧楽宮」の意の確認です。 

 2-1-79歌と2-1-80歌は、一つの題詞のもとにある一対の歌であるので、その題詞とこの2首の歌の理解は一体であってしかるべきです。

 この2首の作詠者は、「ならのみやこ」の「ならのいへ」の造営の進捗状況を題材にしています。それを修飾するのに共通の「あをによし」という語句を用いています。

 前者は、2-1-79歌での「楢乃京師」、2-1-80歌での「寧楽乃家」と、共通の「なら」を、「楢」字と「寧楽」字とで書き分け、それだけで「京師」と「家」に対する評語の機能も果たしています。

 そして、題詞にも「なら」と訓む語句はあります。この2首での「なら」字の対比をみると、評語の機能を題詞でも果たしているのではないか、と推測できるところです。

 この2首にある「あをによし」という語句は、二つの意のある同音異義の語句であって、別々の意がこの2首に用いられているという理解が、題詞に留意しない歌の理解では可能でした。

 そして、「寧楽宮」の意が「新しく造営している都城」である「平城京」の意であれば、題詞に留意した場合の理解も、題詞に留意しない場合の理解と同じになりました。

題詞にある「寧楽」字にも評語の意が加わっているならば、2-1-80歌の「家」と同じく、将来の完成形の「宮」を褒めていることになります。

 「宮」は巻一において、天皇の代を象徴して「標目」に用いられている字ですので、将来の「宮」を「寧楽宮」と称し、ひいてはその宮で、立派に天下を治められる天皇を示唆することが可能になります。つまり、2首の歌では、「寧楽宮」字は、平城京の「平城宮」をさしていますが、題詞の「寧楽宮」は将来の宮をも意味している、と考えられます。

 将来どこに新都が設けられようと、律令を作った人物の後裔が支配の拠点とするのに変わりありません。評語機能を生かした理解を「寧楽宮」にしても(将来の「寧楽宮」であっても)、天皇家に不都合は生じません。 

⑪ しかし、このような理解が、「寧楽宮」を明記する二つの題詞とこの3首において整合性を持ち、さらに、巻一全体の理解からも有力にならないと、「寧楽宮」は、「平城京に造営される「平城宮」相当(天皇の居住空間であり政策決定の空間でもある)内裏や大内裏相当部分相当)」の意だけであろう、と思います。

 次回は、「寧楽宮」を明記する二つの題詞とこの3首から、編纂方針を検討したいと思います。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

(2021/11/1  上村 朋)

付記1.『萬葉集』で同音異義の語句を2意利用したと思われる歌

① 2021/11/1現在全巻の確認は済んでいない。

② 一つの歌で、一つの語句の同音異義のうちから2意をかけて詠っている歌はあった。

巻十 寄花

2-1-旧2289歌 藤原 古郷之 秋芽子者 開而落去寸 君待不得而

   ふじはらの ふりにしさとの あきはぎは さきてちりにき きみまちかねて

 「ふぢはら」とは、(作中人物の住む)「藤原京」と「藤の花の咲く野原」を掛けている。

③ それが2首続けて配列されているかにみえる例が一組あった。同音異義の語句は「まつ」である。

 巻十一 古今相聞往来歌類之上 寄物陳思

2-1-2488歌 君不来者 形見為等 我二人 植松木 君乎待出牟

   きみこずは かたみにせむと わがふたり うゑしまつのき きみをまちいでむ

2-1-2489歌 袖振 可見限 我雖有 其松枝 隠在

   そでふるは みゆべきかぎり われはあれど そのまつがえに かくらひにけり

 「まつ」とは、植物の「松」と「待つという約束」の意であり、前者は、約束を守ろうと詠い、後者は、約束は言葉だけで会ってもくれないと詠います。「まつのき」と「まつのえ」で、約束する目的が当事者で異なっていることを示唆しており、植物全体を意味する「き」とその末端で場合によっては伐るのも止むを得ない「え」は「約束」の評語になっている。

  なお、この二つの歌には別の理解もある。

 (付記終わり  上村 朋  2021/11/1)

 

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌か 第24歌 寧楽宮とは その2

 前回(2021/10/18)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 寧楽宮とは その1」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 寧楽宮とは その2 」と題して、記します。(上村 朋)

1.~6.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行い、3-4-23歌まではすべて恋の歌であることを確認した。3-4-24歌については類似歌(『萬葉集』の歌)の検討として、『萬葉集』巻一と巻二の構成を引き続き検討している。なお、歌の引用は『新編国歌大観』による。)

7.再考 類似歌 その5 「寧楽宮」の用例 2-1-79歌

① 『萬葉集』の題詞にある「寧楽宮」表記の例を、今回も確認します。

 類似歌2-1-439歌の重要な参考歌(2-1-228歌)は、『萬葉集』巻二の挽歌の、標目「寧楽宮」にある歌です(付記1.表D参照)。その「寧楽宮」という表記のある題詞とその題詞のもとにある歌を、今検討しています。その題詞は2題あり1題(2-1-78歌の題詞)を前回、残るもう1題を今回から検討して、題詞にある「寧楽宮」という表記の意味を考えます。

2-1-78歌の題詞:和銅三年庚戌春二月従藤原宮遷于寧楽宮時御輿停長屋原廻望古郷作歌 

(割注して 「一書云 太上天皇御製」とある。)

2-1-79歌と2-1-80歌の題詞:或本 従藤原京遷于寧楽宮時歌 

(左注があり「右歌 作主未詳」とある)

② 2-1-78歌は、前回(2021/10/18付けのブログ)の検討により伝承歌がベースにあって作詠されていた、平城京造営に関する歌である、と今のところ推測しています。

 それは、題詞にある「寧楽宮」が、平城京に造営される「平城宮」相当(天皇の居住空間であり政策決定の空間でもある)内裏や大内裏相当部分相当)の意として、理解が可能でした(前回のブログ(2021/10/11付け「6.⑥」参照)。

 2-1-79~80歌の題詞には、年号の記載がありませんが、題詞の配列から、2-1-78歌の題詞と関連ある題詞とみることができます。そしてこの題詞は、「藤原京」という表記があるという特徴があります。

 この題詞のもとにある歌本文には、「寧楽」の発音である「なら」の表記があります。長歌である2-1-79歌に「楢乃京師乃」(ならのみやこの)とあり、反歌である2-1-80歌には、題詞と同じの「寧楽乃家尓者」(ならのいへには)とあります。

 この長歌反歌がそもそも(元資料の段階から)一対の歌であるならば、作詠された時点(正確には記録された時点)には、新たな都城を指す「平城京師」・「平城京」の「平城」に関して、「寧楽」と「楢」と表記する場合があったことになります。それは、現在の奈良山丘陵に近い都城として「なら(のみやこ)」という通称が都城の構想・計画段階からすでに生じていたこと、そしてそれを「平城」表記以外に「寧楽」と「楢」と表記することが官人には一般化していたこと、ということです。

 そうであるならば、新たな都城である「平城京」における「平城宮」の表記として「寧楽宮」が、平城遷都の造営中にも官人の間で選び記される可能性があります。さらに、この一対の歌と仮定した長歌反歌を例証として、2-1-78歌の題詞も、この長歌反歌の題詞も、平城遷都(710年)以前に記録されたといえます。

③ 使用開始時点はまた後程触れるとして、題詞より検討します。

 「或本」とは、2-1-78歌記載の元資料とは別の資料によれば、の意です。

 「従藤原京遷于寧楽宮時歌」の「時」には、一年の四季のほか、「ときのながれ」とか「ある時点・ころ」の意があるので、「藤原京より、寧楽宮に遷るころの歌」という意にとることができます。

 「寧楽宮」とは、上記②で述べたように、2-1-78歌の題詞と歌本文で理解した平城京大内裏等相当部分を意味する用語として、検討をすすめます。

 この場合、題詞は、2-1-78歌の題詞と異なり、(「〇〇宮」から「〇〇宮」へではなく)藤原京という都城から、平城京大内裏等相当部分へ転居するころの歌、という言い方になっています。

 そのため、現代語訳を試みると、

「或る別の記録にある、藤原京から新たな都城の宮(寧楽宮)に遷る頃の歌」

となります。

 『萬葉集』で「藤原京」という表記があるのは、この題詞にしかありません。『日本書記』にも「藤原京」という表記はありません。「右歌 作主未詳」と左注を加えた人物は、「藤原京」という表記について問題意識を持っていないかのようです。だから、気にかかります。歌本文検討後改めて題詞について確認することとします。

④ 次に、歌本文を検討します。

 歌本文に長歌反歌が各1首あります。長歌から検討します。

2-1-79歌  天皇乃 御命畏美 柔備尓之 家乎択 隠国乃 泊瀬乃川尓 舼浮而 吾行河乃 川隈之 八十阿不落 万段 顧為乍 玉桙乃 道行晩 青丹吉 楢乃京師乃 佐保川尓 伊去至而 我宿有 衣乃上従 朝月夜 清尓見者 栲乃穂尓 夜之霜落 磐床等 川之水凝 冷夜乎 息言無久 通乍 作家尓 千代二手 来座多公与 吾毛通武

 おほきみの みことかしこみ にきびにし いへをおき こもりくの はつせのかはに ふねうけて わがゆくかはの かはくまの やそくまおちず よろづたび かへりみしつつ たまほこの みちゆきくらし あをによし ならのみやこの さほがはに いゆきいたりて わがねたる ころものうへゆ あさづくよ さやかにみれば たへのほに よるのしもふり いはとこと かはのひこり さむきよを やすむことなく かよひつつ つくれるいへに ちよまでに いませおほきみよ われもかよはむ

 この長歌は、以下のような検討の結果から、元資料にあっては、平城京造営に関する官人の苦悩を詠ったものであり、それを、『萬葉集』巻一では詞書のもとの歌として寿ぐ歌に仕立てているのではないか、と予想することになりました。多くの諸氏が指摘する天皇が関わる歌ではなさそうです。

 なお、この長歌は、33句に23の漢文の助字を万葉仮名として用いている歌です。

⑤ 初句より順を追って検討します。

 初句から二句の「天皇乃 御命畏美」(おほきみの みことかしこみ)とは、以下に「楢乃京師乃 佐保川尓 伊去至而」(ならのみやこの さほがはに いゆきいたりて)とあるので、平城京遷都の造営開始か、遷都後の造営督促・街づくりに関する指示を指している、と考えられます。

