わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か ここに 萬葉集巻三配列その18

 前回(2022/8/15)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か このゆふへ 萬葉集巻三の配列その17」に続き、今回「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か ここに 萬葉集巻三の配列その18」と題して2-1-390歌を検討します。歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋) 

1.~29.承前

 『萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、各歌について判定した表E(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を得ました。そして、「関係分類A1~B」の歌30首は、天皇の代を意識した4つのグループに分かれました。それ以外の歌においても2-1-387歌まで各グループに分けられることを確認しました。

 各グループは天皇の代の順に配列されており、各筆頭歌は、2-1-235歌、2-1-290歌、2-1-315歌および2-1-378歌です。

30.「分類A1~B」以外の歌 2-1-390歌の歌本文 

① 今回は、同一の題詞のもとにある3首目の歌本文の検討です。

 題詞は、あらあらの検討がブログ2022/8/1付けで終わり、2-1-388歌と2-1-389歌のあらあらの検討もブログ2022/8/15付け及びブログ2022/8/22付けで行い、現代語訳の一試案も得ました。

 3首目は、次の歌です。

 2-1-390歌 仙柘枝歌三首

 古尓 梁打人乃 無有世伐 此間毛有益 柘之枝羽裳

 いにしへに やなうつひとの なくありせば ここにもあらまし つみのえだはも

(左注あり) 右一首若宮年魚麿作

 この歌は、字余りの歌で、五 七 六 八 七 の33音です。

 現代語訳例を2022/8/1付けブログ(「27.②」)に示しました。土屋文明氏と伊藤博氏の訳例です。両氏の訳例は、ともに、2-1-390歌の作中人物は、拾った柘(山桑)の小枝が仙女であるという僥倖を今に残してくれたらよかったのに、とその僥倖をうらやんでいる、と理解しています。伊藤氏の指摘するように、僥倖にあった人物(味稲(うましね))の成功を祝福しているのかもしれません。

 そして作者は、左注にある人物であると、両氏は認めています。

② 語句の検討をします。

 初句にある「古」(いにしへ)とは、「往(い)にし方」の意です。「過去」全般をさすことができますが、二句や五句にある語句から『柘枝伝』(しゃしでん)という説話(付記1.参照)が類推できますので、伝説となるほど昔のことを指している意となります。

 話し言葉としては、その場の話題に関する「いにしへ」と理解され特定の時点・時代や、過去に生じた特定の事柄をも指して用いられる語句です。当事者間では既定の事がらであり、この歌の作者とこの歌の披露を受けた人々には既知のものを指すことが可能な語句です。

 一方、二句にある「梁」を打つという漁法は、伝説の時代からこの歌が披露された時点以後も行われている漁法ですから、「やなうつ」人はどの時代にも(たとえ吉野山中だけとしても)大勢いました。五句にある「つみのえだ」が山桑の枝であれば、自生の樹木の枝であり、季節になれば風や動物によって生じています。共に一般名詞といえます。

 だから、この歌において「やなうつ」人を特定の時代の特定の人に限定するとすれば、『柘枝伝』(しゃしでん)という説話が当時流布されていますのでそれに登場する人物「味稲(うましね)」が有力です。ただし、あらあらの検討では、題詞からはそのように即断しかねました(付記2.参照)。

 さらに、2-1-389歌の「このゆふへ」と同じく、この歌を披露するきっかけとなるその場の話題に応じて「やなうつひと」を理解もできます。具体には『柘枝伝』から連想される味稲のような立場にいる(作者の時代の)特定の人物をも含意している場合もあり得ます。

 また、「つみのえだ」は、『柘枝伝』での仙女の化したものをさすとみるのが有力です。『柘枝伝』では、仙女は自らが化した「柘枝」を手にした味稲と夫婦になり、その後仙界に去っています。夫婦としては破局したことになります。味稲が子供を得たかは現在わかっている説話の範囲では不明です。ただ、去るにあたって、仙女は、味稲に特別に益するものを与えていることは確かです。そうでないと説話として伝える理由がない、と言えます。それも特別な経験です。

