わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 寧楽宮とは その1

 前回(2021/10/11)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 万葉の挽歌は死者封じ込め」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 寧楽宮とは その1」と題して、記します。(上村 朋)

1.~5.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行い、3-4-23歌まではすべて恋の歌であることを確認した。3-4-24歌については、類似歌(『萬葉集』の歌)の検討として、『萬葉集』巻一と巻二の構成を検討している。なお、歌の引用は『新編国歌大観』による。)

6.再考 類似歌 その4 「寧楽宮」の用例 2-1-78歌

① 『萬葉集』歌での「寧楽宮」表記例のうち、今回から題詞にある「寧楽宮」とそのもとにある歌を検討します。

 類似歌2-1-439歌の重要な参考歌(2-1-228歌)は、『萬葉集』巻二の挽歌の、標目「寧楽宮」にある歌です。『萬葉集』で「寧楽宮」という表記の用例を、確認しました(付記1.表D参照)。その結果は、つぎのとおりでした。なお、表記の「寧楽宮」は、古来「ならのみや」と訓んでいます。

第一 「寧楽宮」という表記を、部立ての名(の一部)に用いている例はない。

第二 「寧楽宮」という表記を、標目の名に用いているのは、標目のある巻一と巻二だけである。

第三 「寧楽宮」という表記を、題詞に用いている例は、巻一の雑歌にある次の2題だけである。

2-1-78歌の題詞:和銅三年庚戌春二月従藤原宮遷于寧楽宮時御輿停長屋原逈望古郷作歌 

(割注して 「一書云 太上天皇御製」とある。)

2-1-79歌と2-1-80歌の題詞:或本 従藤原京遷于寧楽宮時歌 

(左注があり「右歌 作主未詳」とある)

第四 題詞の割注に、「寧楽宮」という表記が一例ある。巻四にある2-1-533の題詞の割注である。この歌には左注もある。

   題詞:天皇海上女王御歌一首

その割注:「寧楽宮即位天皇也」

(歌の左注あり「右今案 此歌擬古之作也 但以時当便賜斯歌歟」)

第五 「寧楽宮」という表記をしている歌本文の用例はない。

② 『日本書記』及び『古事記』に、「寧楽宮」と表記している用例もありません。

 『萬葉集』は、歌においては、当時の日本語での発音を書き留める手段として、官人が、漢字を使用しています。その漢字の読み方には、公文書で漢文を使用する建前の官人がその漢文を独特な訓読をしているのでその訓も用いています。題詞などの作文は、漢文体ですが、その訓も独特です。

③ そのため、漢字には、一般的な漢文(中国文)での意と国字の意の両方が既にあります。

「寧」は、漢字として「やすらか・やすい」意の場合、「安」にほぼ同じですが、安定している意味合いを含んでいます。「安」は「危」と対する語です(『角川大字源』)。

「寧楽」という表記は、漢字としては「ねいらく」と読み、「安んじ楽しむ」意です(「同上」)。『墨子』の「尚賢中」篇の「寧楽在君 憂惑在臣」(寧楽は君に在りて憂慼(いうせき)は臣に在り)を例にあげています。(聖王の時代を例にあげ君臣の間が親密であったことを指している章句です)。

萬葉集』では、「なら」と発音する日本語の語句をも意味しています。

『角川大字源』では国字として「なら」と読み、「奈良のこと」をいうと説明しています(その漢字「奈」は「果樹の名。あかなしの木。またからなし(果実が他に比しておおきいリンゴの一種)。べにりんご。」とあります(同上)。

「宮」という表記は、漢字としては、a大きな建物、bいえ・住居、c天子(またはきさき)のいるところ(皇居)、d先祖の御霊屋(みたまや)・宗廟e道教の寺・仏寺・仙人のすまい、fかこむ・とりかこむなどを意味しています。国字としては、みや・神社の意です(同上)。「みや」とは、「神社や皇居、皇族の住居・御殿」と『例解古語辞典』にはあります。

