わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 万葉の挽歌は死者封じ込め

 前回(2021/10/4)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 類似歌の謎」と題して記しました。今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 万葉の挽歌は死者封じ込め」と題して、記します。(上村 朋)

1.~4.経緯

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行い、3-4-23歌まではすべて恋の歌であることを確認した。3-4-24歌の類似歌の検討に関して『萬葉集』巻一と巻二の構成を検討している。)

5.再考 類似歌その3 巻二の挽歌再考

① 「第五の歌群 逆境の歌群」(3-4-19歌~3-4-26歌)の歌と想定した3-4-24歌の類似歌の題詞に似た題詞が『萬葉集』巻二にあり、類似歌の理解に資するため、「3.②」に示した仮説のうち、

「巻一などにある標目「寧楽宮」は、編纂者にとり意義あるものではないか(仮説D)

「天智系の天皇に替わってから『萬葉集』が知られるようになった、と考えられる(仮説E)」

の二つに関して検討しています。

 巻一と巻二は、部立てをしてその許に、天皇の代ごとのような標目をたてています。歌と天皇の統治行為等との関係(付記1.参照)について、2021/10/4付けブログで雑歌と相聞を検討しました(付記2.参照)が、今回挽歌を検討します。

② 巻二の挽歌と天皇の統治行為等との関係を付記3.の表Cに示します。挽歌の対象者が、亡くなった時点順に原則配列されています。

  挽歌の部において、天皇への挽歌は天智天皇天武天皇に対して記載があるだけです。和銅三年(710)に詠われた挽歌があるのに持統天皇(702崩御)や文武天皇(707崩御)への挽歌がありません。壬申の乱まで日本の支配権を握っていた天皇と、その天皇の死後の戦いに勝ち支配権を得た天皇だけです。

 天智天皇への挽歌は、2019/4/29付けブログで指摘したように、殯の最中の歌8首と埋葬が終わった時点(事後)の歌1首で構成されています。女性の歌だけです。天武天皇への挽歌も、皇后である持統天皇の歌(4首)のみで巻二の編纂者は構成しています。

③ 天智天皇は、白村江で敗戦時のリーダーであり、近江大津へ遷都した天皇です。新羅からの侵攻に備えた国内の防衛体制が未完のままで崩御しました。天武天皇も国内で兵士動員体制と物資補給体制を整える制度である律令作成の半ばで崩御しました。『日本書記』の記述は対照的であり、天智天皇崩御関連記事は簡素であり、天武天皇の嬪宮(もがりのみや)が10日余で完成し嬪の期間が2年2か月と記すなど、主要な喪葬関連の記事が31か所もあります。しかし、持統天皇はこの二人の忌日を国忌にしました。

 皇子や皇女への挽歌は、天智天皇崩御以前の有馬皇子(658没)から志貴皇子(715没)に対してあます。このほか采女や人麻呂の妻などへの挽歌など天皇との関係分類「I天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を詠う歌」が、17首あります。

 なお、表Cにおいて、「殯儀礼の歌」とは天皇のほか皇族など高位の方の招魂・送魂儀礼に関わる歌の意、「喪葬儀礼の歌」とは、対象が養老律令の喪葬令(そうそうりょう)で「死」と表現される六位以下・庶人の場合の招魂・送魂儀礼に関わる歌の意です。対象人物の位階は不明の場合は、私の想定に基づきます。

④ 巻二の部立て「挽歌」については、以前、2019/5/13付けブログで検討したことがあります。それと遠藤耕太郎氏の意見( 『万葉集の起源 東アジアに息づく抒情の系譜』(中公新書2020/6 付記4.参照)により検討をすすめます(その結果上記ブログは2021/10/11に一部修正しました)。 

 天皇との関係でみると、特記すべき歌があります。

 ひとつ目は、部立て「挽歌」の筆頭歌も天皇に関する歌であることです。

 二つ目は、標目単位でみると、筆頭歌が天皇や皇族への挽歌であるのに、標目「寧楽宮」では采女かと思われる「姫島松原嬢子」への挽歌であることです。皇族への挽歌が後回しです。

 三つ目は、日並皇子への大変な肩入れです。

 四つ目は、天皇の行動に関係ない3人(人麻呂妻、人麻呂、松原娘子)への挽歌が17首もあることです。

 これらは意味のあることである、と思います。

⑤ 挽歌とは、2-1-145歌において、編纂者自身が記したと思われる左注で定義しており、挽歌という判定を、歌が創られた時点ではなく、挽歌として利用された時点(用いた時点)でしています(2019/5/13付けのブログ参照」)。当該歌を披露することに意義を認めています。

 律令では、死に関する儀礼を「喪葬令」に規定しています。それは、招魂(喪)と送魂(葬)の儀礼がワンセットであることを意識している規定と理解できます。死者を、円満に死者の世界に送ることをストーリーとしており、死者が死者の世界に行けないと、死者と生者が一緒にいるという混沌とした世界が続くことになる(死者にかき回される状況が続く)ので、それを解消し、生者の秩序は生者のみでつくり保てるようにするという意識です(付記4.参照)。

 偉大な祖先が神になるならば、それ以外の偉大な人物も神になる資格があり、死後も常々丁重に扱い、この世に執着しない状況にしておいて然るべきです。

 ひとつの家族であれば、父母はそのような人物です。そのため死んだ場合はその死を確かめる招魂をした後、送魂する儀礼がワンセット(あるいは送魂し、確認をする招魂の儀礼がワンセット)となっています。その後も祀りを続けることになります。

⑥ 天皇家にとってもそれは同じです。

 強引に謀反の疑いをかけるのは、偉大な人物とみなしていることになります。死んでからも社会に影響を与えるような(偉大な)人物を、無理やり現世から排除したと意識すれば、その人物が死者の世界以外に興味を持たないように仕組まざるを得ません。

 天皇の代ごとの編纂をすれば、その天皇の代において速やかに対応を示して然るべきです。歌集として送魂・招魂あるいは祀る意の歌を配列する意味は十分あります。

 死後に、その人物の活躍(の結果の天変地異、庶民の不幸)があれば偉大な人物であったと認めざるを得ません。天皇の支配は、偉大な人物の死後も祀る儀礼等を続けていてこそ安泰です。

⑦ 部立て「雑歌」の筆頭歌は、雄略天皇の御製でした。相聞は、仁徳天皇を思う磐姫の歌があり次に流罪となった軽太子に関する歌が配列されています。

「挽歌」の筆頭歌は、謀反を起こしたとされる有馬皇子の自傷歌であり、その歌は、天皇への忠誠が認められていない不満の思いが込められています。しかしながら、別の見方をすれば、歌の配列によって、天皇への忠誠を尽くさなければ有馬皇子のようになると示している歌です。そして亡くなった有馬皇子を丁重に慰めているかのような歌を次に配列しています。

 その有馬皇子の自傷歌は、「挽歌」の最初の標目「後岡本宮御宇天皇代」にあります。当代の天皇への挽歌はなく、有馬皇子に関する歌しかありません。有馬皇子は、結果として天智天皇に対して無念の気持ちを持ってしまった皇子です。その天智天皇への挽歌は、次の標目「近江大津宮御宇天皇代」にあり、天智天皇への挽歌のみで構成されています。

 天智天皇に関して、標目を2代費やして挽歌を配列しているといえます。

いづれにしても、三つの部立ては、すべて、天皇が日本を治めて然るべきである事を主張している、と言えます。

⑧ その次の「明日香浄御原宮御宇天皇代」は、十市皇女(とほちのひめみこ)への挽歌が最初です。十市皇女は、壬申の乱天武天皇が争った大友皇子の妃であり葛野王を生んだ方です。十市皇女の死は突然でした。中国の王朝にならい、天武天皇7年4月7日、天皇がはじめて天神地祇を祠ろうとした当日、先導が出発し、天皇出行の直前に「卒然病発、薨於宮中」(『日本書記』天武紀)、これによって行幸を止め祠ることができませんでした。十市皇女は同月14日葬られましたが天皇は臨席しています(同上)。

 つまり天武天皇は、「誰か」に阻止されたのです(と理解されたのでしょう)。(なお、2-1-156歌は古来からの難訓歌です。)

 十市皇女の次が天武天皇への挽歌です。前回のブログ(2021/10/4付け)で、指摘したように、『日本書記』における天智天皇への挽歌にならい天武天皇への挽歌は、『日本書記』と異なり大変質素で皇后の歌のみです。さらに挽歌の歌数が、天智天皇へは9首、天武天皇へは4首とアンバランスです。歌数だけをみれば公平な扱いというより天智天皇へ肩入れしている編纂のようにみることができます。

 「明日香浄御原宮御宇天皇代」はこの2人への挽歌で終わっています。

⑨ 持統天皇は、『日本書記』大宝2年12月条によれば「(2日に)勅(みことのり)してのたまはく、「九月九日、十二月三日は先帝の忌日なり。諸司、是の日に当たりて廃務すべし」とのたまはれ」、天武天皇天智天皇を並べて特別視しています。巻一と巻二の編纂は、この持統天皇の発言を意識していると思えます。

 巻二の部立て「挽歌」は、編纂で重視しているとみられる天智天皇からはじめているとみることができます。天智天皇が偉大な人物の一人と認めていたと思える有馬皇子関連の歌のみで最初の標目を構成しているのですから。

 天武天皇に関しても、一つ前の標目「近江大津宮御宇天皇代」には有馬皇子への挽歌のみの標目と同じく天智天皇への挽歌しかありません。2代費やして天武天皇への挽歌を配列しているかにみえます。

 天智天皇は自分の継承者を天武天皇がベターと思っていた訳ではありませんので、死後に無念の思いが生じたかもしれません。天武天皇が挽歌をおくる相手と認めているかの配列は、天智天皇の死に天武天皇が関わっていたかの疑いを持ちます。

 ただし、天智天皇天武天皇の『萬葉集』でのバランスは「寧楽宮」の検討に直接関係なさそうです。

⑩ 次の標目「藤原宮御宇天皇代」は、大津皇子への挽歌が最初にあります。皇太子日並皇子に謀反したとして24歳で処刑された皇子です。

 その次が日並皇子への挽歌です。日並皇子は病に倒れ天皇位につけませんでした。

 以下皇子女への挽歌が配列され、

 天智天皇系への挽歌は、(十市皇女経由で)大友皇子、明日香皇女、

 天武天皇系への挽歌は、高市皇子弓削皇子十市皇女但馬皇女

となっています。

 次いで柿本人麻呂妻への挽歌などが続きます。

⑪ このように、標目「〇〇宮御宇天皇代」で天皇より先に挽歌をおくられている方は、3人います。皇位継承への意思の有無にかかわらず危険視され、謀反をしたと断定され、客観的には無念の死を選んだ人物である有馬皇子と大津皇子、及び天武天皇天神地祇を祭るのを取りやめさせた形になる十市皇女の3人です。十市皇女大友皇子の代理と理解できます。

 天皇となった者からすれば3人とも無念な事柄があったと思える人物であり、あの世から害をなす恐れが大きい人物と認められます(天智天皇も加えてよいかもしれませんが今は論じません)。

⑫ これに対して、最後の標目「寧楽宮」の筆頭は、采女かと思われる「姫島松原嬢子」への挽歌であり、天皇家(あるいは天皇位)との関係が無い人物への挽歌です。その次が皇族の一人である志貴皇子への挽歌で終わっています。これまでの標目「〇〇宮御宇天皇代」とは趣が異なります。

「姫島松原見嬢子」は、(作者が)「姫島松原(に)見(たところの)嬢子屍」であるので、無念の思いをもって死を選んだ人物と言えます。そのうえ、素性がわからない、つまり素性を突き止められない人物です。天皇との関係は表面上ない人物です。

 だから、その人物に、天皇との関係を暗喩させても違和感がありません。あの世から害をなす恐れが大きい人物に「姫島松原見嬢子」をなぞらえるとすると、これまでの標目の筆頭歌と変わらない働きが期待できます。

 この標目にある次の人物である志貴皇子天皇であるかのように扱えば、「姫島松原見嬢子」に天武系の天皇(それも女系天皇)を暗喩させることができます。

 天皇に対して、ここまでの標目の筆頭歌と同じ役割を果たしていることになります。

 標目「寧楽宮」の筆頭にある水死した「姫島松原見嬢子」への挽歌は、志貴皇子の将来(子孫)のことを予祝して、天武天皇以降の女系の天皇(複数)への挽歌を暗喩しているのではないか。

 志貴皇子は、後年光仁天皇より「春日宮御宇天皇」の称号を770年追贈されています。

⑬ 次に、日並皇子への大変な肩入れが、挽歌の部での特徴です。

 実際の葬儀儀礼に劣らず、挽歌の部でも長歌1首、反歌3首、短歌23首(計27首)と挽歌の部の歌数の29%を占めています。

 日並皇子自身も皇太子のままで死ぬのは無念であったと思います。そうすると、天皇になり損ねた皇太子ですから、場合によってあの世から害をなす恐れが大きい人物ということになります。挽歌のあるほかの皇子や皇女も若くして亡くなっています。普通に考えれば、残す思いがあった年齢です。

 そうすると、『萬葉集』に「・・・天皇代」と言う標目ごとに、生前社会的影響力を持っていた(と信じる)人物には尊敬の念(あるいは恐れおののいている証)を表すことを、現世の支配者である天皇が行っていたことを示した配列となっています。

⑭ 四つ目の特徴として指摘したのが、天皇の行動に関係ない3人(人麻呂妻、人麻呂、松原娘子)への挽歌が17首もあることでした(付記3.の表C参照)

 このうち、人麻呂詠う2-1-207歌では、亡くなった妻に現世に思いを残さないでくれ、と詠っており、当時の人々にとり送魂が重要であったこと、また、ポピュラーな儀礼であることがわかります(「2020/10/12付け及び2020/10/19付けブロ」グ参照)。

 このほか、「C天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(Dを除く)」にある官旅での見聞(あるいはそれに基づく)歌が「死人」について詠っています(2-1-220歌と2-1-221歌)。帰国を果たせなかった行旅死人に挽歌を詠うのは、同じ目的で旅する者に死者の霊魂が憑りつかないよう(旅行者の行動の邪魔をされないよう)祈ることに通じます。

 これも当時の日常的な場面であろうと思います。この17首には挽歌の目的を認識できる歌が多くあります。

⑮ さらに、人麻呂の自傷歌が、「挽歌」の部にあります(2-1-223歌)。巻一と巻二で「自傷」と題詞にある歌は、「挽歌」の筆頭歌である有馬皇子歌(2-1-141歌)とこの歌だけです。

 2-1-141歌には、有馬皇子が亡くなった後に3人が詠った歌が直後にあり、2-1-223歌にも同じように人麻呂が亡くなった後に3人が詠った歌が直後にあります。同じ構成の歌群となっています。

 だから、人麻呂は、有馬皇子のような立場であることを暗示している配列とみなせれば、ちょっと脱線しますが、人麻呂の人物像に、2案が浮かびます。

 一つは、流罪にされないものの政治的には敗者である人物であり、丁重に死後も祀るべき人物と天皇(家)も『萬葉集』巻一と巻二の編纂者も認めている人物です。例えば『日本書記』には記されていない皇子(天皇家にとり、公文書に記載せず伏せておくべき人物)、あるいは藤原家の同様な人物)です。

 もう一つは、唐或いは敵対している新羅からきた人物(あるいはその子)で能吏の立場に徹しなければならなかった人物です。

 人麻呂が、皇族の誰かの資人(皇族と五位以上の官人に特典として賜る従者で主人の警護や雑務に従事した下級の官人)であれば、多くの皇族の代作は出来ないと思います。なお、資人には、大伴旅人への挽歌を詠んでいる余明軍がいる(2-1-457~462歌)ように、歌に堪能な者もいます。

⑯ ここまでの、巻一と巻二にある標目「寧楽宮」と、そこに配列されている歌の検討から、大変政治的な配慮でこの標目が設けられ、歌が配列されている可能性の高いことがわかりました。

 さらに、『萬葉集』における多くの「寧楽宮」という表記の箇所があり、そこでも同じような暗喩があれば、その可能性は高まります。次回は、『萬葉集』歌での「寧楽宮」表記例を改めて確認したい、と思います。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただきありがとうございます。

(2021/10/zz    上村 朋)

付記1.歌と天皇の統治行為との関係

 巻一と巻二にある歌について、それが詠われている状況について天皇の統治行為中心に整理すると、次のような分類ができる。それに基づいた歌の整理は付記3.に示す。

  A1 天皇及び太上天皇などの一般的公務に伴う(天皇が出席する儀礼行幸時の)歌群、但しA2~Hを除く:

例えば、作者が天皇の歌、天皇への応答歌、復命歌、宴席で披露(と思われる)歌

  A2 天皇及び太上天皇などの死に伴う歌群:

例えば、殯儀礼の歌(送魂歌・招魂歌)、追憶・送魂歌

  B 天皇が下命した都の造営・移転に関する歌群:

例えば、天皇の歌、応答歌、造営を褒める歌

  C 天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(但しDを除く):

例えば、皇子や皇女、官人の行動で、公務目的に直接関係なさそうなその旅中での感慨を詠う歌。復命に関する歌はA1あるいはA2あるいはDの歌群となる。

  D 天皇に対する謀反への措置に伴う歌群:

例えば、罪を得た人物の自傷歌、護送時の誰かの哀傷歌、後代の送魂歌

  E1 皇太子の行動に伴う歌群(E2を除く):

例えば、皇太子の行幸時の歌、皇太子主催の宴席での歌、公務目的に直接関係なさそうなその旅中での感慨を詠う歌 

  E2 皇太子の死に伴う歌群:

例えば、殯儀礼の歌、事後の追憶の歌

  F 皇子自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む):

例えば、殯儀礼の歌、事後の追憶・哀悼の歌、主催した宴席など公務以外の宴席での歌、その公務の目的に直接関係なさそうなその旅中での感慨を詠う歌

  G 皇女自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む):

例えば、殯儀礼の歌、追憶の歌、送魂歌、主催した宴席など公務以外の宴席での歌

  H下命の有無が不明な事柄に伴う(作詠した官人自身の感慨を詠う)歌群:

 上記のA~GやIの判定ができない歌(該当の歌は結局ありませんでした)

I 天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を詠う歌群:

例えば、事後の送魂歌

 ここに送魂歌とは、死者は生者の世界に残りたがっているのでそれを断ち切ってもらう必要があるという信仰の上にある歌という意味である。当時は単に追悼をする歌はない。

 

付記2.ブログ2021/10/4付けでの主要な結論

① 本文「3.②」に挙げた、作業仮説のうち仮説Dと仮説Eを、標目の設定、各標目の特徴等から検討し次のことがわかった。

② 巻一と巻二は天皇を中心の編纂と予想できるが、標目「寧楽宮」にある2-1-84歌では、宴を主催したであろう皇子は、巻一のなかで天皇と変わらない行動の自由があったという主張を編纂者はしているかにみえる。

③ それは異例であるから、追加されたのではないか。巻一と巻二の原案はできていた。

④ 天智系の最初の天皇光仁天皇志貴皇子に「春日宮御宇天皇」の称号を贈っている。

⑤ 『萬葉集』巻一と巻二の原案を修正し、天智系に受け入れてもらう作業が、それから始まった。

⑥ 謀反に参加したとみなした者の著作は抹殺される。『萬葉集』は家持が806年復位するまで公表できなかった。

⑦ 巻一の巻頭歌2-1-1歌は、その地域の豪族の娘(あるいは巫女)に発した歌であり、その豪族の服属を確認する極めて儀礼的な歌(服属儀礼の歌)。「相聞」の筆頭歌でも天皇の支配が正当であるとして各地の豪族が待ち望んでいるという理解が可能である。

⑧ 検討した範囲では仮説Dと仮説Eは成立していた。

 

付記3. 歌と天皇との関係(巻一雑歌、巻二相聞、巻二挽歌)

上記付記1.に示す関係分類により、巻一と巻二の歌を部立て別に整理する。雑歌を表A、相聞を表B(2021/10/4付けブログの付記3.)及び挽歌を表C(この付記1.)に示す。

表C 巻二の部立て挽歌にある歌(94首)と天皇との関係を整理した表

 (2021/10/4 現在)

関係分類

歌数

標目

挽歌対象者

該当歌

備考

A1天皇及び太上天皇などの一般的公務に伴う(天皇が出席する儀礼行幸時の)歌群、但しA2~Hを除く)

無し

 

 

 

 

A2天皇及び太上天皇などの死に伴う歌群

 13

「・・・御宇天皇代」

天智天皇

 

 

 

天武天皇

2-1-147~2-1—148事前の大后の願い

2-1-149~2-1-155殯儀礼の歌

2-1-159~2-1-161殯儀礼の歌

2-1-162事後の命日における大后歌(殯儀礼の歌)

天智天皇10(671)

/12/3没 国土防衛体制道半ば

 

朱鳥元年(686) /9/9没

国土防衛体制道半ば

B天皇が下命した都の造営・移転に関する歌群

無し

 

 

 

 

C天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(Dを除く)

  6

「・・・御宇天皇代」

吉備津采女

 

讃岐狭島視石中死人

2-1-217~2-1-219

喪葬儀礼の歌

2-1-220~2-1-222事後の送魂歌

職務中の死(任務果たせず)

帰国果たせず

死者を「君」とよぶ

D天皇に対する謀反への措置に伴う歌群

 10

「・・・御宇天皇代」

有馬皇子

 

 

 

 

大津皇子

2-1-141~2-1-142自傷

2-1-143~2-1-146事後の送魂歌と哀悼歌

2-1-163~2-1-166事後の送魂歌

658没 実は無実

 

 

 

686没 実は無実

E1皇太子の行動に伴う歌群(E2を除く)

無し

 

 

 

 

E2 皇太子の死に伴う歌群

27

「・・・御宇天皇代」

日並皇子

2-1-167~2-1-193殯儀礼の歌

699没 皇太子のまま

F皇子自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む)

 

 14

「・・・御宇天皇代」

川島皇子

 

高市皇子

 

弓削皇子

2-1-194~2-1-195殯儀礼の歌

2-1-199~2-1-202殯儀礼の歌

2-1-204~2-1-206殯儀礼の歌(他より流用した歌)

691没 母は非皇女父は天智

696没 母は非皇女父は天武

699没 母は天智皇女父は天武

「寧楽宮」

志貴皇子

2-1-230~2-1-234殯儀礼の歌

715没 母は非皇女父は天智 没年に錯誤あり

G皇女自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む)

  7

「・・・御宇天皇代」

十市皇女

 

明日香皇女

 

但馬皇女

2-1-156~2-1-158殯儀礼の歌か

2-1-196~2-1-198殯儀礼の歌

2-1-203事後の送魂歌

679没 大友皇子の妻

704没 忍壁皇子の妻

708没 穂積皇子と恋仲

H下命の有無が不明な事柄に伴う(作詠した官人自身の感慨を詠う)歌群

無し

 

