前回(2021/5/24)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 たまたすき一覧」と題して記しました。
今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 枕詞に」と題して、記します。(上村 朋)
1.~39.承前
2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。現在3-4-19歌を検討中であり、その初句にある「たまだすき」の理解のため、『萬葉集』の(2-1-3005歌を除く)用例と三代集唯一の用例1-1-1037歌での「たまた(だ)すき」の検討が終わった。『萬葉集』では「たまたすき」と訓み、巻十三の用例では、「袖の動きを制止する紐」の意になり、1-1-1-1037歌では、「たまだすき」と訓み、たすきによって対象物が自由を制限されているイメージであった。
3-4-19歌 おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを
たまだすきかけねばくるしかけたればつけて見まくのほしき君かも )
類似歌 2-1-3005歌 寄物陳思
玉手次 不懸者辛苦 懸垂者 続手見巻之 欲寸君可毛
たまたすき かけねばくるし かけたれば つぎてみまくの ほしききみかも
40.類似歌2-1-3005歌の検討
① 『萬葉集』と三代集の時代の「たまた(だ)すき」の用例検討が、3-4-19歌の類似歌である2-1-3005歌を除き終わりました(前回ブログ2021/5/24付け参照)。その結果から予測すると2-1-3005歌の「たまたすき」は、いわゆる枕詞として用いられているか、と予想したところです。配列と歌本文にあたり、それを確認します。
いつものように、この歌の現代語訳の例を示し、この歌の前後の配列を検討したうえ、現代語訳を試みます。
② 現代語訳例を示します。
「玉だすきを肩に掛ける、その掛けるではないが、心に掛けないのは苦しい。といって心に掛けると、引き続きお逢いしたいと思うあなたですよ。」(阿蘇氏)
動詞「掛く」には、「心に掛ける」意と「言葉にあらわす」意があります。「一般に、相手の名であれ相手への思いであれ、口にすることはタブーとされたから、ここは心に掛ける意。」と阿蘇氏は指摘しています。
「タマダスキ(枕詞) 心に掛けなければ苦しい。又掛けて居ればそれにつづけて見たく願はれる妹であるかな。」(土屋氏の大意)
土屋氏は、「枕詞だけで寄物になっている。内容もしばしば見られる種類のものである。」と指摘しています。
③ 配列を確認します。
『萬葉集』巻第十二 古今相聞往来歌之下の、「寄物陳思」の部は二つあり、2-1-3005歌は、二つ目の「寄物陳思」にあります。
その二つ目の「寄物陳思」の配列は、3-4-13歌の類似歌である2-1-2998歌を検討した際、梓弓に寄せる歌を一つのグループであるとして一度検討しました(2018/5/7付けブログ(「2.」)。「寄物」は、「衣」から、はじまり、「梓弓」以降は、「たたりあるいは麻」(2-1-3003歌)、「繭あるいは蚕」(2-1-3004歌)、「たすき」(2-1-3005歌)、「かづら」(2-1-3006歌, 2-1-3007歌)、たたみこも(2-1-3008歌)、「ゆふ(木綿)」(2-1-3009歌)、「橋」(2-1-3010歌)、「舟」(2-1-3011歌, 2-1-3012歌)、「田」(2-1-3013歌、2-1-3014歌)という順に並んでいます。「梓弓」にある6首は、一つのグループをなし、歌そのものは、記録し朗詠した官人による改作あるいは創作も有り得る、と推測したところです。
阿蘇氏は、寄物による配列を、人工物・天象・地・気象・・・の順と指摘していますが、そのように配列している基準を論じていません。巻十一の寄物の配列順とも異なっています。
また、「陳思」の「思ひ」は、「恋」ばかりでした。例外と強いて言えば、2-1-2994歌が地方に赴任した官人の羈旅の歌であるかもしれない、というところです。
④ 巻十二については、このほか「正述心緒」にある「玉手次」の用例2-1-2910歌の前後においては「対の歌ごとに配列する」と言う編纂者の方針を確認しました(ブログ2021/1/25付け参照)。
遡ると、巻十での歌は、一つの題詞のもとで整合が取れていました(2020/12/28付けブログ参照)。
次の巻十三は、全巻にわたり「右〇首」という左注により、歌を歌群にして示しています。
この巻での「寄物陳思」の歌でも、歌が歌群あるいは対の歌の配列であることを予想し、2-1-3005歌の前後の歌(「寄物」が「梓弓」から「舟」までの歌)で、その確認を付記1.のように行ったところ、次のことを指摘できます(なお巻十二の「寄物」全体の配列は別途検討)。