④ 次に、「平城」とは、漢字としては、中国の漢代の県名です。今の山西省大同市の東にあたり、漢の高祖が匈奴を討とうとしたとき七日間(白登山に)包囲され、脱出せざるを得なかった地です。それは、中国の帝国(漢)に対して、周囲の国の一つ匈奴が勝利した(そして匈奴が以後漢を属国扱いにするようになった)ところです。それに拠った都城の名が「平城京」なのでしょうか。

 「平城京」に関しては、和銅元年2月の遷都詔には「平城之地」(へいぜいのち)と記し(訓みならわされ)ていますが、同年9月の巡幸の記事には「平城」(なら)、同10月の記事には「平城宮」(ならのみや)とあります。国字としては「なら」と発音されています。

 「ならのみやこ」の謂れには諸説があるそうです。

⑤ 「平城京」の位置は、奈良盆地の北端部にあたり、北に向かって現在の奈良山丘陵を越えれば、木津川の水運が利用できます。淀川と瀬戸内を経由して大宰府対馬朝鮮半島に至ることができます。宇治川をさかのぼり琵琶湖を経由して北陸(日本海、さらに朝鮮半島・大陸)に至り、また陸路では東山道陸奥等に至ることができます。その奈良山丘陵(南斜面の東側が「佐保」、西側が「佐紀」)は、奈良盆地の西にある生駒山脈と比べれば越えやすい丘陵地帯です。

 2-1-50歌によれば、近江国の木材は、現在の奈良山丘陵を越えて藤原京に到達しており、奈良山丘陵経由の道は明日香に宮を置いていたころより利用されています。また、奈良山丘陵は、2-1-17歌や2-1-29歌には「青丹吉 奈良能山乃」、「青丹吉 平山乎超」と詠われており、山城国に通じる道がいくつかあり、「なら(の)やま)」と呼ばれています。その「なら(の)やま」を修飾している「あをによし」という語句は後には「なら」の枕詞になりましたが、そもそもは「なら(の)やま」(つまり盆地北端の丘陵)には青色の顔料にする土の採取場があったことからの修飾だと思います。当時は、峠を越える際の旅の安全を願って通過する土地を褒める「道行の歌」を誦謡する風習もあり、それとの関係もある、と思えます。(付記2.参照)。

 そうであれば、採取・選別等の基地(臨時宿泊所)もあって、そこも「なら」という地名(宿泊所名)として遷都以前に知られていたと思います。

 官人は、奈良盆地の北にみえるそのような照葉樹が広がる山を、「なら(の)やま)」と呼びならわしており、そ丘陵に近い宮となるので「平城京」を「ならのみやこ」、天皇の住居を「ならのみや」」という呼称を通称か愛称というかたちで用いていたのでしょうか。その「なら」は、発音を追って別の表記がその後生まれたのではないか。しかし「ならやま」に用いられた「平」字を用いて都城名を表すことは、『萬葉集』などにありません。

 また、平城京への遷都当時の造成土から、「奈良京」と書かれた木簡が発掘されており(平城京右京一条二坊四坪遺跡)、762年の正倉院文にも「奈良京」の表記があるそうです。(奈良文化財研究所の「木簡庫」のデータにおいて、「寧楽」と「平城京」とを本文検索しましたが該当データはありませんでした。)

 平城遷都が現実的になって以降に「寧楽」を用いて都城名を表すことが生まれたと推測はできます。

⑥ さて、「寧楽宮」という表記は、巻一、巻二にある標目においては、「藤原宮」など「・・・宮」と同じスタイルです。その訓もありますが、音で読み上げても官人は理解できたと思います。

 「藤原宮」という語句は『日本書記』にあり、「新益京」(いわゆる藤原京)の天皇の居住空間(それは政策決定の空間でもある)内裏や大内裏相当部分を呼称しています。地名ではなく「藤原」という天皇と縁のある氏の名で大内裏等相当部分を(讃えるトーンで)形容しています。それにならえば、「藤原京」の後に新たに造った都にある大内裏等相当部分を、讃える意の形容として熟語「寧楽」の意を加えて用いた宮名が「寧楽宮」と推測できます。だから、標目にいう「寧楽宮」とは、平城京大内裏等相当部分を意味する用語である、といえます。

