わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌第20歌 かけねばくるし

 前回(2021/6/7)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 同音意義の語句」と題して記しました。

 今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌第20歌 かけねばくるし」と題して、記します。(上村 朋)

 

1.~42.承前

 (2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。前回3-4-19歌について詞書を仮訳し、歌本文を含めて同音異義の語句を検討した。初句にある「たまだすき」は、1-1-1-1037歌と同様、たすきによって対象物が自由を制限されているイメージが候補のひとつである。 なお、この詞書のもとに2首ある。また、この2首は「第五の歌群 逆境の歌群」に含まれるはずである。

3-4-19歌  おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを

    たまだすきかけねばくるしかけたればつけて見まくのほしき君かも

類似歌 2-1-3005歌     寄物陳思

玉手次 不懸者辛苦 懸垂者 続手見巻之 欲寸君可毛

たまたすき かけねばくるし かけたれば つぎてみまくの ほしききみかも

 

3-4-20歌 (詞書なし:3-4-19歌のもとにある歌となる)

ゆふづくよさすやをかべのまつのはのいつともしらぬこひもするかな 

 

類似歌 1-1-490歌    題しらず  よみ人知らず

    ゆふづく夜さすやをかべの松のはのいつともわかぬこひもするかな

 

 なお、『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義している。

 第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

 第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

 第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと 

 第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと )

 

43.3-4-19歌の歌本文の再考 その2

① 詞書については、2021/6/7付けブログで、

 第一に、親などが、娘に対して行動の制限を課したこと

 第二に、娘は、それに従わざるを得ないと覚悟していること

 第三に、娘は、そのような制限に不満があるらしいこと

の3点を明らかにしていると指摘しました(付記1.①参照)。最後の語句「いみじきを」が何を評しているのかは、この詞書のもとにある歌二首の本文との突合せが必要であり、歌本文の現代語訳を検討して後、改めて詞書を確認することとしました。

② 3-4-19歌本文は、類似歌を参考にして、次のような文が順にならんでいる、とみることが出来ます。

 文A たまだすき かけねば  (文Bの前提条件の文)

 文B (それは)くるし。

 文C (それを・が)かけたれば   (文Aと対句 文Dの前提条件の文)

 文D (それは)つけてみまく

 文E (みまくの)ほしき君かも。 (文A~文B、及び文C~文Dという二つの事例の行き着く先を示す文あるいはこれらの事例の根拠の文)

 活用語の已然形につく接続助詞「ば」によって二つの事柄(文A~文B、及び文C~文D)を対比し、文Eを強調した構造です。

 この歌で、作中人物の言いたいことは、類似歌と同じく、文Eの「ほしき君かも」であろう、と思います。恋の歌であるならば、恋情の変わらぬことを訴えている歌ではないか。

 歌の理解は、大別して、

 文A~文Bは、「たまだすき」に関して甲ではないので苦しい、文C~文Dは、(当然「たまだすき」に関して)甲であれば、見たい

 あるいは

 文A~文Bは、「たまだすき」に関して甲ではないので苦しい、文C~文Dは、(同時にそれとは直接関係ないものに関して)乙であれば、見たい

のどちらかになります。

③ 初句「たまだすき」を中心に検討を続けます。

 詞書によれば、娘は親などに「とりこめ」られています。このため、「とりこめ」られていることから詠いだしているとすれば、「とりこめられている情景」を「たまだすき(かく)」(又はその否定形)と表現したのではないか(娘の関心1)、と推測できます。その場合の現代語訳(試案)2例を、前回示しました(付記1.②参照)。

④ あるいは、「とりこめ」られた結果生じた重要なことから詠いだしているとすれば、「取り込められて生じてしまった娘とその相手との関係」を「たまだすき(かく)」(又はその否定形)と表現したのではないか(娘の関心2)、とも推測できます。その場合、例えば、上記③の2例と同様に「かく」を「たすきを身に着ける」(「bかく」:付記2.参照。以下同じ)とすると、

 文Aたまだすき かけねば:たすきを掛けないことになると

  (貴方と、結ばれないとなれば)

 文B(それは)くるし。:それは私にとり、きにかかる。

 文C(それを・が)かけたれば : もし、十字にたすきを掛けたとすれば

  (これからもたすきのように結ばれたら)

 文D (それは)つけてみまく:心をよせて、妻になって

 文E (みまくの)ほしき君かも。:みたいと思う貴方なのです。

と、「たすき」は「紐が十字の形に結ばれて、一体感のイメージ」を与えることになります。「たすき」の意として想定した範疇(「cた」)の歌という理解ができますが、上記①のような3-4-19歌の詞書は、無駄になってしまっています。

 「かく」を「欠く」(「cかく」)と理解したとすると、

 文Aたまだすき かけねば:たすきが欠けないことになると

  (たすきに結ばれている貴方が、欠けないとなれば)

 文B(それは)くるし。:それは私にとり、苦しいことである。

  (親の制約で私は行動できないのだから、つらいことです。)

 文C(それを・が)かけたれば : もし、たすきが欠けたならば

  (貴方がいなくなるならば)

 文D (それは)つけてみまく:ぬかづいて見ることが

 文E (みまくの)ほしき君かも。:叶うならばと思う貴方なのです。

 このような理解でも、丁寧な詞書が無用の歌となってしまいます。上記①のような詞書の許における3-4-19歌の理解としては不適切である、と思います。

⑤ そして、このような理解は、「たすき」が結びつけるもの、というイメージ、すなわち、紐が十字の形に結ばれていれば、一体感のイメージ(俗語のたすきから)「cた」のイメージが当時あった、ということを証明しなければなりませんが、和歌や物語の地の文に用例が見つかりません。

 この2例のような娘の関心2からの理解をしなくとも、作中人物が相手に抱く思いは娘の関心1で難なく相手に理解できます。

 このため、娘の関心1でこの歌は詠われている、と思います。

⑥ なお、初句「たまだすき」を枕詞と割り切れば、土屋氏が示した類似歌の、

 「 タマダスキ(枕詞) 心に掛けなければ苦しい。又掛けて居ればそれにつづけて見たく願はれる妹であるかな。」という現代語訳をベースに

 「タマダスキ(枕詞) 心に掛けなければ苦しい。又掛けて居ればぬかずいて見たく願はれる妹であるかな。」という訳が得られますが、3-4-19歌の詞書は不用の歌となります。これでは、3-4-19歌の現代語訳とは言えません。

⑦ 次に、娘の関心1で「かく」を「欠く」意で現代語訳を試みると、次のようになります。

 文Aたまだすき かけねば:たすきが欠けないならば

  (私の行動が制限されることになれば、あるいは親たちの制止が続くならば)

 文B(それは)くるし。:私は精神的に苦しい(貴方のことがきにかかる)。

 文C(それを)かけたれば : たすきが欠けたたらば

  (私の行動が自由になれば、あるいは、親たちの制止が解けたならば、)

 文D (それは)つけてみまく:(心を)よせて、仰ぎ見たいと(あるいは妻になりたいと)

 文E (みまくの)ほしき君かも。:そう思う貴方なのですよ(それなのに、私の行動は制限されてしまうなんて)。

(現代語訳(試案)第3案)

 この理解は、初句の「たまだすき」を「(たすきという紐の)対象物が自由を制限されているイメージ」(たa)とした場合になり、「かく」を「欠く」と理解しても、詞書にいう「親などが、娘に対して行動の制限を課したこと」という事情を踏まえた歌ということになっています。3-4-19歌の理解として妥当なものの一つである、と思います。

 3-4-19歌は、このようにその詞書のもとでいくつかの理解が可能となってしまう歌です。

⑧ これらの現代語訳(試案)第1~3案は、親の制止にあっても、相手への強い思いを詠っている歌と理解できます。

 五句にある終助詞「かも」は、詠嘆をこめた疑問文をつくるのではなく、感動文を作っているのではないか、と思えます。これらから1案に絞るヒントは、同じ詞書の二首目の歌3-4-20歌にあるのではないか、と思います。

 なお、初句の「たまだすき」を、紐が結ばれず単に十字に懸け違っていて、感情の行き違いなどのイメージ(たd)では3-4-19歌としての理解ができませんでした。

44.3-4-20歌再考

① 『猿丸集』の次の歌を、再掲します。

3-4-20歌 (詞書なし:3-4-19歌のもとにある歌となる)

   ゆふづくよさすやをかべのまつのはのいつともしらぬこひもするかな 

 

類似歌 1-1-490歌   題しらず  よみ人知らず

   ゆふづく夜さすやをかべの松のはのいつともわかぬこひもするかな

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、この二つの歌は、四句の2文字が異なります。また、詞書が異なります。

 類似歌1-1-490歌は、『古今和歌集』巻第十一 恋歌一にある歌であり、まだ逢っていない(返歌ももらっていない)時点の歌です。その配列については、2018/6/25付けブログでの検討だけでは不十分であり、『猿丸集』の第52歌の類似歌(1-1-520歌)の検討の際、『古今和歌集』の恋一の部全歌の配列検討時に行いました(2019/10/14付けブログ参照)。

 その結果、恋一は、奇数番号と次の偶数番号の歌が対の歌として配列されており、この歌は、恋一に編纂者が設けたであろう9歌群の三番目「苦しみが始まる歌群」(10首)に配列され、1-1-489歌と対となるように置かれている歌、と理解できました。

 この2首は、「恋ぬ日はなし」という歌の主題で、詠う景を田子の浦の浪とその周辺の浜の松にとり、「不逢恋」の歌としてつのる恋情を詠っています(歌群は鈴木宏子氏と同じように物象より心象を第一として設定されている、とみています)。2018/6/25付けブログでそれぞれ独立の歌として理解してよい、としましたが、1-1-489歌と対の歌である、と訂正します。

③ 類似歌の現代語訳例を示します。

「(夕月が照らす岡辺に生えている常緑の松の葉のように)いつとも区別のできないような恋をもすることであるよ。」 (久曾神氏) 

「夕月の光が、あれ、あのようにさしている、あの岡のほとりの松の葉の(色の)いつとも区別しない――そんな恋もすることよなあ。」(竹岡正夫氏)

 竹岡氏は、四句「いつともわかぬ」が掛詞となって、景から情に転換する契点となっている、と指摘しています。これらの訳例は、1-1-489歌と違和感がありません。

④ 2018/6/25付けブログで、その時理解した詞書に留意し、現代語訳を試みたのがつぎの試案です(同ブログ「10.」参照)。

 「夕月が輝きその光が降り注いでいる岡のあたりの松の葉が、いつも変わらぬ色をしているように、「たまだすき」は変らないのに、(実現が)何時とも分からないことを親どもはいうものなのだなあ。」

⑤ 今回上記「43.①」のように理解した詞書のもとにある歌として改めて検討します。

 3-4-20歌の初句~三句は、類似歌と同じく、四句の序詞となっています。

 四句にある動詞「しる」が類似歌の「わく」と異なります。しかし、四句が掛詞となって、景から情に転換する契点となっているのは竹岡氏の指摘する類似歌と同じであり、四句「いつともしらぬ」とは、

 名詞「一」+連語「とも」+動詞「知る」の未然形+打消しの助動詞「ず」の連体形

でもあるのではないか。

 五句「こひもするかな」の「こひ」は、前回同様動詞「乞ふ」の名詞化と理解できます。五句は、「おやどもがせいす」ことを指します。「乞い(無理な禁止令)を親はするものだなあ」、の意です。

⑥ 現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 「夕月が輝きその光が降り注いでいる岡のあたりの松の葉が、いつも変わらぬ色をしているように、私たちは変わることのない一つの状態になっているのを知らずに、無理なことを親どもはいうものなのだなあ。」(3-4-20歌第一案)

 この理解であれば、詞書に従った恋の歌となりました。

 また、四句を「何時ともしらぬ」という理解でも

 「夕月が輝きその光が降り注いでいる岡のあたりの松の葉が、いつも変わらぬ色をしているように、(実現が)何時ともわからない無理なことを親どもはいうものなのだなあ。」(3-4-20歌第二案)

となり、この歌も詞書に従った恋の歌とみなせます。しかし、四句が掛詞ということの意義の大小と、3-4-19歌のどの(試案)であってもそれとの対の歌として、詞書との対応を考慮すると、「いつ」=「一」の理解の歌(3-4-20歌第一案)が恋の歌として優れている、と思います。

 類似歌が、不逢恋の歌と言う理解になるのに対して、この歌は、逢って後の不退転の気持ちを詠う歌となり、類似歌とは異なる恋の歌となりました。そして、「第五の歌群 逆境の歌群」に該当することも確認できました。

45.3-4-19歌の詞書再考 その2

① さて、詞書と3-4-19歌が1案となるかどうかを検討します。3-4-20歌について、3-4-20歌第一案を前提にすると、作中人物は、親などの行動による身の不運を嘆いたというよりも、不退転の決意を詠っていますので、3-4-19歌もそのように理解してよい、となります。

 3-4-19歌の現代語訳(試案)第1案(付記1.②参照)は、文A~文Bにおいて作中人物は親に申し訳なく思っています。文C以下は(以下の案も同じく)相手への思いです。

 同第2案(同②参照)は、文A~文Bにおいて作中人物は親を気遣っています。

 同第3案(上記「43.⑦」参照)は、文A~文Bにおいて作中人物は相手を気遣っています。

 このなかでは、同第3案が不退転の決意の表現が一番強い、と思います。

② そうすると、詞書は、詞書20210607第一案(付記1.①参照)をベースに修正した次の試案が妥当ではないか。

 「親などが、制止しようとした折に、(すでに異性に)情を通わせていることに気がついて、その娘を押し込めたところ、なかなか含蓄のある歌を口にしたので(ここに書き出すと)」(詞書20210614第三案)

 「いみじきを」とは、伝承歌と親などが承知していた歌を、娘が(それも一語入れ替えて)口にしたこととその時の態度との落差から推察し、そのような理解のあることに親などが気付いた驚きではないか。攤(だ)の魔力に劣らぬ恋の魔力を詠う歌となったことを評価したことばである、と思います。

 あるいは、「玉攤(だ)好き」の理解にも思い至った、『猿丸集』編纂者が、一語の入れ替えで意が複数あることになった歌(3-4-19歌)と一意の歌である歌(3-4-20歌)に対する詞書を作文したのかもしれません。

③ 3-4-19歌は、文A~文Bの意が「親ども」各人がまちまちに理解しても、文Eの理解は一つなので、上記の3-4-19歌の現代語訳(試案)は1案~3案やそのほかの理解であっても、作中人物(娘)が突き進む恋以外の選択肢を捨てているのは分かると思います。このため、「第五の歌群 逆境の歌群」に含まれる歌といえます。

④ 「たまだすき」についてまとめると、3-4-19歌の初句「たまだすき」は無意の枕詞ではなく、付記2.の表の「たまだすき」欄の「aた」のイメージで用いられています。それは、1-1-1037歌の「たまだすき」と共通の理解です。

 『萬葉集』での「たまたすき」の「たすき」とは異なる意が、三代集の時代の「たまだすき」の「たすき」にある、ということです。「たまだすき」の「たすき」は、三代集の時代の「ゆふだすき」の「たすき」とは異なる意でもあります。

⑤ 以上のような検討から、『猿丸集』の編纂者は、3-4-19歌と3-4-20歌も、工夫した詞書のもとにおいて、それぞれの類似歌とは別の意に仕立て、『猿丸集』の恋の歌として編纂している、と言えます。

ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただきありがとうございます。

次回は、3-4-21歌を検討します。

(2021/6/14  上村 朋) 

付記1.前回ブログ(2021/6/7付け)で例示した3-4-19歌に関する現代語訳(試案)

① 詞書について2案示した。

 「親などが、制止しようとした折に、(すでに異性に)情を通わせていることに気がついて、その娘を押し込めたところ、大変嘆いた娘の歌を(ここに書き出すと)」(詞書20210607第一案)

 「親などが、決定を下そうとしたとき、口に出して言う(抗弁する)のを聞きつけて、その娘を押し込めて、激しく折檻した際の娘の歌を(ここに書き出すと)」(詞書20210607第二案)

② 歌本文について2案示した。 「とりこめられている情景」を「たまだすき(かく)」と表現したのではないか(娘の関心1)と仮定し、かつ「かく」を「掛く」(たすきを身に着ける)意とした次の2案である。   

 文Aたまだすき かけねば:たすきを掛けないとすると、 (親などの制止を振り切ると)  

 文B(それは)くるし。:それは私にとり、きにかかることです、親に申し訳ないと。

 文C (それを・が)かけたれば : たすきを掛けると (親の制止に従うと)     

 文D (それは)つけてみまく:(心を)よせて、仰ぎ見たいと

 文E (みまくの)ほしき君かも。:そう思う貴方になってしまうのね。(もう逢えないのであろうか)  

(現代語訳(試案)第1案)

 

文Aたまだすき かけねば:(袴着の児が使うような)たすきを身に着けなくてよければ

(親が私への制止を止めたなら)、

文B(それは)くるし。:(親子の縁が切られたことになるので)それは私にとり、苦しい。

文C(それを・が)かけたれば : でも、貴方と結びつくたすきを身に着けたならば

文D (それは)つけてみまく:(心を)よせて、仰ぎ見たいという(あるいは妻になりたいと)

文E (みまくの)ほしき君かも。:そう思う貴方なのです。(親などから制止されても貴方への思いはかわりません)。

(現代語訳(試案)第2案)

 

付記2. 3-4-19歌での同音異義のある主な語句一覧 (2021/6/6付けブログより)

検討語句

語句の意

検討語句

a

b

c

d

e

たまだすき

(たすきという紐の)対象物が自由を制限されているイメージ(俗語のたすきから):aた

たすきという紐が強制しているイメージ(俗語のたすきから):bた

紐が十字の形に結ばれていれば、一体感のイメージ(俗語のたすきから):cた

紐が結ばれず単に十字に懸け違っていれば、感情の行き違いなどのイメージ(俗語のたすきから):dた

祭主が身に着ける「たすき」(木綿だすきなど):eた

かく

心に掛ける

情けなどをかける(掛ける):aかく

たすきを身に着ける(掛ける):bかく

何かが欠ける又は何かを欠く:cかく

(火を)放つ:dかく

掻く・など:eかく

くるし

(精神的・肉体的に)苦しい・つらい。苦しい:aく

きにかかる・気苦労である:bく

不都合である。さしつかえがある。(普通打消しの表現で用い反語):cく

 

 

つく

突く:aつく

ぬかずく:bつく

付く:cつく

(心を)よせる:dつく

憑くなど:eつく

みゆ

物が目にうつる・見える :aみゆ

(人が)姿を見せる・現れる:bみゆ

人目に見えるようにする・見せる:cみゆ

妻になる・嫁ぐ:dみゆ

 

注1)「たまだすき」については、このほかに単なる枕詞の場合がある。

注2)「俗語のたすき」とは、三代集の時代において「衣服に用いる肩にかける補助具」であって十字の形を成して用いるのが特徴となっている紐である。美称の「たま」が付いた場合のその発音は、1-1-1037歌において「たまだすき」と発音するのであれば『萬葉集』が「玉手次」などみな清音の「たまたすき」であり、発音が異なることになる。

注3)3-4-13歌の詞書には「(思ひ)欠く」意で用いられていた。

注4)四句にある「(つけて)みまく(の)」に関しては、「みまくほし」と言う連語が古語辞典に立項されている。それを助詞「の」で二つの語に割っているとみると、前段にある動詞「みゆ」を強調しているかに見える。

(付記終わり  2021/6/14  上村 朋)

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 同音意義の語句

 前回(2021/5/31)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 枕詞に」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 同音異義の語句」と題して、記します。(上村 朋)

1.~40.承前

 2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。現在3-4-19歌の初句にある「たまだすき」の理解のため、『萬葉集』の用例と三代集唯一の用例1-1-1037歌での「たすき」の検討が終わった。『萬葉集』では「たまたすき」と訓み、巻十二の用例ではいわゆる枕詞に、巻十三の用例では、「袖の動きを制止する紐」の意になり、1-1-1-1037歌では、たすきによって対象物が自由を制限されているイメージであった。

3-4-19歌  おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを

    たまだすきかけねばくるしかけたればつけて見まくのほしき君かも

類似歌 2-1-3005歌     寄物陳思

玉手次 不懸者辛苦 懸垂者 続手見巻之 欲寸君可毛

たまたすき かけねばくるし かけたれば つぎてみまくの ほしききみかも

41.3-4-19歌の詞書の再考 その1

① 『萬葉集』巻十二にある類似歌2-1-3005歌は、初句「たまたすき」が有意の枕詞であり、その現代語訳試案は次のようになりました。

 「(ことにあたり)たまたすきを肩にかけないのは気が咎めます(苦し)。でも私にはかけたらかけたでそれは気になり(苦し)ます、心に貴方をかけたら。あなたに逢いたいと心苦しくなるのですよ。本当に。」

 類似歌は、形容詞「苦し」を、同音異義の語句として用いている歌でもあります。

 そして、よみ人しらずの伝承歌なので、事情を記す題詞がありません。配列から「相手に近づけてない悔しさ・情けなさを詠う対の歌のうちの2首目ということしかわかりませんでした。

② 3-4-19歌には、詠う事情を記す詞書があります。2018/6/25付けブログの「4.」で、それを一度検討しています。そこでは、

 第一 「親ども」とは、親を代表として係累の者たち、の意

 第二 「せいする」とは、動詞「制す」の連体形であり、その意は、「(おもに口頭で)制止する」のほか、「決める・決定する」、の意

 第三 「ものいふを」の「もの」とは、名詞であり、個別の事情を、直接明示しないで、一般化して言うことば。

 第四 「ものいふを」とは、連語であり、「口に出して言う。口をきく」のほかに、「気のきいたこと、秀逸なことを言う。」、「(異性に)情を通わせる。(男女が)ねんごろにする。」の意(『例解古語辞典』) ここでは、口頭の注意に対して抗弁した際に「気のきいたこと、秀逸なことを言った」ということを指す

 第五 「とりこむ」とは、「押しこめる・とり囲む」の意

 第六 「いみじきを」における形容詞「いみじ」は、「はなはだしい、並々でない、すばらしい、ひどく立派だ」、 などの意

と、理解しました。

 形容詞「いみじ」の意は端折って記しており、上記のほかに、「たいへんだ。かわいそうで見ていられない」とか「たいへんうれしい」の意があります。「程度のはなはだしいのを言うのがもとで、それにあたる現代語は場合場合で適宜考えること」と、『例解古語辞典』では説いています。

③ 詞書は次のような文よりなり、その主語述語などを確認すると、それぞれの文は、()内のような理解となります。

 文A おやどものせいするをり、 (おやどもの行動を記述し、文B以下のことが生じた前提条件を示す)

 文B 物いふをききつけて (文Cの「女」の行動が伝聞で「おやども」にあったことをいう)

 文C女をとりこめて (「女」の行動の評価を行って「おやども」が採った行動をいう)

 文D いみじきを (何かを、何かと誰かが比較している文。文Cでの「おやども」の行動の程度を評価したのか、ここに書き出す歌に関していうのかなど、はっきりしない。)

 最後の文Dの内容は、この詞書にある歌二首の本文理解によるのでしょう(3-4-20歌もこの詞書のもとにあります)。

④ これらから、詞書の現代語訳を試みたのが、つぎの文でした。

「親や兄弟たちが、口頭で注意をした折、気のきいたことを言うのを(親や兄弟が)聞き、その娘を取り囲みほめた(歌)を(ここに書き出すと)」(詞書20180625案)

