わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 題詞の寧楽

 前回(2021/11/8)、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 寧楽宮とは その3」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 題詞の寧楽」と題して、記します。(上村 朋 追記 2022/3/2 誤字脱字を訂正した。)

1.~10.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行い、3-4-23歌まではすべて恋の歌であることを確認した。3-4-24歌については類似歌(『萬葉集』の歌)の検討のため『萬葉集』巻一と巻二の標目「寧楽宮」を検討している。なお、歌は『新編国歌大観』より引用する。)

11.再考 類似歌 その8 題詞の「寧楽」 その1 

① 類似歌2-1-439歌の重要な参考歌(2-1-228歌)の理解のため、『萬葉集』歌での「寧楽宮」表記の意を確認中です。

 今回、題詞にある「寧楽+宮以外の語句」という表記での「寧楽」(訓は「なら」)の意を、検討します。

 『萬葉集』における「寧楽宮」あるいは「寧楽+宮以外の語句」という表記の用例は、付記1.表D以下のようにあります。

② それらの用例を、語句別題詞歌本文等別に整理すると、次の表のようになります。

「寧楽宮」、「寧楽山」及び「寧楽故郷」は題詞にのみの用例であり、寧楽宅などは題詞以外にも用例があります。

表 『萬葉集』での「寧楽」と言う表記の用例一覧 (標目での用例を除く) (2021/11/8現在)

所在の区分

      表記の区分

寧楽宮

寧楽山

寧楽宅

寧楽(乃)

寧楽京

寧楽故郷

寧楽乃京師

その他の寧楽

計(例)

題詞

2-1-78

2-1-79~

2-1-303~

2-1-768~

2-1-1636~

2-1-974~

2-1-1048~

2-1-1051~

2-1-1608~

--

 --

 9

歌本文

--

 --

 --

2-1-80

2-1-334

 --

2-1-331

2-1-1048

2-1-1608

2-1-303

2-1-1553

 7

歌本文左注

--

--

2-1-1468

--

--

--

--

2-1-262

 2

計(例)

 2

 1

 3

 2

 2

 2

 3

 3

 18

注1)歌は、『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号で示す。

 

③ 「寧楽宮」は既に検討しました(付記2.参照)ので、「寧楽山」よりはじめます。1例あります。

巻三 雑歌  2-1-303~304歌

   題詞:長屋王駐馬寧楽山作歌二首 

 部立てが雑歌なので、天皇との関係を巻一と巻二の歌と同様に確認すると、巻三の雑歌の歌(計158首)は付記3.表Dのようになります。主要な関係分類別を示すと下表のようになります。

 

表 巻三(雑歌)にある歌(158首)に関する天皇との関係の主要な分類別の歌数(2021/11/15現在)

関係分類

巻一雑歌

巻三雑歌

A1天皇及び太上天皇などの一般的公務に伴う(天皇が出席する儀礼行幸時の)歌群、但しA2~Hを除く)

 52

 17

C天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(Dを除く)

  4

 71

H下命の有無が不明な事柄に伴う(作詠した官人自身の感慨を詠う)歌群

  7

  9

I天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を詠う歌群   

  0

 53

上記以外の分類

 21

  8

   計   (首)

 84

158

注1)巻一の雑歌は、2021/10/4付けブログの付記1.表Aより作成。

注2)巻三の雑歌は、付記3.の表Dより作成。

 関係分類A1の歌が、巻一では52首(62%)に対して巻二では17首(11%)など、比率が異なり、編纂方針が全然違っている、と言えます。関係分類Cの巻三の歌は、任国への往復や任務での国内巡行・上京時の歌が圧倒的に多く、巻三は、天皇中心の編纂ではなく、官人はじめ官僚の感興が中心となり、また、相聞歌と見なしたほうがよい歌もあるなど、部立ての区分は一見すると判りにくくなっています。治世の様子を官人が報告する、というのが編纂方針なのでしょうか。詳しい検討は宿題とします。