 『続日本紀』の平城京造営に関する記述と遺跡の調査結果から、和銅3年の遷都時に大極殿ができていなかったのは明らかであり、役民の逃亡が止まないなど天皇は苦慮しています(付記2.参照)。率直にいえば役民には新都造営が嫌われています。そのような状況下での歌がこの歌です。

⑥ 元資料の歌として、最初に検討します。すなわち、題詞に留意せず、藤原京平城京と河川の地理的関係には留意し、逐語的に理解しようとすると、長歌は、土屋氏らとは違う面がありました。

 三句~四句目の「柔備尓之 家乎択(旧字は「擇」)」とは、土屋氏に従えば、既存の家を撰ぶ(藤原京の家を資材として利用すべく運ぶ)、の意となります。住み慣れた家(という貴重な資材)を放棄して平城京に居を移すとは思えません。この句の主語は、官人と思えます。

 平城京平城宮(「寧楽宮」と予想します)は、藤原宮の資材をも転用して造られているのが出土した瓦などで実証されています。官人たちも同様に藤原京にある屋敷の資材を転用したり家財を運ぼうとしたのでしょう。庶民(市で商売をする人など)も同じでしょう。

 その輸送には(藤原京内を流れる)明日香川を利用した舟運が第一候補にあがりますが、長歌は五句以下で、

 「隠国乃 泊瀬乃川尓 舼浮而・・・楢乃京師乃 佐保川尓 伊去至而」(藤原京が流域にない)初瀬川に船を浮かべて・・・(平城京が流域にある)佐保川に至る)、

と詠っています。

 「隠国乃」は、初瀬(という地名・川)にかかる枕詞です。山に囲まれて隠れている所の意があります。

 「泊瀬乃川尓 舼浮而」(はつせのかはに ふねうけて)の「而」字は漢文の助字であり、その意は「aしかうして。しかも。しかるに。しかるを。bすなわち(=乃)。cなんじ(代名詞) dもし(=如) eごとし(=如))です(『角川新字源』)。次の句にある「吾」は次の文の主語と思えるので、ここでは、aまたは、bの意を、この歌を書き留めた官人が含意させて、一旦文は終わっているという理解が可能です。

 作中人物は舼に乗り平城京造成地へ向かう、と理解できます。

 明日香川の舟運が官需で手一杯であったとすれば、近くの川を利用することになります。家を建てる資材も同時に運んだのでしょうか。

⑦ 初瀬川沿岸には海石榴市(つばいち)があり、その近くに雄略天皇の宮である泊瀬朝倉宮がありました。その時代から難波津からの舟運があったところです。藤原京の造営後も交易の拠点になっていたとしたら、船の調達はできたでしょうが、建設資材の運搬は筏でも構わないものの、寺川を越えわざわざ陸路の運搬が長くなる初瀬川を輸送手段に選ぶということには疑問を感じます。

 建材などを初瀬川の上流や川沿いの集落で調達した事例を詠っているのであれば、天皇の許可を得られるほど高位の官人です。そして、

 「我宿有 衣乃上従 朝月夜」(わがねたる ころものうへゆ あさづくよ)と、平城京での第一夜は屋根や囲いもないかのようなところの描写であって高位の官人の宿舎とは思えません。「我」と自らを呼ぶ作中人物は身分の相当低い官人か、庶民でしょう。しかし裕福でなければ、「舼」を借り上げられません。

⑧ そして、作中人物が用いた船を、「舼」(舟偏に旁が共)という漢字で表現しています。小さな船の意ですが、『角川新字源』には記載がない、珍しい字です。この歌を書き留めた人物(あるいは『萬葉集』編纂者)は、わざわざこの漢字を用いています。

 その「舼」には、何人乗船できたのでしょうか。

 八句目、「吾行河乃」(わがゆくかはの)からは、乗船している作中人物に生じた、後ろ髪をひかれるような感情を詠っているかにみえます。「舼」に乗船している客が官人であれば、何をめそめそしているのか、という感想を持ちます。もっとも移動に要する時間を優先すれば官人は陸路を行くと思うので、乗船客は女性であるかもしれません。八句目以降の表現では性別もわかりません。

 そして十八句目「伊去至而」(いゆきいたりて)の「而」は(漢文であれば)助字であり、「舼浮而」の場合と同じくここで文が終わっている、という理解も可能です。八句目にある「吾」は、「舼」に乗船してきた特定の人物のように受け取れますが、平城京造営地に集められた人々の姿でもあります。そうすると、舟運での移動に関して「顧為乍」、そして陸路での移動で「佐保川尓 伊去至而」(河原にある集合所に至る)と、大勢の役民が集まる状況を描写している、とも理解できます。助字「乍」には、「aたちまち。bあるいは。」の意がありますので、文が切れていると理解したところです。

 そして、十九句目「我宿有」(わがねたる)以下に、平城京造営地での生活を詠っています。

 「我宿」の「宿」とは、平城京造営地で働くための臨時の宿舎を意味するのではないか、と思います。

 作中人物の移動に関する描写が、「・・・伊去至而」で終わり、次いで平城京の造営地での作中人物の行動に関する描写が始まっていると理解できます。

⑨ 二十七句目からの「冷夜乎 息言無久 通乍 作家尓」(さむきよを やすむことなく かよひつつ つくれるいへに) にある「通乍」とは、日々通ったということなので、造営地に設けられた宿舎から徒歩で日々通える家から造作している現場に通った、ということになります。藤原京から通うには距離があり、毎日というわけにはいかないと思います。ただし、現場の指揮を執るような人物であれば(官人の立場であるので)、「冷夜乎 息言無久」と夜中に出発するなど月に何度か通うということも想定できます。

 そして、家を作るという仕事に関しては簡潔に記しています。とにかく家が完成し、

三十句目からは「作家尓 千代二手 来座多公与」(つくれるいへに ちよまでに いませおほきみよ)と「おほきみ」に呼び掛けています。

⑩ この部分の現代語訳は幾通りかあります。例を示します。

 「そんな寒い夜も休息することなく、通い続けて作ったこの家にいついつまでもおいでになってください。わが大君よ。私も通ってまいりましょう。」(阿蘇氏)

 この訳は、作中人物が「作った家」に大君には「いつまでもいつまでも来てほしいとうたって」(阿蘇氏の「歌意」での説明より)いる、と理解しています。常在してほしい家ではありません。そして氏は、大君と作中人物を、皇子・皇女ではない皇族かかなり高位の貴族、及びそのような主人に奉仕する立場の人物、と推測していますが、主人に対して作中人物は「通ふ」といえる立場なのでしょうか。

 「通ふ」という動詞は、「a定まった場所とのあいだを行き来する。出入りする。特に男が妻や恋人のもとに行き来する bある場所を、自由に通る。通行する cなどなど」の意です(『例解古語辞典』)。

 このため、この歌における「通ふ」を、「仕える」とか「伺候する」という意に理解するのは、題詞とかで示唆があっても難しい、と思います。

 土屋氏は、「来座多公与」という句について通行本により「来座多公」を採り、この万葉仮名を尊重し、「多」を「まねく」と訓み、「きませまねくきみ」と訓み、「きみ」とは、「私的人間(じんかん)の呼びあひとしてのキミ」であると指摘しています。

 『新編国歌大観』におけるこの歌で、「おほきみ」と訓むのは、初句にある「天皇」と結句の前にある「多公」と2カ所にあります。

 後者は、作者が造った家に来てほしいと願う相手をさしています。その家に(仕えるのではなく)「われもかよはむ」と作者の意思を明確に詠っているので、お言葉をかしこまって承けた天皇とは異なる方を「多公」と表記しているはずです。

 巻一と巻二で「おほきみ」と(『新編国歌大観』で)訓む表記は、「大王」(13首)、「天皇」(2首)、「多公」(1首)、「君」(3首)、「王」(5首)です。土屋氏の訓は、この用例での異端さからも支持できます。

⑪ だから、最後の七句は、土屋氏の訓と大意を採りたい、と思います。

 最後の七句の訓:「さむきよを いこふことなく かよひつつ つくれるいへに ちよまでに きませまねくきみ われもかよはむ」

 同大意:「かくのごとく寒い夜をも休むこともせず、通ひ来たって作った家に、千代の後までも来給へよしばしば君、吾も通はう」。

(氏が本文としたのは「来座多公」ですが、「与」は終助詞「よ」であり、文のロジックには影響しません。)

 この理解によれば、この歌を披露した時点、即ち家が完成した時点では、作中人物が作った家に、「きみ」は、未だ到着していません。「きませ」と訓んでいるのだから、留まり続ける意は含意されておらず、だからまたこの家に「きみ」が住み続けるとも作中人物は、思っていないことになります。

 これからはときどき(あるいはしばしば)お出で下さい、と「きみ」に訴え、作中人物も(ときどきは)この家に来たい、と結句で決意を述べていますから、その時はこの家で「きみ」に会いたい、と訴えていることになります。

 この家はどのような性質の家なのでしょうか。

⑫ 両氏が共有している理解に次の二つの語句があります。

 第一は、「作家」を、「つくれるいへ(に)」と訓んで、その家は完成したと理解していることです。しかし、「作家」という表現は「作る家」(作りつつある家)の意を排除していません。現に(「家」は「宮」の誤りとして)「作っている宮(に)」と現代語訳している例もあります(『完訳日本古典2 萬葉集一』(小学館 1982))。

 だから「通乍 作家」とは、造作途中の家を意味としての検討も要すると思います。助字「乍」には、「aたちまち。bあるいは。」の意があり、日本語の接続助詞「つつ」には、巻一だけでも、

 2-1-9歌に「大相七兄爪湯気」(たぶし見つつ行け)

 2-1-17歌に「見筒行武雄」(見つつ行かむを)

 2-1-25歌に「念乍叙来」(思ひつつぞ来る))

という例があります。漢文の助字の意の「あるいは」を意識し、「通う」と「作る」を並列の行動(即ち未だ造作中)という理解も許されると思います。

⑬ 第二に、「千代二手」を、「ちよまでに)」と訓んで、「いつまでも(これからずっと)」と理解していることです。

 「千代二手」(ちよまでに)の「千代」とは、「千年とか非常に長い年月」の意であり、「二手」は両手を「真手」ということからの借訓で「まで」と訓み、「左右(手)」もそのように訓まれるそうです。

 訓「ちよまでに」の「まで」は、副助詞であり「時間的・空間的にどこまで至り及ぶか、その範囲・程度」の意があります。また、「に」は、体言に付いているので格助詞であり、「ひろく、物事が存在し、作用する場を示す」ことが第一義とあります(『例解古語辞典』)。