第一 「寄物」が梓弓である最初の歌2-1-2997歌から対の歌が配列されている
第二 「寄物」以外の別の基準から歌を対とし、また歌群を設けているようにみえる
第三 2-1-3005歌は、2-1-3004歌と対の歌であり、2-1-3004歌から2-1-3009歌までの「会えず、思いが募る段階の歌」とくくれる歌群にあるか
⑤ さて、2-1-3005歌です。初句「たまたすき」について、諸氏は動詞「かく」の枕詞としています。そして、付記1.⑦で指摘したように、二句と三句にある「かく」とは、「心に掛く」意です。
短歌は五句31文字に限られている歌なので、用いている語句に無用なものはない、とすると、二句「かけねばくるし」の「かく」は、恋の歌であるので三句以降の語句との兼ね合いの「心にかける」意に重心があることに納得がゆくところです。しかし、「たすき」はかけるものという認識は、祭主が身に着けるべき「たすき」を前提として生まれた経緯があり、「たすきをかける」意が、全く捨てられているかどうかの確認を要します。
両方を意味しているとすると、次のような理解がこの歌に可能です。五句にある終助詞「かも」は感動文をつくる、と理解しました。
「(事にあたり)たまたすきを身に着けないのは精神的に苦痛である。だから常に身に着けて神に奉仕する。そのように、大事な貴方を私は常に思っている。そうすると、たすきを身に着けた身には生じないことが起こっている。心が乱れるというか、次にすべきことを急くようになる。貴方を見たくなるのである。そのような貴方なのだ。本当に。」
しかし、作中人物の気持ちを訴えるのに、「たまたすき」の謂れから説かなくとも、「たまたすき」を「かく」の枕詞と割り切り、恋の歌として単刀直入に「こころにかける」を率直に言い出しても、心地よいリズム感があると思います。その現代語訳は、上記②に示した土屋氏の「大意」となります。
⑥ 2-1-3004歌は、「いぶせし」を言い出すために、初句~三句(計17文字)を費やしていますが、それは「たらちね」と「繭」の関係をも詠い、歌意に反映しています。
2-1-3005歌は、「かく」を言い出すために、「たまたすき」を枕詞と割り切り初句(5文字)しか用いていませんが、「たまたすき かく」で「心に(かける)」意を十分言い表しています。枕詞と割り切って過不足なく歌意に反映できています。ともに31文字を無駄なく利用しています。
この歌の前後の歌も、「きみによりにしものを」という単刀直入の語句を用いる歌が続いています。それからも土屋氏の「大意」の理解は妥当なものと思います。
編纂する時代まで伝わったこのよみ人しらずの歌は、最初に詠われた意味合いは別にして、編纂者の時代にこのような理解に落ち着いたのかもしれません。
この場合、付記1.で検討したように、2-1-3004歌とこの歌は一対の歌となっています。この2首は「寄物」に拘らず「相手に近づけてない悔しさ・情けなさを詠う2首」 と理解できます。
⑦ また、付記1.で検討した2-1-2970歌~2-1-3012歌について、共通点をみてみると、次の表にみるように、枕詞や序詞を必ず用いている歌ばかりです。
阿蘇氏は、序詞表現の面白さ・興味で成り立っていると、多くの歌で指摘し、土屋氏は、さらに「戯書は筆記者のたはむれであらう。そんなことでもしなければ退屈の歌がつづきすぎる(2-1-3004歌)」とか「序の部分が珍重されて時々新しい意を添へ用いられた民謡としられる」(2-1-3011歌、2-1-3012歌)と指摘しています(氏のいう「民謡」の意は付記2.参照)。このように、この歌の前後の歌は、恋の相手に訴えたいことより、訴える方法に力を入れて詠っているかに見えます。
また、作中人物の推定を行うと2-1-3005歌を含めて男女どちらの立場になり得る「不定」と認められる歌が6首あり、よみ人しらずの歌である元資料は、詠われる場面に応じて披露されたものと思います。
「寄物」の配列方針をはっきり指摘できませんが、伝えられてきたよみ人しらずの歌の中より、対の歌に仕立てて編纂者はこの前後に配列している、と言えます。
表 萬葉集 2-1-2997歌~2-1-3012歌の語彙・語句の特徴 (2021/5/31 現在)
歌番号等 |
枕詞(かかる語句) |
序詞(かかる語句) |
A同様な語句・B戯書 C意味未解明 |
備考 |
同趣旨の歌 |
作中人物 |
2-1-2997 |
梓弓(すゑ) |
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A縁西物乎 |
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A |