 

 

 

I天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を詠う歌群

 17

「・・・御宇天皇代」

人麻呂妻

 

人麻呂

2-1-207~2-1-216事後の送魂歌(*)

2-1-223自傷

2-1-224~2-1-227事後の送魂歌

 

 

 

人麻呂は罪を得た官人という説有り

「寧楽宮」

姫島松原見嬢子屍

2-1-228~2-1-229事後の送魂歌

入水自殺

 

 94

 

 

 

 

注1)「歌番号等」とは『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)「該当歌」欄の歌評は上村朋の意見。「殯儀礼」とは皇族・高位の官人に対する官許の葬送儀礼相当を言う。2-1-147~2-1-155は 「2019/4/29付けブログ」による。

注3)*印の2-1-207~2-1-216は 「2020/10/12付け及び2020/10/19付けブログ」を参考としている。2-1-207は題詞に「妻死之後泣血・・・」とあるので葬儀を振り返っている歌とここでは整理した。

注4)「備考」欄のコメントは上村朋の意見。

 

付記4.生者と死者が居るところについて

①『万葉集の起源 東アジアに息づく抒情の系譜』(遠藤耕太郎 中公新書2020/6)は、喪葬について次のような指摘をしている。②以下も遠藤氏の指摘。

第一 日本ではつい近年まで、人が息を引き取ると、それは魂が驚いたり弱ったりして抜けてしまった状態であると考えられ、まず魂を呼び戻す「魂呼び(たまよび)」が行われていた。近親者が屋根に上がってあるいは井戸を覗きこんで死者の名を呼び、その魂を呼び戻そうとするのである。屋根や井戸は天空や川を通じてあの世とつながっていると考えられていた。こうした招魂儀礼を行う場が喪屋(もや)であり、・・・この習俗は現在も、通夜として残っている。・・・蘇生が不可能となれば、死者をこの世から分離する儀礼を多く行い野辺の送りをした。現在も火葬場への道順を行きと帰りで違えたり帰宅後に塩で死の穢れを祓うという習俗がある。このように日本の儀礼は招魂(喪)と送魂(葬)という相反するベクトルを併せ持っている。

第二 律令での死に関する儀礼を定める「喪葬令(そうそうりょう)」然り。

第三 女の挽歌の典型は天智天皇への挽歌。男の挽歌は日並皇子への挽歌。男の挽歌は、中国の例や仏教の浸透などによる国の体制整備が背景にある。

② 萬葉集記載の天智天皇への挽歌は、病気平癒の呪歌(2-1-147)→ 死者である天智を責める(2-1-148)→残された者の後悔・追慕を告げる(2-1-149~152)→ 死者を引き留める(2-1-153)→ 別れたことの確認(2-1-154&155)。招魂から送魂というストーリー。

日並皇子への挽歌で人麻呂作の長歌反歌は、中国の誄(るい)の形式に学んでいる(死者の系譜、功績を述べ終わりに哀傷の意を含ませる)。人麻呂歌は送魂歌でありその次にある舎人歌は慟傷歌であり、送魂から招魂へというストーリーにかわっている。

③ 死者に対して、生の世界に未練を残さないよう送魂するのが大事である。死者が死者の世界に行けないと、死者と生者が一緒にいるという混沌とした世界が続くことになる(死者にかき回される状況が続く)。それを解消し、生者の秩序は生者のみでつくり保てるようにするためである。

④ 和歌は文字以前の「声の歌」が本質としていたモノへの働きかけ(訴えかけ)の機能を継承する。そして漢字、漢詩を受容することにより五音七音を基準とする音数律を整え、声に出して唱えられる歌となった。「声の歌」は歌垣や喪葬儀礼といった共同体的な習俗と密接に結びついている。

⑤ 死者は恐怖するものではなくなってゆくが、それが復活する漢字やそれを支える中華王朝の思想を受け入れた。恋歌も喪葬歌も人を恋しいと歌う。自分と相手を想定している。相手は生者・死者であれ歌ってきた。それは、社会と自分との折り合いをつけるためである。

⑥ 2-1-83歌や1-1-994歌(『伊勢物語』23段などにもある)は、声を出して歌い、相手の旅の安全を祈っている。故郷の神という見えないモノに訴えたのである。

⑦ 人麻呂は、死の悲しみそのものを追求する挽歌へ飛躍させた。

(付記終わり  2021/10/11   上村 朋)

 

 

 

わかたんかこれ  猿丸集は恋の歌集か 第24歌 類似歌の謎

 心地よい秋晴れとなりました。コロナ感染者数も一山超えたかのようですが、三密など怠らず、お気をください。

 ブログを再開します。前回(2021/7/19)、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第23歌 わぶ」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 類似歌の謎」と題して、記します。(上村 朋)

追記:2021/12/9一部付記3.表Aの一部訂正

1.経緯

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行い、3-4-23歌まではすべて恋の歌(付記1.参照)であることを確認した。今回から3-4-24歌を検討する。歌は『新編国歌大観』より引用する。)

2.再考 第五の歌群 第24歌の課題 

① 第五の歌群 逆境の歌群」(3-4-19歌~3-4-26歌)の歌と想定した3-4-24歌を検討します。『新編国歌大観』から引用します。

 3-4-24歌  (3-4-22歌の詞書をうける)おやどものせいしける女に、しのびて物いひけるをききつけて、女をとりこめていみじういふとききけるに、よみてやる

   人ごとのしげきこのごろたまならばてにまきつけてこひずぞあらまし

 

3-4-24歌の類似歌  『萬葉集』巻三  挽歌  

2-1-439歌  和銅四年辛亥河辺宮人見姫嶋松原美人屍哀慟作歌四首(437~440)

   ひとごとの しげきこのころ  たまならば てにまきもちて こひずあらましを

(人言之 繁比日 玉有者 乎尓巻以而 不恋有益雄)

 

② それぞれの詞書を信じれば、相聞歌と挽歌に別れ、趣旨が違う歌となるはずです。しかし類似歌の理解に、題詞と歌本文との齟齬を認めるか否かで大別2案ある状況です。

前回(2018/7/23付けブログ)の検討では、類似歌がそのどちらの案であっても、3-4-24歌は、親たちの監視が続いている女と作者との変わらぬ愛を男の立場で表現した歌と理解できました。このため、『猿丸集』のこれまでの各歌とその類似歌との関係がこの3-4-24歌にも当てはまるとすると、この歌が相聞歌であるので、前回、類似歌は、2案のうち「439挽歌(案)」である可能性が高い、として検討を終えています。

③ しかし、類似歌については、巻全体の配列からの検討が不十分のままです。また、猿丸集編纂者が、中途半端な理解で類似歌を扱っているとも思えません。それらを改めて検討し、それが3-4-24歌の理解に関わっているかを今回確認します。

④ なお、この歌は、前回の検討時、次のように理解したところです。

3-4-24歌 親や兄弟たちが私との交際を禁じてしまった女に、親の目を盗んで逢っていることをその親たちが知るところとなり、女を押し込め厳しく注意をしたというのを聞いたので、詠んで女に送った(歌)

「自分達に関係ない(仲を裂こうとする)ことがごたごたしていて煩わしいこのごろで(逢えませんねえ。)、あなたが美しい宝石であるならば、手にまきつけることで(あなたとの一体となるので)、あなたをこれほど恋こがれることはないであろうに。」

 

3.再考 類似歌その1 巻一と巻二の編纂方針

① 『萬葉集』巻三に記載された類似歌2-1-439歌の検討で、宿題は、次のようなものです。

 第一 ほぼ同じ題詞が巻二にあり、詠われている場所も一致するが歌の内容が異なる。各巻の構成からの確認をも要する。また、題詞中の「見・・・屍」という語句の検討と同様に共通の語句の検討を要する。

 第二 この題詞のもとにある4首は挽歌ではなく相聞歌であると諸氏の指摘があるものの、挽歌としての理解もできた。しかし、上記第一との関連があいまいなままである。

 第三 類似歌を猿丸集編纂者が一案として理解していたかどうかの検討が済んでいない。

② これらについて、大まかな再検討をした結果、類似歌に関して、次のように予想できました(以下の検討の作業仮説となります)。

 第一 『萬葉集』の歌は、題詞のもとに歌があるという普通の理解が妥当である(仮説A)。

 第二 ほぼ同じ題詞の巻二と巻三の歌群は、同一人物への挽歌を詠っているのではないか(仮説B)。

 第三 その人物は、誰かを暗喩している、と考えられる(仮説C)。

 第四 巻一などにある標目「寧楽宮」は、編纂者にとり意義あるものではないか(仮説D)。

 第五 天智系の天皇に替わってから『萬葉集』が知られるようになった、と考えられる(仮説E)。

 これは、『萬葉集』巻一~巻三の編纂方針を確認することにほかなりません。しばらく、それを検討することとなります。

③ 第四と第五の仮説より、順次検討します。

 巻二は、巻一とあわせて原萬葉集と言われたりしています。その構成から検討します。

 萬葉集の三大部立て(雑歌・相聞・挽歌)は、この二巻で揃います。巻二の部立て「挽歌」は一度検討しています(2019/5/13付けブログ)が新たな視点も加えて検討します。

 そして、各部立てごとに、「宮」の名を基準にした表記により天皇の代を別けたかの標目をたてています。その最後に平城京の「宮」を想像させる「寧楽宮」(ならのみや、と訓まれています)という標目があります。

 「寧楽宮」という標目をたてたこと(そしてそこにある歌の収載時点)は、後の追加であろうと、諸氏は一致して指摘しています。

 標目「寧楽宮」に収載された歌の推定作詠時点を確認すると、巻一の雑歌では、標目「寧楽宮」にある唯一の歌2-1-84歌は、題詞に佐紀宮での宴とあるので、少なくとも平城京へ遷都した和銅3年(710)3月10日以降、宴をした長皇子と志貴皇子のうち先に亡くなった長皇子の没年月日である和銅8年(715)6月4日以前となります。巻一の詞書に暦年記載がある歌では一番新しい作詠時点の歌となります。

 巻二の相聞には標目「寧楽宮」が無く、挽歌にだけあり、詞書が3題あります。「和銅四年(711)歳次辛亥・・・」、「霊亀元年(715)歳次乙卯秋九月・・・」及び「或本歌曰」とあります。柿本人麿への挽歌など作詠時点が推計困難な歌を除くと、一番新しい作詠時点の歌となります。

 和銅の年号は元明天皇の時代(在位707~715)ですが、「霊亀元年」(715)は元正天皇が即位(9月2日)後の年号です。だから、平城京で即位した天皇の時代の歌が、巻一と巻二を通じて1首だけあることになります(題詞の検討は下記⑩以下で行います)。 

④ 標目は、巻一と巻二にしかありません。これから、この二巻のみを対象にした編纂方針があったのではないか、と推測できます。その表現は、天皇の代を別けたかのような印象があります。

 標目の表記方法は、律令公式令に定めた表現(明神御宇天皇詔旨云々。咸聞。付記2.参照)に似せていますが、天皇の呼称(「明神」としての表記)ではなく天皇の居所の宮殿名を用いているとみえます。

 その標目の訓みは、例えば「藤原の宮に あめのした知らしめしし すめらみことの み代」(阿蘇瑞枝氏による)です。『萬葉集』の底本には、標目「藤原宮御宇天皇代」に割注があり「高天原広野姫天皇」とあります。

 最後の標目「寧楽宮」は略した表記とみれば、標目「藤原宮御宇天皇代」以後の天皇の時代の歌のみが配列されているはずですが、標目「藤原宮御宇天皇代」にある元明天皇の時代の歌があります。

 もっとも「藤原宮御宇天皇代」という標目も、持統天皇崩御(702)後に詠った歌もあり、平城京遷都(710)後の歌(2-1-81歌)もあります。持統天皇以後を一括してくくっているかの標目であり、「各天皇のうち藤原宮において国政をみた天皇(複数)の時代」、という意味とも理解できます。

 だから、最後の標目「寧楽宮」は、標目の一貫性が途切れたかのようであり、特異な標目です。

⑤ 標目ごとにみると、天皇・皇后・皇族の歌が筆頭に置かれています。例外は、巻二の挽歌の部の標目「寧楽宮」であり、筆頭の歌は、(類似歌2-1-439歌に関連ある)高級官人でもない女性が詠う歌となっています。

 また、巻一と巻二の標目「寧楽宮」には、天皇の歌や、行幸の際の歌も、ほかの標目と違ってありません。皇族関係では長皇子と志貴皇子の関係する歌があるだけです。

 このように、標目とそこに記載されている歌の作者に注目すると、標目「寧楽宮」は、皇族では長皇子と志貴皇子が中心になっています。各標目の筆頭歌からは天皇を重視した編纂が予想できますが、標目「寧楽宮」は例外であり、皇族に注目した編纂がされていることになります。天皇ではないので、異例の扱いと言えます。

⑥ 長皇子は、父が天武天皇であり、母も皇族ですが、皇位継承に関しては、志貴皇子同様下位に位置しています。弓削皇子の兄で、和銅8年 (715) 6月4日没しています。子に大市王(文屋大市)、智努王(文屋浄三)などがいます。

⑦ 志貴皇子は、父が天智天皇であり、壬申の乱には天武側にたった皇子です。萬葉集によれば霊亀元年(715)9月に、日本書記によれば霊亀2年8月11日(716/9/1)に没しています。

 子の白壁王は、(有力貴族が画策し称徳天皇の遺言だと偽って)皇太子に迎えられ、62歳で即位した光仁天皇(在位770~781)です。光仁天皇は、即位後直ちに妃である聖武天皇の皇女井上親王を皇后に、そして井上内親王が産んだ他部(おさべ)親王を皇太子に定めています。その一方で、父・志貴皇子に「春日宮御宇天皇」の称号を贈りました。翌年母・紀橡姫に皇太后を追贈しています。そして他部(おさべ)親王廃太子に追い込み、天武との血のつながりのない皇子山部親王を皇太子としました。

 山部親王は即位(桓武天皇)後に母・高野新笠を(内親王ではないので)皇太夫人としています。父母を天皇・皇后にしたことを意味するので、あたかも天智天皇から志貴皇子光仁天皇、自分と直系の皇統があったかのように装おっています。

⑧ 巻一と巻二の原案が光仁天皇即位以前に既に成っていたとすれば、それは天武天皇系の天皇にとって納得のゆく歌集(奏上・公表が可能な歌集)であると編纂者は自負していたと思います。

 しかし、他部(おさべ)親王廃太子としたことから、天皇となる資格者の順位付けに大変革が生じたのです。

 そうなると、天武の孫の代の皇子が存命であるのだから、天智系である今上天皇を軽視していると疑われる行為に注意を払うのが官人の行動原則となります。『萬葉集』編纂者自身も同じでしょう。

 この政治状況に対応していない(既に成っていた)原案は、天武系の皇子や皇女とその縁者をさらに除こうとする者に利用される恐れがありますし、編纂者もその余波を必ず受けます。たとえ原案を廃棄しても、作っていたと密告されることも当然考慮しなければならないので、編纂者は、急ぎ手を加えて、原案の巻一と巻二に、天智系の天皇に関した対応を追加修正するのが唯一の対応策と思います(巻三以下も当然対応が必要です)。

 「宮」別の構成を標目により施してある巻一と巻二を、光仁天皇以降の天皇に理解してもらうため(献上が可能なように、また公表を許されるように)、三大部立ての揃う巻一と巻二をみただけで、天皇が天武系から代替わりしたのだという認識が生じるような工夫の産物が、標目「寧楽宮」を新たに付け加える、ということだったのではないか、と思います。 

⑨ 『萬葉集』の成立時点(公けになったの)は、『古今和歌集』の仮名序・真名序・1-1-997歌からの推測及び家持復位後という井沢元彦氏の指摘から、少なくとも平城天皇光仁天皇の直系の孫)の時代(在位806~809)以後となります(付記4.参照)。光仁天皇即位までに巻一と巻二の原案が成っていたとしても標目「寧楽宮」の追加には十分な時間があった、と言えますが、急ぎ作業したのではないか、と思います。

折口信夫氏は「家持は、平城天皇(安殿親王)の兄、早良親王延暦4年(785)憤死)に、皇太子傳として仕えている。その早良親王にたてまつったものが、新王が流されて後、平城天皇の御手にはいったか、ということは想像できる。そういうわけで(万葉集は)平城天皇に非常に近しい歌集となったのである」と言っています(『折口信夫全集 ノート篇』、「六 万葉集における大歌」より)。 たてまつった歌集を修正するには修正した歌集をまたたてまつるのが一般的であり、家持はその際最初の歌集を回収できたでしょうか。

⑩ 巻二の挽歌の部において、天皇への挽歌は、天武天皇の父(舒明天皇)への挽歌もなく、前代の天智天皇天武天皇への挽歌だけです。天智天皇を対等に扱っているのは、持統天皇の考えと同じです。九月九日は天武天皇の、十二月三日は天智天皇の命日であり、その日を国忌としています(『日本書記』大宝2年12月条参照)。

 『日本書記』における天智天皇への挽歌にならい天武天皇への挽歌は、『日本書記』と異なり大変質素で皇后の歌のみです。持統天皇の考えに沿った編纂ともみえます。それにしては、挽歌の歌数が、天智天皇へは9首、天武天皇へは4首とアンバランスです。天武天皇への歌数が少ないのが不自然であり、『日本書記』での両天皇の扱いと反対です。

 そこに編纂者の意図をみるならば、巻一と巻二にある標目「〇〇宮御宇天皇代」の次にある標目「寧楽宮」は、「天皇代」という語句を省いているものの天皇位を追贈され志貴皇子の「御代」を標目にたてたのではないか。

 天武系と天智系で一線を画そうとする光仁桓武天皇親子への配慮を、明らかにわかるように『萬葉集』に反映したのではないか、と推測します。

⑪  次に、『萬葉集』巻一と巻二の題詞を検討します。題詞で、「・・・宮」とあるのは次のとおりです。

 第一 天皇または太上天皇都城としていたか行幸された時の歌がある宮(屋敷か行宮全体):吉野宮(2-1-27歌、2-1-36~39歌、2-1-111歌など)、藤原宮(2-1-52~53歌、2-1-78歌)、明日香宮(2-1-51歌など)、難波宮(2-1-66歌など)

 第二 天皇または太上天皇が遠望した時の歌がある宮(屋敷か行宮全体):寧楽宮(2-1-78歌)

 第三 殯宮:日並皇子尊殯宮、高市皇子尊城上殯宮、明日香皇女木〇(瓦偏に缶)殯宮

 第四 伊勢神宮(2-1-22歌)、 伊勢斎宮(2-1-81~82歌,2-1-163~164歌)

 第五 皇子の住まわれた宮(屋敷):佐紀宮(2-1-84歌)、高市皇子宮(2-1-114歌)、大津皇子宮(2-1-129歌)、皇子尊(日並皇子)宮(2-1-171~193歌)、

 このなかで、第一の宮は、天皇でいる間の基本的な常在所である宮です。多くの歌が詠まれています。

 第二の寧楽宮は、1首(2-1-78歌)だけであり、和銅三年(710)と明記され、いわゆる藤原京(『日本書記』などでは「新益京」)から平城京に遷都のための行幸途中と理解できる題詞となっています。天皇が公式にこれから遷られる途中という時点であり、寧楽宮は天皇が未だ行かれていない宮とも理解できます。

 第五の宮は、皇族の屋敷をさしています。そのひとつ、佐紀宮に住まわれている皇子(2-1-84歌本文と題詞からは志貴皇子あるいは長皇子)は、当時は次の天皇候補として有力でもなく、本人の野望もないと見られていた人物です。それでも「明日香宮」のように皇子名を避けた宮名となっています。その宮を、第一の「吉野宮」など天皇のゆかれた「宮」と同格に扱っているともとれる題詞です。巻一と巻二の編纂者は、なんらかの配慮を宮名に託しているように見えます。 

 次に、そのような標目と題詞のもとにある歌を、確認してみます。  

 

4.再考 類似歌その2 歌を標目別にみると

① 最初に、標目「寧楽宮」に編纂者が記載した歌を確認します。類似歌に直接かかわるのは、そのうちの「和銅四年・・・」と言う題詞のもとにある2-1-228歌と2-1-229歌です。

 巻一 (部立ては雑歌 1首のみ)

 2-1-84歌 長皇子、與志貴皇子於佐紀宮俱宴歌

    あきさらば いまもみるごと つまごひに かなかやまそ たかのはらのうへ

    (秋去者 今毛見如 妻恋尓 鹿将鳴山曽 高野原之宇倍)

 巻二 (部立てはすべて挽歌 7首) 

 2-1-228歌  和銅四年歳次辛亥(しんがい)川辺宮人姫嶋松原嬢子屍悲嘆作歌二首 

    いもがなは ちよにながれむ ひめしまの こまつがうれに こけむすまでに 

    (妹之名者 千代尓将流 姫嶋之 子松之末尓 蘿生萬代尓)

 2-1-229歌  (同上)

   なにはがた しほひなありそね しづみにし いもがすがたを みまくくるしも 

    (難波方 塩干勿有曽祢 沈之 妹之光儀乎 見巻苦流思母)

 2-1-230歌 霊亀元年歳次乙卯(いっぽう)秋九月志貴親王薨時作歌一首幷短歌 

   あづさゆみ てにとりもちて ますらをの・・・すめろきの かみのみこの いでましの たひのひかりぞ ここだてりてある 

  (梓弓 手取持而 大夫之 ・・・天皇之 神之御子之 御駕之 手火之光曽 幾許照而有)

 2-1-231歌  (同上)

   たかまとの のへのあきはぎ いたづらに さきかちるらむ みるひとなしに 

   (高円之 野辺乃秋芽子 徒 開香将散 見人無尓)

 2-1-232歌  (同上)

  みかさやま のへゆくみちは こきだくも しげくあれたるか ひさにあらなくに

  (御笠山 野辺徃道者 己伎太雲 繁荒有可 久尓有勿国)

  (左注) 右歌笠朝臣金村歌集出 

 2-1-233歌 或本歌曰 

   たかまとの のへのあきはぎ なちりそね きみがかたみに みつつしのはむ

   (高円之 野辺之秋芽子 勿散祢 君之形見尓 見管思奴播武)

 2-1-234歌 (同上)

   みかさやま のへゆゆくみち こきだくも あれにけるかも ひさにあらなくに 

   (三笠山 野辺従遊久道 己伎太久母 荒尓計類鴨 久尓有名国)

 巻二の挽歌の部にある標目「寧楽宮」の筆頭歌は、先(「3.⑤)に指摘したように、皇族でも高級官人でもない女性が詠う歌であり、標目「・・・宮御宇天皇代」と異なっています。そして配列は、題詞に明記されているように、「和銅四年(711)」、霊亀元年(715)と、暦年順の配列ですが、霊亀元年(715)とある志貴皇子の没年月日は『続日本紀』では霊亀二年と記述と異なります。