 そのため、この句の直後の語句「来座多公与」を念頭におけば、ここでの「ちよまでに」の意は、「いつまでも(これからずっと)チャンスがあれば」この家に来てください、という理解のほかに、「非常に長い年月が過ぎる時までに生じるかもしれないその時には」この家に来てください、という理解も可能と思います。

 また、結句で、決意を披露している人物は、船に乗って平城京造営地に来た人物とは思えません。特定の人物なのか、大勢の人物を指しているのか、諸氏の理解では判然としていません。

⑭ 改めてこの長歌の構成を、結句の作中人物が造営中の平城京において「家を作った」歌とみると、次の6部よりなる、と整理できます。

 第一 初句~二句 天皇乃 御命畏美: 歌の発端を詠う

 第二 三句~十八句 柔備尓之 家乎択・・・佐保川尓 伊去至而: 平城京造営地への移動の状況を詠う (舟運利用と徒歩などの陸路とがある)

 第三 十九句~二十七句 我宿有・・・冷夜乎: 到着した平城京造営地の景を詠う

 第四 二十七句~三十句 冷夜乎・・・来座多公与: 平城京造営地にいる作中人物の行動を詠う

 第五 三十一句~三十二句 千代二手 来座多公与: 行動の目的を詠う

 第六 三十三句 吾毛通武: 作中人物の決意を詠う

 この歌本文には、家を作る資材と造営に関する具体的な言及がありませんでした。だから、資材搬送をも詠っているというのは私の思い込みであり、作中人物は、多分一人ではなく、単に平城京造営地に行き(あるいは連れて行かれ)、家を作る監督をしたのか、手伝いをしたことだけを詠っているという理解が妥当なようです。

 上記各部の作中人物は共通の人物であると決めつけたため困惑しています。

⑮ このような疑問に触れていない土屋文明氏も、(題詞のもとにある)長歌について、「藤原役民歌、藤原御井歌と比較すると、著しい差が認められる。全体が叙述的で、低調である。製作に関与した一人又は数人の素質に基づくものではあるまいか。」と指摘しています。「この作は国家行事に関連はあるものの、直接には庶民自身の生活なので、そこの差が歌調の上にもあらはれたとも言はれよう」とも指摘しています(『萬葉集私注 一』)。

 さらに、「なほ定着永住の気分になり得ない者同士、更にいへば広く庶民相互間で、遷都造営の労苦をはげましあう歌謡とも解すべきではあるまいか」とも指摘しています(『萬葉集私注 十 補完』472P~「家乎擇」)。

 (題詞のもとにある)長歌反歌について、阿蘇氏は、「大君の別宅か」、「完成した家にいつまでもいつまでも来てほしい」とうたって主人の長寿と栄を願い、かわらぬ奉仕を誓っている歌」と指摘しています。万葉の時代は自分の仕えた主人を「おほきみ」と称したとしています。

 吉村豊氏は2-1-79~80歌に関して、(題詞のもとにある歌として)奈良の都を造る役民を主人公として、君臣和楽の思想から喜び進んで新しい都を造っている様子を述べる、と指摘しています。

 題詞に留意しなくとも、歌本文のみで平城京遷都に関する歌ということは確実に推測できます。そのうえで、結句の「吾毛通武」という作中人物と「きみ」の関係が諸氏の理解では納得がゆきません。

⑰ このように各句を検討してきて、いくつかの疑問が残りました。次回に再検討したい、と思います。

 「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 (2021/10/25  上村 朋)

付記1.『萬葉集』における表記の「寧楽」の用例と歌における「なら」と訓む歌について

①『萬葉集』における表記の「寧楽宮」関連の用例と訓について、『新編国歌大観』により確認した。

②『萬葉集』における表記の「寧楽宮」の用例を表Dに示す。

③「寧楽宮」以外の「寧楽」の用例、句頭の表記のの訓が「なら」とある歌で、その意が「都城・地名・山名と思われる歌などは次回以降に示す。

表D 『萬葉集』における「寧楽宮」とある例  (2021/10/4現在)

調査対象区分

巻一と巻二

巻三と巻四

巻五以降

部立ての名で

無し

無し

無し

標目で

巻一と巻二

無し

無し

題詞で

2-1-78歌(割注し「一書云太上天皇御製」)

2-1-79~80歌(左注し「右歌作主未詳」)

無し

無し

題詞の割注で

無し

巻四 2-1-533歌(割注して「寧楽宮即位天皇也)

無し

歌本文で

無し

無し

無し

歌本文の左注で

無し

無し

無し

注1)歌は、『新編国歌大観』による。「巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号」で示す。

 

付記2.『続日本紀』における平城京の造営関連の記述について

①『新日本古典文学大系12 続日本紀一』(岩波書店 1989)より引用する。 

慶雲4年2月戊子(19日)、諸王臣(おときみたち・おみたち)の五位已上に詔して、遷都の事を諮らしめたまふ。

慶雲4年秋7月壬子(17日)、天皇大極殿に即位(くらゐにつ)きたまふ。<元明天皇

和銅元年2月戊寅(15日)詔して曰く、朕(われ)つつしみて上玄を奏(う)けたまわり・・・遷都(みやこうつる)の事、必ずとすること遑(いとま)あらず。しかるに王公大臣みなもうさく・・・衆義忍びがたく、・・・まさに今、平城(へいぜい)の地、四禽図に叶ひ、三山鎮(しづめ)をなし、亀筮(くゐぜい)並びに従ふ。都邑を建つべし。その営みつくる資(もと)、事に従ひ条(をもをも)に奏すべし。亦、秋収を待ちて後、路橋を造るべし。・・・

和銅元年9月、戊寅(20日)平城(なら)に巡幸(みゆき)してその地形(ところのまま)を観たまふ。

和銅元年9月、戊子(30日) 正四位上阿倍(あへ)朝臣宿奈麻呂、従四位下多治比真人池守を造平城京(へいぜいけい)司長官とす。従五位下・・・を次官、・・・を大匠(おほたくみ)、判官七人、主典四人。

和銅元年冬10月庚寅(2日)宮内卿正四位下犬上王を遣して、幣帛(みてぐら)を伊勢太神宮に奉らしむ。以て平城宮(ならのみや)を営む状を告ぐ。

和銅元年12月癸巳平城宮(ならのみや)の地(ところ)を鎮め祭る。

和銅2年正月丙寅(5日) 正四位上阿倍(あへ)朝臣宿奈麻呂・・・に従二位を授く。・・・

和銅2年8月辛亥(28日)車駕、平城宮(ならのみや)に幸したまふ。駕に従へる京畿の兵衛の戸(へ)の雑徭を免す。

和銅2年9月乙卯(2日)・・・この日、車駕。新京(あたらしきみやこ)の百姓を順撫したまふ。

和銅2年9月丁巳(4日)造宮将領已上に物賜ふこと差(しな)あり。

和銅2年9月戊午(5日)車駕、平城(なら)より至りたまふ。

和銅2年冬10月癸巳(11日)、勅(みことのり)したまはく、「造平城京司、若し彼の墳隴(つか)あばき掘られば、随即(すなはち)埋み斂(をさ)めて、露し棄てしむること勿れ。普く祭酹(さいらい)を加へて、幽魂を慰めよ」とのたまふ。

和銅2年冬10月庚戌(28日)詔して曰く、「このころ都を遷し邑(むら)を易(か)へて百姓を揺動す。鎮撫を加ふといへども安堵すること能(あた)はず。これを念ふ毎に朕甚だ愍(あは)れむ。当年の調・租並びに悉く免すべし」とのたまふ。

和銅2年12月丁亥(5日)、 車駕、平城宮(ならのみや)に幸(みゆき)したまふ。

和銅3年二月条の記述に、平城京関連の記述はない。

和銅3年3月10日 始めて都を平城(なら)に遷す。左大臣正二位石上朝臣麿を留守(るしゅ)とす。

和銅4年9月丙子(4日)勅したまはく、「このころ聞かく、諸国の役民造都に労(いたつ)きて、奔亡すること猶多し。禁(いさ)むといへどもやまず」ときく。今、宮の垣成らず、防守備(そな)はらず、権(かり)に軍営を立て兵庫を禁守すべし」とのたまふ。よりて従四位・・・等を将軍とす。

和銅5年春正月壬辰(23日)河内国高安烽(とぶひ)を廃め、始めて高見烽と大倭国春日烽とを置きて、平城(なら)に通せしむ。

霊亀元年春正月甲申の朔、天皇大極殿に御(おは)しまして朝(てう)を受けたまふ。皇太子始めて礼服を加へて拝朝す。陸奥・・・来朝きて各方物を貢(たてまつ)る。その儀・・・陣列す。元会の日に鉦鼓を」用ゐること、これより始まる。

② 車駕という記載例。

 文武天皇二年二月条:丙申(5日)車駕(きょが)、宇智郡に幸(みゆき)したまふ。

  和銅2年9月、戊寅(28 日) 車駕、宮に還りたまふ。(以下略)

(付記終わり  2021/10/25   上村 朋)

 

 

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 寧楽宮とは その1

 前回(2021/10/11)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 万葉の挽歌は死者封じ込め」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 寧楽宮とは その1」と題して、記します。(上村 朋) (追記2022/3/2  脱字2カ所を補う。)

1.~5.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行い、3-4-23歌まではすべて恋の歌であることを確認した。3-4-24歌については、類似歌(『萬葉集』の歌)の検討として、『萬葉集』巻一と巻二の構成を検討している。なお、歌の引用は『新編国歌大観』による。)

6.再考 類似歌 その4 「寧楽宮」の用例 2-1-78歌

① 『萬葉集』歌での「寧楽宮」表記例のうち、今回から題詞にある「寧楽宮」とそのもとにある歌を検討します。

 類似歌2-1-439歌の重要な参考歌(2-1-228歌)は、『萬葉集』巻二の挽歌の、標目「寧楽宮」にある歌です。『萬葉集』で「寧楽宮」という表記の用例を、確認しました(付記1.表D参照)。その結果は、つぎのとおりでした。なお、表記の「寧楽宮」は、古来「ならのみや」と訓んでいます。

第一 「寧楽宮」という表記を、部立ての名(の一部)に用いている例はない。

第二 「寧楽宮」という表記を、標目の名に用いているのは、標目のある巻一と巻二だけである。

第三 「寧楽宮」という表記を、題詞に用いている例は、巻一の雑歌にある次の2題だけである。

2-1-78歌の題詞:和銅三年庚戌春二月従藤原宮遷于寧楽宮時御輿停長屋原逈望古郷作歌 

(割注して 「一書云 太上天皇御製」とある。)