 2-1-533歌の題詞の割注をした人物もそのように理解しているとみえます。聖武天皇神亀元年(724)2月4日、平城京で即位しています。

 ちなみに、現在「平城京」と言っている都は、『続日本紀』に引用されている宣命に「平城之大宮」とあります。『萬葉集』の歌でも「平城京師」・「平城京」という表記(その訓は「ならのみやこ」)があり、「奈良」、「名良」、「楢」などとならんで「寧楽」という漢字を用いた都城名があります(付記1.参照)。

⑦ では、『萬葉集』での題詞における「寧楽宮」は何を意味するか。

 平城京大内裏相当部分を意味する「〇〇宮」という表記を題詞で確認すると、「ならのみや」に相当するのは、先にあげた2題の用例がある「寧楽宮」だけです。「平城宮」や「奈良宮」はありません。「藤原宮」も、次の4題だけです。そして「藤原京」という用例は唯一2-1-79~80歌の題詞に「寧楽宮」とともにあります)。

 2-1-50歌の題詞 藤原宮之役民作歌

 2-1-51歌の題詞 従明日香宮遷居藤原宮之後志貴皇子御作歌

 2-1-52~53歌の題詞 藤原宮御井

 2-1-78歌の題詞 (上記①の第三に記す)

⑧ 題詞にある「寧楽宮」の意を考えるに、 いつものように前後の歌と題詞との整合及び元資料確認を行います。

 「寧楽宮」とある題詞の5題前よりみると次のとおり。また、左注などを()に示します。2-1-83歌までの標目は、「藤原宮御宇天皇代」です。

2-1-71~72歌 大行天皇幸于難波宮時歌 (左注に「右一首忍坂部乙麿」、「右一首式部卿藤原宇合」)

2-1-73歌 長皇子御歌

2-1-74~75歌 大行天皇幸于吉野宮時歌 (左注に「右一首或云天皇御製歌」、「右一首長屋王」)

2-1-76歌 和銅元年戌申天皇御製歌

2-1-77歌 御名部皇女奉和御歌

2-1-78歌 和銅三年庚戌春二月従藤原宮遷于寧楽宮時御輿停長屋原廻望古郷御作歌

     (題詞割注に「一書云太上天皇御製」)

2-1-79~80歌 或本 従藤原京遷于寧楽宮時歌 (左注に「右歌作主未詳」)

2-1-81~83歌 和銅五年壬子夏四月遣長田王伊勢斎宮山辺御井作歌

     (左注に「右二首今案不似御井所作 若疑当時誦之古歌歟」)

  標目が「寧楽宮」となってから

2-1-84歌 長皇子與志貴皇子於佐紀宮俱宴歌

     (左注に「右一首長皇子」)

 この歌が巻一の最後の歌です。

 標目が「藤原宮御宇天皇代」の歌は、入唐した時の歌(2-1-62歌と2-1-63歌)以降、天皇が「〇〇宮」におられる時の歌が配列されてきています。2-1-73歌も「難波宮」に天皇がおられる時の歌、と諸氏も指摘しています。そして「吉野宮」に行かれた時の歌が2-1-77歌まで続いています。2-1-78歌以降は天皇が藤原宮に行かれた時の歌か宮を離れた時の歌か判断が微妙な歌があり(後述)ますが、造営中の題詞、官人の転居時の題詞、遷都後の伊勢神宮報告の題詞と配列してあるかに見え、暦年順といえます。下命を受けた皇子の旅行中における歌が最後の3首(左注によればそのとき披露された伝承歌)です。