 今、3-4-19歌は「恋の歌」と言う仮説をたてています。この案でも、恋の歌の詞書としてふさわしくない、と直ちに言えませんが、上記②にあげた語句のうち、「せいする」と「ものいふ」と「いみじきを」の3語句の意を考えると、もっと「恋の歌」をはっきりと予想できる現代語訳が可能です。

 例えば、3語句の意を、「(おもに口頭で)制止する」、「(異性に)情を通わせる。(男女が)ねんごろにする。」、「たいへんだ。かわいそうで見ていられない。あるいは、はなはだしい」と仮定すれば、

「親などが、制止しようとした折に、(すでに異性に)情を通わせていることに気がついて、その娘を押し込めたところ、大変嘆いた娘の歌を(ここに書き出すと)」(詞書20210607第一案)

 「いみじきを」については、「とりこみ」の結果、娘がはなはだ気持ちが落ち込み、口にした歌、と理解した案です。恋の歌を予想できる詞書になっている、と思います。

また、3語句の意を、「決める・決定する」、「口に出して言う。口をきく」、「はなはだしい、並々でない」と仮定すれば、

 「親などが、決定を下そうとしたとき、口に出して言う(抗弁する)のを聞きつけて、その娘を押し込めて、激しく折檻した際の娘の歌を(ここに書き出すと)」(詞書20210607第二案)

 「いみじきを」については、「とりこみ」の状況がはげしい、と理解した案です。この案も、恋の歌を予想しておかしくありません。

⑤ このように、この詞書は、

 第一に、親などが、娘に対して行動の制限を課したこと

 第二に、娘は、それに従わざるを得ないと覚悟していること

 第三に、娘は、そのような制限に不満があるらしいこと

の3点を明らかにしています。上記の「詞書20180625案」にもそれが認められます(このほかにも恋の歌を予想する詞書の現代語訳案(試案)は可能です)。

 この歌は、その際娘が口にした歌、と言う趣旨であろう、と思います

 「いみじきを」が何を指していっているのかは、二首の歌本文との突合せが必要であり、歌本文の現代語訳を検討して後、改めて詞書を確認することとします。

 

 42.3-4-19歌の歌本文の再考その1

① 歌本文は、類似歌を参考にして、次のような文が順にならんでいる、とみることが出来ます。

文A たまだすき かけねば  (文Bの前提条件の文)

文B (それは)くるし。

文C (それを・が)かけたれば   (文Aと対句 文Dの前提条件の文)

文D (それは)つけてみまく

文E (みまくの)ほしき君かも。 (文A~文B、及び文C~文Dという二つの事例の行き着く先を示す文あるいはこれらの事例の根拠の文)

 活用語の已然形につく接続助詞「ば」によって二つの事柄(文A~文B、及び文C~文D)を対比し、文Eを強調した構造です。

 この歌で、作中人物の言いたいことは、類似歌と同じく、文Eの「ほしき君かも」であろう、と思います。恋の歌であるならば、恋情の変わらぬことを訴えている歌ではないでしょうか。

② 3-4-19歌の歌本文も、2018/6/25付けブログの「5.」で、一度検討しています。「たまだすき」を「接頭語「玉」+名詞「攤(だ)」+(省略されている)助詞「は」+動詞「好く」の連用形(+省略されている「なるものなり」)」という理解し、「人と賭け事の基本的な関係を言っている」歌かと理解したところであり、恋の歌ではありませんでした。

 そのため、改めて、恋の歌として検討をします。

③ この歌と類似歌とは、語句の並びがよく似ていますが、語句そのものの意味は違う可能性が、あります。

 その一つ目が、初句にある「たまだすき」です。類似歌は「たまたすき」とあります。前回までのブログで検討してきた万葉の「たまたすき」の用例と三代集の「たまだすき」のそれでは異なる意の語句であったので、この歌でも万葉の「たまたすき」と異なる可能性があります(付記1.参照)。

 諸氏が指摘するように、初句「たまだすき」が、単に「かく」(掛く)の枕詞であるならば、文C以下の文よりその意は「作中人物が心にかける」という理解が妥当であり、文A~文Bは、類似歌における土屋氏の大意の当該部分、すなわち、(「タマダスキ(枕詞) 心に掛けなければ苦しい。(又掛けて居れば・・・)」と現代語訳できます。

 また、「たまだすき」に神事執行における祭主が身に着けるたすきの意が含まれていると、文A~文Bは、上記「41.①」に示した類似歌の現代語訳試案、すなわち、「(ことにあたり)たまたすきを肩にかけないのは気が咎めます(苦し)。(でも私にはかけたらかけたでそれは気になり(苦し)ます、・・・)」となります。

④ この歌は、『古今和歌集』成立以後に編纂されたのが確実な『猿丸集』の歌なので、これまでの「たまたすき」と「たまだすき」の検討から、三代集の時代の日常語の「たすき」に、美称の「たま」をつけた語句の可能性があります。

 日常語の「たすき」とは、竹岡氏が指摘する「俗語に言う、たすき」であり、「衣服に用いる肩にかける補助具」の紐(の類)で十字の形を成して用いるのが特徴です。

 それからイメージされるものに、「(たすきという紐の)対象物が自由を制限されているイメージ」の意など「たまだすき」には4候補があります(付記1.参照)。

 詞書によれば、娘は親などに「とりこめ」られています。このため、「とりこめ」られていることから詠いだしているとすれば、「とりこめられている情景」を「たまだすき(かく)」と表現したのではないか(娘の関心1)、と推測でき、例えば、「たまだすき」に「(たすきという紐の)対象物が自由を制限されているイメージ」と理解が可能です。

 そうすると、「たまだすき」は「かく」(掛く)の枕詞であっても、有意の枕詞になり得ます。そのため、例えば、次のような現代語訳(試案)が得られます。

文Aたまだすき かけねば:たすきを掛けないとすると、 

 (親などの制止を振り切ると)

文B(それは)くるし。:それは私にとり、きにかかることです、親に申し訳ないと。

文C(それを・が)かけたれば : たすきを掛けると (親の制止に従うと)

文D (それは)つけてみまく:(心を)よせて、仰ぎ見たいと

文E (みまくの)ほしき君かも。:そう思う貴方になってしまうのね。(もう逢えないのであろうか)

(現代語訳(試案)第1案 「かく」は「掛く」(たすきを身に着ける)意)

 この論理は、詞書の場面設定と矛盾していません。「いみじき」とは、「とりこめ」ている親などに敬意を払っていることへの親などの感想か、あるいは、伝承されてきた歌を換骨奪胎させた歌として娘の歌を褒めたのでないか、と推測します。

⑤ さらに、「たまだすき」を枕詞とみなければ、動詞「かく」は、同音意義の語句であるので、「欠く」、「掻く」、(火を放つ・防ぎとめるなどの意の)「懸く・掛く」の意の可能性があります。(2018/6/25付けブログでは歌本文を「掛く」と「欠く」で理解し4案の可能性を指摘しました。)

 このほかにも同音意義の語句が下表のようにあります。

表 3-4-19歌での同音異義のある主な語句一覧

検討語句

語句の意

検討語句

a

b

c

d

e

たまだすき

(たすきという紐の)対象物が自由を制限されているイメージ(俗語のたすきから):aた

たすきという紐が強制しているイメージ(俗語のたすきから):bた

紐が十字の形に結ばれていれば、一体感のイメージ(俗語のたすきから):cた

紐が結ばれず単に十字に懸け違っていれば、感情の行き違いなどのイメージ(俗語のたすきから):dた

祭主が身に着ける「たすき」(木綿だすきなど):eた

かく

心に掛ける

情けなどをかける(掛ける):aかく

たすきを身に着ける(掛ける):bかく

何かが欠ける又は何かを欠く:cかく

(火を)放つ:dかく

掻く・など:eかく

くるし

(精神的・肉体的に)苦しい・つらい。苦しい:aく

きにかかる・気苦労である:bく

不都合である。さしつかえがある。(普通打消しの表現で用い反語):cく

 

 

つく

突く:aつく

ぬかずく:bつく

付く:cつく

(心を)よせる:dつく

憑くなど:eつく

みゆ

物が目にうつる・見える :aみゆ

(人が)姿を見せる・現れる:bみゆ

人目に見えるようにする・見せる:cみゆ

妻になる・嫁ぐ:dみゆ

 

注1)「たまだすき」については、このほかに単なる枕詞の場合がある。

注2)3-4-13歌の詞書には「(思ひ)欠く」意で用いられていた。

注3)四句にある「(つけて)みまく(の)」に関しては、「みまくほし」と言う連語が古語辞典に立項されている。それを助詞「の」で二つの語に割っているとみると、前段にある動詞「みゆ」を強調しているかに見える。

 

⑥ また、四句の語句が明らかに異なっています。すなわち、この歌は「つけてみまくの」、類似歌は「つぎてみまくの」であり、「つけて」と「つぎて」は同じ意ではありません。動詞「つく」には「突く、ぬかずく、付く、憑く、(心を)よせる、」などいろいろな意がありますが、動詞「つぐ」の意にぴったりあてはまるものはありません。

⑦ さて、この歌の文の構造に戻ります。同音意義の語句を用いている歌なので何種類もの理解が可能です。その整理の見通しをつけておきたい、と思います。

 文A~文Bと文C~文Dは対句であり、動詞「かく」が否定形と肯定形で対比されており、否定形では苦しい結果となり、肯定形では見たい結果となっています。そして文A~文Bでは「たまだすき」が「かく」に関係するものとして最初に言及されています。しかし、文C~文Dはそれに相当するものが省かれています。そのため、歌の理解は、大別して、

 文A~文Bは、「たまだすき」に関して甲ではないので苦しい、文C~文Dは、(当然「たまだすき」に関して)甲であれば、見たい

あるいは

 文A~文Bは、「たまだすき」に関して甲ではないので苦しい、文C~文Dは、(それに直接関係ないものに関して)乙であれば、見たい

のどちらかになります。

 上記③での現代語訳(試案)たまだすきb第1案は、前者の文型ですが、「かく」を同案とおなじく「かく」を「掛く」(たすきを身に着ける)意とした次の理解は、後者の文型での例です。どちらも歌意が詞書に通じるものとなっています。

 文Aたまだすき かけねば:(袴着の児が使うような)たすきを身に着けなくてよければ

(親が私への制止を止めたなら)、

文B(それは)くるし。:(親子の縁が切られたことになるので)それは私にとり、苦しい。

文C(それを・が)かけたれば : でも、貴方と結びつくたすきを身に着けたならば

文D (それは)つけてみまく:(心を)よせて、仰ぎ見たいという(あるいは妻になりたいと)

文E (みまくの)ほしき君かも。:そう思う貴方なのです。(親などから制止されても貴方への思いはかわりません)。

 (現代語訳(試案)第2案 「かく」は「掛く」(たすきを身に着ける)意) 

⑧ どちらでも、文Dの直後に置かれた文Eにより、作中人物が相手を慕い続けているということは変わりません。そして、どちらの(試案)でも、類似歌と異なる恋の歌になっています。文Eに同音異義の語句はなさそうなので、これ以外の現代語訳でも同じであろうと思います。

 上記の詞書のもとにある二首との整合があるはずですので、その確認も必要です。これらについて次回以降検討をすすめたい、と思います。

 「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

(2021/6/7   上村 朋)

付記1.古今集の「たまだすき」の意について

① 2021/5/17付けブログに、1-1-1037歌の検討のまとめを記す。この歌で「たまだすき」と表記されている語句は、美称の「たま」を冠した俗語の(当時の日常用語のいわゆる)「たすき」の意である。具体的には2021/4/19付けブログを参照されたい。

② 「たまだすき」という語句は、『萬葉集』にはなく、三代集では、1首(1-1-1037歌)のみであり、「世中のたまだすきなる」と言う文脈に登場する。また 三代集の時代の『宇津保物語』に「たすきかけ」と言う用例が地の文に、『枕草子』151段に 「衣ながにてたすき結ひたる」とある。三代集の時代、これらの俗語の「たすき」に美称の「たま」がついたものが「たまだすき」であり、神事における「ゆふだすき」とは別のものであり、「衣服に用いる肩にかける補助具」というところは共通だが、俗語の「たすき」は十字の形を成して用いるのが特徴(ブログ2021/4/19付け参照)。

③ 日常用語の「たすき」とは、「たすき」と称する紐の機能から、紐とそれを使う対象物との関係を重視し、動きを押さえている(あるいは強制的に物を整えている)状況に注目した表現でもある。対象物の動きを押えているので、

「たすき」が強制しているイメージ

対象物が自由を制限されているイメージ

   がある。

④ また、「たすき」と称する紐自体、あるいは紐が並行ではなく交差しているという形に注目した表現として、

紐が十字の形に結ばれていれば、一体感のイメージ、

そうでなければ、感情の行き違いなどのイメージ

がある。

⑤ 1-1-1037歌の「たまだすき」は、(たすきという紐の)対象物が自由を制限されているイメージで用いられていた。『源氏物語』の「末摘花」の地の文の「たまだすき苦し」も同じであった。

⑥ 多くの諸氏は、1-1-1037歌の「たまだすき」を、交差しているという形に注目して「感情の行き違いなどのイメージ」に理解されている。

⑦ なお、『萬葉集』では、万葉仮名では「玉手次」の表記が多く、訓はすべて「たまたすき」である。ブログ「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 たまたすき一覧」(2021/5/24付け)参照。

⑧ 『例解古語辞典』は、用例をあげて「たすき」の説明をしている。

a神事の際、供物などに袖が触れないよう、袖をたくしあげるために肩に掛ける紐(例:万葉歌:憶良)。

b袖が邪魔にならあないよう、袖をたくし上げるために肩に掛ける紐(例:枕草子)。

c紐や線を斜めに交えること(例:徒然草)。

⑨ 『枕草子』の執筆時期は正確には判明していないが、長保3年(西暦1001年)にはほぼ完成したとされている。『源氏物語』の文献初出は1008年(寛五年)である。「末摘花」の巻の執筆時期の特定はまだされていない。

 そして、『猿丸集』は、『新編国歌大観』(角川書店)の「解題」は、「公任の三十六人撰の成立(1006~1009頃)以前に存在していたとみられる歌集」であり、歌集後半に「古今集の読人不知歌および萬葉集歌を収載し構成している雑纂の古歌集」、と説明している。つまり遡っても古今集成立後に編纂された歌集である。

(付記終わり 2021/6/7  上村 朋)

 

 

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 枕詞に

 前回(2021/5/24)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 たまたすき一覧」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 枕詞に」と題して、記します。(上村 朋)

1.~39.承前

 2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。現在3-4-19歌を検討中であり、その初句にある「たまだすき」の理解のため、『萬葉集』の(2-1-3005歌を除く)用例と三代集唯一の用例1-1-1037歌での「たまた(だ)すき」の検討が終わった。『萬葉集』では「たまたすき」と訓み、巻十三の用例では、「袖の動きを制止する紐」の意になり、1-1-1-1037歌では、「たまだすき」と訓み、たすきによって対象物が自由を制限されているイメージであった。

3-4-19歌  おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを

    たまだすきかけねばくるしかけたればつけて見まくのほしき君かも )

類似歌 2-1-3005歌     寄物陳思

   玉手次 不懸者辛苦 懸垂者 続手見巻之 欲寸君可毛

   たまたすき かけねばくるし かけたれば つぎてみまくの ほしききみかも

40.類似歌2-1-3005歌の検討

① 『萬葉集』と三代集の時代の「たまた(だ)すき」の用例検討が、3-4-19歌の類似歌である2-1-3005歌を除き終わりました(前回ブログ2021/5/24付け参照)。その結果から予測すると2-1-3005歌の「たまたすき」は、いわゆる枕詞として用いられているか、と予想したところです。配列と歌本文にあたり、それを確認します。

 いつものように、この歌の現代語訳の例を示し、この歌の前後の配列を検討したうえ、現代語訳を試みます。

② 現代語訳例を示します。

「玉だすきを肩に掛ける、その掛けるではないが、心に掛けないのは苦しい。といって心に掛けると、引き続きお逢いしたいと思うあなたですよ。」(阿蘇氏)

 動詞「掛く」には、「心に掛ける」意と「言葉にあらわす」意があります。「一般に、相手の名であれ相手への思いであれ、口にすることはタブーとされたから、ここは心に掛ける意。」と阿蘇氏は指摘しています。

「タマダスキ(枕詞) 心に掛けなければ苦しい。又掛けて居ればそれにつづけて見たく願はれる妹であるかな。」(土屋氏の大意)

 土屋氏は、「枕詞だけで寄物になっている。内容もしばしば見られる種類のものである。」と指摘しています。

③ 配列を確認します。

 『萬葉集』巻第十二 古今相聞往来歌之下の、「寄物陳思」の部は二つあり、2-1-3005歌は、二つ目の「寄物陳思」にあります。

 その二つ目の「寄物陳思」の配列は、3-4-13歌の類似歌である2-1-2998歌を検討した際、梓弓に寄せる歌を一つのグループであるとして一度検討しました(2018/5/7付けブログ(「2.」)。「寄物」は、「衣」から、はじまり、「梓弓」以降は、「たたりあるいは麻」(2-1-3003歌)、「繭あるいは蚕」(2-1-3004歌)、「たすき」(2-1-3005歌)、「かづら」(2-1-3006歌, 2-1-3007歌)、たたみこも(2-1-3008歌)、「ゆふ(木綿)」(2-1-3009歌)、「橋」(2-1-3010歌)、「舟」(2-1-3011歌, 2-1-3012歌)、「田」(2-1-3013歌、2-1-3014歌)という順に並んでいます。「梓弓」にある6首は、一つのグループをなし、歌そのものは、記録し朗詠した官人による改作あるいは創作も有り得る、と推測したところです。

 阿蘇氏は、寄物による配列を、人工物・天象・地・気象・・・の順と指摘していますが、そのように配列している基準を論じていません。巻十一の寄物の配列順とも異なっています。

 また、「陳思」の「思ひ」は、「恋」ばかりでした。例外と強いて言えば、2-1-2994歌が地方に赴任した官人の羈旅の歌であるかもしれない、というところです。

④ 巻十二については、このほか「正述心緒」にある「玉手次」の用例2-1-2910歌の前後においては「対の歌ごとに配列する」と言う編纂者の方針を確認しました(ブログ2021/1/25付け参照)。

 遡ると、巻十での歌は、一つの題詞のもとで整合が取れていました(2020/12/28付けブログ参照)。

 次の巻十三は、全巻にわたり「右〇首」という左注により、歌を歌群にして示しています。

 この巻での「寄物陳思」の歌でも、歌が歌群あるいは対の歌の配列であることを予想し、2-1-3005歌の前後の歌(「寄物」が「梓弓」から「舟」までの歌)で、その確認を付記1.のように行ったところ、次のことを指摘できます(なお巻十二の「寄物」全体の配列は別途検討)。

第一 「寄物」が梓弓である最初の歌2-1-2997歌から対の歌が配列されている

第二 「寄物」以外の別の基準から歌を対とし、また歌群を設けているようにみえる

第三 2-1-3005歌は、2-1-3004歌と対の歌であり、2-1-3004歌から2-1-3009歌までの「会えず、思いが募る段階の歌」とくくれる歌群にあるか

⑤ さて、2-1-3005歌です。初句「たまたすき」について、諸氏は動詞「かく」の枕詞としています。そして、付記1.⑦で指摘したように、二句と三句にある「かく」とは、「心に掛く」意です。

 短歌は五句31文字に限られている歌なので、用いている語句に無用なものはない、とすると、二句「かけねばくるし」の「かく」は、恋の歌であるので三句以降の語句との兼ね合いの「心にかける」意に重心があることに納得がゆくところです。しかし、「たすき」はかけるものという認識は、祭主が身に着けるべき「たすき」を前提として生まれた経緯があり、「たすきをかける」意が、全く捨てられているかどうかの確認を要します。

 両方を意味しているとすると、次のような理解がこの歌に可能です。五句にある終助詞「かも」は感動文をつくる、と理解しました。

 「(事にあたり)たまたすきを身に着けないのは精神的に苦痛である。だから常に身に着けて神に奉仕する。そのように、大事な貴方を私は常に思っている。そうすると、たすきを身に着けた身には生じないことが起こっている。心が乱れるというか、次にすべきことを急くようになる。貴方を見たくなるのである。そのような貴方なのだ。本当に。」

 しかし、作中人物の気持ちを訴えるのに、「たまたすき」の謂れから説かなくとも、「たまたすき」を「かく」の枕詞と割り切り、恋の歌として単刀直入に「こころにかける」を率直に言い出しても、心地よいリズム感があると思います。その現代語訳は、上記②に示した土屋氏の「大意」となります。

⑥ 2-1-3004歌は、「いぶせし」を言い出すために、初句~三句(計17文字)を費やしていますが、それは「たらちね」と「繭」の関係をも詠い、歌意に反映しています。

 2-1-3005歌は、「かく」を言い出すために、「たまたすき」を枕詞と割り切り初句(5文字)しか用いていませんが、「たまたすき かく」で「心に(かける)」意を十分言い表しています。枕詞と割り切って過不足なく歌意に反映できています。ともに31文字を無駄なく利用しています。

 この歌の前後の歌も、「きみによりにしものを」という単刀直入の語句を用いる歌が続いています。それからも土屋氏の「大意」の理解は妥当なものと思います。

編纂する時代まで伝わったこのよみ人しらずの歌は、最初に詠われた意味合いは別にして、編纂者の時代にこのような理解に落ち着いたのかもしれません。

 この場合、付記1.で検討したように、2-1-3004歌とこの歌は一対の歌となっています。この2首は「寄物」に拘らず「相手に近づけてない悔しさ・情けなさを詠う2首」 と理解できます。

⑦ また、付記1.で検討した2-1-2970歌~2-1-3012歌について、共通点をみてみると、次の表にみるように、枕詞や序詞を必ず用いている歌ばかりです。 

 阿蘇氏は、序詞表現の面白さ・興味で成り立っていると、多くの歌で指摘し、土屋氏は、さらに「戯書は筆記者のたはむれであらう。そんなことでもしなければ退屈の歌がつづきすぎる(2-1-3004歌)」とか「序の部分が珍重されて時々新しい意を添へ用いられた民謡としられる」(2-1-3011歌、2-1-3012歌)と指摘しています(氏のいう「民謡」の意は付記2.参照)。このように、この歌の前後の歌は、恋の相手に訴えたいことより、訴える方法に力を入れて詠っているかに見えます。

 また、作中人物の推定を行うと2-1-3005歌を含めて男女どちらの立場になり得る「不定」と認められる歌が6首あり、よみ人しらずの歌である元資料は、詠われる場面に応じて披露されたものと思います。

 「寄物」の配列方針をはっきり指摘できませんが、伝えられてきたよみ人しらずの歌の中より、対の歌に仕立てて編纂者はこの前後に配列している、と言えます。

 

表 萬葉集 2-1-2997歌~2-1-3012歌の語彙・語句の特徴     (2021/5/31 現在)

歌番号等

枕詞(かかる語句)

序詞(かかる語句)

A同様な語句・B戯書 C意味未解明

備考

同趣旨の歌

作中人物

2-1-2997

梓弓(すゑ)

 

A縁西物乎

 

A

不定

2-1-2998

梓弓(すゑ)

 

A因之物乎

 

A 

2-1-2999

梓弓(ひく)

 

A因尓思物乎

(梓弓は比喩でもある)

B

不定

2-1-3000

梓弓(ひく)

 

 

(梓弓は比喩でもある)

 