2-1-79歌と2-1-80歌の題詞:或本 従藤原京遷于寧楽宮時歌 

(左注があり「右歌 作主未詳」とある)

第四 題詞の割注に、「寧楽宮」という表記が一例ある。巻四にある2-1-533歌の題詞の割注である。この歌には左注もある。

   題詞:天皇海上女王御歌一首

その割注:「寧楽宮即位天皇也」

(歌の左注あり「右今案 此歌擬古之作也 但以時当便賜斯歌歟」)

第五 「寧楽宮」という表記をしている歌本文の用例はない。

② 『日本書記』及び『古事記』に、「寧楽宮」と表記している用例もありません。

 『萬葉集』は、歌においては、当時の日本語での発音を書き留める手段として、官人が、漢字を使用しています。その漢字の読み方には、公文書で漢文を使用する建前の官人がその漢文を独特な訓読をしているのでその訓も用いています。題詞などの作文は、漢文体ですが、その訓も独特です。

③ そのため、漢字には、一般的な漢文(中国文)での意と国字の意の両方が既にあります。

「寧」は、漢字として「やすらか・やすい」意の場合、「安」にほぼ同じですが、安定している意味合いを含んでいます。「安」は「危」と対する語です(『角川大字源』)。

「寧楽」という表記は、漢字としては「ねいらく」と読み、「安んじ楽しむ」意です(「同上」)。『墨子』の「尚賢中」篇の「寧楽在君 憂惑在臣」(寧楽は君に在りて憂慼(いうせき)は臣に在り)を例にあげています。(聖王の時代を例にあげ君臣の間が親密であったことを指している章句です)。

萬葉集』では、「なら」と発音する日本語の語句をも意味しています。

『角川大字源』では国字として「なら」と読み、「奈良のこと」をいうと説明しています(その漢字「奈」は「果樹の名。あかなしの木。またからなし(果実が他に比しておおきいリンゴの一種)。べにりんご。」とあります(同上)。

「宮」という表記は、漢字としては、a大きな建物、bいえ・住居、c天子(またはきさき)のいるところ(皇居)、d先祖の御霊屋(みたまや)・宗廟e道教の寺・仏寺・仙人のすまい、fかこむ・とりかこむなどを意味しています。国字としては、みや・神社の意です(同上)。「みや」とは、「神社や皇居、皇族の住居・御殿」と『例解古語辞典』にはあります。

④ 次に、「平城」とは、漢字としては、中国の漢代の県名です。今の山西省大同市の東にあたり、漢の高祖が匈奴を討とうとしたとき七日間(白登山に)包囲され、脱出せざるを得なかった地です。それは、中国の帝国(漢)に対して、周囲の国の一つ匈奴が勝利した(そして匈奴が以後漢を属国扱いにするようになった)ところです。それに拠った都城の名が「平城京」なのでしょうか。

 「平城京」に関しては、和銅元年2月の遷都詔には「平城之地」(へいぜいのち)と記し(訓みならわされ)ていますが、同年9月の巡幸の記事には「平城」(なら)、同10月の記事には「平城宮」(ならのみや)とあります。国字としては「なら」と発音されています。

 「ならのみやこ」の謂れには諸説があるそうです。

⑤ 「平城京」の位置は、奈良盆地の北端部にあたり、北に向かって現在の奈良山丘陵を越えれば、木津川の水運が利用できます。淀川と瀬戸内を経由して大宰府対馬朝鮮半島に至ることができます。宇治川をさかのぼり琵琶湖を経由して北陸(日本海、さらに朝鮮半島・大陸)に至り、また陸路では東山道陸奥等に至ることができます。その奈良山丘陵(南斜面の東側が「佐保」、西側が「佐紀」)は、奈良盆地の西にある生駒山脈と比べれば越えやすい丘陵地帯です。

 2-1-50歌によれば、近江国の木材は、現在の奈良山丘陵を越えて藤原京に到達しており、奈良山丘陵経由の道は明日香に宮を置いていたころより利用されています。また、奈良山丘陵は、2-1-17歌や2-1-29歌には「青丹吉 奈良能山乃」、「青丹吉 平山乎超」と詠われており、山城国に通じる道がいくつかあり、「なら(の)やま)」と呼ばれています。その「なら(の)やま」を修飾している「あをによし」という語句は後には「なら」の枕詞になりましたが、そもそもは「なら(の)やま」(つまり盆地北端の丘陵)には青色の顔料にする土の採取場があったことからの修飾だと思います。当時は、峠を越える際の旅の安全を願って通過する土地を褒める「道行の歌」を誦謡する風習もあり、それとの関係もある、と思えます。(付記2.参照)。

 そうであれば、採取・選別等の基地(臨時宿泊所)もあって、そこも「なら」という地名(宿泊所名)として遷都以前に知られていたと思います。

 官人は、奈良盆地の北にみえるそのような照葉樹が広がる山を、「なら(の)やま)」と呼びならわしており、その丘陵に近い宮となるので「平城京」を「ならのみやこ」、天皇の住居を「ならのみや」」という呼称を通称か愛称というかたちで用いていたのでしょうか。その「なら」は、発音を追って別の表記がその後生まれたのではないか。しかし「ならやま」に用いられた「平」字を用いて都城名を表すことは、『萬葉集』などにありません。

 また、平城京への遷都当時の造成土から、「奈良京」と書かれた木簡が発掘されており(平城京右京一条二坊四坪遺跡)、762年の正倉院文にも「奈良京」の表記があるそうです。(奈良文化財研究所の「木簡庫」のデータにおいて、「寧楽」と「平城京」とを本文検索しましたが該当データはありませんでした。)

 平城遷都が現実的になって以降に「寧楽」を用いて都城名を表すことが生まれたと推測はできます。

⑥ さて、「寧楽宮」という表記は、巻一、巻二にある標目においては、「藤原宮」など「・・・宮」と同じスタイルです。その訓もありますが、音で読み上げても官人は理解できたと思います。

 「藤原宮」という語句は『日本書記』にあり、「新益京」(いわゆる藤原京)の天皇の居住空間(それは政策決定の空間でもある)内裏や大内裏相当部分を呼称しています。地名ではなく「藤原」という天皇と縁のある氏の名で大内裏等相当部分を(讃えるトーンで)形容しています。それにならえば、「藤原京」の後に新たに造った都にある大内裏等相当部分を、讃える意の形容として熟語「寧楽」の意を加えて用いた宮名が「寧楽宮」と推測できます。だから、標目にいう「寧楽宮」とは、平城京大内裏等相当部分を意味する用語である、といえます。

 2-1-533歌の題詞の割注をした人物もそのように理解しているとみえます。聖武天皇神亀元年(724)2月4日、平城京で即位しています。

 ちなみに、現在「平城京」と言っている都は、『続日本紀』に引用されている宣命に「平城之大宮」とあります。『萬葉集』の歌でも「平城京師」・「平城京」という表記(その訓は「ならのみやこ」)があり、「奈良」、「名良」、「楢」などとならんで「寧楽」という漢字を用いた都城名があります(付記1.参照)。

⑦ では、『萬葉集』での題詞における「寧楽宮」は何を意味するか。

 平城京大内裏相当部分を意味する「〇〇宮」という表記を題詞で確認すると、「ならのみや」に相当するのは、先にあげた2題の用例がある「寧楽宮」だけです。「平城宮」や「奈良宮」はありません。「藤原宮」も、次の4題だけです。そして「藤原京」という用例は唯一2-1-79~80歌の題詞に「寧楽宮」とともにあります)。

 2-1-50歌の題詞 藤原宮之役民作歌

 2-1-51歌の題詞 従明日香宮遷居藤原宮之後志貴皇子御作歌

 2-1-52~53歌の題詞 藤原宮御井

 2-1-78歌の題詞 (上記①の第三に記す)

⑧ 題詞にある「寧楽宮」の意を考えるに、 いつものように前後の歌と題詞との整合及び元資料確認を行います。

 「寧楽宮」とある題詞の5題前よりみると次のとおり。また、左注などを()に示します。2-1-83歌までの標目は、「藤原宮御宇天皇代」です。

2-1-71~72歌 大行天皇幸于難波宮時歌 (左注に「右一首忍坂部乙麿」、「右一首式部卿藤原宇合」)

2-1-73歌 長皇子御歌

2-1-74~75歌 大行天皇幸于吉野宮時歌 (左注に「右一首或云天皇御製歌」、「右一首長屋王」)

2-1-76歌 和銅元年戌申天皇御製歌

2-1-77歌 御名部皇女奉和御歌

2-1-78歌 和銅三年庚戌春二月従藤原宮遷于寧楽宮時御輿停長屋原廻望古郷御作歌

     (題詞割注に「一書云太上天皇御製」)

2-1-79~80歌 或本 従藤原京遷于寧楽宮時歌 (左注に「右歌作主未詳」)

2-1-81~83歌 和銅五年壬子夏四月遣長田王伊勢斎宮山辺御井作歌

     (左注に「右二首今案不似御井所作 若疑当時誦之古歌歟」)

  標目が「寧楽宮」となってから

2-1-84歌 長皇子與志貴皇子於佐紀宮俱宴歌

     (左注に「右一首長皇子」)

 この歌が巻一の最後の歌です。

 標目が「藤原宮御宇天皇代」の歌は、入唐した時の歌(2-1-62歌と2-1-63歌)以降、天皇が「〇〇宮」におられる時の歌が配列されてきています。2-1-73歌も「難波宮」に天皇がおられる時の歌、と諸氏も指摘しています。そして「吉野宮」に行かれた時の歌が2-1-77歌まで続いています。2-1-78歌以降は天皇が藤原宮に行かれた時の歌か宮を離れた時の歌か判断が微妙な歌があり(後述)ますが、造営中の題詞、官人の転居時の題詞、遷都後の伊勢神宮報告の題詞と配列してあるかに見え、暦年順といえます。下命を受けた皇子の旅行中における歌が最後の3首(左注によればそのとき披露された伝承歌)です。

 そして次の標目のもとにある歌となります。

⑨ 巻一の題詞は、暦年順に配列されていると見えます。平城京は、途中恭仁京などの短い時代がありますが、『萬葉集』の原案に編纂者が手をいれた後も都城でした。将来も都城であり続けるという設定は、『萬葉集』の最終編纂時には可能です。

 現に、「寧楽宮」で即位した天皇の「御代」は元正天皇以降代々続いているところです。

 『萬葉集』の少なくとも巻一と巻二に歴代天皇の御代を寿ぐ意図があるならば、将来即位する天皇をも含めた「代」を標目として用意し、予祝するような歌をそこに配列するのは、可能であろう、と思います。