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2-1-2998 |
梓弓(すゑ) |
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A因之物乎 |
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A |
女 |
2-1-2999 |
梓弓(ひく) |
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A因尓思物乎 |
(梓弓は比喩でもある) |
B |
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2-1-3000 |
梓弓(ひく) |
|
|
(梓弓は比喩でもある) |
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2-1-3001 |
梓弓(すゑ(序詞中に)) |
〇(中ごろ) |
B末中一伏三起 |
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2-1-3002 |
一説に梓弓(ひく) |
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A縁西鬼乎 |
(梓弓は比喩) |
B |
女 |
2-1-3003 |
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〇(うむ) |
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男 |
2-1-3004 |
垂乳根之(母(序詞中に)) |
〇(いぶせし) |
B馬声蜂音石花蜘 (ろ)荒鹿 |
序詞共通の歌 2500、 3272 |
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2-1-3005 |
玉手次(かく) |
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2-1-3006 |
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一説に〇(はなやか) |
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男 |
2-1-3007 |
玉蔓(かく) |
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男 |
2-1-3008 |
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一説に〇(しばしば) |
C重編数 |
(たたみこもは比喩) |
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女 |
2-1-3009 |
白香付(ゆふ) |
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C白香付 C事社者 C真枝毛 |
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女 |
2-1-3010 |
石上(ふる(序詞中に)) |
〇(たかたかに) |
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|
男 |
2-1-3011 |
|
〇(さはりおほみ) |
|
序詞共通の歌 2755 |
C |
男 |
2-1-3012 |
|
〇(さはりおほみ) |
|
序詞共通の歌 2755 |
C |
男 |
計 16首 |
11首 |
8首 |
10語句 |
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注1)歌番号等:『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号注2)同趣旨の歌:Aは『萬葉集』で「2970歌と左注の一本歌曰」、Bは諸氏が異伝歌の関係かという歌、Cは「3011歌と左注の或本歌曰」
⑧ 訴える方法における2-1-3005歌での工夫は何でしょうか。
その一つが、「たまたすき かけねばくるし」という表現ではないか。「たまたすき」の直後に動詞「かく」が続くパターンで新たな類型(付記3.参照)を作っていることです(同じ巻十二にある、もうひとつの「たまたすき」の用例2-1-2910歌も新たな類型を作っていました)。「たすきをかけない」と詠いだすのは、巻十二で初めてでてくる用例です。