② 巻一と巻二は、天皇中心の編纂とみて、収載されている歌が詠われている状況について天皇の統治行為中心に整理すると、次のような分類ができます。それに基づいた歌の整理を付記3.に示します。

 A1 天皇及び太上天皇などの一般的公務に伴う(天皇が出席する儀礼行幸時の)歌群、但しA2~Hを除く:

 例えば、作者が天皇の歌、天皇への応答歌、復命歌、宴席で披露(と思われる)歌

 A2 天皇及び太上天皇などの死に伴う歌群:

 例えば、殯儀礼の歌(送魂歌・招魂歌)、追憶・送魂の歌

 B 天皇が下命した都の造営・移転に関する歌群:

  例えば、天皇の歌、応答歌、造営を褒める歌

 C 天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(但しDを除く):

  例えば、皇子や皇女、官人の行動で、公務目的に直接関係なさそうなその旅中での感慨を詠う歌。復命に関する歌はA1あるいはA2あるいはDの歌群となる。

 D 天皇に対する謀反への措置に伴う歌群:

  例えば、罪を得た人物の自傷歌、護送時の誰かの哀傷歌、後代の送魂歌

 E1 皇太子の行動に伴う歌群(E2を除く)

  例えば、皇太子の行幸時の歌、皇太子主催の宴席での歌、公務目的に直接関係なさそうなその旅中での感慨を詠う歌 

 E2 皇太子の死に伴う歌群:

  例えば、殯儀礼の歌、事後の追憶の歌

 F 皇子自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む):

  例えば、殯儀礼の歌、事後の追憶・哀悼の歌、主催した宴席など公務以外の宴席での歌、その公務の目的に直接関係なさそうなその旅中での感慨を詠う歌

 G 皇女自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む):

  例えば、殯儀礼の歌、追憶の歌・送魂歌、主催した宴席など公務以外の宴席での歌

 H 下命の有無が不明な事柄に伴う(作詠した官人自身の感慨を詠う)歌群:

 上記のA~GやIの判定ができない歌(該当の歌は結局ありませんでした)

 I  天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を詠う歌群:

  例えば、事後の送魂歌  

 ここにいう「送魂歌」とは、死者は生者の世界に残りたがっているのでそれを断ち切ってもらう必要があるという信仰の上にある歌という意味です。当時は単に追悼をする歌はありません。

③ 付記3.の表Aにみるように、巻一の雑歌は「A天皇及び太上天皇などの一般的公務に伴う(天皇が出席する儀礼行幸時、)の歌群、但し下記A2~Hを除く)」が断然多く、84首中の52首(62%)を占めます。造営した藤原京平城京関連の歌10首を加えると62首(74%)となり、天皇支配の確認と統治を寿ぐ巻と言えます。

 巻頭歌(2-1-1歌)は、天皇が娘に求婚している歌ですが、娘はその地域の豪族の娘(あるいは巫女)であり、服属を確認する極めて儀礼的な歌(服属儀礼の歌)です(『万葉集の起源』遠藤耕太郎 中公新書 2020/6)。

 2-1-1歌よりはるか後代(白村江敗戦後の時代も過ぎてのちの)聖武天皇が国家事業とした大仏建立は、国家安寧のため、仏の力を用いて(天皇はじめ当局者や兵士各人の体力知力を科学的に増進させるという方法ではなく)まさに相手を調伏しようという発想のもとでのものです。白村江敗戦以前の戦争とは、生きて居る者だけでなく縁のある死者を味方にし(特に生前に社会的影響力を持っていた人物の霊の力を借り)、土地の神も味方にして戦うものであり、武力よりも呪力が重要とされています。強い呪力を持っている者と一心同体であるのがリーダーになる資格でした。つまり、律令制定以前も以後も、祭政一致であり、教権をもっていて天皇の政権が成り立っています。

 現在に残る養老律令は、神祇令その他を設け、天皇が、神々や祖先を祀るという決意表明をしており、臣下が濫りに墓を造るのを禁止しています。

 だから、戦うにあたって、巻一の筆頭歌にみられるような、相手の呪力を担う巫女を味方につけようとするのは重要な戦法でもあった、といえます。

 また、巻一の歌における天皇の公務を追うと、最後は銅和5年(715)の長田王を伊勢へ行かせたことになります。

④ 天皇との関係でみると、異例と思える歌があります。

 ひとつ目は、「F皇子自らの行動に伴う歌群」と分類した2-1-84歌です。今上天皇の出席を仰いだ宴席とは思えない、皇子の自宅での私的な宴会での歌です。そして、標目「寧楽宮」にある唯一の歌です。

 宴を主催したであろう皇子は、巻一のなかで天皇と変わらない行動の自由があったという主張を編纂者がしているかにみえます。この歌のみで構成されている「寧楽宮」という標目は、「宮」に天皇の代を象徴させて巻一に追加されるべき事情があったかに見えます。

 なお、「C天皇の下命による官人の行動に伴う歌群(Dを除く)」と整理した歌の2-1-22歌は標目「明日香清御原御宇天皇代」の最初の歌です。天武天皇の時代であり、十市皇女伊勢神宮公式参拝の際の歌と理解しました。2-1-81歌からの3首も伊勢神宮公式参拝の際の歌です。そして入唐に関する歌は、公務を全うして帰国できたら叶うことを詠っており、天皇の眼に触れても不興を買う歌ではありません。

⑤ ふたつ目は、「H下命の有無が不明な事柄に伴う(作詠した官人自身の感慨を詠う)歌群」と分類した、近江の旧都を詠っている二つの歌群の歌です。すなわち、作者が人麻呂の3首と高市古人の2首です。表Aでは、公務の途中に旧都を現認したか他人からの情報で詠んだ歌、と整理しました。

 この5首は、巻一での標目「藤原宮御宇天皇代」の最初の歌2-1-28歌の直後にある歌群の歌という配列を考慮すれば、大和盆地に都を置くのがよい、とする暗喩があると思えます。藤原宮完成にあたっての予祝を込めた歌であると整理し直せます。

「B天皇が下命した都の造営・移転に関する歌群」にくくり直してもよい5首です。持統天皇の重要な施策のひとつ(藤原宮遷都)を寿ぐため、標目「藤原宮御宇天皇代」の最初のほうに置いたのだと思います。 

⑥ 巻二の相聞の部には、付記3.の表Bにみるように、天皇・皇子・皇女・官人が、一見すると、それぞれ特定の相手を念頭に自らの気持ちや意見を、披露している歌です。天皇と誰かの間の歌数は突出していません。

 「A1」の歌群の歌は9首あります。その代表が、相聞の部の筆頭にある磐姫が天皇への思いを詠った歌(4首と1首)です。この5首は、山を隔てた天皇が来ていただけると信じているというストーリーの配列です。作者とされている磐姫は、皇后になった人物ですが、皇族(内親王)ではありません。大宝律令制定後の同様な例が、聖武天皇の皇后(藤原光明子)です。

 一番歌が多いのは「C」の16首です。天皇の裁可を要する婚姻の歌と行幸時を話題とした歌と人麻呂が上京時妻との別離を詠った歌(計10首)です。人麻呂歌は、普通の官人の平均的な状況を詠う歌とみなせます。

 次に歌数が多いのは、「I」の14首です。歌のやりとりを楽しんでいる男女の挨拶歌であり、日常的によくある状況の歌と思えます。

 なお、「E1」の2-1-90歌をおくられた軽太子は、『古事記』によれば允恭天皇立太子としたが同母妹軽太娘皇女と通じていたとして廃太子とされ流罪となった人物です。『日本書記』によれば軽太娘(衣通姫)が流罪となり允恭天皇崩御後穴穂皇子に軽太子は討たれています。流罪というのは後年の例をみれば皇位継承争いの結果とも理解できます。結局二人は自殺しています。

⑦ 天皇との関係でみると、相聞として特異と思える歌があります。

 ひとつ目は、相聞の筆頭に置かれた磐姫が天皇への思いを詠った天皇の応答歌がない歌であって、かつ皇后が皇族(内親王)でない人物であることです。現実を見据えた二人の結びつきを強調しているかに見えます。その次に置かれている2-1-90歌は、「古事記曰・・」と言う題詞のある軽太子への思いを詠った衣通王の歌であり、待ち望む人を間違えれば身を亡ぼすと受け取れる歌です。

 だから、巻一の巻頭歌と同じように、相聞の筆頭歌も、天皇の支配が正当であるとして各地の豪族が待ち望んでいるという理解が可能な歌となっています。男女の間の歌も政治的な脈絡で配列されている、とみることができます。

 ふたつ目は、謀反を起こした(と断定された)皇子に関する相聞歌があることです。衣通姫の歌のほかに大津皇子歌があります。挽歌にもあり、巻一と巻二の編纂者はこのような皇子が気になる人物なのでしょうか。

 三つ目は、皇族個人が関わらない相聞歌が、2-1-96歌など14首あり、相聞の部の約1/3を占めることです。当時の平時であれば生じている日常の場面ともみえます。

⑧ 相聞の部の特徴に、天皇との関係以外では、長歌があることです。人麻呂作とある、妻との別離にあたり詠ったと題詞にある複数の長歌(2-1-131歌と2-1-138歌)です。これは、古来からの歌垣の系統からは生まれない(掛け合う歌としては長すぎる)歌です。

 これは愛しい妻との別れを、見送る立場ではなく出立する立場で詠う歌です。「心残りだが行ってきます」という歌です。当然妻に示した歌でしょうが、長歌の返しがありません(あるいは巻二の編纂者が省いています)。お互いに詠い交わさない相聞歌となれば、離別の歌・人を恋う相聞歌の新しいスタイルの誕生となります。

 この人麻呂歌について、土屋文明氏は現地に赴いての考察で、2-1-131歌の初句から23句、2-1-135歌の初句から11句は(行程に直接関係せず)次の句に続く序歌的修飾であり、「内容実質は極めて単純な分りよい作」といへる、と指摘しています。それにしても本当にこの歌は妻に贈られたのでしょうか。

 このほか皇子の歌にも元資料が伝承歌(土屋文明氏のいう民謡)と思われるのがあちこちに見えます。

⑨ 次に、巻二の挽歌は、挽歌の対象者の亡くなった時点から見ると、暦年順に原則配列されています。天皇との関係でみると、やはり、特記すべき歌があります。

次回は、それを検討します。

ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき ありがとうございます。

(2021/10/4  上村 朋)

付記1.恋の歌の定義

『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義している。

第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと 

第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと

付記2.宣命

① 公式令(くうじきりょう)は、律令の一つで、公文書の様式および作成・施行上の諸規である。冒頭には一番の重要事項に用いられる詔書の様式がある。(養老律令公式令(『日本思想史大系3 律令』(1976岩波書店)より)

第一条(詔書式条)より詔書式の冒頭部分を抜粋する。

A明神御宇日本天皇詔旨云々。咸聞。(あらみがみ あめのしたしらす ひのもとの すべらが おほむごと のらまし そのことそのこと。 ことごとくに ききたまへ)

これを、坂上康俊氏は、次のように訓んでいる。

「あきつみかみと あめのしたしろしめす おほやまと すめらみこと・・・」

 即ち君主をこの世に現れた神、と明示している。中国と決定的に違う点である。即位の宣命が読み上げられたとき拍手でもって応えた。現在でも神社では拍手をするが、天皇への挨拶と神への挨拶が同じ動機であったことを表している。(『日本の歴史5 律令国家と「日本」』(58p坂上康俊 講談社2001)

B 明神御宇天皇詔旨云々。咸聞。

C 明神御宇大八州天皇詔旨云々。咸聞。

D 天皇詔旨云々。咸聞。

E 詔旨云々。咸聞。

② 確実と思われる初例は文武天皇の即位の宣命である。

 

付記3.歌と天皇との関係(巻一、巻二相聞、巻二挽歌)

 本文「4.②」に示す関係分類により、巻一と巻二の歌を部立て別に整理する。雑歌を表A、相聞を表B(以上は今回のブログ)及び挽歌を表C(次回のブログに付記)に示す。

表A 巻一(部立て雑歌)にある歌(84首)と天皇との関係  

  (2021/10/1  am現在  2021/12/9訂正)

関係分類

歌数

標目

該当歌

備考

A1天皇及び太上天皇などの一般的公務に伴う(天皇が出席する儀礼行幸時の)歌群、但しA2~Hを除く)

52

「・・・御宇天皇代」

2-1-1,2-1-2 天皇

2-1-3~2-1-12 行幸

2-1-16 復命歌

2-1-20~2-1-21行幸

2-1-25~2-1-28行幸

2-1-34~2-1-44行幸

2-1-54~2-1-61行幸

2-1-64~2-1-75行幸

2-1-76天皇

2-1-77復命歌

天皇の統治を寿ぐか。

行幸時の留京の歌を含む。

A2天皇及び太上天皇などの死に伴う歌群

無し

 

 

 

B天皇が下命した都の造営・移転に関する歌群

 10

「・・・御宇天皇代」

2-1-17~2-1-19近江へ遷都

 

2-1-50~2-1-53藤原宮遷都

2-1~-78現場の官人(寧楽宮造営)<「遷都時天皇歌」を訂正>

2-1-79~2-1-80本部の官人(寧楽宮造営)<行幸時を訂正>。*

大和にある都を寿ぐか

遷都を寿ぐ

造営時に苦労を詠う

 

同上

 

C天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(Dを除く)

  4

「・・・御宇天皇代」

2-1-22皇女伊勢参拝を予祝

2-1-62~2-1-63入唐歌 婉曲な決意表明

2-1-81~2-1-83 長田王伊勢参拝を予祝

 

 

 

長田王は長皇子の子

D天皇に対する謀反への措置に伴う歌群

  2

「・・・御宇天皇代」

2-1-23 護送をみての哀傷歌

2-1-24流罪となった麻続王の自傷

 

E1皇太子の行動に伴う歌群(E2を除く)

  8

「・・・御宇天皇代」

2-1-13~2-1-15中大兄歌

2-1-45~2-1-49軽皇子行幸

その時を謳歌

E2 皇太子の死に伴う歌群

無し

 

 

 

F皇子自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む)

  1

「寧楽宮」

2-1-84長皇子歌 宴の挨拶歌

宴の主人を褒める

G皇女自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む)

無し

 

 

 

H下命の有無が不明な事柄に伴う(作詠した官人自身の感慨を詠う)歌群

  7

「・・・御宇天皇代」

2-1-29~2-1-31人麻呂歌

2-1-32~2-1-33高市古人歌

両歌群とも旧都大津宮とその大宮人を哀傷する

新京との違いを詠う

I天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を詠う歌群

無し

 

 

 

 

 84

 

 

 

注1)「歌番号等」とは『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)「該当歌」欄の歌評は上村朋の意見。2-1-29~2-1-31は2020/9/28付けブログの付記1.参照。

注3)「備考」欄のコメントは上村朋の意見。

注4)該当歌欄の「*」のある上村朋の意見は、2-1-78歌~2-1-80歌は、2021/11/8付けブログまでの検討により訂正した(2021/12/9)。

 

表B 巻二の部立て相聞にある歌(56首)と天皇との関係を整理した表 (2021/10/1 1現在)

関係分類

歌数

標目

該当歌

備考

A1天皇及び太上天皇などの一般的公務に伴う(天皇が出席する儀礼行幸時の)歌群、但しA2~Hを除く)

 9

「・・・御宇天皇代」

2-1-85~2-1-88 &2-1-89磐姫が天皇へ。(旅に出た相手を思う伝承歌よりなる)

2-1-91天皇が鏡王女へ

2-1-92 上記の応答歌

2-1-103 天皇が藤原夫人へ

2-1-104 上記の応答歌

天皇と誰かとの歌のやりとり

A2天皇及び太上天皇などの死に伴う歌群

無し

 

 

 

B天皇が下命した都の造営・移転に関する歌群

無し

 

 

 

C天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(Dを除く)

 16

「・・・御宇天皇代」

2-1-93鏡王女が藤原卿へ

2-1-94応答歌

2-1-95藤原卿が采女

2-1-111~2-1-113吉野宮行幸時の思い出の歌

 

2-1-131~2-1-139&2-1-140下命で上京する際の妻と別離

裁可案件

 

 

思出の行幸に関する挨拶歌

D天皇に対する謀反への措置に伴う歌群

無し

 

 

 

E1皇太子の行動に伴う歌群(E2を除く)

  2

「・・・御宇天皇代」

2-1-90衣通姫が軽太子へ

2-1-110日並皇子が石川女郎へ(伝承歌が元資料か)

 

E2 皇太子の死に伴う歌群

無し

 

 

 

F皇子自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む)

10

「・・・御宇天皇代」

2-1-107大津皇子石川郎女

2-1-108応答歌

2-1-109大津皇子の自問歌

2-1-117舎人皇子が舎人娘子

2-1-118応答歌

2-1-119~2-1-122弓削皇子が紀皇女へ(伝承歌)

2-1-130長皇子が弟弓削皇子皇子へ

大津皇子は686/10没

 

人皇子は735/12没

弓削皇子は699/7没

長皇子は715/6没

G皇女自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む)

  5

「・・・御宇天皇代」

2-1-105~2-1-106大伯皇女が弟の大津皇子

2-1-114~2-116但馬皇女が穂積皇子へ(伝承歌)

相手を思う心情があふれる歌

H下命の有無が不明な事柄に伴う(作詠した官人自身の感慨を詠う)歌群

無し

 

 

 

I天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を詠う歌群

 14

「・・・御宇天皇代」

2-1-96~2-1-100久米禅師関連の恋愛歌(伝承歌よりなる)

2-1-101~2-1-102大伴安麿と巨勢郎女の挨拶歌

2-1-123~2-1-125三方沙弥関連の見舞に伴う挨拶歌

2-1-126~2-1-128見舞いに伴う挨拶歌

2-1-129年齢差のある男女の挨拶歌

男女間での言葉遊びの強い歌(磐姫歌のような恋慕う歌ではない)

 計

 56

 

 

 

注1)「歌番号等」とは『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)「該当歌」欄の歌評は上村朋の意見。

注3)「備考」欄のコメントは上村朋の意見。

 

付記4.『萬葉集』成立・公表時点について

  • 萬葉集』の成立は、「数次の編纂を経て、宝亀11年(780)前後に完成したとされる」、と『例解古語辞典』の「主要作品解説」では説明している。780年前後の天皇は天智系の光仁天皇(在位770~781)と桓武天皇(同781~806)である。
  • 井沢元彦氏は、『逆説の日本史3 古代言霊編』(1995小学館)で、「公表できるようになったのは桓武天皇の死(806)以後」という。最終的な編纂者である大伴家持が、国家の犯罪者ではなくなってからであるという。編纂者自身の歌も含まれている歌集は「反政府詩集」であり世に出せない。また、古代では国家の反逆罪に該当すればその人物の著作・編纂物は禁書に古代ではなるので、国家として必ず命令を出さなければならないから正史に禁止が記載されるが、それはない、という。「犯罪者が関わった私家版が世に出たのは、(萬葉集が)怨霊を恐れて鎮魂のための書となったからである」(同書291p)ともいう。また、『古今和歌集』の真名序・仮名序・2-1-997歌からも「平城天皇の時代」という。
  • 大伴家持は、赴任地陸奥国で死後、直後に生じた藤原種継暗殺事件に関与していたとして、埋葬も許されず、官籍からも除名された。桓武天皇の死後、大同元年(806)の恩赦を受けて従三位に復した。

(付記終わり 2021/10/zz  上村 朋)

<付記終わり2021/10/1   am >

 