 標目「藤原宮御宇天皇代」は既に複数の天皇を対象にしている「代」であり、「各天皇のうち藤原宮において国政をみた天皇(複数)の時代」、という意味に理解できたところです。

 2021/10/4付けブログで、標目「寧楽宮」は、「天皇代」という語句を省いているものの天皇位を追贈され志貴皇子の「御代」を標目にたてたのではないか」(「3.⑩」参照)と推測しましたが、編纂者は一代に限定していないかもしれません。

⑩ 標目のことから題詞のことにもどし、題詞冒頭から順に検討します。

 「和銅三年庚戌春二月」とは、正式に遷都する一か月前の時点です。

 遷都の進捗を『続日本紀』で確認します。元明天皇は、和銅元年2月平城へ遷都を詔で宣言し、9月に現地に赴くとともに造平城京司長官(2名)を指名し、12月に所謂地鎮祭をさせています。

 度々行幸し、動員した人々(役民)の逃亡を抑えようとした詔も出しています。和銅3年3月10日に遷都していますが、和銅4年9月でも「宮の垣」もできていないので臨時に軍を組織しています。大極殿和銅5年正月元日朝賀には間に合わせたらしく、大極殿と皇太子のお披露目を同時にしています。

 奈良文化財研究所の「ならぶんけんブログ」によれば、大極殿だけでも瓦は10万枚葺(ふ)かれており、平城京造営時には、奈良山丘陵一体に工場を設け集中的に生産し秋篠川経由で運ばれたこと、大極殿を取り囲む回廊は和銅3年正月と年号が書かれた荷札が整地した土から見つかっており、まだ地ならしの段階であったこと(ブログ145,173など)などがわかっています。瓦職人など技能者集団も全国から集められ、役民が多数居る状況でした。

 遷都一か月前には、天皇とその日常を支える女官その他の暮らすことになる建物(と日常を支える厨房薪炭倉庫トイレ等)だけでもできていたとの言及は『続日本紀』や 『萬葉集』にありません。少なくとも遷都直後に、「平城宮」で日常の政務をおこなうような施設が出来ていなかったのではないか、と『続日本紀』の記述等から断言ができます。

⑪ 次に、「従・・・時」とは、既に作詠時点を明示した後なので、「御輿停長屋原」という状況が生じた理由を記しているのではないか。造営の視察に赴いた時、ということと思います。

 漢字「時」には「一年の四季」のほか、「ときのながれ」とか「ある時点・ころ」の意もあります。「御輿停長屋原」ということは、宮中ではなく道中の途中で休憩している、ということを言っています。「御作歌」という表記からは皇族の「御輿」となります。

 天皇行幸であれば、『続日本紀』では「車駕」とも表現しています。また、「御輿」という表現は『続日本紀』にありません。「輿」とはのりものの意です。

 「逈望古郷」とは、「その時古郷が話題になった」を指しているのではないか。漢字「逈」は漢字「迥」の俗字であり、「逈望」とは「遠方をのぞみみる」意です。平城京と明日香宮の比較をしたのではないか。

 「古郷」という熟語は『大漢和辞典』にみあたりません。「郷」とは、「秦や漢などにおける行政区画の名」であり、「邑里・さと」、くに」と説明があります。「古郷」がどこを指して言っているのかは歌本文に示しているのでしょう。「故郷」という表記ではないので、自分の生まれたところとか元長く住んでいたところとか懐かしむあるいは感傷的な意味合いを含んでいない、と思います。

⑫ また、題詞にある「御作歌」という表現は、諸氏に、「皇族の方が作らせた歌」という訓と「皇族の方が作った歌」という訓が巻一にあります。天皇・皇太子の場合は「御製歌」(おほみうた)とか「御歌」と題詞に表記しています。「作歌」は巻一では皇族にも官人にも用いています。

 そうすると、題詞の表現で宮中でないのがはっきりしている2-1-78歌の「御作歌」は、天皇ではなく皇族が作る歌(あるいは作らせた歌)」と理解できます。「一書云・・・」という注には編纂者は関知していない、と思います。

⑬ それから、題詞にある「寧楽宮」という表記が、(繰り返し指摘しますが)『萬葉集』での初例です。「平城京の宮」の意を表記する方法は『続日本紀』に「平城宮」という表記があるものの、「寧楽宮」という表記はなく、いつ頃から世の中で用いられるようになったのかは『萬葉集』の用例が頼りです。

 しかし、この題詞の例だけで和銅3年には既に(一般に)用いられていたと断言できません。この題詞は、編纂者の手元に集まった資料に忠実に従い加除訂正をせず、記録したものなのかどうかが不明です。そして標目「寧楽宮」を追加した時点であるのか、場合によっては、『萬葉集』が公けにされたであろう時点(例えば平城天皇の御代)ということも有り得るということです。

 そのため、歌本文も題詞も、『萬葉集』記載のそれとその元資料は別々の可能性がある、として検討する必要があります(といういつもの結論になります)。

⑭ 以上の検討の範囲で、題詞の現代語訳を試みると、次のとおり。

 「和銅三年庚戌春二月、平城京に遷都しようとしている頃に、(その造営の視察と激励に行きその帰りに、)御輿を長屋原に停め、休憩し、古い郷を遠くに望みみて作る歌」

 御輿を利用できる人物は、平城京の造営現場を視察・激励をした皇族です。「古い郷」を話題にして、造営の進捗をどのように評価したのでしょうか。

⑮ 次に、歌本文を検討します。歌本文には、「なら」と訓む表記がありません。「ふじはらのみや」もありません。 

 2-1-78歌 飛鳥 明日香能里乎 置而伊奈婆 君之当者 不所見香聞安良武 一云 君之当乎 不見而香毛安良牟

(とぶとりの あすかのさとを おきていなば きみがあたりは みえずかもあらむ  一に云う きみがあたりをみずてかもあらむ)

 

 土屋文明氏は、この歌を、元明天皇の御製であり、遷都直前での行幸時のもの、そして「きみがあたり」とは(藤原京にも移り住まないで)「なほ明日香に留まれる方であらう」と指摘しています。これは、この歌における「御作歌」の理解に無理があります。

 吉村豊氏は、「恋愛歌に仕立てた望郷。哀惜の情を述べることによってもといた場所への鎮魂を行う」と指摘しています。しかし、鎮魂はその場所で行うか、祭る意思を明文化して行うと思います。 

⑯ 次に、現代語訳を、最初は、題詞を意識せず、試みます。

 初句「とぶとりの」は、明日香にかかる枕詞と割り切りました。『例解古語辞典』では、「天武天皇十四年、めでたいしるしの赤い鳥が献上されたので年号を「朱鳥(あかみとり)」と定めたことから、浄御原宮と、その所在地の「明日香」とに「とぶとりの」の枕詞を付けるようになった」、と解説しています。

 四句にある「君(きみ)」は、『例解古語辞典』には、名詞として「a天皇 b自分の仕える人・主人 など」、代名詞として「c対称。あなた」とあります。題詞を意識しないのであれば、ここでの「君」は代名詞でしょう。

 「明日香の里(に何か)を置いて去ることになれば「きみがあたり」が見えなくなるだろう」、即ち、

 「明日香の里に君を置いて行くとなれば、君の姿も声も聞けなくなるだろう」(78歌第1案)

という女に未練を残した(待っていてくれと頼んでいる)挨拶歌ではないか、と理解できます。

 もう一案あります。「君」の性別を入れ替えて、

 「明日香の里に私を置いて行くならば、君の姿も声も聞けなくなるだろう」(78歌第2案)

という女が男との別れを詠う歌、となります。今日が、私のいる明日香という集落を離れてゆく貴方の見納めとなるでしょう、という挨拶歌です。

⑰ 78歌第1案は、明日香の里を去ると詠うのですから、藤原京に遷都した時の歌の(多分官人の詠った)相聞歌という整理となります。

 しかし、明日香の宮と藤原宮は約4kmの距離にある近さです。官人の歌としては不自然です。藤原京造営時にも役民は各地から来ていますから、あるいは、役民として来ていた者の都(藤原京又は平城京)へ上る際の相聞歌の可能性もあります。例えば、

 とりかよふ 〇〇(地名)のさとを おきていなば きみがあたりは みえずかもあらむ (78歌元資料案)

という歌が伝承されてきていたのではないか。

 なお、平城京造営時の官人の歌という整理にも可能性があります。

 78歌第2案は、78歌元資料案が、旅行途中の宿泊地における遊行女婦の挨拶歌であっても、明日香の里の女が、藤原京勤務となる官人へ求愛している相聞歌ではないか。

⑱ 次に題詞を踏まえて検討します。

 題詞は、遷都一か月前の平城京(特に平城宮)造営地の視察の帰りの歌であることを示唆しています。

 藤原京の造営の経験に鑑み所要日数は見積ることができたのに、元明天皇は遷都を急いでいるかにみえます。聖武天皇への譲位の工程表などが念頭にあったのでしょうか。あるいは遷都の日時は現場の状況に関わりなく亀筮などから決まっていたのかもしれません。(『続日本紀』によれば)天皇も何度か現地に行かれていますので造成の進捗は常々報告させてご承知であるはずなので、「御輿」を利用できる人物は、遷都の儀式を行える建物と広場と(とりあえずでもよいから)天皇が暮らすことになる建物の造営の進捗状況の評価を改めてこの歌に示したのではないか。それは造営現場の者たちをねぎらった歌ではないか、と思います。

 初句「とぶとりの」とは、「明日香」の無意の枕詞と割り切ります。今、新都造営の視察帰りでの作詠であるので、二句にある「明日香能里」とは、明日香宮を指した語句ではないか、と思います。

 この歌は、四句にある「君」に、仕えたことのある天皇の意をも掛けることによって歌意をひろげています。

 現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「明日香の里(に何か)を置いて去ることになれば「きみがあたり」が見えなくなるだろう。(明日香の地を後にして、このような新たな都で日本を統(す)べるのだから、天武天皇の時代は遥か昔となりますね。)」(78歌第3案)

⑲ 日本は白村江で敗れた後、新羅などとの再度の戦いに備えて天武天皇律令制を実施しようとするなど国力増強に努め、その集大成がこの新都なのだ、という感慨を詠い、かつその都の造営の進捗は、藤原京の造営時と比べても遜色ない、と順調な進捗を寿いだのではないか。