 このように、味稲は特別な経験をしているので、「やなうつひと」とは、その経験の意、即ち「仙女にあって夫婦になった人」あるいは「仙女にあって夫婦になったが捨てられた人」あるいは「仙女にあって特別なことを得たひと」の意の可能性もあります。 つまり、そのような特別な経験をしている人物は少ないのでその人物名でその特定の経験を指すことが可能です。

 整理すると、「(いにしへに)やひと」とは、具体的には、

第一 (昔々に)『柘枝伝』に登場する人物・味稲(うましね)そのひと

第二 (昔々に)『柘枝伝』に登場する人物・味稲のような立場にいる(今日の)人物

第三 (昔々に)『柘枝伝』に登場する人物・味稲の経験

を指している語句となります。

③ 三句「なくありせば」は、六音の句であり、作者としては力説している語句なのでしょう。以後の文の前提としての仮定を示しています。

 何が「無い」という状態か、というと、上記②のような3案がある「(いにしへに)やなうつひと」です。

 さて、三句「無有世伐」について、土屋氏らは、連語の「なかりせば」という訓に基づいています。語句分解すると、

 形容詞「なし」の連用形+過去の助動詞「き」の未然形+接続助詞「ば」

 あるいは、形容詞「無し」の連用形+サ変活用の動詞「す」の未然形+接続助詞「ば」

となる、とされています(ただ、語句分解の前者は私にはよく理解できません)。

 連語として「もしなかったならば」の意と『例解古語辞典』に説明されています。

 土屋氏も伊藤氏も、二句にある「やなうつひと」を『柘枝伝』という説話に登場する味稲そのひとに、そして五句にある「つみのえだ」は仙女の化したものに、限定した理解をしています。

 三句「なかりせば」を直訳すると、「(やなうつひとが)なかったならば」ということになります。「人物がない」を意訳すれば、「人物がいなかった(ならば)」となります(「なし」の意には下記に記すように「生存しない」意もあります)。

 結局両氏は、『柘枝伝』(しゃしでん)という説話に登場する味稲(うましね)を念頭においた歌、という理解となります。

④ ところで、『柘枝伝』は、仙女が、(資格を失い)また仙界に戻るため普通の人間の世界に来た説話です。もしも、味稲がその時「つみのえだ」を手にしなかったら、仙女はその目的を即座に諦めたのでしょうか。その目的のためには味稲のみに手に取ってもらうことが必要であったとしたら、味稲が手にとったのは仙女にとって何度かのチャレンジをした結果であった可能性もあります。

 仙界において、仙女でも仙人でも『柘枝伝』に登場する仙女のように普通の世界に下るような立場になることは、ままあることらしいので(似たような説話がいくつもあります)、作者が活躍している時代にも仙女の化した何かが、作者の周辺にあると期待してもよいかもしれません。

 このため、『柘枝伝』に登場する仙女を、作者が活躍している時代に出逢うことを願うよりも、単に『柘枝伝』に登場するような仙女に出逢いたい、と作者は願っている、と詠っているという可能性もあります。

 『柘枝伝』という説話は、仙女が時々普通の人々の世界に戻ってくることがある、という一例であるということが当時の官人の理解であったのではないか。

 吉野山以外にも、仙女の住む仙界を人々は想定していた(認めていた)と思います。

⑤ 今、三句は「なくありせば」と訓んでいます。字余りの六文字の句です。語句分解をすると、

 形容詞「無し」の連用形+ラ変動詞「あり」の連用形+サ変動詞「す」の未然形+接続助詞「ば」

となります。その意を『例解古語辞典』に求めると、次の表1が得られます。

表1 「なくありせば」の語句別の意

意の区分

 a

 b

 c

 d

 e

形容詞なし

(無し)

*存在しない。

*ない。

不在である。

いない。

(亡しとも記し)世にない。

生存しない。

*類がない。

*少ない

 

動詞あり

(有り・在り)