④ そのような巻三の部立て「雑歌」のなかで、この2-1-303歌(と2-1-304歌)は、関係分類が「H」となったところです。作者の長屋王は、律令体制の中で枢要な役割を担っており、官人として当然下命がないまま都を離れることは許されない立場にあります。その下命について題詞には情報がありません。

 諸氏は、題詞を、「長屋王が、寧楽山(ならやま)に駐馬して作る歌二首」と訓んでいます。この訓では、長屋王は都を離れようとしたのか、寧楽山まで、国見をしようと来たのか、単に狩等のついでに立ち寄ったのか、が不明です。

 2-1-303歌について、土屋文明氏は、「旅行くにあたっての作であらう」、「ぬさを置き超ゆるといふことに興味を動かした程度の歌」及び「(作詠時点は)平城遷都(710)より前の作とは定めがたい」などを指摘しています(『萬葉集私注』)。その理由として、初句「さほすぎて」の佐保の地には、作者長屋王の邸があるので藤原京から来たという推測以外に、「邸のある佐保の地」と別れる地点に着いて、の意もある、と指摘しています。

 いずれにしても、「寧楽山」についていえば、土屋氏の理解は、「佐保の地」が南麓となる現代の奈良山丘陵ということになります。人麻呂が「平山」(ならやま)と詠っている(2-1-29歌)山、即ち、その「なら」を「平」字から「寧楽」字で表記したのが「寧楽山」と思います。

 現代の奈良山丘陵は、例えば、巻八の部立て「秋雑歌」にある2-1-1589歌でも「平山乃 峯之黄葉 ・・・」と書き留められています。この歌の作詠時点は天平10年(738)と推測でき、天平頃でも「平山」と書き留められている丘陵です(巻八は部立てごとにおおむね年代順に配列されている巻です。)

⑤ この題詞のもとにある歌2首に、「ならやま」への言及があるかどうかを確認します。

 2-1-303歌  佐保過而 寧楽乃手祭尓 置幣者 妹乎目不離 相見染跡衣

    さほすぎて ならのたむけに おくぬさは いもをめかれず あひみしめとぞ

 「佐保を過ぎゆき、奈良坂の手向(たむけ)に、旅の平安を祈って置くぬさは、妹を目から放さず会はせてくれといふ為だ。」(土屋氏)

 2-1-304歌  磐金之 凝敷山乎 超不勝而 哭者泣友 色尓将出八方

   いはがねの こごしきやまを こえかねて ねにはなくとも いろにいでめやも

 「岩ねのごつごつして居る山を越えきれないので、泣きに泣いても顔色に出さうか、出しはしない。」(土屋氏)

 この2首は、題詞に留意すれば、長屋王が、峠において、下馬して行旅の無事を祈るため幣を手向ける際、思っている女性とやむを得ず会えなくなるつらさを詠い、また会えるよう行旅の無事をこめて幣を手向けたと詠っている歌と理解できます。歌本文からは、長屋王が、「寧楽山」の峠に来たのは、国見でも何かの次いででもなく、大和国を離れる行旅に向かうため、ということが分かります。

 土屋氏は、2-1-303歌について、「奈良坂の手向け」の「奈良坂」は、「佐保から登ってきた道」の「略称」であり、「寧楽」というのはその坂のある山を指している、と認識しています。

 このように、手向けという行為をする場所は、道が峠となって超える山、即ち「寧楽山」であり、2-1-304歌では、その山を二句「こごしきやまを」と形容しています。

 奈良山丘陵には、明日香に都がある時代から北に向かう路が複数通っています。峠は、奈良盆地見納めの位置となりますので、多くの官人が幣を手向けたのだと思います。

 2-1-303歌の初句「さほすぎて」のように、北にむかって登ると、道は、東西方向の尾根が平坦になっているかのところにでて道は下りとなりますので、二句「ならのたむけ」とは「なら」を「平」字で書き留めている人麻呂詠う2-1-29歌(平山)にならい、登って来た勾配のある道と違った「平」なところが峠という認識であり、その道の最高標高点の位置である場所を「なら」で表している、と思われます。