 和銅5年(712)になり烽(とぶひ)を「平城に通」じさせているのは、軍事中枢をこの時点まで藤原京から動かせなかったことであり平城京の「寧楽宮」が完成していなかったことを示しています。和銅3年3月10日の遷都は象徴的な儀礼で済ましていたのであろう、と思います。

 「御輿」を利用できる人物をさがすと、天武天皇の息子ならば、例えば穂積親王慶雲2年(705)より知太政官事)、孫ならば長屋王和銅2年(709)従三位宮内卿に叙任され公卿に列する)などがおられます。

⑳ 題詞と歌本文からは、このように「78歌第3案」が得られましたが、このように理解できる「御作歌」を、『萬葉集』の編纂者がここに配列した意図は、まだ考慮の外になっています。

 次の(2-1-79~80歌の)題詞にも「寧楽宮」とあり、そのもとにある歌の検討後に改めて編纂者の意図に触れたい、と思います。

 題詞を作文した時点の検討も、また「寧楽宮」という表記がいつ頃から官人に用いられているのかも宿題となりました。

 「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 (2021/10/18   上村 朋)

付記1.『萬葉集』における「寧楽」という表記例及びと歌における「なら」と訓む歌について

①『萬葉集』における「寧楽宮」という表記関連の例と訓について、『新編国歌大観』により確認した。

②『萬葉集』における「寧楽宮」という表記の例を表Dに示す。

③ このほか、次回以降に、「寧楽宮」以外の「寧楽」の用例(表E)、句頭の表記の訓が「なら」とある歌で、その意が「都城・地名・山名と思われる歌(表F)及び参考として万葉集で「平城」表記の用例(表G)も示す。

表D 『萬葉集』における「寧楽宮」とある例  (2021/10/4 現在)

調査対象区分

巻一と巻二

巻三と巻四

巻五以降

部立ての名で

無し

無し

無し

標目で

巻一と巻二

無し

無し

題詞で

2-1-78歌(割注し「一書云太上天皇御製」)

2-1-79~80歌(左注し「右歌作主未詳」)

無し

無し

題詞の割注で

無し

巻四 2-1-533歌(割注して「寧楽宮即位天皇也)

無し

歌本文で

無し

無し

無し

歌本文の左注で

無し

無し

無し

注1)歌は、『新編国歌大観』による。「巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での番号」で示す。

付記2.「あをによし」について

① 『萬葉集』に「あをによし」と訓む歌は27首ある。巻一には3首ある。その3首の作詠時点は、歌の理解からは、2-1-17歌、2-1-29歌、2-1-80歌の順になる。

② 2-1-17歌は近江に下る際の額田王の歌で「・・・青丹吉 奈良能山乃 山際・・・」と詠う。2-1-29歌は「過近江旧都時」と題詞にある人麻呂歌で「・・・倭乎置而 青丹吉 平山乎超・・・」と詠う。2-1-80歌は、平城京造営時期の歌で「青丹吉 寧楽乃家爾者・・・」と詠う。

③ 前2首は、現代の奈良丘陵を「なら」と呼び、それを修飾している語句となっている。3首目の「なら」は、実景であれば平城京造営のための役民の住居や、瓦を焼く技能集団の住居を指し得る。瓦葺きではない、藤原京での官人の屋敷とはくらべものにならない住居を修飾している語句となっている。

④ 太田容子氏の「枕詞「あをによし」の意味とその変容」(baika.ac.jp/~ichinose/o/202009ota.pdf )は、記紀の歌謡と『萬葉集』と平安時代の主な和歌集を対象に考察し、「あをによし」が掛かる語句の変遷があり、それは作詠時点に特徴がある、と指摘している。一番古い時代は、「なら(の)やま」(現代の奈良山丘陵)、即ち近江へ通う道のある「やま」に掛かると指摘している。

⑤ また、氏は、大和盆地から奈良山を越える際、旅の安全を願って通過する土地を褒める「道行の歌」を誦謡したと言われているので、足元の「土」を讃える意味をも含んだ言葉であったのではないかと推測している。

⑥ 巻一の3首にある「あをによし」は、初期の例であり奈良山の辺りで(青色の顔料にする)「あを(青)に(土)」を採取していたことから、奈良(山)を修飾している、と思う。「よ」「し」は、感動・詠嘆を表す間投助詞。2-1-80歌は、今後検討するが巻一の最後の編纂時に「なら」の表記が「寧楽」に替わったのではないか。

⑦(『例解古語辞典』は、「奈良で「あをに」を産したことから「奈良」にかかる」と説明する。『デジタル大辞泉』では、「「奈良」にかかる。奈良坂顔料の青土を産したところからという。」とある。

(付記終わり 2021/10/18   上村 朋)

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 寧楽宮とは その1

 前回(2021/10/11)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 万葉の挽歌は死者封じ込め」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 寧楽宮とは その1」と題して、記します。(上村 朋)

1.~5.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行い、3-4-23歌まではすべて恋の歌であることを確認した。3-4-24歌については、類似歌(『萬葉集』の歌)の検討として、『萬葉集』巻一と巻二の構成を検討している。なお、歌の引用は『新編国歌大観』による。)

6.再考 類似歌 その4 「寧楽宮」の用例 2-1-78歌

① 『萬葉集』歌での「寧楽宮」表記例のうち、今回から題詞にある「寧楽宮」とそのもとにある歌を検討します。

 類似歌2-1-439歌の重要な参考歌(2-1-228歌)は、『萬葉集』巻二の挽歌の、標目「寧楽宮」にある歌です。『萬葉集』で「寧楽宮」という表記の用例を、確認しました(付記1.表D参照)。その結果は、つぎのとおりでした。なお、表記の「寧楽宮」は、古来「ならのみや」と訓んでいます。

第一 「寧楽宮」という表記を、部立ての名(の一部)に用いている例はない。

第二 「寧楽宮」という表記を、標目の名に用いているのは、標目のある巻一と巻二だけである。

第三 「寧楽宮」という表記を、題詞に用いている例は、巻一の雑歌にある次の2題だけである。

2-1-78歌の題詞:和銅三年庚戌春二月従藤原宮遷于寧楽宮時御輿停長屋原逈望古郷作歌 

(割注して 「一書云 太上天皇御製」とある。)

2-1-79歌と2-1-80歌の題詞:或本 従藤原京遷于寧楽宮時歌 

(左注があり「右歌 作主未詳」とある)

第四 題詞の割注に、「寧楽宮」という表記が一例ある。巻四にある2-1-533の題詞の割注である。この歌には左注もある。

   題詞:天皇海上女王御歌一首

その割注:「寧楽宮即位天皇也」

(歌の左注あり「右今案 此歌擬古之作也 但以時当便賜斯歌歟」)

第五 「寧楽宮」という表記をしている歌本文の用例はない。

② 『日本書記』及び『古事記』に、「寧楽宮」と表記している用例もありません。

 『萬葉集』は、歌においては、当時の日本語での発音を書き留める手段として、官人が、漢字を使用しています。その漢字の読み方には、公文書で漢文を使用する建前の官人がその漢文を独特な訓読をしているのでその訓も用いています。題詞などの作文は、漢文体ですが、その訓も独特です。

③ そのため、漢字には、一般的な漢文(中国文)での意と国字の意の両方が既にあります。

「寧」は、漢字として「やすらか・やすい」意の場合、「安」にほぼ同じですが、安定している意味合いを含んでいます。「安」は「危」と対する語です(『角川大字源』)。

「寧楽」という表記は、漢字としては「ねいらく」と読み、「安んじ楽しむ」意です(「同上」)。『墨子』の「尚賢中」篇の「寧楽在君 憂惑在臣」(寧楽は君に在りて憂慼(いうせき)は臣に在り)を例にあげています。(聖王の時代を例にあげ君臣の間が親密であったことを指している章句です)。

萬葉集』では、「なら」と発音する日本語の語句をも意味しています。

『角川大字源』では国字として「なら」と読み、「奈良のこと」をいうと説明しています(その漢字「奈」は「果樹の名。あかなしの木。またからなし(果実が他に比しておおきいリンゴの一種)。べにりんご。」とあります(同上)。

「宮」という表記は、漢字としては、a大きな建物、bいえ・住居、c天子(またはきさき)のいるところ(皇居)、d先祖の御霊屋(みたまや)・宗廟e道教の寺・仏寺・仙人のすまい、fかこむ・とりかこむなどを意味しています。国字としては、みや・神社の意です(同上)。「みや」とは、「神社や皇居、皇族の住居・御殿」と『例解古語辞典』にはあります。

④ 次に、「平城」とは、漢字としては、中国の漢代の県名です。今の山西省大同市の東にあたり、漢の高祖が匈奴を討とうとしたとき七日間(白登山に)包囲され、脱出せざるを得なかった地です。それは、中国の帝国(漢)に対して、周囲の国の一つ匈奴が勝利した(そして匈奴が以後漢を属国扱いにするようになった)ところです。それに拠った都城の名が「平城京」なのでしょうか。

 「平城京」に関しては、和銅元年2月の遷都詔には「平城之地」(へいぜいのち)と記し(訓みならわされ)ていますが、同年9月の巡幸の記事には「平城」(なら)、同10月の記事には「平城宮」(ならのみや)とあります。国字としては「なら」と発音されています。

 「ならのみやこ」の謂れには諸説があるそうです。

⑤ 「平城京」の位置は、奈良盆地の北端部にあたり、北に向かって現在の奈良山丘陵を越えれば、木津川の水運が利用できます。淀川と瀬戸内を経由して大宰府対馬朝鮮半島に至ることができます。宇治川をさかのぼり琵琶湖を経由して北陸(日本海、さらに朝鮮半島・大陸)に至り、また陸路では東山道陸奥等に至ることができます。その奈良山丘陵(南斜面の東側が「佐保」、西側が「佐紀」)は、奈良盆地の西にある生駒山脈と比べれば越えやすい丘陵地帯です。

 2-1-50歌によれば、近江国の木材は、現在の奈良山丘陵を越えて藤原京に到達しており、奈良山丘陵経由の道は明日香に宮を置いていたころより利用されています。また、奈良山丘陵は、2-1-17歌や2-1-29歌には「青丹吉 奈良能山乃」、「青丹吉 平山乎超」と詠われており、山城国に通じる道がいくつかあり、「なら(の)やま)」と呼ばれています。その「なら(の)やま」を修飾している「あをによし」という語句は後には「なら」の枕詞になりましたが、そもそもは「なら(の)やま」(つまり盆地北端の丘陵)には青色の顔料にする土の採取場があったことからの修飾だと思います。当時は、峠を越える際の旅の安全を願って通過する土地を褒める「道行の歌」を誦謡する風習もあり、それとの関係もある、と思えます。(付記2.参照)。