もうひとつが、同音異義の語句の利用です。候補に「くるし」があります。
「くるし」について『例解古語辞典』はつぎのように説明しています。
a(精神的・肉体的に)苦痛である。つらい。苦しい。(用例:伊勢物語13段)
b気にかかる。気苦労である。(用例:源氏物語・紅葉賀)
c不都合である。さしつかえがある。(用例:平家物語・灌頂。普通打消しの表現で用い反語。)
また、「みまくほし」は連語と辞書にあります。それを「見まく」の「欲し」とし、「見ゆ」ということを強調しているかにみえます。
⑨ 上記②に示した土屋氏の「大意」は、歌意として妥当なものですが、巻十二に配列されている歌なので、詠い方の工夫をもう少し盛り込んで現代語訳をしたほうがよい、と思います。
次のようにこの歌は理解できますので、下記の現代語訳試案が得られます。
文A:玉手次 不懸者辛苦 (一般に、たまたすきをかけないという状態は「苦し」)
文B: 辛苦 懸垂者 (「苦し」の状況はかけた場合も(ある))
文C: 懸垂者 続手見巻之 (かけたら見たくなる)
文D: 欲寸君可毛 (というのが貴方)
「(ことにあたり)たまたすきを肩にかけないのは気が咎めます(苦し)。でも私にはかけたらかけたでそれは気になり(苦し)ます、心に貴方をかけたら。あなたに逢いたいと心苦しくなるのですよ。本当に。」
動詞「かく」の対象が二つあることを利用した歌とし、「かく」を二句と三句で重ねて用いることで、同音意義の語句である「苦し」が、二句にもかかり、三句にもかかることのヒントになっています。
「苦し」の意を生かすべく、「たまたすき」については、動詞「かく」にかかる「枕詞」として100%割り切りっていない歌意です。
⑩ 当初に(①で)、2-1-3005歌の「たまたすき」について、いわゆる枕詞として用いられているか、と予想しました。配列と歌本文にあたると、「たまたすき かく」の意も生かした、有意の枕詞である、と思います。
類似歌の検討が終わりましたので、次回は3-4-19歌を検討します。
ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。
(新型コロナワクチンの1回目の接種を、5月29日受けました。発熱はありませんでした。疼痛、倦怠感が今日はうすらぎました。体調に留意し2回目を待ちたいと思っています。)
(2021/5/31 上村 朋)
付記1.巻十二の2-1-3005歌前後の歌の配列検討
①「寄物陳思」の部にある2-1-2997歌~2-1-3012歌(計16首)の配列を検討した。「寄物」でいえば、梓弓から舟の歌である。
② 歌を引用した『新編国歌大観』は、『萬葉集』に限り「底本記載形態のいかんにかかわらず一首完形のもの(或本歌・一書歌等も含む)には歌番号(歌集ごとの歌の通し番号)を附している。編纂者の配列方針はそれらを除いたものであろう。旧『国歌大観』の歌番号の順が対応していると考えられる。
検討対象の16首には、2-1-2998歌と2-1-3012歌が一首完形の歌として歌番号が与えられている。
③ 最初に、梓弓に寄せている歌6首を検討する。この6首は、「弓の末を詠う3首と、弓を引いたり緩めたりすることを詠う3首に分かれ、後者の歌は、その結果心が固まったと、詠い、前者の歌は、今は貴方、と詠う」と指摘した(2018/5/7付けブログ「2.④参照」)が、配列されている歌が対であるかは未検討であった。
④ 2-1-2997歌 寄物陳思
梓弓 末者師不知 雖然 真坂者君尓 縁西物乎
あずさゆみ すゑはししらず しかれども まさかはきみに よりにしものを
2018/5/7付けブログにおいて、次のように現代語訳試案を示した(同ブログ「4.⑨」参照)。
「(あづさ弓には末と本がありますが、そのような)本から生じている末、将来は貴方と私の関係はどうなるかまったくわかりません。けれども 今はあなたに気持ちが引き寄せられてしまいましたのに。でも・・・(それがよいのかどうか)」
作者が二句で「しらず」と言っているのは、相手の誠意の持続の有無とし、五句にある詠嘆の終助詞「ものを」には、「(一方的では)はこまるのだが」という気持が含まれている、と見た。
土屋氏は、2-1-2997歌の「(すゑは)ししらず」と、2-1-2998歌の「(すゑの)たづきはしらず」を同義とし、後者の方が穏やかな表現である、と指摘している。そして、「この歌は、男に頼る女の立場と見る方が自然」とも指摘する(同ブログ「5.③」参照)。
しかしながら、巻十二の編纂者は、2-1-2997歌を『萬葉集』歌としている。意図があるものと推測できる。
諸氏は「梓弓」は「末に冠する枕詞」としている。