不定

2-1-3001

梓弓(すゑ(序詞中に))

〇(中ごろ)

B末中一伏三起

 

 

不定

2-1-3002

一説に梓弓(ひく)

 

A縁西鬼乎

(梓弓は比喩)

 B

2-1-3003

 

〇(うむ)

 

 

 

2-1-3004

垂乳根之(母(序詞中に))

〇(いぶせし)

B馬声蜂音石花蜘 (ろ)荒鹿

序詞共通の歌

2500、 3272

 

不定

2-1-3005

玉手次(かく)

 

 

 

 

不定

2-1-3006

 

一説に〇(はなやか)

 

 

 

2-1-3007

玉蔓(かく)

 

 

 

 

2-1-3008

 

一説に〇(しばしば)

C重編数

(たたみこもは比喩)

 

2-1-3009

白香付(ゆふ)

 

C白香付

C事社者

C真枝毛

 

 

2-1-3010

石上(ふる(序詞中に))

〇(たかたかに)

 

 

 

2-1-3011

 

〇(さはりおほみ)

 

序詞共通の歌

2755

  C

2-1-3012

 

〇(さはりおほみ)

 

序詞共通の歌

2755

  C

計 16首

11首

8首

10語句

 

 

 

注1)歌番号等:『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号注2)同趣旨の歌:Aは『萬葉集』で「2970歌と左注の一本歌曰」、Bは諸氏が異伝歌の関係かという歌、Cは「3011歌と左注の或本歌曰」

 

⑧ 訴える方法における2-1-3005歌での工夫は何でしょうか。

 その一つが、「たまたすき かけねばくるし」という表現ではないか。「たまたすき」の直後に動詞「かく」が続くパターンで新たな類型(付記3.参照)を作っていることです(同じ巻十二にある、もうひとつの「たまたすき」の用例2-1-2910歌も新たな類型を作っていました)。「たすきをかけない」と詠いだすのは、巻十二で初めてでてくる用例です。

 もうひとつが、同音異義の語句の利用です。候補に「くるし」があります。

「くるし」について『例解古語辞典』はつぎのように説明しています。

a(精神的・肉体的に)苦痛である。つらい。苦しい。(用例:伊勢物語13段) 

b気にかかる。気苦労である。(用例:源氏物語・紅葉賀) 

c不都合である。さしつかえがある。(用例:平家物語・灌頂。普通打消しの表現で用い反語。)

 また、「みまくほし」は連語と辞書にあります。それを「見まく」の「欲し」とし、「見ゆ」ということを強調しているかにみえます。

⑨ 上記②に示した土屋氏の「大意」は、歌意として妥当なものですが、巻十二に配列されている歌なので、詠い方の工夫をもう少し盛り込んで現代語訳をしたほうがよい、と思います。

 次のようにこの歌は理解できますので、下記の現代語訳試案が得られます。

文A:玉手次 不懸者辛苦   (一般に、たまたすきをかけないという状態は「苦し」)   

文B:             辛苦 懸垂者  (「苦し」の状況はかけた場合も(ある))

文C:             懸垂者 続手見巻之  (かけたら見たくなる) 

文D: 欲寸君可毛  (というのが貴方)

 「(ことにあたり)たまたすきを肩にかけないのは気が咎めます(苦し)。でも私にはかけたらかけたでそれは気になり(苦し)ます、心に貴方をかけたら。あなたに逢いたいと心苦しくなるのですよ。本当に。」

 動詞「かく」の対象が二つあることを利用した歌とし、「かく」を二句と三句で重ねて用いることで、同音意義の語句である「苦し」が、二句にもかかり、三句にもかかることのヒントになっています。

「苦し」の意を生かすべく、「たまたすき」については、動詞「かく」にかかる「枕詞」として100%割り切りっていない歌意です。

⑩ 当初に(①で)、2-1-3005歌の「たまたすき」について、いわゆる枕詞として用いられているか、と予想しました。配列と歌本文にあたると、「たまたすき かく」の意も生かした、有意の枕詞である、と思います。

 類似歌の検討が終わりましたので、次回は3-4-19歌を検討します。

ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

  (新型コロナワクチンの1回目の接種を、5月29日受けました。発熱はありませんでした。疼痛、倦怠感が今日はうすらぎました。体調に留意し2回目を待ちたいと思っています。)

(2021/5/31   上村 朋)

付記1.巻十二の2-1-3005歌前後の歌の配列検討

①「寄物陳思」の部にある2-1-2997歌~2-1-3012歌(計16首)の配列を検討した。「寄物」でいえば、梓弓から舟の歌である。

② 歌を引用した『新編国歌大観』は、『萬葉集』に限り「底本記載形態のいかんにかかわらず一首完形のもの(或本歌・一書歌等も含む)には歌番号(歌集ごとの歌の通し番号)を附している。編纂者の配列方針はそれらを除いたものであろう。旧『国歌大観』の歌番号の順が対応していると考えられる。

検討対象の16首には、2-1-2998歌と2-1-3012歌が一首完形の歌として歌番号が与えられている。

③ 最初に、梓弓に寄せている歌6首を検討する。この6首は、「弓の末を詠う3首と、弓を引いたり緩めたりすることを詠う3首に分かれ、後者の歌は、その結果心が固まったと、詠い、前者の歌は、今は貴方、と詠う」と指摘した(2018/5/7付けブログ「2.④参照」)が、配列されている歌が対であるかは未検討であった。

④ 2-1-2997歌  寄物陳思 

   梓弓 末者師不知 雖然 真坂者君尓 縁西物乎

   あずさゆみ すゑはししらず しかれども まさかはきみに よりにしものを

 2018/5/7付けブログにおいて、次のように現代語訳試案を示した(同ブログ「4.⑨」参照)。

「(あづさ弓には末と本がありますが、そのような)本から生じている末、将来は貴方と私の関係はどうなるかまったくわかりません。けれども 今はあなたに気持ちが引き寄せられてしまいましたのに。でも・・・(それがよいのかどうか)」

 作者が二句で「しらず」と言っているのは、相手の誠意の持続の有無とし、五句にある詠嘆の終助詞「ものを」には、「(一方的では)はこまるのだが」という気持が含まれている、と見た。

 土屋氏は、2-1-2997歌の「(すゑは)ししらず」と、2-1-2998歌の「(すゑの)たづきはしらず」を同義とし、後者の方が穏やかな表現である、と指摘している。そして、「この歌は、男に頼る女の立場と見る方が自然」とも指摘する(同ブログ「5.③」参照)。

 しかしながら、巻十二の編纂者は、2-1-2997歌を『萬葉集』歌としている。意図があるものと推測できる。

 諸氏は「梓弓」は「末に冠する枕詞」としている。

 

2-1-2998歌  寄物陳思    一本歌曰

    梓弓 末乃多頭吉波 雖不知 心者君尓 因之物乎

    あづさゆみ すゑのたづきは しらねども こころはきみに よりにしものを

 2018/5/7付けブログにおいて、次のように現代語訳試案を示した(同ブログ「5.⑤」参照)

 「(あづさ弓には末と本がありますが、そのような)本から生じて末にたどりつくには、これから先どうしたらよいのか見当がつかないのですが、 私の心はあなたに引き寄せられてしまいましたのに。どうしましょう・・・(このままでよいのかどうか)」

 

2-1-2999歌   寄物陳思

   梓弓 引見緩見 思見而 既心歯 因尓思物乎

   あづさゆみ ひきみゆるへみ おもひみて すでにこころは よりにしものを

 「梓弓を引いたり、弛めたりするように、さまざまに考えて、今はもうすっかり心はあなたに寄り添ってしまったのですから。今更何を悩んだりいたしましょう。」(阿蘇氏)

 氏は、「2-1-3002歌の内容と等しく、そちらの方が簡潔で内容を言い尽くしている」と評する。この歌も2-1-3002歌の作中人物と同じく不安に思う原因が確かにあるのであろう」と指摘。

 「梓弓を引いてみ、放して見る如く、さまざまに思って見て、全く心は君に頼り来たものを」(土屋氏)

 氏は、「梓弓は「ひく」の枕詞と見てもよし、実際の弓を譬喩に用ゐたとも見える」、又「よる」とあるのは「女性の心とみえる」と指摘。

 

2-1-3000歌   寄物陳思

    梓弓 引而不緩 大夫哉 恋 云物乎 忍不得牟

   あづさゆみ ひきてゆるへぬ ますらをや こひといふものを しのびかねてむ 

「梓弓を引きしぼって弛めることのない強い男子が、恋というものをこらえることができないものだろうか。」(阿蘇氏) 

 氏は、「恋のみは、どうにも自分を抑えることができない。なんとも不可解だ、という心境だろう」と評する。

「梓弓を引いてゆるべない如き、しやんとした男子であっても、まあ、恋といふものは堪えられぬのであらう」(土屋氏)

 氏は、常識的な民謡と評する。

 思うに、この歌の作中人物は、自らを「ますらを」と僭称し、恋の行く末をはっきり定めることが喫緊の課題になってしまっている、と詠う。あるいは、男の子が恋に悩んでいるよ、と作者が作中人物をはやし立てているかにもみえる。二様の理解が可能な歌である。

 

2-1-3001歌   寄物陳思

    梓弓 末中一伏三起 不通有之 君者会奴 嗟羽将息

   あづさゆみ すゑなかためて(末中一伏三起) よどめりし きみにはあひぬ なげきはやめむ

 ブログ2008/5/7付け「3.④」で次のような現代語訳試案を示した。

「(あづさ弓には末と本がありますが、そのような)本から生じている二人の関係が、将来もそこに至る途中の現在も、変りないと思っていましたところ、貴方に逢うことができました。溜息をつくのはもうやめましょう。」

 私は、お先真っ暗であった男女の関係が修復可能である、と作者が安堵している歌と理解。これは、阿蘇氏や土屋氏と表面の歌意は変りない。

この歌は、「あづさゆみのすゑ」を詠う3首の最後に位置しており、「それが寓意しているところが他の二首(2-1-2997歌と2-1-2998歌)と同一とは思われない。2-1-3001歌には(この先にむかって)安堵感がある」(同ブログ「6.①」)と指摘した。

 

2-1-3002歌     寄物陳思

   今更 何壮鹿将念 梓弓 引見弛見 縁西鬼乎

   いまさらに なにをかおもはむ あづさゆみ ひきみゆるへみ よりにしものを

「今更、何を悩んだりいたしましょう。梓弓を引きしぼったり弛めたりするように、いろいろ考えた上であなたに心を寄せたのですから。」(阿蘇氏)

 氏は、「何があっても思い悩んだりはすまいと言っている中に、すでに再考を促す事態が起こりつつあるようで、心許ない。2-1-2999歌をより完成させた歌のよう。」と評する。

 「今更何にしにとやかくと物を思はう。梓弓を引いてみ、ゆるべて見る如く、さまざまにして、君に寄ったのである。」(土屋氏) 

 氏は、この歌は2-1-2999歌の一伝ともみられる、と指摘。

 6首の最後にあるこの歌だけ、「寄物」の「梓弓」が初句ではなく三句にある。「梓弓」は比喩とされている。

 最初の歌2-1-2997歌と比較すると、ともに、五句が「よりにしものを」だが、前者はこれまでのことに触れない詠い方であり、後者はこれまでのことを振り返っており、いろいろなことを乗り越えてきて不退転の気持ちが強い、と思う。その結果、心が固まったと、詠っているように見える。それは阿蘇氏が指摘する「再考を促す事態が起こりつつある」ことに対処した決意表明ではない。

⑤ この6首の最初の歌は、「寄物」の「梓弓」を冠する「末」、すなわち将来における貴方との関係は分からない、と詠い出す。「一本歌曰」とある2-1-2998歌(2-1-2997歌の異伝歌)も同じである。将来までの愛を誓う、という訴え方をしていない。これは直前の剣に寄せた歌である歌2-1-2995歌や2-1-2996歌ではこのような断わりをして詠っていない。直後の2-1-2999歌にもない。これから、最初の歌は新たな歌群及び新たな対の歌の始まり、という位置付けにあるのではないか。また、最初の歌と2-1-2999歌の五句が「よりにしものを」と共通であることもその根拠の一つ。

⑥ 次に、歌が対の歌として理解できるか、を検討する。

 2-1-2997歌と対の歌の候補は、「一本歌曰」とある2-1-2998歌(2-1-2997歌の異伝歌)の次の2-1-2999歌。この2首は、梓弓に寄せて、「末のことは分からい」と「弓を引く・放す」を対比して五句は「きにみよりにしものを」と共通であり、ともに「今は相手にほれ込んでしまった」、と詠う。

 2-1-3000歌と2-1-3001歌は、梓弓に寄せて、「弓を引く・放す」を先に「末中」と対比して、五句が「しのびかねてむ」、「なげきはやめむ」と一組の歌とみれば恋の踊り場にいることを詠う。

 2-1-3002歌は梓弓に寄せて、不退転の気持ちを詠い、2-1-3003歌は(下記⑦に記すように)たたりあるいは麻に寄せて、恋渡ると詠い、夢中であることを詠う。この2首は、また逢えることを作中人物が期待している気持ちを詠っている、とみることができる。

 ここまでを3対の歌と捉えると、恋の歌として「言い寄ったが、相手が離れていくかに見える段階の歌」とくくることができる。

⑦ 次に、2-1-3003歌以降を検討する。

2-1-3003歌    寄物陳思

   𡢳嬬等之 続麻之多田有 打麻懸 続時無二 恋度鴨

   をとめらが うみをのたたり うちそかけ うむときなしに こひわたるかも

 初句~三句が、四句にある「うむ」の序。「うむ」には「倦む」が同音でかかっている。「たたり」とは四角の台に3本の枝のついた柱を立てて糸をかける道具。

「娘子たちが紡いだ麻糸をたたりに懸けて績む、そのウムではないが倦むことなく恋い続けることよ。」

 阿蘇氏)氏は、序詞表現の面白さで成立した歌と指摘。

「をとめ達がつむいだ麻をかけるタタリに、打麻をかけて續(う)む如く、う(倦)みたゆむ時なく、恋ひつづけることかな。」(土屋氏)

 氏は、「序を中心とする民謡。序の部分を味えば足りる程度(の歌)」と評する。

思うに、作中人物が「倦む」ことのないのは、再会に楽観的だから。序とした乙女らの作業は繰り返しの作業であり、恋の相手も倦むことなく作中人物を思っていることを示唆している。

 

2-1-3004歌   寄物陳思

  垂乳根之 母我養蚕乃 眉隠 馬声蜂音石花蜘 (ろ)荒鹿 異母二不相而
  たらちねの ははがかふこの まよごもり いぶせくもあるか いもにあはずして

 四句にある形容詞「いぶせし」とは、「(気にかかったり、気に入らなかったりで、気持ちがすっきりせず、うっとうしい感じを表す)気持ちがすっきりしない。ゆううつだ。気色がわるい」意(『例解古語辞典』)。

「たらちねの母が飼っている蚕が繭にこもるように、気が晴れないことだよ。あの子に逢わないでいて。」 (阿蘇氏)

氏は、序詞への興味で成立している歌、と指摘。

「タラチネ(枕詞)母の養う蚕の、繭(まゆ)にこもる如く、心にいぶせくあることかな。妹にも会はないで。」(土屋氏)

 氏は、「初句~三句は「いぶせし」(心晴れず内にこもって,せんない状態)の序。戯書でもしなければ退屈の歌が続きすぎる」と指摘。

初句~三句の訓が全く同じ歌が巻十一にある(2-1-2500歌)。その下句は、「隠在妹 見依鴨」(こもれるいもを 見むよしもがも)。(母親が大事に育てている)繭は作中人物の相手の女性を意味しているが、この歌では、作中人物の現在の気分を意味している、と両氏は理解している。

 それよりも、2-1-2500歌と同じように繭は相手の女性を指し、母の目が行き届いているから「いぶせし」と理解したい。

 

2-1-3005歌   寄物陳思

 本文「39.②」に現代語訳例を記す。二句と三句にある「かく」とは、「心に掛く」意。連語で「念頭から離れない状態にある形容。だから、訳例に従えば、思っているだけの状態に作中人物は居ることになり、この歌は、相手になかなか会えないでいる状況を詠っていることになる。

 

2-1-3006歌   寄物陳思  

   紫 綵色之蘰 花八香尓 今日見人尓 後将恋鴨

   むらさきの まだらのかづら はなやかに けふみしひとに のちこひむかも

 初句~二句は「はなやか」の序。「かづら」とは「上代、つる草や草木の枝・花などを髪に巻きつけて飾りとしたもの。」(『例解古語辞典』) 「紫」という色が修飾しているので、単に頭飾りを言っているのか。

 「紫草で染めたまだら模様のかずらのように、はなやかでうつくしいと思って今日見たあの人に、後に恋するだろうかなあ。」( 阿蘇氏) 

 氏は、初句~二句について、「今日見人」が「紫のかずらをしていた」とみる説もある。そうであれば序詞ととる必要はない、と思う。「今日見人」とは「けふみしひとに」のほか「けふみるひとに」とも訓まれる。五句との関係では後者がよいようでもあるが、美しかった娘子を思い出しつつ五句をいうことは十分可能。」と指摘。

 「紫の濃淡の頭飾りの如く、花やかに、今日会った人を、後に恋ひ思ふことであらうか。」(土屋氏)

 思うに、この歌は、一目ぼれの稔る予感を作中人物は詠っているとみることができる。

 

2-1-3007歌   寄物陳思

   玉蘰 不懸時無 恋友 何如妹尓 相時毛名寸
   たまかづら かけぬときなく こふれども なにしかいもに あふときもなき

 「玉かずらを掛けるように、心に掛けない時はなく恋うているのだが、どうしてあの子に逢う機会がないのだろうか。」(阿蘇氏)

 「タマカズラ(枕詞)心に掛けぬ時なく、恋ひ思ふけれど、どうしたことか、妹に会う時もない。」(土屋氏)

 思うに、この歌は、心に思っていれば、遊離魂も働いてくれるとおもったのに、それもない、と嘆いている歌。

 

2-1-3008歌   寄物陳思 

   相因之 出来左右者 疊薦 重編数 夢西将見
   あふよしの いでくるまでは たたみこも へだてあむかず いめにしみえむ

 「逢うてがかりが得られるまでは、畳にする薦を隔て編みあるその編み目の数ほども、あなたの夢に見えましょう。」(阿蘇) 

 「会ふ手がかりの出来るまでは、疊ごもを、繰り返し繰り返し編む如く、しばしば夢に見えるであらう。」(土屋氏)

 氏は、四句を「へあむしばしば」と訓み、序(「しばしば」の序が「たたみこも へあむ」)の面白さによる歌、と指摘。

 

2-1-3009歌   寄物陳思 

   白香付 木綿者花物 事社者 何時之真枝毛 常不所忘

   しらかつく ゆふははなもの ことこそば いつのまさかも つねわすらえね

 「白香のような木綿は、花と同じで美しいが、一時的なものでしかありません。お言葉こそは、いつどんな時も、ずっと忘れることができずにいますが・・・」 (阿蘇氏)

 氏は、「木綿(ゆふ)を仮の物とする理由がはっきりしない。」と指摘し、「ゆふ」について「楮の樹皮を剥いで、その繊維を蒸して水にさらし、細かに裂いて糸状にしたもの。榊(さかき)や斎瓮(いはひべ)にかけたり、花を造って神に供えた。」と説明。

 「シラガツク(枕詞)木綿(ゆふ)は花ものである。けれども其の花の花物であるといふことこそは、何時のしばらくの間も、常に忘れられない。」(土屋氏)

 氏は、三句「事社者」や四句にある「真枝」など訓を詰める必要性を指摘し、また初句を「しらがつく」と訓み枕詞としている。二句「木綿者花物」の「花物」はここでは「美しい」だけの意であろうし、「ゆふ」に処女を例えているか、とも指摘。

 四句までに関するいろいろな議論にかかわらず、この歌の五句の対象は、前後の歌から考えても恋の相手と断言できる。五句を相手に伝えたい歌。

 

2-1-3010歌   寄物陳思

   石上 振之高橋 高高尓 妹之将待 夜曽深去家留

   いそのかみ ふるのたかはし たかたかに いもがまつらむ よぞふけにける

 二句にある高橋とは、橋脚の高い橋をいう。三句「高高尓」とは、「待つ」の副詞(土屋氏)、「今か今とひたすら待つ」形容(阿蘇氏)。

 「石上の布留川にかかる高橋のように、高々に―今か今かといとしい妻が待っているだろうに、夜が更けてしまったよ。」 (阿蘇氏)

氏は、初句~二句は三句「高高尓」を起こす序詞とし、焦る夫の気持ちを詠うと指摘。

 「石上の布留にある高橋の如く、高々に、妹が待つであらう夜はふけた。」(土屋氏)

 思うに、この作中人物は、この歌を「妹」におくったのであろうか。待たせたい「妹」を持ちたいねと仲間内でぼやいている歌ではないか。

 

2-1-3011歌   寄物陳思

   湊入之 葦別小船 障多 今来吾乎 不通跡念莫

   みなといりの あしわけをぶね さはりおほみ いまこむわれを よどむとおもふな

 「葦をかきわけつつ湊に入る小舟のように、差し障りが多いのでなかなか行けなかったが、もうすぐに行くつもりの私を、気持ちが変わって来ないのだと思わないでおくれ。」(阿蘇氏)

 氏は、「三句「さはりおほみ」には、「葦が入港の障害」と「二人の交際に対する周囲の干渉が多い」との両意がある。」と指摘。

 「湊に入る、葦を別けて行く小船の如く、障碍が多く、これから行く吾を、停滞して居ると思ふな。」(土屋氏)

 氏は、初句~二句は三句「障多」の序と指摘し、「序の部分が珍重されて、時々新しい意を添へ用いられた民謡」と指摘。

 同じ序は、巻十一 寄物陳思 2-1-2755歌にある。

   湊入之 葦別小船 障多見 吾念公尓 不相頃者鴨

   みなといりの あしわけをぶね さはりおほみ わがおもふきみに あはぬころかも

 初句~二句は三句「さはりおほみ」を掛詞として序詞になっている。

 思うに、この歌も仲間内の単なる恋人願望の歌ではないか。土屋氏の指摘が尤もである。

 

2-1-3012歌  寄物陳思   或本歌曰

   湊入尓 葦別小船 障多 君尓不相而 年曽経来

 2-1-3011歌の異伝歌。(割愛)

⑧ 以上の2-1-3003歌以降9首の配列を検討する。

 2-1-3003歌は、「寄物」の違いを越えて、2-1-3002歌と対の歌かと推測した(上記⑥)。

 次の2-1-3004歌は、繭に寄せて、相手に近づけないことを、また、2-1-3005歌は、「たすき」に寄せて、「心に掛」けたその次は見ることだと詠って、作中人物が未だ相手に近づけていないことを訴えている。

 対の歌とみれば、相手に近づけてない悔しさ・情けなさを詠う2首、といえる。2-1-3005歌が類似歌なので配列の検討後、本文で再度確認する。

 2-1-3006歌は、「かづら」に寄せて、一目ぼれの予感を詠い、2-1-3007歌もかづらに寄せて、逢うことは進捗してないことを詠っている。

 対の歌とみれば、前の対の歌に続いて、逢う工夫自体がとん挫している状況の歌ではないか。また、繭にたとえた相手は、紫の「かづら」をつけた子であるかもしれない。

 2-1-3008歌は、たたみこもに寄せて、屡々夢に見たいと、2-1-3009歌は木綿(ゆふ)に寄せて、(事社者など不明な語句もあるが)憧れの乙女は忘れられないと、詠い、両歌は一目ぼれの相手を思い続けているかの歌である。

