わかたんかこれ 猿丸集その222恋歌確認28歌は「やま」にみる恋

 前回(2024/1/29)に引きつづき『猿丸集』歌の再確認をします。今回は第28歌です。

1.経緯

2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。12の歌群を想定し、3-4-27歌と3-4-28歌は、「第六 逆境深まる歌群」の歌群(2首 詞書2題)に整理している。3-4-27歌まですべて、類似歌とは異なる歌意の恋の歌(付記1.参照)であることを確認した、3-4-28歌の類似歌は『古今和歌集』の1-1-204歌である。

 歌は、『新編国歌大観』より引用する。

2.再考3-4-28歌 その1

① 3-4-28歌と直前の歌3-4-27歌は、前後の歌と違い、恋という人事を直接詠っていません。それでも3-4-27歌が恋の歌であったので、この歌も同音異義の語句により、同じく恋の歌となる、と予想できます。

 『猿丸集』の第28歌とその類似歌は次のとおり。

3-4-28歌  物へゆきけるみちに、ひぐらしのなきけるをききて

   ひぐらしのなきつるなへに日はくれぬとおもへばやまのかげにぞありける

 

3-4-28歌の類似歌  1-1-204歌   題しらず     よみ人知らず 

   ひぐらしのなきつるなへに日はくれぬと思ふは山のかげにぞありける  

 類似歌は、『古今和歌集』巻第四秋歌上にある歌です。この2首は、四句にある助詞(「ば」と「は」)が異なるだけです。

② 歌本文にある「やまのかげ」の「やま」については、『猿丸集』第51歌と第52歌の詞書の検討(ブログ2019/10/7付け及び同2019/11/4付けなど)における「やま」の理解を踏まえ、詞書にある助動詞「けり」に留意し、下記のように検討したところ、次の結果を得ました。

第一 「やまのかげ」の「やま」は、「屋+間」(建物と建物の間)の意である。また「かげ」は、「面影」の意である。「やまのかげ」を(牛車の)「輻(や)の間から確認したかげ」(ブログ2018/9/10付け「9.及び10.」)という理解は誤り。

第二 詞書にある「けり」は、気付きの気持ちの意を表しており、その気付いた内容から恋の歌となる。

 その恋の歌に見立てるには、第27歌と同様に、次の3つの要件によります。 

第一 暗喩が詞書や前後の歌との関連からも認められ、その暗喩によりこの歌を恋の歌と推測できる。

第二 恋の歌のタイプには、相手を恋い慕う歌、連れない態度を咎める歌、あるいは失恋中の心証風景の歌乃至一方の人の死によって終わった際に詠った歌がある。この歌は、そのいずれかに該当する。

第三 当然類似歌と歌意が異なること

 

③ 詞書より再確認します。

 3-4-27歌の詞書と対比した表をブログ2024/1/29付けより引用します。

表 3-4-27歌と3-4-28歌の詞書の比較 (2024/1/26現在)

詞書を構成する文の区分

3-4-27歌の詞書

3-4-28歌の詞書

文1

ものへゆきけるみちに

物へゆきけるみちに

文2

きりの

ひぐらし

文3

たちわたりける

なきけるをききて

 

共通にあるのは、文1は、すべてであり、文2は、助詞「の」、文3は、助動詞「けり」です。

 そして、異なるのは、「きりがたつ」と「ひぐらしがなく」という、得た情報の種類(視覚と聴覚)です。3-4-27歌は、その得た情報が、恋に関するなにかを示唆するか暗喩しており、恋の歌でした。題詞の文のパターンが同じなので3-4-28歌も同じようにその得た情報の示唆などにより、恋の歌である、と予想します。

 

④ 文1の「もの」とは「出向いてゆくべきところ」を莫として言います。

3-4-27歌と同様に、ゆくべきところ(外出の目的地)が文2以下の記述に関係していれば、文1は、特に名を秘すところに行く途中に、ということを意味します。そうでなければ、屋内ではなく外出中、という意だけです。