2-1-2998歌 寄物陳思 一本歌曰
梓弓 末乃多頭吉波 雖不知 心者君尓 因之物乎
あづさゆみ すゑのたづきは しらねども こころはきみに よりにしものを
2018/5/7付けブログにおいて、次のように現代語訳試案を示した(同ブログ「5.⑤」参照)
「(あづさ弓には末と本がありますが、そのような)本から生じて末にたどりつくには、これから先どうしたらよいのか見当がつかないのですが、 私の心はあなたに引き寄せられてしまいましたのに。どうしましょう・・・(このままでよいのかどうか)」
2-1-2999歌 寄物陳思
梓弓 引見緩見 思見而 既心歯 因尓思物乎
あづさゆみ ひきみゆるへみ おもひみて すでにこころは よりにしものを
「梓弓を引いたり、弛めたりするように、さまざまに考えて、今はもうすっかり心はあなたに寄り添ってしまったのですから。今更何を悩んだりいたしましょう。」(阿蘇氏)
氏は、「2-1-3002歌の内容と等しく、そちらの方が簡潔で内容を言い尽くしている」と評する。この歌も2-1-3002歌の作中人物と同じく不安に思う原因が確かにあるのであろう」と指摘。
「梓弓を引いてみ、放して見る如く、さまざまに思って見て、全く心は君に頼り来たものを」(土屋氏)
氏は、「梓弓は「ひく」の枕詞と見てもよし、実際の弓を譬喩に用ゐたとも見える」、又「よる」とあるのは「女性の心とみえる」と指摘。
2-1-3000歌 寄物陳思
梓弓 引而不緩 大夫哉 恋 云物乎 忍不得牟
あづさゆみ ひきてゆるへぬ ますらをや こひといふものを しのびかねてむ
「梓弓を引きしぼって弛めることのない強い男子が、恋というものをこらえることができないものだろうか。」(阿蘇氏)
氏は、「恋のみは、どうにも自分を抑えることができない。なんとも不可解だ、という心境だろう」と評する。
「梓弓を引いてゆるべない如き、しやんとした男子であっても、まあ、恋といふものは堪えられぬのであらう」(土屋氏)
氏は、常識的な民謡と評する。
思うに、この歌の作中人物は、自らを「ますらを」と僭称し、恋の行く末をはっきり定めることが喫緊の課題になってしまっている、と詠う。あるいは、男の子が恋に悩んでいるよ、と作者が作中人物をはやし立てているかにもみえる。二様の理解が可能な歌である。
2-1-3001歌 寄物陳思
梓弓 末中一伏三起 不通有之 君者会奴 嗟羽将息
あづさゆみ すゑなかためて(末中一伏三起) よどめりし きみにはあひぬ なげきはやめむ
ブログ2008/5/7付け「3.④」で次のような現代語訳試案を示した。
「(あづさ弓には末と本がありますが、そのような)本から生じている二人の関係が、将来もそこに至る途中の現在も、変りないと思っていましたところ、貴方に逢うことができました。溜息をつくのはもうやめましょう。」
私は、お先真っ暗であった男女の関係が修復可能である、と作者が安堵している歌と理解。これは、阿蘇氏や土屋氏と表面の歌意は変りない。
この歌は、「あづさゆみのすゑ」を詠う3首の最後に位置しており、「それが寓意しているところが他の二首(2-1-2997歌と2-1-2998歌)と同一とは思われない。2-1-3001歌には(この先にむかって)安堵感がある」(同ブログ「6.①」)と指摘した。
2-1-3002歌 寄物陳思
今更 何壮鹿将念 梓弓 引見弛見 縁西鬼乎
いまさらに なにをかおもはむ あづさゆみ ひきみゆるへみ よりにしものを
「今更、何を悩んだりいたしましょう。梓弓を引きしぼったり弛めたりするように、いろいろ考えた上であなたに心を寄せたのですから。」(阿蘇氏)
氏は、「何があっても思い悩んだりはすまいと言っている中に、すでに再考を促す事態が起こりつつあるようで、心許ない。2-1-2999歌をより完成させた歌のよう。」と評する。
「今更何にしにとやかくと物を思はう。梓弓を引いてみ、ゆるべて見る如く、さまざまにして、君に寄ったのである。」(土屋氏)
氏は、この歌は2-1-2999歌の一伝ともみられる、と指摘。
6首の最後にあるこの歌だけ、「寄物」の「梓弓」が初句ではなく三句にある。「梓弓」は比喩とされている。
最初の歌2-1-2997歌と比較すると、ともに、五句が「よりにしものを」だが、前者はこれまでのことに触れない詠い方であり、後者はこれまでのことを振り返っており、いろいろなことを乗り越えてきて不退転の気持ちが強い、と思う。その結果、心が固まったと、詠っているように見える。それは阿蘇氏が指摘する「再考を促す事態が起こりつつある」ことに対処した決意表明ではない。