 

~~~~~  *** ~~~~~

参考資料

〇 『萬葉集』巻一と巻二の題詞において「・・・宮」とある例(題詞と歌番号の対称)

表 『萬葉集』巻一と巻二の題詞において「・・・宮」とある例 (2021/8/30 現在)

「・・・宮」の区分

巻一(雑歌)

巻二(相聞)

巻二(挽歌)

備考

吉野宮

2-1-27,

2-1-36~39

2-1-70

2-1-74~75

2-1-111

 

 

藤原宮

2-1-50,

2-1-51,

2-1-52~53

2-1-78

2-1-79~80

 

 

 

明日香宮

2-1-51

 

 

 

難波宮

2-1-64,

2-1-66~69

2-1-71~72

 

 

 

寧楽宮

2-1-78

2-1-79~80

 

 

 

紀宮

2-1-84

 

 

 

高市皇子

 

2-1-114

2-1-116

 

 

伊勢斎宮

 

 

2-1-163~164

 

日並皇子尊殯宮

 

 

2-1-167~169

 

皇子尊宮

 

 

2-1-171~193

 

明日香皇女木〇(瓦偏に缶)殯宮

 

 

2-1-196~198

 

高市皇子尊城上殯宮

 

 

2-1-199~201

 

(参考)近江荒都

2-1-29~31

 

 

 

(参考) 近江旧堵

2-1-32~33

 

 

 

(付記終わり 2021/10/4   上村 朋)

 

 

  

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第23歌 わぶ 

 前回(2021/7/12)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第22歌 われのかなしさ」と題して記しました。

 今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第23歌 わぶ」と題して、記します。(上村 朋)

1.経緯

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行い、3-4-22歌まではすべて恋の歌(付記1.参照)であることを確認した。)

 2.再考 第五の歌群 第23歌の課題 

① 「第五の歌群 逆境の歌群」(3-4-19歌~3-4-26歌)の歌と想定した3-4-21歌を検討します。『新編国歌大観』から引用します。

3-4-23歌  (3-4-22歌の詞書をうける)おやどものせいしける女に、しのびて物いひけるをききつけて、女をとりこめていみじういふとききけるに、よみてやる

おほぶねのいづるとまりのたゆたひにものおもひわびぬ人のこゆゑに

 

3-4-23歌の類似歌   万葉集 2-1-122歌     弓削皇子思紀皇女御歌四首(119~122)

     おほぶねの はつるとまりの たゆたひに ものもひやせぬ ひとのこゆゑに 

(大船之 泊流登麻里能 絶多日二 物念痩奴 人能児故尓)

② 3-4-23歌は、四句に、3-4-22歌でも用いている動詞「(もの)おもひわぶ」があります。以前検討した際(ブログ2018/7/2付け)には、それに言及がありません。3-4-22歌では、「おもひわぶ」の主語は作中人物であって、相手の「おやども」の苦慮を気遣う、と理解したところです。この2首の整合性は確認を要する、と今は思います。

 それが、類似歌2-1-122歌と3-4-23歌との違いの理解に波及しているか、を検討したい、と思います。      

③ 以前検討した際(ブログ2018/7/16付け)の結論は、次のとおり。

第一 前後の題詞から独立している題詞の許の4首のひとつが類似歌2-1-122歌であり、この4首間で整合が取れた理解をすればよい。類似歌は、大人の男女の軽い相聞歌。土屋氏のいう「民謡を用いたか」という意見の方向と同じ理解。

第二 三句「たゆたひに」の主語は、「とまり」であり、女の一家・一族を指す。

第三 この歌で、「ものおもひわぶ」とは、家族にとりこめられている女になにもしてやれない無力さを(作中人物が)感じていることの表現(主語は、3-4-22歌と同じく作中人物)。

第四 3-4-23歌の現代語訳(試案)

「大きな船が出港する停泊地はゆらゆら波が揺れ止まりしていないようですが、思いがいろいろ浮かび辛いことです。親に注意をうけても慕っていただける貴方のことで。」

第五 この歌は、愛情を交わした女に対する作者の心のうちを詠って、相手を慰める歌。類似歌は、恋の進展のないことにより外見が変わったと訴えた歌。

3.再考 類似歌

① 類似歌の検討より始めます。上記「2.③ 第一」は、弓削皇子に仮託して「諸方の歌を集めて集成した面」が強いという見方(伊藤博氏)にも一致します。2-1-122歌も含めた同一の題詞の許の4首は、恋の進行順ではなく、すべて、逢うことができない片恋の歌で、それぞれ独立していました。  

② 三句「たゆたふに」とは、大船が「たゆたふ」意としました。停泊地の浪に応じて揺れてしまっている大船です。

③ 四句「ものもひやせぬ」の万葉仮名は、「物念痩奴」であるので、「(誰かへの)物思ひが原因で痩せてしまった」と理解したところです。

④ その現代語訳(試案)はつぎのとおりでした。 

「大船が、(例えば住之江の津のような)波の静かな港に停泊している時も、揺れ動き続けている。そのように、私はずっと捕らわれたままで、物思ひに痩せてしまった。この乙女のために。」

 多くの諸氏は、この歌を、四句が文末である、として現代語訳しています。2-1-2490歌も同じとしていますが、2371歌や2-1-2491歌はそのようにみていません。

 4.再考 3-4-23歌

① この歌の三句にある「たゆたふ」のは、(いづる大船が起こす波が消えない)停泊地の水域です。類似歌では大船でした。つまり、出港する大船による浪の波紋があることを叙景として述べて、それにより、作中人物の相手とその家族の関係が大船と「とまり」により示唆されています。

② 動詞「たゆたふ」とは、「ためらふ・躊躇する」意と「漂う」意があります(『例解古語辞典』)。類似歌は後者の意のみでしたが、この歌では、両方の意を掛けています。

③ 動詞「おもひわぶ」の用例は、『萬葉集』に3例、そして三代集に2例(勅撰集にはこの2例のみ)あります。

2-1-649歌 大伴宿祢駿河麿歌一首

   ますらをの おもひわびつつ たびまねく なげくなげきを おほぬものかも

2-1-3749歌 中臣朝臣宅守与狭野弟上娘子贈答歌(3745~3807)

   ちりひぢの かずにもあらぬ われゆゑに おもひふわぶらむ いもがかなしさ

(3-4-22歌の類似歌の一つ。2021/6/28付けブログで検討)

2-1-3781歌 中臣朝臣宅守与狭野弟上娘子贈答歌(3745~3807)

    たちかへり なげけどあれは しるしなみ おもひわぶれて ぬるよしぞおほき

1-2-953歌 右近につかはしける     左大臣   (巻十三 恋五)

    思ひわび君がつらきにたちよらば雨も人めももらさざらなん

1-3-872歌 題知らず   よみ人しらず   (巻十四 恋四)

   ちりひぢのかずにもあらぬ我ゆゑに思ひわぶらんいもがかなしさ

(この歌は、2-1-3749歌を元資料としており、3-4-22歌の類似歌のひとつ。2021/7/5付けブログで検討)

 ④ 『萬葉集』歌の現代語訳を、紹介します。

2-1-649歌は、坂上郎女との贈答歌です。五句にある動詞「おふ」は、罪の報い・処罰・人の呪いなどを身に受けることを指します。この歌では坂上郎女に対して「身に受けないのですか」と問うています。二句「おもひわびつつ」の意を、「恋こがれ、がっかりして」として、

「ますらをが 思い窮して 幾度となく 嘆く恨みを あなたは身に受けないものでしょうか」(『新編日本古典文学全集 萬葉集』) 

     と、あります。

2-1-3749歌については、次のように私は現代語訳(試案)したところです。

「塵か泥土と同じで、物の数にも入らない私の為に、(人の目の多い都に居て)辛い日々を過ごしているだろう貴方をおもっても、何もできません。胸にせまりひどく切ない気持ちです。」

(「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第22歌 類似歌はいつ贈ったか」2021/6/28付けブログより) 

「おもひわぶ(らむ)」とは、前後の語句とともに意訳しています。「(私のために)辛い思いをしている(であろう)」の意です。土屋氏は、「わぶ」とは、「遣る瀬ながるとでも言ふのであらう。」と指摘しています。

2-1-3781歌は、「繰り返して 泣いてもわたしは 甲斐がないので 思いしおれて 寝る夜が多い」(『新編日本古典文学全集 萬葉集』)とあり、「思ひわぶる」の「わぶる」という動詞は『萬葉集』でこの1例だけであり、「わぶ」と同義とみなしています。「わぶ」とは2-1-3749歌においては「悲しい目にあって力を落とす」意とあります(同上)。

⑤ 三代集歌の現代語訳を紹介します。

1-2-953歌(巻十三 恋五)の歌本文についての工藤重矩氏の現代語訳は、つぎのとおり(『和泉古典叢書3 後撰和歌集校注』(1992 和泉書院)より。)

「苦しさに思い余って、薄情な仕打にもかかわらず、あなたの許に立ち寄ったならば、涙雨に濡れさせることなく、人目も憚らないで逢ってほしい。」

「わぶ」の注記はこの歌においてしていません。

木船重昭氏は、『笠間注釈叢書13 後撰和歌集全釈』(1988)で、「わぶ」とは「動詞の連用形について、・・・する気力を失うとか・・・しあぐねる、という意」、と説明しています。

  巻十三のこの歌の前後は、一方は冷淡でもう一方は諦めていない、という間柄の歌が並んでいます。「おもひわび」ているのは右近、と理解して、現代語訳を試みると、次のとおり。

詞書: 右近に贈った歌     左大臣藤原実頼

歌本文: 「(私の文や歌から)とまどいが生まれたりしてつらいと思って居るようだが、私が立ち寄ったならば、雨のような涙を私にあふさせることもなく、(逢えずに帰るという)人目を避けるようなこともしないですむようにしてほしい。」

「もらす」とは、「漏らす・洩らす:(水や涙を)もらす・(秘密などを)人に知らせる・省略する・省く・取り逃がす・逸する」意があります。

 この歌は、薄情な人だとなじられた作中人物(作者の左大臣)が、前提条件などつけず逢えばわかるではないか、と訴えた歌ではないか。

 なお、巻十三恋五の配列・編纂方針の検討は、ここでは割愛します。工藤氏も木船氏も上記の図書では触れていません(付記2.参照)。

 

1-3-872歌は、次のように現代語訳を試みました。 

「塵や泥などのようにとるに足りない私のために、(逢わないと心に決めたばかりに)つらいと思った日々があったであろう貴方がいとしい(と思っています)。」  (「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第22歌 拾遺集での扱い」 2021/7/5付けブログより) 

「おもひわぶらん」を「(逢わないと心に決めたばかりに)つらいと思った日々があったであろう」と理解しました。  

  

⑥「おもひわぶ」の「わぶ」は、『例解古語辞典』では、補助動詞との説明もあります。「たやすくできなくて困る意を添える」、とあります。「ものおもひわぶ」の「わぶ」も補助動詞とみれば、「ものおもふ」と「ものおもふ」は補助動詞「わぶ」が付いてほぼ同義ではないか。「あることをしよう・思うことを実現しようとすることがたやすくできないで困っている状況を言う語句ではないか。『例解古語辞典』では「おもひわぶ」を「思い悲しむ・つらいと思う」と説明しています。

⑦ 次に、「ひとのこ」と詠う用例は『萬葉集』に10例、三代集では、『古今和歌集』と『拾遺和歌集』に各1例あります。

萬葉集』の10例は、類似歌2-1-122歌を除くと、(親の監視が強いなど)婉曲に自由にならない恋の相手である女の意が7例、「私を除く普通の人達」の意が1例(2-1-3821歌)及び「子孫」の意が1例(長歌である2-1-4118歌)です。

 三代集に2例あり、『古今和歌集』巻十七雑歌上にある1-1-901歌と、『拾遺和歌集』巻七物名にある1-3-413歌です。

1-1-901歌 返し   なりひらの朝臣 (巻十七 雑歌上) 

   世中にさらぬ別のなくもがな千世もとなげく人のこのため

1-3-413歌 しただみ   よみ人しらず  (巻七 物名)

   あづまにてやしなはれたる人のこはしただみてこそ物はいひけれ

 ⑧ 1-1-901歌は、1-1-900歌の返しの歌です。

1-1-900歌 業平のははのみこ長岡にすみ侍りける時に、なりひら宮づかへすとて時時もえまかりとぶらはず侍りければ、しはすばかりにははのみこのもとよりとみの事とてふみをもてまうできたり、あけて見ればことばはなくてありけるうた

    老いぬればさらぬ別もありといへばいよいよ見まくほしき君かな

 

 この詞書にある「とみの事」とは、「急な用事」の意です。歌の二句「さらぬ別」とは、「避けられない別れ(死別)」の意です。母親へ業平が返歌をしたのが1-1-901歌です。

 久曽神氏は、1-1-901歌の四句以下を「母親に千年も長生きしてほしいと嘆願している子供(私)のために」と理解しています。五句にある「人のこ」の「人」とは「世間一般の人」の意であり、かつ「私からみて貴方という特別な人」の意でもあります。「人のこ」とは、だから、親を思うのは子供誰でもの意であり、作中人物である「なりひらの朝臣」をさすことになります(雑歌上という部立てにある所以等の検討は今割愛します)。

⑨ 次に、1-3-413歌の詞書にある「しただみ」とは、海産の小型の巻貝をいいます。四句にある「しただむ」には、巻貝の意に、動詞「舌訛む(したたむ)」(ことばがなまる意)をかけています。和歌は清濁抜きで表記されていた時代です。「舌訛む」は、意味の上から濁音がふさわしいと感じられ、後にはそう読まれるようになったそうです(『例解古語辞典』)。

 三句にある「人のこ」の「人」とは、東国に生まれ育って今そこで生活している(都を知らぬ)者」の意です。

⑩ 三代集以後も、あれだけ恋の歌を詠む機会があるのにかかわらず、「人のこ」という詠う歌がありません。これらを見ると、3-4-23歌での「人のこ」とは、その詞書から、相聞の歌を想定できますので、『猿丸集』の編纂された時代でもある三代集の用例に準じるより、類似歌との歌の相似を重視し、『萬葉集』に多い「恋の相手の女」、具体的には3-4-22歌に登場する「いも」を指すのではないか。

⑪ そうすると、この歌3-4-23歌は、類似歌の四句「ものおもひやせぬ」の最初の五文字と重ねることを念頭に詠っている、とみてよい、と思います。

詞書によれば、作中人物は「いも」が親に抗うことを受け入れ密かに逢って、見つかってしまったのです。

 動詞「ものおもひわぶ」と動詞「おもひわぶ」はほぼ同義ですので、3-4-22歌で作中人物が、親を思う相手の女(「いも」)を気遣って、その次の3-4-23歌で、作中人物が、実際に親に逆らっている相手をおもう、という歌の配列は、詞書にある事の経緯に沿っており、妥当なものである、と思います。また、現代語訳(試案)も特段の違和感はありませんでした。

⑫ このため、2021/6/28付けブログ以降の検討結果は、そのまま受け入れられます。

この3-4-23歌は、相愛の歌であって、類似歌2-1-122歌とは異なる歌意となった、恋の歌です。 この歌は、「第五の歌群 逆境の歌群」(3-4-19歌~3-4-26歌)の歌とくくってよい、と思います。 

⑬ 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌か・・・」を御覧いただき、ありがとうございます。

 蒸し暑い夏が始まりました。 熱中症と勢いを増した新型コロナに気を付けたい、と思います。しばらく夏休みをとり、次の歌3-4-24歌を検討します。

(2021/7/19    上村 朋)

付記1.恋の歌の定義

『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義している。

第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと 

第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと

付記2.後撰集について

① 作者や部立てをみると、古今集とは異なる編纂方針があった、と言える。

② 1-2-953歌の作者名は「右大臣」と言う伝本もある。左大臣の私家集『清慎公集』に左大臣藤原実頼 900~970)と右近との交渉は見えない。右大臣(藤原師輔 908~960)と右近との交渉は『九条右大臣集(師輔集)』に見える。左大臣は勅撰集に36首入集、右大臣は35首入集。

 (付記終わり  2017/7/19    上村 朋)

 

 

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第22歌 われのかなしさ

 前回(2021/7/5)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第22歌 拾遺集での扱い」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第22歌 われのかなしさ」と題して、記します。(上村 朋)

1.~7.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行っている。これまで、3-4-21歌まではすべて恋の歌(付記1.参照)であることを確認した。3-4-22歌に関しては、二つの類似歌の検討が終わったところである。

 3-4-22歌  おやどものせいしける女に、しのびて物いひけるをききつけて、女をとりこめていみじういふとききけるに、よみてやる

   ちりひぢのかずにもあらぬわれゆゑにおもひわぶらんいもがかなしさ

  2-1-3749歌  中臣朝臣宅守与狭野弟上娘子贈答歌(3745~3807)

   ちりひぢの かずにもあらぬ われゆゑに おもひふわぶらむ いもがかなしさ 

  (知里比治能 可受爾母安良奴 我礼由恵爾 於毛比和夫良牟 伊母我可奈思佐)

 この歌にかかる左注がある。「右四首中臣朝臣宅守上道作歌(3749~3752)」

  1-3-872歌  題しらず    よみ人しらず

    ちりひぢのかずにもあらぬ我ゆゑに思ひわぶらんいもがかなしさ

 この歌は、『拾遺和歌集』巻第十四 恋四 にある。)

8.3-4-22歌の詞書の検討

① 類似歌2首の検討を通じ、歌本文の平仮名表記が一字(「む」と「ん」)異なっただけの歌が、記載の歌集により、その歌意が変化し得ることを知りました。これから検討する3-4-22歌本文も平仮名表記は一字違うかどうかの歌ですが、類似歌とは詞書が異なります。

② 3-4-22歌の詞書は、この歌以後の数首の歌の詞書でもあります。その数首の検討の後に得た現代語訳(試案)は、当初の(試案)のままでした。それをブログ「わかたんかこれ  猿丸集22~26歌 詞書はひとつ」(2021/8/20付け)より引用します。

 「親や兄弟たちが私との交際を禁じてしまった女に、親の目を盗んで逢っていることをその親たちが知るところとなり、女を押し込め厳しく注意をしたというのを聞いたので、詠んで女に送った(歌)」

③ 詞書にある「おやども」とは、親を代表とした係累の者たち、の意です。当時、貴族(官人)の子女の結婚は、氏族同士の結びつきと同義の時代です。

 また、「いみじういふ」とは、「なみなみでなく言葉を口にする」ということであり、交際を禁じた時の注意を繰り返したうえで反省を迫ったということではないか。

③ この詞書は、「おやども」が密会を知ったことによって状況が変化したことを明らかにしています。たとえ禁止されても逢いたい(夫婦になりたい)という目的にむかって、今後の方針と実行案を作者である男は、女に急ぎ伝える必要が生じます。既に話し合っていたとすれば、そのとおり実行しますよという情報(合図)をおくらなければなりません。密会がばれても情報チャンネルの遮断がなかったことは、この5首の「歌をおくった」という詞書の書き方により、明らかです。(2018/8/20付けブログ「4.③」)

④ なお、類似歌2-1-3749歌は、2018/7/9付けブログで一度検討し、2021/6/28付けブログでは、詞書と目録との突合せや贈答歌の記載方法の検討及び歌を詠んだ時点の推計などを加えた検討をしました。後者の検討結果が妥当であるので、現代語訳(試案)は、以後2021/6/28付けブログの案とします(付記2.参照)。

 類似歌1-3-872歌の検討は、2018/8/20付けブログで行っていますが、前回(2021/7/5付け)において、小池博明氏の『拾遺和歌集』の恋四の歌における作中人物の判定(ひいては恋部の編纂方針の理解)を改めました。類似歌1-3-872歌は、その検討結果の現代語訳(試案)により、以後検討します。

 

9.3-4-22歌の歌本文の検討

① 以前の検討(ブログ2018/7/9付け及びブログ2018/8/20付け)で次のことを指摘しました。特異な同音意義の語句はありませんでした。

第一 初句の「ちりひぢ」は、類似歌と同じく、「塵泥」であり、些細な価値もあるかどうか分からない物の喩えと、理解できます。ここでは、作者が自分を卑下して言っています。親が娘から遠ざけようとしている作者が「塵泥」であるのは、政界における有力者の息子ではない、ということです。

第二 四句にある「おもひわぶ」の主語は、禁止をしたのにまだ言い寄る作者がいるのでこまり果てている親、となります。

② 今回、上記①を確認します。

 この歌は、上記「8.②」のように理解できる詞書の許にある歌です。作中人物が歌をおくった相手は、逢っていたのがばれて厳しく改めて行動制限をされている相愛の女(「いも」)です。既にもう逢うなと「おやども」に言い渡さていた女でした。愛を貫く決心をしたのであれば、ばれた場合の女の「おやども」の行動も想定しているはずです。ばれてから歌を5首もおくっているのですから、すくなくとも男はそのつもりでいるのでしょう。

 そして、この歌では動詞「おもひわぶ」の主語の表記がありません。

 この歌は、次のような語句に分割できます。

文A ちりひぢのかずにもあらぬ:「われ」を修飾する語句

文B われゆゑに:「に」が格助詞で連用修飾語を作る。「思ひわぶ」を修飾する語句。

文C おもひわぶらん:第一案「いも」を修飾する語句。第二案「作中人物の推測文の文末」。

文D いもがかなしさ:「かなしさ」が名詞であり、格助詞「が」の意は、連体格の「が」。

③ 文Aにある「ちりひじ」とは、確かに作中人物が自分を例えている語句です。

文Cにある動詞「おもひわぶ」とは、「思いかなしむ・つらいと思う」意(『例解古語辞典』)、「思う気力をなくす」意(『岩波古語辞典』)、「思い悲しむ。思い悩む。苦しく思う」意(『古語大辞典』)です。

 だから、文Cでの「おもひわぶ」とは、次のいずれかを言っている、と思います。

次善の策を講じられない状況になったので、相手の女(「いも」)が「おもひわぶ」。

 そして、特に女にとっては、また「いみじふいはれ」たので、「おやども」の了解が難しいことを改めて実感し、それを女(「いも」)が「おもひわぶ」。

 また、『萬葉集』には、女を奪うという行動の歌もあります。「おやども」からみれば、二人がまだ諦めていないことがわかり、これからも対応に苦慮することが予想できます。それを「おやども」が「おもひわぶ」。

 前二者は、女が先行きを「おもひわぶ」とくくれます。

④ 文Cの歌意は、第一案の場合、

 a案 二人の先行きを、「いも」が「おもひわぶ」と作中人物が推測している(ところの「いも」)

 b案 作中人物(われ)の行動が続くので、「いも」の「おやども」が今後とも苦慮すると推測する(ところの「いも」)

 また、第二案の場合、

 c案 作中人物(われ)が行動を起こしにくいので、「いも」が孤立しており、作中人物がそれでは女が「おもひわぶ」と予測した、ということ