 奈良盆地の北の丘陵(現代の奈良山丘陵)を通るどの道も生駒山を越えて難波に通じる道にくらべれば、「こごしき」ことはありません。2-1-304歌にいう「こごしきやま」が「寧楽山」とは一般には形容しないと思います。

 題詞に留意して理解すれば、2-1-304歌の「こごしきやま」とは何かの比喩であるかもしれません。長屋王の行旅の目的と関係があるのでしょうか。

⑥ このように、題詞に留意すると、2-1-303歌は、恋の歌であってかつ行旅を念頭においた手向けの歌として理解が可能です。2-1-304歌も比喩している何かに期してその成就を扶けるよう峠において神に祈願したと理解すれば手向けの歌となります。

 題詞に留意しないで歌本文を理解すれば、2-1-303は単純に異性を恋う歌であり、2-1-304歌も、同じく恋の歌であり、二句の「こごしきやま」とは相手の親などの反対を比喩的に言っているのではないか、と思います。

 そのため、この2首の元資料は、別々の場所で詠われた歌ではないか、即ち伝承歌(土屋氏のいう民謡)ではないか、と推測します。

 ただし、伝承歌として2-1-303歌の二句「寧楽乃手祭爾」(ならのたむけ)の「寧楽」(なら)という表記が気になります。この表記は、平城京遷都の前後頃から官人は用いていたであろう、と予想している(ブログ2021/10/31付け参照)からです。

 この2首を、詞書に留意せず峠での歌として検討すると、2-1-303歌は、これから女性に逢いにゆく際の歌、2-1-304歌は、逢いに行ったが逢えなかった帰りの歌と理解できます。

⑦ 題詞に留意して、別の理解があります。

 元資料が伝承歌であるならば、長屋王(没年は729)が、奈良山丘陵の峠で自ら口ずさむよりも、峠で休憩して人が朗詠したのを聞いた歌の類であろうという理解です。

 そうであると、その時書き留められた二句「ならのたむけに」は「寧楽乃・・・」とその時書き留められても年代的にはおかしくない、と思います。

 この場合、題詞を「寧楽山において(長屋王が)作る歌」、と記していると理解するのが困難になります。

 しかし、伝承歌とは、地名や形容句などの入れ替えが可能な歌でもあるという特徴に注目すれば、2-1-303歌ので地名「さほ」、2-1-303歌での形容句「こごしき」が長屋王の工夫したところなのかもしれません。

 そうであれば、「(長屋王が)作る歌」という題詞は無理のない文章と理解できます。

 それから、題詞にある「駐馬」とは、2-1-78歌の題詞での「御輿停駐」と比べると、その行旅を共にしている一団の規模や目的が違うように思えます。同じ皇族であってどうして違うのか、合点がゆきません。

 土屋氏の指摘のように長屋王の住居のひとつが佐保にあり、「寧楽山」に近いところから馬の遠乗りをして峠に来た際の歌であり、峠であるので「幣をたむける」ということの題詠であったのでしょうか。

 題詞に留意すれば、『続日本紀』が書き留めない長屋王の一面を捉えた歌といえます。

⑧ ここまで、題詞は諸氏の訓に、歌は『新編国歌大観』の訓に従い、理解を試みてきました。

この歌も、その訓で、長屋王が、伝承歌の「初句」の地名や形容句を替えるなどして、作った歌と理解可能ですので、作詠時点は平城京遷都(710)から長屋王没(724)までの間となり、歌に「寧楽乃手祭爾」とその時書き留められた可能性がある、と思います。

 次に、題詞の作文の時点の検討です。

 次のような題詞が巻三にあります。

 柿本人麻呂近江国上来自至宇治河辺作歌

 丹比真人笠麻呂往紀伊国超能勢山時作歌 (2-1-288歌)

 田口益人大夫任上野国司時至駿河国清見埼作歌 (2-1-299歌)

 この3首とも、旅の途中の歌ですが、乗り物には触れていません。この歌2-1-303歌はわざわざ「駐馬」という記述があります。「駐馬」に意味があるかのようですが、それが未だわかりません。

 ほかの題詞の一般的な文章と替えているので、巻三編纂者は元資料のままにしたというよりも特記したのではないか、という推測のほうがよいのではないか。題詞の作文は、巻三編纂時の作文ではないか、と思います。