 そして次の標目のもとにある歌となります。

⑨ 巻一の題詞は、暦年順に配列されていると見えます。平城京は、途中恭仁京などの短い時代がありますが、『萬葉集』の原案に編纂者が手をいれた後も都城でした。将来も都城であり続けるという設定は、『萬葉集』の最終編纂時には可能です。

 現に、「寧楽宮」で即位した天皇の「御代」は元正天皇以降代々続いているところです。

 『萬葉集』の少なくとも巻一と巻二に歴代天皇の御代を寿ぐ意図があるならば、将来即位する天皇をも含めた「代」を標目として用意し、予祝するような歌をそこに配列するのは、可能であろう、と思います。

 標目「藤原宮御宇天皇代」は既に複数の天皇を対象にしている「代」であり、「各天皇のうち藤原宮において国政をみた天皇(複数)の時代」、という意味に理解できたところです。

 2021/10/4付けブログで、標目「寧楽宮」は、「天皇代」という語句を省いているものの天皇位を追贈され志貴皇子の「御代」を標目にたてたのではないか」(「3.⑩」参照)と推測しましたが、編纂者は一代に限定していないかもしれません。

⑩ 標目のことから題詞のことにもどし、題詞冒頭から順に検討します。

 「和銅三年庚戌春二月」とは、正式に遷都する一か月前の時点です。

 遷都の進捗を『続日本紀』で確認します。元明天皇は、和銅元年2月平城へ遷都を詔で宣言し、9月に現地に赴くとともに造平城京司長官(2名)を指名し、12月に所謂地鎮祭をさせています。

 度々行幸し、動員した人々(役民)の逃亡を抑えようとした詔も出しています。和銅3年3月10日に遷都していますが、和銅4年9月でも「宮の垣」もできていないので臨時に軍を組織しています。大極殿和銅5年正月元日朝賀には間に合わせたらしく、大極殿と皇太子のお披露目を同時にしています。

 奈良文化財研究所の「ならぶんけんブログ」によれば、大極殿だけでも瓦は10万枚葺(ふ)かれており、平城京造営時には、奈良山丘陵一体に工場を設け集中的に生産し秋篠川経由で運ばれたこと、大極殿を取り囲む回廊は和銅3年正月と年号が書かれた荷札が整地した土から見つかっており、まだ地ならしの段階であったこと(ブログ145,173など)などがわかっています。瓦職人など技能者集団も全国から集められ、役民が多数居る状況でした。

 遷都一か月前には、天皇とその日常を支える女官その他の暮らすことになる建物(と日常を支える厨房薪炭倉庫トイレ等)だけでもできていたとの言及は『続日本紀』や 『萬葉集』にありません。少なくとも遷都直後に、「平城宮」で日常の政務をおこなうような施設が出来ていなかったのではないか、と『続日本紀』の記述等から断言ができます。

⑪ 次に、「従・・・時」とは、既に作詠時点を明示した後なので、「御輿停長屋原」という状況が生じた理由を記しているのではないか。造営の視察に赴いた時、ということと思います。

 漢字「時」には「一年の四季」のほか、「ときのながれ」とか「ある時点・ころ」の意もあります。「御輿停長屋原」ということは、宮中ではなく道中の途中で休憩している、ということを言っています。「御作歌」という表記からは皇族の「御輿」となります。

 天皇行幸であれば、『続日本紀』では「車駕」とも表現しています。また、「御輿」という表現は『続日本紀』にありません。「輿」とはのりものの意です。

 「逈望古郷」とは、「その時古郷が話題になった」を指しているのではないか。漢字「逈」は漢字「迥」の俗字であり、「逈望」とは「遠方をのぞみみる」意です。平城京と明日香宮の比較をしたのではないか。

 「古郷」という熟語は『大漢和辞典』にみあたりません。「郷」とは、「秦や漢などにおける行政区画の名」であり、「邑里・さと」、くに」と説明があります。「古郷」がどこを指して言っているのかは歌本文に示しているのでしょう。「故郷」という表記ではないので、自分の生まれたところとか元長く住んでいたところとか懐かしむあるいは感傷的な意味合いを含んでいない、と思います。