 作者がセミの「ひぐらし」の鳴き声を聞いた「みち」とは、海路ではなくて陸路の道です。

「けり」の意は、前回の3-4-27歌の検討時は、c「今まで気づかなかったり、見すごしたりしていた眼前の事実や、現在の事態から受ける感慨などに、はじめてはっと気づいた驚きや詠嘆の気持ちを表す。・・・なあ。・・・ことだ。」の意となり、3-4-27歌は「恋の歌」となったところです。

 3-4-28歌の詞書においても、同様の意と予想します。

 だから、詞書は、今鳴いたひぐらしの鳴声に気が付き、新しく何かを思いついたわけではないという場面であることを明確にしている、と理解してよい、と思います。

 なお、「けり」は歌本文の五句にも用いられています。

⑤ 次に、詞書にある「ひぐらし」とは、歌本文の初句にもありますが、セミの一種です。「なきける」が「鳴きける」の一意しかなく、「ひぐらし」は同音異義の語句ではなさそうです。

 オスの鳴き声は甲高く、標準的な聞きなしは「カナカナ」とされ、日の出前や日の入り後の薄明時によく鳴きますが、曇って薄暗くなった時、気温が下がった時、または林内の暗い区域などでは日中でも鳴きます。「日を暮れさせるもの」としてヒグラシの和名がついたそうです(ウィキペディアより)。

『世界大百科事典』によれば、「平地~1500mくらいの山地に広くみられ、薄暗い林中にすみ、特にスギ・ヒノキ植林地域に多い。おもに明け方と夕方に鳴くが、日中でも降雨前やガスが濃くかかったときにはよく鳴く。鳴き声は、高音でキキキ・・・、あるいはカナカナ・・・と聞こえ、カナカナなる別名がある」セミです。

⑥ 詞書の現代語訳を試みると、

「あるところへ陸路行く途中において、ヒグラシが鳴きだしたのであった(あのときのヒグラシをも思い出し)、聞きつつ(詠んだ歌)」

「けり」を重視して、歌本文に暗喩のあることとして提案したところです。

⑦ 次に、歌本文を検討します。いくつかの語句を最初に確認します。

初句にある「なきつる」とは、動詞「鳴く」の連用形+完了の助動詞「つ」の連体形」です。

 完了の助動詞には「ぬ」と「つ」があります。その違いは、「ぬ」が自然的作用を表す動詞(「暮る」とか「落つ」など)に付くのに対して、「つ」は意志的な動作を表す動詞(暮らすとか落とす)などに付く場合が多いこと、及び「ぬ」が状態の発生を表すという気持ちが強いのに対して、「つ」は動作・作用がそこで終わったこととかすでに終わったことという完了・終結を表す傾向が強い、という違いがあります(『例解古語辞典』)。

 二句にある「なへに」は、上代語の接続助詞です。それに伴って他のことが行われている意を表します(『例解古語辞典』)。このため、「なきつるなへに」とは,「鳴くことの完了とともに」が有力です。

⑧ 四句にある「おもへば」の動詞「おもふ」とは、「a心に思う」意のほか「bいとしく思う・愛する c心配する・憂える d回想する・なつかしむ f表情に出す・・・といった顔つきをする」意もあります(『例解古語辞典』)

 「おもへば」の「ば」は接続助詞であり、ここでは、「やまのかげ」をこの後に言い出しているので、「あとに述べる事がらの起こった、またはそれに気が付いた場合を表す接続語をつくる役割をもっている」、と考えられます。「おもへば」とは、「・・・思ったら」とか「思ったところが」の意が可能です。このほか、「あとに述べる事がらの起こる、または、そうなると考えられる、その原因・理由を表す接続語をつくる」場合もあります(同上)。

⑨ 類似歌の四句にある「思ふは」の「は」は、係助詞であり、付いた語句を主語・題目などとして取り立てる意があるので、「思ふは」とは、「・・・と思うことは」の意となります。