 そうであれば、採取・選別等の基地(臨時宿泊所)もあって、そこも「なら」という地名(宿泊所名)として遷都以前に知られていたと思います。

 官人は、奈良盆地の北にみえるそのような照葉樹が広がる山を、「なら(の)やま)」と呼びならわしており、そ丘陵に近い宮となるので「平城京」を「ならのみやこ」、天皇の住居を「ならのみや」」という呼称を通称か愛称というかたちで用いていたのでしょうか。その「なら」は、発音を追って別の表記がその後生まれたのではないか。しかし「ならやま」に用いられた「平」字を用いて都城名を表すことは、『萬葉集』などにありません。

 また、平城京への遷都当時の造成土から、「奈良京」と書かれた木簡が発掘されており(平城京右京一条二坊四坪遺跡)、762年の正倉院文にも「奈良京」の表記があるそうです。(奈良文化財研究所の「木簡庫」のデータにおいて、「寧楽」と「平城京」とを本文検索しましたが該当データはありませんでした。)

 平城遷都が現実的になって以降に「寧楽」を用いて都城名を表すことが生まれたと推測はできます。

⑥ さて、「寧楽宮」という表記は、巻一、巻二にある標目においては、「藤原宮」など「・・・宮」と同じスタイルです。その訓もありますが、音で読み上げても官人は理解できたと思います。

 「藤原宮」という語句は『日本書記』にあり、「新益京」(いわゆる藤原京)の天皇の居住空間(それは政策決定の空間でもある)内裏や大内裏相当部分を呼称しています。地名ではなく「藤原」という天皇と縁のある氏の名で大内裏等相当部分を(讃えるトーンで)形容しています。それにならえば、「藤原京」の後に新たに造った都にある大内裏等相当部分を、讃える意の形容として熟語「寧楽」の意を加えて用いた宮名が「寧楽宮」と推測できます。だから、標目にいう「寧楽宮」とは、平城京大内裏等相当部分を意味する用語である、といえます。

 2-1-533歌の題詞の割注をした人物もそのように理解しているとみえます。聖武天皇神亀元年(724)2月4日、平城京で即位しています。

 ちなみに、現在「平城京」と言っている都は、『続日本紀』に引用されている宣命に「平城之大宮」とあります。『萬葉集』の歌でも「平城京師」・「平城京」という表記(その訓は「ならのみやこ」)があり、「奈良」、「名良」、「楢」などとならんで「寧楽」という漢字を用いた都城名があります(付記1.参照)。

⑦ では、『萬葉集』での題詞における「寧楽宮」は何を意味するか。

 平城京大内裏相当部分を意味する「〇〇宮」という表記を題詞で確認すると、「ならのみや」に相当するのは、先にあげた2題の用例がある「寧楽宮」だけです。「平城宮」や「奈良宮」はありません。「藤原宮」も、次の4題だけです。そして「藤原京」という用例は唯一2-1-79~80歌の題詞に「寧楽宮」とともにあります)。

 2-1-50歌の題詞 藤原宮之役民作歌

 2-1-51歌の題詞 従明日香宮遷居藤原宮之後志貴皇子御作歌

 2-1-52~53歌の題詞 藤原宮御井

 2-1-78歌の題詞 (上記①の第三に記す)

⑧ 題詞にある「寧楽宮」の意を考えるに、 いつものように前後の歌と題詞との整合及び元資料確認を行います。

 「寧楽宮」とある題詞の5題前よりみると次のとおり。また、左注などを()に示します。2-1-83歌までの標目は、「藤原宮御宇天皇代」です。

2-1-71~72歌 大行天皇幸于難波宮時歌 (左注に「右一首忍坂部乙麿」、「右一首式部卿藤原宇合」)

2-1-73歌 長皇子御歌

2-1-74~75歌 大行天皇幸于吉野宮時歌 (左注に「右一首或云天皇御製歌」、「右一首長屋王」)

2-1-76歌 和銅元年戌申天皇御製歌

2-1-77歌 御名部皇女奉和御歌

2-1-78歌 和銅三年庚戌春二月従藤原宮遷于寧楽宮時御輿停長屋原廻望古郷御作歌

     (題詞割注に「一書云太上天皇御製」)

2-1-79~80歌 或本 従藤原京遷于寧楽宮時歌 (左注に「右歌作主未詳」)

2-1-81~83歌 和銅五年壬子夏四月遣長田王伊勢斎宮山辺御井作歌

     (左注に「右二首今案不似御井所作 若疑当時誦之古歌歟」)

  標目が「寧楽宮」となってから

2-1-84歌 長皇子與志貴皇子於佐紀宮俱宴歌

     (左注に「右一首長皇子」)

 この歌が巻一の最後の歌です。

 標目が「藤原宮御宇天皇代」の歌は、入唐した時の歌(2-1-62歌と2-1-63歌)以降、天皇が「〇〇宮」におられる時の歌が配列されてきています。2-1-73歌も「難波宮」に天皇がおられる時の歌、と諸氏も指摘しています。そして「吉野宮」に行かれた時の歌が2-1-77歌まで続いています。2-1-78歌以降は天皇が藤原宮に行かれた時の歌か宮を離れた時の歌か判断が微妙な歌があり(後述)ますが、造営中の題詞、官人の転居時の題詞、遷都後の伊勢神宮報告の題詞と配列してあるかに見え、暦年順といえます。下命を受けた皇子の旅行中における歌が最後の3首(左注によればそのとき披露された伝承歌)です。

 そして次の標目のもとにある歌となります。

⑨ 巻一の題詞は、暦年順に配列されていると見えます。平城京は、途中恭仁京などの短い時代がありますが、『萬葉集』の原案に編纂者が手をいれた後も都城でした。将来も都城であり続けるという設定は、『萬葉集』の最終編纂時には可能です。

 現に、「寧楽宮」で即位した天皇の「御代」は元正天皇以降代々続いているところです。

 『萬葉集』の少なくとも巻一と巻二に歴代天皇の御代を寿ぐ意図があるならば、将来即位する天皇をも含めた「代」を標目として用意し、予祝するような歌をそこに配列するのは、可能であろう、と思います。

 標目「藤原宮御宇天皇代」は既に複数の天皇を対象にしている「代」であり、「各天皇のうち藤原宮において国政をみた天皇(複数)の時代」、という意味に理解できたところです。

 2021/10/4付けブログで、標目「寧楽宮」は、「天皇代」という語句を省いているものの天皇位を追贈され志貴皇子の「御代」を標目にたてたのではないか」(「3.⑩」参照)と推測しましたが、編纂者は一代に限定していないかもしれません。

⑩ 標目のことから題詞のことにもどし、題詞冒頭から順に検討します。

 「和銅三年庚戌春二月」とは、正式に遷都する一か月前の時点です。

 遷都の進捗を『続日本紀』で確認します。元明天皇は、和銅元年2月平城へ遷都を詔で宣言し、9月に現地に赴くとともに造平城京司長官(2名)を指名し、12月に所謂地鎮祭をさせています。

 度々行幸し、動員した人々(役民)の逃亡を抑えようとした詔も出しています。和銅3年3月10日に遷都していますが、和銅4年9月でも「宮の垣」もできていないので臨時に軍を組織しています。大極殿和銅5年正月元日朝賀には間に合わせたらしく、大極殿と皇太子のお披露目を同時にしています。

 奈良文化財研究所の「ならぶんけんブログ」によれば、大極殿だけでも瓦は10万枚葺(ふ)かれており、平城京造営時には、奈良山丘陵一体に工場を設け集中的に生産し秋篠川経由で運ばれたこと、大極殿を取り囲む回廊は和銅3年正月と年号が書かれた荷札が整地した土から見つかっており、まだ地ならしの段階であったこと(ブログ145,173など)などがわかっています。瓦職人など技能者集団も全国から集められ、役民が多数居る状況でした。

 遷都一か月前には、天皇とその日常を支える女官その他の暮らすことになる建物(と日常を支える厨房薪炭倉庫トイレ等)だけでもできていたとの言及は『続日本紀』や 『萬葉集』にありません。少なくとも遷都直後に、「平城宮」で日常の政務をおこなうような施設が出来ていなかったのではないか、と『続日本紀』の記述等から断言ができます。

⑪ 次に、「従・・・時」とは、既に作詠時点を明示した後なので、「御輿停長屋原」という状況が生じた理由を記しているのではないか。造営の視察に赴いた時、ということと思います。

 漢字「時」には「一年の四季」のほか、「ときのながれ」とか「ある時点・ころ」の意もあります。「御輿停長屋原」ということは、宮中ではなく道中の途中で休憩している、ということを言っています。「御作歌」という表記からは皇族の「御輿」となります。

 天皇行幸であれば、『続日本紀』では「車駕」とも表現しています。また、「御輿」という表現は『続日本紀』にありません。「輿」とはのりものの意です。

 「逈望古郷」とは、「その時古郷が話題になった」を指しているのではないか。漢字「逈」は漢字「迥」の俗字であり、「逈望」とは「遠方をのぞみみる」意です。平城京と明日香宮の比較をしたのではないか。

 「古郷」という熟語は『大漢和辞典』にみあたりません。「郷」とは、「秦や漢などにおける行政区画の名」であり、「邑里・さと」、くに」と説明があります。「古郷」がどこを指して言っているのかは歌本文に示しているのでしょう。「故郷」という表記ではないので、自分の生まれたところとか元長く住んでいたところとか懐かしむあるいは感傷的な意味合いを含んでいない、と思います。

⑫ また、題詞にある「御作歌」という表現は、諸氏に、「皇族の方が作らせた歌」という訓と「皇族の方が作った歌」という訓が巻一にあります。天皇・皇太子の場合は「御製歌」(おほみうた)とか「御歌」と題詞に表記しています。「作歌」は巻一では皇族にも官人にも用いています。

 そうすると、題詞の表現で宮中でないのがはっきりしている2-1-78歌の「御作歌」は、天皇ではなく皇族が作る歌(あるいは作らせた歌)」と理解できます。「一書云・・・」という注には編纂者は関知していない、と思います。

⑬ それから、題詞にある「寧楽宮」という表記が、(繰り返し指摘しますが)『萬葉集』での初例です。「平城京の宮」の意を表記する方法は『続日本紀』に「平城宮」という表記があるものの、「寧楽宮」という表記はなく、いつ頃から世の中で用いられるようになったのかは『萬葉集』の用例が頼りです。