⑫ また、題詞にある「御作歌」という表現は、諸氏に、「皇族の方が作らせた歌」という訓と「皇族の方が作った歌」という訓が巻一にあります。天皇・皇太子の場合は「御製歌」(おほみうた)とか「御歌」と題詞に表記しています。「作歌」は巻一では皇族にも官人にも用いています。

 そうすると、題詞の表現で宮中でないのがはっきりしている2-1-78歌の「御作歌」は、天皇ではなく皇族が作る歌(あるいは作らせた歌)」と理解できます。「一書云・・・」という注には編纂者は関知していない、と思います。

⑬ それから、題詞にある「寧楽宮」という表記が、(繰り返し指摘しますが)『萬葉集』での初例です。「平城京の宮」の意を表記する方法は『続日本紀』に「平城宮」という表記があるものの、「寧楽宮」という表記はなく、いつ頃から世の中で用いられるようになったのかは『萬葉集』の用例が頼りです。

 しかし、この題詞の例だけで和銅3年には既に(一般に)用いられていたと断言できません。この題詞は、編纂者の手元に集まった資料に忠実に従い加除訂正をせず、記録したものなのかどうかが不明です。そして標目「寧楽宮」を追加した時点であるのか、場合によっては、『萬葉集』が公けにされたであろう時点(例えば平城天皇の御代)ということも有り得るということです。

 そのため、歌本文も題詞も、『萬葉集』記載のそれとその元資料は別々の可能性がある、として検討する必要があります(といういつもの結論になります)。

⑭ 以上の検討の範囲で、題詞の現代語訳を試みると、次のとおり。

 「和銅三年庚戌春二月、平城京に遷都しようとしている頃に、(その造営の視察と激励に行きその帰りに、)御輿を長屋原に停め、休憩し、古い郷を遠くに望みみて作る歌」

 御輿を利用できる人物は、平城京の造営現場を視察・激励をした皇族です。「古い郷」を話題にして、造営の進捗をどのように評価したのでしょうか。

⑮ 次に、歌本文を検討します。歌本文には、「なら」と訓む表記がありません。「ふじはらのみや」もありません。 

 2-1-78歌 飛鳥 明日香能里乎 置而伊奈婆 君之当者 不所見香聞安良武 一云 君之当乎 不見而香毛安良牟

(とぶとりの あすかのさとを おきていなば きみがあたりは みえずかもあらむ  一に云う きみがあたりをみずてかもあらむ)

 

 土屋文明氏は、この歌を、元明天皇の御製であり、遷都直前での行幸時のもの、そして「きみがあたり」とは(藤原京にも移り住まないで)「なほ明日香に留まれる方であらう」と指摘しています。これは、この歌における「御作歌」の理解に無理があります。

 吉村豊氏は、「恋愛歌に仕立てた望郷。哀惜の情を述べることによってもといた場所への鎮魂を行う」と指摘しています。しかし、鎮魂はその場所で行うか、祭る意思を明文化して行うと思います。 

⑯ 次に、現代語訳を、最初は、題詞を意識せず、試みます。

 初句「とぶとりの」は、明日香にかかる枕詞と割り切りました。『例解古語辞典』では、「天武天皇十四年、めでたいしるしの赤い鳥が献上されたので年号を「朱鳥(あかみとり)」と定めたことから、浄御原宮と、その所在地の「明日香」とに「とぶとりの」の枕詞を付けるようになった」、と解説しています。

 四句にある「君(きみ)」は、『例解古語辞典』には、名詞として「a天皇 b自分の仕える人・主人 など」、代名詞として「c対称。あなた」とあります。題詞を意識しないのであれば、ここでの「君」は代名詞でしょう。

 「明日香の里(に何か)を置いて去ることになれば「きみがあたり」が見えなくなるだろう」、即ち、

 「明日香の里に君を置いて行くとなれば、君の姿も声も聞けなくなるだろう」(78歌第1案)