⑨ 次に題詞にある「寧楽宅」を検討します。2例あります。

 巻四 相聞  2-1-768歌 在久迩京思留寧楽宅坂上大嬢大伴宿祢家持作歌一首

 この歌の前後は大伴家持の相聞の歌であり、題詞を信頼すれば、大伴家持が作者であり、用例「寧楽宅」は、「平城京にある坂上大嬢の屋敷(に居る)」となります。歌を詠んだ時点は、坂上大嬢一家が久迩京(恭仁京)にまだ転居していない頃、ということになります。

 恭仁京は、聖武天皇天平12年(740)12月遷都し、翌13年閏三月五位以上の者の平城京在住を禁止しました。ただ、天平13年正月元旦の朝賀を恭仁京聖武天皇は受けていますので、臨時の宿泊を天平12年から官人ははじめているはずです。このため、既に内舎人として天皇の近くにいる家持は13年正月平城京の自宅に戻っていなかったかもしれません。 

 家持の「在久迩京」とは、だから最早が天平12年12月となります。天平16年正月には天皇難波宮行幸し、そこへの遷都となってしまっていますので、「在久迩京」は最遅で天平15年12月ではないか。その間がこの歌本文の作詠時点となります。

 次に、題詞を作文した時点を検討します。

 この歌は相聞の歌です。この歌を相手におくったとき、備忘として相手と贈った年月は書き留めるとしても、このような題詞を作文するでしょうか。前後の歌の題詞とも書き方は平仄があっているので、巻四の編纂時にこの題詞が作文された(すなわち「寧楽宅」と書き留められた)、と思います。

 なお、歌本文(引用割愛)には、「寧楽」字はありません。

⑩ もう一例も家持の歌です。題詞と歌本文を引用します。

 巻八 秋相聞 2-1-1636歌 大伴宿祢家持従久迩京贈留寧樂宅坂上大娘歌一首

   足日木乃 山辺尓居而 秋風之 日異吹者 妹乎之曽念

   あしひきの やまへにをりて あきかぜの ひにけにふけば いもをしぞおもふ

 題詞を作文して「寧楽宅」と書き留めたのは、2-1-768同様に相聞歌なので、この歌を作ったときよりも、この歌のある巻の編纂時の可能性が高い、と指摘できます。

⑪ なお、左注に1例あるので、ここで確認します。

 巻八 春相聞  2-1-1468歌  大伴家持坂上大嬢歌一首

    春霞 軽引山乃 隔者 妹尓不相而 月曽経去来

    はるかすみ たなびくやまの へなれれば いもにあはずて つきぞへにける

 左注が「右従久迩京贈寧楽宅」とあります。

  2-1-768 947歌と比較すれば、左注の「寧楽宅」は、「平城京にある(坂上大嬢の居る)屋敷」の意となり、2-1-768 947歌の「寧楽宅」と同じとなります.

 「寧楽宅」を当時の普通名詞と理解すれば、この三つの「寧楽宅」の意は、「久迩京に遷都したにも関わらず平城京にある官人の屋敷」ということになります。作詠されたのはいずれも久迩京が都となっている時期であろう、と思います。

 左注を作文した時点で平城京を指す言葉として「寧楽」のみやこという表現が既にあった、ということになります。左注は、題詞と同様に、この巻編纂時点に作文された可能性が高いものの、編纂後の注釈である可能性も残ります。

⑫ 検討してきた「寧楽宅」の3例に共通していえるのは、久迩京(恭仁京)への遷都により、遷都前の都「ならのみやこ」を意識したとき、「平城」字ではなく、「寧楽」字を選んでいる、とみえる、ということです。

 聖武天皇は、天平12年(740)藤原広嗣の乱の鎮圧の報が届かない時点から平城京に居るのを避けるかの行動をとっています。遷都し造営途中の宮で元旦の朝賀を受け、自然災害も毎年『続日本紀』に記載があり、難波宮天平17年(745)一時危篤状態となり、結局平城京に同年5月戻ることになりました。平城京を捨て去ったかのような行為は官人にも歓迎されていませんでした。