*ある。

*存在する。

その場に居合わせる。

*(時が)たつ。

*経過する。

 

 

動詞す

(為)

*行う。する。

(・・・の感じが)する。

*ある状態にならせる。

*ある状態におく。

*扱う。

*みなす。

*思う。

(・・・が)感じられる。

助詞ば

*もし・・・なら、

*・・・たら

 

 

 

 

 

⑥ この歌における各語句の意の候補を上げると、上表の*マークをつけた太字斜体の意となります。

 補足をします。

 上表の「無し」aの意は、基本的な意であろう、と思います。

 上表の「無し」bの意(「不在である」意)は、「ここにあらまし」と作者がこの歌において詠んでいるので伝説になっている人物「やなうつひと」の生きている時代の景を詠んでいないので、あり得ない、と思います。

 上表の「無し」cの意(「生存しない」意)は、この歌の作者が『柘枝伝』を認めているので味稲や仙女という概念を否定することになる意となり、あり得ない、と思います。

 上表の「無し」dの意(「類がない。少ない」の意)は、「やなうつひとの類い」、という表現の可能性があるか、と思います。

⑦ 次に、上表の「あり」の「意の区分a」は、「なし」の「意の区分a」と意が対となります。そうであると、「何かがなく、別の何かがあり」という理解をせざるを得ません。さもなくば、「何かがなく、そして(その状況が今も)「あり」」ということを詠っていると理解でき、「あり」は「意の区分c」、即ち「(時が)たつ。経過する」意と考えられます。

 この歌は、『柘枝伝』を前提にしてよいので、「あり」の「意の区分a」の場合であれば、「何かがなく、別の何かがあり」とは、「やなうつひとが居らず、つみのえだがあり」という理解が第一候補になります。

 「あり」の「意の区分c」の場合であれば、「やなうつちひとがいない状況のまま時が経過し」という理解が妥当です。

 また、「あり」の「意の区分a」の場合には、上表の「す」も「何か」を省いた表現が続いている可能性があります。つまり、『柘枝伝』を前提に「それ(つみのえだ)を流すこと)を「す」」と言っているという理解が第一候補となります。そのため、 「す」は、「意の区分a」が該当します。同様に「意の区分c」も可能性は否定できません。

 そして、『柘枝伝』 では「つみのえだ」は流れてきたので、そのような状態にある「つみのえだ」とみなす、という理解も可能です。即ち、「す」の「意の区分d」も該当します。

 次に、「あり」の「意の区分c」の場合の「す」は、、『柘枝伝』を前提にすると、「意の区分c」でも可能ではないか。即ち、「やなうつひとがいない状況のまま時が経過しという状態におく(ならせる)」となり、「やなうつひとがいない状況が今日まで続いている」ことを指している、ことになります。そして、「す」は、「意の区分d」も該当可能です。

⑧ このため、「(やなうつひとの)なくありせば」の意の候補を作成すると、『柘枝伝』を前提にして次の表2のような案が出来ます。

表2 「(やなうつひとの)なくありせば」の意の(案)