 2-1-3010歌と2-1-3011歌は、相手のいない作中人物の歌である。恋人願望なので恋の歌といえるが、2-1-3008歌と2-1-3009歌の対の歌にみえる恋の進捗度とは違いが大きい。2-1-3009歌までの歌と歌群が別であるかにみえる。

⑨ このように、梓弓が「寄物」となった歌2-1-2997歌以降は2-1-3012歌まで、歌を対にして配列している、とみることができる。そして、歌群は、

 2-1-2997歌~2-1-3003歌、 言い寄ったが、相手が離れていくかに見える段階の歌

  2-1-3004歌~2-1-3009歌、 会えず、思いが募る段階の歌

 2-1-3010歌~、 女性願望の歌

の3つの歌群が認められる。この順番になる理由はわからないが、そのようにグループ化して理解が可能である。

付記2.土屋文明氏のいう「民謡」について

① 『萬葉集私注 六』の「萬葉集巻第十一」において、「古今相聞往来歌類之上・下(巻十一・十二)は集中の代表的な民謡集」と指摘し、民謡という理由を説明している。以下②と③のとおり。

② 民謡とは、「特定個人の製作ではなく、民族心、社会心、一般に集団意識と称すべきものの表現といふ意である。実際は名をかくされた個人の手によって表現を与へられる場合があっても、かういふ作品は、その個人の経験を主としたものではなく、又は個人的立場の意味より、集団の経験としての意味が強いのである。」(3p~)

③ 「(作者未詳歌が)社会の共同文化財として伝播流行する間に、集団意識からの、数知れぬ協力、改変、進展を受けて、現在の形に到達したものであらう。」(4p)

④ 「歌集の歌の如きは、細部の変更、改削は余り気にしないといふ、当時の受用者の習慣によるもの」(がある) (六巻附録しをり(1982.10))

⑤ 「十一、十二は相聞往来歌ですから、あれを特定個人の特定な立場に於いての製作といふ風にとったのでは評価の上に根本的の相違がでてくる様に私は思ひます。」(十巻 補巻 「巻第十一第十二私訓二三」 282p)

 

付記3.『萬葉集』で「たまたすき」の直後に動詞「かく」が続くパターンについて

① 巻十二の2-1-2910歌の検討の際『萬葉集』で「たまたすき」の直後に動詞「かく」が続くパターンを確認した(2021/1/25付けブログ参照)

② 4類型ある。「たすきを常にかける」という用例が先行し、巻十二に至り、「たすきをかけない」用例となる。巻十三では、前者となる。

第一 「(たまたすき)かけてしのふ」:2-1-199歌(巻二)  2-1-369歌(巻三) 2-1-3338歌(巻十三)

第二 「(同)かけぬときなく」:2-1-1457(巻八) & 2-1-1796(巻九) &2-1-2240(巻十) 2-1-3300歌(巻十三) &2-1-3311歌(巻十三)

第三 「(同)かけずわすれむ」:2-1-2190 (巻十二)

第四 「(同)かけねばくるし」:2-1-3005(巻十二)>

③ 『萬葉集』の最後の用例は、長歌である2-1-3338歌にあり、上記第一の類型である。但し、1首のうちに2回用いられている。

④ この類型は、「たまたすき かく」の意の変遷を追ったものではない。例えば、第一の類型で、2-1-199歌(巻二) と2-1-3338歌(巻十三)での「たまたすき かく」の意は、異なる。

(付記終わり  2021/5/31   上村 朋)

 

  

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 たまたすき一覧

 前回(2021/5/17)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 6首の思ふ」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 たまたすき一覧」と題して、記します。(上村 朋)

1.~38.承前

 2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。現在3-4-19歌の初句にある「たまだすき」の理解のため、『萬葉集』の(2-1-3005歌を除く)用例と三代集唯一の用例1-1-1037歌での「たすき」の検討が終わった。『萬葉集』では「たまたすき」と訓み、巻十三の用例では、「袖の動きを制止する紐」の意になり、1-1-1-1037歌では、たすきによって対象物が自由を制限されているイメージであった。

3-4-19歌  おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを

    たまだすきかけねばくるしかけたればつけて見まくのほしき君かも )

2-1-3005歌     寄物陳思

玉手次 不懸者辛苦 懸垂者 續手見巻之 欲寸君可毛

たまたすき かけねばくるし かけたれば つぎてみまくの ほしききみかも

1-1-1037歌     題しらず       よみ人しらず

   ことならば思はずとやはいひはてぬなぞ世中のたまだすきなる

39.たまたすき用例通覧

① 『萬葉集』と三代集における「たすき」の用例について、3-4-19歌の類似歌である2-1-3005歌を除き検討が一応終わりました。その意の経緯をおさらいします。

 『萬葉集』で、「たまたすき」の初例は、巻第一にある2-1-5歌の「玉手次(たまたすき)」です。そして、計14首に用いられ、2回用いている歌が1首ありました。それに対して、「たすき」の用例は1首、そして「ゆふたすき」の用例は3首でした。

 三代集では、「たまだすき」の用例が1首しかなく、「ゆふだすき」も5例だけでした。『貫之集』などの私家集などの例も探しました。

② 「たすき」の発音に注目すると、『萬葉集』では、万葉仮名で

「多須吉」 2-1-909歌の1首1例、

「木綿玉手次」 2-1-423歌ほか計2首(例)、

「珠手次」 2-1-5歌ほか計4首(例)、 

「玉手次」 2-1-29歌ほか9首(例)、

「玉田次」 2-1-546歌他計2首(例)、

「珠多次」 2-1-3338歌Aの1首(例)、 (2-1-3338歌Bは「珠手次」)

とあり、その訓は「たすき」と清音で記されています(今、『新編国歌大観』より引用して検討しています。和歌はすべて同様です)。

 これに対して、三代集では、「たすき」と平仮名で表記されていて、「たまたすき」の用例でも「ゆふたすき」の用例でも平仮名表記は清音であったはずですが、諸氏は、「・・・だすき」と読み、歌について論じています。

 そのように発音する(濁音も書き分ける表記では「(たま・ゆふ)だすき」が妥当であるとする)ようになった経緯に諸氏は、触れていません。私は「たまだすき」については「たすき」の由来の違いなのかと指摘しましたが、不明です。

③ 「たすき」、「ゆふたすき」、「たまたすき」の順で歌番号順に整理すると、付記1.の二つの表が得られます。

 用例を検討した当該ブログの日付を付記しました。

 これまでの検討において、31文字しかない和歌は言葉を無駄に使っていないとして、検討してきました。できるだけ、「たまたすき」という語句の意味に故事来歴を含めて和歌の作者は用いているはず、という立場にたって理解してきたところです。その立場から、次のようなことを指摘できます。

第一 『萬葉集』では、巻一の2-1-5歌が初例であり、「たまたすき かけのよろしく」と詠っている。

この歌で「たすき」は祭主が身にまとうべきもの(「神事に用いる紐」)を指しており、「たまたすき かく」で神に奉仕・祈願している意を表している。

第二 『萬葉集』では「たすき」や「ゆふたすき」よりさきに「たまたすき」の用例がある。詠う場面にあう歌語として「たま」とか「ゆふ」という形容句を「たすき」に付加しているのではないか。

第三 動詞「かく」は同音異義の語句であり、「掛ける」意と「心に懸ける」意の二つを掛けて「たまたすき かく」と詠われている。前者のみの意が2-1-5歌であり、3例目である2-1-199歌からは、両意となっている。

第四 『萬葉集』での「ゆふたすき」の初例は2-1-423歌であり、「ゆふたすき かひなにかけて」と詠い、祭主が身にまとうべきもの(「神事に用いる紐」)を指している。これは2-1-3302歌でも2-1-4260歌でも同じであり、「ゆふたすき」は身にまとうべき箇所(かひなあるいは肩)をも詠っているものの、動詞「かく」と結びついていない。

 しかし、三代集になると、「ゆふだすき かく」と詠われ、「たまたすき かく」にとってかわっている。「ゆふだすき」の「だすき」には、祭主が身にまとうべきもの(神事に用いる紐)の意が残存しているかにみえる。

第五 『萬葉集』の用例2例目の2-1-29歌は、「玉手次 畝火之山乃(たまたすき うねびのやまの)」と「かく」にかからない。「たすき」を祭主が使用する際のたすきを身に着ける部位に注目して、かつ初例を参考に肩近くの「項」と「畝傍」の「う」が共通であることから、「う」にかかる新例を開いたのではないか。但し、この新例は萬葉集では柿本人麻呂の歌2首と笠金村の1首しかなく、三代集にもない。

第六 『萬葉集』の用例3例目(2-1-199歌)から「たまたすき」は、動詞「かく」のいわゆる枕詞と認識されている。

第七 『萬葉集』の用例では、「たまたすき かく」に、4類型がある。順次工夫されていった、

・ 「(たまたすき)かけてしのふ」:2-1-199歌(巻二)  2-1-369歌(巻三) 2-1-3338歌(巻十三)

・ 「(同)かけぬときなく」:2-1-1457(巻八) & 2-1-1796(巻九) &2-1-2240(巻十) 2-1-3300歌(巻十三) &2-1-3311歌(巻十三)

・ 「(同)かけずわすれむ」:2-1-2190 (巻十二)

・ 「(同)かけねばくるし」:2-1-3005(巻十二)

第八 巻十二、巻十三の用例は、「たすき」が祭主が身にまとうべきもの(「神事に用いる紐」)という認識が薄れている。動詞「かく」の枕詞となり、「たまたすき かく」は、「(作中人物などが)心に掛ける」意のみで歌の理解ができる。枕詞という修辞法の「一次的な機能」である「接続する語を卓立する(取り出して目立たせる)こと」に徹しているといえる。(長歌の一句であり、一句が担う言葉の重みが小さくなった場面であった。) 但し、2-1-3005歌は保留(3-4-19歌の類似歌であり未検討)。

第九 三代集では『古今和歌集』に「たまだすき」の用例が1例「誹諧歌(ひかいか)」の部にある(1-1-1037歌)。その「たすき」の意は、祭主が身にまとうべきもの(「神事に用いる紐」)ではなく、日常語としての「たすき」の意である。

 すなわち、たすき」とは、「衣服着用の際の紐状の補助具(あるいはその補助具の役割をも担った使い方をしている衣服の一部)を指す用語であり、「たすき」と称する紐の機能から、紐とそれを使う対象物との関係を重視し、動きを押さえている(あるいは強制的に物を整えている)状況に注目した表現と「たすき」と称する紐自体、あるいは紐が並行ではなく交差しているという形に注目した表現があり、『古今和歌集』の用例1-1-1037歌はその前者の意である。それは『源氏物語』「末摘花」の地の文にある「たまだすき」でも確かめられる。

第十 三代集に時代の私家集に「たまだすき」の用例がなく「ゆふだすき」の用例がある。「ゆふだすき」が「かく」の枕詞として定着している。

第十一 12世紀から14世紀でも、「たすき」は日常語として、使い続けられている。

 

④ 動詞「かく」の枕詞としては、『萬葉集』での「たまたすき」から、三代集の時代は「ゆふだすき」に引き継がれていました。

 これらから2-1-3005歌の「たまたすき」は、いわゆる枕詞としてもちいられているか、と予想します。

 また、『猿丸集』の成立時点は『古今和歌集』成立以後ですので、3-4-19歌の「たまだすき」は、日常語の「たすき」の系統の意であろうと、推測できます。

 なお、辞典での説明の例を付記2.に示します。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 次回は2-1-3005歌を検討します。

(2021/5/24   上村 朋)

付記1.句頭に「たすき」とある歌の一覧

表1. 『萬葉集』の訓において:句頭に「たすき」とある歌  (2021/5/24   21h現在)

たすき(万葉仮名)

巻・歌番号・万葉仮名表記・訓等

A当該箇所現代語訳・B「たすき」等の意・Cその他

検討したブログの日付

たすき(多須吉)

 

「たすき」計1例

巻五 909:「志路多倍乃 多須吉乎可氣 麻蘇鏡 弖尓登利毛知弖」:しろたへの たすき(多須吉)をかけ まそかがみ てにとりもちて

A現代語訳割愛

B「たすきをかけ」:神に祈る時の服装。

C「たすき」をかけているのは、児の延命祈願の儀式中。「たすき」をかけるほかに、手に真澄の鏡を持ち、親自らが祭主となって祈っている。

C「たすき」:神への奉仕や物忌みのしるし(『世界大百科事典』)、神事の際に必要な道具の一つ。

 

2020/9/21付け

ゆふたすき(木綿手次)

 

「ゆふたすき」計3例

巻三 423:「枕辺尓 齋戸乎居 竹玉乎 無間貫垂 木綿手次 可比奈尓懸而」

まくらへに いはひへをすゑ たかたまを まなくぬきたれ ゆふたすき かひなにかけて

 

A「亡き人の枕べには いはひべをすゑ、竹玉を間なく敷き垂らし、木綿即ち楮(こうぞ)のたすきを手にかけて。」以下は死者のために(生前に作中人物が)ミソギを執り行う所作と解される。(土屋氏) 

B「ゆふたすきを祭主がかける」のは、祈願の儀式では必須のことか。

Cこの歌は、挽歌。一連の葬儀の儀式で披露された歌。延命あるいは病気平癒を自らが祈りたかったが、それも出来ないうちに石田王の死を知って、嘆いている。

 

2020/9/21付け

ゆふたすき(木綿手次)

巻十三 3302:「木綿手次 肩荷取懸 忌戸乎 齊穿居」: ゆふたすき かたにとりかけ いはひへを いはひほりすゑ

A「木綿(ゆふ)のたすきを肩に取り掛け、齋瓶を潔めて土に堀り据ゑ」

B「ゆふたすき」は、「いはひへ」を掘り据えて神に祈る場面で、肩に取りかけられてる。その後に祈る(祝詞奏上)。自分の恋実現を祈願の儀式中

2020/9/21

ゆふたすき(木綿手次)

巻十九 4260:「木綿手次 肩尓取掛 倭文幣乎 手尓取持氐 」:ゆふたすき かたにとりかけ しつぬさを てにとりもちて  

A「木綿の襷を肩にとりかけ、倭文の幣を手に取り持って、」(土屋氏)

B「ゆふたすき」は祭主の肩に取り掛けられている。妻の延命を祈る場面の儀式中

C「木綿(ゆふ)」は材質を示す。

Cこの伝承歌が披露された時点:天平勝宝三年

 

2020/9/21

たまたすき

 

「たまたすき」計16例(15首)

巻一 5: 「珠手次 懸乃宜久 遠神 吾大王乃 行幸能 山越風乃」:たまたすき かけのよろしく とほつかみ あがおほきみの いでましの やまこすかぜの

 

A「大切なたすき(手次)をかけて祈って満足できる(よろしい)結果を得たように、遠い昔の神のような存在の大君がお出ましになって越えた山の方角から吹いてくる風の(朝夕に接すれば)」

B「珠手次」は、祈願することまでを意味する。「みそぎ」と同様に、「祭主として祈願する」という儀式全体の代名詞か

C編纂者は伊予の熟田津に至る前の地点でこの歌は詠まれた、と設定したか。「大君が届けてくれた風」を詠う。

2020/9/28付け

たまたすき

巻一 29: 「玉手次 畝火之山乃 橿原乃 日知之御世従」:たまたすき うねびのやまの かしはらの ひじりのみよゆ:

 

<「たすき」を「畝傍(火)」にかけているのは、>

A「神に奉仕の際にたすきをかけるうなじ、そのウナジと同音ではじまる、畝傍の山近くの橿原の地に宮を置かれた聖天子・神武天皇の時代(から、)」

B「ゆふたすき」を「肩に懸ける」という用例から肩近くの「項」と「畝傍」の「う」が共通であることから、新例を開いたのではないか。

「(ゆふ」たすき」は多くの神々に奉仕する資格を得ている証にもなっている。「たすき」と言う語句を、特別の方に用いるにあたり接頭語の「たま」をつけ、その表記に、天より降った神の子孫であるので、地上の貝という生物由来の「珠」ではなく鉱物由来の「玉」字をもちいたのではないか。 

C作詠時点:最早は建設途上での持統天皇即位後の行幸(690)。最遅は藤原京遷都(694)

C 神武天皇の名を詠いだす。

C藤原京遷都の式典等で披露された歌

2020/9/28付け

&2020/10/19付け

たまたすき

巻二 199: 「天之如 振放見乍 玉手次 懸而将偲 恐有騰文」:あめのごと ふりさけみつつ たまたすき かけてしのはむ かしこくあれども

A「祭主が襷をかけて神に奉仕しお告げを聴くように、心を込めて大君(高市皇子)の成されたことやお言葉を偲びたい、と思います。大君のことを勝手に話題にするのははばかれるのですが。」

B 「玉手次」には、神に奉仕するにあたって穢れのない状態を示す「たすき」をかける祭主のように、厳粛に貴方様を敬って偲ぶ、という意を込めることができます。

C殯宮での行事で高市皇子をこれからも偲ぶと詠う

C「珠手次」ではなく「玉手次」という表記にしているのは、漢字の「玉」の意を2-1-29歌同様作者は大事にしたのではないかと思います。

2020/10/5付け

たまたすき

巻二 207: 「玉手次 畝火乃山尓 喧鳥之」:たまたすき  うねびのやまに なくとりの

A 「玉たすきを掛け、神に祈ってから市に来たので、畝火乃山から軽に鳴きながら飛んでくる使いの鳥の(声は聞こえず)」

B 「みそぎ」と同様に、「祭主として祈願する」という儀式全体の代名詞の意の可能性(類音により「たまたすき」を枕詞とみる案ではなく儀式の略称の案) 

C妻が無事に出立する葬列を詠う。風葬の葬列を詠む伝承歌の流れの中にある歌。畝傍山風葬の地と理解すると、鳥は死者の使いではないか。

C作詠時点:人麻呂20歳以降没するまでの間(680~715)

C畝傍乃山尓 喧鳥之:次の句「音母不所聞」の「コヱ」をいうための序。(土屋氏)

2020/10/12付け &2020/10/19付け

たまたすき

巻三 369:「綿津海乃 手二巻四而有 珠手次 懸而之努櫃 日本嶋根乎」:わたつみの てにまかしたる たまたすき かけてしのひつ やまとしまねを

A (船上で越前国のレクチャーを受けていることを意識し、海神が現にコントロールしている「たま」にはいろいろあるが、「真珠」もある。その「珠(真珠)」でできているたすきを手にかけるように、心に掛けて(真摯に)眼前にしている任地の越前国の来し方を賞美した。

B 「綿津海乃 手二巻四而有」は、「珠」の序。「たすきを懸ける」という表現は、単に動作の描写と作者は捉えている。海神と「たすき」は無関係。

B 「珠手次」の「珠」とは、序から導かれ、真珠という素材を示している。真珠でできた「たすき(手次)」が動詞「懸く」を導きだしている。「たすきに懸ける」ということが単純に「心に掛ける」に通じる、として作者は用いている。(「たまたすき」という一語から、「心に掛ける」意を導いているのではない。)

C 「偲ふ」には、上代語として「賞美する。」意がある。

C この歌は、船上で越前国のレクチャーを受けていることを意識している。かつ、前任者たちを讃嘆する意を込めて詠った。

「祭主」がかける「たすき」であれば、海神が持つ「たま」という必要はない

C 任地に入り、船上で任地(日本嶋根の一部である越前国)を寿ぐ。着任時の宴などで披露された挨拶歌。

C 「海神」と「玉」・「白玉」と結びつけて詠んだ歌は柿本人麻呂歌集にあることが当時既に知られている。

2020/10/26付け

たまたすき

巻四 546: 「軽路従 玉田次 畝火乎見管 麻裳吉 木道尓入立」:かるのみちより たまたすき うねびをみつつ あさもよし きぢにいりたち

A 「軽という集落の十字路で左折して(紀州へ続く道に入り、何事もなくお帰りになることを祈った私をみるように、(間もなく見えなくなる)畝傍山を振り返り見つつ、よい麻裳を作る紀州路に入り」

B 「たまたすき」という語句の謂れがもうわからなくなっていたならば、単に類音で畝傍山に冠しただけの歌

 

C 畝傍山は、見送っている作中人物(「娘子」)を象徴し、神武天皇とは関係ない。

「たまたすき」という行為をした人物を畝傍山に見立てるのは、この二つの語句の結びつきとして新たな使い方。

C 行幸に従駕のため家を出るときは、どの官人の家でも無事を祈っていると想定できる。その行為を、潔斎して神に祈願する行為を指す「たまたすき」という語に託している。「祭主として祈願する」という儀式全体の代名詞となっている。

C巻一から四までの「娘子」の用例では妻の例が1例(2-1-140歌)であり、女官や遊行女婦の例が多い。

C 作詠時点:題詞より神亀元年(724)

2020/11/2付け

たまたすき

巻七 1339: 「玉手次 雲飛山仁 吾印結」:たまたすき うねびのやまに われしめゆひつ

 

 

〇雲飛山は「くもとぶやま」と訓む理解も可能。

A 「(貴方への思いが抑えきれず、どうしようもなくて、)神に祈願して、普段の状態ではない畝傍山に標を結んだよ(今は遠い存在の貴方を励ますことしかできない私です。)」

B 「雲飛山」を「うねびのやま」と訓み、「たまたすき」は約語・略語(「祭主として祈願する」という儀式全体の代名詞」)。「祭主」がかける「たすき」の役割が残っている「たまたすき」の用例。

C 「雲飛山」は遠い存在になった恋の相手(女)の意。

C私以外にはなびかないで、と訴えてこの歌をおくった歌か。

C 漢字での山の名「雲飛山」とは、表意文字である漢字から、深山とか標高のある山とか、人里から遠く離れた鄙びた地で見上げる山のようなイメージが浮かぶ。

C作詠時点:725年 (巻七の作者未詳歌なので)

2020/11/9付け 

&2020/11/16付け

&2020/11/23付け

 

たまたすき

巻八 1457: 「玉手次 不懸時無 気緒尓 吾念公者」:たまたすき かけぬときなく いきのをに あがおもふきみは 

 

 

〇「心にかけぬ時なく 命にかけて吾が思ふ君は、」(「たまたすき」を「かく」の枕詞とした土屋氏の大意)

 

A 「祈るにはたすきをかならず掛けるように、私は貴方をいつも大切に思っています。そして、この度もたすきを掛けて神に祈願をして(私が)命がけで、気に懸けている貴方は」

B 2-1-29歌以降において、みそぎと同様に「たすきをかける」という表現は「祭主として祈願する」姿を指しており、「たすき」が祈願の儀式全体の代名詞とみることができる。「玉手次」には、「祭主」がかける「たすき」の役割が残っている用例。

Cこの歌は、頭書で、大事な「貴方」の渡航まえに神に祈願し、掉尾で、出発後にも神に祈願する・物忌みをする、と詠っている。

C作詠時点:(題詞より)天平五年(733)

C作者金村は、長歌では、当時の常識に従って行動する妻を描き、反歌では、夫が無事戻れるような行動に専念する決意を詠っている。

2020/12/14

たまたすき

巻九 1796: 「肝向 心摧而 珠手次 不懸時無 口不息 吾恋児矣」:きもむかふ こころくだけて たまたすき かけぬときなく くちやまず あがこふるこを

 

〇「たまたすき」については、「たすきをかける」という表現で「祭主として祈願する」姿を指す第1案と、「かける」という動詞の対象に紐である「たすき」と体の一部位である「こころ」がある(「懸ける」にかかるいわゆる枕詞)第2案を、比較検討。

A 「主要な内臓が向きあっているところにあるという心はくだけてしまい、(私の行動は制御が利かなくなり、) 神に祈る時には常にたすきをかけないことがないように、貴方を心に懸けない時は無く、だから、(貴方のことしか考えられなくなり)ため息ばかりだ、ああ、吾が恋する君よ。」

B 「珠手次 不懸時無」の「珠手次」は、「祈願の儀式全体の代名詞」あるいは祈願の略語。

〇たすきを使う特別な状況を前提とした第1案のほうが比喩として優れている。またこの歌が作られた時代は、官人の送別時の歌にみられるように、種々の祈願はよく行われている。

B作者が、いわゆる枕詞を連発し、漢文の助字を音仮名として積極的に用いて文を飾っている方針を尊重すれば、「たまたすき」にも作者の時代まで残っていた意味合いを重ねて創作していると思える。

C作者の候補は左注により田辺福麻呂

2020/12/21付け

たまたすき

巻十 2240: 「玉手次 不懸時無 吾恋」:たまたすき かけぬときなく あがこふる

A 「たまたすきは掛けるものと決まっているように、私がいつも心に懸けて思っているのは、貴方、私が恋い慕う貴方。」

B 「たまたすきをかける」の意は、簡素化して「かける」ものが2種あると割り切る(「かく」のいわゆる枕詞)、ということを、編纂者は提案している。

このように割り切って理解した最初の人物が、巻十の編纂者といえる。

B 2種:「かける」という動詞の対象の2種。

a紐である「たすき」をかける意。

b(「懸く」にかかるいわゆる枕詞)「たすき」は当然かけるものであり、そのように、あなたを私は「心」にかけている意。

2020/12/28付け

&2021/1/11付け

たまたすき

巻十二 2910: 「玉手次 不懸将忘 言量欲」:たまたすき かけずわすれむ ことはかりもが

 

 

〇「心にかけず、忘れるやうなやり方が欲しい。」(土屋氏。たまたすきは枕詞なので訳出していない)

〇土屋氏は、「表面、忘れるやうにしたいと言ふのであるが、実は同棲したいといふのであらうか。その辺が俗曲趣味的でいやな歌だ。タマダスキ(枕詞)は「カケ」だけにつづくので、さうした用法は少なくないのだが、ここでは何か不自然である。

A (作中人物が女の場合)「だから、たすきをかけない日常のように、貴方を心に懸けないようになるような、失念できるような方法があればなあ。」

B この歌の「たまたすき」は、動詞「かく」にかかるいわゆる「枕詞」の意。「たすき」というものの使い方「かく」のイメージだけ。神に仕えるときの儀式・祈願の儀式の意はない。

C 「たまたすき かけずわすれむ」は名詞「ことはかり」を修飾する。

C 「たすきを常にかける」場面の用例がこれまで続いているので、この歌は新鮮あるいは異例。

C 『萬葉集』で「たまたすき」の直後にかく(動詞)」が続くパターンに、4類型ある。

第一 「(たまたすき)かけてしのふ」:2-1-199歌(巻二)  2-1-369歌(巻三) 2-1-3338歌(巻十三?)