 しかし、この題詞の例だけで和銅3年には既に(一般に)用いられていたと断言できません。この題詞は、編纂者の手元に集まった資料に忠実に従い加除訂正をせず、記録したものなのかどうかが不明です。そして標目「寧楽宮」を追加した時点であるのか、場合によっては、『萬葉集』が公けにされたであろう時点(例えば平城天皇の御代)ということも有り得るということです。

 そのため、歌本文も題詞も、『萬葉集』記載のそれとその元資料は別々の可能性がある、として検討する必要があります(といういつもの結論になります)。

⑭ 以上の検討の範囲で、題詞の現代語訳を試みると、次のとおり。

 「和銅三年庚戌春二月、平城京に遷都しようとしている頃に、(その造営の視察と激励に行きその帰りに、)御輿を長屋原に停め、休憩し、古い郷を遠くに望みみて作る歌」

 御輿を利用できる人物は、平城京の造営現場を視察・激励をした皇族です。「古い郷」を話題にして、造営の進捗をどのように評価したのでしょうか。

⑮ 次に、歌本文を検討します。歌本文には、「なら」と訓む表記がありません。「ふじはらのみや」もありません。 

 2-1-78歌 飛鳥 明日香能里乎 置而伊奈婆 君之当者 不所見香聞安良武 一云 君之当乎 不見而香毛安良牟

(とぶとりの あすかのさとを おきていなば きみがあたりは みえずかもあらむ  一に云う きみがあたりをみずてかもあらむ)

 

 土屋文明氏は、この歌を、元明天皇の御製であり、遷都直前での行幸時のもの、そして「きみがあたり」とは(藤原京にも移り住まないで)「なほ明日香に留まれる方であらう」と指摘しています。これは、この歌における「御作歌」の理解に無理があります。

 吉村豊氏は、「恋愛歌に仕立てた望郷。哀惜の情を述べることによってもといた場所への鎮魂を行う」と指摘しています。しかし、鎮魂はその場所で行うか、祭る意思を明文化して行うと思います。 

⑯ 次に、現代語訳を、最初は、題詞を意識せず、試みます。

 初句「とぶとりの」は、明日香にかかる枕詞と割り切りました。『例解古語辞典』では、「天武天皇十四年、めでたいしるしの赤い鳥が献上されたので年号を「朱鳥(あかみとり)」と定めたことから、浄御原宮と、その所在地の「明日香」とに「とぶとりの」の枕詞を付けるようになった」、と解説しています。

 四句にある「君(きみ)」は、『例解古語辞典』には、名詞として「a天皇 b自分の仕える人・主人 など」、代名詞として「c対称。あなた」とあります。題詞を意識しないのであれば、ここでの「君」は代名詞でしょう。

 「明日香の里(に何か)を置いて去ることになれば「きみがあたり」が見えなくなるだろう」、即ち、

 「明日香の里に君を置いて行くとなれば、君の姿も声も聞けなくなるだろう」(78歌第1案)

という女に未練を残した(待っていてくれと頼んでいる)挨拶歌ではないか、と理解できます。

 もう一案あります。「君」の性別を入れ替えて、

 「明日香の里に私を置いて行くならば、君の姿も声も聞けなくなるだろう」(78歌第2案)

という女が男との別れを詠う歌、となります。今日が、私のいる明日香という集落を離れてゆく貴方の見納めとなるでしょう、という挨拶歌です。

⑰ 78歌第1案は、明日香の里を去ると詠うのですから、藤原京に遷都した時の歌の(多分官人の詠った)相聞歌という整理となります。

 しかし、明日香の宮と藤原宮は約4kmの距離にある近さです。官人の歌としては不自然です。藤原京造営時にも役民は各地から来ていますから、あるいは、役民として来ていた者の都(藤原京又は平城京)へ上る際の相聞歌の可能性もあります。例えば、

 とりかよふ 〇〇(地名)のさとを おきていなば きみがあたりは みえずかもあらむ (78歌元資料案)

という歌が伝承されてきていたのではないか。

 なお、平城京造営時の官人の歌という整理にも可能性があります。

 78歌第2案は、78歌元資料案が、旅行途中の宿泊地における遊行女婦の挨拶歌であっても、明日香の里の女が、藤原京勤務となる官人へ求愛している相聞歌ではないか。

⑱ 次に題詞を踏まえて検討します。

 題詞は、遷都一か月前の平城京(特に平城宮)造営地の視察の帰りの歌であることを示唆しています。

 藤原京の造営の経験に鑑み所要日数は見積ることができたのに、元明天皇は遷都を急いでいるかにみえます。聖武天皇への譲位の工程表などが念頭にあったのでしょうか。あるいは遷都の日時は現場の状況に関わりなく亀筮などから決まっていたのかもしれません。(『続日本紀』によれば)天皇も何度か現地に行かれていますので造成の進捗は常々報告させてご承知であるはずなので、「御輿」を利用できる人物は、遷都の儀式を行える建物と広場と(とりあえずでもよいから)天皇が暮らすことになる建物の造営の進捗状況の評価を改めてこの歌に示したのではないか。それは造営現場の者たちをねぎらった歌ではないか、と思います。

 初句「とぶとりの」とは、「明日香」の無意の枕詞と割り切ります。今、新都造営の視察帰りでの作詠であるので、二句にある「明日香能里」とは、明日香宮を指した語句ではないか、と思います。

 この歌は、四句にある「君」に、仕えたことのある天皇の意をも掛けることによって歌意をひろげています。

 現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「明日香の里(に何か)を置いて去ることになれば「きみがあたり」が見えなくなるだろう。(明日香の地を後にして、このような新たな都で日本を統(す)べるのだから、天武天皇の時代は遥か昔となりますね。)」(78歌第3案)

⑲ 日本は白村江で敗れた後、新羅などとの再度の戦いに備えて天武天皇律令制を実施しようとするなど国力増強に努め、その集大成がこの新都なのだ、という感慨を詠い、かつその都の造営の進捗は、藤原京の造営時と比べても遜色ない、と順調な進捗を寿いだのではないか。

 和銅5年(712)になり烽(とぶひ)を「平城に通」じさせているのは、軍事中枢をこの時点まで藤原京から動かせなかったことであり平城京の「寧楽宮」が完成していなかったことを示しています。和銅3年3月10日の遷都は象徴的な儀礼で済ましていたのであろう、と思います。

 「御輿」を利用できる人物をさがすと、天武天皇の息子ならば、例えば穂積親王慶雲2年(705)より知太政官事)、孫ならば長屋王和銅2年(709)従三位宮内卿に叙任され公卿に列する)などがおられます。

⑳ 題詞と歌本文からは、このように「78歌第3案」が得られましたが、このように理解できる「御作歌」を、『萬葉集』の編纂者がここに配列した意図は、まだ考慮の外になっています。

 次の(2-1-79~80歌の)題詞にも「寧楽宮」とあり、そのもとにある歌の検討後に改めて編纂者の意図に触れたい、と思います。

 題詞を作文した時点の検討も、また「寧楽宮」という表記がいつ頃から官人に用いられているのかも宿題となりました。

 「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 (2021/10/18   上村 朋)

付記1.『萬葉集』における「寧楽」という表記例及びと歌における「なら」と訓む歌について

①『萬葉集』における「寧楽宮」という表記関連の例と訓について、『新編国歌大観』により確認した。

②『萬葉集』における「寧楽宮」という表記の例を表Dに示す。

③ このほか、次回以降に、「寧楽宮」以外の「寧楽」の用例(表E)、句頭の表記の訓が「なら」とある歌で、その意が「都城・地名・山名と思われる歌(表F)及び参考として万葉集で「平城」表記の用例(表G)も示す。

表D 『萬葉集』における「寧楽宮」とある例  (2021/10/4 現在)

調査対象区分

巻一と巻二

巻三と巻四

巻五以降

部立ての名で

無し

無し

無し

標目で

巻一と巻二

無し

無し

題詞で

2-1-78歌(割注し「一書云太上天皇御製」)

2-1-79~80歌(左注し「右歌作主未詳」)

無し

無し

題詞の割注で

無し

巻四 2-1-533歌(割注して「寧楽宮即位天皇也)

無し

歌本文で

無し

無し

無し

歌本文の左注で

無し

無し

無し

注1)歌は、『新編国歌大観』による。「巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での番号」で示す。

付記2.「あをによし」について

① 『萬葉集』に「あをによし」と訓む歌は27首ある。巻一には3首ある。その3首の作詠時点は、歌の理解からは、2-1-17歌、2-1-29歌、2-1-80歌の順になる。

② 2-1-17歌は近江に下る際の額田王の歌で「・・・青丹吉 奈良能山乃 山際・・・」と詠う。2-1-29歌は「過近江旧都時」と題詞にある人麻呂歌で「・・・倭乎置而 青丹吉 平山乎超・・・」と詠う。2-1-80歌は、平城京造営時期の歌で「青丹吉 寧楽乃家爾者・・・」と詠う。

③ 前2首は、現代の奈良丘陵を「なら」と呼び、それを修飾している語句となっている。3首目の「なら」は、実景であれば平城京造営のための役民の住居や、瓦を焼く技能集団の住居を指し得る。瓦葺きではない、藤原京での官人の屋敷とはくらべものにならない住居を修飾している語句となっている。

④ 太田容子氏の「枕詞「あをによし」の意味とその変容」(baika.ac.jp/~ichinose/o/202009ota.pdf )は、記紀の歌謡と『萬葉集』と平安時代の主な和歌集を対象に考察し、「あをによし」が掛かる語句の変遷があり、それは作詠時点に特徴がある、と指摘している。一番古い時代は、「なら(の)やま」(現代の奈良山丘陵)、即ち近江へ通う道のある「やま」に掛かると指摘している。

⑤ また、氏は、大和盆地から奈良山を越える際、旅の安全を願って通過する土地を褒める「道行の歌」を誦謡したと言われているので、足元の「土」を讃える意味をも含んだ言葉であったのではないかと推測している。

⑥ 巻一の3首にある「あをによし」は、初期の例であり奈良山の辺りで(青色の顔料にする)「あを(青)に(土)」を採取していたことから、奈良(山)を修飾している、と思う。「よ」「し」は、感動・詠嘆を表す間投助詞。2-1-80歌は、今後検討するが巻一の最後の編纂時に「なら」の表記が「寧楽」に替わったのではないか。

⑦(『例解古語辞典』は、「奈良で「あをに」を産したことから「奈良」にかかる」と説明する。『デジタル大辞泉』では、「「奈良」にかかる。奈良坂顔料の青土を産したところからという。」とある。

(付記終わり 2021/10/18   上村 朋)