(案)の区分

「なく+あり+せ+ば」の意の組合せ

直訳の現代語訳の例

第11案

a+a+a+a

もし、(やなうつひとの)存在してなく(そしてつみのえだの)あり(それを)流すとすれば

第12案

a+a+c+a

もし、(やなうつひとの)存在してなく(そしてつみのえだの)ありという状態におくとすれば

第13案

a+a+d+a

もし、(やなうつひとの)存在してなく(そしてつみのえだの)ありとみなすとすれば

第14案

a+c+a+a

もし、(やなうつひとの)存在してなく時がたち(何かを)行うとすれば

第15案

a+c+c+a

もし、(やなうつひとの)存在してなく時がたつという状態になっているとすれば

第16案

a+c+d+a

もし、(やなうつひとの)存在してなく時がたつとみなすとすれば

第21案

d+a+a+a

もし、(やなうつひとの)類が少なく(そしてつみのえだの)あり(何かを)行うとすれば

第22案

d+a+c+a

もし、(やなうつひとの)類が少なく(そしてつみのえだの)ありという状態におくとすれば

第23案

d+a+d+a

もし、(やなうつひとの)類が少なく(そしてつみのえだの)ありとみなすとすれば

第24案

d+c+a+a

もし、(やなうつひとの)類が少なく時がたち(何かを)行うとすれば

第25案

d+c+c+a

もし、(やなうつひとの)類が少なく時がたちという状態におくとすれば

第26案

d+c+d+a

もし、(やなうつひとの)類が少なく時がたち、とみなすとすれば

 表2の各案は、『柘枝伝』の説話が前提に詠まれている歌の一部です。

 このため、「やなうつひと」という類型化された表現ですが、『柘枝伝』の登場人物味稲を指すのが第一候補となります。

 『柘枝伝』の登場人物である仙女は直接表現されていませんが今日知られている『柘枝伝』では、固有の名を持っていない仙女であり、時々この世界に仙女はきている、という状況になります。

 この世界にきた仙女は誰かと共に過ごす必要があったとすれば、味稲の居る時代ではない時代にこの世界に来たとしたら、どうなるか、という仮定をおいたのが、「(やなをうつの)なく(、かつ、)ありせば」という仮定ではないか。

 そうすると、表の第11案~第13案と第21案~第23案は、それに対応した理解といえます。第14案~第16案と第24案~第26案も上記の仮定に応えていますが、省略のより大きい案といえます。

 どの案が有力なのか、はこの歌のほかの語句との関係によります。

⑨ 次に、四句「ここにあらまし」も字余りの句です。

 「ここ」とは、代名詞であり、近称のほか自称や対称の意もあります(『例解古語辞典』)。

 第一 近称。話し手に最も近い所。または、話し手のいる場所を表す。この所。

 第二 近称。話し手に近い事物を表す。このこと。この点。

 第三 「ここに」という言い方で、自称。わたし。

 第四 「ここに」という言い方で、対称。あなた。こちら。

 第五 「ここに」という言い方で、他称、尊敬の意を含む。こちらのおかた。こちら。

 「あらまし」の「あら」は、助動詞「まし」が活用語の未然形に付くので、ラ変活用の動詞「あり」ということになります。「あり」の意は、上記⑤の表1のとおりです。

⑩ 四句「ここにあらまし」の「まし」の意は、次のとおり(『例解古語辞典』)。

 「まし」は、ある現実・事実を前提として、もしそうでなかったらという反現実・反事実の条件を仮設して想像しています。そのため、

第一 (条件となる句を、未然形に付く助動詞「ば」で示し)現実の事態に対し、そうならないために必要であった反対の事がらや、実現不可能な事がらを、敢えて、新たな条件として想定し、その場合は、現実とは違うこのような事態となっていただろう、と推量の意を表す。また、現実の事態に対する後悔・不満・安堵などの心情を託して用いられることも多い。もし・・・だったら・・・だろう。

第二 現実の不満足な事態に対し、上記と同様に新たに想定した条件となる事がらを提示して、その実現を強く願う気持ちを表す。もし・・・だったらよかったのに。

第三 疑問の副詞、または係助詞「や」とともに用いて、話し手がある事態に直面し、どうしたものかと迷ったり、ためらったりしている気持ちを表す。・・・うかしら。

ここでは、前句の「なくありせば」の「ば」で前提条件が示されています。「ば」の前の語句すべて(「やなうつひとのなかりせ」)が前提条件と見るのが常識的な理解となりますが、五句「つみのえだはも」を考慮すると、「せ」一字が前提条件となっているとする理解も可能かもしれません。

 その前提条件は、『柘枝伝』を前提として検討すると、『柘枝伝』の説話は空想と承知しているものの、そのような(この世では)実現不可能な事がらを、敢えて、改めて新たな条件としてこの歌を詠いだしている、とみることができます。