第二 「(同)かけぬときなく」:2-1-1457(巻八) & 2-1-1796(巻九) &2-1-2240(巻十) 2-1-3300歌(巻〇) &2-1-3311歌(巻〇)

第三 「(同)かけずわすれむ」:2-1-2190 (巻十二)

第四 「(同)かけねばくるし」:2-1-3005(巻十二)

2021/1/25付け

たまたすき

巻十二 3005: 「玉手次 不懸者辛苦 懸垂者 続手見巻之」:たまたすき かけねばくるし かけたれば つぎてみまくの (ほしききみかも)

 次回検討

3-4-19歌を検討した2018/6/25付けブログの2-1-3005歌の検討結果は今保留します。

 

たまたすき

巻十三 3300: 「玉手次 不懸時無 吾念有 君尓依者」:たまたすき かけぬときなく あがおもへる きみによりては

 

 

 

A 「玉たすきをかけない神事などないように、心にかけて思わない時などない貴方のために、・・・」

B編纂者の理解をベースにすると(編纂時まで種々利用されてきた歌の歌意として、ブログの第三案を現代語訳とする。

B(第三案):「たま」は一般的な美称とみて「たまたすき」を「たすき」の歌語と割り切り、「たまたすき」により「かく」という語を導くための意に徹したと理解する場合

Cこの歌は、愛人に会ふことを願っている2-1-3298歌の「少しの異同のある別伝」(土屋氏)

 

2021/2/1付け

&2021/2/8付け

たまたすき

巻十三 3311: 「玉田次 不懸時無 吾念 妹西不会波」:たまたすき かけぬときなく あがおもふ いもにしあはねば

 

 

A 「玉たすきをかけない神事などないように、心にかけて思わない時などなく私が恋しく恋しく思っている貴方には逢えないということであれば、」

B 3300歌と同じく、「たまたすき」の意は、巻十三編纂時点では、2-1-3311歌に同じになっていた。「かく」と発音する動詞にかかることを重視した用い方になっていたのではないか。

C 土屋氏の評:「極めて類型的な、普通の、会はない恋の表現にすぎぬ。反歌も類型的で言ふべきところもない」

2021/2/15付け

たまたすき

巻十三 3338: A「露負而 靡芽子乎 珠多次 懸而所偲」:つゆおひて なびけるはぎを たまたすき かけてしのはし 

B「天原 振放見管 珠手次 懸而思名 雖恐有」:(みそでの ゆきふれしまつを こととはぬ きにはありとも あらたまの たつつきごとに)あまのはら ふりさけみつつ たまたすき かけてしのはな かしこくあれども

A:「(露をやどしてなびいている萩を、)玉たすきはつねにかけるものであるように、心に懸けて賞美され」

B:「(皇子の御袖の触れた松を、もの云わぬ木ではあるが、新たに立つ月ごとに天の原を振り仰いで見ながら、)玉たすきがつねにかけるものであるように、つねに、心に懸けて忍ぼうよ。」

B 「たまたすき」は、A,Bともに「かく」にかかる。

用例Aは、亡くなった皇子が「心にかける」のであり、皇子が、萩という植物を鑑賞された意。実際に「たまたすき」を用いることになる神に奉仕する(祈願する)場面からは連想できない光景。

用例Bは、作中人物が「心にかける」のであり、「皇子の御袖の触れた松」を仰ぎ見る意。それは皇子を偲ぶことを遠回しに言っている。(2-1-199歌は直接亡くなった皇子を偲ぶと詠っていた)。

B枕詞という修辞法の「一次的な機能」である「接続する語を卓立する(取り出して目立たせる)こと」(付記2.参照)に徹して、この歌の朗詠時の効果を意識しているのではないか。

C 作中人物は、皇子を偲ぶ官人

2021/3/1付け

参考:ゆふだすき

貫之集などの例

A神事の際の「たすき」の紐で「かく」の枕詞であり、「心に掛けて・神に約束して」の意を含む

A 例外的に神事の略称

2021/4/5付け

参考:たまだすき

三代集のたまだすき

A

 

注記

 

「かけたるたすき」、「せしたすき」「とりもつたすき」の用例無し

 

注1)歌番号:『新編国歌大観』記載の『萬葉集』における歌番号

注2)検討したブログとは、「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・・」の当該日付のブログをいう。

注3)歌の検討は、歌の音数を大事にすれば、作者は、意味のある語句優先で音数を綴り、現代における理解もすべて有意の語句として理解できる、という方針に基づく。

注4)『萬葉集』の訓は『新編国歌大観』による。また歌は同書から引用した。

表2.三代集の時代の「たまだすき」などの用例

たすき等の語句

歌集名等・歌番号・万葉仮名表記・訓等

A当該箇所現代語訳・B「たすき」等の意・Cその他

検討したブログの日付

たすき

宇津保物語「蔵開上」・「国譲下」:たすきかけ(がけ)

A紐状の補助具を使用した袴着用の容姿あるいは腰紐を肩にまわした容姿

B たすきは、動きやすく制御する紐状の補助具。

2021/4/19付け

ゆふだすき

三代集 

B 「かく」にかかる枕詞。

2021/4/5付き

ゆふだすき

三代集時代の私家集 貫之集ほか 計7首

B 「かく」にかかる枕詞。「ゆふだすき」は神事において使用する紐の意を示唆している。

B 1首は例外的に「神事」を指す

2021/4/5付き

ゆふだすき

平中物語の歌

B 「ゆふだすき」は「かく」の枕詞

2021/4/5付き(付記4)

ゆふだすき

源氏物語の歌 5-421-152歌

B 「こころに掛けた」意を持たせ、文の相手である(今は神に奉仕することとなった身としてつねに「たすき」を身に着ける立場になっている)「斎院の御前」を指す。

2021/4/5付き

ゆふだすき

源氏物語の歌 5-421-153歌

B 文の相手を「ゆふだすき」と言ってきたのにならい、返歌なので同じように文の相手である)光源氏を「ゆふたすき」は指す。また「かく」にかかる枕詞。

Cこの歌は、事実無根だと切り返す歌。

 

2021/4/5付き

たまだすき

古今集 1037歌:なぞ世中のたまだすきなる

A だから、どうしてこのようなことが私たちの「たすき」(制約・妨げ)となるのでしょうか(そんなことはありませんよね。)」

B 「たすきによって対象物が自由を制限されているイメージ」

C日常用語のいわゆる俗語の「たすき(形)」からのもの

C 「たすき」と称する紐の機能から、紐とそれを使う対象物との関係を重視し、動きを押さえている(あるいは強制的に物を整えている)状況に注目した表現

2021/5/17付け

たまだすき

源氏物語「末摘花」地の文:「玉だすき苦し」

A (しばし無言の後)「玉だすき苦し」、という状況です」

C 「1-1-1037歌の作者の心境です」、と訴えた。相手の制止によって足踏みを余儀なくされている、動き出せない状況での発言。姫君にはまだ拒否はされていないと確信しているので、源氏は必死。

2021/4/12付け

  • 歌番号:『新編国歌大観』記載の『萬葉集』における歌番号
  • 検討したブログとは、「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・・」の当該日付のブログをいう。
  • 歌の検討は、歌の音数を大事にすれば、作者は、意味のある語句優先で音数を綴り、現代における理解もすべて有意の語句として理解できる、という方針に基づく。

 

付記2.「たすき」の説明例 

①「襷(たすき)」とは、『例解古語辞典』では「神事の際、供物などに袖が触れないよう、袖をたくしあげるために肩に掛ける紐」と説明する。

②『世界大百科事典』(第2版)には、「古墳出土の埴輪にたすきをしたものがある。これらはともに巫女が着用した例で,御膳を献ずるのに古くはたすきで腕をつって持ち上げたといい,神への奉仕や物忌のしるしとされていた。古代の衣服は筒袖であったから,たすきは労働用ではなくもっぱら神に奉仕する者の礼装の一部であった」

(付記終わり 2021/5/24    上村 朋)

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 6首の「思ふ」

 前回(2021/5/10)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 たすき・世中いろいろ」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 6首の「思ふ」」と題して、記します。(上村 朋)

1.~37.承前

 2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。現在3-4-19歌の初句にある「たまだすき」の理解のため、三代集唯一の用例1-1-1037歌を検討しており、当時「たすき」には二つのイメージがあったことがわかった。なお、『萬葉集』では「たまたすき」と訓み、巻十三の用例では、「袖の動きを制止する紐」の意になっている。

3-4-19歌  おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを

    たまだすきかけねばくるしかけたればつけて見まくのほしき君かも )

1-1-1037歌  題しらず       よみ人しらず

     ことならば思はずとやはいひはてぬなぞ世中のたまだすきなる

 この歌は二つあるいは三つの文からなると理解ができる。

 文AB案 文A:ことならば思はずとやはいひはてぬ 

(「やは」は係助詞が重なる連語。「ぬ」は、打消しの助動詞の連体形)

 文B:なぞ世中のたまだすきなる

 文CDB案  文C:ことならば思はずとやは (「やは」は終助詞が重なる連語。)

 文D いひはてぬ  (「ぬ」は、完了の助動詞の終止形。)

 文B なぞ世中のたまだすきなる  

 また、歌は、『新編国歌大観』より引用する。

 

38.1-1-1037歌は、歌意が1案に収斂するか 

① 前回、1-1-1037歌に用いられている同音異義の語句の組合せを検討しました。現代語訳の候補を初句と二句の意を優先して整理すると、表1.のようになります(付記1.参照)。

 2案ある「たすき」のイメージ(下記⑮参照)のどちらにも、恋の歌としての歌意が認めらました。

 今回は、これらの現代語訳候補において、『古今和歌集』の「誹諧歌(ひかいか)」の部における配列や、誹諧歌たる所以を確認し、『源氏物語』の「末摘花」の地の文にある「たまだすき苦し」とこの歌との関係を検討します。

表1. 1-1-1037歌の現代語訳候補(語句の意別の整理表)

整理番号

初句

二句

四句の「世中」

たすき

歌意

11

連語

作中人物の願い

文AB

男女の仲

1.制約・妨げ

願いは一歩後退二歩前進のため 信頼厚い

12

連語

作中人物の願い

文AB

世間・世間の評判

2.すれちがい

相手へのショック療法

13

連語

作中人物の願い

文AB

男女の仲

2.すれちがい

相手へのショック療法

21

連語

作中人物が伝聞したこと 文CDB

男女の仲

1.制約・妨げ

相手に再考を促す

22

連語

作中人物が伝聞したこと 文CDB

世間・世間の評判

1.制約・妨げ

相手に再考を促す

23

連語

作中人物が伝聞したこと 文CDB

世間・世間の評判

2.すれちがい

相手に再考を促す

24

連語

作中人物が伝聞したこと 文CDB

男女の仲

2.すれちがい

相手に再考を促す

31

事成らば

作中人物が伝聞したこと 文CDB

世間・世間の評判

2.すれちがい

相手に再考を促す

32

事成らば

作中人物が伝聞したこと 文CDB

世間・世間の評判

2.すれちがい

相手に再考を促す

33

事成らば

作中人物が伝聞したこと 文CDB

男女の仲

2.すれちがい

相手に再考を促す

注1)整理番号:付記.1の整理番号に同じ。

 

② 『古今和歌集』巻十九にある部立て「誹諧歌(ひかいか)」は、1-1-1011歌が巻頭歌です。四季の歌から始まり、恋の歌、次いで雑の歌という順です。恋の歌は、1-1-1022歌から始まり、久曾神氏は類別し、「逢わぬの恋、相思の恋、別れの恋、心を乱す恋」の順であると指摘しています。

 この歌に用いられている動詞「思ふ」は、この歌から6首の歌に続いて用いられています(付記2.参照)。

「誹諧歌」にある歌には、特別に個性的な発想や特別に凝縮した表現があります(付記3.参照)ので、連続して用いられている動詞「思ふ」の意図を中心に、配列を検討します。

③ 歌を引用します。

 1-1-1037歌  上記(承前)に記す。

 1-1-1038歌  題しらず  よみ人しらず  

    おもふてふ人の心のくまごとにたちかくれつつ見るよしもがな   

 1-1-1039歌  題しらず  よみ人しらず  

      思へどもおもはずとのみいふなればいなやおもはじ思ふかひなし 

 1-1-1040歌  題しらず  よみ人しらず

     我をのみ思ふといはばあるべきをいでや心はおほぬさにして 

 1-1-1041歌  題しらず  よみ人しらず  

     われを思ふ人をおもはぬむくいにやわが思ふ人の我をおもはぬ  

 1-1-1042歌 題しらず  よみ人しらず         一本、ふかやぶ

 思ひけむ人をぞともにおもはましまさしやむくいなかりけりやは      

 この6首の作中人物とその相手との関係をみると、次の表2.が得られます。1-1-1037歌については、ほかの5首からの予測です。

表2.「思ふ」の語句を用いる 1-1-1037歌~1-1-1042歌の作中人物とその相手の関係

 (<>は1-1-1038歌以下からの予測)

歌番号

作詠時点での作中人物の立場

作中人物の相手の立場

備考

1-1-1037

<思っている相手の心を言葉・態度で確かめたい>

<作中人物に明確な意思表示をしないでいる人>

1038歌とペアか。

1-1-1038

 

思ってくれる人々の心のうちに入り確かめたい

作中人物を思ってくれている人々

1038歌とペアか。(作中人物をまだ思っていない人と思う人)

1-1-1039

 

相手を思っている。

相手は作中人物を思っていない

1040歌とペア(愛する異性がいるとも思えない相手に袖にされている。)

1-1-1040

 

相手を思っている

相手は作中人物以外のひとも思っている

1039歌とペア(多数の異性を愛する相手が作中人物も愛する)

1-1-1041

昔拒否した人がいて、今思っている人がいる

今の相手は「昔拒否した時の自分」

1042歌とペア(因果応報の因が悪の例)

1-1-1042

昔拒否した人がいて、拒否されている自分が今いる

今の相手も自分と同じ経験を共有する

1041歌とペア(因果応報の因を善とみようとする例)

注1)歌番号:『新編国歌大観』の巻数―当該巻の歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)<>:本文下記④における予測結果

 

④ このように、1-1-1038歌以下の5首の作中人物は、相手を「思ふ」状態にあって詠い、最後の1-1-1042歌はさらに過去をも回顧して詠っています。

 また、作中人物の性別を推測すると、偶数番号歌は、女性ではないか。1-1-1038歌における多くの相手から言い寄られているかの表現や、1-1-1040歌の「おほぬさ」の例えなどの詠いぶりは、作中人物が女性と推測できます。

 1-1-1042歌は、1-1-1041歌の返歌とすれば、相手の用いた「むくい(ひ)」を詠みこむのは自然であり、作中人物を男性と決めつけなくともよい、と思えます。そして、「あのときはごめんなさい、仲直りしましょう」、という歌ともとれます。

 1-1-1041歌は、因果応報という仏教語の「むくい(ひ)」という表現から男性と推測できます。

 このように、1-1-1039歌以下は、奇数番号の歌とその次の偶数番号の歌は、ペアとして配列されており、作中人物と相手との関係に関して対比した歌となっています(付記.4参照)。

 そして、5首は作中人物の恋の過程順(疑心発生、不満あれども交際、破局或いは再縁)に配列されている、とみることができます。

 そのため、動詞「思ふ」を用いているこの6首の配列から、この歌に関しては、次の推測が成り立ちます。

第一 1-1-1037歌は、1-1-1038歌とペアの歌。作中人物は相手と情報交換する仲(二人きりの状態に至らない仲)であって相手の本当の気持ちを探りたいという時点の歌か。

第二 1-1-1037歌と1-1-1038歌は、作中人物が前向きに考えている相手とまだそうでもない相手を対比した歌、あるいは、相手との関係を楽観的と悲観的で対比した歌か。

第三 1-1-1037歌は奇数番号歌なので男性の立場の歌であり、1-1-1038歌は女性の立場の歌。

 このうち、第一と第二は矛盾するところがあります。今、第一をとり、具体に、1-1-1037歌の作中人物の思いなどの予測を、表2.の1-1-1037歌の欄に<>書きで記しました。(久曾神氏の類別の検討は、後日行うこととします。)

⑤ その上で、歌本文と表1.の現代語訳候補をみると、次のことを指摘できます。

 第一 二人の仲を表現している「世中のたまだすきなる」という語句は、「すれちがうことも生じるかのような具体の行動を前提とするのではなく、男女の仲の総論としての言及ではないか。

 1-1-1038歌の「心のくまごとにたちかくれつつ見る」も総論(相手の気持ちを知る方法論)であり、総論部分で両歌はペアの歌となる。

 第二 「世中のたまだすき」が官人世界における慣用句であれば、表の意は「世間・世間の評判」が実際の物事などと「たまだすき」(かけちがっている)のようだ、の意であろう。「世中」を男女の仲に理解するのは、裏の理解であろう。

  この歌では、上句の関係で裏の意に用いている。

 第三 「作中人物は相手と情報交換はする仲(二人きりの状態に至らない仲)」であれば、ショック療法的な詠い方は場違いな詠い方ではないか。1-1-1038歌が心に内に入って確認したい、と詠っているとの対比で、外見で(つまり、言葉に出してもらって)確認したいと詠っているのが1-1-1037歌ではないか。

 そうであれば、言葉で確認し、それが本心からのことか確認したい、という配列順にあるとみなせる。

 第四 現代語訳候補では、連語の意の「ことならば」を、作中人物と相手が既に共有している事がら、としているが、それは、恋の膠着状態を指し、作中人物からみれば相手の態度が不鮮明であることになるのではないか。

 第五 現代語訳候補では、歌意として「相手に再考を促す」意としているが、それは上記第一と第三に反しない。

 第六 『古今和歌集』の編纂者の手元にある1-1-1037歌の元資料は、よみ人しらずの歌であるので、繰り返し実用に供されて来た歌であると断言してよい。このため、実際に用いた事例も編纂者は確認できており、その歌意が複数あったのではないか。この配列から求められる歌意はそのひとつであろう。

⑥ その結果、現代語訳候補より次の2案に絞りこめます。

表3. 配列から絞り込んだ現代語訳候補

整理番号

初句

二句

四句の「世中」

たすき

歌意

21

連語

作中人物が伝聞したこと

文CDB

(世間・世間の評判を転用した)2.男女の仲

1.制約・妨げ

相手に再考を促す

11

連語

作中人物の願い

文AB

(世間・世間の評判を転用した)2.男女の仲

1.制約・妨げ

願いは一歩後退二歩前進のため 信頼厚い

 

 

⑦ 現代語訳を試みます。

 整理番号21は、文CDB案です。

 前回ブログ(2021/5/10付け)「36.⑥前段」では、

 「以前にあったと同様な状況ならば、(私を)思はず」とあなたが言うとは。(文C1系)

 そうあなたは言い切ったのだ。(文D2系)

 どうしてその発言が私たちにかかる「たすき」(制約・妨げ)となるのか。わたしたちの間はそのような一言で切れるような関係ではないのに。 (文B1系)」

とし、「貴方がこの状況を打破するため、一歩後退二歩前進の発想で言われたことと信じています、という歌意となります(文B2でも同様です)。」、と理解していたところです。

 「思ふ」は「愛する」意とし、同ブログ「34.⑤」では、この文CDB案の歌を「やり直しができると信じています」と言う歌と指摘しました。当事者同士ではわかるものの、『古今和歌集』に編纂された「恋の歌」としては、題しらずでそこまで理解するには、歌の来歴も知らない者に、とり酷なことです。

 その理解のヒントは「誹諧歌」の部にある恋の歌である、ということであろう、と思います。

 配列からみると6首続く「思ふ」が気になります。

 改めて「思ふ」の意を確認すると、「いとしく思う・愛する」のほかに、「心配する・憂える」意もあります。そのため、恋の歌として、次のような試案が得られます。

 「以前にあったと同様な状況ならば(状況なのだから)、(私を)思はず(心配していない)」、とあなたが言うとは。

 そう、はっきりと言い切ったのだ。

 だから、どうしてこのようなことが私たちの「たすき」(制約・妨げ)となるのでしょうか(そんなことはありませんよね。)」 (現代語訳試案1)

⑧ 次に整理番号11です。文AB案です。

 前回ブログ「35.③」では、

 「以前にあったと同様な状況ならば(発想を変えて)、(私を)思はず」と言いきらないだろうか、いや言い切ってほしい。(文A系)