 d案 作中人物(われ)は行動を続けるので、「いも」の「おやども」は今後とも苦慮すると作中人物が予測した、ということ

という案が、あります。

⑤ a案とc案は、「いも」が「おもひわぶ」と作中人物が推測しており、類似歌2首の作中人物の行為と同じです。互いに覚悟をしていていたことであっても、相手を思う気持ちを伝えたい、という共通点が作中人物にあります。それに対して、相手の置かれている状況は、みな異なっています。

 即ち、この歌は、「おやども」という第三者に自由を制約されていますが、類似歌2首での相手はそのようなことがありません。

 b案とd案は、「いも」を制約するのが「おやども」なので、それを話題にして詠った、ということであり、詠う時点としてはa案とc案より具体的な話題であろう、と思います。

 このため、第一案の場合は、b案を、第二案の場合は、d案を第一候補として検討します。

⑥ 文Dにある「かなし」とは、「じいんと胸にせまり、涙が出るほどに切ない情感を表す。「愛し」であれば「身もしみて、いとしい。じいんとするくらいにいじらしい。」意。「悲し・哀し」であれば「身にしみて、あわれだ。ひどく切ない。やるせなく悲しい」意」(『例解古語辞典』)、「自分の力ではとても及ばないと感じる切なさをいう語。「どうしようもないほど切なく、いとしい。かわいくてならぬ。」とか「痛切である。何ともせつない。」とか「ひどくつらい」など」の意(『岩波古語辞典』)、「愛し」であれば「(肉親や男女などの間で身に染しみていとおしい。かわいい)。あるいは心が強く引かれて、感興を催すさま。など」、「悲し・哀し」であれば、「心が強く痛むさま。心にこたえるさま。」(『古語大辞典』)です。

⑦ 文Dは、「いも」の抱えている「かなしさ」の意であり、「いも」の「おやども」のこれほどの反対は、「いも」にとってやるせなくかなしい、あるいはこのような展開は「いも」にとって心にこたえる、ということではないか。

「いも」と「おやども」との軋轢は、「おやども」に心配・苦労が続くのであり、それを「かなし」と思っています。それが分る作中人物は、言外に「いも」に同情と愛情を寄せています。

「おやども」の反対は織り込み済みの二人にとって、「おやども」との円満な理解がさらに困難になったことを確認している歌とも理解できます。

⑧ 現代語訳を、文Cは第一候補として試みると、次のとおり。

 文Cが第一案(五句の「いも」の修飾語が初句~四句)と理解すると、「かなし」は「悲し・哀し」の意とし、

 「塵や泥のように物の数にも入らない私が、懲りないで近づくので、あなたの親兄弟が苦しむだろうと思う貴方は、心にこたえることだね。」 

文Cが第二案(四句切れの歌)とすると

 「塵や泥のように物の数にも入らない私が、懲りないで近づくために、あなたの親兄弟は、思い悩んでいるであろう。それでも(心を折らないでいる)貴方には、やるせなく悲しいことだ。」 

 以前の現代語訳(試案)は、次のとおり。

 「塵や泥のように物の数にも入らない私が、懲りないであなたに近づく故に、あなたの親兄弟は、思い悲しむのであろう。それを承知して(あい続けてくれる)貴方のいとしさよ。」 

(「かなし」が、作中人物にとって「愛し」でした。)

 今回、四句切れか否かをあいまいにして、少し意訳をすれば、

 「塵や泥のように物の数にも入らない私が、懲りないで近づくために、あなたの親兄弟が苦しむだろうと思う。それでも(心を折らないでいる)貴方にはそれがやるせなく悲しいことですね。」 (3-4-22歌改定試案)

 作中人物のために親どもとのいさかいに苦しむ女を思いやる歌です。上記①の第一は、そのとおりでしたが、第二は誤りでした。

⑦ 文Cが第二候補の現代語訳について、a案を例に試みると、次のとおり。

 「塵や泥のように物の数にも入らない私のために、(親兄弟との間で)大変な思いをしているだろうと思うと、(心を折らないでいる)貴方がやるせなく悲しいです。」

 「いも」が「おやども」に強くでていることが3-4-22歌改定試案のほうによりにじみ出ている感じがします。

 10.類似歌との比較

① 二つの類似歌と3-4-22歌とを比較します。

 『萬葉集』にある類似歌2-1-3749歌の詞書は、2021/6/28付けブログでの検討により、「夫婦の間の贈答歌」という理解を、「宅守と娘子という一組の男女の贈答歌」と言う理解に改めました。歌本文もあわせて同ブログで検討しました。その結果は次のとおり。既に相愛であったかどうかにかかわらず通用する、宅守が詠んだ歌です。

 

2-1-3749歌: 中臣朝臣宅守(なかとみのあそみやかもり)と、狭野弟上娘子(さののおとがみのをとめご)が贈答した歌

 「塵か泥土と同じで、物の数にも入らない私の為に、(人の目の多い都に居て)辛い日々を過ごしているだろう貴方をおもっても、何もできません。胸にせまりひどく切ない気持ちです。」

 

② 『拾遺和歌集』にある類似歌1-3-872歌は、2021/7/5付けブログでの検討により、復縁を迫っている「疎遠」の段階の歌と理解しました。(恋の段階については付記3.参照)

 1-3-871歌の作中人物(女)が続いて行動をした際の歌にふさわしい歌として、『拾遺和歌集』編纂の方針に従ってここに配列された歌です。実方作として当時周知されていると思えるのに「題しらず よみ人しらず」としています。

 塵や泥のように迷惑なものに作中人物がなっている、そのようなことをしてしまっていることに気が付いた、として謝罪をし、復縁をお願いしている歌です。現代語訳(試案)は、つぎのとおり。

 

 1-3-872歌: 題しらず   よみ人しらず

「塵や泥などのようにとるに足りない私のために、(逢わないと心に決めたばかりに)つらいと思った日々があったであろう貴方がいとしい(と思っています)。」 

 

③ 3-4-22歌: 詞書は上記「8.②」、歌本文は上記「9.⑥」に示しました。

 この3首において、作中人物や「ちりひじ」の意等を比べると、次の表が得られます。3-4-22歌は改定試案です。

表 3-4-22歌とその類似歌との比較  (2021/7/12現在)

比較事項

3-4-22歌改定試案

類似歌2-1-3749歌

類似歌1-3-872歌

詞書の内容と執筆者

作中人物の事情を自ら又は歌集編纂者が記す

相手と贈答を交わした歌であると第三者又は歌集編纂者が記す

題しらずの歌であると歌集編纂者が記す

作中人物の性別など

男:作者でもある

男(宅守):作者でもある

女:作者ではない

作中人物と相手との関係

相愛 (小池氏のいう「逢瀬」の段階)

既に相愛であったかは不明(「逢瀬」の段階か復縁を迫る「疎遠」の段階)

復縁を迫る「疎遠」の段階)

当該歌集で特に関係深い歌

3-4-23歌以下同一の詞書の許にある歌

2-1-3745歌 (同じ題詞の筆頭歌)

1-1-871歌

初句にある「ちりひじ」

作者の官人社会における家柄の低さを示唆

相手に寄り添えない今の自分の境遇をさしている。

知らずに迷惑をかけている自分をさす

「おもひわぶ」者とその対象

作中人物が、相手の「おやども」の苦慮を、

作中人物が、歌を贈った相手を、

作中人物が、歌を贈った相手で示唆する男を、

作中人物の思い

自分が原因者で親どもとのいさかいに苦しむ女を、作中人物が思いやる

遠く離れている作中人物が遣る瀬無い思いをさせている女を思いやる

思い直した作中人物が復縁を願う

 

④ 各歌の詞書は、歌集編纂者がその意思を貫いているとみえる文章です。3-4-22歌は作中人物がこの歌を詠む事情を説明し、既知の類似歌と差異のあることを明らかにしています。

⑤ 各歌は、恋の歌ですが、小池氏の7段階論での段階が異なります。3-4-22歌は、明らかに「逢瀬」の段階、類似歌2-1-3749歌は、「逢瀬」の段階とも「疎遠」の段階ともみえ、同1-3-872歌は、復縁を迫る「疎遠」の段階です。

⑥ 各歌の四句にある「おもひわぶ」の主語は作中人物ですが、3-4-22歌は、相手の「おやども」を気遣い、類似歌2首は、相手を気遣っています。

⑦ この結果、この歌は、自分の行動が原因で親どもとのいさかいに苦しむ女を、作中人物思いやる歌です。

 これに対して、類似歌2首は、作中人物自身が犯した誤りによって相手が苦しんでいるのではないかと思いやっている歌と、自分が原因で遣る瀬無い思いをさせている女を思いやっている歌です。

 3-4-22歌とふたつの類似歌とは、思いやる原因が異なっています。

⑧ 『萬葉集』にある類似歌2-1-3749歌は、『猿丸集』編纂当時既に知られていた歌です。類似歌のある歌群が、2021/6/28付けブログでの検討したように二人が贈答を繰り返した歌から成っているので(宅守が流罪となったとき娘子と「相愛」であったか復縁したかに関わりなく)、一意の現代語訳(試案)となりました(上記①参照)。

 「おやども」は、この3-4-22歌を口づさむ「いも」を見ても、流罪地と都に別れている時の歌であるこの2-1-3749歌と思い、厳しく注意をしたことの効果があったと思ったかもしれません。

 「おやども」が、「いも」の口づさむ歌を1-3-872歌であると理解した場合、関係を断ったかと想像したかもしれません。

⑨ 文Cが第二候補の場合、a案が上記「9.⑦」に記す現代語訳(試案)となります。上記の表の「「おもひわぶ者とその対象」欄が「作中人物が、歌を贈った相手を、」に変わり、類似歌2-1-3749歌と同じになるものの、第三者が介在するかどうかが異なっており、歌意が同じではありません。

⑩ このように、当該歌集における同一の詞書の許の歌計5首との整合性の確認を残していますが、3-4-22歌は、相愛の歌であって、類似歌と意が異なっており、前後の歌と同様恋の歌であるならば、この歌も『猿丸集』での恋の歌(付記1.参照)、と言えます。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 次回から、3-4-23歌の検討をしたいと思います。

(2021/7/12  上村 朋)

付記1.恋の歌の定義

 『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義している。

第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと 

第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと

 

付記2. 類似歌2-1-3749歌の補足

① 山本健吉氏は、宅守流罪の理由を蔵部女嬬である娘子を娶ったこととして、「さっそく叙事詩的な連作を仕組んだものがあったらしい」と指摘する(『完訳 日本の古典別巻2 古典詩歌集二』(小学館 1989)54p)。そして「『源氏物語』の歌が、物語の文脈の中では抜きさしならない適切さを持つが、一首としての独立性が希薄なのと、(この2-1-3749歌は)いくらか似ている」とも指摘する(同55p)

② 歌集において、「詞書がその歌の理解の決め手になっている」ということに通じる指摘である。

 

付記3.小池博明氏の恋の7段階説

① 『拾遺集の構成』(新典社 1966)より

無縁→忍恋(恋愛対象は知らない段階)→求愛(情交に至る前まで)(ここまでは「逢瀬前の段階」)→

逢瀬(が継続している段階)→

疎遠(恋愛主体はそれでも関係継続しているはずと認識している段階)→離別(の認識又は決意した段階)→絶縁、

② 氏は、『拾遺集』恋部に歌群を想定し、「歌群は、みな逢瀬前の段階または逢瀬の段階から始まるが、ひとつも逢瀬の段階で終わっている歌群はない。恋部は、各巻とも、持続しえなかった恋を表現している」、と指摘している。

(付記終わり  2021/7/12  上村 朋)

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第22歌 拾遺集での扱い

 前回(2021/6/28)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第22歌 類似歌はいつ贈ったか」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第22歌 拾遺集での扱い」と題して、記します。(上村 朋)

1.~5.承前

 (2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行い、これまで、3-4-21歌まではすべて恋の歌(付記1.参照)であることを確認した。3-4-22歌は類似歌の一つ2-1-3749歌の検討まで行った。

 3-4-22歌  おやどものせいしける女に、しのびて物いひけるをききつけて、女をとりこめていみじういふとききけるに、よみてやる

   ちりひぢのかずにもあらぬわれゆゑにおもひわぶらんいもがかなしさ

 

 2-1-3749歌  中臣朝臣宅守与狭野弟上娘子贈答歌(3745~3807)

   ちりひぢの かずにもあらぬ われゆゑに おもひふわぶらむ いもがかなしさ 

  (知里比治能 可受爾母安良奴 我礼由恵爾 於毛比和夫良牟 伊母我可奈思佐)

  この歌にかかる左注がある。「右四首中臣朝臣宅守上道作歌(3749~3752)」

   1-3-872歌   題しらず    よみ人しらず

   ちりひぢのかずにもあらぬ我ゆゑに思ひわぶらんいもがかなしさ

 この歌は、『拾遺和歌集』巻第十四 恋四 にある。)

6.『拾遺和歌集』の理解 

① 類似歌1-3-872歌が記載されている『拾遺和歌集』は、『拾遺抄』をもととして増補されたが独自の性質も備えている、と諸氏は指摘しています。入集した歌の部立てが異なっていたり、独自の部立て(雑春等)があったり、また恋部の構成が全く相違しています。

 その『拾遺和歌集』の「構成」を小池博明氏は『拾遺集の構成』(新典社 1996)で論じています。その論をベースに、『拾遺和歌集』「恋四」を、検討することとします(付記2.参照)。

 また、『拾遺和歌集』にある歌の類似歌が『拾遺抄』のほかに『萬葉集』などによくありますので、それらも参照します。

② 類似歌がある恋四について、小池氏は、恋三でいったん断念したはずの相手に対する執着が蘇っているというステップの歌を配列している、と指摘しています。

 そして、恋四は、七つの歌群から構成され、第一から第六歌群は並列の関係にあり、恋の事例を詠い、第七歌群(1-3-924歌のみの歌群)は巻四全体をまとめている、と指摘しています。

 第一歌群 1-3-849歌~1-3-856歌

 第二歌群 1-3-857歌~1-3-886歌 (類似歌のある歌群)

 第三歌群 1-3-887歌~1-3-890歌

 第四歌群 1-3-891歌~1-3-907歌 (以下割愛)

 各歌群は、恋愛主体自身が関係継続しているはずと認識している段階(「疎遠」の段階)に至っていない歌が冒頭にあり、「疎遠」の段階もしくは離別を認識又は決意した段階の歌で終わっている、と指摘しています(恋の段階の考え方は付記2.③ 第六参照)。

③ 小池氏のいう第一歌群を概観して後、第二歌群を検討します。

 第一歌群は、巻頭の1-3-849歌以下の8首からなります。巻頭歌の作中人物は女で朝の景を詠い、次の1-3-950歌は題詞で男が朝おくる歌と記してあり、作中人物は男です。そうすると、この2首は一対の歌と理解できるよう配列されている、といえます。

 その後も、対の歌が続いており、1-3-855歌の、なぜ来ないかと責める作中人物(女)に対する男の返歌が1-3-856歌となり(下記⑤以下参照)、この2首も男女による一対の歌となっています。

 この歌群での恋の段階をみると、最初の一対の歌は、「逢瀬」の段階の一組であり、次いで逢わないか逢えないでいる歌で一対となる3組が続いており、それらはみな「疎遠」の段階の歌と理解できます。

④ 次に、小池氏のいう第二歌群を検討します。その冒頭の歌と認めている歌(1-3-857歌)とその前後の歌は、つぎのとおり(以下、歌は『新編国歌大観』より引用)。

 1-3-856歌  題詞しらず

    浪まより見ゆるこ島の浜ひさ木ひさしく成りぬ君にあはずて 

 1-3-857 題しらず    人まろ

   ますかがみ手にとりもちてあさなあさな見れどもきみにあく時ぞなき

 1-3-858 題しらず    人まろ

   みな人のかさにぬふてふ有ますげありてののちもあはんとぞ思ふ

 この3首の元資料の歌と思われる歌(対応する類似歌と言えます)が、『萬葉集』にあります。『拾遺抄』にはありません。

 1-3-856歌に対応する2-1-2763歌

   なみのまゆ みゆるこしまの はまひさご ひさしくなりぬ きみにあはずして 

 1-3-857歌に対応する2-1-2502歌

  まそかがみ てにとりもちて あさあなあさな みれどもきみは あくこともなし 

(左注によれは「人麻呂歌集出」)

 1-3-858歌に対応する2-1-3078歌

  ひとみなの かさにゆふといふ ありますげ ありてのちにも あはむとぞおもふ

⑤ 1-3-856歌について、その四句~五句により、逢瀬が途絶えがちな「疎遠」の段階の歌、と氏は指摘しています。(氏は、この歌までが第一歌群としており、「疑義は残るが大まかな流れとしては、「逢瀬」の段階に始まり「疎遠」の段階に至る」、と指摘しています。)

 対応する2-1-2763歌の初句~三句は「ひさしく」と言うための序であると、土屋文明氏は指摘しています。1-3-856歌でもおなじく序です。どちらの歌も有意の序として理解しても「ひさしく」逢えていない、と訴えている歌であり、「疎遠」の段階の歌といえます。この歌と対になる歌1-3-855歌に対して、岸から離れた小島に生えた木のように貴方が敷居を高くしている、と返歌している、と理解できる歌です。

⑥ 1-3-857歌を、氏は、三句と四句より「逢瀬」(が継続している)段階の歌と認めています。

 元資料の歌であろう『萬葉集』の2-1-2507歌でも土屋文明氏は、初句~三句までは鏡を比喩とした序詞としており、『拾遺和歌集』集編纂時点でも「見れども」をいいだす序詞と認識されていたのではないか、と思います。

 その場合、詞書が「題しらず」なので、反語として詠っている歌(「疎遠」の段階の歌)という理解も可能です。しかし、伝承されてきた歌であることの証左として「人麻呂歌集出」と明らかにしている編纂者の意図は、素直に理解せよとのことと推測できるので、「逢瀬」の段階の歌ということであろう、と私も思います。

 そして、1-3-855歌の作中人物が1-3-856歌の返歌を得た後に、1-3-857歌を詠むには、僥倖があったかのような飛躍が必要です。1-3-857歌から、別の恋に関する歌が始まっているという理解が、歌集としては素直である、と思います。第一歌群は1-3-856歌までの歌から成る、と思います。

⑦ 次に1-3-858歌は、四句が、思い通り逢えない現状をさし、五句が将来での期待を詠っているので、疎遠を認識した「疎遠」の段階の歌である、と氏は指摘しています。

 この指摘に同意できるのは、歌の配列が決め手です。この歌の初句~三句は序詞です。元資料の歌であろう、『萬葉集』にある2-1-3078歌について、土屋文明氏は「アリを繰り返す序である。(ほかの歌でも用いられているのは)序が面白いので、民謡として流布し異なった形も生じたのであらう」と指摘しています。

 「在りて後」と詠うときの常套句の一つであるという指摘であり、逢ってくれない状況下で五句「あはんとぞ思ふ」と詠っているのであり、現在の恋の段階が「逢瀬」の前の段階である「求愛」の段階の歌である可能性があります。

 『拾遺和歌集』の歌として、氏のいうように疎遠を認識している、とこの歌をみなすのは、1-3-857歌の次に配列されているからこそである、と思います。

⑧ さて、これらの歌の作者の性別を検討したい、と思います。

  1-3-856歌を、再確認します。その初句~三句は、作中人物から遠い存在の相手の比喩と理解できます。離れた小島にあるオミナエシなどの美しい花でも桜でもない樹木に相手をなぞらえているような歌を詠う作中人物は、疎遠になった相手にお世辞も言っていません。このような序を用いる作中人物は男であろう、と思います。1-3-855歌の返歌という位置の配列からも作中人物は男です。

 1-3-857歌は、初句~二句にある鏡を見るという行為を、日々行うのは専ら女性です。そのようなことを序に用いる作中人物は男ではなく女であることが明白です。

 1-3-858歌は初句が2-1-3078歌の「ひとみなの」から「みな人の」と変わっていますが、三句までが「あり」をいう序詞であって、歌意はどちらの歌でも「(色々のことを乗り越えた)後にも会おうと思う」という趣旨がおなじです。作中人物を男と決めつけていない歌です。

 第一歌群と違う作中人物の組合せで第二歌群ははじまっているのではないか。そうであれば、各歌群の主人公、即ち作中人物(達)は、歌群ごとに異なる、あるいは、同一人物の別の恋に関する歌という建前で編纂されているのではないか、と思います。

 

7.類似歌1-3-872歌の検討 

① 第二歌群の中で、類似歌の前後の配列を検討します。類似歌とその前後の歌各5首は、つぎのとおり。

 1-3-867 題しらず    よみ人しらず

   いその神ふるの社のゆふだすきかけてのみやはこひむと思ひし

 1-3-868 題しらず    よみ人しらず

   我やうき人やつらきとちはやぶる神てふ神にとひ見てしかな

 1-3-869  題しらず    よみ人しらず

      住吉のあら人神にちかひてもわするる君が心とぞきく

 1-3-870 題しらず    右近

   わすらるる身をばおもはずちかひてし人のいのちのをしくもあるかな

   (『拾遺抄』 1-3’-351歌では、五句が「をしくも有るかな」)

 1-3-871 女をうらみて、さらにまうでこじとちかひてのちにつかはしける 実方朝臣

   何せむに命をかけてちかひけんいかばやと思ふをりも有りけり

    (『拾遺抄』 1-3’-352歌では、すべて平仮名表記で、「なにせんにいのちをかけてちかひけむいかばやとおもふをりもありけり」

 『実方集』 3-67-89歌では、(詞書 )ある女(ママ)、いかなる事かありけむ、さらにとはじなどちかひてかへりて、ほどふるほどにいかがおぼえけむ、いかまほしかりければ

  「なにせむにのちをかけてちかひけむいかばやとおもふをりもありけり」)

 1-3-872 題しらず    よみ人しらず

   ちりひぢのかずにもあらぬ我ゆゑに思ひわぶらんいもがかなしさ

 1-3-873 題しらず    人まろ

   こひこひて後もあはむとなぐさむる心しなくはいのちあらめや

   (『萬葉集』 2-1-2916歌では、五句が「いきてあらめやも」)

 1-3-874 題しらず    人まろ

   かくばかりこひしき物としらませばよそに見るべくありけるものを

(『拾遺抄』 1-3’-261歌では、 四句~が「よそにぞ人を見るべかりける」

 『萬葉集』 2-1-2377歌では、「かくばかり こひむものぞと しらませば とほくもみべく ありけるものを」)

 1-3-875 題しらず    よみ人しらず

   涙河のどかにだにもながれなんこひしき人の影や見ゆると

(『貫之集』 3-19-563歌では、 二句が「いづるみなかみ」)

1-3-876 題しらず    つらゆき

   涙河おつるみなかみはやければせきぞかねつるそでのしがらみ

1-3-877 万葉集和し侍りける歌   源したがふ

   なみだ河そこのみくずとなりはててこひしきせぜに流れこそすれ

(『拾遺抄』 1-3’-313 歌では、 二句が「そでのみくずと」)

 

② この11首に関して、『拾遺和歌集』以前に、編纂された歌集や既に故人となっている官人の名を冠した歌集において、元資料と思われる歌(類似歌)を、『新編国歌大観』記載の現存する歌集で確認すると、次のとおり。

   表 拾遺集歌の類似歌推計  (2021/7/5現在)

拾遺集の歌番号等

拾遺抄

萬葉集

他の歌集

備考

1-3-867

 

 

赤人集3-2-208

 

1-3-868

 

 