 この前提条件は、現実の不満足な事態に対する新たな条件ではない、と思えます。

 なお、「あらまし」は連語として古語辞典では立項しており、「事実とは異なる状態を想像して、そうあったらよいのに、という気持ちを表す」語句と説明されています。

⑪ 次に、五句「つみのえだはも」を検討します。

 「つみのえだ」とは、『柘枝伝』が前提なので、味稲と夫婦になった仙女を意味するのではないか。あるいは、味稲にとって特別な経験を与えてくれたことを意味するのかもしれません。

また、「つみのえだはも」は、

 動詞「つむ」の連用形(名詞化)+助詞「の」+名詞「えだ」+連語「はも」

と語句分解もできますので、四段活用の動詞「つむ」の意を確認しておきます。

 抓む:aつまむ bつねる。

 摘む:(食物の芽などを)指先ではさんでとる。つみとる。

 積む:a積る。たまる。b積み重ねる。cなどなど。

 そうすると、「つみのえだ」とは、「山桑の枝」のほかに、「摘むことができる枝」の意もあり得ることになります。「枝」とは、「幹」と一対となる語句です。

漢字「枝」には、ブログ2022/8/1付けの「25.⑧」に記したように、木の幹から別れ出た部分をいう「えだ」の意のほかに「分家」の意もあります。そして題詞を検討して、題詞の理解として「『柘枝伝』を念頭におかない(「柘枝」を伝説での人名とみない)で作文された題詞とみる案」も候補(同ブログ「25.⑬」)となりました。それに対応可能な五句の理解となります。

⑫ 五句「つみのえだはも」にある「はも」に2意あります。

ひとつは、係助詞の連語であり、上代語のみの意として、「上接の語句を、「は」でとり立て、「も」で詠嘆の気持ちを表す。・・・はまあ。」

もうひとつは、終助詞の連語として、「強い感動・詠嘆を表す。・・・よ。・・・なあ。・・・はなあ。」の意があります。

ともに、特に回想したり惜しんだりする気持ちを含むことが多いのだそうです。そうであると、この歌は、ある事がらを振り返って詠んでいる歌となります。その事がらは、『柘枝伝』を前提にしてこの歌を詠むことになった時点(2-1-390歌の元資料が詠まれた時点)の直前に生じたことが想像できます。

⑬ ところで、「やなうつひと」には、3案ありました。表2の第11案を例にして、あらあらの検討をして、この歌が前提条件としていることを整理してみたい、と思います。

「(いにしへに)やなうつひと」とは、

第一 (昔々に)『柘枝伝』に登場する人物・味稲(うましね)そのひと

第二 (昔々に)『柘枝伝』に登場する人物・味稲のような立場にいる(今日の)人物

第三 (昔々に)『柘枝伝』に登場する人物・味稲の経験

の意が候補となりました(上記②)。

 それに対応する初句~三句の現代語訳を試みると、

 第111案 「もし(昔々に、やなうつひと味稲が居らず(そしてつみのえだ)があり、(それを)流すとすれば」

 第112案 「もし、(昔々に、やなをうったという味稲のような立場にいる人物が(今日現在には)居らず(そしてつみのえだ)があり、(それを)流すとすれば」

 第113案 「もし、(昔々の)やなうつひと味稲のような経験が)なく、(そして『柘枝伝』の説話に沿ったつみのえだ)があり、(それを)流すとすれば」

 これが、『柘枝伝』を前提とした四句以下の前提条件なので、素直な第111案が有力である、と思います。

 更に、この歌の披露された席の話題について詠われたとすれば、あるいは歌全体に暗喩があるとすれば、第112案のほうが第一候補となります。

 初句(いにしへに)は、このように、「やなうつひと」が味稲という固有の人物名の代名詞であるとことに限定し、「つみのえだ」が何かの代名詞であることを示唆している、といえます。

⑭ 上記のような語句の意を踏まえ、題詞(付記2.参照)のもとにある歌本文として、主語述語に気を付けて、文の構成をみてみます。第111案と第112案を仮置きして検討します。