⑬ 次に、題詞の「寧楽(乃)家」を検討します。1例あります。

巻六 雑歌 2-1-974   三年辛未大納言大伴卿在寧楽家思故郷歌二首

    須叟 去而見壮鹿 神名火乃 淵者浅而 瀬二香成良武

    しましくも ゆきてみてしか かむなびの ふちはあせにて せにかなるらむ

 2-1-975  (同上)

    指進乃 栗棲乃小野之 芽花 将落時尓之 行而手向六

    さすすみの くるすのをのの はぎのはな ちらむときにし ゆきてたむけむ

 歌本文には「寧楽」字はありません。

 「三年」とは、天平3年(731)の意です。この年の7月、「大納言大伴卿」(旅人)は、没しています。

 「在寧楽家思故郷」とは、「平城京にある自宅にあって、明日香の地に思いをはせた」の意であり、「寧楽」は平城京を意味しています。歌は天平3年の作詠ですが、題詞は、その作詠時点ではなく、恐らくは巻六編纂時の作文なのだと思います。この歌が披露された場面は、一族の私的な宴席か病床と推測します。

 歌本文にも「寧楽(乃)家」は1例(2-1-80歌)あります。その歌本文は「あをによし」という語句とともに2021/11/1付けブログで検討し、作詠時点は題詞からも平城京遷都(710)前後と推測しました。

 なお、巻六は、年紀が明記されてその年次順に配列されている歌群と「田辺福麿之歌集中出也」と左注されている歌群にわかれ、この題詞は、前者に属します。

 

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただきありがとうございます。

 次回は、残りの用例を検討し、題詞にある「寧楽」の特徴をみてみたい、と思います。

(2021/11/15  上村 朋)

付記1.『萬葉集』における「寧楽」字の用例と歌における「なら」と訓む歌について

①『萬葉集』における「寧楽宮」字関連の用例と訓について、『新編国歌大観』により確認した。

②『萬葉集』における「寧楽宮」字の用例を表Dに、「寧楽宮」以外の「寧楽」の用例を表Eに示す。

 

表D 『萬葉集』における「寧楽宮」とある例  (2021/10/4  現在)

調査対象区分

巻一と巻二

巻三と巻四

巻五以降

部立ての名で

無し

無し

無し

標目で

巻一と巻二

無し

無し

題詞で

2-1-78歌(割注し「一書云太上天皇御製」)

2-1-79~80歌(左注し「右歌作主未詳」)

無し

無し

題詞の割注で

無し

巻四 2-1-533歌(割注して「寧楽宮即位天皇也)

無し

歌本文で

無し

無し

無し

歌本文の左注で

無し

無し

無し

注1)歌は、『新編国歌大観』による。「巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での番号」で示す。

 

表E 『萬葉集』における表記の「寧楽」の用例で「寧楽宮」以外の用例  (2021/10/4  現在)

調査対象区分

巻一と巻二

巻三と巻四

巻五以下の巻

部立ての名で

無し

無し

無し

標目で

無し

無し

無し

題詞で

 

2-1-303~304寧楽山(長屋王作)

 

2-1-768寧楽宅(家持作)

2—1-974~975寧楽家(大伴卿作)

2-1-1048~1050寧楽京(割注し「作者不審」)

2-1-1051~1053寧楽故郷(田辺福麻呂)

2-1-1608寧楽故郷(大原真人作)

2-1-1636寧楽宅(家持作)

題詞の割注で

無し

無し

無し

歌本文で*

1首有り

3首有り

3首有り

歌本文の左注で

 

2-1-262遷都寧楽(作者未詳 題詞は「或本歌云」)

2-1-1468寧楽宅 (家持作)

注1)歌は『新編国歌大観』による。「巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での番号」で示す。