 どうしてその発言が男女の仲の「たすき」(制約・妨げ)となるのか、このことは二人の仲に関係ないと私は確信していますので。(文B1系)」

とし、「相手の「思はず」という発言は「たすき」(制約・妨げ)になるものではなく、この困難を乗り越えるには一歩後退も方便であると信じています。あるいはショッキングな申し出で相手に判断を迫っています。」というところでしょうか。思いもよらない楽観的な発想の歌です」、と理解しました。

 文CDB案と同じように、「思ふ」の意を「「心配する・憂える」意とすると、その意を生かすべく「ことならば」は作中人物の置いた仮定とみて、相手の行動への言及を「思はず」の一語に記した歌として(即ち、文Aは引用文第2案その1の修正案とし)、恋の歌として、次のような試案が得られます。

 「以前にあったと同様な状況ならば(状況なのだから)、あの人は「(作中人物を)思はず」(心配してない)」といい出さないだろうか。いや、言い切ってほしい。

どうしてこのことが男女の仲の「たすき」(制約・妨げ)となるのだろうか、この問題は二人の仲に関係ないと私は確信していますので。」(現代語訳試案2)

 現代語訳試案2は、作中人物の行動を全面的に支える発言が欲しいと願っている歌という理解であり、これでも恋の歌と範疇である、と思います。

⑨ 恋「思ふ」を詠う6首の最初の歌としては、恋の歌に用いる例の少ない「心配する」意の「思ふ」がよい。感謝の意とお願いの意の比較では、前者(現代語訳試案1)を恋の歌としてとりたいところです。

 もう逢いたくなければ、遠のくだけでよいところを、相手はわざわざ「思はず」と言ったことが作中人物に伝わるようにしています。だから、その「思はず」を用いて返歌した歌であり、その意は、「心配していない」の伝言を受け取りました、と伝える返歌となります。

⑩ しかし、配列から予測した(上記3.の表2.参照)の作中人物の立場には必ずしも合致していませんし、相手の立場(「作中人物に明確な意思表示をしないでいる人」)とも異なります。

 それでは、返歌ではなく、作中人物が問う歌と理解すれば、初句と二句(「ことならば思はずとやは」=文C)は全部作中人物の推測・反語と理解できるので、配列からの予測に合致するのではないか。

 即ち、文C+文Dは、「上記の引用文第2案その2相当」とした、

 「以前にあったと同様な状況ならば(状況なのだから)、「(私を)思はず(心配していない)」、とあなたが言うとは。

 そう、はっきりと言い切ったのだ(ちがいますか)。

 だから、どうしてこのようなことが私たちの「たすき」(制約・妨げ)となるのでしょうか(そんなことはありませんよね。)」 (現代語訳試案3)

 問い詰めれば「思はず」(いとしく思わない)と相手がいうかもしれないのに、それを望んでいるかに詠いだし、文D(三句)を一文として独立させて文Cの確認を相手に求めています。このことで、「思ふ」の意が歌のヒントであることに、相手が気付くようにしている歌ではないか。

 次の歌1-1-1038歌が、相手の「心のうちに入り確かめたい」と詠う歌であるので、この歌が、「思ふ」と言う同音異義の語句を相手に突き付けて、相手の気持ちを「言葉・態度で確かめたい」としている歌であれば、一対の歌、となっています。上記④の配列からの推測第一とあうことになり、この歌の作中人物を男とみてもおかしくないので、推測第三もあうことになります。

 この現代語訳試案3が、恋の歌として妥当である、と思います。(それにしても、「思ふ」の同音異義を最初に確認すべきでした。)

⑪ 次に、この歌は、『古今和歌集』誹諧歌にあるので、私の言う「部立ての誹諧歌A」の要件(付記3.参照)を当然具えているはずです。それを確認します。

 最初の要件「ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想あるいは特別に凝縮した表現がある」を確認します。

 初句「ことならば」は、この句を用いた『古今和歌集』にある4首の比較をする糸口の役割を担っていました。この歌が他と違うところがあることを示唆してくれる仕組みでした。同じ歌意の詠い方は他にもあるにも関わらず、当事者にしかわからないかの条件設定をし、誹諧歌の部にある恋の歌という外的条件に注意を向けさせています。この発想は、『古今和歌集』編纂者しかできないところであり、元資料の代表的な歌意とは思えません。それを選択しているところは独創的な発想であり、配列の妙になっています。

 二句にある「思はず」は、恋の歌にあって「心配する・憂える」意であれば、珍しい使い方です。また連続する6首は「思ふ」をテーマにしている歌群とみることができ、「思ふ」の用い方を知らしめる役割を確実に担っている1首となっています。

⑫ 恋の歌としてみると、自分から別れる、と言わずに、相手に言わせようとするのは、恋のテクニックとしてあります。いつも「行くよ」と返歌していて都合が悪くなったと歌をおくる、とかいくらでもあります。そのなかで、ストレートに別れることを言え、と願うのは、あまりないかもしれません。このような別れ話の仕方も独創的な発想でしょうが、さらに語句の意を変換して願うのはそれ以上に「特別に個性的な発想」にあたるでしょう。

 四句から五句にある「世中のたまだすき」という慣用句(当然、当時の俗語の範疇の語句)を、それも、裏の意で用いているのも、独特の発想です。雅から離れた歌となっています。

 また、「たすき」には、「ゆふだすき」のイメージが全然なく、「たすきによって対象物が自由を制限されているイメージ」(たすきのイメージ1)は、日常用語のいわゆる俗語の「たすき(形)」からのものであり、『萬葉集』における用語とかけ離れており、発想に独創性があります。

 このように、最初の要件は満足している、と思います。

⑬ 次の要件は、「秀歌」であることです。

 この歌は、よみ人しらずの歌だから、多くの官人その他の人々が使いつつ伝え継いできた歌であり、いろいろな場面で口ずさみ、(現在までは伝わっていない)何等かの説話も生まれていた歌と思われます。それだけでも秀歌と言えるかもしれません。さらに、それを、「題しらず」のままで、ある特定の恋の場面にあてはめて示しており、そのあてはめの秀歌ではないか。

 『古今和歌集』誹諧歌ではこのような理解であっても、「(こひしく)思ふ」であったら作中人物が忠告者となる理解の歌意もありました(文CDB案における前回ブログ「36.⑦後段」)。また、文ABの理解と文CDBの理解が可能でした。

 この歌は、文CDBと三つの文から成り、当時の口語調の歌であり、作中人物の感情の高ぶりをうまく示し、「思ふ」への一念をしっかり示している、技巧的に優れた歌です。

⑭ また、この歌を恋の部に配列すると、「思ふ」や「たまだすき」の意に誤解が生じる可能性があります。「たまだすき」という語句を用いる歌が三代集でこの1首しかない、ということは、当時この語句は歌語ではない、という認識が当時あったと推察でき、誹諧歌の部に配列すれば俗語の系統の語句と推測するヒントになります。

 独創的なレトリックの面白さを示し得る場として、『古今和歌集』の編纂者は、この歌に誹諧歌の部を選んでいるのではないか。

 このように、この歌は、私の言う「「部立ての誹諧歌A」の要件を満足しています。

⑮ さて、本題の「たまだすき」です。

 上記の「現代語訳試案3」では、「たすきによって対象物が自由を制限されているイメージ」(「たすきのイメージ1」)であり、「たすきの十字の形から、感情の行き違いなどのイメージ」(たすきのイメージ2)を退けました。

 「たすき」と称する紐の機能から、紐とそれを使う対象物との関係を重視し、動きを押さえている(あるいは強制的に物を整えている)状況に注目した表現です。

⑯ この歌の「たまだすき」の理解は、先に検討した『源氏物語』の「末摘花」の地の文にある「たまだすき苦し」の「たまだすき」の意と重なります。

 「末摘花」での源氏は、今夜にも初志貫徹したい(障子を取り払ってもらい自分を受け入れてほしい)のに、障子で隔てられているだけでこれ以上のアプローチを断られている(2021/4/12付けブログ「32.④、⑦」参照)状況にあって、「たまだすき苦し」と末摘花に告げました。

 その「たまだすき」の意は、単に「ゆきちがっている」のではなく現に今「これ以上の行動を制約されている」ことが苦しいというイメージを伝えた発言です。無言でいるのは周りの者に引き留められているからだ、と源氏は信じており、また、末摘花へのアプローチで「世間・世間の評判」など意に介していません。

 たすきのイメージ1の理解で共通している、と言えます。

 このように、紫式部が『古今和歌集』のこの歌を援用したとするならば、『源氏物語』の著者である紫式部が「末摘花」で示した「たまだすき」の理解は、1-1-1037歌に関する知られているなかでは『古今和歌集』に一番近い年代におけるものです。それを踏襲しているのがたすきのイメージ1です。

 紫式部がこの歌を援用していなければ、俗語の「たすき」によって「末摘花」は執筆されたものとなります。そのような理解が当時出来たのであれば、遡って『古今和歌集』にあるこの1-1-1037歌にも当てはめられるものである、と思います。

⑰ ちなみに、竹岡氏の現代語訳を引用します(『古今和歌集全評釈』(右文書院 1981補訂版))。

  1-1-1037歌(文AB案の理解)

 「同じことならいっそ、愛しないときっぱり言い切ってくれないかい。なんだい、世の中の、たすきのさまでこんなに行き違ってばかりいるなんて!」 (業を煮やして口語調まる出し。「たすき」は方違いにかけるところから、行きちがいになる意」。)

 1-1-1038歌

 「愛すると言う人のそれぞれの心の秘密の曲がり角にそのつど立ち隠れては、(私を愛している事実を)目で認知するすべでもないかなあ。」 (思いつめた恋の歌。「心の曲」は漢文直訳語。)

 氏は、「思ふ」6首を一組としての検討をしていません。

 この歌で、「たまだすき」は、「ゆふだすき」との対比を明確にして、新たなイメージを獲得しました。ただし、「たまたすき」ではありませんでした。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただきありがとうございます。

 次回は、『萬葉集』の「たまたすき」を含めた「たすき」の整理をし、3-4-19歌の類似歌2-1-3005歌の検討に入りたい、と思います。

 (2021/5/17   上村 朋)

付記.1 前回ブログ(2021/4/26付け)での検討結果と本文「38.」の表との関係

① 本文の①の表1.の整理番号と以下の整理番号は同一である。

第一 初句「ことならば」が連語であって、

整理番号11:前回ブログ(35.③)より:文AB案(引用文第1案+文B1)

相手に「(作中人物を)思はず」を願った作中人物は、男女の仲の意の「世中」を用いて、「たすき」のイメージは「制約・妨げ」である恋の歌として理解出来た。歌意は「あなたにそういってもらうのは一歩後退二歩前進のためであり、貴方を信じている。」

 整理番号12: 同(37.④)より:文AB案(上記の引用文第1案相当+文B3)

相手に「(作中人物を)思はず」を願った作中人物は、世間・世間の評判の意の「世中」を用いて、「たすき」のイメージは「すれちがい」である恋の歌として理解出来た。歌意は「変則のショック療法の試み」 

 整理番号13: 同(37.④)より: 文AB案 (上記の引用文第1案相当+文B4)

   相手に「(作中人物を)思はず」を願った作中人物は、男女の仲の意の「世中」を用いて、「たすき」のイメージは「すれちがい」である恋の歌として理解出来た。歌意は「変則のショック療法の試み」

 整理番号21: 同(36.⑥前段)より:文CDB案 (上記の引用文第1案相当+文B1) 

相手が「(作中人物を)思はず」と言ったと聞いた作中人物は、男女の仲の意の「世中」を用いて、「たすき」のイメージは「制約・妨げ」である恋の歌として理解出来た。歌意は「別れるという通告を受けて再考を促す」

 整理番号22:同(36.⑥前段と後段)より:文CDB案 (上記の引用文第1案相当+文B2)

  相手が「(作中人物を)思はず」と言ったと聞いた作中人物は、世間・世間の評判の意の「世中」を用いて、「たすき」のイメージは「制約・妨げ」である恋の歌として理解出来た。歌意は「別れるという通告を受けて再考を促す」

 整理番号23:同(37.⑧)より:文CDB案 (上記の引用文第1案相当+文B3)

相手が「(作中人物を)思はず」と言ったと聞いた作中人物は、世間・世間の評判の意の「世中」を用いて、「たすき」のイメージは「すれちがい」である恋の歌として理解出来た。歌意は「別れるという通告を受けて再考を促す」

 整理番号24:同(37.⑧)より:文CDB案 (上記の引用文第1案相当+文B4)

相手が「(作中人物を)思はず」と言ったと聞いた作中人物は、男女の仲の意の「世中」を用いて、「たすき」のイメージは「すれちがい」である恋の歌として理解出来た。歌意は「別れるという通告を受けて再考を促す」

 

第二 初句「ことならば」が「事ならば」であって、

 整理番号31:同(36.⑧)より:文CDB案 (上記の引用文第1案相当+文B2)

相手が「(作中人物を)思はず」と言ったと聞いた作中人物は、世間・世間の評判の意の「世中」を用いて、「たすき」のイメージは「すれちがい」である恋の歌として理解出来た。歌意は「別れるという通告を受けてそれでも再考を促す」

 整理番号32:同(37.⑩)より:文CDB案 (上記の引用文第1案相当+文B3)

   相手が「(作中人物を)思はず」と言ったと聞いた作中人物は、世間・世間の評判の意の「世中」を用いて、「たすき」のイメージは「すれちがい」である恋の歌として理解出来た。歌意は「別れるという通告を受けて再考を促す」

 整理番号33:同(37.⑩)より:文CDB案 (上記の引用文第1案相当+文B4)

   相手が「(作中人物を)思はず」と言ったと聞いた作中人物は、男女の仲の意の「世中」を用いて、「たすき」のイメージは「すれちがい」である恋の歌として理解出来た。歌意は「別れるという通告を受けて再考を促す」

 

付記2. 古今集の誹諧歌(ひかいか)の部において、動詞「思ふ」を用いている歌

① 「思ひ」と詠い、その「ひ」に、「火」あるいは「緋色」が添う歌が、1首おきにある。(1-1-1026歌、1-1-1028歌、1-1-1030歌)

② 次に「思ふ・思はず」と詠う歌が6首続く。(1-1-1037歌~1-1-1042歌)

③ そのあとに、「思ふ」と詠う歌が、とびとびに3首ある。

 時に遅れまいという意の「を(お)くれむと思ふ」が1-1-1049歌

 三日月を月の割れた片割れとみてろくに相手にしてもらっていない自分になぞらえる「われて(割れて)もの思ふ」が1-1-1059歌 (破天荒なものに恋を例えている)

 擬人化した「年」を「思ふ」が1-1-1063歌

 

付記3.古今集巻十九にある部立て「誹諧歌(ひかいか)」の検討

① 『猿丸集』第46歌の類似歌(1-1-1052歌)を検討する際、『古今和歌集』の部立て「誹諧歌」を検討した。5回のブログ(2019/5/27付け~2019/7/1付け)に記載している。

② 秀歌を漏らさないために最後の部立となっているのが誹諧歌という部立である。だから、「誹諧歌」とは、「ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想あるいは特別に凝縮した表現がある、和歌の秀歌であり、他の部立に馴染まない和歌(より厳密にいえば、短歌)を配列する部立の名」である。

③ このように理解した部立の名を、「部立の誹諧歌A」と私は称している。

 

付記4.『古今和歌集』には一対とした歌が多く配列されている。

① 巻一の巻頭歌と次の歌も「立春」の日の歌として対である。1-1-3歌と1-1-4歌は「春の雪」を、また1-1-5歌と1-1-6歌は「雪にうぐひす」を詠う対の歌である。

② 誹諧歌(ひかいか)」の部でいうと、筆頭歌1-1-1011歌と次の1-1-1012歌は、春の歌として一対となっており、また、1-1-1027歌と1-1-1028歌も「思う強さ」を詠う一対の歌である。

そして1-1-1029歌以降1-1-1046歌までは次の偶数歌と対になっているとみて歌を理解してよい。

(付記終わり 2021/5/17   上村 朋)

 

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 たすき・世中いろいろ

 前回(2021/4/26)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 古今集のたまだすき」と題して記しました。

 今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 たすき・世中いろいろ」と題して、記します。(上村 朋)(2021/5/17 「37.⑬」の転記ミス訂正)

1.~33.承前

 2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。現在3-4-19歌の初句にある「たまだすき」の理解のため、三代集唯一の用例1-1-1037歌を検討している。なお、『萬葉集』では「たまたすき」と訓み、巻十三の用例では、「袖の動きを制止する紐」の意になっている。

3-4-19歌  おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを

    たまだすきかけねばくるしかけたればつけて見まくのほしき君かも )

1-1-1037歌  題しらず       よみ人しらず

     ことならば思はずとやはいひはてぬなぞ世中のたまだすきなる

 また、歌は、『新編国歌大観』より引用する。

34.1-1-1037歌の歌意の予想

① 1-1-1037歌は、『古今和歌集』誹諧歌(ひかいか)の部にあります。

この歌は、二句にある「やは」の理解によっては、二つの文または三つの文からなることになります(付記1.参照)。

文A ことならば思はずとやはいひはてぬ 

(「やは」は係助詞が重なる連語。「ぬ」は、打消しの助動詞の連体形)

文B なぞ世中のたまだすきなる

(以下文AB案といいます)。

文C ことならば思はずとやは (「やは」は終助詞が重なる連語。)

文D いひはてぬ  (「ぬ」は、完了の助動詞の終止形。)

文B なぞ世中のたまだすきなる

(以下文CDB案といいます)。

② これまでの検討で、1-1-1037歌における「たまだすき」のイメージに2案あります。

「たすきによって対象物が自由を制限されているイメージ」(以下「たすきのイメージ1」という)」

 「たすきの十字の形から、感情の行き違いなどのイメージ」(以下「たすきのイメージ2」という)

  また、どちらのイメージであっても、四句にある「世中」は、「男女の仲」あるいは「世間・世間の評判」の意に理解可能です。

③ 例えば、「たすきのイメージ1」では文Bに次の二つの意があります。

 「どうして男女の仲の「たすき」(制約・妨げ)となるのか(そのようなことはなにもないはずですよ)。」(以下「文B1」という)

 「どうして「世間・世間の評判」が「たすき」(制約・妨げ)となるのか(そのようなことはないでしょうに)」 (以下文B2という) (前回のブログ(2021/4/26付け)「33.④」参照)

 また、それぞれ、作中人物が楽観又は悲観している意の歌が可能です。一言添えて相手におくれば、その意ははっきりするでしょうが、この歌は、題しらずの歌です。

④ このほか、初句にある「ことならば」の意を保留したままですので、次の表のように整理し、今回検討します。

表 1-1-1037歌の検討事項

検討区分

事項

検討ケース

a

たすきのイメージ

イメージ1 & イメージ2

a

四句の「世中」

男女の仲 & 世間・世間の評判

a

恋の歌

相手におくった歌 & おくれない歌

  b

構文

文AB & 文CDB

  b

初句の「ことならば」

連語 & 事ならば & 異ならば

  b

二句の「思はず」

作中人物を & 特定の第三者

  b

作者のスタンス

楽観的 & 悲観的

  b

誹諧歌

「部立の誹諧歌A」該当の有無

  b

配列

違和感の有無

注)aは、bの検討後に定まる事項

 

⑤ 例えば、前回、『源氏物語』の「末摘花」の地の文にある「たまだすき苦し」の「たまだすき」が1-1-1037歌のそれと同じ意であれば、二つの構文案に共通の文Bは「部立の誹諧歌A」の要素が強い、「世中」を「男女の仲」の意となるかと予想しました。

 この予想にあいそうな歌意の一例を示すと、「たすきのイメージ1」であって「世中」が男女の仲の意でかつ相手におくれる歌として、

「文CDB、「ことならば」が連語、「思はず」の対象は作中人物及び楽観的な作者の歌」がありました。(下記「36.⑥」参照)

 「以前にあったと同様な状況ならば、(私を)思はず」とあなたが言うとは。

そうあなたは言い切ったのだ。

 どうしてその発言が私たちにかかる「たすき」(制約・妨げ)となるのか。わたしたちの間はそのような一言で切れる関係ではないのに。」 

この歌は、やり直しができると信じています、ということです。

 ただ、1-1-1037歌には、これ以外の理解も可能でした。「部立の誹諧歌A」たる所以や『源氏物語』の「末摘花」の地の文にある「たまだすき苦し」とこの歌との関係は、次回検討します。

35.『古今和歌集』誹諧歌(ひかいか)の部のたまだすき その2 文AB案 

① たすきのイメージ1(たすきによって対象物が自由を制限されているイメージ)で、文AB案を、最初に検討します。

 文Aから検討します。

 初句「ことならば」の検討を保留したままの、文Aの私の現代語訳(試案)を、2021/4/5付けブログより引用します。二句にある助詞「と」が一文相当の語句につく格助詞であれば、「と」の前にある語句すべてに、引用文の資格があり、3案あります。

 引用文第1案:「「ことならば」という状況であるならば、(貴方を)思はず」と、あの人は言い切らないだろうか、いや言い切ってほしい。」  (引用文は「・・・思はず」までの全て)

 引用文第2案その1:「ことならば」という状況であるとあの人が思っているとしたら、あの人は「(私を)思はず」と、言い切らないだろうか、いや言い切ってほしい。」 (引用文は「思はず」のみ、「ことならば」は作中人物があの人の行動を推測)

 引用文第2案その2:「ことならば」と私が推測する状況であれば(そう仮定できるならば)、あの人は「(私を)思はず」と、言い切らないだろうか、いや言い切ってほしい。」 (引用文は「思はず」のみ、「ことならば」は作中人物が種々の状況を推測)

 作中人物が、「ことならば」という状況が、既に生じていて(あるいは現実をそのように理解し直すことができて)、それに関して既に相手と共通の認識があるかに見えるのが引用文第1案です。作中人物のみが想定しているのが引用文第2案であり、その1よりその2のほうが、作中人物はいろいろ思いをめぐらしている、といえます。

② 文Bは、上記「34.③」に記したように、2案(文B1と文B2)があります。

 文Aは、「ことならば」という事実あるいは仮定から、「(作中人物を)思はず」と言ってほしい、という論理を作中人物は紡ぎだせたので、その実現を願っています。

 そうすると、文Bは、恋の歌なので、作中人物が楽観的ならば、「ことならば」という状況を二人のために乗り越えようとするための相手の発言を促し、それでも揺るがない信頼関係が既にある、という趣旨の反語表現ではないかと思います。

 悲観的ならば、「ことならば」という状況を乗り越えられなくて相手との関係が切れることをやむを得ず認め、そのような頼りない関係であったのだ、という趣旨の反語表現ではないかと思います。この場合、恋の歌となるには、それで相手を引き留められることを期待した歌と理解できるかどうかが大事です。

③ さて、その仮定です。諸氏は「ことならば」を「連語」としていますが、そのほか「事ならば」、「異ならば」などがあり得ます。(2021/3/29付けブログ「参照25.⑬~⑭」)

 最初に、「ことならば」が連語の場合を検討します。「如ならば」と同じ意なので   「どうせ同じことならば」の意で、楽観的な作中人物であって引用文第1案を仮定すると、

「以前にあったと同様な状況ならば(発想を変えて)、(私を)思はず」と言いきらないだろうか、いや言い切ってほしい。(文A系)

どうしてその発言が男女の仲の「たすき」(制約・妨げ)となるのか、このことは二人の仲に関係ないと私は確信していますので。(文B1系)