無し

 

1-3-869

 

 

無し

 

1-3-870

1-3’-351

 

 

 

1-3-871

1-3’-352

 

実方集3-67-89

 

1-3-872

 

2-1-2449

猿丸集3-4-22

 

1-3-873

 

2-1-2916

 

 

1-3-874

1-3’-261

2-1-2377

 

 

1-3-875

 

 

 

 

1-3-876

 

 

貫之集3-19-563

 

1-3-877

1-3’-313

 

無し

順集に無し

 

③ 小池氏の指摘を踏まえると、これらの歌は、次のような理解ができます。

 1-3-867歌の四句と五句は、作中人物(作者)が恋の相手になかなか逢えていない、つまり恋の相手は(作中人物と同性の)誰かをも訪ねていることを示しています。1-3-868歌の初句~二句も同じです。男が複数の女のもとに通うことが官人身分であれば当時は普通のことであるので、女は、逢う頻度の少なくなっているのを咎めているという「疎遠」の段階の歌です。

 1-3-869歌は、相手が、作中人物を愛していることを誓ってくれても信じられない、と詠います。「疎遠」の段階の歌であり、離別を決意した歌ではありません。

 1-8-870歌は、初句~二句から、相手に見放されたことを作中人物が自覚しているとみることができ、「離別」の段階の歌と指摘しています。三句以下は、命を掛けて誓うと言った貴方の命がどうなるか心配です、と不誠実な相手を突き放しています。

 配列の前後の歌に関係なく単独の歌として理解すると、「たった一つの命を失わない方法もあるのに」と謎をかけている歌とも理解でき、「疎遠」の段階の歌とも理解できます。類似歌ではどちらの意であったか不明ですが、このように前後の歌の間の歌であれば、氏の理解が妥当である、と思います。

④ 1-3-871歌の作中人物は詞書で示すように相手に通告をしておいて思い返した歌であるとして、復縁を願っているので、「疎遠」の段階の歌である、と氏は指摘します。

 詞書で設定している場面は、男にも女にも生じ得ることであり、この歌本文はどちらからも相手におくることができる内容です。

 『拾遺和歌集』編纂者は、女にも同じ気持ちが生じるとして、作者実方を代作者に仕立てているとみることが出来ます。そうすると、ここまでの5首の作中人物の想定は、女性となります。なお、この歌は次の歌とともに後程再検討します。

⑤ 次に、1-3-872歌について、小池氏は、次のように指摘しています。

 「男のためにつらい思いをする妻を、夫が愛しく思っており、男女が夫婦関係にあることが知られる。復縁の意向を詠んだ1-3-871歌の後に位置して、夫の妻への愛情表白(「逢瀬」の段階)を詠む。」 だからこの配列から「復縁が成就したことを読み取りえよう。」

 そして氏は、(作者でもある)作中人物は男とみなしています。 

⑥ この歌とこの歌の類似歌2-1-3749歌の歌本文同士は、平仮名表記では、前者の四句に「わぶらむ」とあるのが後者では「わぶらん」と一字異なるだけですが、詞書(題詞)が異なります。前者の作者名を「よみ人しらず」と編纂者は記しており、後者は、中臣朝臣宅守という男です。『拾遺和歌集』編纂時点で後者は既によく知られていた歌ですので、前者の作者名をわざわざ「よみ人しらず」としているのは、女が作中人物であることの示唆ではないか。

 『萬葉集』で女の作者(作中人物)が「われ」と詠う歌は、額田王、鏡王女、人麻呂妻、坂上郎女などにあります。三句「我ゆゑに」の「我」は女とも理解できます。(なお、「われゆゑ」と平仮名表記できる歌は2-1-3749歌のみです。)

 この歌は、類似歌であるので、前後の歌の検討後に、改めて検討を加えることとします。

⑦ 1-3-873歌は、氏の指摘するように、将来の逢瀬に望みを託しています。前後の歌の配列から、初句「こひこひて」は、逢瀬の段階のあった作中人物を想定させ、現在は「疎遠」の段階にある、と言えます。

 1-3-874歌は、四句と五句より、相手と関係があって後の恋しさであり、しかも現状に満足していないとして「疎遠」の段階の歌と、氏は指摘しており、同意できます。

 1-3-875歌から1-3-877歌は、初句が「涙河」です。逢瀬が途絶えた故に流れる涙を川に見立てており、「疎遠」の段階と氏は指摘しており、同意できます。ここまでの歌も、作中人物は女とみなせます。

 なお、1-3-877歌の詞書の意は、「萬葉集記載の歌を取り上げて、その内容を自分の立場から詠む」の意とする説などがあります。しかし、この歌がどの歌を取り上げているのか不明です。 

⑧ そして、第二歌群の最後の歌は、1-3-886歌であり、「関係断絶の段階の歌に至る」と、氏は指摘し、第二歌群は、「逢瀬の段階に始まり、いったん離別の段階に至って復縁するが結局関係断絶に至る」恋の歌群と指摘しています。

 なお、1-3-878歌以降も確認すると、1-3-878歌を、作者藤原惟成が女の代作をしている(『拾遺和歌集』編纂者がそのように位置付けている)、とみなせば以降の作中人物を、すべて女とみなすことが可能です。代作でない、とみれば、「涙河」を連続3首並べて歌群を閉じ、新たな歌群を男の歌で始めたか、と見ることができます。

⑨ 歌群設定の検討は後日に譲っても、現在の検討対象の1-3-872歌とその前後の歌計11首の整合が取れていれば、3-4-22歌の類似歌の検討はとりあえず終えてもよいのではないか、と思います。

 小池氏の恋の7段階説で確認すると、小池氏の判定と異なり、下表のように、全て「疎遠」の段階の歌が配列されている可能性が高い。

「疎遠」の段階は、作中人物の気持ちが、行きつ戻りつしているところであり、1-3-871歌は、復縁を望んでいる(今は逢うことが拒否されている)のだから、氏の言う「疎遠」の段階に作中人物が居る。と言えます。1-3-872歌の作中人物がこの歌を詠った時点が、逢う前であることを、歌より推測できます。しかし、題知らずという詞書のもとの歌本文のみから理解しようとすると、逢うことを作中人物が了解した歌(返歌であり「逢瀬」の段階ともいえる)なのか、単に逢いたいと願い出た歌(「疎遠」の段階)なのかは判別しかねます。恋の段階は保留します。

表 「7.⑨」までの検討における1-3-871歌前後の歌の、恋の段階一覧  

対象歌番号等

恋の段階(小池博明氏判定)

恋の段階(上村の判定)

1-3-867~1-3-869

「疎遠」の段階 (訪れが疎)

「疎遠」の段階 (訪れが疎)

1-3-870

「離別」の段階

「疎遠」あるいは「離別」の段階

1-3-871

「疎遠」の段階 (復縁を迫る)

「疎遠」の段階 (復縁を迫る)

1-3-872

「逢瀬」の段階 (復縁成る)

保留 (下記⑫参照)

1-3-873~1-3-877

「疎遠」の段階 (訪れが疎)

「疎遠」の段階 (訪れが疎)

参考:1-3-886

「離別」の段階

未検討

備 考

各歌の作中人物は男女あり

各歌の作中人物は女のみ

注)恋の段階:小池氏の設定した7区分の段階(付記2.③の第六参照)


⑩ 小池氏がいう第二歌群にある歌の作中人物がすべて女と推測できました。第一歌群とはっきり異なる作者(達)になりました。これを前提に、1-3-871歌と1-3-872歌を改めて検討します。

 1-3-871歌は、上記⑤で指摘したように、男ならこのように詠む場面、という例示とみることができます。

 類似歌の詞書を比較します。『拾遺抄』1-3’-352歌では「・・・までこじとちかごとをたてて・・・」と記されています(上記① 1-3-871歌部分参照)。「誓言を立つ」とは「神仏に対して、願い事などを、条件を添えて、はっきりと言う」意の理解も可能であり、この歌での「・・・まうでこじとちかひて・・・」での、「誓ふ」は、「心に誓う」意の理解も可能なように、外見的にはその思いを見せないかのようなニュアンスの違いが感じられます。比較すると、「まうでこじ」(参るまい・行くのは止そう)という気持ちがこの歌では和らいでいる印象があります。

 類似歌の『実方集』3-67-89歌の詞書は、さらに文字を費やして「まうでこじ」の意気込みが強い表現となっています。『拾遺和歌集』の編纂者が詞書の文言を吟味しているのがよくわかるところです。

 このため、「おとこをうらみて、ちかった」後に考え直して詠んだ歌を代作したとみたてているとみて、現代語訳を試みれば、次のとおり。四句「いかばや」を、「生かばや」と理解します。

 「どうして、命を懸けてこれからは断ろう、と神に誓ってしまったのか。誓いを破ったら死ぬというが、それでも命が助かって・・・、と思ったときもありました。」

⑪ 次の歌1-3-872歌の詞書は「題しらず」です。しかしながら、歌の配列には配慮すべきであり、1-3-871歌の詞書と歌本文との整合を考慮してよい、と思います。

 即ち、上記③~⑤の検討を踏まえて、作中人物は同じよう立場にいる女を前提として検討することとします。1-3-872歌で作中人物は思い直しています。相手は対等に物を言ってよい人ではなく、作中人物にとってかけがえのない大切な人であることに気付いた時の歌が1-3-871歌と1-3-872歌ではないか。

 初句にある「ちりひじ」とは、作中人物自身を譬えています。相手の人からみて大切な存在ではないものの、塵や泥のように迷惑なものに作中人物がなっている、そのようなことをしてしまっていることに気が付いた、として謝罪をし、復縁をお願いしている歌、とこの歌は理解できます。

 1-3-872歌の現代語訳を試みれば、次のとおり。

「塵や泥などのようにとるに足りない私のために、(逢わないと心に決めたばかりに)つらいと思った日々があったであろう貴方がいとしい(と思っています)。」 

 次の歌1-3-873歌の作中人物は、「将来にはきっと逢えるだろうと自ら慰める気持ちがなければ生き続けていけようか」と詠い、反省しつつまだ逢えない状況下にいます。作中人物の女は、1-3-872歌による復縁には失敗した、ということになります。

⑫ このように、この前後の作中人物は、氏の指摘するような復縁がいったん成った、というよりも復縁を迫った時点の歌であり、復縁への明確なアプローチの歌と理解してよい、と思います。その次の歌をみると、それは失敗しており、この歌は「疎遠」の段階の歌ではないか。

 1-3-872歌と類似歌2-1-3749歌の作中人物の共通点は、

 過去愛し合っていたと思っていること、

 現在逢える手段がないこと、

 それでも今は逢いたいこと、

があります。

 違っている点は、性別、物理的な距離感の違い、であろうと思います。

恋の段階は、類似歌2-1-3749歌が未判定なのでなんともいえません。

⑬ 類似歌2-1-3749歌の現代語訳(試案)をブログ2021/6/28より引用しておきます。

 作中人物でもある作者中臣朝臣宅守とその相手の狭野弟上娘子が相愛か否かは不明のままでもこの1首の歌意に影響はない、と思った歌でした。

 「塵か泥土と同じで、物の数にも入らない私の為に、(人の目の多い都に居て)辛い日々を過ごしているだろう貴方をおもっても、何もできません。胸にせまりひどく切ない気持ちです。」)

⑭ この二つの歌をみると、少なくとも歌集編纂者によって、前後の歌と当該詞書が異なってしまうと、作中人物の立場を変えることができる、という一つの見本と思えます。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 次回は、3-4-22歌を検討したい、と思います。

(2021/7/5 上村 朋)

付記1.恋の歌の定義

 『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の4要件をすべて満足している歌と定義している。

 第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

 第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

 第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと 

 第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと

付記2.恋四の理解について(『拾遺集の構成』(小池博明 新典社 1996)による) (2021/7/5 現在)

① 小池博明氏は、歌集の「構成」を重視した歌の理解をしている。私も同様な立場で『猿丸集』を検討している。

② 小池博明氏は、次のように定義した後に、論じている。

構成:一首と一首との相互関係、歌群と歌群との相互関係、部立てと部立てとの相互関係、そうしたことから導かれる歌集全体の組み立てられ方をいう。換言すれば、部分と部分とがどのように関係してあって、歌集全体を組み立て、秩序だてているかという力学が、「構成」である。

配列:この語は並びという語に置き換えられることからもわかるように、隣接する歌と歌との関係しか視野に入れることができない。それでは、部立てひいては歌集全体の成り立ちを考察しえない。「配列」という語は、隣接するもの相互の関係に限って用いている。

(私の用いている「配列」という語句の意は、氏の定義される「配列」以外に、氏の「構成」の意も意味している場合がある。つまり氏の定義で使用していない。「編纂者の意図」なる語句を「構成」の替わりに用いている場合がある。)

③ 氏は、次の点を指摘している。

 第一 古今集拾遺集も、恋部は、段階的推移(三分法ならば不会恋・会恋・会不会恋)を構成の基準としている。

 第二 歌々を関連付けて解すれば、それぞれの歌がどの段階に位置するか、ほぼ理解し得る。既に顕昭の注釈に見られ、契沖、眞淵、景樹に継承されている。

(歌集とは、その編纂者の著作物である。部立がない『猿丸集』の歌の理解は、その詞書と、その歌の類似歌と、配列(に代表される歌集全体の構造)に矛盾がないのが正解である、という仮説に従っている(2020/1/13付けブログ)。記載した歌の元資料各々は編纂者にとり素材である。)

 第三 人が経験する恋は、最終的に成就も破綻もある。人からみれば恋の遍歴全体が一つの恋とみえることもある。恋とは、それも含んだ表現である。

 第四 塚原鉄雄氏が分類した散文の文章形式が、歌集の構成に適用できる。

文章には、文章の要点となる事柄を記した段落と、要点の説明となる事柄を記した段落とに分類可能な文章(統合型文章)と、そうでない文章(列挙型文章)がある。

後者は、列挙の方法の基準で並列型と追歩型がある。歌集の四季部や恋部のように時間的移行あるいは段階的推移に従った構成は、追歩型である。

 第五 拾遺集の恋部の各巻の巻頭歌と巻軸歌(最後の歌)は、(構成を考えるにあたり)大きな指針となる。恋部全体は、恋一の巻頭歌(忍ぶ恋の露顕)と恋五の巻軸歌(恋愛遍歴の完了)により、恋の推移から見て首尾呼応する。

 第六 恋の成就を基準とした三分法をベースに恋の段階を七段階設定すると、恋一~恋五の構成がわかる。すなわち、

無縁→忍恋(恋愛対象は知らない段階)→求愛(情交に至る前まで)(ここまでは「逢瀬前の段階」)→

逢瀬(が継続している段階)→

疎遠(恋愛主体はそれでも関係継続しているはずと認識している段階)→離別(の認識又は決意した段階)→絶縁、

である。

 第七 恋部は五巻よりなる。巻を単位として漢詩・絶句の「起承転結」がある。

恋一と恋二は、逢瀬に至らなかった恋と結局破綻した恋の発端を並列している「起」、

恋三は、執着・恋情を断念する「承」、

巻四は、恋情が蘇った「転」、

巻五は、結局逢瀬が実現せず恋の遍歴が完了する「結」、

である。

 恋部(一~五)は、「逢瀬」の段階で終わる歌群が無い。各巻とも、持続しえなかった恋を表現している。

 第八 恋四の巻頭歌(1-3-849歌)は、恋三の最後の歌が逢瀬を断念する歌で終わっているので、恋情の復活と理解できる。巻軸歌(1-3-924歌)は、越えてはならない斎垣を越えようと詠っている。この2首から巻四は、恋を一度断念した相手への執着が再び生じた歌と想定できる。

 第九 恋四は、7つの歌群からなる。最初から6つ目までは並列された歌群である。

(付記終わり  2021/7/5  上村 朋)

 

 

 

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第22歌 類似歌はいつ贈ったか

 前回(2021/6/21)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第21歌 かぜをいたみ」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第22歌 類似歌はいつ贈ったか」と題して、記します。(上村 朋)

1.経緯

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行っている。これまで、3-4-21歌まではすべて恋の歌であることを確認した。

 なお、『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義している。

 第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

 第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

 第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと 

 第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと )

 

2.再考 第五の歌群 第22歌の課題

① 「第五の歌群 逆境の歌群」(3-4-19歌~3-4-26歌)の歌と想定した3-4-22歌を再考します。

『新編国歌大観』から引用します。類似歌が2首あります。

3-4-22歌  おやどものせいしける女に、しのびて物いひけるをききつけて、女をとりこめていみじういふとききけるに、よみてやる

  ちりひぢのかずにもあらぬわれゆゑにおもひわぶらんいもがかなしさ

 

3-4-22歌の類似歌 2-1-3749歌  中臣朝臣宅守与狭野弟上娘子贈答歌(3745~3807)

  ちりひぢの かずにもあらぬ われゆゑに おもひふわぶらむ いもがかなしさ 

  (知里比治能 可受爾母安良奴 我礼由恵爾 於毛比和夫良牟 伊母我可奈思佐)

 この歌にかかる左注があります。「右四首中臣朝臣宅守上道作歌(3749~3752)」

3-4-22歌の類似歌 1-3-872歌  題しらず    よみ人しらず

  ちりひぢのかずにもあらぬ我ゆゑに思ひわぶらんいもがかなしさ

 この歌は、『拾遺和歌集』巻第十四 恋四 にあります。

 

② 三代集と『猿丸集』は、同時代の作品でありそれぞれの編纂者は同時代の人です(ブログ2017/11/9参照)ので、3-4-7歌の場合同様に『拾遺和歌集』の歌も、類似歌として検討対象となります。清濁抜きの平仮名表記をすると、2-1-3749歌と1-3-872歌は四句の一字の違い(「む」と「ん」)だけであるので、以前検討(2018/7/9付けブログ)したときは2-1-3749歌を代表の類似歌として検討しました。しかし、『萬葉集』と『拾遺和歌集』それぞれの編纂方針が異なっているはずなので、各歌集の配列により歌意が異なることも有り得ます。そのため今回はそれぞれ検討することとします。

③ このほか、同音意義の語句の有無なども検討し、3-4-22歌の歌意を再確認します。

 類似歌2-1-3749歌から確認します。

3.再考 類似歌2-1-3749歌 配列から 

① 2-1-3749歌は、 『萬葉集』巻第十五の「中臣朝臣宅守与狭野弟上娘子贈答歌」と題する歌群にある歌です(「なかとみのあそみやかもり と さののおとがみのをとめご の ぞふとふするうた」と読みます)。

 再検討すると、この歌群の題詞や配列にはいつくかの疑問が生じました。その疑問が2-1-3749歌の理解に影響があるかどうか、の確認を、最初にしました。

② その結果は、次のとおり(付記1.参照)。

 第一 宅守と、その贈答の相手である狭野弟上娘子が既に相愛の仲であり、「夫婦」であることを念頭に贈答したかどうかは確認を要する。諸氏は、流罪前もその後も相愛であるとみている。

 流罪者は、妻妾を連れて行かねばならないという養老律令の規定は実行されているはずだから、流罪の時点では西本願寺本の目録が「夫婦」と記す根拠は娘子が宅守の妻妾であることではなく、事実上の「夫婦」であったことであり、流罪の前後とも「相愛」であったことを目録は強調しているか。後年二人が「夫婦」となったと認められる資料は現存しない。

 第二 各歌の贈答の時期と各左注の関係について、統一的な理解に苦しむ。例えば、宅守が娘子に贈った形見に関わる歌の配列と宅守に贈られた形見に関わる歌との関係は無関係の時点のようにとれる。

 第三 類似歌は、「4首連作した羈旅の歌のひとつとして理解してよい」とした、以前(2018/7/9付けブログ)の理解は、不正確であった。

 第四 類似歌の検討のためには、第一と第二の小歌群(付記1.⑤参照)は一対の小歌群であると仮定してよい。

 第五 二人が贈答しあった歌であるのならば、対応する娘子の歌をさがしその歌は参照する必要がある。そのうえで左注を考慮して歌を理解すべきである。だから、左注のみを根拠としてこの4首の作詠時点あるいは贈答した時点が連続している(あるいは全て共通の時点)とは即断できない。

 第六 どちらが詠んだ歌かという現行の左注のようなくくりをしたのは、『萬葉集』巻十五の編纂者か元資料作成者か、判然としない。

③ 歌群全体の作詠順、二人の関係その他の検討は、宿題とし、上記②の第四に従い、類似歌2-1-3749歌に対応するはずの娘子の歌の確認と作詠時点・贈答時点の推測を試みます(その結果、2-1-3749歌の歌意は、以前の検討(2018/7/9付けブログ)時とほぼ同じとなりました。)

4.第一の小歌群の検討

① 2-1-3749歌に対応するはずの娘子の歌は、「右四首右四首 娘子臨別作歌」と左注がある第一の小歌群の歌4首(3745~3748歌)の何れか(単数か複数の歌)です。4首を『新編国歌大観』より引用します。

  2-1-3745歌 あしひきの やまぢこえむも するきみを こころにもちて やすけくもなし

  2-1-3746歌 きみがゆく みちのながてを くりたたね やきほろぼさむ あめのひもがも

  2-1-3747歌 わがせこし けだしまからば しろたへの そでをふらさね みつつしのはむ

  2-1-3748歌 このころは こひつつもあらむ たまくしげ あけてをちより すべなかるべし

② 諸氏の現代語訳の1例を示します(『萬葉集私注 八』(土屋文明))。

  2-1-3745歌 アシヒキノ(枕詞)山路を越えようとする君を、心の中に強く思って居て、安らけくもない。

  2-1-3746歌 君の行く、道の長い道を、手ぐり畳んで、焼きほろぼし、なくしてしまふ、天の火も欲しいものである。

  2-1-3747歌 我が背子は、若し京を去るならば、シロタヘノ(枕詞)袖を振りたまへよ。それを見て思ひしのびませう。

  2-1-3748歌 此の頃、即ち今の間は、恋ひこがれてもどうにか生きて居りましょう。タマクシゲ(枕詞)夜明けて其の後からは、せむすべも無いでありませう。

③ 氏は、次のように指摘します。

 2-1-3745歌の五句について「心の中に保持して、深く思っての意であらう。特殊な表現である」。

 2-1-3746歌の五句の「あめのひ」について、「不思議の火、天からの火であらうが、或いは「天火」といふ漢語から思ひついたのであらうか。天火は、人力によらない火災である。原因不明の火災を呼んだものと見える。」、「二句~三句も何か由来する所のある表現らしくも見える。」、「ともかく表現が誇張的で、現在ならば姿體が見えすぎると評さるべき作品」。

 2-1-3747歌について、「袖を振るのは別(れ)に際して、実際行はれたことであらう」、「しかし、この歌なども誇張の少なくない表現であらう」。