注2)巻五、巻七及び巻九以下には例がない。

注3)表中の*:歌本文の用例は、(次回の付記に示す)表F参照。

付記2.題詞にある「寧楽宮」についての検討結果

① 題詞にある「寧楽宮」の用例では、

A 「寧楽宮」は、「平城京平城宮」を意味するとともに、「(将来において)安んじ楽しめる宮」の意も編纂者は含ませている。

Bこの用例での「寧楽宮」の意味するところは、巻一と巻二の標目「寧楽宮」に反映しているのではないか。

ということを指摘できた。                                        

② 2021/11/1付けブログの「10.⑲」にそのほかの検討結果も記してある。

 

付記3.歌と天皇との関係(巻三雑歌、巻三挽歌) 

 2021/10/4付けブログ「4.②」に示す関係分類により、巻三(雑歌)を整理した。巻一の雑歌の整理は同ブログの付記3.の表Aである。

表D 巻三(雑歌)にある歌(158首)と天皇との関係   (2021/11/15現在)

関係分類

歌数

標目

該当歌

備考

A1天皇及び太上天皇などの一般的公務に伴う(天皇が出席する儀礼行幸時の)歌群、但しA2~Hを除く)

 17

 

2-1-235~2-1-236 人麿歌 行幸

2-1-237 天皇

2-1-238 志斐嫗歌 復命歌

2-1-239 長忌寸意吉麿歌 復命歌

2-1-267 長忌寸奥麿歌 行幸

2-1-288 丹比真人笠麿歌 行幸

2-1-289  288の応答歌 行幸

2-1-290 石上卿歌 行幸時 

2-1-291 穂積朝臣老歌 行幸

2-1-309 安貴王歌 行幸

2-1-317 波多朝臣小足歌 行幸途中の景

2-1-318~2-1-319 中納言大伴卿歌 吉野行幸

2-1-378 湯原王歌 吉野行幸時か

2-1-379~2-1-380 湯原王歌 宴席歌

 

 

 

 

267歌は土屋氏に従う

A2天皇及び太上天皇などの死に伴う歌群

  0

 

 

 

B天皇が下命した都の造営・移転に関する歌群

 0

 

 

 

C天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(Dを除く)

 71

 

2-1-246~2-1-247 長田王歌

2-1-248 石川大夫歌 長田王への挨拶歌

2-1-249 長田王歌 246歌時と同じ時期

2-1-250~2-1-258 人麿歌 羇旅歌

2-1-265 刑部垂麿歌 羇旅歌

2-1-266 人麿歌 羇旅歌

2-1-268  人麿歌 琵琶湖を詠う羇旅歌

2-1-272~2-1-280 高市連黒人歌 羇旅歌

2-1-281 石川少郎歌

2-1-282~2-1-283 高市連黒人歌 赴任時

2-1-284高市連黒人妻の歌 赴任時

2-1-286 高市連黒人歌 羇旅歌

2-1-287春日蔵首老歌 羇旅歌

2-1-292~2-1-293 間人宿祢大浦歌 宴席の歌

2-1-294 小田事歌 羇旅歌

2-1-295~2-1-298 角麿歌 羇旅歌か宴席歌

2-1-299~2-1-300 田口益人大夫歌 羇旅歌

2-1-306~2-1-307 柿本朝臣人麿歌 羇旅歌

2-1-308 高市黒人歌 近江旧都を詠う

2-1-314 (木偏に安)作村主益人歌

2-1-315 藤原宇合卿歌

2-1-320~2-1-321 山部赤人歌 富士山は官旅・赴任で仰ぎ見ることができる

2-1-322~2-1-324 未詳の人の歌 同上 

2-1-325~2-1-326山部赤人歌 羇旅歌

2-1-327~2-1-328 山部赤人長歌であり下命の歌か。

2-1-340 山上憶良歌 宴席歌

2-1-360~2-1-366 山部赤人歌 羇旅歌

2-1-367~2-1-368 笠朝臣金村歌 国内巡行あるいは羇旅歌

2-1-369~2-1-370笠朝臣金村歌 羇旅歌

2-1-371 石上大夫歌 国内巡行あるいは羇旅歌

2-1-372 笠朝臣金村歌か 誓約の歌

2-1-384 筑紫娘子 送別歌

2-1-391~2-1-392 若宮年魚麿誦する歌 羇旅歌

 

 

 

 

265歌と266歌も題詞による分類

 

 

2-1-282~1-2-284歌はブログ2018/1/29付け参照

292~293歌はブログ2018/3/26付け参照

 

 

 

 

 

 

 

 

 

308歌は、命がなければ旧都を詠めない

 

327歌の結句「いにしへおもへば」と詠める機会は?