⑤ この6首の最初の歌は、「寄物」の「梓弓」を冠する「末」、すなわち将来における貴方との関係は分からない、と詠い出す。「一本歌曰」とある2-1-2998歌(2-1-2997歌の異伝歌)も同じである。将来までの愛を誓う、という訴え方をしていない。これは直前の剣に寄せた歌である歌2-1-2995歌や2-1-2996歌ではこのような断わりをして詠っていない。直後の2-1-2999歌にもない。これから、最初の歌は新たな歌群及び新たな対の歌の始まり、という位置付けにあるのではないか。また、最初の歌と2-1-2999歌の五句が「よりにしものを」と共通であることもその根拠の一つ。
⑥ 次に、歌が対の歌として理解できるか、を検討する。
2-1-2997歌と対の歌の候補は、「一本歌曰」とある2-1-2998歌(2-1-2997歌の異伝歌)の次の2-1-2999歌。この2首は、梓弓に寄せて、「末のことは分からい」と「弓を引く・放す」を対比して五句は「きにみよりにしものを」と共通であり、ともに「今は相手にほれ込んでしまった」、と詠う。
2-1-3000歌と2-1-3001歌は、梓弓に寄せて、「弓を引く・放す」を先に「末中」と対比して、五句が「しのびかねてむ」、「なげきはやめむ」と一組の歌とみれば恋の踊り場にいることを詠う。
2-1-3002歌は梓弓に寄せて、不退転の気持ちを詠い、2-1-3003歌は(下記⑦に記すように)たたりあるいは麻に寄せて、恋渡ると詠い、夢中であることを詠う。この2首は、また逢えることを作中人物が期待している気持ちを詠っている、とみることができる。
ここまでを3対の歌と捉えると、恋の歌として「言い寄ったが、相手が離れていくかに見える段階の歌」とくくることができる。
⑦ 次に、2-1-3003歌以降を検討する。
2-1-3003歌 寄物陳思
𡢳嬬等之 続麻之多田有 打麻懸 続時無二 恋度鴨
をとめらが うみをのたたり うちそかけ うむときなしに こひわたるかも
初句~三句が、四句にある「うむ」の序。「うむ」には「倦む」が同音でかかっている。「たたり」とは四角の台に3本の枝のついた柱を立てて糸をかける道具。
「娘子たちが紡いだ麻糸をたたりに懸けて績む、そのウムではないが倦むことなく恋い続けることよ。」
阿蘇氏)氏は、序詞表現の面白さで成立した歌と指摘。
「をとめ達がつむいだ麻をかけるタタリに、打麻をかけて續(う)む如く、う(倦)みたゆむ時なく、恋ひつづけることかな。」(土屋氏)
氏は、「序を中心とする民謡。序の部分を味えば足りる程度(の歌)」と評する。
思うに、作中人物が「倦む」ことのないのは、再会に楽観的だから。序とした乙女らの作業は繰り返しの作業であり、恋の相手も倦むことなく作中人物を思っていることを示唆している。
2-1-3004歌 寄物陳思
垂乳根之 母我養蚕乃 眉隠 馬声蜂音石花蜘 (ろ)荒鹿 異母二不相而
たらちねの ははがかふこの まよごもり いぶせくもあるか いもにあはずして
四句にある形容詞「いぶせし」とは、「(気にかかったり、気に入らなかったりで、気持ちがすっきりせず、うっとうしい感じを表す)気持ちがすっきりしない。ゆううつだ。気色がわるい」意(『例解古語辞典』)。
「たらちねの母が飼っている蚕が繭にこもるように、気が晴れないことだよ。あの子に逢わないでいて。」 (阿蘇氏)
氏は、序詞への興味で成立している歌、と指摘。
「タラチネ(枕詞)母の養う蚕の、繭(まゆ)にこもる如く、心にいぶせくあることかな。妹にも会はないで。」(土屋氏)
氏は、「初句~三句は「いぶせし」(心晴れず内にこもって,せんない状態)の序。戯書でもしなければ退屈の歌が続きすぎる」と指摘。
初句~三句の訓が全く同じ歌が巻十一にある(2-1-2500歌)。その下句は、「隠在妹 見依鴨」(こもれるいもを 見むよしもがも)。(母親が大事に育てている)繭は作中人物の相手の女性を意味しているが、この歌では、作中人物の現在の気分を意味している、と両氏は理解している。
それよりも、2-1-2500歌と同じように繭は相手の女性を指し、母の目が行き届いているから「いぶせし」と理解したい。
2-1-3005歌 寄物陳思
本文「39.②」に現代語訳例を記す。二句と三句にある「かく」とは、「心に掛く」意。連語で「念頭から離れない状態にある形容。だから、訳例に従えば、思っているだけの状態に作中人物は居ることになり、この歌は、相手になかなか会えないでいる状況を詠っていることになる。
2-1-3006歌 寄物陳思
紫 綵色之蘰 花八香尓 今日見人尓 後将恋鴨
むらさきの まだらのかづら はなやかに けふみしひとに のちこひむかも
初句~二句は「はなやか」の序。「かづら」とは「上代、つる草や草木の枝・花などを髪に巻きつけて飾りとしたもの。」(『例解古語辞典』) 「紫」という色が修飾しているので、単に頭飾りを言っているのか。
「紫草で染めたまだら模様のかずらのように、はなやかでうつくしいと思って今日見たあの人に、後に恋するだろうかなあ。」( 阿蘇氏)