という歌意になります。相手の「思はず」という発言は「たすき」(制約・妨げ)になるものではなく、この困難を乗り越えるには一歩後退も方便であると信じています、というところでしょうか。思いもよらない楽観的な発想の歌です。あるいはショッキングな申し出で相手に判断を迫っています。

 この歌を送られた恋の相手は、「ことならば」という歌の上での仮定を既に共有できていないと、この文意を理解できないのでないか。

 このため、文Aの候補は、引用文第1案であろうと思います。文Aに、「部立ての誹諧歌A」となる特別な発想などはありませんが、文Aと文Bの組合せは、型破りなものであろう、と思います。

④ 悲観的な作中人物であって引用文第1案で検討すると、

 「以前にあったと同様な状況なら、結局(私を)思はず」と言いきらないだろうか、いや言い切ってってほしい。(文A系)

 どうしてその状況が男女の仲の「たすき」(制約・妨げ)となってしまうのか、おかしいとおもうが、あきらめました。(文B1系)

という歌意になるのではないか。

 しかし、諦めるのに、相手の「思はず」という言葉がほしい、というのはおかしな発想です。だまって作中人物が引き下がれば済むことです。本心は別れたくないのであれば、諦めるからと通告するような悲観的な歌は相手におくらない、と思います。楽観的に相手を信用している、というトーンで歌を詠む、と思います。

 作中人物とこの歌を送られた恋の相手が、「ことならば」という仮定を既に共有していたらなおさら悲観的な気持ちで歌を相手におくらない、と思います。

⑤ 念のため、文B2の可能性を確認します。

 楽観的な作中人物であって引用文第1案で検討すると、文B2は、

 どうして「世間・世間の評判」が「たすき」(制約・妨げ)となるのか、とは思うものの言ってくださいな。 (文B2系)

となります。

 これは、「思はず」と言い切ったとしても相手の「世間・世間の評判」がマイナス評価にならない、と言う論です。

 一般に、恋の歌は「思っている」ことを相手に訴えます。相手に何かを願うには、普通はプラスの評価がありますよ、と勧めてこそ、相手は耳を傾けます。マイナスが無いことを第一に強調するような詠い方はしない、と思います。

 この歌は、「部立の誹諧歌A」の重要な要素である個性的な発想の歌と言えるとしても、恋の歌として秀歌とは思えません。

悲観的な作中人物であっても、同じです。

⑥ ここまで、「思はず」とは、相手が「作中人物を思はず」ということだと理解していますが、それは私の勝手な思い込みであるかもしれません。

 別の人物、例えば三角関係での競争相手を「思はず」と言ってくれ、という理解が文Aには可能です。

 そのため、楽観的な作中人物で、文Aを引用文第1案と仮定すると、

 「以前にあったと同様な状況ならば(発想を変えて)、(あの人を)思はず」と言いきらないだろうか、いや言い切ってほしい(文A系)、

 どうしてそうするのが男女の仲の「たすき」(制約・さまたげ)となるのか、私たちの仲に関係ないでしょうに。(文B1系)

という歌意になります。それによって貴方の世間の評判に影響があろうとなかろうと、作中人物は相手と相思相愛の確認をしたい思いの歌になります。

 当時の官人は、何人かの女のもとに通うのが普通ですので、有り得る光景です。

 この場合も歌を送られた相手は「ことならば」と言う状況を作中人物と以前から共有していないと、理解が困難でしょう。このような状況が繰り返されたのをチャンスとして(世間体は気にせず)この際競争相手とは清算してはいかが、という申し入れの意となります。

 ただ、文Bについては文B2の方が理解しやすい、と思います。すなわち、

 「どうして「世間・世間の評判」が「たすき」(制約・妨げ)となるのか、理不尽なことではないと思いますよ。」 (文B2系)

という歌意のほうがよい、と思います。しかし、このような理由付けでお願いをするのは、上記⑤と同じになり恋の歌にふさわしくありません。

 また、文Aを引用文第1案で、悲観的な作中人物であるならば、

「以前にあったと同様な状況ならば(発想を変えて)、(あの人を)思はず」と言いきらないだろうか、いや言い切ってほしい(文A系)、

 どうして「世間・世間の評判」が「たすき」(制約・妨げ)となるのか、いやたしかに妨げなのだ。 (文B2系)

ということになるでしょうか。

 文Bで、文Aで言った自分の願いを否定し、作中人物が「世間・世間の評判」に負けて引き下がるという歌です。これは表面上悲観的ですが、道義を踏まえた決断であり、相手の同情を期待し得る詠い方である、と思います。但し、この歌意を、理解してもらうには、表情をも交えて相手に伝えるのが確実であり、逢うのが定かでない作中人物にはむずかしい、と思います。

⑦ 次に、「ことならば」を「事ならば」として検討します。「事」には「(政務、仕事、また行事などを含んで)人のするわざ。動作。ふるまい。」の意があります(『明解古語辞典』)。また「事成る」は句として古語辞典に立項されおり、「物事が成就する。成功する」と「その時となる」の意があります。

 引用文第1案で検討すると、

 「事が成就したならば(あるいはその時となれば)、(貴方を)思はず」と、言い切ってほしい(文A系)

 どうしてその発言が私たちの間で「たすき」(制約・妨げ)となるのか(そのようなことはなにもないはずですよ)(文B1系)

 その歌意は恋の歌として、「事が成就したら、私を捨ててください、妨げにならぬよう身を引く覚悟です。それは私たちの間で「たすき」となりません。いつまでも信じていますから、ということなのでしょうか。

 相手の出世(その一段階である地方勤務が決まるなど)のステップを踏むなら身を引く覚悟有り、という理解ができます。相手の立場をこれほど考えている私を捨てないでしょうね、と相手に迫る歌でもあります。

 もっとも、これは自分から宣言すればよく、相手にそのような決意表明をせよ、と迫るのは、しつこく、嫌われるところではないか。だから、このような詠い方はしない、と思います。また、言葉通りに受け止めて「残念だね」という返歌の可能性がある詠い方です。

 文Aは相手と「事成る」ことを既に共有している引用文第1案以外に、作中人物の予想している時点となる引用文第1案その1及びその2との組み合わせでも同じであり、このように詠わない、と思います。(⑧は欠)

⑨ 念のため、文B2の場合を検討します。

 例えば、楽観的な作中人物であって引用文第1案で検討すると、

「事が成就したならば(あるいはその時となれば)、(貴方を)思はず」と、言い切ってほしい(文A系)

 「どうして「世間・世間の評判」が「たすき」(制約・さまたげ)となるのか(そのようなことはないでしょうに)」 (文B2系)

 連語の場合の「ことならば」と同じように、「思はず」と言い切った相手にとって「世間・世間の評判」がマイナスとはならない、と言う論です。上記⑤と同じで恋の歌にふさわしい論法ではありません。

 文Aにある「思はず」の対象が、作中人物ではなく、「特定の第三者」であると、上記⑥と同様、恋の歌にふさわしくありません。それは文B1でも文B2でも同じです。

⑩ 次に、「ことならば」を「異ならば」として検討します。(「殊に・異に」の立項が古語辞典にあります。)

 「異」とは、「別なもの・別であるようす」、「殊」とは「格別であるようす」の意です。

 文Aを、例えば、引用文第1案ならば、

 「これまでと別であるならば、「(私を)思はず」と言ってほしい(文A)

となります。これは相手と共通認識の事がらである「事ならば」の一事例であり、恋の歌としてこの意に限定する必要がない、と思います。

⑪ 以上を整理すると、1-1-1037歌は、文AB案において、たすきのイメージ1(対象物が自由を制限されているイメージ)であれば、歌意が成り立つのは1ケースでした。

 すなわち、上記の③がそれであり、

「ことならば」が連語であって、作中人物が楽観的でありかつ相手が作中人物を「思はず」ということを願っている場合、文Aが相手とその事情を既に共有する引用文第1案で、文Bが「世中」を男女の仲の意とするものです。

36.『古今和歌集』誹諧歌(ひかいか)の部のたまだすき その3 文CDB案

① 次に、たすきのイメージ1における文CDB案を、検討します。

 1-1-1037歌の文CDB案を再掲します。口語調で勢いに任せて詠ったかの歌です。

 文C ことならば思はずとやは (「やは」は終助詞が重なる連語。)

 文D いひはてぬ  (「ぬ」は、完了の助動詞の終止形。この文は作中人物の独り言)

 文B なぞ世中のたまだすきなる  (「なぞ」は反語)

② 文Cと文Dは、 2021/4/5付けブログ「26.⑥」で検討し、文AB案の文Aと比較できる文C+文Dの形に整理しました。

 上記の引用文第1案相当:「「ことならば」という状況であれば、「(貴方を)思はず」」とあなたが言うとは。そう、言い切ったのだ。」  

 上記の引用文第2案その1相当:「ことならば」という状況であるとあの人が思っているとしたら、あの人が「(私を)思はず」と言うとは。そう、言い切ったのだ。」 

 上記の引用文第2案その2相当:「ことならば」と私が推測する状況であれば(そう仮定できるならば)、あの人が「(私を)思はず」と言うとは。そう、言い切ったのだ。」  

 これらの理解には、「ことならば」の意によっては無理が生じる場合があるでしょう。

③ 次に、文Bは、上記「34.③」に記すとおりです(文B1と文B2)。

④ 順に検討します。文Cは、作中人物が聞いた伝聞です。そして、「(私を)思はず」と相手が言った理由を色々考え、納得ができて作中人物が発した言葉が文Dです。

 相手が言った状況をも知らされてこの歌を詠んだとすれば、文C+文Dは、上記の引用文第1案相当となります。楽観的な作中人物であって、文B1との組み合わせを仮定すれば、

 「「ことならば」という状況であって、「(貴方を)思はず」」とあなたが言うとは。そう、言い切ったのだ。」 (文C+文D)  

「その発言がどうして男女の仲の「たすき」(制約・妨げ)となるのか。わたしたちの間はそのような簡単な関係ではないのに。」 (文B1系)

 そう言わざるを得ない状況でのあなたの発言など信じていません、信用していますから、という歌意となります。「たすき」とは、その発言を指していっているのではないか。

 「ことならば」が過去の事実であれば、作中人物と相手が共有している事柄であり作中人物の自信あふれる歌になります。

⑤ 文C+文Dが、上記の引用文第2案その1相当のものと仮定すると、作中人物が伝聞したのは「(貴方を)思はず」の言葉です。そのようにあの人がいう理由を種々考えて「事が成就した」ときではないか、と推理したのが文Cです。そして、それ以外にないと思う、と自ら決め込んだのが文Dです。相手への信頼感があふれているのは、その事情も伝えて来てくれている(伝わるように配慮してくれたと思わせる)上記の引用文第1案相当の方です。それでもどちらの案でも自信あふれる恋の歌です。

⑥ 具体的に、保留してきた「ことならば」の意を、上記の引用文第1案相当であって、かつ楽観的な作中人物の場合で検討します。

 最初に、「ことならば」が連語の場合を検討します。「如ならば」と同じ意なので  「どうせ同じことならば」の意とすると、

 以前にあったと同様な状況ならば、(私を)思はず」とあなたが言うとは。(文C1系)

 そうあなたは言い切ったのだ。(文D2系)

 どうしてその発言が私たちにかかる「たすき」(制約・妨げ)となるのか。わたしたちの間はそのような一言で切れるような関係ではないのに。」 (文B1系)

 貴方がこの状況を打破するため、一歩後退二歩前進の発想で言われたことと信じています、という歌意となります(文B2でも同様です)。

悲観的な作中人物であれば、文Bは、文B1より文B2でしょう。

 「どうして「世間・世間の評判」が「たすき」(制約・妨げ)となるのか、私を見捨てるのですね。」 (文B2系)

 そのように言わざるを得ない状況にあなたは追い込まれたのだ。世間という壁は厚いけど、頑張ってほしいのに。」という理解になります。

このような歌意も不自然ではありません。相手にこの歌をおくり再考を求める歌意、といえます。

⑦ 相手が、「(私を)思はず」ではなく、「(特定の第三者を)思はず」と言ったと仮定すると、

 「以前にあったと同様な状況ならば、(あの人を)思はず」とあなたが言うとは。(文C1系)

 そうあなたは言い切ったのだ。(文D2系)

 どうしてその発言が私たちにかかる「たすき」(制約・妨げ)となるのか。わたしたちの間はそのような一言で切れるような関係ではないのに。」 (文B1系)

となります。

 この理解は、文Cが、相手と特定の第三者の関係変化を伝え、文Bが、そのような行動をした相手と作中人物の関係が変わらないことを主張している、というものです。何もあの人を袖に振らなくとも、と作中人物は相手を信頼しています。これは文B2(「どうして「世間・世間の評判」が「たすき」(制約・妨げ)となるのか(そのようなことはないでしょうに・それは理不尽ですよ。)」)であっても同じです。

 作中人物と相手との関係は、この歌の前後で変わっていません。消息を交わした歌であって、恋の歌と見なくともよい歌意です。

 さらに、文Cが、相手と特定の第三者の関係変化を伝え、文Bが、そのような行動をした相手に注意を促している、という理解も可能ですが、やはり、消息を交わした歌でしょう(文B1でいえば「どうしてその発言が貴方たちの「たすき」(制約・妨げ)となるのか。貴方たちはそのような一言で切れるような関係ではないのに。」の意)

 あるいは、作中人物を、相手と男女の仲の間柄にある人物ではなく、男女の仲である特定の第三者と相手の仲裁に入ろうとしている人物という想定も可能です。特定の第三者を応援しているのかもしれません。しかし、この理解では恋の歌と言えません。

⑧ 次に、「ことならば」の意が、「事ならば」の場合を検討します。

 「事が成就したならば(あるいはその時となれば)、(貴方を)思はず」とあなたが言うとは。」(文C2系)

 そう、言い切ったのだ。」(文D2) 

 「事の成就がどうして男女の仲の「たすき」(制約・妨げ)となるのか。わたしたちの間はそのような一言で絶えてしまうような関係ではないのに。」 (文B1系)

 文C2は、恋の歌なので相手が別れる条件を明示しています。それは、制約とか妨げではなく、男女の仲が終わる、ということです。「たすき」が指していることは、そのような発言に至る経緯に立ち現れる事がらなのでしょう。だから、文Bは、

 「どうして「世間・世間の評判」が「たすき(制約・妨げ)」となるのか。(そのようなことはないでしょうに。)」 (文B2系)

のほうが、素直な理解である、と思います。

 当事者でなければわからない事柄を、「たすき」(制約・妨げ))という語句から推理すると、経済的負債が消えた、とかあるいは、年を経て周囲の人的関係に縛られなくなった、とかいう、作中人物個人の資質や誠実さに関係ないことなのか。諦めきれない気持ちを詠った歌と理解できます。作中人物は悲観的な立場と理解することになり、恋の相手におくり得る歌です。

 文Bは、文B2のほうが素直な歌意であろうと思います。

 相手が「(私を)思はず」ではなく、「(特定の第三者を)思はず」と言ったと仮定すると、上記⑦と同じく恋の歌ではなくなります。

⑨ 以上を整理すると、1-1-1037歌は、文CDB案において、たすきのイメージ1(対象物が自由を制限されているイメージ)であれば、三つの歌意が成り立ちました。

 一つ目は、上記⑥前段記載の、

「ことならば」が連語であって、作中人物が楽観的でありかつ相手が作中人物を「思はず」と言った場合、文C+文Dが、そういう事情を相手と共有する上記の引用文第1案相当となり、文Bが、「世中」=男女の仲となる文B1あるいは「世中」=「世間・世間の評判」になるB2

 二つ目は、上記の⑥後段記載の、

「ことならば」が連語であって、作中人物が悲観的であり、かつ相手が作中人物を「思はず」と言った場合、文C+文Dが上記の引用文第1案相当となり、文Bが「世中」=「世間・世間の評判」となるB2。

 三つめは、上記の⑧記載の

「ことならば」が「事成らば」であって、作中人物が悲観的であり、かつ相手が作中人物を「思はず」と言った場合、C+文Dが上記の引用文第1案相当となり、文Bが「世中」=「世間・世間の評判」となるB2。

 

37.『古今和歌集』誹諧歌(ひかいか)の部のたまだすき その4 たすき形のイメージならば 

① 次に、たすきのイメージ2(感情の行き違いなどのイメージ)で、文AB案を検討します。

 文A ことならば思はずとやはいひはてぬ (「やは」は係助詞が重なる連語。)

 文B なぞ世中のたまだすきなる

② 文Aの意は、「たすき」と言う語句を用いていませんので、上記「35.」で検討したたすきのイメージ1とおなじであり、初句「ことならば」の検討を保留したままの、引用文の範囲などによって現代語訳(試案)が3案あります(上記「35.①参照」)。

 例として引用文第1案を記します。

「「ことならば」という状況であるならば、(貴方を)思はず」と、あの人は言い切らないだろうか、いや言い切ってほしい。」  (引用文は「・・・思はず」)

 文Aは、「ことならば」という事実あるいは仮定から、「(作中人物を)思はず」と言ってほしい、という論理を作中人物は紡ぎだせたので、その実現を願っています。

 そのため、反語である文Bの意もたすきのイメージ1と同じです(上記「35.②」参照)。

③ 文Bには、2案あります。前回ブログ(2021/4/26付け)の「33.⑤」より引用します。

  思いが叶っていないと感じているのは、自分も相手も同じ(はずだから悩みも同じで)、と仮定した場合、

 「どうして世間でいう「たすき」の十字みたいに(私たちは)すれちがっているのでしょう(或いは、ちがったのでしょう)。」(以下文B3という)

「なぞ」は、疑問の副詞、助詞「の」は連体格の助詞「の」です。作中人物は嘆息しています。

 あるいは、自分の思いだけが叶わないのだ(嫌われてしまった)、と作者は悟った、と仮定した場合、

 「どうして(いつから)男女の仲であった私たちは、かけちがうたすきのような関係になったのでしょう」(以下文B4という)

 「なぞ」は、疑問の副詞、助詞「の」は主格の助詞「の」です。作中人物は嘆息しています。

④ 保留してきた「ことならば」を「連語」等に仮定して検討をすすめます。

連語の「ことならば」は「如ならば」と同じ意なので「どうせ同じことならば」の意です。引用文第1案を仮定すると、 

 「以前にあったと同様な状況ならば(発想を変えて)、(作中人物を)思はず」と言いきらないだろうか、いや言い切ってほしい。(文A系)

どうして世間でいう「たすき」の十字みたいに(私たちは)すれちがっているのでしょう(或いは、ちがったのでしょう)。」(文B3)

 作中人物は、現状打破のために「別れよう」といい出すというショック療法を相手に試みたのでしょうか。作中人物が楽天的であれば、文B3のように嘆いて引き留めを期待していたのでしょう。ショック療法は恋の歌の常套手段のひとつですが、相手から言い出せと要求するのは、異例です。独特な発想であるのは間違いないので、「部立ての誹諧歌A」の要件の一つを満足させており、相手から愛想を尽かされるリスクが高くとも楽観的な作中人物であれば、恋の歌の可能性があります。

 悲観的であれば、歌もおくらず黙って引き下がるか、強く相手を非難する歌が選ばれ、このような歌を相手におくらないでしょう。

 あるいは、文Aに続くのが、文B4であっても同じです。

 どちらの理解でも、自分から別れようと言わないのですから、作中人物の本心は別れたくないのではないか。この歌を送られた相手も、歌のやりとりがあり嫌いではないようですが、絶対守るべき人というトーンでない対応の結果が、このような歌になったとみえます。「思はず」と言えというような歌をうけとってまともに応える気持ちを起こす歌にはみえません。それでは恋の秀歌とはいえません。

⑤ 文Aが、引用文第2案、第3案であると、作中人物が想定した事柄がよほど親しくないとわかりにくい、つまり、このような歌をもらうような関係では理解が難しい、と思います。作中人物からすれば、この歌を無視されたら(返歌が遅いのは)ショック療法の失敗の可能性が高いので、第2案などではない、と思います。

⑥ 次に、文Aの「思はず」が「(作中人物を)思はず」ではなく、「(特定の第三者を)思はず」であるならば、

 「以前にあったと同様な状況ならば(発想を変えて)、(特定の第三者を)思はず」と言いきらないだろうか、いや言い切ってほしい。(文A系)

 どうして世間でいう「たすき」の十字みたいに(私たちは)すれちがっているのでしょう(或いは、ちがったのでしょう)。」(文B3)

 作中人物が「すれちがっている」と理解しているのは、その特定の第三者に対する接し方なのでしょうか。特定の第三者を、相手は「思ふ」、私は「思はず」という状態をいうのでしょうか。それでは、作中人物と相手との間の恋が成立するかどうかに関わる歌には思えません。

 文B4では、文Aとの関連がわかりません。

 

⑦ 次に、文CDB案を検討します。

 文C ことならば思はずとやは (「やは」は⑤終助詞が重なる連語。)

 文D いひはてぬ  (「ぬ」は、完了の助動詞の終止形。)

 文B なぞ世中のたまだすきなる

 文Cと文Dは、たすきのイメージに関わりなく、引用文の範囲により3案あります(上記「36.②」参照)。例えば引用文第1案相当は、次のような」ものです。

 「「ことならば」という状況であれば、「(貴方=作中人物を)思はず」」とあなたが言うとは。(文C)

そう、言い切ったのだ。(文D)  

 文Bには2案あります(上記「37.④」参照)。文B3と文B4です。

思いが叶っていないと感じているのは、自分も相手も同じ(はずだから悩みも同じで)、と仮定した場合、

 「どうして世間でいう「たすき」の十字みたいに(私たちは)すれちがっているのでしょう(或いは、ちがったのでしょう)。」(以下文B3という)

「なぞ」は、疑問の副詞、助詞「の」は連体格の助詞「の」です。作中人物は嘆息しています。

 あるいは、自分の思いだけが叶わないのだ(嫌われてしまった)、と作者は悟った、と仮定した場合、

 「どうして(いつから)男女の仲であった私たちは、かけちがうたすきのような関係になったのでしょう」(以下文B4という)

「なぞ」は、疑問の副詞、助詞「の」は主格の助詞「の」です。作中人物は嘆息しています。

⑧ 上記の引用文第1案相当における「ことならば」を連語と仮定し、検討します。

 「以前にあったと同様な状況ならば、「(作中人物を)思はず」」とあなたが言うとは。(文C系)

 そう、あなたは言い切ったのだ。」 (文D系)

 [どうして世間でいう「たすき」の十字みたいに(私たちは)すれちがっているのでしょう(或いは、ちがったのでしょう)。」(文B3)

 作中人物と相手の間に現在生じているわだかまりか何かが解消しないならば、縁を切ろう、と相手が言ってきた返事がこの歌ではないか。楽観的な作中人物であれば、それに同意して振り返った言葉が文B3でしょう。さっぱり同意することで翻意を願っているのかもしれません。悲観的な作中人物であっても再考の意を込めて詠った言葉が文3でしょう。

 文AB案と違い、男女の仲が壊れたと相手が認めた後の歌となっています。

 文B4であっても、文B3の場合と同じです。

⑨ 「(特定の第三者を)思はず」と理解すると、上記「36.⑦」と同じような理解になります。

⑩ 「ことならば」を「事成らば」と仮定すると、

「事が成就したならば(あるいはその時となれば)、(貴方を)思はず」とあなたが言うとは」(文C2系) 