⑩ 次に、 四句~五句にまたがってある「やまのかげ」は、類似歌と同じ意であれば、「山の陰」となります。

 「やま」については、これとは別に「や」と「ま」の2語からなるとして、前回の検討(ブログ2018/9/10付け)時は、(牛車の)「輻の間」と理解したのですが、牛車に乗っている人物がそれを見るのは牛車の窓との関係で不可能なので、改めて検討します。

 「やま」の有力候補があります。第51歌と第52歌の詞書にある「やまにはな見に・・」の「やま」が、「屋間」(建物と建物の間)の意(ブログ2019/10/7付け及び同2019/11/4付け参照)であったことです(その検討は『猿丸集』は「すべての歌が恋の歌」という仮説検証を始める前の段階です)。

 この歌においても「や」は「屋・家・舎」(『例解古語辞典』)と漢字表記でき、「ま」は「際」(ある物の存在している空間・あたり・きわ)とか「間」(一つの物の間の空間・すきま)という漢字表記が可能(同上)です。

⑪ 2019年の検討時、歌における「ま」(際)の用例を提示をしていませんので、今回『萬葉集』と類似歌のある『古今和歌集』で確認します。

萬葉集』には、万葉仮名「際」を「ま」と訓んでいる例があります。

2-1-17歌(長歌)に、

「味酒 三輪乃山 青丹吉 奈良能山乃 山際 伊隠萬代 道隈 伊積流萬代尓 委曲毛 見管行武雄・・・ 」

 土屋文明氏の大意には、「うまさけ 三輪の山よ、あをによし 奈良の山の、山のあたりに隠れるまで 道の曲がり目の多く重なるまで、よくよく見ながら行かうものを ・・・」とあります。

2-1-484歌(長歌)に、

「・・・ 朝霧 髣髴為乍 山代乃 相楽山乃 山際 徃過奴礼婆 将云為便 将為便不知 ・・・」

 土屋氏の大意には、「・・・ 朝霧の如くにかすかになって、山城の相楽の山のほとりに亡くなって行ってしまはれたから、言ふべき手だても、為すべき手だても分からず ・・・」とあります。

 氏は、「山極」について、古写本に「やまのは」の訓あり、恐らく同義の語であらう。山と山のあひだとまで言はぬとも「山のほとり、山の輪郭の辺」位の意にとるべきであらう」と指摘しています。

⑫ 『古今和歌集』に、「際」の意で「ま」表記した歌はありませんでした。「やまのは」(山の端)表記(1-1-881歌と1-1-884歌)と「山のかひ」表記(1-1-54歌と1-1-1057歌と1-1-1067歌)はあります。

⑬ 次に、「かげ」とは、漢字表記が「影」であれば、「a光 b蔭法師 c水や鏡に映っている姿や形 d姿・形 e面影(おもかげ)」の意があります(『例解古語辞典』)。

 漢字表記が「陰」であれば、「a光の当たらない所 b物陰・さえぎられて見えない所 cかばい守ってくれること・恵み」の意があります(同上)。

 また、漢字表記が「蘿」であれば、「ひかげ」と同じ意であり「山地に自生する常緑多年草のひとつ。ヒカゲノカズラの意となります。

 これから、「やまのかげ」とは、恋の歌であれば、「屋の際の面影」という理解も可能となります。

 

⑭ では、歌本文を検討します。

 歌本文中の接続助詞「なへに」と「ば」、及び活用語の終止形や係り結びに注目すると、次のような文から歌本文は成る、といえます。文ごとの概要を付記します。「思ひ」は2意として詠まれているのではないか。