 文A いにしへに : 「昔々に」

  助詞「ば」以前の文(初句~三句)の検討(上記⑬)で、味稲の時代を指している、と限定できました。

 文B やなうつひとの なく : 

 第111案 「もし、やなうつひと味稲が居なかった(そして)」

  あるいは、

  「もしも、(『柘枝伝』に伝えられる)梁打つ人味稲が、居なくて(そして)、」

 

 第112案 「もしも、やなをうったという味稲のような立場にいる人物が(今日現在には)居らず(そして)」

   あるいは、

     「もしも、(『柘枝伝』に伝えられる)梁打つ人味稲のような人物が、今日(現在)居なかった、」

 

  文C (なく)ありせば :

   「(そしてつみのえだ)があり、それを上流から流す(あるいは流れてくる)とすれば」

 文D ここにもあらまし: 「ここに」の理解が分れ2案あります(上記⑨)。

 「今日(現在)この所にも(つみのえだは)あるのだろうなあ(、と安堵しつつ私は思う。)。」 

(「ここ」は、「この所」という「意の区分第一」の意)

     (別案)「貴方も(そこに)居合わせたのだからなあ、(と安堵しつつ私は思う。)」

(「ここ」は、「ここに」で「対称、あなた」という「意の区分第四」の意。かつ「あらまし」の「あり」の意は、「その場に居合わせる」という「意の区分b」の意ではないか。)

 文E つみのえだはも:「つみのえだ」の理解に2案あります(上記⑪)。

 「その「つみのえだ」よなあ。(それは、感動的だった、と私は思う)」。

「はも」は終助詞。「つみのえだ」は、「桑の木の枝」の意。)

   (別案)「摘むことのできる「つみのえだ」は、まあ(それは、感嘆に値する、と私は思う)」。

「はも」は終助詞。「つみのえだ」は、「分家筋のあなた」の意。)

⑮ このように整理してくると、四句にある「ここに」の理解により歌の意がだいぶ変ることが分かります。

 『柘枝伝』に題をとったかにみえて全然違う内容の理解が可能になっています。

 第111案と第112案で歌全体の現代語訳を試みます。

第1111案 「もし,昔々に、やなうつひと味稲が居らず(そしてつみのえだ)があり、(それを)流すとすれば(それが流れてきたらば)、今日(現在)この所にも(つみのえだは)あるのだろうなあ(、と安堵しつつ私は思う。)その「つみのえだ」よなあ(それは、感動的だった、と私は思う)。」

 この場合、「つみのえだ」は、特別な幸運か。

第1112案(別案採用の案) 「もし、昔々に、やなうつひと味稲が居らず(そしてつみのえだ)があり、(それを)流すとすれば(それが流れてきたらば)、貴方も(そこに)居合わせたのだからなあ、(と安堵しつつ私は思う。)「摘むことのできる「つみのえだ」は、まあ(それは、感嘆に値する、と私は思う)。」

 この場合、「つみのえだ」は、「分家筋のあなた)の意。

 

第1121案 「もしも、昔々に、やなをうったという味稲のような立場にいる人物が(今日現在には)居らず(そして)つみのえだがあり、それを流すとすれば(それが流れてきたらば)、今日(現在)この所にも(つみのえだは)あるのだろうなあ(、と安堵しつつ私は思う)。その「つみのえだ」よなあ(それは、感動的だった、と私は思う)。」

 この場合、「つみのえだ」は、特別な幸運か。

第1122案(別案採用の案) 「もし、昔々に、やなをうったという味稲のような立場にいる人物が(今日現在には)居らず(そして)つみのえだがあり、それを流すとすれば(それが流れてきたらば)、貴方も(そこに)居合わせたのだからなあ、(と安堵しつつ私は思う。) 「摘むことのできる「つみのえだ」は、まあ(それは、感嘆に値する、と私は思う)。」

 この場合、「つみのえだ」は、「分家筋のあなた)の意。

 