「そう、あなたは言い切ったのだ」(文D2)「どうして世間でいう「たすき」の十字みたいに(私たちは)すれちがっているのでしょう(或いは、ちがったのでしょう)。」(文B3) 

 作中人物は、別れる理由として「事成る」ということを明示されたことになります。二人の仲の修復をあきらめきれず相手におくった歌ではないか。文B4でも同じです。  

⑪ また、特定の第三者を相手が「思はず」と詠う歌ならば、恋の歌ではなく、上記⑨と同じです。

⑫ 以上を整理すると、1-1-1037歌は、文AB案において、たすきのイメージ2(感情の行き違いなどのイメージ)であれば、歌意が成り立つのは1ケースでした。

すなわち、上記の④ がそれであり、

「ことならば」が連語であって、作中人物が楽観的でありかつ相手が作中人物を「思はず」ということを願っている場合、文Aが相手とその事情を既に共有する引用文第1案で、文Bにある「世中」を「世間」または「男女の仲」の意とするものです。ただし恋の秀歌とはいえません。  

 ⑬  文CDB案において、たすきのイメージ2(感情の行き違いなどのイメージ)であれば、歌意が成り立つのは2ケースでした。

 すなわち、上記の ⑧ がそれであり、

 「ことならば」が連語であって、作中人物が楽観的でありかつ相手が「(作中人物を)思はず」と言ったと作中人物が聞いた場合、文C+文Dが相手とその事情を既に共有する上記の引用文第1案相当で、文Bにある「世中」を「世間」または「男女の仲」の意とするものです。

また、上記の ⑩ がそれであり、

「ことならば」が「事成らば」であって、作中人物が楽観的でありかつ相手が「(作中人物を)思はず」と言ったと作中人物が聞いた場合、文C+文Dが相手とその事情を既に共有する上記の引用文第1案相当で、文Bにある「世中」を「世間」または「男女の仲」の意とするものです。

 

⑭ たすきのイメージ別に検討したところ、1-1-1037歌は、どちらのイメージでも恋の歌となり得ています。

 次回は、そのうちで、『古今和歌集』誹諧歌にあってしかるべき歌意はどれか、を検討します。

ブログ「わかたんかこれ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 (2021/5/10  上村 朋)

付記1. 古今集歌1-1-1037歌の検討経緯 

① 3-4-19歌にある「たまだすき」の用例として検討してきている歌が1-1-1037歌である。また、同歌の類似歌2-1-3005歌の「たまたすき」の意の確認でもある。

② 1-1-1037歌は2021/3/29付けブログから検討を始めた。最初に、1-1-1037歌の初句「ことならば」の古今集での用例4首を検討した。

③ 五句にある「たまだすき」については、三代集の歌にはこの1-1-1037歌の用例しかないので私家集にある「たすき」の用例をも検討し(2021/4/5付け&2021/4/12付けブログ)、物語類の地の文の「たすき」と「たまだすき(苦し)」を検討(2021/4/19付け&2021/4/26付けブログ))してきた。

④ そして1-1-1037歌の構文の検討を2021/4/26付けブログで始めた。

⑤ この歌は、私のいう「部立ての誹諧歌A」の歌である。

⑥ そのため、歌に引用文がある可能性を指摘した。

相手の発言:「ことならば思はず」、あるいは(「ことならば」と仮定ならば)「思はず」 (2021/3/29付けブログ「25.⑪」)

世の慣用句」:「世の中のたまだすき」 (2021/4/5付けブログ「26.⑧」)

 

付記2.古今集巻十九にある部立て「誹諧歌(ひかいか)」の検討

① 『猿丸集』第46歌の類似歌(1-1-1052歌)を検討する際、『古今和歌集』の部立て「誹諧歌」を検討した。5回のブログ(2019/5/27付け~2019/7/1付け)に記載している。

② 秀歌を漏らさないために最後の部立となっているのが誹諧歌という部立である。だから、「誹諧歌」とは、「ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想あるいは特別に凝縮した表現がある、和歌の秀歌であり、他の部立に馴染まない和歌(より厳密にいえば、短歌)を配列する部立の名」である。

③ このように理解した部立の名を、「部立の誹諧歌A」と私は称している。

(付記終わり  2021/5/10  上村 朋)

 

 

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 古今集のたまだすき 

 前回(2021/4/19)、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 たすきがけ」と題して記しました。

 今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 古今集のたまだすき」と題して、記します。(上村 朋)

1.~30.承前

 2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。現在3-4-19歌の初句にある「たまだすき」の理解のため、三代集唯一の用例1-1-1037歌を検討している。この歌は二つの文あるいは三つの文からなる可能性がある。同時代の「たまだすき」の用例が少ないので、「たすき」の用例も検討してきた。

 なお、『萬葉集』では「たまたすき」と訓み、巻十三の用例では、「袖の動きを制止する紐」の意になっている。

3-4-19歌  おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを

    たまだすきかけねばくるしかけたればつけて見まくのほしき君かも 

1-1-1037歌  題しらず       よみ人しらず

     ことならば思はずとやはいひはてぬなぞ世中のたまだすきなる

 また、歌は、『新編国歌大観』より引用する。

31.絵巻にみる「たすき」

① 前回ブログ(2021/4/19付け)で、10世紀初め~11世紀初め頃に成立した物語などにあるいくつかの「たすき」の用例を検討しました。

 そして、当時「たすき」は歌語ではなく、日常的には、衣服着用の際の紐状の補助具(あるいはその補助具の役割をも担った使い方をしている衣服の一部)を指す用語であり、またそれを使用した際に紐がつくる十字の形の意の名詞でもあった、と確認したところです。

 14世紀での用例(『徒然草』)でも同じであったので、その間の12世紀の「たすき」の用例をやむを得ず絵巻物に求めると、5例ほどありました。

 『日本絵巻大成』(中央公論社)の7巻と8巻にあります。両巻記載の絵巻は、12世紀後半の作品といわれています。

② 第一に『餓鬼草紙』です。(『日本絵巻大成 7 餓鬼草紙地獄草紙病草紙九相詩絵巻』(小松茂美編 中央公論社1977)22p)

 餓鬼が水を求めている場面で、阿弥陀三尊像を描いた塔婆の元に水を注いでいる右側の男が、袖をまくっており、背中で両袖を結んでいるかにみえます。何で結んでいるかはわかりません。

 第二に『餓鬼草紙』に、もう一つあります。(『同 7 』(35p)

 餓鬼に満腹感を与えるという儀式の場面で、床几に腰かけている導師である老僧の右横に描かれている食物を盛った器を持つ寺男二人が、袖をまくって何かで背中で結んでいるかにみえます。

 第三に『病草紙』です。(『同 7 』(85p)

 「霍乱(かくらん)の女」の場面で、すり鉢をつかう女が、両袖を背中で結んでいます。これも何で結んでいるかはわかりません。「霍乱」とは急性胃腸炎だそうです。

 第四に『年中行事絵巻』です。(『同 8 年中行事絵巻』(17p上段の図)

 明神の祠の前の広場における闘鶏の場面で、闘っている鶏に一番近い位置で中央下端にしゃがんでいる青い衣服の庶民とみえる男の背中に、十字が見えます。

 第五に『年中行事絵巻』にもう一つの場面があります。(『同 8 』(19p)

蹴鞠の場面で、赤い服を着た桜木の下で腰をかがめながら蹴鞠のほうを見上げている官人が、背中で十字に紐をかけています。

 蹴鞠をしている人物ではこの人物だけ十字の紐を用いています。蹴鞠の初心者なのでしょうか。

③ 『日本絵巻大成 7及び8 』の絵巻には、児が袴に襷という姿はありませんでした。

 蹴鞠の官人をはじめ、この5例は、上記①で定義した「たすき」を使用している、と思います。

 この定義では十字の形は付随するもの、という位置付けですが、14世紀の『徒然草』まで、「たすき」は十字の形をつくるものでもある、という認識が続いている、と判断できます。

④ また、服飾の文様に、襷文というのが平安時代にあります。『王朝文学文化歴史事典』(小町谷照彦・倉田実編著 笠間書院2011/11)によれば、「斜めの線を交叉させたもの」が襷文です。竹岡氏の指摘する延喜五年の資材帳でも服装の説明に「たすき形」とあり、10世紀以降は、日常目にするものに「たすき」とか「たすき形」があったと言えます。

 

32.末摘花への源氏の思い 

① 三代集の時代に成立した『源氏物語』にある「たまだすき」に関する宿題を検討します。

 前々回のブログ(2021/4/12付け)で、「たまだすき」の意は、1-1-1037歌でのそれと共通点のあることを指摘しましたが、それがどのような行為・事態を指すのかは不明のままの現代語訳(試案)で終わっていました。

② 「たすき」の意が、上記「31.①」のように定まり、前回のブログ(2021/4/19付け)では、

 第一 「たすき」と称する紐自体、あるいは紐が並行ではなく交差しているという形に注目した表現

 第二 「たすき」と称する紐の機能から、紐とそれを使う対象物との関係を重視し、動きを押さえている(あるいは強制的に物を整えている)状況に注目した表現

が生じていた、と指摘しました。

 「たま」が美称であるので、「たまだすき」については、つぎのような有力なイメージが浮かびます。

 第一からは、

 紐が十字の形に結ばれていれば、一体感のイメージ、

 そうでなければ、感情の行き違いなどのイメージ

 第二からは、対象物の動きを押えているのですから、

 「たすき」が強制しているイメージ

 対象物が自由を制限されているイメージ 

 源氏は、このどれかのイメージを持って「たまだすき苦し」と、相手(末摘花)に言ったのです。

③ 『源氏物語』での用例部分を、『新編日本古典文学全集20』より引用します。

「・・・ゐざり寄りたまへるけはひしのびやかに、えひの香いとなつかしう薫り出でて、・・・いとよくのたまひつづくれど、まして近い御答(いら)へは絶えてなし。わりなのわざやとうち嘆きたまふ。

「いくそたび君がしじまに負けぬらんものな言ひそといはぬたのみに

のたまひも棄ててよかし。玉だすき苦し。」とのたまふ。・・・」

 

④ 当時の一般的な恋愛作法を前提に源氏の心の動きを確認しつつ、現代語訳も試みたところです(2021/4/12付けブログ「29.⑦参照)。

 まず、歌の直後なので、「のたまひ」とは、歌にいう「ものないひそ」という(姫君が発したと歌で位置付けた)語句を指しているはずです。

 歌にある「ものないひそ」という語句は、「室内に招じ入れられ、障子を隔てるだけの関係になってから、これ以上のアプローチをするな、時期を待て、と言われた」、ということもこの時点では意味することになります。

 「のたまひも棄ててよかし」とは、源氏にとり、何がさし障りなのかわからないまま無理やり自重させられ、問いかけもできないという不自由さだけでも、止めてください。声を聞かせてください。」という姫君への嘆願です。あるいは、「のたまひ」を、「声にだしての返歌」と採り、「わざわざ歌をお聞かせ頂かなくとも、構いません(つまり、だまって障子を取り除いていただいても)。」という申し入れと理解されてもよい、と源氏は考えています。

⑤ 現代語訳(試案)は次のようなものでした。(同ブログ「29.⑫参照」)

「こちらにいざりよって来られる姫君の気配は、物静かであり・・・(しかし文の時とおなじく、語りかけても返事は無く)これは道理に合わない(これまでの経験と違いすぎている)と、ため息をおつきになりました。そして歌をくちずさみました。

 「いくそたび・・・(いったい何度あなたの沈黙にわたしは負けたことでしょう。あなたがものを言うなとおっしゃらないのを頼みにしてお訴え申してきたのですが)」

「あなたの「のたまひ」は、もう不用なもの、とお考えにはなりませんか。お願いします。(しばし無言の後)「玉だすき苦し」、という状況です」

とおっしゃいました。・・・」

⑥ 「たまだすき」という語句は、当時の教養の一つである『古今和歌集』歌(1-1-1037歌)を相手の末摘花も承知している前提の発言ではないか。日常の用語を用い「たすき苦しも」でも意が通じるかもしれないところですが、1-1-1037歌を引用したほうが確実に伝わると考えたのでしょう。

⑦ 源氏の発言にある「たまだすき苦し」とは、また、相手の末花が無言を決め込んでいるのが、「私にとりたすきになっている」、の意を込めていると理解できます。

 そのたすきは、上記②の「対象物が自由を制限されているイメージ」の「たすき」となっており、歌の直後の言葉「のたまひも棄ててよかし」と平仄があいます。

 末摘花との会話が成り立っていないのを「わりなのわざ」と源氏は既に嘆いており、この現状を打破すべく、詠いかつ発言している場面と理解してよい、と思います(現に、次の源氏の行動は、相手からみて思いもよらないものでした。

 このため、上記④の現代語訳試案には、諸氏の言うように1-1-1037歌を踏まえた発言であるとして、作者(紫式部)の言葉を、()で付け加えたい、と思います。

 「・・・ あなたの「のたまひ」は、もう不用なもの、とお考えにはなりませんか。お願いします。(しばし無言の後)「玉だすき苦し」、という状況です」(このように、古今集の、あのよみ人しらずの歌に触れて、源氏はh為し続けたのです。)」

 

33.『古今和歌集』誹諧歌(ひかいか)の部のたまだすき その1

① 次に、源氏が念頭においていたと思われる歌を、検討します。

1-1-1037歌  題しらず       よみ人しらず

   ことならば思はずとやはいひはてぬなぞ世中のたまだすきなる

 この歌は、初句「ことならば」の意が、連語のほかに「事成らば」や「異ならば」の可能性が二句以下から生じ得るとして保留して(ブログ2021/3/29付け)きました(付記1.参照)。

 五句にある「たまだすき」については、源氏の「たまだすき」に抱いた思いと同じとすれば、源氏の用いた意(「対象物が自由を制限されているイメージ」)が、第一候補になります。

 第二候補は、大方の諸氏がいう「たすき形」からくる「感情の行き違いなどのイメージ」です。

② この歌は、『古今和歌集』巻十九にある「誹諧歌(ひかいか)」の部にある歌です。「誹諧歌」とは、「部立ての誹諧歌A」(付記2.参照)の意であり、「ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想あるいは特別に凝縮した表現がある」歌です。詠う論理が常識的ではなく、語句も歌語らしからぬものも用いている可能性が高い歌といえます。

 また、誹諧歌(ひかいか)」の部の歌の配列からは、前後の歌も男女の仲に問題が生じている段階の歌ということがわかります。しかし、題しらず・よみ人しらずの歌であり、作詠時点の情報が特にありません。

 そして、初句「ことならば」の『古今和歌集』での用例4首の比較から、前段で作中人物が第三者にお願いするのは同じでも、後段で、それが否定されたらと条件を明記せず、作中人物が思いを述べているのがこの歌だけでした。これは、詠う論理が独特である可能性があります。

③ また、口語調の歌ならば、「特別に凝縮した表現がある」可能性もあり、この歌が二つの文のほか三つの文からなる可能性も指摘してきました。

三句が独り言として独立すれば、三つの文からこの歌は構成されています。二句「思はずとやは」の「やは」の理解が異なります。

 この歌が二つの文より成る場合、それを文A+文Bで表し

 文A ことならば思はずとやはいひはてぬ (「やは」は係助詞が重なる連語。)

 文B なぞ世中のたまだすきなる

とします(以下文AB案といいます)。

 三つの文より成る場合、それを文C+文D+文Bで表し

 文C ことならば思はずとやは (「やは」は終助詞が重なる連語。)

 文D いひはてぬ  (「ぬ」は、完了の助動詞の終止形。)

 文B なぞ世中のたまだすきなる

とします(以下文CDB案といいます)。

 これまで、初句「ことならば」の意が、二句以下の理解により定まる、として検討をすすめてきました。「たまだすき」の語句を含む、文Bから検討し、順次初句に戻ることとします。

④ 「たまだすき」について、源氏の用いた意(「対象物が自由を制限されているイメージ」)である第一候補から検討します。「たすき」には歌だから美称の「たま」を冠したと割り切りました。

 この歌は、恋の歌であって、作中人物の思いが叶っていないと理解できる文のあとにあるので、「世中」の意も多々ありますが、次のような理解が有力です。

 第一 相手が応じてくれないのは、相手が世間の強いしがらみの中にいる、と作中人物が推測したと仮定した場合、

「どうして「世間・世間の評判」が「たすき」となるのか(そのようなことはないでしょうに)」 

「なぞ」は反語の副詞、「たまだすき」の語句直前の助詞「の」は主格の助詞「の」です。

 第二 自分を中心に考えると、相手の言葉がつぎの自分の行動を押さえている、と推測したと仮定した場合、

「どうして男女の仲の「たすき」となるのか(そのようなことはなにもないはずですよ)」

 これは、「なぞ」を反語の副詞、助詞「の」は連体格の助詞「の」です。自分中心ですから悲観と楽観の2案があるでしょう。

⑤ 次に、「たまだすき」の第二候補(たすきの十字の形から、感情の行き違いなどのイメージ)では、二人の思いが掛けちがっている、という認識となるので、

 第三 思いが叶っていないと感じているのは、自分も相手も同じ(はずだから悩みも同じで)、と仮定した場合、

 「どうして世間でいう「たすき」の十字みたいに(私たちは)すれちがっているのでしょう(或いは、ちがったのでしょう)。」

「なぞ」は、疑問の副詞、助詞「の」は連体格の助詞「の」です。作中人物は嘆息しています。

 第四 自分の思いだけが叶わないのだ(嫌われてしまった)、と作者は悟った、と仮定した場合、

 「どうして(いつから)男女の仲であった私たちは、かけちがうたすきのような関係になったのでしょう」

「なぞ」は、疑問の副詞、助詞「の」は主格の助詞「の」です。作中人物は嘆息しています。

⑥ 諸氏の文Bの現代語訳例を引用します。

  竹岡氏:「なんだい、世の中の、たすきのさまでこんなに行き違ってばかりいるなんて!」

  久曽神氏:「どうしてこの世の中というものは、襷のようにかけちがってばかりいるのであろうか」

 『例解古語辞典』:「どうして二人の仲は、たすきのようにひっかかっているのでしょうか」(立項している「たまだすき(玉襷)」を、「紐や線を斜めに交えることの意である「たすき」の美称」と説明した際の、用例)

 この3例は、第二候補のたまだすきの理解だと思います。

⑦ この歌が、文Bだけで、「部立ての誹諧歌A」の歌となっているかを確認します。

 恋の歌で、世間の評判を相手が気にかけても、気にすることはないではないか、と相手に迫るのは当時の恋の歌では常套手段です。

 しかし、慣用句ともみられる「世中のたまだすきなる」をはっきり持ち出し詠うのは直截に過ぎ、型破りです。これに対して気持ちや行動のすれちがい・掛け違いを嘆くのは常識的であり、か弱さで相手の気を引くのは恋の歌として消極的でかつありふれた詠い方です。

 また、語句をみると、日常の用語である「たすき」に美称の「たま」を用いて詠うのは異例です。慣用句であればそのまま引用せざるを得ませんが、気持ち・感情の比喩はほかの語句でも表現できたはずです。

 このように、文Bの部分だけから判断すると、上記の第三と第四より、第一と第二が「部立ての誹諧歌A」の歌にふさわしい。そして、「たすき」は『萬葉集』での「たまたすき」、三代集での「ゆふだすき」など動詞「かく」に冠するのが主流となっているのに、この歌ではそれに従っていません。

 このため、『古今和歌集』の編纂者にとり、この歌は、「恋の部」には配列しにくい歌であった、と思います。

 「末摘花」での源氏が、1-1-1037歌の「たまだすき」の意で発言したのであれば、上記の第二が源氏の気持ちに最もあうものです。

⑧ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 次回は、文AB案の文A、文CDB案の文Cと文Dとあわせて、文Bを検討したい、と思います。

(2021/4/26   上村 朋)

付記1.古今集歌1-1-1037歌の検討経緯

① 3-4-19歌にある「たまだすき」の用例として検討してきている歌が1-1-1037歌である。また、同歌の類似歌2-1-3005歌の「たまたすき」の意の確認でもある。

② 1-1-1037歌は2021/3/29付けブログから検討を始めた。1-1-1037歌の初句「ことならば」の古今集での用例4首の検討から始めた。

③ 五句にある「たまだすき」については、三代集の歌にはこの1-1-1037歌の用例しかないので「たすき」の用例をも検討し(2021/4/5付け&2021/4/12付けブログ)、源氏物語における地の文の「たまだすき(苦し)」も検討(2021/4/19付けブログ)と本文31.)してきた。

④ 歌に引用文がある可能性を指摘した。

相手の発言:「ことならば思はず」、あるいは(「ことならば」と仮定ならば)「思はず」 (2021/3/29付けブログ「25.⑪」)

世の慣用句」:「世の中のたまだすき」 (2021/4/5付けブログ「26.⑧」)

⑤ この歌は、『古今和歌集』巻十九雑体 の誹諧歌(ひかいか)の部にある歌であり、私のいう「部立ての誹諧歌A」の歌である。

 

付記2.古今集巻十九にある部立て「誹諧歌(ひかいか)」の検討

① 『猿丸集』第46歌の類似歌(1-1-1052歌)を検討する際、『古今和歌集』の部立て「誹諧歌」を検討した。5回のブログ(2019/5/27付け~2019/7/1付け)に記載している。 

② 検討結果は次のとおり。

第一 『古今和歌集』は、当時の歌人が推薦してきた古歌及び歌人自選の和歌に関する秀歌集である。

第二 秀歌を漏らさないために最後の部立となっているのが誹諧歌という部立である。だから、「誹諧歌」とは、「ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想あるいは特別に凝縮した表現がある、和歌の秀歌であり、他の部立に馴染まない和歌(より厳密にいえば、短歌)を配列する部立の名」である。(このように理解した部立の名を、以後「部立の誹諧歌A」ということする。)

第三 巻第十九にある誹諧歌という部立は、「ひかいか」と読む。誹とは「そしる」意、諧とは「あふ、かなふ、やはらぐ、たぐふ、たひらにする、たはむれ・じやうだん」など多義の字(『大漢和辞典』(諸橋徹次))である。

第四 「部立の誹諧歌A」に配列されている短歌は、「心におもふこと」のうちの「怒」や「独自性の強い喜怒哀楽」であり、一般的な詠い方の歌の理解からみれば、極端なものの捉え方などから滑稽ともみられる歌となりやすい傾向がある。

第五 「部立の誹諧歌A」に配列されている短歌の用語は、雅語に拘らず、俗語や擬声語などを含む傾向、及び『古今和歌集』のなかで誹諧歌の部の歌と題材を共通にした歌のある傾向がある。また、恋の歌はその進捗順の可能性が高い。

第六 「誹諧歌」の部に配列されている歌には寛平御時きさいの宮歌合で詠まれた歌(1-1-20歌と1-1-1031歌)や大堰川御幸和歌会で詠んだ歌(1-1-1067歌)も配列されている。これらの歌は、文学としての型をとっており「雅」の世界に属する歌である(竹岡氏)。これらの歌を「誹諧歌」として容認するのが「部立ての誹諧歌A」という定義である。

③ また、久曾神氏は、誹諧(はいかい)歌と読み、「誹諧は古くは俳諧と同じで滑稽の意。この種の歌は他にもすくなからず混存在している」と指摘している。「他にも」とは、「ほかの部立てにも」、の意と理解できる。このように、この「誹諧歌」の部立てと四季や雑歌という部立ての仕分けの理由が「滑稽」だけでは理路整然とならない。

④ なお、「誹諧歌」の部に配列されている全ての歌は、改めて検討することとする。

(付記終わり  2021/4/26    上村 朋)