という女に未練を残した(待っていてくれと頼んでいる)挨拶歌ではないか、と理解できます。

 もう一案あります。「君」の性別を入れ替えて、

 「明日香の里に私を置いて行くならば、君の姿も声も聞けなくなるだろう」(78歌第2案)

という女が男との別れを詠う歌、となります。今日が、私のいる明日香という集落を離れてゆく貴方の見納めとなるでしょう、という挨拶歌です。

⑰ 78歌第1案は、明日香の里を去ると詠うのですから、藤原京に遷都した時の歌の(多分官人の詠った)相聞歌という整理となります。

 しかし、明日香の宮と藤原宮は約4kmの距離にある近さです。官人の歌としては不自然です。藤原京造営時にも役民は各地から来ていますから、あるいは、役民として来ていた者の都(藤原京又は平城京)へ上る際の相聞歌の可能性もあります。例えば、

 とりかよふ 〇〇(地名)のさとを おきていなば きみがあたりは みえずかもあらむ (78歌元資料案)

という歌が伝承されてきていたのではないか。

 なお、平城京造営時の官人の歌という整理にも可能性があります。

 78歌第2案は、78歌元資料案が、旅行途中の宿泊地における遊行女婦の挨拶歌であっても、明日香の里の女が、藤原京勤務となる官人へ求愛している相聞歌ではないか。

⑱ 次に題詞を踏まえて検討します。

 題詞は、遷都一か月前の平城京(特に平城宮)造営地の視察の帰りの歌であることを示唆しています。

 藤原京の造営の経験に鑑み所要日数は見積ることができたのに、元明天皇は遷都を急いでいるかにみえます。聖武天皇への譲位の工程表などが念頭にあったのでしょうか。あるいは遷都の日時は現場の状況に関わりなく亀筮などから決まっていたのかもしれません。(『続日本紀』によれば)天皇も何度か現地に行かれていますので造成の進捗は常々報告させてご承知であるはずなので、「御輿」を利用できる人物は、遷都の儀式を行える建物と広場と(とりあえずでもよいから)天皇が暮らすことになる建物の造営の進捗状況の評価を改めてこの歌に示したのではないか。それは造営現場の者たちをねぎらった歌ではないか、と思います。

 初句「とぶとりの」とは、「明日香」の無意の枕詞と割り切ります。今、新都造営の視察帰りでの作詠であるので、二句にある「明日香能里」とは、明日香宮を指した語句ではないか、と思います。

 この歌は、四句にある「君」に、仕えたことのある天皇の意をも掛けることによって歌意をひろげています。

 現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「明日香の里(に何か)を置いて去ることになれば「きみがあたり」が見えなくなるだろう。(明日香の地を後にして、このような新たな都で日本を統(す)べるのだから、天武天皇の時代は遥か昔となりますね。)」(78歌第3案)

⑲ 日本は白村江で敗れた後、新羅などとの再度の戦いに備えて天武天皇律令制を実施しようとするなど国力増強に努め、その集大成がこの新都なのだ、という感慨を詠い、かつその都の造営の進捗は、藤原京の造営時と比べても遜色ない、と順調な進捗を寿いだのではないか。

 和銅5年(712)になり烽(とぶひ)を「平城に通」じさせているのは、軍事中枢をこの時点まで藤原京から動かせなかったことであり平城京の「寧楽宮」が完成していなかったことを示しています。和銅3年3月10日の遷都は象徴的な儀礼で済ましていたのであろう、と思います。

 「御輿」を利用できる人物をさがすと、天武天皇の息子ならば、例えば穂積親王慶雲2年(705)より知太政官事)、孫ならば長屋王和銅2年(709)従三位宮内卿に叙任され公卿に列する)などがおられます。

⑳ 題詞と歌本文からは、このように「78歌第3案」が得られましたが、このように理解できる「御作歌」を、『萬葉集』の編纂者がここに配列した意図は、まだ考慮の外になっています。