第一 ひぐらしのなきつるなへに : セミひぐらしが鳴いた。それとともに、

第二 日はくれぬ : 日が沈んで暗くなった あるいは、日が暮れることになる

第三 とおもへば : と「思ふ」が、ところが

第四 おもへば : 「思ふ」ものもあり

第五 やまのかげにぞありける :それは、「やまのかげ」であったなあ。

⑮ この歌は、ひぐらしの鳴き声という聴覚情報を得て(第一)、作者は「日はくれぬ」と判断したか、あるいは「日はくれぬ」ということになる、と判断しました(第二)。そして、それを、何らかの情報を更に得てかあるいは情報を得ずに思考した結果なのであるが(第三)、即座に思うのは(第四)、「やまのかげ」であるなあ(第四)、という歌ではないか。

 「おもふ」は同音異義の語句として用いており、初句から四句にある「おもへば」までの三つの文(では第一~第三)においては、「心に思う」意であり、重ねて四句にある「おもへば」から五句までの二つの文(上記では第四~第五)においては、「回想する・なつかしむ」意となっている、と言えます。

 歌の末尾の助動詞「けり」に留意したい、と思います。ひぐらしの鳴き声から連想ゲームで過去のある事がらに至ったのではないか。

 ものへ行く途次、ひぐらしの鳴き声を聞き「日が暮れた頃合い」という時間帯であれば、思い出すことが作者にはあるのだ、と言って詠ったのがこの歌ではないか。それがあのときの「やまのかげ」だと推測します。

 「やまのかげ」の理解から助動詞「けり」の意は、上記④での予想どおりcの意となるでしょう。

⑯  現代語訳をこころみると、次のとおり。

 「ひぐらしが鳴いた、(それを私は聞いた。)それとともに、日が沈んで暗くなった。と心に思うのと同時に私は回想する。あの屋敷に垣間見た面影が浮かぶなあ。」

 「やまのかげ」とは、「屋際の陰」、即ち「建物と建物の合間にみえる面影」と理解しました。

 第51歌と第52歌の詞書における「やま(に)」は、現代語訳(試案)では「建物と建物の間のところ(にゆき)」としたところです(ブログ2019/11/4付け「12.④」参照)。

 この理解であるならば、恋の相手とは少なくとも縁遠くなってしまっているものの諦めきれない気持ちがある男の歌となります。

3.類似歌の確認 その1 山の陰か

① 次に、類似歌(1-1-204歌)の再確認をします。

 1-1-204歌は、『古今和歌集』の部立て「秋上」に配列されています。「秋上」の歌に、秋の景物を指標として歌群設定を試みる(ブログ2018/9/3付け「4.」参照)と、この類似歌を含む歌群は「きりぎりす等虫に寄せる歌群(1-1-196歌~1-1-205歌)となります。そして、この歌群は対となる歌2首を順に配列し、かつすべて虫が鳴いている景の歌であり、鳴く虫が順次変わり、最後はひぐらしが鳴く2首となっています(ブログ2018/9/10付け「6.」参照)。

② このため、この配列からは、1-1-204歌の歌本文にある「ひぐらし」は「セミ」であり、「やまのかげ」は、「山の陰」という理解が妥当です。

 また、この配列において対となる2-1-205歌も、歌本文を見れば「ひぐらし」は「セミ」です。

 1-1-205歌      題しらず    よみ人しらず

     ひぐらしのなく山里のゆふぐれは風よりほかにとふ人もなし

 この2首の共通点は、夕方にセミが鳴いていることであり、対比しているのは、秋の景物である「ひぐらし」に寄せてある瞬間の出来事と、日数で数えるほどの長い時間に渡る出来事です。

 さらに、知的な遊戯の面が強い作詠態度と情に訴える作詠態度とが対比されています。また、男性官人の理知的な歌と女性の情緒を重視した恋の歌の対比も指摘できます。

③ そして、ブログ2018/9/10付け「8.」にある現代語訳(試案)は、建物内に作者がいる場合及び騎馬で外出時の場合と仮定した次の2案を得ました。

第一 建物内に作者がいる場合 :「ヒグラシが鳴くのだから同時に日が暮れたのだと判断したことは、誤りで、(庭に目に移すと、)日が山の陰に入ったからであった。」 

第二 騎馬で作者が外出している場合 :「ヒグラシが鳴くのだから同時に日が暮れたのだと判断したことは、(道を曲がると日があたったので気が付いたのだが)山の陰に私が居たからであった。」 