氏は、初句~二句について、「今日見人」が「紫のかずらをしていた」とみる説もある。そうであれば序詞ととる必要はない、と思う。「今日見人」とは「けふみしひとに」のほか「けふみるひとに」とも訓まれる。五句との関係では後者がよいようでもあるが、美しかった娘子を思い出しつつ五句をいうことは十分可能。」と指摘。
「紫の濃淡の頭飾りの如く、花やかに、今日会った人を、後に恋ひ思ふことであらうか。」(土屋氏)
思うに、この歌は、一目ぼれの稔る予感を作中人物は詠っているとみることができる。
2-1-3007歌 寄物陳思
玉蘰 不懸時無 恋友 何如妹尓 相時毛名寸
たまかづら かけぬときなく こふれども なにしかいもに あふときもなき
「玉かずらを掛けるように、心に掛けない時はなく恋うているのだが、どうしてあの子に逢う機会がないのだろうか。」(阿蘇氏)
「タマカズラ(枕詞)心に掛けぬ時なく、恋ひ思ふけれど、どうしたことか、妹に会う時もない。」(土屋氏)
思うに、この歌は、心に思っていれば、遊離魂も働いてくれるとおもったのに、それもない、と嘆いている歌。
2-1-3008歌 寄物陳思
相因之 出来左右者 疊薦 重編数 夢西将見
あふよしの いでくるまでは たたみこも へだてあむかず いめにしみえむ
「逢うてがかりが得られるまでは、畳にする薦を隔て編みあるその編み目の数ほども、あなたの夢に見えましょう。」(阿蘇)
「会ふ手がかりの出来るまでは、疊ごもを、繰り返し繰り返し編む如く、しばしば夢に見えるであらう。」(土屋氏)
氏は、四句を「へあむしばしば」と訓み、序(「しばしば」の序が「たたみこも へあむ」)の面白さによる歌、と指摘。
2-1-3009歌 寄物陳思
白香付 木綿者花物 事社者 何時之真枝毛 常不所忘
しらかつく ゆふははなもの ことこそば いつのまさかも つねわすらえね
「白香のような木綿は、花と同じで美しいが、一時的なものでしかありません。お言葉こそは、いつどんな時も、ずっと忘れることができずにいますが・・・」 (阿蘇氏)
氏は、「木綿(ゆふ)を仮の物とする理由がはっきりしない。」と指摘し、「ゆふ」について「楮の樹皮を剥いで、その繊維を蒸して水にさらし、細かに裂いて糸状にしたもの。榊(さかき)や斎瓮(いはひべ)にかけたり、花を造って神に供えた。」と説明。
「シラガツク(枕詞)木綿(ゆふ)は花ものである。けれども其の花の花物であるといふことこそは、何時のしばらくの間も、常に忘れられない。」(土屋氏)
氏は、三句「事社者」や四句にある「真枝」など訓を詰める必要性を指摘し、また初句を「しらがつく」と訓み枕詞としている。二句「木綿者花物」の「花物」はここでは「美しい」だけの意であろうし、「ゆふ」に処女を例えているか、とも指摘。
四句までに関するいろいろな議論にかかわらず、この歌の五句の対象は、前後の歌から考えても恋の相手と断言できる。五句を相手に伝えたい歌。
2-1-3010歌 寄物陳思
石上 振之高橋 高高尓 妹之将待 夜曽深去家留
いそのかみ ふるのたかはし たかたかに いもがまつらむ よぞふけにける
二句にある高橋とは、橋脚の高い橋をいう。三句「高高尓」とは、「待つ」の副詞(土屋氏)、「今か今とひたすら待つ」形容(阿蘇氏)。
「石上の布留川にかかる高橋のように、高々に―今か今かといとしい妻が待っているだろうに、夜が更けてしまったよ。」 (阿蘇氏)
氏は、初句~二句は三句「高高尓」を起こす序詞とし、焦る夫の気持ちを詠うと指摘。
「石上の布留にある高橋の如く、高々に、妹が待つであらう夜はふけた。」(土屋氏)
思うに、この作中人物は、この歌を「妹」におくったのであろうか。待たせたい「妹」を持ちたいねと仲間内でぼやいている歌ではないか。
2-1-3011歌 寄物陳思
湊入之 葦別小船 障多 今来吾乎 不通跡念莫
みなといりの あしわけをぶね さはりおほみ いまこむわれを よどむとおもふな
「葦をかきわけつつ湊に入る小舟のように、差し障りが多いのでなかなか行けなかったが、もうすぐに行くつもりの私を、気持ちが変わって来ないのだと思わないでおくれ。」(阿蘇氏)
氏は、「三句「さはりおほみ」には、「葦が入港の障害」と「二人の交際に対する周囲の干渉が多い」との両意がある。」と指摘。
「湊に入る、葦を別けて行く小船の如く、障碍が多く、これから行く吾を、停滞して居ると思ふな。」(土屋氏)
氏は、初句~二句は三句「障多」の序と指摘し、「序の部分が珍重されて、時々新しい意を添へ用いられた民謡」と指摘。
同じ序は、巻十一 寄物陳思 2-1-2755歌にある。
湊入之 葦別小船 障多見 吾念公尓 不相頃者鴨
みなといりの あしわけをぶね さはりおほみ わがおもふきみに あはぬころかも
初句~二句は三句「さはりおほみ」を掛詞として序詞になっている。