⑯ さらに歌の意を限定するには、題詞とそのもとにある3首を有機的に理解したほうがよい。また、巻三の雑歌に配列されている理由の解明もこれからです。

 そして、この歌に暗喩があるとすれば、同じ題詞のもとにある2-1-388歌の二句にある「吉志美我高嶺」(きしみがたけ」は、初めから抽象化した山として詠まれていた可能性(2022/8/15付けブログの「28.⑧の第三案」)が強いのではないか。2-1-388歌が雑歌に配列されている理由がこの山にあるのかもしれません。

 それらを、次回検討します。

⑰ なお、この歌の作者は、漢文の教養があり(漢文で記された)『柘枝伝』を読むことが出来る人物ではないか、と想像します。二句にわたり字余りのあるこの歌は伝承歌ではないでしょう。

 この歌には左注があり、作者名を記していますが、上記に該当する人物かどうかは不明です。その名は、このほか、『萬葉集』では巻八の2首(2-1-1433&1434長歌反歌)の左注にも「若宮年魚麿誦之」とあります。

 巻三編纂者が、ここまでの歌においては、自ら注をしていないと仮定して配列と題詞と歌本文が理解出来てきましたので、この歌の理解にも考慮していません。

 「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を、ご覧いただき、ありがとうございます。 

(2022/9/5  上村 朋)

付記1.『柘枝伝』について

① ブログ2022/8/1付けブログ(「26.⑧以下」)で検討した。

② 現在わかっている内容は次のとおり。『懐風藻』の7詩の句に詠われていることからの推測である。

また、不老不死の仙人・仙女という人物がこの世に一旦来て去るという発想は、中国渡来のものであるので、それがこの説話の基本にあるとみて、もと居たところに還っていった、という私の推測が加わっている。

「吉野の人味稲(うましね)が川で、吉野山中にいる仙女が姿を変えていた柘の枝を拾い持ち帰ったところ女に化し一旦は妻になって二人は楽しく暮らした(がその後仙女はもと居たところに還っていった)、ということを語っていると思われる伝説」

③ 仙女の立場からみると、何らかの理由で仙界から追放された仙女が、人間界においてその償いか修行をして戻って行った、ということになる。償い・修行そのものは、人間界にとってはプラスに働いたこと(あるいは人間次第でプラスになること)なので、人間界では僥倖の一例として語り継がれてきた、ということになる。

④ 補足すると、これは、儒教の善を成さず悪をなせば、仙女たる資格を失う(という仙人の位にいる)のが『柘枝伝』の仙女、という理解である。

 仙人は、仙術を操って普通の人間を助ける、仙界にいる(もともとは人間であった)存在、とすれば、味稲は、助けるに値する人物と仙女は知っていたことになる。そのような理解でも味稲は「特別な経験」をした人物であるので、本文における2-1-390歌の理解は通じる。

付記2.2-1-390歌の題詞について

① ブログ2022/8/1付けブログの「26.」で検討した。2-1-388歌から2-1-390歌に共通の題詞である。

② 大別2案ある。

第一 『柘枝伝』を念頭において作文された題詞とみる案。例えば、

 「仙女である柘枝の(あるいは、に関する)歌 三首」

  第二 『柘枝伝』を念頭におかない(「柘枝」を伝説での人名とみない)で作文された題詞とみる案。

 例えば、「仙」は、「天子に関する事物につけていう語句」の意、「仙枝」は、「聖なる樹木の枝あるは聖なる分家」の意とすると、

「天子に関する山桑の枝(分家)の(あるいは、に関する)歌」

また、例えば、「仙」は、「すぐれている、とうとい」の意、「枝」は、「樹木の枝又は分家」の意とすると、

「すぐれている山桑の枝(分家)の(あるいは、に関する)歌 (「分家」で意訳をすれば、「優れている血脈につながる分家の(あるいは、に関する)歌」)」

など。

③ 題詞に暗喩があるので、この題詞のもとにある3首の歌の理解とあわせた検討が必要であり、ブログ2022/8/1付けブログでは後日行うこととしている。

(付記終わり 2022/9/5   上村 朋)