 次の(2-1-79~80歌の)題詞にも「寧楽宮」とあり、そのもとにある歌の検討後に改めて編纂者の意図に触れたい、と思います。

 題詞を作文した時点の検討も、また「寧楽宮」という表記がいつ頃から官人に用いられているのかも宿題となりました。

 「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 (2021/10/18   上村 朋)

付記1.『萬葉集』における「寧楽」という表記例及びと歌における「なら」と訓む歌について

①『萬葉集』における「寧楽宮」という表記関連の例と訓について、『新編国歌大観』により確認した。

②『萬葉集』における「寧楽宮」という表記の例を表Dに示す。

③ このほか、次回以降に、「寧楽宮」以外の「寧楽」の用例(表E)、句頭の表記の訓が「なら」とある歌で、その意が「都城・地名・山名と思われる歌(表F)及び参考として万葉集で「平城」表記の用例(表G)も示す。

表D 『萬葉集』における「寧楽宮」とある例  (2021/10/4 現在)

調査対象区分

巻一と巻二

巻三と巻四

巻五以降

部立ての名で

無し

無し

無し

標目で

巻一と巻二

無し

無し

題詞で

2-1-78歌(割注し「一書云太上天皇御製」)

2-1-79~80歌(左注し「右歌作主未詳」)

無し

無し

題詞の割注で

無し

巻四 2-1-533歌(割注して「寧楽宮即位天皇也)

無し

歌本文で

無し

無し

無し

歌本文の左注で

無し

無し

無し

注1)歌は、『新編国歌大観』による。「巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での番号」で示す。

付記2.「あをによし」について

① 『萬葉集』に「あをによし」と訓む歌は27首ある。巻一には3首ある。その3首の作詠時点は、歌の理解からは、2-1-17歌、2-1-29歌、2-1-80歌の順になる。

② 2-1-17歌は近江に下る際の額田王の歌で「・・・青丹吉 奈良能山乃 山際・・・」と詠う。2-1-29歌は「過近江旧都時」と題詞にある人麻呂歌で「・・・倭乎置而 青丹吉 平山乎超・・・」と詠う。2-1-80歌は、平城京造営時期の歌で「青丹吉 寧楽乃家爾者・・・」と詠う。

③ 前2首は、現代の奈良丘陵を「なら」と呼び、それを修飾している語句となっている。3首目の「なら」は、実景であれば平城京造営のための役民の住居や、瓦を焼く技能集団の住居を指し得る。瓦葺きではない、藤原京での官人の屋敷とはくらべものにならない住居を修飾している語句となっている。

④ 太田容子氏の「枕詞「あをによし」の意味とその変容」(baika.ac.jp/~ichinose/o/202009ota.pdf )は、記紀の歌謡と『萬葉集』と平安時代の主な和歌集を対象に考察し、「あをによし」が掛かる語句の変遷があり、それは作詠時点に特徴がある、と指摘している。一番古い時代は、「なら(の)やま」(現代の奈良山丘陵)、即ち近江へ通う道のある「やま」に掛かると指摘している。

⑤ また、氏は、大和盆地から奈良山を越える際、旅の安全を願って通過する土地を褒める「道行の歌」を誦謡したと言われているので、足元の「土」を讃える意味をも含んだ言葉であったのではないかと推測している。

⑥ 巻一の3首にある「あをによし」は、初期の例であり奈良山の辺りで(青色の顔料にする)「あを(青)に(土)」を採取していたことから、奈良(山)を修飾している、と思う。「よ」「し」は、感動・詠嘆を表す間投助詞。2-1-80歌は、今後検討するが巻一の最後の編纂時に「なら」の表記が「寧楽」に替わったのではないか。

⑦(『例解古語辞典』は、「奈良で「あをに」を産したことから「奈良」にかかる」と説明する。『デジタル大辞泉』では、「「奈良」にかかる。奈良坂顔料の青土を産したところからという。」とある。

(付記終わり 2021/10/18   上村 朋)