思うに、この歌も仲間内の単なる恋人願望の歌ではないか。土屋氏の指摘が尤もである。
2-1-3012歌 寄物陳思 或本歌曰
湊入尓 葦別小船 障多 君尓不相而 年曽経来
2-1-3011歌の異伝歌。(割愛)
⑧ 以上の2-1-3003歌以降9首の配列を検討する。
2-1-3003歌は、「寄物」の違いを越えて、2-1-3002歌と対の歌かと推測した(上記⑥)。
次の2-1-3004歌は、繭に寄せて、相手に近づけないことを、また、2-1-3005歌は、「たすき」に寄せて、「心に掛」けたその次は見ることだと詠って、作中人物が未だ相手に近づけていないことを訴えている。
対の歌とみれば、相手に近づけてない悔しさ・情けなさを詠う2首、といえる。2-1-3005歌が類似歌なので配列の検討後、本文で再度確認する。
2-1-3006歌は、「かづら」に寄せて、一目ぼれの予感を詠い、2-1-3007歌もかづらに寄せて、逢うことは進捗してないことを詠っている。
対の歌とみれば、前の対の歌に続いて、逢う工夫自体がとん挫している状況の歌ではないか。また、繭にたとえた相手は、紫の「かづら」をつけた子であるかもしれない。
2-1-3008歌は、たたみこもに寄せて、屡々夢に見たいと、2-1-3009歌は木綿(ゆふ)に寄せて、(事社者など不明な語句もあるが)憧れの乙女は忘れられないと、詠い、両歌は一目ぼれの相手を思い続けているかの歌である。
2-1-3010歌と2-1-3011歌は、相手のいない作中人物の歌である。恋人願望なので恋の歌といえるが、2-1-3008歌と2-1-3009歌の対の歌にみえる恋の進捗度とは違いが大きい。2-1-3009歌までの歌と歌群が別であるかにみえる。
⑨ このように、梓弓が「寄物」となった歌2-1-2997歌以降は2-1-3012歌まで、歌を対にして配列している、とみることができる。そして、歌群は、
2-1-2997歌~2-1-3003歌、 言い寄ったが、相手が離れていくかに見える段階の歌
2-1-3004歌~2-1-3009歌、 会えず、思いが募る段階の歌
2-1-3010歌~、 女性願望の歌
の3つの歌群が認められる。この順番になる理由はわからないが、そのようにグループ化して理解が可能である。
付記2.土屋文明氏のいう「民謡」について
① 『萬葉集私注 六』の「萬葉集巻第十一」において、「古今相聞往来歌類之上・下(巻十一・十二)は集中の代表的な民謡集」と指摘し、民謡という理由を説明している。以下②と③のとおり。
② 民謡とは、「特定個人の製作ではなく、民族心、社会心、一般に集団意識と称すべきものの表現といふ意である。実際は名をかくされた個人の手によって表現を与へられる場合があっても、かういふ作品は、その個人の経験を主としたものではなく、又は個人的立場の意味より、集団の経験としての意味が強いのである。」(3p~)
③ 「(作者未詳歌が)社会の共同文化財として伝播流行する間に、集団意識からの、数知れぬ協力、改変、進展を受けて、現在の形に到達したものであらう。」(4p)
④ 「歌集の歌の如きは、細部の変更、改削は余り気にしないといふ、当時の受用者の習慣によるもの」(がある) (六巻附録しをり(1982.10))
⑤ 「十一、十二は相聞往来歌ですから、あれを特定個人の特定な立場に於いての製作といふ風にとったのでは評価の上に根本的の相違がでてくる様に私は思ひます。」(十巻 補巻 「巻第十一第十二私訓二三」 282p)
付記3.『萬葉集』で「たまたすき」の直後に動詞「かく」が続くパターンについて
① 巻十二の2-1-2910歌の検討の際『萬葉集』で「たまたすき」の直後に動詞「かく」が続くパターンを確認した(2021/1/25付けブログ参照)
② 4類型ある。「たすきを常にかける」という用例が先行し、巻十二に至り、「たすきをかけない」用例となる。巻十三では、前者となる。
第一 「(たまたすき)かけてしのふ」:2-1-199歌(巻二) 2-1-369歌(巻三) 2-1-3338歌(巻十三)
第二 「(同)かけぬときなく」:2-1-1457(巻八) & 2-1-1796(巻九) &2-1-2240(巻十) 2-1-3300歌(巻十三) &2-1-3311歌(巻十三)
第三 「(同)かけずわすれむ」:2-1-2190 (巻十二)
第四 「(同)かけねばくるし」:2-1-3005(巻十二)>
③ 『萬葉集』の最後の用例は、長歌である2-1-3338歌にあり、上記第一の類型である。但し、1首のうちに2回用いられている。
④ この類型は、「たまたすき かく」の意の変遷を追ったものではない。例えば、第一の類型で、2-1-199歌(巻二) と2-1-3338歌(巻十三)での「たまたすき かく」の意は、異なる。
(付記終わり 2021/5/31 上村 朋)