 2-1-3748歌の「をち」とは「彼方、時については以後である。」、「四句も巧に見えながら、わざとらしく響く。(左注に)「臨別」とあるが、実質は別れる前後位と見てよいだらう」。

④ 宅守の流罪の刑が予想できる状況となれば、2-1-3745歌~2-1-3747歌の3首は詠むことができるでしょう。宅守に贈るとなれば、3首とも流罪の刑確定直後が最早の時点ではないか。そして、宅守の、流罪地到着の報に接する頃が最遅の時点ではないか。いずれにしても、流罪確定後の宅守に贈る最初の機会が一番ふさわしいと思います。

 この3首は宅守への思いがあふれる歌である、と思います。ただ、3首目の2-1-3747歌で、流罪地に向かう者に対して「しろたへのそでをふらさね」と願うのは場違いではないか。土屋氏の指摘はもっともです。

⑤ これに対して最後の2-1-3748歌は、初句「このころは」の理解に悩みます。前の3首と同じく宅守が都を離れる頃合いを「このころ」と表現することも、それまで娘子は宅守には逢えていなかったでしょうから可能ですが、左注にいう「臨別作歌」であれば、最後の4首目に流罪地到着後の宅守に対する思いの歌を加えてもよい、と思います。そして、2-1-3745歌で自分の気持ちを「やすらけくもなし」と詠っていますので、その気持ちをくりかえして詠うよりも、宅守の気持ちを問う歌と理解してよいのでは、と思います。

 この歌を贈る時期は、宅守が都を離れる頃合いを「このころ」と表現しているとみれば、最初の3首と同じく流罪確定直後が最早の時点であり、流罪地到着の報に接する頃が最遅の時点ではないか。宅守の流罪地到着以降の時点前後を「このころ」と表現しているならば、宅守の流罪地到着時が最早の時点ではないか。つまり、ほかの3首の後に贈った可能性がある歌となります。

⑥ この4首の左注と題詞は、「流罪地に向かう(あるいは到着している)者」に贈った歌という限定を付けていません。「流罪となった後の宅守」が相手であると限定するのは、西本願寺の目録を重視しかつ『続日本紀』で宅守の流罪を承知しているからです。

 この時点での二人を「夫婦」と呼ぶのをためらう私は、左注と題詞の語句を忠実に理解して検討を今は続けよう、と思います。(もちろん『萬葉集』が題詞に流罪をにおわす表現をわざわざ避けている可能性もあります。)

⑦ さて、歌意をみると、最初の3首は、相愛の相手に地方への出張時や赴任時でも贈ることが可能です。例えば1首目の「やまぢこえむ」に対して都近くに「ならやま」や「たつたのやま」があります。2首目の(天皇の意思が及ばない)「あめのひ」を持ち出す発想にアイデアがあり、また3首目の「そでをふらさね」と言う表現の疑問はなくなります。

 3首が赴任時の歌であれば、4首目も同じであり、「このころ」とは、赴任地到着頃のことを指し、作中人物の気持ちを詠うか、相愛である相手も作中人物と同じように「恋ひつつあらむ」と推測した歌と言う理解ができます。

⑧ また、この4首を含め、この題詞のもとにある歌(63首)は、都を離れる理由に触れることなく詠っており、長期間の別居を余儀なくされた都に残る立場の人物(を作中人物としたところ)の歌、というのが、左注と題詞から指摘できることです。地方赴任では、公務で都に来て報告すべきこともあり、都で逢う機会が待ち遠しいところがあります。

 宅守の詠う2-1-3762歌のように「あはずしにせめ」とか2-1-3766歌の「みじかきいのち」、これに応えるかに娘子の詠う2-1-3767歌の「いのちあらば」とか2-1-3770歌の「ひとくには」のような、誇張的な表現は、恋の歌ですので当時においては非常識ではないと思います。(当然、宅守が流罪となった際の歌というのは周知の事実であるという前提を置いて題詞は記されているとも理解できますので、すべての歌の検討が必要です。)

⑨ また、この4首は、自主的にも受動的にも贈ることが出来る歌です。どちらの場合でも宅守に贈ったのですから娘子は宅守を思っているはずであり、二人が相愛である、と理解しておかしくありません。

 しかし、第二の小歌群の理解によっては、娘子独りが思っているだけかもしれません。流罪の宅守に2-1-3747歌を贈る感性や2-1-3748歌の「すべなかるべし」という決めつけた詠い方にどのような感慨を宅守は持ったのでしょうか。

5.再考 類似歌2-1-3749歌 作詠時点・贈答時点

① 「右四首 中臣朝臣宅守上道作歌」と左注がある4首は、次のとおり。

  2-1-3749歌 類似歌(上記1.参照)

  2-1-3750歌 あをによし ならのおほぢは ゆきよけど このやまみちは ゆきあしかりけり

  2-1-3751歌 うるはしと あがもふいもを おもひつつ ゆくばかもとな ゆきあしかるらむ

  2-1-3752歌 かしこみと のらずありしを みこしぢの たむけにたちて いもがなのりつ

 

② この宅守作の4首の作詠時点と贈歌した時点を検討してみます。

 類似歌2-1-3749歌を除く3首に、都より流罪地に向かう途次の感興ではないかと推測できる語句が、歌にあります。「このやまみちはゆきあしかりけり」とか「ゆけばかもとな」とか「みこしぢのたむけにたちて」という語句です。

 贈答するならば、流罪地到着直後が最早でしょう。各歌ごとの贈答であれば当該地点通過直後が可能です。

 この3首と2-1-3749歌は、歌の内容がだいぶ違います。この3首のどれかを2-1-3749歌と一緒に贈る必然性(3首の何れかと2-1-3749歌を対の歌として理解しなければならない必然の理由)はない、と思えます。

 2-1-3749歌は単独の歌でもよい歌である、と思います。

③ 2-1-3749歌は、「私のために辛い思いをしているであろう」(これは、つまり、宅守の推測です)と娘子を思いやっている歌、と理解できます

 この歌を贈答しようとする機会は、娘子と知りあって後、相愛となっていれば常識的には宅守自身が罪を問われたり流罪を自ら予想するようになった時点以降に生じるでしょう。そして再会を果たすまでの間に可能性があります。

 中でも、二人が相愛であれば自主的に詠い贈ることになり、(長い別居となる)流罪が予想できるようになった頃が最早の時点であり、以後まだ都に居る流罪確定時点、都を立ち流罪の実感が増す「上道」の時点、流罪地に到達し生活を始めた時点などが有料な候補ではないか、と思います。

 受動的に贈るのであれば、流罪が予想できるようになった以後であって、宅守への思いを娘子が訴えてきた最初の贈答歌(あるいは文)を受けとった時点が最早の時点であり、以後娘子の歌を受け取る度に、この思いが生じたことでしょう。

 このような流罪との関係からの一般的な推測に対して、2-1-3749歌は、(流罪地に向かうという)「上道」で作る歌と左注にあります。左注に従えば、都を離れる(都から追放される)ことを肌身に感じた時点が作詠時点であり、この歌を贈った時点は不明となります。

 自主的に贈るのであれば、都を出立前に作りかつ贈れたはずです。二人は、逢うこと以外にも第三者を通じての情報交換も禁止されていたのでしょうか。娘子の気持ちの揺らぎの有無を知る手立てが宅守には全然無かった、とは思えません。

 既に相愛であれば、文通が都を実際に離れる時点まで法令上禁止されていたとしても、人づてにでも贈る努力を宅守はしなかったのでしょうか。

④ 左注の配列(小歌群)が時系列であるならば、この歌は、娘子の歌に接して後の返歌となりますので、受動的に贈ったことになり、宅守は、娘子との愛を一旦諦めていた(あるいは断念した)ところに娘子の歌が届いたことがきっかけである、と思います。第一の小歌群に属する歌が作られて直後に贈られてきたのならば、宅守はまだ都に居た可能性もあります。

 娘子の恋の復活を何らかの方法で確認し、それを受け入れる決心をした時に歌を贈るでしょう。場合によっては都に居る自分の親などにも相談してからのことになるでしょう (暫くは逢うことのない状況であることが周知のことであっても流罪前の二人の関係が復活したとみなせる行動は、自分にもまた親にも影響があるかもしれませんので)。

 だから、都にいて受け取ったとしても時間をかけ、歌を贈るのは流罪地に到着後のことではないか。

⑤ この場合、歌を改めて贈ることにした娘子の行動の意図はいまのところ不明です。止むを得ない理由で中断をしていたならば、慎重に再開するはずです。

 なお、この歌を既に贈答していたとしても、刑が決った後、改めて相愛の娘子に自分の思いを伝える(贈答する)ならば、宅守の歌に、例えば次のような歌もあります。

  2-1-3763歌  いのちをし またくしあらば ありきぬの ありてのちにも あはざらめやも

  2-1-3785歌  たびといへば ことにぞやすき すべもなく くるしきたびも ことにまさめやも

  2-1-3786歌  やまかはを なかにへなりて とほくとも こころをちかく おもほせわぎも

⑥ 次に、歌意を検討します。ここまでは、諸氏の理解する歌意によりました。例を示します。

  • 「塵や泥のように、物の数にも入らないこの私故に、辛い思いをしているであろうあなたが いとおしく切なく思われます。」(阿蘇氏)
  • 「塵か泥土の如く、物の数でもない私の為に、思ひわびしがるであらう妹が、可愛いそうなことである。」(土屋氏)

 阿蘇氏は、五句にある「かなしさ」には、「いとしい思いと、にもかかわらず離れなければならない悲しい思いとが含まれている」と理解しています。

 土屋氏は、五句に対して特段のコメントをしていません。

⑦ この歌と対となる歌から、この歌を検討します。

 対の歌は、1首であるならば、この歌群の筆頭歌である、2-1-3745歌ではないか。「やすらけくもなし」(都で貴方を待ちますが心が穏やかなことはありません)、と訴えられて、今は寄り添ってあげることもできない自分を顧みての歌が、2-1-3749歌ではないか、と思います。

 留意すべき同音異義の語句はありません。

 五句にある「かなし」とは、「じいんと胸にせまり、涙が出るほどに切ない情感を表す。「愛し」であれば「身もしみて、いとしい。じいんとするくらいにいじらしい。」意。「悲し・哀し」であれば「身にしみて、あわれだ。ひどく切ない。やるせなく悲しい」意」(『例解古語辞典』)です。

 現代語訳を試みると、次のとおり。

「塵か泥土と同じで、物の数にも入らない私の為に、(人の目の多い都に居て)辛い日々を過ごしているだろう貴方をおもっても、何もできません。胸にせまりひどく切ない気持ちです。」

⑧ このように、上記「3.② 第四」の前提で、歌の理解ができました。

 また、第一の、「相愛」であったかどうかは、小歌群の第一と第二は、贈答をくりかえした歌と見ることが可能であって相愛が不明のままでもこの1首の歌意に影響はない、と思います。

第五の、対応する娘子の歌は、あった、と判断できました。

検討の結果、現代語訳(試案)を得ました。

⑨ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

次回は、もう一つの類似歌1-3-872歌を検討します。 記載している『拾遺和歌集』は、よみ人しらずとして編纂しています。

(2021/6/28   上村 朋)

付記1.萬葉集巻十五の「中臣朝臣宅守与狭野弟上娘子贈答歌」(なかとみのあそみやかもり と さののおとがみのをとめご の ぞふとふするうた)(全63首)の検討 (2021/6/28 現在)

① 『萬葉集西本願寺本の巻十五の目録には、つぎのようにある。

「中臣朝臣宅守娶蔵部女嬬狭野弟上娘子之時勅断流罪越前国也於是夫婦相嘆易別離一レ会陳慟情贈答歌六十三首」

 これに対して、題詞は、「宅守と娘子が贈答しあった歌」の意であり、二人が何時贈答しあったのかには触れていない。二人の関係も、贈答しあっているのだから、「相愛」であろう、という一般的な推測以上のものではない。

 「相愛」であるのは歌本文にあたってわかってくることである。

② 流罪になると、養老律令の凡流応配条に「凡そ流犯して配すべくは、三流俱に役一年。妻妾は従へよ。父母・子孫、随はむと欲(ねが)はば聴せ・・・」とあり、「家人は従ふる例にあらず」ともある。

 妻妾は義務として同伴せねばならず、家人は随行命令を拒否できた、ということであり、この規定から判断すると、流罪となった時点で娘子は宅守の妻妾に該当しなかったのが事実ではないか。

 また、二人が詠っている歌を信じれば、歌の贈答時に住んで居たところは、「みこしぢの」先にある国と都であり、別れたままである。流罪の時点で宅守の妻妾ではない、となり、歌の内容から凡流応配条は宅守にも適用されている状況である。

③ だから、二人は相愛の仲であり京に戻った宅守が娘子を妻妾の一人にしたという(しかし現在知られていない)資料を目録作成者が見ていない限り、この『萬葉集』の全63首より本願寺本の目録は、「娶」と記し、二人を「夫婦」と称していると思われる。これは諸氏も指摘している。

 当時の法令でいう妻妾ではない形でも「夫婦」と呼べる形態があったのであろう。(下記⑰参照)

 歌をみると、相愛と思える歌を贈りあっているものの、いくつかある形見を詠う歌に注目すると二人の仲を疑いたくなるような配列にもとれる(下記⑩以下参照)。

 左注だけから二人は相愛である、と即断できない。

④ 二人が贈答しあった歌63首は、『後撰和歌集』の恋の部の配列のような一問一答式のスタイルで配列されていない。『萬葉集』あるいは元資料の編纂者が、現行のような「左注」を用いたスタイルにしている。

 一般に、一度に十数首の歌を贈るということは、相愛の仲であってもしないと思う。相愛の仲であれば多くの回数の便りをしたいものではないか。そして遠方に居る者に贈る歌は、歌だけを贈るのではなく、文とか送る物に付けた歌というスタイルが多いのではないか。そして、贈った歌に関係ある相手の歌が少なくも一首はあるはずである。

 このような一般論にたてば、この歌群の左注の仕方は、歌を整理して記録した後の姿、と推測できる。

⑤ 具体の左注は、誰の歌であるかを主として記している。それによって次の順に配列されている。

第一 「右四首 娘子臨別作歌」 :(3745~3748歌  第一の小歌群と称する。以下同じ)

第二 「右四首 中臣朝臣宅守上道作歌 」: (3749~2752歌)

第三 「右十四首 中臣朝臣宅守」 :(3753~2766歌)

第四 「右九首 娘子」(3767~3775歌)

第五 「右十三首 中臣朝臣宅守」:(3776~3788歌)

第六 「右八首 娘子」:(3789~3796歌)    

第七 「右二首 中臣朝臣宅守」: (3797~3798歌)

第八 「右二首 娘子」: (3799~3800歌)

第九 「右七首 中臣朝臣宅守 寄花鳥陳思作歌」(3801~3807歌)

 このうち、第一と第二の左注は、作詠時点を推測できるかのような事情を付加した語句よりなる、例外的な左注である。

⑥ 題詞と左注の語句のみから判断すると、第一の小歌群は娘子が、宅守との「臨別」のとき作った歌からなる小歌群であり、題詞により、宅守に贈られた歌群となる。贈られた時点は作った時点が第一候補であろうが、その後も有り得る。

 第二の小歌群は宅守が「上道」(目的地に向かっている)のときに作った歌からなる小歌群であり、贈った時点を明示していない。そして、題詞により、宅守が娘子に贈った小歌群である、と理解できる。

 そして、宅守は流罪になっていることが『続日本紀』で分かるので、流罪地に向かうときに作った歌と推測ができる。そして第一と第二の小歌群は連続して配置されているので、ペアの小歌群となっていると推測でき、第一の小歌群の左注にある「臨別」とは、宅守が流罪地に向かうということが確定し都に居るか出発した頃をさす、と理解できる。

 このため、この二つの小歌群はほぼ同時期に、それぞれの思いを詠み、それを贈答しあった歌からなるのではないか、と漠然と推測できる。ただ、贈答しあった時点は左注だけではわからない。

⑦ 小歌群が時系列による配列とすれば、娘子から贈答を始めており、娘子は宅守をこの時点で恋の相手としていることがわかる。流罪の身の上となった宅守も、それに応えて相愛であることを再確認している、と推測できる。

 そして、第二の小歌群にある2-1-3749歌(3-4-22歌の類似歌)を宅守が贈答する直接のきっかけとなった(あるいはこの歌に応えた)歌も娘子の詠う第一小歌群にあると推測できる。

⑧ 次に、第三の小歌群以下は、その左注の語句だけでは、ペアとなった歌群である可能性のほかは、何時作られ贈答されたかは明らかにならない。しかし、宅守が流罪となっていること、及び題詞と小歌群の語句の比較より、第三の小歌群以降もこの順序が時系列になっている可能性が高いと推測できる。しかし、小歌群ごとの作者は、第一が娘子で第二が宅守であり、以下第三からは宅守、娘子、の順で3度繰り返されて最後が宅守、という順である。第一の小歌群を娘子の歌にしているのは、何か理由があるのか。

 諸氏の多くは、小歌群を単位として時系列に配列されている、とみている。宅守の流罪期間中大赦があって、それに漏れたことが『続日本紀』の天平12年6月19日条の大赦の記事にあり、その時点での作詠と思える歌や娘子の熱意が冷めている印象の歌が後半にある等からである。

 いづれにしても、贈答経緯を確認するには、小歌群単位ではなく各歌における時系列の検討をするに越したことはない。

⑨ また、遣新羅使使節団の歌群で、題詞は『萬葉集』巻十五の編纂者が元資料を整理してつけたのではないか、という仮説を示した(2021/6/21付けブログ「3.」参照)。

 この全63首も、上記④で述べた一般論にたてば、後に誰かが編纂したものとなる。その元資料が宅守側あるいは娘子側のもの1種類であったかどうかも不明である。

 その後「夫婦」になった場合や、「夫婦」になることを娘子が願っているにも関わらず、宅守がその後妻妾の一人にしていない場合も想定できる。後者であると苦い思い出の贈答歌としてまとめたのが元資料であるかもしれない。

 また、娘子が何かを認めたことで宅守が流罪となったのならば、自己保身の証拠として残す必要を感じて娘子側がまとめたのがこの元資料となる。宅守が保存していた理由もあり得る。その解明は歌全ての検討を要する。

⑩ 時系列の歌を小歌群ごとにまとめているという仮定(上記⑦)には、疑問を感じる。その例を以下に挙げる。

 題詞の「中臣朝臣宅守与狭野弟上娘子贈答歌」という語句は、「宅守の流罪を契機として歌を贈答し始めた(歌をまとめた歌群)」という限定をしていない。語句の意味するところは、精々「ある時期、男女の仲であった二人が贈答しあった歌」という理解が妥当である。

 第一と第二の小歌群も左注だけではその前後関係は分からない。第二の小歌群の歌がきっかけで歌の贈答が始まった、という理解も可能である。つまり、第一と第二の小歌群は対の小歌群である、と理解できるが、この二つの小歌群の前後関係を左注の語句からは決められない。相愛の仲であっても、少なくとも宅守が最初に(流罪地から)贈答したのではない、という説明がむずかしい。

 また、歌の全てが宅守の流罪以後の作でありかつ以後の時点の贈答歌であるかどうかも、左注の語句だけではわからない。

⑪ (娘子の)「形見の衣」と詠う歌が宅守にある(2-1-3755歌)。この歌の後に配列されている娘子の2-1-3773歌に「形見の衣を贈っていたであらう。わざとらしい注文だが・・・」と土屋氏が評する歌があり、そのあとの2-1-3775歌が「形見にと縫った衣だ」、と詠う歌の順になっている。この3首が(小歌群単位で、歌単位でも)時系列に並んでいるとすれば、娘子は迎合して歌を贈ったという印象を受ける。

 そのため、この題詞のもとでの娘子作の最後の歌2-1-3800歌の本音は、手元に有りもしない「衣(手)」を手に持って祈りなさいという歌にみえる。この歌は、恋しい・逢いたいと直接詠わぬ歌である。 

 つまり、第三の小歌群と第四の小歌群がこの順で時系列であるという仮定がおかしいことになる。 

⑫ 宅守の最後の「右七首 中臣朝臣宅守 寄花鳥陳思作歌」は、対応する娘子の歌からなる小歌群がない。娘子の何れかの小歌群に、この七首に対応する歌が配置されているとすれば、小歌群単位で時系列の配列になっているという仮定はなりたたない。

 また、最初の一首を除きすべてほととぎすを詠い、「ものもふときに」が前後四首も続出している。贈答をした歌であれば、連作をしたのではなく、贈る時期を違えている歌ではないか。 土屋氏は、「宅守の歌には、民謡からの発想や下敷きにする歌がある。発想が娘子と比べると豊かな人ではなさそうである」、といっている。

 例) 2-1-3760歌の3句~5句は民謡の慣用句(土屋氏の指摘)

    2-1-3762歌には2-1-旧605歌(笠郎女)がある

⑬ 2-1-3787歌は、宅守が娘子に形見を贈ったと詠う。2-1-3788歌もその形見に関して詠う。

 宅守が形見を贈られたと詠う2-1-3755歌とは小歌群が異なる。形見は、普通には同時期に贈りあうのではないか。2-1-3787歌にしてもその形見と同時に相手に届けた歌ではないか。

 また、2-1-3787歌等の返歌と思える娘子の歌が見当たらない。

 小歌群にまとめたのは、時系列ではなく別の基準があるのではないか。

⑭ 2-1-3794歌は天平12年の大赦に漏れた後の歌である。この歌以後の娘子の歌は、小歌群単位で数えると2首のみである。相愛であるはずの娘子が歌の贈答を減らした理由は何か。

⑮ これらだけからも、この63首は、歌単位でも時系列に配置されているとは言えない。歌本文によって流罪と定まった時点の思いを詠んでいると思える歌を中心に最初の小歌群を構成しているのがヒントとなるのであろうか。

 特定の目的をもって意図的に編纂されたのがこの63首の歌群である、と言える。 

目録は、宅守が流罪となった理由に触れていない。目録の作者の関心は、長期にわたり地方と都とに別居した者の相聞ということに注がれているかにみえる。

⑯ 63首全体の構成等の検討は別の機会に譲り、上記⑥、⑦及び⑩に記したように、第一と第二の小歌群は一対の小歌群と認められるので、それを類似歌検討の前提とする。

⑰ なお、狭野弟上娘子は、後宮蔵司に勤める卑官(女嬬)であって、役職上男官と日々接触する立場であり、土屋氏は、「女嬬(という役職そのもの)が御物に準ずべきもの故、それを管理監督する立場でありながら管理監督する物を盗んだ、とみなされ流罪となったのか」と論じている(『萬葉集私注』(巻十五追考)。これが流罪の理由ならば、男女の間の禁を犯した者は別々に住まわせるという規定もあり、適用されたのであろう。

(付記終わり  2021/6/28  上村 朋)

 

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第21歌 かぜをいたみ

 前回(2021/6/14)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌第20歌 かけねばくるし」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第21歌 かぜをいたみ」と題して、記します。(上村 朋)

1.経緯

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行っている。これまで、3-4-20歌まではすべて恋の歌であることを確認した。

なお、『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義している。

第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと 

第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと )

2.再考 第五の歌群 第21歌の課題

① 「第五の歌群 逆境の歌群」(3-4-19歌~3-4-26歌)の歌と想定した3-4-21歌を検討します。 

 『新編国歌大観』から引用します。

3-4-21歌 物へゆくにうみのほとりを見れば、風のいたうふくに、あさりするものどものあるを見て

    風をいたみよせくるなみにあさりするあまをとめごがものすそぬれぬ

 

 類似歌  2-1-3683歌   海辺望月作歌九首(3681~3689)  よみ人しらず  