 

2-1-369~2-1-372歌はブログ2020/10/26参照

 

D天皇に対する謀反への措置に伴う歌群

 0

 

 

 

E1皇太子の行動に伴う歌群(E2を除く)

 0

 

 

 

E2 皇太子の死に伴う歌群

 0

 

 

 

F皇子自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む)

 8

 

2-1-240~2-1-242 人麿歌 行幸

2-1-243 弓削皇子 単独吉野行の歌

2-1-244 春日王 243歌と一連

2-1-245 弓削皇子か 243歌の異伝歌

2-1-263~2-1-264人麿歌 

 

2-1-243歌は2-1-111~2-1-113歌とは別の時点

G皇女自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む)

 0

 

 

 

H下命の有無が不明な事柄に伴う(作詠した官人自身の感慨を詠う)歌群

 9

 

2-1-301 弁基歌 法師が恋の歌を求められたか

2-1-303~2-1-304 長屋王大和国を勝手に離れるのは疑いを招く

2-1-305 安倍広庭卿歌 宴席の歌か

2-1-310~2-1-312 博通法師歌 紀伊に出向いた理由不明

2-1-316 土理宣令歌 詠んだ場面不明

2-1-381 山部赤人

 

I天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を詠う歌群

53

 

2-1-259~2-1-262 鴨君歌 寧楽遷都後

2-1-269 志貴皇子歌 ムササビを詠う

2-1-270 長屋王歌 故郷を詠う

2-1-271 阿倍女郎歌 屋部坂(いわゆる志比坂)を詠う 恋の歌に寓意あるか

 

2-1-285 春日蔵老歌  夜行は私的旅行

2-1-302 大納言大伴卿歌

2-1-313 門部王歌 東市の樹を詠う相聞ではないかあるいは宴席の歌か

2-1-329 門部王歌 相聞の歌が雑歌とされている例

2-1-330 通観歌 

2-1-331 大宰少弐小野老歌 京を思う歌

2-1-332~2-1-333 防人司大伴四綱歌 京を思う歌

2-1-334~2-1-338 師大伴卿歌 老人の繰り言

2-1-339 沙弥満誓歌 綿を詠う歌

2-1-341~2-1-353 太宰師大伴卿 讃酒歌

2-1-354 沙弥満誓歌

2-1-355 若湯座王

2-1-356 釈通観歌

2-1-357 日置少老歌

2-1-358 生石村主歌 見学の記の歌か

2-1-359 上吉麿歌 叙景歌か

2-1-373 阿倍広庭歌 相聞歌

2-1-374 出雲守門部王歌 京を思う歌

2-1-375~2-1-376 山部赤人歌 相聞歌

2-1-377 石上乙麿歌

2-1-382~2-1-383 大伴坂上郎女 祭神歌

2-1-385~2-1-386 丹比真人国人歌 国見の時期ではない登山の歌

2-1-387 山部赤人

2-1-388~2-1-389 未詳の人の歌

2-1-390 若宮年魚麿の歌か

鴨君歌は葬礼の歌か

269歌と270歌の寓意不明

270歌が雑歌の理由不明

285歌は相聞か

 

 

 

2-1-329~2-1-333歌は宴席の歌か

 

334~359は巻一の雑歌にふさわしくない 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

373~377歌は巻一の雑歌にふさわしくない 

 

385~383歌と385~ 390歌は巻一の雑歌にふさわしくない 

  計

158

 

 

 

注1)「歌番号等」とは『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)「関係分類」は、ブログ2021/10/4付けの「4.②」に示す分類である。

注3)「該当歌」欄の歌評は上村朋の意見。原則題詞を信頼しての意見。

注4)「備考」欄のコメントは上村朋の意見。

(付記終わり 2021/11/15 上村朋)