 そして、ここまでの『猿丸集』の歌が類似歌と異なる設定で詠まれていることに注目すると、作者の居る場所に関しては3-4-28歌の検討後に結論を得ても良い、と宿題になっています。(ブログ2018/9/10付け 「8.⑧」参照)

④ 上記の現代語訳(試案)2案は、ともに妥当な理解である、と思います。両案の理解を許せるから遊戯性の強い歌といえます。

 『猿丸集』の歌、即ち3-4-28歌は、「山の陰」を詠っていないなど、2-1-204歌とは異なる歌であり、互いに独立した歌なので、2-1-204歌の上記の2案並記のままの現代語訳(試案)でよい、と思います。

⑤ 諸氏の理解も、「ひぐらし」は「セミ」であり、「やまのかげ」は、「山の陰」というものであり、山の陰に入っていたのは、太陽か作者の何れかです。

 なお、「ひぐらし」を詠む2首が対になっており、類似歌2-1-204歌が恋の歌でないのがあきらかであり、2-1-205歌が恋の歌なので、類似歌と異なる歌意となる3-4-28歌が恋の歌である可能性が高まっています。

4.再考3-4-28歌 その2 恋の歌か

① これまでの『猿丸集』歌と当該類似歌で歌意が異なるのは同音異義の語句による場合が多くありました。この歌と類似歌にも同音異義の語句「やまのかげ」がありました。

 そしてここまでの検討で、類似歌の「やまのかげ」は、「山の陰」であり、この歌(3-4-28歌)は「屋+間(建物と建物の間)の面影」であり、現代語訳(試案)の結果も歌意が異なる歌となりました。これは恋の歌の要件第三(上記「2.②参照」)を満足しています。

② そして、現代語訳(試案)は、相手をまで恋慕う歌あるいは失恋中の心証風景の歌に該当すると思われ、要件第二も満足しています。

③ この歌の前後の題詞をみると、直前の題詞は、「第五の歌群 逆境の歌群」(3-4-19歌~3-4-26歌)と整理したうちの最後の題詞です。親たちに逢うことを禁止された状況下で詠んだ歌という趣旨の題詞であり、この題詞のもとにある6首の歌は、逢えない状況が続いている間の男から女への歌ばかりでした。

 この次の題詞は、(2018/9/17付けブログで行った前回の検討では)「昔の親密な関係に戻ることが確かになった時点の女の歌」とあります。歌群は「第七 乗り越える歌群」の最初の題詞です。

 この題詞の配列からは、この題詞は、恋の復活を願っている状況に対応したものである、と推測可能です。そして、歌本文もそのように理解が可能な歌でした。

 このため、恋の歌の要件第一も満足しています。

④ このように、3-4-28歌は恋の歌の要件すべてを満足しています。

 「第六 逆境深まる歌群」の歌群(2首 詞書2題)に整理した2首は、一見すると恋の歌らしくありませんでしたが、恋の歌でした。作者の性別を推測すると、一対の歌と捉えれば、今回検討した3-4-28歌の作者は、諦めていない男でしたので、3-4-17歌は諦めていない女ではないか。

 ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただき ありがとうございます。

 次回は、3-4-29歌を確認します。

(2024/2/5  上村 朋)

付記1.恋の歌の定義について

① 恋の当事者の歌に限らなくとも、広く「恋の心によせる歌」から『猿丸集』は成っており、その広く「恋の心によせる歌」を、「恋の歌」と名付け、ブログ2020/7/6付け「1.及び2.」で定義している。

② 『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義している。

第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと

第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと

③ 『猿丸集』は、編纂者によって部立てが設けられていない。勅撰集のように部立ての「恋」の定義を離れて、恋の歌の独自の定義が『猿丸集』歌には可能である。

(付記終わり  2024/2/5   上村 朋)