    かぜのむた よせくるなみに いざりする あまをとめらが ものすそぬれぬ 

(可是能牟多 与世久流奈美尓 伊射里須流 安麻乎等女良我 毛能須素奴礼奴)

 一伝、あまのをとめが ものすそぬれぬ  

② 以前検討した際(ブログ2018/7/2付け)の結論は次のとおりでした。

第一 3-4-21歌 詞書の現代語訳試案

「任国へゆく途中、海辺近くを見みると、風が大層吹いている中で何かをさがしている者たちがいるかにみえる光景を見て(詠んだ歌) 」

第二 3-4-21歌本文の現代語訳試案

「強い風があるので、寄せてはかえす波で、海辺で何か探し物をしている天女たちの裳の裾が濡れてしまっているよ。」

第三 岩場か海に臨む崖に、強い風にあおられた大波が砕け散る様子を、天女の裳裾に見立てたのか。

第四 四句の意が類似歌と異なる。この歌の「あまをとめごが」は「天女が」、の意であり、類似歌の「あまをとめらが」は、「海人(の)少女達が」、の意。

第五 この結果、この歌は、強い風による自然の営みを天女の動きに例えて詠い、類似歌2-1-3683歌は、風のなかであっても働いている海人の少女を詠う。

第六 この歌の作者は、天女を指す「あまをとめ」の先例である2-1-869歌と類似歌2-1-3683歌を承知している、と断言できる。

第七 類似歌の現代語訳試案 (題詞は現代語訳しませんでした)

「風と共に寄せて来る波によって、浜で玉藻を採取している海人の娘達の衣の裾は濡れてしまったよ。」

③ 今確認すると、恋の歌としての理解になっていないなど次のような問題があります。

第一 恋の歌と理解できるか

第二 「かぜをいたみ」、「よせくるなみ」など、広く同音異義の語句の再確認

第三 類似歌の理解の再確認

 このため、類似歌の再確認より検討します。

3.再考 類似歌 2-1-3683歌

① 類似歌に、3-4-21歌の理解のヒントがあるか再確認します。2-1-3683歌が配列されている(『新編国歌大観』記載の)『萬葉集』巻十五は、次の二つの歌群からなり、その前者に2-1-3683歌はあります。

 その歌群の題詞として、

 「遣新羅使人等悲別贈答及海路慟情陳思幷当所誦詠之古歌」 

とあります。

 西本願寺本の目録には、「天平八年(736)丙子夏六月の遣新羅使」であること、「悲別贈答」部分を「(使人等)各悲別贈答」、及び「海路慟情陳思」部分を「海路之上慟旅陳思作歌」、と表記し、注して「一百四十五首」

などとあります。

② 両者を比較し、以下の145首を通覧すると、目録は、

遣新羅使人等」の範囲を特定の遣新羅使に限定している

それに伴い「陳思の歌」は「限定した遣新羅使という使節団団員が作る歌」と限定している

という解釈を示している、と言えます。

 しかし、編纂者は、一般に隣国に使節団が派遣された旅行で朗詠されたであろう歌を、ここに集録すべく、編纂時に近い遣新羅使の資料を中核として歌群を編纂したのではないか、と思います。「陳思の歌」は、必ずしも編纂時に近い遣新羅使の団員のみの歌ではない、という理解です。冒頭の13首には、作者に個人名を記している歌がありますが、すべて出立にあたっての贈答の歌です。

 (『萬葉集』巻十四は、東歌のみの巻でした。全て短歌です。元の資料は1種類とは思えません。巻十六は、「有由縁幷雑歌」 と題する(目録は「有由縁雑歌」)巻であり、由縁の伝わり方を思えば一つの由縁に対して元資料が1種類かどうか不明です。巻十五の前後は、編纂者の意図が十分反映されている、と見ることができる巻です。)

③ 出立にあたり、公宴があります。詠んだであろう大使の歌が、ここには集録されていません。

 天平8年(736)丙子夏6月都を出立した遣新羅使使節団は、目的を果たせず帰国しました。

 九州では疫瘡(天然痘か)が天平7年より流行り、天平9年には都で藤原四兄弟薨去したころの公務旅行における歌です。天平8年のこの使節団は、大宰府との往復などでも頻繁に利用されている海路で、逆風にあい豊前国下毛郡まで漂流したり、復路に大使阿倍朝臣継麻呂が対馬で卒する(挽歌はありません)など、苦しい旅行となりました。

 天平8年使節団の大使が対馬における宴で詠った歌があることが、目録を記した者に影響を与えたのではないか。

④ 歌群内の配列は、瀬戸内海経由の海路で対馬に至る往路の行程を追って細分した歌群と一応みることができ、最後に、帰路の播磨国家島での歌五首で終わっています。最後の五首は、都に居る妻子を思う歌であり、大宰府から帰任する際のそれと何ら変わりません。使節団の行程のみを振り返って詠んだ歌はありません。

 細分した歌群を、題詞と左注によって設定すると、付記1.のようになります。「古歌・伝承歌・その言い換えの歌」からなる、都から乗船までの期間の歌群から始まります。そして、類似歌2-1-3683歌を含む歌群の前後の配列はその基本通りです。歌群を越えた歌のつながりはほとんど見られませんでした。このため類似歌の理解を、当該歌群における整合を条件とする以前(ブログ2018/7/2付け)の検討スタンスは妥当なものでした。

⑤ この歌を含む(細分した)歌群にある9首の各々歌の独自性も改めて検討しました(付記2.参照)が、題詞のもとで、それぞれ単独の歌という結論は変わりませんでした。また類似歌の同音異義の語句の意や歌意も変わりませんでしたが、何時誰が詠んだ歌か、という点は、保留します。

⑥ 以前の成果である類似歌の現代語訳を上記「2.②第七」に引用しました(ブログ2018/7/2付け「4.⑫」)。

 「玉藻」とは、美称の「玉」+藻(海藻)です。海人の娘達の作業は、題詞より明け方の実景であるかどうかは、わかりません。

4.再考 第五の歌群 第21歌 詞書

① 次に、『猿丸集』の3-4-21歌を再考します。同音異義の語句と現代語訳を検討します。

 詞書の最初の語句「物へゆくに」の「もの」の意は、「個別の事物を、直接に明示しないで、一般化していう。特に物語などで飲食物・衣服・調度の類をばくぜんと遠回しに示していることが多い」のほか「出向いて行くべき所」もあります。また、「超人間的なもの。恐れや畏怖の対象となる、鬼神・怨霊の類」の意もあります。(『例解古語辞典』)。

 次の語句「うみのほとり」の「ほとり」に、「そば近辺」と「果。際限」の意があります。後者を以前(2018/7/2付けブログ)は見落としていました。

② 「あさりするものどものある」の「あさりする」について、『萬葉集』の用例では、採る意より、探す意が強い、と以前指摘し、「海浜か岩場で何かを求め作業している」意と理解しました。

 名詞「あさり」(漁り)には、「餌を捜すこと」と「魚をとること」の意があります。動詞「あさりする」には「餌を捜す」と「魚をとる」意があります。

 動詞「あさる」(漁る)には、「動物が餌を捜して歩く」「人が魚・貝・海草などを捜し求める」及び「尋ね捜す」意があります(『例解古語辞典』)。

 また「ものども」とは、「もの」が複数いる、という意ととれば、「超人間的なもの。恐れや畏怖の対象となる、鬼神・怨霊の類」を指している語句でしょうか。代名詞「者ども」であるならば、複数の目下の人達の意があります。

 「ある」は「生る」(生まれる、出現する)、の意のほかの、「荒る」(「風や波などが荒れる・荒れ狂う」、「荒れ果てる」)という意を見落としていました。

③ そのなかで、現代語訳(試案)は、次のようなものでした。

「任国へゆく途中、海辺近くを見みると、風が大層吹いている中で何かをさがしている者たちがいるかにみえる光景を見て(詠んだ歌) 」(詞書20180702案)

 今回、次のような(試案)を追加します。

 「出向いてゆくべき所への途中、海のあたりを見れば、風がはなはだしく吹いている中に、捜し物をする人々が居るのを見て(詠んだ歌)」(詞書20210621第1案)

 「ある所へ行く途中で、海の果て(はるか海上)を見れば、風がはなはだしく吹いている状況であって、餌を捜しているものども(鬼神・怨霊)が荒れくるっているのを見て(詠んだ歌)」 (詞書20210621第2案)

 歌本文を再確認してから一案へ絞り込みたい、と思います。

 

5.再考 第五の歌群 第21歌 歌本文

① 初句より順に検討します。類似歌が「かぜのむた」とあるのに対して、この歌は「風をいたみ」とあります。「いたみ」には、同音異義の語句がありました。

 以前は、形容詞「甚し」の語幹+接尾語「み」と理解しました。このほか、

 「痛む・傷む」の連用形があります。

 四段活用の動詞「いたむ」とは、「苦痛に感じる・悲しむ」意です。

 類似歌との違いは後者のほうが大きいので、初句「風をいたみ」とは、

 「風を苦痛に感じて(あるいは悲しんで)」の意に理解したい、と思います。

② 二句「よせくるなみ」は、「寄せ来る波」のほかに、「寄せ来る並」の理解が可能です。

 名詞「なみ」(並)とは、「同類・同等」、「共通する性質」の意です。

 詞書では、「風のいたうふくに」とあり、波への言及はありません。風が強ければ沖でも波が大きくな白波も立っているでしょうからわざわざ記すこともないでしょう。

 しかし、白波と言えば風が強いことも十分示唆するのに、「風」に言及するだけの詞書ですので、白波の立つ状況とは異なっている景、という可能性もあります。そうすると、「なみ」=「並」の理解は検討対象となり得ます。

③ 三句「あさりする」は、詞書にある「あさりする」と同じ意ではないか。ここでは、四句の意に沿い理解する必要があります。

④ 四句「あまをとめごが」は、以前は歌語の「天つ少女が」と理解しました。「天つをとめ児が」であり、2-1-869歌にある「とこよのくにの あまをとめ」に接尾語の「子・児」を添えた形です。

 「あまをとめご」には同音異義の語句があります。

第一 天つ少女 (一人または二人以上)

第二 尼+をとめ(歌語であって成年に達したころの未婚の女性)+ご(接尾語)

 接尾語「子・児」は、「人の意を添える」場合や「人を,親愛の情をこめて呼ぶときに用いる」場合があります。そのため、「あまをとめご」とは、「尼になった未婚の女性であって、作者が親しくしていた女性」を指している語句となりますが、当時の物語類の例を知りません。 

 第三 海人+をとめご(上代語の歌語であって、おとめ・未婚の女性)

 「漁師の未婚の娘」の意となります。

⑤ 五句にある「ものすそ」の意には次のものが考えられます。

 第一 裳の裾

 第二 喪の数衣(死者を悼むため死後のある期間近親者が家にこもり交際をさける際に着る、いくつかのお召し物)

「数」は、接頭語で概数を表します。「そ(衣)」とは「おんぞ。貴人の衣服。おめしもの。」の意です。

⑥ これらより、あらためて現代語訳を試みます。

 詞書にある「物へゆく」という人物(作者であり作中人物でもある)は、公務出張途中の官人が有力候補です。

 その仮定にたつと、詞書にある「ものども」とは、庶民一般の人々を指し、二句にある「なみ」とは「同類」と理解が可能です。しかし、二句にある格助詞「に」は体言などについて連用修飾語を作るので、五句にある「ぬれぬ」の原因・理由を指しており、「同類」では、意味を成さない、と思います。

 「なみ」は、詞書にある「風のいたうふくに」により、白波や高波もある状況が当然ですので、「波」の理解も十分可能です。そして作中人物の仮定(出張途中の官人)が視認することも自然です。

 また、四句にある「あまをとめご」も作中人物が視認しているので、「ものども」と作中人物が表現できる、庶民である海女が有力です。

⑦ このため、現代語訳をあらためて試みると、次のとおり。

 「風の吹くのを悲しみながら、寄せてくる波のなかを 捜しまわっている 海女の裳の裾は濡れてしまっている。」

 風が特に強い時に藻を採取するのは、普段しない行為である、と思います。にも拘わらず、多くの人々が「あさりする」理由は、藻以外の何かが対象ではないか。

 恋の歌として考えると、入水した者を捜しているのではないか。

⑧ 詞書と突き合わせると、上記⑦の(試案)は、詞書20210621第1案の理解のもとにある歌となっています。

 詞書の頭書にある「もの」の第一義が「個別の事物を、直接に明示しないで、一般化していう」でありました。都ではなく地方での見聞の一つの意で、「物へゆくに」と編纂者は用いているのかもしれません。

⑨ この歌に関する以前の理解(2018/7/2付けブログ「5」及び「6」)は、誤っていました。撤回します。

 6.再考 類似歌との違い

① 共通する景として、海女が登場する歌であること、浜に風があること、の二つがあります。

② 異なる点がいくつもあります。

第一 詞書が、景を、類似歌は抽象的に記し、この歌は具体的に記しています。

第二 初句にある3文字。類似歌は「(かぜ)のむた」、この歌は「(かぜ)をいたみ」であり、この両語句は同義ではありません。

第三 類似歌がおだやかな風のある叙景の歌であり、この歌は、強い風が吹く悲恋の状況を詠う恋の歌です。

第四 海女の日常の仕事の景に対し、異常時の海女の役割をこの歌は詠っています。

 

③ この歌は、類似歌とは異なる意の歌であり、恋の歌集という仮説をたてた『猿丸集』の歌となり、かつ第五の歌群の歌となりました。

④ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 次回は、3-4-22歌を検討します。

(2021/6/21  上村 朋)

付記1. 

1.巻十五の遣新羅使に関する歌群の検討

① 遣新羅使に関する歌群全体の配列を再確認する。(細分した)歌群の設定を試み、配列の特徴をみる。歌群を、各歌の題詞を第一として次いで左注によりに設定すると下表のとおり。その各歌群は、巻頭の題詞に従い、西本願寺本の目録の表記によって3分できる(下記A~C)。下表の「同左による分類」欄にその分類を示す。なお、分類Bは、題詞が「・・・作歌」及び題詞がなくて左注で作者名記載の歌の歌群と定義している。

A 各悲別贈答、

B 海路之上慟旅陳思作歌、

C 當所誦詠古歌

② さらに、歌本文についてその歌の内容から、「古歌・伝承歌・その言い換えの歌」か否かをおおよそ判定し、歌群ごとにそのような歌の有無を検討した(「古歌・伝承歌・その言い換え」欄)。有る場合はDと記している。

③ 配列から検討すると、類似歌の理解の前提として、前回(ブログ2018/7/2付け)での「題詞のもとで、それぞれ単独の歌」という理解は妥当であった。なお、題詞に関する考察を本文(「3.①~③」)に記す。

 

表 遣新羅使にかかる歌群の配列と(細分した)歌群の整理 (2021/6/15  21h 現在)

歌群となる歌番号

題詞

同左による分類

古歌・伝承歌・その言い換え

同左の理由・その他

3600~

3610

無し。左注に右十一首贈答

A

一部はDか

 

3611

無し。左注に右一首秦間満

B

すべてD

生駒山経由は既に古道 3722歌は竜田越えを詠む

3612

無し。左注に右一首暫還私家陳思

A

すべてD

生駒山経由は既に古道

3613~

  3615

無し。左注に右三首臨発之時作歌

B

すべてD

3613歌の「ころもでさむし」は季節が異なる。

3616~

  3623

無し。左注に右八首乗船入海路上作歌

B

一部はDか

3619歌で白波立つところに作者は居る

3624~

  3627

当所誦詠古歌 左注に詠雲または恋歌

C

すべてD

 

3628~

  3632

(当所誦詠古歌) 左注に人麻呂歌曰・・・とある

C

すべてD

 

3633

七夕歌一首 左注に人麻呂歌

C

すべてD

いつの使節団でも七夕時は人麻呂歌を朗詠するか

3634~

  3636

備後国・・・舶泊之夜作歌三首

B

一部はDか

旋頭歌は既に古風

3637~

  3638

風速浦舶泊之夜作歌二首

B

すべてD

3602歌などに両歌が呼応

3639~

  3643

安芸国・・・舶泊磯辺作歌五首

B

 

 

3644~

  3646

長門浦・・・仰観月光作歌三首

B

 

 

3647~

  3648

古挽歌一首 幷短歌

C

すべてD

 

3649~

  3651

属物発思歌一首 幷短歌

C

すべてD

船中で速やかに詠えたか

3652~

  3659

周防国・・・行之時作歌八首

B

一部はDか

全て舶泊しない島を詠う

3660~

3661

過大嶋鳴門・・・後追作歌二首

B

 

 

3662~

3665

熊毛浦舶泊之夜作歌四首

B

 

 

3666~

  3673

佐婆海中・・・是追怛艱難悽惆作歌八首

B

 

 

3674~

  3677

至筑紫館遥望本郷悽愴作歌四首

B

 

 

3678~

3680

七夕仰観天漢各陳所思作歌三首

B

 

人麻呂歌という七夕歌は行程にあわさないで別途記載

3681~

  3689

海辺望月作歌九首

B

 

 

3690~

  3695

筑前国・・・各陳心緒聊以裁歌六

B

 

 

3696~

  3702

引津亭舶泊之作歌七首

B

 

 

3703~

  3709

肥前国・・・遥望海浪各慟旅心作歌七首

B

一部はDか

娘子が詠う3682歌は土地の伝承歌

3710~

 3712

壱岐嶋・・・死去之時作歌一首 幷短歌

B

 

使節団員一人死去

3713~

  3715

無し。左注に右三首葛井連子老作挽歌

B

 

使節団員一人死去

3716~

  3718

無し。左注に右三首六鯖作挽歌

B

 

使節団員一人死去

3719~

3721

対馬・・・瞻望物華各陳慟心作歌三首

B

 

 

3722~

  3739

竹敷浦舶泊之時各陳心緒作歌十八首

B

 

 

3740~

  3744

廻来筑紫・・・到播磨国家嶋之時作歌五首

B

全てDか

 

A

2歌群

 

 

 

B

23歌群

 

 

 

C

5歌群

 

 

 

④ 一百四十五首は、分類Aの歌群から始まる。都を出発あるいは乗船前の家族・同僚の見送りとその返歌であり長歌はない。出発地は詠みこまれていない。目的地は最初から10首目に詠まれているだけである。

⑤ 分類Bの歌群の最初は、2-1-3611歌(作者は秦間満)であり乗船前の歌である。遣新羅使を送り出す公宴があり、送り出す側、派遣される側それぞれの歌の応酬があったはずであるが大使などの歌は記載されていない。親族のみの私的な送別宴の際の歌は、A分類の2-1-3600歌以下の十一首で構成される歌群に含まれているか。

⑥ 分類Bの歌群の三番目は、乗船後の最初の歌群であるが、すべて作者名の記載はない。天平8年遣新羅使では3613歌の「ころもでさむし」が季節違いであり、出港地が御津という表記の港かどうかも不明。

⑦ 分類Bの歌群で、大使の歌があるのは3歌群で5首のみ、副使の歌は1歌群で2首のみ、大判官の歌は4歌群で5首のみ、小判官の歌は1歌群で1首のみである。

 大使の歌がある歌群はつぎのとおり。

 2-1-3678~2-1-3680歌よりなる歌群:七夕仰観天漢各陳所思作歌三首  (1首:この歌群の最初の歌)

 2-1-3690~2-1-3695歌よりなる歌群:到筑前国志摩郡之韓亭舶泊経三日於時夜月之光高皎皎流照奄対此華旅情悽噎各陳心緒聊以裁歌六首  (1首:この歌群の最初の歌)

 2-1-3740~2-1-3744歌よりなる歌群:竹敷浦舶泊之時各陳心緒作歌十八首  (3首:この歌群の最初の歌ほか)

⑧ 分類Bの歌群で、2-1-3666~2-1-3673歌よりなる歌群「佐婆海中・・・是追怛艱難悽惆作歌八首」以降、「悽惆」、「旅情悽噎」、「慟心」と題詞にある歌群が増加する。B分類の歌群にはさらに2、3のグループがあるか。

⑨ 一百四十五首の配列は、歌群を単位として、最初に「古歌・伝承歌・その言い換えの歌」による都から乗船までの期間の歌群を置き、以後行程を追って歌群を配列するのが基本とみえる。

 そして安芸国長門の歌群の次からの3歌群、即ち、「古挽歌一首 幷短歌」と「属物発思歌一首 幷短歌」と(題詞だけからは行程順だが、歌にある地名・島は比定地が不確かな)「周防国玖河郡麻里布浦行之時作歌八首」が異質で行程順から外れているかにみえる。

 「古挽歌一首 幷短歌」は、望郷の心情の代弁としてこの長歌と短歌が朗詠された、とすれば、「(朗詠にあたって)どの位改変されて居るかも知りがたく、また原作も極めて拙劣な作」(土屋氏の評)をよく記憶していた、と思う。よく用いられる葬送の歌として知られていたのか。また、天平8年遣新羅使の行程では鶴はいない時節である。

 「属物発思歌一首 幷短歌」は、出港した御津から詠いだしている。事前に用意してきた歌を、宴の席で披露した歌か。

⑩ 作者が未詳の歌の作者について、諸氏に論がある。阿蘇氏は複数の団員とする論を支持し、土屋氏は下級の使節団団員の録事程度の者を想定し、このほか副使大伴三中とする論、及び一部の歌は団員外の大伴家持とする論がある。

 類似歌が含まれる歌群(2-1-3681歌以下の海辺望月作歌九首)の作者は、大使の次男1首、土師稲足1首、残りの7首は作者未詳歌である。そのうちの1首は古歌の2-1-2810歌を下敷きにしたため旋頭歌となっている。

⑪ 遣新羅使の大使の歌にはすべて題詞があり、その最初に配列されている。しかし、詠む機会のあるはずであるのに記載を優遇していない。大使の歌の最後の題詞である「竹敷浦舶泊之時各陳心緒作歌十八首」の歌の内容をみると、宿泊した筑紫館などで公宴が当然あったと想定できるが、大使や副使という主賓となる人物の歌(歓迎の答歌)はこれ以外の歌群にない。

⑫ このように、元資料は、遣新羅使という使節団の(歌に多少の心得のある)誰かのメモであって、大使などが記録を指示したとは思えないものである。朗詠した古歌は、初句程度の記録であったのではないか。

⑬ このため、行程のその都度朗詠された歌を、『萬葉集』巻十五の編纂者が歌群にまとめた感があり、以前のブログ(2018/7/2付け)での結論「各題詞単位に、その歌群で整合が取れている歌であればそれでよい」は、妥当である。

 

付記2.題詞「海辺望月作歌」のもとにある9首について

① 歌をみると、次のような歌の集合である。 

 浪に都の妻に思いをはせた歌  2-1-3682歌 

 秋風に都の妻を詠う歌  2-1-3681歌 2-1-3688歌

 鄙の海辺の地の生業を詠う歌 2-1-3683歌 2-1-3686歌 

 独り寝る自分を詠う歌  2-1-3684歌 2-1-3687歌 

 長旅に都の妻を詠う歌 2-1-3685歌 

 衣に都の妻を詠う歌 2-1-3689歌 

② 類似歌は、「鄙の海辺の地の生業を詠う歌」2首は、男と女をそれぞれ詠う歌である。類似歌は三句「いざりする」という語句の意味拡大をして用いるなどしたうえの机上の歌となっており、その意味で9首の中で独自性のある歌である。以前の結論は妥当である。

③ 9首についての『新編国歌大観』の『萬葉集』の訓はつぎのとおり。

 

 2-1-3681歌  あきかぜは ひにけにふきぬ わぎもこは いつとかわれを いはひまつらむ

      大使之第二男   

 2-1-3682歌  かむさぶる あらつのさきに よするなみ まなくやいもに こひわたるなむ 

      土師稲生      

 2-1-3683歌  かぜのむた よせくるなみに いざりする あまをとめらが ものすそねれぬ・・・(類似歌)   以下左注無しなので作者は、「未詳の作者」

 2-1-3684歌  あまのはら ふりさけみれば よぞふけにける よしゑやし ひとりぬるよは あけばあけぬとも  旋頭歌   

 2-1-3685歌  わたつみの おきつなはのり くるときと いもがまつらむ つきはへにつつ

 2-1-3686歌 しがのうらに いざりするあま あけくれば うらみこぐらし かじのおときこゆ 

 2-1-3687歌 いもをおもひ いのねらえぬに あかときの あさぎりごもり かりがねぞなく 

 2-1-3688歌 ゆふされば あきかぜさむし わぎもこが ときあらひごろも ゆきてはやきむ 

 2-1-3689歌 わがたびは ひさしくあらし このあがける いもがころもの あかつくみれば 

(付記終わり 2021/6/21  上村 朋)